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「エルコンドルパサー」の版間の差分

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'''エルコンドルパサー'''(欧字名:{{Lang|en|El Condor Pasa}}、[[1995年]][[3月17日]] - [[2002年]][[7月16日]])は、[[アメリカ合衆国]]で生産された日本の[[競走馬]]、[[種牡馬]]。
'''エルコンドルパサー'''<ref>同じ渡邊の所有馬で'''エルコンドルパサー'''という同名の競走馬が1990年代の前半に存在したことがある(1989年産 父スリルショー・母トウコウボレロ。渡邊隆の父喜八郎の代表所有馬であるノボルトウコウ・[[プレストウコウ]]兄弟の甥にあたる)。こちらは調教中に故障し未出走のまま死亡している。渡邊にとって「エルコンドルパサー」という馬名は思い入れがあるようで、“初代”のエルコンドルパサーが引退した後に「これはと思う馬に出会うことが出来たらその時はまたエルコンドルパサーと名付けたい」と語った。</ref>([[英語]]表記:''El Condor Pasa'' [[スペイン語|西語]]表記:''El Cóndor Pasa'' 漢字表記:''神鷹'')は[[アメリカ合衆国]]で生産され、[[日本]]で[[調教]]された[[競走馬]]([[外国産馬]])。馬名の由来は馬主の[[渡邊隆]]が好きだったという[[サイモン&ガーファンクル]]の『[[コンドルは飛んでいく]]』より。4歳(旧5歳)時に国外遠征を行い、[[フランス]]のG1競走[[サンクルー大賞]]を勝ち、[[凱旋門賞]]で2着になるなど、日本競馬界に大きな足跡を残した。1998年[[JRA賞最優秀3歳牡馬|JRA賞最優秀4歳牡馬]]、1999年[[JRA賞#歴代年度代表馬|年度代表馬]]、[[JRA賞最優秀4歳以上牡馬|JRA賞最優秀5歳以上牡馬]](部門名は、いずれも当時のもの)、2014年[[JRA顕彰馬]]。


日本人実業家・[[渡邊隆]]による生産所有馬である。1997年に[[中央競馬]](JRA)でデビューし、翌1998年に[[NHKマイルカップ]]と[[ジャパンカップ]]を制し、[[JRA賞最優秀4歳牡馬]]に選出される。1999年には[[フランスの競馬|フランス]]への長期遠征を行い、[[サンクルー大賞]]などに優勝したほか、ヨーロッパ最高峰の競走とされる[[凱旋門賞]]で2着の成績を残して引退した。同年は日本で未出走ながら[[JRA賞|JRA年度代表馬]]と[[JRA賞最優秀5歳以上牡馬|最優秀5歳以上牡馬]]に選出された。通算11戦8勝(うちフランスで4戦2勝)。[[インターナショナル・クラシフィケーション]]によるレート「134」は日本調教馬史上2位である。2023年ジャパンカップの[[イクイノックス]]に交わされるまで24年の間1位を保持していた。[[タイムフォーム]]によるレート「136」は、日本調教馬の史上最高数値である<ref name="netkeiba_books">{{Cite web|和書|url=https://books.netkeiba.com/?pid=book_detail&bid=18&cid=4|title=空白の時代を乗り越えた優駿・エルコンドルパサー登場 - 世界に挑んだサムライサラブレッド ~Part1・欧州編~|website=netkeiba Books+|publisher=ネットドリーマーズ|date=2018-03-27|accessdate=2019-08-13}}</ref>。(どちらも2024年時点)
== 競走馬時代 ==
=== 1997年 ===
デビューは[[1997年]]11月8日の[[東京競馬場]]、[[ダート]]1600mの新馬戦であった。スタートは悪く、出遅れるものの、直線に入ると1頭だけ次元の違う脚を見せ、最後はのちに京成杯を勝つマンダリンスターに7馬身差をつけての圧勝だった。


2000年より種牡馬となったが、産駒デビュー前の2002年に[[腸捻転]]により死亡した。遺された3世代からは[[ヴァーミリアン]]、[[ソングオブウインド]]、[[アロンダイト (競走馬)|アロンダイト]]と3頭のGI優勝馬を輩出した。2014年、[[JRA顕彰馬]]に選出された。
=== 1998年 ===
年明けの1月11日、2戦目の[[中山競馬場]]500万条件レースも9馬身差で圧勝。この頃から同期の外国産馬で当時無敵を誇っていた[[グラスワンダー]]に対抗できる大物として認識されるようになる。これまでダートコースしか走っていなかったため、陣営は芝コースを経験させるべく[[共同通信杯|共同通信杯4歳ステークス]]に出走させるが、[[雪]]のため東京競馬場芝コースが使えず、皮肉にもダートに変更となってしまった。レースは同じくダート2戦2勝のハイパーナカヤマとの一騎打ちムードであったが、直線に入り初めて鞭を入れられると必死で食い下がるハイパーナカヤマをあっさり突き放し、力の違いを見せ付けて重賞(ただしダート変更のため[[競馬の競走格付け|格付け]]無し)初制覇を飾った。


== 生涯 ==
2か月後には[[ニュージーランドトロフィー|ニュージーランドトロフィー4歳ステークス]]に出走、これが初めての芝のレースで[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]2着の[[マイネルラヴ]]などメンバーもそれなりに揃っていたが、出遅れをものともせず一番人気に応え圧勝した。
''以下、競走馬時代の馬齢については、日本で2000年まで使用された[[数え年]]で、種牡馬時代の馬齢表記は2001年以降に使用されている[[満年齢]]で記述。''
=== 出生までの経緯 ===
生産者・馬主の[[渡邊隆]]は本業の東江運輸を興した父・喜八郎から親子2代の馬主であり、元より血統に造詣が深かった<ref name="ezura">江面(2017)pp.243-251</ref>。渡邊は[[サドラーズウェルズ]]やその全弟の[[フェアリーキング]]、[[ヌレイエフ]]といった世界的な大種牡馬を輩出していたソングの[[ファミリーライン|牝系]]に憧れを抱き、日頃から外国の血統書やせり名簿に目を通していたが<ref name="ezura"/>、1992年のある日イギリスのタタソールズセリのせり名簿に載っていた、ソングの曾孫にしてサドラーズウェルズの産駒で、母の父に[[シアトルスルー]]、「ソングの3×4」という[[インブリード|クロス]]を有する牝馬・サドラーズギャルに目を付けた<ref name="ezura"/><ref name="yu9910" /><ref name="hiramatsu">平松(2014)pp.19-21</ref>。サドラーズギャルは体調不良のためタタソールズセリを欠場してアイルランドの牧場に戻されてしまったが<ref name="hiramatsu"/>、諦められなかった渡邊はエージェントを介して牧場サイドと交渉を行い、改めて買い取ることに成功した<ref name="ezura"/>。そしてサドラーズギャルを[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[ケンタッキー州]]のレーンズエンドファームへ預託した<ref name="yu9910">『優駿』1999年10月号、pp.20-22</ref>。


同場はフランスとイギリスでG1競走3勝を挙げた[[ミスタープロスペクター]]産駒・[[キングマンボ]]の生産者であり、同馬がこれもソングの血を引くヌレイエフの孫でG1競走10勝の名牝・[[ミエスク]]の仔であることに惹かれた渡邊は<ref name="ezura"/>、手持ちの別の種牡馬株とキングマンボの株を交換し、サドラーズギャルにキングマンボを交配させた<ref name="yu9910" />。両馬が配合されるとソング、[[ノーザンダンサー]]、[[ネイティヴダンサー]]、[[フォルリ (競走馬)|フォルリ]]、[[スペシャル (競走馬)|スペシャル]]といった多くのクロスが発生し<ref name="ezura"/><ref name="shosai">『書斎の競馬(1)』pp.41-49</ref>、後に渡邊は「アマチュアでありながらまんざら素人でもないからこそできた」と語ったが<ref>『優駿』1998年6月号、p.146</ref>、渡邊にキングマンボの株を斡旋した人物は「プロは怖くてこんな配合はできない」としきりに口にしていたという<ref name="yu9910" />。渡邊はこのような配合をした理由について「ヨーロッパで種牡馬にしたかったから」とし<ref name="ezura"/>、「そのためにはヨーロッパの二千メートルのGIに勝ちたい」と意気込んでいた渡邊は、種牡馬選定レースとして評価が高いイギリスの[[エクリプスステークス]]を第一目標に挙げていた<ref name="ezura"/>。エルコンドルパサーの配合を編み出した渡邊はアメリカの競馬誌『[[デイリーレーシングフォーム]]』において「[[フェデリコ・テシオ]]、[[マルセル・ブサック]]に続く<small>''(Move over Federico Tesio and Marcel Bussac)''</small>」と絶賛され、またエルコンドルパサーは「比類なき配合によって、エルコンドルパサーは非常に重要な種牡馬となるだろう<small>''(With his incomparable pedigree,El condor pasa should be very important stallion)''</small>」と高い評価を受けた<ref name="shosai"/><ref group="注">なお、この記事では馬主名が「Kihachiro Watanabe」とされていたが、誤りである。</ref>。
4戦無傷で迎えた春の大目標である[[NHKマイルカップ]]にはトキオパーフェクトやロードアックスなど本馬のほか3頭の無敗馬も駒を進めてきたが、圧倒的1番人気に支持される。レースは中団を進み、3角から進出を開始すると、手前を変えず外へ寄れながらも、早めに抜け出し、最後にシンコウエドワードが詰め寄ってくるも余裕の勝利。無傷の5連勝で初のGIタイトルを手中にした。二ノ宮調教師としても開業10年目にして初のGI勝利であった。


==== 毎日王冠 ====
=== 生い立ち ===
{{Double image aside|right|Yoshitaka-Ninomiya20110403.jpg|150|Matoba_hitoshi_on_rice_shower.jpg|150|二ノ宮敬宇(2011年)|的場均(1993年)}}
秋は[[第49回毎日王冠]]から始動。このレースには[[サイレンススズカ]]と、骨折でNHKマイルカップには出走できなかったグラスワンダーが出走してきた。当時外国産馬には[[天皇賞]]への出走権がなく、これが最初で最後の対決になるかもしれないと、当日の東京競馬場にはGIIとしては異例の13万人が詰めかけ、異様な盛り上がりを見せていた(事実、前述2頭との対戦はこれが唯一となった)。グラスワンダーとエルコンドルパサーは共に[[的場均]](現調教師)がデビュー以来騎乗しており、同騎手がどちらに騎乗するか注目されたが、結局グラスワンダーに騎乗することになった。的場によると、当初からエルコンドルパサーの騎乗はグラスワンダーが復帰するまでということは決まっており、調教師の二ノ宮も理解していたという。しかしこれは苦渋の選択であり、『体がふたつあったら、どちらにも騎乗したかった』と語っている<ref>『夢無限』(的場均 著)より</ref>。
1995年3月17日、サドラーズギャルはレーンズエンドファーム・オークツリー分場で牡馬、後のエルコンドルパサーを出産した<ref name="ezura"/>。生後4カ月のころ、競り市参加のためケンタッキーを訪れていた[[調教師]]・[[二ノ宮敬宇]](にのみや・よしたか。のち管理調教師)の検分を受けた。二ノ宮の印象は「ごろっとした四角い馬」というのみで、渡邊への報告も「普通の馬」というものだった<ref name="yu0210">『優駿』2002年10月号、pp.100-104</ref>。翌1996年1月に日本へ輸送され、[[北海道]][[門別町]]のファンタストクラブ内にある木村牧場で育成調教を開始した<ref name="yu0210" />。以後は至極順調に過ごし、競走年齢の3歳に達した1997年8月末、[[茨城県]]の[[美浦トレーニングセンター]]の二ノ宮のもとへ入厩した<ref name="yu0210" />。トレセンでも怪我や病気は一切なく、装蹄を嫌がるという以外には気性も落ち着いていた<ref name="yu0210" />。ただし、この段階に至っても厩舎スタッフによる評価は「少しは走るか」という程度だった<ref name="monogatari">『名馬物語2』pp.116-124</ref>。一方、デビュー当週の併走による調教で本馬に騎乗した[[的場均]]はその走りにいたく感心し、二ノ宮に希望してデビュー戦の騎手を務めることになった<ref name="matoba">的場(2001)pp.177-182</ref>。


==== 馬名の由来 ====
このためエルコンドルパサー陣営は[[蛯名正義]]に騎乗を依頼、このコンビは引退まで続くことになる。レースは4コーナーで逃げるサイレンススズカに詰め寄るが、直線で突き放されて2馬身半の2着。
競走馬名「エルコンドルパサー」はペルー民謡「[[コンドルは飛んでいく]]」に由来する<ref name="yu0209" />。渡邊が[[慶應義塾体育会ソッカー部]]在籍時に中学2年次までペルーに住んでいた先輩がおり、その先輩を尊敬していたことから<ref name="ezura"/>、父名の一部「[[マンボ]]」から「南米の音楽」と解釈を広げ命名された<ref name="yu9905">『優駿』1999年5月号、pp.86-89</ref>。渡邊の所有馬では2頭目の「エルコンドルパサー」であり、初代<ref>{{Cite web|和書|url= https://www.jbis.or.jp/horse/0000219444/|title=エルコンドルパサー|publisher=[[公益社団法人]][[日本軽種馬協会]]|website=JBIS-Search|accessdate=2020-01-02}}</ref>はデビュー前の骨折で[[予後不良 (競馬)|予後不良]]となっていた<ref name="yu9905" />。


==== ジャパンカップ ====
=== 戦績 ===
==== 3-4歳時(1997-1998年) ====
毎日王冠後、[[マイルチャンピオンシップ]]と[[ジャパンカップ]]のどちらに出走するかということで注目された。その際、馬主の渡邊が調教師の二ノ宮に「ジャパンカップに出走したい。マイルチャンピオンシップなら勝てるかもしれないのに、負けに行くようで悪いね」と述べたところ、二ノ宮からは「いや、こっちでも勝っちゃいますからいいですよ」と返ってきたらしい<ref>『王者の飛翔』([[ポニーキャニオン]])より</ref>。こうしてジャパンカップに出走。当時は血統背景や戦歴から距離適性はマイルから中距離までという見方が一般的で、2400mという距離に対する不安から3番人気に留まったものの、レースでは抜群のスタートから4番手を進み、直線持ったまま先頭に立つという力強い競馬で2着[[エアグルーヴ]]に2馬身半差の快勝を収めた。これはジャパンカップにおける最大着差(当時)であり、また日本の3歳(旧4歳)馬がジャパンカップを制するのも初めてである。同期の[[東京優駿|日本ダービー]]優勝馬[[スペシャルウィーク]]が3着だったため、前走でグラスワンダーに先着したこともあり、世代最強馬との評価を得た。年度代表馬は逃すものの、この年の二冠馬[[セイウンスカイ]]を抑えこの年の最優秀4歳牡馬に選ばれた。
===== デビュー - ダートでの快走 =====
デビュー戦は11月8日の[[東京競馬場|東京開催]]で迎えた。まだ身体が出来上がっておらず、芝コースでスピード勝負をさせるのは時期尚早であるという二ノ宮の判断から、[[ダート]]の1600メートル戦が選ばれた<ref name="yu0210" />。単勝オッズ2.5倍でステルスショットと並んでの1番人気に推されたが<ref name="yu0712">『優駿』2007年12月号、pp.56-63</ref>、ゲートからの発走練習を充分に積んでいなかったこともあり、スタートで出遅れて最後方からのレース運びとなった<ref name="yu0210" />。そのまま直線入口まで最後方を追走していたが、的場がスパートを掛けると先行勢を一気にかわして先頭に立つ<ref name="yu0712" />。さらに先頭に立ってからは突き放す一方となり<ref name="yu0712" />、後に[[京成杯]]を勝つマンダリンスターに7馬身差をつけての勝利を挙げた<ref name="matoba" />。[[上がり (競馬)|上がり]]3[[ハロン (単位)|ハロン]]<ref group="注">1ハロン=約200メートル。</ref>(ゴールまでの600メートル)のタイムでは、マンダリンスターが39秒台、他馬は全て40秒以上掛かったなか、エルコンドルパサーが記録したものは37秒2という突出したものだった<ref name="yu0712" />。このレースについて的場は「『シャーン』と金属音が聞こえてくるかのような、凄い切れ味だった<ref name="matoba" />」と回顧し、二ノ宮は「この馬はもしかたら凄く強いかもしれないと思ったのはこのときがはじめて」だったと回顧している<ref name="yu0210" />。渡邊は4コーナーを回った時点でも最後方を走っていたことで帰ろうとしていたところを、直線でのスパートを見て非常に驚き、「こんなに走ると思わなかった」と当時思っていたと回顧している<ref name="yu9905"/>。他方、的場はエルコンドルパサーが他馬の姿を極端に気にする様子があったため、「小心な馬」とも感じていたという<ref name="matoba" />。


翌1998年1月に2戦目([[中山競馬場|中山開催]]、ダート1800メートル)に臨む。ここでもスタートで出遅れたが、第3コーナーからスパートを掛けて直線では独走状態となり、2着に前走を上回る9馬身差をつけて連勝した<ref name="100meiba">『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』pp.12-20</ref>。
なお、この最優秀4歳牡馬選出について、[[皐月賞]]、[[菊花賞]]という伝統と権威ある[[クラシック (競馬)|クラシック]]二冠を制したセイウンスカイを差し置いて、エルコンドルパサーが選出されるとは如何なものかという声もあった。これに関するエピソードとして、[[杉本清]]は「これではクラシックとは一体何なのかと言われてしまう」と[[ドリーム競馬]]内で嘆いた。


[[ファイル:Grass_Wonder_19991226.jpg|thumb|200px|グラスワンダー(画像)は朝日杯をレコードタイムで圧勝し、レーティングではJRA所属の3歳馬として史上最高の評価を得ていた<ref>『優駿』1998年2月号、p.125</ref>。]]
=== 1999年 ===
このあと二ノ宮は的場に対して、この競走を最後としての騎手交代を告げた。エルコンドルパサーと同期馬にしてこちらも的場が主戦騎手を務める[[朝日杯フューチュリティステークス|朝日杯3歳ステークス]]優勝馬・[[グラスワンダー]]がおり、近く両馬の対戦があることは明らかだったためである<ref name="matoba" />。しかし的場はエルコンドルパサーの精神的成長が不充分であり、他の騎手に手綱を委ねることにはまだ不安が残るとしてもう1戦の猶予を願い出、これを了承された<ref name="matoba" />。
ジャパンカップを優勝したこと、またサイレンススズカ、[[タイキシャトル]]という1世代上の実力馬がいなくなったことで、国内での勝負付けは済んだと判断した陣営は海外遠征を決断。現地ではトニー・クラウト厩舎が預かることになったが、馬が環境の変化に戸惑うことが無いように飲料水、食べ物(飼葉)まで共にコンテナで運んだ。なお、エルコンドルパサーはフランスに向け輸送された後、凱旋門賞を戦い終えるまで、一度として日本に戻されること無く現地で調教が施されている。[[帯同馬]]として、同じく二ノ宮厩舎所属で、同じく渡邊オーナーの所有馬だったハッピーウッドマンが同行した。


3戦目・[[共同通信杯|共同通信杯4歳ステークス]]で重賞に初出走した。ここは芝コースへの適性が試される場となるはずだったが、降雪によりダート施行へと変更された<ref name="yu0712" />。当日は単勝1.2倍と圧倒的な支持を集め、レースでは5番手追走から直線で逃げ馬をかわし、2馬身差で勝利した<ref name="yu0712" />。的場はインタビューにおいて「1戦ごとに精神、肉体の両面で成長しているし、まだまだ良くなると思う。グラスワンダーとも甲乙つけがたいほど素晴らしい馬。同じレースを使ってほしくないし、身体が2つほしい」と語った<ref name="100meiba" />。的場は後にこの競走を回顧し「経験と、そこからさまざまなことを学習できる頭の良さが、唯一の弱点である臆病さを1戦ごとに埋めていくかのようだった。今では、どんなタフなレースにも耐えられそうに思えた」と述べている<ref name="matoba2">的場(2001)pp.182-188</ref>。なお、これは二ノ宮厩舎開業10年目にしての重賞初勝利であったが、コース変更のため「GIII」の格付けは取り消された。これは1995年の[[東京新聞杯]](優勝馬ゴールデンアイ)以来2度目の事例となった<ref name="100meiba" />。
初戦の[[イスパーン賞]]では[[クロコルージュ]]にゴール直前に交わされ4分の3馬身差で敗れる。このレースの結果で、ヨーロッパに残ることを陣営は決断し、次走はブリガディアジェラードステークスか[[サンクルー大賞]]のどちらかに出走という予定であったが、サンクルー大賞に出走した。なお、イスパーン賞の後に、帯同していた厩務員の根来邦雄は持病が悪化したため長期滞在を断念して帰国。その後は凱旋門賞まで、調教助手の佐々木幸二がいわゆる「持ち乗り」の形で担当した。


