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また、[[第44回日本レコード大賞|第44回]](2002年)からCS放送・[[TBSチャンネル]]で過去に放送された回をその年の放送分につき1回(2008年以降2回以上)限りではあるが毎年12月に再放送を行っている<ref group="注"> TBSに現存している第10回(1968年)以降の放送分。CMはカットされるが、年によってはその部分には地上波で今年放送される回の5 - 15秒の番宣が挿入されている場合もある。過去には編成の関係で年明けの1月に放送されたこともある。</ref>。 |
また、[[第44回日本レコード大賞|第44回]](2002年)からCS放送・[[TBSチャンネル]]で過去に放送された回をその年の放送分につき1回(2008年以降2回以上)限りではあるが毎年12月に再放送を行っている<ref group="注"> TBSに現存している第10回(1968年)以降の放送分。CMはカットされるが、年によってはその部分には地上波で今年放送される回の5 - 15秒の番宣が挿入されている場合もある。過去には編成の関係で年明けの1月に放送されたこともある。</ref>。 |
2021年4月13日 (火) 10:07時点における版
日本レコード大賞 THE JAPAN RECORD AWARD | |
---|---|
発表会会場の新国立劇場 | |
受賞対象 | 優れた楽曲・歌手 |
会場 | 新国立劇場・中劇場(2004年より) |
国 | 日本 |
主催 | 日本作曲家協会 |
初回 | 1959年12月27日 |
最新回 | 2020年12月30日 |
公式サイト | http://jacompa.or.jp/record.html |
輝く!日本レコード大賞 | |
---|---|
ジャンル | 音楽番組 / 特別番組 |
エンディング | その年の大賞受賞曲 |
製作 | |
制作 | TBSテレビ |
放送 | |
音声形式 | ステレオ放送(1978年より) |
放送国・地域 | 日本 |
放送期間 | 1959年12月27日 - |
回数 | 62 |
公式サイト | |
特記事項: 詳細に関しては#放送を参照 |
輝く!日本レコード大賞 | |
---|---|
放送局 | TBSラジオ |
特記事項: 放送回数・時間・内容などはテレビと同一 |
『日本レコード大賞』(にほんレコードたいしょう、英: THE JAPAN RECORD AWARDS)は、スポーツ紙を含む各新聞社の記者が中心となって決定する音楽に関する賞である[注 1]。
略称は「レコ大」(レコたい)。主催は公益社団法人日本作曲家協会、後援はTBSである。TBSテレビ・TBSラジオとその系列局が放送し、番組名は『輝く!日本レコード大賞』(かがやく にほんレコードたいしょう)[注 2]。
概要
1959年に創設され[注 3]、1970年代から80年代にかけて、テレビにおける歌番組の隆盛と共に最盛期を迎えた。しかし、レコード会社や事務所の力関係により受賞者が決まっているとの指摘もあり[1][2]、賞レースに左右されない音楽活動をしたいことなどを理由に、受賞そのものを辞退する有力アーティストが1990年代から増えるようになった(福山雅治、B'z、Mr.Children、ジャニーズ事務所所属歌手など)。
これにより賞の権威は大きく低下した[2]。また,第36回(1994年)には大賞受賞者がMVの撮影で渡豪していたため,授賞式に出席しないという異例の事態となった。それ以降、歌手が受賞を辞退した場合または歌手がその年に死去した場合、その楽曲は大賞受賞曲とはならない。
審査委員
沿革
賞の創設
戦後の日本の音楽界においては、ジャズ、ロカビリーなど米国由来の新しいジャンルが流れ込んできており、若者世代から熱狂的な支持を受けていた。一方で音楽界の主流を占めているのは戦前から続く歌謡曲で、大手のレコード会社が専属の作家に売れ筋の曲を書かせ、発売するという寡占状態が成立していた。結果、年配世代がレコードを通じて歌謡曲を、若者世代がコンサートを通じて新音楽をそれぞれ支持するという世代間の空白が生じていた[3]。
1959年、古賀政男、服部良一らの主導で、レコード会社所属の作曲家による親睦団体『日本作曲家協会』が設立される。古賀、服部らは、世代間のギャップを超えた「新しい日本の歌」を生み出すべく、ジャンルを問わずにその年の日本を代表する歌を選出するグランプリを開催することを目指す。範としたのは、前年に米国で始まったグラミー賞である[4]。
しかし古賀らの動きは音楽界の主流派の非協力という形で抵抗を受ける。共催を申し込んだ社団法人日本蓄音機レコード文化協会(現・日本レコード協会)には断られ、レコード会社はビクター以外の協力は得られなかった。大手新聞社の音楽記者会は事態を警戒して初年度の審査への参加を留保して、テレビ各社はラジオ東京テレビ(現・TBS)のみが賛意を示した(これが縁で、レコード大賞の放送はTBSで行われている)。運営委員長を引き受けた古賀は参加者の不安を抑えるために私財を投げ打ってでも必ず実施すると宣言し、実際に赤字分を個人負担せざるを得なかった[5]。
草創期
古賀の自腹によってどうにか開催された第1回レコード大賞で大賞を受賞したのは、ロカビリー系の「黒い花びら」、歌手は本作でデビューの水原弘、作詞は放送作家の永六輔、作曲はジャズ奏者として一世を風靡した中村八大という、主流の歌謡曲とはかけ離れた組み合わせであった。後に作詞家として大成した永は後年、第1回の大賞を権威ある作品ではなく全く無名人の作品にしたことを、「審査員の良識だったと思う」と述懐している[6]。
