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村上三島

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
村上 三島
むらかみ さんとう
生誕 村上 正一[1]
1912年8月25日[1]
愛媛県大三島[1]
(現愛媛県今治市大三島)
死没 (2005-11-20) 2005年11月20日(93歳没)[1]
大阪府吹田市[1]
国籍 日本の旗 日本
出身校 大阪市立泉尾工業高等学校[1]
著名な実績
代表作 1964年「秋分日憶子用済」[1]
1968年「贈高式顔」[1]
受賞 文化勲章[1]
1998年
公式サイト museum.city.imabari.ehime.jp/santou/
選出 日本書芸院理事長(1961年[1]
日本芸術院会員(1985年[1]
メモリアル 村上三島記念館
活動期間 1931年 - 2005年[1]
影響を受けた
芸術家
片山萬年[1]
辻本史邑[1]
王鐸[1]
影響を与えた
芸術家
古谷蒼韻
栗原蘆水
杭迫柏樹
真神巍堂
江口幹城

村上 三島(むらかみ さんとう、本名 村上 正一、むらかみ まさかず、1912年大正元年)8月25日 - 2005年平成17年)11月20日)は、日本書家勲三等旭日中綬章受章者。文化勲章受章者[1]。「現代書道の巨匠」と呼ばれている。贈従三位(没時叙位)。

経歴

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愛媛県越智郡上浦町大三島、現在の今治市)出身[1]。大三島で生まれ育った後、大阪府三島郡(後に高槻市となる)に移る。雅号三島」は大三島と三島郡に由来する。

中学時代から書に親しんでいたが、大阪市立泉尾工業学校在学中に股関節カリエスに罹り[1]足が不自由になったことから、15歳で好きな書道の道に入る。1927年(昭和2年)に片山萬年に、1945年(昭和20年)には辻本史邑に師事。1948年(昭和23年)日展に書道部門が新設されたのを契機に「杜甫九日詩(とほきゅうじつし)」を発表して入選。1949年(昭和24年)と1952年(昭和27年)には日展で特選に選ばれる。また毎日書道展日本書芸院展などに作品を発表し、1964年(昭和39年)「秋分思子」で日展文部大臣賞、1968年(昭和43年)には「杜甫贈高式顔詩」で日本芸術院賞を受賞した[2]

日展常務理事、同顧問、日本書芸院理事長、日本書道教育会議副会長などを歴任した他、自ら書道団体の長興会を設立して後進の育成にも努めた。書道の革新にも意を用い、1994年(平成6年)話し言葉を作品化する「読める書」を提唱。1995年(平成7年)には読売書法展調和体部門を設置した。晩年になっても創作意欲は衰えず、パソコンワープロの普及に対して、手書き文字の良さを意欲的に追求していた。

日中間の書道の交流にも尽力し、しばしば訪中した。1993年(平成5年)には中国人以外では初となる上海美術館上海博物館)の特別顧問・特別研究員に就任している。

1985年(昭和60年)日本芸術院会員。1988年(昭和63年)勲三等旭日中綬章を受章[3]。1993年(平成5年)文化功労者顕彰。1998年(平成10年)には文化勲章を受章した。最晩年には故郷の大三島に作品を寄贈、これを受けて同地の旧上浦町は村上三島記念館を建設した。2005年(平成17年)11月20日心不全のため死去、93歳没[1]従三位を贈位された。

書風

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日本の書道界においては、以前の中国に範を取っていたのに対して、三島は、中国・末の書家、王鐸草書連綿体(連綿草)を研究し、篆書隷書楷書行書、草書を駆使して、躍動感に充ち格調高い中に温かさを備えた独自の書風を確立した。

著書

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  • 「書とともに」
  • 「王鐸の書法」
  • 「三島條幅百選」
  • 「現代書道教室」

脚注

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  1. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s 東京文化財研究所刊「日本美術年鑑」より:「村上三島」(2015年12月14日)、2018年9月2日閲覧。
  2. ^ 『朝日新聞』1968年4月9日(東京本社発行)朝刊、14頁。
  3. ^ 「秋の叙位叙勲4538人、晴れの受章 隠れた功労者、史上2位の1741人」『読売新聞』1988年11月3日朝刊

関連項目

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外部リンク

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