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「芸予諸島」の版間の差分

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'''芸予諸島'''(げいよしょとう)は、[[瀬戸内海]]西部、[[広島県]]と[[愛媛県]]の間に位置する諸島。両県の[[旧国名]]である[[安芸国]]と[[伊予国]]から一文字ずつ取ってこう呼ばれている。
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含まれるエリアは様々であるが、現在は広島県の全島と、愛媛県今治市島嶼部、上島町の全島を含むことが一般的である。かつては下蒲刈島から大崎上島、大三島の周辺のみの狭いエリアを芸予諸島と呼ぶことがあった。また、芸備群島の一部と備後群島、走島群島は厳密に言えば旧[[備後国]]に属しており、かつてはこれを含めない場合があった。-->
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'''芸予諸島'''(げいよしょとう)は、[[日本]]の[[瀬戸内海]]西部に位置する諸島。[[広島県]]と[[愛媛県]]に属しているため、両県の[[旧国名]]である[[安芸国|安'''芸'''国]]と[[伊予国|伊'''予'''国]]から一文字ずつ取ってこう呼ばれている。


== 地理 ==
== 概要 ==
芸予諸島は広島県本土([[本州]])と愛媛県本土([[四国]])の間に位置する。広島県(旧[[備後国]]を含む)呉市から東の島すべてと、[[愛媛県]]旧[[越智郡]]島嶼部および若干の付属島嶼、大小数百の[[島]]から成る<ref name="kotobank">{{Cite web|url=https://kotobank.jp/word/芸予諸島-59188|title=芸予諸島|publisher=コトバンク|accessdate=2016-08-01}}</ref>。目安としては、東端が広島県福山市[[鞆の浦]]と愛媛県[[今治市]]を結ぶ線、西端が[[能美島]]・[[倉橋島]]までで狭義においては[[広島湾]]内は含まない<ref name="kotobank" />。西に[[防予諸島]]、東に[[笠岡諸島]]がある。かつては下蒲刈島から大崎上島・大三島の周辺のみの狭いエリアを芸予諸島と呼ぶことがあった<ref name="kotobank" />。また、芸備群島の一部と備後群島・走島群島は厳密に言えば旧[[備後国]]に属しており、かつてはこれを含めない場合があった。
地理的には、旧[[備後国]]を含む[[広島県]]すべての島と、[[愛媛県]]旧[[越智郡]]島嶼部および若干の付属島嶼、大小数百の[[島]]からなっている。西に[[防予諸島]]、東に[[笠岡諸島]]がある。


[[市町村合併|平成の大合併]]の結果、芸予諸島の島々からなる市町村の多くは、本州・四国本土を中心とする広島県[[呉市]]・[[尾道市]]、愛媛県[[今治市]]などに組み込まれた。現在、芸予諸島に[[市役所]]・[[町役所・村役所]]を置く自治体には[[江田島市]]・[[大崎上島町]]・[[上島町]]がある。
芸予諸島をより細かく分ける場合、西側から[[安芸群島]]、[[蒲刈群島]]、[[下大崎群島]]、[[上大崎群島]]、[[関前諸島]]、[[来島群島]]、[[越智諸島]]、[[芸備群島]]、[[上島諸島]]、[[備後群島]]、[[走島群島]]とする。備後群島、走島群島は厳密には旧[[備後国]]に属しているが、現在は芸予諸島に含める場合が多い。


芸予諸島をより細かく分ける場合、西側から[[安芸群島]](江田島周辺のみ)・[[蒲刈群島]]・[[下大崎群島]]・[[上大崎群島]]・[[関前諸島]]・[[来島群島]]・[[越智諸島]]・[[芸備群島]]・[[上島諸島]]・[[備後群島]]・[[走島群島]]とする。
=== 架橋 ===

小さな島が密集していることから架橋が盛んな地域であり、本州と四国をつなぐ[[西瀬戸自動車道|瀬戸内しまなみ海道]]が[[向島 (広島県)|向島]]、[[因島]]、[[生口島]]、[[大三島]]、[[伯方島]]、[[見近島]]、[[大島 (愛媛県今治市)|大島]]、[[馬島 (愛媛県)|馬島]]を通る形で建設されている。また、本州から[[下蒲刈島]]、[[上蒲刈島]]、[[豊島]]、[[大崎下島]]、[[平羅島]]、[[中ノ島]]、愛媛県の[[岡村島]]までは、[[安芸灘諸島連絡架橋]]の一部として愛称・[[安芸灘とびしま海道]]で連結している(全体構想としては[[大崎上島]]までのルート)。[[江田島]]、[[倉橋島]]なども本州と橋で繋がっている。
有人島は約50島、人口は合計約17万人。能美島・因島・向島・倉橋島の広島県4島の人口が比較的大きく、いずれも1万人を超えている。他5000人を超えている島として、広島県大崎上島・生口島、愛媛県大島・伯方島・大三島の5島がある。[[2010年]]の[[国勢調査]]によれば[[向島 (広島県)|向島]]([[尾道市]]市街)・[[因島]]に[[人口集中地区]]が存在している<ref>[http://www.stat.go.jp/data/chiri/gis/did.htm]</ref>。殆どの島で本土より早いペースで[[過疎化]]・[[高齢化]]が進行している。

== 自然環境 ==
[[ファイル:芸予諸島.png|900px|center|thumb|芸予諸島の全体図。これには広島湾の島々も書かれているが、能見・倉橋島より西および北側の島々は芸予諸島には含まれない<ref name="kotobank" />。]]
芸予諸島に非常に多くの島が密集していることで、芸備地方の歴史の在り方に種々の影響を及ぼしてきた<ref name=hamada/>。

瀬戸内海は地形の複雑さと干満の差の激しさが流れの速い[[潮]]を生み出した。[[大正時代]]の[[物理学者]]・[[文学者]]である[[寺田寅彦]]は、「広い[[灘]]と灘を連絡する[[海峡]]の両側の海面の高さが時刻によって著しく違うところが出来ます。そうすると水面の高い方から低い方へ海の水が盛んに流れ込むので強い潮の流れができます」(『寺田寅彦全集 第六巻』、[[岩波書店]]、1997年)と記した<ref name=hamada/>。なかでも、四国と[[大島 (愛媛県今治市)|大島]]とに挟まれた[[来島海峡]]はちょうど瀬戸内海の中心に位置し海峡幅も広いため現在では国際航路として様々な船が航行しているが、古くは「一に来島、二に[[鳴門海峡|鳴門]]、三と下って[[関門海峡|馬関瀬戸]]」と唄われるように潮の流れが速く瀬戸内海有数の難所であった<ref>{{Cite web|publisher=しまなみ|url=http://www.imabari-shimanami.jp/kurushima/highlight.html|title=来島海峡のみどころ|accessdate=2016-08-01}}</ref>。こうした地形を巧みな操船技術を持つ者が支配権を握るようになる<ref name=hamada/>。また元々陸地として繋がっていたものを、航路として用いるため開削したところも存在する。例えば、呉市本土と倉橋島の海峡である[[音戸の瀬戸]]には[[日宋貿易]]の航路として用いるため[[平清盛]]が沈む夕日を扇で招いて1日で開削したとの伝承「日招き伝説」が残る(実際に掘削したかは不明)<ref>{{Cite web|publisher=呉オープンカレッジネットワーク会議|url=http://www.kure-opencollege.jp/Material/Chiiki/2005/4.pdf|format=PDF|title=音戸瀬戸平清盛開削伝説に関する学際的研究とその地域教材化|accessdate=2016-08-26}}</ref>。魚がキスしている姿に見える田島と横島(福山市)は、古来はつながっていたが同様に航路として開削したという<ref name="ndl965589">{{Cite book|和書|author = 兼田明逸|publisher=先憂会出版部|title = 沼隈郡田島村誌 : 「吉備高島宮記」|url ={{NDLDC|965589}}|date = 1923|accessdate = 2016-08-26}}</ref>。

地形的特徴としては、どの島も平野部が狭く急峻な山あるいは丘陵地で占められている<ref name="i-manabi92">{{Cite web|publisher=愛媛県生涯学習センター|url=http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/1/view/92|title=(2)自給型農業から商品作物農業へ|accessdate=2016-08-27}}</ref>。芸予諸島最高峰は生口島の観音山で標高472.3m <ref>{{cite web|url=http://www.go-shimanami.jp/spot/?a=86|title=国立公園観音山|publisher=しまなみ海道観光マップ|accessdate=2016-08-27}}</ref>。


気候は[[瀬戸内海式気候]]である。丘陵地で温暖な気候を活かした農業が展開されている。
== 人口・経済 ==
有人島は約50島、人口は合計約17万人。能美島、因島、向島、倉橋島の広島県4島の人口が比較的大きく、いずれも2万人を超えている。他5000人を超えている島として、広島県大崎上島、生口島、愛媛県大島、伯方島、大三島の5島がある。[[広島市]]の市街がある[[宇品島]]、[[尾道市]]の市街がある[[向島 (広島県)|向島]]を除けば、本土より早いペースで[[過疎化]]、[[高齢化]]が進行している島が殆どである。


植生で特徴的なのは、ほぼ[[広葉樹]]による[[代償植生]]で占められている点である。これはこの地で古くから製塩業が盛んで、製塩の際に熱源を必要としたことから燃料用に大量に木々が伐採されたことにより[[はげ山]]となり、そこで繁殖力旺盛な[[アカマツ]]が植えられていったことによる<ref name=hamada/>。
主な産業は[[造船]]、[[観光]]、[[柑橘類]]栽培である。愛媛県であっても広島県への依存度は強く、全域が[[中国電力]]の電力[[送電]]網に属しており、[[中国新聞]]が購読できる。特に[[上島町]]は自動車で四国側に直接渡る手段がなく、一旦[[フェリー]]で広島県側に出て再度愛媛県に入る必要があるほか、[[水道水]]、医療、防災事業なども一部広島県に依存している。


[[イノシシ]]が生息しており、海を泳いで島から島へ渡る様子が住民たちによって度々目撃されている。芸予諸島では、[[ドングリ]]が少なく田畑が休む冬場でも、柑橘類が豊富でイノシシが餌に困ることがない。近年では皮を剥いて食べた痕跡も発見されている<ref>{{cite web|url=http://0845.boo.jp/times/archives/971|title=イノシシ急増被害深刻【2】海を泳ぐ事情と犬嫌い|accessdate=2016-07-11}}</ref>
広島県側は県の積極的な架橋により、[[大崎上島]]と[[厳島]]を除く大型の島は[[離島]]指定が解除されている。一方、愛媛県はしまなみ海道を除けば架橋が進んでいない。[[上島町]]や大下島などの離島が存在するほか、岡村島は四国ではなく本州に接続されている。


半無人島の[[上島町]][[赤穂根島]]では、[[タヌキ]]・[[ハツカネズミ]]などの[[哺乳類]]、[[イシガメ]]・[[クサガメ]]・[[ニホンヤモリ]]・[[ニホントカゲ]]などの[[爬虫類]]、[[モツゴ]]・[[ドジョウ]]・[[メダカ]]などの[[淡水魚]]などが調査によって見つかっている。このうち、ドジョウは愛媛県で[[準絶滅危惧種]]となっているが、水田の整備が進んでいないため赤穂根島では豊富に生息している。またモツゴは人の手によって導入された。<ref>[https://www.i-kahaku.jp/research/bulletin/12/kagaku04.pdf 愛媛県越智郡上島町 赤穂根島総合生物調査]</ref>
かつては本州・四国とその間の島々を結ぶ多数の旅客船・フェリー航路が存在したが、過疎化・人口減少に加え、上記の架橋による陸路シフトの影響もあり、航路休廃止・減便等が続いている。


