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オルフェーヴル

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オルフェーヴル
2011年12月25日有馬記念表彰式
欧字表記 Orfevre
香港表記 黃金巨匠
品種 サラブレッド
性別
毛色 栗毛
生誕 2008年5月14日(16歳)
登録日 2010年5月5日
抹消日 2013年12月23日
ステイゴールド
オリエンタルアート
母の父 メジロマックイーン
生国 日本の旗 日本北海道白老町
生産者 社台コーポレーション白老ファーム
馬主 (有)サンデーレーシング
調教師 池江泰寿栗東
調教助手 森澤光晴川合達彦
競走成績
生涯成績 21戦12勝
中央競馬)17戦10勝
フランス)4戦2勝
獲得賞金 13億4408万4000円
215万9880ユーロ
WTRR 123L-122E / 2011年[1]
127L-118E / 2012年[2]
129L / 2013年[3]
勝ち鞍 GI皐月賞東京優駿菊花賞(2011年)、
有馬記念(2011年・2013年)、
宝塚記念(2012年)
GIIスプリングステークス神戸新聞杯(2011年)、
フォワ賞(2012年・2013年)、大阪杯(2013年)
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オルフェーヴル (Orfevre)[4]日本競走馬中央競馬史上7頭目のクラシック三冠馬。おもな勝ち鞍は皐月賞東京優駿菊花賞(2011年)、宝塚記念2012年)、有馬記念(2011年、2013年)、馬名はフランス語で「金細工師」[4]Orfèvre)。

経歴

誕生 - デビュー前

2008年5月14日、父、母の生産牧場でもある社台コーポレーション白老ファームで生まれた。その前年、本馬の母・オリエンタルアートは、この年から種牡馬デビューして注目を集めたディープインパクトとの交配を行ったが、3度に渡り受胎に失敗してしまう[5]。空胎[注 1]を避けるためとの理由でステイゴールドと交配されると一度で受胎[5][6]。翌年に本馬が誕生したが、5月14日と競走馬としては遅生まれとなった。当歳の10月から1歳の10月までの間、社台コーポレーション早来ファームで育成された後[7]ノーザンファーム空港牧場で競走馬となるための訓練を受けた。本馬と同じくステイゴールドを父に持つ全兄・ドリームジャーニーと同様にサンデーサラブレッドクラブ一口馬主が募集され[8]、募集価格は兄[9]の3倍となる総額6000万(一口150万円)に設定された[8]

2歳(2010年)

兄・ドリームジャーニーやジャポニズム[注 2]と同じく栗東池江泰寿厩舎[注 3]に入厩し、デビュー戦は8月14日新潟競馬場芝1600メートル新馬戦であった。ドリームジャーニーと同じく新潟デビューとなり、兄の主戦騎手である池添謙一が夏の主戦場である北海道からわざわざ本馬に騎乗するために新潟まで遠征してのデビュー戦だった。レースは中団の位置から直線に入って強烈な脚を繰り出し早めに先頭に立つと勢いを保ったままゴールに飛び込み初勝利を挙げる。しかし、直線では内ラチまで切れ込み、ゴール後には池添を振り落として放馬[注 4]、ウイナーズサークルでの記念撮影が中止となるなど暴れん坊ぶりを発揮した[7]。これに対して池江は「当時はイレ込みが凄くて、競走馬になれないかと思った」と語っていた[11]10月3日に行われた2戦目の芙蓉ステークスでは、スローの展開の中、第4コーナーまで我慢し直線で前が開くと豪快な伸び脚を見せたが、逃げるホエールキャプチャクビ差捉えきれず2着に惜敗した。

続く3戦目、当初は東京スポーツ杯2歳ステークスを使う予定であったが、主戦の池添のお手馬であったイイデタイガー[注 5]が同レースへの出走を予定していたため使い分けるべく、初重賞となる11月13日京王杯2歳ステークスに矛先を向けた[12]。このレースでは単勝1番人気に推されたが、ゲート内で啼き、やや遅れ気味のスタートから追走のため騎手に気合をつけられると今度は一転して引っ掛かるなど、幼さを露呈して10着大敗となった[7]。この敗戦を受け、ドリームジャーニーとの兄弟制覇が掛かっており当面の目標として出走を予定していた朝日杯フューチュリティステークスを諦め、成長を促すべくオープン間もないノーザンファームしがらきへ放牧に出された[13]。放牧中や帰厩後の調教では、敗戦の内容を踏まえ自立心を養うために集団から離れて1頭で行うなどの工夫が施された[13]。その結果、京王杯での敗戦が本馬のターニングポイントとなり、翌年の大活躍に繋がることとなる[12]

3歳(2011年)

2011年きさらぎ賞

これまでの経験を踏まえ、陣営は本馬に競馬を教えることに徹し、折り合いを教えていった。1月9日に行われた初戦のシンザン記念では、後方から最後の直線だけの競馬となり上がり3ハロン33秒5の豪脚で前に迫ったが、早めに抜け出したレッドデイヴィスの2着。2月6日きさらぎ賞では、まずまずのスタートを切った後、中位からの差しに徹し、最後は上がり3ハロン33秒2の豪脚を繰り出すが、先に動いたトーセンラーの3着に終わった。レース後、池添は「勝ち馬と一緒に動いてしまうと次につながらなくなってしまうから。この経験が春への糧となってくれれば」とコメントしている[14] 。もどかしいレースが続く中、池江は鞍上の池添に対し「(勝つのは)ダービーでいいから」との言葉を掛け[15] 、これにより池添は本馬に競馬を教えることに専念することができた[注 6]

2011年スプリングS

その後、クラシックの権利取りのため出走を予定していたスプリングステークスは、東日本大震災に伴う中山競馬の開催中止により、当初予定されていた中山競馬場ではなく3月26日に地元の阪神競馬場で行われた。このレースでは道中後方に控えると第4コーナーまでに早めに進出し、大外から内に切れ込みながらもベルシャザール以下を一気に差し切って重賞初制覇を飾った。生来の競走能力に加え、これまで教えられてきたことがようやく花開き始め、池添は勝利騎手インタビューで「普段の調教やレースで教えてきたことが身についてきたし、本番も楽しみになりました」と答えている。また、池江は「かわすときの脚はドリームジャーニーを見ているようだったね」と切れ味を信条とする兄になぞらえたコメントを残している[16]

2011年皐月賞
2011年皐月賞
表彰式
表彰式

4月24日に開催された牡馬クラシック第1弾の皐月賞は、中山競馬開催中止の影響で舞台が東京競馬場に変更され、当初の予定より1週遅れで行われた。前哨戦に勝利したにもかかわらず、本馬に対する戦前の評価はそれほど高くはなく4番人気に甘んじた。これは、兄・ドリームジャーニーが左回りを苦手としていた事や左回りのデビュー戦で直線内に切れ込み、同じく左回りの京王杯2歳ステークスで大敗していた事となどから、左回りへの不安が囁かれたことが影響したものと考えられる[要出典]。しかし、レースでは不利とされる外枠を上手く克服し、道中中団やや後方で折り合い良く待機、左回りのコーナーも難なくこなすと、最後の直線では馬群を割って先頭に立ち、1番人気のサダムパテックを3馬身引き離して圧勝。クラシック一冠目を獲得した。ゴールに向かって他馬を突き放す勝ち方に、池添は「初めて府中の直線が短く感じた」と振り返っている[17]。また、兄の果たせなかったクラシック制覇を果たし、この頃は兄の主戦も務めていた池添は「兄貴が取れなかったクラシックを取れてめっちゃ嬉しいです!」と喜びを表現すると、池江も「競馬はブラッドスポーツ。ドリームジャーニーがクラシックで結果が出なかった[注 7]のはいい勉強になった」と語っている[18]。このように本馬がクラシックの時期から活躍するうえでドリームジャーニーでの経験が果たした役割は大きなものがあったといえる。