以降も新ジャンルからの受賞が相次ぎ、受賞曲がヒット、受賞者が売れっ子のヒットメーカーになるにしたがって、日本の音楽界のボーダーレス化が進んでゆく。古賀らが立ち向かったレコード会社の専属作家制度は、1970年頃には姿を消した[7]。初めの数年は賞自体の知名度が低く[注 5]、放送時間は年末の昼間、会場も神田共立講堂など小規模の会場であった。
黄金期
1969年、第11回から番組の構成を一新する。大晦日の『NHK紅白歌合戦』が始まる前の19:00-21:00に本選を開催・生中継する様になり、カラーでの全国放送を開始、更に会場を帝国劇場に移し、司会には高橋圭三を起用した。更に伴奏にはビッグバンドと当時の常識ではあり得ない規模のストリング・オーケストラ(弦楽合奏団)、各種管打楽器(オーボエ、ホルン、ティンパニなど)、それに合唱団が並び、長洲忠彦が永らく指揮者を務めた。
演出に力を注ぎ、更に国民的番組であった紅白歌合戦と時間帯が連続することにより、賞のネームバリューが上昇、視聴率も紅白と肩を並べるほどになる[注 6]。また、本賞の人気に刺激され、『日本歌謡大賞』をはじめ、民放各局で音楽賞が次々制定されるようになった。
賞の権威は確固たるものとなったが、賞の創設に関わった服部良一は1974年頃、権威の上昇と比例して賞の商業的な付加価値が高まり、レコード会社の賞とり合戦の過熱と作品の質よりも人気が先行する傾向が相乗し、更にこれが審査の不透明さを巡る黒い噂を生じさせていることを懸念していた。
ホイチョイ・プロダクションズのテレビ解説本「OTV」ではこの件に触れており、「(当時の選考委員だった)荻昌弘さんはレコード会社やプロダクションの間できわめて評判が悪い。なぜならあの人はマジでいい曲、巧い歌手に投票してしまうからだ。」と評している[10]。また、同著では第26回(1984年)の新人賞を辞退した菊池桃子を例に出し、乱立する賞レースが負担となりボイコットする歌手が出てきたことを指摘している[11]。
衰退期
1980年代には台頭してきたニューミュージックを中心に音楽の権威に対する考え方の変化が起こり、賞レースに左右されない音楽活動をしたいことなどを理由に、受賞そのものを辞退する有力アーティストが増えるようになり、賞の権威は低下し始める。
第27回(1985年)から会場を日本武道館に移し、授賞式の華やかさを増すことでテコ入れを図るも視聴者離れの歯止めが効かず、第28回(1986年)で視聴率が30%を割り込む。
1989年、紅白歌合戦が放送開始時刻を19時台に引き上げることによって紅白が裏番組になり、視聴者を奪われると同時に歌手のやり繰りにも苦労するようになる。この年を境に視聴率は一気に20%を割り込む。
第32回(1990年)から大賞を「ポップス・ロック部門」と「歌謡曲・演歌部門」に分割し、視聴者による電話投票の導入するなど打開策を講じたが、大賞のジャンル分けでレコード会社の認識との食い違いが生じるなど問題が生じ、また電話投票は組織票が問題視され、第35回(1993年)で廃止された[12]。
第36回(1994年)では、大賞を受賞したMr.Childrenが欠席するという異例の事態になる。大賞受賞者が欠席したのはこの1回のみ。この年から会場がTBS放送センターに移る。
第46回(2004年)からは紅白歌合戦や『年忘れにっぽんの歌』の出演でNHKホール(渋谷区)や新宿コマ劇場(新宿区)とを移動する出演者への配慮で、会場を新国立劇場(渋谷区)に移した。
第47回(2005年)には視聴率が過去最低の10.0%を記録。常連だったスポンサーの多くが降板し、スポンサー枠自体が縮小されるに至った。第48回(2006年)から裏番組とのバッティングの弊害を解消すべく、開催日を1日繰り上げて12月30日に変更した[13]。同時に放送時間を拡大し、過去の受賞曲で構成される事前番組が放送されるようになった。
年別詳細
1950年代 1959
1960年代 1960 - 1961 - 1962 - 1963 - 1964 - 1965 - 1966 - 1967 - 1968 - 1969
1970年代 1970 - 1971 - 1972 - 1973 - 1974 - 1975 - 1976 - 1977 - 1978 - 1979
1980年代 1980 - 1981 - 1982 - 1983 - 1984 - 1985 - 1986 - 1987 - 1988 - 1989
1990年代 1990 - 1991 - 1992 - 1993 - 1994 - 1995 - 1996 - 1997 - 1998 - 1999
2000年代 2000 - 2001 - 2002 - 2003 - 2004 - 2005 - 2006 - 2007 - 2008 - 2009
2010年代 2010 - 2011 - 2012 - 2013 - 2014 - 2015 - 2016 - 2017 - 2018 - 2019
2020年代 2020
回 | 年 | 日 | 司会者 | 会場 | 平均視聴率 | |||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
男性 | 女性 | 補助 | ||||||
