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[[江戸時代]]をモデルとした世界で謎の疫病で男子人口だけ激減し、社会運営の根幹や権力が男から女に移る様を[[江戸城]]から描く。
[[江戸時代]]をモデルとした世界で謎の疫病で男子人口だけ激減し、社会運営の根幹や権力が男から女に移る様を[[江戸城]]から描く。


代々の[[徳川将軍|将軍]]や幕臣・史上男性であった人物が女性に、女性であった人物が男性に置き換えられ、[[春日局]]が[[大奥]]を作ったことや、当時の[[カピタン|カピタン]]<ref>[[片桐一男]]『江戸のオランダ人 [[カピタン江戸参府|カピタンの江戸参府]]』[[中公新書]](2000年) ISBN4-12-101525-8</ref>報告にある「[[御簾]]越しに[[家光]]に拝謁、少年のような声だった。その場は若い男ばかりが同座した。市井では女が多く働いていた」との詳細な史実{{Refnest|group="注釈"|[[フランソワ・カロン]]{{Refnest|group="注釈"|[[フランソワ・カロン|カロン]]は20年以上駐日<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=dUv3dF7aDycC&pg=PA355&dq=francois+caron&lr=&sig=9B0wimfu0tFScUNrfqkkxzp1YGc&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=francois%20caron&f=false Otterspeer, Willem著 ''Leiden Oriental Connections'']1850-1940(2003年)</ref>したので1627年台湾行政長官[[ピーテル・ノイツ]]が[[徳川家光|家光]]に拝謁を願った際[[通詞]]として[[カピタン江戸参府|参府]]<ref>[http://www5e.biglobe.ne.jp/~masaji/bigwalk2009/reference/edosanpu/edosanpu_nenpyo.pdf 長崎遊楽カピタン江戸参府年表]</ref>し重宝された。[[島原の乱]]鎮圧後[[徳川家光|家光]]は、ポルトガルに代わってオランダが必需品を提供できるか[[フランソワ・カロン|カロン]]に確認している<ref>[[フランソワ・カロン|カロン]]著 [[幸田成友]]訳『[[日本大王国志]] ''Besechrijvinghe van het machtigh Coninckrijck Iapan''』Amsterdam(1648年)[[平凡社東洋文庫]]ワイド版(2007年) ISBN 978-4-256-80090-4</ref>。}}{{Refnest|group="注釈"|フランス[[財務総監]][[ジャン=バティスト・コルベール|コルベール]]は'''[[ルイ14世]]'''に'''[[フランス東インド会社]]'''設立を進言し、[[オランダ東インド会社|VOC]]退職の後1665年に[[フランソワ・カロン|カロン]]は長官就任<ref>Ames, Glenn J.著 ''Colbert, Mercantilism, and the French Quest for Asian Trade ''Northern Illinois University Press. p.30(1996年)</ref><ref>[https://books.google.co.jp/books?id=dUv3dF7aDycC&pg=PA355&dq=francois+caron&lr=&sig=9B0wimfu0tFScUNrfqkkxzp1YGc&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=francois%20caron&f=false Otterspeer, Willem著 ''Leiden Oriental Connections''] 1850-1940(2003年)</ref>。実現しなかったが[[フランソワ・カロン|カロン]]の日本と'''[[ポンディシェリ|仏領東インド]]'''の貿易計画は[[オランダ商館|長崎]]に伝わり1667年の[[オランダ風説書]]で幕府に報告された。}}東京大学史料編纂所 日本関係海外資料 [http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/19/pub_kaigai-oranda-yaku-04-ge.htm オランダ商館長日記 譯文編之四]}}{{Refnest|group="注釈"|[[マクシミリアン・ル・メール]]{{Refnest|group="注釈"|[[マクシミリアン・ル・メール|ル・メール]]は[[オランダ商館]]の[[平戸島|平戸]]から[[出島]]移転に先立ち[[カピタン江戸参府|参府]]。[[老中]][[酒井忠清]]らの「[[カトリック]](ポルトガル)の情報提供」命令で毎年作製されたのが[[オランダ風説書]]<ref>[[松方冬子]]『[[オランダ風説書]]と近世日本』[[東京大学出版会]](2007年)</ref><ref>[[松方冬子]]『[[オランダ風説書]]「[[鎖国]]」日本に語られた「世界」』[[中公新書]](2010年)ISBN:978-412102047-5</ref>である。}}東京大学史料編纂所 日本関係海外史料 [http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/19/pub_kaigai-oranda-yaku-05-ge.htm オランダ商館長日記 譯文編之五]}}<ref>[[ヤン・ファン・エルセラック]]東京大学史料編纂所 日本関係海外史料 [http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/22/pub_kaigai-oranda-yaku-06.html オランダ商館長日記 譯文編之六]</ref><ref>[[ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテル]]東京大学史料編纂所 日本関係海外史料 [https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/36/pub_kaigai-oranda-yaku-09.html オランダ商館長日記 訳文編之九]</ref>{{Refnest|group="注釈"|[[レイニール・ファン・ツム]]{{Refnest|group="注釈"|[[レイニール・ファン・ツム|ファン・ツム]]は[[徳川家光|家光]]に拝謁時、眼鏡・拡大鏡・レンズ・薬品等を献上。前日、[[大目付]][[井上政重]]と面会し[[ブレスケンス号事件|ブレスケンス号]]乗員{{Refnest|group="注釈"|オランダ人船員が捕縛された報は、すぐ[[オランダ商館|長崎]]に届き、新旧[[カピタン|商館長]]の[[ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテル|オーフルトワーテル]]と[[ヤン・ファン・エルセラック|エルセラック]]が例年より早く[[カピタン江戸参府|参府]]し、[[徳川家康|家康]]の「オランダ船は日本のどの港にも寄港して良い」との[[朱印状]]を持参して見せ、船長{{仮リンク|ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープ|label=ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープ|nl|Hendrick Cornelisz Schaep}}以下10人の乗員は[[家光]]の取り計らい{{Refnest|group="注釈"|これに対して後継の[[オランダ商館長]]らは
代々の[[徳川将軍|将軍]]や幕臣・史上男性であった人物が女性に、女性であった人物が男性に置き換えられ、[[春日局]]が[[大奥]]を作ったことや、当時の[[カピタン|カピタン]]<ref>[[片桐一男]]『江戸のオランダ人 [[カピタン江戸参府|カピタンの江戸参府]]』[[中公新書]](2000年) ISBN 4-12-101525-8</ref>報告にある「[[御簾]]越しに[[家光]]に拝謁、少年のような声だった。その場は若い男ばかりが同座した。市井では女が多く働いていた」との詳細な史実{{Refnest|group="注釈"|[[フランソワ・カロン]]{{Refnest|group="注釈"|[[フランソワ・カロン|カロン]]は20年以上駐日<ref>[https://books.google.co.jp/books?id=dUv3dF7aDycC&pg=PA355&dq=francois+caron&lr=&sig=9B0wimfu0tFScUNrfqkkxzp1YGc&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=francois%20caron&f=false Otterspeer, Willem著 ''Leiden Oriental Connections'']1850-1940(2003年)</ref>したので1627年台湾行政長官[[ピーテル・ノイツ]]が[[徳川家光|家光]]に拝謁を願った際[[通詞]]として[[カピタン江戸参府|参府]]<ref>[http://www5e.biglobe.ne.jp/~masaji/bigwalk2009/reference/edosanpu/edosanpu_nenpyo.pdf 長崎遊楽カピタン江戸参府年表]</ref>し重宝された。[[島原の乱]]鎮圧後[[徳川家光|家光]]は、ポルトガルに代わってオランダが必需品を提供できるか[[フランソワ・カロン|カロン]]に確認している<ref>[[フランソワ・カロン|カロン]]著 [[幸田成友]]訳『[[日本大王国志]] ''Besechrijvinghe van het machtigh Coninckrijck Iapan''』Amsterdam(1648年)[[平凡社東洋文庫]]ワイド版(2007年) ISBN 978-4-256-80090-4</ref>。}}{{Refnest|group="注釈"|フランス[[財務総監]][[ジャン=バティスト・コルベール|コルベール]]は'''[[ルイ14世]]'''に'''[[フランス東インド会社]]'''設立を進言し、[[オランダ東インド会社|VOC]]退職の後1665年に[[フランソワ・カロン|カロン]]は長官就任<ref>Ames, Glenn J.著 ''Colbert, Mercantilism, and the French Quest for Asian Trade ''Northern Illinois University Press. p.30(1996年)</ref><ref>[https://books.google.co.jp/books?id=dUv3dF7aDycC&pg=PA355&dq=francois+caron&lr=&sig=9B0wimfu0tFScUNrfqkkxzp1YGc&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=francois%20caron&f=false Otterspeer, Willem著 ''Leiden Oriental Connections''] 1850-1940(2003年)</ref>。実現しなかったが[[フランソワ・カロン|カロン]]の日本と'''[[ポンディシェリ|仏領東インド]]'''の貿易計画は[[オランダ商館|長崎]]に伝わり1667年の[[オランダ風説書]]で幕府に報告された。}}東京大学史料編纂所 日本関係海外資料 [http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/19/pub_kaigai-oranda-yaku-04-ge.htm オランダ商館長日記 譯文編之四]}}{{Refnest|group="注釈"|[[マクシミリアン・ル・メール]]{{Refnest|group="注釈"|[[マクシミリアン・ル・メール|ル・メール]]は[[オランダ商館]]の[[平戸島|平戸]]から[[出島]]移転に先立ち[[カピタン江戸参府|参府]]。[[老中]][[酒井忠清]]らの「[[カトリック]](ポルトガル)の情報提供」命令で毎年作製されたのが[[オランダ風説書]]<ref>[[松方冬子]]『[[オランダ風説書]]と近世日本』[[東京大学出版会]](2007年)</ref><ref>[[松方冬子]]『[[オランダ風説書]]「[[鎖国]]」日本に語られた「世界」』[[中公新書]](2010年)ISBN 978-412102047-5</ref>である。}}東京大学史料編纂所 日本関係海外史料 [http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/19/pub_kaigai-oranda-yaku-05-ge.htm オランダ商館長日記 譯文編之五]}}<ref>[[ヤン・ファン・エルセラック]]東京大学史料編纂所 日本関係海外史料 [http://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/22/pub_kaigai-oranda-yaku-06.html オランダ商館長日記 譯文編之六]</ref><ref>[[ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテル]]東京大学史料編纂所 日本関係海外史料 [https://www.hi.u-tokyo.ac.jp/publication/syoho/36/pub_kaigai-oranda-yaku-09.html オランダ商館長日記 訳文編之九]</ref>{{Refnest|group="注釈"|[[レイニール・ファン・ツム]]{{Refnest|group="注釈"|[[レイニール・ファン・ツム|ファン・ツム]]は[[徳川家光|家光]]に拝謁時、眼鏡・拡大鏡・レンズ・薬品等を献上。前日、[[大目付]][[井上政重]]と面会し[[ブレスケンス号事件|ブレスケンス号]]乗員{{Refnest|group="注釈"|オランダ人船員が捕縛された報は、すぐ[[オランダ商館|長崎]]に届き、新旧[[カピタン|商館長]]の[[ピーテル・アントニスゾーン・オーフルトワーテル|オーフルトワーテル]]と[[ヤン・ファン・エルセラック|エルセラック]]が例年より早く[[カピタン江戸参府|参府]]し、[[徳川家康|家康]]の「オランダ船は日本のどの港にも寄港して良い」との[[朱印状]]を持参して見せ、船長{{仮リンク|ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープ|label=ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープ|nl|Hendrick Cornelisz Schaep}}以下10人の乗員は[[家光]]の取り計らい{{Refnest|group="注釈"|これに対して後継の[[オランダ商館長]]らは
謝意表明が無いと[[カピタン江戸参府|参府]]しても門前払い。事態を重く見た[[バタヴィア]]商務総監[[フランソワ・カロン]]が特使を派遣。[[フランソワ・カロン|カロン]]は幕府が[[臼砲]]に興味があるのを知っており[[臼砲]]献上と[[砲術]]士官[[ユリアン・スヘーデル]]<ref>[[ユリアン・スヘーデル|由里安牟]] 述 [[北条氏長]] 録 [https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0289/bunko08_c0289.pdf 『攻城阿蘭陀由里安牟相伝』]</ref>派遣は功を奏した。}}で釈放された{{Refnest|group="注釈"|ウィレム・フルステーヘン 著 [[永積洋子]] 訳『[[南部藩|南部]]漂着記~南部山田浦<ref>[[南部藩]]領[[陸奥国]]山田浦(現在の[[岩手県]][[山田町]])</ref>漂着のオランダ船[[ブレスケンス号事件|ブレスケンス号]]船長{{仮リンク|ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープ|label=ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープ|nl|Hendrick Cornelisz Schaep}}の日記』キリシタン文化研究会(キリシタン文化研究シリーズ9)(1974年)}}<ref>Hesselink, R.H.著 ''[[捕虜|Gevangenen]] uit [[南部藩|Nambu]]. Een waar [[実録|geschied verhaal]] over de [[オランダ東インド会社|VOC]] in [[日本|Japan]]''(2000年)</ref>。}}のその後、[[タタール|タルタリア]]への再航海の有無<ref>幕府には、[[ブレスケンス号事件|ブレスケンス号]]の航海目的([[金銀島探検]])を、[[タタール|タルタリア]]との交易、と偽っていた。</ref>、'''東インドにおけるヨーロッパ諸国'''の勢力など問われた。}}東京大学史料編纂所 日本関係海外史料 [https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/list/idata/850/8500/58/0214/ オランダ商館長日記 訳文編之九]}}、[[疱瘡]]は実際には女性の方が罹患率が高いという事実<ref>{{Cite web |url=https://www.nanbyou.or.jp/entry/153 |title=天疱瘡(指定難病35)|access-date=2023-04-30 |publisher=公益財団法人 難病医学研究財団/難病情報センター}}</ref>から異世界のフィクションを練り上げだストーリーとなっている。掲載誌『MELODY』の[[扉絵]]や[[注釈|注]]では「男女逆転![[パラレルワールド|パラレル]][[時代劇]]」「これは日本の江戸時代とは似て非なる物語」と必ず記載され、いわゆるSF作品([[歴史改変SF]])と位置付けられる。
謝意表明が無いと[[カピタン江戸参府|参府]]しても門前払い。事態を重く見た[[バタヴィア]]商務総監[[フランソワ・カロン]]が特使を派遣。[[フランソワ・カロン|カロン]]は幕府が[[臼砲]]に興味があるのを知っており[[臼砲]]献上と[[砲術]]士官[[ユリアン・スヘーデル]]<ref>[[ユリアン・スヘーデル|由里安牟]] 述 [[北条氏長]] 録 [https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/bunko08/bunko08_c0289/bunko08_c0289.pdf 『攻城阿蘭陀由里安牟相伝』]</ref>派遣は功を奏した。}}で釈放された{{Refnest|group="注釈"|ウィレム・フルステーヘン 著 [[永積洋子]] 訳『[[南部藩|南部]]漂着記~南部山田浦<ref>[[南部藩]]領[[陸奥国]]山田浦(現在の[[岩手県]][[山田町]])</ref>漂着のオランダ船[[ブレスケンス号事件|ブレスケンス号]]船長{{仮リンク|ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープ|label=ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープ|nl|Hendrick Cornelisz Schaep}}の日記』キリシタン文化研究会(キリシタン文化研究シリーズ9)(1974年)}}<ref>Hesselink, R.H.著 ''[[捕虜|Gevangenen]] uit [[南部藩|Nambu]]. Een waar [[実録|geschied verhaal]] over de [[オランダ東インド会社|VOC]] in [[日本|Japan]]''(2000年)</ref>。}}のその後、[[タタール|タルタリア]]への再航海の有無<ref>幕府には、[[ブレスケンス号事件|ブレスケンス号]]の航海目的([[金銀島探検]])を、[[タタール|タルタリア]]との交易、と偽っていた。</ref>、'''東インドにおけるヨーロッパ諸国'''の勢力など問われた。}}東京大学史料編纂所 日本関係海外史料 [https://clioimg.hi.u-tokyo.ac.jp/viewer/list/idata/850/8500/58/0214/ オランダ商館長日記 訳文編之九]}}、[[疱瘡]]は実際には女性の方が罹患率が高いという事実<ref>{{Cite web |url=https://www.nanbyou.or.jp/entry/153 |title=天疱瘡(指定難病35)|access-date=2023-04-30 |publisher=公益財団法人 難病医学研究財団/難病情報センター}}</ref>から異世界のフィクションを練り上げだストーリーとなっている。掲載誌『MELODY』の[[扉絵]]や[[注釈|注]]では「男女逆転![[パラレルワールド|パラレル]][[時代劇]]」「これは日本の江戸時代とは似て非なる物語」と必ず記載され、いわゆるSF作品([[歴史改変SF]])と位置付けられる。


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=== 綱吉編 ===
=== 綱吉編 ===
五代将軍となった綱吉{{Refnest|group="注釈"|史実では、[[湯島聖堂]]を建立して[[新井白石]]ら[[儒学者]]を輩し[[文治政治]]を目指した[[治世]]前半は、後に[[徳川吉宗|吉宗]]が範とした<ref>[[エンゲルベルト・ケンペル|ケンペル]]著『[[カピタン江戸参府|江戸参府]]旅行日記([[東洋文庫]]303)』[[斎藤信]]訳 [[平凡社]](1977年)</ref><ref>『[[エンゲルベルト・ケンペル]](Engelbert Kämpfer)と[[徳川綱吉|綱吉]]~ドイツ人医師と[[征夷大将軍|将軍]]との交流』ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー(Beatrice M. Bodart-Bailey)著 中直一 訳[[中公新書]](1994年)ISBN4-12-101168-6</ref>。}}{{Refnest|group="注釈"|1691年[[出島の三学者]]の一人で[[オランダ商館]]付き医師[[エンゲルベルト・ケンペル|ケンペル]]は[[徳川綱吉|綱吉]]に[[謁見]]し「英邁な君主」と記し、[[謁見]]時垣間見た[[鷹司信子|御台所]]を「小麦色の丸顔が美しくヨーロッパ的な黒目が印象的、背はかなり高く御年は36歳(実年齢41)位」と表した<ref>[[エンゲルベルト・ケンペル|ケンペル]]著『[[日本誌]] ''Heutiges Japan''』[https://archive.org/details/historyofjapangi01kaem/mode/2up 遺稿英語版](1727年)</ref>。}}は'''[[柳沢吉保]]'''<ref>福留真紀「5代[[綱吉]]と[[柳沢吉保]]~厳しい対[[大名]]政策を行った悪徳大名だったのか?」『歴史読本』(2014-12月) Kadokawa</ref>ら[[側用人]]を重用する一方、[[徳川将軍|公方]]様にのみ許された贅沢三昧{{Refnest|group="注釈"|『大奥 第1巻 p16』{{Refnest|group="注釈"|史実では「能狂」で各座や流派の長を表向き[[猿楽]]を廃業させて[[士分]]に取り立て城内の'''私的演能'''で舞わせた。断れば追放・一座は解体、[[衆道]]を拒めば[[切腹]]もあった『[[綱吉|常憲院殿]][[御実紀]]』。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1288368/1/30 狩野友信 著『幕府年中行事』](1898年)に見られる[[御]][[謡]][[初春|初]](おうたいぞめ:正月3日江戸城で謡曲を謡う'''儀式''')の様に、[[本丸]]と[[西の丸]]には'''公式催事'''用[[能舞台|表舞台]]が有り、将軍代替わり・婚礼・出産等の慶事、先祖の忌日・日光参詣等諸行事、貴賓の'''公式接遇の宴'''には必ず能楽が催されていた。}}}}で京から呼び寄せた側室候補・'''[[右衛門佐局|右衛門佐]]'''を気に入るが、右衛門佐は[[年齢|お褥滑り]]を理由に辞退。代わりに大奥総取締の地位に就く。
五代将軍となった綱吉{{Refnest|group="注釈"|史実では、[[湯島聖堂]]を建立して[[新井白石]]ら[[儒学者]]を輩し[[文治政治]]を目指した[[治世]]前半は、後に[[徳川吉宗|吉宗]]が範とした<ref>[[エンゲルベルト・ケンペル|ケンペル]]著『[[カピタン江戸参府|江戸参府]]旅行日記([[東洋文庫]]303)』[[斎藤信]]訳 [[平凡社]](1977年)</ref><ref>『[[エンゲルベルト・ケンペル]](Engelbert Kämpfer)と[[徳川綱吉|綱吉]]~ドイツ人医師と[[征夷大将軍|将軍]]との交流』ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー(Beatrice M. Bodart-Bailey)著 中直一 訳[[中公新書]](1994年)ISBN 4-12-101168-6</ref>。}}{{Refnest|group="注釈"|1691年[[出島の三学者]]の一人で[[オランダ商館]]付き医師[[エンゲルベルト・ケンペル|ケンペル]]は[[徳川綱吉|綱吉]]に[[謁見]]し「英邁な君主」と記し、[[謁見]]時垣間見た[[鷹司信子|御台所]]を「小麦色の丸顔が美しくヨーロッパ的な黒目が印象的、背はかなり高く御年は36歳(実年齢41)位」と表した<ref>[[エンゲルベルト・ケンペル|ケンペル]]著『[[日本誌]] ''Heutiges Japan''』[https://archive.org/details/historyofjapangi01kaem/mode/2up 遺稿英語版](1727年)</ref>。}}は'''[[柳沢吉保]]'''<ref>福留真紀「5代[[綱吉]]と[[柳沢吉保]]~厳しい対[[大名]]政策を行った悪徳大名だったのか?」『歴史読本』(2014-12月) Kadokawa</ref>ら[[側用人]]を重用する一方、[[徳川将軍|公方]]様にのみ許された贅沢三昧{{Refnest|group="注釈"|『大奥 第1巻 p16』{{Refnest|group="注釈"|史実では「能狂」で各座や流派の長を表向き[[猿楽]]を廃業させて[[士分]]に取り立て城内の'''私的演能'''で舞わせた。断れば追放・一座は解体、[[衆道]]を拒めば[[切腹]]もあった『[[綱吉|常憲院殿]][[御実紀]]』。[https://dl.ndl.go.jp/pid/1288368/1/30 狩野友信 著『幕府年中行事』](1898年)に見られる[[御]][[謡]][[初春|初]](おうたいぞめ:正月3日江戸城で謡曲を謡う'''儀式''')の様に、[[本丸]]と[[西の丸]]には'''公式催事'''用[[能舞台|表舞台]]が有り、将軍代替わり・婚礼・出産等の慶事、先祖の忌日・日光参詣等諸行事、貴賓の'''公式接遇の宴'''には必ず能楽が催されていた。}}}}で京から呼び寄せた側室候補・'''[[右衛門佐局|右衛門佐]]'''を気に入るが、右衛門佐は[[年齢|お褥滑り]]を理由に辞退。代わりに大奥総取締の地位に就く。


