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高橋成忠

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
高橋成忠
基本情報
国籍 日本の旗 日本
出身地 大阪府北河内郡枚方町
(現・枚方市
生年月日 (1940-10-03) 1940年10月3日(84歳)
騎手情報
所属団体 日本中央競馬会
所属厩舎 佐藤勇(1957年-1977年)
初免許年 1957年3月1日
免許区分 平地障害
騎手引退日 1977年2月28日
重賞勝利 34勝
G1級勝利 6勝
通算勝利 5176戦749勝
調教師情報
初免許年 1978年
調教師引退日 2011年2月28日定年
重賞勝利 23勝(うち地方交流7勝)
G1級勝利 2勝
通算勝利 7948戦524勝[注 1]
経歴
所属 栗東T.C.(1978年 - 2011年)
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高橋 成忠(たかはし しげただ、1940年10月3日 - )は、大阪府北河内郡枚方町(現・枚方市)出身の元騎手・元調教師

JRA調教師の高橋義忠は実子。

経歴

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父は枚方市議会議員も務めた人物で、その三男であった[1]。少年時代は父と連れられて京都競馬場へよく足を運び[2]、父が「なんとかホウシュウという馬が強かった」といったことに印象を残したという[1]

中学時代には考古学者を将来に思い描いていたが[1]、高校進学が決まった後、駅の構内に貼られていた騎手候補生募集のポスターを見て「なんとなく馬にひかれた」[2]ほか[1]、募集条件がことごとく自分に合致していたことから受験に至り[3]馬事公苑騎手養成長期課程に第7期生として入所。主な同期生には池江泰郎丸目敏栄野元昭徳吉一己福永甲吉岡八郎がいる。

1957年阪神佐藤勇厩舎の騎手見習いとなり、2年後の1959年に同厩舎所属でデビュー。3月7日にイサムドーターで初騎乗、28日にツキオーで初勝利を挙げた。1年目から14勝をマークし、年末にはミスイエリュウで朝日チャレンジカップを制して重賞初勝利を飾るなど非凡なスタートを切ったが、見習騎手の減量特典がなくなって騎乗馬に恵まれない時期が続く[2]。年間勝利数も20勝から30勝前後止まり[2]という中でも着実に勝利数を伸ばしていき、1963年には年間33勝で初めて全国10位に付けると、1964年にはヒカルポーラ天皇賞(春)宝塚記念を制覇[2]。特に天皇賞は圧倒的人気のメイズイがあわや逃げ切るかというところを大外から一気に差し切り、八大競走初勝利を挙げた[2]。これがきっかけで騎乗馬が急増し、1965年には48勝で初めて関西リーディング(全国4位)を獲得。1966年には62勝で2年連続関西リーディング(全国3位)、1967年にはシーエースによる桜花賞制覇を含む84勝を挙げ、関西所属騎手として初の全国リーディングジョッキーとなった[2]。その後も2年連続(1968年1969年)で関西リーディングに輝き、1970年には関東馬のタマミで3年ぶり2度目の桜花賞制覇、リキエイカンで6年ぶり2度目の天皇賞(春)制覇を達成。桜花賞のタマミは当時開場間もない栗東トレセンに担当厩務員の蛯名幸作と共に滞在しており、高橋は田村正光に代わってトライアルから手綱を任されていたが、圧倒的人気に応えて見事に4馬身差で逃げ切って見せた。天皇賞のリキエイカンはロスなく内を突く冷静な騎乗が光り、ホウウン・フイニイとの大激戦をクビ差制した[2]。同年は71勝を挙げながら6年連続関西リーディングを阻まれたが、86勝を挙げて圧倒的な1位となったのは3年目の若き「天才福永洋一であり、この頃を境に福永・武邦彦が関西の上位を占めていく。

1971年以降は騎乗数・勝利数も次第に減っていき、活躍も自厩舎の所属馬が中心となる。1973年には愛知杯シンザン産駒のシルバーランドに騎乗し、芝2000mの競走で中央競馬史上初の2分を切る1分59秒9のレコードタイムで勝利。

