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2018年5月29日 (火) 00:01時点における版

 
徳川秀忠
徳川秀忠像(松平西福寺蔵)
時代 安土桃山時代 - 江戸時代前期
生誕 天正7年4月7日1579年5月2日
死没 寛永9年1月24日1632年3月14日
改名 長松(長丸)→竹千代(幼名)→秀忠
別名 江戸中納言、江戸右大将
戒名 台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士
墓所 増上寺
官位 従五位下・侍従蔵人頭、正五位
武蔵守、従四位下、正四位
右近衛権少将参議、右近衛権中将、
従三位・権中納言、権大納言従二位
近衛大将正二位内大臣
征夷大将軍従一位右大臣太政大臣正一位
幕府 江戸幕府:第2代征夷大将軍
(在任1605年 - 1623年
氏族 徳川氏
父母 父:徳川家康
母:西郷局源姓土岐氏流三河西郷氏
兄弟 信康亀姫督姫結城秀康秀忠松平忠吉振姫武田信吉松平忠輝松千代仙千代松姫義直頼宣頼房市姫
正室:小姫織田信雄の長女、秀吉養女)
継室: 浅井長政の娘、秀吉の養女)
側室: 浄光院(神尾某の娘、没後に側室の扱いを受ける)
千姫珠姫勝姫長丸初姫家光忠長和姫保科正之ほか養女多数
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徳川 秀忠(とくがわ ひでただ)は、安土桃山時代から江戸時代にかけての武将江戸幕府の第2代征夷大将軍

生涯

出生から後継者争い

秀忠が産湯を使ったと伝わる井戸

徳川家康の三男として遠江国浜松に誕生する。母は側室西郷局。母の実家・三河西郷氏土岐氏一族で、室町初期には三河守護代を務めたこともある名家であり、当時も三河国の有力な国人であった。乳母・大姥局によって養育される。同母弟に関ヶ原の戦いで活躍した松平忠吉がいる。

秀忠が誕生してから5か月後に長兄・信康切腹している。次兄である秀康豊臣秀吉に養子として出され、のちに結城氏を継いだため、母親が三河国の名家出身である秀忠が実質的な世子として処遇されることになった。

長丸(秀忠)の存在が注目されたのは、家康と秀吉の講和条件として秀吉の妹である朝日姫(旭姫)を家康に嫁がせることになった時である。同時代の史料では確認できないものの、『三河後風土記』や『武徳編年集成』にはこの時家康が「朝日姫が家康の子を産んでも嫡子とはしないこと」「長丸を秀吉の人質としないこと」「万一、家康が死去しても秀吉は徳川領5か国を長丸に安堵して家督を継がせること」を条件にしたと伝えられている[1]

天正18年(1590年)1月7日[2]小田原征伐に際して実質的な人質として上洛した。これは秀吉が諸大名の妻子を人質に取るように命じた天正17年9月のいわゆる「妻子人質令」を受けての措置であるが、秀吉は長丸の上洛を猶予しているのに対して家康から長丸を上洛させる希望を述べており[3]、更に上洛後も秀吉に拝謁し、織田信雄の娘で秀吉の養女・小姫(春昌院)と祝言を挙げた直後の同月25日には秀吉の許しを得て帰国しており、他大名の妻子とは別格の待遇を受けている[4][1]

この上洛中の1月15日に秀吉に拝謁した長丸は元服して秀吉の偏諱を受けて秀忠と名乗ったとされ(『徳川実紀』)、秀吉から、豊臣姓を与えられる[注釈 1][5]。ただし、同年12月に秀忠が再度上洛した時の勧修寺晴豊の日記『晴豊記』天正18年12月29日条には秀忠を「於長」と称しており[6]、秀忠の元服と一字拝領は同日以降であった可能性もある。なお、翌天正19年(1591年)6月に秀吉から家康に充てられた書状では秀忠を「侍従」と称しており、この時には元服を終えていたと考えられる[7]

また、秀吉の養女・小姫(春昌院)との婚姻については、小姫の実父である信雄と秀吉が仲違いして信雄が除封されたことにより離縁となり、翌天正19年(1591年)に7歳で病死したとされる。ただし、当時は縁組の取決めをすることを「祝言」と称し、後日正式に輿入れして婚姻が成立する事例もあることから、婚約成立後に信雄の改易もしくは小姫の早世によって婚姻が成立しなかった可能性も指摘されている[8]