世継ぎ・'''松姫'''が急死し、[[赤穂事件]]や[[生類憐れみの令]]の影響も波及し綱吉の評判は下落したが、右衛門佐と結ばれた綱吉は、父の呪縛{{Refnest|group="注釈"|[[桂昌院]]の寵僧[[隆光]]の言で発布した[[生類憐みの令]][[犬小屋 (江戸幕府)|「御犬囲」]]の莫大な維持費で財政は悪化<ref>[[三上隆三]] 著『江戸の貨幣物語』[[東洋経済新報社]](1996年)</ref>した。}}を断ち切り自ら'''[[家宣]]'''を後継に指名する。
世継ぎ・'''松姫'''が急死し、[[赤穂事件]]や[[生類憐れみの令]]の影響も波及し綱吉の評判は下落したが、右衛門佐と結ばれた綱吉は、父の呪縛{{Refnest|group="注釈"|[[桂昌院]]の寵僧[[隆光]]の言で発布した[[生類憐みの令]][[犬小屋 (江戸幕府)|「御犬囲」]]の莫大な維持費で財政は悪化<ref>[[三上隆三]] 著『江戸の貨幣物語』[[東洋経済新報社]](1996年)</ref>した。}}を断ち切り自ら'''[[家宣]]'''を後継に指名する。
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『没日録』読了後吉宗は、男が少ない現状での外敵の侵略を危惧し、赤面疱瘡根絶に取り組み始める。
『没日録』読了後吉宗は、男が少ない現状での外敵の侵略を危惧し、赤面疱瘡根絶に取り組み始める。


3人の娘に恵まれ後顧の憂いなくみえた頃、長女[[徳川家重|'''家重''']][[廃嫡]]を[[松平乗邑|老中]]<ref>高野澄「第八代将軍[[徳川吉宗|吉宗]] [[松平乗邑]]の[[徳川家重|家重]]廃立の陰謀(特集 将軍家 血の暗闘史)--(将軍家の[[継嗣]]騒動)」『歴史と旅:第26巻12号』秋田書店 1998年8月所収</ref>に提言される。家重は障害で言語不明瞭{{Refnest|group="注釈"|御多病にて御言葉さはやかならざりし故[[近侍]]の臣<ref>高尾善希「9代[[徳川家重|家重]]と[[大岡忠光]]~[[征夷大将軍|将軍]]の言葉をただひとり理解したという稀代の[[姦臣|佞臣]]」『歴史読本』(2014-12月)Kadokawa</ref>といへども聞き取り奉る事難し『[[徳川実紀]]』}}だが知能{{Refnest|group="注釈"|[[杜甫]]の『[[絶句]]二首の内其の二』<ref>[[杜甫]] 著 [[黒川洋一]] 編『[[杜甫]]詩選』[[岩波文庫]](1991)ISBN13:978-4003200490</ref>を[[徳川宗武|宗武]]と同じ様に[[徳川吉宗|吉宗]]に暗唱してみせる<ref>『大奥 第8巻』p43-44</ref>。}}は正常なので吉宗は[[隠居]]する。しかし[[大御所]]として健在だったが為、家重は九代将軍を継いでも無能{{Refnest|group="注釈"|[[大岡忠光|近習]]の臣といえども常に見え奉るもの稀なりしかば御言行の伝ふ事いと少なし…御みずからは御襖弱にわたらせ給ひしが万機の事ども、よく[[松平武元|大臣]]に委任せられ御治世十六年の間四海波静かに万民無為の化に浴しけるは[[徳川吉宗|有徳院]]殿の御余慶といへどもしかしながらよく守成の業をなし給ふ『[[徳川実紀]]』}}{{Refnest|group="注釈"|[[一条兼香]]<ref>[[関白]][[一条兼香|兼香]]は[[大嘗祭]]復活支援を[[徳川吉宗|吉宗]]に求め、1738年[[桜町天皇]]の[[大嘗祭]]が催された。1539年には[[徳川吉宗|吉宗]]の依頼で優れた[[歌人]]の[[中院通躬]]・[[烏丸光栄]]・[[三条西公福]]・[[冷泉為久]]を推し[[徳川吉宗|吉宗]]に自作の[[和歌]]を提出させている。</ref>
3人の娘に恵まれ後顧の憂いなくみえた頃、長女[[徳川家重|'''家重''']][[廃嫡]]を[[松平乗邑|老中]]<ref>高野澄「第八代将軍[[徳川吉宗|吉宗]] [[松平乗邑]]の[[徳川家重|家重]]廃立の陰謀(特集 将軍家 血の暗闘史)--(将軍家の[[継嗣]]騒動)」『歴史と旅:第26巻12号』秋田書店 1998年8月所収</ref>に提言される。家重は障害で言語不明瞭{{Refnest|group="注釈"|御多病にて御言葉さはやかならざりし故[[近侍]]の臣<ref>高尾善希「9代[[徳川家重|家重]]と[[大岡忠光]]~[[征夷大将軍|将軍]]の言葉をただひとり理解したという稀代の[[姦臣|佞臣]]」『歴史読本』(2014-12月)Kadokawa</ref>といへども聞き取り奉る事難し『[[徳川実紀]]』}}だが知能{{Refnest|group="注釈"|[[杜甫]]の『[[絶句]]二首の内其の二』<ref>[[杜甫]] 著 [[黒川洋一]] 編『[[杜甫]]詩選』[[岩波文庫]](1991)ISBN 978-4003200490</ref>を[[徳川宗武|宗武]]と同じ様に[[徳川吉宗|吉宗]]に暗唱してみせる<ref>『大奥 第8巻』p43-44</ref>。}}は正常なので吉宗は[[隠居]]する。しかし[[大御所]]として健在だったが為、家重は九代将軍を継いでも無能{{Refnest|group="注釈"|[[大岡忠光|近習]]の臣といえども常に見え奉るもの稀なりしかば御言行の伝ふ事いと少なし…御みずからは御襖弱にわたらせ給ひしが万機の事ども、よく[[松平武元|大臣]]に委任せられ御治世十六年の間四海波静かに万民無為の化に浴しけるは[[徳川吉宗|有徳院]]殿の御余慶といへどもしかしながらよく守成の業をなし給ふ『[[徳川実紀]]』}}{{Refnest|group="注釈"|[[一条兼香]]<ref>[[関白]][[一条兼香|兼香]]は[[大嘗祭]]復活支援を[[徳川吉宗|吉宗]]に求め、1738年[[桜町天皇]]の[[大嘗祭]]が催された。1539年には[[徳川吉宗|吉宗]]の依頼で優れた[[歌人]]の[[中院通躬]]・[[烏丸光栄]]・[[三条西公福]]・[[冷泉為久]]を推し[[徳川吉宗|吉宗]]に自作の[[和歌]]を提出させている。</ref>
の日記『[[一条兼香|兼香]]公記』では「[[武道]]は修めるも文道に及ばず酒色遊芸にふけり[[狩猟]]を好まず」とある。}}扱いされた。
の日記『[[一条兼香|兼香]]公記』では「[[武道]]は修めるも文道に及ばず酒色遊芸にふけり[[狩猟]]を好まず」とある。}}扱いされた。


吉宗[[享保の改革|治世]]<ref>小山譽城「8代[[徳川吉宗|吉宗]]と[[加納久通]]~幼少期から[[征夷大将軍|将軍]]就任、[[享保の改革]]まで補佐した[[紀伊国|紀州]]以来の股肱の臣」『歴史読本』(2014-12月)Kadokawa</ref>の負の遺産{{Refnest|group="注釈"|寛延の百姓騒動1748年<ref>香川県仲多度郡 編[https://dl.ndl.go.jp/pid/951659/1/499 『仲多度郡史』]p897(1918年1月15日)</ref><ref>『大奥』第8巻p165</ref>{{Refnest|group="注釈"|作中[[徳川家重|家重]]は[[右近衛将監]]([[老中]] [[松平武元]])に丸投げしている<ref>『大奥』第8巻p151</ref>}}。}}や[[宝暦の飢饉|天災]]があり、遂に'''[[田沼意次]]'''が活躍を始める。吉宗の遺命{{Refnest|group="注釈"|産業開発を奨励し、科学知識摂取のため[[徳川吉宗|吉宗]]{{Refnest|group="注釈"|史実の[[徳川吉宗|吉宗]]は1728年、[[ベトナム]]からゾウを献上させた。[[宮中]][[参内]]の為[[従四位]]に叙され[[広南従四位白象]]と呼ばれゾウは長崎から京へ。[[天覧]]に先立ち[[清涼殿|台盤所]]には「象舞台」がつくられ、ゾウは[[中御門天皇]]に[[拝謁]]し、更に江戸へ移動、[[象]][[流行|ブーム]]が起こる<ref>和田実 著『享保十四年、象、江戸へ行く』岩田書院(2015年2月) ISBN978-4-87294-900-1</ref><ref>石坂昌三 著『象の旅 長崎から江戸へ(80日間の一大イベント)』[[新潮社]](1992年)ISBN-10:4103856017</ref>。}}が[[洋書]](キリスト教関連以外に限定)[[禁輸]]を緩和<ref>『大奥』第8巻p195</ref><ref>『大奥』第9巻p45-46</ref>し[[長崎市|長崎]]を中心に[[蘭学]][[流行|ブーム]]{{Refnest|group="注釈"|[[徳川吉宗|吉宗]]は[[青木昆陽]]・[[野呂元丈]]に[[蘭語]]習得を命じ、[[青木昆陽|昆陽]]は『和蘭文訳』『和蘭文字略考』の[[蘭語]]辞書・入門書を著す。[[野呂元丈|元丈]]は[[ヨハネス・ヨンストン|ヨンストン]]著『鳥獣虫魚図譜 全5巻』(1650-1653年)の[[蘭語]]版を『阿蘭陀畜獣虫魚和解』(1741年)として、[[レンベルト・ドドエンス|ドドエンス]]著『草木誌』(1554年)を『[https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0400000000/0412000000/00 阿蘭陀本草和解]』(1750年)として抄訳した。[[カピタン]]の[[蘭語]]版『鳥獣虫魚図譜』献上は1663年、江戸城の[[紅葉山文庫]]で死蔵され、『草木誌』とともに[[徳川吉宗|吉宗]]が見出した。『草木誌』は当時ヨーロッパで[[聖書]]に次いで多言語に翻訳<ref>[[シャルル・ド・レクリューズ]]訳[[レンベルト・ドドエンス]]著 ''Histoire des plantes''(1557年)</ref>され、約2世紀参考文献として利用されていた。}}が起こる。}}で赤面疱瘡根絶に邁進、[[長崎市|長崎]]の'''[[吉雄耕牛]]'''門下の'''青沼'''を、'''[[平賀源内]]'''を遣わして大奥に招いて[[蘭学]]を教えさせ、諸国を渡り歩く源内にも情報収集させる。
吉宗[[享保の改革|治世]]<ref>小山譽城「8代[[徳川吉宗|吉宗]]と[[加納久通]]~幼少期から[[征夷大将軍|将軍]]就任、[[享保の改革]]まで補佐した[[紀伊国|紀州]]以来の股肱の臣」『歴史読本』(2014-12月)Kadokawa</ref>の負の遺産{{Refnest|group="注釈"|寛延の百姓騒動1748年<ref>香川県仲多度郡 編[https://dl.ndl.go.jp/pid/951659/1/499 『仲多度郡史』]p897(1918年1月15日)</ref><ref>『大奥』第8巻p165</ref>{{Refnest|group="注釈"|作中[[徳川家重|家重]]は[[右近衛将監]]([[老中]] [[松平武元]])に丸投げしている<ref>『大奥』第8巻p151</ref>}}。}}や[[宝暦の飢饉|天災]]があり、遂に'''[[田沼意次]]'''が活躍を始める。吉宗の遺命{{Refnest|group="注釈"|産業開発を奨励し、科学知識摂取のため[[徳川吉宗|吉宗]]{{Refnest|group="注釈"|史実の[[徳川吉宗|吉宗]]は1728年、[[ベトナム]]からゾウを献上させた。[[宮中]][[参内]]の為[[従四位]]に叙され[[広南従四位白象]]と呼ばれゾウは長崎から京へ。[[天覧]]に先立ち[[清涼殿|台盤所]]には「象舞台」がつくられ、ゾウは[[中御門天皇]]に[[拝謁]]し、更に江戸へ移動、[[象]][[流行|ブーム]]が起こる<ref>和田実 著『享保十四年、象、江戸へ行く』岩田書院(2015年2月) ISBN 978-4-87294-900-1</ref><ref>石坂昌三 著『象の旅 長崎から江戸へ(80日間の一大イベント)』[[新潮社]](1992年)ISBN 4103856017</ref>。}}が[[洋書]](キリスト教関連以外に限定)[[禁輸]]を緩和<ref>『大奥』第8巻p195</ref><ref>『大奥』第9巻p45-46</ref>し[[長崎市|長崎]]を中心に[[蘭学]][[流行|ブーム]]{{Refnest|group="注釈"|[[徳川吉宗|吉宗]]は[[青木昆陽]]・[[野呂元丈]]に[[蘭語]]習得を命じ、[[青木昆陽|昆陽]]は『和蘭文訳』『和蘭文字略考』の[[蘭語]]辞書・入門書を著す。[[野呂元丈|元丈]]は[[ヨハネス・ヨンストン|ヨンストン]]著『鳥獣虫魚図譜 全5巻』(1650-1653年)の[[蘭語]]版を『阿蘭陀畜獣虫魚和解』(1741年)として、[[レンベルト・ドドエンス|ドドエンス]]著『草木誌』(1554年)を『[https://www.digital.archives.go.jp/DAS/pickup/view/category/categoryArchives/0400000000/0412000000/00 阿蘭陀本草和解]』(1750年)として抄訳した。[[カピタン]]の[[蘭語]]版『鳥獣虫魚図譜』献上は1663年、江戸城の[[紅葉山文庫]]で死蔵され、『草木誌』とともに[[徳川吉宗|吉宗]]が見出した。『草木誌』は当時ヨーロッパで[[聖書]]に次いで多言語に翻訳<ref>[[シャルル・ド・レクリューズ]]訳[[レンベルト・ドドエンス]]著 ''Histoire des plantes''(1557年)</ref>され、約2世紀参考文献として利用されていた。}}が起こる。}}で赤面疱瘡根絶に邁進、[[長崎市|長崎]]の'''[[吉雄耕牛]]'''門下の'''青沼'''を、'''[[平賀源内]]'''を遣わして大奥に招いて[[蘭学]]を教えさせ、諸国を渡り歩く源内にも情報収集させる。


=== 家治編 ===
=== 家治編 ===
家重は[[西の丸]]へ隠居、十代将軍に就いた長女・[[徳川家治|'''家治''']]は田沼意次<ref>鈴木由紀子「10代[[徳川家治|家治]]と[[田沼意次]]~重商主義に転換し、大胆な経済改革を推し進めた変革者」『歴史読本』(2014-12月) Kadokawa</ref>を側用人とし赤面疱瘡根絶を命じ、家重没後は老中に取り立てる。大奥や幕閣から支持される意次だが、仮にも武士が唯金主義とはあさましいと'''[[松平定信]]'''に罵倒<ref>『大奥 第9巻』p191</ref>され、その陰で'''[[一橋治済]]'''の暗躍<ref>『大奥 第9巻』p145</ref>が始まる。
家重は[[西の丸]]へ隠居、十代将軍に就いた長女・[[徳川家治|'''家治''']]は田沼意次<ref>鈴木由紀子「10代[[徳川家治|家治]]と[[田沼意次]]~重商主義に転換し、大胆な経済改革を推し進めた変革者」『歴史読本』(2014-12月) Kadokawa</ref>を側用人とし赤面疱瘡根絶を命じ、家重没後は老中に取り立てる。大奥や幕閣から支持される意次だが、仮にも武士が唯金主義とはあさましいと'''[[松平定信]]'''に罵倒<ref>『大奥 第9巻』p191</ref>され、その陰で'''[[一橋治済]]'''の暗躍<ref>『大奥 第9巻』p145</ref>が始まる。


