「ダ埼玉」の版間の差分
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'''ダ埼玉'''(ダさいたま)は、「[[ダサい]]」と「[[埼玉県]]」を掛け合わせた[[造語]]である<ref name=" |
'''ダ埼玉'''(ダさいたま)とは、「[[ダサい]]」と「[[埼玉県]]」を掛け合わせた[[造語]]である<ref name="米川">{{Citation|和書|editor=[[米川明彦]]|title=日本俗語大辞典|publisher=[[東京堂出版]]|year=2003|isbn=4-490-10638-6|page=340}}</ref>。埼玉県を「野暮ったい」「垢抜けない」ものと見なして揶揄することを目的としている<ref name="米川"/>。この造語は[[1980年代]]初頭、[[竹の子族]]という若者たちのファッションから着想を得たタレントの[[タモリ]]によって考案されたもので<ref name="史の会267">[[#史の会 1986|史の会 1986]]、267頁</ref>、自身が司会を務める『[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]』内で発信したことを契機に1984年の[[流行語]]となった<ref name="米川"/><ref name="史の会267"/>。同義語に'''ド埼玉'''があり、この造語と「ダサい」との組み合わせにより「ダ埼玉」に変化したのだともいわれる<ref name="米川"/>。いちタレントの発言に端を発したこの造語は広く普及するとともに、語の使用のみならず、この語が含意する埼玉のイメージをめぐって、行政をはじめとする幅広い人々の反応を引き起こした<ref>{{Citation|和書|editor=埼玉県議会史編さん委員会|title=埼玉県議会史 第16巻|publisher=埼玉県議会|year=2003|page=599}}</ref>。以下では、その経緯や背景、その後に与えた影響について詳述する。 |
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== 経緯 == |
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=== 造語の誕生と波及 === |
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{{main|ダサい}} |
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芸能界デビューから[[1980年代]]にかけての[[タモリ]]は攻撃的な言動の芸風で知られ<ref name="All About">{{Cite web|和書|author=広川峯啓|url=https://allabout.co.jp/gm/gc/452480/|title=タモリ・小田和正「歴史的和解」までの長い道のり|publisher=All About,Inc.|date=2015-02-27|accessdate=2015-11-14}}</ref>、「表面的には明るく振る舞うが、内面に暗さを抱える人物」に対して「[[ネクラ]]」と対義語の「ネアカ」という表現<ref>{{Cite web|和書|author=もりひろし|url=http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20131121/256169/?P=2|title=タモリさんと「あの言葉」の関係(前編)その攻撃的芸風を振り返る|publisher=[[日経ビジネス|日経ビジネスオンライン]]|page=2|date=2013-11-26|accessdate=2015-11-14}}</ref>、[[愛知県]]出身者の使用する[[名古屋弁]]に対して「[[エビフリャー]]」([[エビフライ]]の意)などの表現を好んで使うなど<ref name="日経20131203-2">{{Cite web|和書|author=もりひろし|url=http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20131127/256414/?P=1|title=タモリさんと「あの言葉」の関係(後編)着眼点を発信する芸人|publisher=日経ビジネスオンライン|page=1|date=2013-12-03|accessdate=2015-11-14}}</ref>、自身の番組内でさまざまな人々や地域やジャンルを笑いの対象としていた<ref name="All About"/>。 |
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タモリが埼玉に関心を持ったのは、[[1981年]](昭和56年)[[2月]]に放送された、自身がパーソナリティを務めるラジオ番組『[[タモリのオールナイトニッポン]]』の「思想のない歌」コーナーの中で[[さいたまんぞう]]の『なぜか埼玉』という[[コミックソング]]を取り上げた時からといわれている<ref name="鶴崎10-14">{{Cite book|和書|author=鶴崎敏康 |year=2010 |title=< さいたま > の秘密と魅力|publisher=[[埼玉新聞社]]|isbn=978-4-87889-329-2 |page=10-14}}</ref>。 |
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[[ファイル:竹の子族集合写真.jpg|250px|thumb|1980年代初頭、タモリは埼玉県民や千葉県民などで構成される竹の子族の服装に着目し、「ダ埼玉」の造語を生み出した。]] |
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その後、当時の若者の間で流行していた[[竹の子族]]という風俗の愛好者に埼玉県や[[千葉県]]出身者が多いことが調査結果により明らかになると<ref name="史の会"/><ref name="鶴崎10-14"/>、タモリはこうした若者達を「ダサい」と評するようになり<ref name="史の会"/><ref name="鶴崎10-14"/>、[[1982年]](昭和57年)[[10月4日]]から[[フジテレビ系列]]で放送開始された『[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]』の中で「ダ埼玉」という言葉を頻繁に使用し、当時の[[流行語]]となった<ref name="史の会"/>。 |
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そのタモリが埼玉に関心を持ったのは、[[1981年]](昭和56年)[[2月26日]]<ref name="ダイヤモンド20120112">{{Cite web|和書|author=まがぬまみえ|url=http://diamond.jp/articles/-/15637?page=3|title=『なぜか埼玉』の大ヒットから30年一匹羊として進化する「さいたまんぞう」の食生活|publisher=[[ダイヤモンド社|ダイヤモンド・オンライン]]|date=2012-01-12|accessdate=2015-11-14}}</ref>に放送された『[[タモリのオールナイトニッポン]]』の「思想のない歌」コーナーの中で[[さいたまんぞう]]の「[[なぜか埼玉]]」という[[コミックソング]]を取り上げた時からといわれている<ref name="鶴崎10-11">[[#鶴崎 2010|鶴崎 2010]]、10-11頁</ref>。当初、この歌は売り上げが芳しくなかったが、2月26日付けの放送が全国オンエアされると聴取者の間で抑揚のない歌い方とメロディが評判となり、さいたはメジャーデビューに至った<ref name="ダイヤモンド20120112"/><ref name="鶴崎10-11"/>。 |
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その後、当時の若者の間で流行していた[[竹の子族]]という風俗の愛好者に埼玉県や[[千葉県]]出身者が多いことが調査結果により明らかになると<ref name="史の会267"/><ref name="鶴崎10-11"/>、[[1982年]](昭和57年)[[2月14日]]放送の[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]の番組内、同年3月に刊行された『現代用語事典ブリタモリ』などで、[[栃木県]]、埼玉県、千葉県、[[神奈川県]]を一括りにし、各県の頭文字を合わせた「トサチカ」「トサチカ族」という造語を披露した<ref name="百科">{{Citation|和書|editor=[[平凡社]]|title=平凡社百科年鑑1983|publisher=平凡社|year=1983|page=67}}</ref><ref name="ブリタ219">[[#ブリタモリ編纂委員会 1982|ブリタモリ編纂委員会 1982]]、219頁</ref>{{#tag:ref|『平凡社百科年鑑1983』によると、タモリは1982年(昭和57年)[[2月14日]]放送の[[オールニッポン・ニュースネットワーク|テレビ朝日系列]]の番組に出演した際、竹の子族の出身地について「[[栃木県|栃木]]、[[埼玉県|埼玉]]、[[千葉県|千葉]]、[[神奈川県|神奈川]]で、東京の人間はいない」と発言している<ref name="百科"/>。ただし、香咲弥須子著『原宿・竹の子族』によると「"竹の子"が最も多く住んでいるのは、[[江東区]]、[[江戸川区]]、[[荒川区]]をはじめとする、東京東部である。次に多いのが、千葉。続いて埼玉県、神奈川県、[[茨城県]]、栃木県、[[群馬県]]、そして[[山梨県]](中略)遠く、[[山形県|山形]]、[[広島県|広島]]、[[京都府|京都]]から通ってくる"竹の子"もいる」と記されており、タモリの主張とは食い違いが生じている<ref>{{Cite book|和書|author=香咲弥須子|title=原宿・竹の子族|publisher=[[第三書館]]|year=1981|page=47}}</ref>。|group=注}}{{#tag:ref|『現代用語事典ブリタモリ』では、本県にちなんだ以下のような内容が記されている。 |
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埼玉県では問題を深刻に捉え、県発行の広報誌において問題をテーマにした紙上討論会を掲載し<ref name="史の会"/>、[[埼玉県庁]]内にイメージアップのための調査研究グループを設立した<ref name="史の会"/>。こうした埼玉県の動向を知ったタモリは更に関心を持ち<ref name="史の会"/>、[[愛知県]]出身者の使用する[[名古屋弁]]と共に埼玉県を笑いの対象と見做して自身の出演する番組内で揶揄した<ref name="鶴崎10-14"/>。 |
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{{Quotation| |
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と・さ・ち・か〔ト・サ・チ・カ〕<br /> |
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日曜日の[[原宿]][[歩行者天国]]に集う竹の子族・[[ロックンロール|ロックンロール族]]・[[不良行為少年|ツッパリボーヤ]]の出身地はほぼこのトサチカで占領される。だから日曜日の[[浦和市|浦和]]は最も都会的だ!!<ref name="ブリタ219"/>}} |
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{{Quotation| |
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せんれんされた〔洗練された〕<br /> |
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[[an・an|アンアン]]、[[non-no|ノンノ]]のように着て、[[POPEYE|ポパイ]]を持ちながら、ホットドッグを食べる埼玉県のブルータス(タモリ)<ref>[[#ブリタモリ編纂委員会 1982|ブリタモリ編纂委員会 1982]]、31頁</ref>}} |
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{{Quotation| |
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〔面白グループ〕<br /> |
