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2021年11月10日 (水) 00:25時点における版

武豊
2012年12月24日 リボン賞表彰式
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 滋賀県栗太郡栗東町
(現・栗東市)
生年月日 (1969-03-15) 1969年3月15日(55歳)
京都府京都市伏見区
身長 170cm[1]
体重 50kg[1]
血液型 O型[1]
騎手情報
所属団体 栗東トレーニングセンター[1]
所属厩舎 武田作十郎厩舎(1987年-1992年2月29日)
→フリー(1992年3月1日-)[2]
初免許年 1987年3月1日
免許区分 平地[3]
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武 豊 (たけ ゆたか、1969年(昭和44年)3月15日[1] - )は、日本中央競馬会 (JRA) の騎手である。

デビューの年に新人最多勝記録(当時)を更新し、2年目の菊花賞でGⅠを制覇。3年目で全国リーディングを獲得。その後も活躍を続け、JRA全国リーディングジョッキーは18回獲得(歴代最多)し[4]騎手大賞は9回獲得(歴代最多)[4]。通算GI勝利数は地方、海外含めて100勝以上を記録(歴代最多)[5]。その他にも通算4000勝を超えるJRA歴代最多勝記録[4]、および歴代最多騎乗数記録[6]東京優駿最多の5勝を挙げるなど数々のJRA記録を更新、保持し、「日本競馬界のレジェンド」と称されているほどの、日本を代表する騎手である[7]

来歴

祖先は薩摩国出身の武家 (家族)であり、薩摩藩士の園田家から武家へ養子に入った曽祖父の彦七は函館大経の門下生となる[8]。祖父芳彦は馬主協会元会長[8]。父邦彦は元騎手・元調教師であり、弟幸四郎もJRA所属の元騎手(1997年3月~2017年2月)・現調教師(2017年3月~)である[9]。妻は元タレントの佐野量子[10]。小中学校時代の同級生に調教師の池江泰寿がいる[11]

少年時代

1969年、父邦彦、母洋子夫妻の三男として京都府に生まれた[12]。翌1970年、武一家は現在の栗東市栗東トレーニングセンターに転居した[注 1][12]。住まいのそばに厩舎があるため、厩舎にいる馬にニンジンを与えてから出かけるのが武の日課になっていた[注 2][14]。物心つく前から身近な環境で馬と暮らしていたこと、また騎手だった父の姿を見ていたことが影響し、武は物心ついたころには「騎手になりたい」という思いが芽生えていたという[14]1975年栗東市立金勝小学校に入学[12]。このころから競馬が大好きで、同級生の池江泰寿と学校で競馬の話ばかりしていた[15]。小学校2年生の時にはすでに東京優駿(日本ダービー)が特別な競走であることを理解しており[12]、将来騎手となって日本ダービーを勝つことを夢見るようになっていた[16]。小学校5年生の時、栗東乗馬苑の少年団の一員となり、本格的に乗馬を習い始めた[12]。当時指導員だった竹之下満義は武の騎乗について次のように回顧している。「すごくバランスが良くて馬上での据わりが普通の子と全く違った。とにかく動きが柔らかく、他の人が敬遠するような癖のある馬に乗っても全然バウンドしないしコースを綺麗に回ってくる。馬も彼が乗ると嫌がらないんです。馬が暴れても鞭を使わずになだめて御していました。将来絶対トップジョッキーになると思いました」[12]1981年春、卒業文集に「将来の夢は騎手」と記し、金勝小学校を卒業[12]。そして栗東町栗東中学校に入学し、中学生になっても変わらず乗馬苑に通い、乗馬を続けていた[12]1984年春、騎手課程第3期生としてJRA競馬学校に入学[12]。同期には蛯名正義塩村克己芹沢純一などがいる[17]。当時教官だった荻野忠二真家眞らは武の馬乗りの技術は入学当初から高かったと話している[注 3][14]。空き時間になると、撮影された自分や他生徒の騎乗映像をよく再生して研究していたという[12]。またアメリカの競馬雑誌ブラッドホースの写真を食い入るように見ていたり、クリス・マッキャロンゲイリー・スティーヴンスといったアメリカの一流騎手が叩き合う映像を、ワクワクしながら何度もリピートしたりと[14]、アメリカの競馬に憧れを抱くようになっていた[18]。2年生の10月、騎手デビュー後に所属する栗東・武田作十郎厩舎の実習生となり、3年生の9月まで実習を行った[14]。武は実技はもちろん馬学などの成績もよく、学年トップで競馬学校を卒業した[12]。今ではレジェンドと称されている。

騎手時代

新人最多勝記録を更新する

1987年(昭和62年)2月17日、競馬学校を卒業[2]。 栗東の武田作十郎厩舎所属となり念願の騎手デビューを果たす[19]。武田作十郎厩舎に所属したことにより、武は河内洋の弟弟子となった[20]。3月1日阪神4レースにアグネスディクターで初騎乗[19][1]。同3月7日、阪神3レースでダイナビショップに騎乗し初勝利[1]。9月12日、ケイアモールで42勝目を挙げ、小屋敷昭が持っていた関西新人最多勝記録を更新した[20]。10月11日、京都大賞典トウカイローマンに騎乗し、重賞初制覇を果たす[20]。11月14日、リードトライデントで59勝目を挙げ、加賀武見が保持していた新人最多勝記録を27年ぶりに更新した[20]。最終的には69勝を挙げ、JRA賞最多勝利新人騎手を受賞した[20]

競馬ブームの主役へ

1988年(昭和63年)菊花賞スーパークリークに騎乗[1]。直線入口で以前騎乗したことのあるカツトクシンに前を塞がれていたが、カツトクシンが外に膨れる癖を知っていた武は慌てず、内が開くまで動かずに待機[21]。思惑通り開けた内を通り、最後は2着に5馬身突き放して勝利[22]。GI競走初勝利を飾り、19歳8か月でJRA史上最年少クラシック制覇を達成した[注 4][21]。そしてこの冷静で頭脳的な騎乗を周囲から絶賛され[22]「天才」として脚光を浴びるようになった[24]。さらに武はこの年113勝を挙げ、史上最年少で関西リーディングを獲得[25]競馬サークルの内外に強烈なインパクトを与えた[21]

1989年(昭和64年、平成元年)シャダイカグライナリワン、スーパークリークでGIを4勝、年間133勝を挙げ、デビュー3年目にして初のJRA全国リーディングジョッキーを獲得[10]。 武の活躍はスポーツ紙や競馬雑誌以外の紙媒体やテレビでも度々取り上げられるようになり、『武豊』という名前と顔が日本中に知られるようになった[26]。武はデビュー当時、競馬関係者や競馬ファンから「タケクニさんの息子」と認識されていたが、このころには父である邦彦が競馬ファンから「タケパパ」と呼ばれるようになり、認識度の上ではすでに父を逆転していた[26]。折しも日本はバブル景気による空前の好景気であり、その波に乗って日本中央競馬会がCI戦略を含む一連のキャンペーンを成功させたことにより、日本に第二次競馬ブームが巻き起こり[27]、同時期に頭角を現した武はこの競馬ブームの主役となった[28]