平賀源内の情報で予防に効果的手段を模索し、青沼や[[奥右筆|御右筆]][[助手 (教育)|助]]の'''黒木'''は、洋書{{Refnest|group="注釈"|『大奥 第10巻』p100-103{{Refnest|group="注釈"|[[メアリー・モンタギュー|メアリー・ウォード・モンタギュー]]は英国貴族の女性著述家。外交官の妻として[[オスマン帝国]]に住み、[[トルコ]]社会について『{{仮リンク|トルコ書簡集|label=トルコ書 簡集|en|''Turkish Embassy Letters''}}<ref>''Letters of the Right Honourable Lady M--Y W---Y M----E: Written During Her Travels in Europe, Asia and Africa, to Persons of Distinction, Men of Letters, Etc. in Different Parts of Europe. Which Contain, Among Other Curious Relations, Accounts of the '''''POLICY''''' and '''''MANNERS''''' of the '''''TURKS''''' ; Drawn from Sources that have been inaccessible to other Travellers.'' IN THREE VOLUMES. VOL.I. LONDON: Printed for T. Becket and P. A. DE Hondtin Strand. MDCCLXIII.(1763年)Mary Wortley Montagu著ISBN-13:978-1343266834</ref>』で著述した。1721年に[[チャールズ・メイトランド (医師)]]に頼み娘に[[人痘法|人痘]][[接種]]させ、1722年に[[ジョージ1世|国王]]の孫娘にも[[人痘法|人痘]]が[[接種]]された<ref>[https://openlibrary.org/authors/OL6416003A/Charles_Maitland ''Mr. Maitland's account of inoculating the '''''small pox''''' '']Charles Maitland著(1722年)</ref>。}} }}の記述から[[人痘接種法|人痘法]]に辿り着く。源内がワクチン用弱毒感染者を見つけ、'''伊兵衛'''や'''僖助'''が接種に成功し大奥内で人痘の「種」を継いでいた中、定信の甥が[[副反応]]で初の死者となってしまう<ref>『大奥 第10巻』p208</ref>。相次ぐ天災<ref>[[天明大噴火]]</ref><ref>[[天明の大飢饉]]</ref>、家治の世継ぎ・[[徳川家基|'''家基''']]の死・意次の娘[[田沼意知|'''意知''']]{{Refnest|group="注釈"|江戸に[[田沼意知|意知]]を嘲笑う[[落首]]が溢れ、[[オランダ商館長]][[イサーク・ティチング]]は『鉢植えて梅か桜か咲く花を誰れたきつけて[[佐野政言|佐野]]に斬らせた』という落首を世界に伝えた「[[井蛙]]ぞろいの[[幕閣]]中、[[田沼意知|意知]]だけが日本の将来を考えていた。彼の死で早期[[開国]]の道は完全に閉ざされた」<ref>[[イサーク・ティチング|ティチング]]著 横山伊徳 編訳『[[オランダ商館長]]の見た日本 往復書翰集』[[吉川弘文館]](2005年)</ref>。[[カピタン]]としては2度[[カピタン江戸参府|江戸参府]]し10代[[徳川家治|家治]]に拝謁、後に日本に関する著作{{Refnest|group="注釈"|''❝Illustrations du Japon❞; Mémoires et Anecdotes sur la [[支配者|Dynastie régnante]] des [[徳川将軍|Djogouns]], [[統治者|Souverains du Japon]], avec la description des [[年中行事|fêtes et cérémonies]] observées aux différentes époques de l'année à la [[江戸城|Cour de ces Princes]], et un appendice contenant des détails sur la [[和歌|poésie des Japonais]], leur [[暦法|manière de diviser l'année]], etc.;[[浮世絵|Ouvrage orné de Planches gravées et coloriées]]'', tiré des Originaux Japonais par M. '''[[イサーク・ティチング|Titsingh]]'''; publié avec des Notes et Eclaircissemens Par M. Abel Rémusat. Paris: Nepveu(1820年)<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/1288368/1/1 狩野友信 著『幕府年中行事』(1898年)]FYI参考文献</ref>}}<ref>''❝Illustrations of Japan❞; consisting of Private Memoirs and Anecdotes of the reigning dynasty of The [[徳川将軍|Djogouns]], or Sovereigns of Japan; a description of the Feasts and Ceremonies observed throughout the year at their Court; and of the [[冠婚葬祭|Ceremonies customary at Marriages and Funerals]]: to which are subjoined, observations on the [[切腹|legal suicide]] of the Japanese, remarks on their poetry, an explanation of their [[十二時辰|mode of reckoning time]], particulars respecting the [[護摩|Dosia]] powder, the preface of a work by [[儒教|Confoutzee]] on [[親孝行|filial piety]], &c. &c.'' by M. '''[[イサーク・ティチング|Titsingh]]''' formerly [[カピタン|Chief Agent]] to [[オランダ東インド会社|the Dutch East India Company]] at [[出島|Nangasaki]]. Translated from the French, by Frederic Shoberl with coloured plates, faithfully copied from Japanese original designs. London: Ackermann(1822年)ISBN-13:978-1230050805</ref>を残した。[[田沼時代]]の政治・社会情勢は特筆に価する。}}{{Refnest|group="注釈"|[[イサーク・ティチング|ティチング]]は日本の機密を[[島津重豪]]<ref>芳則正 著『[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I012806399-00 島津重豪]』日本歴史学会 人物叢書 日本歴史学会編 巻181 吉川弘文館(1995年改訂版)</ref>から得ていた、とフランスの博物学者で旅行家{{仮リンク|シャルパンティエ・ド・コシニー|label=シャルパンティエ・ド・コシニー|en|Joseph-François Charpentier de Cossigny}}に話した事が「ベンガル航海記」に記載され、その本は[[フランス革命戦争]]で本国が失われ[[オランダ東インド会社]]が解散した1799年にパリで出版された。}}{{Refnest|group="注釈"|[[ヘンドリック・ドゥーフ|ドゥーフ]]著書{{Refnest|group="注釈"|[[ヘンドリック・ドゥーフ|ドゥーフ]]著『''Herinneringen uit Japan''<ref>Hendrik Doeff著『Recollections of Japan』ISBN-10:1553958497 ISBN-13:978-1553958499</ref>{{仮リンク|オランダ獅子士勲章|label=オランダ獅子士勲章|en|Order of the Netherlands Lion}}を賜りし[[出島]]の元[[オランダ商館長|商館長]][[ヘンドリック・ドゥーフ]]の日本回想録』(1833年)に「春風やアマコマ走る帆かけ船 '''''A spring breeze, to and fro they bustle, the sail boats'''''(haiku by [[ヘンドリック・ドゥーフ|Hendrik Doeff]], Page xi on the table of contents)」の句が掲載されている<ref>[[ヘンドリック・ドゥーフ|ドゥーフ]]は、はじめて'''[[俳句]]'''を詠んだ[[西洋人]]としても知られる。大屋士由『美佐古鮓』(みさごずし 1818年序)に同句が「[[オランダ人|和蘭陀人]]」の作として載っているが、[[ヘンドリック・ドゥーフ|ドゥーフ]]による[[ローマ字]]の跋文があり本人の作と考えられる。「稲妻の腕(かいな)を借らん草枕」も[[ヘンドリック・ドゥーフ|ドゥーフ]]の作とされる。</ref>。}}に「[[島津重豪|重豪]]は娘を[[征夷大将軍|将軍]][[正室]]として嫁がせ[[江戸幕府|幕府]]と[[薩摩藩|薩摩]]を結合させ、諸侯を服従させようと企てている」と記されている。}}の暗殺等重なり、意次は家治の死と同時に失脚、青沼は[[打首]]。洋書は没収され、黒木らは追放される。治済の陰謀<ref>『大奥 第10巻』p48-50</ref>で[[梅毒]]を患っていた源内も死亡し、黒木はあまりの理不尽さに怒りをあらわにする。
平賀源内の情報で予防に効果的手段を模索し、青沼や[[奥右筆|御右筆]][[助手 (教育)|助]]の'''黒木'''は、洋書{{Refnest|group="注釈"|『大奥 第10巻』p100-103{{Refnest|group="注釈"|[[メアリー・モンタギュー|メアリー・ウォード・モンタギュー]]は英国貴族の女性著述家。外交官の妻として[[オスマン帝国]]に住み、[[トルコ]]社会について『{{仮リンク|トルコ書簡集|label=トルコ書 簡集|en|''Turkish Embassy Letters''}}<ref>''Letters of the Right Honourable Lady M--Y W---Y M----E: Written During Her Travels in Europe, Asia and Africa, to Persons of Distinction, Men of Letters, Etc. in Different Parts of Europe. Which Contain, Among Other Curious Relations, Accounts of the '''''POLICY''''' and '''''MANNERS''''' of the '''''TURKS''''' ; Drawn from Sources that have been inaccessible to other Travellers.'' IN THREE VOLUMES. VOL.I. LONDON: Printed for T. Becket and P. A. DE Hondtin Strand. MDCCLXIII.(1763年)Mary Wortley Montagu著ISBN 978-1343266834</ref>』で著述した。1721年に[[チャールズ・メイトランド (医師)]]に頼み娘に[[人痘法|人痘]][[接種]]させ、1722年に[[ジョージ1世|国王]]の孫娘にも[[人痘法|人痘]]が[[接種]]された<ref>[https://openlibrary.org/authors/OL6416003A/Charles_Maitland ''Mr. Maitland's account of inoculating the '''''small pox''''' '']Charles Maitland著(1722年)</ref>。}} }}の記述から[[人痘接種法|人痘法]]に辿り着く。源内がワクチン用弱毒感染者を見つけ、'''伊兵衛'''や'''僖助'''が接種に成功し大奥内で人痘の「種」を継いでいた中、定信の甥が[[副反応]]で初の死者となってしまう<ref>『大奥 第10巻』p208</ref>。相次ぐ天災<ref>[[天明大噴火]]</ref><ref>[[天明の大飢饉]]</ref>、家治の世継ぎ・[[徳川家基|'''家基''']]の死・意次の娘[[田沼意知|'''意知''']]{{Refnest|group="注釈"|江戸に[[田沼意知|意知]]を嘲笑う[[落首]]が溢れ、[[オランダ商館長]][[イサーク・ティチング]]は『鉢植えて梅か桜か咲く花を誰れたきつけて[[佐野政言|佐野]]に斬らせた』という落首を世界に伝えた「[[井蛙]]ぞろいの[[幕閣]]中、[[田沼意知|意知]]だけが日本の将来を考えていた。彼の死で早期[[開国]]の道は完全に閉ざされた」<ref>[[イサーク・ティチング|ティチング]]著 横山伊徳 編訳『[[オランダ商館長]]の見た日本 往復書翰集』[[吉川弘文館]](2005年)</ref>。[[カピタン]]としては2度[[カピタン江戸参府|江戸参府]]し10代[[徳川家治|家治]]に拝謁、後に日本に関する著作{{Refnest|group="注釈"|''❝Illustrations du Japon❞; Mémoires et Anecdotes sur la [[支配者|Dynastie régnante]] des [[徳川将軍|Djogouns]], [[統治者|Souverains du Japon]], avec la description des [[年中行事|fêtes et cérémonies]] observées aux différentes époques de l'année à la [[江戸城|Cour de ces Princes]], et un appendice contenant des détails sur la [[和歌|poésie des Japonais]], leur [[暦法|manière de diviser l'année]], etc.;[[浮世絵|Ouvrage orné de Planches gravées et coloriées]]'', tiré des Originaux Japonais par M. '''[[イサーク・ティチング|Titsingh]]'''; publié avec des Notes et Eclaircissemens Par M. Abel Rémusat. Paris: Nepveu(1820年)<ref>[https://dl.ndl.go.jp/pid/1288368/1/1 狩野友信 著『幕府年中行事』(1898年)]FYI参考文献</ref>}}<ref>''❝Illustrations of Japan❞; consisting of Private Memoirs and Anecdotes of the reigning dynasty of The [[徳川将軍|Djogouns]], or Sovereigns of Japan; a description of the Feasts and Ceremonies observed throughout the year at their Court; and of the [[冠婚葬祭|Ceremonies customary at Marriages and Funerals]]: to which are subjoined, observations on the [[切腹|legal suicide]] of the Japanese, remarks on their poetry, an explanation of their [[十二時辰|mode of reckoning time]], particulars respecting the [[護摩|Dosia]] powder, the preface of a work by [[儒教|Confoutzee]] on [[親孝行|filial piety]], &c. &c.'' by M. '''[[イサーク・ティチング|Titsingh]]''' formerly [[カピタン|Chief Agent]] to [[オランダ東インド会社|the Dutch East India Company]] at [[出島|Nangasaki]]. Translated from the French, by Frederic Shoberl with coloured plates, faithfully copied from Japanese original designs. London: Ackermann(1822年)ISBN 978-1230050805</ref>を残した。[[田沼時代]]の政治・社会情勢は特筆に価する。}}{{Refnest|group="注釈"|[[イサーク・ティチング|ティチング]]は日本の機密を[[島津重豪]]<ref>芳則正 著『[https://iss.ndl.go.jp/books/R100000096-I012806399-00 島津重豪]』日本歴史学会 人物叢書 日本歴史学会編 巻181 吉川弘文館(1995年改訂版)</ref>から得ていた、とフランスの博物学者で旅行家{{仮リンク|シャルパンティエ・ド・コシニー|label=シャルパンティエ・ド・コシニー|en|Joseph-François Charpentier de Cossigny}}に話した事が「ベンガル航海記」に記載され、その本は[[フランス革命戦争]]で本国が失われ[[オランダ東インド会社]]が解散した1799年にパリで出版された。}}{{Refnest|group="注釈"|[[ヘンドリック・ドゥーフ|ドゥーフ]]著書{{Refnest|group="注釈"|[[ヘンドリック・ドゥーフ|ドゥーフ]]著『''Herinneringen uit Japan''<ref>Hendrik Doeff著『Recollections of Japan』ISBN 1553958497 ISBN-13:978-1553958499</ref>{{仮リンク|オランダ獅子士勲章|label=オランダ獅子士勲章|en|Order of the Netherlands Lion}}を賜りし[[出島]]の元[[オランダ商館長|商館長]][[ヘンドリック・ドゥーフ]]の日本回想録』(1833年)に「春風やアマコマ走る帆かけ船 '''''A spring breeze, to and fro they bustle, the sail boats'''''(haiku by [[ヘンドリック・ドゥーフ|Hendrik Doeff]], Page xi on the table of contents)」の句が掲載されている<ref>[[ヘンドリック・ドゥーフ|ドゥーフ]]は、はじめて'''[[俳句]]'''を詠んだ[[西洋人]]としても知られる。大屋士由『美佐古鮓』(みさごずし 1818年序)に同句が「[[オランダ人|和蘭陀人]]」の作として載っているが、[[ヘンドリック・ドゥーフ|ドゥーフ]]による[[ローマ字]]の跋文があり本人の作と考えられる。「稲妻の腕(かいな)を借らん草枕」も[[ヘンドリック・ドゥーフ|ドゥーフ]]の作とされる。</ref>。}}に「[[島津重豪|重豪]]は娘を[[征夷大将軍|将軍]][[正室]]として嫁がせ[[江戸幕府|幕府]]と[[薩摩藩|薩摩]]を結合させ、諸侯を服従させようと企てている」と記されている。}}の暗殺等重なり、意次は家治の死と同時に失脚、青沼は[[打首]]。洋書は没収され、黒木らは追放される。治済の陰謀<ref>『大奥 第10巻』p48-50</ref>で[[梅毒]]を患っていた源内も死亡し、黒木はあまりの理不尽さに怒りをあらわにする。


十一代将軍の座に就くかと思われた治済は、人痘接種済みで赤面疱瘡の心配無用の息子を、と幕閣を説得し、男将軍・'''[[徳川家斉|家斉]]'''が誕生する。
十一代将軍の座に就くかと思われた治済は、人痘接種済みで赤面疱瘡の心配無用の息子を、と幕閣を説得し、男将軍・'''[[徳川家斉|家斉]]'''が誕生する。
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:家綱御台所、有功が大奥を去ってから迎えた。子どもはできなかった。
:家綱御台所、有功が大奥を去ってから迎えた。子どもはできなかった。
'''''[[保科正之]](ほしな まさゆき)'''''{{Efn|家光が逝去した時、家光の弟の保科正之が存命していた(第2巻)。}}
'''''[[保科正之]](ほしな まさゆき)'''''{{Efn|家光が逝去した時、家光の弟の保科正之が存命していた(第2巻)。}}
:2代将軍[[徳川秀忠|秀忠]]の[[庶子]]{{Efn|史実では、[[徳川秀忠|秀忠]]が[[崇源院|正室]]の許可なく[[浄光院 (保科正之生母)|お手付き]]を孕ませたので、生まれた事も出生地も極秘だった。1629年[[徳川家光|家光]]に初対面。[[御連枝]]として[[松平姓]]を勧められたが、幼時の養育係[[保科正光]]への恩義から生涯保科姓を名乗る<ref>[[中村彰彦]] 著『[[保科正之]]~[[徳川将軍家]]を支えた[[会津]]藩主』[[中公文庫]](2006年)ISBN978-4-122-04685-6</ref>。}}。家綱が政治に無関心なのを心配し有功に諭す様頼む。
:2代将軍[[徳川秀忠|秀忠]]の[[庶子]]{{Efn|史実では、[[徳川秀忠|秀忠]]が[[崇源院|正室]]の許可なく[[浄光院 (保科正之生母)|お手付き]]を孕ませたので、生まれた事も出生地も極秘だった。1629年[[徳川家光|家光]]に初対面。[[御連枝]]として[[松平姓]]を勧められたが、幼時の養育係[[保科正光]]への恩義から生涯保科姓を名乗る<ref>[[中村彰彦]] 著『[[保科正之]]~[[徳川将軍家]]を支えた[[会津]]藩主』[[中公文庫]](2006年)ISBN 978-4-122-04685-6</ref>。}}。家綱が政治に無関心なのを心配し有功に諭す様頼む。
;[[矢島局]](やじまのつぼね)
;[[矢島局]](やじまのつぼね)
:家綱の乳母{{Efn|史実では父の[[徳川家光|家光]]が既に世継ぎに決めていた赤ん坊なので[[乳母]]も[[松平信綱]]が面接・採用。西の丸[[御年寄]]格に。奸智に長け病弱な[[家綱]]に取り入り政治的発言をし、正室の[[浅宮顕子]]、[[上臈御年寄]]の姉小路・飛鳥井と対立した説もある<ref>『新訂寛政重修諸家譜 第18』(続群書類従完成会、編集顧問、高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬、1965年)寛政重修諸家譜 巻第千二百二十九</ref>。}}。3巻では春日局の看病を頼まれても縁側で菓子を食べている太々しい女。
:家綱の乳母{{Efn|史実では父の[[徳川家光|家光]]が既に世継ぎに決めていた赤ん坊なので[[乳母]]も[[松平信綱]]が面接・採用。西の丸[[御年寄]]格に。奸智に長け病弱な[[家綱]]に取り入り政治的発言をし、正室の[[浅宮顕子]]、[[上臈御年寄]]の姉小路・飛鳥井と対立した説もある<ref>『新訂寛政重修諸家譜 第18』(続群書類従完成会、編集顧問、高柳光寿、岡山泰四、斎木一馬、1965年)寛政重修諸家譜 巻第千二百二十九</ref>。}}。3巻では春日局の看病を頼まれても縁側で菓子を食べている太々しい女。
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:正室[[増子女王|比宮]]附御中﨟、後に側室{{Efn|史実の[[梅渓幸子|至心院]]生家[[梅渓家]]は[[九条兼実]]・[[慈円]]らの父、[[藤原忠通]]に迄血筋を遡る事ができる[[羽林家]]。[[近衛尚通]]の子・[[久我晴通|晴通]]が[[久我家]]に養子入りし、[[久我通世]]の子・[[梅渓季通|季通]]が分家・[[梅渓家]]初代。その孫[[通条]][[至心院|女]]が[[至心院|梅渓幸子]]。因みに3代[[通条]]の子孫12代[[梅渓通虎|通虎]]三女が[[池坊専永]]夫人[[池坊保子|保子]]。}}。世継ぎ[[徳川家治|竹姫]]をもうける。家重が心を移した[[安祥院 (徳川家重側室)|お千瀬の方]]に嫉妬し、斬り掛かって家重の勘気を被り入牢{{Efn|史実のお幸の方も投獄されたが理由は全く異なる、[[徳川家重#人物・逸話]]参照。}}。33歳で逝去{{Refnest|group="注釈"|それまでの短い間時々こっそりと鰻を楽しんだ<ref>『大奥 第8巻p132』</ref>。}}
:正室[[増子女王|比宮]]附御中﨟、後に側室{{Efn|史実の[[梅渓幸子|至心院]]生家[[梅渓家]]は[[九条兼実]]・[[慈円]]らの父、[[藤原忠通]]に迄血筋を遡る事ができる[[羽林家]]。[[近衛尚通]]の子・[[久我晴通|晴通]]が[[久我家]]に養子入りし、[[久我通世]]の子・[[梅渓季通|季通]]が分家・[[梅渓家]]初代。その孫[[通条]][[至心院|女]]が[[至心院|梅渓幸子]]。因みに3代[[通条]]の子孫12代[[梅渓通虎|通虎]]三女が[[池坊専永]]夫人[[池坊保子|保子]]。}}。世継ぎ[[徳川家治|竹姫]]をもうける。家重が心を移した[[安祥院 (徳川家重側室)|お千瀬の方]]に嫉妬し、斬り掛かって家重の勘気を被り入牢{{Efn|史実のお幸の方も投獄されたが理由は全く異なる、[[徳川家重#人物・逸話]]参照。}}。33歳で逝去{{Refnest|group="注釈"|それまでの短い間時々こっそりと鰻を楽しんだ<ref>『大奥 第8巻p132』</ref>。}}
;芳三(よしぞう)/ 善次郎(ぜんじろう)
;芳三(よしぞう)/ 善次郎(ぜんじろう)
:[[台東区|柳橋]]の名亭で[[シェフ|板長]]以下女性の[[厨房|板場]]で疎まれ、大奥[[厨房|御膳所]]に御仲居の芳三として上がる。嘗て[[板前|焼方]]迄務めたなら、とお幸の方の[[膳部]]を任され、鰻{{Refnest|group="注釈"|[http://zatsuneta.com/archives/003691.html 江戸時代 魚は上・中・下に格付けされていた]<ref>勇次に「下種な魚」杉下に「(本来持込禁止品だから)御用役人に袖の下が大変だった」と言われる</ref><ref>『大奥 第8巻p115』</ref>。}}の'''樺'''焼き丼{{Efn|[[江戸時代]]以前の[[蒲焼]]は、[[鰻]]をブツ切り串に刺して焼き、味噌や塩をかけて食べた。その形が[[蒲の穂]]に似ていて「ガマ焼き」訛って「かば焼」と呼ばれた<ref>[[本山荻舟]] 著『飲食事典』[[平凡社]]昭和33年12月25日発行58頁</ref>当初[[江戸]]では[[屋台]]売り[[ファーストフード]]、肉体労働者用安価なスタミナ食<ref>『大奥 第8巻p116』</ref>だった。}}{{Efn|[[濃口醤油]]が開発され、[[鰻]]を開きタレにつけて焼くようになるのは[[享保]]の頃。その後冷めないよう[[丼]]に蓋をし、更には[[重箱]]使用も。[[丼飯]]は[[文化]]年間に誕生したとされる。宮川政運の「俗事百工起源」(1885年)に堺町(後の東京[[人形町]])の[[芝居小屋]]「[[中村座]]」スポンサー[[大久保今助]]が、[[蒲焼]]が冷めぬ様、[[丼飯]]の間に挟ませ[[芝居小屋]]に届けさせたのが起源と書かれている<ref>松下幸子 著『図説[[江戸料理]]事典』[[柏書房]](1996年)</ref><ref>飯野亮一 著『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼』[[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉2019年9月9日ISBN978-4-480-09951-8</ref><ref>ロム・インターナショナル(編)『道路地図 びっくり!博学知識』[[河出書房新社]]〈KAWADE夢文庫〉2005年2月1日 ISBN4-309-49566-4</ref><ref>『いばらきもの知り博士 茨城で生まれた日本伝統の味「[[うな丼]]」』[https://www.pref.ibaraki.jp/bugai/koho/kenmin/hakase/index.html 茨城県]</ref>}}を試食願う。後に御仲居頭に。青沼らに源内御持たせ「うな藤」の蒲焼を鰻丼仕立てで温かく配膳<ref>『大奥 第10巻p23-26』</ref>する。
:[[台東区|柳橋]]の名亭で[[シェフ|板長]]以下女性の[[厨房|板場]]で疎まれ、大奥[[厨房|御膳所]]に御仲居の芳三として上がる。嘗て[[板前|焼方]]迄務めたなら、とお幸の方の[[膳部]]を任され、鰻{{Refnest|group="注釈"|[http://zatsuneta.com/archives/003691.html 江戸時代 魚は上・中・下に格付けされていた]<ref>勇次に「下種な魚」杉下に「(本来持込禁止品だから)御用役人に袖の下が大変だった」と言われる</ref><ref>『大奥 第8巻p115』</ref>。}}の'''樺'''焼き丼{{Efn|[[江戸時代]]以前の[[蒲焼]]は、[[鰻]]をブツ切り串に刺して焼き、味噌や塩をかけて食べた。その形が[[蒲の穂]]に似ていて「ガマ焼き」訛って「かば焼」と呼ばれた<ref>[[本山荻舟]] 著『飲食事典』[[平凡社]]昭和33年12月25日発行58頁</ref>当初[[江戸]]では[[屋台]]売り[[ファーストフード]]、肉体労働者用安価なスタミナ食<ref>『大奥 第8巻p116』</ref>だった。}}{{Efn|[[濃口醤油]]が開発され、[[鰻]]を開きタレにつけて焼くようになるのは[[享保]]の頃。その後冷めないよう[[丼]]に蓋をし、更には[[重箱]]使用も。[[丼飯]]は[[文化]]年間に誕生したとされる。宮川政運の「俗事百工起源」(1885年)に堺町(後の東京[[人形町]])の[[芝居小屋]]「[[中村座]]」スポンサー[[大久保今助]]が、[[蒲焼]]が冷めぬ様、[[丼飯]]の間に挟ませ[[芝居小屋]]に届けさせたのが起源と書かれている<ref>松下幸子 著『図説[[江戸料理]]事典』[[柏書房]](1996年)</ref><ref>飯野亮一 著『天丼 かつ丼 牛丼 うな丼 親子丼』[[筑摩書房]]〈[[ちくま学芸文庫]]〉2019年9月9日ISBN 978-4-480-09951-8</ref><ref>ロム・インターナショナル(編)『道路地図 びっくり!博学知識』[[河出書房新社]]〈KAWADE夢文庫〉2005年2月1日 ISBN 4-309-49566-4</ref><ref>『いばらきもの知り博士 茨城で生まれた日本伝統の味「[[うな丼]]」』[https://www.pref.ibaraki.jp/bugai/koho/kenmin/hakase/index.html 茨城県]</ref>}}を試食願う。後に御仲居頭に。青沼らに源内御持たせ「うな藤」の蒲焼を鰻丼仕立てで温かく配膳<ref>『大奥 第10巻p23-26』</ref>する。
;[[徳川宗尹|田安宗武]](たやす むねたけ)
;[[徳川宗尹|田安宗武]](たやす むねたけ)
:吉宗の次女。家重より出来が良いからと跡目争いになりかける。
:吉宗の次女。家重より出来が良いからと跡目争いになりかける。
550行目: 550行目:
:老中、松平定信の孫。家茂に信頼され拝命。歯に衣着せぬ勝海舟の江戸っ子べらんめぇ調に振り回されるも「この男しかいないので」と頭を下げて回る。
:老中、松平定信の孫。家茂に信頼され拝命。歯に衣着せぬ勝海舟の江戸っ子べらんめぇ調に振り回されるも「この男しかいないので」と頭を下げて回る。
;[[天璋院|近衛胤篤]](このえ たねあつ)/ 島津忠敬(しまづ ただすみ)
;[[天璋院|近衛胤篤]](このえ たねあつ)/ 島津忠敬(しまづ ただすみ)
:島津分家今和泉家・[[島津忠剛]]の次男。島津斉彬の養子となり、近衛家の養子として大奥入りする。家定には一橋慶喜後継擁立を見抜かれたが彼はそれを認め警戒心を解き、健康に配慮し、彼女は懐妊する。「薨去」を知らされ瀧山の前では取り乱す。遺命で落飾せず「天璋院」と称し「家茂」と名を改めた福子の養父となりその正室和宮に心を砕く{{Refnest|group="注釈"|天璋院が[[花びら餅]]を振舞うが、作中の形は家茂が亡くなった1866年に[[裏千家]]宗匠が思い付き[[初釜]]用に改良を重ねていった物。当時はまだ求肥ではない<ref>[https://www.okazakicci.or.jp/konwakai/21okazakigaku/21-5.pdf 奥殿大給松平家出身裏千家11代玄々斎の茶について]神谷昇司(2013年)</ref><ref>[[川端道喜]] 著『[[和菓子]]の[[京都]]』[[岩波新書]](1990年)ISBN-13:978-4004301196</ref>。}}<ref>『大奥 第18巻』p100</ref>。
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;[[幾島]](いくしま)
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:胤篤付き御年寄。近衛家から輿入れ随行として京から江戸入り。
:胤篤付き御年寄。近衛家から輿入れ随行として京から江戸入り。