1 | 1959 | 12月27日 | 鶴田全夫 | 不在 | 不在 | 文京公会堂 | 記録なし | |
2 | 1960 | 12月30日 | 芥川隆行 | 神田共立講堂 | ||||
3 | 1961 | 12月28日 | ||||||
4 | 1962 | 12月27日 | 日比谷公会堂 | 10.8% | ||||
5 | 1963 | 20.7% | ||||||
6 | 1964 | 12月26日 | 14.6% | |||||
7 | 1965 | 12月25日 | 三木鮎郎 | 神田共立講堂 | 14.2% | |||
8 | 1966 | 12月24日 | 日比谷公会堂 | 13.5% | ||||
9 | 1967 | 12月16日 | 渋谷公会堂 | 12.5% | ||||
10 | 1968 | 12月21日 | 10.3% | |||||
11 | 1969 | 12月31日 | 高橋圭三 | (浅丘ルリ子) | 帝国劇場 | 30.9% | ||
12 | 1970 | (佐良直美) | (堺正章、加藤茶) | 36.7% | ||||
13 | 1971 | 山本陽子 | (沢田雅美) | 36.3% | ||||
14 | 1972 | 森光子 | 46.5% | |||||
15 | 1973 | 玉置宏 | 44.1% | |||||
16 | 1974 | 小川哲哉 | 45.7% | |||||
17 | 1975 | 43.0% | ||||||
18 | 1976 | 不在 | 41.9% | |||||
19 | 1977 | 高橋圭三 久米宏 |
黒柳徹子 | (小島一慶) | 50.8% | |||
20 | 1978 | 不在 | 42.9% | |||||
21 | 1979 | 高橋圭三 | 檀ふみ | 43.3% | ||||
22 | 1980 | 高橋圭三 渡辺謙太郎 |
中田喜子 | 34.3% | ||||
23 | 1981 | 竹下景子 | 35.3% | |||||
24 | 1982 | 高橋圭三、児玉清 | (松宮一彦) | 31.3% | ||||
25 | 1983 | 高橋圭三 | 松宮一彦 | 32.7% | ||||
26 | 1984 | 森本毅郎 | 不在 | 30.4% | ||||
27 | 1985 | 倍賞美津子 | 日本武道館 | 31.4% | ||||
28 | 1986 | 竹下景子 | 29.8% | |||||
29 | 1987 | 関口宏 | 三雲孝江 | 29.4% | ||||
30 | 1988 | 21.7% | ||||||
31 | 1989 | 板東英二 | 楠田枝里子 | 14.0% | ||||
32 | 1990 | 和田アキ子 | 12.5% | |||||
33 | 1991 | 布施明、石田純一 | 黒柳徹子 | 山本文郎 | 14.7% | |||
34 | 1992 | 神田正輝 | 15.1% | |||||
35 | 1993 | 宮本亜門 | 牧瀬里穂 | 13.3% | ||||
36 | 1994 | TBS放送センター | 15.3% | |||||
37 | 1995 | 西田敏行、中山秀征 | 渡辺真理 | 不在 | 17.2% | |||
38 | 1996 | 堺正章 | 飯島直子 | 雨宮塔子 | 16.6% | |||
39 | 1997 | 草野満代 | 16.5% | |||||
40 | 1998 | 江角マキコ | 18.5% | |||||
41 | 1999 | 黒木瞳 | 進藤晶子 | 14.1% | ||||
42 | 2000 | 14.0% | ||||||
43 | 2001 | 米倉涼子 | 安住紳一郎 | 小倉弘子 | 14.0% | |||
44 | 2002 | 菊川怜 | 13.3% | |||||
45 | 2003 | 不在 | 12.7% | |||||
46 | 2004 | 伊東美咲 | 小林麻耶 | 新国立劇場中劇場 | 10.4% | |||
47 | 2005 | 綾瀬はるか | 10.0% | |||||
48 | 2006 | 12月30日 | 蛯原友里 押切もえ |
17.0% | ||||
49 | 2007 | 16.8% | ||||||
50 | 2008 | 上戸彩、松下奈緒 | 16.9% | |||||
51 | 2009 | 藤原紀香 | 枡田絵理奈 加藤シルビア |
13.5% | ||||
52 | 2010 | 15.0% | ||||||
53 | 2011 | 14.9%[14] | ||||||
54 | 2012 | 安住紳一郎 | 新垣結衣 | 枡田絵理奈 | 吉田明世[15] | 16.6%[16][17] | ||
55 | 2013 | 上戸彩 | 17.6% | |||||
56 | 2014 | 仲間由紀恵 | 15.6% | |||||
57 | 2015 | 江藤愛 | 13.0%[18] | |||||
58 | 2016 | 天海祐希 | 宇内梨沙 | 14.5%[19] | ||||
59 | 2017 | 古谷有美 | 14.4%[20] | |||||
60 | 2018 | 土屋太鳳 | 16.7%[21] | |||||
61 | 2019 | 江藤愛 | 14.0%[22] | |||||
62 | 2020 | 吉岡里帆 | 16.1%[23] |
