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朝鮮の外来帰化氏族

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

朝鮮の外来帰化氏族(ちょうせんのがいらきかうじぞく)は歴史上の各時期に多くの外国人が移住し朝鮮民族帰化した。そして新しい姓氏あるいは新しい本貫をもたらした。外国人の朝鮮への帰化は三国時代に始まって、中国系が朝鮮に帰化したと言われている。しかし、多数の韓国の学者は朝鮮時代の学者・茶山丁若鏞が主張したように朝鮮半島の土着民が模華思想で中国の苗字を使ったと思っている[要出典][1]。朝鮮半島の土着民が中国の苗字を借りて族譜を作り始めたのは新羅末期と高麗時代である。女真契丹の攻撃によって合併の恐れがあった高麗時代には女真契丹との違いを表すため中国の苗字を借り、中国から帰化したという族譜を作るようになった。[2]特に高麗時代は多くの女真契丹が帰化し少数のベトナムモンゴルウイグルアラビアが帰化した。朝鮮王朝時代には、明朝日本などから来る少数の外国人が朝鮮に帰化した。流入した渤海人契丹との戦争に大きな功績を立てた。また流入した女真族は北方情勢を提供したり城を築いたり、軍功をたてた者もいる。李氏朝鮮を建国した李成桂は東北面出身でこの地域の女真族を自身の支持基盤とした。開国功臣だった李之蘭はこの地域出身の女真族指導者として同北方面の女真族と朝鮮の関係を篤実にするのに重要な役割を担当した。李氏朝鮮時代、同北方面の領域で領土拡張が可能だったことは女真族包容政策に力づけられたことが大きい。

民族的出自

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中国史書によると、3世紀頃には朝鮮半島北部や東北部沿岸には夫余系民族、南部には韓人倭人が住み、西北部はなどのが置かれて移民漢人も住んでいた。4世紀頃には高句麗領に夫余族の高句麗人が、百済に百済人(支配層は夫余族、被支配層は韓族)が、新羅伽耶に韓族の新羅人と伽耶人が居住し、7世紀、新羅により統一されると民族統合が進んだ。その後、ツングース系女真族金朝の南下とモンゴル帝国の侵攻により、女真族およびモンゴル民族朝鮮民族との混血が進む。

朴チョルヒ(朝鮮語: 박철희京仁教育大学)は、韓国の歴史教科書が過度に民族主義的に叙述され、帰化人の存在と文化的影響はほとんど触れられていないと批判している[3]。また、小学校6年生の社会教科書にある「一つに団結した同胞」の部分「私たちの同胞は最初の国・古朝鮮を建てて、高句麗百済新羅に続いて統一新羅へと発展して来た」との記述に、朴チョルヒ(朝鮮語: 박철희京仁教育大学校)は「教科書では、『古朝鮮が立てられる前の私たちの先祖の生活がどのようだったのか調べてみよう』と記し、旧石器新石器青銅器時代を説明し、まるで旧石器時代から古朝鮮に至るまで同じ血統の民族がこの地域に暮して来たかのように記述されている」と批判している[3]

李鮮馥(朝鮮語: 이선복英語: Yi Seon-bokソウル大学)は、「『5000年単一民族』が科学的歴史的な事実ではないと言うと、激昂する人々が周囲には多い。しかし各種資料が明示するように、われわれの姓氏の中には歴史時代を通して中国日本ベトナムをはじめ遠近各国から帰化した人々を祖先とする事例がひとつやふたつではない。もしわれわれが『5000年単一民族』を額面どおりに信じるのならば、姓氏の祖先がもともと韓半島にいなかったことが明らかな数多くの現代韓国人たちを、今後は韓国人とみなしてはならないだろう」「われわれはよく、われわれ自身を檀君子孫と称し、5000年の悠久な歴史をもつ単一民族であると称している。この言葉を額面どおり受け入れれば、韓民族は5000年前にひとつの民族集団としてその実体が完成され、そのとき完成された実体が変化することなく、そのまま現在まで続いたという意味になろう。しかしこの言葉は、われわれの歴史意識民族意識の鼓吹に必要な教育的手段にはなるであろうが、客観的証拠に立脚した科学的歴史的事実にはなりえない」と述べている[4][5]

韓洪九は、中国人箕子衛満渤海遺民の集団移住、契丹契丹の高麗侵攻)、モンゴルモンゴルの高麗侵攻)、日本(文禄・慶長の役)、満州丁卯胡乱)からの侵入など歴史上大量に外国人が流入した事例は数多くあり、朝鮮の氏族族譜では、祖先が外国から渡来した帰化氏族が多数あり、朝鮮が単一民族というのは「神話」に過ぎないと指摘している[6]

