利用者:京都東/sandbox
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1947年中華民国国民大会代表選挙(1947ねんちゅうかみんこくこくみんたいかいだいひょうせんきょ、繁: 1947年中華民國國民大會代表選舉、正式名称:第1屆國民大會代表選舉[1])は、1947年(民国36年)11月21日から23日にかけてに行われた、中華民国の国民大会代表を選出する選挙である。
国民政府は当初、この選挙と第1回立法委員選挙を同時に実施する予定であった。しかし第二次国共内戦下での交通の不便を理由に立法委員選挙は翌年に延期され、それぞれ単独で開催された[2]。なお、中国共産党と中国民主同盟は選挙への参加を拒否した[3]。
国営通信社の中央通訊社は「中華民国の約2億5千万人の有権者が自由意志に基づく選択で国民大会代表を選出する」と宣伝したが、欧米の各メディアは「実際に集まった有効投票数はわずか2000万票であった」と報じた[4][5]。中国青年党主席の曽琦は、1912年(民国元年)から1913年(民国2年)にかけて行われた第1回国会議員選挙と比較して「35年前よりはるかに良いものになった。一般市民の選挙への関心は高まっており、女性にも投票権が与えらた。民国元年の時点ではありえなかったことである」と評した[6]。
背景
[編集]中華民国の建国初期(臨時政府・北洋政府時代)にはすでに全国的な国会議員選挙が実施されていた。当時の国会は参議院と衆議院の両院制であり、参議員は各省議会による間接選挙、衆議員は国民による直接選挙で選出された[7]。
- 1912年 - 1913年(民国元年 - 民国2年):第1回国会議員選挙(参衆両院)
- 1918年(民国7年):第2回国会議員選挙(参衆両院)
- 1921年(民国10年):第3回国会議員選挙(衆議院のみ、ただし当選した議員による国会は開会されず)
国民政府が政権を握っていた1936年(民国25年)、憲法草案(五五憲草)を審議・可決するため、制憲国民大会の代表を選出する選挙が実施された。しかし選挙の準備が遅れた上に翌1937年(民国26年)に日中戦争が勃発したため、制憲国民大会自体の開催は延期となった[8][9]。戦後、1946年(民国35年)11月15日に制憲国民大会が招集されたが、当時は第二次国共内戦の最中であったため、中国共産党と中国民主同盟の代表は出席を拒否した[10][11][12]。制憲国民大会での採択を経て1947年(民国36年)1月1日に「中華民国憲法」が公布され、12月25日に施行された[8][11]。
選挙の経過
[編集]選挙後
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “國民大會代表選舉” (中国語). 中央選舉委員會. 2024年11月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年11月12日閲覧。
- ^ 朱宗震等 (2000) (中国語). 中华民国史第三编,第六卷. 中華書局. ISBN 7101020186
- ^ 李維周等 (1998) (中国語). 周恩来传. 中央文献出版社
- ^ “20 MILLION CHINESE VOTE AT ELECTIONS Twenty” (英語). The Canberra Times. (1947年11月25日). オリジナルの2020年10月27日時点におけるアーカイブ。 2020年10月24日閲覧。
- ^ “Nanking Puts Chinese Vote At 20 Million” (英語). The Washington Post. (1947年11月24日). p. 1
- ^ “曾琦談大情形較卅五年前為佳” (中国語). 中央日報: p. 2. (1947年11月24日)
- ^ 徐矛 (1992) (中国語). 中华民国政治制度史. 上海: 上海人民出版社
- ^ a b “諸外国の憲法事情 付・台湾”. 国立国会図書館. 2024年4月19日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年10月11日閲覧。
- ^ 高橋 1948, p. 219.
- ^ 薛 2009, p. 66.
- ^ a b 原 2022, p. 80.
- ^ 高橋 1948, pp. 234–235.
参考文献
[編集]書籍
[編集]- 赤松美和子・若松大祐 編『台湾を知るための72章【第2版】』明石書店、2022年。ISBN 978-4750353777。
- 原正人「憲法―「民主」への遠い道のり」2022年。
- 高橋勇治『中華民国憲法』有斐閣、1948年。ISBN 4-641-62048-2。
論文
[編集]- 薛化元「中華民国憲法の制定過程と政府の組織原理に対する再考察:張君勱を中心に」『近代中国研究彙報』第31号、東洋文庫、2009年、59-78頁、NAID 120006514491、 オリジナルの2024年12月19日時点におけるアーカイブ、2024年12月19日閲覧。
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国共関係 | |||
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双方の指導者 | |||
国共関係(こっきょうかんけい、繁: 國共關係、中: 国共关系)では、中国国民党(国民党)と中国共産党(共産党)の関係について説明する。
概要
[編集]1923年、国民党総理の孫文とソビエト連邦代表のアドリフ・ヨッフェが共同宣言(孫文・ヨッフェ共同宣言)を発表し、国民党の「連ソ・容共」の方針が明らかになった。その後コミンテルンの要請[1]を受けて陳独秀や毛沢東など各共産党員が個人として国民党に加入することで第一次国共合作が成立したが、孫文死後の1927年に国民革命軍総司令の蔣介石が共産党員の弾圧(上海クーデター)をこなったことがきっかけで合作は崩壊し、第一次国共内戦に突入した。合作崩壊の原因について、国民党側は「国民党に入党した共産党員は孫文・ヨッフェ共同宣言の取り決めの通り国民党の指導下で国民革命に協力すべきだったが、共産党員は北伐に反対して国民革命を妨害し、南京の光復後に暴動を起こしたため、『清党(共産党員の排除)』を実行した」、共産党側は「孫文の三大政策(連ソ・容共・扶助工農)にも含まれている親ソ政策の実行は、国共合作の根底を成すものであった。しかし国民党右派は連ソと容共を放棄したため、革命の失敗を招いた。共産党は三大政策を堅持するために国民政府に対する反撃を開始する必要があった。」と主張した[2]。
1937年には前年に勃発した西安事件をきっかけとして、第二次国共合作(抗日民族統一戦線)が成立した。日中戦争に勝利した1945年には両党の指導者の会談(重慶会談)を経て、内戦を避けて統一政権を樹立することを謳った「双十協定」が国民政府と共産党の間で締結されたものの、同年中に内戦は再開した(第二次国共内戦)。1949年に入ると共産党が北平や南京などの主要都市を制圧し、10月に中華人民共和国の建国、12月に中華民国政府の台湾撤退が行われた。1950年以降、国民党は中国大陸での拠点を失った。国民党率いる中華民国は台湾で反共路線を維持し、国際社会での「中国」の代表権を巡る争いや台湾海峡での武力衝突を繰り広げてきた。1990年代に入ると台湾の民主化が進んで国民党は独裁体制を放棄し、2000年には政権交代が行われて民主進歩党(民進党)が与党となった。2000年代以降の国民党は共産党との関係改善に転じ、「台湾独立反対」の方針で一致している[3][4]、2005年には国民党主席の連戦が中国大陸を訪問して共産党総書記・中華人民共和国主席の胡錦濤との会談を行い、重慶会談以来初めて両党のトップの面会が実現した。
沿革
[編集]第一次国共合作(1923年 - 1927年)
[編集]
合作崩壊
[編集]第一次国共内戦(1927年 - 1936年)
[編集]
第二次国共合作(1937年 - 1945年)
[編集]
国民党
[編集]共産党
[編集]第二次国共内戦(1945年 - 1950年)
[編集]現状
[編集]両党間での祝電のやり取り
[編集]両党幹部同士の会談
[編集]国共和解諭
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ “100 years since the founding of the Chinese Communist Party” (英語). World Socialist Web Site. 2021年8月15日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年8月5日閲覧。
- ^ 林・周 1989, p. 113.