- 視聴率はビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム。赤数字は最高視聴率で、青数字は最低視聴率。
- 第1回 - 第3回の視聴率はビデオリサーチ設立前につき記録なし。
- 第4回 - 第44回の視聴率の出典は『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』134-135頁。
- 通常アナウンサーは同授賞式では進行役となる事が一般だが第29・30回(1987・1988年)の三雲については進行役という扱いでなく男性司会と同等の位置付けがなされていたため、ここでは女性司会の欄に記載する事とする。
- 19:00を境とした2部制で放送した年は、第2部の数値を示してある。
ラジオ中継実況
- ? - 第40回(1998年):松宮一彦(TBSアナウンサー→フリーアナウンサー)[注 7]
- 第41回 - 第49回(1999年 - 2007年):小島一慶(元TBSアナウンサー)
- 第50回 - 第53回(2008年 - 2011年):向井政生(TBSアナウンサー)
- 第51回(2009年):新井麻希(当時TBSアナウンサー)
- 第54回 - (2012年 - ):駒田健吾(TBSアナウンサー)[24]
出演者補足
- 司会者は第11回(1969年)から第25回(1983年)まで高橋が長く務めていたがその後は幾度か司会者が変更され、第38回(1996年)から第53回(2011年)までは堺が務めていた。アシスタントにはその年の人気女優やTBSのアナウンサーなどが選ばれている。また、最近は番組の途中で司会者全員衣装を変えるのが恒例となっている。審査会場や他のライブ会場からのリポート担当、曲ナレーションのみのために声だけ出演をするアナウンサーなども回によっては存在する。
- ナレーションは第41回(1999年)から第51回(2009年)までケイ・グラントが担当しているが、第48回(2006年)のみ大塚明夫が担当した。第52回(2010年)から第54回(2012年)までは古野顕一が担当し、第55回(2013年)からはジョン・カビラが担当。
- 第11回(1969年)の浅丘と第12回(1970年)の佐良直美は厳密には「特別ゲスト」扱いとしての出演だが、実質的には高橋のアシスタントとしての役割を務めた。また第12回(1970年)の堺・加藤、第13・14回(1971・1972年)の沢田雅美、第24回(1982年)の松宮一彦アナ、第19回(1977年)の小島については観客へのインタビュー役を担当するための司会補佐として出演した。
- 第19回(1977年)より高橋は授賞式の進行一切を統括する「総合司会」として別のMC席から式全般の進行統括、最優秀歌唱賞・大賞・最優秀新人賞等の受賞者発表等を行い、高橋の下に更に「司会」としてもう1人の男性司会者と女性司会がコンビとなって歌手へのインタビュー、各部門賞受賞者発表等を行う形式になっていた。なお、それ以外の年(第21・25回(1979・1983年))もMC席には高橋1人が常在し、女性司会はインタビューなどのある際にその都度登場するパターンで進行され、厳密には一般的な男女ペア形式での司会とは異なる形となっていた。
各賞
各賞受賞者には東郷青児作の楯が授与される(写真を参照)[注 8]。
- 「日本レコード大賞」
- 対象年度に発売されたすべての邦楽シングルCDの中で「作曲、編曲、作詩を通じて芸術性、独創性、企画性が顕著な『作品』」、「優れた歌唱によって活かされた『作品』」、「大衆の強い支持を得た上、その年度を強く反映・代表したと認められた『作品』」、以上3点に該当する『1作品』に贈る[25]。そのため、賞の授与対象は対象曲を歌唱した歌手に限らず作詞・作曲・編曲者・所属プロダクション・所属レコード会社が対象になる。審査対象は、「優秀作品賞」に選ばれた『作品』とする。
- 過去には副賞としてテレビ番組スポンサーの1社(自動車メーカー)から車が贈られた。
- 歴代最多の大賞受賞アーティストは、4回のEXILEである。
- 「最優秀歌唱賞」
- 対象年度内の作品を最も的確に表現し、さらに高めた『歌手』に贈る。審査対象は「金賞」に選ばれた作品の歌手としていたが、第50回(2008年)からは11月下旬から12月上旬にかけて行われる選考委員会で決定されることになった。放送では番組の後半に集中させる。歌唱の際には近年の音楽番組では減少傾向にあるオーケストラの生演奏がある。
- 「優秀作品賞」 (旧名:金賞、ゴールド・ディスク賞)
- 大衆の強い支持を得て作品としても芸術性・独創性に優れ、その年度を反映したと認められた『作品』に贈る。「金賞」や「ゴールド・ディスク賞」という名称が使われていた時期もあったが、第50回(2008年)からは「優秀作品賞」に変更された。
- 「最優秀新人賞」
- 「新人賞」の中から最も優秀と認められた『歌手』に贈る。
- 「新人賞」
- 対象年度内に於いてデビュー(初めて芸能活動として歌う)し大衆に支持され、将来性を認められた『歌手』に贈る。放送では番組の前半に放送される。この賞を受賞した歌手のみ司会者との絡みが一切無く、紹介VTRと楽曲披露のみとなる。
- 「作詩賞」「作曲賞」「編曲賞」
- 特に作詩・作曲・編曲の分野で独創的であると認められた『作品・作者』に贈る。作詞賞を「西条八十賞」、作曲賞を「中山晋平賞」としていた時期もある。
- 「企画賞」
- 独創的な企画意図をもって製作され、それによって成果を上げ大衆音楽に大きな貢献をした『作品』(ミュージックビデオを含む)に贈る。
