小屋敷昭
小屋敷昭 | |
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基本情報 | |
国籍 | 日本 |
出身地 | 鹿児島県 |
生年月日 | 1961年3月4日(63歳) |
身長 | 162cm |
体重 | 54kg |
血液型 | A型 |
騎手情報 | |
所属団体 | 日本中央競馬会(JRA) |
所属厩舎 |
栗東・夏村辰男(1981 - 1985) 栗東・フリー(1985 - 1996) 栗東・大根田裕也(1996 - 1999) 栗東・白井寿昭(1999 - 2000) |
初免許年 | 1981年3月1日 |
免許区分 | 平地(初期は障害免許も保持) |
騎手引退日 |
2000年2月29日 2000年2月27日(最終騎乗) |
重賞勝利 | 2勝 |
通算勝利 | 237勝 |
小屋敷 昭(こやしき あきら、1961年3月4日 - )は、鹿児島県出身の元騎手・調教助手。
経歴
[編集]1981年3月1日に栗東・夏村辰男厩舎からデビューし、阪神第1競走アラブ系4歳以上オープン・ヒミノタカ(7頭中4着)で初騎乗を果たすと、同14日の阪神第4競走障害5歳以上勝入400万下・ブゼングランプリで初勝利を挙げる[1] [2] [3]。障害はこの1勝に終わるが、1年目の同年は平地40勝を挙げて[4]計41勝[5]をマークし、関西の新人賞に当たる関西放送記者クラブ賞と優秀騎手賞を受賞[6]。1977年に舞原昌博が挙げた32勝を上回り、1987年に武豊(69勝)が更新するまで関西新人最多勝記録であった[7]。
2年目の1982年には平地のみで32勝[8] [5]を挙げ、阪神で行われた小倉大賞典・北九州記念では共にタマトップで3着[9]、京都で行われた小倉3歳ステークスではユーショウキングで2着[10]に入る。同年からはアラブのスリーキャプテンで2度のレコード勝ちを含む4連勝をマークし、3年目の1983年にはタマツバキ記念で人馬共に重賞初制覇[3][11]を挙げるが、同年は13勝、1984年は初の1桁台となる8勝(平地7勝, 障害1勝)[12] [5]に終わる。
1985年からはフリーとなり、5月6日の京都第12競走5歳以上900万下・スズカロードで通算100勝を達成[13]。ニュージーランドT4歳ステークスでは12頭中12番人気のイズミスターに騎乗し、同じく関西馬で逃げるマルヨプラードの2着に突っ込む[14]。直線では広瀬伸一(当時・ラジオたんぱアナウンサー)が「関西2騎の決戦だ!」と表現し、枠連7-7は14510円[14]の波乱となったが、関西圏での馬券発売はなく、結果もスポーツ紙の片隅に載る程度であった。井崎脩五郎は同レースを当てた男が、その金で英国ダービーを見に行って、エプソム競馬場の最終コーナーの丘の上に、漢字で『馬頭観世音菩薩』と刻まれた石碑を発見、その謎を大英博物館のハートフル家・文書室に探りにいくという短編小説を書いており、題名は大江健三郎『万延元年のフットボール』を捩って「万延元年のホースレース」と付けている[15]。
1985年にはコーリンオーとのコンビでスワンステークスを5連勝で制し[16]サラ系重賞初勝利[3]をマークするが、日高大洋牧場にも重賞初制覇をもたらした[17]。マイルチャンピオンシップでは前哨戦を制してニホンピロウイナーの好敵手に名乗りを挙げたが[18]、管理する白井寿昭厩舎のGI初出走[19]となった本番では連覇したニホンピロウイナーに完敗。同馬では1985年のCBC賞、1986年の京王杯スプリングカップ・スワンS、1987年のスプリンターズステークスで3着に入るなど短距離路線で活躍し[16]、1986年のフリーハンデではダイナフェアリー・トウショウペガサスと並ぶ55kgを与えられている[20]。
1987年からは平地の騎乗に専念し、1989年と1990年には2年連続、1992年から1994年には3年連続で10勝台の2桁勝利を記録[5]。その間の1991年にはプリティハットでマイラーズカップに騎乗し、ダイタクヘリオスに5馬身離されたもののイクノディクタスを抑えて2着に入る[21]。
1993年9月4日の小倉第3競走4歳未勝利・リンデンローマンで200勝を達成し[22]、1994年にはホクセツギンガでダイヤモンドステークス3着[23]に入るが、1994年の11勝が自身最後の2桁[5]となった。
1996年には大根田裕也厩舎所属となり、同年は小倉戦6勝を含む9勝[24]をマーク。
1999年には白井厩舎に移籍するが、同年に挙げた3勝は全て大根田が管理するアレグラール[25] [26] [27]で記録[28]。