1990年(平成2年)武と共に競馬ブームの主役となっていたオグリキャップとコンビを組み、安田記念有馬記念を制した[29][10]。とりわけすでに「燃え尽きた怪物」と言われていたオグリキャップを、引退レースで復活勝利に導いた有馬記念は「奇跡のラストラン」として語り継がれるレースとなった[30]。武とオグリキャップの活躍により、日本中央競馬会の売上げは爆発的に伸び、競馬ブームの盛り上がりはピークに達した[31]。武は平成三強と呼ばれたスーパークリーク、イナリワン、オグリキャップの全てに騎乗した唯一の騎手となった[31]

競馬界の主役へ

武は競馬以外のメディアから脚光を浴びるようになると、時間の許す限り各方面のメディアの取材に積極的に応じていった[24]。その理由について武は、「競馬サークルが世間一般から偏見の目[注 5]で見られているのを子供の時から感じていたんです。競馬サークル外に自分が積極的に出ることで、こうした偏見を無くしたいと思ったんです」と語っている[24]。武はこうした意識をもって競馬サークルの外へ飛び出していき、若い女性を中心とした競馬を知らなかった層の目を引き付け、競馬に付きまとっていた暗い賭博のイメージを明るいスポーツのイメージに変革させることに尽力し、競馬界の主役的役割を担うようになっていった[24]

武は競馬界における自分の立場、自分の為すべき使命について、「競馬の世界では自分が発信力のある立場であることは感じている。例え自分が気が進まなくても、『武豊』が競馬界のためにやらなければならないと思うからこそやることもある。『武豊』というキャラクター的な存在を感じている部分はある」と、自分が発信力のある立場であることを自覚しつつ、自分とは別に『武豊』というキャラクターの存在を意識して行動することを心掛けているという[11]

武が競馬界の顔として競馬サークルの外で仕事をこなし続ける一方[32]、本業の記録においても史上初・史上最年少・史上最速の名がついた数々の金字塔を打ち立てていき[1]、1989年から2008年までの20年間で合計18回リーディングジョッキーを獲得[10]。2007年にはJRA通算2944勝に到達。岡部幸雄が保持していたJRA最多勝記録を更新し[10]、名実ともに日本競馬界の第一人者となった[4]。(主な達成記録については#記録年表を参照のこと)

ダービージョッキーとして

競馬の祭典と呼称され、全てのホースマンの夢舞台といわれる東京優駿(日本ダービー)[33][注 6]。 武はその日本ダービーについて、「子供のころ、騎手になりたいと思って将来の自分を思い描いた時、浮かんでくるのは日本ダービーを勝つ姿であった」と述べており、子供のころからダービージョッキーに憧れを抱いていた[34]。そんな武の初めての日本ダービー騎乗はデビュー2年目の1988年(昭和63年)、コスモアンバーに騎乗し16着[35]。武本人曰く、「何もできずに終わった」日本ダービー初騎乗であった[35]。以後、1989年にタニノジュリアス(10着)、1990年にハクタイセイ(5着)、1991年にシンホリスキー(19着)、1993年にナリタタイシン(3着)、1994年にフジノマッケンオー(4着)、1995年にオースミベスト(8着)、1996年にダンスインザダーク(2着)、1997年にランニングゲイル(5着)[35]。計9回の挑戦を繰り返すも勝利することはできなかった[35]。武はすでに日本ダービー以外の八大競走をすべて勝利しており[36]、日本ダービーのみ勝利を逃し続けるうちに、いつしか競馬サークルでは「武豊は日本ダービーだけは勝てない」というジンクスが囁かれるようになっていた[37]。武自身は感情に流されずコントロールするのもプロフェッショナルとして必要な素養であると考えていたため[35]、マスコミの取材で日本ダービーへの思いについて聞かれた時には、「日本ダービーは特別なレースじゃない」、「他のGIと価値は一緒」、「いつか獲れると思うから焦っていない」、といった具合に努めて冷静に受け答えしていた[38]。しかしこれらは表向きのコメントであり、本心では次のように思っていたと語っている[38]

「自分の今まで積み重ねた勝利全てと引き換えにしてもいいと思うほど、ダービージョッキーの称号が欲しくて欲しくてたまらなかった」[35]

そして1998年、第65回日本ダービーでスペシャルウィークに騎乗し優勝。10度目の挑戦でついに悲願を達成した[37][注 7]。武は事前に、「勝った時はガッツポーズはやめよう。あくまでもクールに決めよう」と考えていたが[39]、実際の勝利時は湧き上がってくる喜びに体が反応し[39]、武自身が後にビデオで見た時に恥ずかしくなるほど夢中で何度もガッツポーズを繰り替えしていた[35]。17万人の観衆によって埋め尽くされた東京競馬場では「ユタカ」コールが沸き起こり、武はこの瞬間を「それまでの人生で、最大、最高の瞬間」と振り返っている[35]

翌年の1999年もアドマイヤベガで勝利し、史上初の日本ダービー連覇を達成[40]。そして2002年のタニノギムレットで三度勝利し、史上初めて日本ダービーを3勝した騎手となった[41]。その後も2005年にディープインパクトで4度目の勝利[1]。2013年にはそのディープインパクトの子であるキズナで勝利し、日本ダービー最多勝利記録を「5」に更新した[1]。なお親子2代日本ダービー制覇は数組あるが、その中で同一騎手が親子それぞれの馬に騎乗して日本ダービーを優勝したのは武のみである[42]

武は日本ダービー制覇への思いについて以下のように語っている。

積み重ねてきた経験と何度も噛みしめた苦い思い、そして、何よりも、自分の手で掴み取ろうとする強固な意志があってはじめて、辿り着ける最高の場所です。 — 武豊、勝負師の極意 p.183より引用

海外での騎乗

武は海外でも早くから活躍し、日本人騎手による史上初の海外G1制覇、日本人として前人未到の海外通算100勝など様々な記録を達成している[43]

武の海外初騎乗はデビュー3年目の1989年の夏、イナリワンのオーナーがアメリカに馬を持っており、その馬の騎乗を依頼されたことがきっかけである[43]。同年9月2日、アーリントンパーク競馬場グランマジーに騎乗し勝利。海外デビュー2戦目で海外初勝利を挙げた[18]。以降は年末年始や夏はほぼ毎年海外へ渡航し、アメリカフランスオーストラリアドイツイギリスUAE香港韓国サウジアラビアの9か国で勝利を挙げている[44][45]