- 「功労賞」
- 長年に亘りレコードやCDを中心とする音楽活動を展開し、日本音楽界に大きな貢献をした『者』に贈る。
- 「特別賞」
- 対象年度に於いて社会的に最も世の中を賑わせ注目された『人』、『楽曲』、『作品』、『現象』などに贈る。その他にも年によって特別な賞が設けられる場合がある。
- 「特別功労賞」
- 長年に亘り音楽活動・評論活動を展開し、音楽界に大きな貢献をした『故人』に贈る。
- 「日本作曲家協会選奨」
- 第48回(2006年)から「日本作曲家協会奨励賞」として新設された賞。日本作曲家協会が日本の心を伝え未来のある実力ある『歌手』に期待を込めて贈る賞。第56回(2014年)からは、魅力的な歌唱で大衆の支持を集めている『歌手』も受賞対象になると同時に、現在の賞名に変更。
- 「優秀アルバム賞」
- 対象年度に発売されたすべての邦楽アルバムCDの中で芸術性・独創性に優れ、その年度を強く反映・代表したと認められた『作品』に贈られる。
- 「最優秀アルバム賞」
- 優秀アルバム賞該当の中から最も優れた『作品』に贈られる。
- 「特別映画音楽賞」「特別歌謡音楽賞」
- 社会的に世の中を賑わせ、注目された『音楽作品(特別映画音楽賞は映画音楽作品)』・『人』に贈られる。第56回(2014年)から新設。
過去に存在した各賞
- 「童謡賞」
- 第1回(1959年)から第15回(1973年)まで子供向けの童謡やアニメソングに与えられた賞だった。建前としてはレコード大賞を童謡が受賞した際には「歌謡曲賞」を設けることになっていた[26]が、結局「歌謡曲賞」が設けられることはなかった。ザ・テンプターズの『おかあさん』がヒットした際には、同曲も「童謡賞」の対象にすべきかという議論があったという[27]。第16回(1974年)にヤングアイドル賞の導入により廃止された。そのヤングアイドル賞も1回限りで廃止された。
- 「歌唱賞」
- 優れた歌唱によって活かされた作品に贈られる賞として定義され、文字通り歌手の歌唱力を評価したものである。作詩賞、作曲賞、編曲賞と共に第1回(1959年)から設けられた賞である。第11回(1969年)からは最優秀歌唱賞が設けられその候補としての位置付けとなり、さらに第19回(1977年)までは大賞の最有力候補としての位置付けでもあった(第17回(1975年)から第19回(1977年)までの3年間は大賞候補10組作品の中から歌唱賞5組作品が選出され、さらにその中から大賞と最優秀歌唱賞が決定された)。第20回(1978年)からは金賞の導入により廃止された。
- 「大衆賞」
- 第11回(1969年)から第19回(1977年)まで、大衆に支持された歌手や楽曲に与えられた賞だった。当初は歌唱賞と同様に大賞候補としての位置付けだったが、第17回(1975年)からは大賞候補の枠外の位置付けとなった。第47回(2005年)に1度だけ復活した。
- 「特別大衆賞」
- 1980年に引退した山口百恵のそれまでの実績を称え与えられた(第22回・1980年)。他に都はるみ(第26回・1984年)、中森明菜、瀬川瑛子(ともに第29回・1987年)が受賞している。
- 「ゴールデン・アイドル賞」
- 第23回(1981年)から第25回(1983年)までデビュー2年目に顕著な活躍をした歌手に与えられた。
- 「ベストアルバム賞」「アルバム大賞」
- 対象年度に発売されたすべての邦楽アルバムCDの中で最も芸術性・独創性に優れ、その年度を強く反映・代表したと認められた作品に贈る。第50回(2008年)からは優秀アルバム賞・最優秀アルバム賞として復活。
- 「吉田正賞」
- 作曲家・吉田正の偉大な業績を記念し伝統的な日本の歌を充実させ、前進させた作曲家に贈る。
- 「美空ひばりメモリアル選奨」
- 歌手・美空ひばりが戦後日本の社会、歌謡史に残した偉大な業績を称え、それを記念するに相応しい豊かな魅力と力量を持った歌手に贈る。初めて制定された第31回(1989年)当初は「美空ひばり賞」だったが、第35回(1993年)に「美空ひばりメモリアル選奨」に変更、第42回(2000年)を以て最後となる。
- 「ロングセラー賞」
- 第21回(1979年)に新設された賞。その頃、金賞(現在の「優秀作品賞」)に選ばれていたのは、前年11月下旬 - 当年11月中旬に発売されたレコードに限られていたが、1979年には「夢追い酒」(渥美二郎)、「花街の母」(金田たつえ)、「みちづれ」(牧村三枝子)、「北国の春」(千昌夫)といった、発売されて数年経っている曲が立て続けに大ヒットしたため、この賞が新設された。その年の金賞の対象期間より前に発売され、その年に売上(通算)が100万枚に達したレコードに贈られていた。その後も「ロングセラー賞」は毎年選出されていたが、第25回(1983年)を最後に消滅。
歴代大賞受賞曲
※第32 - 34回(1990 - 1992年)は歌謡曲・演歌部門とポップス・ロック部門
- それ以外の各部門賞受賞曲については各回の項を参照。
三冠達成者
レコード大賞の主要な賞である大賞、最優秀新人賞(第10回以前は新人賞)、最優秀歌唱賞(第10回以前は歌唱賞)の3賞をすべて獲得している歌手は、2013年現在以下の5人となっている(三冠達成順、新人賞・最優秀新人賞以外は初受賞回を記載)。
- 都はるみ:第6回新人賞(アンコ椿は恋の花)、第18回大賞(北の宿から)、第22回最優秀歌唱賞(大阪しぐれ)
- 細川たかし:第17回最優秀新人賞(心のこり)、第24回大賞(北酒場)、第26回最優秀歌唱賞(浪花節だよ人生は)