その後、中納言に任官し、「江戸中納言」と呼ばれる。文禄4年(1595年)には秀吉の養女・と再婚する[注釈 2]。 秀吉から、羽柴名字を与えられる[5]

慶長5年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、東海道を進む家康本隊に対して、中山道を進む別働隊を率いる役割を与えられた。進軍途中、信濃国上田城攻めを行なっていたが、天候不順による進発命令の遅れと行軍の遅れから、9月15日(新暦10月21日)の関ヶ原本戦に間に合わなかった。

9月20日に大津に到着した秀忠は戦勝祝いと合戦遅参の弁明をすべく家康に面会を求めたが家康は「気分が優れない」として面会しなかった。翌日または3日後に面会したと言われている。これには榊原康政ら家臣の仲介があったとされている。

将軍後継者

関ヶ原の戦いのあと家康は三人の息子のうち誰を後継者にすべきかを家臣を集めて尋ねた。本多正信結城秀康を推し、井伊直政本多忠勝松平忠吉を推し、大久保忠隣のみが「乱世においては武勇が肝要だが天下を治めるには文徳も必要。知勇と文徳を持ち謙譲な人柄の秀忠様しかいない」とただ一人秀忠を推した。後日家康は同じ家臣を集め後継者は秀忠とすると告げた。

徳川秀忠像(徳川記念財団蔵)

慶長8年(1603年)2月12日に征夷大将軍に就いて幕府を開いた家康は、徳川氏による将軍職世襲を確実にするため、嫡男・秀忠を右近衛大将(次期将軍候補)にするよう朝廷に奏上し、慶長8年(1603年)4月16日に任命された(すでに大納言であり、父・家康が左近衛大将への任官歴があったので、すぐに認められた)。これにより、秀忠の徳川宗家相続が揺るぎないものとなり、また徳川家による将軍職世襲もほぼ内定した。この時期の秀忠は江戸右大将と呼ばれ、以後代々の徳川将軍家において右大将といえば、将軍家世嗣をさすこととなる。

関ヶ原の戦いの論功行賞の名の下に、豊臣恩顧の大名を西国に移した徳川家は、東海・関東・南東北を完全に押さえ、名実ともに関東の政権を打ち立てた。ここに頼朝(右大将家)を崇拝する家康の願いが現実のものとなる。

そして2年後の慶長10年(1605年)、家康は将軍職を秀忠に譲り、秀忠が第2代征夷大将軍となることとなる。

征夷大将軍

慶長10年(1605年)正月、父・家康は江戸を発ち伏見城へ入る。2月、秀忠も関東・東北・甲信などの東国の諸大名あわせて16万人の上洛軍を率い出達した。

3月21日、秀忠も伏見城へ入る。4月7日、家康は将軍職辞任と後任に秀忠の推挙を朝廷に奏上し、4月16日、秀忠は第2代将軍に任じられた。これにより建前上家康は隠居となり大御所と呼ばれるようになり、秀忠が徳川家当主となる。このとき、家康の参内に随行した板倉重昌も叙任された[9]

徳川秀忠 征夷大将軍の辞令(宣旨)「壬生家四巻之日記」

權大納言源朝臣秀忠
左中辨藤原朝臣總光傳宣
權中納言藤原朝臣光豐宣
奉 勅件人宜爲征夷大將軍者
慶長十年四月十六日
中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮奉

(訓読文)

権大納言源朝臣秀忠(徳川秀忠)
左中弁藤原朝臣総光(広橋総光、正四位上・蔵人頭兼帯)伝へ宣(の)り
権中納言藤原朝臣光豊(勧修寺光豊、従三位・武家伝奏)宣(の)る
勅(みことのり)を奉(うけたまは)るに、件人(くだんのひと)宜しく征夷大将軍に為すべし者(てへり)
慶長10年(1605年)4月16日 中務大輔兼右大史算博士小槻宿禰孝亮(壬生孝亮、従五位下)奉(うけたまは)る

将軍・秀忠は江戸城に居住し、駿府城に住む大御所・家康との間の二元政治体制になるが、本多正信らの補佐により家康の意を汲んだ政治を執った。おもに秀忠は徳川家直轄領および譜代大名を統治し、家康は外様大名との折衝を担当した。

大坂の役にも家康とともに参戦して総大将となり、慶長20年(1615年)のいわゆる「夏の陣」では豊臣家重臣・大野治房によって本陣を脅かされた。豊臣家滅亡後、家康とともに武家諸法度禁中並公家諸法度などの制定につとめた。

