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| 芸名 = সত্যজিৎ রায়
| 芸名 = Satyajit Ray / সত্যজিৎ রায়
| ふりがな = サタジット・レイ
| ふりがな = サタジット・レイ
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| 画像コメント = 肖像画
| 画像コメント = サタジット・レイ(1981年)
| 本名 =
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| 別名義 = <!-- 別芸名がある場合に記載。愛称の欄ではありません -->
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| 出生地 = {{IND1885}} [[コルカタ]]
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| 死没地 = {{IND}} ルカタ
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| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ -->
| 国籍 = <!--「出生地」からは推定できないときだけ -->
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です -->
| 民族 = <!-- 民族名には信頼できる情報源が出典として必要です -->
| 身長 = {{height|ft=6|in=4|abbr=mos}}<ref>{{cite web|url=https://satyajitray.org/biography|title=Biography|website=Satyajitray.org|accessdate=14 August 2003|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030811074331/http://www.satyajitray.org/bio/index.htm |archivedate=11 August 2003}}</ref>
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| 生年 = 1921
| 生年 = 1921
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| 没月 = 4
| 没月 = 4
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| 没日 = 23
| 職業 = [[映画監督]]、制作、脚本、作家、音楽監督、カリグラファー、詩人。
| 職業 = [[映画監督]]、[[脚本家]][[]][[小説家]][[カリグラファー]][[イラストレーター]]
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| 活動期間 = [[1950年]] - [[1992年]]
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| 配偶者 = {{仮リンク|ビジョヤ・レイ|en|Bijoya Ray}}
| 配偶者 = {{仮リンク|ビジョヤ・レイ|en|Bijoya Ray}}(1949年 - 1992年)
| 著名な家族 = {{仮リンク|サンディープ・レイ|en|Sandip Ray}}(息子
| 著名な家族 = 祖父:{{仮リンク|ウペンドロキショル・レイ|en|Upendrakishore Ray Chowdhury}}(作家)<br/>父:{{仮リンク|シュクマル・レイ|en|Sukumar Ray}}(作家)<br/>息子:{{仮リンク|サンディープ・レイ|en|Sandip Ray}}(映画監督
| 所属劇団 =
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| 主な作品 = 「オプー三部作」(『大地のうた』『大河のうた』『大樹のうた』)<br/>『音楽サロン』<br/>『[[遠い雷鳴]]』<!-- 主演映画・主演テレビドラマなど。脇役の場合、大ヒットした作品で重要な役割であった、またはその出演功績を認められたもの。例えば、日本アカデミー賞優秀助演男優(女優)賞を受賞したような役の作品を入力 -->
| 主な作品 = 『[[大地のうた]](1955年)<br/>『大河のうた』(1956年)<br/>『音楽ホール』(1958年)<br/>『大樹のうた』(1959年)<br/>『ビッグ・シティ(1963年)<br/>『[[チャルラータ]]』(1964年)<br/>『[[遠い雷鳴]]』(1973年)<!-- 誰もが認める代表作品を記述 -->
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]'''<br/>[[第64回アカデミー賞|1991年]]
| アカデミー賞 = '''[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]'''<br/>[[第64回アカデミー賞|1991年]] 映画芸術でも類稀な円熟と深い人道主義の視野が世界中の映画製作者と観客に消えない影響を与えた功績に対して
| カンヌ国際映画祭 = '''人間ドキュメント映画賞'''<br />[[第9回カンヌ国際映画祭|1956年]]『[[大地のうた]]』
| カンヌ国際映画祭 = '''ヒューマン・ドキュメント賞'''<br />[[第9回カンヌ国際映画祭|1956年]]『[[大地のうた]]』<br/>'''[[カンヌ国際映画祭 国際カトリック映画事務局賞|国際カトリック映画事務局賞]]'''<br/>1956年『大地のうた
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[金獅子賞]]'''<br />[[1957年]]『[[大河のうた]]』<br/>'''[[ヴェネツィア国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]'''<br/>1957年『大河のうた』<br/>[[1972年]]『株式会社 ザ・カンパニー』<br/>'''[[栄誉金獅子賞]]'''<br/>[[1982年]]
| ヴェネツィア国際映画祭 = '''[[金獅子賞]]'''<br />[[1957年]]『[[大河のうた]]』<br/>'''[[ヴェネツィア国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]'''<br/>1957年『大河のうた』<br/>[[1972年]]『株式会社 ザ・カンパニー』<br/>'''[[栄誉金獅子賞]]'''<br/>[[1982年]]
