芹沢光治良
芹沢 光治良 (せりざわ こうじろう) | |
---|---|
1956年頃撮影 | |
誕生 |
芹澤 光治良 (せりざわ みつじろう)[1] 1896年5月4日 日本・静岡県駿東郡楊原村我入道 (現・沼津市我入道) |
死没 |
1993年3月23日(96歳没) 日本・東京都中野区東中野 |
墓地 | 日本・静岡県沼津市 |
職業 | 小説家 |
言語 | 日本語 |
国籍 | 日本 |
教育 | 学士(経済学) |
最終学歴 | 東京帝国大学経済学部 |
活動期間 | 1930年 - 1993年 |
ジャンル | 小説 |
代表作 |
『ブルジョア』(1930年) 『愛と死の書』(1933年) 『巴里に死す』(1943年) 『一つの世界』(1955年) 『人間の運命』(1962年 - 1968年) 『神の微笑』(1986年) |
主な受賞歴 |
友好大賞(フランス)(1957年) フランス友好国大賞(1959年) 芸術選奨(1965年) 勲三等瑞宝章(1967年)[2] 日本芸術院賞(1969年) フランス芸術文化勲章(コマンドゥール賞)(1974年) |
デビュー作 | 『ブルジョア』(1930年) |
配偶者 |
芹沢 金江(せりざわ かなえ) (1925年4月結婚-1982年2月病没)[1](旧姓・藍川) |
ウィキポータル 文学 |
芹沢 光治良(せりざわ こうじろう、1896年(明治29年)5月4日 - 1993年(平成5年)3月23日)は日本の小説家。静岡県沼津市名誉市民(1980年‐ )[3][4]。1965年‐1974年に日本ペンクラブ会長を務めた[5]。日本芸術院会員。
概要
[編集]フランス留学後、『ブルジョア』で出発。『巴里に死す』で注目された。作品は父性希求、天理教を主題にしたもの、日本と西洋の対比やその矛盾を追究するものの系列があり、冷徹な目を据えながら、生と死、愛の問題を扱った主知的ヒューマニズム作家。日本よりもむしろ海外(特にフランス)で高い評価を受けた。特に1950年代に『巴里に死す』がフランスでも高く評価され、ノーベル文学賞候補者となったという噂も流れた。だが、その時期から50年間の守秘期間を経て公表された候補者のリストに彼の名は確認されていない。ただ、日本ペンクラブ会長時代の1970年に伊藤整と石川達三を候補者に推薦したことが確認されている[6]。
晩年には、「文学はもの言わぬ神の意思に言葉を与えることだ」[7]との信念に拠り、"神シリーズ"と呼ばれる、神を題材にした一連の作品で独特な神秘的世界を描いた。
来歴
[編集]生い立ち
[編集]静岡県駿東郡楊原村大字我入道(現在の沼津市我入道)に父・常蔵(後に常晴と改名)、母・はるの子として生まれる[8]。生家は網元。1900年、父が天理教に入信し無所有の伝道生活に入ったため、叔父夫婦と祖父母に育てられる。世話になった叔父の家も後に天理教会となる。
1915年沼津中学校(現・静岡県立沼津東高等学校)卒業後、沼津町立男子小学校の代用教員となる。1919年第一高等学校仏法科を卒業。一高在学中、肋膜と胃弱に悩み、天理教信者に連れられ、兵庫県三木市の井出国子を訪ねる[9]。1921年、高等文官試験行政科に合格[10]。1922年に東京帝国大学経済学部を卒業し、農商務省に入省する。1925年農商務省を辞任しソルボンヌ大学に入学、金融社会学のシミアン (François Simiand) に学ぶ。フランス滞在中に結核に冒され療養につとめる(スイス・レザンには、芹沢が療養したとされるサナトリウムがその当時の建物のままで現存しており、名門校レザンアメリカンスクールの校舎として使用されている)。
小説家として
[編集]1928年に日本に帰国[11]。1930年 療養中の体験に基づいた作品『ブルジョア』が、「改造」の3回目の[12]懸賞小説に一等当選し文壇に登場した。中央大学講師として貨幣論を教えるが、1931年4月から6月にかけて東京朝日新聞夕刊に『明日を逐うて』を連載した頃から、大学では芹沢の行動が問題視され始め[1]、芹沢は翌1932年4月に[1]中央大学を辞職、以降は作家業に専念する。
1942年1月‐12月、戦意高揚文学一色の時代に、敢えて異郷での愛と死をメインテーマとする『巴里に死す』を「婦人公論」に1年間連載し、翌1943年中央公論社より刊行。読者の評判は高かったが、裏で「婦人公論」の編集長は軍の検閲係から「戦力増強に資しない」と毎月連載中止を勧告されていた。が、編集長は、12月号までそのことを芹沢には告げず、最終回まで連載を続けさせた[13]。その後、編集長の湯川は召集され沖縄へ送られ、敗戦直前に戦死した[13]。召集と配属がこの件への報復か否かは立証が困難だが、芹沢は「氏の戦死を今も私の責任のように強く感じている」と書いている[13]。戦後『巴里に死す』は森有正によってフランス語訳され、1953年にフランスのロベール・ラフォン社から出版され[14]、1年で10万部のベストセラーとなる。