2023年5月11日 (木) 01:16時点における版

大奥
ジャンル SF時代劇フィクション歴史改変SF
漫画
作者 よしながふみ
出版社 白泉社
掲載誌 MELODY
レーベル ジェッツコミックス
ヤングアニマルコミックス
発表号 2004年8月号 - 2021年2月号
巻数 全19巻
話数 全79話
アニメ
原作 よしながふみ
監督 阿部記之
シリーズ構成 たかすぎ梨香
脚本 たかすぎ梨香
キャラクターデザイン 佐藤陽子
音楽 川井憲次
アニメーション制作 スタジオディーン
製作 Netflix
配信サイト Netflix
配信期間 2023年夏 -
テンプレート - ノート
プロジェクト 漫画
ポータル 漫画

大奥』(おおおく)は、よしながふみによる日本フィクションを元にした時代物少女漫画。隔月刊誌『MELODY』(白泉社)にて2004年8月号から2021年2月号まで連載された[1]

連載中からいくつかの重要な日本の漫画賞を受賞しているほか、ジェンダーに対する理解を深める内容を称えられジェイムズ・ティプトリー・ジュニア賞を受賞するなど、日本国外からも評価されている。雑誌『ダ・ヴィンチ』が発表した2012年の「Book of the Year 2012」では、女性誌コミックランキング部門で4位を記録した[2]。2020年12月時点でコミックスの累計発行部数は電子版を含めて600万部を突破している[1]

メディアミックスも行われ、2010年に実写映画化され[3]、2012年にテレビドラマと映画第2作による続編[4]が製作。2023年1月からNHKドラマ10」枠でドラマ化[5]#実写作品を参照)。

作風

江戸時代をモデルとした世界で謎の疫病で男子人口だけ激減し、社会運営の根幹や権力が男から女に移る様を江戸城から描く。

代々の将軍や幕臣・史上男性であった人物が女性に、女性であった人物が男性に置き換えられ、春日局大奥を作ったことや、当時のカピタン[6]報告にある「御簾越しに家光に拝謁、少年のような声だった。その場は若い男ばかりが同座した。市井では女が多く働いていた」との詳細な史実[注釈 3][注釈 5][14][15][注釈 10]疱瘡は実際には女性の方が罹患率が高いという事実[20]から異世界のフィクションを練り上げだストーリーとなっている。掲載誌『MELODY』の扉絵では「男女逆転!パラレル時代劇」「これは日本の江戸時代とは似て非なる物語」と必ず記載され、いわゆるSF作品(歴史改変SF)と位置付けられる。

あらすじ

江戸時代初期、関東のとある山で熊に致命傷を負わされた少年の村から恐ろしい疫病が流行り出す。若い感染者は致死率80%、天然痘に似た症状の為赤面疱瘡と呼ばれ男にだけ伝染、治療法が見つからず瞬く間に全国に伝播し、凡そ80年経過すると男子の人口は女子の1/4に迄減少していた。男の子は子種を持つ大切な宝物扱い、女が全ての労働を担いあらゆる家業を女が受け継ぎ、三代家光以降将軍職女子が継いでいた。婚姻制度は崩壊し夫を持てない貧しい女達は花街の男買いで子種を付け、婿取りは武士や富裕な町人の特権になる。男達を無駄に囲い貴重な子種を無駄にさせる贅沢こそが公方様のご威光の証し[21]…美男3000人を集めた女人禁制の城[22]…それが大奥である。

本作は八代将軍吉宗を基点とし従前は彼女が読む『没日録』の記載事項として描かれる。

なお作中の章分けは、公式では「家光・有功編」「医療編」「幕末編」等だが、本項では便宜上将軍の代替わりで区切る。

吉宗編

赤面疱瘡発生から80年以上経ち、男女同数だった頃は忘れ去られ、女性主導の社会は当たり前で将軍に就任した吉宗は、政の旧慣にふと疑問を持ち、御右筆頭村瀬を訪ね、『没日録』を見せられる。この大奥を作った春日局はどんな男だったか聞かれ村瀬は答える「春日局様は女性でした。三代家光公も元は男性であられたのです」。衝撃を受けた吉宗は、春日局の命で大奥の始まりから現況社会に至る迄を記した『没日録』の頁を捲り始めた。

家光編

赤面疱瘡が感染拡大し始めた三代将軍・家光(男)の時代。公家出身の僧・有功[23]は、春日局の脅迫で小僧の玉栄諸共還俗させられ、家光の小姓として大奥に入れられる。真実は、家光御落胤の少女・千恵将軍継嗣を儲ける為だった。本来の家光が赤面疱瘡で薨去してしまったので将軍家存続の為に春日局は大奥を美男を集めた場所に作り替えていた。

春日局亡き後、千恵は全国の大名に本来の家光の死を明かし、自ら女将軍・家光として統治宣言をする。男子の減少に悩む大名も追随し、家督相続は女子が基本となってゆく。

側室たちとの間に3人の女児を儲け千恵は死去。玉栄は落飾桂昌院となったが、有功は千恵の遺命で出家せず大奥総取締として大奥に留まる。

家綱編

千恵の長女・千代姫が四代将軍・家綱になる。政務を老中らに任せ自らは「左様せい」で決裁したが、先代の優秀な幕臣[注釈 11][25]の支えで政権は安定する。

明暦の大火[注釈 13]が発生した晩、家綱は突如有功への好意を告白するが、有功は復興に尽力したあと大奥を去った。家綱は世継ぎの無いまま薨去、五代将軍は千恵と玉栄の娘・綱吉となる。

綱吉編

五代将軍となった綱吉[注釈 14][注釈 15]柳沢吉保[32]側用人を重用する一方、公方様にのみ許された贅沢三昧[注釈 17]で京から呼び寄せた側室候補・右衛門佐を気に入るが、右衛門佐はお褥滑りを理由に辞退。代わりに大奥総取締の地位に就く。

世継ぎ・松姫が急死し、赤穂事件生類憐れみの令の影響も波及し綱吉の評判は下落したが、右衛門佐と結ばれた綱吉は、父の呪縛[注釈 18]を断ち切り自ら家宣を後継に指名する。

家宣編

家宣の側用人・間部詮房に拾われた勝田左京は、詮房に恋心を抱くが、詮房は左京を家宣の側室にし、後に世継ぎ千代姫を授かる。

六代将軍となった家宣は先代悪政を正し[注釈 19]、庶民からも善政[注釈 21]を期待されたが就任後3年で世を去る。左京は、主の死で乱心した詮房と関係を持ってしまい、これが江島生島事件の序章となる。

家継編

家宣の死で落飾した正室・國熙天英院、側室・左京は月光院と称し、家宣と月光院の娘・千代姫が七代将軍家継となるも、わずか4歳。病弱ゆえに成人も危ぶまれていた。後継候補を巡って紀州吉宗派(天英院)と尾州継友派(間部詮房 [34]・月光院)が対立する中、月光院側の御年寄江島が捕らえられる(江島生島事件)。月光院と詮房の不義密通を証言させようとする吉宗派の陰謀だったが、江島は一切否認し死罪を言い渡される。月光院は天英院に、次代将軍に吉宗を推す代わりに江島の助命と代替わり後の詮房の待遇維持を乞い、天英院はこれを受け入れる。

八代将軍は吉宗に決定、家継は7歳で病死する。

家重編

『没日録』読了後吉宗は、男が少ない現状での外敵の侵略を危惧し、赤面疱瘡根絶に取り組み始める。

3人の娘に恵まれ後顧の憂いなくみえた頃、長女家重廃嫡老中[35]に提言される。家重は障害で言語不明瞭[注釈 22]だが知能[注釈 23]は正常なので吉宗は隠居する。しかし大御所として健在だったが為、家重は九代将軍を継いでも無能[注釈 24][注釈 25]扱いされた。

吉宗治世[40]の負の遺産[注釈 27]天災があり、遂に田沼意次が活躍を始める。吉宗の遺命[注釈 30]で赤面疱瘡根絶に邁進、長崎吉雄耕牛門下の青沼を、平賀源内を遣わして大奥に招いて蘭学を教えさせ、諸国を渡り歩く源内にも情報収集させる。

家治編

家重は西の丸へ隠居、十代将軍に就いた長女・家治は田沼意次[49]を側用人とし赤面疱瘡根絶を命じ、家重没後は老中に取り立てる。大奥や幕閣から支持される意次だが、仮にも武士が唯金主義とはあさましいと松平定信に罵倒[50]され、その陰で一橋治済の暗躍[51]が始まる。

平賀源内の情報で予防に効果的手段を模索し、青沼や御右筆黒木は、洋書[注釈 32]の記述から人痘法に辿り着く。源内がワクチン用弱毒感染者を見つけ、伊兵衛僖助が接種に成功し大奥内で人痘の「種」を継いでいた中、定信の甥が副反応で初の死者となってしまう[54]。相次ぐ天災[55][56]、家治の世継ぎ・家基の死・意次の娘意知[注釈 34][注釈 35][注釈 37]の暗殺等重なり、意次は家治の死と同時に失脚、青沼は打首。洋書は没収され、黒木らは追放される。治済の陰謀[63]梅毒を患っていた源内も死亡し、黒木はあまりの理不尽さに怒りをあらわにする。

十一代将軍の座に就くかと思われた治済は、人痘接種済みで赤面疱瘡の心配無用の息子を、と幕閣を説得し、男将軍・家斉が誕生する。

家斉編

男将軍として就任した家斉だが、政治に口を出すことは許されず、実権は母・治済が握っていた。治済は家斉に子作りを強制させ、その一方で、生まれた子らを退屈しのぎに暗殺していく。そんな中、家斉は治済に隠れて黒木らに接触し、極秘裏に赤面疱瘡研究を再開させる。やがて黒木らは熊の弱毒赤面疱瘡を種とする熊痘法に辿り着き、副作用のない赤面疱瘡予防に成功。だがその評判が江戸城まで届いたことにより、家斉が隠れて赤面疱瘡研究に手を貸していたことが治済に露見してしまう。

治済は家斉を毒殺しようとするが、その瞬間、毒に倒れたのは治済の方だった。実は家斉の正室・茂姫と側室・お志賀が、それぞれの子を毒殺したのが治済であることに気付き、長年にわたって家斉すら欺きながら治済暗殺の計画を進めていたのだ。治済の毒見役として自らも長年毒を摂り続けていたお志賀はその場で死亡、治済は一命をとりとめたものの話すことも身動きすることもできない身となった。

その後、家斉は本来の将軍としての力を発揮し、半ば強権的に赤面疱瘡の予防接種を普及させていった。結果として男子の人口は急速に回復し、化政文化は頂点に達する。家斉は将軍職を息子・家慶に譲りつつも引き続き大御所として政治の実権を握り続け、数年後、治済毒殺未遂事件以来疎遠だった茂姫と和解し、この世を去った。

家慶編

男子の人口回復により武家における男子相続が復活しつつある中、古くから徳川家に仕える阿部家では阿部正弘が女性当主として家督を相続した。寺社奉行として数々の手柄をあげた正弘は、幕閣から女性が減りつつある時勢の中、若くして老中に取り立てられることになる。正弘は懇意にしていた武家出身の陰間・瀧山を身請けし、共に日本のため、将軍のために働こうと誘いかける。

黒船来航の年に十三代将軍に就任したのは、家慶の娘・家定であった。

家定編

家定は幼少時より実父である家慶から性的虐待を受けていた。老中として江戸城に上がった正弘はそれを察知し、広大院(落飾後の茂姫)の協力を仰ぎつつ、家定を西の丸奥に囲い込んで家慶から守ることに成功する。西の丸奥の総取締には瀧山が就任した。その一方で、家慶の家定に対する執着は止んでおらず、家定が迎えた正室は二人連続で暗殺されてしまう。

その頃、日本の状況は変化し攘夷論が高まっていた。1853年に黒船が来航すると江戸は大騒動となり、家慶はパニックに陥り急死、家定が将軍となる。正弘は武士、町人、農民問わず意見を募らせ、長崎海軍伝習所を設置するとともに日米和親条約を結び、二百年続いた鎖国体制は終焉を告げた。

そんな折、家定は島津胤篤と再々婚することになる。家定は胤篤が薩摩の策略により一橋家・徳川慶喜を擁立する使命を帯びて来たものと見破るが、家定の人となりに触れた胤篤は家定に心から尽くし、家定もまた胤篤に心を開いていった。やがて家定は胤篤の子を懐妊するも、臨月を迎えることなく薨去してしまう。胤篤は家定の遺言により、落飾することなく天璋院と名を改め、紀州徳川家から福子を養子に迎えて将軍に据えた。

家茂編

福子が家茂と名を改め将軍に就いて間もなく安政の大獄が起こる。公武合体の一環で孝明天皇の弟・和宮と家茂との婚礼が行われ、やって来たのは男装した女だった。彼女は本物の姉・親子内親王で、婚礼を嫌がる弟の身代わりをかって出たと明かす。弟ばかりを慈しむ母・観行院の愛情がただ欲しかっただけだが、家茂はそんな和宮に寄り添い、和宮も家茂に心を開いていく。

尊王攘夷派と開国派の軋轢が激化、勅命を盾に薩摩に求められ慶喜を将軍後見職に就ける。しかし慶喜は頭は切れるものの人心を得ることができず、せっかく発足した参預会議もわずか二ヶ月で瓦解してしまう。

そんな折、家茂は病に倒れる。国の、徳川の、そして和宮の行末を案じる家茂は病をおして孝明天皇のもとへ参内するも、勝海舟大政奉還を指示しそのまま病死してしまう。「跡継ぎは養子の亀之助を」との家茂の遺志は時勢柄却下、慶喜が最後の将軍に就く。

大奥の終焉

家茂の死を口実に長州征伐は停戦、大政奉還王政復古の大号令で慶喜は官軍の新政府軍に朝敵と謗られることを恐れ敵前逃亡してしまう。慶喜から幕軍全権を丸投げされた勝海舟は、新政府軍の西郷隆盛との談判に臨んだ。西郷は、慶喜の身柄か江戸総攻撃かを迫る。「女が統治してきた徳川の恥ずべき歴史を無にするために慶喜の死が必要」と述べるや従者に扮し次の間に控えていた和宮が激怒し乱入、自らが女であることを明かし、和宮の身代わり事件や孝明天皇への献毒に新政府側の岩倉具視が関わっている証拠の宸翰を盾に総攻撃の中止を迫った。その結果、「徳川家の代々の将軍はみな男であった」とすることで西郷は合意し、無血開城は約された。徳川の女将軍が全て闇に葬られる代わりに、彼女らが守り愛した江戸の町と民は守られることになった。

明治四年。瀧山の商談に随行する薩摩の男子として初洋行に赴く島津胤篤が、同じ船で留学に向かう6歳の少女・(おそらく津田梅子)に、将来内助の功の為に政府高官に嫁ぐのではなく「国を動かすのはあなた達自身…」と語るところで物語は幕を閉じる。