- ^ “深蹲30年?吳敦義:未來執政將洽簽和平協議” (中国語). 中國時報 (2019年2月14日). 2020年4月12日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年7月26日閲覧。
- ^ “世紀握手!馬英九、習近平兩岸領導人首次同台” (中国語). TVBS (2015年11月7日). 2019年7月25日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年7月26日閲覧。
参考文献
[編集]- 林家有・周兴梁 (1989). 孙中山与第一次国共合作. 成都: 四川人民出版社
関連項目
[編集]
[[Category:中国国民党]] [[Category:中国共産党]] [[Category:中華民国の政治]] [[Category:中台関係]]
台北市の道路(タイペイ/たいほくしのどうろ)では、台湾の台北市内の道路について記述する。
市街地の主要道路網
[編集]高速公路・快速公路
[編集]- 国道快速公路
- 快速道路(都市高速道路)
台湾省道
[編集]- 台1線:起点(行政院前)- 忠孝西路 - 忠孝橋 -(新北市三重区)
- 台1甲線:起点(行政院前)- 中山北路一段 - 民権西路 - 台北大橋 -(新北市三重区)
- 台2甲線:(新北市金山区)- 陽金公路 - 竹子湖路 - 陽明路 - 格致路 - 仰徳大道 - 福林路 - 中山北路五~二段 -(終点)
- 台2乙線:重慶北路三~四段 - 百齢橋 - 中正路 - 承徳路五~七段 - 大度路 -(新北市淡水区)
- 台3線:起点(行政院前) - 忠孝西路一段 - 中華路一~二段 - 和平西路二~三段 - 華江橋 -(新北市板橋区)
- 台5線:起点(行政院前)- 忠孝東路一~七段 - 研究院路一段 - 南港路一段 -(新北市汐止区)
- 台9線:起点(行政院前)- 中山南路 - 羅斯福路一~六段 - 景美橋 -(新北市新店区)
市道
[編集]道路名
[編集]「台北市道路牌・門牌編釘弁法」第3条の規定に基づき、幅15メートル以上の道路は「路」、幅8メートル以上15メートル未満の道路は「街」、幅8メートル未満または全長500メートル未満の道路は「巷」と呼ばれる。また、幅25メートル以上の道路の一部は「大道」と呼ばれる。
1968年(民国57年)の市域拡大以前から台北市内だった地域の道路は、ほとんどが中国大陸の地名、歴史人物、古文の言葉にちなんで命名されている。1968年に台北市に編入された地域である北投・士林・内湖・南港・文山の道路名は、旧市域での命名ルールに準拠していない。
方角の境界
[編集]台北市街地の道路名の東西は羅斯福路・中山南路・中山北路を基準とし、これ以西は「○○西路」、以東は「○○東路」と呼ばれる。南北は忠孝西路・忠孝東路一~二段・八徳路[注 1]を基準とし、これ以南は「○○南路」、以北は「○○北路」と呼ばれる。但し、基隆路など例外も存在する。
ローマ字表記
[編集]沿革
[編集]台北市内の通り一覧
[編集]以下は、様々な規則に基づいている命名されている台北市内の道路の一覧である。
中国大陸の地名
[編集]院轄市
[編集]院轄市 | ||||
---|---|---|---|---|
道路名 | 由来 | 現在の行政区画 | 通過地域 | 備考 |
南京東路 | 南京市 | 江蘇省南京市 | 中山区・松山区・内湖区 | 首都 |
南京西路 | 大同区 | |||
重慶南路 | 重慶市 | 重慶市 | 中正区 | |
重慶北路 | 大同区・士林区 | |||
北平東路 | 北平市 | 北京市 | 中正区 | |
北平西路 | ||||
青島東路 | 青島市 | 山東省青島市 | ||
青島西路 | ||||
天津街 | 天津市 | 天津市 | 中正区・中山区 | |
西安街 | 西安市 | 陝西省西安市 | 北投区 | |
漢口街 | 漢口市 | 湖北省武漢市 | 中正区・万華区 | |
広州街 | 広州市 | 広東省広州市 |
東北地区
[編集]東北地区 | ||||
---|---|---|---|---|
道路名 | 由来 | 現在 (中華人民共和国の区画) |
通過地域 | 備考 |
黒竜江省 | ||||
竜江路 | 黒竜江省 | 黒竜江省 | 中山区 | |
北安路 | 北安市 | 黒竜江省黒河市北安市 | 黒竜江省政府所在地 | |
通北街 | 通北県 | 黒竜江省黒河市北安市通北鎮 | ||
明水路 | 明水県 | 黒竜江省綏化市明水県 | ||
慶城街 | 慶城県 | 黒竜江省綏化市慶安県 | 松山区 | |
興安省 | ||||
興安街 | 興安省 | 内モンゴル自治区フルンボイル市・ヒンガン盟 | 中山区・松山区 | |
合江省 | ||||
合江街 | 合江省 | 黒竜江省 | 中山区 | |
富錦街 | 富錦県 | 黒竜江省ジャムス市富錦市 | 松山区 | |
宝清街 | 宝清県 | 黒竜江省双鴨山市宝清県 | ||
撫遠街 | 撫遠県 | 黒竜江省ジャムス市撫遠市 | ||
饒河街 | 饒河県 | 黒竜江省双鴨山市饒河県 | ||
虎林街 | 虎林県 | 黒竜江省鶏西市虎林市 | 松山区・信義区 | |
林口街 | 林口県 | 黒竜江省牡丹江市林口県 | 信義区 | |
通河街 | 通河県 | 黒竜江省ハルビン市通河県 | 士林区 | |
松江省 | ||||
松江路 | 松江省 | 吉林省延辺朝鮮族自治州・黒竜江省 | 中山区 | |
浜江街 | 浜江県 | 黒竜江省ハルビン市道外区 | 中山区・松山区 | |
延吉街 | 延吉県 | 吉林省延辺朝鮮族自治州延吉市・竜井市 | 松山区・大安区 | |
寧安街 | 寧安県 | 黒竜江省牡丹江市寧安市 | 松山区 | |
延寿街 | 延寿県 | 黒竜江省ハルビン市延寿県 | ||
東寧路 | 東寧県 | 黒竜江省牡丹江市東寧市 | ||
吉林省 | ||||