1991年8月、サラトガ競馬場で行われる芝2600mのG3、セネカハンデキャップエルセニョールの手綱を取ることになり[46]、3年目のアメリカ参戦で初めて重賞に騎乗することが決定した[46]。しかし当時はまだ日本の競馬が世界水準の評価を得ていなかった時代であり、アメリカの競馬専門紙には「22歳の日本人がトリッキーなサラトガを乗りこなせると思っているのか」などと[46]、競馬後進国の若輩者に対する批判的な記事が多く掲載され、「もしユタカ・タケが勝ったら私は裸踊りをする」と書いたハンデキャッパーすらいた[46]。さらに管理調教師であるウィリアムズ・ライトですら、メディアに対して武のことを「ビギナー」と侮辱的な言葉を発した[46]。武自身サラトガ競馬場の芝コースは騎乗経験が無く[46]、さらにライトは、武にエルセニョールの調教に乗る機会を与えなかったため、ぶっつけ本番で挑むこととなった[47]。そんな初物づくしの中迎えた本番では、ライトが「パーフェクト」と言うほどの理想的な騎乗でエルセニョールを勝利に導き、日本人騎手による海外重賞初制覇を達成した[46]。武は勝利後、現地の騎手達に馬上から祝福の握手を求められ、一生の思い出になったという[48]

1992年9月、セクレタリアトステークスワールドクラススプラッシュに騎乗し、海外G1初騎乗を果たす[49]

1994年、この年は例年にもまして各国を飛び回り、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス凱旋門賞ブリーダーズカップ・マイルなど世界のビッグレースに騎乗[50]。同年9月4日にはスキーパラダイスに騎乗してムーラン・ド・ロンシャン賞を制し、JRAの日本人騎手として史上初の海外G1制覇を達成した[1]

2000年6月、武はアメリカに長期滞在し、騎乗拠点をアメリカ西海岸に移すことを表明した[51][注 8]。アメリカ西海岸を選択した理由について、「世界を代表するトップジョッキーが集うアメリカ西海岸の競馬で自分の腕を試してみたかった」と語っている[53]。同月のハリウッドパーク開催から本格参戦し、夏のデルマー開催では人気薄の馬で勝利を重ね、当地のメディアに「穴ジョッキー」と紹介されるようになり、存在感を示した[54]。しかし、11月のハリウッドパーク開催では騎乗数が激減[54]。1日1鞍を確保するのがやっとであり、騎乗馬を確保するために厩舎を挨拶回りする毎日であった[53]。結局このアメリカ長期滞在は最後まで満足な結果を得ることなく終了した[53]。しかし武はアメリカ長期滞在を決断したことについて、「ほんの1ミリも後悔していません。悔しさとか、もどかしさとか、勝てない、乗れないというジレンマも含めてすべてがいい経験です」と前向きにとらえている[53]

2001年1月、フランスの調教師ジョン・ハモンドから「主戦騎手としてフランスに来ないか?」と正式なオファーを受け、これを承諾[55]。フランスに長期滞在し、騎乗拠点をフランスに移すことを発表した[55]。同年3月のロンシャン開催から本格参戦し、4月15日にはG3のグロット賞を勝ち、同年初のフランス重賞初制覇を達成した[56]。10月7日の凱旋門賞ウィークエンドではアベイ・ド・ロンシャン賞インペリアルビューティーで勝利し、同年初のフランスG1制覇を達成。同じ日の凱旋門賞ではサガシティに騎乗し、3着に入る健闘を見せた[57]。武は「2001年のフランス滞在で最も印象に残ったレースは?」と質問されたら迷うことなくこの凱旋門賞と答えるという[58]。フランス長期滞在中、落馬骨折による1か月半のブランクがあったが、最終的にはフランスでG1勝ちを含む35勝を挙げ、武本人曰く「まずまずの成績」を残した[59]。翌2002年も長期滞在を継続し、フランスで重賞4勝を挙げている[44]

2004年12月、香港ハッピーバレー競馬場で勝利し、海外通算100勝を達成した[10]

武は自身の様々な海外での騎乗経験を踏まえ、若い騎手達の海外への積極的な挑戦に期待を寄せ、次のようなメッセージを送っている。「海外で騎乗するチャンスがあるなら日本で経験を積んでからなんて考えずにどんどん挑戦した方がいい。長く日本を留守にして騎乗馬がいなくなることを恐れていたら何もできない。チャレンジする騎手が登場するのを楽しみに待っています」[43]

落馬事故と成績低迷(2010年 - 2012年)

2010年3月27日、阪神競馬場で行われた毎日杯ザタイキに騎乗[60]。最後の1ハロンに差しかかった時、ザタイキが故障発症(左中手骨開放骨折=予後不良)し転倒[60]。武は頭からコースに叩きつけられるように落馬した[60]。この落馬事故により、武は左鎖骨遠位端骨折腰椎横突起骨折、右前腕裂創の重傷を負い、全治半年と診断された[60]。特に左鎖骨遠位端骨折の症状が重く、鎖骨を骨折したというより肩関節が破壊されたような負傷であった[60]。3月30日、左肩にプレートを入れる手術を受け、4月2日には退院してすぐに歩けるようにはなった[60]。しかし左肩は全く動かすことができず、しばらくは患部をプレートで固定して治癒するのを待つしかなかった[60]。武は当初、5月に復帰する青写真を描いていたが、5月1日の時点でまだ左肩の可動域が極度に小さく、ジャケットを羽織るのにも他人の手を借りねばならない状態であり、さらには医師からリハビリの許可も出ていなかった[60][61]ゴールデンウィーク明けにようやくリハビリの許可が下り、日本ダービー前の復帰を目指し、左肩の可動域を広げるためのリハビリを続けたがすぐには症状は好転せず、5月16日、ヴィクトワールピサでの日本ダービーの騎乗を断念し、リハビリに専念することを発表した[60]。武は馬に乗れないと何もすることがなく、「俺は競馬で乗ることしかできない人間なんだな」と改めて痛感させられたという[60]。6月中旬、左肩のプレートを除去する手術を受け、リハビリのピッチが上がった[60]。7月に入ると左肩の可動域が広がり、着実に回復に向かっていった[60]。7月22日、栗東トレセンで約4か月ぶりに馬に騎乗[60]。小学校5年生の時に乗馬を始めてからこれほど長い間馬に乗らなかったのは初めてだったという[60]。8月1日、小倉競馬場で127日ぶりに実戦復帰した[60]。復帰後初めてパドックに姿を現すと、復帰を待ち望んでいたファンから拍手と歓声が沸き起こった[60]。しかし後に武は、「あの時はまだ左肩の状況が悪く、誤魔化しながら乗っていたところがあったかもしれません」と、怪我を抱えたまま無理して復帰したことを告白している[11]。その影響からか、復帰後は思うように勝てない日々が続き[62]、2010年は年間69勝[10]。2011年はデビュー以来最低の年間64勝[10]。2012年はその前年をさらに下回り、年間56勝に終わった[10]。武はこの時期の成績低迷について、「年間200勝していたのが数年後に年間50勝になるのは正直きつかった。『武豊』でも結果が出ないとこういう状況になる。シビアな世界だからしょうがないんですが、2011年、2012年あたりは競馬が楽しくなかった気がします」と当時の苦しかった心境を回顧している[11]。しかしその苦境の真っ只中にいながらも、「『武豊』の真価が今問われているんだぞ」と自分を叱咤激励し続けていたという[11][63]

