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2016年6月7日 (火) 23:35時点における版
大内延介 九段 | |
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名前 | 大内延介 |
生年月日 | 1941年10月2日(83歳) |
プロ入り年月日 | 1963年4月1日(21歳) |
棋士番号 | 86 |
出身地 | 東京都港区 |
師匠 | 土居市太郎名誉名人 |
段位 | 九段 |
棋士DB | 大内延介 |
戦績 | |
タイトル獲得合計 | 1期 |
一般棋戦優勝回数 | 8回 |
通算成績 | 887勝807敗(0.5236) |
2014年3月8日現在 |
大内 延介(おおうち のぶゆき、1941年10月2日 - )は、将棋棋士。2010年、引退。土居市太郎名誉名人門下。棋士番号は86。東京都港区出身。中央大学卒業。
棋歴
小学4年生のとき、将棋道場で二枚落ちで3連敗し、それがきっかけで将棋にのめりこむ。小学6年生の頃には、将棋の駒の名産地として知られる山形県天童市にて、1ヶ月間、将棋修行をする[1]。
1954年、土居市太郎名誉名人の最後の弟子として入門。1963年4月1日の四段昇段(プロ入り)は、米長邦雄と同期である。
1963年のプロデビュー直後、初参加の順位戦から2期連続昇級。
1967年、第8期王位戦にて大山康晴への挑戦権を得、タイトル戦初登場。六段の挑戦者は当時史上初で、七番勝負は1勝4敗で敗退した。
穴熊戦法を駆使し、1975年には第34期名人戦で中原誠に挑戦するまでに至った。二人は対比的に、“中原は王道、大内は覇道”と表現された。この名人戦で大内は中原と互角に戦い、3勝3敗でフルセットとなる(このほか千日手も1局あった)。迎えた最終第7局は1日目の封じ手の時点で大内が大優勢となった。しかし、勝利目前でミス(手順前後)をして勝ちを逃し、持将棋に持ち込まれてしまった。これについては、後に大内自身が、「対局室(羽沢ガーデン)の近くにビアガーデンがあり、そこから聞こえる酔った人の話し声と将棋の読みとの‘葛藤’があり、後で指すべき手を先に指してしまった」と語っている[2]。そして指し直しの第8局で敗れ、名人を獲得することができなかった。
第1期棋王戦(1975年度)で、内藤國雄、高島弘光との三者リーグを制し、初代棋王の座に就く。第1局(内藤-大内)はハワイで行われ、将棋の公式戦では初の海外対局となった。
第68期(2009年度)順位戦でC級2組からの降級が決定。60歳以上であるためフリークラスに編入できず、以降、最終対局(各棋戦で不戦敗が生じないところ)まで指したところで引退することが決まった。タイトル経験者のこうした形での引退は、同年の有吉道夫のケースとともに初である。そして、勝っても負けても引退日となる2010年4月20日の竜王戦5組残留決定戦で石田和雄を破って6組に降級させ、自身は6組降級(の成績)の汚点を棋士人生に残すことなく、勝負師として最後の華を飾った。
人物
- かつてプロ将棋界で評価されなかった穴熊囲いを戦法に取り入れ、実用化に努めた。「穴熊党総裁」との呼び名がある[3]。
- 将棋のルーツについての研究家でもあり、著書に「将棋の来た道」「アジア勝負の旅」がある。
- 江戸っ子気質の持ち主として知られ、それを物語るエピソードに事欠かない。
- 加藤一二三に対局時の癖(空咳をする、相手の後ろに回り込んで将棋盤を見るなど)の改善を求め、将棋連盟理事会に申し入れをしたことがある。「気にしては損だとわかってはいるんだけど、気になるのだからしようがない」と語ったこともある[4]。自身のタイトル防衛がかかった第2期棋王戦は、加藤に0-3で敗れた。
- 1991年の竜王戦予選で、当時五段の村山聖と対局した際、爪を切るのを嫌って伸ばしていた村山に、「駒に傷もつくし、相手にも失礼だろう」と年長棋士として遠慮なく注意した。厳しく言われた村山は落ち込んだ風であったものの、その対局に勝っている[5]。
- 当時奨励会初段だった阿久津主税と将棋会館の控え室で鉢合わせになった際、阿久津が畏れ多さの余り目を逸らしたことに対し、「なぜ挨拶しない、師匠は誰だ」と咎め、阿久津が「滝先生です。」と返答するやいなや、「自分の師匠のことを人前で『先生』なんて付けて呼ぶ奴があるか!」と強く叱責した。阿久津はこの件を人格的な成長のきっかけになったと述懐している[6]。なお、大内も木村義雄に「君の師匠は?」と聞かれた時に「土居先生です」と答えたので、木村に「土居先生ですという言い方はないよ。土居ですといいたまえ」と叱られた経験を持っている。