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[[長谷邦夫|長谷]]「東京に本当の漫才師がおるか!」<br /> |
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[[赤塚不二夫|赤塚]]「[[ラブホテル]]も[[風俗店の歴史#ノーパン喫茶|ノーパン喫茶]]も大阪が原点や。東京はモノマネや」<br /> |
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タモリ「大阪があったから[[新幹線]]が東京へ引けたのやないけ!」<br /> |
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長谷「決して埼玉と競争しないんだよな」<ref>[[#ブリタモリ編纂委員会 1982|ブリタモリ編纂委員会 1982]]、108頁</ref>}} |
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|group=注}}。 |
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やがて、タモリは竹の子族が[[もんぺ]]風の衣装など世間一般には「垢抜けない」と見做される服装<ref name="史の会267"/>あるいは奇抜な服装を身に付けていたことから<ref name="鶴崎10-11"/>、「ダサい」と評するようになった<ref name="史の会267"/><ref name="鶴崎10-11"/>。さらに同年[[10月4日]]から[[フジテレビ系列]]で放送開始された『[[森田一義アワー 笑っていいとも!]]』の中で「ダ埼玉」という言葉を頻繁に使用し、当時の[[流行語]]となった<ref name="史の会267"/><ref name="埼玉19840313">{{Cite book|和書|chapter="ダサイタマ"論争、県会でも 知事ハッスル答弁|title=[[埼玉新聞]]|volume=1984年3月13日 11面}}</ref>。 |
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1980年代当時、タモリは『オールナイトニッポン』の番組内に「お国批判にしひがし」というコーナーを設け聴取者から笑いのネタを募ると、自身の出身地である[[福岡県]]を皮切りに、愛知県や埼玉県に限定せず全国各地を笑いの対象として揶揄していた<ref name="All About"/>。新語ウォッチャーのもりひろしは「タモリがひそかに発信したのは『言葉』ではなく『着眼点』だったように思う。彼が媒介となって地域[[コンプレックス]]をあぶり出し、言葉やアイデアの面白さを増幅させた」と評している<ref>{{Cite web|和書|author=もりひろし|url=http://business.nikkeibp.co.jp/article/topics/20131127/256414/?P=4|title=タモリさんと「あの言葉」の関係(後編)着眼点を発信する芸人|publisher=日経ビジネスオンライン|page=4|date=2013-12-03|accessdate=2015-11-14}}</ref>。埼玉に関しては造語の発信だけでなく、『笑っていいとも!』の番組内において「昨今の風潮を子供が気にしているので、当事者自身の言葉で否定してほしい」と訴える視聴者の主婦からの投書を「…ええ、真実を隠すことになりますので、嘘は言えません」と撥ねつけ笑いものにするパフォーマンスを行ったことや(『笑っていいとも!』1983年2月10日放送分<ref name="矢島216">[[#矢島 1985|矢島 1985]]、216頁</ref>)、タモリとは言明されていない「あるタレント」がテレビ視聴者に対して後進的なイメージを植え付けるため<ref name="埼玉19840313"/>、前時代的な「[[肥料|下肥え]]担ぎ」のパフォーマンスを行ったことが記録として残されている<ref name="埼玉19840313"/>。 |
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1980年代において「ダ埼玉」という言葉は全国に波及した<ref name="鶴崎10-14"/>が、埼玉県を揶揄する風潮は[[2000年代]]頃まで続き<ref name="三浦、日本史倶楽部27">[[#三浦、日本史倶楽部 2009|三浦、日本史倶楽部 2009]]、27頁</ref>、県内の独自性や著名な人物の存在などといった特性を無視した否定的な評価を受ける機会が多かったと言われる<ref name="三浦、日本史倶楽部27"/>。 |
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『[[笑っていいとも!増刊号]]』の編集長を務めていた雑誌編集者の[[嵐山光三郎]]は[[1987年]](昭和62年)に出版した自著の中で、埼玉だけでなく[[茨城県]]や千葉県といった東京近郊を一括りにし<ref name="嵐山">{{Citation|和書|editor=[[嵐山光三郎]]|title=現代都会語事典|publisher=[[講談社]]|year=1987|isbn=4-06-203029-2|page=140}}</ref>、「[[渋谷]]、[[原宿]]あたりをブルンブルン走っている[[暴走族]]や、[[六本木]]で取材のテレビカメラの前で競って[[ピースサイン|ピースマーク]]をしている<ref name="嵐山"/>」いわゆる[[ヤンキー (不良少年)|不良少年]]や、「[[バブル景気#地価高騰|土地の値上がり]]や親から受け継いだ資産で、難なくサラリーマン東京人の収入を上回り元気になった<ref name="嵐山"/>」青年層に批判の目を向けた<ref name="嵐山"/>。 |
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=== 県内の反応 === |
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埼玉県では問題を深刻に捉え、[[1983年]](昭和58年)6月に[[埼玉県庁]]内にイメージアップのための調査研究グループを設立<ref name="埼玉19840313"/>、県発行の広報誌『県民だより』昭和58年9月号において問題をテーマにした紙上討論会を開き<ref name="史の会267"/>、[[埼玉県知事一覧|埼玉県知事]]の[[畑和]]、[[埼玉大学]]名誉教授の小野文雄、埼玉県出身のタレントの[[所ジョージ]]のコメントや読者からの投書を掲載した<ref name="県民だより">{{Cite journal|和書|title=紙上討論会 なぜダサイ玉|journal=県民だより|issue=昭和58年9月号 3面|publisher=[[埼玉県]]広聴広報課|year=1983}}</ref>。この中で、畑は埼玉を軽く見る風潮について「[[東京]]との比較」<ref name="県民だより"/>、小野は「[[江戸時代]]から[[江戸]]を中心とした[[江戸幕府|幕府]]の支配体制に組み込まれ、[[明治|明治時代]]以降も県内に中心となる都市を持たなかったこと」を理由の一つに挙げた<ref name="県民だより"/>。一方、所は「東京を仕事の場、埼玉を生活の場と割り切る」とした上で、「もっと東京指向であって良い」と主張した<ref name="県民だより"/>。 |
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{{Quotation|昨年、県が行った県民意識調査では肯定的意見が大多数を占め86%の人が「埼玉県を好き」と答えているんですよ。「あかぬけない」「田舎臭い」というのは、東京との比較で言ってるのでしょうが、埼玉には埼玉ならではの、例えば「人情味がある」「緑が多い」とかの良さがあるということです(後略)<ref name="県民だより"/>。|畑和}} |
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{{Quotation|ダサイと軽蔑するのは、他より優れた地位に就きたいという人間の心理でしょう。優越感は劣等感の裏返し。気にすることはありません。(中略)埼玉の良いところは人々が寛容であっさりとしているところ。豊かな自然と共に、住んでいる人にとってはとてもいいところです。ただ、東京と違って都市環境が劣っているのは事実です。今後、このような面が改良されれば、ダサイと言われても何でもないのですが<ref name="県民だより"/>。|小野文雄}} |
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{{Quotation|タモリが言ってるのはあれは冗談。お仕事なんです。でも、オレが言ってるのは本当にそう思ってるから。別に埼玉という土地を嫌いなわけじゃないし悪さを感じている訳でもないけど、特に若い奴らを見てると「オレたちは田舎者じゃない、東京がなんだ」なんて強がりを言ったり、見栄をはっているところがダサイんだよ。何をしたって東京には勝てっこないんだから若い奴らはもっと東京指向でいいと思う。でも、まあ子供を育てるにはいいところだと思うね。自然も残っているし(後略)<ref name="県民だより"/>。|所ジョージ}} |
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一連の動向を知ったタモリはさらに関心を持ち<ref name="史の会267"/><ref name="鶴崎12">[[#鶴崎 2010|鶴崎 2010]]、12頁</ref>、『笑っていいとも!』の生放送中に埼玉県庁に電話取材を試みると<ref name="史の会267"/>、[[埼玉県議会]]の議題に取り上げられる事態へと発展した<ref name="史の会267"/><ref name="鶴崎12"/>。1984年3月13日付けの『[[埼玉新聞]]』は[[自由民主党 (日本)|自由民主党]]選出議員の片貝光次と畑知事との間で質疑応答が行われた際、畑知事のアピールに議会が沸き立ったと報じた<ref name="埼玉19840313"/>。また、同年4月に調査研究グループによる報告書『埼玉の魅力―イメージアップをめざして』が出版された際、研究グループのリーダーは「タモリが教わることはあっても、こちらが学ぶことはありません」と回答したといわれているが<ref name="矢島216""/>、当の埼玉県民はタモリの言動を「一種のユーモア」として楽しむ者<ref name="県民だより"/>、言葉通りに受け取り反応する者<ref name="埼玉19840313"/>、それを冷笑する者<ref name="埼玉19840313"/>などに分かれた。 |
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一方、『県民だより』昭和58年9月号に掲載された読者からの一部報告例や<ref name="県民だより"/>、1984年3月13日付けの『埼玉新聞』の報道にあるように<ref name="埼玉19840313"/>、「ダ埼玉」という言葉や埼玉県を揶揄する風潮は1980年代を通じて全国に波及した<ref name="鶴崎12"/>。紙上討論会にコメントを掲載した[[所沢市]]<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.inlifeweb.com/reports/report_148.html|title=男の履歴書 所ジョージ|publisher=インライフ|accessdate=2015-11-14}}</ref>出身の所は[[1984年]](昭和59年)頃、自身の出演番組内で埼玉県を揶揄するジョークを繰り返し、マイナスイメージの定着に一役買う結果となった<ref>{{Cite book|和書|author=上之郷利昭|authorlink=上之郷利昭|title=先端知事・畑和の新・現実主義を生きる|publisher=[[講談社]]|year=1988|isbn=4-06-203765-3|pages=66-67}}</ref>。 |
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こうした風潮は[[2000年代]]ころまで続き<ref name="三浦、日本史倶楽部27">[[#三浦、日本史倶楽部 2009|三浦、日本史倶楽部 2009]]、27頁</ref>、東京への良好なアクセスと住環境<ref name="官界199510">{{Cite journal|和書|title=埼玉県浦和、大宮、与野の三市合併 主導権争いの行方―三市それぞれ思惑乱れて―|journal=月刊官界|issue=1995年10月号|publisher=行政問題研究所|page=212-215}}</ref>、あるいは県内の独自性や著名な人物の存在<ref name="三浦、日本史倶楽部27"/>などといった地域特性を無視し、否定的な評価を受ける機会が多かった<ref name="三浦、日本史倶楽部27"/><ref name="官界199510"/>。 |