1974年11月25日にはフィリピンマニラで開催された「第12回アジア競馬会議国際騎手招待競走」に日本代表として参加し、3競走に騎乗して2着2回、5着1回であった[4]

1976年にはシルバーランドでCBC賞をレコード勝ちしているが、これが最後の重賞制覇となった。同年には自厩舎の所属馬ではないが、鳴尾記念で7頭中7番人気のタイホウヒーローに騎乗し、菊花賞コクサイプリンス有馬記念イシノアラシを抑えて見事に勝利。1977年に調教師免許を取得し騎手を引退。36歳というトップクラスの騎手としては若年での引退となったが、後年この理由を問われた高橋は「ずっと馬に乗ってきて、ここらで休憩しようかなって感じですよ」と語った。その一方で「この世界はやっぱりジョッキーが一番ですよ。だから、もっと乗っていたかったなあと悔いは残ります。今さら言ってもしょうがないですが」とも語っている[5]

師匠の佐藤勇は、騎手時代の高橋について「技術としてはそれほど上手くなかったけど、気概で乗っていた」と評している[6]。また、ダービーニュース記者の山口進によれば、関西の厩舎関係者には「そつなく乗る」という点とペース配分の巧みさに対する評価が高く、山口自身は「持って生まれた勘というのも他に類を見ないほど素晴らしい」と評した[7]

引退後は1978年に厩舎を開業し、7月15日に初出走、10月8日に初勝利を挙げた。以後の成績は概ね15勝前後で推移を続け、1988年京都大賞典をメイショウエイカンで制して重賞初勝利を挙げた。この頃より年間勝利数は安定して20勝以上を記録、重賞も毎年制した。管理した中で特筆される馬に1991年スワンステークスを制したケイエスミラクルがいる。生涯10戦のキャリアで3回のレコード勝利を記録し、アメリカのブリーダーズカップ出走も考慮された[8]素質馬であったが、同年のスプリンターズステークスで競走中に故障を発生し、予後不良と診断されて安楽死の措置が取られた。1993年フェブラリーハンデキャップを制したメイショウホムラ以降は中央における重賞勝利がなかったが、2001年ダービーレグノシンザン記念を制すると、再び管理馬が重賞戦線で活躍を始めた。特に2000年代半ばからはメイショウホムラの数少ない産駒であるメイショウバトラーが主にダートグレード競走で活躍し、2004年から2008年までに日本競馬史上最多のGIII級競走10勝を挙げた。2007年には瀬戸口勉の定年引退に伴い、関係が深い松本好雄が所有するクラシック二冠馬メイショウサムソンの管理を引き継いだ。メイショウサムソンは同年の天皇賞(春)に優勝し、高橋は調教師としてのGI競走初優勝を果たした。同馬は秋にも史上4頭目の天皇賞春秋連覇を達成し、同年のJRA賞特別賞を受賞。2007年4月15日には、騎手時代に続いてJRA通算500勝を達成した。

高橋の管理馬には息長く現役を続けるものが数々いることでも知られる。高橋はファンから「丈夫で長く走らせられる秘訣」を尋ねられた際、以下のように答えている。

秘訣なんてないですよ。3歳の頃に体質が弱かったり、中途半端に走らなかったり、しかし成長を見込め、長い目でじっくり見ていけるものがある馬は自然とそうなっちゃうんです。攻撃的な使い方じゃないけど馬は長持ちしてますね。だから特に100回使おうとかいう意識は全くない。お金にならないんじゃスタッフが困るしね。でも、みんな愛情をもって接してくれているし、そうしているうちに馬に対して愛情が湧いてくる。特にいまの時代、引退しても行くところがないから少しでも長くさせてやりたいしね。本当はもっと割り切って入れ替えをして、この流れを変えなアカンと思うんだけど……。 — 芦谷有香『栗東厩舎探訪記(2)』10-11頁。

