弓削皇子
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弓削皇子 | |
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時代 | 飛鳥時代 |
生誕 | 天武天皇2年(673年)頃 |
薨去 | 文武天皇3年7月21日(699年8月21日) |
位階 | 浄広弐 |
父母 | 父:天武天皇、母:大江皇女 |
兄弟 | 高市皇子、草壁皇子、大津皇子、忍壁皇子、穂積皇子、長皇子、弓削皇子、磯城皇子、舎人親王、新田部親王、他 |
弓削皇子(ゆげのみこ)は、天武天皇の第九皇子(第六皇子とも)。冠位は浄広弐。
経歴
[編集]生年は不詳だが、寺西貞弘らによって天武天皇2年(673年)誕生と推測されている。この推定は大宝律令の蔭位の制によって算出されたもので、それほど外れてはいないと思われる。
持統天皇7年(693年)同母兄の長皇子と同時に浄広弐に叙せられる[1]。持統天皇10年(696年)太政大臣・高市皇子薨去後の皇嗣選定会議において発言しようとするも、葛野王に叱責されたことが知られる[2]。同母兄である長皇子を推薦しようとしたのだと推測されている[3]。文武天皇3年(699年)7月21日に母や兄に先立って薨去。前述の生年推定に従えば享年27。
人物
[編集]『万葉集』には8首の歌が収録されており、これは天武天皇の皇子のなかで最多。異母姉妹の紀皇女を思って作った歌、額田王との問答歌などがある[4]。また、それとは別に柿本人麻呂歌集に弓削皇子に献上された歌が5首残されており、交流の跡が偲ばれる。他の歌人とも交流があり、歌を好んだ皇子であったようである。なお、神田秀夫によって『万葉集』の編者のひとりに擬せられているが、現在ではほとんど支持されていない。
弓削皇子に関する歌
[編集]『万葉集』巻第2 119~122番(弓削皇子が紀皇女を思う歌)
- 吉野川 行く瀬の早み しましくも 淀むことなく ありこせぬかも
- 我妹子に 恋ひつつあらずは 秋萩の 咲きて散りぬる 花にあらましを
- 夕さらば 潮満ち来なむ 住吉の 浅香の浦に 玉藻刈りてな
- 大船の 泊つる泊まりの たゆたひに 物思い痩せぬ 人の児故に
『万葉集』巻第3 390番(紀皇女の歌)
- 軽の池の 浦廻行き廻る 鴨すらに 玉藻の上に ひとり寝なくに
異説など
[編集]梅原猛著『黄泉の王』では、高松塚古墳の被葬者に比定されている。また、同書では『万葉集』を根拠に軽皇子(のち文武天皇)の皇太子妃であった紀皇女と密通し、それが原因で持統天皇によって処断されたとの仮説を述べている。
後世の俗書では弓削道鏡との血縁との伝説もあるが、証拠はない。