| ベルリン国際映画祭 = '''[[金熊賞]]'''<br/>[[第23回ベルリン国際映画祭|1973年]]『[[遠い雷鳴]]』<br/>'''[[銀熊賞 (監督賞)|銀熊賞(監督賞)]]'''<br />[[第14回ベルリン国際映画祭|1964年]]『[[大都会 (映画)|大都会]]』<br/>[[第15回ベルリン国際映画祭|1965年]]『[[チャルラータ]]』<br />'''国際カトリック映画事務局賞'''<br/>1965年『チャルラータ』
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[[File:Satyajit_young_3.jpg|thumb|幼少時のサタジット・レイ]]
[[File:Satyajit Ray Signature.svg|thumb|260px|サタジット・レイのサイン。]]
'''サタジット・レイ'''([[英語]]:Satyajit Ray、[[ベンガル語]]:{{lang|bn|সত্যজিৎ রায়}}、[[1921年]][[5月2日]] - [[1992年]][[4月23日]])は、[[インド]]の[[映画監督]]、[[脚本家]]、[[作曲家]]、[[小説家]]、[[カリグラファー]]、[[イラストレーター]]である。サタジット・レイという呼称は英語読みを日本語に移したもので、ベンガル語では'''ショトジット・ライ'''({{Audio-IPA|SatyajitRay2.ogg|ˈʃɔtːodʒit ˈrai̯}})と発音される{{Sfn|宇田川|2007|p=77}}。[[インドの映画|インド映画]]もしくは[[西ベンガルの映画|ベンガル語映画]]を代表する監督であり、国際的に高く評価され影響を与えた[[巨匠]]のひとりと広く見なされている{{Sfn|宇田川|2007|p=77}}{{Sfn|丹羽|2018|p=223}}<ref name=":5">{{Cite web|date=18 June 2019|title=The Great Integrator|url=https://serenademagazine.com/series/music-education/the-great-integrator/|accessdate=10 November 2020|website=Serenade|language=en-GB}}</ref>。生涯で36本の映画を監督したが、その中には長編劇映画だけでなく、[[ドキュメンタリー]]や[[短編映画]]も含まれている。映画以外にも、作家として[[児童文学]]作品などを執筆しており、さらに[[ベンガル文字]]の[[カリグラフィー]]の創作や、本やポスターの[[グラフィックデザイン]]でも知られた。
[[File:Satyajit-Ray-Young.jpg|thumb|22歳のサタジット・レイ]]
[[File:Sukumar_Ray_and_his_wife.jpg|thumb|父シュクマルと母スプラバ(1914年)]]
[[File:Satyajit_Ray_with_Ravi_Sankar_recording_for_Pather_Panchali_cropped_Ray.jpg|thumb|サタジット・レイ(1955年)]]
'''サタジット・レイ'''([[ベンガル語]]:সত্যজিৎ রায়, [[ヒンディー語]]:सत्यजीत राय, 英語:Satyajit Ray, [[1921年]][[5月2日]] - [[1992年]][[4月23日]])は[[インド]]の[[映像]][[作家]]。映画界における巨匠の一人に挙げられている。映画制作以外にも、築き上げた彼独特の文体で執筆された[[小説]]や、[[カリグラフィー]]など広告媒体の制作でも知られる。


サタジットはカルカッタ(現在の[[コルカタ]])の著名な文学者の家に生まれ、広告会社や出版社のデザイナーとしてキャリアを始めたが、[[フランス]]の映画監督[[ジャン・ルノワール]]との出会いや、[[ネオレアリズモ]]映画『[[自転車泥棒 (映画)|自転車泥棒]]』(1948年)を見たことから映画監督の道へ進んだ。初監督作品『[[大地のうた]]』(1955年)は、[[第9回カンヌ国際映画祭]]のヒューマン・ドキュメント賞などを受賞し、インド映画が国際的に注目されるきっかけとなった。この作品は『{{仮リンク|大河のうた|en|Aparajito}}』(1956年)、『{{仮リンク|大樹のうた|en|The World of Apu}}』(1959年)とともに「{{仮リンク|オプー三部作|en|The Apu Trilogy}}」を成す。その後、サタジットはインドの[[芸術映画]]の代表者として、『{{仮リンク|音楽ホール (映画)|label=音楽ホール|en|Jalsaghar}}』(1958年)、『{{仮リンク|ビッグ・シティ|en|Mahanagar}}』(1963年)、『[[チャルラータ]]』(1964年)など、ベンガル人の社会や生活を題材にした作品を手がけた。映画製作では、脚本、キャスティング、[[映画音楽]]の作曲、編集、広告のデザインまでをすべて自分でこなした。サタジットはキャリアを通して、インドの映画賞[[ナショナル・フィルム・アワード]]をはじめ、[[ヴェネツィア国際映画祭|ヴェネツィア]]や[[ベルリン国際映画祭|ベルリン]]の[[映画祭|国際映画祭]]などで数多くの賞を受賞しており、 [[1992年]]には[[アカデミー名誉賞]]と、インド民間人の最高賞である[[バーラト・ラトナ賞]]を授けられた。
サタジットは[[コルカタ]]市の、世界的に有名な[[ベンガル人]][[芸術]]・[[文学]]一家に生まれた。彼の経歴は広告媒体の制作から始まり、[[ロンドン]]滞在時に[[フランス人]]映像作家の[[ジャン・ルノワール]]と出逢い、また[[イタリア人]][[ネオレアリズモ]]の[[ヴィットリオ・デ・シーカ]]の『[[自転車泥棒]]』を見たことから、[[自主映画]]の製作に身を投じた。

サタジットが制作した映画は[[ドキュメンタリー]]や[[短編映画]]も含めて37本ある。彼はまた[[フィクション]]の作家、[[出版]]者、[[イラストレーター]]、グラフィックデザイナー、そして映画評論も行った。1955年に公開されたレイ初の映画『[[大地のうた]]』は、国際的な賞を11個授かり、その中には[[カンヌ国際映画祭]]のBest Human Documentaryもある。この作品と、1956年の『{{仮リンク|大河のうた|en|Aparajito}}』、1959年の『{{仮リンク|大樹のうた|en|The World of Apu}}』の3作は「{{仮リンク|オプー三部作|en|The Apu Trilogy}}」と呼ばれる。

サタジットは[[脚本]]、キャスティング、[[映画音楽]]、編集から、制作した映画のクレジット・タイトルや広告のデザインまでも手がけた。彼は生涯において、インドの第32回[[ナショナル・フィルム・アワード]]や国際的な映画祭や式典でのものを含む数々の賞を受け、1992年には[[アカデミー名誉賞]]を授かった。同年、インド政府はレイに[[バーラト・ラトナ賞]]を贈呈した。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 生誕と家族 ===