なお、将軍襲職の際に源氏長者奨学院別当は譲られなかったとする説がある[10]。『徳川実紀』にはなったと書いてあるが、これは没後さかのぼってのことだというのである。これが事実なら、徳川将軍で唯一源氏長者にならなかった将軍ということになる。

元和2年(1616年)に家康が死去した後は将軍親政を開始し、酒井忠世土井利勝らを老中として幕府の中枢を自身の側近で固め、自らリーダーシップを発揮する。大名統制を強化して福島正則ら多くの外様大名を改易し、熊本藩家中の内紛である牛方馬方騒動を裁いた。3人の弟を尾張紀伊水戸に配置し、自身の子・忠長駿河遠江甲斐を与えた。一方、弟・松平忠輝、甥で娘婿でもある松平忠直や家康の謀臣・本多正純改易配流にしている。また朝廷に対しても厳しい引き締めを行う一方で、娘の一人和子後水尾天皇に入内させた。また鎖国政策の布石として、外国船寄港を平戸長崎に限定させている。

隠居

元和9年(1623年)に上洛をして6月25日に参内すると、将軍職を嫡男・家光に譲る。父・家康に倣って引退後も実権は手放さず、大御所として二元政治を行った。当初、駿府に引退した家康に倣って自身は小田原城で政務を執ることを考えていたようだが、結局は江戸城西の丸(現在の皇居)に移った。

寛永3年(1626年)10月25日から30日まで後水尾天皇の二条城への行幸の際には秀忠と家光が上洛、拝謁した。寛永6年(1629年)の紫衣事件では朝廷・寺社統制の徹底を示し、寛永7年(1630年)9月12日には孫の女一宮が天皇に即位し(明正天皇)、秀忠は天皇の外戚となった。

寛永8年(1631年)には忠長の領地を召し上げて蟄居を命じるが、このころから体調を崩し、翌寛永9年(1632年)1月に薨去。

家光に対して「当家夜をありつの日浅く、今まで創建せし綱紀政令、いまだ全備せしにあらざれば、近年のうちにそれぞれ改修せんと思ひしが、今は不幸にして其の事も遂げずなりぬ、我なからむ後に、御身いささか憚る所なく改正し給へば、これぞ我が志を継ぐとも申すべき孝道なれ」(『徳川実紀』)との遺言を残している。

官歴

※日付=旧暦

  • 天正15年(1587年8月8日、豊臣秀忠として従五位下に叙し、侍従に任官。蔵人頭を兼帯。
  • 天正16年(1588年1月5日、正五位下に昇叙し、武蔵守を兼任。侍従如元。蔵人頭を去る。
  • 天正18年(1590年
    • 1月15日、元服し秀忠と名乗る。
    • 12月29日、従四位下に昇叙し、侍従如元。
  • 天正19年(1591年)、正四位下に昇叙し、右近衛権少将に転任。11月8日、豊臣秀忠として参議に補任し右近衛権中将を兼帯。
  • 文禄元年(1592年5月9日、豊臣秀忠として従三位に昇叙し、権中納言に転任。
  • 文禄3年(1594年2月13日、権中納言を辞任。
  • 慶長6年(1601年3月28日、豊臣秀忠として権大納言に転任。
  • 慶長7年(1602年1月8日、従二位に昇叙。権大納言如元。
  • 慶長8年(1603年4月16日、源秀忠として右近衛大将を兼任。
  • 慶長10年(1605年
    • 4月16日、源秀忠として正二位に昇叙し、内大臣に転任。右近衛大将兼任如元。
    • 5月1日征夷大将軍宣下。
  • 慶長11年(1606年)、内大臣と右近衛大将を辞任。
  • 慶長19年(1614年3月9日、従一位に昇叙し、右大臣に転任。
  • 元和9年(1623年7月27日、右大臣を辞任
  • 寛永3年(1626年8月19日、太政大臣に転任。
  • 寛永9年(1632年