- 北島三郎:第4回新人賞(なみだ船)、第28回最優秀歌唱賞(北の漁場)、第33回大賞(北の大地)
- 氷川きよし:第42回最優秀新人賞(箱根八里の半次郎)、第45回最優秀歌唱賞(白雲の城)、第48回大賞(一剣)
- 近藤真彦:第23回最優秀新人賞(ギンギラギンにさりげなく)、第29回大賞(愚か者)、第52回最優秀歌唱賞(心 ざんばら)
大賞の副賞変遷
- 第12回(1970年)-第13回(1971年)・第15回(1973年):セリカ(トヨタ自動車)
- 第14回(1972年):世界一周旅行
- 第16回(1974年)-第27回(1985年):クラウン(トヨタ自動車)
- 第28回(1986年):ルーチェ(マツダ)
放送
発表の模様はテレビ(TBS系 (JNN) 地上波全国28局ネット)とラジオ(JRN全国17局ネット)で生中継されている(第42回(2000年)から第47回(2005年)まではTBS系BSデジタル放送のBS-i(現・BS-TBS)でも放送されていた)。
また、第44回(2002年)からCS放送・TBSチャンネルで過去に放送された回をその年の放送分につき1回(2008年以降2回以上)限りではあるが毎年12月に再放送を行っている[注 13]。
TBSに現存する映像はモノクロ放送の最後となった第10回(1968年。開催会場は渋谷公会堂)が最古である[注 14]。これ以前の本選の模様はニュース映像の一部、写真、ラジオの音声のみが現存し、第11回(1969年)以降はすべて鮮明なカラー映像の完全版VTRが現存している。
第20回(1978年)からTBSの音声多重放送の開始に伴い、テレビでのステレオ放送が始まった。以降、すべてステレオ放送となる。
TBSラジオでは、テレビがCMや過去の受賞作のVTRが流れている間はTBSラジオの放送開始時間までに披露された楽曲をディレイ放送したり、ラジオ独自のインタビュー音声を流している。
テレビでのネット局
JNN系列で第47回(2005年)まで12月31日にネットして来た番組であるが、以前はクロスネット局[注 15]が多く、JNN系列でも曜日によって他系列を同時ネットしている局も多くあった。その反面、JNN系列以外でも曜日によってJNNを同時ネットしている局もあり、番組をネットした局もあった。先発局でJNN系列局が以前金曜日の19:30 - 21:00枠で日本テレビを同時ネットしている局が多数あったり水曜日の20:00 - 21:30(その後19:30 - 21:00)の枠、土曜日の19:30 - 22:00枠、日曜日の19:00 - 21:00枠が日本テレビ同時枠だったりした局があった。
静岡放送では、放送日が金曜日だった第13回(1971年)に番組をネットせず、日本テレビ系の番組を同時ネットした。また南海放送(愛媛県。日本テレビ系)では、木曜日にTBS系番組を同時ネットしていた年(1970年は20:00からの飛び乗りで、1981年は全編フルネットで放送)に限り同番組をネットしていた[注 16]。
近畿広域圏では1974年の第16回までは朝日放送(現:朝日放送テレビ)にてネット。翌年(1975年)の第17回から毎日放送でのネットになる。
福島県では、1971年の第13回から1982年の第24回まで福島テレビ(当時TBS系とフジテレビ系のクロスネット局[注 15]。現在はフジテレビ系)にネットされていたが、1983年の第25回からはTBS系新局として開局したテレビユー福島でのネットになる。
1978年・1980年はTV中継の同時ネット局のみロールスーパー方式(ネット局は略称・ロゴ出し)で紹介した。
2001-2005年の5年間は系列BSデジタル放送・BS-i(現・BS-TBS)でもサイマル放送が行われていた。
ラジオでのネット局
1978年(第20回)当時は20局以上ネットしていたが、2015年(第57回)は8局(うち、4局は途中飛び乗り)に留まっている。
JNN(テレビ)とJRN(ラジオ)との兼営局の一部が、テレビとラジオで同時放送している。なお、福井放送のように、テレビがJNN系列でない局が、ラジオだけで放送するケースもある。
青森放送(RAB)ではかつて『JRNナイター』を放送した曜日のみ途中飛び乗り放送していたが、現在は放送していない。
西日本放送(RNC)では1997年のJRN加入後も含めてネットする事はなかったが、2005年に初めてネットした。前述のRABと同様、JRNナイターの絡みから実現したものと思われる。こちらも現在は放送していない。
毎日放送では1975年ネットチェンジからテレビとラジオで同時放送されて来たが、2006年以降についてはラジオが自社制作枠の確保による編成上の理由で放送されなくなった。第54回(2012年)は再びネットしたが、第55回(2013年)以降は自社制作枠の確保のため、再び放送されなくなった。
LP
やらせ報道
やらせ疑惑
2014年に審査委員を務めるスポーツニッポンが、大賞決定と同時刻に受賞作品の詳細をネットニュースで配信したため、事前にどの作品が受賞するかわかっていたのではないか、という疑惑が生じた[28]。
この様な中、審査委員を務める産経新聞は2015年に自ら、「出来レースでは?」と題し、賞の存在意義に疑問を投げかける記事を同社のニュースサイトにて掲載した[2]。また、大賞常任実行委員で音楽家の富澤一誠はインタビューに対し、「賞レースの盛り上がりが、ファンには音楽業界の利益優先の『腐敗』や『出来レース』のように映るようになり、大衆から支持を失っていった」と認めた[2]。