長春路 | 長春市 | 吉林省長春市 | 中山区・松山区 | |
五常街 | 五常県 | 黒竜江省ハルビン市五常市 | ||
吉林路 | 吉林市 | 吉林省吉林市 | 中山区 | 吉林省政府所在地 |
双城街 | 双城県 | 黒竜江省ハルビン市双城区 | ||
徳恵街 | 徳恵県 | 吉林省長春市徳恵市 | ||
農安街 | 農安県 | 吉林省長春市農安県 | ||
伊通街 | 伊通県 | 吉林省四平市伊通満族自治県 | ||
敦化南路 | 敦化県 | 吉林省延辺朝鮮族自治州敦化市 | 大安区 | |
敦化北路 | 松山区 | |||
永吉路 | 永吉県 | 吉林省吉林市永吉県 | 信義区・南港区 | |
安東省 | ||||
安東街 | 安東省 | 遼寧省・吉林省 | 大安区・中山区 | |
通化街 | 通化市 | 吉林省通化市 | 大安区 | 安東省政府所在地 |
臨江街 | 臨江県 | 吉林省白山市臨江市 | ||
東豊街 | 東豊県 | 吉林省遼源市東豊県 | ||
遼北省 | ||||
四平街 | 四平市 | 吉林省四平市 | 中山区 | |
遼寧省 | ||||
遼寧街 | 遼寧省 | 遼寧省・吉林省・内モンゴル自治区 | 中山区 | |
錦州街 | 錦州市 | 遼寧省錦州市 | ||
興城街 | 興城県 | 遼寧省葫芦島市興城市 | 大同区 | |
錦西街 | 錦西県 | 遼寧省葫芦島市 | 中山区・大同区 | |
撫順街 | 撫順県 | 遼寧省撫順市 | ||
北寧路 | 北鎮県(北寧) | 遼寧省錦州市北鎮市 | 松山区 |
塞北地区
[編集]塞北地区 | ||||
---|---|---|---|---|
道路名 | 由来 | 現在の行政区画 | 通過地域 | 備考 |
熱河省 | ||||
承徳路 | 承徳県 | 河北省承徳市 | 大同区・士林区・北投区 | 熱河省政府所在地 |
赤峰街 | 赤峰県 | 内モンゴル自治区赤峰市 | 大同区 | |
察哈爾省 | ||||
万全街 | 万全県 | 河北省張家口市万全区 | 大同区 | |
綏遠省 | ||||
帰綏街 | 帰綏市 | 内モンゴル自治区フフホト市 | 大同区 | 綏遠省政府所在地 |
五原路 | 五原県 | 内モンゴル自治区バヤンノール市五原県 | ||
寧夏省 | ||||
寧夏路 | 寧夏省 | 寧夏回族自治区・内モンゴル自治区アルシャー盟・バヤンノール市磴口県 | 大同区 | |
蒙古地方 | ||||
庫倫街 | 庫倫 | モンゴル国ウランバートル市 | 大同区 | 蒙古地方首府 |
華北地区
[編集]華北地区 | ||||
---|---|---|---|---|
道路名 | 由来 | 現在の行政区画 | 通過地域 | 備考 |
山東省 | ||||
済南路 | 済南市 | 山東省済南市 | 中正区・大安区 | 山東省政府所在地 |
泰安街 | 泰安県 | 山東省泰安市 | 中正区 | |
斉東街 | 斉東県 | 山東省淄博市高青県 | ||
臨沂街 | 臨沂県 | 山東省臨沂市 | ||
河南省 | ||||
鄭州路 | 鄭県(鄭州) | 河南省鄭州市 | 中正区・大同区 | 國民政府時期1929~1931年間為鄭州市 |
南陽街 | 南陽県 | 河南省南陽市 | 中正区 | |
信陽街 | 信陽県 | 河南省信陽市 | ||
許昌街 | 許昌県 | 河南省許昌市 | ||
開封街 | 開封県 | 河南省開封市 | 中正区・万華区 | 中華民國河南省省會;國民政府時期1929~1931年間為開封市 |
洛陽街 | 洛陽県 | 河南省洛陽市 | 万華区 | |
山西省 | ||||
太原路 | 太原市 | 山西省太原市 | 大同区 | 山西省政府所在地 |
平陽街 | 臨汾県(平陽) | 山西省臨汾市 | ||
陝西省 | ||||
長安東路 | 長安県 | 陝西省西安市 | 中山区・松山区 | |
長安西路 | 大同区 | |||
保安街 | 保安県 | 陝西省延安市志丹県 | ||
華陰街 | 華陰県 | 陝西省渭南市華陰市 | ||
漢中街 | 南鄭県(漢中) | 陝西省漢中市 | 万華区 | |
渭水路 | 渭水 | 渭水 | 中山区 | 有觀點認為紀念 政治人物蔣渭水 |
甘粛省 | ||||
蘭州街 | 蘭州市 | 甘粛省蘭州市 | 大同区 | 甘粛省政府所在地 |
酒泉街 | 酒泉県 | 甘粛省酒泉市 | ||
敦煌路 | 敦煌県 | 甘粛省酒泉市敦煌市 | ||
玉門街 | 玉門県 | 甘粛省酒泉市玉門市 | ||
安西街 | 安西県 | 甘粛省酒泉市瓜州県 | ||
天水路 | 天水県 | 甘粛省天水市 | ||
華亭街 | 華亭県 | 甘肅省平涼市華亭市 | ||
涼州街 | 武威県(涼州) | 甘肅省武威市 | ||
民楽街 | 民楽県 | 甘粛省張掖市民楽県 | ||
永昌街 | 永昌県 | 甘粛省金昌市永昌県 | ||
甘谷街 | 甘谷県 | 甘粛省天水市甘谷県 | ||
甘州街 | 張掖県(甘州) | 甘肅省張掖市 |
華中地区
[編集]華中地区 | ||||
---|---|---|---|---|
道路名 | 由来 | 現在の行政区画 | 通過地域 | 備考 |
江蘇省 | ||||
金山南路 | 金山県 | 上海市金山区 | 中正区・大安区 | |
金山北路 | 中正区 | |||
徐州路 | 徐州市 | 江蘇省徐州市 | ||
銅山街 | 銅山県 | 江蘇省徐州市銅山区 | ||
鎮江街 | 鎮江県 | 江蘇省鎮江市 | 江蘇省政府所在地 | |
連雲街 | 連雲市 | 江蘇省連雲港市 | ||
丹陽街 | 丹陽県 | 江蘇省鎮江市丹陽市 | ||
浙江省 | ||||
杭州南路 | 杭州市 | 浙江省杭州市 | 中正区・大安区 | 浙江省政府所在地 |
杭州北路 | 中正区 | |||
寧波東街 | 鄮県(寧波) | 浙江省寧波市 | 中正区 | |
寧波西街 | ||||
紹興南街 | 紹興県 | 浙江省紹興市 | ||