※豊臣秀忠としての宣旨表記に関しては、下村效『日本中世の法と経済」1998年3月 続群書類従完成会発行の論考による。

墓所・遺骸について

法名は台徳院殿興蓮社徳譽入西大居士。墓所は東京都港区の一角にあった台徳院霊廟であったが戦災で焼失し、昭和33年(1958年)に台徳院霊廟が増上寺本堂近くに移転改築された際、土葬されていた秀忠の遺骸も桐ヶ谷斎場荼毘に付されて改葬された。この際に秀忠の遺体の調査が行われたが、その遺体は、棺の蓋や地中の小石等の重みにより、座した姿勢のままその衣服等とともに縦に圧縮され、畳んだ提灯の如くつぶれていた。圧縮により変形が激しく、また骨が著しく分解され軟化していたため、詳細な調査は不可能であった。毛髪等の調査の結果、秀忠の血液型O型で、四肢骨から推定した身長は157.6cmであった。[11][12] また、かつての霊廟室内には宝塔が祀られていたが、こちらも戦災で焼失した。現在は内室崇源院(江)と共に合祀されている。

戦績

関ヶ原の戦い

秀忠は関ヶ原の戦い初陣であった。彼は3万8,000人の大軍を率いながら、わずか2,000人が籠城する信州上田城を攻め、真田昌幸の前に大敗を喫した(上田合戦)。このときの惨敗ぶりを、「我が軍大いに敗れ、死傷算なし」(『烈祖成蹟』)と記されている。この時の秀忠隊は、当時の慣例により作戦対象の信濃会津に隣接する封地を持つ徳川譜代で構成していた[注釈 3]。ただし同時代史料には大規模な戦闘や大敗の記述は無く、家譜類に刈田を起因として小競り合いが記されているのみである。

これについて、「当初より美濃方面に向かっていた秀忠軍に対して、真田が巧妙に挑発し、それに乗せられた結果として秀忠は関ヶ原の会戦に間に合わなかった」「大局への影響の少ない上田城にこだわった秀忠は器量不足だった」「武断派の榊原康政大久保忠隣が策士の本多正信を押し切って秀忠を上田城攻撃に駆り立てた」といった図式が小説等で採用されることがある[注釈 4]

しかし、『浅野家文書』によると、秀忠に同行した浅野長政に宛てて「中納言、信州口へ相働かせ侯間、そこもと御大儀侯へども御出陣侯て、諸事御異見頼入侯」とあることから、家康の当初の命令は信州平定であり、秀忠はそれに従っていたにすぎない。『真田家文書』では真田信幸に対して秀忠は8月23日付の書状で昌幸の籠もる上田城を攻略する予定であることを伝え、小県郡に集結するように命じている。秀忠は小山を出陣してから緩やかに行軍し、上田攻略の前線基地となる小諸城には9月2日に着陣した[13]

一方、岐阜城陥落が早かったことから、江戸の家康は戦略を急遽変更し、秀忠軍に上洛を命じる使者を送り、自身も9月1日に出陣し東海道経由で美濃の前線に向かった。しかし秀忠への使者の行程が豪雨による川の氾濫のため大幅に遅れ、秀忠が命令を受領したのは9月9日とするが、実際に上洛命令を受けたのは森忠政宛秀忠書状から8日の上田であった[14]。秀忠は急いで美濃に向かうが、当時の道幅の狭い隘路が続く中山道は大軍の行軍には適さない上に、その後も川の氾濫で人馬を渡すことができないなど悪条件が重なり、9月15日の関ヶ原開戦に間に合わなかった。

家康は秀忠が間に合わないと察するや、徳川陣営において秀忠を待つか開戦すべきかを協議した。本多忠勝は「秀忠軍を待つべし」と主張し、井伊直政は「即時決戦」を主張した。家康は直政の意見を容れて即時決戦することにした。秀忠は、木曽馬籠に着いた17日に戦勝報告を受けた。

大坂の陣

慶長19年(1614年)の大坂冬の陣出陣のとき、秀忠は10月23日に軍勢を率いて江戸城を出発した。関ヶ原の戦いの時の失敗を取り返そうと、24日に藤沢、26日に三島、27日に清水、28日に掛川、29日には吉田にまで至るという強行軍を続け、秀忠が伏見城に到着したのは11月10日、江戸から伏見まで17日間で到着するという速さであった。このため、秀忠軍の将兵は疲労困憊し、とても戦えるような状況ではなかった。

このときのことを、『当代記』では、次のように記している。

廿六日三島。廿七日清水。廿八日掛川。廿九日吉田御着。路次依急給、供衆一円不相続、況哉武具・荷物己下曾て無持参。 (供廻衆を置き去りにして、武具や荷物も持たずに駆けに駆け、清水に着いたときには徒士240人、騎馬34人ほどだった)