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=== 行政の対応 === |
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[[1992年]](平成4年)6月、元[[参議院議長]]の[[土屋義彦]]が埼玉県知事に就任した。土屋はかねてから県民の東京に対する依存意識の根深さ<ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、211頁</ref>、県を揶揄する風潮<ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、104頁</ref><ref>{{cite news | url = https://style.nikkei.com/article/DGXKZO10845870Z11C16A2L83000?channel=DF130120166109|title=「ダサイタマ」は死語? 呼び名と県民反応の歴史 県議会で論争、逆手にPR…|newspaper=[[日本経済新聞]]|publisher=[[日本経済新聞社]]|date=2016-12-20|accessdate=2019-02-12}}</ref>、[[経済企画庁]]が発表する「豊かさ指標」による低評価<ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、112-113頁</ref>、前例踏襲的で柔軟性を欠いた県政に疑問を感じていたといい<ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、19頁</ref>、マイナスイメージからの脱却を掲げ<ref name="鶴崎13">[[#鶴崎 2010|鶴崎 2010]]、13頁</ref>、同年[[11月14日]]の[[埼玉県民の日|県民の日]]に合わせて「[[彩の国]]」という県の愛称を制定した<ref>{{Cite web|和書|title=県の愛称「彩の国」について|publisher=埼玉県ホームページ|url=https://www.pref.saitama.lg.jp/a0314/saitama-profile/sainokuni.html|date=2021-05-13|accessdate=2021-11-23}}</ref><ref name="平成19年12月定例会">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/s-gikai/gaiyou/h1912/1912m010.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130409052605/http://www.pref.saitama.lg.jp/s-gikai/gaiyou/h1912/1912m010.html|title=埼玉県議会平成19年12月定例会 一般質問 質疑質問・答弁全文|publisher=埼玉県ホームページ|archivedate=2013-04-09|accessdate=2015-11-14|url-status=dead|url-status-date=2017-09}}</ref>。 |
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なお、土屋は[[1997年]](平成9年)に出版した自著の中で、幕末の思想家・[[吉田松陰]]の残した「国の最も大なりとする所のものは、華夷の弁なり」という言葉を引用し、次のような主張をしている<ref name="土屋212-213">[[#土屋 1997|土屋 1997]]、212-213頁</ref>。 |
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{{Quotation|「華夷の弁」とは華夷弁別、つまり当時の儒者が中国のみを文化の中心とし日本を低く見る風潮を戒め、日本もまた立派な国であることを自覚する大切さを説いたもので、自分の生まれた土地がどんな僻地であろうと劣等感を抱く必要はなく、その場所で励むならばそこが「華」だと松陰は言うのである。 |
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そこには、西国の僻地[[長門国]]の[[萩市|萩]]、そのまた郊外の[[松下村塾]]から天下を奮発振動させる根拠地としてみせよう、という松陰の気概が示されている。これをもし埼玉県と東京の関係にあてはめるならば、埼玉をこそ「華」の地にしなければならない<ref name="土屋212-213"/>。|土屋義彦}} |
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土屋は従来の[[箱物行政]]にも疑問を感じていたといい<ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、31頁</ref>、畑知事時代に計画された一部事業計画を白紙化する一方で<ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、32頁</ref>、[[バブル景気|バブル色]]の強い「埼玉コロシアム」「埼玉メッセ」を柱とした「埼玉中枢都市構想」については県の自立性を高める好機と捉え、経済状況や防災面に即した計画案「さいたま新都心中枢・中核施設基本整備計画」に修正<ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、146-149頁</ref>、[[彩の国さいたま芸術劇場]]については芸術文化活動への助成を重視する施策を行った<ref name="土屋36-37">[[#土屋 1997|土屋 1997]]、36-37頁</ref>。 |
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[[File:Saitama Stadium Panorama.jpg|thumb|埼玉スタジアム2002]] |
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また、県のシンボルとして<ref name="土屋36-37"/>、[[浦和レッドダイヤモンズ|浦和レッズ]]のホームスタジアムで[[2002 FIFAワールドカップ]]の試合開催地となる国内最大級のサッカー専用スタジアム・[[埼玉スタジアム2002]]の建設<ref name="土屋36-37"/><ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、38頁</ref>、[[埼玉古墳群|さきたま古墳公園]]の整備<ref name="土屋36-37"/>、[[入間郡]][[越生町]]の「さくらの郷」計画を三つの柱とした施設整備を進めたほか<ref name="土屋36-37"/>、[[さいたまスーパーアリーナ]]の開館記念事業として[[バスケットボール]]の[[スーパードリームゲーム2000]]の開催<ref>[[#埼玉新聞社 2000|埼玉新聞社 2000]]、226-228頁</ref>、[[2001年]]の[[バスケットボールU-21世界選手権|バスケットボール・ヤングメン世界選手権]]や[[2006年バスケットボール世界選手権]]決勝ラウンドの開催地誘致に成功するなど、「彩の国キャンペーン」に留まらず<ref>[[#土屋 1997|土屋 1997]]、106頁</ref>埼玉の積極的なイメージ改善を行った。 |
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このほか実現はならなかったものの、2002 FIFAワールドカップ決勝戦招致の先頭に立ち、[[神奈川県]][[横浜市]]との間で招致合戦を展開し<ref name="埼玉新聞社18">[[#埼玉新聞社 2000|埼玉新聞社 2000]]、18頁</ref><ref>[[#埼玉新聞社 2000|埼玉新聞社 2000]]、211-217頁</ref>、[[東京タワー]]に代わる新電波塔建設計画([[東京スカイツリー|新東京タワー]])を[[さいたま新都心]]に誘致する政策を行った<ref name="埼玉新聞社18"/>。 |
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土屋知事の任期中の積極的なイメージアップ政策により、1980年代のように「ダ埼玉」と評されることは少なくなったが<ref name="平成19年12月定例会"/><ref name="平成12年2月">{{Cite web|和書|url=http://www.pref.saitama.lg.jp/s-gikai/gaiyou/h1202/1202n010.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20041129052218/http://www.pref.saitama.lg.jp/s-gikai/gaiyou/h1202/1202n010.html|title=埼玉県議会平成12年2月一般質問|publisher=埼玉県ホームページ|archivedate=2004-11-29|accessdate=2015-11-14|url-status=dead|url-status-date=2017-09}}</ref>、土屋の後任として知事となった[[上田清司]]の下でも[[埼玉県]]ブランドの積極的な発信が行われ、イメージアップ政策は継続して採り行われている<ref name="平成19年12月定例会"/>。 |
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== 背景 == |
== 背景 == |
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=== 造語の背景 === |
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先述のように芸能界デビューから1980年代初頭の[[タモリ]]はラジオ番組『[[タモリのオールナイトニッポン]]』の毒舌パーソナリティーとして若者の間でカルト的人気を獲得していた<ref name="All About"/>。その手法はいわゆる「密室芸」「身内芸」であり、「排除の論理で、排除された者を笑いのめす」のが特徴となっていた<ref name="SD">{{Cite journal|和書|title=大衆の笑い|journal=SD = スペースデザイン|publisher=[[鹿島出版会]]|issue=1984年2月号|page=99}}</ref>。その矛先は主に「田舎」「田舎者」「インテリ、文化人」に向けられ<ref name="岸川190">[[#岸川 2014|岸川 2014]]、190頁</ref>、「田舎」であれば[[名古屋市|名古屋]]を槍玉にあげ<ref name="岸川190"/>、「田舎者」であればミュージシャンの[[さだまさし]]や[[小田和正]]らの楽曲をその最たるものと批判し<ref>[[#岸川 2014|岸川 2014]]、193頁</ref>、「インテリ、文化人」であれば[[寺山修司]]、[[竹村健一]]、[[大橋巨泉]]の言動を時には批判、時には誇張して笑いの対象とした<ref>[[#小林 1982|小林 1982]]、53頁</ref>。ただし、自身の[[ネクラ|クラさ]]も批判対象に密かに忍ばせる、あるいはクラさを一身に引き受けていたともいい<ref name="SD"/>、そうした姿を周囲に晒すことで、一部ファンとの間で連帯感を生み出していた<ref name="SD"/>。 |
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かつて[[武蔵国]]と呼ばれていた埼玉県域を含む関東地方の武士団や住民は独立意識が強く<ref name="武光87-88">[[#武光 2001|武光 2001]]、87-88頁</ref>、[[平安時代]]から[[室町時代]]に至るまで中央政府とは一線を画した独自の勢力圏や文化圏を形成していた<ref name="武光87-88"/>。[[鎌倉時代]]に幕府が置かれた[[鎌倉]]では[[京都]]風の文化が営まれたが関東全域に波及するには至らず<ref name="武光87-88"/>、室町時代には幕府から[[公方]]や[[管領]]が派遣されて関東地方の統治を行ったが指導力は低く<ref name="武光87-88"/>、武士団は独自性を堅持していた<ref name="武光87-88"/>。 |