最も多くの戦績を重ねた管理馬は、共に牝馬でそれぞれ103戦5勝の成績を残したスペインランド[9]とサンコメーテス[10]であり、メイショウサンダー(95戦9勝)、ファンドリリヴリア[10](89戦6勝)が両馬に続いている。サンコメーテスはレース間隔が2ヶ月以上開いたのは1度だけというタフネスぶりで[10]、ファンドリリヴリアは1998年まで現役を続け、同年の天皇賞(春)で南井克巳を背に積極策に打って出て11着であった[10]。89戦して2番人気には9度推されたことがあったが、1番人気は1度も無かった[10]。また、メイショウバトラーは上記4頭を上回る11歳まで現役を続け、インターネット上ではファンから親しみを込めて「婆さん」と呼ばれた[11]

2011年2月、調教師の70歳定年制に基づいて調教師を引退。管理馬は従前に調教師試験に合格していた実子・高橋義忠厩舎へ移籍した。メイショウタクミに限り武田博厩舎に転厩している。

人物・エピソード

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自身が「あまり愛想がいいほうではない」と語る[5]一方で、関係者の間では「口数は少ないが人格者」との評を取る[12]。先述の山口進は騎手時代の高橋に対して「決して努力を怠らない人間」と評している[7]。競馬実況アナウンサーの杉本清は、若手時代、職人気質の人物が多く取材に苦労した中で、高橋には快く応じてもらい、いろいろと教えられたとしている[5]

また杉本は、若手アナウンサー時代にとくに印象に残ったエピソードとして、自著の中で以下のような思い出を語っている。

もうひとつ、勝利ジョッキー・インタビューで思い出すのは、高橋成忠騎手(現・調教師)がヒカルポーラで天皇賞を勝ったときのインタビューだ。インタビューの最後に、こんな質問をしてみた。
「馬にかける言葉があったら、どんな言葉をかけてやりたいですか」
今では珍しくない言い回しかもしれないが、当時としてはかなりヒネった、ちょっとキザな質問だった。返ってきた高橋成忠騎手の答えがまたよかった。
「馬にありがとうって言ってやりたい」
これも当時としては異色の答えであり、新鮮な言い回しだった。うちのディレクターがこのインタビューに感激し、お前もやっと使えるようになったなと言ってくれたのをおぼえている。 — 杉本清『あなたのそして私の夢が走っています』79-80頁

高橋自身、ヒカルポーラには強い印象を残している。騎手生活の中でヒカルポーラに教えられたことが大きかったといい[13]、後には「あれ(天皇賞制覇)が俺の競馬のはじまりやった」と語っている[3]。また、若い頃は気性難であったが、加齢とともに心身が落ち着いていった同馬との経験が、「じっくり育てる」という調教師としてのひとつの土台となっているのかも知れない、とも語っている[3]

騎手成績

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区分 1着 2着 3着 4着以下 騎乗数 勝率 連対率 備考
1959年 平地 14 11 7 55 87 .161 .287
障害 0 0 0 1 1 .000 .000
1960年 平地 20 21 12 86 139 .144 .295
1961年 平地 16 17 12 69 114 .140 .289
1962年 平地 24 26 13 112 175 .137 .286
1963年 平地 33 31 23 139 226 .146 .283
1964年 平地 39 27 31 199 296 .132 .223
1965年 平地 48 50 48 251 397 .121 .247 関西リーディングジョッキー(全国4位)
1966年 平地 62 52 57 230 401 .155 .284 関西リーディングジョッキー(全国3位)
1967年 平地 84 81 70 276 511 .164 .323 全国リーディングジョッキー
1968年 平地 84 51 69 332 536 .157 .252 関西リーディングジョッキー(全国3位)
1969年 平地 82 71 59 247 459 .179 .333 関西リーディングジョッキー(全国2位)
1970年 平地 71 44 53 288 456 .156 .252
1971年 平地 49 31 32 197 309 .159 .259
1972年 平地 33 41 37 210 321 .103 .231
1973年 平地 33 28 28 138 227 .145 .269
1974年 平地 16 15 20 104 155 .103 .200
1975年 平地 20 17 23 112 172 .134 .215
1976年 平地 21 21 23 115 180 .117 .233
1977年 平地 0 1 3 10 14 .000 .071
平地 749 636 620 3,170 5,175 .145 .268
障害 0 0 0 1 1 .000 .000
総計 749 636 620 3,171 5,176 .145 .268
日付 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初騎乗 1959年3月7日 5歳以上 イサムドーター 6頭 6 6着
初勝利 1959年3月28日 5歳以上60万下 ツキオー 7頭 2 1着
重賞初騎乗 1959年12月13日 阪神牝馬特別 ミスイエリユウ 7頭 2 3着
重賞初勝利 1959年12月27日 朝日チャレンジC ミスイエリユウ 9頭 5 1着
GI級初騎乗 1961年4月2日 桜花賞 エレガントミラー 28頭 10 3着
GI級初勝利 1964年4月29日 天皇賞(春) ヒカルポーラ 9頭 3 1着