2000年は2月12日の小倉第4競走4歳未勝利・オースミロッキーで最後の勝利[29]を挙げ、最終騎乗となった阪急杯[30]ではブラックホーク・メジロダーリング・マサラッキ・スギノハヤカゼと好メンバーが揃う中、リザーブユアハートで逃げて見せ場を作って8着[31]であった。同年引退[3]。
引退後も白井厩舎で調教助手を務め、白井の定年後は奥村豊厩舎の調教助手として、ディアンドルを担当[32]。
騎手成績
[編集]通算成績 | 1着 | 2着 | 3着 | 4着以下 | 出走回数 | 勝率 | 連対率 |
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平地 | 233 | 210 | 258 | 1845 | 2546 | .092 | .174 |
障害 | 4 | 3 | 6 | 6 | 28 | .143 | .250 |
計 | 237 | 213 | 264 | 1850 | 2574 | .092 | .175 |
主な騎乗馬
[編集]- スリーキャプテン(1983年タマツバキ記念)
- コーリンオー(1985年スワンステークス)
脚注
[編集]- ^ 小屋敷昭の近走成績 | 騎手データ - netkeiba
- ^ 小屋敷昭のプロフィール | 騎手データ - netkeiba
- ^ a b c d JRAホームページ|データファイル|騎手・調教師データ
- ^ 抽出[1981年度 1着レース]|小屋敷昭の騎手成績|競馬データベース - netkeiba.com
- ^ a b c d e 小屋敷昭の年度別成績 | 騎手データ - netkeiba
- ^ 平成30年度「中央競馬関西放送記者クラブ賞」の決定について
- ^ 島田明宏『誰も書かなかった 武豊 決断』徳間書店、2017年10月、ISBN 978-4-19-894259-5、p35-37
- ^ 抽出[1982年度 1着レース]|小屋敷昭の騎手成績|競馬データベース - netkeiba.com
- ^ タマトップ (Tama Top) | 競走馬データ - netkeiba
- ^ 小倉3歳ステークス|1982年9月5日 | 競馬データベース - netkeiba
- ^ スリーキャプテン (Three Captain) | 競走馬データ - netkeiba
- ^ 抽出[1984年度 1着レース]|小屋敷昭の騎手成績|競馬データベース - netkeiba.com
- ^ 抽出[通算 1着レース]|小屋敷昭の騎手成績|競馬データベース - netkeiba.com
- ^ a b NZT4歳S|1985年5月25日 | 競馬データベース - netkeiba
- ^ 【井崎脩五郎のおもしろ競馬学】亜流を生んだ大江健三郎さんの名作
- ^ a b コーリンオー (Korin O) | 競走馬データ - netkeiba
- ^ 名牝シラオキの血を紡いできた生まれ故郷を襲った悲劇 スペシャルウィーク (下)
- ^ [マイルCS]タイキシャトルにダイタクヘリオス……マイルCSを連覇した名マイラーたち。
- ^ 白井寿昭のプロフィール | 調教師データ - netkeiba
- ^ Untitled
- ^ 読売マイラーズカップ|1991年2月24日 | 競馬データベース - netkeiba
- ^ 抽出[通算 1着レース]|小屋敷昭の騎手成績|競馬データベース - netkeiba.com
- ^ ダイヤモンドS|1994年1月31日 | 競馬データベース - netkeiba
- ^ 抽出[1996年度 1着レース]|小屋敷昭の騎手成績|競馬データベース - netkeiba.com
- ^ 4歳未勝利|1999年3月20日 | 競馬データベース - netkeiba
- ^ 西脇特別|1999年9月12日 | 競馬データベース - netkeiba
- ^ 4歳以上900万下|1999年10月3日 | 競馬データベース - netkeiba
- ^ 抽出[1999年度 1着レース]|小屋敷昭の騎手成績|競馬データベース - netkeiba.com
- ^ 抽出[通算 1着レース]|小屋敷昭の騎手成績|競馬データベース - netkeiba.com
- ^ 小屋敷昭の近走成績 | 騎手データ - netkeiba
- ^ 阪急杯|2000年2月27日 | 競馬データベース - netkeiba
- ^ 3歳牝馬ディアンドル 歴戦古馬の鼻明かす/トレセン発秘話 | 競馬ニュース - netkeiba