登場人物

声の項はWebアニメ版における声優を示す。ドラマCD版のキャストは後述

吉宗編の人物

単行本1巻および7巻の吉宗編に登場する者についてまとめて記述する。

水野祐之進(みずの ゆうのしん)/ 進吉(しんきち)
声 - 関智一[64]
貧乏旗本部屋住み、物語登場時19歳、道場師範代の腕前。多くの女から子種を望まれる美男子だが、貧しい女達には同情から只で種付けていた。当主の母の方針で貧乏武家相手の種付け料稼ぎはしない。幼馴染みのお信が好きだが、身分違いと諦め想いを断ち切るためと家計を助けるために大奥御三の間に上がり「水野」と呼ばれる。藤波の策略で御中﨟に昇進し吉宗のご内証の方[65]として公には死罪になるが実は吉宗の計らいで、町人進吉としてお信の田嶋屋に婿入りし[注釈 38]、後に吉宗考案の町火消しに参加する。
お信(おのぶ)
声 - 佐藤みゆ希[64]
裕福な大店、薬種問屋・田嶋屋の跡取り娘。幼馴染みの祐之進が好きで、忘れられず見合い話を拒み続け、後に町人の進吉として帰ってきた祐之進を婿に取る。
徳川吉宗(とくがわ よしむね) / 信(のぶ)
声 - 小林沙苗[64]
8代将軍、武芸の達人、質素倹約を旨とし未曾有の財政難に豪華な御掻取を持ってきた間部詮房を解雇。後には父が紀州から連れて来た側室達を平等に順番に召すが、夜伽の作法を嫌いリストラの口実[注釈 39]に美男には手を出さなかった。生まれた娘の父親は適当に政治に口出ししない男を指名。一時は開国も考えたが『没日録』読後は「女子の多い現状では武力で外国に侵略されかねない」と鎖国を続ける。国防力強化に廃れかけていた男子の武芸を奨励し小石川養生所を設立。赤面疱瘡根絶に取り組ませる。
加納久通(かのう ひさみち)/ おみつ
遠江、吉宗の幼なじみで股肱の臣。暢気に見えるが藤波とも堂々と渡り合えう。お庭番宮地を江島の下に送り、天英院と謀って吉宗を将軍に据える。
大岡忠相(おおおかただすけ)
町奉行。堅物な中年で面白みがないと吉宗に言われるがケチん坊同志意外と気が合っている。
間部詮房(まなべ あきふさ) / ふさ
6代家宣・7代家継の側用人。家宣の路線を続けるつもりだったが、吉宗を田舎大名と侮り解雇される。
藤波(ふじなみ)
大奥総取締・御年寄筆頭、年齢は40代。吉宗のペースに勝てず評価も良くないが、弓の腕前だけは誉められる。家継編では天英院派。
松島(まつしま)
御中﨟。美男人員削減で大奥を去る。家継編にも登場。
杉下(すぎした)
御三の間の一人。大奥入りして10年の古参で物語登場時33歳。実家は貧乏御家人で、家計のため毎晩女に売られ18歳で婿入りしたが離縁され、実家にも戻れず大奥に上がる。水野の昇進に伴い部屋子となり、やがて御年寄になる。家重編にも登場、後に大奥総取締。
副島(そえじま)
御三の間の一人。いい年して若衆髷を結い新参の水野を虐めるが、彼の昇進後は媚びへつらう。
鶴岡(つるおか)
松島のお気に入り。剣術の達人。
垣添(かきぞえ)
呉服の間で憧れの水野ののお仕立て担当。
柏木(かしわぎ)
御中﨟。藤波のお気に入り。美男人員削減で大奥を去る。家継編にも登場。
宮地(みやじ)/ 三郎左(さぶろうざ)
公儀お庭番。表向きは呉服の間の宮地。家継編の終盤にも登場。
お須磨の方(おすまのかた)/ 卯之吉(うのきち)
お半下、吉宗のお手付き。後に吉宗の長女福姫の父であると告げられ側室となるが若くして病死。死の直前、吉宗が見舞ったことを喜ぶ。
村瀬正資(むらせ まさすけ)
御右筆頭、97歳。春日局の命で大奥に残り「没日録」を記す。吉宗に全てを伝えた後、終に息を引き取る。
水野頼宣(みずの よりのぶ)
貧乏旗本水野家当主。既に24歳の跡取り娘・志乃の婿取りと婿に行かない息子・祐之進に頭を抱える。口うるさい母だが息子に家計の為の種付け料稼ぎはさせなかった。
福姫(ふくひめ)
吉宗の長女、のちの家重。父親は吉宗が適当に卯之吉と決めたが、顔立ちは卯之吉そっくり。発話の難がある。
浄円院(じょうえんいん)
吉宗の父。身分の低い出で娘の将軍就任時は紀州住まいだったが程無く大奥に呼ばれ「飯を食うのが早い男は丈夫で働き者」との持論に基づき側室候補達(器量良しはいない)を連れてきた。
小宮山加解由(こみやま かげゆ)
吉宗の父が連れてきた側室候補。村瀬の死後、吉宗から御右筆頭に任ぜられる。

家光編の人物

徳川家光(とくがわ いえみつ)
3代将軍、千恵の実父、男色家。実母には関心を持たれず、乳母からは世継ぎを、との重圧で性格が歪む。20歳で辻斬り目的の夜歩き中、お彩を手籠めにし、千恵が生まれた。その後赤面疱瘡で31歳で逝去するも春日局らは秘匿する。
家光(いえみつ)/ 千恵(ちえ)
声 - 松井恵理子[64]
家光がお彩に孕ませた。父の素性も知らず、11歳で春日局に拉致され、亡父の代理と男装を強要された。14歳で城内で女とバレて強姦され、不埒者は手討にするも妊娠、娘を死産した[67]。有功との出会いと娘達の存在が人として成長させ、政治に才を発揮する。27歳で死去した際残ったのは3人の娘だけ、次期将軍は女性となった。
春日局(かすがのつぼね)/ 斎藤福(さいとう ふく)
声 - 井上喜久子[64]
家光の乳母明智光秀に仕えた斎藤利三の娘。稲葉正成に嫁し千熊らを儲けたが離縁し、家光の乳母となる。家光の跡取りを儲ける女を集めた大奥を、今度は千恵に跡取を産ませるため男を集めた場に作り替え、有功に大奥入りを強要した。女が武家を継ぐのは反対だった。
お万の方(おまんのかた)/ 万里小路有功(までのこうじ ありこと)
声 - 宮野真守[64]
公家・万里小路有純の三男。慶光院院主の継目御礼のため江戸へ下り、春日局に還俗を強要され実家にも手を回されたが、やがて千恵最愛の側室「お万の方」となる。容姿・心映えのみならず学問・弓術にも優れ、公の面からも千恵を支えるが子に恵まれず、後に大奥総取締となる。
お玉の方(おたまのかた)/ 玉栄(ぎょくえい)
声 - 梶裕貴[64]
有功に随行してきた小僧で共に還俗した。孤児だったのを有功に助けられ恩義を感じている。したたかで気が荒く剣術の筋も良い。有功の部屋子として大奥入り。後に有功の頼みで側室「お玉の方」となり娘、徳子・後の5代綱吉を儲ける。
明慧(みょうけい)
有功に随行してきた僧侶。徳川家をよく思っていない。有功を還俗させるために彼の目前で殺される。
稲葉正勝(いなば まさかつ)
春日局の実子で家光の側近。幼名は千熊。春日局の命で家光の死の事情を知らない者が将軍に謁見する時は身代わりを勤める。表向き赤面疱瘡で死んだ事にされていた。千恵に殉死
村瀬正資(むらせ まさすけ)
春日局の引きで大奥入りした元浪人。市中に残した妻子は口封じに殺されたと諦めている。有功の世話係を命じられた。後に御右筆となり『没日録』を記す。
お彩(おさい)
家光に襲われ千恵を身籠る。その時の従者・稲葉正勝の脇差を手に江戸城に押し掛け、春日局に乳母と屋敷を与えられるが11年後、千恵を奪われ殺害される。
とよ
春日局が千恵につけた乳母。千恵が江戸城に連行される際口封じに殺される。
角南重郷
御中﨟。玉栄を嬲った意趣返しの罠に嵌り千恵の命令で切腹
勝田頼秀
御中臈。のちに表使。
和田正隆
御中臈。のちに毒見役
澤村伝右衛門(さわむら でんえもん)
剣術指南役、明慧を斬り捨てた春日局腹心。赤面疱瘡で息子を亡くしている。のちに明暦の大火で焼死。
六人衆
千恵の近習。松平信綱三浦正次阿部忠秋太田資宗阿部重次堀田正盛[68]
松平信綱(まつだいら のぶつな)
幕臣・六人衆・老中首座。跡取りの輝綱[注釈 40]以下全男子が早世してしまい、娘しずを男装させ輝綱と偽って育てる。結果しずが男らしくなりすぎたが秘密の露見を恐れている。
松平輝綱(まつだいら てるつな)/ しず
松平信綱と正室の娘。輝綱として男装し元服させられ、男らしい生活が性に合っていると軽口を叩く。千恵の女将軍宣言後は女の姿に改めた。
酒井忠朝(さかい ただとも)
幕臣・若年寄。松平家のしず同様の事情で男装。しずには見破られている。千恵の女将軍宣言後は女の姿に改めた。
お楽の方(おらくのかた)/ 捨蔵(すてぞう)
声 - 福山潤[64]
古着屋の息子でプレイボーイ。春日局の命で千恵の側室となり娘、千代姫・後の4代家綱をもうける。「世継ぎの父の名に捨蔵は相応しくない」と千恵が、呑気な性格だからと「お楽」を名乗らせる。有功にそっくりだがガサツでお調子者。20歳で赤面疱瘡で死亡[注釈 41]
千代姫(ちよひめ)
千恵と捨蔵の子。後の4代家綱
お夏の方(おなつのかた)/ 溝口左京(みぞぐち さきょう)
名門の出。春日局の命で千恵の側室となり、浅黒い肌なので「お夏」の名を与えられ娘・後の綱重をもうける。玉栄を千恵の側室に勧めた有功を軽侮したため、玉栄に毛嫌いされる。のちに綱吉の家宣(お夏の孫)後継指名に玉栄が反対する理由である。
神原さと(かんばら さと)
百姓・神原家の長女。父の死後、女の身で家や村を支えようと奮闘するが、無理が祟って若死にする。

家綱編の人物

徳川家綱(とくがわ いえつな) / 千代姫(ちよひめ)
家光の長女。4代将軍。政治や色事に無関心、能や狂言・水墨画に興味を示す。保科正之から何を奏上されても「左様せい」で片付ける。顔立ちは地味で気立ては優しい。41歳で薨去。
お万の方(おまんのかた)/ 万里小路有功(までのこうじ ありこと)
家綱の父親代わりに千恵亡き後大奥総取締を勤める。家綱の気持ちに全く気づいていなかったが明暦の大火で告白され、出家し大奥を去る。
浅宮顕房(あさのみやあきふさ)
家綱御台所、有功が大奥を去ってから迎えた。子どもはできなかった。

保科正之(ほしな まさゆき)[注釈 42]

2代将軍秀忠庶子[注釈 43]。家綱が政治に無関心なのを心配し有功に諭す様頼む。
矢島局(やじまのつぼね)
家綱の乳母[注釈 44]。3巻では春日局の看病を頼まれても縁側で菓子を食べている太々しい女。
花房(はなぶさ)
新参の御右筆。
倉持(くらもち)
家綱の「ご内証の方」に志願し、大奥に上がる前に離縁した妻子のことを有功に頼み、御役目を引き受ける。

綱吉編の人物

徳川綱吉(とくがわ つなよし)/ 徳子(とくこ)
5代将軍。家光の三女・元館林藩主。世継ぎの一人娘・松姫を溺愛する。実年齢より若く見える[注釈 45]美貌で男女問わず気まぐれに翻弄する。就任当初は職務熱心だったが松姫を失い「世継ぎを産む」重圧から心身のバランスを崩していく。桂昌院が痴呆になっても共依存状態だったが、右衛門佐との一夜で自分を取り戻し自ら世継ぎを指名する。麻疹で危篤になり吉保に窒息死させられるが、病死と公表される[注釈 46]
柳沢吉保(やなぎさわ よしやす)/ おもと
綱吉の側用人小姓として仕え始め重用される。牧野成貞を失寵させ、桂昌院と密通する手段を選ばない冷酷さを持つが松姫には優しい[注釈 47]。右衛門佐には敵意を抱く。綱吉の危篤時に長年抱いていた主君への忠義以上の感情を吐露し綱吉に手をかけ、その後は大奥を去り隠居した。

桂昌院(けいしょういん)/ お玉の方(おたまのかた)/ 玉栄(ぎょくえい)

綱吉の父。出家した身でありながら娘の側近である吉保と関係を持ち、将軍の実父として政治にも大きな影響を及ぼすなど俗欲にまみれた人物となっている。御台所の信平を「気取っている」と嫌って娘から遠ざけようとし、彼に呼ばれた右衛門佐をも快く思わず、自身と同じ身分の低い出である伝兵衛に味方する。「出来ることなら自分が婿になりたい」と言う程に娘の徳子(綱吉)を溺愛する。昔、有功を面と向かって中傷した順性院(お夏の方)をいまだ憎んでおり、順性院の孫・徳川綱豊後継に猛反対していた。子が出来ないのは「自分が過去に猫を殺したため」と思い込み「生類憐れみの令」を出させる。彼だけは娘が将軍になっても「徳子」と呼び捨て、敬語を使わない[注釈 48]。晩年は風呂嫌いの痴呆状態になる。
右衛門佐(えもんのすけ)/ 水無瀬継仁(みなせ つぐひと)
御台所が京より呼び寄せた貧乏公家[注釈 49]上臈御年寄。家計のために体を売る貧しさから抜け出すため、翌年お褥滑りを迎えるのを承知で大奥に上がる。綱吉に魅かれ、対等に渡り合うため男女関係より権力を望み大奥総取締となる。立場上桂昌院や吉保と対立し正室以上の権力を持つ。松姫の死後は、綱吉が少しでも安らぐように心を砕く。最晩年やっと綱吉と「まことの男と女の夜」の幸せを噛み締めるがその翌日急死した。
鷹司信平(たかつかさ のぶひら)
綱吉の正室。公家出身。綱吉に一目ぼれするが、彼女の寵を得ることはできず、桂昌院からも嫌われて綱吉に愛想をつかして大奥内の権力争いに明け暮れてた。跡継ぎの父・伝兵衛に対抗するため右衛門佐を呼び寄せるが逆に彼の方が権力を持ってしまう。しかし内心では綱吉を想い続けていた。晩年は痛風を患ったため十年以上綱吉に忘れられていた。綱吉の危篤時病床を見舞い伝染された麻疹で死亡したため、綱吉を殺したと噂される。
松姫(まつひめ)
綱吉と伝兵衛の娘。両親に溺愛され育つが、5歳の年にあっけなく病死してしまう。
お伝の方(おでんのかた)/ 小谷伝兵衛(こたに でんべえ)
綱吉の側室、松姫の父。綱吉の館林城主時代に吉保と桂昌院の関係を目撃したショックで泣いていた若き日の綱吉に魅入られたことがきっかけで、黒鍬者から取り立てられ側室となった。良く言えば善良で一途、悪く言えば単細胞な性格で頭も良くない。彼の部屋子にも呆れられるが、綱吉への想いは一途で彼女に金品をねだることは決してない。
松姫の死後は綱吉の足が遠退いていたが、彼女の晩年になってから「松姫の父と母」として和解。2人で娘の位牌に手を合わせる。綱吉の死後は出家し80歳で死亡。落飾後の号は瑞春院
小谷さよ(こたに さよ)[注釈 50]
伝兵衛の姉で、館林時代は身分が低く草履取りだったが弟が側室・世継ぎの父となり小谷家は御家人に。博打に溺れたびたび弟に金を無心した。吉保に手切れ金を渡されて伝兵衛に近づくなと釘を刺され、賭博場の争いに巻き込まれ何者かに殺害される。
牧野邦久(まきの くにひさ)/ 阿久里(あぐり)
綱吉の腹心・牧野成貞の夫。館林城主時代の綱吉と親密な関係にあり、阿久里の名はその頃に綱吉に戯れにつけられた女名。
綱吉が牧野邸を訪れたことで再び関係を(綱吉に半ば強制される形で)持つが、次第に体を弱らせ病死。
牧野貞安(まきの さだやす)
牧野成貞・邦久夫妻の長男[注釈 51]で、この時代には珍しくなった男子の跡取り。綱吉が父に手をつけたことで崩壊してゆく自家を目の当たりにし綱吉を恨んでいたが、彼女に迫られた際その色香に抗しきれず関係をもってしまい、綱吉の求めのまま時江を離縁し大奥に上がるがやがて病死する。
牧野時江(まきの ときえ)
貞安の妻。彼とは仲睦まじい夫婦で義両親を慕う優しい嫁だったが、綱吉に夫を奪われたことで嘆きのあまり自害する。
牧野成貞(まきの なりさだ)/ 貞(さだ)
邦久の妻で綱吉の腹心。家族を綱吉に奪われて行きながらも逆らうことができず、鬱状態になり領地を返上し職を辞する。
吉良上野介(きら こうずけのすけ)
老女の大名。松の廊下で浅野に斬りつけられる。被害者とされ、綱吉からの処分は無かったが、赤穂浪士達に討ち取られる。
浅野内匠頭(あさの たくみのかみ)
この時代には数少なくなった男性の大名。男系による家督相続を重んじ、家臣にもそれを推奨してきたが年々肩身の狭くなる男性大名の立場にコンプレックスを持ち物事を悪く捉える癖がある。虚勢を張っている小心者。赤穂事件の発端となった人物で、誤解から吉良に馬鹿にされたと思い込み彼女に切りつけ「抵抗できない老人に斬りつけた」と綱吉の怒りを買い、切腹させられる。
伊達左京亮(だて さきょうのすけ)
若い女性大名。浅野長矩と共に勅使饗応役を務めていたが、期せずして浅野が吉良を逆恨みする種をまいてしまう。
赤穂浪士(あこう ろうし)
吉良邸に討ち入りに入った浅野の遺臣たち。城代家老大石内蔵助(男性)を始め、男子42名、女子5名。年齢は若い者で16 - 18歳だったという。庶民の喝采を浴びるが綱吉により切腹させられる。
徳川光貞(とくがわ みつさだ)
紀州藩主。幼い信(吉宗)を江戸へ連れてきて綱吉と面会させる。隠居後、期待していた跡取りの長女・綱教が急死したショックで体調を崩し後を追うように亡くなる。
徳川綱教(とくがわ つなのり)
紀州藩主・徳川光貞の長女。聡明で母にも期待され妹にも慕われ、20歳のとき隠居した母の跡を継いで紀州徳川家3代藩主となる。徳川綱豊(家宣)と共に次期将軍候補として名前が挙がるが本人は綱豊の方がふさわしいと思い、またそのような姿勢をとっている。藩主となって7年後、食中毒で死亡する。
徳川頼職(とくがわ よりもと)
光貞の次女で、姉・綱教の急死を受けてわずか18歳で藩主となるも、母には影で「調子のいいだけの娘」と評されており大名としての力量は期待されていなかった。藩主となって約4ヵ月後、急死する。
お信(おのぶ)
光貞の3女で、後の8代将軍吉宗。十歳の時に母・徳川光貞と共に綱吉に拝謁。当時から華美な服装や世間一般で美形とされる男性には興味がない。
年少でありながら肝の据わった態度を気に入られ、綱吉に彼女が過去使っていた簪や櫛と三万石の領地、それに加え成人後の名として綱吉から「吉宗」と偏諱を受ける。
後に母と二人の姉を立て続けに失い12歳で5代紀州藩主の座に就く。
永光院(えいこういん)/ 万里小路有功(までのこうじ ありこと)
明暦の大火後落飾した有功。己の所行を悔い苦しむ老いた桂昌院に昔と変わらぬ優しさで接し、彼の死後もすぐ駆けつけて弔った。
秋本惣次郎(あきもと そうじろう)
大奥では「秋本」と呼ばれる。御台所信平付の御中﨟だったが右衛門佐に引き抜かれて彼の部屋子となり、計略の手先として暗躍する。当時高価であった眼鏡を買うために大奥に入ったと公言。地位にはこだわらずただ大奥で過ごせればいいという態度を取っている。武術にも優れ、綱吉を刺客から守る活躍を見せた。右衛門佐の死去後に大奥総取締を引き継ぐ。綱吉が死去した後は将軍の代替わりに伴い役職を江島に引き渡し、実家に戻り妹・絹江と姪・汀の元で余生を過ごした。実は姪の汀は彼が絹江との間にもうけた子で、実妹への禁断の想いを断ち切れず「他の女性との間には子を作りたくない」という理由で大奥入りしていた。
秋本絹江(あきもと きぬえ)
惣次郎の妹。美人で料理上手。夫はなく汀(てい)という娘を仕事をしながら一人で育てている。一度大奥を訪問し、兄が自分の元を去った真意を問いただしに来るが、兄の自分への変わらぬ想いを知り涙する。兄が大奥を辞した際には娘と2人で彼を迎え、ともに暮らした。
秋本汀(あきもと てい)
絹江の娘。表向きは惣次郎の姪とだけされており、物心つかないうちに別れた惣次郎が伯父であると同時に実父とは知らなかった。惣次郎が大奥を辞して実家に戻った際には惣次郎の帰宅を喜んで迎えたが、出生の秘密は知らされないままだったのか「伯父上」と呼んでいた。