これを知った家康は激怒し、秀忠に軍勢を休ませて徐行して進軍するように命じている。『当代記』では、11月1日に秀忠が岡崎に着いたとき、「揃人数、急度上洛可有儀を、路次中急給故、供奉輩不相揃、軽々敷上給事、不可然」と叱責する使者を出したとまで言われている。ところが秀忠は家康の命令を無視して、11月2日には名古屋、5日には佐和山にまで到着するという強行軍を続けた。このため家康は「大軍数里の行程然るべからざる由、甚だ御腹立」であったと『駿府記』には記されている。

慶長20年(1615年)の大坂夏の陣の直前に行われた軍儀式では、家康、秀忠の双方が先陣を主張した。家康にとっては集大成であり、秀忠にとっては名誉挽回の好機であった。結局、秀忠が頑として譲らなかったため先陣は秀忠が務めたが、総攻撃が開始された5月7日、最激戦となった天王寺口で先陣を務めていたのは家康であり、名誉回復を果たすことはできなかった。

人物

血筋

西三河の土豪から伸し上がった徳川家(松平家)は、三河での覇権が確立して後も、かつて同格であった旧同輩の豪族による反乱に悩まされ続けていた。そのような中で、秀忠の母は土岐氏一門の三河西郷氏の出であり、土岐頼忠の子の西郷頼音を祖とする。三河西郷氏が三河の旧守護代家として、下克上戦国時代では家格は高かったという。

なお、『寛政重修諸家譜』には以下の記載がある(西郷氏 巻第369)。

西郷正勝 母は吉良上総介義富が女

西郷正勝は西郷局の外祖父であり、秀忠の曽祖父に当たる。よって、秀忠は足利氏の傍流である吉良氏の血を引くことになる。

武将としての評価

秀忠を『徳川実紀』では次のように評価している。

東照公(家康)の公達あまたおはしましける中に。岡崎三郎君(松平信康)はじめ、越前黄門(結城秀康)、薩摩中将(松平忠吉)等は、おづれも父君の神武の御性を稟させられ。御武功雄略おおしく世にいちじるしかりし中に。独り台徳院(秀忠)殿には、御幼齢より仁孝恭謙の徳備はらせ給ひ。何事も父君の御庭訓をかしこみ守らせられ。萬ず御旨に露違はせ給はで。いささかも縦覗の御挙動おはしまさざりき

このように、兄の信康や秀康、弟の忠吉などは、武勇や知略に恵まれた名将と評価されている。事実、信康は武勇に優れ、秀康も秀吉にその人物を評価され、忠吉も関ヶ原の本戦で島津豊久を討つという武功を挙げている。それに対して秀忠には、武勇や知略での評価は乏しく、またその評価ができるような合戦も経験していない。ただし、秀忠は2代将軍だったため、後半部分で秀忠は温厚な人物だったと弁護している。しかし、当の徳川家による史書でさえ、秀忠の武将としての評価は低かった。

それでも後継者となったのは、家康が秀忠を「守成の時代」の主君に相応しいと考えていたからだと言われている[15](家康は唐の太宗の治世について記した『貞観政要』を読んでおり、貞観政要には「守成は創業より難し」という一文が存在する)。父の路線を律儀に守り、出来て間もない江戸幕府の基盤を強固にすることを期待されたのであり、結果として秀忠もそれによく応えたと言える。

為政者としての評価

公家諸法度武家諸法度などの法を整備・定着させ、江戸幕府の基礎を固めた為政者としての手腕を高く評価する意見もある[16]。娘の和子後水尾天皇に嫁がせ皇室を牽制、また紫衣事件では寺社勢力を処断し、武家政権の基礎を確立させた。家康没後は政務に意欲的に取り組んでおり、家康が没した直後の元和2年(1616年)7月、小倉藩主の細川忠興は息子・忠利に「此中、公方様御隙なく色々の御仕置仰せ付けられ候」(最近将軍様は政務に余念がない)と書き送っている[17]

秀忠に将軍職を譲った後の家康がそうであったように、家光に将軍職を譲った後の秀忠も、大御所として全面的に政務を見ている。作家の海音寺潮五郎は「家康は全て自分で決めた。秀忠はそれには及ばなかったが半分は自分で決めた。家光は全て重臣任せであった。」としている。