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『[[週刊現代]]』1983年2月5日号に掲載されたタモリのインタビューによれば、名古屋批判の趣旨のほか、次のターゲットとして[[埼玉県]]を推す意見があることについての自身の見解が記されている<ref name="現代19830205">{{Cite journal|和書|title=電波を占拠する国民的タレントタモリの「しゃべっていいとも」|journal=[[週刊現代]]|publisher=[[講談社]]|issue=1983年2月5日号|page=47}}</ref>。それによると1983年初頭の時点ではあくまでも名古屋が田舎批判、地方批判の本命であり、埼玉は別次元のものと捉えていたという<ref name="現代19830205"/>。 |
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こうした傾向は[[後北条氏]]が武蔵国を含む南関東地方を勢力下に置いた[[戦国時代 (日本)|戦国時代]]においても変わりはなかったが<ref name="武光89">[[#武光 2001|武光 2001]]、87-88頁</ref>、[[豊臣秀吉]]の侵攻により後北条氏の支配体制に終止符が打たれ、秀吉の命により[[徳川家康]]が関東地方に移封されたことにより変化が生じるようになった<ref name="武光89"/>。家康は領内の各地域に徳川譜代の家臣を配置し、領内において独自の支配を容認したが<ref name="武光89"/>、譜代の家臣達は徳川家に対する[[中央集権]]的意識を強く持ち合わせていたことから独自性は生まれにくくなり<ref name="武光89"/>、そうした気風は住民の間にも浸透していった<ref name="武光89"/>。 |
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{{Quotation|名古屋を攻撃したのは日本人のいやらしさ、偏狭さ、バカさ加減があそこに集約されていたんでやったまででね。それに世の中、だいぶイイ人ばかり増えたから攻撃の相手がいなくなっちゃった。次はサイタマっていう人もいますが、名古屋とは次元が違うしねえ。ただ東京の隣の県でありながら一歩埼玉に入ると、線を引いたように田舎になるところが不思議ですねえ<ref name="現代19830205"/>。|タモリ}} |
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作家の[[小林信彦]]によれば、タモリは深夜番組時代から埼玉県、[[千葉県]]といった東京の隣県を笑いの対象としており、小林は「心の隅に、チラとはあるが、明らさまに口にする」ような「地方差別」の類は(近隣に親戚縁者のいる)東京生まれの人間であれば出来ない無粋なものと評している<ref name="キネマ198503">{{Cite journal|和書|author=[[小林信彦]]|title=小林信彦のコラム 146 タブーと不自由の時代|journal=[[キネマ旬報]]|publisher=[[キネマ旬報社]]|volume=1985年3月上旬号|page=119}}</ref>。一方で小林は「タモリについて好意的に見れば、視聴者が本質的に『なんらかの差別』を好むことを見抜いたのは鋭いと思う」と評している<ref name="キネマ198503"/>。 |
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一方でタモリは1981年(昭和56年)をピークに毒舌家としての側面を後退させ、お茶の間向けの芸風にイメージチェンジを図ろうとしており<ref name="近藤258-260">[[#近藤 2015|近藤 2015]]、258-260頁</ref>、小林、コラムニストの[[亀和田武]]、イラストレーターの[[山藤章二]]らから批判を受けていた<ref name="近藤258-260"/>。こうした批判についてタモリ自身は『週刊現代』1983年2月5日号において「毒がなくなったというけれど、自分は昔から同じで、毒なんてないと思っている。普通の人が面白いと思うことをストレートにやっていただけでね。それが毒だといわれても」と弁明している<ref name="現代19830205"/>。これに対し、放送作家の[[景山民夫]]は山藤との対談の中で『[[森田一義アワー 笑っていいとも!|笑っていいとも!]]』出演以降のタモリの芸風転向について次のように語っている<ref name="山藤151">[[#山藤 1987|山藤 1987]]、151頁</ref>。 |
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[[江戸時代]]中期に入ると、埼玉県に相当する地域の住人達は[[江戸]]や江戸の文化に対して憧れの意識を持つようになったが<ref name="武光83-84">[[#武光 2001|武光 2001]]、83-84頁</ref>、江戸に在住する人々からは同じ武蔵国の住民ながら「江戸生まれではない」という理由から差別されていたといわれている<ref name="武光83-84"/>。一方、埼玉県に相当する地域の西部に位置する[[秩父地方]]の住民たちは山間部という地域特性もあり<ref name="武光83-84"/>、他の地域とは異なり独自の風俗や文化を維持し続けていた<ref name="武光83-84"/>。 |
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{{Quotation|'''景山''' (前略)で、最初のうちは、「『笑っていいとも!』が始まって一年半ぐらいはタモリ自身ももとのタモリの部分にかなりしがみついていたんですけども、怖いもんで、毎日、週に五日間、あのオバさんとミーハーの女の子の前に出てると、つまり自分が接してる人間に合わせてるんですね。<br /> |
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'''山藤''' ありますね。<br /> |
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'''景山''' とくに、あれは公開ですからねェ。そちらのレベルに合わせていく芸にどんどんなってって……。だから、はっきりいってしまえばつまり流す芸になっちゃたと<ref name="山藤151"/>。}} |
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=== 受容の背景 === |
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{{main|埼玉県#歴史|埼玉都民}} |
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年間を通じて天候が安定している影響から全般的には「おおらか<ref name="インターナショナル・ワークス22">[[#インターナショナル・ワークス 2003|インターナショナル・ワークス 2003]]、22頁</ref>」、県の主産業が[[農業]]だった点から「堅実<ref>[[#三浦、日本史倶楽部 2009|三浦、日本史倶楽部 2009]]、29頁</ref>」な県民性を持つと言われる。一方、[[2000年代]]において、他の都道府県からの流入者が全国でも高水準にある点や<ref name="インターナショナル・ワークス26-27">[[#インターナショナル・ワークス 2003|インターナショナル・ワークス 2003]]、26-27頁</ref>、県南部に在住する人々の多くは日中は[[東京都]]内で過ごし、夜にならないと埼玉県には帰宅することがない([[埼玉都民]])という、いわゆる[[ベッドタウン]]化現象が生じている点から<ref name="インターナショナル・ワークス26-27"/>、純粋な県民性は希薄との指摘もある<ref name="インターナショナル・ワークス26-27"/>。 |
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[[ファイル:1856 Japanese Edo Period Woodblock Map of Musashi Kuni (Tokyo or Edo Province) - Geographicus - MusashiKuni-japanese-1856.jpg|250px|thumb|武蔵国の古地図。後の埼玉県に相当する地域は徳川家康の関東入封以降、天領や幕領が置かれ江戸の後背地として発展した。一方、それらが複雑に入り組み、対外的に顔としての機能を持つ大都市を持たなかった。]] |
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先述のように埼玉を軽く見る風潮について、[[埼玉大学]]名誉教授の小野文雄は、[[江戸時代|江戸期]]に幕府の支配体制([[江戸幕府]])に組み込まれ、これ以降も県内に中心となる都市を持たなかった{{#tag:ref|県内に大都市を建設する構想自体は1927年(1927年)に県知事の[[宮脇梅吉]]が「一大都市圏構想」を打ち出したことに始まる<ref name="官界199510"/>。1933年(昭和8年)、県南の上水道建設計画に絡んだ「大埼玉市」構想が浮上すると、県からの働きかけもあり浦和・大宮・与野の三町が賛同したが、1934年(昭和9年)に浦和が単独で市制施行したため構想は頓挫した<ref>[[#史の会 1986|史の会 1986]]、46-47頁</ref>。その後、戦時中の1942年(昭和17年)には[[疎開]]受け入れのため「大埼玉市」構想が再浮上<ref name="官界199510"/>。戦後の1954年(昭和29年)には増えすぎた自治体の削減のため構想が再々浮上したが、大宮が難色を示したため実現には至らなかった<ref name="官界199510"/>。|group=注}}点を挙げている<ref name="県民だより"/>。小野によれば、[[武蔵国]]の本県域に相当する地域(以下、北武蔵)を根拠地とする武士団は[[源頼朝]]を棟梁とした武家政権樹立([[鎌倉幕府]])の原動力となった<ref name="小野41">[[#小野 1992|小野 1992]]、41頁</ref>。[[室町時代|室町期]]の[[武蔵平一揆|平一揆の乱]]を契機に武士団は衰退を余儀なくされたものの、武蔵の地は[[戦国時代 (日本)|戦国期]]を通じて諸将から戦略的に重視され、争乱の場となった<ref name="小野41"/>。こうした立場は[[豊臣秀吉]]による[[小田原征伐]]後の[[徳川家康]]の関東移封と、秀吉没後の徳川家による支配体制の確立により変化が生じた<ref name="小野42">[[#小野 1992|小野 1992]]、42頁</ref>。 |
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北武蔵は、幕府が置かれ政治・文化の中心となった江戸の後背地として米を中心とした農業生産、[[利根川]]や[[荒川 (関東)|荒川]]の治水と新田開発、大名が主要街道を往来する際の使役に携わるなど商業面においても産業面においても密接な関係を築いた<ref name="小野42"/>。地域内は約20万石の藩領のほか江戸幕府直轄の[[天領]]、幕府旗下の[[地方知行|知行所]]が占めていたが、これらを治める譜代の家臣達は徳川家に対する[[中央集権]]的意識を強く持ち合わせ、なおかつ[[転封]]も多かったことから、独自性は生まなかった<ref name="県民だより"/><ref name="小野43">[[#小野 1992|小野 1992]]、43頁</ref>。[[明治]]以降、[[埼玉県]]が成立した後も[[首都圏 (日本)|東京圏]]に組み込まれたため、県民としての連帯意識、独自の県民性を育むには至らず<ref name="小野43"/>、[[昭和]]の[[高度経済成長|高度成長期]]にともなう人口流動により国内有数の大県となった後も変化はなかったとしている<ref name="小野41"/>。 |
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== 行政の対応 == |