家宣編の人物

徳川家宣(とくがわ いえのぶ)
6代将軍。甲府宰相時代の旧名は綱豊(つなとよ)。家光の側室「お夏の方」の孫で、綱吉の姪。かつて実母の綱重が下男と火遊びをして産んだ子であるため母に疎まれて育った。そのため、身分の低いものにも分け隔て無く接する心優しい女性である。主君としても賢明で民を思いやることに篤く、部下思いで甲府時代より名君と名高い。が好きで、踊りの巧かった猿楽師のおふさ(間部)を取り立てて家来にし、長年一番の家来として重用した。大柄でややいかつい容貌に描かれているが実は病弱でかつて三人の子を出生後すぐに失っていた。左京との間に跡取りの千代姫をもうけるが数年後病死する。
間部詮房(まなべ あきふさ) / おふさ
家宣の側用人。元は猿楽師(役者)であったのを甲府宰相時代の綱豊(家宣)に気に入られ小姓となり懸命に仕える。敬愛する家宣や彼女のごく身近な人物以外には、極めてクールで傲岸不遜な態度を取るが、身分の低かった自分を取り立ててくれた家宣への忠義心は純粋で誰よりも強い。その忠誠心があまりに強すぎたことと、美貌にもかかわらず独身を通していたため、家宣と同性愛の関係にあるのではと噂されるほど。非常に仕事熱心だが精神的にはややもろい所があり、つらい目に合うと泣き出したり、人を恨んだりする一面もある。
左京の局(さきょう の つぼね)/ 勝田左京(かつた さきょう)
江戸の寺の住職の息子。元は武家の出。14歳のころより母子相姦を強いられる。成人後も元服をさせてもらえずやさぐれていた。超美形で多数の女に言い寄られるが、母に支配された暮らしに失望し、他の女と関係をもつことに関心がない。ある日酒場での賭けごとのトラブルで袋叩きにされていたところ、偶然家宣の一行が通りがかり救出される。手当てのため家宣の屋敷に連れて行かれた折、母から逃れるため下男として屋敷に置いてくれるよう間部に懇願し採用される。この頃から、間部に思いを寄せていたが、間部の頼みで家宣の側室「左京の方」となる。家宣との間にできた娘・千代姫の存在で本来の優しさを取り戻す。
勝田玄白(かつたげんぱく)/ 左京の母(さきょうのはは)
かつては加賀藩士をしていたが、出家し住職をしている。息子の左京に自身との関係を強要して二人もの子をもうけており、彼に元服すらさせない異常な執着を見せる。
江島(えじま)
家宣に仕える男衆を束ねる男。不器量な容貌が女性に嫌われ婿の貰い手がなかったため家宣の屋敷に仕えていた。間部詮房の依頼で左京に武術や朱子学など武士のたしなみを一通り教える。家宣が将軍となった後はそのまま大奥にあがり、秋本惣次郎の後を引き継ぎ大奥総取締となる。
千代姫(ちよひめ)
家宣と左京の間に生まれた子。後の将軍家継。幼いながらも聡明さを発揮するが母同様体が弱い。
近衛國熙(このえ くにひろ)
家宣の正室。すでにお褥すべりを迎えている。逝去した家宣の子供たちのうち2人は彼の子だったが、その辛い思いを表には出さず、家宣とも仲睦まじく左京にも優しく対応する。
新井白石(あらい はくせき)
中年女性で、千代姫に学問を教える、当代一の儒者。

家継編の人物

徳川家継(とくがわ いえつぐ)
千代姫・7代将軍。成長してもなお病気がちで、7歳で死去する。
月光院(げっこういん)
落飾後の左京の局。家継の父。尾州継友派。間部に惚れており、彼女が主の死に錯乱した時に一度だけ強引に関係を持ったことがあるものの、それ以後間部からは距離を置かれ苦悩している。天英院らの策略で陥れられた江島の命を救うため、吉宗後継をやむなく了承した。
間部詮房(まなべ あきふさ)
家継の母親がわり的存在の側用人。家宣の死に動転した弾みで一度だけ月光院と関係を持つが、彼女の中ではそれはすでに「なかったこと」に。月光院と共に、次期将軍として尾張徳川家の継友を推していた。
江島(えじま)/ 江島慎三郎(えじま しんざぶろう)
大奥総取締、月光院側近。若い頃から文武両道に優れ人格者だが、外見が毛深く不細工。実家にいる時は容貌故に男不足の世でも結婚を断られ続け、仕方なく母の紹介で家宣に仕えてそのまま出世した身。故にコンプレックスを持ち、恋愛も自分には無縁と考えていたが芝居で生島新五郎に一目惚れし、やがてお互い好意を抱いた矢先に天英院らに謀られ、拷問の末死罪に処せられた。月光院の嘆願で流刑に減刑、配流先の高遠で28年間幽閉され生涯を終える。嘘の供述をした新五郎を恨むことはなく、瓦版で話に尾ひれがついて「絶世の美男子」として広まった。
生島新五郎(いくしま しんごろう)
歌舞伎役者、女性。ベテランで美しい立役を演じ人気が高いが、金のために茶屋で芝居見物帰りの大奥の男達の相手を嫌々ながらしているためスレている。しかし芸への情熱は高く人を見る目もある。江島と一度きりの会食をし他の大奥の男達とは違った純朴な彼に好意を抱く。しかしそれを政局に利用され江島との密通容疑をかけられて公演中に逮捕され、拷問で役者にとって大事な足を潰されかけたことで江島と関係を持ったと嘘の証言をしてしまう。その後三宅島に遠島になり、老女となってから釈放され江戸に戻って世を去る。
市川團十郎(いちかわ だんじゅうろう)
新五郎の後輩格の女性役者。小柄な若い娘だが新五郎と並んで人気。自分に合った芸を教えてくれた新五郎を慕っている。
天英院(てんえいいん)
落飾後の近衛國熙。若くして紀州藩を立て直した吉宗を買っており、彼女の部下と密かに連携・暗躍する。月光院や江島を陥れる冷酷さはあるが、彼らが善人であるため自身の行為に後ろめたさも持っている。吉宗の就任後は月光院とも穏やかな関係を保っている。
藤波(ふじなみ)
天英院付き。月光院派の人間達に敵意を燃やすが不始末も多く天英院に叱責されることも。新五郎を気に入っておりたびたび金で彼女を買っているが実は嫌われていることに気がついていない。江島失脚後は大奥総取締に就任したが、村瀬には影で「今までで一番小物」と評されている。
松島(まつしま)
藤波の部下。芝居後にハメをはずし芸者と遊んで門限に遅れそうになる。
柏木(かしわぎ)
藤波の部下。時代の流れを正確に読み、次期将軍吉宗の側室になることを考えている。
宮路(みやじ) / 弥助(やすけ)
江島の部下。実は吉宗派が送り込んだスパイ。江島生島事件の発端を作る。三郎左にお庭番を引き継ぎ、別の忍びの任務に旅立つ。
尾州吉通(びしゅう よしみち)
尾張徳川家の当主。継友の姉。生前の家宣が吉宗と共に次期将軍の候補として名前を挙げていたが、食事後に吐血し、目の前の側近たちの誰にも助けられずに死亡する。

家重編の人物

徳川家重(とくがわ いえしげ)
吉宗の長女。言語障害・排尿障害があり廃嫡騒動も起こったが知能は正常なので、周囲の嘲りで荒み底意地が悪くなる。為政者が何をどうしようとすべての人間が幸せになれる訳では無い[71]、と酒食に溺れる。将棋は吉宗以上に優れた腕前。
田沼意次(たぬま おきつぐ)/ 龍(たつ)
吉宗から家重の小姓、御側衆主殿頭。紀州の足軽出身と陰口をたたく世間というものを心得ていて隈なく(政治的に)配慮するので、大奥に崇拝者が多い。商人からの徴税など武士なら有り得ない発想で吉宗を驚嘆させ、後事を託される。
平賀源内(ひらが げんない)/ 吉(きち)
お神酒天神で子供達を驚かせた、讃岐平賀家の跡取り娘だったが赤面疱瘡の治療薬を見つけたいと脱藩。男装して権太夫と名乗り先ずは吉雄耕牛に蘭語を習おうとした。戯作者としては風来山人名義。火浣布の売込みで意次の目に留まる。竹とんぼを作りながらマタギの話を聞き、熊からヒトに感染する業病ではないかと青沼らに諮り、漢方の「人痘」ならぬ「熊痘」は一考の余地ありと意次に励まされる。土用丑の日を勧めた「うな藤」に御仲居・芳三の鰻丼仕立てを教えた帰りに暴漢に襲われる。
青沼(あおぬま)/ 吾作(ごさく)
吉雄耕牛の弟子の蘭方医・通詞。オランダ人と丸山遊郭の遊女の間に生まれた金髪碧眼混血児。意次に呼ばれ大奥に青沼の名で上がり、御右筆として蘭学を講義する
お幸の方(おこうのかた)/ 梅渓守幸(うめたに もりゆき)
正室比宮附御中﨟、後に側室[注釈 52]。世継ぎ竹姫をもうける。家重が心を移したお千瀬の方に嫉妬し、斬り掛かって家重の勘気を被り入牢[注釈 53]。33歳で逝去[注釈 54]
芳三(よしぞう)/ 善次郎(ぜんじろう)
柳橋の名亭で板長以下女性の板場で疎まれ、大奥御膳所に御仲居の芳三として上がる。嘗て焼方迄務めたなら、とお幸の方の膳部を任され、鰻[注釈 55]焼き丼[注釈 56][注釈 57]を試食願う。後に御仲居頭に。青沼らに源内御持たせ「うな藤」の蒲焼を鰻丼仕立てで温かく配膳[81]する。
田安宗武(たやす むねたけ)
吉宗の次女。家重より出来が良いからと跡目争いになりかける。
一橋宗尹(ひとつばし むねただ)/ 小夜姫(さよひめ)
吉宗の三女。拗ねて僻みっぽく扱い辛い、と家重を嫌う。
松平乗邑(まつだいら のりさと)
老中。家重廃嫡を強く勧める。
比宮実行(なみのみや さねゆき)
家重の正室。家重との間に子を授かるが、家重が流産した直後に病死。
お千瀬の方(おちせのかた)
家重の側室。嫉妬するお幸の方に斬り付けられた。
左近(さこん)
家重の側室。
吉野(よしの)
家重の側室。
貴子(たかこ)
京の公家の女性。夫と死別後、かつて許婚だった梅溪守幸との復縁を望むが、比宮卒去後、彼を側室にしたい家重が手を回し近衛家の男性と結婚する。
徳川家治(とくがわ いえはる) / 竹姫(たけひめ)
家重の長女。父はお幸の方。利発だが調子の良すぎる所を吉宗は懸念する。将棋[注釈 58]は家重以上の腕前。
杉下(すぎした)
御年寄の一人。吉宗の命で実父が他界した家重・宗武・宗尹の父親役を務める。高岳や桜小路ら配下に慕われ、後に大奥総取締。
吉雄耕牛(よしお こうぎゅう)
蘭語通詞・蘭方医。六二郎という実の息子がいるが、吾作を養子にし大通詞を継がせたかった。
大岡忠光(おおおか ただみつ)
家重の小姓頭。家重を支え、暇乞いを願った龍を慰留する。
加納久通(かのう ひさみち)
吉宗の御側御用取次から西の丸若年寄まで勤めた。吉宗を将軍に就けるため尾州吉通紀州綱教紀州頼職を毒殺したと告白して没する。
徳川吉宗(とくがわ よしむね)
大御所として大きな影響力を持ち続けた。58歳[注釈 59]で死去。中興の祖。意次に赤面疱瘡撲滅を遺言。

家治編の人物

田沼意次(たぬま おきつぐ)
家治より幕政を託され、老中の地位に上り詰める。私欲のない人物で、赤面疱瘡撲滅に取り組み、干拓事業にも着手したが相次ぐ天災で頓挫、娘の暗殺に見舞われ、ついに失政の責任を取らされ失脚し蟄居、領地没収を受け、のちに死去する[84]
平賀源内(ひらが げんない)/ 吉(きち)
本草学者。田沼、青沼とともに赤面疱瘡撲滅に取り組んだが、暴漢に襲われ梅毒をうつされる。その後も奔走し、弱毒性の赤面疱瘡に罹患した患者を見つけて青沼のところに届ける。だが病状は悪化し、田沼失脚後にこの世を去った[注釈 60]
青沼(あおぬま)/ 吾作(ごさく)
右筆として田沼に取り立てられ大奥で講義をおこなう。田沼、源内とともに赤面疱瘡撲滅に取り組む。洋書から種痘を学び、大奥をはじめ多くの大名の男子に種痘を施したが田沼の失脚で死罪。しかし、彼が遺した種痘の技術と理論は自らの命と引き換えに救った黒木ら弟子たちに引き継がれ後に赤面疱瘡を根絶させる礎となった。
徳川宗武(とくがわ むねたけ)
田安徳川家初代。吉宗の次女で定信の母。聡子を厳しく育てるが、それは自身が果たせなかった世継ぎの道を彼女に果たさせるためであったことを吐露し死去する。
松平定信(まつだいら さだのぶ)/ 聡子(さとこ)
宗武の娘、松平家の養子とされる。田沼意次母子に対抗心を燃やす。田沼失脚後、老中となり幕政を一新する。
北橋(きたはし)
聡子(定信)の乳母。
徳川治済(とくがわ はるさだ)
一橋徳川家2代目。宗尹の娘・吉宗の孫。計略で定信を松平家の養子にさせ、田沼意次に敵意を向けさせる。自分の息子・竹千代に種痘を受けさせる。
田沼意知(たぬま おきとも)
田沼意次の娘。老中になった母とともに幕政に尽力する。母同様、私欲はない。しかし、江戸城中で暗殺される。
徳川家基(とくがわ いえもと)/ 千代姫(ちよひめ)
家治の娘で後継者。病弱だったが成長につれ健康になる。だが、突然死、享年18。
五十宮倫仁(いそのみや ともひと)
家治の正室、男児を儲ける。家治が側室との間に千代姫を儲けたことを知り愕然とするが、家治の配慮で千代姫の養父となる。蘭学に興味を示し青沼の元で勉学に励むが、病で死去する。
お知保の方(おちほのかた)/ 保川(やすかわ)
家治の側室、家基の実父。
豊千代(とよちよ)
治済の長男。青沼より種痘を受け回復し、母が「竹千代から豊千代」に改名。家治の死後、治済の尽力により家光以来初の男将軍、家斉として就任する。
黒木良順(くろき りょうじゅん)
御祐筆助、青沼の世話係。父は蘭医だが治療とは名ばかりで嫌気がさし大奥入りする。そのせいで当初、蘭学に対して嫌悪感を抱いていたが、青沼の懸命な姿勢に心を打たれ共に行動する。田沼失脚で大奥を追放され市井の医者となる。
高岳(たかおか)
大奥総取締、意次の信頼を受ける。家治没後、田沼失脚で解任される。
松方(まつかた)
御中﨟、蘭学に嫌悪感を持ち、田沼らに敵意を持つ。高岳解任により総取締に就任する。
水野出羽守(みずのでわのかみ)
老中。家治が危篤に陥ると老中佐渡守[注釈 61]共々反意次派に。貴人の死は1ヶ月程秘されるのが通例なので、それを利用し意次に謹慎・印旛沼干拓事業即刻中止を「上意」として命じ、佐渡守も老中解任を「上意」として申し渡す[注釈 62]
青海伊兵衛(おうみ いへえ)/ 伊予吉(いよきち)
呉服の間のお針子で廻船問屋の次男。書道が得意であったが不祥事で母から勘当同然で大奥に入れられる。不平不満の毎日を送ったが青沼の助手となり活躍し、事件の真相を知った母とも和解した。赤面疱瘡の人痘接種の実験台になる。実家は政商・青海屋。
僖助(きすけ)
青沼が大奥入りして最初に看た御半下。青沼に好感を持ち徐々に「医学を学ぶことで自分も他人様の役に立てたら」と思うようになり、青沼の講義を受ける。赤面疱瘡の人痘接種の実験台になる。実家は大店・紙問屋。
青海屋仁左衛門(おうみや・にざえもん)
田沼の信頼を受ける廻船問屋の主人で伊兵衛の母。長男を次期当主として期待し伊兵衛を疎んじていた。しかし、長男の自殺に衝撃を受け、女中と恋仲になった伊兵衛を勘当し大奥に送り込んだ。その後、出家した元女中から事件の真相を聞き伊兵衛と和解した[86]。田沼失脚に連座し財産没収された[87]
瀬川菊之丞(せがわ きくのじょう)
歌舞伎役者で源内の情人[注釈 63]。源内に振り回され恨みを抱いた[注釈 64]こともあったが、彼女のことを常に心配している。源内の死の5年後に死去している[90]
杉田玄白(すぎた げんぱく)
蘭学者で源内の友人。『解体新書』の著者で大奥を見学し、家治の突然の謁見を受ける。男性。
佐野善右衛門政言(さの ぜんえもんまさこと)
没落旗本。江戸城中で意知を待ち伏せし、彼女を暗殺。捕らわれた後処刑されたが佐野の行為が江戸市中で絶賛され「世直し大明神」として崇められる。

家斉編の人物

徳川家斉(とくがわ いえなり)
二代将軍秀忠以来の男将軍として将軍職に就いたはいいが実権は母に握られ子作りしか役割を与えられていない[注釈 65]。ある日、「没日録」で自分に種痘した青沼の名が削除されているのを知り、彼の安否を確かめたくなる。青沼が処刑されていたことを知った家斉は、青沼の下で赤面疱瘡の治療研究に取り組んだ黒木を探し出し、共に赤面疱瘡の撲滅に取り組む。母が全身不随となり将軍としての全権を握ってからは、それまでとは打って変わって強権的になり、かなり強引な施行で赤面疱瘡撲滅を推進した。元々は心優しい性格で、我が子を殺した母が倒れた際にもどうしても止めをさすことができず医師を呼び生かしておくこととなった。死に際に自身が無能な放蕩者であるかのように記述するよう言い残す。
徳川治済(とくがわ はるさだ)
家斉の母。権力の亡者。男が増えて権力を脅かされぬよう種痘を息子以外に広めることがないように工作し、家斉には種痘を進めないよう圧力をかけ研究に関わった蘭学者達も追放した。事実上の江戸城の支配者で家斉に多くの女性をあてがい子作りを強要した。しかし自分に逆らう者はたとえ息子といえども容赦しない。過去に実の姉、そして母を「退屈だったから」と言う理由だけで殺害したことがあり[92]、孫にあたる家斉の子供達も退屈凌ぎに何人も殺害し、嫁にあたる茂姫や側室達には子供達の死に関する嘘の情報を吹き込み対立させようとしていた。多勢を殺して権力を手に入れてもすぐ飽きてしまい「つまらぬ」と言う程の破綻した人格。自分の与り知らぬところで赤面疱瘡の撲滅に取り組んでいた息子を毒殺しようとしたところ逆に自分が毒を食わされ寝たきりとなる。
武田(たけだ)/ 武女(むめ)
治済の侍女。治済から汚れ仕事担当を命じられ家治・家基を暗殺。家斉の将軍就任に伴い大奥総取締となった。しかし辞任を願い出て治済に毒殺される。
茂姫(しげひめ)
家斉の正室、実父は島津重豪近衛経熙の養女。息子の敦之助[93]が、側室のお志賀やその娘・総姫と仲が良かったが、敦之助を治済に毒殺される。愛する息子に先立たれたショックで正気を失ったように見せかけていたが、実は同じく娘を治済に毒殺されたお志賀と結託して復讐のチャンスを伺っていた。本懐は遂げたものの長年夫を欺いていたことから夫婦仲はその後ギクシャクする。
お志賀の方(おしがのかた)/ 滝沢(たきざわ)
家斉の側室。娘・総姫を亡くした後治済に取り入り大奥総取締に就任、治済の為に美男を集め機嫌をとる。表向きは御台所と不仲と見せかけたが、水面下で茂姫と協力して治済に復讐した。治済の食事にずっと毒を混ぜていたが、自身が毒見役を務めていたので大量の毒を摂取しており厚化粧で体調の悪化を誤魔化し治済に怪しまれぬようにしていた。治済が倒れた直後に自らも限界を迎えて、本懐を遂げ娘にあの世で再会できると涙しながら死んでいった。
松平定信(まつだいら さだのぶ)
徳川家一門として初の老中に就任し、「寛政の改革」で蘭学を排除した。しかし彼女の急激な政策は江戸市中の庶民を苦しめ、治済の大御所の地位要求に異を唱えたため罷免。領地の白河藩に戻り、その後赤面疱瘡の予防接種を積極的に推し進めた[94]
黒木良順(くろき りょうじゅん)
元御右筆助。青沼の下で赤面疱瘡の撲滅に取り組んだが田沼意次失脚の連座で追放。市井の医者として暮らしていたが、ある日家斉の極秘訪問を受け、天文方の役人として再び赤面疱瘡の撲滅に取り組む。亡き平賀源内が発案した「熊痘」を実現した。
青海伊兵衛(おうみ いへえ)
元大奥呉服の間のお針子で黒木と共に追放され、黒木の助手となる。生涯、所帯を持つことはなかったが、近隣の女性との間に複数の子をもうけた。
僖助(きすけ)
黒木、伊兵衛と同じく大奥から追放され、吉宗のご内証の方だった水野の婿入り先「田嶋屋」に縁付くなり肥えた容貌となった。密かに家斉に招かれ登城した際、毅然とした態度で彼を批判した。
青史郎(せいしろう)/ 黒木青順(くろき せいじゅん)
黒木の一人息子。赤面疱瘡の予防接種を受け、父の助手となる。黒木の死後、診療所を相続し医者として診察にあたる。
るい
黒木の妻、青史郎の母。
源三郎(げんざぶろう)
清史郎の息子[95]
高橋景保(たかはし かげやす)
女性学者で眼鏡をかけている。オランダ語以外の言語にも精通する語学の天才。赤面疱瘡撲滅に取り組む黒木に協力する[96]
遼太(りょうた)
高橋景保の息子で青史郎の親友。母と同じく眼鏡をかけており、算術が得意。赤面疱瘡で死去。
杉田玄白(すぎた げんぱく)
「解体新書」訳者。黒木の協力者となる。
渋川正陽(しぶかわ まさてる)
天文方の学者。
お美代の方(おみよのかた)
家斉の側室。
安藤信成(あんどう のぶなり)
老中。
堀田正敦(ほった まさあつ)
若年寄。
青山忠裕(あおやま ただひろ)
老中。
徳川家慶(とくがわ いえよし)
家斉年長の息子で愚鈍な容姿、性格を持つ。治済から家斉に代わる傀儡として期待され、45歳で父から将軍職を譲られ傀儡将軍となる。
徳川家定(とくがわ いえさだ)
家慶の娘で第10代・家治以来の女将軍[97]