その他

  • 大坂の陣の後のことであるが、弟・義直と共に能を観劇している最中に地震が起こり、周囲がパニックを起こしかけた時に「揺れは激しいが壁や屋根が崩れる兆候はない→下手に動かないほうが安全」と素早く判断して対応を指示し、混乱と被害を抑えている[18]
  • 13歳の時、儒学の講義を受けていた部屋に牛が乱入して騒ぎとなったが、秀忠は冷静に講義を聴き続けていたという逸話がある[18]
  • 遺骨から推定される体格は、身長159cm程度で筋肉質であった。銃創の痕跡が複数見つかっている点から、敵の攻撃に直接曝されるような場所で指揮を執る戦法を多用していたこと、骨にまでダメージが及ぶ負傷にも耐え抜くだけの体力、生命力を有していたことが推定されている。尚、死因は胃癌だったと考えられている[19]。大腿骨の桂状性、脛骨の扁平性の存在など、四肢骨の筋附着部の性状から判断すると、意外と思われるほど筋肉の発達がよく、十分に鍛錬された体である。頭髪は半白であるが、腕の毛とすね毛は濃厚とさえ思える程に黒々として、老境を感じさせない[20]
  • 慶長16年(1611年)、江戸城の女中だった静(浄光院)との間に秀忠の四男・幸松(保科正之)が生まれている。その後も静は正式に側室となることはなく、幸松は高遠藩保科家で養子として養育された。なお、秀忠はその後も幸松を実子として扱うことはなく、自身の遺産分けでも親族扱いはせずあくまで譜代大名の一人としている。
  • 江戸上洛の途中、三島宿で鰻を獲ると神罰が当たるという三島明神の池で鰻を数尾獲った小者がいた。そのことを耳にした秀忠は小者を捕えると宿の外れでに処した。「神罰を畏れぬ者はいずれ国法をも軽んじて犯すに違いない。それでは天下の政道が成り立たぬ。神罰覿面とはこのことよ」と言った。一罰百戒、厳罰主義の秀忠らしいエピソードである。
  • 2012年、徳川記念財団所蔵が所蔵している歴代将軍の肖像画紙形(下絵)が公開された[21][22]。秀忠像は白描淡彩本。

秀忠の室と子女

秀忠の養子

徳川家綱(第4代将軍)、徳川綱重徳川綱吉(第5代将軍)は孫。徳川家宣(第6代将軍)・松平清武は曾孫。徳川家継(第7代将軍)は玄孫にあたる。

秀忠が偏諱を与えた主な人物


(補足)
  • 「忠」の字は祖父の松平広忠から1字を取ったものである。広忠と親戚にあたる松平氏の傍流出身の人物や、譜代大名でこの広忠の時代に「忠」の字を与えられた家臣の子孫には、「忠」の字を通字として用いている家柄も多くみられるので、それらに該当する人物は必ずしも秀忠から授与されたとは限らず、一部省略してある。外様大名や譜代大名の中でも父兄に「忠」の字が入っていない人物に関しては確実視してよいだろう(ただし、細川忠興-忠利親子のように、父は織田信忠からの偏諱、子は秀忠からの偏諱という例もある)。
  • ちなみに秀忠の次男(嫡男)・竹千代の選定を任された以心崇伝は、これにも秀忠の「忠」の字を与えて「家忠」と名乗らせようとしていたが、花山院家祖・藤原家忠の名乗りと同じのを避けて、「家光」を選定している。

乳兄弟

脚注

注釈

  1. ^ 賜姓は1597年説もあり。
  2. ^ 江は近江国の戦国大名浅井長政の三女で、母は織田信長の妹。江は天正14年から文禄元年頃に秀吉の養子・豊臣秀勝に嫁いでいたが、文禄元年に秀勝は死去していた。
  3. ^ ただし、相模に所領を持つ大久保忠隣・本多正信は秀忠の補佐として、秀忠の旗下にあった。
  4. ^ 司馬遼太郎関ヶ原』 (1966年)など。