===== 芝路線へ - NHKマイルカップ制覇 =====
サンクルー大賞は前年の凱旋門賞馬[[サガミックス]]や、フランスとアイルランドのダービー馬で[[カルティエ賞|ヨーロッパ年度代表馬]]の[[ドリームウェル]]、前年の[[バーデン大賞]]馬[[タイガーヒル]]などヨーロッパの一線級の[[馬齢|古馬]]が揃った。61kgという近年日本の平地競走では殆ど見かけなくなった重い[[負担重量|斤量]]を背負っての戦いとなった。レースは縦長の隊列を4番手で追走、直線では早目先頭に立ったタイガーヒルに持ったままで並びかけ、最後は2馬身半の差をつけ勝利した。ヨーロッパのチャンピオンディスタンスのG1での初の日本調教馬による優勝となった。現地メディアのParis Turfはこの勝利を名馬[[シーバード]](1965年第57回同レースに勝利)になぞらえ、ヨーロッパの競馬界でも凱旋門賞の有力候補と認識されるようになる。本馬はソエや疾病とは無縁な健康な馬であり、二ノ宮調教師は順調に予定を消化できるのが強みのひとつと語っているが、レース中、ドリームウェルに蹴られるアクシデントがあり、それが原因でフレグモーネを発症している。
競走後、二ノ宮は騎手確保の必要性から的場に改めて決断を促した。的場は悩み抜いた末にグラスワンダーへの騎乗を選択し、その意向を伝えたが<ref name="matoba2" />、3月15日、グラスワンダーは右後脚を骨折し、春の出走が絶望的な状態となった<ref>『週刊100名馬 Vol.89 グラスワンダー』p.11</ref>。これを受け、管理調教師の[[尾形充弘]]はエルコンドルパサー陣営に対して的場の騎乗継続を進言したが、既に後任が決まり、それが覆ることもないとみていた的場は半ば諦めていたという<ref name="matoba2" />。しかし結果として的場はエルコンドルパサーの鞍上に据え置かれ、春の目標とした[[NHKマイルカップ]]の前哨戦・[[ニュージーランドトロフィー|ニュージーランドトロフィー4歳ステークス]]へ臨むことになった<ref name="matoba2" />。


ニュージーランドトロフィーでは初の芝のレースへの出走し、また距離短縮への不安が懸念され<ref name="yu0512"/>、出走メンバーも前年の朝日杯でグラスワンダーの2着としていた[[マイネルラヴ]]、[[フラワーカップ]]優勝馬スギノキューティーらが相手となったが<ref name="yu9806">『優駿』1998年6月号、p.67</ref>、エルコンドルパサーはオッズ2.0倍の1番人気に支持された<ref name="yu0712" />。初の芝コースに返し馬<ref group="注">ウォーミングアップを兼ねた待機所への移動。</ref>ではやや戸惑う様を見せ、スタートでも立ち後れた<ref name="yu9806" />。的場は1400メートルの速い流れについていけるか否かを懸念していたが<ref name="yu9806" />、すぐに好位にとりつくと、最終コーナーで外に持ちだしてから直線で抜け出し、スギノキューティーに2馬身差をつけて勝利した<ref name="100meiba" />。的場は「2000メートルぐらい距離があった方が、もっと強い競馬ができると思う。本番で1ハロン伸びるのは、間違いなくプラス」とNHKマイルカップへの展望を語り<ref name="100meiba" />、二ノ宮は「この距離と出走頭数<ref group="注">フルゲートの18頭。</ref>では馬群を捌くのが大変だろうと思っていたので少々心配だったが、的場君が意識的に早めにいって、馬ごみを上手く捌いてくれた。今回の勝利はジョッキーの腕によるところが大きい<ref name="yu9806" />」と的場の騎乗を称えた。
2ヶ月休養した後の次走[[フォワ賞]]はサガミックスが直前に回避し、3頭立てという日本ではまず見かけない少頭数となったが、同時にG2レースながら出走馬は全てG1馬であった。レースでは押し出される格好で先頭に立ち他の2頭([[ボルジア (競走馬)|ボルジア]]と、一度敗れているクロコルージュ)にマークされるという状況で、直線ではインを突いたボルジアが一旦先頭に立つも差し返して勝利し、いよいよ大目標である凱旋門賞に向かう。


5月17日に迎えたNHKマイルカップでは、エルコンドルパサーの他に[[トキオパーフェクト]]、ロードアックス、シンコウエドワードという3頭の無敗馬が揃った<ref name="yu9807">『優駿』1998年7月号、pp.29-33</ref>。当日はエルコンドルパサーがこれらを抑えてオッズ1.8倍の1番人気に支持され、トキオパーフェクトが3.6倍で続いた<ref name="yu9807" />。レースではそれまでにない好スタートを切ると<ref name="yu0712"/>、道中では3、4番手を追走した。最終コーナーでは大外へ膨れながらも直線で先頭に立ち<ref name="yu0712"/>、シンコウエドワードに1馬身3/4差をつけての優勝を果たした<ref name="yu9807" />。この勝利は二ノ宮にとっても初めてのGI制覇となった<ref name="yu9807" />。
==== 凱旋門賞 ====
凱旋門賞ではその年の[[ジョッケクルブ賞]]、[[アイリッシュダービー]]を制し、ヨーロッパの3歳最強馬と評価されていたモンジュー、当年の[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス|キングジョージ6世&クイーンエリザベスダイヤモンドステークス]]及び[[アイリッシュチャンピオンステークス]]をそれぞれ圧勝していたヨーロッパ古馬チャンピオンである[[デイラミ]]が出走した。


的場は「4コーナーで3頭分ぐらい外にふられてしまい、あわてて修正した分、最後は止まってしまうのではないかと不安になったが、よくきついレースを凌ぎきってくれた。本当に素晴らしい能力を持っている<ref name="yu98072">『優駿』1998年7月号、pp.134-135</ref>」、「デビュー当時は心配な面もあったが、こちらの思うとおりに成長してくれた。本当に能力の高い、素晴らしい馬です<ref name="yu0712"/>」などと感想を述べた。また渡邊は「今回本当に嬉しかったのは、自分の責任の中で繁殖牝馬を捜して配合から取り組んだ結果、エルコンドルパサーという強い馬が育ってくれたこと」と語った<ref name="yu98072" />。渡邊は後に、NHKマイルカップを勝利したことで海外遠征も考えるようになったと回顧している<ref name="yu9905"/>。
当日レースの舞台となるロンシャン競馬場はペネトロメーター5.1というレース史上類を見ないほど大量に水分を含んだ状態の[[馬場状態#不良馬場|不良馬場]]だったため、道悪を苦としないエルコンドルパサーとモンジューの一騎打ちというのが戦前の評判であった(優勝候補の一角だったデイラミの陣営は直前まで出走を躊躇していた)。


===== 毎日王冠 - 騎手交代 =====
レースはモンジュー陣営のペースメーカーであるジンギスカンが先頭に立つ予定だったが、ジンギスカンが出遅れ、エルコンドルパサーが押し出されるような格好で先頭を進み、エルコンドルパサーをモンジューが後方から見る格好となった。これが功を奏し、単騎逃げで折り合った本馬は、最後の直線まで脚を溜めながら抜群の手応えでレースを進め、直線半ばでは更に後続を突き放した。モンジューはまだ馬群の中にあり、日本競馬の悲願がついに達成かと思われた。しかし残り200mでようやく馬群をこじ開けたモンジューが一気に追い込み、ゴール前でついにエルコンドルパサーを捉えた。結局半馬身差でモンジューが優勝、エルコンドルパサーは2着となった。
NHKマイルカップ後、二ノ宮はエルコンドルパサーの休養及び秋の目標を[[マイルチャンピオンシップ]]に据えることを明言したが<ref name="yu98072" />、後に方針が変わり、目標は国際招待競走の[[ジャパンカップ]]に改められた。当時、エルコンドルパサーはNHKマイルカップ優勝の実績、そして血統からみても「[[マイル]]」、つまり1600メートル前後に向くのではないかとみられていた<ref name="yu9901">『優駿』1999年1月号、pp.12-19</ref>。ジャパンカップはそれよりも800メートル長い2400メートルで行われる競走であったが、渡邊は血統の観点から母の父サドラーズウェルズにキングマンボという配合はマイルよりも2000メートルから2400メートルの方が向いていると考えていた<ref name="yu0712"/>。


この変更は[[JRA賞|年度代表馬]]争いを見据えたものであった。渡邊は、同世代の[[東京優駿|東京優駿(日本ダービー)]]優勝馬・[[スペシャルウィーク]]、そして春夏に[[安田記念]]とフランスのG1競走[[ジャック・ル・マロワ賞]]を制していた[[タイキシャトル]]に対抗するためには、ジャパンカップに勝つしかないと考えたのである<ref name="yu9901" />。また、渡邊の父・喜八郎がかつて所有した[[ホスピタリテイ]]が、1982年のジャパンカップを前に故障のため出走できなかったという経緯も踏まえていた<ref name="yu99012" />。又、[[政治家]]の[[中川昭一]]とは、互いの娘が同級生という縁から私的に親交があった。中川が[[小渕内閣]]で[[農林水産大臣|農水相]]を務めていた当時の1998年8月、[[オフサイドトラップ (競走馬)|オフサイドトラップ]]が「農林水産大臣賞典」の[[新潟記念]]を勝った際にその旨を中川に伝えたところ、「僕はジャパンカップの表彰式に行くことになってる」と聞かされ、これが同競走へエルコンドルパサーが出走する選択理由のひとつになったという<ref name="shosai"/>。ジャパンカップも農林水産大臣賞典であり、優勝した場合は渡邊は中川から優勝トロフィーを授与されることになる。さらに的場によれば、渡邊はマイルチャンピオンシップが行われる[[京都競馬場|京都コース]]が馬に良くないと嫌がっていたともいう<ref name="matoba2" />。ただし、この後毎日王冠での敗戦後に渡邊は「自分のエゴで愛馬に負担をかけることにならないか」と不安になることがあったため、二ノ宮に「実績のあるマイル戦(マイルチャンピオンシップ)に行くべきかとも考えたけど、二ノ宮さんはどう思いますか?」と相談したところ、二ノ宮は悩むことなく「どちらへ行っても勝てます。どうしますか?」と答えたため、迷いが無くなったという<ref name="hiramatsu"/>。
2着に敗れはしたものの凱旋門賞の3歳と古馬の斤量差(エルコンドルパサーが59.5キロであるのに対し、モンジューは56キロ)や、3着馬との間につけた6馬身差(4着はさらに5馬身差)により、{{どこ範囲|現地のメディア|date=2013年2月}}から「'''2頭チャンピオンが存在した'''」という評価を受けた。日本国内でも[[シンボリルドルフ]]や[[サクラローレル]]など歴代の強豪馬が海外遠征で敗れており、歴史的快挙と評された。現在においても、2着は日本調教馬による凱旋門賞の最高着順記録(タイ記録)<ref>2010年の[[ナカヤマフェスタ]](エルコンドルパサーと同じく二ノ宮厩舎所属)、2012年および2013年の[[オルフェーヴル]]も同着順を記録している。</ref>であり、これはニュージーランド調教馬Balmerino(バルメリーノ)と並んでヨーロッパ以外での調教馬による最上位着順記録でもある<ref>ヨーロッパの調教師によるUAE調教馬を除く。</ref>。


ジャパンカップを目指すに当たり、前哨戦として選ばれたのは1800メートル戦の[[毎日王冠]]であった。毎日王冠には骨折からの復帰戦としてグラスワンダーも出走が決まっていたため、的場は棚上げされていた選択に再び迫られた。調教師の尾形は「グラスワンダーの調子は今ひとつだ。後のことも考えて、自分で決めてくれ」と、的場に選択を委ねていた<ref name="yu0102">『優駿』2001年2月号、pp.92-95</ref>。的場は「馬の状態ならば、今回に限ればエルコンドルパサーが上」とみていたものの、グラスワンダーが休養前にみせた能力や先々までを考慮すると結論が出せず、3週間ほど悩んだという<ref name="matoba3">的場(2001)pp.199-202</ref>。そして、最終的に的場はグラスワンダーを選択した<ref name="matoba3" />。
このレースを最後に引退<ref>[[ブリーダーズカップクラシック]]に出走するプランもあったが既に4戦消化しており、しかもいずれも激走であったことから消耗が激しく、受け入れ先の問題等もあり、実現しなかった。</ref>。奇しくも死闘の相手であるモンジューやタイガーヒル、ボルジアといった顔ぶれが集まったジャパンカップ当日の昼休み「コンドルは飛んで行く」が流れる中、引退式が行われた。なお、この日のジャパンカップはスペシャルウィークがモンジュー他に勝利している。


[[File:Masayoshi Ebina Horse trainer first winning.jpg|thumb|蛯名正義(2022年)|240px]]
上記のような半年に及ぶ海外遠征での成績が評価され、1999年の[[JRA賞#歴代年度代表馬|年度代表馬]]にも選ばれたが、この年の国内GIをスペシャルウィークが3勝、またグラスワンダーがこのスペシャルウィークを2度下す形で2勝していたために、両馬を差し置いて国内のレースに一度も出走していないエルコンドルパサーが選ばれるのは不適当ではないかという意見も相次いだ。また、記者投票の結果、一旦はスペシャルウィークが首位に立ったにも関わらず、審議委員による決定でこれを覆し、エルコンドルパサーを年度代表馬に決定したために、1993年にビワハヤヒデが選ばれた時以上の大論争となった(詳細については[[1999年度JRA賞年度代表馬選考]]を参照)。
的場の後任としては、第一候補として翌年の遠征を見据えて[[フランス人]]騎手の[[オリビエ・ペリエ]]が挙がったが、日本中央競馬会(JRA)から「短期免許で1日だけの騎乗を許可することはできない」と通告され断念した<ref name="100meiba5">『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』pp.3-9</ref>。次いで国際経験も豊富な[[武豊]]に打診したが、春のグランプリ・[[宝塚記念]]を含め5連勝中の[[サイレンススズカ]]と共に毎日王冠に臨むとの理由で断られ、最終的には当時関東の騎手ランキングでトップを走っていた[[蛯名正義]]に決まった<ref name="100meiba5" />。蛯名は7月11日に行われた[[七夕賞]]、8月30日に行われた新潟記念とこちらも渡邊の所有馬であるオフサイドトラップで重賞を連勝しており、また喜八郎が最初の所有馬を預けた[[蛯名武五郎]]の遠縁にも当たり、「なんとなく縁を感じた」という<ref name="100meiba5" />。騎乗依頼を受けた蛯名は「凄い馬を頼まれちゃったな、これまで負けてないだけに大変だ」と重圧を覚えたと振り返っている<ref name="yu9901" />。


10月11日の毎日王冠には、GII競走ながら13万人を越える観衆が東京競馬場に詰めかけた<ref name="yu0102" />。当日はサイレンススズカが単勝オッズ1.4倍という断然の1番人気に支持され、2番人気には休養前の怪物的なイメージや的場の選択も影響して休み明けのグラスワンダーが推され、エルコンドルパサーは3番人気となった<ref name="yu0102" />。スタートが切られると、[[脚質#逃げ|逃げ馬]]のサイレンススズカが前半600メートルを34秒6<ref name="yu0102" />、1000メートルを57秒7<ref name="yu0712" />というハイペースで飛ばし、エルコンドルパサーは2番手集団のなかでこれを追走した<ref name="yu0102" />。第3コーナーから最終コーナーにかけてはグラスワンダーがスパートを掛けて直線入口でサイレンススズカに並びかけたが、そこから伸びを欠く<ref name="yu0102" />。一方のエルコンドルパサーは逃げ脚の衰えないサイレンススズカを追走したが、2馬身半及ばず2着となった<ref name="yu0102" />。3着サンライズフラッグとは5馬身差がついており、グラスワンダーは5着であった<ref name="yu0102" />。
引退後の[[JRA顕彰馬|顕彰馬]]の選出においては長らく落選が続いていたが、本馬は平成26年(2014年)度顕彰馬に選定された。


蛯名は「相手が強かった。完敗だった<ref name="yu9901" />」としたが、「負けはしたが、タイムは速いし、こっちは4歳馬だからね<ref name="yu0712"/>」とも語った。二ノ宮は「勝った馬はうちの馬とは違う脚質の馬で、レースも相手の馬の流れになってしまってのもの。負けはしたけれどもいいレースをしてくれたと思った。決して落胆するようなことはなかった」と述べている<ref name="yu9901" />。また二ノ宮は後年この競走について、「あの毎日王冠で、サイレンススズカを追いかけていたらどうだったかな、と思うことはある。でも、それで失速していたらジャパンカップ挑戦は諦めていただろう。エルコンドルパサーの将来を決定づけたレースだった」と回顧している<ref name="yu0102" />。一方、苦渋の選択を経た的場は、エルコンドルパサーが無事に秋初戦を終えたことを喜んだとしつつ、「未練もあった。正直な話、エルコンドルパサーへの未練はそのあともずっとあった。それでも、選んだのは僕だ。割り切ってはいる。ただそれと未練とは、また別の次元の話なのだ」と後年著書に記している<ref name="matoba3" />。一方、勝利したサイレンススズカ鞍上の武豊は、勝利騎手インタビュー後の地下道で「2着の馬(エルコンドルパサー)も強いよ。休み明けで57kgを背負っていたんだから。サイレンスは4歳の時はあんなに走れなかった」と感想を述べている<ref>『Sports Graphic Number PLUS - 20世紀スポーツ最強伝説(4)』pp.122-127</ref>。
なおエルコンドルパサーのヨーロッパ長期キャンペーンは、日本はもとよりフランスにおいても極めて高い評価を受け、渡邊はその年もっとも活躍した競馬関係者に贈られるランセル・ゴールド賞を現在に至るまで外国人としてただ1人受賞している。毎年凱旋門賞を取材しているカメラマンの白田敏行は、現地のファンや関係者の間でも[[2006年]]に凱旋門賞だけ出走して日本に帰国した[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]よりも、凱旋門賞に照準を絞り1年がかりでヨーロッパに遠征したエルコンドルパサーのほうが認知されているという見解を示している<ref>[http://www.plus-blog.sportsnavi.com/saikyokeiba/article/575 【最強ヒストリー】 エルコンドルパサー 第10話]</ref>。「20世紀世界の平地競走馬トップ200」では日本馬として唯一86位にランクインしている。


なお、勝ったサイレンススズカはエルコンドルパサーとグラスワンダーに出走権のない[[天皇賞(秋)]]を経て、ジャパンカップへ向かう予定となっていたが<ref name="yu0102" />、天皇賞で骨折し、安楽死処分となった。優勝したのは渡邊の所有馬オフサイドトラップであった<ref>『優駿』1999年2月号、pp.109-115</ref>。
また生涯で一度も[[連対]]を外さなかったが、11戦連続連対は生涯戦績で連対を外さなかった中央競馬所属馬の中では[[シンザン]]の19戦連続、[[ダイワスカーレット]]の12戦連続に次ぐもので、グレード制導入以降では2番目の記録となっている(なお、生涯戦績で連対を外した中央競馬所属馬には15戦連続連対の[[ビワハヤヒデ]]や12戦連続連対のタイキシャトルなど、地方競馬所属馬には生涯戦績23戦23連続連対の[[ゴールドレット]]や15戦全勝のツルマルサンデーなどがいる)。

===== ジャパンカップ制覇 - 最優秀4歳牡馬となる =====
11月29日、秋の目標としたジャパンカップに出走した。当年は目玉といわれた外国招待馬がほとんど辞退、あるいは受諾後に回避し、外国勢で注目されるのは前年の[[ブリーダーズカップ・ターフ]]優勝馬・[[チーフベアハート]]のみだったことで、戦前から『近年稀に見る大物不在』<ref>『競馬モンスター列伝』p.110</ref>と言われる日本馬優勢の前評判であった<ref name="yu9901" />。1番人気には本競走と同じ東京競馬場・2400メートルで行われる日本ダービーの優勝馬・[[スペシャルウィーク]]が推され、2番人気には、かねてより陣営がここを目標と公言していた前年度2着の牝馬[[エアグルーヴ]]が入り、エルコンドルパサーが続く3番人気と、日本馬が人気上位を占めた<ref name="yu9901" />。エルコンドルパサーは当時父のキングマンボがマイラーと見られていたことと毎日王冠から距離が600メートル延びるという不安が懸念され<ref name="yu1512"/>、蛯名も戦前「能力は信用しているが、距離は走ってみなければわからない」と口にしていた<ref name="yu9901" />。

レースでは[[サイレントハンター (競走馬)|サイレントハンター]]が単騎での逃げを打ち、エルコンドルパサーはスペシャルウィーク、エアグルーヴと共に3番手集団の中で並んで進んだ<ref name="yu9901" />。最終コーナーではエアグルーヴ、スペシャルウィークがスパートを遅らせたのに対しエルコンドルパサーはいち早く先頭に並びかけ、最後の直線で抜け出す<ref name="yu9901" />。その後も最後まで失速することなくエアグルーヴとの差を広げ、同馬に2馬身半差をつけての優勝を果たした<ref name="yu9901" />。