紹興北街 | ||||
金華街 | 金華県 | 浙江省金華市 | 中正区・大安区 | |
麗水街 | 麗水県 | 浙江省麗水市 | 大安区 | |
永康街 | 永康県 | 浙江省金華市永康市 | ||
温州街 | 永嘉県(温州) | 浙江省温州市 | ||
瑞安街 | 瑞安県 | 浙江省温州市瑞安市 | ||
泰順街 | 泰順県 | 浙江省温州市泰順県 | ||
青田街 | 青田県 | 浙江省麗水市青田県 | ||
竜泉街 | 竜泉県 | 浙江省麗水市竜泉市 | ||
雲和街 | 雲和県 | 浙江省麗水市雲和県 | ||
長興街 | 長興県 | 浙江省湖州市長興県 | ||
嘉興街 | 嘉興県 | 浙江省嘉興市 | 大安区・信義区 | |
富陽街 | 富陽県 | 浙江省杭州市富陽区 | ||
呉興街 | 呉興県 | 浙江省湖州市 | 信義区 | |
崇徳街 | 崇徳県 | 浙江省嘉興市桐郷市 | ||
安徽省 | ||||
懐寧街 | 懐寧県 | 安徽省安慶市懐寧県 | 中正区 | |
江西省 | ||||
南昌路 | 南昌市 | 江西省南昌市 | 中正区 | 江西省政府所在地 |
湖口街 | 湖口県 | 江西省九江市湖口県 | 中正区 | |
牯嶺街 | 牯嶺 | 江西省九江市濂渓区牯嶺 | ||
湖北省 | ||||
武昌街 | 武昌市 | 湖北省武漢市 | 中正区・万華区 | 湖北省政府所在地 |
襄陽路 | 襄陽県 | 湖北省襄陽市 | 中正区 | |
湖南省 | ||||
長沙街 | 長沙市 | 湖南省長沙市 | 中正区・万華区 | 湖南省政府所在地 |
沅陵街 | 沅陵県 | 湖南省懐化市沅陵県 | 中正区 | |
永綏街 | 永綏県 | 湖南省湘西トゥチャ族ミャオ族自治州花垣県 | ||
常徳街 | 常徳県 | 湖南省常徳市 | 只有1號,就是台大醫院 | |
衡陽路 | 衡陽市 | 湖南省衡陽市 | ||
宝慶路 | 邵陽県(宝慶) | 湖南省邵陽市 | ||
桃源街 | 桃源県 | 湖南省常徳市桃源県 | ||
四川省 | ||||
成都路 | 成都市 | 四川省成都市 | 万華区 | 四川省政府所在地 |
峨眉街 | 峨眉県 | 四川省楽山市峨眉山市 | ||
内江街 | 内江県 | 四川省内江市 | ||
隆昌街 | 隆昌県 | 四川省内江市隆昌市 | ||
酉陽街 | 酉陽県 | 重慶市酉陽トゥチャ族ミャオ族自治県 | 中正区 | |
秀山街 | 秀山県 | 重慶市秀山トゥチャ族ミャオ族自治県 |
華南地区
[編集]華南地区 | ||||
---|---|---|---|---|
道路名 | 由来 | 現在の行政区画 | 通過地域 | 備考 |
福建省 | ||||
福州街 | 福州市 | 福建省福州市 | 中正区 | 福建省政府所在地 |
廈門街 | 廈門市 | 福建省廈門市 | ||
泉州街 | 晋江県(泉州) | 福建省泉州市 | ||
晋江街 | 晋江県 | 福建省泉州市晋江市 | ||
永春街 | 永春県 | 福建省泉州市永春県 | ||
恵安街 | 恵安県 | 福建省泉州市恵安県 | ||
三元街 | 三元県 | 福建省三明市三元区 | ||
同安街 | 同安県 | 福建省廈門市同安区・翔安区 | ||
詔安街 | 詔安県 | 福建省漳州市詔安縣 | ||
金門街 | 金門県 | 福建省金門県 | 現在も中華民国政府の実効支配下にある。 | |
汀州路 | 長汀県(汀州) | 福建省竜岩市長汀県 | 万華区・中正区・文山区 | |
長泰街 | 長泰県 | 福建省漳州市長泰区 | 万華区 | |
浦城街 | 浦城県 | 福建省南平市浦城県 | 大安区 | |
広東省 | ||||
潮州街 | 潮安県(潮州) | 広東省潮州市 | 中正区 | |
南海路 | 南海県 | 広東省仏山市南海区 | ||
大埔街 | 大埔県 | 広東省梅州市大埔県 | 中正区・万華区 | |
興寧街 | 興寧県 | 廣東省梅州市興寧市 | 万華区 | |
三水街 | 三水県 | 広東省仏山市三水区 | ||
文昌街 | 文昌県 | 海南省文昌市 | 大安区 | |
広西省 | ||||
南寧路 | 南寧市 | 広西チワン族自治区南寧市 | 万華区 | |
梧州街 | 梧州市 | 広西チワン族自治区梧州市 | ||
柳州街 | 柳州市 | 広西チワン族自治区柳州市 | ||
桂林路 | 桂林市 | 広西チワン族自治区桂林市 | 広西省政府所在地 | |
永福街 | 永福県 | 広西チワン族自治区桂林市永福県 | ||
雲南省 | ||||
昆明街 | 昆明市 | 雲南省昆明市 | 万華区 | 雲南省政府所在地 |
大理街 | 大理県 | 雲南省大理ペー族自治州大理市 | ||
富民路 | 富民県 | 雲南省昆明市富民県 | ||
貴州省 | ||||
貴陽街 | 貴陽市 | 貴州省貴陽市 | 中正区・万華区 | 貴州省政府所在地 |
興義街 | 興義県 | 貴州省黔西南プイ族ミャオ族自治州興義市 | 万華区 | |
長順街 | 長順県 | 貴州省黔南プイ族ミャオ族自治州長順県 |
西部地区
[編集]西部地区 | ||||
---|---|---|---|---|
道路名 | 由来 | 現在の行政区画 | 通過地域 | 備考 |
西康省 | ||||
康定路 | 康定県 | 四川省カンゼ・チベット族自治州康定市 | 万華区 | 西康省政府所在地 |
雅江街 | 雅江県 | 四川省カンゼ・チベット族自治州雅江県 | ||
西昌街 | 西昌県 | 四川省涼山イ族自治州西昌市 | ||
德昌街 | 徳昌県 | 四川省涼山イ族自治州徳昌県 | ||
宝興街 | 宝興県 | 四川省雅安市宝興県 | ||
武成街 | 武成県 | チベット自治区チャムド市ゴンジョ県 | ||
青海省 | ||||
民和街 | 民和県 | 青海省海東市民和回族トゥ族自治県 | 万華区 | |
西寧南路 | 西寧市 | 青海省西寧市 | 青海省政府所在地 | |
