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2020年7月16日 (木) 23:06時点における版
将棋 |
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各年度の将棋界 |
2022 - 2023 - 2024 - 2025 |
将棋の段級(しょうぎのだんきゅう)では、将棋における段級位制の概要について述べる。
将棋の段級には3つの体系があり、それは、棋士の段位(新進棋士奨励会の段級も含む)の体系、女流棋士の段級の体系、および、アマチュアの段級の体系である。
段級位の確立
歴史的には、将棋の段級位制の確立は囲碁よりかなり遅く、18世紀になった享保2年(1717年)に、『将棊図彙考鑑』に段位の記載がされてからである[1][2]。それ以前は免状に、名人に対しての手合割を記載していた[3]。
また、棋力を示すものとして、段級のほかにレーティングという概念がある[注釈 1]が、プロの将棋では昭和初期に、公式のレーティングシステムとして比例得点制度が採用されたことがある。さらに、順位戦でのクラスも、棋力を示す指標とみなされることがある[4]。
段位の読み
段級位制は様々な分野で用いられる制度であるが、口頭での読み方には違いが見られる。
将棋界では、「九段」「四段」の読みとして、それぞれ「くだん」「よだん」が普通である(将棋以外の分野では「きゅうだん」「よんだん」と読むこともある)。ただし、「七段」の読みとしては「ななだん」と「しちだん」が混在している[注釈 2]。
棋士
棋士(プロ)の段位は四段から九段までである。三段以下は新進棋士奨励会(奨励会)の段級位となっている。奨励会の段級位と棋士の段級位は連続しており、奨励会の三段から四段に昇段することでプロ棋士となる。
(例外的にアマチュアや女流棋士から直接四段の棋士になる道もある。これについては、「棋士 (将棋)」を参照)
なお、四段の棋士になった後は、降段することがない。
昭和9年(1934年)に大阪で升田幸三が初段になった頃までは、(囲碁と同じく)「初段からが専門棋士」だった[5]。その頃、それと並行して奨励会ができた(東京は昭和3年(1928年)、大阪は昭和10年(1935年))ことをきっかけに、「(奨励会を卒業して)四段からプロ棋士」という制度が確立していった[6]。
なお、木村義雄の自伝には「昭和13年(1938年)時点で決めた棋士の給料体系」について「四段以下奨励会の人々は、まだ修行中のため、給料はなく下宿料程度」(太字は引用者による)と記述されている[7]。
棋士の肩書
プロ棋士にとっては、段位は肩書でもある。ただしタイトル保持者はタイトルが優先され、竜王と名人についてはさらに優先される [注釈 3]。
現役棋士の場合、優先順位は以下の通り。
- 竜王・名人(竜王と名人を共に保持している場合)
- ○○(竜王もしくは名人)(竜王と名人のうちいずれか片方のみ保持している場合)
- ○(保持タイトル数)冠(竜王と名人を除くタイトルを、2つ以上保持している場合[9])
- ○○(タイトル名)(竜王と名人を除くタイトルを、1つだけ保持している場合)
- 永世称号(日本将棋連盟により現役中の呼称を認められた者、あるいは現役で満60歳を迎えた名誉王座[10]のみ)
- 段位
引退棋士と物故棋士は、(1)永世称号、(2)日本将棋連盟から贈られた称号、(3)段位、の優先順位に基づいて呼称される。永世名人の他に複数の永世称号を有している大山康晴と中原誠は、それぞれ「大山康晴十五世名人」「中原誠十六世名人」と永世名人の称号が優先されている[注釈 4]。
アマチュア選手がプロ公式戦に参加する場合、日本将棋連盟では「●●アマ」と一律に呼称し、アマ段位は付さない[12]。
棋士の昇段規定
現役棋士の昇段は、この表の規定を基本としている(日本将棋連盟公式サイトに詳細な解説あり[13][14])。
昇段 | 名人戦・順位戦 の規定 |
竜王戦の規定 | その他のタイトル棋戦 の規定 |
一般棋戦 の規定 |
勝数規定 | |
---|---|---|---|---|---|---|
五段へ | C級1組昇級 | - | 竜王ランキング戦 連続昇級 [注釈 5][注釈 6] または 通算3回優勝 (1つだけ昇段) [注釈 7] |
タイトル挑戦 (1つだけ昇段) [注釈 8][注釈 9][注釈 10] |
全棋士参加 棋戦優勝 (1つだけ昇段) [注釈 11] |
公式戦100勝 |
六段へ | B級2組昇級 | 2組昇級 | 五段昇段後 公式戦120勝 | |||
七段へ | B級1組昇級 | 竜王挑戦[注釈 12] 1組昇級 |
タイトル1期獲得 [注釈 9] |
六段昇段後 公式戦150勝 | ||
八段へ | A級昇級 | 竜王位1期獲得 | - | タイトル2期獲得 [15][注釈 13] |
- | 七段昇段後 公式戦190勝 |
九段へ | 名人位1期獲得 | 竜王位2期獲得 | タイトル3期獲得 [注釈 14][注釈 15][注釈 16] |
八段昇段後 公式戦250勝 |
昇段は基本的に1段ごと[注釈 17]、かつ、1年に1回以内であったが、2006年度から竜王戦の規定での昇段のみ、飛付き昇段と1年以内の2度以上の昇段が認められるようになった[注釈 18]。
- <竜王戦の規定により昇段となる例>
2009年度からは、順位戦の昇級に伴う昇段や、全棋士参加棋戦優勝による昇段、タイトル挑戦・獲得関連の昇段についても同様に、昇段規定を満たした時点での昇段となり、「1年に1段位」という制限はなくなり、タイトル獲得による飛付き昇段も可能になった[17][注釈 9][注釈 22]。
2018年6月1日、八段への昇段規定に「(竜王・名人以外の)タイトル獲得2期」が加えられた[15][注釈 13]。
- <タイトル挑戦・獲得関連の規定で昇段となる例>
上記以外にも、
などがある[13]。
名誉的な昇段
八段で引退した棋士に(「九段」ではなく)「名誉九段」が贈られた例があり、金易二郎・渡辺東一・加藤治郎・高柳敏夫・佐瀬勇次の5名に対し、いずれも生前に贈られている[19]。
八段以下の棋士が死去した場合、追悼の意味で昇段させることがある。八段まで昇段して現役のまま死去した山田道美・板谷進・村山聖・真部一男の4名は、いずれも九段を追贈された。この場合、名誉九段ではなく「九段」である。ただし、昇段規定を満たしての九段と区別するため、「追贈九段」もしくは「九段(追贈)」と表記されることもある。最近の事例(2018年現在)としては、2016年12月25日に現役のまま死去した伊藤能六段が七段を追贈された例、2015年1月30日に死去した河口俊彦七段(2002年に引退)が八段を追贈された例がある。
また、大野源一、花村元司[20]、坂口允彦、灘蓮照[20]、松田茂役の5名は、生前の九段への昇段事由が「贈九段」となっている。1981年の松田を最後に、この事例はなくなっている。
昇段の日付
- 順位戦昇級による昇段は、原則として規定のクラスへの昇級を決めた対局日が昇段の日付となる[注釈 24]。なお、順位戦のシステム上、同クラスに所属する他の棋士の敗戦によって昇級が決まる場合もあるため、結果として対局が組まれない日や敗戦した日が昇段日となる場合がある。
- 竜王ランキング戦昇級・優勝や竜王挑戦による昇段は、規定の昇級・優勝・挑戦を決めた対局日が昇段の日付となる[注釈 25]。
- 勝数規定での昇段は、規定の勝数を達成した対局日が昇段の日付となる[注釈 26]。