家慶編の人物

徳川家慶(とくがわ いえよし)
徳川家斉の息子で将軍職を譲られるが父の傀儡であるのを不満に持つ。祥子(家定)を溺愛し、親や側室ら周辺への不信感から歪み父子相姦に及ぶ。それを阿部正弘が広大院に知らせるがシラを切り通し、のちに自分の失態で江戸城本丸焼失事件を起こし家定を遠ざけられる[98]
お美津の方(おみつのかた)
家慶の側室、家定の母。娘の性的虐待被害を見て見ぬふり、挙句嫉妬して祥子に毒を盛る。
徳川家定 (とくがわ いえさだ)/ 祥子(さちこ)
徳川家慶年長の娘。諸大名の事情を熟知し次期将軍と目される。父親の性的虐待に苦しみ江戸城を出たがっていたが、次期将軍に選ばれ、落胆する。阿部正弘と出会い、彼女と過ごす時間を増やす。やがて広大院の計らいによって父から解放される。
歌橋(うたはし)
家定の乳母。
鷹司任親(たかつかさ ただちか)
家定の正室。鷹司家から輿入れ、初夜を迎える段階で家慶によって毒を盛られ、寝たきりとなる。
徳川家斉(とくがわ いえなり)
家慶の父、家定の祖父。大御所として実権を握り赤面疱瘡撲滅を全国に徹底した。母・治済の悪行と、茂姫による母の毒殺未遂で極度の女性不信に陥り、第5代・徳川綱吉以来断絶した男子相続を復活、家慶に継がせる。
広大院(こうだいいん)
落飾落飾後の茂姫。大奥の風紀悪化に懸念を示し正弘に真相究明を託し解決させる。正弘により祥子が家慶から性的虐待を受けていることを知り、家慶から切り離す。
阿部正寧(あべ まさやす)
阿部家の当主、正弘の兄。母・阿部正精から名門阿部家を相続したが当主の重責に耐え兼ね、妹に譲り隠居。
阿部正弘(あべ まさひろ)/ 真佐女(まさじょ)
阿部家の娘。兄から当主の座を相続し幕府に許された。寺社奉行として難事件の解決に挑み幕府、市中から称賛を受け[99]、老中に就任。家定と出会い、彼女が家慶から性的虐待を受けていることを知り広大院に報告し、家定の避難所である西ノ丸奥(表向きは世継ぎを儲けるための奥御殿)作りに成功する[98]カステラが大好物。
水野忠邦(みずの ただくに)
女性の老中。正弘に多大な期待を寄せている。改革を行うがのちに失脚。
遠山左衛門尉(とおやま さえもんのじょう)
男奉行。桜吹雪の彫物が有る。
日啓(にっけい)
感応寺の住職でお美代の方の父。娘の権威を笠に着、奥女中と不義を働いたが正弘によって暴かれ流刑に処される。
青海先生(おうみ せんせい)
青海伊兵衛の息子、寺子屋師匠。新之助(瀧山)にオランダ語を教えるが複雑な家庭事情を持つ彼のことを心配していた。将来、瀧山に自分の跡を次がせたかった。
瀧山の母
百人組の与力で、男子相続に移行する世の中に不満を持つ。やがて自分の上司が夫と密通していることを知り二人を殺害した末、自害。
良左衛門(りょうざえもん)
瀧山の父。息子同様美貌の持ち主であり、妻の上司である大塚(おおつか)と通じるが、妻に発覚し殺害される。
瀧山の兄
父とその浮気相手・大塚が母により殺害され、母もその場で自害したことを新之助(瀧山)に告げた後、自刃。
瀧山(たきやま)/ 新之助(しんのすけ)
葭町陰間。女と見紛う美貌を持つ。元は百人組の与力を母にもつ武家の次男であったが、母が殺傷事件を起こしたため断絶、陰間に沈んでいた。料理茶屋で出会った阿部正弘に身請けされ西ノ丸奥の総取締に就任する。のちの大奥総取締。

家定編の人物

徳川家定(とくがわ いえさだ)
次期将軍として西の丸奥に住み、父子相姦を強いる家慶追い返したが毒を盛られ、自身は助かったものの再婚相手を亡くす。黒船来航の中、父の死により第13代将軍に就任、アメリカに対する適格な対応を取らす。
阿部正弘(あべ まさひろ)
阿部家11代当主、老中主座。数少なくなった女性幕臣として政務に励み反対勢力を丁重に抑え、また家定を厳重に守っていたが家慶に隙を狙われてしまう。アメリカ来航に対するべく全国から意見を募った。家定の継室選びを慎重に進める。
瀧山(たきやま)
西の丸奥総取締→大奥総取締。大奥を阿部正弘から任される。家定の警護兼健康管理を徹底するが、家慶によって家定と継室に毒を盛られてしまう。悪評や動乱によって緩みきった大奥をもう一度管轄し、将軍への忠誠をより明確にした。
徳川家慶(とくがわ いえよし)
家定の父。故・広大院から家定に触れることを厳禁され、また娘から追い帰され激しい憎悪を抱く。その報復として家定の継室・秀久を毒殺、家定にも毒を盛らせた。しかし、黒船来航で恐怖を抱き、発狂した末、死去。
徳川斉昭(とくがわ なりあき)
水戸徳川家当主。極度な攘夷論者で女性である正弘を嫌悪。しかし正弘から海防御用掛(かいぼうごようがかり)を任される。だが開国派とぶつかり井伊直弼によって失脚、表舞台から姿を消す。
勝義邦(かつ よしくに)
旗本。攘夷論を嫌い、先ず開国し外国から交易した利益で軍艦を購入するよう意見を出し、採用され海軍伝習所に赴く。のちの勝海舟。
一条秀久(いちじょう ひでひさ)
家定の継室。小柄で少年のような容姿であり、家定はじめ周囲の驚きと戸惑いをもたらす。のちに家慶によって毒殺。
お志賀の方(おしが の かた)
家定の側室。病弱な男性。
島津斉彬(しまづ なりあきら)
薩摩藩主島津家当主。正弘から家定三人目の正室の依頼を受ける。
近衛胤篤(このえ たねあつ)/ 島津忠敬(しまづ ただすみ)
島津斉彬の養子。公家風の容貌。

幕末編の人物

徳川家定(とくがわ いえさだ)
13代将軍。当初、将軍家に輿入れした胤篤を警戒したが、心を開き勧められるまま庭歩き・乗馬に挑戦。食も細く毒を盛られ弱っていた体が次第に健康に。後に懐妊するも病で「薨去」。
瀧山(たきやま)
大奥総取締。家定三人目の正室・胤篤に対し警戒心を抱くが人柄にふれ協力していく。陰間時代コッソリ蘭語をお浚いしてはいたが、時流に合わせ勝海舟に英語を習い、勉強嫌いの黒木には呆れられる。瓦解後は生活の途となり何度も洋行する実業家へ転身する。
仲野(なかの)/ 瀧山吉兵衛(たきやま きちべえ)
御小姓・瀧山の部屋子。殉死しようとした瀧山を助命、彼の養子となり瓦解後は舶来品小間物の仕入で何度も洋行。
阿部正弘(あべ まさひろ)
老中主座。家定と幕政に尽くし、有能であるがゆえに心労で[100]倒れ、世界の中の日本の舵取りという未知の難業を家定、胤篤、瀧山に託し逝去[101]
堀田正睦(ほった まさよし)
老中主座。正弘から外交政策を任されるが独断で勅許を得ようとして失敗し家定の怒りを買い失脚。
板倉勝静(いたくら かつきよ)
老中、松平定信の孫。家茂に信頼され拝命。歯に衣着せぬ勝海舟の江戸っ子べらんめぇ調に振り回されるも「この男しかいないので」と頭を下げて回る。
近衛胤篤(このえ たねあつ)/ 島津忠敬(しまづ ただすみ)
島津分家今和泉家・島津忠剛の次男。島津斉彬の養子となり、近衛家の養子として大奥入りする。家定には一橋慶喜後継擁立を見抜かれたが彼はそれを認め警戒心を解き、健康に配慮し、彼女は懐妊する。「薨去」を知らされ瀧山の前では取り乱す。遺命で落飾せず「天璋院」と称し「家茂」と名を改めた福子の養父となりその正室和宮に心を砕く[注釈 66][104]
幾島(いくしま)
胤篤付き御年寄。近衛家から輿入れ随行として京から江戸入り。
中澤(なかざわ)/ 津村重三郎(つむら じゅうざぶろう)
胤篤付き御中老、実は薩摩の密偵。
豊倹院(ほうけんいん)
家定の側室・お志賀の方。家定薨去後落飾し、天璋院に挨拶に伺う。
島津斉彬(しまづ なりあきら)
外様大名、島津宗家当主。 野心家で幕政関与すべく、攘夷派で御三家の一つ水戸家・徳川斉昭と手を組み、その息子・徳川慶喜を次期将軍に擁立せんと目論む。しかしそれは表向きで倒幕を目論んだ。斉昭が井伊直弼により失脚させられた件で抗議するため江戸進撃直前、急逝。
西郷吉之助(さいごう きちのすけ)
薩摩藩士。胤篤の輿入れ道具を贅を尽くして整えるよう命じられ、働き振りを胤篤に労われて感涙にむせぶ。その後、錦の御旗を掲げ江戸総攻撃を画くするが勝海舟との談判の席に胤篤・宸翰を携えた和宮が乱入。無血開城とし慶喜は首の皮一枚で繋がった。
勝海舟(かつ かいしゅう)
幕府陸軍総裁、「(主・家茂に)惚れた!」「惚れた女の為だ」と徳川の為でも幕府の為でもなく家茂の遺命で江戸の町を守るために西郷との談判に臨む。対ナポレオン戦争でロシアが遂行した焦土作戦をハッタリで仕込み交渉成立、その後天璋院に頼み新政府軍に恭順せよとの通達を大奥から幕臣に出してもらう。
井伊直弼(いい なおすけ)
大老。強硬な開国派で攘夷派の排除を主張する。正弘の死後、大老に就任し攘夷派を「安政の大獄」で一掃するが水戸の恨みを買い「桜田門外の変」で暗殺、市中からの同情はなかった。
徳川慶喜(とくがわ よしのぶ)
水戸斉昭の息子。次期将軍候補で有栖川宮織仁親王の娘を母に、その血筋を鼻にかけ島津の分家出身の胤篤を見下す。安政の大獄で父の処罰に巻き込まれ失脚するも桜田門外の変で復帰、将軍後見職・朝臣的性格の禁裏御守衛総督に就く。
徳川家茂(とくがわ いえもち)/ 福子(とみこ)
紀州徳川家の姫。神田祭観覧の際、江戸城に招待されお菓子をいただくが毒を盛られる。幸い命に別状はなく、家定死後、開国派により将軍職に就く。朝廷から輿入れした和宮の正体が女性だと知るも「夫」として受け入れ姉妹のように親しむ。上洛時は男装し朝廷の公卿らを驚かせた。しかし度重なる心労に病に侵されていき、死の床では苦痛に苦しみ「死にたくない」と叫ぶ。天璋院や瀧山、連れ添った和宮に会いたいと最後に呼んだのは親子の名前だった。
静寛院宮(せいかんいん の みや)/ 和宮(かず の みや)
孝明天皇の妹宮。同母弟の本物は足が不自由で降嫁を拒み自害した事にして出家。その身代わりとして男装したまま江戸入りする。生まれつき左手が無く生後すぐ死んだ事に実母からされ橋本邸内で隠れて育ち、母の愛に飢えていた。「母を独占できる」と思い、男装した母を伴って江戸入り。観行院の心が自分に向くことはなく失意のうちに京に返す。その事実を知った家茂の献身な愛によって心を開く。家茂が死去した後に届けられた袿・打掛を前にして号泣する。男装を解き落飾、静寛院宮として大奥の主として最後の花宴を主宰した。
和宮(かず の みや)
本物の男宮。足が不自由だが実母の勧行院には溺愛され降嫁を嫌がったため、姉・親子の申し出で彼女を身代わりとし表向き自害したことにして出家する。
観行院(かんぎょう いん)/ 庭田(にわた)
和宮の母。仁孝天皇の側室。男装・侍従として江戸に随行する。しかし心を病みそれに気付いた親子(偽和宮)に頼まれ、家茂の計らいで帰京。尼僧になり皇子と再会。
土御門(つちみかど)
和宮の侍従。実は彼女の乳母。観行院と同じく男装し江戸に下る。
志摩(しま)
家茂の乳母子。家茂の頼みで男装し大奥で観行院・土御門の世話をする。甘いものが苦手。
孝明天皇(こうめい てんのう)
和宮の兄。強硬な攘夷意識を持ち幕府に外国排除を呼び掛けている。妹・和宮親子内親王の身元を保証する宸翰を家茂に預ける。
黒木(くろき)/ 黒木源次郎(くろき げんじろう)
黒木清順の次男で、青沼の配下であった良順の孫にあたる。蘭医の才がなく大奥にあがった。胤篤の御中﨟のちに和宮付き御中﨟。江戸城明け渡し後は官人として和宮に仕える。
黒木の兄
黒木清順の長男、御中臈・黒木の実兄。蘭医として跡目を継いで、臨終直前の診察団に加わって家定の死因は妊娠後期の
津田梅子(つだ うめこ)
胤篤、瀧山と同じ船に乗り、胤篤から昔、御台所だった、と秘密を明かされる。

用語解説

赤面疱瘡

赤面疱瘡(あかづらほうそう)は、本作にて登場する、架空の伝染病

症状はまず高熱を発することから始まる。そして真っ赤な発疹が全身に広がり、爛れ上がり死に至るというものである。発病した者は「十人のうち八人が死ぬ」。罹患者はほとんど10代から20代の男性である[注釈 67]。しかし、長崎で吾作らが赤面疱瘡を発症した際、罹患した全員が2、3日で全快して流行には至らなかったというケースもある。

日本特有の風土病のように描かれており、外国で発症した例は確認されていない。

本作での大奥

本作での大奥内の役職

大奥に仕える男性の身分は、将軍にお目通りが許される「お目見え以上」と、お目通りが許されない「お目見え以下」の大きく二つに分かれる。

帯刀が許されるのは「お目見え以上」の者と、御火の番の者のみ。また御年寄や御中﨟などお目見え以上の中でも上級職に就いた者には専用の部屋と使用人が与えられる。

お目見え以上

  • 大奥総取締(おおおくそうとりしまり)
    • 大奥に起こることごとくのことを取り仕切る役目。御年寄の中から一名がその任に就く。御年寄は上臈御年寄より格下だが、実際には大奥に仕える男達の中で最も力を持つ存在である。
  • 上臈御年寄(じょうろうおとしより)
  • 御年寄(おとしより)
  • 御客応答(おきゃくあしらい)
  • 中年寄(なかどしより)
  • 御中﨟(おちゅうろう)
    • 将軍御台所の身辺の世話係。この中から、「お手つき」つまり側室が出る。専用の部屋と使用人が与えられ、使用人からその部屋の主人という意味で「旦那様」と呼ばれる。年齢制限はないが、いずれも家元及び器量の良い若い男子が選ばれる。
  • 御小姓(おこしょう)
  • 御錠口(おじょうぐち)
    • 表御殿と大奥の境の詰め所で錠口の番にあたる役目。
  • 表使(おもてづかい)
    • 大奥で必要な種々の日用品の買い物を取り仕切る。
  • 右筆(ごゆうひつ)
    • 表向きへの文書作成、諸家への書状作成の他に、大奥で起きた全ての出来事を記録・執筆する役職。
  • 御伽坊主(おとぎぼうず)
    • 将軍付きの役職。正式な僧侶ではなく、去勢されて男性ではないことを示すために墨染め衣を纏っている。
  • 呉服の間(ごふくのま)
    • 大奥中の全ての衣服を仕立てる役職。一日中裁縫に明け暮れる。
  • 御広座敷(おひろざしき)

お目見え以下

  • 御三の間(おさんのま)
    • お目見え以下の中では最も地位が高く、旗本以上の子息しか就くことが出来ない。奥仕えの振出しとも言える役職。御年寄や御中﨟の目に留まり、念者・念弟の間柄になれば、一気に出世が叶うこともある。
    • 御三の間に仕える人々は揃いの(はなだ)色の着物と袴をつける決まり。帯刀は許されない。
    • 仕事内容は、主に以下のようなものである。
      1. お目見え以上の人々(「旦那様」と呼ばれる)が勤めを終えて部屋に戻るまでに、部屋の掃除を済ませる。
      2. 旦那様方の身の回りの世話全般。着物などに香を焚き染める。
      3. 湯水の運搬など雑用。
      4. 旦那様方が部屋に戻った後は、膳部の仕度。指示された部屋に夕餉を運ぶ。
  • 御火の番(おひのばん)
  • 御半下(おはした)
    • 清掃などに従事。お目見え以下の中でも地位は最下位だが、身元のしっかりした裕福な商家などの息子たち。

本作での大奥内の決まりごと

御内証の方(ごないしょうのかた)
本作では3代将軍となった千恵が制定。未婚の女将軍に夜伽の手ほどきをする最初の男を大奥の中から選び、「御内証の方」とし、お勤めを終えた後に内々に死罪にすると定めた。(水野・吉宗編では10日後になっているが4代家綱編では翌日に執行されている)
破瓜によって将軍の体に傷をつける大罪人であるというのが建前であるが、実際は前述にある千恵のトラウマが原因である。
綱吉・家宣は就任前に既に御台所がおり、家継は幼少で死亡、吉宗は密かに相手の男を釈放したため実際死罪に処せられたのは1人である。
お褥すべり(おしとねすべり)
大奥に居る男で35歳を越えたものは将軍と閨を共にすることは許されていない。

作中の社会の風習

家光の時代

  • 江戸時代初期までは日本の男女構成比はほぼ1:1であったが、家光の時代に赤面疱瘡が大流行したため、男子が激減し、女子の約4分の1になった。その結果、土地を守るために畑仕事を始める女性が増え始め、力仕事も女性の手にとって変わられてゆく。作業がしやすいように、髷を結う髪型が女性の間で流行し始める。
  • 一家に一人男子が成人することは稀になり、民百姓ばかりでなく大名の間でも世継ぎに死なれて難渋するが増えた結果、幕府にとって脅威である有力な大名家が次々にお取り潰しになる。武家の女子の跡取りを認めたのはこの時点では赤面疱瘡の流行が落ち着き男性人口が回復するまでの暫定措置の予定だった。
  • 吉原は男子の減少で廃れ、女性に体を売る不健康な男達が残った。千恵はこれを大奥の財政のためリストラした健康な男達を送り込むことで補い、花街吉原を復活させ価格を下げる。