=== 生誕と初期の人生 ===
[[File:Satyajit_young_3.jpg|thumb|幼少期のサタジット・レイ。]]
サタジット・レイの先祖は少なくとも十世代前まで遡ることができる<ref>{{Harvnb|Seton|1971|p=36}}</ref>。祖父([[:en:Upendrakishore Ray|Upendrakishore Ray]])は[[作家]]、イラストレーターであり出版も行い、また哲学者そしてアマチュア天文学者、さらには19世紀のベンガルで興った宗教および社会活動[[ブラフモ・サマージ]]の指導者でもあった。新聞[[:en:U. Ray and Sons|U. Ray and Sons]]の創刊も行い、これがサタジットに批判的精神の根底部分を形づくる要因となった。父{{仮リンク|シュクマル・レイ|en|Sukumar Ray}}は[[ベンガル語]]で書かれた{{仮リンク|ノンセンスバース|en|nonsense verse}}や児童文学の嚆矢であり、またイラスト制作や批判活動も行っていた。サタジットは、シュクマルと母スプラバの間に生まれた。
サタジット・レイの先祖は少なくとも十世代前まで遡ることができる{{Sfn|Seton|1971|p=36}}。祖父の{{仮リンク|ウペンドロキショル・レイ|en|Upendrakishore Ray Chowdhury}}は著名な[[児童文学]]作家で、子供向け雑誌『{{仮リンク|ションデシュ|en|Sandesh (magazine)}}』の発行を手がけた{{Sfn|丹羽|2018|p=226}}。また、印刷会社[[:en:U. Ray and Sons|U. Ray and Sons]]の設立者でもあり、ほかにもイラストレーターや[[哲学者]]、アマチュア天文学者、さらには19世紀の[[ベンガル地方|ベンガル]]で興った宗教および社会活動の[[ブラフモ・サマージ]]の指導者としても活動し、詩人の[[ラビンドラナート・タゴール]]の一家とも親しかった{{Sfn|丹羽|2018|p=226}}<ref name=":1">{{Cite journal |last=Barnouw |first=Erik |date=1981 |title=Lives of a Bengal Filmmaker: Satyajit Ray of Calcutta |url=https://www.jstor.org/stable/29781890 |journal=The Quarterly Journal of the Library of Congress |volume=38 |issue=2 |pages=60-77 |jstor=29781890 |issn=0041-7939}}</ref>。父の{{仮リンク|シュクマル・レイ|en|Sukumar Ray}}も[[ベンガル語]]の児童文学と{{仮リンク|ナンセンス・ヴァース|en|Nonsense verse}}で先駆的な業績を残した作家であり、イラストレーターや評論家としても活動した<ref name=":1"/>。


[[1921年]]5月2日、サタジットは[[コルカタ|カルカッタ]](現在のコルカタ)で、シュクマルと母スプラバ・レイの間に生まれた。サタジットは上流階級に属する家庭に生まれたが、わずか3歳の時にシュクマルが亡くなったため、スプラバの親戚の家に身を寄せながら、スプラバのわずかな収入で生活することになった<ref name=":2">{{Cite book |last=Vijaya |first=Dr. |title=Satyajit Ray |publisher=Sapna Book House |year=2012 |isbn=9788128017889 |location=Bangalore}}</ref><ref name="自作を語る">[[田山力哉]]訳・構成「ショトジット・ライ全自作を語る」({{Harvnb|世界の映画作家|1975|pp=67-84}})</ref>。成長したサタジットはカルカッタの{{仮リンク|バーリグンジ政府高校|en|Ballygunge Government High School}}で学び、{{仮リンク|プレジデンシー・カレッジ|en|Presidency College, Calcutta}}(当時は[[コルカタ大学]]の管区カレッジ)で経済学の学士号を取得したが、既にサタジットの興味はいつも[[ファインアート]]に向けられ、[[西洋音楽]]に夢中となった{{Sfn|丹羽|2018|p=226}}<ref name=":2"/>。
サタジットがわずか3歳の時に父シュクマルが亡くなり、一家はスプラバのわずかな収入で生きなければならなくなった。彼はコルカタの{{仮リンク|バーリグンジ政府高校|en|Ballygunge Government High School}}で学び、[[コルカタ大学]]の{{仮リンク|管区カレッジ|en|Presidency College, Calcutta}}で経済学の学士(オーナーズ)を修めた。しかし既に彼の興味はいつも[[ファインアート]]に向けられていた。1940年、母親は[[ラビンドラナート・タゴール]]が設立した{{仮リンク|シャンティニケトン|en|Santiniketan}}の[[タゴール国際大学]]へ進学するよう求めた。しかしコルカタに愛着を持つサタジットは、シャンティニケトンで学業生活を送ることに乗り気でなかった<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=46}}</ref>。しかし母の説得と、タゴールを尊敬していたこともあって、納得して進学した。シャンティニケトンでサタジットは[[東洋]]芸術に触れ、後に認めたところによると有名な画家である{{仮リンク|ノンドラル・ボーズ|en|Nandalal Bose}}<ref>{{Harvnb|Seton|1971|p=70}}</ref>や{{仮リンク|ビノード・ビハーリー・ムカルジー|en|Benode Behari Mukherjee}}からたくさんの事を学んだ。後に、サタジットはムカルジーのドキュメント映画『The Inner Eye』を制作した。また彼は[[アジャンター石窟群]]、[[エローラ石窟群]]、[[エレファンタ石窟群]]を訪れ、その[[インド芸術]]から大きな刺激を受けた
<ref>{{Harvnb|Seton|1971|pp=71–72}}</ref>。