- 棋戦優勝およびタイトル挑戦・獲得関連の昇段は、規定の棋戦優勝またはタイトル挑戦・獲得を決めた対局日が昇段の日付となる[注釈 26][注釈 27][注釈 28]。
- 理事会審議による特別昇段、フリークラス規定・引退棋士規定による昇段、特別記念や物故者への追贈等による昇段の場合は、日本将棋連盟が昇段日として発表した日付をもっての昇段となる。
- 昇段の日付に関しては特に順位戦においては日を跨いだ深夜での昇級決定になることがあるが昇段日は日を跨がない。(例として第78期B級1組斎藤慎太郎(自ら勝利及び他者の敗北)、第77期C級1組近藤誠也(自ら勝利)等)[注釈 29]
九段と十段
元来、将棋界の段位は「八段」が最高位であり、「九段」「十段」は存在しなかった。 ただし、1902年(明治35年)に時の名人であった小野五平が作成した、相撲の番付を模した『将棋有名鑑』に「取締 京橋築地 日本西洋将棋指南 九段 名人 小野五平」と記載されている事例がある[21]。
1943年、将棋大成会は名人位とは別に「九段位」を設けることを決定し、讀賣報知紙上で、全八段・七段が参加する「九段設定戦」が開始された[22]。1945年5月に新聞発行不能で休止に[23]。戦後、1945年11月から、讀賣報知紙上で「九段設定戦」が再開[24]。しかし、「九段位」は誕生しなかった。
さらに、1950年には、「九段戦」が設けられ、タイトル獲得者には、段位ではなく、名人に次ぐ「タイトルとしての九段」が与えられることになった。 その後、1958年に「段位としての九段」への昇段規定が定められ、大山康晴と升田幸三が九段に昇段している。 しかし、「タイトルとしての九段」と「段位としての九段」は、前者は失冠すれば名乗れなくなるが後者は永久に名乗れるという実際上の違いがあるにすぎず、明確に区別されるものではなかったようである。 実際に、「タイトルとしての九段」を三連覇すると「永世称号としての永世九段」が与えられるが、永久に名乗れるか否かという区別が失われることから、「永世称号としての永世九段」と「段位としての九段」とは、ほぼ完全に同一視されていた。
1954年に九段のタイトルを3連覇して永世称号の資格を得た塚田正夫について、清水孝晏[注釈 30]、大山康晴、青野照市がそれぞれ著書で次のように述べている。
三者の述べることは一見すると相互に矛盾しているが、
- 1954年(昭和29年)11月27日に、九段のタイトルを3期連続で獲得したことにより、塚田正夫が「永世称号としての永世九段」の資格を得た。当時の棋士の間では「永世称号としての九段」と「段位としての九段」は同一視されていたため、塚田の段位は九段であると認識されていた。
- 1958年(昭和33年)4月17日に連盟の規約改正により、大山康晴と升田幸三が「段位としての九段」に昇段した。ただし、升田は名人の地位にあったため、名人失冠まで免状の発行が留保された。大山は「塚田の永世称号としての九段の資格」と「自身の段位としての九段の資格」は同一の資格と認識していたため、自身は2人目の九段だと語った。
- 1958年(昭和33年)4月17日に、連盟の規約改正により、大山康晴と升田幸三の2人が「段位としての九段」となった。しかし、大山はその後もタイトルを保持し続けたため、九段を名乗ることはなかった。一方の升田は翌1959年にタイトルを失い無冠となったことから塚田に続いて「九段」を名乗る2人目の棋士となった。
と整合的に解釈できる[注釈 31]。
また、大山康晴は1960年に九段戦三連覇を果たし、「永世称号としての永世九段」の条件を満たすが、すでにほぼ同一の資格である「段位としての九段」に昇段していたため、新たに永世称号を獲得したものとはみなされなかった。
このように、当時の棋士・連盟は、「段位としての九段」と「タイトルとしての九段」の区別に敏感ではなかったが、これらが混在することにより、例えば1958年度から1961年度まではタイトルとしての大山九段への挑戦権を争う者の中に塚田九段や升田九段が含まれるという見る者にとって非常に分かりにくい状況にあった。
そこで、1962年度から九段戦は「十段戦」に移行し、タイトル称号は「九段」から「十段」に改められた。
1988年度から、十段戦が発展解消されて竜王戦となり、「十段」の称号はなくなった。ただし、十段のタイトルを多数回獲得した者に「永世十段」の称号が与えられ、大山康晴と中原誠の2名がその該当者となった。
なお、永世九段の有資格者である塚田正夫に対しては、没後に「名誉十段」の称号が追贈された。 また、棋士ではないが、名人400年を記念して、日本将棋連盟が徳川家康に十段を贈っている。
2001年には加藤一二三が、棋士会において、自身が九段昇段後の1,000勝を達成したことを示し、(タイトル称号の「十段」ではなく)段位としての「十段」の新設し、自身に授与することを提案した。
現役で九段昇段した棋士の一覧
現役で段位が九段になった棋士の一覧を示す。項目名のボタンをクリックすれば、並び替え(ソート)が可能である。 かっこ内は、九段昇段の事由が発生した日を表す。ただし、昇段日と同じである場合や、新規定の施行日での昇段の場合には記さない。 左端の数字は棋士番号であり、小さい番号であるほどプロ入りが早かったことを表す。
1973年に、当時、日本将棋連盟会長だった加藤治郎の提案により[31]、それまでは「(原則として)名人3期」のみであった九段昇段の条件が緩和され、「九段昇格規定30点(かつ八段に昇段していること)」と「タイトル3期(かつ八段に昇段していること)[注釈 32]」の2つが加えられた[32]。背景には、当時囲碁では九段の棋士が多数存在していたのに対し将棋では僅か3人だったことがあり、一説には「A級八段の将棋棋士が九段の囲碁棋士と同席した際、段位によって待遇に差をつけられることがあったため、将棋界ももう少し九段を作ろうということになった」という[32]。
九段昇格規定の点数は下記のように計算する[33]。
- タイトル獲得期数 × 3 + タイトル挑戦回数 + 一般棋戦優勝回数 + A級以上在籍年数
なお、内藤國雄は自身の著書(自伝『駒の音有情』(東京新聞出版局)P.186など)でたびたび、「新制度前、九段は塚田・升田・大山・中原しかいなかった。自分は、彼らに続く5人目の九段になることを目指し、実際にそのとおりの目標を達成した」と書かれているが、事実は「中原は1973年に新制度で九段になっている」「二上達也、丸田祐三、加藤一二三は新制度で、内藤より前に九段になっている」のであり、内藤の記述は不正確なものである。
また、その後、昇段規定の追加やさらなる緩和が行われ、2018年現在の九段昇段規定は「八段昇段後公式戦250勝(勝数規定)[32]」、「名人1期」、「竜王2期」、「タイトル3期」となっている。また、フリークラスの棋士については、八段昇段後の公式戦勝数にフリークラス在籍年数を勘案した九段への昇段規定がある(2019年現在、フリークラス規定によって現役で九段昇段したのは田丸昇のみ)[18]。
# | 棋士 | 九段昇段 | 昇段事由 | 八段昇段 | 八段⇒九段 | 生年月日 | 昇段時年齢 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
11 | 塚田正夫 | 1954年11月27日 | 九段戦3連覇(永世九段) | 1940年 | 約14年 | 1914年 | 8月 2日40歳 | 3か月
26 | 大山康晴 | 1958年 | 4月17日名人3期[注釈 33] | 1948年 | 4月 1日3668日 | 1923年 | 3月13日35歳 | 1か月