== 歴史 ==
== 歴史 ==
=== 塩 ===
芸予諸島は古来より[[西日本]]及び大陸・[[朝鮮半島]]と[[京都]]・[[畿内]]を結ぶ海の要衝で、風待ち・汐待ちの浦が各地に発達した。この海域の重要性は安芸国、伊予国の[[一宮|一の宮]]である[[厳島神社]]と[[大山祇神社]](ともに航海の守護)が芸予諸島にあることからもわかる。
芸予諸島の島々は平野部が狭く、温暖小雨であることから古くから[[製塩]]が盛んであった。古くは小型の土器に海水・海藻を入れ煮沸させて製塩しており、芸予諸島近辺では椋の原清水遺跡(松山市)から出土した3世紀末[[弥生時代]]中期末の製塩土器が最古のものになる<ref name="harc">{{cite web|url=http://www.harc.or.jp/iseki/f13/p03.htm|title=広島県の土器製塩 |publisher=広島県教育事業団事務局 |accessdate=2016-08-23}}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:1/26/view/3603|title=芸予諸島の古代製塩 |publisher=愛媛県生涯学習センター |accessdate=2016-08-23}}</ref>。製法が発明あるいは伝達したルートは不明であり、一説では[[岡山県]][[児島地域]]から山陽側を伝わり芸予諸島の島々に広がっていったとしている<ref name="harc" />。


これが[[古墳時代]]後期の製塩土器となると出土例が格段に増えることになる<ref name="harc" />。これは[[ヤマト王権]]が成立した時期に重なり、つまり近畿地方で人口が増えたことから瀬戸内海に塩を求めたと考えられている<ref name="harc" />。
中世には[[塩]]の生産が盛んで、室町時代には「備後」という名称で年9万石余が畿内に送られていた<ref>今谷明「米・塩・木材の道」、『週刊朝日百科日本の歴史』20、中世II-9(琵琶湖と淀の水系)、5-263頁。</ref>。狭い海峡もあり、[[村上水軍]]を初めとする[[水軍]]([[海賊]])が活躍した。砦・居館跡が各地に点在している。また、朝鮮半島との往来も盛んで、朝鮮通信使等の歴史が伝えられている。
== 日本遺産 ==
「“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-」として2016年(平成28年)4月25日に[[日本遺産]]の第二期の19箇所の一つに認定された。全42項目のうち、今治市本土(7箇所)と尾道市本土(3箇所)と以下の島々の中の30箇所に対象がある。
*今治市側:大三島(3箇所)、古城島、伯方島、能島、見近島、大島(5箇所)、武志島と中渡島、来島、小島、怪島
*尾道市側:因島(8箇所)、向島(2箇所)、生口島(2箇所)、瓢箪島、百島<ref>尾道市HP参照
http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/www/info/detail.jsp?id=8160</ref>


中世の荘園時代でも[[塩]]の生産が盛んで、[[室町時代]]には「[[備後]]」という名称で年9万石余が畿内に送られていた<ref>[[今谷明]]「米・塩・木材の道」、『週刊朝日百科日本の歴史』20、中世II-9([[琵琶湖]]と淀の水系)、5-263頁。</ref>。『[[万葉集]]』では「朝凪に玉藻刈りつつ夕凪に藻塩焼きつつ…」と詠まれている<ref name=hamada>{{cite web|url=https://www.shidaikyo.or.jp/newspaper/online/2299/8_1.html|title=海・島が織りなす瀬戸内海の歴史 ~芸備地方を中心に~|accessdate=2016-07-11}}</ref>。[[応安]]4年(1371年)[[今川貞世]](了俊)の紀行文『[[道ゆきぶり]]』には向島を見て「しほやどもかすかにて、やきたつるけぶりのすえ物あはれなり。此島にしほやくたびに、一日二日のほどに必ず雨のふり待るといひならはしなり。(沿岸部で盛んだった製塩業では塩を焼くときの煙で雨を呼んでいた。)」と書かれている<ref>{{Cite web|publisher=海事都市尾道推進協議会|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/kaijitoshi/history/h02.pdf|format=PDF|title=海をめぐる歴史と文化 中世|accessdate=2016-08-23}}</ref>。
== 行政区画 ==

[[市町村合併|平成の大合併]]の結果、[[2006年]]3月末時点で[[愛媛県]]側のすべての島が[[今治市]]と[[上島町]]に、[[広島県]]側も[[江田島市]]、[[呉市]]、[[大崎上島町]]、[[尾道市]]、[[福山市]]に再編された。
塩作りのピークは近世から近代にかけての事になる。江戸時代中期、西廻り航路(後述)が確立すると塩が大量に扱われ、瀬戸内海一帯は一大塩田地帯となった<ref name="co000009490">{{Cite web|publisher=尾道商業会議所記念館|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000009490.pdf|format=PDF|title=第17回企画展示「尾道あ・ら・かると~塩と鉄~」 |accessdate=2016-08-23}}</ref>。商人たちによって島嶼沿岸部が塩田として整備され「浜旦那」と呼ばれた地主・経営者が誕生した<ref name="co000009490" />。また本州・四国側においては、[[竹原]]塩田(広島藩)・松永塩田(備後福山藩)・[[多喜浜塩田]](西条藩)・波止浜塩田(伊予松山藩)が藩主導で整備され藩財政を潤し、近代に入ると[[専売制]]となり国が管理した<ref name="co000009490" /><ref>{{cite web|url=http://www.i-manabi.jp/system/regionals/regionals/ecode:2/31/view/4402|title=愛媛県の塩田 |publisher=愛媛県生涯学習センター |accessdate=2016-08-23}}</ref>。その伝統を受け継いで現在も残るのが「[[伯方の塩]]」である。

=== 大山祇神社と水軍 ===
[[ファイル:Ōyamazumi-jinja keidai.JPG|200px|right|thumb|大山祇神社]]
[[ファイル:Tsuruhime.jpg|200px|right|thumb|三島水軍(大祝氏)の[[鶴姫 (大三島)|鶴姫]]。現在では伝説上の人物とされている。]]
芸予諸島のほぼ中央である大三島には、[[オオヤマツミ|大山積神]]を祭神とする[[一宮|一の宮]][[大山祇神社]]が鎮座する。島は古くは「御島」と言われていた<ref name="NDLDC963633">{{Cite book|和書|author=赤尾政雄|publisher=以文会|title=大三島と大山祇神社 |url ={{NDLDC|963633}}|date =1921|accessdate =2016-08-24}}</ref>。神社は[[宝亀]]9年(778年)[[光仁天皇]]が勧請したものとされ、水の神・山の神・海の神として、そこから航海の神・戦いの神・農耕の神・漁業の神・酒造の神などとして、歴代の朝廷や芸予諸島周辺の信仰の対象であった<ref name="NDLDC963633" /><ref>{{cite web|url=http://www.ooyamazumi.net/rekishi.html|title=大山祇神社について|publisher=大山祇神社 |accessdate=2016-08-24}}</ref>。

大宮司は代々[[越智氏]]、そして越智氏を出自とする[[大祝氏]]が務めた。彼らが後に[[三島水軍]]となる<ref name="NDLDC963633" />。そして越智氏を出自として[[河野氏]]が生まれ河野水軍が編成され、瀬戸内海の広い範囲を支配した<ref name="NDLDC963633" />。[[平安時代]]末期の[[治承・寿永の乱|源平合戦]]で[[源氏]]方に呼応し、[[壇ノ浦の戦い]]では150艘もの水軍を編成し勝利に導いた<ref name="1sho" />。鎌倉時代の[[元寇]]の役では[[河野通有]]が水軍勢として活躍した<ref name="1sho" />。大山祇神社の社宝として剣・甲冑・弓箭具などの武器武具類の多いのは、神社を氏神とした河野氏が奉納したことによる<ref name="NDLDC963633" />。後述の村上水軍(海賊)も形式上は河野氏配下になる。

また航路の要所では「海賊」が生まれることになる。[[律令国家]]は陸路を重視し、[[大宰府]]から[[都]]につながる[[大宰府道]]・[[山陽道]]を交通の中心としたが、平安時代以降は、[[平安京]]で消費される米・塩など重量の重い物資を輸送力の高い海運に頼るようになり、波が穏やかで大きな[[潮汐差]]を船の推進力に利用できる瀬戸内海には多くの輸送船が往来するようになった。経済的な価値を高めた芸予諸島は、[[畿内]]の[[貴族]]・大寺社などによって荘園化が進められた。[[国司]]や[[荘園領主]]は[[徴税]]を強化することで、製塩や海産物資源を獲得し、住民の移動・流浪を抑えて定住化を図った。これに反発する海運従事者や異郷に流浪する人々などは各地で紛争を引き起こし、海賊を生む状況を作り出した<ref name=hamada/>。

当時の海賊衆の様子がわかるものの一つに、[[室町時代]]に[[朝鮮使節]]として来日した[[宋希璟]]の『[[老松堂日本行録]]』(1420年)がある。そこには、京都への往路、「[[三之瀬|鎌刈三の瀬]]」を通過する際の記事として、「かつてここで[[朝鮮使節|朝鮮使]]が海賊に遭遇し、船中の[[礼物]]や食糧・衣服などを全部[[掠奪]]されたが使者以下は害を免れたこと、そこは[[室町幕府]][[征夷大将軍|将軍]]の威光の届かない場所であるが、東より西に向かう船は東の海賊を一人乗せれば西の海賊が害を及ぼさず、西より東に向かう船は西の海賊を乗せれば東の海賊が害を及ぼさないことになっているので、七[[貫|貫文]]出して東の海賊を乗せてきたこと」などを記している。このことから海賊衆が瀬戸内海各地に[[関所]]を設定して[[船舶]]から[[関銭]]を徴収したり、船舶に乗船して水先案内や警護の見返りに金銭を受け取っていたことが分かる<ref name=hamada/>。

こうした海賊は時代が下ると組織だって行動し始め、水軍となっていった<ref name="1sho">{{cite web|url=http://www.kankou.pref.hiroshima.jp/madamada/setonaikai/suigun/1sho.html|title=あけぼのの伊予水軍|publisher=広島観光ナビ|accessdate=2016-08-19}}</ref>。そして[[戦国大名]]は彼らと対立、あるいは”警固衆”として味方に引き入れようと画策していった<ref name="co0000024749">{{cite web|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/info/0000024749.pdf|format=PDF|title=Ⅲ 水軍と城跡 |publisher=尾道市|accessdate=2016-08-19}}</ref>。

=== 水軍の勢力争い ===
[[ファイル:Gthumb.svg|200px|right|thumb|村上水軍の総領家で能島殿と呼ばれた[[村上武吉]]。]]
[[ファイル:Kobayakawa Takakage (Beisanji Mihara).jpg|200px|right|thumb|小早川水軍、後の[[毛利水軍]]を指揮した[[小早川隆景]]。]]

芸予諸島の海賊衆の中で最も有名なのが[[村上水軍]](村上海賊)である。[[南北朝時代 (日本)|南北朝時代]]に[[南朝 (日本)|南朝方]]として活躍した[[村上義弘 (武将)|村上義弘]]が祖と伝えられ、この時代に[[東寺]][[弓削島]]荘の近海で活動を行っていたことが確認されている。彼らは形式上は河野氏配下であったが独自路線を歩み、芸予諸島において西瀬戸内海の海上交通・海上運輸における「独自の秩序」を作り上げ、瀬戸内海航路を縦横に遮る連繋をとることで活動を行っていたと考えられている<ref name=hamada/>。伝承によればもともと同一の家から次の3つの一族に分立した<ref name=hamada/>。
* [[能島]]村上氏 - 芸予諸島の[[大島]]-[[伯方島]]間の船折の瀬戸の真ん中にある[[能島城]]・[[大三島]]と[[伯方島]]間の屈曲の多い鼻栗の瀬戸にのぞむ[[甘崎城]]などを築いて活動した。[[能島城]]には[[居館]]・[[家臣屋敷]]・[[職人屋敷]]が、隣接する[[鵜島]]には[[造船所]]・[[船奉行屋敷]]・[[船大工屋敷]]などが存在した。
* [[来島]]村上氏 - [[高縄半島]]-[[大島]]間の[[来島瀬戸]]に[[来島]]・[[中渡島]]・[[武志島]]の砦を築く
* [[因島]]村上氏 - 因島南端にあり燧灘に対する基地となった長崎城、尾道水道への抑えとして築かれた青木城、島の中央の青陰城などを拠点に活動
[[宣教師]][[ルイス・フロイス]]は、村上水軍を“日本最大の海賊”と評した<ref name="nihon_isan36">{{Cite web|publisher=文化庁|url=http://www.bunka.go.jp/seisaku/bunkazai/nihon_isan/pdf/nihon_isan36.pdf|format=PDF|title=“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-|accessdate=2016-08-05}}</ref>。