2011年東京優駿

5月29日の牡馬クラシック第2弾東京優駿(日本ダービー)は、台風2号の影響により不良馬場での開催となり不確定要素の多いレースであったが、本馬は単勝3.0倍の1番人気に支持された。当日の東京競馬場の芝コースは、午前中は内側が伸びるコンディションであったが、午後に入ってからは第8レースの青嵐賞で勝ち馬が馬場の外側から追込みを決めたように外が伸びる状態へと変化していった[19]。このため池江は内から4頭分より外なら大丈夫と判断。一方、パドックでは池添が池江に対し「外ですね」と声をかけ、両者の意見が一致[13]。いつも通り折り合いを大事にして直線は外に出すという作戦が決定された[20]。レースでは良いスタートを決めると作戦通り道中は中団やや後ろにつけて折り合いに専念。迎えた第3コーナーで大外に持ち出そうとするも内側にささったため、馬群の真後ろのポジションで最後の直線を迎える。直線の入り口で外から被せてきたナカヤマナイトと馬体を接触し鞍上の池添がバランスを崩すも、そこで引くことなくサダムパテックとの間にできたわずかな隙間を見逃さず一気の脚で抜け出し、2着のウインバリアシオンの追撃も振り切って、1馬身4分の3差をつけて優勝を飾った。このウインバリアシオンとは良きライバル関係を歩んでいくことになる。

3着にはさらに7馬身差をつけての快勝で、極悪馬場という試練も乗り越えクラシックニ冠目を獲得。2008年に生まれたサラブレッド7458頭の頂点に立った。デビュー以来コンビを組み絆を紡いできた池添は、後に「パドックでいつもの背中があったので緊張が解けた。テン乗りの馬には負けたくなかった」[注 8]とのコメントを残している[22]。なお、新潟デビュー馬が東京優駿を制したのは1984年シンボリルドルフ以来、27年ぶり2頭目となった[23]。また、皐月賞東京優駿ともに東京競馬場で行われての二冠は1964年シンザン以来47年ぶり3頭目である[注 9][24]

夏場は涼しい北海道ではなく、栗東近郊のノーザンファームしがらきへ放牧に出された。この意図について池江は、8月下旬に北海道から戻ってきたときの大きな気温差により馬に負担がかかるのを避けたかったとしている[25]

2011年神戸新聞杯

秋初戦、陣営は菊花賞に向けてのステップレースとして9月25日に地元の阪神競馬場で行われた神戸新聞杯を選択した。調教で東京優駿以来、本馬に跨った池添が「今まで1番乗り味が良かったのはデュランダルなんですが、それに近いところに来ている」[要出典]と評するなど、無事に夏を越し成長した姿を見せた本馬は単勝1.7倍の圧倒的な支持を受けた。レースではスタートを決めた後、先行集団に付けるという今までにない競馬を見せた。最初の1000メートルが63秒5というスローな流れの中、道中は何とか折り合いをつけてじっと動かずに進み、迎えた第3コーナーで外から蓋をしにかかったウインバリアシオンに呼応して一気に捲る。最後の直線で上がり3ハロン32秒8という究極の切れ味を発揮して早めに抜け出すと、池添がほとんど鞭を使うことなく2着ウインバリアシオンに2馬身半差をつけて勝利。重賞4連勝で秋初戦を飾った。 馬体重が前走から16kg増の460kgと馬体が逞しくなっただけでなく、パドックでは外側を堂々と周回し、レースでは先行して折り合って見せるなど、あらゆる面で成長を感じさせる内容であった。これに関し勝利騎手インタビューで池添は「まだ粗削りだけど反応の速さがすごい。体の緩さがなくなりトモがしっかりしてきた。どこまで強くなっていくのか」[26]と本馬の成長ぶりを表した。また、スローペースの中、先行し早めに抜け出すという横綱競馬を見せたことについて、池江は本馬の母の父である「メジロマックイーンみたいだったね」[26]と顔をほころばせ、池江の父である池江泰郎元調教師も「こんなに楽に勝てるとは思わなかった。何もかもがいい経験になった」[26]と目を細めていた。なお、このレースは2007年にドリームジャーニーも制しており兄弟制覇となった。

2011年菊花賞
2011年菊花賞
表彰式
表彰式
記念撮影
記念撮影

三冠をかけて臨んだ10月23日の牡馬クラシック第3弾菊花賞では、およそ6万8000人の大観衆が京都競馬場に駆け付ける中、単勝支持率58.28%、単勝オッズ1.4倍の圧倒的な1番人気に支持された[27]。三冠がかかったレース前、緊張する池添に対し、池江は具体的な作戦ではなく「謙一とオルフェーヴルを信じている」[28]と、また担当厩務員である森澤は「自信をもって乗ってきてください」[要出典]と声をかけた。レースでは、外目の14番枠に入り隣の枠のサンビームがゲート内で暴れるも影響を受けることなく好スタートを切ると上手く内側に進路を取ったが、最初の第3コーナーで次々と他馬が外から擦っていったこともありスタンド前にかけて行きたがる気配を見せた。しかし、池添が馬群に入れて落ち着かせながら中団好位をキープして進むと、向正面では長手綱にするほど折り合いがつき、2周目の第3コーナーから徐々に進出を開始。最後の直線に入った所で早めに先頭に立つとそのまま独走態勢に入り、最後方から追い込むという奇襲に出たウインバリアシオンの追撃も2馬身半差退けて、栄光のゴールを駆け抜けた。この勝利により本馬は、2005年のディープインパクト以来6年ぶり史上7頭目の牡馬クラシック三冠馬に輝いた。自ら動いて早々とセーフティーリードを築き、最後は手綱を抑える余裕を見せたにもかかわらず3分2秒8という好タイム[注 10]を残すという、強い競馬であったが、早めに先頭に立ったことに関して池添は「この馬が後ろから差されるイメージはなかった」[29]と勝利騎手インタビューで明かしている。ゴール後には、池添がガッツポーズをせずに警戒していたにもかかわらず、1頭になった本馬が外ラチに向かって逸走しデビュー戦同様に池添を振り落とすという珍事もあった[30]。これにより森澤に引かれる形でのウイニングランとなったが、これについて池添は勝利騎手インタビューにおいて「僕とオルフェーヴルらしい」と苦笑いを浮かべながら答えていた。なお、父・母・および母の父のすべてが内国産馬の三冠馬は史上初である。また、池添は最年少三冠ジョッキーとなり[注 11]、池江は史上初めて親子で三冠トレーナーとなった[注 12]