18 | 升田幸三 | 1958年 | 4月17日名人2期かつ順位戦で抜群 | 1947年 | 5月10日3995日 | 1918年 | 3月21日40歳 | 0か月
92 | 中原誠 | 1973年11月 | 3日九段昇格規定30点[注釈 34] | 1970年 | 4月 1日1312日 | 1947年 | 9月 2日26歳 | 2か月
57 | 二上達也 | 1973年11月 | 3日九段昇格規定30点 | 1956年 | 4月 1日6425日 | 1932年 | 1月 2日41歳10か月 |
43 | 丸田祐三 | 1973年11月 | 3日九段昇格規定30点 | 1948年 | 4月 1日9347日 | 1919年 | 3月30日54歳 | 7か月
64 | 加藤一二三 | 1973年11月 | 3日九段昇格規定30点 | 1958年 | 4月 1日5695日 | 1940年 | 1月 1日33歳10か月 |
77 | 内藤國雄 | 1974年 | 2月 4日タイトル3期かつ八段に昇段している | 1967年 | 4月 1日2501日 | 1939年11月15日 | 34歳 | 2か月
7 | 大野源一 | 1974年11月 | 3日贈九段(表彰感謝の日表彰) | 1940年 | 約34年 | 1911年 | 9月 1日63歳 | 2か月
39 | 花村元司 | 1976年 | 4月20日贈九段(将棋会館落成式表彰) | 1952年 | 4月 1日8785日 | 1917年11月18日 | 58歳 | 5か月
10 | 坂口允彦 | 1976年11月17日 | 贈九段(将棋の日表彰) | 1938年 | 約38年 | 1908年12月10日 | 67歳11か月 |
44 | 灘蓮照 | 1976年11月17日 | 贈九段(将棋の日表彰) | 1953年 | 4月 1日8631日 | 1927年 | 3月16日49歳 | 8か月
85 | 米長邦雄 | 1979年 | 4月 1日九段昇格規定30点 | 1971年 | 4月 1日2922日 | 1943年 | 6月10日35歳 | 9か月
66 | 有吉道夫 | 1979年 | 4月 1日九段昇格規定30点 | 1965年 | 4月 1日5113日 | 1935年 | 7月27日43歳 | 8か月
25 | 松田茂役 | 1981年11月17日 | 贈九段(将棋の日表彰) | 1951年11月17日 | 10728日 | 1921年 | 6月28日59歳 | 9か月
131 | 谷川浩司 | 1984年 (1983年 6月15日) |
4月 1日名人1期 | 1982年 | 4月 1日731日 | 1962年 | 4月 6日21歳11か月 (21歳 2か月) |
46 | 五十嵐豊一 | 1984年 | 4月 1日勝数規定 | 1949年 | 4月 1日12784日 | 1924年 | 9月27日59歳 | 6か月
17 | 小堀清一 | 1984年 | 4月 1日勝数規定 | 1952年 | 4月 1日11688日 | 1912年 | 2月10日72歳 | 1か月
42 | 加藤博二 | 1984年 | 4月 1日勝数規定 | 1959年 | 4月 1日9132日 | 1923年 | 9月15日60歳 | 6か月
68 | 芹沢博文 | 1984年 | 4月 1日勝数規定 | 1961年 | 4月 1日8401日 | 1936年10月23日 | 47歳 | 5か月
61 | 関根茂 | 1984年 | 4月 1日勝数規定 | 1968年 | 4月 1日5844日 | 1929年11月 | 5日54歳 | 4か月
86 | 大内延介 | 1984年 | 4月 1日勝数規定 | 1972年 | 4月 1日4383日 | 1941年10月 | 2日42歳 | 5か月
93 | 桐山清澄 | 1984年10月 | 9日勝数規定[注釈 35] | 1975年 | 4月 1日3479日 | 1947年10月 | 7日37歳 | 0か月
32 | 廣津久雄 | 1985年 | 6月18日勝数規定 | 1961年 | 4月 1日8844日 | 1923年 | 2月26日62歳 | 3か月
96 | 勝浦修 | 1985年11月 | 1日勝数規定 | 1976年 | 4月 1日3501日 | 1946年 | 5月 8日39歳 | 5か月
100 | 森雞二 | 1985年12月 | 9日勝数規定 | 1976年 | 4月 1日3539日 | 1946年 | 4月 1日39歳 | 8か月
99 | 森安秀光 | 1988年 | 1月27日勝数規定 | 1980年 | 4月 1日2857日 | 1949年 | 8月18日38歳 | 5か月
147 | 南芳一 | 1989年 | 2月22日タイトル3期かつ八段に昇段している | 1986年 | 4月 1日1058日 | 1963年 | 6月 8日25歳 | 8か月
142 | 高橋道雄 | 1990年 (1989年 3月17日) |
4月 1日タイトル3期かつ八段に昇段している | 1989年 | 4月 1日365日 | 1960年 | 4月23日29歳11か月 |
74 | 佐藤大五郎 | 1991年11月25日 | 勝数規定 | 1972年 | 4月 1日7177日 | 1936年10月19日 | 55歳 | 1か月
97 | 石田和雄 | 1992年 | 3月31日勝数規定 | 1979年 | 4月 1日4748日 | 1947年 | 3月29日45歳 | 0か月
60 | 北村昌男 | 1994年 | 2月10日勝数規定 | 1973年11月 | 3日7404日 | 1934年10月30日 | 59歳 | 3か月
175 | 羽生善治 | 1994年 (1993年 2月12日) |
4月 1日タイトル3期かつ八段に昇段している | 1993年 | 4月 1日365日 | 1970年 | 9月27日23歳 | 6か月
114 | 青野照市 | 1994年 | 8月 5日勝数規定 | 1983年 | 4月 1日4144日 | 1953年 | 1月31日41歳 | 6か月
127 | 田中寅彦 | 1994年12月16日 | 勝数規定 | 1984年 | 4月 1日3911日 | 1957年 | 4月29日37歳 | 7か月
113 | 淡路仁茂 | 1996年 | 4月26日勝数規定 | 1983年 | 4月 1日4774日 | 1950年 | 3月21日46歳 | 1か月
182 | 佐藤康光 | 1998年 | 6月18日名人1期 | 1996年 | 4月 1日808日 | 1969年10月 | 1日28歳 | 8か月
87 | 西村一義 | 1999年 | 9月28日勝数規定 | 1984年 | 4月 1日5658日 | 1941年12月14日 | 57歳 | 9か月
104 | 田中魁秀 | 2000年 | 2月24日勝数規定 | 1984年 | 4月 1日5807日 | 1947年 | 3月 2日52歳11か月 |
194 | 丸山忠久 | 2000年 | 6月28日名人1期 | 1998年 | 4月 1日819日 | 1970年 | 9月 5日29歳 | 9か月
198 | 藤井猛 | 2000年10月 (1999年11月26日) |
1日竜王2期 | 1999年10月 | 1日366日 | 1970年 | 9月29日30歳 | 0か月
148 | 塚田泰明 | 2000年12月15日 | 勝数規定 | 1988年 | 4月 1日4641日 | 1964年11月16日 | 36歳 | 0か月