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[[1992年]]、[[土屋義彦]]が埼玉県知事に就任すると「マイナスイメージからの脱却」を掲げ、同年[[11月14日]]の県民の日に合わせて「[[彩の国]]」という県の愛称を制定<ref>{{cite web |title=県の愛称「彩の国」について|publisher=埼玉県ホームページ |url=http://www.pref.saitama.lg.jp/site/saitama-profile/sainokuni.html |date=2010年3月19日 |accessdate=2012年8月11日}}</ref>。[[彩の国さいたま芸術劇場]]の開設や[[2002年]]に日韓で共同開催された[[2002 FIFAワールドカップ]]の試合開催地誘致、[[さいたまスーパーアリーナ]]の開館記念事業として[[2001年]]に[[バスケットボールU-21世界選手権|バスケットボール・ヤングメン世界選手権]]の開催地誘致や<ref name="埼玉新聞社210">[[#埼玉新聞社 2000|埼玉新聞社 2000]]、210頁</ref>、[[2006年バスケットボール世界選手権]]決勝ラウンドの開催地誘致に成功するなど<ref name="埼玉新聞社210"/>、埼玉の積極的なイメージ改善を行った。 |
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歴史学者の[[武光誠]]によれば、江戸期を通じて北武蔵の住民は江戸へあこがれの感情を抱くようになった<ref name="武光84">[[#武光 2001|武光 2001]]、84頁</ref>。それとは対照的に、江戸の住民が北武蔵をやや低く見る風潮が育まれ、後の埼玉県を揶揄する風潮へと引き継がれたとしている<ref name="武光84"/>。さらに本県が東京都と寄り添うように位置する地理的状況からもその二番煎じのように見せている、としている<ref name="武光84"/>。 |
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このほか実現はならなかったものの、[[アジア]]で最大級のサッカー専用スタジアム[[埼玉スタジアム2002]]を建設しての2002 FIFAワールドカップの決勝戦誘致や<ref name="埼玉新聞社18">[[#埼玉新聞社 2000|埼玉新聞社 2000]]、18頁</ref>、[[東京タワー]]に代わる新電波塔建設計画([[東京スカイツリー|新東京タワー]])を[[さいたま新都心]]に誘致する政策を行った<ref name="埼玉新聞社18"/>。 |
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政治学者の[[小山博也]]によれば、明治期を通じてマスメディアにより「難治の県」と見る風評が広められた<ref name="小山4">[[#小山 1990|小山 1990]]、4頁</ref>。第5代知事・[[久保田貫一]]は、強権的な政治姿勢を打ち出したため議会の反発を招き、不信任が可決されたが{{#tag:ref|久保田は[[1891年]](明治24年)の知事就任以来、[[埼玉師範学校]]騒動、[[権現堂川]]土木工事入札問題、中学校建設問題、利根川通三か所の護岸工事入札問題など様々なトラブルを引き起こした<ref name="小山88-89">[[#小山 1990|小山 1990]]、88-89頁</ref>。さらに、[[1892年]](明治25年)2月の[[第2回衆議院議員総選挙]]では府県知事の公選を望む民意に反して、県警部長・[[有田義資]]をはじめ県下の全警察組織を動員し[[選挙干渉]]を行うなど強権的な姿勢を取ったため<ref name="小山88-89"/>、県議会において不信任決議案が可決された<ref name="小山88-89"/>。久保田は県議会を解散させたが、内務大臣・[[井上馨]]の命により知事を非職となり、さらに免官となった<ref name="小山88-89"/>。第7代知事となった[[千家尊福]]は久保田時代の様々な懸案事項を解決したことから第2代県令の白根と同様に「良二千石」と評され<ref>[[#小山 1999|小山 1999]]、164頁</ref>、風評も一応の修復を見たが<ref>[[#小山 1999|小山 1999]]、166頁</ref>、[[1897年]](明治30年)に第8代知事となった[[宗像政|田村政]]は就任に際し、同年5月1日付けの日刊紙『[[都新聞]]』に「埼玉県は元来人気の荒い処にて、某[[上野国|上州]]に接近したる地方を以て特に然りとす。同地方は強盗賭博争斗等最も多くして、人命を奪ふ事に於いては何とも思はず。恰も禽獣を屠するの感あるが如し」と記し態度を硬化させた<ref name="小山4"/><ref name="小山90">[[#小山 1990|小山 1990]]、90頁</ref>。|group=注}}、このことは「難治の県」と見る風評を助長させる結果となった<ref name="小山90"/>。その後も排水事業や治水事業などをめぐる地域内対立が続き、「難治の県」とする見方を後押しした<ref>[[#小山 1990|小山 1990]]、7頁</ref>。小山は1989年(平成元年)に刊行した『埼玉県の百年 県民100年史』の中で明治期の風評について「この間まで語られてきた『ダサイ』な埼玉もこの系譜上にある」と記している<ref>[[#小山 1990|小山 1990]]、5頁</ref>。 |
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土屋知事の任期中の積極的なイメージアップ政策により、1980年代のように「ダ埼玉」と評されることは少なくなったが<ref name="平成19年12月定例会">{{cite web |title=埼玉県議会平成19年12月定例会 一般質問 質疑質問・答弁全文|publisher=埼玉県ホームページ |url=http://www.pref.saitama.lg.jp/s-gikai/gaiyou/h1912/1912m010.html |accessdate=2012年8月11日}}</ref><ref name="平成14年12月">{{cite web |title=埼玉県議会平成14年12月-知事10年の評価と今後の埼玉県の展望について|publisher=埼玉県ホームページ |url=http://www.pref.saitama.lg.jp/s-gikai/gaiyou/h1412/1412n010.html |accessdate=2012年8月11日}}</ref><ref name="平成12年2月">{{cite web |title=埼玉県議会平成12年2月一般質問|publisher=埼玉県ホームページ |url=http://www.pref.saitama.lg.jp/s-gikai/gaiyou/h1202/1202n010.html |accessdate=2012年8月11日}}</ref>、土屋の後任として知事となった[[上田清司]]の下でも埼玉ブランドの積極的な配信が行われるなど、イメージアップ政策は継続して採り行われている<ref name="平成19年12月定例会"/>。 |
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この造語が登場した1980年代初頭の関東地方は、集団就職のために上京した[[団塊の世代|団塊世代]]が土地高騰や結婚などの機会のため東京郊外へと移動した<ref name="難波133">[[#難波 2012|難波 2012]]、133頁</ref>。人口流動の過程で地域ヒエラルキーが形成され、「第四山の手」と称される[[東急田園都市線]]などの沿線地域は企業による[[ブランディング]]効果もあり、上京者たちのヒエラルキーの頂点と見なされた<ref>[[#難波 2012|難波 2012]]、136頁</ref><ref name="ユリイカ">{{Cite book|和書|author=島村マサリ|chapter=これはやはり「ディス」なのだ 二〇一九年の「翔んで埼玉」論|title=[[ユリイカ (雑誌)|ユリイカ]] 詩と批評 特集・魔夜峰央|publisher=[[青土社]]|date=2019年3月臨時増刊号|pages=264-269}}</ref>。団塊世代と入れ替るように[[断層の世代|ポスト団塊世代]]が大学進学のため都心部に流入したが<ref name="難波133"/>、都心部は若者が集まり情報の発信地とされる一方、埼玉をはじめとした郊外地域はそれより劣るものと見なされた<ref name="ユリイカ"/>。こうした都心部と郊外の関係を率直に反映した作品作りも行われた([[#文化的影響]])<ref name="ユリイカ"/>。 |
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== 文化的影響 == |
== 文化的影響 == |
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1980年代には埼玉県を揶揄する風潮に乗じて『[[翔んで埼玉]]』(『やおい君の日常的でない生活』収録、[[魔夜峰央]]、[[白泉社]]、1986年)<ref name="さいたま文学館6">[[#さいたま文学館 2009|さいたま文学館 2009]]、6頁</ref>や『[[こちら埼玉山の上大学ボクシング部]]』([[プロジェクト:漫画家/日本の漫画家 や-わ行|唯洋一郎]]、[[集英社]]、1986-1989年)といった[[漫画]]作品が刊行された<ref name="さいたま文学館6"/>。また、関東圏と思しい[[クラブ活動|大学サークル]]における、[[すき焼き]]の肉をめぐる攻防と葛藤を描いた『最後の晩餐』(『[[かっこいいスキヤキ]]』収録、[[泉昌之]]、[[青林堂]]、1983年)も、当時の地域ヒエラルキーを反映したような内容となった<ref name="ユリイカ"/>{{#tag:ref|横浜出身の主人公が、肉に目がない同僚(埼玉県浦和出身ほか2名)の姿を地域性も絡めて冷笑し<ref name="ユリイカ"/>、野菜などでカムフラージュしつつ肉を奪取する作戦に出る。が、努力の甲斐もなく次々に肉は奪われていき、理想と現実との狭間で苦悩する、といった内容<ref>{{Cite web|和書|author=南信長|authorlink=新保信長|url=https://www.gentosha.jp/article/1829/|title=久住昌之と土山しげるのタッグに腹が減る理由|work=幻冬舎plus|publisher=[[幻冬舎]]|date=2014-03-20|accessdate=2022-01-09}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://nikkan-spa.jp/1721001|title=『かっこいいスキヤキ』書評「真剣に食べることは人生の豊かさを増してくれる」 (イナダシュンスケ) |work=日刊SPA!|publisher=[[扶桑社]]|date=2020-12-10|accessdate=2022-01-09}}</ref>。|group=注}}。ただし、こうした傾向の作品は1980年代を境に減少した<ref name="さいたま文学館6"/>。 |
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1990年代以降、埼玉県内を舞台やモデルとした作品は増加傾向にあり<ref name="さいたま文学館1">[[#さいたま文学館 2009|さいたま文学館 2009]]、1頁</ref>、作品の登場人物が地域のシンボルとなった事例もあった<ref name="さいたま文学館1"/>。その理由について[[さいたま文学館]]は「多くの漫画は多数の登場人物が交錯し時間・空間の変化するイメージを求め、都市や市街地を舞台に設定する。『ダ埼玉』とは都市化・市街化の遅れた県の状況をからかう表現であり、県内における都市化・市街化の進行は『ダ埼玉』イメージの消滅と軌を一にする現象だったと考えられる」と評した<ref name="さいたま文学館6"/>。 |
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=== 2010年代の情況 === |
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{{main|ディスリスペクト}} |