2011年有馬記念
2011年有馬記念
口取式
口取式

三冠達成後はノーザンファームしがらきへ短期放牧に出された。次走には菊花賞からのレース間隔を考え有馬記念を選択[31]12月25日、6年ぶりのクリスマスグランプリとなった有馬記念に出走した。ファン投票こそ、この競走での引退を発表しており最初で最後の対決として注目されたブエナビスタに次ぐ2位であったが[32]、単勝2.2倍の1番人気に支持された。この競走の出走メンバーは、ブエナビスタや当年のドバイワールドカップを制したヴィクトワールピサを含めGI馬9頭、計19冠という稀に見る豪華なメンバーであった[33]が、パドックにおいて池江は池添に対し「(ブエナビスタに)もし負けたら一生言われる。この馬の強さを証明したい」[34]と声を掛け、池添も当時の想いを振り返って「『三冠馬になれたのは同世代が弱いから』という声も聞こえていた。そんなのは嫌だったので、このレースで一番だと見せたかった」[34]と語るなど、陣営は現役最強の称号獲得に並々ならぬ意欲を燃やしていた。レースではスタートでやや立ち遅れ、前半1000メートルの通過が63秒8という超スローペースの中、最後方付近の内ラチ沿いという苦しい位置取りであったが、第2コーナーで鞍上の池添に導かれ馬群の外へ出すことに成功すると、残り700メートル付近から徐々にポジションを上げ大外を捲っていく。最後の直線、トーセンジョーダンらを交わして外から抜け出すとエイシンフラッシュトゥザグローリーらの追撃を4分の3馬身差封じ、究極の瞬発力勝負となったグランプリを制覇した[注 13]。当日の中山競馬場は朝から好天に恵まれていたが、本馬が先頭でゴール板を駆け抜ける前後から雪がちらつき始め[35]、表彰式は幻想的な雰囲気の中で行われた。 直線が短く小回りで先行有利とされる中山競馬場において豪華メンバー相手にスローペースの中、大外を捲って勝利したことに対し、勝利騎手インタビューで池添は「強かったですね。ひと言で言ったら『強かった』という言葉しか出てこないですね」と答えていた。また池添は本馬の乗り味について「スピードの乗りは抜群で沈むように走りました。ちょっと仕掛けたら沈むようにハミを取って進んで行ってくれて、ねじ伏せるように直線は伸びてくれましたからね。すごい馬です」と興奮気味に答えていた。このように本馬の乗り味は、これまで兄・ドリームジャーニーやデュランダル、スイープトウショウといった多くの名馬の背中を知る池添をもってしても、今までに経験したことのないレベルに達しており[36]、後に改めて有馬記念での乗り味を振り返った池添は「ほんま痺れますよ、乗ってて。『わぁすげぇ!』と思いました」と語っている[34]。なお、同レースは2009年にドリームジャーニーも制しており、史上初の兄弟制覇となった[37]。また、同一年のクラシック三冠と有馬記念制覇[注 14]ナリタブライアン以来17年ぶり3頭目である[37][注 15]

当年は8戦6勝。スプリングステークス以降は破竹の重賞6連勝、牡馬クラシック三冠を含むGI4勝という好成績を残し、JRA賞年度代表馬および最優秀3歳牡馬に選出された[38]。また、2011年のワールド・サラブレッド・ランキングにおいて、有馬記念のパフォーマンスが123ポンドと評価され、2011年の日本調教馬では最高の第17位タイにランクされた[1]。菊花賞でのパフォーマンスも122ポンドと評価された[1]

4歳(2012年)

阪神大賞典から宝塚記念まで

有馬記念後は厩舎で状態をチェックされた後、1月4日、ノーザンファームしがらきへ放牧に出された[39]。池江が「これまでの休みのなかでは最もゆっくりさせた」[40]と言うように、前年の疲れを癒すべく本格的なリフレッシュが図られた。

単勝1.1倍を示すオッズボード
単勝1.1倍を示すオッズボード
2012年阪神大賞典
2012年阪神大賞典

3月18日、明け4歳初戦として第60回阪神大賞典に出走。本馬の折り合い面を考えれば同じく関西で行われる大阪杯を使うことも考えられた[注 16]が、秋のフランス遠征を見据え折り合いに対するリスクを承知の上で、スローペースが見込まれる3000mの長丁場のレースが選択された[41][42]。4冠馬がどのような走りを見せるのか競馬ファンの注目度は高く、同レース史上最高の単勝支持率75.9%、オッズ1.1倍という圧倒的な1番人気に支持された[43]。レース選択も含め「凱旋門賞を勝つためには、厳しい試練を与えることが必要」[42]と考えていた池江が池添に対し「有馬記念のようなウルトラC的な競馬はしないようにしよう。普通の競馬をしよう」[44]と話すなど、陣営は後方から早めに捲っていく競馬ではなく、神戸新聞杯や菊花賞で見せた好位から抜け出す正攻法の競馬で再び勝利することを、このレースでの課題とした[45]。しかし、本格的なリフレッシュ明けの本馬は、これまでの休み明けと比較してもイレ込んでおり、返し馬でもチャカつく素振りを見せていた[46]。この様子にゲート裏で輪乗りをしていた際、「いつもより(折り合いに)苦労しそう」[44]と感じた池添は森澤に対し「ちょっとイレ込んでいますね」と話したという[46]。このような状態で大外枠からスタートしなければならず、折り合いに対する不安を抱えながら発走の時を迎えることとなった。レースでは、五分のスタートを切ると最初の第3コーナー付近で引っ掛かる様子を見せたが、池添が何とかなだめながら追走し作戦通りに好位のポジションを取ると、そのまま3番手の位置で折り合いがつくかに見えた。しかし、最初の1000m通過が64秒9のスローペースを早めに察したナムラクレセントが本馬の外を一気に捲っていくと[注 17]、前に壁を作れずにいた本馬は口を割るなど再び掛かるような素振りを見せ、1周目のホームストレッチでは我慢が利かずに2番手までポジションを上げる。ここで池添が何とか折り合いを付けるべく他の馬から離す形で第1・2コーナーを回ったにもかかわらず、なお本馬は行きたがり、遂に向正面の入口付近では先頭に立つ形となった。その結果、1頭になり競馬を止めようとした本馬は、2周目の第3コーナー入口でコーナーを曲がろうとせずに外埒ギリギリの所まで真っ直ぐに逸走し始め[48]、池添が手綱を急激に引っ張り減速すると故障を疑わせるほどの勢いで後方3番手[注 18]までズルズル後退するというアクシデントが発生[48]、阪神競馬場の観衆からはどよめきが起こった。この時、圧倒的な支持を得ていたことを承知していた池添は「頭が真っ白になった」という[47]。それでも、ここで止めなければ人気に応えられないだけでなく故障の可能性も出てくることから、競走中止も覚悟してブレーキをかけたという次第であった[47]。 しかし、その直後、内側に他馬を見つけた本馬は再びハミをとって加速しコースへ復帰すると[47]、第4コーナーにかけて馬群に取り付き大外から一気の捲りを見せる。この時の様子について後に振り返った池添は、「『え!?まだ行けるの!?』って思いました」、「4コーナーの手前ではもう先頭集団に並んでいました。3コーナーで止まろうとした馬が、4コーナーではもう、ですよ」と答えている[47]。このように競走中止を思わせるほどの状況から蘇った本馬の走りに対して、直前のどよめきに負けないくらいの大歓声があがる中、レースは最後の直線を迎える。勢いを保ったまま直線に入った本馬は、それまでのロスをものともせずに大外から先頭に並びかける。しかし、最後は最内枠からロスのない競馬をし直線で内埒沿いを抜け出したギュスターヴクライ半馬身差捉えきれずに2着敗戦となった。ほぼ1周の間、掛かり通しであった[47]だけでなく、池添が「100メートルは余分に走っていた」[49]という ほどの大逸走、さらに手綱を締め大きく減速してしまいながらも、そこから再加速し出走メンバー最速となる上がり3ハロン36秒7の末脚を繰り出して勝ち負けにまで持ち込むという型破りな走りに、レース後、池添は「化け物だと思う」と振り返っている[48][注 19]。また、勝ち馬に騎乗していた福永祐一はゴール後、本馬の方を二度見した後、笑みを浮かべている[52]。この時の心境について福永は、逸走を目撃していただけに「『エッ!?』と思った。『オルフェーヴルこんな所いる!』と思って。まさかオルフェーヴルやと思ってなかった」と語った[52]。このように同レースで本馬は折り合い面での脆さを露呈する形で敗れたが、その一方でロスが大きかったために却ってファンや競馬関係者に能力の高さを印象づけることにもなった[注 20]。なお、この逸走により平地調教再審査の制裁が与えられることになったため[55]、次走に予定している4月29日天皇賞(春)への出走は、その結果次第となった。また、最後の直線で左鞭に反応した結果、内にささってヒルノダムールの進路を妨害したことで、池添には過怠金10万円の制裁が課された[56]