195 | 郷田真隆 | 2001年 | 8月 6日タイトル3期かつ八段に昇段している | 1999年 | 4月 1日858日 | 1971年 | 3月17日30歳 | 4か月
123 | 小林健二 | 2002年 | 3月 1日勝数規定 | 1986年 | 4月 1日5813日 | 1957年 | 3月31日44歳11か月 |
183 | 森内俊之 | 2002年 | 5月17日名人1期 | 1995年 | 4月 1日2603日 | 1970年10月10日 | 31歳 | 7か月
161 | 森下卓 | 2003年12月12日 | 勝数規定 | 1994年 | 4月 1日3542日 | 1966年 | 7月10日37歳 | 5か月
189 | 屋敷伸之 | 2004年 (2002年 5月13日) |
4月 1日タイトル3期かつ八段に昇段している | 2002年 | 5月13日689日 | 1972年 | 1月18日32歳 | 2か月
135 | 福崎文吾 | 2005年10月28日 | 勝数規定 | 1990年 | 3月26日5695日 | 1959年12月 | 6日45歳10か月 |
235 | 渡辺明 | 2005年11月30日 | 竜王2期 | 2005年11月17日 | 13日 | 1984年 | 4月23日21歳 | 7か月
143 | 中村修 | 2008年 | 1月23日勝数規定 | 1993年10月15日 | 5213日 | 1962年11月 | 7日45歳 | 2か月
146 | 島朗 | 2008年 | 4月17日勝数規定 | 1994年 | 4月 1日5130日 | 1963年 | 2月19日45歳 | 1か月
201 | 深浦康市 | 2008年 | 9月26日タイトル3期[注釈 36]かつ八段に昇段している | 2004年 | 4月 1日1639日 | 1972年 | 2月14日36歳 | 7か月
207 | 久保利明 | 2010年 | 3月30日タイトル3期かつ八段に昇段している | 2003年 | 4月 1日2555日 | 1975年 | 8月27日34歳 | 7か月
157 | 井上慶太 | 2011年 | 3月 3日勝数規定 | 1997年 | 4月 1日5084日 | 1964年 | 1月17日47歳 | 1か月
109 | 田丸昇 | 2013年 | 4月 1日フリークラス規定 | 1991年 | 4月16日8021日 | 1950年 | 5月 5日62歳11か月 |
204 | 三浦弘行 | 2013年 | 8月16日勝数規定 | 2001年 | 4月 1日4520日 | 1974年 | 2月13日39歳 | 6か月
185 | 先崎学 | 2014年 | 4月 1日勝数規定 | 2000年 | 4月 1日5113日 | 1970年 | 6月22日43歳 | 9か月
263 | 佐藤天彦 | 2016年 | 5月31日名人1期 | 2015年 | 1月 8日509日 | 1988年 | 1月16日28歳 | 4か月
213 | 鈴木大介 | 2017年 | 3月 1日勝数規定 | 2003年 | 4月 1日5083日 | 1974年 | 7月11日42歳 | 8か月
222 | 木村一基 | 2017年 | 6月26日勝数規定 | 2007年 | 4月 1日3739日 | 1973年 | 6月23日44歳 | 0か月
264 | 豊島将之 | 2019年 | 5月17日名人1期[34][注釈 37] | 2017年 | 3月10日798日 | 1990年 | 4月30日29歳 | 1か月
208 | 行方尚史 | 2019年11月14日 | 勝数規定 | 2007年 | 4月 1日4611日 | 1973年12月30日 | 45歳10か月 |
171 | 阿部隆 | 2020年 | 7月15日勝数規定[注釈 38] | 2005年 | 2月 3日5641日 | 1967年 | 8月25日52歳10か月 |
(2020年7月16日現在)
奨励会
前述の通り、奨励会には最高三段までの段級位が存在する。
奨励会に入会した者は、多くの場合6級からスタートして奨励会員同士の対局をし、規定以上の成績を挙げると一つ上の段級位に昇進できる。三段に昇進すると「三段リーグ」に参加して三段同士のみの対局を行い、そこで所定の成績を収めると四段の棋士になる。
奨励会では、成績不振による「降段点」・「降級点」を2度取ると降段・降級となる。成績不振の場合は降級して7級になる場合もある。過去に存在した奨励会の下部組織「奨励会初等科」では7級から10級までの級位が存在したものの、現在は8級以下は存在せず、7級から降級した場合には退会となる。降段・降級があるという点で、奨励会の段級位制は将棋界の中で特異なものである。
女流棋士
女流棋士(女流2級以上)となる方法については、女流棋士 (将棋)#女流棋士になる条件を参照。
女流棋士の段級位と、棋士・奨励会員の段級位の体系は異なる。女流棋士の段級位は2020年(令和2年)時点で女流2級から女流七段までだが、女流タイトルを保持するトップ女流棋士でも、棋士との公式対局での勝率は、2018年(平成30年)度終了時点で2割程度であった[注釈 39]。
女流棋士の昇級・昇段規定は、日本将棋連盟ホームページの「昇段規定:日本将棋連盟」で公表されている。
日本女子プロ将棋協会 (LPSA) の昇級・昇段規定は、日本女子プロ将棋協会ホームページの「棋士規程」で公表されている。2012年(平成24年)の公益社団法人化に際して制定された[37]。日本将棋連盟の昇級・昇段規定に、LPSA主催棋戦の戦績による規定が加わったものとなっていたが、2014年(平成26年)5月30日に改正され将棋連盟と全く同一のものとなっている[38]。
昇段・昇級 | 清麗戦 | マイナビ女子オープン 女流王座戦 女流王将戦 |
倉敷藤花戦 | 女流名人戦 | 女流王位戦 | 一般女流 公式棋戦 [注釈 40] |
単年度成績 | 勝数規定 | |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
女流1級へ | - | 本戦入り | ベスト8 | 予選決勝進出[注釈 41] | 予選決勝進出[注釈 42] | 準優勝 | 指し分け以上 (8勝以上)[39] |
女流2級昇級後30勝 | |
女流初段へ | ベスト4 | リーグ入り[注釈 41] | リーグ残留 | 優勝 | 女流1級昇級後50勝 | ||||
女流二段へ | タイトル挑戦 | - | - | 女流初段昇段後60勝 | |||||
女流三段へ | タイトル獲得1期 | - | - | 女流二段昇段後90勝 | |||||
女流四段へ | タイトル獲得3期 | - | - | 女流三段昇段後120勝 | |||||
女流五段へ | タイトル獲得7期 | - | - | 女流四段昇段後150勝 | |||||
女流六段以上[40] | 抜群の成績と実績(理事会審議) |
- 女流棋士の場合も、棋士(プロ)の場合と同様に「同一年度[注釈 43]に2回以上の昇段」を不可とする規定が、2008年(平成20年)11月23日の時点では存在した。
- 里見香奈が、2008年(平成20年)9月29日の第16期倉敷藤花戦の挑戦者決定戦[41]で甲斐智美女流二段を破り、初のタイトル挑戦を決め、女流二段への昇段規定「タイトル挑戦」により、2008年(平成20年)9月29日付で女流二段に昇段した。第16期倉敷藤花戦三番勝負では、第1局(11月6日)第2局(11月23日)で清水倉敷藤花に連勝し、初タイトルとなる倉敷藤花を獲得した。里見は、女流三段への昇段規定「タイトル1期」を満たしたが、タイトルを獲得した2008年11月23日付ではなく、翌2009年(平成21年)度の最初の日である2009年(平成21年)4月1日付で、里見は女流三段に昇段した。昇段事由は「倉敷藤花戦タイトル獲得」と明示されている[42]。