5度目のダービー制覇、そして通算4000勝達成(2013年 - 2018年)

2013年3月、キズナで毎日杯を勝利[64]。武はこの勝利により、3年前の同レースで落馬した時から抱いていた嫌なイメージを払拭し、吹っ切れたという[64]。同馬は次の京都新聞杯も勝利し、日本ダービーの有力候補となった[64]。そして迎えた5月26日の第80回日本ダービーでは、1番人気に応えて見事キズナをダービー馬に導き、武自身の持つ日本ダービー最多勝記録を「5」に更新した[64]。14万人近いファンの「ユタカコール」につつまれて勝利騎手インタビューでスタンド前に立った武に対し、多くのファンから「お帰り」の声がかけられた[64]。武はその声に「僕は帰ってきました!」と力強く応えた[64]。この言葉は事前に用意していた言葉ではなく、ファンの「お帰り」の声が胸に響いて自ずから出た言葉だったという[64]。武は苦境の中で掴んだこの5度目の日本ダービー勝利について、「キズナで日本ダービーを勝てたことは僕のジョッキー生活において分岐点となっています。それぐらい大きい勝利でした」と後に語っている[64][65]。武はこの年、GI2勝、重賞11勝、年間勝利数97勝と前年から大幅に成績を向上させ、低迷期を脱した[66][67]。2015年、年間106勝を挙げて6年ぶりに年間100勝を達成[10]。2016年と2017年はキタサンブラックとコンビを組んで計GI6勝を挙げ、同馬を2年連続年度代表馬に導くなど大舞台で存在感を示した[68][69]。2018年9月29日、阪神競馬場で行われた芦屋川特別でメイショウカズヒメに騎乗して勝利し、JRA通算21235回目の騎乗で前人未踏のJRA通算4000勝を達成した[4]。次なる目標を問われた武は、「明日のレースです。早く4001勝をしたいです」と笑顔で答えた[70]

50代に突入(2019年 - 現在)

2019年3月15日、50歳の誕生日を迎え、50代に突入[71]。10月20日、ワールドプレミアで菊花賞を勝利し、50歳7カ月6日での史上最年長菊花賞制覇を達成[72]。史上最年少と史上最年長で菊花賞を勝利した騎手となった[72]。11月23日、4年ぶり通算22度目となる年間100勝を達成、50代では増沢末夫、岡部幸雄に次ぐ史上3人目の記録となった[73]。11月30日、JRA年間勝利数を104とし、岡部幸雄が保持していた50代騎手の年間最多勝記録を更新[74]。最終的に年間111勝まで記録を伸ばし、騎手リーディング3位に入る活躍を見せた[75][66]。2020年11月15日、2年連続・通算23度目となるJRA年間100勝を達成[76]。12月12日、JRA年間勝利数を112とし、前年に自身が記録した50代での年間最多勝記録を更新[77]。最終的には直近10年で最多の勝ち数となる115勝まで記録を伸ばした[78]

2021年3月20日、阪神競馬10Rでソウルトレインに騎乗していた際、ゲート内で馬が暴れて右足を負傷。右足部靭帯損傷と診断され、翌21日に騎乗予定だった全6鞍は、乗り替わりとなった[79]。同月22日、自身のサイトで右足甲を骨折したことを明らかにした[80]他、同日京都市内の病院で精密検査を行ったところ、右第2、第3、第4中足骨骨折が判明した。これにより、大阪杯アドマイヤビルゴ桜花賞メイケイエールは乗り替わりとなった[79]。なお、皐月賞ヨーホーレイクは、岩田望来騎手に乗り替わりとなった[81]

エピソード、逸話

競馬に関して

  • 子供のころの憧れの騎手は福永洋一であった[11]
  • 20歳の時、自身が初めてアメリカに遠征した時、朝の調教で最初に騎乗したのが、1990年のケンタッキーダービー馬のアンブライドルドだった。
  • 天皇賞は春秋合わせて前人未到の通算14勝を挙げており、春が8勝秋が6勝である[37]。天皇賞(春)では1989年から1992年までの4連覇を達成し『平成の盾男』と呼ばれている[37]
  • デビュー戦で騎乗したアグネスディクターは本来前開催で出走させるローテーションであったが、師であった武田作十郎が武のデビュー戦に合わせ出走させたという。コースを回ってくるだけで勝てる程に馬体は仕上がっていたが、4コーナーで少しインへ切り込んだと同時に後方で南井克巳が落馬し審議ランプが点灯した。武はそれに動揺して馬体をアウトへ膨らませてしまい、追い出すタイミングが微妙に遅れ、勝利を逃した。レース後に南井の落馬は武のコース取りとは関係無いと判明したが、武は一生に一度しか存在しない「初騎乗初勝利」を逃した事が心残りであると悔やみ、もしもやり直しが出来るレースがあればこのデビュー戦が間違いなくやり直したいレースの一つであると語っている[19]
  • とあるレースにおいてラチ沿いに蛇がいるのを見つけ、レース後他の騎手へ確認するも誰も蛇に気づかず、レースリプレイで確認したところ本当に蛇がいた。
  • 1998年、サイレンススズカに騎乗して臨んだ第118回天皇賞(秋)で、レース中に故障したサイレンススズカを安楽死で喪った。レース後の落胆ぶりは相当なもので、普段から酒に酔わないことで知られていた武はこの日、泣きながらワインを痛飲して泥酔し、その姿を目撃していた複数の一般人がいた。武本人も後に「泥酔したの、あの時が生まれて初めて」と振り返っており、同レースでテイエムオオアラシに騎乗していた福永祐一も「あんな落ち込んだ豊さんを今まで見たことがなかった」と証言しているほどだった。サイレンススズカは武に強烈な印象を残した馬の一頭であると言え、後年インタビューにて「ディープインパクトに騎乗した武豊に挑むといたら?」との問いに「サイレンススズカで挑む」と答えたという。
  • 2011年にJRAでのGI連続勝利記録は途絶えてしまうがスマートファルコンで地方GI制覇は達成していた。しかし2018年、JRAでも地方でもGI勝利を挙げることは叶わず、ついにGI連続勝利記録がストップすることとなった。2020年もGI未勝利に終わっている。
  • 2019年の菊花賞をワールドプレミアにて制覇し、昭和平成令和の3元号に跨いでGI競走を優勝した史上初の騎手となる[注 9]
  • 2019年ダービー前のインタビューで一番好きな馬はシンボリルドルフで大ファンだったと明かしている。ルドルフの三冠レースは全部生で見ており、引退式も中山競馬場で観戦した。また、岡部が一冠、二冠、三冠と指を立てていくポーズはいつか自分もやりたいと憧れていたという(後年、ディープインパクトで実現)。余談としてルドルフ三冠時の岡部の年齢が36歳で自身のディープでの三冠も36歳であったことも語っている[82]