[[1940年]]、サタジットの母親はタゴールが設立した{{仮リンク|シャンティニケトン|en|Santiniketan}}の[[タゴール国際大学|ビシュバ・バラティ大学]]へ進学するよう求めたが、カルカッタに愛着を持つサタジットはシャンティニケトンで学業生活を送ることに乗り気ではなかった{{Sfn|Robinson|2003|p=46}}。サタジットは母の説得と、タゴールを尊敬していたこともあって進学を決意し、美術学科に入ったが、この時期に[[東洋]]芸術に触れ、後に認めたところによると有名な画家の{{仮リンク|ノンドラル・ボーズ|en|Nandalal Bose}}や{{仮リンク|ビノード・ビハーリー・ムカルジー|en|Benode Behari Mukherjee}}{{Refnest|group="注"|後にサタジットは、ムカルジーのドキュメンタリー映画『{{仮リンク|心の眼|en|The Inner Eye}}』(1972年)を製作した{{Sfn|丹羽|2018|p=240}}。}}からたくさんの事を学んだ{{Sfn|丹羽|2018|p=227}}{{Sfn|Seton|1971|p=70}}。さらにこの時期に[[アジャンター石窟群]]、[[エローラ石窟群]]、[[エレファンタ石窟群]]を訪れ、その[[インド芸術]]から大きな刺激を受けた{{Sfn|Seton|1971|pp=71-72}}。
1943年、サタジットはイギリス人が経営する広告会社D.J. Keymer に就職し、下級映像制作者 (junior visualiser) として月80[[ルピー]]の給料を得た。彼は[[グラフィックデザイン]]を好み制作を上手くこなしていた。しかし、そこにはイギリスとインドの従業員間にいさかいがあり、イギリス人社員は給与も優遇されていた。さらに「依頼はどれも愚かしげなものばかり」と感じていた<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=56–58}}</ref>。後に、サタジットはD. K. Guptaが新たに設立した印刷会社{{仮リンク|シグネット・プレス|en|Signet Press}}の仕事にも関わり始めた。ここで彼は出版される書籍のカバーデザインを、好きなように任せられた。ここで、[[:en:Jibanananda Das|Jibanananda Das]]の『[[:en:Banalata Sen (book)|Banalata Sen]]』と『[[:en:Rupasi Bangla|Rupasi Bangla]]』、{{仮リンク|ジム・コーベット (猟師)|label=ジム・コーベット|en|Jim Corbett (hunter)}}の『[[:en:Maneaters of Kumaon|Maneaters of Kumaon]]』、[[ジャワハルラール・ネルー]]の『{{仮リンク|インドの発見|en|Discovery of India}}』など多くの本のカバーを制作した。また、{{仮リンク|ビフティブシャーン・バナールジ|en|Bibhutibhushan Bandopadhyay<!-- リダイレクト先の「[[:en:Bibhutibhushan Bandyopadhyay]]」は、[[:ja:ビブティブション・ボンドパッダエ]] とリンク -->}}が著したベンガル語の古典的小説『大地のうた (Pather Panchali) 』を子供向けに改訂した『Aam Antir Bhepu』(The mango-seed whistle)の表紙や挿絵も手がけた。そしてこの仕事から、サタジットは大きな影響を受けた。彼は初の制作映画にこの作品を選び、その革新的な映像のいくつかの場面でこの挿絵を用いた<ref>{{Harvnb|Robinson|2005|p=38}}</ref>。


[[ファイル:Satyajit-Ray-Young.jpg|thumb|left|22歳頃のサタジット・レイ。]]
1947年サタジットは、{{仮リンク|チダナンダ・ダスグプタ|en|Chidananda Dasgupta}}らと共同でコルカタ映画組合{{仮リンク|カルカッタ映画協会|en|Calcutta Film Society}}を設立した。彼らは数多い外国映画を上映し、サタジットはこれらを視聴し真剣に学んだ。[[第二次世界大戦]]中には友人となった駐コルカタ[[アメリカ陸軍]]の軍人から上映される最新のアメリカ映画情報を仕入れた。また、知り合いになった[[イギリス空軍]]のノーマン・クレールからは、映画だけでなく[[チェス]]や西洋[[クラシック音楽]]をともに楽しむようになった<ref>{{Harvnb|Robinson|2005|pp=40–43}}</ref>。
[[1943年]]、サタジットはカルカッタのイギリス系広告会社D・J・キーマー社にグラフィックデザイナーとして就職し{{Sfn|丹羽|2018|p=227}}{{Sfn|杉本|2002|pp=125-126}}、月80[[ルピー]]の給料を得た。サタジットは[[グラフィックデザイン]]の制作を上手くこなしたが、会社内ではイギリス人とインド人の従業員の間にいさかいがあり、イギリス人社員は給与も優遇されていた。さらにサタジットは「依頼はどれも愚かしげなものばかり」と感じていた{{Sfn|Robinson|2003|pp=56-58}}。やがてサタジットは、D. K. Guptaが新たに設立した出版社{{仮リンク|シグネット・プレス|en|Signet Press}}で働いた。この会社では出版される書籍の表紙デザインを任され、尚且つ完全な芸術的自由を与えられた。サタジットは[[:en:Jibanananda Das|Jibanananda Das]]の『''[[:en:Banalata Sen (book)|Banalata Sen]]''』と『''[[:en:Rupasi Bangla|Rupasi Bangla]]''』、{{仮リンク|ジム・コーベット (猟師)|label=ジム・コーベット|en|Jim Corbett (hunter)}}の『''[[:en:Maneaters of Kumaon|Maneaters of Kumaon]]''』、[[ジャワハルラール・ネルー]]の『{{仮リンク|インドの発見|en|Discovery of India}}』など多くの本の表紙をデザインした{{Sfn|Robinson|2005|p=38}}。また、[[ビブティブション・ボンドパッダエ]]が著したベンガル語の古典的小説『{{仮リンク|大地のうた (小説)|label=大地のうた|en|Pather Panchali (novel)}}』を子供向けに改訂した『''Aam Antir Bhepu''』の表紙デザインと挿絵も手がけたが、サタジットはこの本に大きな感銘を受け、後に自身の初監督映画の題材に選び、その作品のいくつかの革新的な場面でこの挿絵を用いた{{Sfn|丹羽|2018|p=227}}{{Sfn|Robinson|2005|p=38}}。