- 下記で示すように、長谷川優貴は、2011年(平成23年)10月1日付で女流2級としてプロ入りし、同年度(2011年(平成23年)度)内の2011年(平成23年)10月29日付で女流初段に、2012年(平成24年)2月2日付で女流二段にそれぞれ昇段した。2012年(平成24年)2月2日現在では、女流棋士について「同一年度に2回以上の昇段」を不可とする規定は廃されていることが示される[43]。
- プロ入り前に、マイナビ女子オープン本戦入りを2回果たしており、女流3級から女流2級への昇級規定「女流3級で規定の成績を収めた者(<3>『女流棋士昇段級規定』の『女流1級へ』の条件を満たした場合)」をプロ入り前に満たしていた長谷川は、2011年(平成23年)10月1日付で女流2級として女流棋士となった[44]直後の2011年(平成23年)10月29日に、女流棋士としての初対局として、第5期マイナビ女子オープン本戦2回戦にて甲斐智美女流王位と対局、勝利して、第5期マイナビ女子オープンベスト4に進出。これにより女流初段への昇段規定「マイナビ女子オープンベスト4」を満たし、2011年(平成23年)10月29日付で女流2級から女流初段に飛付昇段(女流2級から、間の女流1級を飛ばして、直接、女流初段に昇段)した[45]。
- 長谷川は、引き続き、第5期マイナビ女子オープン本戦で、2012年(平成24年)1月11日の準決勝で斎田晴子女流五段を、2月2日の挑戦者決定戦で清水市代女流六段を破り、第5期マイナビ女子オープン挑戦者となると同時に、女流二段への昇段規定「タイトル挑戦」により、次年度の初日である2012年(平成24年)4月1日を待たずに、2012年(平成24年)2月2日付で女流二段に昇段した[46]。
- LPSAにおいては、「同一年度に2回以上の昇段」を認めるか明示されていないが、連続昇段級者がいるため認めていることが確認できる。
- 渡部愛は女流3級であった2013年(平成25年)10月24日、第25期女流王位戦予選で本田小百合に勝利しリーグ入りを決め、昇級規定の女流1級の条件である、他団体主催棋戦(当協会との共催含む)で以下の活躍が認められた場合の、女流王位戦リーグ入りを満たし女流2級に昇級[47]。
- 続いて同年度の2014年(平成26年)3月4日、第41期女流名人戦予選で渡辺弥生に勝利し予選決勝進出を決め、女流名人位戦予選決勝進出の成績により、女流1級へと連続昇級した[48]。その10日程後の2014年(平成26年)3月14日に、第41期女流名人位戦予選で高群佐知子を降し、女流名人位戦リーグ入りの成績により、女流初段昇段規定を満たしたため女流初段へと二連続昇段を果たしている[49]。
- 女流六段以上への昇段については、「抜群の成績と実績(理事会審議)」と抽象的に示されているのみである。LPSAにおいても同様である。
- 清水市代は2000年(平成12年)の10月1日付で、女流棋士史上初の女流六段に昇段[50]、2020年(令和2年)の4月1日付で、こちらも女流棋士史上初となる女流七段に昇段した[51]清水は、2000年(平成12年)10月1日の時点で、クイーン四冠(=クイーン全冠[注釈 44])を2000年(平成12年)6月19日に達成。また三冠保持(女流王位、倉敷藤花、女流王将)、全冠(四冠)独占を2回達成(1996年(平成8年)・1998年(平成10年))、タイトル獲得数24期の実績を有していた。七段昇段の際には連盟常務理事会の審議により、女流棋戦歴代最多のタイトル獲得通算43期などの「類いまれなる成績」が評価され、満場一致で決まった[52]。
- 次いで中井広恵も2002年(平成14年)11月[53]に女流六段に昇段した。中井は、2002年(平成14年)11月の時点で、三冠保持(女流名人、倉敷藤花、女流王将)、クイーン名人獲得(1993年(平成5年)の第19期女流名人位戦で達成)[53]。タイトル獲得数15期の実績を有していた。
- 2017年(平成29年)5月21日には、蛸島彰子が、LPSA理事会審議により女流六段に昇段した[54]。
- 里見香奈は2020年(令和2年)4月1日付で女流六段に昇段[55]。里見は2019年(令和元年)9月に史上初となる女流六冠を達成。また、2020年(令和2年)3月時点でタイトル獲得通算39期・クイーン四冠の実績を挙げている。
- 2020年(令和2年)4月時点にて、現役女流棋士として女流六段以上に昇段したのは、清水、中井、蛸島、里見の4名のみである。その他に、関根紀代子が、2011年(平成23年)8月31日付で女流五段のまま引退し[56]、その直後の2011年(平成23年)9月7日の連盟理事会で、「普及に多大な功績が認められ、関根紀代子女流五段が9月8日付で女流六段へ昇段することに決定」し、女流六段の免状が授与された[57]。すなわち、関根が引退女流棋士として女流六段に昇段したのは、清水、中井と同じく「抜群の成績と実績(理事会審議)」によるものである。
- 「女流棋士総則」の「降級点規定」による引退、および「引退女流棋士昇段規定」による昇段も存在する(日本将棋連盟ホームページの「昇段規定:日本将棋連盟」では言及されていない)。
- 伊藤明日香女流1級(引退前)は、「女流棋士総則」の「降級点規定」により2009年(平成21年)3月31日付で引退し[58]、「引退女流棋士昇段規定」により2009年(平成21年)4月1日付で女流初段に昇段した[59]。また、伊藤と同門の野田澤綾乃も同規定により2020年(令和2年)4月1日付で女流1級から女流初段に昇段した[60]。
- 高橋和女流二段(引退前)は、「子供たちへの将棋の普及活動に力を入れたいとの思いから」2005年(平成17年)2月9日付で(任意で)引退した[61][62]。引退から1年以上経過してから、高橋は「引退女流棋士昇段規定」により、2006年(平成18年)4月1日付で女流三段に昇段した[63][62]。
アマチュア
15級[注釈 45]から九段までの段級位がある。初段以降は免状が、1級までは級位認定状が、それぞれ日本将棋連盟から発行される(原則として有料)[64]。
アマチュアの段級位とプロの段級位は体系が大きく異なっており、日本将棋連盟は奨励会の6級がアマチュアの三段 - 四段、あるいは五段に相当するとしている[65][66]。また、女流2級はアマチュアの二段 - 四段相当としている。渡辺明は2008年に「アマトップの方々は奨励会で言えばプロ手前の二段から三段の力はある」と述べている[67]。
アマチュアの最上位クラスにはプロにはなれなかった元奨励会員も多くおり、実際にアマチュアトップは元奨励会三段であることも多い。どちらにしても元奨励会三段に勝てる実力がなければアマトップには立てない。
プロは奨励会に入会する時点で相応の棋力を要するため、相対的に上下の実力差は小さいが、アマチュアは全くの初心者からプロ公式戦で勝利する者まで差が極めて大きい。
アマチュアの段級位(六段以下)については、以下のいずれかの方法で申請資格を得た上で、日本将棋連盟に免状・認定状の発行を申請できる[68]。
- インターネット・『将棋世界』・新聞・雑誌・囲碁将棋チャンネルなどで出題される認定問題で一定以上の成績を収める。
- 東京・大阪の将棋会館の道場で段級位を取得する。