蛯名は「4コーナーを回って、直線を向いたところで勝てると思った。それまでは慎重に距離をもたそうと思って乗っていた。ペースもレースのレベルにしてはすごく遅かった。だから良い位置にいられたのも良かったんだろう。後ろから行ったのでは駄目だったんじゃないか」と振り返り<ref name="yu9901" />、「はじめて乗った時から、スーパーホースになってくれるんじゃないかと期待を抱かせてくれた馬なんです。その期待に今日は応えてくれた。ホント、強さは半端じゃないですよ」とコメントした<ref name="yu0712"/>。二ノ宮は「走る馬は極端な[[ステイヤー]]や[[競走馬#スプリンター|スプリンター]]でない限り、ある程度の距離なら走ってくれると思っているので、期待に応えてくれると思っていた。春より精神的に強くなり、気持ちも身体も最高の状態だった」などと述べた<ref name="yu99012">『優駿』1999年1月号、pp.144-145</ref>。また渡邊は「未経験の距離についていろいろ言われていたが、私はこなせると思っていた。それに父も『[[プレストウコウ]]で[[菊花賞]]を勝ったときもそう言われていたから大丈夫だ』と言っていた」と語り<ref name="yu99012" />、さらに記者から翌年の国外遠征について水を向けられると、具体的な内容は決まっていないとしつつ「ぜひ行ってみたい」と明言した<ref name="yu9901" />。ジャパンカップでのレースぶりについて[[柴田政人]]は、「正攻法のレースをして力で勝った、という点を評価したいね。相当強い勝ち方ですよ」と称賛し<ref name="gallop98">『臨時増刊号Gallop'98』pp.10-16</ref>、[[野平祐二]]は1コーナーまでに馬を控えさせた蛯名の騎乗を称賛すると同時に、柴田が用いた正攻法という表現について、「2400mのレースでまともに競馬をやってちゃんと勝たせたのだから、すごいわけよ」と称している<ref name="gallop98"/>。

秋は2戦のみという予定に沿って年末のグランプリ競走・[[有馬記念]]へは出走せず<ref name="yu9901" />、当年はこれで終えた。渡邊は「欧州の競馬などを見ていても、本当のオープン馬というものは数を使わないものだと思う。あえて言えば、ここで有馬記念を使わないことも馬主としての見識」と語った<ref name="yu9901" />。また、「日本で一番馬券の売れるレースは有馬記念だが、世界的な視野で見たら日本の最高レースはジャパンカップであり、そちらを勝ったのだからあえて無理をすることもない」という考えもあったとしている<ref name="shosai" />。なお、有馬記念は復帰から2戦を経て復活したグラスワンダーが的場を背に優勝した<ref>『優駿』1999年2月号、p.141</ref>。

当年の年度表彰・JRA賞において、エルコンドルパサーは[[皐月賞]]と[[菊花賞]]に優勝した[[セイウンスカイ]]を抑え、最優秀4歳牡馬に選出された<ref name="yu9902">『優駿』1999年2月号、p.22</ref><ref group="注">[[二冠馬#中央競馬の二冠馬|二冠馬]]を抑えての最優秀4歳牡馬は2023年現在唯一。クラシック競走未勝利の馬による同賞の受賞は[[オグリキャップ]]に続いて10年ぶり2頭目</ref>。一方、狙っていた年度代表馬には年間5戦4勝、うち日・仏でGI競走3勝という成績を挙げた[[タイキシャトル]]が208票中174票獲得という大差で選出され、エルコンドルパサーは11票獲得にとどまった<ref name="yu9902" />。

仮定の[[負担重量]]数値で各馬の序列化を図るJPNクラシフィケーションでは、ジャパンカップでの走りが国際的に高く評価され、Lコラム(2200-2700メートル)で126ポンドの評価を獲得した。日本国内ではMコラム(1400-1800メートル)122ポンドのタイキシャトルとサイレンススズカを上回った。この数値はLコラムに限れば[[ダービーステークス|イギリスダービー]]優勝馬[[ハイライズ]](127ポンド)に次ぎ、フランスの凱旋門賞優勝馬[[サガミックス]]と並ぶ世界第2位の評価であった<ref name="rating98">『優駿』1999年2月号、pp.30-35</ref>。

==== 5歳時(1999年) ====
===== ヨーロッパ遠征へ =====
1999年は日本国外への遠征を念頭に、渡邊、二ノ宮に加え、欧米の競馬に通じた桜井盛夫、[[合田直弘]]、奥野庸介の3人をブレーンとして遠征先についての討議が行われた。イギリスの[[キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス]]、アメリカの[[ブリーダーズカップ]]、UAEの[[ドバイワールドカップ]]といった競走が候補に挙げられるなか、最終的にはフランスの凱旋門賞を目指すことに決定<ref name="yu0210" />。1月25日に行われたJRA賞授賞式の場で、渡邊からエルコンドルパサーのヨーロッパ遠征が発表された<ref name="100meiba2">『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』p.11</ref>。渡邊は従来の日本馬の遠征のように狙いを定めたレースにスポット参戦するやり方では好結果が得られないのではないかと考え<ref name="yu0712"/>、この場で「凱旋門賞はポンといって勝てるようなレースではありません。勝とうと思ったら欧州仕様の馬にする必要があるので、ある程度、腰を据えて挑戦しないといけないと考えています」と発言し、今回の遠征が長期遠征であることを発表した<ref name="hiramatsu"/>。ただし、当時はまだ具体的なローテーションは決まっておらず、渡邊は雑誌のインタビューに「春2戦、秋2戦。春は[[イスパーン賞]]かブリガディアジェラードステークスを経て、[[エクリプスステークス]]へ」という展望を語っていた<ref name="shosai" />。

エルコンドルパサーは冬場を休養に充てられ<ref name="yu0712"/>、2月10日に休養を終えて美浦に戻り、4月14日に二ノ宮厩舎の僚馬・ハッピーウッドマンを帯同馬として伴いフランスへ出発した<ref name="100meiba2" />。翌15日に到着し、現地の受け入れ先となる[[シャンティイ調教場]]の[[トニー・クラウト]]厩舎に入った<ref name="100meiba2" />。本厩舎は前年のジャック・ル・マロワ賞を制したタイキシャトルも預託されていたが、[[平松聡|平松さとし]]によるとトニーは「実はタイキシャトルよりも先にエルコンドルパサーの話が合ったんです」と言っていたといい、トニーは1991年に来日した際に共通の知人を通して渡邊を紹介してもらっていた。1998の2月に再来日した折、渡邊と再会したトニーは渡邊から「エルコンドルパサーが強くなって遠征する際にはよろしくお願いします」と言われていたという<ref name="hiramatsu"/>。

21日に二ノ宮から初戦をイスパーン賞(G1)とすることが正式に発表された<ref name="100meiba2" />。なお、フランス滞在に当たっては、タイキシャトルのフランス遠征にも随行した多田信尊が現地スタッフとの調整を担当するマネージャーとして起用され<ref name="100meiba3" />、二ノ宮不在の際には現場監督としての役割も担うことになった<ref name="100meiba5" />。

調教開始後、エルコンドルパサーは日本より遥かに丈の長い芝に苦労し、1ハロンごとを15秒というごく軽い調教でも疲れた様子を見せ<ref name="yu0210" />、より盤が緩む降雨の日などは「めちゃくちゃなフォーム」で走っていた<ref name="yu0210" />。しかしやがてそうした馬場に合わせた走法に変化していき、それに伴い筋肉の付き方も変わり、胴長で細身の馬体となっていった<ref name="yu0210" />。それでも、[[調教助手]]の佐々木幸二はこの頃の状態について「もともと調教では動く馬なのに、とにかく動かなかった」と述べている<ref name="100meiba3">『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』pp.34-39</ref>。

===== イスパーン賞、サンクルー大賞 =====
5月23日、イスパーン賞を迎える。当日は地元馬を抑えオッズ2.75倍の1番人気となった。レースでは中団追走から最終コーナーで3番手に位置を上げ、最後の直線で先頭に立つ。しかし2番人気の[[クロコルージュ]]にゴール前で外から差され、4分の3馬身差の2着と敗れた<ref>『優駿』1999年7月号、pp.46-51</ref>。競走後、蛯名は「手応えは充分にあったし、追い出しも待って待って、残り200メートルまで仕掛けを我慢したんだけど。でも、初めての馬場も上手に走っていたし、次は楽しみになった」とし、二ノ宮は「落ち着いていたし、力は出せたと思う。頭数も少なく、理想的な流れだったが、久しぶりもあった。内容はあったと思う」と述べた<ref name="100meiba4">『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』pp.24-33</ref>。渡仏した時点では、厩舎スタッフは「果たしていつまでフランスにいられるのか」、「初戦で惨敗したら帰るんだろう」などと話しあっていたが<ref name="yu0210" />、佐々木は「すぐ帰ることになったらもったいない」と現地で買い控えていた日用品の類を、この競走後に一気に買い込んだという<ref name="100meiba3" />。

6月2日、エルコンドルパサーが年内で引退し、[[種牡馬]]として18億円の[[シンジケート]]が組まれたうえで[[社台スタリオンステーション]]で繋養されることが明らかとなった<ref name="100meiba2" />。

イスパーン賞を終えてから、エルコンドルパサーの状態は急速に上向いていった<ref name="100meiba3" />。次走はイギリスの[[ロイヤルアスコット開催]]で行われる[[プリンスオブウェールズステークス (イギリス)|プリンスオブウェールズステークス]](G2)や、かねて計画にあったエクリプスステークスへ向かうという選択肢もあったが、二ノ宮と多田で両競走が行われる各競馬場の状態を下見したのち候補から外され、フランスに留まることになった<ref name="100meiba5" />。

[[ファイル:Saint-Cloud_Racecourse_001.jpg|thumb|エルコンドルパサーがフランス初勝利を挙げたサンクルー競馬場。|250px]]
7月4日、G1・[[サンクルー大賞]]へ出走。芝丈が長く起伏に富んだ[[サンクルー競馬場]]のコース、距離不安が囁かれたジャパンカップと同じ2400メートルの距離、さらに日本ではまず背負うことのない61キログラムの[[負担重量|斤量]]といった諸条件を前に、蛯名はエルコンドルパサーの好調を感じてなお、スタミナ面への不安を抱いていた<ref name="100meiba5" />。陣営もスタミナ面に不安を抱いていたが、クラウトから「この馬は12ハロンでも問題ない」と説かれ、出走を決意した<ref name="yu1512"/>。また相手は大幅に強化され、前年の[[ジョッケクルブ賞|フランスダービー]]、[[アイリッシュダービー]]を制し[[カルティエ賞|全欧年度代表馬]]に選ばれた[[ドリームウェル]]、前年の凱旋門賞優勝馬サガミックス、ドイツの年度代表馬[[タイガーヒル]]、[[ドイチェスダービー]]優勝馬でアメリカの[[ブリーダーズカップ・ターフ]]でも2着の実績がある[[ボルジア]]といった全欧の一線級が揃い<ref name="yu9908">『優駿』1999年8月号、pp.48-51</ref>、「近年最高のメンバーが揃った」という評もあった<ref name="yu1512"/>。

当日、エルコンドルパサーはサガミックスに次ぐ2番人気の支持を受ける<ref name="yu9908" />。レースでは3、4番手追走から、最後の直線半ばでタイガーヒルを楽にかわし、同馬に2馬身半の差を付けて優勝<ref name="100meiba4" />。フランスでの初勝利を挙げた。競走後、蛯名は涙をみせ<ref name="100meiba5" />、「本当に嬉しい。自分が乗ってきた中でも最高レベルで、性格的にも走ることが大好きな、素晴らしい馬。凱旋門賞も楽しみ」と感想を述べ<ref name="100meiba4" />、また「どうしてもっと馬を信用してやれなかったのか」とその心中を吐露した<ref name="100meiba5" />。二ノ宮は「他馬の標的にされているようなレースだったが、自分の競馬ができたと思う。確かに強い相手に勝つことができたが、彼らが万全の状態だったか分からないし、またこれから気を引き締めていきたい」と述べた<ref name="100meiba4" />。サンクルー大賞で上記のメンバーを相手に勝利したことと安定したレースぶりから、エルコンドルパサーはヨーロッパでも注目を集めることなった<ref name="yu0712"/>。

サンクルー大賞の結果、エルコンドルパサーには暫定的に128ポンドのレートが与えられた。これはフランスダービー、アイリッシュダービーを圧勝していた4歳馬・[[モンジュー]]に並び<ref name="100meiba5" />、5歳以上馬では当年のヨーロッパで最高評価となる数値だった<ref>『優駿』1999年9月号、p.122</ref>。二ノ宮は後年この競走について「結果を出さなければ残っている意味がなくなってしまうレースだった。フランスの4戦で一番緊張した。これで最後まで残れるなと思うとホッとした」と振り返り<ref name="100meiba5" />、渡邊のブレーンの一人であった合田直弘は「遠征の成否を分ける[[剣ヶ峰#剣が峰|剣が峰]]だった」と振り返っている<ref>『競馬名馬&名勝負年鑑 1999&#x301C;2000』pp.24-25</ref>。

===== フォワ賞 =====
サンクルー大賞のあと、エルコンドルパサーは右後脚に異常をきたす。競走中に二つの外傷を負っており、その傷口に[[菌]]が入り炎症を起こす[[フレグモーネ]]の症状であった<ref name="100meiba3" />。一般的にはすぐに腫れが引くほどのもので、マスコミには「軽症」と発表していたが、このときは治りが遅く[[屈腱炎]]に似た症状にまでなっており、完治に1カ月を要した<ref name="100meiba3" />。このため、7月下旬に再開される予定だった本格的な調教は、8月にずれ込んだ<ref name="100meiba3" />。

凱旋門賞に向けての前哨戦として、二ノ宮は1996年度の優勝馬・[[エリシオ]]が使った1600メートル戦、[[ムーラン・ド・ロンシャン賞]]を考えていた。しかし渡邊らが「常道とはいえない」と反対し、本番と同じ[[パリロンシャン競馬場|ロンシャン競馬場]]の2400メートルで行われる[[フォワ賞]](G2)が選択された<ref name="100meiba5" />。

9月12日の競走当日はサガミックスが馬場の硬さを嫌って出走を取り消し、エルコンドルパサーを含めても3頭立てという少頭数となった<ref name="yu99101">『優駿』1999年10月号、pp.44-45</ref>。他の2頭はイスパーン賞で敗れたクロコルージュ、サンクルー大賞で対戦したボルジアであった<ref name="yu0712"/>。エルコンドルパサーの単勝オッズは一時1.1倍、最終的に1.3倍の1番人気となる<ref name="yu99101" />。スタートが切られるとエルコンドルパサーは先頭でレースを進め、ロンシャン特有の「フォルス・ストレート」を経て、最終コーナーいったんボルジアに先頭を譲った。しかし最後の直線でスパートをかけるとこれを再びかわし、同馬との競り合いを短首差制して勝利した<ref>『優駿』1999年10月号、pp.4-5</ref>。蛯名は「惰性をつけてきたボルジアに、いったんクビくらい前に出られたけど、そこから差し返した。こういう競馬もできたということは、収穫だったと思う」と感想を述べた<ref name="100meiba4" />。この日は1969年の凱旋門賞に出走した[[スピードシンボリ]]の主戦騎手・野平祐二も応援に駆け付け、渡邊は野平の「日本の馬が遂に人気馬として凱旋門賞に出ることになり、嬉しくて駆け付けた」という言葉を聞いて目頭が熱くなったという<ref name="yu1512"/>。この日は世論の盛り上がりに押されて[[日本放送協会|NHK]]がレースの模様を生中継していた<ref name="yu1512"/>。

同日、同じく凱旋門賞への前哨戦として知られる[[ニエユ賞]]では[[モンジュー]]が、[[ヴェルメイユ賞]]ではダルヤバがそれぞれ大本命の評判通りに勝利を挙げた<ref name="yu99101" />。モンジューは終始進路が塞がっていた中、強引に位置を下げて外へ持ち出してから先行勢を差し切るというレースぶりで、多田は「もしあれでスムーズな競馬ができたら、どのくらい強いのか」と感じたという<ref name="100meiba3" />。また前日のアイリッシュチャンピオンステークスでは、これも凱旋門賞への有力馬とみられていた[[デイラミ]]が圧勝していた<ref name="100meiba3" />。

===== 凱旋門賞 =====
フォワ賞のあとはやや反動があったものの、最終調教を経て好調な仕上がりを見せた<ref name="100meiba3" />。この頃にはエルコンドルパサーは調整を行っていたラモレー調教場全体から応援される存在となっており、決まった順番を無視して整地直後の絶好の馬場を優先的に使わせてもらったことに、調教助手の佐々木は感激したという<ref name="100meiba3" />。

10月3日、凱旋門賞を迎える。当年のパリは悪天候が続き、前日から当日午前10時までに13.5ミリの降雨があった。当日雨は上がったものの、馬場硬度は1972年以降で最も軟らかい5.1を示した。これを嫌ったデイラミ陣営は競馬開始後まで出否を保留していたが、第1競走終了後に出走が決定した<ref name="yu9911">『優駿』1999年11月号、pp.120-121</ref>。当年は出走14頭中、エルコンドルパサーを含む8頭がG1優勝馬という顔触れで、人気はモンジューが2.5倍、エルコンドルパサーが4.6倍、馬場状態悪化で人気を下げたデイラミが5.0倍、ダルヤバ8.6倍と続いた<ref name="yu9911" />。

[[ファイル:Montjeu_19991128C1.jpg|thumb|モンジュー(ジャパンカップ出走時)|250px]]
スタートが切られると、エルコンドルパサーは最内枠から飛び出すように先頭に立った<ref name="yu0712"/>。モンジュー陣営が用意していた[[ペースメーカー (競馬)|ペースメーカー]]・ジンギスカンが戦前の予想に反して逃げず、蛯名は「前走も先頭から競馬をしたし、この馬のペースを守って馬と喧嘩しないよう流れに乗ろうと」そのまま先頭でレースを進めた<ref name="yu9911" />。モンジューは6番手前後、デイラミは中団後方を進んだ<ref name="yu9911" />。エルコンドルパサーは後続に2馬身ほどの差をつけたまま最後の直線に入り、その差を広げていったが、残り400メートルあたりから外に持ちだしたモンジューが急追し、残り100メートルほどでこれに並ばれる<ref name="yu9911" />。いったん前に出られたあとエルコンドルパサーはさらにモンジューを差し返しにいったものの、半馬身およばずの2着と敗れた<ref name="yu9911" />。3着クロコルージュとは6馬身差がついていた<ref name="yu9911" />。

敗れはしたものの、健闘したエルコンドルパサーには日本から駆けつけたファン以外からも大きな喝采が送られた<ref name="yu9911" />。現地メディアは「チャンピオンが2頭いた」と伝え<ref name="100meiba4" />、モンジューを管理したジョン・ハモンドも後に「おそらく硬い馬場だったら敵わなかったと思う。あれだけモンジューにとって好条件が揃ったのに、2頭の勝ち馬がいたも同然の結果だったのだから」と振り返っている<ref name="yu0209">『優駿』2002年9月号、pp.38-41</ref>。蛯名は「負けは負けだから、結果は悔しい。それでも、力と力の勝負ができたので、その点での悔いはない」と述べ、二ノ宮は「パドックからレースまでを見ていて、泣けてきそうになった。力は出し切ったと思うが、2着だから負けは負け。でも、無事ならいい」と述べた<ref name="100meiba4" />。渡邊は「ここまでナイス・トライだった。よくやってくれたと思う」と労い、またこれを最後としての引退を改めて発表した<ref name="100meiba4" />。

===== 引退式 - 年度代表馬となる =====
エルコンドルパサーは10月11日に日本へ帰国した。帰国時には空港に「おめでとう 世界のSTAYER エルコンドルパサー」という垂れ幕が掲げられて出迎えられた<ref name="yu0512">『優駿』2005年12月号、pp.35-39</ref>。日本中央競馬会や種牡馬としての繋養先となる社台スタリオンステーションからは、現役を続行しジャパンカップへ出走するよう要望が送られたが、渡邊はこれを固辞し<ref name="yu1512">『優駿』2015年12月号、pp.72-77</ref>、「余力を持って牧場に送り返すのもオーナーの役割」と語った<ref name="yu0712"/>。11月28日、モンジュー、タイガーヒル、ボルジアといった馬も顔を揃えたジャパンカップ当日の昼休みに東京競馬場で引退式が行われた<ref name="yu0001">『優駿』2000年1月号、pp.6-7</ref>。凱旋門賞で使用したゼッケンを着け、パドック周回を経て本馬場に姿を現すと、蛯名を背に第4コーナーからゴールまで駆け抜け、ファンに最後の走りを見せた<ref name="yu0001" />。挨拶に立った渡邊は「ファンの皆様はじめ、ジャパンカップか有馬記念に出走して欲しいという声をうかがいましたが、今日で終わらせた馬主の決断をファンの皆様にもおわかりいただける日がくると確信しております。長い間応援していただき、本当にありがとうございました」と語り<ref name="100meiba4" />、また蛯名は「日本の競馬史に残る偉大な馬だった。ずっと乗っていたいと思っていたので寂しいような気がする。この馬の子で、また世界のG1に挑戦できる日を夢に見ています」と語った<ref name="100meiba4" />。

式を終えたエルコンドルパサーは、この日同時に引退した<ref name="100meiba4" />厩務員・根来邦雄に付き添われ、北海道早来町の社台スタリオンステーションへ向かった<ref name="yu0001" />。なお、ジャパンカップはエルコンドルパサーが前年3着に退けたスペシャルウィークが優勝、1番人気に推されたモンジューは4着に終わっている<ref>『優駿』2000年1月号、p.15</ref>。