[[1947年]]、サタジットは友人の{{仮リンク|チダナンダ・ダスグプタ|en|Chidananda Dasgupta}}らとともに、カルカッタで最初の[[シネクラブ]]である{{仮リンク|カルカッタ・フィルム・ソサエティ|en|Calcutta Film Society}}を設立した{{Sfn|杉本|2002|pp=125-126}}{{Sfn|Robinson|2005|pp=40-43}}。サタジットは[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]監督のソ連映画『[[戦艦ポチョムキン]]』(1925年)などのヨーロッパ映画をインドで初めて上映し、映画文化を普及させる運動に従事しながら、自らもそれらの作品を鑑賞して映画を勉強した{{Sfn|杉本|2002|pp=125-126}}{{Sfn|Robinson|2005|pp=40-43}}<ref>{{cite web|url=http://www.satyajitray.org/bio/film_society.htm |title=Calcutta Film Society - Biography|website=Satyajitray.org|accessdate=2021-8-3|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20030811073320/http://www.satyajitray.org/bio/film_society.htm|archivedate=11 August 2003}}</ref>。また、[[第二次世界大戦]]中にカルカッタに駐留していたアメリカ兵と親しくなり、カルカッタで上映されるアメリカ映画の最新情報を仕入れ続けていた。この頃にサタジットは[[イギリス空軍]]にいたノーマン・クレールと親しくなり、クレールを通じて[[チェス]]や西洋[[クラシック音楽]]にも熱をあげた{{Sfn|Robinson|2005|pp=40-43}}。
1949年、サタジットは長い交際期間を経て、いとこの{{仮リンク|ビジョヤ・ダス|en|Bijoya Ray}}と結婚した<ref>Arup Kr De, "Ties that Bind" by ''The Statesman,'' Calcutta, 27 April 2008. Quote: "Satyajit Ray had an unconventional marriage. He married Bijoya (born 1917), youngest daughter of his eldest maternal uncle, Charuchandra Das, in 1948 in a secret ceremony in Bombay after a long romantic relationship that had begun around the time he left college in 1940. The marriage was reconfirmed in Calcutta the next year at a traditional religious ceremony."(サタジット・レイの結婚は型破りなものだった。彼は大学を終えた1940年頃から始まった長いロマンティックな関係を経て、母方のおじカルカンドラ・ダスの一番若い娘に当る1917年生まれのビジョヤと1948年にボンベイでひそかに式を挙げた。二人の婚姻は、翌年にコルカタで挙げた伝統的な宗教儀礼に則った式が執り行われて、認められるものになった。)</ref>。夫婦は後に映画監督となる息子{{仮リンク|サンディープ・レイ|en|Sandip Ray}}を得た。この年、フランス人映画監督ジャン・ルノワールが、『[[河 (1951年の映画)|河]]』の撮影のためにコルカタを訪れた。サタジットは彼を補佐して郊外に撮影に適した場所を見つけた。彼はルノワールに長く心にとどまる『大地のうた』を映画化する構想を話し、ルノワールはそれを進めるよう励ました<ref>{{Harvnb|Robinson|2005|pp=42–44}}</ref>。1950年、D.J. Keymer社はサタジットに[[ロンドン]]本社勤務を命じ、当地に留まった3ヶ月の間に彼は99本の映画を鑑賞した。この中にはイタリアネオレアリズモのヴィットリオ・デ・シーカが制作した『自転車泥棒』(1948年)があり、彼は強い衝撃を受けた。後に語ったところによると、劇場を出たサタジットは映画制作者になる決心をしたという<ref>{{Harvnb|Robinson|2005|p=48}}</ref>。


[[1949年]]、サタジットは従姉で長年の恋人だった{{仮リンク|ビジョヤ・ダス|en|Bijoya Ray}}と結婚した{{Refnest|group="注"|ビジョヤは、サタジットの母方の叔父にあたるカルカンドラ・ダスの長女である。サタジットとビジョヤは、1940年頃から交際を始め、1948年にボンベイでひそかに式を挙げた。2人の婚姻は、翌年にコルカタで挙げた伝統的な宗教儀礼に則った式で認められた<ref>Arup Kr De, "Ties that Bind" by ''The Statesman,'' Calcutta, 27 April 2008. </ref>。}}。夫婦は後に映画監督となる息子{{仮リンク|サンディープ・レイ|en|Sandip Ray}}を得た<ref>{{Cite news|date=24 April 1994|title=Filmmaker Satyajit Ray Dies|language=en-US|work=The Washington Post|url=https://www.washingtonpost.com/archive/local/1992/04/24/filmmaker-satyajit-ray-dies/42fce72b-05f0-4d91-aead-c0922994e31a/|accessdate=9 November 2020|issn=0190-8286}}</ref>。この年、フランスの映画監督[[ジャン・ルノワール]]が『[[河 (1951年の映画)|河]]』の撮影のためにカルカッタを訪れた。サタジットはルノワールの仕事を手伝い、カルカッタ周辺のロケ地探しに務めた<ref name="自作を語る"/>。さらにサタジットはルノワールに長く心にとどまる『大地のうた』を映画化する構想を話し、ルノワールはそれを進めるよう励ました{{Sfn|Robinson|2005|pp=42-44}}。翌[[1950年]]、サタジットはD・J・キーマー社から[[ロンドン]]本社での勤務を命じられ、約6ヶ月間その地にとどまり、その間に99本の映画を鑑賞した{{Sfn|Robinson|2005|p=48}}。それらの映画の中には[[ヴィットリオ・デ・シーカ]]監督の[[ネオレアリズモ]]映画『[[自転車泥棒 (映画)|自転車泥棒]]』(1948年)があり、サタジットはこの作品に強い衝撃を受けた。後に語ったところによると、映画監督になることを決意して劇場を出たという{{Sfn|Robinson|2005|p=48}}。
=== オプー三部作(1950-1959年) ===