- 日本将棋連盟のプロ棋士、または棋道師範・棋道指導員・将棋普及指導員の推薦を受ける。
- 将棋倶楽部24・将棋ウォーズ・81道場の段級位を取得する。
- 所定の大会で所定の成績を挙げる。(後述)
後述する所定のアマチュア大会で所定の成績を収めた場合には、免状が贈呈される(特に料金はかからない)。しかしそれ以外の方法による場合は、段位免状・級位認定状の発行が有料であるため、囲碁と同様に地方棋界では、免状を持たない「段格」のアマチュア棋士が存在する。また、同じ段級位でも取得方法によって難易度が異なる。認定問題による獲得は比較的易しく、逆に将棋倶楽部24での取得は非常に難しいとされる。
アマチュア竜王戦の全国大会優勝者にはアマ七段が贈られる。[69]この他にも、日本将棋連盟主催のアマチュア将棋大会での成績によってアマ四段〜六段が授与され、同一大会で3回優勝するとアマ七段が授与される。[70]ただし学生棋戦や女性棋戦においては独自の運用がなされており、三段以下の免状が贈られることもある。[71][72]さらに、日本将棋連盟が主催しない大会の中にも、所定の成績を収めれば免状が贈られるものがある。[73]
事実上の最高段位であるアマ八段については「(1)アマチュア竜王戦全国大会(第19回以降)で、通算3回の優勝(2010年に規定が設けられたが、2017年現在、該当者はまだ出ていない)[74]」「 (2)検定試験(筆記、ネット[75])」「 (3)棋士の推薦」の3つの取得方法があり、2000年から2016年の間に44名がアマ八段を取得している[76]。
政治家、著名人、将棋普及への貢献者などに、名誉称号の意味合いを含めたアマチュア段位免状が贈呈されることがある。政治家の田中角栄[注釈 46]・福田赳夫、将棋普及に貢献した永井英明[77]、読売新聞社のトップを長く務める渡邉恒雄らには、アマ八段が贈られている。
2011年には、日本将棋連盟東海本部(現日本将棋連盟東海普及連合会)の設立に尽力した堀田正夫に、史上初となるアマ九段が贈られた(堀田には2002年にアマ八段が贈られていた)[78]。
2014年9月23日、くまモンにアマ初段が贈られた(ゆるキャラに段位が授与された初めての事例)[79]。
免状・級位認定状
略史
江戸時代は将棋所を名乗る「将棋三家」(大橋本家・大橋分家・伊藤家)が免状を発行していた。明治時代になっても依然として三家が発行権を握っていたが、大橋分家、伊藤家は絶え、残る大橋本家も十二代当主の大橋宗金が1910年(明治43年)に死去し、以降の大橋本家は将棋界から手を引いていった。宗金は自身は五段に留まったため、早くから免状の審査を小野五平(のちの十二世名人)、のちに関根金次郎(のちの十三世名人)に委託していた。
こうして、時の名人が免状を発行するようになったが、名人だけでなく時の実力者も勝手に免状を発行するようになった。1927年、日本将棋連盟(旧)が発足し[注釈 47]、1935年に実力制名人戦が始まったことで、免状発行権も日本将棋連盟(旧)に一元化された(1941年8月1日、名人以外に八段が発行していた免状が、将棋大成会会長名義でのみ発行されるようにに統一された[80])。
戦前の将棋界においては、「専門棋士」と呼称されたプロには免状を発行しなかった[81]。専門棋士が規定に基づいて昇段すると、昇段の事実と氏名が発表されるのみであった[81]。
戦後になって、プロにも免状を発行するように制度が変わった[81]。
アマ免状・級位認定状
初段以上の免状には、日本将棋連盟会長・名人・竜王が直筆で署名する[82]。過去には、永世名人が署名に加わったこともある[83]。また、通常は名人・竜王保持者がその他のタイトルを保持している場合でもそれらは免状に記載しないが、羽生善治が七冠を達成した際には全タイトルを併記した特別免状が発行されたことがある。現在でも永世名人(または永世名人資格者)や他の棋士の署名を付けるキャンペーンが不定期で行われている[84]。推薦人やその他の棋士の署名を希望することもできるが、費用は応相談となる。
免状の発行数は非公開だが、米長邦雄[注釈 48]は「年間1万本近く署名する」と述べている[85]。署名を続けていると和紙の繊維が舞い上がり綿埃のようになるため、署名の際にはマスクが手放せないという[85]。
一方、級位認定状は連盟会長の署名が印刷されるのみとなり、文面も15級 - 1級まで全て同じである。
プロ免状
対象は棋士・女流棋士・指導棋士。署名は日本将棋連盟会長のみで、名人・竜王の署名はない[86]。女流棋士(原則として女流2級でプロ入り)は、女流初段以上で免状が授与される[注釈 49]。
文面
日本将棋連盟の委嘱により、作家で好棋家であった瀧井孝作が撰した文面が、1958年(昭和33年)から[88]免状に使われ続けている[89]。初段から九段まで、それぞれ異なる文面である[89](各段免状の文面・読み方・意味[90])。アマ免状は段位を「允許」、プロ免状は「免許」[91]と表現する(ただし、八段以上はどちらも「推ス」)[81]。対象者の表記は、アマは「(氏名)殿」、プロは「棋士(氏名)」「女流棋士(氏名)」「指導棋士(氏名)」となる[92]。
授与(プロ免状)
プロ免状は、年に2回、4月半ばの「将棋大賞表彰式・免状授与式」[93]、11月17日(将棋の日)の「『将棋の日』表彰・感謝の式典」[94]において(いずれも東京・将棋会館、関西将棋会館の2か所で開催)、昇段者に授与される。
脚注
注釈
- ^ 有名な例は、日本将棋連盟が運営するネット将棋サイトの「将棋倶楽部24」であり、匿名ではあるがプロ棋士も参加している。
- ^ テレビの将棋番組における棋士や女流棋士の発言の中で聞くことができる。
- ^ ある棋士が竜王・名人・棋聖の3つのタイトルを保持していると仮定する。この棋士の呼称は「竜王・名人」である。しかし、棋聖戦を主催する産経新聞社による呼称は「棋聖」である。また、棋聖戦に関する報道においては、他の報道機関(例:朝日新聞社)も「棋聖」と呼称する[8]。
- ^ 報道媒体や内容によっては、棋士が保持している永世称号の全表記や、保持している永世称号の数による「永世○冠」もしくは特定の永世称号で呼称される場合もある。例えば、王座戦を主催する日本経済新聞社の報道で「中原誠名誉王座」と呼称される例がある[11]。
- ^
竜王戦の昇段規定で、従来「竜王ランキング戦(各組トーナメント)連続2回優勝」であったものが、2006年2月に条件が緩和され「連続2回昇級」に改められた。「連続2回優勝」の難易度は高かったため、その規定で昇段したのは、第1期を除く17年間(第2期 - 第18期)において僅か2例のみであった。
しかし、「連続2回昇級」の規定に改められた直後の第19期(2006年度)では、その1期だけで3名が昇段するという昇段ラッシュとなった。
- 山崎隆之 4組3位(第18期)→ 3組3位(第19期)→ 2組 2006年8月10日に七段昇段
- 大平武洋 6組3位(第18期)→ 5組3位(第19期)→ 4組 2006年9月19日に五段昇段
- 片上大輔 6組優勝(第18期)→ 5組3位(第19期)→ 4組 2006年10月10日に五段昇段
- ^ 降級した翌年から2期連続昇級した場合は昇段しない。永瀬拓矢は第28期4組で優勝、第29期も3組決勝進出で連続昇級となったが、第27期で3組から4組に降級していたため、七段に昇段しなかった。