翌2000年1月、JRA賞を決定する投票が行われた。当年はエルコンドルパサーの他、春秋の[[天皇賞]]とジャパンカップを制したスペシャルウィーク、同馬を破って宝塚記念、有馬記念の春秋グランプリ競走を制したグラスワンダーがおり、「年度代表馬が3頭いてもおかしくない」といわれたほどの混戦であった<ref name="yu0002">『優駿』2000年2月号、pp.30-36</ref>。年度代表馬への投票はスペシャルウィークが83票、エルコンドルパサーが72票という結果だったが、得票1位が投票選出の規定となる過半数(107票)に達していなかったことで、11人で構成された選考委員会で審議されることになった<ref name="yu0002" />。委員会ではまず最優秀5歳以上馬を誰にするかという審議が行われ、最初の採択でまずグラスワンダーが落選した。次いでエルコンドルパサーとスペシャルウィークの間で決選投票が行われ、7対4でエルコンドルパサーが最優秀5歳以上牡馬に選出された<ref name="yu0002" />。さらに「年度代表馬は各部門賞馬から選ぶ」という規定に沿い、年度代表馬投票で1票を獲得していた[[エアジハード]](最優秀短距離馬・父内国産馬)との間で審議が行われた結果、満場一致でエルコンドルパサーが年度代表馬と決定した<ref name="yu0002" />。ただしこの結果は議論を呼び、スペシャルウィークの調教師・[[白井寿昭]]<ref>『競馬名馬&名勝負年鑑 1999&#x301C;2000』pp.28-29</ref>や[[伊藤雄二]]<ref>鶴木(2000)pp.106-108</ref>といったホースマンからも異議が唱えられた。作家の木村幸治はこの結果について「スペシャルウィークも武豊も見事だった。しかし『日本競馬人が、エルコンドルパサーと蛯名正義のフランスでの仕事を"フロック"と評価した』と世界から誤解されないために、世界にしっかりと敬意を表す意味で選んだのではなかったか」と述べている<ref>木村(2000)p.86</ref>。

JPNクラシフィケーションにおいては、日本調教馬として過去最高の134ポンドの評価を得た。これはモンジュー、デイラミの135ポンドにこそ及ばないが、古馬のLコラム(2200-2799メートル)では世界最高評価であり、歴代の凱旋門賞優勝馬と比較しても遜色のない数値であった<ref name="rating99">『優駿』2000年2月号、pp.40-45</ref>。

なお、当年は馬主の渡邊に対しても[[東京競馬記者クラブ賞]]<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20020804213620/http://keibanihon.co.jp/free/news/h120109.htm |title=東京競馬記者クラブ賞に渡邊隆氏 |publisher=競馬ニホン |accessdate=2015-11-08 |date=2000-01-09}}</ref>が贈られたほか、フランスにおいてはその年の競馬界で最も顕著な活躍をしたホースマンに贈られるゴールド賞を<ref name="100meiba3" />、翌年3月にはアメリカのケンタッキー競馬協会より最優秀生産者賞が贈られた<ref name="100meiba2" />。

=== 引退後 ===
種牡馬としては当時リーディングサイアーの地位を占め続けていた[[サンデーサイレンス]]に代わる存在として期待を掛けられ、同馬を所有する[[社台グループ]]の繋養牝馬を中心として初年度から137頭の交配相手を集めた<ref name="yu0209" />。2年目には158頭、3年目には154頭と高水準の推移を続けた<ref name="yu0209" />。しかし3年目の種付けを終えた後の2002年7月16日、エルコンドルパサーは[[腸捻転]]により社台スタリオンステーションで死亡した<ref name="yu02092">『優駿』2002年9月号、p.7</ref>。7歳没。8月8日には同場で「お別れ会」が開かれ、渡邊、二ノ宮、蛯名、的場ら関係者のほか、一般ファン約300人も参列し、聖歌の斉唱で送られた<ref name="yu02092" />。[[遺骨]]は分骨され、社台スタリオンステーション内に墓が建立された<ref name="monogatari" />。

死から2年後の2004年、2年目の産駒である[[ヴァーミリアン]]が[[ホープフルステークス (中央競馬)|ラジオたんぱ杯2歳ステークス]]を制し、種牡馬としての重賞初勝利を果たした。2006年秋には[[ソングオブウインド]]が[[菊花賞]]、[[アロンダイト (競走馬)|アロンダイト]]が[[ジャパンカップダート]]と、産駒のGI制覇が相次いだ。また、ダート路線に転じたヴァーミリアンは2007年1月に勝った[[川崎記念]]を皮切りに、2010年までにGI・JpnI競走で計9勝という日本記録を樹立した<ref name="ver">『優駿』2012年2月号、p.81</ref>。また、[[トウカイトリック]]はGI・JpnI競走の勝利こそなかったが、11年にわたり競走生活を続け、中央競馬における平地競走勝利の最高齢タイ記録(10歳、2012年[[ステイヤーズステークス]])、同一重賞最多出走記録(8回、2006-2013年[[阪神大賞典]])を打ち立てた<ref name="trick">{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20140209111059/http://www.nikkansports.com/race/news/p-rc-tp0-20140208-1254710.html |title=トウカイトリック引退 中央平地最高齢V |publisher=nikkansports.com |accessdate=2014-02-08 }}</ref>。同馬が中央競馬における最後のエルコンドルパサー産駒となったが、2014年2月に競走生活から退いた<ref name="trick" />。

JRA顕彰馬の投票においては、毎年多くの票を集めながら選出規定にわずかに及ばない状況が続いていた<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20140529140719/http://www.zakzak.co.jp/sports/etc_sports/news/20140426/spo1404261454002-n1.htm |title=【馬じぃの継続は非力なり】エルコンドルパサー殿堂入り 凱旋門賞の門戸こじ開けたパイオニア |author=品川達夫 |publisher=[[夕刊フジ]] |accessdate=2015-11-08 |date=2014-04-22}}</ref>。しかしJRA発足60周年を記念した2014年の投票において例年1人2票の投票権が最大4票に拡大されると、有効票4分の3以上という規定を満たす156票(総数195)を獲得し、史上30頭目の殿堂入りを果たした<ref>{{Cite web|和書|url=https://web.archive.org/web/20151107194515/http://keiba.radionikkei.jp/keiba/post_3194.html |title=エルコンドルパサー、顕彰馬に選定される |author= |publisher=[[日経ラジオ社|ラジオNIKKEI]] 競馬実況web |accessdate=2015年11月8日 |date=2014-4-22}}</ref>。


== 競走成績 ==
== 競走成績 ==
以下の内容は、[[netkeiba.com]]<ref>{{Cite web2|url=https://db.netkeiba.com/horse/result/1995108742/|title=エルコンドルパサーの競走成績|website=netkeiba.com|accessdate=2015-11-10}}</ref>、Racing Post<ref>{{Cite web|url=https://www.racingpost.com/profile/horse/488784/el-condor-pasa/form|title=El Condor Pasa {{!}} Race Record & Form {{!}} Racing Post|website=www.racingpost.com|publisher=[[Racing Post|レーシング・ポスト]]|accessdate=2022-08-05}}</ref>および『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』の情報に基づく。
{|style="font-size: 90%; text-align: center; border-collapse: collapse;"
{|style="font-size:90%; text-align:center; border-collapse:collapse; white-space:nowrap"
|-
|-
!colspan="3"|年月日!![[競馬場]]!!競走名!![[競馬の競走付け|格]]!!人気!![[オッズ|倍率]]!!着順!!距離!!タイム!![[ (競馬)|上]]3[[ハロン (単位)|F]])!!着差!![[騎手]]!!勝ち/(2着馬)
!colspan="2"|競走日!!競馬場!!競走名!!格!!オッズ<br />(人気)!!着順!!距離(馬場)!!タイム<br />(上り3F)!!着差!!騎手!!1着(2着馬)
|-
|-
|[[1997年|1997]]
| [[1997年|1997.]]
|11.
| 11.{{0}}8
| [[東京競馬場|東京]]
|8
|[[東京競|東京]]
| [[馬|3歳新馬]]
|[[新馬|3歳新馬]]
|
|
|1
| 2.5(1
| {{color|darkred|1着}}
|2.5
| ダ1600m(良)
|{{color|red|1着}}
| 1:39.3(37.2)
|ダ1600m(良)
| 7身
|1:39.3
| [[的場均]]
|(37.2)
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|[[的場均]]
|(マンダリンスター)
|-
|-
|[[1998年|1998]]
| [[1998年|1998.]]
|1.
| {{0}}1.11
| [[中山競馬場|中山]]
|11
| 4歳500万下
|[[中山競馬場|中山]]
|4歳500万下
|
|
|1人
| 1.3(1
| {{color|darkred|1着}}
|1.3
| ダ1800m(不)
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|ダ1800m(不)
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|1:52.3
|(37.5)
|9身
|的場均
|的場均
|(タイホウウンリュウ)
| (タイホウウンリュウ)
|-
|-
|
|
|2.
| {{0}}2.15
| 東京
|15
| [[共同通信杯|共同通信杯4歳S]]
|東京
| 重賞
|[[共同通信杯|共同通信杯4歳S]]
| 1.2(1人)
|重賞
| {{color|darkred|1着}}
|1人
| ダ1600m(不)
|1.2
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|{{color|red|1着}}
| 2身
|ダ1600m(不)
| 的場均
|1:36.9
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|(35.6)
|2身
|的場均
|(ハイパーナカヤマ)
|-
|-
|
|
|4.
| {{0}}4.26
| 東京
|26
| [[ニュージーランドトロフィー|NZT4歳S]]
|東京
| {{GII}}
|[[ニュージーランドトロフィー|NZT4歳S]]
| 2.0(1人)
|{{color|blue|GII}}
| {{color|darkred|1着}}
|1人
| 芝1400m(重)
|2.0
| 1:22.2(35.8)
|{{color|red|1着}}
| 2身
|芝1400m(重)
| 的場均
|1:22.2
| (スギノキューティー)
|(35.8)
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|的場均
|(スギノキューティー)
|-
|-
|
|
|5.
| {{0}}5.17
| 東京
|17
| [[NHKマイルカップ|NHKマイルC]]
|東京
| {{GI}}
|[[NHKマイルカップ|NHKマイルC]]
| 1.8(1人)
|{{color|red|GI}}
| {{color|darkred|1着}}
|1人
| 芝1600m(稍)
|1.8
| 1:33.7(34.9)
|{{color|red|1着}}
| 1 3/4身
|芝1600m(稍)
| 的場均
|1:33.7
| (シンコウエドワード)
|(34.9)
|1 3/4身
|的場均
|(シンコウエドワード)
|-
|-
|
|
|10.
| 10.11
| 東京
|11
| [[毎日王冠]]
|東京
| {{GII}}
|[[毎日王冠]]
| 5.3(3人)
|{{color|blue|GII}}
| {{color|darkblue|2着}}
|3人
| 芝1800m(良)
|5.3
| 1:45.3(35.0)
|2着
|芝1800m(良)
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|(35.0)
|(2 1/2身)
|(2 1/2身)
|[[蛯名正義]]
| [[蛯名正義]]
|[[サイレンススズカ]]
| [[サイレンススズカ]]
|-
|-
|
|
|11.
| 11.29
| 東京
|29
| [[ジャパンカップ|ジャパンC]]
|東京
| {{GI}}
|[[ジャパンカップ|ジャパンC]]
| 6.0(3人)
|{{color|red|GI}}
| {{color|darkred|1着}}
|3人
| 芝2400m(良)
|6.0
| 2:25.9(35.0)
|{{color|red|1着}}
| 2 1/2身
|芝2400m(良)
| 蛯名正義
|2:25.9
| ([[エアグルーヴ]])
|(35.0)
|2 1/2身
|蛯名正義
|([[エアグルーヴ]])
|-
|-
|[[1999年|1999]]
| [[1999年|1999.]]
|5.
| {{0}}5.23
| [[パリロンシャン競馬場|ロンシャン]]
|23
| [[イスパーン賞]]
|[[ロンシャン競馬場|ロンシャン]]
| {{G1}}
|[[イスパーン賞]]
| 2.7(1人)
|{{color|red|G1}}
| {{color|darkblue|2着}}
|
| 芝1850m(重)
|
| 1:53.8
|2着
|芝1850m(重
| (3/4身
| 蛯名正義
|1:53.8
| [[クロコルージュ|Croco Rouge]]
|
|(3/4身)
|蛯名正義
|[[クロコルージュ|Croco Rouge]]
|-
|-
|
|
|7.
|{{0}}7.{{0}}4
| [[サンクルー競馬場|サンクルー]]
|4
|[[サンクルー競馬場|サンクルー]]
| [[サンクルー大賞]]
| {{G1}}
|[[サンクルー大賞]]
| 3.2(2人)
|{{color|red|G1}}
| {{color|darkred|1着}}
|
| 芝2400m(稍)
|
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|{{color|red|1着}}
| 2 1/2身
|芝2400m(稍)
| 蛯名正義
|2:28.8
| (Tiger Hill)
|
|2 1/2身
|蛯名正義
|(Tiger Hill)
|-
|-
|
|
|9.
| {{0}}9.12
| ロンシャン
|12
| [[フォワ賞]]
|ロンシャン
| {{G2}}
|[[フォワ賞]]
| 1.3(1人)
|{{color|blue|G2}}
| {{color|darkred|1着}}
|
| 芝2400m(稍)
|
| 2:31.4
|{{color|red|1着}}
| アタマ
|芝2400m(稍)
| 蛯名正義
|2:31.4
| ([[ボルジア_(競走馬)|Borgia]])
|
|アタマ
|蛯名正義
|([[ボルジア (競走馬)|Borgia]])
|-
|-
|
|
|10.
| 10.{{0}}3
| ロンシャン
|3
| [[凱旋門賞]]
|ロンシャン
| {{G1}}
|[[凱旋門賞]]
| 4.6(2人)
|{{color|red|G1}}
| {{color|darkblue|2着}}
|
| 芝2400m(不)
|
|2
| 2:38.6
|芝2400m(不
| (1/2身
| 蛯名正義
|2:38.6
| [[モンジュー|Montjeu]]
|
|(1/2身)
|蛯名正義
|[[モンジュー|Montjeu]]
|}
|}
*海外のオッズ・人気はRacing Postのもの(日本式のオッズ表記とした)
*共同通信杯4歳ステークスは、本来、芝1800mで行われる重賞(GIII)競走であるが、1998年は積雪の影響のためグレード格付け無し(重賞)のダート1600mで施行された。


== 特徴・評価 ==
'''[[ワールド・サラブレッド・レースホース・ランキング|国際クラシフィケイション]]'''
=== 競走馬としての特徴 ===
126-T/L (1998年), 134-T/L (1999年)<br />1999年の134ポンドというレートは日本調教馬としては最高レート。1998年の126ポンドは日本国内で記録されたレートとしては[[オルフェーヴル]]が2013年に記録した129ポンド、[[エピファネイア]]が2014年に記録した129ポンド、[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]が2006年に記録した127ポンドに次ぐ歴代4位の記録で、3歳馬が記録したレートでは現在でも1位である。
蛯名正義はその特長として、芝・ダート、馬場状態、距離、ペースの緩急といった諸条件を難なく克服できる精神力の強さを挙げ、2000年に受けたインタビューにおいて「本当にパーフェクトと言っていい<ref>『競馬名馬&名勝負年鑑 1999-2000』pp.26-27</ref>」、「日本の競馬界では20世紀最高の馬<ref name="yu0010">『優駿』2000年10月号、p.20</ref>」と評している。二ノ宮敬宇は他馬との違いについて「勝とうとする気持ち。最後は負けないという、その精神力」を挙げている<ref name="yu0210" />。野平祐二はエルコンドルパサーの成長力について、陣営のレースへの使い方を評価しつつ、「めいっぱいの力を他人にあまり見せないで、いつの間にか強くなった」と評している<ref name="gallop98"/>。


== 種牡馬時代 ==
=== 身体面の特徴 ===
社台スタリオンステーションの徳武英介によれば、エルコンドルパサーの馬体には一流の競走馬が大抵備えているなにがしかの個性が全く感じられず、「スピードタイプなのかスタミナタイプなのか、芝が良いのかダートが良いのか、[[サドラーズウェルズ]]が出ているのか[[ミスタープロスペクター]]が出ているのか、全く判別がつかないタイプ」であったという。この話を受けたライターの後藤正俊は「その特徴のなさが、エルコンドルパサーの最大の特徴と言えるのだろう。すべてに均整がとれていて、馬体はしっかりとしており、欠点もない。これこそ究極のサラブレッドの形と言えるのかもしれない」と述べている<ref>『優駿』2000年9月号、p.27</ref>。
ジャパンカップ後に総額18億円の[[種牡馬#シンジケート|シンジケート]]が組まれ、イスパーン賞後に社台スタリオンステーションで繋養されることが発表された。渡邊オーナーはサンクルー大賞を勝って凱旋門賞で2着になった後でも(ヨーロッパ遠征の)リスクを引き受けてくれたシンジケート会員のために、シンジケート価格の値上げは行わないとして、シンジケート総額は18億円のまま据え置かれた。
種牡馬生活に入った3年目の2002年7月16日、[[イレウス|腸捻転]]を発症し死亡。本馬が残した血は3世代の産駒だけとなった。


=== フランス遠征と1999年度の評価 ===
初年度の産駒が期待通りに走らず、種牡馬として心配されたが、2年目の[[ヴァーミリアン]]が[[ホープフルステークス (中央競馬)|ラジオたんぱ杯2歳ステークス]]を[[ローゼンクロイツ]]、[[アドマイヤジャパン]]、[[シックスセンス (競走馬)|シックスセンス]]などのクラシックを賑わす評判馬を相手に勝つと、市場セールの取引価格が急騰した。さらに、[[種牡馬|ラストクロップ]]となった2003年産の[[ソングオブウインド]]が[[菊花賞]]を優勝、これに続いて[[アロンダイト (競走馬)|アロンダイト]]とヴァーミリアンがGI(JpnI)競走を勝っている。既にソングオブウインドは2007年より種牡馬入りして200頭近くの繁殖牝馬を集めた。また、2011年よりヴァーミリアン、[[サクラオリオン]]、ルースリンド(南関東重賞4勝)が後継種牡馬に加わっている。
エルコンドルパサーがフランスへ渡った前後には、[[シーキングザパール]]、[[タイキシャトル]]、[[アグネスワールド]]といった馬もヨーロッパ遠征を行い、1000-1600メートル戦でそれぞれ良績を残していた。しかし『優駿』は特にエルコンドルパサーの遠征を「別格の重みがあった」と評し、その理由について「欧州競馬の牙城ともいえる中距離路線の王道を歩んだから」としている<ref name="yu0010" />。[[日本馬主協会連合会]]はその年史において、1990年代末に相次いだ日本調教あるいは生産馬による国外GI制覇が相次いだことに絡めて「しかもエルコンドルパサーはフランスGIで、というより世界で最も権威あるレースのひとつ凱旋門賞で2番人気に支持され、あわやの2着に惜敗したのである。ジャパンカップでの度重なる勝利とともに、[[1979年|1979(昭和54)年]]以来の合言葉『世界に通用する強い馬づくり』の努力が本格的に実を結んだといってよい」とこれを評した<ref>『日本馬主協会連合会40年史』pp.126-127</ref>。


蛯名正義は「世界に挑戦してきた人たちの努力が無駄ではないことを証明してくれた」と述べ<ref name="numberplus15"/>、[[伊藤雄二]]はサンクルー大賞勝利についての所感を尋ねられ、ヨーロッパの短距離戦について「ヨーロッパでは盲点のように弱いところでもある」としたうえで、「サンクルー大賞の場合は、ヨーロッパ馬が最も得意とする距離だから、その意味でも価値はある」と評した<ref>鶴木(2000)p.45</ref>。[[瀬戸口勉]]も「外国であれだけ結果を出した馬はいない」と評している<ref name="numberplus15"/>。[[吉沢譲治]]は凱旋門賞について、「限りなく金メダルに近い銀メダルだろう。過去の日本馬の凱旋門賞挑戦は、何十馬身もちぎられて入線する屈辱を繰り返すばかりだった。それだけに、どえらいことをやってのけた馬という印象が強い」と述べている<ref>『優駿』2004年3月号、p.28</ref>。二ノ宮敬宇はエルコンドルパサーが顕彰馬に選定されたことを受けて、「エルコンドルパサーが凱旋門賞への扉を少しでも開ける一助となれたことに、我々の行ったことが無意味ではなかったと証明されたように思います」と語った<ref>『優駿』2014年6月号、p.155</ref>。
[[2014年]][[2月8日]]に[[トウカイトリック]]がJRAの競走馬登録を抹消したことにより、全ての産駒が中央競馬から姿を消した。