主な騎乗馬

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※括弧内は高橋騎乗時の優勝重賞競走。太字は八大競走。

その他

調教師成績

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区分 1着 2着 3着 4着以下 出走数 勝率 連対率
1978年 平地 3 3 6 34 46 .065 .130
1979年 平地 16 13 13 103 145 .110 .200
1980年 平地 10 20 13 119 162 .062 .185
1981年 平地 14 11 18 155 198 .071 .126
障害 0 0 0 1 1 .000 .000
14 11 18 156 199 .070 .126
1982年 平地 20 25 24 143 212 .094 .212
障害 0 1 0 1 2 .000 .500
20 26 24 144 214 .093 .215
1983年 平地 8 16 13 150 187 .043 .122
障害 0 0 0 2 2 .000 .000
8 16 13 152 189 .042 .127
1984年 平地 12 14 20 123 169 .071 .154
障害 3 3 1 14 21 .143 .286
15 17 21 137 190 .079 .168
1985年 平地 13 17 19 191 233 .056 .129
障害 2 3 1 16 22 .091 .227
15 20 20 207 255 .059 .137
1986年 平地 12 15 21 166 214 .056 .126
障害 1 1 2 16 20 .050 .100
13 16 23 182 234 .056 .124
1987年 平地 16 16 13 157 202 .079 .158
障害 1 0 4 13 18 .056 .056
17 16 17 170 220 .077 .150
1988年 平地 24 19 19 184 246 .098 .175
障害 2 2 0 7 11 .182 .364
26 21 19 191 257 .101 .183
1989年 平地 20 14 35 166 235 .085 .145
障害 0 0 0 4 4 .000 .000
20 14 35 170 239 .084 .142
1990年 平地 19 17 30 215 281 .068 .128
1991年 平地 16 26 22 190 254 .063 .165
障害 4 0 1 7 12 .333 .333
20 26 23 197 266 .075 .173
1992年 平地 24 18 24 196 252 .092 .160
障害 2 2 0 9 13 .154 .308
26 20 24 205 265 .095 .167
1993年 平地 26 18 15 181 240 .108 .183
1994年 平地 9 14 14 203 240 .038 .096
障害 1 0 1 2 4 .250 .250
10 14 15 205 244 .041 .098
1995年 平地 27 40 30 173 270 .100 .248
障害 0 0 0 2 2 .000 .000
27 40 30 175 272 .099 .246
1996年 平地 24 23 33 252 332 .072 .142
障害 0 0 1 5 6 .000 .000
24 23 34 257 338 .071 .139
1997年 平地 16 18 20 223 277 .058 .123
1998年 平地 17 17 23 238 295 .058 .115
障害 2 2 2 4 10 .200 .400
19 19 25 242 305 .062 .125
1999年 平地 14 17 12 195 238 .059 .130
障害 2 1 2 13 18 .111 .167
16 18 14 208 256 .063 .133
2000年 平地 15 11 17 196 239 .063 .109
障害 1 0 1 9 11 .091 .091
16 11 18 205 250 .064 .108
2001年 平地 18 24 17 202 261 .069 .161
障害 0 1 0 9 10 .000 .100
18 25 17 211 271 .066 .159
2002年 平地 13 17 23 214 267 .049 .112
障害 0 1 1 8 10 .000 .100
13 18 24 222 277 .047 .112
2003年 平地 24 25 14 227 290 .083 .169
障害 0 0 1 5 6 .000 .000
24 25 15 232 296 .081 .166
2004年 平地 14 26 20 199 259 .054 .154
障害 0 0 0 2 2 .000 .000
14 26 20 201 261 .056 .153
2005年 平地 15 19 13 207 254 .059 .134
障害 0 0 0 2 2 .000 .000
15 19 13 209 256 .059 .133
2006年 平地 15 23 19 211 268 .056 .142
2007年 平地 12 18 17 179 226 .053 .133
障害 0 0 1 4 5 .000 .000
12 18 18 183 231 .052 .130
2008年 平地 3 7 6 199 215 .014 .047
2009年 平地 8 11 11 195 225 .036 .084
2010年 平地 5 7 11 216 239 .021 .050
障害 1 1 1 8 11 .091 .182
6 8 12 224 250 .024 .056
2011年 平地 0 2 3 39 44 .000 .045
平地 502 581 608 6034 7725 .065 .140
障害 22 18 20 163 223 .099 .179
総計 524 599 628 6197 7948 .066 .141
日付 競馬場・開催 競走名 馬名 頭数 人気 着順
初出走 1978年7月15日 2回小倉1日3R 3歳上300万下 ケンセイフラワー - - 3着
初勝利 1978年10月8日 4回京都2日12R 3歳上1000万下 クニヒメ - - 1着
重賞初出走 1980年2月10日 1回中京6日11R きさらぎ賞 タマハッコウ 11頭 10 11着
重賞初勝利 1988年10月9日 4回京都2日11R 京都大賞典 メイショウエイカン 8頭 6 1着
GI初出走 1980年4月6日 2回阪神6日11R 桜花賞 タマハッコウ 21頭 21 21着
GI初勝利 2007年4月29日 3回京都4日11R 天皇賞(春) メイショウサムソン 16頭 2 1着