- ^ 「ランキング戦通算3回優勝」の規定で昇段した初のケースは、北島忠雄である(6組優勝(第11期)、5組優勝(第14期)、4組優勝(第16期)で、2003年10月1日に六段昇段)。なお、通算3回優勝時に七段以上のためしなかった例は、連続3回優勝の木村一基・藤井聡太の他、連続優勝を含んで通算3回以上の森内俊之・羽生善治・行方尚史らを含めると10名を超える(1組優勝3回の中原誠のほか、丸山忠久、井上慶太、塚田泰明、深浦康市、森下卓、先崎学、阿部隆など)。
- ^ a b 竜王挑戦の場合は七段に昇段となる。名人については挑戦資格が順位戦A級在位者に限定されており、八段への昇段規定「順位戦A級昇級」が存在するため、名人挑戦者の段位は必然的に八段以上である。
- ^ a b c 竜王戦・名人戦以外のタイトル棋戦での挑戦・獲得の規定による昇段の第1号は、2010年度に王位を獲得した広瀬章人である。まず、挑戦権を得た日付で五段から六段へ1つ昇段し、さらに、奪取に成功した日付で(六段昇段から1年を待たず)即、七段へ昇段した。
- ^ 第3期叡王戦では高見泰地が決勝七番勝負に進出したことにより六段に昇段した。叡王戦はタイトル戦となって一期目であり、当期では決勝進出者同士による番勝負によってタイトル保持者たる叡王を決定することとなっていたため、決勝進出がタイトル挑戦に準じるとされた。“高見泰地五段が六段に昇段”. 日本将棋連盟 (2018年1月30日). 2018年1月30日閲覧。
- ^ 2009年4月1日に追加された規定である。ちなみに、棋戦優勝の規定が追加される前の特別昇段の最後の例は、阿久津主税の七段昇段(2009年4月1日付け)となった(2008年度朝日杯将棋オープン戦優勝を受け、理事会が「類まれなる成績」で昇段させた)。こまおと:日本将棋連盟は4月1日付で昇段規定を改定した(毎日新聞 2009年4月12日)[リンク切れ]
- ^ 3組以下の在籍者でも、竜王の挑戦権を獲得すれば飛び昇級で1組に昇級するため、実質的に1組昇級による昇段と同等の規定である。
- ^ a b 「タイトル2期」の規定制定後、この規定によって初めて八段に昇段したのは、2019年に叡王と王座のタイトルを獲得した永瀬拓矢である。
- ^ 「(名人以外の)タイトル3期獲得かつ八段に昇段していること」という九段への昇段規定により[14]、2018年5月31日までは、八段の棋士であれば3期目のタイトル獲得で直ちに九段に昇段するものの、仮に七段のまま、竜王及び名人以外のタイトルのみを合計3期以上獲得したとしても、八段への昇段規定(竜王位1期獲得、順位戦A級昇級、七段昇段後公式戦190勝)を満たすまで九段昇段は「おあずけ」となっていた[16]。2018年6月1日付で、「(竜王・名人以外の)タイトル2期獲得」による八段への昇段規定が追加されたことで[15]、七段のまま3期目のタイトルを獲得する事象はなくなり、この「おあずけ」は解消された。
- ^ 「タイトル3期」の規定の制定後、この規定によって初めて九段昇段したのは、内藤國雄である。
- ^ この規定による九段昇段においては、2001年 - 2006年の朝日オープン将棋選手権優勝もタイトル獲得に準じる扱いとされる。その唯一の例が深浦康市である(朝日オープン1期と王位2期で、2008年に九段昇段)。
- ^ ただし、順位戦の草創期には、丸田祐三や五十嵐豊一のように飛付き昇段した例が存在する。
- ^ ただし、渡辺明の竜王1期獲得および2期獲得に関してだけは、2005年からすでに適用された(2005年10月 - 11月の2か月間に3つ昇段して九段になった)。
- ^ このようなケースは、実際に発生している。以下はその具体例。
- 中座真は、2006年(第19期)に5組で優勝して4組昇級、2007年4月11日に勝数で六段に昇段した後、同年9月20日に第20期4組3位となり3組昇級(連続2回昇級)を決めて七段に昇段した。
- 村中秀史は、2008年(第21期)に6組3位となり5組昇級、2009年9月15日に勝数で五段に昇段した後、同年10月16日に第22期5組3位で4組昇級(連続2回昇級)を決めて六段に昇段した。なお、村中は次の第23期4組で、ランキング戦1回戦、昇級者決定戦1回戦、残留決定戦を3連敗し、5組に即降級している。
- 大石直嗣は、2012年(第25期)に6組で優勝して5組昇級、2013年4月22日に勝数で五段に昇段した後、同年5月15日に第26期5組決勝進出で4組昇級(連続2回昇級)を決めて六段に昇段した。五段昇段から約3週間、2勝を挙げただけでの昇段となった。
- 三枚堂達也は、2016年(第29期)に6組3位となり5組昇級、2017年7月27日に勝数で五段に昇段した後、同年11月24日に第30期5組3位で4組昇級(連続2回昇級)を決めて六段に昇段した。2017年5月8日の第30期竜王戦ランキング5組準決勝に勝っていたら「公式戦100勝」を待たずに五段に昇段してしまうため、1年以内の六段昇段が難しくなる所だった。竜王ランキング戦の対局に負け、昇級者決定戦の対局を待たずに「公式戦100勝」を達成したことによって六段昇段が早まった珍しいケースである。その後、三枚堂はさらに竜王戦連続昇級を続け、2組昇級が決まった2019年9月4日に、七段に昇段した。前述の通り六段昇段が早まったため七段昇段も早まった。
- 藤井聡太に至っては、竜王戦連続昇級の間に2回の昇段を挟んでいる。すなわち、四段であった時の2017年(第30期)に竜王戦6組から5組に昇級、2018年2月1日に五段に昇段(順位戦C級1組に昇級)、同年2月17日に六段に昇段(第11回朝日杯将棋オープン戦で優勝)した後、同年5月18日に第31期竜王戦5組決勝進出で4組昇級(連続2回昇級)を決めて七段に昇段した。
- 佐々木勇気は、2017年(第30期)に4組で優勝して3組昇級、2017年7月11日に勝数で六段に昇段した後、2018年11月16日に第31期3組3位で2組昇級(連続2回昇級)を決めて七段に昇段した。
- 大橋貴洸は、2018年(第31期)に6組決勝進出で5組昇級、2019年7月31日に勝数で五段に昇段した後、同年10月23日に第32期5組3位で4組昇級(連続2回昇級)を決めて六段に昇段した。第32期竜王戦ランキング5組決勝に進出していたら「公式戦100勝」を待たずに五段に昇段してしまうため、1年以内の六段昇段が難しくなる所だった。竜王ランキング戦の対局に負け、昇級者決定戦の対局を待たずに「公式戦100勝」を達成したことによって六段昇段が早まった、村中秀史、三枚堂達也に続いて3例目である。
- 梶浦宏孝は、2019年(第32期)に6組で優勝して5組昇級、2019年7月25日に勝数で五段に昇段した後、2020年6月4日に第33期5組決勝進出で4組昇級(連続2回昇級)を決めて六段に昇段した。
- ^ 竜王ランキング戦による昇段が「連続昇級」に緩和された2006年以降、2018年までの3組在籍者は全員五段以上であり、それ以前も含め「2組昇級で六段に昇段」の規定により四段から六段まで飛付き昇段した例はない。四段のまま3組まで昇級するには最低5年かかる(連続昇級すると昇段してしまうため、5組昇級→5組残留→4組昇級→4組残留→3組昇級が最短である)ため、この規定で飛付き昇段するためには最低6年かかるが、これだと連続昇級(4組→3組→2組)と2組昇級の2つの昇段規定を満たしたため2つ段位が上がったようにも見えて飛付き昇段という感じはしないため、真の意味で飛付き昇段をするためには3組残留を挟んで最低7年はかかる。この間に他の昇段規定を満たさないのは現実的でない(順位戦で昇級できなかったとしても、これだけの成績を収めていれば7年もあれば100勝はするもんである)。