その他

成績

記録年表

  • なおこの年表には騎乗成績以外の事柄も記述していく。
1987年
3月7日、1回阪神3日第3競走のダイナビショップで初勝利を挙げる[1]
11月14日、リードトライデントで59勝目を挙げ、加賀武見が保持していた新人最多勝記録を27年ぶりに更新[20]
この年最終的に69勝まで記録を伸ばし、最多勝利新人騎手を受賞した[25]。(この新人最多勝記録は2008年三浦皇成によって21年ぶりに更新された)[100]
1988年
4月16日、史上最年少(19歳1ヶ月)でJRA通算100勝達成[25]。 (史上最速記録は2009年2月7日に三浦皇成が更新) [101]
11月6日菊花賞スーパークリークで勝利し初のGI競走勝利を飾る[1]。史上最年少(19歳8か月)のクラシック制覇達成であった[25]
この年113勝を挙げ、史上最年少で関西リーディングジョッキーとなる[25][102]
1989年
3月4日、史上最速・最年少 (19歳11か月) でJRA通算200勝達成[25]
4月29日、イナリワンで天皇賞春を勝利し、天皇賞春、初騎乗初勝利を達成[103]
10月29日、スーパークリークでオグリキャップを負かし、天皇賞秋を制覇[103][104]
11月25日、史上最速・最年少 (20歳8か月) でJRA通算300勝達成[25]
この年133勝を挙げ、初のJRA全国リーディングジョッキー(最多勝利騎手)を獲得し、さらに最多賞金獲得騎手も受賞した[25][102]
1990年
4月29日、スーパークリークで天皇賞春を制覇し、自身天皇賞3連覇(天皇賞春は2連覇)を成し遂げ、「平成の盾男」と呼称されるようになる[104]
5月13日、オグリキャップに初騎乗し、安田記念を制する[10]
8月5日、史上最速・最年少 (21歳5か月) でJRA通算400勝達成[25]
12月16日、父である武邦彦調教師の管理馬バンブーメモリーに騎乗し、スプリンターズステークスを制覇。武親子コンビでGI制覇を達成[10]
12月23日、オグリキャップに騎乗し、有馬記念を制覇。同馬のラストランを勝利に導く[1]
この年116勝を挙げ、2年連続2度目のリーディングジョッキーを獲得[25][102]
1991年
4月28日メジロマックイーンに騎乗して天皇賞春3連覇を達成。メジロ関係者悲願の天皇賞親子3代制覇に導いた[103]
7月21日、史上最速・最年少 (22歳4か月) でJRA通算500勝達成[25]
8月22日アメリカサラトガ競馬場のセネカハンデキャップ (G3) でEl Senor (エルセニョール) に騎乗し、初めての海外グレード競走(およびグループ競走)制覇を達成[1]
10月27日、天皇賞秋でメジロマックイーンに騎乗し、1位入線するも進路妨害の判定で18着に降着[103]
この年天皇賞秋で降着後にスランプに陥り、デビュー以来最悪の42連敗を喫した(12月は0勝)[103]。最終的な勝ち鞍は96にとどまり、リーディングジョッキーの座を岡部幸雄に明け渡した[105]
1992年
3月1日、所属していた武田作十郎厩舎の解散に伴い、フリー騎手となる[10]
4月26日、天皇賞春でメジロマックイーンに騎乗し、「天下分け目の決戦」と言われたトウカイテイオーとの対決を制し、天皇賞春4連覇を達成[106]
8月29日、史上最速・最年少 (23歳9か月) でJRA通算600勝達成[107]
この年130勝を挙げ、3度目のリーディングジョッキーに返り咲いた[106]
1993年
4月17日、史上最速・最年少 (24歳1か月) でJRA通算700勝達成[107]
この年桜花賞、皐月賞、優駿牝馬と春のクラシックを3連勝するなどクラシック戦線で存在感を見せつけた[106]。最終的に137勝を挙げ、2年連続4度目のリーディングジョッキーを獲得[103]。さらに自身初のフェアプレー賞を受賞した[103]
1994年
1月6日、史上最速・最年少 (24歳10か月) でJRA通算800勝達成[107]
7月23日アスコット競馬場イギリス)で開催されたキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスホワイトマズルで初騎乗し、2着となる[103]
9月4日ロンシャン競馬場フランス)で開催されたムーラン・ド・ロンシャン賞スキーパラダイスに騎乗し、JRA所属の騎手としては初めての海外G1競走勝利を達成する[1]
9月11日ツルマルガール朝日チャレンジカップを勝ち、史上最速・最年少 (25歳5か月) でJRA通算900勝達成[107]
この年海外遠征で日本を留守にすることも多かったが、134勝を挙げ、3年連続5度目のリーディングジョッキーを獲得した[108]。また、この年初めて勝率で岡部幸雄を上回り、自身初の最高勝率騎手を受賞したが、獲得賞金では岡部幸雄を下回り、騎手大賞(勝利数、勝率、獲得賞金3部門で全て1位)受賞はならなかった[109]
1995年
5月6日スキーキャプテンで日本人騎手として初めてケンタッキーダービーに参戦(結果は14着)[103][110]
5月14日、外国馬ハートレイクで安田記念を勝利。自身初の外国馬によるJRAGI制覇を達成[103]
7月23日、史上最速・最年少 (26歳4か月) でJRA通算1000勝を達成[1]
この年前年と同じく134勝を挙げ、4年連続6度目のリーディングジョッキーを獲得した[111]
1996年
4月13日、史上最速・最年少 (27歳1か月) でJRA通算1100勝達成[107]
11月3日、菊花賞をダンスインザダークで勝利。年間重賞勝利数が15となり、河内洋が保持していた年間重賞最多勝記録を更新[112]
11月9日、史上最速・最年少 (27歳7か月) でJRA通算1200勝達成[107]
この年159勝を挙げ、岡部幸雄が保持していた年間最多勝記録(138勝)を更新。5年連続7度目のリーディングジョッキーを獲得[10]
1997年
6月28日、史上最速・最年少 (28歳3か月) でJRA通算1300勝達成[40]
7月20日、ダンディコマンドで北九州記念を優勝し、史上最速・最年少 (28歳4か月) でJRA重賞通算100勝達成[40]
7月27日アグネスワールド函館3歳ステークスを優勝し、史上2人目の中央競馬全10場重賞制覇達成[40]
この年168勝を挙げ、自身が前年に樹立した年間最多勝記録を更新[102]。6年連続8度目のリーディングジョッキーを獲得[102]。さらに勝利数、勝率、獲得賞金の3部門全てで1位となり、自身初の騎手大賞を受賞した[40]
1998年
1月24日、史上最速・最年少 (28歳10か月) でJRA通算1400勝達成[40]
6月7日スペシャルウィーク東京優駿 (日本ダービー) を優勝[40]。自身初の東京優駿初制覇を果たすとともに、保田隆芳に続き史上2人目となる八大競走完全制覇達成[40]
