野間仁根
野間 仁根(のま ひとね、1901年(明治34年)2月5日 - 1979年(昭和54年)12月30日)は、大正から昭和にかけての洋画家。名を読み替えて「jinkon」とサインすることもあった。明るい色彩の瀬戸内海の油絵で知られる。
来歴
[編集]愛媛県伊予大島の津倉村(吉海町、現・今治市)に生まれる。上京後まもなく東京美術学校(現・東京芸術大学)に入学する[1]。伊藤廉らと童顔社を結成し活動した後、拓榴社を経て、1933年(昭和8年)に二科会へ入会する。1955年(昭和30年)に鈴木信太郎、高岡徳太郎らと共に二科会を去り「一陽会」を創設する。
1979年(昭和54年)12月30日、78歳で東京にて逝去した。18歳で上京したが、その後もたびたび帰郷し島の風景をスケッチした。野間家の本家・角浜の6代目当主であったため、生家や墓は愛媛県大島にある[2]。
人物
[編集]釣りと海を愛し、東京に転居後も故郷・瀬戸内の海を描き続けた。写生と釣りのために千葉県の外房に通い、太海浜に接するように建つ江澤館を定宿とした。ユーモアあふれる気さくな人柄は、その著書『呑馬先生釣日記』によく表れている[3]。江澤館には野間仁根・傳治の絵が残され、今も仁根の描いたヒラメの絵が包装紙に使われている[3]。
画業を通じて熊谷守一や藤田嗣治と、挿絵の仕事等を通じて井伏鱒二や川端康成などと交流があった。
親族
[編集]銅版画家・野間佳子(よしこ。1934年- [4])は長女、画家・彫刻家の野間傳治(でんじ。伝治とも。1935-2005年[5])は長男[6]。
画家・野間祥子(さちこ)[7]は仁根のいとこの孫。[要出典]
作品
[編集]- 1928年(昭和3年)の第15回二科展に出品した『夜の床』で樗牛賞を受賞。
- 井伏鱒二、佐藤春夫、坪田譲治などの新聞連載小説の挿絵を担当した[1]。
- 最も多くの作品が出身地・伊予大島の吉海郷土文化センターに所蔵されている。愛媛県美術館にも数点(常設とは限らない)。その他、個人蔵の作品が多い。
- 魚の版画などが東京都の練馬区立美術館に収蔵されている。
展覧会
[編集]- 1938年(昭和13年) - 師の一人・熊谷守一と二人展を開催
- 2005年(平成17年)10月22日~12月11日 - 「野間仁根展」愛媛県美術館[8]
- 2012年2月24日 - 3月9日、4月5日 - 15日 - 「鈴木信太郎・野間仁根 展」日動画廊東京本店(2-3月)[9]、福岡店(4月)[10]
- 2016年9月18日 - 11月20日 - 「野間仁根展 ~色彩踊る幻想の世界へ」ミウラート・ヴィレッジ(三浦美術館)[11]
- 2020年8月15日~10月4日 - 「~あるがままに、自由に~野間仁根の世界」愛媛人物博物館[12]
今治市吉海郷土文化センターでは、たびたび野間仁根の企画展や館収蔵展を開催している[13]。
著書・画集・関連論文
[編集]- 『呑馬先生釣日記』昭和37年(1962年)オリオン社出版部
- 『野間仁根画集』昭和55年(1980年)三彩新社
- 吉海郷土文化センター発行「野間仁根 画集」※現地で販売
- 長井健(愛媛県美術館)2006年「野間仁根の文人性について : 昭和10-20年代の動向を中心に」
脚注
[編集]- ^ a b “東京文化財研究所「野間仁根」”. 2020年9月27日閲覧。
- ^ “洋画家 野間仁根の生家 野間仁根 しまなみ海道 チャリダーの聖地 藤田嗣治 手紙”. nomahitone.cool.coocan.jp. 2020年10月27日閲覧。
- ^ a b せとうちスタイル Vol.1. 瀬戸内人. (2017年4月25日)
- ^ 野間佳子 - 独立行政法人国立美術館
- ^ 野間傳治 - 一陽会
- ^ “レファレンス協同データベース「作家Noma Denjiについて知りたい。」”. 2020年9月27日閲覧。
- ^ 美術新人賞デビュー2016 グランプリは野間祥子さんに決定美術新人賞デビュー2016グランプリ - 月刊美術
- ^ 『愛媛県美術館ニュース canforo voi.27 (PDF) 』
- ^ 鈴木信太郎・野間仁根 展 - 日動画廊
- ^ 鈴木信太郎・野間仁根 展」日動画廊
- ^ 野間仁根展 ~色彩踊る幻想の世界へ - ミウラート・ヴィレッジ
- ^ ~あるがままに、自由に~野間仁根の世界 - 愛媛県生涯学習センター
- ^ 野間仁根 館収蔵品展「自由に、思うがままに ―Part2 海―」 (PDF) - 今治市吉海郷土文化センター(2020年開催の企画展)