主な管理馬

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※括弧内は高橋管理時の優勝重賞競走。太字はGI級競走。

主な厩舎所属者

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※太字は門下生。括弧内は厩舎所属期間と所属中の職分。

出典・脚注

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  1. ^ 数字は中央競馬のみ。
  1. ^ a b c d 『優駿』1967年3月号、虫明亜呂無「騎手をたずねて 高橋成忠 - 馬よ約束を果たそう」pp.20-21
  2. ^ a b c d e f g h 伝説のジョッキー 第21回  気さくな勝負師 高橋成忠
  3. ^ a b c 芦谷有香『栗東厩舎探訪記(2)』(翔雲社、2000年)ISBN 978-4921140045、pp.8-11
  4. ^ 『日本中央競馬会50年史』日本中央競馬会、2005年7月、p533。
  5. ^ a b c 『優駿』2007年9月号、江面弘也「高橋成忠調教師インタビュー 勝つことが前提のフランス遠征」、「杉本清の競馬談義268 ゲスト高橋成忠調教師」p.92
  6. ^ 『優駿』1995年3月号、p.78
  7. ^ a b 山口進『名馬名騎手名勝負』(ダービーブックス、1971年)pp.136-137
  8. ^ 『優駿』2007年9月号、p.94
  9. ^ 中央競馬を振り返る 1994年10月
  10. ^ a b c d e 広瀬TMからの調査依頼(坂井直樹) – 競馬ブック コラム
  11. ^ メイショウバトラーに半弟が誕生”. 競走馬のふるさと案内所 (2010年10月12日). 2010年11月23日閲覧。
  12. ^ 『優駿』2007年9月号、p.29
  13. ^ 山口(1971)p.85

関連項目

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