1962年 より自伝的長編『人間の運命』を刊行し始める[注釈 1]。これは当初から大変な反響を呼び、1965年[注釈 2]『人間の運命』最初の6巻により芸術選奨文部大臣賞を受賞する。同年10月、 川端康成のあとを受け、第5代日本ペンクラブ会長に就任した。1969年、『人間の運命』全14巻により日本芸術院賞を受賞[15]、1970年日本芸術院会員となる。1974年金芝河減刑嘆願事件に端を発したペンクラブ批判で会長を辞任。1986年より「神シリーズ」全8巻を死去の年まで書き続ける。1993年3月23日、普段通りの原稿執筆の後[3]、午後7時老衰のため東京都中野区の自宅で死去[16][17]。遺骨は静岡県の沼津市営墓地に埋葬された[18]。
代表作に『巴里に死す』、『一つの世界』、『人間の運命』、『神の微笑』などがある。「神シリーズ」では大江健三郎との手紙のやり取りで、大江側が「先生」と呼ぶ等、二人の親睦が深いものと思われる描写がある。なお、フランス留学中に[1]、百武源吾海軍大将と義兄弟の約束を結んでいる[19]。
家族親族
[編集]- 妻 金江(岐阜県、弁護士・実業家・政治家藍川清成の二女)
- 長女 万里子(1927-1972)[1]
- 二女 野沢朝子(ともこ)(1930- )
- 回想記『父、芹沢光治良、その愛』がある(明窓出版、2020)
- 三女 芹沢文子(1933[注釈 3]-2015[20])声楽家、東京音楽大学教授[21]
- 四女 岡玲子(1938[1]-2021[22] ) ピアニスト
- 実弟 小山武夫
主な作品
[編集]- フジテレビで高野悦子脚本・演出によりテレビドラマ化され、1964年4月より放映された。
- 『孤絶』創元社 1943 のち角川文庫
- 『命ある日』新潮社 1940 のち角川文庫
- 『夜毎の夢に』 1947 ※映画『異国の丘』原作
- 『緑の校庭 少女小説』ポプラ社 1948、復刻版2017。挿画蕗谷虹児
- 『離愁』全国書房 1948
- 『故国』全国書房 1949
- 『春の谷間』小説朝日社 1952 のち角川文庫
- 『一つの世界』角川小説新書 1955
- 『サムライの末裔』角川小説新書 1955 のち小学館
- 『巴里夫人』光文社カッパ・ブックス 1955 のち角川文庫
- 『結婚』河出新書 1955 のち角川文庫 新潮文庫
- TBSでテレビドラマ化され1962年7月27日・8月3日放映。
- 『芹沢光治良自選作品集』全6巻 宝文館 1957
- 『女にうまれて』文藝春秋新社 1958 のち角川文庫
- 『運命の河』角川書店 1959
- 『愛と知と悲しみと』 新潮社 1961 のち新潮文庫。『人間の運命』の関連作品と位置付けられる。
- 『人間の運命』 新潮社(全14巻)1962-68 のち新潮文庫(全7冊) 1976、新潮社(愛蔵版全7冊) 1991。
- 「父と子」から「再会」まで、初刊は1冊1巻で、以後の新潮社(「作品集」「文庫」「愛蔵版」)再刊は1冊に2巻ずつ収録。
- 『われに背くとも』新潮社 1970 『人間の運命』の関連作品と位置付けられる。
- 『遠ざかった明日』新潮社 1972 『人間の運命』の最終章と位置付けられる作品。1951年の占領下の日本からヨーロッパへの旅。
- 『告別』中央公論社 1973 のち中公文庫
- 『芹沢光治良作品集』全16巻 新潮社 1974-75
- 巻7(1974)収録の書き下ろし『海に鳴る碑』は、『人間の運命』序章と位置付けられる作品で、次郎の幼年時代がより克明に描かれる。巻10‐巻16には『人間の運命』本体全14巻(「父と子」から「再会」まで)を収録。『遠ざかった明日』(巻6)、『愛と知と悲しみと』(巻7)を再録。
- 『死の扉の前で』[注釈 5] 新潮社 1978
- 『神の微笑』新潮社 1986、新潮文庫 2004
- 『神の慈愛』新潮社 1987
- 『神の計画』新潮社 1988
- 『人間の幸福』新潮社 1989
- 『人間の意志』新潮社 1990
- 『人間の生命』新潮社 1991
- 『大自然の夢』新潮社 1992
- 『天の調べ』新潮社 1993
- 『芹沢光治良文学館』全12巻 新潮社 1995-97
- 1巻. 命ある日
- 2巻. 夜毎の夢
- 3巻. 愛と知と悲しみと
『海に鳴る碑』『遠ざかった明日』『愛と知と悲しみと』、および『人間の運命』第1・6・14巻初版のみにあった「あとがき」、創作当時のエッセイを収録。 - 4巻. ここに望みあり
- 5巻. 教祖様
- 6巻. 一つの世界
- 7巻. 幸福の鏡 『巴里に死す』『幸福の鏡』を収録。
- 8巻. 春箋・秋箋
- 9巻. 短編集 明日を逐うて
- 10巻. 短編集 死者との対話