- 2006年5月1日に妻が死去。
- 若き時代は、スキーやゴルフなどのスポーツに熱中しており、特にスキーは1級指導員の資格を保有するほどの腕前である。
普及活動など
- 日本将棋連盟の専務理事を長く務め、1999年から開始された国際将棋フォーラムの立ち上げなどで活躍した。
- 弟子の育成に熱心で、飯田弘之、塚田泰明、富岡英作、鈴木大介、田村康介を棋士に、藤森奈津子を女流棋士に育て上げた。なお、鈴木の「大介」という名前は、鈴木の親が大内の名前にあやかってつけたものである。
- 1999年以降、毎年新橋駅SL広場にて名人戦の大盤解説会を開催。(聞き手は弟子の藤森奈津子)
不祥事
- 第42期(1984年度)順位戦10回戦・関西将棋会館での小林健二との対局で、対局場を東京の将棋会館と勘違いして不戦敗となった。不戦敗そのものに対する処分は無かったものの、結局この一敗が響き、B級1組から降級してしまった。
- 2003年10月10日、成田空港で日本航空関連会社の案内係員に暴行して顔面を負傷(全治3週間)させた傷害事件が報道され、日本将棋連盟理事会に謝罪の文章を提出した。大内は当事者より被害届を提出され、千葉県警新東京空港署より事情聴取を受けたものの、刑事処分は受けていないと見られる。
昇段履歴
- 1954年 6級 = 奨励会入会
- 1958年 初段
- 1963年4月1日 四段 = プロ入り
- 1964年4月1日 五段(順位戦C級1組昇級)
- 1965年4月1日 六段(順位戦B級2組昇級)
- 1970年4月1日 七段(順位戦B級1組昇級)
- 1972年4月1日 八段(順位戦A級昇級)
- 1984年4月1日 九段(勝数規定)
- 2010年4月20日 引退
主な成績
- 通算成績
- 887勝807敗 勝率 0.5236
獲得タイトル
- 棋王 1期(1975年度 = 第1期)
- 登場回数4、獲得1
一般棋戦優勝
- 全日本プロトーナメント 1回(1986年度 = 第5回)
- NHK杯戦 1回(1975年度 = 第25回)
- オールスター勝ち抜き戦5勝以上 1回(1978年度 = 第1回 9連勝)
- 日本将棋連盟杯争奪戦 2回(1974年度 = 第7回、1980年度)
- 古豪新鋭戦 2回(1961年度 = 第5回、1962年度)
- 名人戦復帰記念特別棋戦 1回(1976年度)
- 優勝合計8回
在籍クラス
将棋大賞
- 第2回(1974年度) 連勝賞・殊勲賞
- 第3回(1975年度) 敢闘賞
- 第5回(1977年度) 連勝賞
- 第14回(1986年度) 特別賞
- 第36回(2008年度) 東京将棋記者会賞
その他表彰
主な著書
<名局集>
- 大内延介名局集(2012年5月、マイナビ、ISBN 4839942056)
- 大内の名局(一手精読・現代将棋)(1984年、筑摩書房)
<教則本>
- 将棋・端攻め全集―破壊力抜群の必勝手筋 (PERFECT SERIES)(1998年、日本将棋連盟)[将棋連盟文庫、2011年]
- 将棋必勝手筋100 (SUPER SERIES)(1994年、日本将棋連盟)
- 穴熊戦法 イビアナ・振り飛車穴熊のすべて(1990年1月、創元社、ISBN 4-422-75072-0)
- 史上最強の穴熊(全2巻、毎日コミュニケーションズ、ISBN 4-89563-610-0ほか)
- 大内延介の初歩の基本戦法(1986年9月、日東書院、ISBN 4-528-00486-0)
- 必勝向かい飛車(1984年、日本将棋連盟)
- 日本将棋大系 10 大橋柳雪(解説)(筑摩書房)
<エッセイ>
- 決断するとき 将棋に生きる(1981年7月、筑摩書房、ISBN 4-480-04056-0)
- 将棋の来た道(1986年12月、めこん、ISBN 4-8396-0032-5)[小学館文庫、1998年]
脚注
- ^ 以上、「将棋世界」(日本将棋連盟)2000年1月号付録から引用。
- ^ 2009年の第67期名人戦第6局の立会人を務めた際、1日目のテレビ中継(NHK衛星第2テレビジョン、2009年6月15日午前)で、大内の名人戦登場の映像が紹介された際、アナウンサーが、「名人位に手が届くとなると平常心を保てなくなるか」と質問したのに対して語ったものである。なお、語った後、微笑しながら「一生言うまいと思っていましたが、気が緩みましたね」との言葉を添えている。
- ^ 著書「史上最強の穴熊」の紹介記事([1]、[2])など
- ^ 山田史生『将棋名勝負の全秘話全実話』(講談社プラスアルファ文庫、2002年)、167ページ。
- ^ 前掲書、70ページ。
- ^ NHKテレビテキスト 「将棋講座」2012年5月号より。