4月11日、天皇賞(春)の2週前追い切りも兼ね、平地調教再審査(以下「再審査」という。)が栗東トレーニングセンターのEコース[注 21]で実施された[55]。前走の阪神大賞典において第3コーナーで逸走したことについての再審査であったため、8名の審査員[注 22]が第3コーナーから第4コーナーにかけての走行振りを注視する中で審査が行われた。その結果、逃避癖やタイムを含めた走行状態に問題はないと判断され、合格の判定が下された[55]。これにより天皇賞(春)への出走が可能となった[注 23]。前年のクラシック三冠を制し年度代表馬にも輝いたトップホースの再審査は異例とあって、関係者や記者らの視線が集中する中での再審査となった[55]が、無事に合格を果たし、池添が「競馬より緊張しますね。ホッとした」と述べると[57]、池江も「GIの1番人気より緊張しました」と当時の心境を明かしている[55]。このように阪神大賞典での逸走のアクシデントは本馬および陣営に試練をもたらしたが、結果としてレース1・2週前と当週の追い切り以外、普段の調教には騎乗しない池添が付きっきりで本馬の調教に携わることになった。これについて池添は「人気を裏切って申し訳ないという気持ちはあるけど、普段のコミュニケーションを取れたというのは大きかった」と述べている[58]

天皇賞(春)
天皇賞(春)
レース後、引揚げるオルフェーヴル
レース後、引揚げるオルフェーヴル

迎えた4月29日の天皇賞(春)では、前走と同様に大外枠(18番枠)からの発走となった。再び逸走することも心配されたが、単勝1.3倍の圧倒的1番人気に推された。 レースでは、横一線のスタートを切るとすぐに位置取りを下げ、前に壁をつくるようにして後方2、3番手に控えた。その後レースは、前方でゴールデンハインドとビートブラックが大逃げを打ち、離れた3番手にナムラクレセントが控え、4番手以下のグループが牽制し合う展開となり、2周目の向正面まで進んでいく。第3コーナー手前から、ようやく4番手以下も差を詰めにかかり、本馬も外に持ち出して追い上げようとするが、近走のように手応え良くポジションを上げていくことはできず、池添の手が激しく動いたまま迎えた第4コーナーでは大きく外に膨らんだ。結局メンバー3位タイとなる上がり3ハロン34秒0の末脚は使ったものの前も止まらず、ビートブラックが後続を4馬身突き放して優勝、本馬は勝ち馬から1.8秒遅れての入線となり、見せ場なく11着に敗れた。 敗因についてはレース直後の時点で、はっきり判明しなかったものの、池添が「(最後の)直線でもだいぶ脚をとられて、4、5回くらいつまずくような感じになった」[59]として故障も疑ったほどだったと振り返る[注 24]など、池江・池添は共に馬場[注 25]の可能性を挙げた。また、池添は本馬の状態について、「3コーナーの下りを利用して動かしていったんですけど、いつもの伸びがなかった」「返し馬で、いつもの柔らかいフットワークではなかった」[59]と語っている。さらに、展開の不向きにも触れ、前が逃げていても本馬の折り合いを重視すると動くに動けず、「嫌な展開だと思っていた」[59]としている。 後にこの敗戦を振り返った池江は、「返し馬が全然良い頃とは違いました」と述べるなど上記の敗因に改めて言及したほか[63]、「ひょっとしてオルフェーヴルの場合、体の違和感とか、馬場が硬くて合わないと感じたら、レースを投げてしまうところがあるのかも知れませんね。兄弟もそういうところがありましたから」[63]と述べ、異なる可能性についても示唆した。また調教再審査について「段々、前捌きが硬くなって、コズミもでて、調教中に躓くこともありました。あの馬にはあり得ないことですからね」[63]として影響があったことを認めた。さらに、中間に下痢を起こしていたことを明かした[63]うえで、調教の動きを見て「ベストの状態ではないけれど、競馬に行けばキッチリ走ってくれると思ったのですが」[63]と当時の心境を回顧している。ただ、最終的には池江も明確な敗因を突き止めるまでには至らず、「理由はひとつだけではなかったように思います。位置取りが悪かったとか、メンコをしていたとか[注 26]、調教再審査で負担が掛かったとか、馬場が向かなかったとか、展開に泣かされたとか、色々な要素が複雑に絡み合っている」「正直今でも手探りの状態で、これが明確な敗因だという理由を突きとめられていない」[63]と明かしている。 この敗戦により、レース直後に池江が「この着順では凱旋門賞を目指すとは大きな声では言えない」[59]と述べるなど、前年から目標として掲げていた凱旋門賞挑戦について大きくトーンダウンすることとなった。

5月3日、締切が同9日に迫っていた凱旋門賞の1度目の登録は行ったものの、池江は「現時点では、登録したということだけ」[65]と述べ、次走の宝塚記念の結果及び内容次第で遠征を行うかを決めるとした。同日、本馬は立て直しを図るべくノーザンファームしがらきへ短期放牧に出された[66]。しかし、放牧先に跨りに来た池添が「宝塚記念に使えないのではないか」[67]と感じるなど、本馬の状態はなかなか上向かなかった。5月31日に帰厩した[66]後も陣営は慎重な姿勢を崩さず、池江は宝塚記念の2週前追い切り後に「息遣いが荒く、中身ができていない。正直時間が欲しい」と、1週前追い切り後には「上がり運動でのトモの踏み込みに満足できない」と語るなど、宝塚記念への出走につき明言を避けた[68]。その一方で、2週前追い切り当日の6月7日に発表された第53回宝塚記念ファン投票の最終結果で本馬は7万2253票を集め、2位以下に約2万4000票差をつけて1位に支持された[69][注 27]。こうして迎えた6月20日、坂路で行われた最終追い切りでエアラフォンと併せ馬を行い4F52秒5-1F12秒5の時計を出したのを受け、池江は「当日までに7割程度[注 28][注 29]。には戻せると思っている。前走より確実に良くなっている」との評価を下し[68]、「今日の動きと上がり運動を見て、出走を決意した」として正式に宝塚記念への出走を表明した[70]。同時に「1位の重みを感じています。今回、もし2位や3位だったら、早々に“秋に備えて(回避)”と考えていたところでした」[71]と心中を明かすなど、ファンの支持を後押しにサマーグランプリ出走へ踏み切ることとなった。

