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穂積親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
穂積親王
時代 飛鳥時代-奈良時代
生誕 不詳
薨去 和銅8年7月27日715年8月30日)
別名 穂積皇子
官位 一品知太政官事
父母 父:天武天皇、母:蘇我赤兄大蕤娘
兄弟 高市皇子草壁皇子大津皇子忍壁皇子穂積親王長皇子弓削皇子磯城皇子舎人親王新田部親王
大伴坂上郎女
上道王境部王
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穂積親王(ほづみしんのう)は、天武天皇の第五皇子[1]文武天皇末から元明天皇朝を通じての知太政官事

経歴

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前半生は不明な点が多い。持統朝までは持統天皇5年(691年)に封500戸を与えられた(このときの冠位は浄広弐)こと以外、詳細な事跡は不明である。また『万葉集』に基づき、藤原氏の血を引く但馬皇女藤原不比等の姪。一説では高市皇子妃)との密通が露顕し、一時左遷されていたとの推測もある。

文武朝に入り、大宝元年(701年)の大宝令の制定に伴う位階制度への移行を通じて三品となる。大宝2年(702年)12月の持統上皇の死去に際して作殯宮司を、翌大宝3年(703年)10月の葬儀では御装長官を務めている。

慶雲2年(705年)5月に異母兄・忍壁親王が死去すると[2]、同年9月にその後任として知太政官事に任ぜられる。文武朝末から元明朝を通じて太政官の統括者となり、左大臣石上麻呂右大臣藤原不比等とともに政権を支えた。和銅8年(715年)正月に一品に叙せられるが、母の大蕤娘に先立って同年7月27日に死去。享年は40代前半と推定される。最終官位は知太政官事一品。

群馬県にある多胡碑には、和銅4年(711年)3月9日の日付とともに「太政官二品穂積親王」と名前が刻まれている。また、穂積親王を高松塚古墳の被葬者とする説もある。

和歌

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万葉集』に4首の歌が残っている。以下に挙げる、そのうちの1首は和銅元年(708年)の但馬皇女薨去を悼んで読んだ歌。

  • 降る雪はあはにな降りそ吉隠の猪養の岡の寒からまくに

次の1首は後年になって酒宴の席で過去の出来事を思い出して詠んだ歌。

  • 家にありし櫃に鑠さし蔵めてし 恋の奴のつかみかかりて

官歴

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六国史』による。

系譜

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脚注

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  1. ^ 『続日本紀』霊亀元年7月27日条
  2. ^ 『続日本紀』慶雲2年5月7日条
  3. ^ 『万葉集』巻16-3833
  4. ^ 『万葉集』巻4-694

参考文献

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