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[[2015年]]([[平成]]27年)11月、[[日本テレビ放送網]]の[[バラエティ番組]]『[[月曜から夜ふかし]]』において、前述の『翔んで埼玉』が取り上げられ、埼玉県を徹底的に[[ディスリスペクト|ディスる]]内容が話題となった<ref name="東洋経済">{{Cite web|和書|author=高部知子|url=https://toyokeizai.net/articles/amp/116511|title=55万部!「翔んで埼玉」がバカ売れした理由 30年前の復刻マンガが、なぜ爆発したのか|work=東洋経済ON LINE|publisher=[[東洋経済新報社]]|date=2016-03-28|accessdate=2020-09-21}}</ref>。同年12月、同作が[[宝島社]]から復刊されると55万部を超えるヒットとなり、埼玉県知事の[[上田清司]]も「悪名は無名に勝る」とコメントを出した<ref>{{Cite press release|和書|url=https://prtimes.jp/main/html/rd/p/000000358.000005069.html|title=読者の3割が埼玉県人!?埼玉ディスマンガ『翔んで埼玉』が55万部突破!|publisher=[[宝島社]]|date=2016-03-28|accessdate=2018-04-09}}</ref>。このうち、売り上げの3割を埼玉県内の購入者が、65パーセントを女性の購入者が占めた<ref name="東洋経済"/>。 |
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さらに[[2019年]](平成31年)[[2月22日]]には[[翔んで埼玉 (映画)|同作の実写映画]]が公開され、同年[[3月24日]]時点で興行収入25億円、観客動員数193万人を記録した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.crank-in.net/news/63617/1|title=『映画ドラえもん』がV4!『翔んで埼玉』は25億円突破|work=クランクイン!|publisher=[[ブロードメディア|ハリウッドチャンネル株式会社]]|date=2019-03-26|accessdate=2019-04}}</ref>。一連のヒットについて、[[ヒップホップ]]に見られるような自分の地元を茶化しあう「地方ディス」<ref name="ユリイカ"/><ref name="東洋経済"/><ref>{{Cite web|和書|author=折田侑駿|url=https://realsound.jp/movie/2019/03/post-330032.html|title=『翔んで埼玉』に見る“ご当地自虐映画”の意外な奥深さ 埼玉、群馬の次に標的になるのはどこだ!?|work=Real Sound|publisher=株式会社blueprint|date=2019-03-09|accessdate=2020-09-21}}</ref>、自治体PRとして定番となりつつある「ふるさと自虐」に基づくものではないかといった指摘がある<ref name="窪田">{{Cite web|和書|author=窪田順生|authorlink=窪田順生|url=https://diamond.jp/articles/-/196832|title=「翔んで埼玉」ヒットに見る、自虐ネタが大好きな日本の地方の心理|work=ダイヤモンド・オンライン|publisher=[[ダイヤモンド社]]|date=2019-03-14|accessdate=2020-09-21}}</ref>。 |
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同時期には、[[群馬県]]では『[[お前はまだグンマを知らない]]』、[[島根県]]でも『[[島根自虐伝]]』がメディア化されている<ref name="窪田"/><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sankei.com/article/20151219-OM5CJ6VXXFLJTICEXSCZWBRQ2Q/|title=【話題の本】日本で47番目に有名 『島根自虐伝』島根勝手にに応援会著|work=産経ニュース|publisher=[[産経新聞社]]|date=2015-12-19|accessdate=2020-09-21}}</ref>。『なぜ埼玉県民だけがディスられても平気なのか?』など、分析を試みる書籍も発売されている<ref>{{Cite web|和書|author=小柳暁子|url=https://dot.asahi.com/articles/-/127606|title=なぜ埼玉県民はディスられても平気? 源流はなんと古墳時代に|work=産経ニュース|publisher=[[産経新聞社]]|date=2019-03-08|accessdate=2020-09-21}}</ref>。 |
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== 脚注 == |
== 脚注 == |
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{{脚注ヘルプ}} |
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=== 注釈 === |
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{{notelist2}} |
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=== 出典 === |
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{{Reflist|3}} |
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== 参考文献 == |
== 参考文献 == |
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* {{Citation|和書|editor=小野文雄|title=図説埼玉県の歴史|publisher=[[河出書房新社]]|series=図説日本の歴史 11|year=1992|isbn=4-309-61111-7|ref=小野 1992}} |
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* {{Cite book| 和書| author =インターナショナル・ワークス編 | title = どんな性格? どう付き合う? 日本出身県地図 | year = 2003| publisher = [[幻冬舎]] | isbn=4-344-00359-4 |ref=インターナショナル・ワークス 2003}} |
|||
* {{Cite book| |
* {{Cite book|和書|author=小山博也|authorlink=小山博也|title=埼玉県政治史断章|publisher=[[埼玉新聞|埼玉新聞社]]|year=1999|isbn=4-87889-200-5|ref=小山 1999}} |
||
* {{Cite book|和書|author=小山博也 他|title=埼玉県の百年 県民100年史|publisher=[[山川出版社]]|series=県民100年史 11|year=1990|isbn=4-634-27110-9|ref=小山 1990}} |
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* {{Cite book|和書|author=[[さいたま文学館]] |year=2009 |title=マンガ聖地巡礼inサイタマ☆ 文学vsマンガ Part2 |ref=さいたま文学館 2009}} |
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* {{Cite book| |
* {{Cite book|和書|author=岸川真|authorlink=岸川真|chapter=タモリ・オン・タモリから見える素顔|title=文藝別冊 総特集 タモリ|publisher=河出書房新社|series=文藝別冊 KAWADE夢ムック|year=2014|isbn=978-4-309-97816-1|ref=岸川 2014}} |
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* {{Cite book|和書|author=近藤正高|title=タモリと戦後ニッポン|publisher=[[講談社]]|series=講談社現代新書|year=2015|isbn=978-4-06-288328-3|ref=近藤 2015}} |
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* {{Citation|和書|editor=[[埼玉新聞|埼玉新聞社]]|title=彩の国づくり日々刻々 土屋義彦埼玉県知事記者会見採録|publisher=埼玉新聞社|year=2000|isbn=4-87889-207-2|ref=埼玉新聞社 2000}} |
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* {{Cite book|和書|author=さいたま文学館|authorlink=さいたま文学館|title=マンガ聖地巡礼inサイタマ☆ 文学vsマンガ Part2|year=2009|ref=さいたま文学館 2009}} |
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* {{Citation|和書|editor=史の会|title=昭和史の埼玉 激動の60年|publisher=[[さきたま出版会]]|year=1986|isbn=4-87891-031-3||ref=史の会 1986}} |
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* {{Cite book|和書|author=武光誠|authorlink=武光誠|title=県民性の日本地図|publisher=[[文藝春秋]]|year=2001|isbn=4-16-660166-0|ref=武光 2001}} |
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* {{Cite book|和書|author=土屋義彦|authorlink=土屋義彦|title=埼玉独立論 小が大を呑む|publisher=講談社|year=1997|isbn=4-06-208266-7|ref=土屋 1997}} |
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* {{Cite book|和書|author=鶴崎敏康|title=< さいたま > の秘密と魅力|publisher=埼玉新聞社|year=2010|isbn=978-4-87889-329-2|ref=鶴崎 2010}} |
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* {{Cite book|和書|author=ブリタモリ編纂委員会|title=現代用語事典ブリタモリ|publisher=[[スコラ]]|year=1982|isbn=4-06-141363-5|ref=ブリタモリ編纂委員会 1982}} |
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* {{Cite book|和書|author=三浦竜&日本史倶楽部|title=地図に隠された「県民性」の歴史雑学 「お国柄の謎」に迫る!|publisher=[[三笠書房]]|year=2009|isbn=4-8379-2330-5|ref=三浦、日本史倶楽部 2009}} |
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* {{Cite book|和書|author=矢島栄二|title=Go!Go!埼玉漫遊記|publisher=まつやま書房|year=1985|asin=B000J6PH44|ref=矢島 1985}} |
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* {{Cite book|和書|author=山藤章二|authorlink=山藤章二|title=対談「笑い」の解体|publisher=講談社|year=1987|isbn=4-06-202955-3|ref=山藤 1987}} |
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== 関連項目 == |
== 関連項目 == |
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* [[エビフリャー]] - ダ埼玉同様、1980年代にタモリが考案した造語 |
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* [[彩の国]] |
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* [[埼玉都民]] |
