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ニホンピロムーテー

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ニホンピロムーテー
現役期間 1970年-1973年
欧字表記 Nihonpillow Moutiers
品種 サラブレッド
性別
毛色 鹿毛
生誕 1968年4月6日
死没 1984年2月27日(17歳没・旧表記)
ムーティエ
ニホンピロー
母の父 ソロナウェー
生国 日本の旗 日本
生産者 辻牧場北海道浦河町
馬主 小林保
調教師 服部正利栗東
競走成績
生涯成績 28戦10勝
獲得賞金 105,309,900円
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ニホンピロムーテー日本競走馬種牡馬。1971年の第32回菊花賞などに優勝した。主戦騎手福永洋一。福永の騎手生活最初の八大競走優勝馬である。

  • 馬齢は2000年以前に使用された旧表記(数え年)で記述する。

経歴

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1968年4月6日北海道浦河町の辻牧場にて出生。1970年栗東トレーニングセンター服部正利厩舎に入厩する。

同年11月8日京都競馬場での3歳新馬戦にて、福永洋一が騎乗してデビュー。初戦は2着という結果で、以後年内に3戦を消化するが、 2着2回、3着1回と勝利には届かなかった。翌年の中央競馬開幕日の未勝利戦で初勝利を挙げる。その後、条件特別戦を2勝し、3月に出走した毎日杯で本馬初騎乗の簗田善則を背に重賞初制覇を果たした。

そのまま簗田を鞍上にクラシック路線を進んだが、クラシック初戦の皐月賞は10着、次走に予定していたNHK杯は熱発で回避するなど体調も崩し、迎えた東京優駿(日本ダービー)では8着と、いずれもヒカルイマイの前に敗れた[1]。東京優駿の後、夏は函館に遠征する。騎手を福永に戻して7月のオープン戦に優勝、8月のオープン特別戦・青函ステークスで2着と、復調の気配を見せた。

秋になると完全に復調し、緒戦の神戸杯で重賞2勝目を挙げると、菊花賞トライアル京都新聞杯では好位から抜け出して他馬を寄せ付けず、2馬身差で勝利を収めた。この競走でヒカルイマイが9着と敗れ、さらに屈腱炎を発症して休養に入る。これによりクラシック最終戦の菊花賞では、ニホンピロムーテーが1番人気に支持された。

ここまでの勝利はいずれも差し、あるいは後方からの追い込みで挙げたものであり、菊花賞でも当初は先頭から5、6番手に位置取っていた。しかし福永はレースがスローペースで推移していることを見て取り、2周目の第2コーナーで早くもニホンピロムーテーを先頭に立たせた[2]。この展開に場内がどよめいたが、福永は第3コーナー手前からスパートをかけると、最後はスインホウシュウを3/4馬身抑え優勝を果たした。この勝利は騎手の福永、調教師の服部ともに、初の八大競走制覇となった。福永は競走後、「ニホンピロムーテーは1600メートルなら誰にも負けない。あそこで先頭に立てばゴールまで1600メートル。このペースなら逃げ切れると思った。あれで負けたら乗り役をやめても良いぐらいの自信があった」と語った[3]。この騎乗により、福永は「天才」という評価を確立したとされる[† 1]

この後は年末の有馬記念を回避して翌1972年を迎え、天皇賞(春)を目標に据えた。しかし5歳以降は脚部不安を抱えたこともあり、この年春の中日新聞杯、6歳春の大阪杯武邦彦騎乗)の2勝に留まり、菊花賞以降は八大競走出走もないまま、1973年9月のサファイヤステークス15着を最後に競走馬を引退した。