西寧北路 | 大同区 | |||
貴徳街 | 貴徳県 | 青海省海南チベット族自治州貴徳県 | ||
新疆省 | ||||
迪化街 | 迪化市 | 新疆ウイグル自治区ウルムチ市 | 大同区 | 新疆省政府所在地 |
塔城街 | 塔城県 | 新疆ウイグル自治区イリ・カザフ自治州タルバガタイ地区チョチェク市 | 大同區 | |
哈密街 | 哈密県 | 新疆ウイグル自治区クムル市伊州区 | ||
昌吉街 | 昌吉県 | 新疆ウイグル自治区昌吉回族自治州昌吉市 | ||
伊寧街 | 伊寧県 | 新疆ウイグル自治区イリ・カザフ自治州グルジャ県 | ||
景化街 | 景化県 | 新疆ウイグル自治区昌吉回族自治州フトビ県 | ||
西蔵地方 | ||||
西蔵路 | 西蔵地方 | チベット自治区 | 万華区・中正区 |
人名
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旧市域(中正・中山・大同・松山・信義・萬華・大安)[編集]
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新市域(文山・北投・士林・内湖・南港)[編集]
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歴史上の事物
[編集]- 凱達格蘭大道:紀念原居於台北盆地之原住民凱達格蘭族,原名介壽路。
- 辛亥路:紀念辛亥革命。位於大安區、中正區、文山區,共分七段。
- 光復路:意為「紀念台灣光復,獲得新生」。位在松山區、大安區、信義區。
- 新生路:意為「紀念台灣光復,獲得新生」。位在中山區、中正區、大安區。
- 一江街:紀念一江山事件,在道路中央的一江公園內豎立一江山事件紀念碑。
- 萬大路:慶祝萬大計畫完成。(萬華、大龍峒)
- 昆陽街:蔣中正於1957年11月28日舉行昆陽演習,「昆陽」兩字引自中國古代戰爭史上西漢末年綠林軍戰勝新朝軍的昆陽之戰。
- 莒光路:蔣中正於1952年發起毋忘在莒運動,鼓動反攻大陸的情緒。
古文・思想訓示
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旧市域[編集]
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新市域[編集]
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瑞祥地名
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かつての地名
[編集]直接用當地地名:包括原住民社名、清代舊地名(庄)、日本統治時期大字、小字,街、町、村,或當地里名等。
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自然景観
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地標景點
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機關建築[編集]学術機関[編集]
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古刹[編集]
社區[編集]
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其他地標景點
[編集]- 經貿路:在南港經貿園區重劃區內。
- 園區街:在南港軟體園區旁。
- 經園街:在南港經貿園區內。
- 水源路:原台北市自來水源地旁。
- 芳蘭路:市定古蹟芳蘭大厝(義方居)旁。
- 車前路:舊台鐵景美車站前。
- 敦南街:原基隆路三段4巷,因離敦化南路不遠而由當地住戶提請改名,於2006年5月起獲市政府同意更名。[22]
- 恆光街:連接恆光橋而命名。
- 新市街:北投市場[23]。
- 愛富一街、愛富二街、愛富三街:「愛富」是由英文字母「F」的音譯而來,因此區原為駐台美軍宿舍(F區)所在地。
組合型
[編集]地名衍伸的字輩
[編集]- 松山地區「松」字輩:松河街、松信路等。以下路名雖位於信義區,但因其舊屬松山區,故仍沿用「松」字輩命名。[25]
- 南北向由西到東分別為:松智路、松仁路、松勇路、松信路、松德路、松山路。
- 東西向由北到南分別為:松隆路、松高路、松壽路、松廉路、松勤街、松平路。
- 福德洋地區「福」字輩:福德路、福榮街、福壽街、福志路、福林路。
- 葫蘆堵地區「葫」字輩:葫東街、葫蘆街。
- 社子地區「社」字輩:社子街、社中街、社正路。
- 內湖地區「湖」字輩:東湖路、文湖街、大湖街、瑞湖街、金湖路、基湖路、新湖一~三路及康湖路等。
- 景美地區「景」字輩:
- 南北向由西到東分別為:景福街、景文街、景美街、景後街、景興路、景豐街。
- 東西向由南到北分別為:景中街、景華街、景仁街、景隆街、景明街。
- 萬芳社區「萬」字輩:萬芳路、萬美街、萬和街、萬利街、萬安街、萬樂街、萬寧街。
- 士林區華聲電台附近:華聲街、華榮街、華光街、華興街。
- 信義區挹翠山莊內:青雲街、景雲街、祥雲街、紫雲街、瑞雲街。
- 北投區翠宜山莊內:翠宜街、翠華街、翠嶺街、翠雲街。
両端の地名の組み合わせ
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用到兩個地方的地名或路名,各取一個字:
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その他
[編集]- 如士林地區以「大、小」及「東、西、南、北」組合成八條互相交錯的街路:
- 大東路、小東街、大西路、小西街、大南路、小南街、大北路、小北街。
- 士林舊街地區另有以「前街」及「後街」為名的街道。
- 大直重劃區以「敬業」為經、「樂群」為緯搭配數字組合成七條棋盤狀道路。
- 北投區榮華里以「富貴」為經、「榮華」為緯搭配數字組合成四條棋盤狀道路。