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* [[ちばらき]] |
* [[ちばらき]] |
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* [[ぐんまのやぼう]] - 評価の一因として、ゲーム開発当時のインターネット上で[[群馬県]]が「グンマー」という未開の地として扱われていたことが挙げられている。 |
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== 外部リンク == |
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* {{cite news | url = https://style.nikkei.com/article/DGXKZO10845870Z11C16A2L83000?channel=DF130120166109 | title = 「ダサイタマ」は死語? 呼び名と県民反応の歴史 県議会で論争、逆手にPR… | newspaper = [[日本経済新聞]] | publisher = [[日本経済新聞社]] | date = 2016-12-20 | accessdate = 2018-07-21 }} |
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2024年10月6日 (日) 05:27時点における最新版
ダ埼玉(ダさいたま)とは、「ダサい」と「埼玉県」を掛け合わせた造語である[1]。埼玉県を「野暮ったい」「垢抜けない」ものと見なして揶揄することを目的としている[1]。この造語は1980年代初頭、竹の子族という若者たちのファッションから着想を得たタレントのタモリによって考案されたもので[2]、自身が司会を務める『森田一義アワー 笑っていいとも!』内で発信したことを契機に1984年の流行語となった[1][2]。同義語にド埼玉があり、この造語と「ダサい」との組み合わせにより「ダ埼玉」に変化したのだともいわれる[1]。いちタレントの発言に端を発したこの造語は広く普及するとともに、語の使用のみならず、この語が含意する埼玉のイメージをめぐって、行政をはじめとする幅広い人々の反応を引き起こした[3]。以下では、その経緯や背景、その後に与えた影響について詳述する。
経緯
[編集]造語の誕生と波及
[編集]芸能界デビューから1980年代にかけてのタモリは攻撃的な言動の芸風で知られ[4]、「表面的には明るく振る舞うが、内面に暗さを抱える人物」に対して「ネクラ」と対義語の「ネアカ」という表現[5]、愛知県出身者の使用する名古屋弁に対して「エビフリャー」(エビフライの意)などの表現を好んで使うなど[6]、自身の番組内でさまざまな人々や地域やジャンルを笑いの対象としていた[4]。
そのタモリが埼玉に関心を持ったのは、1981年(昭和56年)2月26日[7]に放送された『タモリのオールナイトニッポン』の「思想のない歌」コーナーの中でさいたまんぞうの「なぜか埼玉」というコミックソングを取り上げた時からといわれている[8]。当初、この歌は売り上げが芳しくなかったが、2月26日付けの放送が全国オンエアされると聴取者の間で抑揚のない歌い方とメロディが評判となり、さいたはメジャーデビューに至った[7][8]。
その後、当時の若者の間で流行していた竹の子族という風俗の愛好者に埼玉県や千葉県出身者が多いことが調査結果により明らかになると[2][8]、1982年(昭和57年)2月14日放送のテレビ朝日系列の番組内、同年3月に刊行された『現代用語事典ブリタモリ』などで、栃木県、埼玉県、千葉県、神奈川県を一括りにし、各県の頭文字を合わせた「トサチカ」「トサチカ族」という造語を披露した[9][10][注 1][注 2]。 やがて、タモリは竹の子族がもんぺ風の衣装など世間一般には「垢抜けない」と見做される服装[2]あるいは奇抜な服装を身に付けていたことから[8]、「ダサい」と評するようになった[2][8]。さらに同年10月4日からフジテレビ系列で放送開始された『森田一義アワー 笑っていいとも!』の中で「ダ埼玉」という言葉を頻繁に使用し、当時の流行語となった[2][14]。
1980年代当時、タモリは『オールナイトニッポン』の番組内に「お国批判にしひがし」というコーナーを設け聴取者から笑いのネタを募ると、自身の出身地である福岡県を皮切りに、愛知県や埼玉県に限定せず全国各地を笑いの対象として揶揄していた[4]。新語ウォッチャーのもりひろしは「タモリがひそかに発信したのは『言葉』ではなく『着眼点』だったように思う。彼が媒介となって地域コンプレックスをあぶり出し、言葉やアイデアの面白さを増幅させた」と評している[15]。埼玉に関しては造語の発信だけでなく、『笑っていいとも!』の番組内において「昨今の風潮を子供が気にしているので、当事者自身の言葉で否定してほしい」と訴える視聴者の主婦からの投書を「…ええ、真実を隠すことになりますので、嘘は言えません」と撥ねつけ笑いものにするパフォーマンスを行ったことや(『笑っていいとも!』1983年2月10日放送分[16])、タモリとは言明されていない「あるタレント」がテレビ視聴者に対して後進的なイメージを植え付けるため[14]、前時代的な「下肥え担ぎ」のパフォーマンスを行ったことが記録として残されている[14]。
『笑っていいとも!増刊号』の編集長を務めていた雑誌編集者の嵐山光三郎は1987年(昭和62年)に出版した自著の中で、埼玉だけでなく茨城県や千葉県といった東京近郊を一括りにし[17]、「渋谷、原宿あたりをブルンブルン走っている暴走族や、六本木で取材のテレビカメラの前で競ってピースマークをしている[17]」いわゆる不良少年や、「土地の値上がりや親から受け継いだ資産で、難なくサラリーマン東京人の収入を上回り元気になった[17]」青年層に批判の目を向けた[17]。
県内の反応
[編集]埼玉県では問題を深刻に捉え、1983年(昭和58年)6月に埼玉県庁内にイメージアップのための調査研究グループを設立[14]、県発行の広報誌『県民だより』昭和58年9月号において問題をテーマにした紙上討論会を開き[2]、埼玉県知事の畑和、埼玉大学名誉教授の小野文雄、埼玉県出身のタレントの所ジョージのコメントや読者からの投書を掲載した[18]。この中で、畑は埼玉を軽く見る風潮について「東京との比較」[18]、小野は「江戸時代から江戸を中心とした幕府の支配体制に組み込まれ、明治時代以降も県内に中心となる都市を持たなかったこと」を理由の一つに挙げた[18]。一方、所は「東京を仕事の場、埼玉を生活の場と割り切る」とした上で、「もっと東京指向であって良い」と主張した[18]。
昨年、県が行った県民意識調査では肯定的意見が大多数を占め86%の人が「埼玉県を好き」と答えているんですよ。「あかぬけない」「田舎臭い」というのは、東京との比較で言ってるのでしょうが、埼玉には埼玉ならではの、例えば「人情味がある」「緑が多い」とかの良さがあるということです(後略)[18]。 — 畑和
ダサイと軽蔑するのは、他より優れた地位に就きたいという人間の心理でしょう。優越感は劣等感の裏返し。気にすることはありません。(中略)埼玉の良いところは人々が寛容であっさりとしているところ。豊かな自然と共に、住んでいる人にとってはとてもいいところです。ただ、東京と違って都市環境が劣っているのは事実です。今後、このような面が改良されれば、ダサイと言われても何でもないのですが[18]。 — 小野文雄
タモリが言ってるのはあれは冗談。お仕事なんです。でも、オレが言ってるのは本当にそう思ってるから。別に埼玉という土地を嫌いなわけじゃないし悪さを感じている訳でもないけど、特に若い奴らを見てると「オレたちは田舎者じゃない、東京がなんだ」なんて強がりを言ったり、見栄をはっているところがダサイんだよ。何をしたって東京には勝てっこないんだから若い奴らはもっと東京指向でいいと思う。でも、まあ子供を育てるにはいいところだと思うね。自然も残っているし(後略)[18]。 — 所ジョージ
一連の動向を知ったタモリはさらに関心を持ち[2][19]、『笑っていいとも!』の生放送中に埼玉県庁に電話取材を試みると[2]、埼玉県議会の議題に取り上げられる事態へと発展した[2][19]。1984年3月13日付けの『埼玉新聞』は自由民主党選出議員の片貝光次と畑知事との間で質疑応答が行われた際、畑知事のアピールに議会が沸き立ったと報じた[14]。また、同年4月に調査研究グループによる報告書『埼玉の魅力―イメージアップをめざして』が出版された際、研究グループのリーダーは「タモリが教わることはあっても、こちらが学ぶことはありません」と回答したといわれているが[16]、当の埼玉県民はタモリの言動を「一種のユーモア」として楽しむ者[18]、言葉通りに受け取り反応する者[14]、それを冷笑する者[14]などに分かれた。
一方、『県民だより』昭和58年9月号に掲載された読者からの一部報告例や[18]、1984年3月13日付けの『埼玉新聞』の報道にあるように[14]、「ダ埼玉」という言葉や埼玉県を揶揄する風潮は1980年代を通じて全国に波及した[19]。紙上討論会にコメントを掲載した所沢市[20]出身の所は1984年(昭和59年)頃、自身の出演番組内で埼玉県を揶揄するジョークを繰り返し、マイナスイメージの定着に一役買う結果となった[21]。
こうした風潮は2000年代ころまで続き[22]、東京への良好なアクセスと住環境[23]、あるいは県内の独自性や著名な人物の存在[22]などといった地域特性を無視し、否定的な評価を受ける機会が多かった[22][23]。
行政の対応
[編集]1992年(平成4年)6月、元参議院議長の土屋義彦が埼玉県知事に就任した。土屋はかねてから県民の東京に対する依存意識の根深さ[24]、県を揶揄する風潮[25][26]、経済企画庁が発表する「豊かさ指標」による低評価[27]、前例踏襲的で柔軟性を欠いた県政に疑問を感じていたといい[28]、マイナスイメージからの脱却を掲げ[29]、同年11月14日の県民の日に合わせて「彩の国」という県の愛称を制定した[30][31]。
なお、土屋は1997年(平成9年)に出版した自著の中で、幕末の思想家・吉田松陰の残した「国の最も大なりとする所のものは、華夷の弁なり」という言葉を引用し、次のような主張をしている[32]。
土屋は従来の箱物行政にも疑問を感じていたといい[33]、畑知事時代に計画された一部事業計画を白紙化する一方で[34]、バブル色の強い「埼玉コロシアム」「埼玉メッセ」を柱とした「埼玉中枢都市構想」については県の自立性を高める好機と捉え、経済状況や防災面に即した計画案「さいたま新都心中枢・中核施設基本整備計画」に修正[35]、彩の国さいたま芸術劇場については芸術文化活動への助成を重視する施策を行った[36]。
また、県のシンボルとして[36]、浦和レッズのホームスタジアムで2002 FIFAワールドカップの試合開催地となる国内最大級のサッカー専用スタジアム・埼玉スタジアム2002の建設[36][37]、さきたま古墳公園の整備[36]、入間郡越生町の「さくらの郷」計画を三つの柱とした施設整備を進めたほか[36]、さいたまスーパーアリーナの開館記念事業としてバスケットボールのスーパードリームゲーム2000の開催[38]、2001年のバスケットボール・ヤングメン世界選手権や2006年バスケットボール世界選手権決勝ラウンドの開催地誘致に成功するなど、「彩の国キャンペーン」に留まらず[39]埼玉の積極的なイメージ改善を行った。
このほか実現はならなかったものの、2002 FIFAワールドカップ決勝戦招致の先頭に立ち、神奈川県横浜市との間で招致合戦を展開し[40][41]、東京タワーに代わる新電波塔建設計画(新東京タワー)をさいたま新都心に誘致する政策を行った[40]。
土屋知事の任期中の積極的なイメージアップ政策により、1980年代のように「ダ埼玉」と評されることは少なくなったが[31][42]、土屋の後任として知事となった上田清司の下でも埼玉県ブランドの積極的な発信が行われ、イメージアップ政策は継続して採り行われている[31]。
背景
[編集]造語の背景
[編集]先述のように芸能界デビューから1980年代初頭のタモリはラジオ番組『タモリのオールナイトニッポン』の毒舌パーソナリティーとして若者の間でカルト的人気を獲得していた[4]。その手法はいわゆる「密室芸」「身内芸」であり、「排除の論理で、排除された者を笑いのめす」のが特徴となっていた[43]。その矛先は主に「田舎」「田舎者」「インテリ、文化人」に向けられ[44]、「田舎」であれば名古屋を槍玉にあげ[44]、「田舎者」であればミュージシャンのさだまさしや小田和正らの楽曲をその最たるものと批判し[45]、「インテリ、文化人」であれば寺山修司、竹村健一、大橋巨泉の言動を時には批判、時には誇張して笑いの対象とした[46]。ただし、自身のクラさも批判対象に密かに忍ばせる、あるいはクラさを一身に引き受けていたともいい[43]、そうした姿を周囲に晒すことで、一部ファンとの間で連帯感を生み出していた[43]。