また南北朝時代、[[北朝 (日本)|北朝方]]として備後沼田(三原市)を拠点とした[[小早川氏]]が南下してくる<ref name="co0000024749" />。勢力を拡大した小早川氏はそれぞれの島で警固衆([[小早川水軍]])を編成すると、室町時代に前述の"備後"と呼ばれた塩の取引に絡んでいる<ref >{{cite web|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/info/0000014564.pdf|format=PDF|title=尾道の歴史と遺跡 近世編|publisher=尾道市教育委員会 |accessdate=2016-08-05}}</ref>。その[[庶家]]の一つ[[生口氏]]の拠点である瀬戸田(生口島)から出る"生口船"は室町幕府保護のもとで備後を運び、その取引量は文安2年(1445年)[[大輪田泊|兵庫湊]]([[神戸港]])海関の通行記録である『兵庫北関入船納帳』で瀬戸内海有数のものであったことがわかっている<ref>{{cite web|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/info/0000009790.pdf|format=PDF|title=尾道の歴史と遺跡 中世編 第1章 港町の成立と発展|publisher=尾道市教育委員会 |accessdate=2016-08-05}}</ref>。彼ら小早川氏一門はのちに安芸の戦国大名[[毛利元就]]の傘下に入ることになる。

そして、西側から周防守護[[大内氏]]が進出してくる。南北朝時代に倉橋島や蒲刈群島に移り住んだ[[多賀谷氏]](倉橋多賀谷氏・蒲刈多賀谷氏)が戦国時代中期には大内氏警固衆として活躍している<ref>{{cite web|url=http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/bunkazai/bunkazai-data-206121100.html|title=広島県の文化財 - 丸子山城跡|publisher=大山祇神社 |accessdate=2016-08-24}}</ref>。この芸予諸島を掌握しようとした大内氏と土着の警固衆・海賊衆とが対立していくのである。

[[1551年]]、[[大内義隆]]に仕えていた[[陶晴賢]]は[[下剋上|主君を倒し]]、瀬戸内海上の交通・運輸ルートを掌握した。晴賢は海賊衆の秩序に介入し、海賊衆らの警固料徴収を禁止し、商人からの礼銭を独占しようとした。村上水軍はこれに反発し、晴賢と元就が衝突した[[1555年]]の[[厳島合戦]]では、小早川氏を介して元就に味方した。村上水軍を味方につけた元就は厳島で4000人余の軍勢を率い、2万人の陶軍を破って瀬戸内海の交易路を掌握した。これ以降、毛利氏は中国地方の覇権を握ることになる<ref name=hamada/>。

ただ、彼ら海賊衆は天正16年(1588年)[[豊臣秀吉]]の[[海賊停止令]]により、事実上解体されることになる。この中で「伊郡喜島(斎島)では海賊行為を禁止したにもかかわらず、まだ出没している」と名指しされており、伝承によると当時の島民は秀吉により虐殺されたという<ref>{{cite web|url=https://nippon.zaidan.info/seikabutsu/1999/00240/contents/019.htm|title=瀬戸内を生きた人びと|publisher=日本観光振興協会 |accessdate=2016-08-27}}</ref>。

=== 交易路としての発展 ===
{{Location_map_with_crop
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{{Location map~|Japan |lat=34.17|long=132.86||marksize=10|position=bottom| label=御手洗}}
{{Location map~|Japan |lat=33.83 |long=132.11|marksize=10|mark = Yellow pog.svg|position=bottom| label=上関}}
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{{Location map~|Japan |lat=34.35 |long=133.17|marksize=10|mark = Green pog.svg}}<!-- 布刈瀬戸 -->
{{Location map~|Japan |lat=34.22 |long=133.05|marksize=10|position=top| label=鼻栗}}
{{Location map~|Japan |lat=34.26 |long=133.20|marksize=10|position=right| label=弓削}}
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{{Location map~|Japan |lat=34.38 |long=133.38|marksize=10|mark = Yellow pog.svg|position=top| label=鞆}}
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{{Location map~|Japan |lat=34.06 |long=132.99|marksize=10|mark = Green pog.svg|position=bottom| label=今治}}
{{Location map~|Japan |lat=33.86 |long=132.72|marksize=10|mark = Green pog.svg|position=bottom| label=三津浜}}
|caption=近世における主な地乗りおよび沖乗りの港<ref name="westjr1">{{Cite web|publisher=JR西日本|url=http://www.westjr.co.jp/company/info/issue/bsignal/04_vol_94/feature01.html|title=御手洗 -1|accessdate=2016-08-01}}</ref>。赤が沖乗り、緑が地乗り、黄が共通。
}}
[[ファイル:Yutakamachi-mitarai.jpg|thumb|200px|right|御手洗の町並み]]
[[近世]]に入ると瀬戸内海一体では[[木綿帆]]が普及しており、水主の労働力の省力化と高速化を可能にする帆走専用の[[弁財船]]が発達し、ある程度の横風や逆風のなかでも帆走が可能になった。特に古くから造船業で栄えていた[[広島藩]][[倉橋島]]では「終日丁々戞々の音」絶えないほど盛んに船が造られ、全国各地から注文が殺到したといわれる<ref name=hamada/>。

江戸幕府は各地に[[海駅]](海路における公認[[宿場]])を置き、芸予諸島内では[[三之瀬]]([[下蒲刈島]])と[[鞆の浦]]が整備された。江戸時代の[[1605年]]以後、将軍代替わりを慶賀して[[朝鮮王朝]]から[[朝鮮通信使]]が[[1811年]]まで計12回来日した。通信使は瀬戸内海を通り、芸予諸島で接待を受けた。特に三之瀬は評判がよく、通信使一行から「安芸蒲刈御馳走一番」と絶賛された。また、鞆の浦からながめた瀬戸内海の風景は「日東第一形勝」(日本一の景勝)と賞賛された<ref name=hamada/>。

[[17世紀]]後半[[寛文]]期頃、[[河村瑞賢]]によって[[東廻り航路]]・[[西廻り航路]]が整備され、[[東北地方]]・[[北陸地方]]の米穀などを[[江戸]]に運輸送する海上ルートが発達した。すでに西日本各地を水運でつないでいた瀬戸内海は、西廻り航路の整備によって、「天下の台所」[[大坂]]と、[[蝦夷地]]、東北・北陸・[[山陰地方]]を結ぶ物資輸送の大動脈となった。これによって島伝いに沖合を航行する「[[沖乗り]]」が発達し、[[御手洗 (呉市)|御手洗]]・木江(大崎上島)・鼻栗(大三島)・岩城・弓削など瀬戸内中央部の港町は成長を遂げた。芸予諸島には「[[風待ち]]」「[[潮待ち]]」の船が入港した。御手洗では船宿・商家・倉庫、船の発着場の雁木や船番所などもできて港町としての整備がはかられ、当初は、薪・水・燃料供給が中心であったが、18世紀以降は北国米を中心とする廻船間の仲介・中継的[[問屋]]商業も盛んになった<ref name=hamada/>。

江戸時代後期、藩の影響力を超えて芸予の地域交流が盛んになり、安芸の[[忠海]]からは塩・[[綿実]]・[[煙草]]・[[菰俵]]・[[苧]]などの特産品が多く輸出され、[[伊予廻船]]を通じて伊予から[[干鰯]]([[肥料]])・[[炭]]・[[蝋]]・[[紙]]などが輸入された。この頃の芸予諸島は物流の発展により、全国的にみても[[貨幣経済]]の浸透度が高かったとされる<ref name=hamada/>。

[[下見吉十郎]]によって[[サツマイモ]]栽培が導入されたのもこの頃である。

=== 近代化と新産業 ===
こうした繁栄は、[[明治時代]]以降[[機帆船]]の登場により風待ち潮待ちは必要がなくなり、そして鉄道の登場により物流も変わったため、港の存在意義はなくなり衰えていった<ref name="uminet">{{Cite web|publisher=瀬戸内・海の路ネットワーク推進協議会|url=http://www.uminet.jp/know/history/index.html|title=瀬戸内海の歴史|accessdate=2016-08-06}}</ref>。その様子は「まるで水から引きあげた切花のように凋んでしまった」と言われるほどであった<ref name="uminet" />。

ただ、機帆船にとっても来島海峡は航行困難な海峡であった。航行速度の遅い船はそこを避けるように北側を大きく迂回する航路、大三島と大崎上島の間-三原沖-向島と因島の間を通る”三原瀬戸航路”が活用されるようになる<ref>{{Cite web|publisher=土木学会|url=http://committees.jsce.or.jp/heritage/node/403|title=旧大浜埼船舶通航潮流信号所|accessdate=2016-08-06}}</ref>。そして航行困難な来島海峡と、航行は比較的容易ではあるが狭い航路幅に多くの船が航行した三原瀬戸航路では、船のトラブルが多発したためその周辺で近代的な造船所が出来ていくのである<ref>{{Cite journal|和書|author1=杉本誠起|publisher=岡山医学会|journal=岡山医学会雑誌 No.114|url=http://ousar.lib.okayama-u.ac.jp/metadata/13624|format=PDF|title=因島総合病院|date=2002-09-30|accessdate=2016-08-06}}</ref>。

丘陵地を活かし、さらに温暖な機構を活かして近代から取り組まれてたのが柑橘栽培である。愛媛では江戸時代終わりからミカンの栽培が始まり、現在では日本有数の産地となった<ref>{{Cite web|url=http://www.pref.ehime.jp/h35500/7757/documents/page1-4.pdf|format=PDF|title=愛媛県はなぜ日本有数のみかん産地か|publisher=愛媛県|accessdate=2016-08-06}}</ref>。

[[ファイル:Tanacetum cinerariifolium in Shigei.JPG|thumb|200px|因島で観光用に栽培されている除虫菊]]
近代のみ栄えた農業の一つに除虫菊([[シロバナムシヨケギク]])栽培が挙げられる。外来種の除虫菊が日本に導入されたのが明治初期[[上山英一郎]]によって導入された<ref name="i-manabi92" /><ref name="hb870">{{Cite web|publisher=ひろしま文化大百科|url=http://www.hiroshima-bunka.jp/modules/newdb/detail.php?id=870|title=因島の除虫菊(いんのしまのじょちゅうぎく)|accessdate=2016-08-24}}</ref>。大正になって普及が進み、第一次世界大戦によって輸入殺虫剤が途絶えると除虫菊の需要は高まった<ref>{{Cite journal|和書|author1=内山幸久|publisher=立正大学人文科学研究所|journal=立正大学人文科学研究所年報 No.5|url=http://repository.ris.ac.jp/dspace/handle/11266/2241|format=PDF|title=III 因島市における商品作物生産の特徴|date=1985|accessdate=2016-08-24}}</ref>。ただ戦後になると[[ピレスロイド|ピレトリン]]が化学合成されるようになったため作付は激減した<ref name="hb870" />。

近代、芸予諸島では大勢の[[移民]]を輩出した。平野部がほぼ塩田で耕地地が少なくその面積に対して農業人口が多かったこと、また江戸時代から[[出稼ぎ]]が多かったことも一因として挙げられる<ref name=hamada/>。例えば、内海(福山市)の田島・横島の漁民は江戸時代から[[西海捕鯨]]に従事し、近代以降は漁業移民として[[マニラ湾]]へ進出したという<ref>{{Cite web|url=https://www.city.fukuyama.hiroshima.jp/site/miryoku/37253.html|title=≪インタビュー企画≫捕鯨文化が生んだ技術と組織産業の礎|publisher=福山市|accessdate=2016-08-06}}</ref>。そして明治29年(1896年)船舶職員法改正により、それまでの廻船船頭は近代船の船長として認められなくなったことから専門知識を学ぶ商船学校が設立されることになり<ref>{{Cite book|和書|author=望月圭介伝刊行会|publisher=羽田書店|title=望月圭介伝 |url ={{NDLDC|1908669}}|page=26|date =1945|accessdate =2016-08-12}}</ref>、これが現在[[弓削商船高等専門学校]]や[[広島商船高等専門学校]]などとして存続している。