6月24日の第53回宝塚記念では、2走続けてファンの期待を裏切ったうえに万全の体調ではなかったにも関わらず、単勝3.2倍の1番人気に支持された。レースでは、11番枠から五分のスタートを決めると、大外から勢いよく飛ばしていったネコパンチが1000m通過58秒4のハイペースで引っ張る展開の中、後方5番手付近に待機する作戦を取った。この日は阪神大賞典で見せた気の悪さも影を潜め、道中は池添の手綱に反応良く歩を進めた。迎えた第3コーナーで近走のように外からポジションを上げていこうとはせずに馬群の中を追走すると、ルーラーシップら余力を残していたライバルが捲っていくのとは対照的に第4コーナーでは後方4番手あたりまで位置取りを下げた。しかし、ここで池添が進路を内に取り、前が開けたとみるや手綱を動かして勢い良くスパート、直線入口では先頭を射程圏に捉えるほどの一気の追い上げを見せる。そのまま馬場の内から3、4頭目を駆けた本馬は、最終週の荒れた馬場をものともせず鞍上の右鞭に応え残り約150mで先頭に立つと、追いすがるルーラーシップ以下を2馬身差抑えて1着となり、当年初勝利を5度目のGI制覇で飾った。確定直後の勝利騎手インタビューは通例の検量室前ではなく、観客のいるスタンドの前で行われた。この中で池添は涙を見せ、「ほんとにきつくて…ほんとに良かったなって思います」「この馬の強さって言うのをやっとね。一番強いと思っていたし、やっと見せることができて。本当にありがとうございます」と語った。また、本馬のファンに対して、「ファン投票を、ここ2走不甲斐ないレースだったんですけど、1位に選んでいただいてありがとうございます。1番人気でしたし、その期待に応えたいと思って一生懸命乗りました」と感謝の気持ちを伝え、「これからもオルフェーヴルを追い続けて下さい」と最後は笑顔で締めくくった。なお、このレースは2009年にドリームジャーニーが同じく池江・池添のコンビで制しており、史上初の兄弟制覇となった[72]。また、この競走のパフォーマンスはワールド・サラブレッド・ランキングで127ポンドと評価され、世界単独3位となった[2]

フランス遠征

7月15日フォワ賞[注 30]をステップレースとするプランが発表され、凱旋門賞挑戦が正式に表明された[73]。また、鞍上が池添から凱旋門賞に優勝経験のある[注 31]クリストフ・スミヨンに乗り替わることも併せて発表された。これについて、池江は「苦渋の選択だった」と述べた[74]

8月25日午前8時18分、本馬は帯同馬のアヴェンティーノと共に成田国際空港から出発し、現地時間(以下同)8月25日午後5時47分にフランスシャルル・ド・ゴール国際空港に到着。その後、現地で調教師として開業している小林智厩舎に入厩した[75]。8月27日から調教を開始し[76]、9月3日にはスミヨンが騎乗して感触を確かめた[77]

9月16日のフォワ賞は、5頭と少頭数での競馬となった。レースではペースメーカーとして出走したアヴェンティーノが逃げる展開を最後方で待機。超スローペースとなったことで道中で行きたがる素振りも見せたが、スミヨンが抑え込む。最後の直線ではアヴェンティーノが開けた最内を追い上げ、G1を3勝しているミアンドルらを突き放し優勝した。 この結果について、スミヨンは「前哨戦として、本番に繋がる良いレースが出来ました」「本番に向けて、余力を残すようなレースができました」とコメントした[78]。 池江は「勝たせてもらいましたが、世界の壁の高さを感じました」[78]と述べ、後には「もっと楽に勝てると思っていた。2着馬(ミアンドル)は次走を見据えて仕上げていなかったし、その馬を引き離せなかったのはショック」と語っている[79]。 前半に折り合いに苦労した点については、池江は「(スミヨンが)調教でスムーズに折り合ったので、コントロールし易いと言っていましたが、必ずしもそうではないところを身をもって感じてもらえたと思います」「馬だけでなく騎手にとっても、本番に向けてよい経験になったと思います」と語っている[78]。そして、池江、スミヨンとも、凱旋門賞には「さらに良い状態での出走」を望むコメントを残している[78]。 この勝利を受け、イギリスの大手ブックメーカーの中は本馬に対する凱旋門賞における前売りオッズを、前年の覇者であり当年のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスにも優勝したデインドリームを上回る1番人気に支持するところも現れた[80]

2012年凱旋門賞

10月7日の第91回凱旋門賞は、18頭での競走となった。本番が近づくにつれて有力馬の回避が相次ぎ、2010年と2011年のエリザベス女王杯を連覇し、当年のアイリッシュチャンピオンステークスにも優勝していたスノーフェアリーが故障により出走を回避することが9月29日に明らかになった[81]。また、10月1日には、前述のデインドリームが調整を進めていたドイツケルン競馬場において馬伝染性貧血が発生し、デインドリーム自身に感染は見られなかったが移動禁止の措置が取られたために凱旋門賞への出走断念を余儀なくされた[81]。さらに、10月2日には、キングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスにおいて前年は優勝、当年はハナ差の2着という成績を残していたナサニエルも熱発により回避することとなった[81]。一方で、当年の英愛ダービー馬のキャメロットは、ランフランコ・デットーリが騎乗して参戦することとなった[注 32][81]。さらに、当年のジョッケクルブ賞(フランスダービー)[注 33]の優勝馬サオノワアイリッシュオークス馬のグレートヘヴンズ、前年の凱旋門賞2着のシャレータも参戦した[81]

迎えた本番。横一線のスタートから、マスターストロークが逃げ、ロビンフッドが2番手を追走する。大外枠からスタートした本馬は、そのまま馬群の外側を進み、後方から2番手からレースを進める。道中ではアヴェンティーノに騎乗しているクラストゥスが何度か後ろを振り返って本馬を探し、本馬をエスコートするようにアヴェンティーノを近づけていく。第3コーナーを通過する頃には、後方2番手は変わらないが馬群がやや縦長になっており内から2、3頭目を進む。そして最後の直線では大外から馬なりのままポジションを上げ、追い出されると勢いよく先頭に立ち、さらに後続を突き放した。しかし抜け出すのがかなり早かったのか、急激に内ラチに向かって突進し、慌てたスミヨンが鞭を打つも、外からソレミアに差されて2着に終わった。 テレビ中継の中で行われたレース直後のインタビューで、池江は「日本の皆さん、申し訳ございませんでした」と謝罪から始めた。 そして、「日本の競走馬が世界のトップレベルにあることは事実だが、自分の技術が世界レベルになかった」「明日から出直して、何とかこのレースに勝つ為にまた戻ってきたい」と続けた[82]。レース展開については、「後方で折り合いをつけるというのは予定通りだったが、早めに抜け出して目標にされた分、交わされた」と述べている[82]。最後に斜行したことについて、スミヨンは「直線に向いてから追い出しての反応は良かったが、内にもたれてしまった。途中で右ムチに持ち替えたもののさらに内ラチに寄って行った。抜け出してから少しソラを使う[注 34]ような所があったかもしれない」とコメントしている[82]。 池江は「広い調教場での追い切りをしなかったために、よれる面をスミヨンに体感させておけなかった」事を競走後に後悔として述べている。