1999年のインターナショナル・クラシフィケーションで得た134というレートは、イクイノックスが2023年のロンジン・ワールドベストレースホースランキングにおいて135というレートを獲得するまで、長らく日本調教馬の最高評価であった。<ref>{{Cite web |url=https://www.ifhaonline.org/resources/WTRRankings/LWBRR.asp?batch=116 |title=LONGINES World's Best Racehorce Ranking |publisher =LONGINES |date=2024-01-24 |accessdate=2024-02-05}}</ref>。合田直弘はレーティングの数値について「115あれば一流馬、125あればチャンピオン級と言われる」とした上で、2010年時点で史上2位の127というレートを付された[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]を引き、「12ハロンという距離区分では1.5ポンド=1馬身が換算基準だから、エルコンドルパサーは2番手以下に4馬身半の差をつける、断トツの日本最強馬なのである。彼がディープより4馬身半強かったと断じるつもりもないが、エルコンドルパサーが世界的にこれだけ高い評価を受けていることを、日本の競馬人はもっと知るべきであろう」と述べている<ref name="yu1008">『優駿』2010年8月号、pp.24-25</ref>。なお、『優駿』が2012年に行った「距離別最強馬」アンケートにおいて、エルコンドルパサーは「2400メートル」部門でディープインパクトに次ぐ2位となっている<ref name="kyori24">『優駿』2012年9月号、p.26</ref>。
=== 産駒の傾向 ===
本馬はデビューから3戦をダートで圧勝し、ヨーロッパのチャンピオンディスタンスでも活躍しただけあって、パワーとスタミナに優れ、ヨーロッパから日本に輸入されたチャンピオン級の種牡馬が示す傾向と同じように、産駒にはスピードよりもパワーを要求されるダートで活躍する馬や中距離以上でその真価を発揮する馬が多い傾向にある。


なお、2010年には二ノ宮が管理する[[ナカヤマフェスタ]]が蛯名、佐々木、クラウトといった「チーム・エルコンドル」の布陣で凱旋門賞に臨み<ref>『優駿』2010年10月号、pp.38-41</ref>、イギリスの[[ワークフォース]]から頭差の2着となった。ヨーロッパ調教馬のみに優勝経験がある凱旋門賞で、他地域の調教馬が複数回2着になったのはこれが初めてのことだった<ref>『優駿』2010年10月号、pp.112-113</ref>。2012年と2013年の凱旋門賞では[[オルフェーヴル]]が2着となっている<ref>『優駿』2014年2月号、p.13</ref>。
全体として極端な早熟や晩成傾向は見られないが、2歳夏から息の長い活躍をするトウカイトリックや条件戦で頭打ちと見られていたサクラオリオンが7歳で重賞を2勝するなど、成長力を備えた産駒も多い。古馬の重賞においては極端な長距離戦や短距離戦を勝利する産駒ばかり出ていたが、サクラオリオンが重馬場の中京記念と洋芝の函館記念というパワーを必要とする条件で中距離重賞に勝った。


=== 投票企画などの結果 ===
牡馬に比べると牝馬の成績が極めて劣るという傾向が顕著であり、殆ど活躍馬が出ていなかったが、ラストクロップ世代のラピッドオレンジが2008年の[[TCK女王盃]]を制し、初の牝馬重賞勝ち馬となった。
{| class="wikitable"
!年度!!企画者!!企画!!順位||出典
|-
||1999年||[[Sports Graphic Number]]||ホースメンが選ぶ20世紀最強馬||第4位||<ref name="numberplus15">『Sports Graphic Number PLUS - 20世紀スポーツ最強伝説(4)』p.15 </ref>
|-
|rowspan="2"|2000年||日本中央競馬会||20世紀の名馬大投票||第10位||<ref name="yu0010" />
|-
||優駿(日本中央競馬会)||プロの目で厳選した20世紀のベストホース100||選出||<ref>『優駿』2000年11月号、p.29</ref>
|-
|rowspan="3"|2001年||rowspan="3"|[[日本馬主協会連合会]]||アンケート「一番の名馬と思う競走馬は?」||第10位||rowspan="3"|<ref>『日本馬主協会連合会40年史』pp.198-199</ref>
|-
||アンケート「一番好きな競走馬は?」||第21位
|-
||アンケート「一番印象に残る競走馬は?」||第24位
|-
||2004年||rowspan="2"|優駿(日本中央競馬会)||年代別代表馬BEST10(1990年代)||第2位||<ref>『優駿』2004年3月号、p.26</ref>
|-
|rowspan="2"|2010年||未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち||第7位||<ref name="yu1008" />
|-
||[[AERA]]([[朝日新聞社]])||競馬のプロが選ぶニッポンの名馬ベスト10||第5位||<ref>『ニッポンの名馬 - プロが選ぶ伝説のサラブレッドたち』p.5 </ref>
|-
|rowspan="2"|2012年||rowspan="4"|優駿(日本中央競馬会)||距離別「最強馬」はこの馬だ!(2400メートル部門)||第2位||<ref name="kyori24" />
|-
||距離別「最強馬」はこの馬だ!(ダート部門)||第7位||<ref>『優駿』2012年9月号、p.41</ref>
|-
||2015年||rowspan="2"|未来に語り継ぎたい名馬BEST100||第10位||<ref>『優駿』2015年3月号、pp.36-37</ref>
|-
||2024年||第24位||<ref>『優駿』2024年9月号、p.36</ref>
|}


=== 表彰 ===
なお、本馬はレコードとは無縁だったが、産駒はソングオブウインドの菊花賞(京都芝3000m)、ヴァーミリアンのジャパンカップダート(東京ダート2100m)・JBCクラシック(2008年、園田ダート1870m)、アイルラヴァゲインのクリスマスローズステークス(中山芝1200m・2歳)、コンドルクエストのきんもくせい特別(福島芝1700m・2歳)、ブラックコンドルの中京2歳ステークス(中京ダート1700m・2歳)、トウカイポリシーの障害オープン(中山芝3210m)と多くのレコードタイムを記録している。特に2005年の葉牡丹賞を勝ったナイトレセプションは、1分59秒9と日本で初めて2歳馬が2000mで2分を切るものであった。
{| class="wikitable"
!年度!!表彰!!票数!!出典
|-
||1998年||JRA賞最優秀4歳牡馬||119/208||<ref name="yu9902" />
|-
|rowspan="2"|1999年||JRA賞年度代表馬||-||rowspan="2"|<ref name="yu0002" />
|-
||JRA賞最優秀5歳以上牡馬||73/212<br />(決選投票:7/11)
|}


=== レーティング ===
2008年のメイショウサムソンの凱旋門賞出走にともない、産駒のファンドリコンドルが帯同馬を務めた。同馬はロンシャン競馬場で行われたダニエルウィルデンシュタイン賞(フランスG2・芝1600m)への出走も果たしている(結果は6着)。ファンドリコンドルはその後高知に移籍し9連勝を果たしている。
{| class="wikitable"
!年度!!馬齢!!馬場!!距離区分([[メートル|m]])!!値!!対象!!出典
|-
|rowspan="2"|1998年||rowspan="2"|4歳||芝||M(1400-1800)||117||rowspan="3"|インターナショナル・クラシフィケーション||rowspan="2"|<ref name="rating98" />
|-
||芝||L(2200-2700)||126
|-
||1999年|||5歳||芝||L(2200-2799)||134||<ref name="rating99" />
|}
※馬齢と距離区分はいずれも当時のもの。


=== おもな産駒 ===
== 種牡馬成績 ==
=== GI級競走優勝馬 ===
[[ファイル:Vermilion 20071229P1.jpg|thumb|180px|ヴァーミリアン(2002年産)]]
*2002年産
[[ファイル:2006-10-22-songofwind.JPG|thumb|180px|ソングオブウインド(2003年産)]]
**[[ヴァーミリアン]](2004年[[ラジオたんぱ杯2歳ステークス]]、2005年[[浦和記念]]、2006年[[ダイオライト記念]],[[名古屋グランプリ]]、2007年'''[[川崎記念]]''','''[[JBCクラシック]]''','''[[チャンピオンズカップ (中央競馬)|ジャパンカップダート]]''','''[[東京大賞典]]'''、2008年'''フェブラリーステークス''','''JBCクラシック'''、2009年'''帝王賞''','''JBCクラシック'''、2010年'''川崎記念''')<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000742999/ |title=ヴァーミリアン |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-04 }}</ref>
[[ファイル:Alondite horse.jpg|thumb|180px|アロンダイト(2003年産)]]
*2003年産
**[[ソングオブウインド]](2006年'''[[菊花賞]]''')<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000760831/ |title=ソングオブウインド |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-04 }}</ref>
**[[アロンダイト (競走馬)|アロンダイト]](2006年'''ジャパンカップダート''')<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000762374/ |title=アロンダイト |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-04 }}</ref>

<gallery>
Vermilion 20071229P1.jpg|ヴァーミリアン(2002年産)
2006-10-22-songofwind.JPG|ソングオブウインド(2003年産)
Alondite horse.jpg|アロンダイト(2003年産)
</gallery>

=== 中央競馬重賞・ダートグレード競走勝利馬 ===
*2001年産
*2001年産
**[[ビッググラス]][[根岸ステークス]])
**[[ビッググラス]](2007年[[根岸ステークス]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000726973/ |title=ビッググラス |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-04 }}</ref>
*2002年産
*2002年産
**[[トウカイトリック]](2007年[[ダイヤモンドステークス]]、2010年[[阪神大賞典]]、2012年[[ステイヤーズステークス]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000734588/ |title=トウカイトリック |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-04 }}</ref>
**[[ヴァーミリアン]]([[チャンピオンズカップ (中央競馬)|ジャパンカップダート]]、[[フェブラリーステークス]]、[[JBCクラシック]](2007年、2008年、2009年)、[[東京大賞典]]、[[帝王賞]]、[[川崎記念]](2007年、2010年)、[[浦和記念]]、[[ダイオライト記念]]、[[名古屋グランプリ]]、[[ホープフルステークス (中央競馬)|ラジオたんぱ杯2歳ステークス]])
**[[アイルラヴァゲイン]](2007年[[オーシャンステークス]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000742986/ |title=アイルラヴァゲイン |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-04 }}</ref>
**[[トウカイトリック]]([[ステイヤーズステークス]]、[[阪神大賞典]]、[[ダイヤモンドステークス]])
**[[サクラオリオン]](2008年[[中京記念]],[[函館記念]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000735520/ |title=サクラオリオン |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-04 }}</ref>
**[[アイルラヴァゲイン]]([[オーシャンステークス]])

**[[サクラオリオン]]([[中京記念]]、[[函館記念]])
**バンブージーコ([[新春賞 (園田競馬場)|新春賞]])
*2003年産
*2003年産
**[[ラピッドオレンジ]](2008年[[TCK女王盃]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000757693/ |title=ラピッドオレンジ |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-04 }}</ref>
**[[ソングオブウインド]]([[菊花賞]])
**[[エアジパング]](2008年ステイヤーズステークス)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000756900/ |title=エアジパング |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-04 }}</ref>
**[[アロンダイト (競走馬)|アロンダイト]](ジャパンカップダート)
**[[エアジパング]](ステイヤーズステークス)
**[[ラピッドオレンジ]]([[TCK女王盃]])
**ディスパーロ([[新春盃]])


=== 地方競馬重賞勝利馬 ===
=== ブルードメアサイアーとしての主な産駒 ===
*2001年産
*[[クリソライト]](父[[ゴールドアリュール]]) - [[ジャパンダートダービー]]、[[日本テレビ盃]]、[[ダイオライト記念]]<ref>[http://www.nankankeiba.com/win_uma/53.do ダイオライト記念競走優勝馬] - 南関東4競馬公式サイト 2015年3月12日閲覧</ref>
**[[ルースリンド]](2007年[[スパーキングサマーカップ]]・[[川崎競馬場|川崎]]、2008年[[金盃]]・[[大井競馬場|大井]],[[東京記念]]・大井、2009年東京記念・大井)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000730684/ |title=ルースリンド |publisher=JBISサーチ |accessdate=2019-11-04 }}</ref>
*[[アイムユアーズ]](父[[ファルブラヴ]]) - [[ファンタジーステークス]]、[[フィリーズレビュー]]、[[クイーンステークス]](2012年、2013年)
**ジュークジョイント(2008年[[北上川大賞典]]・[[水沢競馬場|水沢]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000725172/ |title=ジュークジョイント |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-04 }}</ref>
*オメガハートランド(父[[アグネスタキオン]]) - [[フラワーカップ]]
*2002年産
*マサノブルース(父[[マヤノトップガン]]) - [[京都ジャンプステークス]]
**バンブージーコ(2008年[[新春賞 (園田競馬場)|新春賞]]・[[園田競馬場|園田]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000734076/ |title=バンブージーコ |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-04 }}</ref>
*オメガハートロック(父[[ネオユニヴァース]]) - [[フェアリーステークス]]
*2003年産
*アンビシャス(父[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]]) - [[ラジオNIKKEI賞]]
**ファンドリコンドル(2009年[[福山スプリントカップ]]・[[福山競馬場|福山]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000759373/ |title=ファンドリコンドル |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-04 }}</ref>
**ディスパーロ(2010年[[新春盃]]・[[名古屋競馬場|名古屋]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000762369/ |title=ディスパーロ |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-04 }}</ref>

=== ブルードメアサイアーとしての重賞勝利産駒 ===
*2007年産
**マサノブルース:父[[マヤノトップガン]](2012年[[京都ジャンプステークス]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001049127/ |title=マサノブルース |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-09 }}</ref>
*2009年産
**[[アイムユアーズ]]:父[[ファルブラヴ]](2011年[[ファンタジーステークス]] 2012年[[フィリーズレビュー]]、[[クイーンステークス]] 2013年クイーンステークス)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001109443/ |title=アイムユアーズ |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-09 }}</ref>
**[[オメガハートランド]]:父[[アグネスタキオン]](2012年[[フラワーカップ]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001109214/ |title=オメガハートランド |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-09 }}</ref>
*2010年産
**[[クリソライト (競走馬)|クリソライト]]:父[[ゴールドアリュール]](2013年'''[[ジャパンダートダービー]]''' 2014年[[日本テレビ盃]] 2015年・2016年・2017年[[ダイオライト記念]] 2016年[[コリアカップ (競馬)|コリアカップ]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001124299/ |title=クリソライト |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-09 }}</ref>
**[[マキオボーラー]]:父[[メイショウボーラー]](2016年[[小倉サマージャンプ]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001123335/ |title=マキオボーラー |publisher=JBISサーチ |accessdate=2017年10月23日 }}</ref>
*2011年産
**[[オメガハートロック]]:父[[ネオユニヴァース]](2014年[[フェアリーステークス]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001139198/ |title=オメガハートロック |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-09 }}</ref>
**[[マリアライト (競走馬)|マリアライト]]:父ディープインパクト(2015年'''[[エリザベス女王杯]]''' 2016年'''[[宝塚記念]]''')<ref>{{Cite web|和書|url=http://db.netkeiba.com/horse/2011103832/ |title=マリアライト |publisher=[[netkeiba.com]] |accessdate=2015-11-17 }}</ref>
**[[シュンドルボン (競走馬)|シュンドルボン]]:父[[ハーツクライ]](2016年[[中山牝馬ステークス]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001139816/ |title=シュンドルボン |publisher=JBISサーチ |accessdate=2016-03-13 }}</ref>
*2012年産
**[[ミュゼエイリアン]]:父[[スクリーンヒーロー]](2015年[[毎日杯]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001153655/ |title=ミュゼエイリアン |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-09 }}</ref>
**[[アンビシャス (競走馬)|アンビシャス]]:父[[ディープインパクト (競走馬)|ディープインパクト]](2015年[[ラジオNIKKEI賞]] 2016年産経大阪杯)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001152157/ |title=アンビシャス |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-09 }}</ref>
**[[リアファル]]:父[[ゼンノロブロイ]](2015年[[神戸新聞杯]])<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001153334/ |title=リアファル |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-09 }}</ref>
*2013年産
**ヨカグラ:父[[ハービンジャー]](2018年小倉サマージャンプ)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001123335/ |title=ヨカグラ |publisher=JBISサーチ |accessdate=2018-07-30 }}</ref>
*2016年産
**[[クリソベリル (競走馬)|クリソベリル]]:父ゴールドアリュール(2019年[[兵庫チャンピオンシップ]]、'''ジャパンダートダービー'''、日本テレビ盃、[[チャンピオンズカップ_(中央競馬)|'''チャンピオンズカップ''']]、2020年'''[[帝王賞]]'''、'''[[JBCクラシック]]''')<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0001215726/ |title=クリソベリル |publisher=JBISサーチ |accessdate=2020年02月02日 }}</ref>


== 特徴 ==
== 血統 ==
=== 血統背景 ===
本馬の特徴に挙げられるのがその万能性である。ダートと芝の両方に適性を示し、日本とフランスの芝の違いにも対応した。また、マイルからクラシックディスタンスまで幅広い距離をこなし、馬場の状態に左右される事もなかった。レース中は[[脚質#先行|先行]]して早めに抜け出し、そのままゴール板を駆け抜けるということが多かった。本馬はマイル戦においても楽に先行できるスピード、そして早めに抜け出してからも余裕を持って押し切る競馬ができる非常に優れたスタミナを備えており、総合的に高い身体能力を持ち合わせていた。しかし、上がり3ハロンは35秒程度で目を見張るような末脚を芝で繰り出すことはなかった。また、当初はヨーロッパ特有の馬場に足を取られていたというが、徐々にこなせるようになり、サンクルー大賞のころにはヨーロッパ調教馬と変わらぬ走法になっていた(『王者の飛翔』(ポニーキャニオン)より)。
父キングマンボはフランスとイギリスで走り、G1競走を3勝している<ref name="yu98072" />。サドラーズギャルとの交配が行われた年は種牡馬として1年目であり<ref name="ezura"/>、エルコンドルパサー誕生時にはまだ5歳と若かったが、後に日本で[[スターキングマン]]、[[キングカメハメハ]]、[[アルカセット]]といったGI馬が出たことで日本の芝に合う種牡馬との定評ができ<ref name="yu1512"/>、海外においても[[レモンドロップキッド]]、[[キングズベスト]]などを送り出したことで<ref name="yu0712"/>、世界中で活躍馬を輩出する種牡馬となった<ref name="yu1512"/>。


母サドラーズギャルはイギリスで9戦0勝<ref name="yu98072" />、曾祖母リサデルはイギリスとアイルランドで走り、重賞2勝を挙げている<ref name="yu98072" />。5代母ラフショッド(''Rough Shod''。[[ソング (競走馬)|ソング]] ''Thong''の母)からは世界的に[[ファミリーライン|牝系]]が広がっており、特にリサデルの姉・スペシャルの系統からはエルコンドルパサーの血統表にもみえるサドラーズウェルズ、ヌレイエフなど数多くの名馬が輩出されている<ref name="hiraide">平出(2014)pp.192-193</ref>。
なお、本馬の誕生には馬主である渡邊隆の思い入れを欠かすことはできない。当時外国産馬といえば著名なセールで購入する馬が多かった中、渡邊はラフショッドの血を引く肌馬を探し続け、[[アイルランド]]で行われるタタソールズ社の繁殖牝馬セールに出場予定だったサドラーズギャルに注目。その後サドラーズギャルは体調不良のためセールへの上場を取消したが、どうしても同馬の欲しかった渡邊は現地のエージェントを通じて牧場と直接交渉し、ようやく購入に漕ぎ着けた。初年度はエーピーインディと配合、2年目の種付け相手としてサイヤーデビューシーズンでまだ実績のなかったキングマンボを選び、誕生したのがエルコンドルパサーというオーナーブリーダースタイルの馬である。