一方で女性の仕事としては[[おちょろ舟]]があった。これは港に停泊する船に対して陸側から小舟で春を売りに行く遊女舟で、船員に対して夜の世話だけでなく家事などの身の回りの世話もしていた<ref name="nk_sp02_67">{{Cite journal|和書|author=布川弘|publisher=広島大学|url=http://ir.lib.hiroshima-u.ac.jp/files/public/16019/20141016124425766532/nk_sp02_67.pdf|format=PDF|title=近世後期瀬戸内における「船後家」について|date=2006|accessdate=2016-08-26}}</ref><ref>{{Cite web|publisher=岩波書店|url=https://www.iwanami.co.jp/moreinfo/0247020/top3.html|title=“瀬戸内の遊女と「おちょろ」”より|accessdate=2016-08-26}}</ref>。近世において沖乗りの港として大きく栄えた大崎下島の御手洗や、近代に石炭輸送の中継基地として栄えた大崎上島の木江が有名で、[[井伏鱒二]]『人と人影』など近代小説・紀行文などにも登場する。[[売春防止法]]以降廃止されているが、現在でも遊郭跡など当時のものが残っている。特に御手洗では、彼女たちを敬い大切に扱った痕跡が残っている<ref name="nk_sp02_67" />。

=== 近代の軍事拠点 ===
{{節スタブ|呉鎮守府、芸予要塞、大久野島、太平洋戦争末期の空襲のことなど}}

=== しまなみ市構想 ===
{{節スタブ|越県合併を中心に}}

== 経済・産業 ==
主な産業は[[造船]]・[[観光]]・[[柑橘類]]栽培である。愛媛県であっても広島県への依存度は強く、全域が[[中国電力]]の電力[[送電]]網に属しており、[[中国新聞]]が購読できる。特に[[上島町]]は自動車で四国側に直接渡る手段がなく、一旦[[フェリー]]で広島県側に出て再度愛媛県に入る必要があるほか、[[水道水]]・[[医療]]・防災事業なども一部広島県に依存している。

=== 造船 ===
[[ファイル:JCG Takuyou HL02.jpg|200px|right|thumb|内海造船因島工場]]
古くから造船で栄えていた芸予諸島では、[[明治時代]]以降も日本造船業の一大拠点であった。造船業は波が激しく、戦争による[[特需]]とその反動が繰り返されていた。しかし、[[オイルショック]]が起きた[[1970年代]]以降は「構造的不況」によって造船業が衰退し、造船によって成り立っていた因島では不況により「'''島が沈む'''」とまで言われた。[[2000年代]]には、[[中華人民共和国|中国]]の経済成長によって造船の発注が増え、特需を迎えた<ref>{{Cite web|publisher=尾道商業会議所記念館|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/open_imgs/service/0000008091.pdf|format=PDF|title=第15回企画展示 てっぱん」・造船のまち尾道|accessdate=2017-07-14}}</ref>。

'''芸予諸島に造船所を置く主な企業'''
* [[内海造船]]
* [[ジャパン マリンユナイテッド]]
* [[三和ドック]]
* [[佐々木造船]]
* [[新来島宇品どっく]]

=== 農業 ===
[[蜜柑]]をはじめ、柑橘類の栽培が盛ん。急峻な山の頂上まで[[段々畑]]を築き、無人島に出向いて蜜柑畑を作る[[出作]]も行われている<ref>{{Cite web|url=http://www.ja-h-yutaka.or.jp/gaiyou.html|title=概要|accessdate=2017-07-14}}</ref>。[[ハッサク]]は、[[幕末]]に[[因島]]田熊町(旧[[因島市]])の[[浄土寺 (尾道市)|浄土寺]]で[[原木]]が発見された<ref>[http://island.geocities.jp/citrus_innoshima/ 因島柑橘史]</ref>。生口島と大崎下島では国産レモンの栽培が盛んで、この2島だけで国内生産量のの50%以上を占めている<ref >{{cite web|url=http://web.archive.org/web/20150414024736/http://www.pref.hiroshima.lg.jp/site/kazyuyasaikaki/setoushihiroshimalemon.html|title=瀬戸内 広島レモンとは|publisher=広島県|dete=2012-11-29|accessdate=2016-08-24}}</ref>。

=== 観光 ===
芸予諸島の近海は「'''日本の[[エーゲ海]]'''」とも呼ばれ、多島からなる景観が高く評価されている。また、新鮮な[[魚]]や[[柑橘]]、[[郷土料理]]など、多くの[[観光資源]]を有している<ref>{{cite web|url=http://alkg.jp/contents/201509282017/38/138008/|title=
海の道 瀬戸内しまなみ海道|accessdate=2016-07-11}}</ref>

==== 主な観光資源 ====
[[File:Kurushimakaikyou ohashi01.jpg|thumb|right|しまなみ海道の一部、[[来島海峡大橋]]]]
* '''[[しまなみ海道]]'''(広島県尾道市-愛媛県今治市間、約70km) - サイクリングコースがある<ref name=agora>{{cite web|url=http://agora-web.jp/archives/1444672.html|title=広島で「おしい」のは、観光資源?いや、交通インフラでしょう|accessdate=2016-07-11}}</ref>
* '''[[契島]]''' - 島全体が工場となっている。[[廃墟]]である世界遺産「[[端島]]」と比較して「生きた[[軍艦島]]」と呼ばれる<ref name=chigiri>{{cite web|url=http://www.sankei.com/life/news/150927/lif1509270015-n1.html|title=【探訪】広島県・契島 雨にかすむ「生きた軍艦島」(|accessdate=2016-07-11}}</ref>
* [[大久野島]] - '''[[ウサギ]]の楽園'''と言われる
* '''[[来島海峡]]''' - [[日本三大急潮]]の一つ

=== 海運 ===
愛媛県今治市の旧伯方町の島々では[[海運業]]が盛んであり、昔から地元造船所が船主に対して建造代金の分割払いを認める「'''愛媛方式'''」という[[商慣行]]によって、零細事業者が何隻もの船を持つ独特の経営が根付いている<ref>{{cite web|url=http://globe.asahi.com/movers_shakers/120115/01_01.html|title=日本海運支える「愛媛船主」 生き残りかけた正念場に|accessdate=2016-07-11}}</ref>

かつては本州・四国とその間の島々を結ぶ多数の[[旅客船]]・[[フェリー]][[航路]]が存在したが、過疎化・人口減少、架橋による陸路シフトの影響もあり、航路休廃止・減便等が続いている。

'''主なフェリー会社'''
{{Col-begin}}
{{Col-2}}
* [[大三島ブルーライン]]
* [[斎島汽船]]
* [[しまなみ海運]]
* [[山陽商船]]
* [[大崎汽船]]
* [[安芸津フェリー]]
{{Col-2}}
* [[瀬戸内クルージング]]
* [[土生商船]]
* [[今治市営フェリー]]
* [[芸予汽船]]
* [[弓削汽船]]
* [[家老渡フェリー汽船]]
{{Col-end}}

=== 架橋 ===
広島県側は県の積極的な架橋により、[[大崎上島]]を除く大型の島は[[離島]]指定が解除されている。一方、愛媛県はしまなみ海道を除けば架橋が進んでいない。[[上島町]]や大下島などの離島が存在するほか、岡村島は四国ではなく本州に接続されている。

小さな島が密集していることから架橋が盛んな地域であり、本州と四国をつなぐ[[西瀬戸自動車道|瀬戸内しまなみ海道]]が[[向島 (広島県)|向島]]-[[因島]]-[[生口島]]-[[大三島]]-[[伯方島]]-[[見近島]]-[[大島 (愛媛県今治市)|大島]]-[[馬島 (愛媛県)|馬島]]を通る形で建設されている。また、[[下蒲刈島]]-[[上蒲刈島]]-[[豊島]]-[[大崎下島]]-[[平羅島]]-[[中ノ島]](以上広島県)-[[岡村島]](愛媛県)までは、[[安芸灘諸島連絡架橋]]の一部として愛称・[[安芸灘とびしま海道]]で連結している(全体構想としては[[大崎上島]]までのルート)。[[江田島]]・[[倉橋島]]なども本州と橋で繋がっている。

{{本州四国連絡橋尾道・今治ルート}}
{{安芸灘諸島連絡架橋}}

=== その他 ===
[[契島]]では、[[東邦亜鉛]]によって[[銀]]・[[銅]]・[[鉛]]が生成されている。特に鉛は日本全体の90%を生産しており、その大部分が[[自動車]]の[[バッテリー]]に使われる<ref name=chigiri/>

== 文化 ==
江戸時代における朝鮮王国(朝鮮通信使)との交流によって、芸予諸島の人々は日本文化の独自性を認識するようになったとされる。また、経済的豊かさや[[上方文化]]をはじめ各地との交流によって芸予諸島の町人・民衆文化が隆盛した。『[[日本外史]]』を著した[[頼山陽]]は晩年に京都の自邸書斎を「[[山紫水明処]]」と名付けた。この「山紫水明」(山影は青紫に沈み、海面は乳白色に光り、刻一刻暮色を深める風景)は、瀬戸内海の素晴らしい景観を伝える表現と言われている。

[[ファイル:HYOTAN-SHIMA Island 1981.jpg|180px|right|thumb|瓢箪島の上空写真。上(北)が広島県、下(南)が愛媛県]]
* 広島・愛媛県境がある[[瓢箪島]]は[[NHK]]の[[人形劇]]『[[ひょっこりひょうたん島]]』(1964年放送開始)のモデルとする見方もある<ref>{{cite web|url=http://www.city.onomichi.hiroshima.jp/www/info/detail.jsp?id=4386|title=瓢箪島が登録記念物に登録されます|publisher=尾道市|accessdate=2016-07-10}}</ref>
* [[連続テレビ小説]](NHK)の『[[てっぱん]]』では、[[向島 (広島県)|向島]]が重要な舞台の1つとなった。

=== 日本遺産 ===
「'''“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる[[村上水軍|村上海賊]]“Murakami KAIZOKU”の記憶-'''」として[[2016年]]4月25日に[[日本遺産]]の第2期の19箇所の一つに認定された。全42項目のうち、[[今治市]]本土(7箇所)と[[尾道市]]本土(3箇所)と以下の島々の中の30箇所に対象がある<ref name="nihon_isan36" />。なお生口島([[生口氏]])や瓢箪島と村上氏とは直接関係ないものも含まれている。
* 今治側:大三島(3箇所)、古城島、伯方島、能島、見近島、大島(5箇所)、武志島・中渡島、来島、小島、怪島
* 尾道側:因島(8箇所)、向島(2箇所)、生口島(2箇所)、瓢箪島、百島


== 各島の概要 ==
== 各島の概要 ==
* 各島の詳細は各島の頁を参照
* 各島の詳細は各島の頁を参照
* 面積の単位は平方キロメートル
* 面積の単位は平方キロメートル
* 人口の単位は人(平成22年)
* 人口の単位は人(2010年)
* 芸予諸島に[[市役所]]・[[町役所・村役所]]を置く[[市町村]]は'''太字'''表記
* 面積1km&sup2;以下の島は、有人島および工場・架橋が存在する島に限る