本馬とアヴェンティーノは10月10日午前8時56分(日本時間、以下同)、成田国際空港に帰国した[84]

ジャパンカップ

2012年ジャパンカップ

帰国後はジャパンカップに出走[85]、鞍上は池添に戻ることとなった[86]。この競走には当年に牝馬三冠を達成したジェンティルドンナも出走を表明しており、ジャパンカップでは28年ぶり2例目の三冠馬同士の対決となった[注 35][注 36]

ジャパンカップでは、当年6戦目で5度目となる大外枠(17番枠)からの発走となった。凱旋門賞からの凱旋レースであり、ファンから1番人気の支持を受けてのレースとなった。レースでは、ビートブラックが後続を引きつけながら逃げる展開を、後方5番手の外側から進む。第3コーナーから徐々にポジションを上げていき、3番手で最終直線に向いた。直線で逃げるビートブラックに迫り、一気に突き放すと思われたが残り200メートルほどで、進路をこじ開けようとした岩田康誠騎乗のジェンティルドンナに馬体をぶつけられ失速し、そこからジェンティルドンナを交わすことができずに2着に敗れてしまった。

本馬の走りについて、池添は「道中は少し引っかかるところがありましたけど、他馬の後ろで我慢してくれた。海外遠征帰りだけど、力も出し切ってくれたと思います」[87]と評価した。一方で、馬体をぶつけられたことについては「あの判定はどうかと思います。ちょっと納得がいかない」[88]と悔しさを表した。また、池江も「3回はぶつけられている。1回はバランスを崩して宙に浮いた。あれだけはじき飛ばされたら、どんな馬でも失速する」[88]とコメントしている。

その後は有馬記念[注 37]への出走も視野に入れていたが、「回復が遅い」という理由で回避し、年内は休養することとなった。また、2013年の現役続行も同時に発表された。

前年度の活躍などから大きな活躍が見込まれた当馬であったが、当年のGIは宝塚記念の1勝のみとなった。だが、凱旋門賞での2着、それに続いてのジャパンカップでの2着もあり、最優秀4歳以上牡馬に選出された[89]

5歳(2013年)

2013年大阪杯

ドバイ国際競走への出走も検討されたが[90]、春は国内に専念することとなった。また、前年は阪神大賞典、天皇賞(春)と長距離を走って「歯車が狂ってしまった」[90]ことから、中距離の大阪杯を初戦とした[注 16][91]。坂路で行われた追い切りでは、凱旋門賞敗退の原因にもなった斜行癖を矯正するために、1頭でもヨレずに走らせるような工夫が施された[92]。3月31日の同競走では、道中は中団後方を折り合いよく追走、最終コーナーでは外から追い上げる。最後の直線で先頭に立つと池添が手綱を緩める余裕も見せて快勝、単勝1.2倍の圧倒的な支持に応えた。レース後に池添は、「断然人気だったし、オルフェーヴルにとって今年最初のレース。僕自身を含めて当然、結果が求められるし、『ホッとした』のひと言です」[93]とコメントしている。

その後、天皇賞(春)は回避し[94]、宝塚記念から再び凱旋門賞を目指すこととなった。主戦の池添は、ロンシャン競馬場での騎乗経験不足を補い凱旋門賞での騎乗をもらうべくフランスへ遠征したのだが、2013年もフォワ賞と凱旋門賞の2戦でスミヨン騎手が乗る事が発表された。 なお、この時期には馬場馬術にも取り組み、騎乗者からの指示に従って折り合いよく走れるように調教された[95]

この後、宝塚記念に向けて調整が進められていたが、6月13日の追い切り後に運動誘発性肺出血(EIPH)[注 38]を発症、同レースを回避する事になった[96]。池江は、引退は否定するも「凱旋門賞を含めて、今後のローテーションは未定」と話した。しかし、後に当初の予定通りフランス遠征を行うことが決定した[97]

8月15日に放牧先のノーザンファームしがらきから帰厩[98]、調整を進め8月21日に国内での最終追い切りを行った[98]。そして8月24日の午後1時8分に成田国際空港を出発し、現地時間(以下同)8月24日午後8時50分にフランスのシャルル・ド・ゴール国際空港に到着。その後、前年と同じ小林智厩舎に入厩した[99]。本年は、ブラーニーストーンが帯同馬として同行した。追い切りの予定日にブラーニーストーンに蹴られて外傷性鼻出血を発症し追い切りが延期されるアクシデントもあったが[100]、概ね順調に調教され、池江も「前哨戦前の現時点での状態は昨年よりいい」[101]とのコメントを残している。 前年のフォワ賞やジャパンカップでは、先頭に立っても他馬を恋しがって待ったり寄っていったりする傾向が見られたことから、当年はブラーニーストーンの前を歩かせ自立心の強化にも努めた[102]

9月15日のフォワ賞では、前年の英二冠馬であるキャメロットが悪化した馬場を理由に出走を取り消し、9頭での競走となった。 レースでは、キズナの帯同馬であるステラウインド(武豊騎乗)が超スローペースで逃げ、最内枠からスタートした本馬は内ラチ沿いの2、3番手を追走する。直線に向いてステラウインドの外に出すと一気に先頭に立ち、最後はスミヨンが手綱を抑え、後ろを振り返る余裕を見せながら後続を3馬身突き放す圧勝を飾った。

2013年凱旋門賞

10月6日の第92回凱旋門賞には、最終的に18頭が登録を行った。この年は3歳馬に実績馬が多く、東京優駿優勝馬でニエル賞[注 30]にも勝ったキズナの他、イギリスダービー馬のルーラーオブザワールド、ジョッケクルブ賞(フランスダービー)[注 33]馬のアンテロディアヌ賞(フランスオークス)[注 33]ヴェルメイユ賞[注 30]を連勝したトレヴパリ大賞[注 30]に勝ったフリントシャーイギリスセントレジャーの勝ち馬リーディングライトなどが出走した[103]。一方、古馬では、前述のキャメロット、アイリッシュチャンピオンステークスに優勝していたザフューグが枠順が発表される前に登録を取り消した[104]。また、同年のキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークスをレコードタイムで圧勝し、バーデン大賞にも勝っていたノヴェリストは、発走前日に熱発のために出走を回避した[104]

迎えた本番。スタートからペンライパビリオンが押し出されるように逃げ、後にジョシュアツリーがこれを追い抜いていく。本馬は中団の後方外目を追走する。フォルスストレートではトレヴが外から追い抜いていき、キズナも横に並びかける。直線に向くとトレヴが一気に抜け出す。本馬はアンテロと馬体を合わせて追うが前との差はむしろ開いていき、最後は5馬身差をつけられて2年連続の2着に敗れた[105]