サタジット・レイは、[[ビブティブション・ボンドパッダエ]]が著した古典的なベンガル文学の[[教養小説]]『大地のうた』(1928年)を原作に、初めての映画制作にとりかかる事を決めた。これは、ベンガルの村で育った小さな少年オプーの半生を記す、作者の自伝的小説である。スタッフには、高い評価を受け続けた[[カメラマン]]の{{仮リンク|スブラタ・ミットラ|en|Subrata Mitra}}と[[美術監督]]の{{仮リンク|バンシ・チャンドログプタ|en|Bansi Chandragupta}}の両者を除くと、未経験者ばかりであった。役者もほとんどがアマチュアの中、彼は1952年に撮影を始めた。経費は個人的貯蓄で賄いつつ何とか資金調達で上積みを試みたが、ほんの小額しか手に入らなかったため制作継続に支障をきたした<ref name=makepanchali>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=74–90}}</ref>。結果、彼と制作主任の{{仮リンク|アニル・チャウダリ|en|Anil Chowdhury}}が金を積み増して続行でき、完成までに3年もの時間がかかった<ref name=makepanchali/>。サタジットは脚本や制作監督への介入を伴う出資を拒否した。政府からの援助では、ハッピーエンドにすべきというアドバイスがあったが、サタジットはこれを無視しつつ資金は受けた<ref>{{Harvnb|Seton|1971|p=95}}</ref>。彼は少ない予算ゆえに映像化できた数少ない場面の一つを、『[[王になろうとした男 (映画)|王になろうとした男]]』映画化のロケ場所をインドで探していた[[ジョン・ヒューストン]]に見せた。田舎でオプーと姉が列車を追うシーンを見たヒューストンは、ニューヨークで「大いなる才能が海のむこうにいる」と語った。


=== オプー三部作 ===
[[西コルカタ州]]政府からの借金を受けてサタジットが完成させた映画『[[大地のうた]]』は、1955年に公開されると高く評価され人気を博した。そして数多くの賞を受け、インドや外国でロングラン上映された。インド国内では熱狂的な支持を受け、[[ザ・タイムズ・オブ・インディア]]紙は「他のインド映画と比べるなどとんでもない...『大地のうた』は純粋たる映画である」と評した<ref name="set1">{{Harvnb|Seton|1971|pp=112–15}}</ref>。イギリスでも[[リンゼイ・アンダーソン]]が熱烈なレビューを書いた<ref name="set1" />。しかし中には[[フランソワ・トリュフォー]]が鑑賞後に「私は農民らが手で食事をするような映画は見たくない」と語ったように批判もあった<ref name=filmifunda>{{cite news|author=|url=http://www.telegraphindia.com/1050420/asp/calcutta/story_4634530.asp|title=Filmi Funda Pather Panchali (1955)|publisher=The Telegraph|date=2005-04-20|accessdate=2006-04-29|location=Calcutta, India}}</ref>。[[ニューヨーク・タイムズ]]では、最も権威を持っていた批判家{{仮リンク|ボズリー・クロウザー|en|Bosley Crowther}}が仮借のないレビューを書いた。アメリカでの配給元はクロウザーの評論によって興業は上手くいかないと恐れたが、封切されるとロングランを記録した。
[[File:Satyajit_Ray_with_Ravi_Sankar_recording_for_Pather_Panchali_cropped_Ray.jpg|thumb|『大地のうた』製作時のサタジット・レイ(1955年)。]]
帰国したサタジットは、ボンドパッダエのベンガル語の古典的[[教養小説]]で、ベンガルの村で育った少年オプーの半生を描く作者の自伝的小説『大地のうた』を原作として、初めての映画監督作品に取りかかることにした<ref name="自作を語る"/><ref>{{Cite web|last=Jeffries|first=Stuart|date=20 October 2010|title=Pather Panchali: No 12 best arthouse film of all time|url=http://www.theguardian.com/film/2010/oct/20/pather-panchali-ray-arthouse|accessdate=9 November 2020|website=The Guardian|language=en}}</ref>。サタジットはロンドンからインドへ帰る航海中に書き始めたシナリオと数百枚のデッサンを抱えて数人のプロデューサーと掛け合ったが、誰もこの企画に関心を持とうとはしなかった<ref name="自作を語る"/>{{Sfn|杉本|2002|pp=126-127}}。それでもサタジットは生命保険から資金を出して、[[1952年]]にようやく撮影を開始した<ref name="自作を語る"/>。スタッフは、サタジットの友人で後年まで仕事を共にした[[カメラマン]]の{{仮リンク|スブラタ・ミットラ|en|Subrata Mitra}}と[[美術監督]]の{{仮リンク|バンシ・チャンドラグプタ|en|Bansi Chandragupta}}の両者を除くと未経験者ばかりで、俳優もほとんどが素人だった<ref name="自作を語る"/>{{Sfn|Robinson|2003|pp=74-83}}。


サタジットはまだ広告会社の仕事を続けていたため、休みの週末にしか『大地のうた』の仕事を進めることができなかった<ref name="自作を語る"/>。自己調達で賄ったほんの少額の製作資金もすぐに使い果たしてしまい、相変わらず出資者も見つからなかったため、約1年半も製作を中断することになった<ref name="自作を語る"/>{{Sfn|Robinson|2003|pp=74-83}}。その後、サタジットの母親と共通の友人がいた[[西ベンガル州]]首相の[[ビダン・チャンドラ・ロイ]]の計らいにより、政府から分割払いで融資を受けることになった<ref name="自作を語る"/>。政府はシナリオがあまりにもペシミスティックだという理由で、ハッピーエンドにするように要求したが、サタジットはこれを拒絶し、それにもかかわらず融資は受けた{{Sfn|Seton|1971|p=95}}。また、[[1954年]]にサタジットは[[ニューヨーク近代美術館]](MoMA)のディレクターの{{仮リンク|モンロー・ウィーラー|en|Monroe Wheeler}}にフィルムの一部を見せた。これに感銘を受けたウィーラーは、サタジットに仕上げ資金を送り、MoMAで上映できるようにした{{Sfn|Robinson|2003|pp=74-83}}<ref>{{Cite web|title=Satyajit Ray's Pather Panchali {{!}} MoMA|url=https://www.moma.org/calendar/film/726|accessdate=9 November 2020|website=The Museum of Modern Art|language=en}}</ref>。さらに『[[王になろうとした男]]』のロケ場所をインドで探していた[[ジョン・ヒューストン]]もフィルムを見て、「大いなる才能が海のむこうにいる」と語った{{Sfn|Robinson|2003|p=87}}。