=== 広島県 ===
{| class="sortable wikitable" style="border-collapse:collapse; font-size:90%;"
{| class="sortable wikitable" style="border-collapse:collapse; font-size:90%;"
|-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;"
|-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;"
! 名称 !! 県 !! 市町村 !! 架橋 !! 面積 !! 人口 !! 備考
! 名称 !! 市町村 !! 架橋 !! 面積 !! 人口 !! 備考
|-
|-
! {{Display none|いつしま}}[[島]]<br>([[宮島]])
! {{Display none|おおろかみ}}[[大黒神島]]
| rowspan="3"|[[広島県]] || [[廿日市市]] || || 30.39 || 1846 || [[厳島神社]]がある
| rowspan="3"|{{Display none|えたしま}}'''[[江田島市]]''' || || 7.31 || 0 ||
|-
|-
! {{Display none|あただしま}}[[阿多田島]]
! {{Display none|おきの}}[[沖野島]]
| rowspan="2"|[[大竹市]] || || 2.41 || 308 || 人口はH25。猪子島との間に堤防(橋)がある
|-
! {{Display none|いのこじま}}[[猪子島]]
| || 0.13 || 0 || 阿多田島と堤防(橋)で行き来できる<br>魚の加工工場等がある
|-
! {{Display none|かぶとしま}}[[甲島]]
| 広島県<br>[[山口県]] || [[大竹市]]<br>[[岩国市]] || || 0.37 || 0 || 広島・山口県境がある。芸予諸島に含まないことがある
|-
! {{Display none|にのしま}}[[似島]]
| rowspan="23"|広島県 || rowspan="3"|[[広島市]] || || 3.87 || 1168 ||人口はH18
|-
! {{Display none|かなわじま}}[[金輪島]]
| || 1.05 || 66 ||人口はH24
|-
! {{Display none|うじなしま}}[[宇品島]]
| [[暁橋 (広島市)|暁橋]] || 0.47 || 1673 || 実質的に本州の一部
|-
! {{Display none|おおくろかみしま}}[[大黒神島]]
| rowspan="3"|[[江田島市]] || || 7.31 || 0 ||
|-
! {{Display none|おきのしま}}[[沖野島]]
| [[沖野島橋]] || 0.75 || 7 ||人口はH17
| [[沖野島橋]] || 0.75 || 7 ||人口はH17
|-
|-
! {{Display none|のうみじま}}[[能美島]]<br>([[江田島]])
! {{Display none|のうみ}}[[能美島]]<br>([[江田島]])
| 沖野島橋[[早瀬大橋]] || 91.44 || 27801 || かつては能美島と江田島に分かれていた
| 沖野島橋[[早瀬大橋]] || 91.44 || 27801 || かつては能美島と江田島に分かれていた
|-
|-
! {{Display none|くらはしじま}}[[倉橋島]]
! {{Display none|くらはし}}[[倉橋島]]
| rowspan="13"|[[呉市]] || [[早瀬大橋]]・[[音戸大橋]]]・<br>第二音戸大橋・堀切橋・<br>鹿島大橋 || 91.44 || 19565 || 人口はH23、鹿島を含む
| rowspan="13"|{{Display none|くれ}}[[呉市]] || [[早瀬大橋]]・[[音戸大橋]]・<br>第二音戸大橋・堀切橋・<br>鹿島大橋 || 91.44 || 19565 || 人口はH23、鹿島を含む
|-
|-
! {{Display none|みつこじま }}[[三ツ子島 (広島県)|三ツ子島]]
! {{Display none|みつこ}}[[三ツ子島 (広島県)|三ツ子島]]
| || 0.10 || 0 || 工業塩の貯蔵用に使われている
| || 0.10 || 0 || 工業塩の貯蔵用に使われている
|-
|-
! {{Display none|かしま}}[[鹿島 (広島県)|鹿島]]
! {{Display none|か}}[[鹿島 (広島県)|鹿島]]
| [[鹿島大橋]] || 2.64 || 455 || 人口はH12
| [[鹿島大橋]] || 2.64 || 455 || 人口はH12
|-
|-
! {{Display none|なさけじま}}[[情島 (広島県)|情島]]
! {{Display none|なさけ}}[[情島 (広島県)|情島]]
| || 0.69 || 13 ||
| || 0.69 || 13 ||
|-
|-
! {{Display none|しもかまじま}}[[下蒲刈島]]
! {{Display none|しもかまり}}[[下蒲刈島]]
| [[安芸灘大橋]][[蒲刈大橋]] || 7.97 || 1752 ||
| [[安芸灘大橋]][[蒲刈大橋]] || 7.97 || 1752 ||
|-
|-
! {{Display none|かみかまじま}}[[上蒲刈島]]
! {{Display none|かみかまり}}[[上蒲刈島]]
| 蒲刈大橋[[豊島大橋]] || 27.9 || 2116 ||
| 蒲刈大橋[[豊島大橋]] || 27.9 || 2116 ||
|-
|-
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! {{Display none|とよしま}}[[豊島 (広島県)|豊島]]
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|-
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| rowspan="3"|[[[[大崎上島町]] || || 38.34 || 9123 || 人口H17
| rowspan="4"|{{Display none|おおさきかみしま}}'''[[大崎上島町]]''' || || 38.34 || 9123 || 人口H17
|-
|-
! {{Display none|ながしま}}[[長島]]
! {{Display none|なが}}[[長島 (広島県)|長島]]
| || 1.06 || 20 || 人口H17
| || 1.06 || 20 || 人口H17
|-
|-
! {{Display none|いくのしま}}[[生野島]]
! {{Display none|ちきり}}[[島]]
| || {{Display none|0.99}} || 102 || 人口は2000年。全島が[[東邦亜鉛]]の[[私有地]]。いわゆる[[軍艦島]]
|-
! {{Display none|いくの}}[[生野島]]
| || 2.26 || 35 || 人口H17
| || 2.26 || 35 || 人口H17
|-
! {{Display none|おおくの}}[[大久野島]]
| {{Display none|たけはら}}[[竹原市]] || || {{Display none|0.99}} || 18 || 人口は2000年。多数の[[ウサギ]]が生息する
|-
! {{Display none|さき}}[[佐木島]]
| rowspan="2"|{{Display none|みはら}}[[三原市]] || || 8.72 || 1134 || 人口は2000年
|-
! {{Display none|こさき}}[[小佐木島]]
| || {{Display none|0.99}} || 22 || 人口は2000年
|-
! {{Display none|こうね}}[[高根島]]
| rowspan="7"|{{Display none|おのみち}}[[尾道市]] || || 5.57 || 669 || 人口は2000年
|-
! {{Display none|いくち}}[[生口島]]
| || 31.06 || 10597 || 人口は2000年
|-
! {{Display none|いんの}}[[因島]]
| || 34.98 || 26459 || 人口は2000年。芸予諸島の中心的な島。造船が盛ん
|-
! {{Display none|ほそ}}[[細島 (広島県)|細島]]
| || {{Display none|0.99}} || 68 || 人口は2000年
|-
! {{Display none|いわし}}[[岩子島]]
| || 2.45 || 795 || 人口は2000年
|-
! {{Display none|むかい}}[[向島 (広島県)|向島]]
| || 22.22 || 26215 || 人口は2000年
|-
! {{Display none|もも}}[[百島 (広島県)|百島]]
| || 3.08 || 730 || 人口は2000年
|-
! {{Display none|た}}[[田島 (広島県)|田島]]
| rowspan="3"|{{Display none|ふくしま}}[[福山市]] || || 8.59 || 3431 || 人口は2000年における[[横島 (広島県福山市)|横島]]との合計
|-
! {{Display none|よこ}}[[横島 (広島県福山市)|横島]]
| || 4.04 || 3431 || 人口は2000年における[[田島 (広島県)|田島]]との合計
|-
! {{Display none|はしり}}[[走島]]
| || 2.11 || 777 || 人口は2000年
|}
|}

== その他の島々 ==
=== 広島県 ===
面積は2004年、人口は2000年現在

* [[因島]] - 広島県、34.98km&sup2;、26459人
* [[生口島]] - 広島県、31.06km&sup2;、10597人
* [[向島 (広島県)|向島]] - 広島県、22.22km&sup2;、26215人
* [[佐木島 ]]- 広島県、8.72km&sup2;、1134人
* [[田島 (広島県)|田島]] - 広島県、8.59km&sup2;、[[横島 (広島県福山市)|横島]]と合わせて3431人
* [[高根島]] - 広島県、5.57km&sup2;、669人
* [[横島 (広島県福山市)|横島]] - 広島県、4.04km&sup2;、[[田島 (広島県)|田島]]と合わせて3431人
* [[百島 (広島県)|百島]] - 広島県、3.08km&sup2;、730人
* [[岩子島]] - 広島県、2.45km&sup2;、795人
* [[走島]] - 広島県、2.11km&sup2;、777人
* [[長島 (広島県)|長島]] - 広島県、1.06km&sup2;、33人
'''面積1km&sup2;以下の有人島(人口順)'''
* [[契島]] - 広島県、102人
* [[細島 (広島県)|細島]] - 広島県、68人
* [[生野島]] - 広島県、41人
* [[斎島]] - 広島県、35人
* [[小佐木島]] - 広島県、22人
* [[大久野島]] - 広島県、18人


=== 愛媛県 ===
=== 愛媛県 ===
{| class="sortable wikitable" style="border-collapse:collapse; font-size:90%;"
* [[大三島]] - 愛媛県、64.56km&sup2;、7838人
|-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;"
* [[大島 (愛媛県今治市)|大島]] - 愛媛県、41.89km&sup2;、8372人
! 名称 !! 市町村 !! 架橋 !! 面積 !! 人口 !! 備考
* [[伯方島]] - 愛媛県、20.85km&sup2;、8031人
|-
* [[岩城島]] - 愛媛県、8.95km&sup2;、2289人
! {{Display none|ほうしようか}}[[北条鹿島|鹿島]]
* [[弓削島]] - 愛媛県、8.66km&sup2;、3189人
| {{Display none|まつやま}}[[松山市]] || || 1.11 || 0 || 人口は2000年
* [[生名島]] - 愛媛県、3.68km&sup2;、2124人
|-
* [[九島]] - 愛媛県、3.36km&sup2;、無人
! {{Display none|おおみ}}[[大三島]]
* [[岡村島]] - 愛媛県、3.13km&sup2;、648人
| rowspan="14"|{{Display none|いまはり}}[[今治市]] || || 64.56 || 7838 || 人口は2000年
* [[佐島]] - 愛媛県、2.67km&sup2;、667人
|-
* [[新居大島]] - 愛媛県、2.14km&sup2;、388人
* [[赤穂根]] - 愛媛県、2.09km&sup2;、無人
! {{Display none|おお}}[[(愛媛県今治市)|大島]]
| || 41.89 || 8372 || 人口は2000年
* [[大下島]] - 愛媛県、1.75km&sup2;、152人
|-
* [[津島 (今治市)|津島]] - 愛媛県、1.49km&sup2;、52人
! {{Display none|はかた}}[[伯方島]]
* [[魚島]] - 愛媛県、1.37km&sup2;、265人
| || 20.85 || 8031 || 人口は2000年
* [[高井神島]] - 愛媛県、1.34km&sup2;、69人
|-
* [[北条鹿島|鹿島]] - 愛媛県、1.11km&sup2;、無人
! {{Display none|おかむら}}[[岡村島]]
'''面積1km&sup2;以下の有人島(人口順)'''
| || 3.13 || 648 || 人口は2000年
* [[小大下島]] - 愛媛県、65人
|-
* [[来島]] - 愛媛県、49人
! {{Display none|おおけ}}[[大下島]]
* [[鵜島 (今治市)|鵜島]] - 愛媛県、46人
| || 1.75 || 87 ||
* [[小島 (愛媛県)|小島]] - 愛媛県、41人
|-
* [[馬島 (愛媛県)|馬島]] - 愛媛県、34人
! {{Display none|}}[[津島 (今治市)|津島]]
* [[比岐島]] - 愛媛県、6人
| || 1.49 || 18 ||
* [[豊島 (愛媛県)|豊島]] - 愛媛県、2人
|-
* [[見近島]] - 愛媛県、無人
! {{Display none|おこけ}}[[小大下島]]
* [[百貫島 (愛媛県)|百貫島]] - 愛媛県、無人
| || {{Display none|0.99}} || 32 ||
|-
! {{Display none|くる}}[[来島]]
| || {{Display none|0.99}} || 23 ||
|-
! {{Display none|う}}[[鵜島 (今治市)|鵜島]]
| || {{Display none|0.99}} || 33 ||
|-
! {{Display none|お}}[[小島 (愛媛県)|小島]]
| || {{Display none|0.99}} || 25 ||
|-
! {{Display none|うま}}[[馬島 (愛媛県)|馬島]]
| || {{Display none|0.99}} || 32 ||
|-
! {{Display none|ひき}}[[比岐島]]
| || {{Display none|0.99}} || 3 ||
|-
! {{Display none|みちか}}[[見近島]]
| || {{Display none|0.99}} || 0 || 人口は2000年
|-
! {{Display none|さ}}[[佐島 (上島諸島)|佐島]]
| || 2.67 || 519 ||
|-
! {{Display none|いわき}}[[岩城島]]
| rowspan="8"|{{Display none|かみしま}}'''[[上島町]]''' || || 8.95 || 2309 ||
|-
! {{Display none|ゆけ}}[[弓削島]]
| || 8.66 || 2885 ||
|-
! {{Display none|いきな}}[[生名島]]
| || 3.68 || 1705 || 人口は2000年
|-
! {{Display none|あかほね}}[[赤穂根島]]
| || 2.09 || 2 || かつては無人島
|-
! {{Display none|うお}}[[魚島]]
| || 1.37 || 190 ||
|-
! {{Display none|たかいかみ}}[[高井神島]]
| || 1.34 || 38 ||
|-
! {{Display none|とよ}}[[豊島 (愛媛県)|豊島]]
| || {{Display none|0.99}} || 2 || 人口は2000年
|-
! {{Display none|ひやつかん}}[[百貫島 (愛媛県)|百貫島]]
| || {{Display none|0.99}} || 0 || 人口は2000年
|-
! {{Display none|にいはま}}[[新居大島]]
| {{Display none|にいはま}}[[新居浜市]] || || 2.14 || 257 ||
|}