8月9日ドーヴィル競馬場フランス)で開催されたモーリス・ド・ギース賞シーキングザパールに騎乗し優勝。同馬を日本調教馬初の海外G1制覇に導く[40]
8月23日、史上最速・最年少 (29歳5か月) でJRA通算1500勝達成[40]
この年169勝を挙げ、自身の年間最多勝記録をさらに更新[113]。7年連続9度目のリーディングジョッキーを獲得し、2年連続2度目の騎手大賞を受賞[113]。また自身が保持していた年間最多重賞勝利記録を22に更新した[113]
1999年
3月28日、史上最速・最年少 (30歳1か月) でJRA通算1600勝達成[40]
6月6日アドマイヤベガ東京優駿 (日本ダービー) を優勝し、史上初となる日本ダービー連覇達成[40]
10月30日、史上最速・最年少 (30歳7か月) でJRA通算1700勝達成[40]
この年自身の最多勝記録をさらに更新する178勝を挙げ、8年連続10度目のリーディングジョッキーの座につき、3年連続3度目の騎手大賞を受賞[114]
2000年
4月23日、史上最速・最年少 (31歳1か月) でJRA通算1800勝達成[40]
この年騎乗拠点をアメリカに移しながらも日本でも精力的に騎乗し[1]、年間130勝を挙げ[102]、9年連続11度目のリーディングジョッキーを獲得[40]。4年連続4度目の騎手大賞を受賞した[40]
2001年
11月3日、史上最速・最年少 (32歳7か月) でJRA通算1900勝達成[40]
12月16日香港ヴァーズステイゴールドで優勝し、日本産馬で日本調教馬として初の海外G1制覇に導く[115]
この年3月から9月まで騎乗拠点をフランスに移していたため、国内での騎乗数355鞍、年間勝利数65勝にとどまり[102]、リーディングジョッキー獲得はならなかった[10]
2002年
2月23日、阪神競馬第9競走で史上最速・最年少で通算1万回騎乗達成[10]
5月26日タニノギムレットで東京優駿 (日本ダービー) を優勝[116]し、史上初となる東京優駿 (日本ダービー) 3勝目を挙げる[41]
9月21日、史上最速・最年少 (33歳6か月) でのJRA通算2000勝達成[41]
12月7日、阪神競馬場でJRA新記録(世界タイ記録)となる1日8勝を達成[1]
この年騎乗拠点の半分をフランスに置き[1]、さらに落馬骨折によるブランクがあったため、国内での騎乗数は457鞍にとどまったが、年間133勝(勝率は自己最高の2割9分1厘を記録)[117]を挙げ、12度目のリーディングジョッキーを獲得し、5度目の騎手大賞を受賞した[117][40]
2003年
3月2日、史上最速・最年少 (33歳11か月) でJRA通算2100勝を達成[41]
9月14日、史上最速・最年少 (34歳5か月) でJRA通算2200勝を達成[41]
12月27日、当時「不可能」とも「夢」とも言われていたJRA史上初となる年間200勝を達成[118][1]
この年日本に騎乗拠点を戻し、年間204勝を挙げて4年ぶりに自身の最多勝記録を更新[117]。2年連続13度目のリーディングジョッキーを獲得し、6度目の騎手大賞を受賞した[41]。さらに年間を通じてJRA・地方における全GIへの騎乗を達成し[1]東京競馬記者クラブ賞関西競馬記者クラブ賞を同時受賞[41]
2004年
2月15日、史上最速・最年少 (34歳11か月) でJRA通算2300勝を達成[41]
8月22日、史上最速・最年少 (35歳5か月) でJRA通算2400勝を達成[41]
11月14日アドマイヤグルーヴエリザベス女王杯を優勝し[68]、史上初となる同競走4連覇を達成[41]
12月8日、香港のハッピーバレー競馬場で行われたインターナショナルジョッキーズチャンピオンシップを勝利し、海外通算100勝を達成[41]
12月12日中央競馬で年間200勝を達成[1]
この年211勝を挙げ、前年自ら樹立した最多勝記録を記録を更新[119]。3年連続14度目のリーディングジョッキーを獲得し、7度目の騎手大賞を受賞した[119]
2005年
1月23日、史上最速・最年少 (35歳10か月) でJRA通算2500勝を達成[41]
2月26日、ビッグプラネットでアーリントンカップを優勝し、中央競馬史上初の重賞競走通算200勝を達成[10]
5月29日ディープインパクト東京優駿 (日本ダービー) を優勝し[1]、同競走4勝目を挙げる[41]。またこの勝利により、年間100勝最速記録を更新する[1]
7月17日、史上最速・最年少 (36歳4か月) でJRA通算2600勝を達成[41]
9月24日、1日の騎乗機会6連勝のJRA新記録を達成[120]
10月23日ディープインパクト第66回菊花賞を制覇し、中央競馬クラシック三冠を達成[1]。史上2頭目となる無敗の三冠馬に導く[1]
この年3年連続200勝を達成し、最終的に212勝を挙げ、自身が前年に樹立した最多勝記録を更新[121]。4年連続15度目のリーディングジョッキーを獲得し、8度目の騎手大賞を受賞[121]。さらにJRA新記録であるGI年間6勝(地方統一GIを加えると11勝)を記録[121]。自身が樹立した年間最多重賞勝利記録を23に更新するなど、記録ずくめの年となった[121]。また、競馬関係者として初めてSports Graphic Number年間MVP賞を受賞[122]
2006年
1月8日京都競馬第9競走 (騎乗馬フサイチジャンク) にて史上最速・最年少 (36歳10か月) でJRA通算2700勝を達成[41]
7月23日小倉競馬第12競走にて史上最速・最年少 (37歳4か月) でJRA通算2800勝を達成[41]
この年4年連続200勝達成はならなかったが、GI6勝を含む178勝を挙げ、5年連続16度目のリーディングジョッキーを獲得し、9度目の騎手大賞を受賞[123]
2007年
4月21日、京都競馬第7競走にて史上最速・最年少 (38歳1か月) でJRA通算2900勝を達成[124]
7月21日、JRA歴代最多勝記録を更新する2944勝(これまでの記録は岡部幸雄の2943勝)を達成[1]
8月11日騎手招待競走シャーガーカップ (ステイヤーズ) を勝ち、アスコット競馬場で日本人騎手の初勝利を挙げる[124]
11月3日、京都競馬第1競走で史上初となるJRA通算3000勝を達成 (38歳7か月) [124]
11月24日ヴァーミリアンでジャパンカップダートを優勝し[68]、重賞250勝を達成[124]
この年156勝を挙げ、6年連続17度目のリーディングジョッキーを獲得[125]。しかし安藤勝己に勝率で及ばず、騎手大賞は受賞できなかった[125]
2008年
5月10日、京都競馬場における通算1000勝を達成[126]
6月15日、JRA通算3100勝を達成 (39歳3か月) [124]
11月2日、天皇賞秋をウオッカで勝利。春秋あわせて天皇賞11勝目を挙げ、保田隆芳が保持していた天皇賞最多勝利記録(10勝)を更新した[127]