『週刊現代』1983年2月5日号に掲載されたタモリのインタビューによれば、名古屋批判の趣旨のほか、次のターゲットとして埼玉県を推す意見があることについての自身の見解が記されている[47]。それによると1983年初頭の時点ではあくまでも名古屋が田舎批判、地方批判の本命であり、埼玉は別次元のものと捉えていたという[47]。
名古屋を攻撃したのは日本人のいやらしさ、偏狭さ、バカさ加減があそこに集約されていたんでやったまででね。それに世の中、だいぶイイ人ばかり増えたから攻撃の相手がいなくなっちゃった。次はサイタマっていう人もいますが、名古屋とは次元が違うしねえ。ただ東京の隣の県でありながら一歩埼玉に入ると、線を引いたように田舎になるところが不思議ですねえ[47]。 — タモリ
作家の小林信彦によれば、タモリは深夜番組時代から埼玉県、千葉県といった東京の隣県を笑いの対象としており、小林は「心の隅に、チラとはあるが、明らさまに口にする」ような「地方差別」の類は(近隣に親戚縁者のいる)東京生まれの人間であれば出来ない無粋なものと評している[48]。一方で小林は「タモリについて好意的に見れば、視聴者が本質的に『なんらかの差別』を好むことを見抜いたのは鋭いと思う」と評している[48]。
一方でタモリは1981年(昭和56年)をピークに毒舌家としての側面を後退させ、お茶の間向けの芸風にイメージチェンジを図ろうとしており[49]、小林、コラムニストの亀和田武、イラストレーターの山藤章二らから批判を受けていた[49]。こうした批判についてタモリ自身は『週刊現代』1983年2月5日号において「毒がなくなったというけれど、自分は昔から同じで、毒なんてないと思っている。普通の人が面白いと思うことをストレートにやっていただけでね。それが毒だといわれても」と弁明している[47]。これに対し、放送作家の景山民夫は山藤との対談の中で『笑っていいとも!』出演以降のタモリの芸風転向について次のように語っている[50]。
景山 (前略)で、最初のうちは、「『笑っていいとも!』が始まって一年半ぐらいはタモリ自身ももとのタモリの部分にかなりしがみついていたんですけども、怖いもんで、毎日、週に五日間、あのオバさんとミーハーの女の子の前に出てると、つまり自分が接してる人間に合わせてるんですね。
山藤 ありますね。
景山 とくに、あれは公開ですからねェ。そちらのレベルに合わせていく芸にどんどんなってって……。だから、はっきりいってしまえばつまり流す芸になっちゃたと[50]。
受容の背景
[編集]先述のように埼玉を軽く見る風潮について、埼玉大学名誉教授の小野文雄は、江戸期に幕府の支配体制(江戸幕府)に組み込まれ、これ以降も県内に中心となる都市を持たなかった[注 3]点を挙げている[18]。小野によれば、武蔵国の本県域に相当する地域(以下、北武蔵)を根拠地とする武士団は源頼朝を棟梁とした武家政権樹立(鎌倉幕府)の原動力となった[52]。室町期の平一揆の乱を契機に武士団は衰退を余儀なくされたものの、武蔵の地は戦国期を通じて諸将から戦略的に重視され、争乱の場となった[52]。こうした立場は豊臣秀吉による小田原征伐後の徳川家康の関東移封と、秀吉没後の徳川家による支配体制の確立により変化が生じた[53]。
北武蔵は、幕府が置かれ政治・文化の中心となった江戸の後背地として米を中心とした農業生産、利根川や荒川の治水と新田開発、大名が主要街道を往来する際の使役に携わるなど商業面においても産業面においても密接な関係を築いた[53]。地域内は約20万石の藩領のほか江戸幕府直轄の天領、幕府旗下の知行所が占めていたが、これらを治める譜代の家臣達は徳川家に対する中央集権的意識を強く持ち合わせ、なおかつ転封も多かったことから、独自性は生まなかった[18][54]。明治以降、埼玉県が成立した後も東京圏に組み込まれたため、県民としての連帯意識、独自の県民性を育むには至らず[54]、昭和の高度成長期にともなう人口流動により国内有数の大県となった後も変化はなかったとしている[52]。
歴史学者の武光誠によれば、江戸期を通じて北武蔵の住民は江戸へあこがれの感情を抱くようになった[55]。それとは対照的に、江戸の住民が北武蔵をやや低く見る風潮が育まれ、後の埼玉県を揶揄する風潮へと引き継がれたとしている[55]。さらに本県が東京都と寄り添うように位置する地理的状況からもその二番煎じのように見せている、としている[55]。
政治学者の小山博也によれば、明治期を通じてマスメディアにより「難治の県」と見る風評が広められた[56]。第5代知事・久保田貫一は、強権的な政治姿勢を打ち出したため議会の反発を招き、不信任が可決されたが[注 4]、このことは「難治の県」と見る風評を助長させる結果となった[60]。その後も排水事業や治水事業などをめぐる地域内対立が続き、「難治の県」とする見方を後押しした[61]。小山は1989年(平成元年)に刊行した『埼玉県の百年 県民100年史』の中で明治期の風評について「この間まで語られてきた『ダサイ』な埼玉もこの系譜上にある」と記している[62]。
この造語が登場した1980年代初頭の関東地方は、集団就職のために上京した団塊世代が土地高騰や結婚などの機会のため東京郊外へと移動した[63]。人口流動の過程で地域ヒエラルキーが形成され、「第四山の手」と称される東急田園都市線などの沿線地域は企業によるブランディング効果もあり、上京者たちのヒエラルキーの頂点と見なされた[64][65]。団塊世代と入れ替るようにポスト団塊世代が大学進学のため都心部に流入したが[63]、都心部は若者が集まり情報の発信地とされる一方、埼玉をはじめとした郊外地域はそれより劣るものと見なされた[65]。こうした都心部と郊外の関係を率直に反映した作品作りも行われた(#文化的影響)[65]。
文化的影響
[編集]1980年代には埼玉県を揶揄する風潮に乗じて『翔んで埼玉』(『やおい君の日常的でない生活』収録、魔夜峰央、白泉社、1986年)[66]や『こちら埼玉山の上大学ボクシング部』(唯洋一郎、集英社、1986-1989年)といった漫画作品が刊行された[66]。また、関東圏と思しい大学サークルにおける、すき焼きの肉をめぐる攻防と葛藤を描いた『最後の晩餐』(『かっこいいスキヤキ』収録、泉昌之、青林堂、1983年)も、当時の地域ヒエラルキーを反映したような内容となった[65][注 5]。ただし、こうした傾向の作品は1980年代を境に減少した[66]。
1990年代以降、埼玉県内を舞台やモデルとした作品は増加傾向にあり[69]、作品の登場人物が地域のシンボルとなった事例もあった[69]。その理由についてさいたま文学館は「多くの漫画は多数の登場人物が交錯し時間・空間の変化するイメージを求め、都市や市街地を舞台に設定する。『ダ埼玉』とは都市化・市街化の遅れた県の状況をからかう表現であり、県内における都市化・市街化の進行は『ダ埼玉』イメージの消滅と軌を一にする現象だったと考えられる」と評した[66]。
2010年代の情況
[編集]2015年(平成27年)11月、日本テレビ放送網のバラエティ番組『月曜から夜ふかし』において、前述の『翔んで埼玉』が取り上げられ、埼玉県を徹底的にディスる内容が話題となった[70]。同年12月、同作が宝島社から復刊されると55万部を超えるヒットとなり、埼玉県知事の上田清司も「悪名は無名に勝る」とコメントを出した[71]。このうち、売り上げの3割を埼玉県内の購入者が、65パーセントを女性の購入者が占めた[70]。
さらに2019年(平成31年)2月22日には同作の実写映画が公開され、同年3月24日時点で興行収入25億円、観客動員数193万人を記録した[72]。一連のヒットについて、ヒップホップに見られるような自分の地元を茶化しあう「地方ディス」[65][70][73]、自治体PRとして定番となりつつある「ふるさと自虐」に基づくものではないかといった指摘がある[74]。
同時期には、群馬県では『お前はまだグンマを知らない』、島根県でも『島根自虐伝』がメディア化されている[74][75]。『なぜ埼玉県民だけがディスられても平気なのか?』など、分析を試みる書籍も発売されている[76]。
脚注
[編集]注釈
[編集]- ^ 『平凡社百科年鑑1983』によると、タモリは1982年(昭和57年)2月14日放送のテレビ朝日系列の番組に出演した際、竹の子族の出身地について「栃木、埼玉、千葉、神奈川で、東京の人間はいない」と発言している[9]。ただし、香咲弥須子著『原宿・竹の子族』によると「"竹の子"が最も多く住んでいるのは、江東区、江戸川区、荒川区をはじめとする、東京東部である。次に多いのが、千葉。続いて埼玉県、神奈川県、茨城県、栃木県、群馬県、そして山梨県(中略)遠く、山形、広島、京都から通ってくる"竹の子"もいる」と記されており、タモリの主張とは食い違いが生じている[11]。
- ^ 『現代用語事典ブリタモリ』では、本県にちなんだ以下のような内容が記されている。
- ^ 県内に大都市を建設する構想自体は1927年(1927年)に県知事の宮脇梅吉が「一大都市圏構想」を打ち出したことに始まる[23]。1933年(昭和8年)、県南の上水道建設計画に絡んだ「大埼玉市」構想が浮上すると、県からの働きかけもあり浦和・大宮・与野の三町が賛同したが、1934年(昭和9年)に浦和が単独で市制施行したため構想は頓挫した[51]。その後、戦時中の1942年(昭和17年)には疎開受け入れのため「大埼玉市」構想が再浮上[23]。戦後の1954年(昭和29年)には増えすぎた自治体の削減のため構想が再々浮上したが、大宮が難色を示したため実現には至らなかった[23]。
- ^ 久保田は1891年(明治24年)の知事就任以来、埼玉師範学校騒動、権現堂川土木工事入札問題、中学校建設問題、利根川通三か所の護岸工事入札問題など様々なトラブルを引き起こした[57]。さらに、1892年(明治25年)2月の第2回衆議院議員総選挙では府県知事の公選を望む民意に反して、県警部長・有田義資をはじめ県下の全警察組織を動員し選挙干渉を行うなど強権的な姿勢を取ったため[57]、県議会において不信任決議案が可決された[57]。久保田は県議会を解散させたが、内務大臣・井上馨の命により知事を非職となり、さらに免官となった[57]。第7代知事となった千家尊福は久保田時代の様々な懸案事項を解決したことから第2代県令の白根と同様に「良二千石」と評され[58]、風評も一応の修復を見たが[59]、1897年(明治30年)に第8代知事となった田村政は就任に際し、同年5月1日付けの日刊紙『都新聞』に「埼玉県は元来人気の荒い処にて、某上州に接近したる地方を以て特に然りとす。同地方は強盗賭博争斗等最も多くして、人命を奪ふ事に於いては何とも思はず。恰も禽獣を屠するの感あるが如し」と記し態度を硬化させた[56][60]。
- ^ 横浜出身の主人公が、肉に目がない同僚(埼玉県浦和出身ほか2名)の姿を地域性も絡めて冷笑し[65]、野菜などでカムフラージュしつつ肉を奪取する作戦に出る。が、努力の甲斐もなく次々に肉は奪われていき、理想と現実との狭間で苦悩する、といった内容[67][68]。
出典
[編集]- ^ a b c d 米川明彦 編『日本俗語大辞典』東京堂出版、2003年、340頁。ISBN 4-490-10638-6。
- ^ a b c d e f g h i j 史の会 1986、267頁
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参考文献
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- 史の会 編『昭和史の埼玉 激動の60年』さきたま出版会、1986年。ISBN 4-87891-031-3。
- 武光誠『県民性の日本地図』文藝春秋、2001年。ISBN 4-16-660166-0。
- 土屋義彦『埼玉独立論 小が大を呑む』講談社、1997年。ISBN 4-06-208266-7。
- 鶴崎敏康『< さいたま > の秘密と魅力』埼玉新聞社、2010年。ISBN 978-4-87889-329-2。
- 難波功士『人はなぜ<上京>するのか』日本経済新聞出版社〈日経プレミアシリーズ 143〉、2012年。ISBN 978-4-532-26143-6。
- ブリタモリ編纂委員会『現代用語事典ブリタモリ』スコラ、1982年。ISBN 4-06-141363-5。
- 三浦竜&日本史倶楽部『地図に隠された「県民性」の歴史雑学 「お国柄の謎」に迫る!』三笠書房、2009年。ISBN 4-8379-2330-5。
- 矢島栄二『Go!Go!埼玉漫遊記』まつやま書房、1985年。ASIN B000J6PH44。
- 山藤章二『対談「笑い」の解体』講談社、1987年。ISBN 4-06-202955-3。
関連項目
[編集]- エビフリャー - ダ埼玉同様、1980年代にタモリが考案した造語
- ちばらき
- ぐんまのやぼう - 評価の一因として、ゲーム開発当時のインターネット上で群馬県が「グンマー」という未開の地として扱われていたことが挙げられている。
外部リンク
[編集]- “「ダサイタマ」は死語? 呼び名と県民反応の歴史 県議会で論争、逆手にPR…”. 日本経済新聞 (日本経済新聞社). (2016年12月20日) 2018年7月21日閲覧。