==== 県にる島 ====
=== 2県にる島 ===
{| class="sortable wikitable" style="border-collapse:collapse; font-size:90%;"
* [[瓢箪島]] - 広島県-愛媛県、無人
|-style="line-height:1.25em; white-space:nowrap;"
! 名称 !! 県 !! 市町村 !! 架橋 !! 面積 !! 人口 !! 備考
|-
! {{Display none|ひようたんしま}}[[瓢箪島]]
| 広島県<br>愛媛県 || 尾道市<br>今治市 || || {{Display none|0.99}} || 0 || 広島・愛媛県境がある<br>『[[ひょっこりひょうたん島]]』のモデルとする説がある
|}


== 全体図 ==
== ギャラリー ==
<gallery>
[[ファイル:芸予諸島.png|900px|center|thumb|芸予諸島の全体図。]]
ファイル:Innoshima habu port 001.JPG|[[因島]]中心部
ファイル:Japanesenavalacademy001.JPG|[[江田島]]の[[海上自衛隊幹部候補生学校|海自幹部候補生学校]](旧[[海軍兵学校 (日本)|海軍兵学校]])
ファイル:Chigirishima001.jpg|[[契島]]
ファイル:Iwagijima.JPG|[[岩城島]]の[[岩城漁港]]
</gallery>


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[地震]]
* [[諸島]]
* [[笠岡諸島]]
* [[塩飽諸島]]


== 脚注 ==
== 脚注 ==
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2016年8月31日 (水) 11:28時点における版

芸予諸島
愛媛県今治市本土から望む芸予諸島としまなみ海道
地理
場所 瀬戸内海
主要な島 能美島大崎上島向島因島大三島
行政
都道府県 広島県の旗広島県愛媛県の旗 愛媛県
市町村 江田島市呉市東広島市大崎上島町竹原市三原市尾道市福山市今治市上島町新居浜市松山市
テンプレートを表示

芸予諸島(げいよしょとう)は、日本瀬戸内海西部に位置する諸島。広島県愛媛県に属しているため、両県の旧国名であるから一文字ずつ取ってこう呼ばれている。

概要

芸予諸島は広島県本土(本州)と愛媛県本土(四国)の間に位置する。広島県(旧備後国を含む)呉市から東の島すべてと、愛媛県越智郡島嶼部および若干の付属島嶼、大小数百のから成る[1]。目安としては、東端が広島県福山市鞆の浦と愛媛県今治市を結ぶ線、西端が能美島倉橋島までで狭義においては広島湾内は含まない[1]。西に防予諸島、東に笠岡諸島がある。かつては下蒲刈島から大崎上島・大三島の周辺のみの狭いエリアを芸予諸島と呼ぶことがあった[1]。また、芸備群島の一部と備後群島・走島群島は厳密に言えば旧備後国に属しており、かつてはこれを含めない場合があった。

平成の大合併の結果、芸予諸島の島々からなる市町村の多くは、本州・四国本土を中心とする広島県呉市尾道市、愛媛県今治市などに組み込まれた。現在、芸予諸島に市役所町役所・村役所を置く自治体には江田島市大崎上島町上島町がある。

芸予諸島をより細かく分ける場合、西側から安芸群島(江田島周辺のみ)・蒲刈群島下大崎群島上大崎群島関前諸島来島群島越智諸島芸備群島上島諸島備後群島走島群島とする。

有人島は約50島、人口は合計約17万人。能美島・因島・向島・倉橋島の広島県4島の人口が比較的大きく、いずれも1万人を超えている。他5000人を超えている島として、広島県大崎上島・生口島、愛媛県大島・伯方島・大三島の5島がある。2010年国勢調査によれば向島尾道市市街)・因島人口集中地区が存在している[2]。殆どの島で本土より早いペースで過疎化高齢化が進行している。

自然環境

芸予諸島の全体図。これには広島湾の島々も書かれているが、能見・倉橋島より西および北側の島々は芸予諸島には含まれない[1]

芸予諸島に非常に多くの島が密集していることで、芸備地方の歴史の在り方に種々の影響を及ぼしてきた[3]

瀬戸内海は地形の複雑さと干満の差の激しさが流れの速いを生み出した。大正時代物理学者文学者である寺田寅彦は、「広いと灘を連絡する海峡の両側の海面の高さが時刻によって著しく違うところが出来ます。そうすると水面の高い方から低い方へ海の水が盛んに流れ込むので強い潮の流れができます」(『寺田寅彦全集 第六巻』、岩波書店、1997年)と記した[3]。なかでも、四国と大島とに挟まれた来島海峡はちょうど瀬戸内海の中心に位置し海峡幅も広いため現在では国際航路として様々な船が航行しているが、古くは「一に来島、二に鳴門、三と下って馬関瀬戸」と唄われるように潮の流れが速く瀬戸内海有数の難所であった[4]。こうした地形を巧みな操船技術を持つ者が支配権を握るようになる[3]。また元々陸地として繋がっていたものを、航路として用いるため開削したところも存在する。例えば、呉市本土と倉橋島の海峡である音戸の瀬戸には日宋貿易の航路として用いるため平清盛が沈む夕日を扇で招いて1日で開削したとの伝承「日招き伝説」が残る(実際に掘削したかは不明)[5]。魚がキスしている姿に見える田島と横島(福山市)は、古来はつながっていたが同様に航路として開削したという[6]

地形的特徴としては、どの島も平野部が狭く急峻な山あるいは丘陵地で占められている[7]。芸予諸島最高峰は生口島の観音山で標高472.3m [8]

気候は瀬戸内海式気候である。丘陵地で温暖な気候を活かした農業が展開されている。

植生で特徴的なのは、ほぼ広葉樹による代償植生で占められている点である。これはこの地で古くから製塩業が盛んで、製塩の際に熱源を必要としたことから燃料用に大量に木々が伐採されたことによりはげ山となり、そこで繁殖力旺盛なアカマツが植えられていったことによる[3]

イノシシが生息しており、海を泳いで島から島へ渡る様子が住民たちによって度々目撃されている。芸予諸島では、ドングリが少なく田畑が休む冬場でも、柑橘類が豊富でイノシシが餌に困ることがない。近年では皮を剥いて食べた痕跡も発見されている[9]

半無人島の上島町赤穂根島では、タヌキハツカネズミなどの哺乳類イシガメクサガメニホンヤモリニホントカゲなどの爬虫類モツゴドジョウメダカなどの淡水魚などが調査によって見つかっている。このうち、ドジョウは愛媛県で準絶滅危惧種となっているが、水田の整備が進んでいないため赤穂根島では豊富に生息している。またモツゴは人の手によって導入された。[10]

歴史

芸予諸島の島々は平野部が狭く、温暖小雨であることから古くから製塩が盛んであった。古くは小型の土器に海水・海藻を入れ煮沸させて製塩しており、芸予諸島近辺では椋の原清水遺跡(松山市)から出土した3世紀末弥生時代中期末の製塩土器が最古のものになる[11][12]。製法が発明あるいは伝達したルートは不明であり、一説では岡山県児島地域から山陽側を伝わり芸予諸島の島々に広がっていったとしている[11]

これが古墳時代後期の製塩土器となると出土例が格段に増えることになる[11]。これはヤマト王権が成立した時期に重なり、つまり近畿地方で人口が増えたことから瀬戸内海に塩を求めたと考えられている[11]

中世の荘園時代でもの生産が盛んで、室町時代には「備後」という名称で年9万石余が畿内に送られていた[13]。『万葉集』では「朝凪に玉藻刈りつつ夕凪に藻塩焼きつつ…」と詠まれている[3]応安4年(1371年)今川貞世(了俊)の紀行文『道ゆきぶり』には向島を見て「しほやどもかすかにて、やきたつるけぶりのすえ物あはれなり。此島にしほやくたびに、一日二日のほどに必ず雨のふり待るといひならはしなり。(沿岸部で盛んだった製塩業では塩を焼くときの煙で雨を呼んでいた。)」と書かれている[14]

塩作りのピークは近世から近代にかけての事になる。江戸時代中期、西廻り航路(後述)が確立すると塩が大量に扱われ、瀬戸内海一帯は一大塩田地帯となった[15]。商人たちによって島嶼沿岸部が塩田として整備され「浜旦那」と呼ばれた地主・経営者が誕生した[15]。また本州・四国側においては、竹原塩田(広島藩)・松永塩田(備後福山藩)・多喜浜塩田(西条藩)・波止浜塩田(伊予松山藩)が藩主導で整備され藩財政を潤し、近代に入ると専売制となり国が管理した[15][16]。その伝統を受け継いで現在も残るのが「伯方の塩」である。

大山祇神社と水軍

大山祇神社
三島水軍(大祝氏)の鶴姫。現在では伝説上の人物とされている。

芸予諸島のほぼ中央である大三島には、大山積神を祭神とする一の宮大山祇神社が鎮座する。島は古くは「御島」と言われていた[17]。神社は宝亀9年(778年)光仁天皇が勧請したものとされ、水の神・山の神・海の神として、そこから航海の神・戦いの神・農耕の神・漁業の神・酒造の神などとして、歴代の朝廷や芸予諸島周辺の信仰の対象であった[17][18]

大宮司は代々越智氏、そして越智氏を出自とする大祝氏が務めた。彼らが後に三島水軍となる[17]。そして越智氏を出自として河野氏が生まれ河野水軍が編成され、瀬戸内海の広い範囲を支配した[17]平安時代末期の源平合戦源氏方に呼応し、壇ノ浦の戦いでは150艘もの水軍を編成し勝利に導いた[19]。鎌倉時代の元寇の役では河野通有が水軍勢として活躍した[19]。大山祇神社の社宝として剣・甲冑・弓箭具などの武器武具類の多いのは、神社を氏神とした河野氏が奉納したことによる[17]。後述の村上水軍(海賊)も形式上は河野氏配下になる。