この年重賞勝利数3勝にとどまるなど精彩を欠いた年であったが、年間143勝を挙げ、7年連続18度目のリーディングジョッキーを獲得[128][66]
2009年
4月12日、JRA通算3200勝を達成 (40歳1か月)[124]
6月27日、阪神競馬場における通算1000勝を達成[129]
12月13日、JRA通算3300勝を達成 (40歳9か月)[124]
この年リーディングジョッキー争いで前半から内田博幸の後塵を拝し、後半に追い上げるも、最終的には140勝で内田博幸に6勝届かず、リーディングジョッキーの座を明け渡した[130]
2010年
4月12日日本騎手クラブの東西役員総会で柴田善臣の後任として会長に選出[131][132]、同年9月に会長へ就任した[1]
11月28日ローズキングダムジャパンカップを勝利。23年連続でJRA主催GI競走勝利を達成[注 12][1]
この年落馬負傷による長期休養が響き、年間69勝に終わった[133]
2011年
6月4日、JRA通算3400勝を達成 (42歳3か月)[124]
この年JRA主催のGI競走での勝ち鞍はなく、23年連続で続いたJRA主催GI競走勝利記録が途切れる[103]
2012年
2月12日トレイルブレイザー京都記念を優勝し[1]、デビューから続いている連続重賞勝利記録を26年に更新する[1]
11月18日サダムパテックマイルチャンピオンシップを初優勝。同時に2年ぶりにJRA主催のGI競走を制する[1]
2013年
1月13日、JRA通算3500勝を達成 (43歳10か月)[1]
5月26日キズナで東京優駿 (日本ダービー)を優勝し、自身の史上最多記録を更新する同競走5勝目を挙げる[134]
11月17日トーセンラーマイルチャンピオンシップを勝利し、GI級競走100勝 (地方交流、海外含む) を達成する[135]
2014年
1月26日、メイショウインロウで史上初のJRA通算3600勝達成(44歳10か月)[1]
2月9日トーセンスターダムきさらぎ賞を優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を28年に更新[1]岡部幸雄が持つJRAでの連続重賞勝利記録に並ぶ(デビュー年からの連続記録は既に更新している[136])。
10月14日、京都競馬12競走でピエナトップガンに騎乗。JRA通算騎乗数を18,648回とし、岡部幸雄が保持していたJRA最多騎乗記録を更新した[137]
2015年
1月11日グァンチャーレシンザン記念を優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を29年に更新[1]
3月8日、ローズマンブリッジでJRA通算3700勝達成 (45歳11か月) [1]
10月3日アウォーディーシリウスステークスを優勝し、史上初のJRA重賞300勝達成[1]
2016年
1月24日ディサイファアメリカジョッキークラブカップを初優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を30年に更新[138]
1月31日、エイシンニトロでJRA通算3800勝達成[1]
9月4日、小倉競馬第1競走でベルウッドカペラに騎乗し、JRA通算騎乗数2万回を達成[139]
10月4日ケイティブレイブ白山大賞典を優勝し、地方全場での交流重賞制覇を達成[140]
2017年
1月5日エアスピネル京都金杯を優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を31年に更新[141]
4月30日キタサンブラック天皇賞(春)を優勝し、同レース8勝目を挙げた。これにより保田隆芳天皇賞(秋)で達成した7勝を抜き、同一のJRA・GI競走での最多勝利記録を更新した[142]
6月24日、メイショウヴォルガで阪神3Rを制し、JRA通算3900勝を達成[1]
9月10日ソウル競馬場韓国)で開催されたコリアスプリントグレイスフルリープで優勝。韓国での初騎乗初勝利を達成[143]
10月9日スマートレイアー京都大賞典を制覇し、GII競走100勝を達成[144]
12月11日国際競馬統括機関連盟より2017年度ロンジンIFHA国際功労賞を受賞する[10]
12月24日キタサンブラックにて有馬記念を勝利し、同レースでの3勝目を挙げた。これにより八大競走全レースで3勝以上の勝利を収めた[145]
2018年
1月6日ブラックムーン京都金杯を優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を32年に更新[1]
6月24日宝塚記念ダンビュライトに騎乗し、JRA主催GI競走500回騎乗を達成[146]
9月29日、メイショウカズヒメでJRA通算4000勝を達成[147]
2019年
1月20日インティ東海ステークスを優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を33年に更新[1]
2月17日、インティでフェブラリーステークスを逃げ切って優勝。約1年2ヶ月ぶりのGI制覇を達成[1]
4月26日農林水産省より、農林水産大臣表彰を受賞する[148]
6月18日 - 22日ロイヤルアスコット開催にてアンバサダーに就任。長年にわたりアスコット競馬場との関係を築き、同競馬場の理事・役員会から高く評価されている武に対し、アスコットから就任依頼があったもの[149]
9月16日、パラーティウムでJRA通算4100勝を達成[150]
10月20日ワールドプレミアで菊花賞を優勝。昭和・平成・令和の3元号においてGI競走および菊花賞を制覇した初の騎手となった[1]
11月4日ヤマニンアンプリメJBCレディスクラシックを優勝。同競走初勝利・JBC競走通算10勝を挙げるとともに、交流JpnI全競走制覇を達成[151]
11月30日、JRA年間勝利数を104とし、岡部幸雄が持つ50代騎手の年間最多勝記録を塗り替えた[152]。(最終的には111勝まで記録を伸ばした[77]
2020年
2月29日サウジアラビアキングアブドゥルアズィーズ競馬場で行われたサンバサウジダービーをフルフラットで優勝。当地で日本人騎手初勝利を挙げ、自身海外9カ国目の勝利となった[153]
3月8日報知杯弥生賞ディープンパクト記念サトノフラッグで優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を34年に更新[154]
7月21日スポーツ庁より令和元年度スポーツ功労者顕彰を受賞する[155]
8月9日、ドゥラモットでJRA通算4200勝を達成[156]
12月12日、JRA年間勝利数を112とし、前年に自身が到達した50代での年間最多勝記録を更新した[77]。(最終的には115勝まで記録を伸ばした[78]