- 北投石牌地區以淡水線分成東華街、西安街。
- 南港車站附近:興中路、興華路。配對形成復興中華,和興南路無關。
特殊功能道路
[編集]- 中正山產業道路:自中正山至竹子湖路。
- 金龍產業道路:自內湖路三段底至碧山路。
- 碧溪產業道路:自碧山路至至善路。
- 雙溪產業道路:自至善路至萬溪產業道路。
- 萬溪產業道路、萬溪右線產業道路、萬溪左線產業道路:汐止、內湖、士林交界區。
- 猴洞產業道路:自中山北路七段219巷至路底四根紅色鐵柱與藍色鐵皮屋止,山路可通往文化大學山區。
- 下東勢產業道路:自東山路至文化大學後門。
戰備道路
[編集]- 中湖戰備道路:自陽金公路至菁山路,平日開放。
- 擎天崗戰備道路:自擎天崗至中湖戰備道路,平日開放,擎天崗端還留有民國六十一年埔光部隊附一之一所設立的擎天崗立牌。
- 竹子山戰備道路:自竹子山至陽金公路,平日不開放,遇陽明山國家公園路跑活動或蝴蝶季會開放。
- 小觀音山戰備道路:自小觀音山主峰至巴拉卡公路,平日不開放,沿途有台視、中視、華視、警廣等各媒體轉播站,本戰備道路位於區界上。
その他の道路
[編集]- 華西街:說明艋舺街道以中國西南各地命名的規則。[26]
- 東南街:以相對於中南街的方向命名。[27]
- 江南街:原名濱江南路。
- 環東大道:連環台北市東區之道路。
- 士林區陽明山新命名道路[28]
- 草東街
- 建賢街:原為永公路245巷34弄的一部分。
- 富館街
- 內湖區新命名道路
- 金莊路
- 金豐街
- 新富街
- 新豐街
- 士林科學園區新命名道路
- 福美路:福國路-洲美街
- 福善路:福國路-
- 承信路:承德路-
- 承平路:承德路-
- 文承路:文林北路-承德路
- 承美路:承德路-洲美街
- 河美街:
- 承和路:
- 承真街:
- 福真路:
- 命名原因不明
- 西園街:位於北投區。
- 新園街:位於士林區。
- 大光街:位於士林區。
巷弄
[編集]- 「文字」巷:由於各巷屬於台北市1968年併入轄區前各鄉鎮所命名,故與現在大多數以數字命名之巷子有別。其中有些巷子的命名是有其典故的,例如「銀光巷」的命名,悉取該巷頭尾著名單位各一字。因為該巷巷子口一帶,當時的土地和建築,多屬於臺灣銀行所有;巷子尾一帶,則是善光寺。銀光巷為溫泉路之巷弄,以「銀光巷」為例,其地址應寫作「台北市北投區溫泉路銀光巷20號」
- 位於北投區境內:
- 溫泉路:天主巷、湯元巷、銀光巷
- 大屯路:光華一巷、光華二巷、光華三巷、光華四巷
- 大度路:怡和巷
- 中和街:新建巷、錫安巷
- 光明路:新生巷
- 泉源路:華南巷
- 新民路:康樂巷、香丘巷
- 幽雅路:杏林巷
- 位於士林區陽明山華岡地區:
- 愛富二街:厚生巷、樂生巷。
- 愛富三街:長生巷。
- 位於北投區境內:
別名巷弄
[編集]- 別名巷弄具有名字,但其路名不具任何民政效力之巷弄。
- 麟洋路: 即中山國中校門口復興北路361巷,紀念該校校友王齊麟與李洋於東京奧運與巴黎奧運拿下奧運金牌。[29]
- 雲門巷:即復興北路231巷。[30]
- 自由巷:即民權東路三段106巷3弄。[31]
- 藝術家巷:即懷寧街108巷。[32][33]
- 新舞臺巷:位於新舞臺和松壽公園之間小巷弄。[34]
- 漢聲巷:即台北市八德路四段72巷16弄。[35]
- 易牙巷:位於南機場夜市中央巷弄。
- 美國街:昆明街96巷,因販賣美國風商品得名。
関連項目
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新竹県市合併(しんちくけんしがっぺい、繁: 新竹縣市合併)は、中華民国の蔡英文政権が2021年(民国110年)に推進し始めた、台湾省新竹県と新竹市を合併させて直轄市に昇格させる計画である[36]。竹竹合併、竹竹昇格、大新竹昇格などとも呼ばれる。
背景
[編集]日本統治時代の1920年(大正9年)、現在の桃園市・新竹県市・苗栗県にあたる地域に新竹州が設置された。1945年(昭和20年/民国34年)の台湾光復に伴って新竹州は新竹県に改められ、新竹市を県から分離させて台湾省の省轄市(現:市)とした[37]。1950年(民国39年)、台湾省の行政区画の大規模な改編によって新竹県は桃園・新竹・苗栗の3県に分割され、新竹市は新竹県の県轄市に降格した[37]。
当時の新竹県には合計15の郷・鎮・市が存在しており、新竹市と香山郷は閩南系、平地の他の11郷鎮は客家系、五峰郷と尖石郷は原住民が人口の多数を占めていた。県全体では客家系が多数を占めていたため、歴代の新竹県長も客家系の人物が選出され続けた。隣の桃園県も同様に客家系と閩南系が混在していたが、双方の割合がほぼ同じであったため、双方の民族の人物が県長に就任するという慣例が形成された。それに対して新竹県では、県長は客家系、県議会議長は閩南系の人物が務めるという慣例が形成された。新竹県市の再分離は、1981年(民国70年)11月の新竹市長選挙にて施性忠候補(その後当選)が掲げた政策である[38]。台湾省議会議員の藍栄祥も、新竹市は県轄市の地位にあるため財源が少なく、市単独で大規模な建設や都市計画を推進することができないことを憂慮し、新竹市と香山郷を合併させた上で省轄市に昇格させることを省議会で提案した[38]。翌1982年(民国71年)7月1日に新竹市と香山郷と合併して省轄市に昇格し、現在に至る[37]。
経過
[編集]合併案
[編集]案 | 主な支持者 | 地図 |
竹竹合併不昇格 新竹県と新竹市が合併し、市としての地位を保つ。 |
新竹市市長林智堅(2021年9月5日-7日)[39][40] | |
竹竹合併昇格 新竹県と新竹市が合併し、直轄市に昇格する。 |
新竹縣縣長楊文科(2021年9月6日-11日)[41][42] | |
竹竹苗合併昇格 新竹県・新竹市・苗栗県が合併し、直轄市に昇格する。 |
新竹縣縣長楊文科(2021年9月12日起)[45] | |
竹苗市方案 新竹県と苗栗県が合併し、直轄市に昇格する。新竹市は現状維持。 |