- 11巻. エッセイ 文学と人生
- 12巻. エッセイ 心の広場
- 『人間の運命 完全版』全18巻 勉誠出版 2013
- 序章「海に鳴る碑」→第1巻「次郎の生いたち」、第1巻「父と子」→第2巻「親と子」と改題、「遠ざかった明日」を第16巻とする。芹沢自身が晩年の20年間に手を加え続けた多くの修正箇所を忠実に再現。別巻1は『愛と知と悲しみと』と関連資料、別巻2は『岡野喜太郎伝』、関連資料、関連エッセイ等を収録。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ a b c d e f g h i “第14回 中野区ゆかりの著作者紹介展示 芹沢光治良(2017年11月25日‐2018年1月25日)”. 東京都中野区立中央図書館. 2021年7月15日閲覧。(PDF)
- ^ 読売新聞・1967年11月3日・1面「秋の叙勲」、5面「叙勲された人々 勲二等 勲三等」。
- ^ a b 『海と風と愛 芹澤文学の世界 ‐芹澤光治良生誕百年記念事業‐』(沼津市立図書館編集・発行、1997年10月)巻末略年譜よりp.119。
- ^ “名誉市民(詳細)”. 沼津市. 2022年8月30日閲覧。
- ^ “日本ペンクラブ小史”. 日本ペンクラブ. 一般財団法人日本ペンクラブ. 2024年7月3日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月18日閲覧。
- ^ Kojiro Serizawa - Nomination Archive(ノーベル賞委員会、英語)2022年9月20日閲覧。
- ^ 『芹沢光治良先生追悼文集』1995
- ^ 羽鳥徹哉 編『芹沢光治良』新潮社〈新潮日本文学アルバム62〉、1995年、2頁。ISBN 4106206668。
- ^ 野沢朝子著『導かれるままに』2015年12月15日刊 21頁
- ^ 『海と風と愛 芹澤文学の世界 ‐芹澤光治良生誕百年記念事業‐』(沼津市立図書館編集・発行、1997年10月)巻末略年譜より、p.117。
- ^ 『海と風と愛 芹澤文学の世界 ‐芹澤光治良生誕百年記念事業‐』(沼津市立図書館編集・発行、1997年10月)巻末略年譜より、p.118。
- ^ “『改造』懸賞創作当選作一覧”. 「文学賞の世界」(管理人 pelebo@nifty.com). 2021年7月17日閲覧。
- ^ a b c 芹沢光治良「あとがき」『芹沢光治良自選作品集 Ⅰ』宝文館、1957年4月(「巴里に死す」「再びパリを訪ねて』」収録巻)、p.214。
- ^ 芹沢光治良「あとがき」『芹沢光治良自選作品集 Ⅰ』宝文館、1957年4月(「巴里に死す」「再びパリを訪ねて』」収録巻)、pp.215 - 217。
- ^ 『朝日新聞』1969年4月9日(東京本社発行)朝刊、14頁。
- ^ 岩井寛『作家の臨終・墓碑事典』(東京堂出版、1997年)178頁
- ^ 松本滋「ある不思議な事:芹沢光治良氏の死をめぐって」『東京大学宗教学年報.別冊』第12巻、東京大学文学部宗教学研究室、1995年3月31日、4-5頁、doi:10.15083/00030298。
- ^ “芹沢光治良について”. 沼津市. 沼津市役所. 2024年4月20日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年7月18日閲覧。
- ^ 芹沢光治良「序文」、石井稔(編著)『異色の提督 百武源吾』異色の提督百武源吾刊行会、1979年、pp.1-3
- ^ 朝日新聞(東京本社版)2015年7月19日・第34面「芹沢文子さん(作家の故芹沢光治良さんの三女、元東京音楽大学教授・声楽)17日死去 81歳」。
- ^ 元東京音楽大学教授の芹沢文子さん死去[リンク切れ] アーカイブ 2015年7月21日 - ウェイバックマシン
- ^ “代表理事 岡玲子様 逝去のお知らせ”. (一財)芹沢光治良記念文化財団公式サイト. 2021年7月17日閲覧。2021年6月6日逝去。
参考文献
[編集]- 『芹沢光治良』新潮社〈新潮日本文学アルバム62〉、1995年
- 『芹沢光治良先生追悼文集』芹沢光治良文学愛好会、1995年
- 沼津市立図書館(編集)『海と風と愛 芹澤文学の世界 ‐芹澤光治良生誕百年記念事業‐』沼津市立図書館、1997年。
- 前年に沼津市で開催された生誕百年記念展示会・記念講演会などの記録。大岡信・芹澤文子・岡玲子・鈴木吉維(神奈川県立生田高校教諭(当時))・鈴木春雄(芹澤光治良文学愛好会代表)の講演要旨を収録。
関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 芹沢光治良記念館(沼津市による紹介)
- 芹沢光治良墓所 - ウェイバックマシン(2012年3月8日アーカイブ分)