== 血統表 ==
=== 血統表 ===
{{競走馬血統表
{{競走馬血統表
|name = エルコンドルパサー
|name = エルコンドルパサー
|f = [[キングマンボ|Kingmambo]]<br />1990 [[鹿毛]]
|inf = ([[ミスタープロスペクター系]]<br />/Special(Lisadell) 4×3・4=25% Northern Dancer4×3=18.75% Native Dancer4×5=9.38%)
|f = [[キングマンボ|Kingmambo]]<br />1990 [[鹿毛]]
|m = *サドラーズギャル<br />Saddlers Gal<br />1989 鹿毛
|m = *サドラズギャル<br />Saddlers Gal<br />1989 鹿毛
|ff = [[ミスタプロスペクター|Mr. Prospector]]<br />1970 鹿毛
|ff = [[ミスタープロスペター|Mr.Prospector]]<br />1970 鹿毛
|fm = [[ミスク|Miesque]]<br />1984 鹿毛
|fm = [[ミエスク|Miesque]]<br />1984 鹿毛
|mf = [[サドラーズウェルズ|Sadler's Wells]]<br />1981 鹿毛
|mf = [[サドラーズウェルズ|Sadler's Wells]]<br />1981 鹿毛
|mm = Glenveagh<br />1986 鹿毛
|mm = Glenveagh<br />1986 鹿毛
|fff = [[レイズアネイティヴ|Raise a Native]]
|fff = [[レイズアネイティヴ|Raise a Native]]
|ffm = [[ゴールドディガー|Gold Digger]]
|ffm = [[ゴールドディガー|Gold Digger]]
328行目: 464行目:
|mfm = [[フェアリーブリッジ|Fairy Bridge]]
|mfm = [[フェアリーブリッジ|Fairy Bridge]]
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|mmf = [[シアトルスルー|Seattle Slew]]
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|fmmm = Santa Quilla
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|mmmm = Thong [[ファミリーナバー|F-No.]][[5号族|5-h]]
|mmmm = [[グ (競走馬)|Thong]]
|ref1 = <ref name="jbis_ped">{{Cite web|和書|url= https://www.jbis.or.jp/horse/0000299155/pedigree/ |title= 血統情報:5代血統表|エルコンドルパサー |work=JBIS-Search|publisher=公益社団法人日本軽種馬協会|accessdate=2020-01-01}}</ref>
}}
|mlin = [[キングマンボ系]]([[ミスタープロスペクター系]])
本馬は距離に融通が利く馬であり、マイラーである父Kingmamboのスピードに、[[ブルードメアサイアー|母父]]Sadler's Wellsのスタミナを補った配合となっている。エルコンドルパサーの血統で特徴的なのがSpecialとLisadellの全姉妹による近親牝馬クロスであり、これはオーナーである渡邊の意図による交配である。Kingmamboの配合を考えていた渡邊は常に[[繁殖牝馬]]のセリをチェックしており、その末に父の母方と母の母方にSpecialとLisadellの全姉妹クロスを持つSaddler's Galを発見した。この配合ではさらに全姉妹クロスが重なるのみならず、NureyevとSadler's Wellsの4分の3同血クロス<ref>NureyevとSadler's Wellsはともに父がNorthern Dancerであり、またNureyevの母SpecialはSadler's Wellsの祖母でもある。</ref>が発生し、極めて近親度の高い配合となる。この配合意図に関しては当馬の現役初期に激論が戦わされたが、本馬の活躍により結果的には目標を達成した形となっている。
|ref2 = <ref name="netkeiba_ped">{{Cite web|和書|url= https://db.sp.netkeiba.com/horse/ped/1995108742/ |title=エルコンドルパサーの血統表|work=[[netkeiba.com]]|publisher=株式会社ネットドリーマーズ|accessdate=2020-08-07}}</ref>
|flin = Rough Shod系
|FN = [[5号族|5-h]]
|ref3 = <ref name="yu1512"/>
|inbr = Northern Dancer M3×S4、Native Dancer S4×M5、Special
(Lisadell)M3×S4×M4
|ref4 = <ref name="jbis_ped"/>
|}}


=== 近親 ===
父Kingmambo×母父Sadler's WellsというNorthern Dancer3×4とSpecial4×4が発生する配合自体、近親度が高めの配合であるが(母母母父ForliはSpecialの父でありForli4×5×5でもある)、本馬の活躍はヨーロッパの生産界にも影響を与えており、近年になって同様の配合で[[ディヴァインプロポーションズ|Divine Proportions]]、[[ウィッパー|Whipper]](父の[[ミエスクズサン|Miesque's Son]]=Kingmambo)、[[バージニアウォーターズ|Virginia Waters]]、[[ザウェイユーアー|Thewayyouare]]、[[ヘンリーザナビゲーター|Henrythenavigator]]といった活躍馬が出ている。
*弟 - ナイスベンゲル(種牡馬)<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.jbis.or.jp/horse/0000616236/ |title=ナイスベンゲル |publisher=JBISサーチ |accessdate=2015-11-08 }}</ref>
*曾祖母 - リサデル(コロネーションステークス、アサシステークス)<ref name="hiraide" />
*[[はとこ]] - バチェラーデューク([[アイリッシュ2000ギニー]])<ref name="hiraide" />


== 脚注 ==
[[競走馬の血統#競走馬の血縁関係|半弟]]のナイスベンゲルも中央競馬で1戦1勝という成績<ref name="netkeiba">{{Cite web|date=2004-02-23|url=http://news.netkeiba.com/?pid=news_view&no=5336&type=1|title=エルコンドルパサー半弟が種牡馬入り|publisher=[[netkeiba.com]]|language=日本語|accessdate=2012-06-21}}</ref>ながら、引退後の2004年から種牡馬となり<ref name="netkeiba" />、2009年まで供用された<ref>{{Cite web|url=http://www.studbook.jp/ja/kyokai/tokei_pdf/09-13.pdf|title=2009年供用停止種雄馬一覧|format=PDF|publisher=[[ジャパン・スタッドブック・インターナショナル]]|language=日本語|accessdate=2012-06-21}}</ref>。
=== 注釈 ===
{{Reflist|group=注}}
=== 出典 ===
{{Reflist|colwidth=30em}}


===兄弟===
== 参考文献 ==
*江面弘也『名馬を読む』(三賢社、2017年)ISBN 4908655073
*Gal From Seattle(1996、不出走、父A.P. Indy)
*木村幸治『馬は知っていたか―スペシャルウィーク・エルコンドル…手綱に込められた「奇跡」の秘密』(祥伝社、2000年)ISBN 4396312199
*メモリーズオブユー(1997、3戦1勝、父Gulch)
*鶴木遵『調教師伊藤雄二 - ウソのないニッポン競馬 』(ベストセラーズ、2000年)ISBN 458418545X
*ナイスベンゲル(1999、1戦1勝、父Seeking The Gold、種牡馬)<ref name="netkeiba" />
*[[平松聡|平松さとし]]『凱旋門賞に挑んだ日本の名馬たち―誰も書かなかった名勝負の舞台裏』(KADOKAWA、2014年)ISBN 4046003669
*システィンチャペル(2000、3戦1勝、父サンデーサイレンス)
*的場均『夢無限』(流星社、2001年)ISBN 4947770031

*日本馬主協会連合会(編)『日本馬主協会連合会40年史』(日本馬主協会連合会、2001年)
== 脚注 ==
*平出貴昭『覚えておきたい日本の牝系100』(スタンダードマガジン、2014年)ISBN 4908960003
{{Reflist}}
*『Sports Graphic Number PLUS - 20世紀スポーツ最強伝説(4)競馬 黄金の蹄跡』(文藝春秋、1999年)ISBN 4160081088
*『競馬名馬&名勝負年鑑―ファンのファンによるファンのための年度代表馬 (1999-2000)』(宝島社、2000年)ISBN 4796694927
*『競馬モンスター列伝 ターフに君臨した"絶対王者"たちの系譜』(洋泉社、2005年)ISBN 4896919564 
*『書斎の競馬』第1号(飛鳥新社、1999年)
*『ニッポンの名馬 プロが選ぶ伝説のサラブレッドたち』(朝日新聞出版、2010年)ISBN 4022744278
*『名馬物語 - The best selection (2)』(エンターブレイン、2003年)ISBN 4757714971
*『[[優駿]]』(日本中央競馬会)各号
*『臨時増刊号Gallop'98』(産業経済新聞社、1999年)
*『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』(産業経済新聞社、2000年)
*『週刊100名馬 Vol.89 グラスワンダー』(産業経済新聞社、2000年)


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
365行目: 526行目:


== 外部リンク ==
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* {{競走馬成績|netkeiba=1995108742|yahoo=1995108742|jbis=0000299155|racingpost=488784}}
* {{競走馬成績|netkeiba=1995108742|yahoo=1995108742|jbis=0000299155|racingpost=488784/el-condor-pasa}}
* {{競走馬のふるさと案内所|0000299155|エルコンドルパサー(USA)}}
* {{競走馬のふるさと案内所|0000299155|エルコンドルパサー(USA)}}
* [https://www.jra.go.jp/gallery/dendo/horse30.html エルコンドルパサー:競馬の殿堂 JRA]


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2024年12月2日 (月) 07:08時点における最新版

エルコンドルパサー
1999年11月28日 東京競馬場
欧字表記 El Condor Pasa[1]
品種 サラブレッド[1]
性別 [1]
毛色 黒鹿毛[1]
生誕 1995年3月17日[1]
死没 2002年7月16日(7歳没)[1]
Kingmambo[1]
サドラーズギャル[1]
母の父 Sadler's Wells[1]
生国 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国[1]
生産者 Takashi Watanabe[1]
馬主 渡邊隆[1]
調教師 二ノ宮敬宇美浦[1]
厩務員 根来邦雄→佐々木幸二[1]
競走成績
タイトル JRA賞年度代表馬(1999年)
最優秀4歳牡馬(1998年)
最優秀5歳以上牡馬(1999年)
顕彰馬(2014年選出)
生涯成績 11戦8勝
中央競馬)7戦6勝
フランス)4戦2勝
獲得賞金 4億5300万800
(中央競馬)3億7607万8000円[2]
(フランス)380万フラン[2][注 1]
IC M117 - L126 / 1998年[4]
L134 / 1999年[5]
勝ち鞍
GI NHKマイルC 1998年
GI ジャパンC 1998年
GI サンクルー大賞 1999年
GII NZT4歳S 1998年
GII フォワ賞 1999年
重賞 共同通信杯4歳S 1998年
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エルコンドルパサー(欧字名:El Condor Pasa1995年3月17日 - 2002年7月16日)は、アメリカ合衆国で生産された日本の競走馬種牡馬

日本人実業家・渡邊隆による生産所有馬である。1997年に中央競馬(JRA)でデビューし、翌1998年にNHKマイルカップジャパンカップを制し、JRA賞最優秀4歳牡馬に選出される。1999年にはフランスへの長期遠征を行い、サンクルー大賞などに優勝したほか、ヨーロッパ最高峰の競走とされる凱旋門賞で2着の成績を残して引退した。同年は日本で未出走ながらJRA年度代表馬最優秀5歳以上牡馬に選出された。通算11戦8勝(うちフランスで4戦2勝)。インターナショナル・クラシフィケーションによるレート「134」は日本調教馬史上2位である。2023年ジャパンカップのイクイノックスに交わされるまで24年の間1位を保持していた。タイムフォームによるレート「136」は、日本調教馬の史上最高数値である[6]。(どちらも2024年時点)

2000年より種牡馬となったが、産駒デビュー前の2002年に腸捻転により死亡した。遺された3世代からはヴァーミリアンソングオブウインドアロンダイトと3頭のGI優勝馬を輩出した。2014年、JRA顕彰馬に選出された。

生涯

[編集]

以下、競走馬時代の馬齢については、日本で2000年まで使用された数え年で、種牡馬時代の馬齢表記は2001年以降に使用されている満年齢で記述。

出生までの経緯

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生産者・馬主の渡邊隆は本業の東江運輸を興した父・喜八郎から親子2代の馬主であり、元より血統に造詣が深かった[7]。渡邊はサドラーズウェルズやその全弟のフェアリーキングヌレイエフといった世界的な大種牡馬を輩出していたソングの牝系に憧れを抱き、日頃から外国の血統書やせり名簿に目を通していたが[7]、1992年のある日イギリスのタタソールズセリのせり名簿に載っていた、ソングの曾孫にしてサドラーズウェルズの産駒で、母の父にシアトルスルー、「ソングの3×4」というクロスを有する牝馬・サドラーズギャルに目を付けた[7][8][9]。サドラーズギャルは体調不良のためタタソールズセリを欠場してアイルランドの牧場に戻されてしまったが[9]、諦められなかった渡邊はエージェントを介して牧場サイドと交渉を行い、改めて買い取ることに成功した[7]。そしてサドラーズギャルをアメリカケンタッキー州のレーンズエンドファームへ預託した[8]

同場はフランスとイギリスでG1競走3勝を挙げたミスタープロスペクター産駒・キングマンボの生産者であり、同馬がこれもソングの血を引くヌレイエフの孫でG1競走10勝の名牝・ミエスクの仔であることに惹かれた渡邊は[7]、手持ちの別の種牡馬株とキングマンボの株を交換し、サドラーズギャルにキングマンボを交配させた[8]。両馬が配合されるとソング、ノーザンダンサーネイティヴダンサーフォルリスペシャルといった多くのクロスが発生し[7][10]、後に渡邊は「アマチュアでありながらまんざら素人でもないからこそできた」と語ったが[11]、渡邊にキングマンボの株を斡旋した人物は「プロは怖くてこんな配合はできない」としきりに口にしていたという[8]。渡邊はこのような配合をした理由について「ヨーロッパで種牡馬にしたかったから」とし[7]、「そのためにはヨーロッパの二千メートルのGIに勝ちたい」と意気込んでいた渡邊は、種牡馬選定レースとして評価が高いイギリスのエクリプスステークスを第一目標に挙げていた[7]。エルコンドルパサーの配合を編み出した渡邊はアメリカの競馬誌『デイリーレーシングフォーム』において「フェデリコ・テシオマルセル・ブサックに続く(Move over Federico Tesio and Marcel Bussac)」と絶賛され、またエルコンドルパサーは「比類なき配合によって、エルコンドルパサーは非常に重要な種牡馬となるだろう(With his incomparable pedigree,El condor pasa should be very important stallion)」と高い評価を受けた[10][注 2]

生い立ち

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二ノ宮敬宇(2011年) 的場均(1993年)
二ノ宮敬宇(2011年)
的場均(1993年)

1995年3月17日、サドラーズギャルはレーンズエンドファーム・オークツリー分場で牡馬、後のエルコンドルパサーを出産した[7]。生後4カ月のころ、競り市参加のためケンタッキーを訪れていた調教師二ノ宮敬宇(にのみや・よしたか。のち管理調教師)の検分を受けた。二ノ宮の印象は「ごろっとした四角い馬」というのみで、渡邊への報告も「普通の馬」というものだった[12]。翌1996年1月に日本へ輸送され、北海道門別町のファンタストクラブ内にある木村牧場で育成調教を開始した[12]。以後は至極順調に過ごし、競走年齢の3歳に達した1997年8月末、茨城県美浦トレーニングセンターの二ノ宮のもとへ入厩した[12]。トレセンでも怪我や病気は一切なく、装蹄を嫌がるという以外には気性も落ち着いていた[12]。ただし、この段階に至っても厩舎スタッフによる評価は「少しは走るか」という程度だった[13]。一方、デビュー当週の併走による調教で本馬に騎乗した的場均はその走りにいたく感心し、二ノ宮に希望してデビュー戦の騎手を務めることになった[14]

馬名の由来

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競走馬名「エルコンドルパサー」はペルー民謡「コンドルは飛んでいく」に由来する[15]。渡邊が慶應義塾体育会ソッカー部在籍時に中学2年次までペルーに住んでいた先輩がおり、その先輩を尊敬していたことから[7]、父名の一部「マンボ」から「南米の音楽」と解釈を広げ命名された[16]。渡邊の所有馬では2頭目の「エルコンドルパサー」であり、初代[17]はデビュー前の骨折で予後不良となっていた[16]

戦績

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3-4歳時(1997-1998年)

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デビュー - ダートでの快走
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デビュー戦は11月8日の東京開催で迎えた。まだ身体が出来上がっておらず、芝コースでスピード勝負をさせるのは時期尚早であるという二ノ宮の判断から、ダートの1600メートル戦が選ばれた[12]。単勝オッズ2.5倍でステルスショットと並んでの1番人気に推されたが[18]、ゲートからの発走練習を充分に積んでいなかったこともあり、スタートで出遅れて最後方からのレース運びとなった[12]。そのまま直線入口まで最後方を追走していたが、的場がスパートを掛けると先行勢を一気にかわして先頭に立つ[18]。さらに先頭に立ってからは突き放す一方となり[18]、後に京成杯を勝つマンダリンスターに7馬身差をつけての勝利を挙げた[14]上がり3ハロン[注 3](ゴールまでの600メートル)のタイムでは、マンダリンスターが39秒台、他馬は全て40秒以上掛かったなか、エルコンドルパサーが記録したものは37秒2という突出したものだった[18]。このレースについて的場は「『シャーン』と金属音が聞こえてくるかのような、凄い切れ味だった[14]」と回顧し、二ノ宮は「この馬はもしかたら凄く強いかもしれないと思ったのはこのときがはじめて」だったと回顧している[12]。渡邊は4コーナーを回った時点でも最後方を走っていたことで帰ろうとしていたところを、直線でのスパートを見て非常に驚き、「こんなに走ると思わなかった」と当時思っていたと回顧している[16]。他方、的場はエルコンドルパサーが他馬の姿を極端に気にする様子があったため、「小心な馬」とも感じていたという[14]

翌1998年1月に2戦目(中山開催、ダート1800メートル)に臨む。ここでもスタートで出遅れたが、第3コーナーからスパートを掛けて直線では独走状態となり、2着に前走を上回る9馬身差をつけて連勝した[19]

グラスワンダー(画像)は朝日杯をレコードタイムで圧勝し、レーティングではJRA所属の3歳馬として史上最高の評価を得ていた[20]

このあと二ノ宮は的場に対して、この競走を最後としての騎手交代を告げた。エルコンドルパサーと同期馬にしてこちらも的場が主戦騎手を務める朝日杯3歳ステークス優勝馬・グラスワンダーがおり、近く両馬の対戦があることは明らかだったためである[14]。しかし的場はエルコンドルパサーの精神的成長が不充分であり、他の騎手に手綱を委ねることにはまだ不安が残るとしてもう1戦の猶予を願い出、これを了承された[14]

3戦目・共同通信杯4歳ステークスで重賞に初出走した。ここは芝コースへの適性が試される場となるはずだったが、降雪によりダート施行へと変更された[18]。当日は単勝1.2倍と圧倒的な支持を集め、レースでは5番手追走から直線で逃げ馬をかわし、2馬身差で勝利した[18]。的場はインタビューにおいて「1戦ごとに精神、肉体の両面で成長しているし、まだまだ良くなると思う。グラスワンダーとも甲乙つけがたいほど素晴らしい馬。同じレースを使ってほしくないし、身体が2つほしい」と語った[19]。的場は後にこの競走を回顧し「経験と、そこからさまざまなことを学習できる頭の良さが、唯一の弱点である臆病さを1戦ごとに埋めていくかのようだった。今では、どんなタフなレースにも耐えられそうに思えた」と述べている[21]。なお、これは二ノ宮厩舎開業10年目にしての重賞初勝利であったが、コース変更のため「GIII」の格付けは取り消された。これは1995年の東京新聞杯(優勝馬ゴールデンアイ)以来2度目の事例となった[19]

芝路線へ - NHKマイルカップ制覇
[編集]

競走後、二ノ宮は騎手確保の必要性から的場に改めて決断を促した。的場は悩み抜いた末にグラスワンダーへの騎乗を選択し、その意向を伝えたが[21]、3月15日、グラスワンダーは右後脚を骨折し、春の出走が絶望的な状態となった[22]。これを受け、管理調教師の尾形充弘はエルコンドルパサー陣営に対して的場の騎乗継続を進言したが、既に後任が決まり、それが覆ることもないとみていた的場は半ば諦めていたという[21]。しかし結果として的場はエルコンドルパサーの鞍上に据え置かれ、春の目標としたNHKマイルカップの前哨戦・ニュージーランドトロフィー4歳ステークスへ臨むことになった[21]

ニュージーランドトロフィーでは初の芝のレースへの出走し、また距離短縮への不安が懸念され[23]、出走メンバーも前年の朝日杯でグラスワンダーの2着としていたマイネルラヴフラワーカップ優勝馬スギノキューティーらが相手となったが[24]、エルコンドルパサーはオッズ2.0倍の1番人気に支持された[18]。初の芝コースに返し馬[注 4]ではやや戸惑う様を見せ、スタートでも立ち後れた[24]。的場は1400メートルの速い流れについていけるか否かを懸念していたが[24]、すぐに好位にとりつくと、最終コーナーで外に持ちだしてから直線で抜け出し、スギノキューティーに2馬身差をつけて勝利した[19]。的場は「2000メートルぐらい距離があった方が、もっと強い競馬ができると思う。本番で1ハロン伸びるのは、間違いなくプラス」とNHKマイルカップへの展望を語り[19]、二ノ宮は「この距離と出走頭数[注 5]では馬群を捌くのが大変だろうと思っていたので少々心配だったが、的場君が意識的に早めにいって、馬ごみを上手く捌いてくれた。今回の勝利はジョッキーの腕によるところが大きい[24]」と的場の騎乗を称えた。

5月17日に迎えたNHKマイルカップでは、エルコンドルパサーの他にトキオパーフェクト、ロードアックス、シンコウエドワードという3頭の無敗馬が揃った[25]。当日はエルコンドルパサーがこれらを抑えてオッズ1.8倍の1番人気に支持され、トキオパーフェクトが3.6倍で続いた[25]。レースではそれまでにない好スタートを切ると[18]、道中では3、4番手を追走した。最終コーナーでは大外へ膨れながらも直線で先頭に立ち[18]、シンコウエドワードに1馬身3/4差をつけての優勝を果たした[25]。この勝利は二ノ宮にとっても初めてのGI制覇となった[25]

的場は「4コーナーで3頭分ぐらい外にふられてしまい、あわてて修正した分、最後は止まってしまうのではないかと不安になったが、よくきついレースを凌ぎきってくれた。本当に素晴らしい能力を持っている[26]」、「デビュー当時は心配な面もあったが、こちらの思うとおりに成長してくれた。本当に能力の高い、素晴らしい馬です[18]」などと感想を述べた。また渡邊は「今回本当に嬉しかったのは、自分の責任の中で繁殖牝馬を捜して配合から取り組んだ結果、エルコンドルパサーという強い馬が育ってくれたこと」と語った[26]。渡邊は後に、NHKマイルカップを勝利したことで海外遠征も考えるようになったと回顧している[16]