レース後に行われたインタビューで、池江は「精一杯やってきましたし、力は出し切った。それで負けたので勝った馬が強かったとしか言いようがない」と完敗を認めた。

2013年有馬記念

12月22日の第58回有馬記念を現役最後のレースと定め、ファン投票で1位に選出され出走[106]。鞍上には歴戦のパートナーの池添が復帰した[107]。レースでは1番人気に支持され、道中では後方待機策から徐々に前へ上げ、最後の第4コーナーを回って先頭に立つと2着のウインバリアシオンに8馬身差をつけてゴールイン。引退レースを堂々の勝利で飾った。

池添は有馬記念競走後に行われた表彰式でのインタビューで、「僕はオルフェーヴルは世界一強いと思います」「オルフェーヴルは今日がラストランです。過去の名馬たちや時代を築いた馬たちと一緒で、オルフェーヴルも今の時代を築いてきた馬です。東日本大震災の年に三冠になって、勇気や元気を与えることができた馬だと思います。オルフェーヴルという人を魅了する力強い馬がいたことを語り継いでほしい」[108]と本馬の労を労うスピーチを行った。

この日の最終競走終了後に中山競馬場で、関係者を集めて引退セレモニーが盛大に開催され[109]、当日の有馬記念で着用したゼッケンで登場した。

この年は4戦3勝2着1回。GIの勝利は有馬記念のみであったが、前年に続き最優秀4歳以上牡馬に選出された[110]。また、2013年度ワールドベストレースホースランキングにおいて、有馬記念のパフォーマンスが国内のレースでは歴代最高となる129ポンドと評価され、世界第3位タイにランクされた[3]

通算成績は21戦12勝(2着6回、3着1回、着外2回)、獲得賞金は13億4408万4000円+215万9880ユーロ。全てを日本円に換算すると15億7621万3000円であり[111]テイエムオペラオーに次ぐ2位となった。

引退後 

引退後は、社台スタリオンステーション種牡馬となった[112]。初年度の種付け料は600万円が予定されている[113]。順調に行けば初年度の産駒が2017年にデビュー予定である。

また、2013年に新設された「ロンジンワールドベストレースホース」[注 39]を日本馬として初めて受賞した。[114]

競走成績

競走日 競馬場 競走名 距離(馬場)


オッズ
(人気)
着順 タイム
(上り3F)
着差 騎手 斤量 1着馬(2着馬)
2010.08.14 新潟 2歳新馬 芝1600m(重) 14 5 8 03.0(2人) 01着 1:37.40 (33.4) -0.2 池添謙一 54Kg (ショウナンパルフェ)
0000.10.03 中山 芙蓉S OP 芝1600m(良) 8 3 3 02.1(1人) 02着 1:35.30 (34.5) -0.0 池添謙一 55Kg ホエールキャプチャ
0000.11.13 東京 京王杯2歳S GII 芝1400m(良) 15 4 7 03.3(1人) 10着 1:22.60 (33.8) -0.8 池添謙一 55Kg グランプリボス
2011.01.09 京都 シンザン記念 GIII 芝1600m(良) 16 1 1 10.7(3人) 02着 1:34.20 (33.5) -0.2 池添謙一 56Kg レッドデイヴィス
0000.02.06 京都 きさらぎ賞 GIII 芝1800m(良) 12 7 10 02.9(2人) 03着 1:47.80 (33.2) -0.2 池添謙一 56Kg トーセンラー
0000.03.26 阪神 スプリングS GII 芝1800m(良) 18 3 6 04.7(1人) 01着 1:46.40 (34.3) -0.1 池添謙一 56Kg ベルシャザール
0000.04.24 東京 皐月賞 GI 芝2000m(良) 18 6 12 10.8(4人) 01着 2:00.60 (34.2) -0.5 池添謙一 57Kg サダムパテック
0000.05.29 東京 東京優駿 GI 芝2400m(不) 18 3 5 03.0(1人) 01着 2:30.50 (34.8) -0.3 池添謙一 57Kg ウインバリアシオン
0000.09.25 阪神 神戸新聞杯 GII 芝2400m(良) 11 6 7 01.7(1人) 01着 2:28.30 (32.8) -0.4 池添謙一 56Kg (ウインバリアシオン)
0000.10.23 京都 菊花賞 GI 芝3000m(良) 18 7 14 01.4(1人) 01着 3:02.80 (34.6) -0.4 池添謙一 57Kg (ウインバリアシオン)
0000.12.25 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 13 6 9 02.2(1人) 01着 2:36.00 (33.3) -0.1 池添謙一 55kg エイシンフラッシュ
2012.03.18 阪神 阪神大賞典 GII 芝3000m(稍) 12 8 12 01.1(1人) 02着 3:11.90 (36.7) -0.1 池添謙一 57kg ギュスターヴクライ
0000.04.29 京都 天皇賞(春) GI 芝3200m(良) 18 8 18 01.3(1人) 11着 3:15.60 (34.0) -1.8 池添謙一 58kg ビートブラック
0000.06.24 阪神 宝塚記念 GI 芝2200m(良) 16 6 11 03.2(1人) 01着 2.10.90 (34.7) -0.3 池添謙一 58kg ルーラーシップ
0000.09.16 ロンシャン フォワ賞 G2 芝2400m(So) 5 5 4 01.7(1人) 01着 2.34.26 (00.0) 1馬身 C.スミヨン 58kg Meandre
0000.10.07 ロンシャン 凱旋門賞 G1 芝2400m(Co) 18 18 6 04.5(1人) 02着 クビ C.スミヨン 59.5kg Solemia
0000.11.25 東京 ジャパンC GI 芝2400m(良) 17 8 17 02.0(1人) 02着 2:23.10 (32.9) -0.0 池添謙一 57kg ジェンティルドンナ
2013.03.31 阪神 大阪杯 GII 芝2000m(良) 14 4 5 01.2(1人) 01着 1:59.00 (33.0) -0.1 池添謙一 58kg ショウナンマイティ)
0000.09.15 ロンシャン フォワ賞 G2 芝2400m(So) 9 1 7 01.8(1人) 01着 2.41.47 (00.0) 3馬身 C.スミヨン 58kg Very Nice Name
0000.10.06 ロンシャン 凱旋門賞 G1 芝2400m(So) 17 8 6 0 02着 5馬身 C.スミヨン 59.5kg Treve
0000.12.22 中山 有馬記念 GI 芝2500m(良) 16 3 6 01.6(1人) 01着 2:32.30 (36.0) -1.3 池添謙一 57kg (ウインバリアシオン)
  • 馬場状態:So=Souple(日本の稍重に相当), Co=Collant(日本の不良馬場に相当)

血統表

オルフェーヴル血統サンデーサイレンス系ヘイルトゥリーズン系) / Northern Taste4×3=18.75%) (血統表の出典)

ステイゴールド 1994
黒鹿毛 北海道白老町
父の父
*サンデーサイレンス
Sunday Silence 1986
青鹿毛 アメリカ
Halo Hail to Reason
Cosmah
Wishing Well Understanding
Mountain Flower
父の母
ゴールデンサッシュ 1988
栗毛 北海道白老町
*ディクタス
Dictus
Sanctus
Dronic
ダイナサッシュ *ノーザンテースト
*ロイヤルサッシュ