また航路の要所では「海賊」が生まれることになる。律令国家は陸路を重視し、大宰府からにつながる大宰府道山陽道を交通の中心としたが、平安時代以降は、平安京で消費される米・塩など重量の重い物資を輸送力の高い海運に頼るようになり、波が穏やかで大きな潮汐差を船の推進力に利用できる瀬戸内海には多くの輸送船が往来するようになった。経済的な価値を高めた芸予諸島は、畿内貴族・大寺社などによって荘園化が進められた。国司荘園領主徴税を強化することで、製塩や海産物資源を獲得し、住民の移動・流浪を抑えて定住化を図った。これに反発する海運従事者や異郷に流浪する人々などは各地で紛争を引き起こし、海賊を生む状況を作り出した[3]

当時の海賊衆の様子がわかるものの一つに、室町時代朝鮮使節として来日した宋希璟の『老松堂日本行録』(1420年)がある。そこには、京都への往路、「鎌刈三の瀬」を通過する際の記事として、「かつてここで朝鮮使が海賊に遭遇し、船中の礼物や食糧・衣服などを全部掠奪されたが使者以下は害を免れたこと、そこは室町幕府将軍の威光の届かない場所であるが、東より西に向かう船は東の海賊を一人乗せれば西の海賊が害を及ぼさず、西より東に向かう船は西の海賊を乗せれば東の海賊が害を及ぼさないことになっているので、七貫文出して東の海賊を乗せてきたこと」などを記している。このことから海賊衆が瀬戸内海各地に関所を設定して船舶から関銭を徴収したり、船舶に乗船して水先案内や警護の見返りに金銭を受け取っていたことが分かる[3]

こうした海賊は時代が下ると組織だって行動し始め、水軍となっていった[19]。そして戦国大名は彼らと対立、あるいは”警固衆”として味方に引き入れようと画策していった[20]

水軍の勢力争い

村上水軍の総領家で能島殿と呼ばれた村上武吉
小早川水軍、後の毛利水軍を指揮した小早川隆景

芸予諸島の海賊衆の中で最も有名なのが村上水軍(村上海賊)である。南北朝時代南朝方として活躍した村上義弘が祖と伝えられ、この時代に東寺弓削島荘の近海で活動を行っていたことが確認されている。彼らは形式上は河野氏配下であったが独自路線を歩み、芸予諸島において西瀬戸内海の海上交通・海上運輸における「独自の秩序」を作り上げ、瀬戸内海航路を縦横に遮る連繋をとることで活動を行っていたと考えられている[3]。伝承によればもともと同一の家から次の3つの一族に分立した[3]

宣教師ルイス・フロイスは、村上水軍を“日本最大の海賊”と評した[21]

また南北朝時代、北朝方として備後沼田(三原市)を拠点とした小早川氏が南下してくる[20]。勢力を拡大した小早川氏はそれぞれの島で警固衆(小早川水軍)を編成すると、室町時代に前述の"備後"と呼ばれた塩の取引に絡んでいる[22]。その庶家の一つ生口氏の拠点である瀬戸田(生口島)から出る"生口船"は室町幕府保護のもとで備後を運び、その取引量は文安2年(1445年)兵庫湊神戸港)海関の通行記録である『兵庫北関入船納帳』で瀬戸内海有数のものであったことがわかっている[23]。彼ら小早川氏一門はのちに安芸の戦国大名毛利元就の傘下に入ることになる。

そして、西側から周防守護大内氏が進出してくる。南北朝時代に倉橋島や蒲刈群島に移り住んだ多賀谷氏(倉橋多賀谷氏・蒲刈多賀谷氏)が戦国時代中期には大内氏警固衆として活躍している[24]。この芸予諸島を掌握しようとした大内氏と土着の警固衆・海賊衆とが対立していくのである。

1551年大内義隆に仕えていた陶晴賢主君を倒し、瀬戸内海上の交通・運輸ルートを掌握した。晴賢は海賊衆の秩序に介入し、海賊衆らの警固料徴収を禁止し、商人からの礼銭を独占しようとした。村上水軍はこれに反発し、晴賢と元就が衝突した1555年厳島合戦では、小早川氏を介して元就に味方した。村上水軍を味方につけた元就は厳島で4000人余の軍勢を率い、2万人の陶軍を破って瀬戸内海の交易路を掌握した。これ以降、毛利氏は中国地方の覇権を握ることになる[3]

ただ、彼ら海賊衆は天正16年(1588年)豊臣秀吉海賊停止令により、事実上解体されることになる。この中で「伊郡喜島(斎島)では海賊行為を禁止したにもかかわらず、まだ出没している」と名指しされており、伝承によると当時の島民は秀吉により虐殺されたという[25]

交易路としての発展

芸予諸島の位置
御手洗
御手洗
上関
上関
津和地
津和地
鹿老渡
鹿老渡
三之瀬
三之瀬
忠海
忠海
芸予諸島
鼻栗
鼻栗
弓削
弓削
岩城島
岩城島
鞆
尾道
尾道
今治
今治
三津浜
三津浜
近世における主な地乗りおよび沖乗りの港[26]。赤が沖乗り、緑が地乗り、黄が共通。
御手洗の町並み

近世に入ると瀬戸内海一体では木綿帆が普及しており、水主の労働力の省力化と高速化を可能にする帆走専用の弁財船が発達し、ある程度の横風や逆風のなかでも帆走が可能になった。特に古くから造船業で栄えていた広島藩倉橋島では「終日丁々戞々の音」絶えないほど盛んに船が造られ、全国各地から注文が殺到したといわれる[3]

江戸幕府は各地に海駅(海路における公認宿場)を置き、芸予諸島内では三之瀬下蒲刈島)と鞆の浦が整備された。江戸時代の1605年以後、将軍代替わりを慶賀して朝鮮王朝から朝鮮通信使1811年まで計12回来日した。通信使は瀬戸内海を通り、芸予諸島で接待を受けた。特に三之瀬は評判がよく、通信使一行から「安芸蒲刈御馳走一番」と絶賛された。また、鞆の浦からながめた瀬戸内海の風景は「日東第一形勝」(日本一の景勝)と賞賛された[3]

17世紀後半寛文期頃、河村瑞賢によって東廻り航路西廻り航路が整備され、東北地方北陸地方の米穀などを江戸に運輸送する海上ルートが発達した。すでに西日本各地を水運でつないでいた瀬戸内海は、西廻り航路の整備によって、「天下の台所」大坂と、蝦夷地、東北・北陸・山陰地方を結ぶ物資輸送の大動脈となった。これによって島伝いに沖合を航行する「沖乗り」が発達し、御手洗・木江(大崎上島)・鼻栗(大三島)・岩城・弓削など瀬戸内中央部の港町は成長を遂げた。芸予諸島には「風待ち」「潮待ち」の船が入港した。御手洗では船宿・商家・倉庫、船の発着場の雁木や船番所などもできて港町としての整備がはかられ、当初は、薪・水・燃料供給が中心であったが、18世紀以降は北国米を中心とする廻船間の仲介・中継的問屋商業も盛んになった[3]

江戸時代後期、藩の影響力を超えて芸予の地域交流が盛んになり、安芸の忠海からは塩・綿実煙草菰俵などの特産品が多く輸出され、伊予廻船を通じて伊予から干鰯肥料)・などが輸入された。この頃の芸予諸島は物流の発展により、全国的にみても貨幣経済の浸透度が高かったとされる[3]

下見吉十郎によってサツマイモ栽培が導入されたのもこの頃である。

近代化と新産業

こうした繁栄は、明治時代以降機帆船の登場により風待ち潮待ちは必要がなくなり、そして鉄道の登場により物流も変わったため、港の存在意義はなくなり衰えていった[27]。その様子は「まるで水から引きあげた切花のように凋んでしまった」と言われるほどであった[27]

ただ、機帆船にとっても来島海峡は航行困難な海峡であった。航行速度の遅い船はそこを避けるように北側を大きく迂回する航路、大三島と大崎上島の間-三原沖-向島と因島の間を通る”三原瀬戸航路”が活用されるようになる[28]。そして航行困難な来島海峡と、航行は比較的容易ではあるが狭い航路幅に多くの船が航行した三原瀬戸航路では、船のトラブルが多発したためその周辺で近代的な造船所が出来ていくのである[29]

丘陵地を活かし、さらに温暖な機構を活かして近代から取り組まれてたのが柑橘栽培である。愛媛では江戸時代終わりからミカンの栽培が始まり、現在では日本有数の産地となった[30]

因島で観光用に栽培されている除虫菊

近代のみ栄えた農業の一つに除虫菊(シロバナムシヨケギク)栽培が挙げられる。外来種の除虫菊が日本に導入されたのが明治初期上山英一郎によって導入された[7][31]。大正になって普及が進み、第一次世界大戦によって輸入殺虫剤が途絶えると除虫菊の需要は高まった[32]。ただ戦後になるとピレトリンが化学合成されるようになったため作付は激減した[31]

近代、芸予諸島では大勢の移民を輩出した。平野部がほぼ塩田で耕地地が少なくその面積に対して農業人口が多かったこと、また江戸時代から出稼ぎが多かったことも一因として挙げられる[3]。例えば、内海(福山市)の田島・横島の漁民は江戸時代から西海捕鯨に従事し、近代以降は漁業移民としてマニラ湾へ進出したという[33]。そして明治29年(1896年)船舶職員法改正により、それまでの廻船船頭は近代船の船長として認められなくなったことから専門知識を学ぶ商船学校が設立されることになり[34]、これが現在弓削商船高等専門学校広島商船高等専門学校などとして存続している。

一方で女性の仕事としてはおちょろ舟があった。これは港に停泊する船に対して陸側から小舟で春を売りに行く遊女舟で、船員に対して夜の世話だけでなく家事などの身の回りの世話もしていた[35][36]。近世において沖乗りの港として大きく栄えた大崎下島の御手洗や、近代に石炭輸送の中継基地として栄えた大崎上島の木江が有名で、井伏鱒二『人と人影』など近代小説・紀行文などにも登場する。売春防止法以降廃止されているが、現在でも遊郭跡など当時のものが残っている。特に御手洗では、彼女たちを敬い大切に扱った痕跡が残っている[35]

近代の軍事拠点

しまなみ市構想

経済・産業

主な産業は造船観光柑橘類栽培である。愛媛県であっても広島県への依存度は強く、全域が中国電力の電力送電網に属しており、中国新聞が購読できる。特に上島町は自動車で四国側に直接渡る手段がなく、一旦フェリーで広島県側に出て再度愛媛県に入る必要があるほか、水道水医療・防災事業なども一部広島県に依存している。

造船

内海造船因島工場

古くから造船で栄えていた芸予諸島では、明治時代以降も日本造船業の一大拠点であった。造船業は波が激しく、戦争による特需とその反動が繰り返されていた。しかし、オイルショックが起きた1970年代以降は「構造的不況」によって造船業が衰退し、造船によって成り立っていた因島では不況により「島が沈む」とまで言われた。2000年代には、中国の経済成長によって造船の発注が増え、特需を迎えた[37]

芸予諸島に造船所を置く主な企業

農業

蜜柑をはじめ、柑橘類の栽培が盛ん。急峻な山の頂上まで段々畑を築き、無人島に出向いて蜜柑畑を作る出作も行われている[38]ハッサクは、幕末因島田熊町(旧因島市)の浄土寺原木が発見された[39]。生口島と大崎下島では国産レモンの栽培が盛んで、この2島だけで国内生産量のの50%以上を占めている[40]

観光

芸予諸島の近海は「日本のエーゲ海」とも呼ばれ、多島からなる景観が高く評価されている。また、新鮮な柑橘郷土料理など、多くの観光資源を有している[41]

主な観光資源

しまなみ海道の一部、来島海峡大橋

海運

愛媛県今治市の旧伯方町の島々では海運業が盛んであり、昔から地元造船所が船主に対して建造代金の分割払いを認める「愛媛方式」という商慣行によって、零細事業者が何隻もの船を持つ独特の経営が根付いている[44]

かつては本州・四国とその間の島々を結ぶ多数の旅客船フェリー航路が存在したが、過疎化・人口減少、架橋による陸路シフトの影響もあり、航路休廃止・減便等が続いている。

主なフェリー会社

架橋

広島県側は県の積極的な架橋により、大崎上島を除く大型の島は離島指定が解除されている。一方、愛媛県はしまなみ海道を除けば架橋が進んでいない。上島町や大下島などの離島が存在するほか、岡村島は四国ではなく本州に接続されている。