吉宗の時代

  • 女が労働の担い手となっていく。あらゆる家業が女から女へと受け継がれ、駕篭かきや刑吏のような重労働も女の仕事である。
  • 歌舞伎役者は女性であり立役も男装した女性。家重の時代には大奥の男達が寺への代参がてら芝居小屋に寄り、そのまま茶屋で女性役者を買うのが常態化しており、ここでのみ男が女を買う買春が事実上行われていた。
  • 男は子種を持つ宝として大事にされるあまり、一般庶民には夜の種付け以外特に何もせず家でぶらぶらしている成人男性も多かったが、国防上男子の体力増強も必要と考えた吉宗の意向で火消として町人の男子が公募され、進吉のように体力をもてあましている若い男達が応じた。
  • 貧しい女たちは夫を持つことも出来ず、花街で男を買い種を付けてもらって子供を産むか、成長できた息子のいる家に謝礼を払って種付けを依頼する。当然吉原の花魁も男性である。容色の良い男子には種付け依頼が相次ぐ。
  • 貴重な男子を婿として迎えるには相手方に多額の結納金を払わねばならず、このため高位の武士階級や富裕な商人・庄屋など以外は夫を持つことがほぼ不可能である。大名や将軍など身分の高い武士は正室の他に側室として複数の夫を持つことができるが、貧しい下級武士や公家は娘婿の確保に苦労しており庶民同様夫を持てず子種を買うことしかできない場合も多い。
  • 家業を継ぐ者は、男名を名乗る。記録には男名で記され、夫がいても書かないか、わざわざ女名で「妻・〜〜〜」などと記される。家督を継ぐ時は男名で公儀に届け出る。
  • この時代には家督は女が継ぐのが当たり前と考えられており、成長することのできた若い男は謝礼を貰って子種をばら撒くよう、主に母親である世帯主によって管理される立場であった。一般庶民はもちろん公家・武家でも貧しい家は息子を毎晩のように金で売るのが常態化しており、作中の水野家のように息子を売らないポリシーの家は稀であった。
  • 諸外国には日本が女性中心の国家になったことは伏せられており、鎖国はその事情を隠す意味もあった。外国からの使いが来たときは将軍は男装し、直接対面はせず御簾越しに会い会話は男性の側近が代わりに行う。長崎の出島には男性か男装した女性しか入れない。幕府の表向きの公文書にも将軍は男性であるかのように描写され、体格や年齢に関しても事実と異なる表記が行われる。事実を書いた文章は将軍と執筆者である御右筆頭のみが閲覧できるようになっていたが、家重時代には青沼など御右筆の全員がこれを読み男女逆転の歴史を知っている。

家督相続の事情

  • 武家では女子が元服し、男子名を名乗らせる家が増える。当初は取り潰されないために跡取り娘を男装させて男子と偽って届け出ていた家もあったが、次第にそうした家の数が増え男装に明らかに無理のある女性大名も増えたこともあり、千恵が女将軍として公に名乗りをあげ女子の跡取りが認められて以降は女性大名達も女性用の服装や髪型に改めている。しかし当初の名残として家督相続者が男名を持つ慣習だけは残った。
  • 庶民の間でも、男子の激減のせいで娘に家業を譲ることが多くなる。
  • 男子が生まれると家業を手伝わせずに家の奥で大事に育て、高い値で息子の体を売る家も増える。
  • 寛永の大飢饉のために農村から流れてきた物乞いが増える。それでも江戸の町は活気付いている。
  • 幕府は、諸国を治める大名家をこれ以上取り潰すと少数の大名家が広大な領地を統治することになり、必然、一家の所有できる兵士も多くなり藩幕体制を揺るがしかねない事態になると恐れ、大名家の後継に女子が立つことが認められた。その際、千恵が正式に女将軍となる[注釈 68]
  • 5代将軍綱吉が、男子相続を絶対視して武の家風を誇っていた赤穂藩浅野家が起こした松の廊下刃傷や赤穂浪士討ち入りの一連の事件を受け、血生臭い気風とともに男を政治から追い払おうと男子の相続を禁止する命を発した。後に6代将軍家宣により(生類憐れみの令と共に)廃止されるが、その頃には武家でも女子が家督を継ぐ慣習は既に定着しており、昔を知るごく一部の老齢者以外はそれを当然のものと考えもはや疑うこともない[注釈 69]
  • 100年後、2代将軍秀忠以来の男将軍、11代将軍家斉が赤面疱瘡予防接種を強制執行し、男子の人口が回復。男子への家督を受け継ぐ習慣が可能となり、庶民の順に移行した。それを受け家斉は綱吉以来断絶した男子相続を復活させ諸大名に通達した。しかし相続したもの重責に耐えかね放棄する男性当主や一部、女子相続する家が存在した。

派生作品

ドラマCD

『大奥』極上音絵巻

  • 掲載誌『MELODY』と第1巻連動で行われた応募者全員サービスのために作られた。

声優

ドラマCD『大奥』

  • 第15巻の初回特装版に同梱されたもの。初期の人気エピソード「有功・家光編」を音と声で物語る。

声優

実写作品

2010年の水野・吉宗を主人公とした映画に続き、2012年に連続テレビドラマで有功・家光の時代、映画第2作で右衛門佐・綱吉の時代を描いた実写映像作品が製作された。これらはいずれもTBSテレビを中心とする製作委員会によるプロジェクトで、監督およびメイン演出は金子文紀による。

2023年1月からNHK総合テレビドラマ10」枠でドラマ化[5]。脚本は森下佳子[5]。3代将軍・家光編から物語のラスト・大政奉還まで映像化されるのはこれが初となる[5]

Webアニメ

2023年夏よりNetflixにて配信予定[64]

スタッフ

受賞歴

書誌情報

コミックス

関連書籍

脚注

注釈

  1. ^ カロンは20年以上駐日[7]したので1627年台湾行政長官ピーテル・ノイツ家光に拝謁を願った際通詞として参府[8]し重宝された。島原の乱鎮圧後家光は、ポルトガルに代わってオランダが必需品を提供できるかカロンに確認している[9]
  2. ^ フランス財務総監コルベールルイ14世フランス東インド会社設立を進言し、VOC退職の後1665年にカロンは長官就任[10][11]。実現しなかったがカロンの日本と仏領東インドの貿易計画は長崎に伝わり1667年のオランダ風説書で幕府に報告された。
  3. ^ フランソワ・カロン[注釈 1][注釈 2]東京大学史料編纂所 日本関係海外資料 オランダ商館長日記 譯文編之四
  4. ^ ル・メールオランダ商館平戸から出島移転に先立ち参府老中酒井忠清らの「カトリック(ポルトガル)の情報提供」命令で毎年作製されたのがオランダ風説書[12][13]である。
  5. ^ マクシミリアン・ル・メール[注釈 4]東京大学史料編纂所 日本関係海外史料 オランダ商館長日記 譯文編之五
  6. ^ これに対して後継のオランダ商館長らは 謝意表明が無いと参府しても門前払い。事態を重く見たバタヴィア商務総監フランソワ・カロンが特使を派遣。カロンは幕府が臼砲に興味があるのを知っており臼砲献上と砲術士官ユリアン・スヘーデル[16]派遣は功を奏した。
  7. ^ ウィレム・フルステーヘン 著 永積洋子 訳『南部漂着記~南部山田浦[17]漂着のオランダ船ブレスケンス号船長ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープオランダ語版の日記』キリシタン文化研究会(キリシタン文化研究シリーズ9)(1974年)
  8. ^ オランダ人船員が捕縛された報は、すぐ長崎に届き、新旧商館長オーフルトワーテルエルセラックが例年より早く参府し、家康の「オランダ船は日本のどの港にも寄港して良い」との朱印状を持参して見せ、船長ヘンドリック・コルネリスゾーン・スハープオランダ語版以下10人の乗員は家光の取り計らい[注釈 6]で釈放された[注釈 7][18]
  9. ^ ファン・ツム家光に拝謁時、眼鏡・拡大鏡・レンズ・薬品等を献上。前日、大目付井上政重と面会しブレスケンス号乗員[注釈 8]のその後、タルタリアへの再航海の有無[19]東インドにおけるヨーロッパ諸国の勢力など問われた。
  10. ^ レイニール・ファン・ツム[注釈 9]東京大学史料編纂所 日本関係海外史料 オランダ商館長日記 訳文編之九
  11. ^ 家光は、酒井讃岐守忠勝(小浜藩主)と松平伊豆守信綱[24]は、幕府確立に大いに貢献したと評している「いにしへよりあまたの将軍ありといへども、我ほど果報の者はあるまじ。右の手は讃岐、左の手は伊豆」。『空印言行録』
  12. ^ 明王朝滅亡後、1656年は商船航行禁止、中国磁器輸出は一時中断。ツァハリアス・ヴァグナー景徳鎮を見本にヨーロッパ人好みを作成依頼し伊万里焼海外輸出が始まった。コバルトブルー地に金はヴァグナー好み、現在香蘭社が継承[26][27]している。清の輸出再開後も伊万里焼輸出は継続した。
  13. ^ ツァハリアス・ヴァグナー[注釈 12]江戸参府明暦の大火に遭遇し、当時発明されたばかりの消防ポンプホース謹呈を思いつき、次の商館長ヨアン・ボウヘリヨン献上[28]
  14. ^ 史実では、湯島聖堂を建立して新井白石儒学者を輩し文治政治を目指した治世前半は、後に吉宗が範とした[29][30]
  15. ^ 1691年出島の三学者の一人でオランダ商館付き医師ケンペル綱吉謁見し「英邁な君主」と記し、謁見時垣間見た御台所を「小麦色の丸顔が美しくヨーロッパ的な黒目が印象的、背はかなり高く御年は36歳(実年齢41)位」と表した[31]
  16. ^ 史実では「能狂」で各座や流派の長を表向き猿楽を廃業させて士分に取り立て城内の私的演能で舞わせた。断れば追放・一座は解体、衆道を拒めば切腹もあった『常憲院殿御実紀』。狩野友信 著『幕府年中行事』(1898年)に見られる(おうたいぞめ:正月3日江戸城で謡曲を謡う儀式)の様に、本丸西の丸には公式催事表舞台が有り、将軍代替わり・婚礼・出産等の慶事、先祖の忌日・日光参詣等諸行事、貴賓の公式接遇の宴には必ず能楽が催されていた。
  17. ^ 『大奥 第1巻 p16』[注釈 16]
  18. ^ 桂昌院の寵僧隆光の言で発布した生類憐みの令「御犬囲」の莫大な維持費で財政は悪化[33]した。
  19. ^ 綱吉は「生類憐れみの令」厳守を遺言したが家宣綱吉の柩の前で吉保に「禁令に触れ罪に落ちた者は数知れない。私は天下万民のために敢て遺命に背く」と言った(徳川実紀)。
  20. ^ 新井白石明暦の大火の翌日、焼け出された避難先で生まれた。白石の父・正済が目付として仕える久留里藩主土屋利直は、3歳で父の読む儒学書をそっくり書写した聡明な伝蔵(白石)を、気性が激しく怒ると眉間に「」の字に似た皺ができるので「火の子」と呼んで可愛がったという。
  21. ^ 丹野顯「6代家宣新井白石[注釈 20]火の子と呼ばれ正徳の治を実現した将軍儒学の師」『歴史読本』(2014-12月) Kadokawa
  22. ^ 御多病にて御言葉さはやかならざりし故近侍の臣[36]といへども聞き取り奉る事難し『徳川実紀
  23. ^ 杜甫の『絶句二首の内其の二』[37]宗武と同じ様に吉宗に暗唱してみせる[38]
  24. ^ 近習の臣といえども常に見え奉るもの稀なりしかば御言行の伝ふ事いと少なし…御みずからは御襖弱にわたらせ給ひしが万機の事ども、よく大臣に委任せられ御治世十六年の間四海波静かに万民無為の化に浴しけるは有徳院殿の御余慶といへどもしかしながらよく守成の業をなし給ふ『徳川実紀
  25. ^ 一条兼香[39] の日記『兼香公記』では「武道は修めるも文道に及ばず酒色遊芸にふけり狩猟を好まず」とある。
  26. ^ 作中家重右近衛将監(老中 松平武元)に丸投げしている[43]
  27. ^ 寛延の百姓騒動1748年[41][42][注釈 26]
  28. ^ 史実の吉宗は1728年、ベトナムからゾウを献上させた。宮中参内の為従四位に叙され広南従四位白象と呼ばれゾウは長崎から京へ。天覧に先立ち台盤所には「象舞台」がつくられ、ゾウは中御門天皇拝謁し、更に江戸へ移動、ブームが起こる[44][45]
  29. ^ 吉宗青木昆陽野呂元丈蘭語習得を命じ、昆陽は『和蘭文訳』『和蘭文字略考』の蘭語辞書・入門書を著す。元丈ヨンストン著『鳥獣虫魚図譜 全5巻』(1650-1653年)の蘭語版を『阿蘭陀畜獣虫魚和解』(1741年)として、ドドエンス著『草木誌』(1554年)を『阿蘭陀本草和解』(1750年)として抄訳した。カピタン蘭語版『鳥獣虫魚図譜』献上は1663年、江戸城の紅葉山文庫で死蔵され、『草木誌』とともに吉宗が見出した。『草木誌』は当時ヨーロッパで聖書に次いで多言語に翻訳[48]され、約2世紀参考文献として利用されていた。
  30. ^ 産業開発を奨励し、科学知識摂取のため吉宗[注釈 28]洋書(キリスト教関連以外に限定)禁輸を緩和[46][47]長崎を中心に蘭学ブーム[注釈 29]が起こる。
  31. ^ メアリー・ウォード・モンタギューは英国貴族の女性著述家。外交官の妻としてオスマン帝国に住み、トルコ社会について『トルコ書 簡集英語版[52]』で著述した。1721年にチャールズ・メイトランド (医師)に頼み娘に人痘接種させ、1722年に国王の孫娘にも人痘接種された[53]
  32. ^ 『大奥 第10巻』p100-103[注釈 31]
  33. ^ ❝Illustrations du Japon❞; Mémoires et Anecdotes sur la Dynastie régnante des Djogouns, Souverains du Japon, avec la description des fêtes et cérémonies observées aux différentes époques de l'année à la Cour de ces Princes, et un appendice contenant des détails sur la poésie des Japonais, leur manière de diviser l'année, etc.;Ouvrage orné de Planches gravées et coloriées, tiré des Originaux Japonais par M. Titsingh; publié avec des Notes et Eclaircissemens Par M. Abel Rémusat. Paris: Nepveu(1820年)[58]
  34. ^ 江戸に意知を嘲笑う落首が溢れ、オランダ商館長イサーク・ティチングは『鉢植えて梅か桜か咲く花を誰れたきつけて佐野に斬らせた』という落首を世界に伝えた「井蛙ぞろいの幕閣中、意知だけが日本の将来を考えていた。彼の死で早期開国の道は完全に閉ざされた」[57]カピタンとしては2度江戸参府し10代家治に拝謁、後に日本に関する著作[注釈 33][59]を残した。田沼時代の政治・社会情勢は特筆に価する。
  35. ^ ティチングは日本の機密を島津重豪[60]から得ていた、とフランスの博物学者で旅行家シャルパンティエ・ド・コシニー英語版に話した事が「ベンガル航海記」に記載され、その本はフランス革命戦争で本国が失われオランダ東インド会社が解散した1799年にパリで出版された。
  36. ^ ドゥーフ著『Herinneringen uit Japan[61]オランダ獅子士勲章英語版を賜りし出島の元商館長ヘンドリック・ドゥーフの日本回想録』(1833年)に「春風やアマコマ走る帆かけ船 A spring breeze, to and fro they bustle, the sail boats(haiku by Hendrik Doeff, Page xi on the table of contents)」の句が掲載されている[62]
  37. ^ ドゥーフ著書[注釈 36]に「重豪は娘を将軍正室として嫁がせ幕府薩摩を結合させ、諸侯を服従させようと企てている」と記されている。
  38. ^ ご内証の方助命は極秘事項だが、お幸の方ら後の大奥の人間には伝わっていた[66]
  39. ^ 「美男なら婿の貰い手がいくらでもある」と美男人員を削減したが、自分が手をつけた男は跡継ぎ問題絡みで解雇できない。
  40. ^ 史実では島原の乱鎮圧の上使となった父・松平信綱に従い原城、落城後天草長崎平戸などを検分した『嶋原天草日記』『続々群書類従4』所収 1663年撰
  41. ^ 史実のお楽の方は1651年、32歳で死去。
  42. ^ 家光が逝去した時、家光の弟の保科正之が存命していた(第2巻)。
  43. ^ 史実では、秀忠正室の許可なくお手付きを孕ませたので、生まれた事も出生地も極秘だった。1629年家光に初対面。御連枝として松平姓を勧められたが、幼時の養育係保科正光への恩義から生涯保科姓を名乗る[69]
  44. ^ 史実では父の家光が既に世継ぎに決めていた赤ん坊なので乳母松平信綱が面接・採用。西の丸御年寄格に。奸智に長け病弱な家綱に取り入り政治的発言をし、正室の浅宮顕子上臈御年寄の姉小路・飛鳥井と対立した説もある[70]
  45. ^ 異父姉の家綱が41歳で死去、家綱との年齢差は史実では5歳
  46. ^ 幼少時に麻疹にかかったと綱吉が語る場面があり、麻疹は一度かかると再発しない(終生免疫)ため、不自然な話の流れとなっている
  47. ^ 設定上は吉保自身にも夫と子がいる。
  48. ^ 後に登場した吉宗の父も娘にそのような呼び方をしている
  49. ^ 史実の水無瀬家は、藤原隆家は叔父・道長摂関の地位争いで敗れ次男・経輔が水無瀬大納言と呼ばれたが、子孫坊門親信信成後鳥羽院の遺言(『後鳥羽天皇宸翰御手印置文』)で水無瀬離宮跡を託され水無瀬と称し明治維新まで続いた羽林家。15代兼俊孫女が右衛門佐局
  50. ^ お伝の方の兄、小谷権太郎。史実の通り、博打のトラブルで殺害されている。詳細は瑞春院#生涯を参照。
  51. ^ 史実では牧野安は次女である。
  52. ^ 史実の至心院生家梅渓家九条兼実慈円らの父、藤原忠通に迄血筋を遡る事ができる羽林家近衛尚通の子・晴通久我家に養子入りし、久我通世の子・季通が分家・梅渓家初代。その孫通条梅渓幸子。因みに3代通条の子孫12代通虎三女が池坊専永夫人保子
  53. ^ 史実のお幸の方も投獄されたが理由は全く異なる、徳川家重#人物・逸話参照。
  54. ^ それまでの短い間時々こっそりと鰻を楽しんだ[72]
  55. ^ 江戸時代 魚は上・中・下に格付けされていた[73][74]
  56. ^ 江戸時代以前の蒲焼は、をブツ切り串に刺して焼き、味噌や塩をかけて食べた。その形が蒲の穂に似ていて「ガマ焼き」訛って「かば焼」と呼ばれた[75]当初江戸では屋台売りファーストフード、肉体労働者用安価なスタミナ食[76]だった。
  57. ^ 濃口醤油が開発され、を開きタレにつけて焼くようになるのは享保の頃。その後冷めないように蓋をし、更には重箱使用も。丼飯文化年間に誕生したとされる。宮川政運の「俗事百工起源」(1885年)に堺町(後の東京人形町)の芝居小屋中村座」スポンサー大久保今助が、蒲焼が冷めぬ様、丼飯の間に挟ませ芝居小屋に届けさせたのが起源と書かれている[77][78][79][80]
  58. ^ 棋譜が残っており現在のアマ高段とされる[82]。また家治は新しい将棋用語を考案し例えば右上から「いろはにほへとちりぬるを」などと呼んだ。プロ棋士の二上達也は家治詰将棋は「他の追随を許さぬ名作・好作を残している」と絶賛[83]
  59. ^ 史実の吉宗は68歳で薨去。
  60. ^ 史実の平賀源内の最期は棟梁2人を誤って殺害、投獄された末、破傷風で死去した。
  61. ^ 史実の板倉佐度守勝清は家治薨去数年前に死去。
  62. ^ 史実では意次が頂点の親類縁者の集まりである田沼政権が他大名家や旗本からの反発を招いていた[85]
  63. ^ 史実でも源内との仲は有名な、人気演目『鷺娘』を長唄で初演した江戸の女形役者[88]
  64. ^ 治済の陰謀に期せずして加担[89]瘡毒持ちに源内輪姦させる
  65. ^ 御仲居頭・芳三の念弟だった清吉が跡を継ぎ家斉の命で鰻重を頻繫に調理する[91]
  66. ^ 天璋院が花びら餅を振舞うが、作中の形は家茂が亡くなった1866年に裏千家宗匠が思い付き初釜用に改良を重ねていった物。当時はまだ求肥ではない[102][103]
  67. ^ ただし、作中の家光のように、30代前半での発病例も存在する。
  68. ^ 寛永後期頃と思われる。春日局は寛永20年没。
  69. ^ 宝永年間の頃と思われる。
  70. ^ 2016年6月にレーベル名変更となったため、13巻以前はジェッツコミックスとして、14巻以降はヤングアニマルコミックスとして発行。

出典

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  8. ^ 長崎遊楽カピタン江戸参府年表
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  13. ^ 松方冬子オランダ風説書鎖国」日本に語られた「世界」』中公新書(2010年)ISBN 978-412102047-5
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外部リンク