オリエンタルアート 1997
栗毛 北海道白老町
メジロマックイーン 1987
芦毛 北海道浦河町
メジロティターン
メジロアサマ
*シェリル
メジロオーロラ *リマンド
メジロアイリス
母の母
エレクトロアート 1986
栗毛 北海道早来町
*ノーザンテースト
Northern Taste
Northern Dancer
Lady Victoria
*グランマスティーヴンス
Grandma Stevens
Lt. Stevens
Dhow F-No.8-c
おもな近親

脚注

注釈

  1. ^ 1年の間、受胎=妊娠していない状態。
  2. ^ 2012年6月に金成貴史厩舎に転厩。
  3. ^ 同師は父であるステイゴールドの調教助手を務めていた。
  4. ^ これにより池添は3針縫う怪我を手に負っている[10]
  5. ^ 池添の父・兼雄の管理馬で池添がオルフェーヴルの次に期待を掛けていた馬であったが、東京スポーツ杯2歳Sのレース中に故障し予後不良となった。このことから池添も池江もオルフェーヴルが走るときには「イイデタイガーの分まで」という意識をもっているということである[12]
  6. ^ 昨今は騎手の乗り替わりが非常に多い風潮であり、騎手が乗り替わりを恐れて思い切った競馬ができないことを避けることができたということである[15]
  7. ^ 皐月賞8着、東京優駿5着、菊花賞5着。当時の鞍上は皐月賞・東京優駿が蛯名正義、菊花賞が武豊
  8. ^ 第78回東京優駿の出走馬の内、デビュー戦からコンビを組んでいたのは本馬を含めてステイゴールド産駒の3頭しかいなかった[13]。また、ドバイ首長であるシェイク・モハメド所有のデボネアには、皐月賞で手綱を取った佐藤哲三ではなく殿下の所有するゴドルフィングループの主戦を務め、世界ナンバーワンジョッキーの呼び声も高いランフランコ・デットーリが騎乗することとなり話題を集めた[21]。なお、当日は殿下も来場されている[21]
  9. ^ もう1頭はメイズイである。
  10. ^ この時点における京都3000メートルのレコードタイムは2006年の菊花賞でソングオブウインドが記録した3分2秒7である。
  11. ^ 32歳3か月1日。それまでの記録はシンザンで達成した栗田勝の32歳8ヶ月5日だった。
  12. ^ 父である池江泰郎もディープインパクトで三冠を達成している。
  13. ^ レースの上がり3ハロン34秒0は有馬記念史上最速である。
  14. ^ 「3歳4冠」と表現されることも多い。
  15. ^ もう1頭はシンボリルドルフである。
  16. ^ a b 大阪杯は阪神競馬場2000mのコース条件。
  17. ^ ナムラクレセントの鞍上である和田竜二は気を遣って、本馬の前に入る時も十分なスペースを取っていた[47]
  18. ^ この時リッカロイヤルが競走を中止し後退したため、実質は後方2番手である。
  19. ^ 池添は「ファンの皆さんに申し訳なかった」と期待に応えられなかったことを繰返し謝罪している[50]。またレース後、マスコミの前に現れた池江の第一声も「ファンの皆さまに申し訳ない」というものであった[51]
  20. ^ 福永騎手以外の主なところでは、松田博資師は「国内では抜けているな。ああいう形になってから来ることなんて、そうはないから」と、西園正都師は「すごい馬だね。1度バカついたら、普通はレースに戻って行かないよ」と感想を述べている[53]。また、天皇賞(春)に本馬と共に出走予定のGI2勝馬ローズキングダムを管理する橋口弘次郎師は「あの馬とは斤量が5キロ差あってちょうどいいぐらいじゃないかな」と苦笑いを浮かべた[54]
  21. ^ ダートコース。
  22. ^ 裁決委員3名、ハンデキャッパー5名。
  23. ^ なお、本馬は再審査時にリングバミとメンコを着用したため、次走でも同じ馬装具を付ける義務が発生する。また、再審査で騎乗した池添が本番でも跨る必要がある。もしも、池添に落馬負傷が発生した場合は出走取消になってしまう。
  24. ^ このレースの出走したジャガーメイルは左第1指骨剥離骨折を発症。フェイトフルウォーは両前脚屈腱炎の可能性が高いということである[60]。またナムラクレセントは左前浅屈腱炎を発症[61]、トーセンジョーダンは左前脚の球節炎のため宝塚記念を回避する事態となった[62]
  25. ^ この週の京都競馬場は、日曜日第8競走の1000万下条件戦でタイレコードが出、土曜日第9競走では3歳500万下条件戦にも関わらずコースレコードと同タイムが出るほどの高速馬場だった。
  26. ^ 本馬は調教再審査に伴う着用義務に従いレース中にメンコ(覆面)を着用したが、効果が出すぎた結果、行きっぷりが悪くなり勝負所でスムーズに反応できなかったという可能性のこと。池添も「初めて実戦で着用したメンコも逆効果。反応が鈍っていた」と証言している[64]
  27. ^ この結果について、池江が「阪神大賞典と天皇賞(春)では皆様の期待を裏切ったにもかかわらず、ファン投票で1位に支持していただいて本当にありがとうございます」と述べたのをはじめ[63]、陣営は感謝の気持ちを表した。
  28. ^ この時点で池江はオルフェーヴルの能力に関して「昨年の三冠や、秋3戦のコンディションであれば、はっきり言ってこの馬に勝てる馬は世界中どこにもいないでしょうね。それだけは断言できます」と評価している[63]
  29. ^ 万全ではない状態での出走について、池江は「例えば病的な故障がある(中略)という状態であれば、この馬は日本競馬界の宝ですので絶対に使わないです」とした一方で、「それだけの馬だからこそ何とかしたいのです。変な状態では出せないのかもしれないし、今回も本当は出したらいけないのかも知れないけれど、立ち向かっていかないとダメなのです」「勝つのは難しいかもしれませんが、ファン投票でも1位に支持されていますし、今出来る最善を尽くして出走させたいと思っています」と述べ、本馬の競馬界における立場やGIの舞台の厳しさを認識しつつも、出走を決意するに至った複雑な心境を明かしている[63]
  30. ^ a b c d 凱旋門賞と同じ、ロンシャン競馬場の芝2400mで行われる。
  31. ^ 2003年のDalakhani、2008年のZarkava
  32. ^ それまで騎乗していたジョセフ・オブライエンは56kgで騎乗するためには減量が必要であるため、他の騎手を探していた。
  33. ^ a b c ジョッケクルブ賞とディアヌ賞は芝2100m。
  34. ^ 馬の癖のひとつで、レースや調教時にふとしたことから馬の気が散り、走ることに集中力を欠くこと[83]
  35. ^ 1例目は、1984年にミスターシービー(10着)とシンボリルドルフ(3着)が対戦。
  36. ^ 三冠馬同士の対決自体は1985年の天皇賞・春でのミスターシービー(5着)とシンボリルドルフ(1着)以来27年ぶり、牡馬三冠馬と牝馬三冠馬の対決は史上初である。
  37. ^ ファン投票1位で、前年に続き選出されていた。
  38. ^ 強い運動をした際に肺の毛細血管が血圧の上昇によって破れて出血する疾患。重症化すると鼻出血に繋がる。
  39. ^ この賞は2013年から新設された賞で、前年に行われた世界のレースを対象に国際ハンデキャッパー会議で決定したランキングで好成績を収め、観衆を魅了したサラブレッドに贈呈されるもの。

出典

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外部リンク