やらせ暴露
2015年、レンタルチェーン店を展開するTSUTAYAが自社のニュースサイトにて、“特定のレコード会社や芸能事務所が審査委員に対して何らかの働きかけを行っている”とする音楽関係者の声を報じた[1]。この種の癒着は1970年代からあったとされるものの、審査委員の大半を新聞社とテレビ局の社員が占めるため、「報じない、報じられない」といった状態が続いてきたと、音楽評論家の麻生香太郎は指摘している[29]。
『週刊文春』2016年11月3日号においては、前年に大賞を受賞した三代目J Soul Brothersが買収によるものであったとの記事が掲載され、「年末のプロモーション業務委託書として」と書かれた当時の消費税込み1億800万円の請求書が公開された。このことについての三代目J Soul Brothersサイドからの反応は無く、事実は不明となっている[30]。
2017年、『週刊文春』でレコード大賞の最高責任者である制定委員長を務めた作曲家の叶弦大が、「大手芸能事務所バーニングプロダクション社長の周防郁雄がレコード大賞を私物化していること」を同誌に暴露し、やらせを認めるような発言をした。その中で、叶と周防が会食をした際に、周防が「叶さん、この業界はちょっと悪いくらいじゃないといけない」「レコード大賞は、新聞社13人の過半数、つまり7人の記者を押さえておけば、自分の獲らせたい歌手に決めることができるんだよ」と叶に対して吹聴したことも述べている。また過去に週刊新潮も、レコード大賞の審査委員である大手スポーツ紙記者・新聞記者・JNN系列局員等に対してバーニングが高価な品物や商品券を贈るなどの贈賄行為を働いており、中には受賞させたいとタレントの曲や映像が入った高価なiPodが送られてきたり、銀座や六本木のクラブでの接待を受けた者までいると報じている[31]。
2019年7月にジャニーズ事務所の創業者だったジャニー喜多川の訃報が報じられた際、多くのマスコミはジャニーの美談ばかりを紹介していたのに対し、音楽プロデューサーの福田裕彦は『アサヒ芸能』の取材に対して「もう25年以上前、既に「××にレコ大よこさなければ今後お前の局にはうちのタレントは一切出さない」の一言でレコ大放送の数日前に局の決定事項をひっくり返せた人です。綺麗事で生きていた人ではない」とレコード大賞においてジャニーも圧力をかけていたことを暴露している[32]。
脚注
注釈
- ^ ここでいう「レコード」とは「記録」という意味ではなく20世紀中盤から後半にかけて使われた音楽記録メディアのことである
- ^ 時期は不明だが、当初は「!」がなかった。民放では数少ないテレビ・ラジオの同時放送番組でもある
- ^ この年には、TBSテレビをキー局とするニュースネットワーク「JNN」も発足した。
- ^ 基本的には5社連盟構成局のみだが、年によっては5社連盟に次いで有力な立場にある東北放送・中国放送も加わる。
- ^ 水原弘は第1回のレコード大賞を受賞した際に「レコード大賞って何だ?」と言ったというエピソードがある[8]。また、美空ひばりが出演しても客席がガラガラだった事もあったという。
- ^ テレビ中継の最高視聴率(ビデオリサーチ調べ、関東地区・世帯・リアルタイム)は第19回(1977年)の50.8%[9]。
- ^ 松宮一彦は第39回(1997年)まではTBSアナウンサー。第40回(1998年)はこの年の6月にTBSを退社しフリーアナウンサーとしての担当。第41回(1999年)放送の直前に自殺。TBS時代の上司だった小島一慶が引き継ぐ形となった。
- ^ かつてはTBS賞として新制作協会員の吉田芳夫作のブロンズ像が贈られていた
- ^ 元々は1922年に吹き込まれ、1928年に、大ヒットした二村定一の楽曲で、1961年にフランク永井がカバーした。
- ^ 「矢切の渡し」は元々、ちあきなおみのシングル「酒場川」(1976年発売)のB面として発表された楽曲で、1982年には、ちあきのA面シングルとして発売されている。翌1983年に細川たかしがカバーし、レコード大賞を受賞した。
- ^ 現在の音源元はUPFRONT WORKS/ライスミュージック。
- ^ 現在の音源元はBeing group。
- ^ TBSに現存している第10回(1968年)以降の放送分。CMはカットされるが、年によってはその部分には地上波で今年放送される回の5 - 15秒の番宣が挿入されている場合もある。過去には編成の関係で年明けの1月に放送されたこともある。
- ^ 同年には開始10周年を記念した特別番組「10周年記念音楽会」(1968年12月28日放送)が放映され、それまでの各賞受賞者達が勢揃いした。この特番は鮮明なカラー映像の完全版VTRが現存している。この為、第9回以前の受賞曲の紹介では、この時の映像が使用されることが多い。
- ^ a b JNN系列局は排他協定の規則により、現在はクロスネットが禁止となっている。
- ^ 愛媛県では、1992年の第33回から、この年にTBS系新局として開局したあいテレビでネットされている。
出典
- ^ a b “2015年「日本レコード大賞」、“「三代目JSB」VS「AKB48」”といわれる理由”. TSUTAYA T-SITE NEWS. 2016年1月5日閲覧。
- ^ a b c d “国民的番組『レコ大』の存在意義は視聴者に認められているか”. 産経ニュース. 2016年1月5日閲覧。
- ^ 佐藤, pp. 123–124.