その後は種牡馬となったが、目立った産駒を出せず、1984年に死亡している。

競走成績

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年月日 レース名 頭数 人気 着順 距離(状態 タイム 着差 騎手 斤量 勝ち馬/(2着馬)
1970 11. 8 京都 新馬 18 2 2着 芝1200m(良) 1:14.1 0.2秒 福永洋一 53 ヌノビキセイ
11. 21 京都 新馬 10 1 3着 芝1200m(重) 1:16.4 0.2秒 福永洋一 53 ケンヤク
11. 28 京都 新馬 14 2 2着 芝1200m(重) 1:16.7 0.4秒 福永洋一 53 フィドール
12. 20 阪神 未出走未勝利 14 1 2着 芝1400m(良) 1:26.8 0.6秒 福永洋一 53 シンテツオー
1971 1. 4 阪神 未出走未勝利 19 1 1着 芝1400m(重) 1:27.9 1 3/4身 福永洋一 54 (ブレーブファイト)
1. 15 京都 呉竹賞 9 1 1着 芝1600m(稍) 1:40.3 4身 福永洋一 54 (マチカネタロー)
1. 24 京都 シンザン記念 9 3 7着 芝1600m(重) 1:44.1 1.8秒 福永洋一 54 フィドール
2. 7 京都 さざんか賞 5 4 3着 芝1800m(良) 1:53.3 0.4秒 福永洋一 54 シングン
2. 27 阪神 春蘭賞 9 2 1着 芝1800m(重) 1:53.5 アタマ 福永洋一 54 (ヒデチカラ)
3. 14 阪神 毎日杯 9 6 1着 芝1900m(良) 1:57.8 3/4身 簗田善則 55 (シバクサ)
4. 17 中山 オープン 6 1 4着 芝1800m(不) 1:54.5 0.7秒 坪井正美 56 ミホペガサス
5. 2 中山 皐月賞 14 5 10着 芝2000m(良) 2:05.2 1.5秒 簗田善則 57 ヒカルイマイ
5. 23 東京 NHK杯 20 取消 芝2000m(良) 簗田善則 56 ヒカルイマイ
6. 13 東京 東京優駿 28 14 8着 芝2400m(稍) 2:33.0 1.4秒 簗田善則 57 ヒカルイマイ
7. 17 函館 オープン 5 1 1着 芝1700m(稍) 1:46.7 アタマ 福永洋一 54 (コマカブト)
8. 14 函館 青函S 7 4 2着 芝1800m(良) 1:50.9 0.1秒 福永洋一 54 アポスピード
10. 3 阪神 神戸杯 10 4 1着 芝1900m(稍) 2:00.4 1 3/4身 福永洋一 56 (スインホウシュウ)
10. 24 京都 京都新聞杯 14 3 1着 芝2000m(良) 2:02.8 2身 福永洋一 57 (ハーバーローヤル)
11. 14 京都 菊花賞 19 1 1着 芝3000m(良) 3:13.6 3/4身 福永洋一 57 (スインホウシュウ)
1972 1. 15 京都 金杯(西) 17 1 10着 芝2000m(不) 2:12.2 4.4秒 福永洋一 59 フィドール
1. 30 京都 スワンS 8 4 8着 芝1600m(重) 1:41.2 1.8秒 福永洋一 59 タカラローズ
2. 13 中京 中日新聞杯 7 4 1着 芝1800m(良) 1:51.0 1身 福永洋一 61 (シバクサ)
4. 2 阪神 鳴尾記念 17 4 16着 芝2400m(稍) 2:36.1 4.9秒 福永洋一 62 フィドール
12. 2 阪神 オープン 8 4 7着 芝1900m(良) 1:57.6 1.8秒 福永洋一 61 ニューキミノナハ
12. 24 阪神 阪神大賞典 11 3 9着 芝3100m(不) 3:29.7 2.0秒 福永洋一 56 ハマノパレード
1973 1. 14 京都 オープン 8 3 2着 芝1600m(重) 1:38.6 0.2秒 安田隆行 57 ファストバンブー
2. 11 京都 京都記念(春) 9 3 2着 芝2400m(稍) 2:28.7 0.1秒 武邦彦 58 ハマノパレード
3. 11 阪神 大阪杯 10 1 1着 芝2000m(良) 2:02.5 1 1/2身 武邦彦 58 (ハマノパレード)
9. 15 阪神 サファイヤS 16 6 15着 芝1600m(良) 1:40.3 3.6秒 武邦彦 60 カツヤヨイ

血統表

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ニホンピロムーテー血統プリンスローズ系 / Ballyferis 4x5=9.38%) (血統表の出典)

*ムーティエ
Moutiers
1958 栗毛 フランス
父の父
Sicambre
1948 青鹿毛 フランス
Prince Bio Prince Rose
Biologie
Sif Rialto
Suavita
父の母
Ballynash
1946 黒鹿毛 フランス
Nasrullah Nearco
Mumtaz Begum
Ballywellbroke Ballyferis
The Beggar

ニホンピロー
1961 鹿毛 日本
*ソロナウェー
Solonaway
1946 鹿毛 アイルランド
Solferino Fairway
Sol Speranza
Anyway Grand Glacier
The Widow Murphy
母の母
ヒスイ
1953 鹿毛 日本
*プリメロ
Primero
Blandford
Athasi
城猛 *レイモンド
月城 F-No.16-h

父ムーティエは非常に悍性のきつい馬として知られ、本馬も気性の荒い馬であった。母ニホンピローは競走馬時代に5勝。小林保の所有馬で「ニホンピロー(またはニホンピロ)」と名付けられた最初の馬である。その全妹に京都牝馬特別優勝馬ミスハツライオー。母系戦前屈指の名牝・月城(クレオパトラトマス)の流れを汲み、近親にはハクチカラなど数々の名馬がいる。

脚注

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注釈

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  1. ^ ただし福永の師匠である武田文吾は、「勝ったから良いが、あんな乗り方はない」(『菊花賞十番勝負』p.162)、「なぜ事前に馬と相談して決めておかんのか。馬との対話ができていないではないか」[4]と厳しい評価を下している。

出典

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  1. ^ しかし不調にあっての東京優駿8着に、服部は「思ったより走ったので、秋への希望を持ちました」と語っている。(菊花賞十番勝負 p.165)
  2. ^ 関西テレビで中継実況を担当していた杉本清は、自著の中で「(実況をしながら)『こいつ何すんねん』と目を疑った」と語っている。(杉本 p.187)
  3. ^ 杉本 p.188
  4. ^ 遠山 1993, p. 182.

参考文献

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  • 寺山修司志摩直人ほか『「優駿」観戦記で甦る菊花賞十番勝負』(小学館、1998年)
  • 杉本清『あなたのそして私の夢が走っています(文庫版)』(双葉社、1997年)
  • 遠山彰『日本ダービー物語』丸善、1993年。ISBN 978-4-621-05097-2 

外部リンク

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