苗栗縣縣長徐耀昌於2021年9月11日表示:「新竹縣有規定一定要和新竹市合併嗎?新竹縣和苗栗縣合併也可以啊,我們可以改成竹苗市。」[46] | |
苗栗県廃止方案 新竹県・新竹市・苗栗県の一部(頭份市・竹南鎮)が合併し、直轄市に昇格する。苗栗県の残部は台中市に編入される。 |
苗栗縣縣長徐耀昌在指控林智堅「染指苗栗」時經常引用的提案,他指林智堅有意將苗栗的頭份市及竹南鎮併入大新竹市,[47][48]但被林智堅指出「完全子虛烏有」。[49] | |
參考資料:[50] |
世論調査
[編集]發佈日期 | 調查來源 | 調查範圍 | 樣本數目 | 合併支持 | 合併反対 | 苗栗県との合併支持 | 苗栗県との合併支持 |
---|---|---|---|---|---|---|---|
2021年 | |||||||
12月27日 | 國政基金會 アーカイブ 2022年6月2日 - ウェイバックマシン | 竹竹苗 | 1084 | 48.5% | 36.6% | 48.5% | 36.6% |
新竹市 | 44.5% | 42.3% | 44.5% | 42.3% | |||
新竹縣 | 49.6% | 35.6% | 49.6% | 35.6% | |||
苗栗縣 | 50.6% | 33.0% | 50.6% | 33.0% | |||
11月23日 | 山水民調 アーカイブ 2022年3月12日 - ウェイバックマシン | 新竹縣市 | 1,075 | 54.3% | 28.8% | 沒有調查 | |
10月31日 | 時代力量 アーカイブ 2022年6月2日 - ウェイバックマシン | 全國 | 1,068 | 不適用 | 38.5% | 51.4% | |
9月28日 | 台灣民意基金會 アーカイブ 2022年6月2日 - ウェイバックマシン | 全國 | 1,080 | 42.1% | 33.9% | 沒有調查 | |
9月下旬 | 民進黨內部民調 アーカイブ 2021年12月22日 - ウェイバックマシン | 全國 | 59.7% | ~28% | |||
9月下旬 | 民進黨內部民調 アーカイブ 2021年12月22日 - ウェイバックマシン | 全國 | 54.1% | ~29% | |||
9月中旬 | 民進黨內部民調 アーカイブ 2021年12月22日 - ウェイバックマシン | 全國 | 51.4% | ~30% | |||
9月15日 | 綠黨 アーカイブ 2021年12月22日 - ウェイバックマシン | 全國 | 1,614 | 56.5% | 24.8% | 20.3% | 71.6% |
新竹市 | 53.0% | 29.1% | 20.9% | 71.2% | |||
新竹縣 | 59.1% | 21.5% | 19.8% | 71.9% |
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 中山路是一貫的官方叫法,稱呼整條路時用之,參見《台北市路街史》
- ^ 國父紀念館於1972年5月16日竣工,其旁聯絡道路於1972年7月完工,故取名孫中山字號「逸仙」。本說法來自《台北市路街史》但逸仙路依然是紀念孫中山
- ^ 安和路一段10號 アーカイブ 2021年7月22日 - ウェイバックマシン的變動、安和路二段80號 アーカイブ 2021年7月20日 - ウェイバックマシン的變動,臺北市政府民政局門牌整合檢索
- ^ 怪路一籮筐 「一段接三段全巷都雙號」 アーカイブ 2021年9月21日 - ウェイバックマシン,
- ^ 康寧醫院與康寧重劃區是因康寧路而定名
- ^ 《乾隆台灣輿圖》及《續修台灣府志》皆出現有地名『周厝崙』,直到清光緒年間的《淡水縣輿圖略說》才變為『朱厝崙』
- ^ 東園、西園是日本町名,當地漢人居住地名是加蚋仔,松山是日本大字地名,當地漢人居住地名是錫口街
- ^ 前港里1973年由後港里分出,前港街原為後港街51巷,1989年改為前港街。
- ^ 在日治時期,此地區仍稱作唭哩岸,立農里設立於1946年,1972年才有立農街。
- ^ 大湖源自村里名,十四份埤是當地舊地名,兩者較大湖公園早。
- ^ “漫步遨遊”. 2016年3月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年1月29日閲覧。
- ^ 臺北市親山步道主題網[リンク切れ]
- ^ 臺灣地區地名整合檢索系統-虎仔山[リンク切れ]
- ^ 士東國小成立於1946年,士東路則是於1992年由「中十六路」更名為士東路。
- ^ 金龍寺需透過內湖路三段256巷方能抵達,金龍路為山腳下之道路
- ^ 行善一名與行善里來源一樣,皆由於新明路520號行善宮而來,http://www.neihu.taipei.gov.tw/e_basicli/E1/e1_into.asp#26 Archived 2006-12-25 at the Wayback Machine.
- ^ 植福宮位於大直重劃區內,植福路為當初中山戶政所命名時,基於植福宮為當地信仰中心,因此先行命名
- ^ 因為松山與汐止間北基公路舊路,1961年-1968年間稱南港舊路(台5線新線命名南港路)
- ^ 1973年,因磺港道路及大豐公園開闢所需,經地方信眾參議後,集北投屠宰場旁、清江路一一三巷底磺港溪旁、延壽橋邊等三處有應公祠堂,合建於一處。並經莊民樂捐出資,由洪蚶目大德及陳海砂大德統籌辦理,合建於磺港溪岸上延壽橋旁。故名為三合萬壽祠。(三處有應公祠廟合建一處)
- ^ 國興路原為克難街,在1993年2月道路改名之前,國興國宅於1982年就已落成。
- ^ “雨農國小”. 2018年10月5日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年1月29日閲覧。
- ^ 台北市大安區戶政事務所公告本區「基隆路3段4巷」命名為「敦南街」。 Archived 2009-06-15 at the Wayback Machine.