- ^ 五段での竜王挑戦は羽生善治と渡辺明が達成しているが、当時の昇段規定では「1年に1段位」及び昇段日に縛りがあり飛付き昇段は起こらなかった。
- ^ なお、順位戦では1年に1つしか昇級できず、名人への挑戦権もA級棋士に限られるため、飛びつき昇段は発生せず、同一年度内での複数の昇段も起きない。
- ^ タイトル挑戦・獲得による昇段の規定がなかった時代に、四段の郷田真隆が四段のまま王位を獲得した例がある。
- ^ 従来は昇級年度初日である4月1日付の昇段であったが、2009年以降から現行規定に改定された。安用寺孝功の六段昇段(2009年2月10日付け)が適用ケースの第1号。
- ^ 従来は10月1日付けであったが、上述の飛びつき昇段の制度が導入された頃から現行規定に改定された。
- ^ a b 昇段を決めた対局が収録で行われるテレビ棋戦やインターネット棋戦であるため、対局日と放送日・配信日が異なる場合も昇段規定を達成した対局日が昇段の日付となる。この場合、昇段直後に昇段の発表は行われるが、テレビ放送やインターネット配信等で対局結果が公開されるまで、昇段理由は明示されない。
- ^ 屋敷伸之は、3期目のタイトル(いずれも棋聖)を獲得した当時、まだ七段であった。勝数規定で2002年5月13日に八段に昇段したが、タイトル3期の規定で九段昇段したのは翌々年の2004年4月1日である。この当時、八段免許状発行日(勝数規定での昇段の場合は4月1日付)から最低1年経なければ九段に昇段できないという規定が存在していたため。高橋道雄、羽生善治も順位戦の規定で八段に昇段した後、すでにタイトルを3期獲得していたため、八段昇段後1年で九段に昇段している。
- ^ ただし、王将戦においては、挑戦者決定リーグのシステム上、他の棋士の敗戦によってタイトル挑戦が決まる場合もあるため、結果として対局が組まれない日や敗戦した日が昇段日となる場合がありうる。挑戦者決定のシステムが類似する女流名人戦におけるタイトル挑戦、及び、女流王位戦のリーグ残留についても同様である。
- ^ 斎藤慎太郎の場合、2020年2月13日21時15分に自身の対局を勝利しているが、他の昇級対象者が全員敗戦決定でA級昇級確定したのが深夜0時40分となっている。翌日連盟発表の昇段日は2月13日付となった。 近藤誠也の場合も、自身の勝利が2019年3月5日開始で終局が翌6日0時8分となったが、昇段日は3月5日付となった。
- ^ 清水孝晏は、1974年(昭和49年)に「将棋世界」の編集長を務めていた人[25]。
- ^ なお、日本将棋連盟公式サイトでは、1975年(昭和50年)11月3日に塚田正夫が紫綬褒章を受章した時点での、塚田の氏名表記を「塚田正夫九段」としている[29]。また、塚田正夫は1977年(昭和52年)に死去した直後に「名誉十段」を追贈され、1989年に「実力制第二代名人」を追贈されている[30]。2017年現在、日本将棋連盟公式サイトでの塚田正夫の氏名表記は「名誉十段 塚田正夫」である[30]
- ^ 以前は七段以下でタイトル3期獲得しても、九段への昇段には、別の昇段規定で八段昇段を達成する必要があったが、2018年6月1日付で「(竜王・名人以外の)タイトル2期獲得」による八段への昇段規定が追加されたことで[15]、「タイトル3期」の達成者は必ず九段ということになった。
- ^ 九段昇段当時は名人5期獲得しており、すでに十五世名人の資格を有していた。
- ^ 九段昇段当時は名人在位中であり、その後は保持していたタイトル称号や前名人を称し、現役中に「九段」を称することがないまま、永世称号(永世十段・十六世名人)を名乗っている。
- ^ 九段昇段後にタイトル4期獲得している。
- ^ 朝日オープン1期を含む。
- ^ 同時に「タイトル3期」も達成していたが、連盟が発表した昇段理由は「名人1期」のみである[34]。
- ^ 四段プロ入り後、五段から九段まですべて勝数規定による昇段であり、勝数規定の制定以降に累計勝数810勝で九段まで昇段したのは史上初。
- ^ 例えば、2012年2月24日現在で最強の女流棋士とされる里見香奈女流三冠[35]の「対プロ棋士公式戦通算成績」(2012年2月24日現在)は、20戦、4勝16敗、勝率0.2000 であり、里見の「女流棋士公式戦通算成績」(2012年2月24日現在)159戦、115勝44敗、勝率0.7233 を大きく下回っている[36]。
- ^ 「タイトル戦以外の女流公式棋戦」は、女子将棋YAMADAチャレンジ杯(女流3級を含む女流初段以下の女流棋士が参加)のみ。2012年から2014年は開催なし。2012年までは、女流最強戦(2007年創設2012年終了)、2006年までは、レディースオープントーナメントおよび鹿島杯女流将棋トーナメントの2棋戦があり、これらの棋戦の昇級・昇段条件は「ベスト4で女流1級、準優勝で女流初段、優勝で女流二段に昇段」とされていた。
- ^ a b 女流名人位戦のリーグが1リーグになってからの規定。A級・B級の2リーグがあった当時は、「B級リーグ入り」で女流1級に昇級、「A級リーグへ昇級」で女流初段に昇段、という規定であった。昇段規定:日本将棋連盟(2012年10月14日時点のアーカイブ)も参照。
- ^ 2018年度までは、「リーグ入り」で昇級という規定であった。昇段規定:日本将棋連盟(2019年4月12日時点のアーカイブ)も参照。
- ^ 将棋界の年度は、4月1日に始まり、3月31日に終わる。
- ^ 清水市代が、クイーン四冠=クイーン全冠を達成した2000年6月19日の時点では、女流タイトルは、女流名人、女流王位、女流王将、倉敷藤花の4つだった。その後、女王(第1期マイナビ女子オープン五番勝負は、2008年4月-5月)、女流王座(第1期女流王座戦五番勝負は、2011年10月-12月)、清麗(第1期ヒューリック杯清麗戦五番勝負は、2019年8月-9月)の3つが加わり、2020年3月時点で女流タイトルは、清麗、女王、女流王座、女流名人、女流王位、女流王将、倉敷藤花の7つになっている。
- ^ 15級~11級の級位認定状は2017年に新設。新設 級位認定状
- ^ 没後の追贈。
- ^ 1927年に、関東の棋士団体「東京将棋連盟」と関西の棋士団体「棋正会」が合同して「日本将棋連盟」(旧)が発足した。1936年に「将棋大成会」となった。1947年に「日本将棋連盟」に再びなった。その後、1949年に社団法人日本将棋連盟、2011年に公益社団法人日本将棋連盟となって現在に至る。「日本将棋連盟#前身団体の結成から棋界統一まで」を参照。
- ^ 第51期名人(1993年度)、連盟会長(2005年 - 2012年)
- ^ 塚田恵梨花は、2014年10月1日付で女流2級(プロ入り)、2019年4月1日付で女流初段に昇段。「塚田恵梨花#昇段級履歴」を参照。塚田は、2019年4月18日の東京・将棋会館での「将棋大賞表彰式・昇段者免状授与式」で、はじめて免状を授与された[87]。
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- ^ 「第43回「将棋の日」表彰・感謝の式典の模様」『日本将棋連盟』2017年11月20日。オリジナルの2018年4月13日時点におけるアーカイブ。2018年4月13日閲覧。
参考文献
- 青野照市『将棋界の不思議な仕組み-プロ棋士と言う仕事』創元社、2016年。
- 東公平『近代将棋のあけぼの』河出書房新社、1998年。
- 大山康晴『棋風堂々-将棋と歩んだ六十九年間の軌跡』PHP研究所、1992年。 天狗太郎編
- 加藤治郎 監修『[写真で見る]将棋昭和史』毎日コミュニケーションズ、1987年。