出典

  1. ^ a b 片山正彦「豊臣政権の対北条政策と家康」『豊臣政権の東国政策と徳川氏』(思文閣出版・佛教大学研究叢書、2017年) ISBN 978-4-7842-1875-2
  2. ^ 『家忠日記』天正18年正月7日条
  3. ^ 木下半介長束大蔵大輔宛「(天正17年)九月十七日付家康書状」(民間蔵)
  4. ^ 『家忠日記』天正18年正月25日条
  5. ^ a b 村川浩平「羽柴氏下賜と豊臣姓下賜」、1996年。
  6. ^ 「家康子於長公家成、予所よりしやうそくニあらためられ候」
  7. ^ 片山正彦「天正年間における豊臣政権の在京賄料」『豊臣政権の東国政策と徳川氏』 思文閣出版〈佛教大学研究叢書〉、2017年。ISBN 978-4-7842-1875-2。P25-27
  8. ^ 片山正彦「書評 福田千鶴著『淀殿 -われ太閤の妻となりて-』」『豊臣政権の東国政策と徳川氏』 思文閣出版〈佛教大学研究叢書〉、2017年。ISBN 978-4-7842-1875-2。P78-80(初出は織豊期研究会『織豊期研究』9号)
  9. ^ 村川浩平「天正・文禄・慶長期、武家叙任と豊臣姓下賜の事例」(『駒沢史学』80号、2013年)120頁。
  10. ^ 岡野友彦『源氏と日本国王』(講談社、2003年)
  11. ^ 鈴木尚『骨は語る 徳川将軍・大名家の人びと』(東京大学出版会、1985年)
  12. ^ 鈴木尚・矢島恭介・山辺知行編集『増上寺徳川将軍墓とその遺品・遺体』(東京大学出版会、1967年)
  13. ^ 柴辻俊六『人物叢書‐真田昌幸』(吉川弘文館、1996年、p.209)
  14. ^ 黒田基樹『「豊臣大名」真田一族』洋泉社、2016年
  15. ^ 小和田哲男『徳川秀忠』(PHP研究所PHP新書]、1999年。87頁)
  16. ^ 山本博文『遊びをする将軍 踊る大名』(教育出版、2002年)P66-67 「家康の路線を確立させたのは秀忠の功績である。政治的資質においては、家光などよりもはるかに優れていた」
  17. ^ 山本博文『江戸城の宮廷政治 熊本藩細川忠興・忠利父子の往復書状』(講談社学術文庫、2004年)P48
  18. ^ a b 岡谷繁実『名将言行録』巻之四十二
  19. ^ 篠田達明『徳川将軍家十五代のカルテ』(新潮新書2005年5月ISBN 978-4106101199
  20. ^ 鈴木尚『骨は語る徳川将軍・大名家の人びと』(東京大学出版会、1985年)24-25頁
  21. ^ “将軍の肖像画、下絵はリアル 徳川宗家に伝来、研究進む”. 朝日新聞. (2012年8月8日). オリジナルの2012年8月10日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20120810121502/http://www.asahi.com/culture/intro/TKY201208070563.html 
  22. ^ 鶴は千年、亀は萬年。2012年8月8日付 Archived 2013年9月1日, at the Wayback Machine.
  23. ^ 系図纂要
  24. ^ a b 「幕府祚胤伝」(『徳川諸家系譜』第2巻)
  25. ^ 「征夷大将軍・系譜総覧」『歴史読本 臨時増刊』(1979年6月)
  26. ^ 言経卿記』慶長六年九月二十一日条、『鹿苑日録』慶長六年九月二十日条

参考文献

関連作品

書籍
小説
テレビドラマ

関連項目

明正天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 正親町天皇
 
 
 
 
 
 
 
8. 誠仁親王
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 万里小路房子
 
 
 
 
 
 
 
4. 後陽成天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 勧修寺晴秀
 
 
 
 
 
 
 
9. 勧修寺晴子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. 粟屋元子
 
 
 
 
 
 
 
2. 後水尾天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 近衛稙家
 
 
 
 
 
 
 
10. 近衛前久
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
21. 久我慶子
 
 
 
 
 
 
 
5. 近衛前子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
11. 宝樹院
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
1. 109代天皇
明正天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 松平広忠
 
 
 
 
 
 
 
12. 徳川家康
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
25. 於大の方
 
 
 
 
 
 
 
6. 徳川秀忠
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 戸塚忠春
 
 
 
 
 
 
 
13. 西郷局
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
27. 西郷正勝
 
 
 
 
 
 
 
3. 徳川和子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. 浅井久政
 
 
 
 
 
 
 
14. 浅井長政
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. 小野殿
 
 
 
 
 
 
 
7. 小督
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
30. 織田信秀
 
 
 
 
 
 
 
15. 於市
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
31. 土田御前