毎日王冠 - 騎手交代
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NHKマイルカップ後、二ノ宮はエルコンドルパサーの休養及び秋の目標をマイルチャンピオンシップに据えることを明言したが[26]、後に方針が変わり、目標は国際招待競走のジャパンカップに改められた。当時、エルコンドルパサーはNHKマイルカップ優勝の実績、そして血統からみても「マイル」、つまり1600メートル前後に向くのではないかとみられていた[27]。ジャパンカップはそれよりも800メートル長い2400メートルで行われる競走であったが、渡邊は血統の観点から母の父サドラーズウェルズにキングマンボという配合はマイルよりも2000メートルから2400メートルの方が向いていると考えていた[18]

この変更は年度代表馬争いを見据えたものであった。渡邊は、同世代の東京優駿(日本ダービー)優勝馬・スペシャルウィーク、そして春夏に安田記念とフランスのG1競走ジャック・ル・マロワ賞を制していたタイキシャトルに対抗するためには、ジャパンカップに勝つしかないと考えたのである[27]。また、渡邊の父・喜八郎がかつて所有したホスピタリテイが、1982年のジャパンカップを前に故障のため出走できなかったという経緯も踏まえていた[28]。又、政治家中川昭一とは、互いの娘が同級生という縁から私的に親交があった。中川が小渕内閣農水相を務めていた当時の1998年8月、オフサイドトラップが「農林水産大臣賞典」の新潟記念を勝った際にその旨を中川に伝えたところ、「僕はジャパンカップの表彰式に行くことになってる」と聞かされ、これが同競走へエルコンドルパサーが出走する選択理由のひとつになったという[10]。ジャパンカップも農林水産大臣賞典であり、優勝した場合は渡邊は中川から優勝トロフィーを授与されることになる。さらに的場によれば、渡邊はマイルチャンピオンシップが行われる京都コースが馬に良くないと嫌がっていたともいう[21]。ただし、この後毎日王冠での敗戦後に渡邊は「自分のエゴで愛馬に負担をかけることにならないか」と不安になることがあったため、二ノ宮に「実績のあるマイル戦(マイルチャンピオンシップ)に行くべきかとも考えたけど、二ノ宮さんはどう思いますか?」と相談したところ、二ノ宮は悩むことなく「どちらへ行っても勝てます。どうしますか?」と答えたため、迷いが無くなったという[9]

ジャパンカップを目指すに当たり、前哨戦として選ばれたのは1800メートル戦の毎日王冠であった。毎日王冠には骨折からの復帰戦としてグラスワンダーも出走が決まっていたため、的場は棚上げされていた選択に再び迫られた。調教師の尾形は「グラスワンダーの調子は今ひとつだ。後のことも考えて、自分で決めてくれ」と、的場に選択を委ねていた[29]。的場は「馬の状態ならば、今回に限ればエルコンドルパサーが上」とみていたものの、グラスワンダーが休養前にみせた能力や先々までを考慮すると結論が出せず、3週間ほど悩んだという[30]。そして、最終的に的場はグラスワンダーを選択した[30]

蛯名正義(2022年)

的場の後任としては、第一候補として翌年の遠征を見据えてフランス人騎手のオリビエ・ペリエが挙がったが、日本中央競馬会(JRA)から「短期免許で1日だけの騎乗を許可することはできない」と通告され断念した[31]。次いで国際経験も豊富な武豊に打診したが、春のグランプリ・宝塚記念を含め5連勝中のサイレンススズカと共に毎日王冠に臨むとの理由で断られ、最終的には当時関東の騎手ランキングでトップを走っていた蛯名正義に決まった[31]。蛯名は7月11日に行われた七夕賞、8月30日に行われた新潟記念とこちらも渡邊の所有馬であるオフサイドトラップで重賞を連勝しており、また喜八郎が最初の所有馬を預けた蛯名武五郎の遠縁にも当たり、「なんとなく縁を感じた」という[31]。騎乗依頼を受けた蛯名は「凄い馬を頼まれちゃったな、これまで負けてないだけに大変だ」と重圧を覚えたと振り返っている[27]

10月11日の毎日王冠には、GII競走ながら13万人を越える観衆が東京競馬場に詰めかけた[29]。当日はサイレンススズカが単勝オッズ1.4倍という断然の1番人気に支持され、2番人気には休養前の怪物的なイメージや的場の選択も影響して休み明けのグラスワンダーが推され、エルコンドルパサーは3番人気となった[29]。スタートが切られると、逃げ馬のサイレンススズカが前半600メートルを34秒6[29]、1000メートルを57秒7[18]というハイペースで飛ばし、エルコンドルパサーは2番手集団のなかでこれを追走した[29]。第3コーナーから最終コーナーにかけてはグラスワンダーがスパートを掛けて直線入口でサイレンススズカに並びかけたが、そこから伸びを欠く[29]。一方のエルコンドルパサーは逃げ脚の衰えないサイレンススズカを追走したが、2馬身半及ばず2着となった[29]。3着サンライズフラッグとは5馬身差がついており、グラスワンダーは5着であった[29]

蛯名は「相手が強かった。完敗だった[27]」としたが、「負けはしたが、タイムは速いし、こっちは4歳馬だからね[18]」とも語った。二ノ宮は「勝った馬はうちの馬とは違う脚質の馬で、レースも相手の馬の流れになってしまってのもの。負けはしたけれどもいいレースをしてくれたと思った。決して落胆するようなことはなかった」と述べている[27]。また二ノ宮は後年この競走について、「あの毎日王冠で、サイレンススズカを追いかけていたらどうだったかな、と思うことはある。でも、それで失速していたらジャパンカップ挑戦は諦めていただろう。エルコンドルパサーの将来を決定づけたレースだった」と回顧している[29]。一方、苦渋の選択を経た的場は、エルコンドルパサーが無事に秋初戦を終えたことを喜んだとしつつ、「未練もあった。正直な話、エルコンドルパサーへの未練はそのあともずっとあった。それでも、選んだのは僕だ。割り切ってはいる。ただそれと未練とは、また別の次元の話なのだ」と後年著書に記している[30]。一方、勝利したサイレンススズカ鞍上の武豊は、勝利騎手インタビュー後の地下道で「2着の馬(エルコンドルパサー)も強いよ。休み明けで57kgを背負っていたんだから。サイレンスは4歳の時はあんなに走れなかった」と感想を述べている[32]

なお、勝ったサイレンススズカはエルコンドルパサーとグラスワンダーに出走権のない天皇賞(秋)を経て、ジャパンカップへ向かう予定となっていたが[29]、天皇賞で骨折し、安楽死処分となった。優勝したのは渡邊の所有馬オフサイドトラップであった[33]

ジャパンカップ制覇 - 最優秀4歳牡馬となる
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11月29日、秋の目標としたジャパンカップに出走した。当年は目玉といわれた外国招待馬がほとんど辞退、あるいは受諾後に回避し、外国勢で注目されるのは前年のブリーダーズカップ・ターフ優勝馬・チーフベアハートのみだったことで、戦前から『近年稀に見る大物不在』[34]と言われる日本馬優勢の前評判であった[27]。1番人気には本競走と同じ東京競馬場・2400メートルで行われる日本ダービーの優勝馬・スペシャルウィークが推され、2番人気には、かねてより陣営がここを目標と公言していた前年度2着の牝馬エアグルーヴが入り、エルコンドルパサーが続く3番人気と、日本馬が人気上位を占めた[27]。エルコンドルパサーは当時父のキングマンボがマイラーと見られていたことと毎日王冠から距離が600メートル延びるという不安が懸念され[1]、蛯名も戦前「能力は信用しているが、距離は走ってみなければわからない」と口にしていた[27]

レースではサイレントハンターが単騎での逃げを打ち、エルコンドルパサーはスペシャルウィーク、エアグルーヴと共に3番手集団の中で並んで進んだ[27]。最終コーナーではエアグルーヴ、スペシャルウィークがスパートを遅らせたのに対しエルコンドルパサーはいち早く先頭に並びかけ、最後の直線で抜け出す[27]。その後も最後まで失速することなくエアグルーヴとの差を広げ、同馬に2馬身半差をつけての優勝を果たした[27]

蛯名は「4コーナーを回って、直線を向いたところで勝てると思った。それまでは慎重に距離をもたそうと思って乗っていた。ペースもレースのレベルにしてはすごく遅かった。だから良い位置にいられたのも良かったんだろう。後ろから行ったのでは駄目だったんじゃないか」と振り返り[27]、「はじめて乗った時から、スーパーホースになってくれるんじゃないかと期待を抱かせてくれた馬なんです。その期待に今日は応えてくれた。ホント、強さは半端じゃないですよ」とコメントした[18]。二ノ宮は「走る馬は極端なステイヤースプリンターでない限り、ある程度の距離なら走ってくれると思っているので、期待に応えてくれると思っていた。春より精神的に強くなり、気持ちも身体も最高の状態だった」などと述べた[28]。また渡邊は「未経験の距離についていろいろ言われていたが、私はこなせると思っていた。それに父も『プレストウコウ菊花賞を勝ったときもそう言われていたから大丈夫だ』と言っていた」と語り[28]、さらに記者から翌年の国外遠征について水を向けられると、具体的な内容は決まっていないとしつつ「ぜひ行ってみたい」と明言した[27]。ジャパンカップでのレースぶりについて柴田政人は、「正攻法のレースをして力で勝った、という点を評価したいね。相当強い勝ち方ですよ」と称賛し[35]野平祐二は1コーナーまでに馬を控えさせた蛯名の騎乗を称賛すると同時に、柴田が用いた正攻法という表現について、「2400mのレースでまともに競馬をやってちゃんと勝たせたのだから、すごいわけよ」と称している[35]

秋は2戦のみという予定に沿って年末のグランプリ競走・有馬記念へは出走せず[27]、当年はこれで終えた。渡邊は「欧州の競馬などを見ていても、本当のオープン馬というものは数を使わないものだと思う。あえて言えば、ここで有馬記念を使わないことも馬主としての見識」と語った[27]。また、「日本で一番馬券の売れるレースは有馬記念だが、世界的な視野で見たら日本の最高レースはジャパンカップであり、そちらを勝ったのだからあえて無理をすることもない」という考えもあったとしている[10]。なお、有馬記念は復帰から2戦を経て復活したグラスワンダーが的場を背に優勝した[36]

当年の年度表彰・JRA賞において、エルコンドルパサーは皐月賞菊花賞に優勝したセイウンスカイを抑え、最優秀4歳牡馬に選出された[37][注 6]。一方、狙っていた年度代表馬には年間5戦4勝、うち日・仏でGI競走3勝という成績を挙げたタイキシャトルが208票中174票獲得という大差で選出され、エルコンドルパサーは11票獲得にとどまった[37]

仮定の負担重量数値で各馬の序列化を図るJPNクラシフィケーションでは、ジャパンカップでの走りが国際的に高く評価され、Lコラム(2200-2700メートル)で126ポンドの評価を獲得した。日本国内ではMコラム(1400-1800メートル)122ポンドのタイキシャトルとサイレンススズカを上回った。この数値はLコラムに限ればイギリスダービー優勝馬ハイライズ(127ポンド)に次ぎ、フランスの凱旋門賞優勝馬サガミックスと並ぶ世界第2位の評価であった[4]

5歳時(1999年)

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ヨーロッパ遠征へ
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1999年は日本国外への遠征を念頭に、渡邊、二ノ宮に加え、欧米の競馬に通じた桜井盛夫、合田直弘、奥野庸介の3人をブレーンとして遠征先についての討議が行われた。イギリスのキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、アメリカのブリーダーズカップ、UAEのドバイワールドカップといった競走が候補に挙げられるなか、最終的にはフランスの凱旋門賞を目指すことに決定[12]。1月25日に行われたJRA賞授賞式の場で、渡邊からエルコンドルパサーのヨーロッパ遠征が発表された[38]。渡邊は従来の日本馬の遠征のように狙いを定めたレースにスポット参戦するやり方では好結果が得られないのではないかと考え[18]、この場で「凱旋門賞はポンといって勝てるようなレースではありません。勝とうと思ったら欧州仕様の馬にする必要があるので、ある程度、腰を据えて挑戦しないといけないと考えています」と発言し、今回の遠征が長期遠征であることを発表した[9]。ただし、当時はまだ具体的なローテーションは決まっておらず、渡邊は雑誌のインタビューに「春2戦、秋2戦。春はイスパーン賞かブリガディアジェラードステークスを経て、エクリプスステークスへ」という展望を語っていた[10]

エルコンドルパサーは冬場を休養に充てられ[18]、2月10日に休養を終えて美浦に戻り、4月14日に二ノ宮厩舎の僚馬・ハッピーウッドマンを帯同馬として伴いフランスへ出発した[38]。翌15日に到着し、現地の受け入れ先となるシャンティイ調教場トニー・クラウト厩舎に入った[38]。本厩舎は前年のジャック・ル・マロワ賞を制したタイキシャトルも預託されていたが、平松さとしによるとトニーは「実はタイキシャトルよりも先にエルコンドルパサーの話が合ったんです」と言っていたといい、トニーは1991年に来日した際に共通の知人を通して渡邊を紹介してもらっていた。1998の2月に再来日した折、渡邊と再会したトニーは渡邊から「エルコンドルパサーが強くなって遠征する際にはよろしくお願いします」と言われていたという[9]

21日に二ノ宮から初戦をイスパーン賞(G1)とすることが正式に発表された[38]。なお、フランス滞在に当たっては、タイキシャトルのフランス遠征にも随行した多田信尊が現地スタッフとの調整を担当するマネージャーとして起用され[39]、二ノ宮不在の際には現場監督としての役割も担うことになった[31]

調教開始後、エルコンドルパサーは日本より遥かに丈の長い芝に苦労し、1ハロンごとを15秒というごく軽い調教でも疲れた様子を見せ[12]、より盤が緩む降雨の日などは「めちゃくちゃなフォーム」で走っていた[12]。しかしやがてそうした馬場に合わせた走法に変化していき、それに伴い筋肉の付き方も変わり、胴長で細身の馬体となっていった[12]。それでも、調教助手の佐々木幸二はこの頃の状態について「もともと調教では動く馬なのに、とにかく動かなかった」と述べている[39]

イスパーン賞、サンクルー大賞
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5月23日、イスパーン賞を迎える。当日は地元馬を抑えオッズ2.75倍の1番人気となった。レースでは中団追走から最終コーナーで3番手に位置を上げ、最後の直線で先頭に立つ。しかし2番人気のクロコルージュにゴール前で外から差され、4分の3馬身差の2着と敗れた[40]。競走後、蛯名は「手応えは充分にあったし、追い出しも待って待って、残り200メートルまで仕掛けを我慢したんだけど。でも、初めての馬場も上手に走っていたし、次は楽しみになった」とし、二ノ宮は「落ち着いていたし、力は出せたと思う。頭数も少なく、理想的な流れだったが、久しぶりもあった。内容はあったと思う」と述べた[41]。渡仏した時点では、厩舎スタッフは「果たしていつまでフランスにいられるのか」、「初戦で惨敗したら帰るんだろう」などと話しあっていたが[12]、佐々木は「すぐ帰ることになったらもったいない」と現地で買い控えていた日用品の類を、この競走後に一気に買い込んだという[39]

6月2日、エルコンドルパサーが年内で引退し、種牡馬として18億円のシンジケートが組まれたうえで社台スタリオンステーションで繋養されることが明らかとなった[38]

イスパーン賞を終えてから、エルコンドルパサーの状態は急速に上向いていった[39]。次走はイギリスのロイヤルアスコット開催で行われるプリンスオブウェールズステークス(G2)や、かねて計画にあったエクリプスステークスへ向かうという選択肢もあったが、二ノ宮と多田で両競走が行われる各競馬場の状態を下見したのち候補から外され、フランスに留まることになった[31]

エルコンドルパサーがフランス初勝利を挙げたサンクルー競馬場。

7月4日、G1・サンクルー大賞へ出走。芝丈が長く起伏に富んだサンクルー競馬場のコース、距離不安が囁かれたジャパンカップと同じ2400メートルの距離、さらに日本ではまず背負うことのない61キログラムの斤量といった諸条件を前に、蛯名はエルコンドルパサーの好調を感じてなお、スタミナ面への不安を抱いていた[31]。陣営もスタミナ面に不安を抱いていたが、クラウトから「この馬は12ハロンでも問題ない」と説かれ、出走を決意した[1]。また相手は大幅に強化され、前年のフランスダービーアイリッシュダービーを制し全欧年度代表馬に選ばれたドリームウェル、前年の凱旋門賞優勝馬サガミックス、ドイツの年度代表馬タイガーヒルドイチェスダービー優勝馬でアメリカのブリーダーズカップ・ターフでも2着の実績があるボルジアといった全欧の一線級が揃い[42]、「近年最高のメンバーが揃った」という評もあった[1]

当日、エルコンドルパサーはサガミックスに次ぐ2番人気の支持を受ける[42]。レースでは3、4番手追走から、最後の直線半ばでタイガーヒルを楽にかわし、同馬に2馬身半の差を付けて優勝[41]。フランスでの初勝利を挙げた。競走後、蛯名は涙をみせ[31]、「本当に嬉しい。自分が乗ってきた中でも最高レベルで、性格的にも走ることが大好きな、素晴らしい馬。凱旋門賞も楽しみ」と感想を述べ[41]、また「どうしてもっと馬を信用してやれなかったのか」とその心中を吐露した[31]。二ノ宮は「他馬の標的にされているようなレースだったが、自分の競馬ができたと思う。確かに強い相手に勝つことができたが、彼らが万全の状態だったか分からないし、またこれから気を引き締めていきたい」と述べた[41]。サンクルー大賞で上記のメンバーを相手に勝利したことと安定したレースぶりから、エルコンドルパサーはヨーロッパでも注目を集めることなった[18]

サンクルー大賞の結果、エルコンドルパサーには暫定的に128ポンドのレートが与えられた。これはフランスダービー、アイリッシュダービーを圧勝していた4歳馬・モンジューに並び[31]、5歳以上馬では当年のヨーロッパで最高評価となる数値だった[43]。二ノ宮は後年この競走について「結果を出さなければ残っている意味がなくなってしまうレースだった。フランスの4戦で一番緊張した。これで最後まで残れるなと思うとホッとした」と振り返り[31]、渡邊のブレーンの一人であった合田直弘は「遠征の成否を分ける剣が峰だった」と振り返っている[44]

フォワ賞
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サンクルー大賞のあと、エルコンドルパサーは右後脚に異常をきたす。競走中に二つの外傷を負っており、その傷口にが入り炎症を起こすフレグモーネの症状であった[39]。一般的にはすぐに腫れが引くほどのもので、マスコミには「軽症」と発表していたが、このときは治りが遅く屈腱炎に似た症状にまでなっており、完治に1カ月を要した[39]。このため、7月下旬に再開される予定だった本格的な調教は、8月にずれ込んだ[39]

凱旋門賞に向けての前哨戦として、二ノ宮は1996年度の優勝馬・エリシオが使った1600メートル戦、ムーラン・ド・ロンシャン賞を考えていた。しかし渡邊らが「常道とはいえない」と反対し、本番と同じロンシャン競馬場の2400メートルで行われるフォワ賞(G2)が選択された[31]

9月12日の競走当日はサガミックスが馬場の硬さを嫌って出走を取り消し、エルコンドルパサーを含めても3頭立てという少頭数となった[45]。他の2頭はイスパーン賞で敗れたクロコルージュ、サンクルー大賞で対戦したボルジアであった[18]。エルコンドルパサーの単勝オッズは一時1.1倍、最終的に1.3倍の1番人気となる[45]。スタートが切られるとエルコンドルパサーは先頭でレースを進め、ロンシャン特有の「フォルス・ストレート」を経て、最終コーナーいったんボルジアに先頭を譲った。しかし最後の直線でスパートをかけるとこれを再びかわし、同馬との競り合いを短首差制して勝利した[46]。蛯名は「惰性をつけてきたボルジアに、いったんクビくらい前に出られたけど、そこから差し返した。こういう競馬もできたということは、収穫だったと思う」と感想を述べた[41]。この日は1969年の凱旋門賞に出走したスピードシンボリの主戦騎手・野平祐二も応援に駆け付け、渡邊は野平の「日本の馬が遂に人気馬として凱旋門賞に出ることになり、嬉しくて駆け付けた」という言葉を聞いて目頭が熱くなったという[1]。この日は世論の盛り上がりに押されてNHKがレースの模様を生中継していた[1]

同日、同じく凱旋門賞への前哨戦として知られるニエユ賞ではモンジューが、ヴェルメイユ賞ではダルヤバがそれぞれ大本命の評判通りに勝利を挙げた[45]。モンジューは終始進路が塞がっていた中、強引に位置を下げて外へ持ち出してから先行勢を差し切るというレースぶりで、多田は「もしあれでスムーズな競馬ができたら、どのくらい強いのか」と感じたという[39]。また前日のアイリッシュチャンピオンステークスでは、これも凱旋門賞への有力馬とみられていたデイラミが圧勝していた[39]

凱旋門賞
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フォワ賞のあとはやや反動があったものの、最終調教を経て好調な仕上がりを見せた[39]。この頃にはエルコンドルパサーは調整を行っていたラモレー調教場全体から応援される存在となっており、決まった順番を無視して整地直後の絶好の馬場を優先的に使わせてもらったことに、調教助手の佐々木は感激したという[39]

