村上三島
村上 三島 むらかみ さんとう | |
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生誕 |
村上 正一[1] 1912年8月25日[1] 愛媛県大三島[1] (現愛媛県今治市大三島) |
死没 |
2005年11月20日(93歳没)[1] 大阪府吹田市[1] |
国籍 | 日本 |
出身校 | 大阪市立泉尾工業高等学校[1] |
著名な実績 | 書 |
代表作 |
1964年「秋分日憶子用済」[1] 1968年「贈高式顔」[1] |
受賞 |
文化勲章[1] 1998年 |
公式サイト |
museum |
選出 |
日本書芸院理事長(1961年[1]) 日本芸術院会員(1985年[1]) |
メモリアル | 村上三島記念館 |
活動期間 | 1931年 - 2005年[1] |
影響を受けた 芸術家 |
片山萬年[1] 辻本史邑[1] 王鐸[1] |
影響を与えた 芸術家 |
古谷蒼韻 栗原蘆水 杭迫柏樹 真神巍堂 江口幹城 |
村上 三島(むらかみ さんとう、本名 村上 正一、むらかみ まさかず、1912年(大正元年)8月25日 - 2005年(平成17年)11月20日)は、日本の書家。勲三等旭日中綬章受章者。文化勲章受章者[1]。「現代書道の巨匠」と呼ばれている。贈従三位(没時叙位)。
経歴
[編集]愛媛県越智郡上浦町(大三島、現在の今治市)出身[1]。大三島で生まれ育った後、大阪府三島郡(後に高槻市となる)に移る。雅号「三島」は大三島と三島郡に由来する。
中学時代から書に親しんでいたが、大阪市立泉尾工業学校在学中に股関節カリエスに罹り[1]足が不自由になったことから、15歳で好きな書道の道に入る。1927年(昭和2年)に片山萬年に、1945年(昭和20年)には辻本史邑に師事。1948年(昭和23年)日展に書道部門が新設されたのを契機に「杜甫九日詩(とほきゅうじつし)」を発表して入選。1949年(昭和24年)と1952年(昭和27年)には日展で特選に選ばれる。また毎日書道展や日本書芸院展などに作品を発表し、1964年(昭和39年)「秋分思子」で日展文部大臣賞、1968年(昭和43年)には「杜甫贈高式顔詩」で日本芸術院賞を受賞した[2]。
日展常務理事、同顧問、日本書芸院理事長、日本書道教育会議副会長などを歴任した他、自ら書道団体の長興会を設立して後進の育成にも努めた。書道の革新にも意を用い、1994年(平成6年)話し言葉を作品化する「読める書」を提唱。1995年(平成7年)には読売書法展に調和体部門を設置した。晩年になっても創作意欲は衰えず、パソコンやワープロの普及に対して、手書き文字の良さを意欲的に追求していた。
日中間の書道の交流にも尽力し、しばしば訪中した。1993年(平成5年)には中国人以外では初となる上海美術館(上海博物館)の特別顧問・特別研究員に就任している。
1985年(昭和60年)日本芸術院会員。1988年(昭和63年)勲三等旭日中綬章を受章[3]。1993年(平成5年)文化功労者顕彰。1998年(平成10年)には文化勲章を受章した。最晩年には故郷の大三島に作品を寄贈、これを受けて同地の旧上浦町は村上三島記念館を建設した。2005年(平成17年)11月20日心不全のため死去、93歳没[1]。従三位を贈位された。
書風
[編集]日本の書道界においては、唐以前の中国に範を取っていたのに対して、三島は、中国・明末の書家、王鐸の草書連綿体(連綿草)を研究し、篆書、隷書、楷書、行書、草書を駆使して、躍動感に充ち格調高い中に温かさを備えた独自の書風を確立した。
著書
[編集]- 「書とともに」
- 「王鐸の書法」
- 「三島條幅百選」
- 「現代書道教室」