- ^ 北投區溫泉鄉風情 アーカイブ 2012年1月16日 - ウェイバックマシン
- ^ 臺北市信義區戶政事務所[リンク切れ]
- ^ 信義區公所——信義計劃區未來新展望 Archived 2009-06-15 at the Wayback Machine.
- ^ “台北市政府,《台北畫刊》,2003年,3月”. 2007年9月27日時点のオリジナルよりアーカイブ。2006年12月11日閲覧。
- ^ “囝仔影音公社”. 2009年2月8日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年1月29日閲覧。
- ^ 草東街、建賢街、富館街位置圖
- ^ “慶祝羽球男雙金牌二連霸 中山國中校門口設別名「麟洋路」”. 2024年9月21日時点のオリジナルよりアーカイブ。2024年8月16日閲覧。
- ^ 馬英九為雲門巷定名
- ^ 2012年8月於台灣解嚴25周年掛牌,將鄭南榕自焚處巷弄設立別名,讓年輕世代不忘台灣爭取言論自由的艱辛。
- ^ 2005年6月,《藝術家》雜誌獲得台北市文化局的譽揚,將雜誌社所在的台北市重慶南路一段147號旁小巷道,取名為「 藝術家巷 」。
- ^ 藝術家雜誌網站 Archived 2013-05-29 at the Wayback Machine.
- ^ 新舞臺網站[リンク切れ]
- ^ “漢聲巷網站”. 2013年4月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年6月10日閲覧。
- ^ 溫貴香 (2021年12月19日). “總統邀府院黨高層會商 新竹縣市合併升格有高度共識” (中国語). 中央通訊社. オリジナルの2022年3月12日時点におけるアーカイブ。 2022年1月30日閲覧。
- ^ a b c “新竹の沿革”. 新竹市政府. 2024年1月23日閲覧。
- ^ a b 陳育賢 (2021年9月21日). “新竹縣市合併 施性忠:千萬別走回頭路” (中国語). 中國時報. オリジナルの2022年6月2日時点におけるアーカイブ。 2021年12月22日閲覧。
- ^ 郭宣彣 (2021年9月6日). “林智堅提新竹縣市合併 楊文科:應升格直轄市” (中国語). 中央通訊社. オリジナルの2022年6月2日時点におけるアーカイブ。 2022年1月30日閲覧。
- ^ 引用エラー: 無効な
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」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません - ^ 杜冠霖 (2021年12月27日). “快訊/柯建銘曝親自打電話給楊文科 「他答應竹竹併絕不退縮」” (中国語). ETtoday新聞雲. オリジナルの2022年3月13日時点におけるアーカイブ。 2021年12月27日閲覧。
- ^ 引用エラー: 無効な
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タグです。「樂見新竹縣市合併之議
」という名前の注釈に対するテキストが指定されていません - ^ 魯鋼駿 (2022年1月1日). “林智堅:將成立大新竹合併升格專案辦公室” (中国語). 中央通訊社. オリジナルの2022年6月2日時点におけるアーカイブ。 2022年1月30日閲覧。
- ^ 黃潔文 (2021年9月11日). “喊話竹竹苗合併升格為第七都 楊文科提6共識譴責勿因人設事” (中国語). 上報. オリジナルの2021年12月27日時点におけるアーカイブ。 2021年12月27日閲覧。
- ^ 蔡彰盛 (2021年9月11日). “徐耀昌嗆「竹縣苗縣可併成竹苗市」 網友高喊「拜託先不要!」” (中国語). 自由時報. オリジナルの2022年6月2日時点におけるアーカイブ。 2021年12月22日閲覧。
- ^ 羅浚濱; 邱立雅; 林縉明 (2021年9月12日). “竹竹合併徐耀昌爆內幕 怒批林智堅機關算盡” (中国語). 中國時報. オリジナルの2022年6月2日時点におけるアーカイブ。 2021年12月22日閲覧。
- ^ 謝明俊 (2021年12月20日). “徐耀昌再批林智堅:不要老是機關算盡企圖要消滅苗栗縣” (中国語). 中國時報. オリジナルの2022年6月2日時点におけるアーカイブ。 2021年12月22日閲覧。
- ^ 蔡彰盛 (2021年12月21日). “完全子虛烏有!林智堅回擊徐耀昌「染指」苗栗說” (中国語). 自由時報. オリジナルの2022年6月7日時点におけるアーカイブ。 2021年12月22日閲覧。
- ^ 曾玟學 (2021年9月13日). “新竹縣市合併,苗栗會有多慘?五種情境模擬分析” (中国語). 未來城市 2021年12月22日閲覧。
関連項目
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五都改制
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]中国国民党全国代表大会(ちゅうごくこくみんとうぜんこくだいひょうたいかい、繁: 中國國民黨全國代表大會)は、中国国民党(国民党)の最高権力機関である。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]政治協商会議 政治協商會議 | |
---|---|
中華民国の各政党による協商会議 | |
沿革 | |
後継 | 制憲国民大会( 中国国民党主導) 中国人民政治協商会議( 中国共産党主導) |
役職 | |
大会主席 | |
構成 | |
定数 | 38議席 政治協商會議代表名單 |
院内勢力 | 執政党(8):
野党(21): 無所属(9): (9) |
委員会 | 6組委員会 |
選挙 | |
正統委派 | |
議事堂 | |
中華民国 重慶市 国民政府軍事委員会典礼堂 |
政治協商会議(せいじきょうしょうかいぎ、繁: 政治協商會議)は、1946年(民国35年)に中華民国重慶市で開催された、国内の各政党による会議である。
脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]関連項目
[編集]国共交流中 | |
行程地図 | |
日付 | 2005年4月26日 – 5月3日 |
---|---|
場所 | 中国大陸( 中華人民共和国) |
種別 | 政党間の交流 |
主催者 | 中共台湾事務弁公室 |
関係者 | 中国国民党:
|
平和の旅(へいわのたび、中国語: 和平之旅)とは、中国国民党(国民党)主席の連戦が、2005年4月26日から5月3日にかけて中国大陸(中華人民共和国)を訪問した出来事のことである。これにより、連戦は1949年の両岸分断以降で初めて中国大陸を訪問した国民党党首となった。