10月3日、凱旋門賞を迎える。当年のパリは悪天候が続き、前日から当日午前10時までに13.5ミリの降雨があった。当日雨は上がったものの、馬場硬度は1972年以降で最も軟らかい5.1を示した。これを嫌ったデイラミ陣営は競馬開始後まで出否を保留していたが、第1競走終了後に出走が決定した[47]。当年は出走14頭中、エルコンドルパサーを含む8頭がG1優勝馬という顔触れで、人気はモンジューが2.5倍、エルコンドルパサーが4.6倍、馬場状態悪化で人気を下げたデイラミが5.0倍、ダルヤバ8.6倍と続いた[47]

モンジュー(ジャパンカップ出走時)

スタートが切られると、エルコンドルパサーは最内枠から飛び出すように先頭に立った[18]。モンジュー陣営が用意していたペースメーカー・ジンギスカンが戦前の予想に反して逃げず、蛯名は「前走も先頭から競馬をしたし、この馬のペースを守って馬と喧嘩しないよう流れに乗ろうと」そのまま先頭でレースを進めた[47]。モンジューは6番手前後、デイラミは中団後方を進んだ[47]。エルコンドルパサーは後続に2馬身ほどの差をつけたまま最後の直線に入り、その差を広げていったが、残り400メートルあたりから外に持ちだしたモンジューが急追し、残り100メートルほどでこれに並ばれる[47]。いったん前に出られたあとエルコンドルパサーはさらにモンジューを差し返しにいったものの、半馬身およばずの2着と敗れた[47]。3着クロコルージュとは6馬身差がついていた[47]

敗れはしたものの、健闘したエルコンドルパサーには日本から駆けつけたファン以外からも大きな喝采が送られた[47]。現地メディアは「チャンピオンが2頭いた」と伝え[41]、モンジューを管理したジョン・ハモンドも後に「おそらく硬い馬場だったら敵わなかったと思う。あれだけモンジューにとって好条件が揃ったのに、2頭の勝ち馬がいたも同然の結果だったのだから」と振り返っている[15]。蛯名は「負けは負けだから、結果は悔しい。それでも、力と力の勝負ができたので、その点での悔いはない」と述べ、二ノ宮は「パドックからレースまでを見ていて、泣けてきそうになった。力は出し切ったと思うが、2着だから負けは負け。でも、無事ならいい」と述べた[41]。渡邊は「ここまでナイス・トライだった。よくやってくれたと思う」と労い、またこれを最後としての引退を改めて発表した[41]

引退式 - 年度代表馬となる
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エルコンドルパサーは10月11日に日本へ帰国した。帰国時には空港に「おめでとう 世界のSTAYER エルコンドルパサー」という垂れ幕が掲げられて出迎えられた[23]。日本中央競馬会や種牡馬としての繋養先となる社台スタリオンステーションからは、現役を続行しジャパンカップへ出走するよう要望が送られたが、渡邊はこれを固辞し[1]、「余力を持って牧場に送り返すのもオーナーの役割」と語った[18]。11月28日、モンジュー、タイガーヒル、ボルジアといった馬も顔を揃えたジャパンカップ当日の昼休みに東京競馬場で引退式が行われた[48]。凱旋門賞で使用したゼッケンを着け、パドック周回を経て本馬場に姿を現すと、蛯名を背に第4コーナーからゴールまで駆け抜け、ファンに最後の走りを見せた[48]。挨拶に立った渡邊は「ファンの皆様はじめ、ジャパンカップか有馬記念に出走して欲しいという声をうかがいましたが、今日で終わらせた馬主の決断をファンの皆様にもおわかりいただける日がくると確信しております。長い間応援していただき、本当にありがとうございました」と語り[41]、また蛯名は「日本の競馬史に残る偉大な馬だった。ずっと乗っていたいと思っていたので寂しいような気がする。この馬の子で、また世界のG1に挑戦できる日を夢に見ています」と語った[41]

式を終えたエルコンドルパサーは、この日同時に引退した[41]厩務員・根来邦雄に付き添われ、北海道早来町の社台スタリオンステーションへ向かった[48]。なお、ジャパンカップはエルコンドルパサーが前年3着に退けたスペシャルウィークが優勝、1番人気に推されたモンジューは4着に終わっている[49]

翌2000年1月、JRA賞を決定する投票が行われた。当年はエルコンドルパサーの他、春秋の天皇賞とジャパンカップを制したスペシャルウィーク、同馬を破って宝塚記念、有馬記念の春秋グランプリ競走を制したグラスワンダーがおり、「年度代表馬が3頭いてもおかしくない」といわれたほどの混戦であった[50]。年度代表馬への投票はスペシャルウィークが83票、エルコンドルパサーが72票という結果だったが、得票1位が投票選出の規定となる過半数(107票)に達していなかったことで、11人で構成された選考委員会で審議されることになった[50]。委員会ではまず最優秀5歳以上馬を誰にするかという審議が行われ、最初の採択でまずグラスワンダーが落選した。次いでエルコンドルパサーとスペシャルウィークの間で決選投票が行われ、7対4でエルコンドルパサーが最優秀5歳以上牡馬に選出された[50]。さらに「年度代表馬は各部門賞馬から選ぶ」という規定に沿い、年度代表馬投票で1票を獲得していたエアジハード(最優秀短距離馬・父内国産馬)との間で審議が行われた結果、満場一致でエルコンドルパサーが年度代表馬と決定した[50]。ただしこの結果は議論を呼び、スペシャルウィークの調教師・白井寿昭[51]伊藤雄二[52]といったホースマンからも異議が唱えられた。作家の木村幸治はこの結果について「スペシャルウィークも武豊も見事だった。しかし『日本競馬人が、エルコンドルパサーと蛯名正義のフランスでの仕事を"フロック"と評価した』と世界から誤解されないために、世界にしっかりと敬意を表す意味で選んだのではなかったか」と述べている[53]

JPNクラシフィケーションにおいては、日本調教馬として過去最高の134ポンドの評価を得た。これはモンジュー、デイラミの135ポンドにこそ及ばないが、古馬のLコラム(2200-2799メートル)では世界最高評価であり、歴代の凱旋門賞優勝馬と比較しても遜色のない数値であった[5]

なお、当年は馬主の渡邊に対しても東京競馬記者クラブ賞[54]が贈られたほか、フランスにおいてはその年の競馬界で最も顕著な活躍をしたホースマンに贈られるゴールド賞を[39]、翌年3月にはアメリカのケンタッキー競馬協会より最優秀生産者賞が贈られた[38]

引退後

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種牡馬としては当時リーディングサイアーの地位を占め続けていたサンデーサイレンスに代わる存在として期待を掛けられ、同馬を所有する社台グループの繋養牝馬を中心として初年度から137頭の交配相手を集めた[15]。2年目には158頭、3年目には154頭と高水準の推移を続けた[15]。しかし3年目の種付けを終えた後の2002年7月16日、エルコンドルパサーは腸捻転により社台スタリオンステーションで死亡した[55]。7歳没。8月8日には同場で「お別れ会」が開かれ、渡邊、二ノ宮、蛯名、的場ら関係者のほか、一般ファン約300人も参列し、聖歌の斉唱で送られた[55]遺骨は分骨され、社台スタリオンステーション内に墓が建立された[13]

死から2年後の2004年、2年目の産駒であるヴァーミリアンラジオたんぱ杯2歳ステークスを制し、種牡馬としての重賞初勝利を果たした。2006年秋にはソングオブウインド菊花賞アロンダイトジャパンカップダートと、産駒のGI制覇が相次いだ。また、ダート路線に転じたヴァーミリアンは2007年1月に勝った川崎記念を皮切りに、2010年までにGI・JpnI競走で計9勝という日本記録を樹立した[56]。また、トウカイトリックはGI・JpnI競走の勝利こそなかったが、11年にわたり競走生活を続け、中央競馬における平地競走勝利の最高齢タイ記録(10歳、2012年ステイヤーズステークス)、同一重賞最多出走記録(8回、2006-2013年阪神大賞典)を打ち立てた[57]。同馬が中央競馬における最後のエルコンドルパサー産駒となったが、2014年2月に競走生活から退いた[57]

JRA顕彰馬の投票においては、毎年多くの票を集めながら選出規定にわずかに及ばない状況が続いていた[58]。しかしJRA発足60周年を記念した2014年の投票において例年1人2票の投票権が最大4票に拡大されると、有効票4分の3以上という規定を満たす156票(総数195)を獲得し、史上30頭目の殿堂入りを果たした[59]

競走成績

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以下の内容は、netkeiba.com[60]、Racing Post[61]および『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』の情報に基づく。

競走日 競馬場 競走名 オッズ
(人気)
着順 距離(馬場) タイム
(上り3F)
着差 騎手 1着馬(2着馬)
1997. 11.08 東京 3歳新馬 2.5(1人) 1着 ダ1600m(良) 1:39.3(37.2) 7身 的場均 (マンダリンスター)
1998. 01.11 中山 4歳500万下 1.3(1人) 1着 ダ1800m(不) 1:52.3(37.5) 9身 的場均 (タイホウウンリュウ)
02.15 東京 共同通信杯4歳S 重賞 1.2(1人) 1着 ダ1600m(不) 1:36.9(35.6) 2身 的場均 (ハイパーナカヤマ)
04.26 東京 NZT4歳S GII 2.0(1人) 1着 芝1400m(重) 1:22.2(35.8) 2身 的場均 (スギノキューティー)
05.17 東京 NHKマイルC GI 1.8(1人) 1着 芝1600m(稍) 1:33.7(34.9) 1 3/4身 的場均 (シンコウエドワード)
10.11 東京 毎日王冠 GII 5.3(3人) 2着 芝1800m(良) 1:45.3(35.0) (2 1/2身) 蛯名正義 サイレンススズカ
11.29 東京 ジャパンC GI 6.0(3人) 1着 芝2400m(良) 2:25.9(35.0) 2 1/2身 蛯名正義 エアグルーヴ
1999. 05.23 ロンシャン イスパーン賞 G1 2.7(1人) 2着 芝1850m(重) 1:53.8 (3/4身) 蛯名正義 Croco Rouge
07.04 サンクルー サンクルー大賞 G1 3.2(2人) 1着 芝2400m(稍) 2:28.8 2 1/2身 蛯名正義 (Tiger Hill)
09.12 ロンシャン フォワ賞 G2 1.3(1人) 1着 芝2400m(稍) 2:31.4 アタマ 蛯名正義 Borgia
10.03 ロンシャン 凱旋門賞 G1 4.6(2人) 2着 芝2400m(不) 2:38.6 (1/2身) 蛯名正義 Montjeu
  • 海外のオッズ・人気はRacing Postのもの(日本式のオッズ表記とした)

特徴・評価

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競走馬としての特徴

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蛯名正義はその特長として、芝・ダート、馬場状態、距離、ペースの緩急といった諸条件を難なく克服できる精神力の強さを挙げ、2000年に受けたインタビューにおいて「本当にパーフェクトと言っていい[62]」、「日本の競馬界では20世紀最高の馬[63]」と評している。二ノ宮敬宇は他馬との違いについて「勝とうとする気持ち。最後は負けないという、その精神力」を挙げている[12]。野平祐二はエルコンドルパサーの成長力について、陣営のレースへの使い方を評価しつつ、「めいっぱいの力を他人にあまり見せないで、いつの間にか強くなった」と評している[35]

身体面の特徴

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社台スタリオンステーションの徳武英介によれば、エルコンドルパサーの馬体には一流の競走馬が大抵備えているなにがしかの個性が全く感じられず、「スピードタイプなのかスタミナタイプなのか、芝が良いのかダートが良いのか、サドラーズウェルズが出ているのかミスタープロスペクターが出ているのか、全く判別がつかないタイプ」であったという。この話を受けたライターの後藤正俊は「その特徴のなさが、エルコンドルパサーの最大の特徴と言えるのだろう。すべてに均整がとれていて、馬体はしっかりとしており、欠点もない。これこそ究極のサラブレッドの形と言えるのかもしれない」と述べている[64]

フランス遠征と1999年度の評価

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エルコンドルパサーがフランスへ渡った前後には、シーキングザパールタイキシャトルアグネスワールドといった馬もヨーロッパ遠征を行い、1000-1600メートル戦でそれぞれ良績を残していた。しかし『優駿』は特にエルコンドルパサーの遠征を「別格の重みがあった」と評し、その理由について「欧州競馬の牙城ともいえる中距離路線の王道を歩んだから」としている[63]日本馬主協会連合会はその年史において、1990年代末に相次いだ日本調教あるいは生産馬による国外GI制覇が相次いだことに絡めて「しかもエルコンドルパサーはフランスGIで、というより世界で最も権威あるレースのひとつ凱旋門賞で2番人気に支持され、あわやの2着に惜敗したのである。ジャパンカップでの度重なる勝利とともに、1979(昭和54)年以来の合言葉『世界に通用する強い馬づくり』の努力が本格的に実を結んだといってよい」とこれを評した[65]

蛯名正義は「世界に挑戦してきた人たちの努力が無駄ではないことを証明してくれた」と述べ[66]伊藤雄二はサンクルー大賞勝利についての所感を尋ねられ、ヨーロッパの短距離戦について「ヨーロッパでは盲点のように弱いところでもある」としたうえで、「サンクルー大賞の場合は、ヨーロッパ馬が最も得意とする距離だから、その意味でも価値はある」と評した[67]瀬戸口勉も「外国であれだけ結果を出した馬はいない」と評している[66]吉沢譲治は凱旋門賞について、「限りなく金メダルに近い銀メダルだろう。過去の日本馬の凱旋門賞挑戦は、何十馬身もちぎられて入線する屈辱を繰り返すばかりだった。それだけに、どえらいことをやってのけた馬という印象が強い」と述べている[68]。二ノ宮敬宇はエルコンドルパサーが顕彰馬に選定されたことを受けて、「エルコンドルパサーが凱旋門賞への扉を少しでも開ける一助となれたことに、我々の行ったことが無意味ではなかったと証明されたように思います」と語った[69]

1999年のインターナショナル・クラシフィケーションで得た134というレートは、イクイノックスが2023年のロンジン・ワールドベストレースホースランキングにおいて135というレートを獲得するまで、長らく日本調教馬の最高評価であった。[70]。合田直弘はレーティングの数値について「115あれば一流馬、125あればチャンピオン級と言われる」とした上で、2010年時点で史上2位の127というレートを付されたディープインパクトを引き、「12ハロンという距離区分では1.5ポンド=1馬身が換算基準だから、エルコンドルパサーは2番手以下に4馬身半の差をつける、断トツの日本最強馬なのである。彼がディープより4馬身半強かったと断じるつもりもないが、エルコンドルパサーが世界的にこれだけ高い評価を受けていることを、日本の競馬人はもっと知るべきであろう」と述べている[71]。なお、『優駿』が2012年に行った「距離別最強馬」アンケートにおいて、エルコンドルパサーは「2400メートル」部門でディープインパクトに次ぐ2位となっている[72]

なお、2010年には二ノ宮が管理するナカヤマフェスタが蛯名、佐々木、クラウトといった「チーム・エルコンドル」の布陣で凱旋門賞に臨み[73]、イギリスのワークフォースから頭差の2着となった。ヨーロッパ調教馬のみに優勝経験がある凱旋門賞で、他地域の調教馬が複数回2着になったのはこれが初めてのことだった[74]。2012年と2013年の凱旋門賞ではオルフェーヴルが2着となっている[75]

投票企画などの結果

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年度 企画者 企画 順位 出典
1999年 Sports Graphic Number ホースメンが選ぶ20世紀最強馬 第4位 [66]
2000年 日本中央競馬会 20世紀の名馬大投票 第10位 [63]
優駿(日本中央競馬会) プロの目で厳選した20世紀のベストホース100 選出 [76]
2001年 日本馬主協会連合会 アンケート「一番の名馬と思う競走馬は?」 第10位 [77]
アンケート「一番好きな競走馬は?」 第21位
アンケート「一番印象に残る競走馬は?」 第24位
2004年 優駿(日本中央競馬会) 年代別代表馬BEST10(1990年代) 第2位 [78]
2010年 未来に語り継ぎたい不滅の名馬たち 第7位 [71]
AERA朝日新聞社 競馬のプロが選ぶニッポンの名馬ベスト10 第5位 [79]
2012年 優駿(日本中央競馬会) 距離別「最強馬」はこの馬だ!(2400メートル部門) 第2位 [72]
距離別「最強馬」はこの馬だ!(ダート部門) 第7位 [80]
2015年 未来に語り継ぎたい名馬BEST100 第10位 [81]
2024年 第24位 [82]

表彰

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年度 表彰 票数 出典
1998年 JRA賞最優秀4歳牡馬 119/208 [37]
1999年 JRA賞年度代表馬 [50]
JRA賞最優秀5歳以上牡馬 73/212
(決選投票:7/11)

レーティング

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年度 馬齢 馬場 距離区分(m 対象 出典
1998年 4歳 M(1400-1800) 117 インターナショナル・クラシフィケーション [4]
L(2200-2700) 126
1999年 5歳 L(2200-2799) 134 [5]

※馬齢と距離区分はいずれも当時のもの。

種牡馬成績

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GI級競走優勝馬

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中央競馬重賞・ダートグレード競走勝利馬

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地方競馬重賞勝利馬

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ブルードメアサイアーとしての重賞勝利産駒

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血統

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血統背景

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父キングマンボはフランスとイギリスで走り、G1競走を3勝している[26]。サドラーズギャルとの交配が行われた年は種牡馬として1年目であり[7]、エルコンドルパサー誕生時にはまだ5歳と若かったが、後に日本でスターキングマンキングカメハメハアルカセットといったGI馬が出たことで日本の芝に合う種牡馬との定評ができ[1]、海外においてもレモンドロップキッドキングズベストなどを送り出したことで[18]、世界中で活躍馬を輩出する種牡馬となった[1]

母サドラーズギャルはイギリスで9戦0勝[26]、曾祖母リサデルはイギリスとアイルランドで走り、重賞2勝を挙げている[26]。5代母ラフショッド(Rough Shodソング Thongの母)からは世界的に牝系が広がっており、特にリサデルの姉・スペシャルの系統からはエルコンドルパサーの血統表にもみえるサドラーズウェルズ、ヌレイエフなど数多くの名馬が輩出されている[110]

血統表

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エルコンドルパサー血統 (血統表の出典)[§ 1]
父系 キングマンボ系ミスタープロスペクター系
[§ 2]

Kingmambo
1990 鹿毛
父の父
Mr. Prospector
1970 鹿毛
Raise a Native Native Dancer
Raise You
Gold Digger Nashua
Sequence
父の母
Miesque
1984 鹿毛
Nureyev Northern Dancer
Special
Pasadoble Prove Out
Santa Quilla

*サドラーズギャル
Saddlers Gal
1989 鹿毛
Sadler's Wells
1981 鹿毛
Northern Dancer Nearctic
Natalma
Fairy Bridge Bold Reason
Special
母の母
Glenveagh
1986 鹿毛
Seattle Slew Bold Reasoning
My Charmer
Lisadell Forli
Thong
母系(F-No.) Rough Shod系(FN:5-h) [§ 3]
5代内の近親交配 Northern Dancer M3×S4、Native Dancer S4×M5、Special

(Lisadell)M3×S4×M4

[§ 4]
出典
  1. ^ [111]
  2. ^ [112]
  3. ^ [1]
  4. ^ [111]


近親

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ 日本円で7692万2800円[3]
  2. ^ なお、この記事では馬主名が「Kihachiro Watanabe」とされていたが、誤りである。
  3. ^ 1ハロン=約200メートル。
  4. ^ ウォーミングアップを兼ねた待機所への移動。
  5. ^ フルゲートの18頭。
  6. ^ 二冠馬を抑えての最優秀4歳牡馬は2023年現在唯一。クラシック競走未勝利の馬による同賞の受賞はオグリキャップに続いて10年ぶり2頭目

出典

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参考文献

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  • 平出貴昭『覚えておきたい日本の牝系100』(スタンダードマガジン、2014年)ISBN 4908960003
  • 『Sports Graphic Number PLUS - 20世紀スポーツ最強伝説(4)競馬 黄金の蹄跡』(文藝春秋、1999年)ISBN 4160081088
  • 『競馬名馬&名勝負年鑑―ファンのファンによるファンのための年度代表馬 (1999-2000)』(宝島社、2000年)ISBN 4796694927
  • 『競馬モンスター列伝 ターフに君臨した"絶対王者"たちの系譜』(洋泉社、2005年)ISBN 4896919564 
  • 『書斎の競馬』第1号(飛鳥新社、1999年)
  • 『ニッポンの名馬 プロが選ぶ伝説のサラブレッドたち』(朝日新聞出版、2010年)ISBN 4022744278
  • 『名馬物語 - The best selection (2)』(エンターブレイン、2003年)ISBN 4757714971
  • 優駿』(日本中央競馬会)各号
  • 『臨時増刊号Gallop'98』(産業経済新聞社、1999年)
  • 『週刊100名馬 Vol.83 エルコンドルパサー』(産業経済新聞社、2000年)
  • 『週刊100名馬 Vol.89 グラスワンダー』(産業経済新聞社、2000年)

関連項目

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外部リンク

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