2021年

3月6日チューリップ賞メイケイエールで優勝し、デビューから続いている連続重賞勝利記録を35年に更新[157]
10月24日、スーパーウーパーでJRA通算4300勝を達成[158]

成績表

出典:[159]

西暦 勝利数・勝率 連対率 表彰歴
1987年 69勝 (.125) (.238) JRA賞 (最多勝利新人騎手)[25]
1988年 113勝 (.169) (.306) 史上最年少関西リーディングジョッキー[25]
1989年 133勝 (.183) (.340) JRA賞 (最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手)[25]関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[25]
1990年 116勝 (.160) (.324) JRA賞 (最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手)[25]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[160]ゆうもあ大賞[161]
1991年 96勝 (.150) (.291) 関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[160]
1992年 130勝 (.215) (.345) JRA賞 (最多勝利騎手)[107]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[160]
1993年 137勝 (.196) (.392) JRA賞 (最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手) ・フェアプレー賞[107]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[107]
1994年 134勝 (.230) (.388) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手)[107]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[160]
1995年 134勝 (.193) (.343) JRA賞 (最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手)[107]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[160]
1996年 159勝 (.211) (.340) JRA賞 (最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手)[107]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[107]
1997年 168勝 (.233) (.371) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[40] ・フェアプレー賞[40]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[40]
1998年 169勝 (.226) (.366) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[40]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[160]
1999年 178勝 (.220) (.396) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[40] ・フェアプレー賞[40]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[160]
2000年 130勝 (.236) (.362) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[40]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[160]
2001年 65勝 (.183) (.315)
2002年 133勝 (.291) (.435) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[41] ・フェアプレー賞[41]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[160]
2003年 204勝 (.236) (.384) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[41]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[41]
2004年 211勝 (.232) (.372) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[41]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[41]
2005年 212勝 (.248) (.398) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[41]Sports Graphic Number年間MVP賞 [41]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[41]
2006年 178勝 (.225) (.375) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手・最多賞金獲得騎手・騎手大賞)[41]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[41]
2007年 156勝 (.219) (.372) JRA賞 (最多勝利騎手・最多賞金獲得騎手・特別賞) [124]、関西スポーツ賞[162]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[124]
2008年 143勝 (.219) (.355) JRA賞 (最多勝利騎手・最高勝率騎手)[124]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[124]
2009年 140勝 (.182) (.320) JRA賞 (最多賞金獲得騎手)[124]、関西テレビ放送賞(関西所属騎手最多勝)[124]
2010年 69勝 (.167) (.281) フェアプレー賞[124]
2011年 64勝 (.101) (.211)
2012年 56勝 (.095)   (.198) フェアプレー賞[124]
2013年 97勝[163] (.149) [163]  (.245)[163] JRA賞 (特別賞)[164] ・フェアプレー賞[165]関西競馬記者クラブ賞[166]
2014年 86勝[163] (.128)[163]   (.257)[163]
2015年 106勝[163] (.139)[163]   (.256)[163]
2016年 74勝[163] (.111)[163]   (.244)[163]
2017年 82勝[163] (.136)[163]   (.278)[163] ロンジンIFHA国際功労賞[167]
2018年 76勝[163](.137)[163] (.255)[163] JRA賞 (特別賞)[164]
2019年 111勝[163](.168)[163] (.303)[163] 優秀騎手賞[168]
2020年 115勝 (.172) (.327) 優秀騎手賞

GI・JpnI競走勝利一覧 (年度別)

(斜字は統一GI・JpnI太字は海外GI、*印はJpnIを指す。)

重賞勝利一覧

テレビ出演

連載

その他出演

脚注

注釈

  1. ^ 栗東トレーニングセンター内に住まいがある。
  2. ^ この時「ニンジンは馬が食べるもの」という見方が刷り込まれ、武自身はニンジンが苦手な食べ物になった [13]
  3. ^ 武と中途退学してしまったが馬乗りの上手かった生徒だけが、他の生徒たちより高い障害を跳ぶことを許されていたという。
  4. ^ この記録は1954年、JRA設立後以降の記録である。それ以前には保田隆芳が1938年に、18歳8カ月で阪神優駿牝馬(現オークス)をアステリモアで制している[23]
  5. ^ 競馬は賭博のイメージが強くて一般の人は競馬場に近寄れない雰囲気があった。
  6. ^ 騎手として勝利すれば晴れてダービージョッキーとなる。
  7. ^ 父・邦彦も1972年の日本ダービーを優勝しており、中島時一・啓之親子、伊藤正四郎・正徳親子に次ぐ史上3組目の親子2代のダービージョッキーとなった。
  8. ^ ただし週末は日本に帰国して騎乗することも多く、完全な移籍というわけではない[52]
  9. ^ なお、令和改元時点でこの記録を達成する可能性がある現役騎手は熊沢重文のみ
  10. ^ 競輪のダービーは「日本選手権競輪」、中央競馬のダービーは「東京優駿」を指す。2013年に、村上は第66回日本選手権競輪を、武は第80回東京優駿を、それぞれ制覇。
  11. ^ 村上は長塚智広武田豊樹と共にこの騒動を主謀したとして日本競輪選手会より翌2014年5月1日から1年間の競走出場自粛を言い渡されていたが、後に3ヵ月間に短縮された。
  12. ^ 1位入線のブエナビスタの降着により、2位入線のローズキングダムが繰り上がり1着となった。
  13. ^ 本レースは韓国内格付でのG1であり、国際グレードは未取得である。
  14. ^ ホープフルステークスの前身として開催されたGII・GIIIレースでは通算5勝を挙げている。

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参考文献

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  • 島田明宏『武豊インタビュー集 戴冠』廣済堂、2002年11月。ISBN 4-331-50931-1 
  • 武豊『この馬に聞いた!フランス激闘編』講談社、2002年4月。ISBN 4-06-273422-2 
  • 島田明宏『「武豊」の瞬間 稀代の天才騎手10年の歩み』集英社、1997年4月。ISBN 4-08-783109-4 
  • 島田明宏『ジョッキーズ歴史をつくった名騎手たち』イースト・プレス、2020年3月。ISBN 978-4-7816-1868-5 
  • 武豊『この馬に聞いた!最後の1ハロン』講談社、2001年4月。ISBN 978-4-06-273140-9 
  • 武豊『この馬に聞いた!』講談社、2000年4月。ISBN 978-4-06-264838-7 
  • 優駿編集部(著)、沢田康文(編)「武豊 第一人者としての止まらぬ歩み」『優駿』914号、日本中央競馬会、2020年、p71。 
  • GOETHE』2021年2月号、幻冬舎。 

関連項目

外部リンク