浜田耕策は、「留意すべきことは、朝鮮半島がただ半島の語によって説明されるが如くに、政治的にも、社会的にも一元的なかつ単層の社会ではなかった点である。少なくとも、司馬遷の『史記』巻115・朝鮮伝に見られるが、古朝鮮の社会には中国東北部をはじめとする勢力に押された人々が流入しており、そこに二元的な社会と文化が生じていたことである。即ち、『史記』朝鮮列伝からは、古朝鮮の地では土着民に加えて、中国東北部からの移住者がひとつの社会を築き、また、その周辺に『真番』『朝鮮』の政治社会が存在したことが確認されるのである。この朝鮮半島の西北部に多様な政治社会が存在したことは、『史記』以後の歴史書にも見られる。例えば、『魏略』の逸文を編修した張鵬一の『魏略輯本』巻21・朝鮮にも『中国亡命』集団が『朝鮮』のなかに一定の勢力を占めていたことが読みとれる。また、3世末の陳寿が撰した『三国志』巻30・魏書・東夷伝・東沃沮にも『漢初,燕亡人衛満王朝鮮,時沃沮皆屬焉』とあり、同じく、『箕子朝鮮』と『衞満朝鮮』には『の民』が流入した社会があり、この朝鮮を沃沮高句麗辰韓が取り巻いた多様な政治世界が存したことが理解されるのである」と指摘している[7]

外国姓氏の主要は中国系であるが、他にモンゴル系女真系ウイグル系アラビア系アヨーディヤー系ベトナム系日本系である。

韓洪九によると、朝鮮の氏族の数えて約40%から50%が帰化人である[8]。同じく金光林によると、朝鮮の氏族の半分は外国人起源であり、大半は中国人に起源にもつ[9]

岸本美緒宮嶋博史によると、朝鮮の一族には、中国から帰化した帰化族が相当存在しており、代表的なものでは慶州偰氏延安李氏南陽洪氏海州呉氏安東張氏豊川任氏咸従魚氏居昌愼氏原州邊氏などであり、なかでも延安李氏南陽洪氏豊川任氏は、李氏朝鮮時代屈指の名家であり、これらの帰化氏族の朝鮮への移民時期は、伝承的な性格の場合と、移民時期・移民者が明確な場合とに分類でき、特に宋朝元朝時代、なかでも元朝から支配されていた時代に移民しているが、しかし李氏朝鮮時代には見られなくなり、高麗時代までは移民を容易に受け入れていた極めて弛緩した社会であった[10]

帰化動機

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帰化した動機の大部分は政治亡命のためだが、宣教降伏援助商売戦乱を避けるため、犯罪から逃れるため、降嫁のために帰化した。

主要帰化氏族

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中国系

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日本系

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モンゴル系

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女真系

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ウイグル系

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アラビア系

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ベトナム系

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アヨーディヤー系

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オランダ系

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ロシア系

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ドイツ系

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脚注

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  1. ^ 영산 신씨 - NAVER
  2. ^ http://jokbo.skku.edu/intro/jokbo_story.jsp
  3. ^ a b “초등교과서, 고려때 ‘23만 귀화’ 언급도 안해”. 京郷新聞. (2007年8月21日). オリジナルの2021年7月30日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20210730074749/https://m.khan.co.kr/national/national-general/article/200708211830391 
  4. ^ 金相勲, 稲田奈津子[訳] , 三上喜孝[解説]「韓国人の起源に関する中高生の意識と『国史』教科書との関係」『山形大学歴史・地理・人類学論集』第13号、山形大学歴史・地理・人類学研究会、2012年3月、52-53頁、ISSN 13455435CRID 1050282677551302272 
  5. ^ 이선복『화석인골 연구와 한민족의 기원』일조각〈韓國史市民講座 Vol.32〉、2003年、64-65頁。 
  6. ^ 韓洪九『韓洪九の韓国現代史 韓国とはどういう国か』平凡社、2003年12月17日、68-69頁。ISBN 978-4582454291 
  7. ^ 浜田耕策 (2005年6月). “4世紀の日韓関係” (PDF). 日韓歴史共同研究報告書(第1期) (日韓歴史共同研究): p. 44-45. オリジナルの2015年10月18日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20151018092951/http://www.jkcf.or.jp/history_arch/first/1/1-01-hamada_j.pdf 
  8. ^ 韓洪九 (2006). 21세기에는 바꿔야 할 거짓말 Lie should be changed in the 21st century. ハンギョレ. ISBN 8984311979. http://book.daum.net/detail/book.do?bookid=KOR9788984311978 
  9. ^ 金光林 (2014年). “A Comparison of the Korean and Japanese Approaches to Foreign Family Names” (英語) (PDF). Journal of cultural interaction in East Asia (東アジア文化交渉学会). オリジナルの2016年3月27日時点におけるアーカイブ。. https://web.archive.org/web/20160327222247/http://www.sciea.org/wp-content/uploads/2014/05/03_JIN.pdf 
  10. ^ 岸本美緒宮嶋博史『明清と李朝の時代』中央公論社〈世界の歴史 (12)〉、1998年4月1日、17頁。ISBN 4124034121 

参考文献

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