サタジット・レイの国際的な活動は、第2作『{{仮リンク|大河のうた|en|Aparajito}}』の成功を受けて始まった<ref name= robintrilogy/>。この作品は、青年オプーと彼を愛する母親との間に起こる絶え間ない諍いを描いた<ref name= robintrilogy>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=91–106}}</ref>。{{仮リンク|ムリナル・セン|en|Mrinal Sen}}や{{仮リンク|リトゥック・ガタク|en|Ritwik Ghatak}}ら評論家たちは、本作に前作を上回る高い評価を与えた<ref name= robintrilogy/>。[[ヴェネツィア国際映画祭]]では『大河のうた』は[[金獅子賞]]を受け、サタジットは喝采を浴びた。


『[[大地のうた]]』は3年もの時間をかけてようやく完成し、[[1955年]]5月にMoMAで初公開され、8月にインド国内で劇場公開された{{Sfn|Robinson|2003|pp=88-89}}。作品は国際的に高い評価を受け、ベンガル語圏や欧米では興行的にも大成功を収めた{{Sfn|杉本|2002|pp=128-129}}。[[ザ・タイムズ・オブ・インディア]]紙は「他のインド映画と比べるなどとんでもない...『大地のうた』は純粋たる映画である」と賞賛の評を書き、イギリスでも[[リンゼイ・アンダーソン]]が熱烈な批評を書いた{{Sfn|Seton|1971|pp=112-115}}。しかし中には[[フランソワ・トリュフォー]]が鑑賞後に「私は農民らが手で食事をするような映画は見たくない」と語ったように批判もあった<ref name="filmifunda">{{cite news|author=|url=http://www.telegraphindia.com/1050420/asp/calcutta/story_4634530.asp|title=Filmi Funda Pather Panchali (1955)|publisher=The Telegraph|date=2005-04-20|accessdate=2006-04-29|location=Calcutta, India}}</ref>。アメリカでは、当時最も権威のあった映画批評家[[ボズレー・クラウザー]]が[[ニューヨーク・タイムズ]]に「この映画を楽しむには忍耐が必要だ」と仮借のない批評を書き<ref>{{Cite news|last=Crowther|first=Bosley|date=23 September 1958|title=Screen: Exotic Import; Pather Panchali' From India Opens Here (Published 1958)|language=en-US|work=The New York Times|url=https://www.nytimes.com/1958/09/23/archives/screen-exotic-import-pather-panchali-from-india-opens-here.html|accessdate=11 November 2020|issn=0362-4331}}</ref>、アメリカでの配給元はクラウザーの批評で興行は上手くいかないと恐れたが、公開されると8ヶ月ものロングランを記録した{{Sfn|Robinson|2003|pp=91-106}}。また、翌[[1956年]]の[[第9回カンヌ国際映画祭]]ではヒューマン・ドキュメント賞を受賞した{{Sfn|杉本|2002|pp=128-129}}。
オプー三部作が完成する前に、サタジットは他に2本の映画を製作・公開した。喜劇の『{{仮リンク|賢者の石 (映画)|label=賢者の石|en|Parash Pathar}}』(または『化金石』)と、[[タラションコル・ボンドパッダエ]]原作による{{仮リンク|徴税請負地主|en|Parash Pathar}}の退廃を描いた、最も重要な作品のひとつに挙げられる『{{仮リンク|音楽ホール (映画)|label=音楽ホール|en|Jalsaghar}}』である<ref name="malcolm1">{{cite news|author = Malcolm D|publisher = guardian.co.uk | url=http://www.guardian.co.uk/film/1999/jan/14/derekmalcolmscenturyoffilm.derekmalcolm | title=Satyajit Ray: The Music Room | accessdate=2006-06-19 | location=London | date=1999-03-19}}</ref>。


サタジットの国際的なキャリアは、次作で『大地のうた』の続編にあたる『{{仮リンク|大河のうた|en|Aparajito}}』(1956年)の成功を受けて本格的に始まった{{Sfn|Robinson|2003|pp=91-106}}。『大河のうた』はオプーの青年期を描いた作品で{{Sfn|杉本|2002|pp=126-127}}、[[1957年]]の[[ヴェネツィア国際映画祭]]で最高賞の[[金獅子賞]]を受賞した<ref name="ヴェネツィア">{{cite web|url=http://www.labiennale.org/en/cinema/history/awards1.html|title=The awards of the Venice Film Festival|accessdate=4 June 2015|publisher=la Biennale di Venezia|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141016035043/http://www.labiennale.org/en/cinema/history/awards1.html|archivedate=16 October 2014}}</ref>。{{仮リンク|ムリナル・セン|en|Mrinal Sen}}や[[リッティク・ゴトク]]などのインドの映画人は、この作品に前作を上回る高い評価を与えた{{Sfn|Robinson|2003|pp=91-106}}。しかし、『大河のうた』を撮り終えたサタジットは、それとはまったく異なるスタイルや雰囲気を持つ作品を撮りたいと考え、[[1958年]]に風刺喜劇の『{{仮リンク|哲学者の石 (映画)|label=哲学者の石|en|Parash Pathar}}』と、[[タラションコル・ボンドパッダエ]]原作で{{仮リンク|徴税請負地主|en|Parash Pathar}}の退廃を描いた『{{仮リンク|音楽ホール (映画)|label=音楽ホール|en|Jalsaghar}}』を撮影し、『音楽ホール』はサタジットの最も重要な作品のひとつと見なされている{{Sfn|レイ|1993|pp=86-89}}<ref name="malcolm1">{{cite news|author=Malcolm D|publisher=guardian.co.uk |url=http://www.guardian.co.uk/film/1999/jan/14/derekmalcolmscenturyoffilm.derekmalcolm |title=Satyajit Ray: The Music Room |accessdate=2006-06-19 |location=London |date=1999-03-19}}</ref>。