小さな島が密集していることから架橋が盛んな地域であり、本州と四国をつなぐ瀬戸内しまなみ海道向島-因島-生口島-大三島-伯方島-見近島-大島-馬島を通る形で建設されている。また、下蒲刈島-上蒲刈島-豊島-大崎下島-平羅島-中ノ島(以上広島県)-岡村島(愛媛県)までは、安芸灘諸島連絡架橋の一部として愛称・安芸灘とびしま海道で連結している(全体構想としては大崎上島までのルート)。江田島倉橋島なども本州と橋で繋がっている。

その他

契島では、東邦亜鉛によってが生成されている。特に鉛は日本全体の90%を生産しており、その大部分が自動車バッテリーに使われる[43]

文化

江戸時代における朝鮮王国(朝鮮通信使)との交流によって、芸予諸島の人々は日本文化の独自性を認識するようになったとされる。また、経済的豊かさや上方文化をはじめ各地との交流によって芸予諸島の町人・民衆文化が隆盛した。『日本外史』を著した頼山陽は晩年に京都の自邸書斎を「山紫水明処」と名付けた。この「山紫水明」(山影は青紫に沈み、海面は乳白色に光り、刻一刻暮色を深める風景)は、瀬戸内海の素晴らしい景観を伝える表現と言われている。

瓢箪島の上空写真。上(北)が広島県、下(南)が愛媛県

日本遺産

“日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-」として2016年4月25日に日本遺産の第2期の19箇所の一つに認定された。全42項目のうち、今治市本土(7箇所)と尾道市本土(3箇所)と以下の島々の中の30箇所に対象がある[21]。なお生口島(生口氏)や瓢箪島と村上氏とは直接関係ないものも含まれている。

  • 今治側:大三島(3箇所)、古城島、伯方島、能島、見近島、大島(5箇所)、武志島・中渡島、来島、小島、怪島
  • 尾道側:因島(8箇所)、向島(2箇所)、生口島(2箇所)、瓢箪島、百島

各島の概要

  • 各島の詳細は各島の頁を参照
  • 面積の単位は平方キロメートル
  • 人口の単位は人(2010年)
  • 芸予諸島に市役所町役所・村役所を置く市町村太字表記

広島県

名称 市町村 架橋 面積 人口 備考
おおくろかみ大黒神島 えたしま江田島市 7.31 0
おきの沖野島 沖野島橋 0.75 7 人口はH17
のうみ能美島
江田島
沖野島橋・早瀬大橋 91.44 27801 かつては能美島と江田島に分かれていた
くらはし倉橋島 くれ呉市 早瀬大橋音戸大橋
第二音戸大橋・堀切橋・
鹿島大橋
91.44 19565 人口はH23、鹿島を含む
みつこ三ツ子島 0.10 0 工業塩の貯蔵用に使われている
鹿島 鹿島大橋 2.64 455 人口はH12
なさけ情島 0.69 13
しもかまかり下蒲刈島 安芸灘大橋蒲刈大橋 7.97 1752
かみかまかり上蒲刈島 蒲刈大橋・豊島大橋 27.9 2116
おくひ屋久比島 0.66 0
とよ豊島 豊島大橋豊浜大橋 5.83 1557 人口H17
いつき斎島 0.70 29 人口H17
みかど三角島 1.70 178 人口H17
おおざきしも大崎下島 豊浜大橋平羅橋 17.82 2897 人口H17
へら平羅島 平羅橋中の瀬戸大橋 0.15 0
なかの中ノ島 中の瀬戸大橋岡村大橋 0.18 0
おおしは大芝島 ひかしひろしま東広島市 1.70 178 人口H17
おおざきかみ大崎上島 おおさきかみしま大崎上島町 38.34 9123 人口H17
なが長島 1.06 20 人口H17
ちきり契島 0.99 102 人口は2000年。全島が東邦亜鉛私有地。いわゆる軍艦島
いくの生野島 2.26 35 人口H17
おおくの大久野島 たけはら竹原市 0.99 18 人口は2000年。多数のウサギが生息する
さき佐木島 みはら三原市 8.72 1134 人口は2000年
こさき小佐木島 0.99 22 人口は2000年
こうね高根島 おのみち尾道市 5.57 669 人口は2000年
いくち生口島 31.06 10597 人口は2000年
いんの因島 34.98 26459 人口は2000年。芸予諸島の中心的な島。造船が盛ん
ほそ細島 0.99 68 人口は2000年
いわし岩子島 2.45 795 人口は2000年
むかい向島 22.22 26215 人口は2000年
もも百島 3.08 730 人口は2000年
田島 ふくしま福山市  8.59 3431 人口は2000年における横島との合計
よこ横島 4.04 3431 人口は2000年における田島との合計
はしり走島 2.11 777 人口は2000年

愛媛県

名称 市町村 架橋 面積 人口 備考
ほうしようか鹿島 まつやま松山市 1.11 0 人口は2000年
おおみ大三島 いまはり今治市 64.56 7838 人口は2000年
おお大島 41.89 8372 人口は2000年
はかた伯方島 20.85 8031 人口は2000年
おかむら岡村島 3.13 648 人口は2000年
おおけ大下島 1.75 87
津島 1.49 18
おこけ小大下島 0.99 32
くる来島 0.99 23
鵜島 0.99 33
小島 0.99 25
うま馬島 0.99 32
ひき比岐島 0.99 3
みちか見近島 0.99 0 人口は2000年
佐島 2.67 519
いわき岩城島 かみしま上島町 8.95 2309
ゆけ弓削島 8.66 2885
いきな生名島 3.68 1705 人口は2000年
あかほね赤穂根島 2.09 2 かつては無人島
うお魚島 1.37 190
たかいかみ高井神島 1.34 38
とよ豊島 0.99 2 人口は2000年
ひやつかん百貫島 0.99 0 人口は2000年
にいはま新居大島 にいはま新居浜市 2.14 257

2県に渡る島

名称 市町村 架橋 面積 人口 備考
ひようたんしま瓢箪島 広島県
愛媛県
尾道市
今治市
  0.99 0 広島・愛媛県境がある
ひょっこりひょうたん島』のモデルとする説がある

ギャラリー

関連項目

脚注

  1. ^ a b c d 芸予諸島”. コトバンク. 2016年8月1日閲覧。
  2. ^ [1]
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o 海・島が織りなす瀬戸内海の歴史 ~芸備地方を中心に~”. 2016年7月11日閲覧。
  4. ^ 来島海峡のみどころ”. しまなみ. 2016年8月1日閲覧。
  5. ^ 音戸瀬戸平清盛開削伝説に関する学際的研究とその地域教材化” (PDF). 呉オープンカレッジネットワーク会議. 2016年8月26日閲覧。
  6. ^ 兼田明逸『沼隈郡田島村誌 : 「吉備高島宮記」』先憂会出版部、1923年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9655892016年8月26日閲覧 
  7. ^ a b (2)自給型農業から商品作物農業へ”. 愛媛県生涯学習センター. 2016年8月27日閲覧。
  8. ^ 国立公園観音山”. しまなみ海道観光マップ. 2016年8月27日閲覧。
  9. ^ イノシシ急増被害深刻【2】海を泳ぐ事情と犬嫌い”. 2016年7月11日閲覧。
  10. ^ 愛媛県越智郡上島町 赤穂根島総合生物調査
  11. ^ a b c d 広島県の土器製塩”. 広島県教育事業団事務局. 2016年8月23日閲覧。
  12. ^ 芸予諸島の古代製塩”. 愛媛県生涯学習センター. 2016年8月23日閲覧。
  13. ^ 今谷明「米・塩・木材の道」、『週刊朝日百科日本の歴史』20、中世II-9(琵琶湖と淀の水系)、5-263頁。
  14. ^ 海をめぐる歴史と文化 中世” (PDF). 海事都市尾道推進協議会. 2016年8月23日閲覧。
  15. ^ a b c 第17回企画展示「尾道あ・ら・かると~塩と鉄~」” (PDF). 尾道商業会議所記念館. 2016年8月23日閲覧。
  16. ^ 愛媛県の塩田”. 愛媛県生涯学習センター. 2016年8月23日閲覧。
  17. ^ a b c d e 赤尾政雄『大三島と大山祇神社』以文会、1921年https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/9636332016年8月24日閲覧 
  18. ^ 大山祇神社について”. 大山祇神社. 2016年8月24日閲覧。
  19. ^ a b c あけぼのの伊予水軍”. 広島観光ナビ. 2016年8月19日閲覧。
  20. ^ a b Ⅲ 水軍と城跡” (PDF). 尾道市. 2016年8月19日閲覧。
  21. ^ a b “日本最大の海賊”の本拠地:芸予諸島-よみがえる村上海賊“Murakami KAIZOKU”の記憶-” (PDF). 文化庁. 2016年8月5日閲覧。
  22. ^ 尾道の歴史と遺跡 近世編” (PDF). 尾道市教育委員会. 2016年8月5日閲覧。
  23. ^ 尾道の歴史と遺跡 中世編 第1章 港町の成立と発展” (PDF). 尾道市教育委員会. 2016年8月5日閲覧。
  24. ^ 広島県の文化財 - 丸子山城跡”. 大山祇神社. 2016年8月24日閲覧。
  25. ^ 瀬戸内を生きた人びと”. 日本観光振興協会. 2016年8月27日閲覧。
  26. ^ 御手洗 -1”. JR西日本. 2016年8月1日閲覧。
  27. ^ a b 瀬戸内海の歴史”. 瀬戸内・海の路ネットワーク推進協議会. 2016年8月6日閲覧。
  28. ^ 旧大浜埼船舶通航潮流信号所”. 土木学会. 2016年8月6日閲覧。
  29. ^ 杉本誠起「因島総合病院」(PDF)『岡山医学会雑誌 No.114』、岡山医学会、2002年9月30日、2016年8月6日閲覧 
  30. ^ 愛媛県はなぜ日本有数のみかん産地か” (PDF). 愛媛県. 2016年8月6日閲覧。
  31. ^ a b 因島の除虫菊(いんのしまのじょちゅうぎく)”. ひろしま文化大百科. 2016年8月24日閲覧。
  32. ^ 内山幸久「III 因島市における商品作物生産の特徴」(PDF)『立正大学人文科学研究所年報 No.5』、立正大学人文科学研究所、1985年、2016年8月24日閲覧 
  33. ^ ≪インタビュー企画≫捕鯨文化が生んだ技術と組織産業の礎”. 福山市. 2016年8月6日閲覧。
  34. ^ 望月圭介伝刊行会『望月圭介伝』羽田書店、1945年、26頁https://dl.ndl.go.jp/info:ndljp/pid/19086692016年8月12日閲覧 
  35. ^ a b 布川弘「近世後期瀬戸内における「船後家」について」(PDF)、広島大学、2006年、2016年8月26日閲覧 
  36. ^ “瀬戸内の遊女と「おちょろ」”より”. 岩波書店. 2016年8月26日閲覧。
  37. ^ 第15回企画展示 てっぱん」・造船のまち尾道” (PDF). 尾道商業会議所記念館. 2017年7月14日閲覧。
  38. ^ 概要”. 2017年7月14日閲覧。
  39. ^ 因島柑橘史
  40. ^ 瀬戸内 広島レモンとは”. 広島県. 2016年8月24日閲覧。
  41. ^ 海の道 瀬戸内しまなみ海道”. 2016年7月11日閲覧。
  42. ^ 広島で「おしい」のは、観光資源?いや、交通インフラでしょう”. 2016年7月11日閲覧。
  43. ^ a b 【探訪】広島県・契島 雨にかすむ「生きた軍艦島」(”. 2016年7月11日閲覧。
  44. ^ 日本海運支える「愛媛船主」 生き残りかけた正念場に”. 2016年7月11日閲覧。
  45. ^ 瓢箪島が登録記念物に登録されます”. 尾道市. 2016年7月10日閲覧。