- ^ 佐藤, pp. 122–123.
- ^ 佐藤, pp. 124–125.
- ^ 佐藤, pp. 129–131.
- ^ 佐藤, p. 145.
- ^ 引田惣弥『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』講談社、2004年、133頁。ISBN 4062122227
- ^ 『全記録 テレビ視聴率50年戦争―そのとき一億人が感動した』133-136頁。
- ^ 『OTV』91-92頁
- ^ 『OTV』89頁
- ^ 「レコード大賞 復権へ再改革」『朝日新聞』1993年12月18日付東京夕刊、14頁。
- ^ 紅白とのバッティングのほか、当時人気を博していた総合格闘技の大晦日興行である「Dynamite!」を放送するという編成方針もあった(2010年まで)。
- ^ レコ大視聴率、関東地区で14.9%/芸能社会速報/デイリースポーツonline当日13時に閲覧。
- ^ 「Yahoo!テレビ.Gガイド」の番組解説欄に記載。
- ^ 【レコ大】AKB2連覇で視聴率16.6%、4年ぶり16%台に回復 オリコン2013年1月2日閲覧
- ^ ビデオリサーチ週間高視聴率番組 2012年12月24日 - 30日 2013年2月11日閲覧。
- ^ 「レコ大」視聴率13・0% 大みそか前日に日程変更以降最低 - Yahoo!ニュース
- ^ 西野カナ快挙「日本レコード大賞」健闘14・5% Yahoo!ニュース 2017年1月2日配信・閲覧
- ^ 乃木坂が大賞受賞のレコ大は14・4% デイリースポーツonline 2018年1月2日配信・閲覧
- ^ 乃木坂がV2「日本レコード大賞」視聴率16・7% 前年より2・3Pアップスポニチアネックス 2019年1月2日配信・閲覧
- ^ 令和初「レコ大」視聴率14.0% Foorinが史上最年少戴冠 前年から2・7Pダウンスポニチアネックス 2019年1月2日配信・閲覧
- ^ LiSA「炎」が大賞、日本レコード大賞16.1%日刊スポーツ 2020年1月2日配信・閲覧
- ^ TBSラジオ広報誌「954press」2012年12月 - 2013年1月号5項に掲載
- ^ “活動〜日本レコード大賞 審査基準〜【公益社団法人 日本作曲家協会】”. 公益社団法人日本作曲家協会. 公益社団法人日本作曲家協会. 2020年12月13日閲覧。
- ^ 長田暁二『昭和の童謡アラカルト―戦後編』ぎょうせい、1985年、139頁。ISBN 4324001243
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- ^ “視聴者・審査員不在の賞レース『日本レコード大賞』“聖域化”への苦言”. cyzo.inc. 2016年1月17日閲覧。
- ^ “評論家・麻生香太郎が音楽業界のタブーに切り込む!集中連載第2回”. Real Sound. 2016年1月18日閲覧。
- ^ “三代目JSBの「レコード大賞1億円買収」で思い出される“審査委員長怪死事件”の深すぎる闇”. exciteニュース. 2018年12月31日閲覧。
- ^ “レコード大賞最高責任者がバーニング周防社長を実名告発…周防社長「自分の獲らせたい歌手に決めることができる」と”. LITERA. 2020年12月30日閲覧。
- ^ “「レコ大」は出来レース!?関係者が暴露した“ジャニー氏の恐るべき圧力”とは?”. Asagei. 2020年12月30日閲覧。
参考文献
- 佐藤剛『「黄昏のビギン」の物語』小学館〈小学館新書〉、2014年。ISBN 978-4-09-825214-5。
関連項目
- 音楽に関する賞
- 日本ゴールドディスク大賞
- 日本歌謡大賞 - TBSテレビ以外の民放4系列局が、本賞への対抗として設立。
- 日本有線大賞 - フジテレビ→TBSで放送されていた音楽賞
- 全日本有線放送大賞 - 当初は「夜のレコード大賞」という名称で、深夜番組『11PM』の1コーナーであった。
- グラミー賞(アメリカ)
- ブリット・アワード(イギリス)
- 金曲賞(台湾)
- お笑いマンガ道場 - ダジャレ御題の一つに『マンガ輝け!レコード大賞』というものがあった。
外部リンク
- 活動〜日本レコード大賞〜 - 公益社団法人 日本作曲家協会
- 輝く!日本レコード大賞 - TBSテレビ