『大河のうた』制作中、サタジットはこれらを三部作にする構想を持っていなかった。しかし、[[ヴェネツィア]]で質問を受けた際に思い立った<ref>{{Harvnb|Wood|1972|p=61}}</ref>。そして1959年にシリーズを締めくくる『{{仮リンク|大樹のうた|en|The World of Apu}}』を完成させた。評論家の{{仮リンク|ロビン・ウッド|en|Robin Wood (critic)}}や{{仮リンク|アバルナ・セーン|en|Aparna Sen}}は三部作の最高傑作と評した。サタジットは本作で、お気に入りの俳優{{仮リンク|ショウミットロ・チャテルジー|en|Soumitra Chatterjee}}と{{仮リンク|シャルミラ・タゴール|en|Sharmila Tagore}}を起用した。作品は貧しいオプーがコルカタで生きるところから始まり、やがて不思議な縁でオプルナと結婚する。二人の生活描写は「映画において、結婚生活を肯定的に描いた古典のひとつ」と言われる<ref name="harvnb">{{Harvnb|Wood|1972}}</ref>が、彼らには悲劇が待ち受けていた。本作はベンガル人評論家から批判されたが、それに対しサタジットは映画の弁護を記した。彼は評論家の言うことにほとんど反応しなかったが、本作と後に制作したお気に入りの『チャルラータ』に対する批判には反論した<ref>{{Harvnb|Ray|1993|p=13}}</ref>。


[[1959年]]、サタジットはオプーを主人公にした三部作({{仮リンク|オプー三部作|en|The Apu Trilogy}})の最終作となる『{{仮リンク|大樹のうた|en|The World of Apu}}』を撮影した。この作品は成人したオプーが、結婚、子供の誕生、そして妻の死を経験する姿を描いている{{Sfn|杉本|2002|pp=126-127}}。元々サタジットは三部作にすることを計画していなかったが、『大河のうた』がヴェネツィア国際映画祭で上映された時に、数人のジャーナリストから三部作のアイデアについて質問されたことで思い立った<ref name="自作を語る"/>{{Sfn|Wood|1972|p=61}}。この作品はインドで『大地のうた』をしのぐほどの興行的成功を収め<ref name="自作を語る"/>、映画批評家の{{仮リンク|ロビン・ウッド|en|Robin Wood (critic)}}や{{仮リンク|アバルナ・セーン|en|Aparna Sen}}は三部作の最高傑作と評した。しかし、ベンガル人批評家からは厳しい批判を受け、サタジットは映画の弁護を記した。サタジットは批評家の言うことにほとんど反応しなかったが、この作品と後に撮影した『チャルラータ』に対する批判には反論した{{Sfn|レイ|1993|p=22}}。サタジットはオプー三部作で高い成功を収めたが、それは何年経っても自身の私生活に影響を与えることはなく、妻や子供や母親、そして親類たちと借家住まいを続けた{{Sfn|Robinson|2003|p=5}}。
サタジットの映画は成功作となったが、これは何年経っても彼の私生活には影響を与えなかった。妻と子供、母親とおじ、そして親類たちと借家住まいを続けた<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=5}}</ref>。


=== 『女神』から『チャルラータ』まで(1959-1964年)===
=== 『女神』から『チャルラータ』まで ===
[[1960年]]、サタジットは[[イギリス領インド帝国]]時代の[[ヒンドゥー教]]社会における宗教的[[迷信]]を題材にした『{{仮リンク|女神 (1960年の映画)|label=女神|en|Devi (1960 film)}}』を発表した。その粗筋は{{仮リンク|シャルミラ・タゴール|en|Sharmila Tagore}}演じる若妻が、義父によって[[女神]][[カーリー]]に祭り上げられてしまうというものである<ref name="Rosenbaum">{{Cite web|last=Rosenbaum|first=Jonathan|date=1 January 2000|title=Devi|url=http://onfilm.chicagoreader.com/movies/capsules/2659_DEVI.html|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20071031053329/http://onfilm.chicagoreader.com/movies/capsules/2659_DEVI.html|archivedate=31 October 2007|accessdate=11 November 2020|website=Chicago Reader}}</ref>。サタジットは[[中央映画認証委員会]]による差し止めや再編集の指示を恐れたが、無事上映された。しかし、ヒンドゥー教側からは攻撃され、そのために国外に輸出することを禁じられた。その後、作品を見たインド首相の[[ジャワハルラール・ネルー]]の計らいで禁が解かれ、[[第15回カンヌ国際映画祭]]に出品された<ref name="自作を語る"/><ref name="Rosenbaum"/>。翌[[1961年]]にはネルーの依頼で、タゴールの生誕100年を記念したドキュメンタリー映画『{{仮リンク|詩聖タゴール|en|Rabindranath Tagore (film)}}』を撮影した。しかし、タゴールを撮影した映像は限られていたため、サタジットは静止画から映画を作る手法を取らざるをえず、普通の長編映画3本分と同じぐらいの労力がかかったという<ref name="自作を語る"/>{{Sfn|Robinson|2003|p=277}}。また、同年にサタジットは敬意を込めてタゴールに捧げるために、タゴールの短編小説3本を原作にした[[アンソロジー映画]]『{{仮リンク|三人の娘|en|Teen Kanya}}』を撮影した<ref name="自作を語る"/>{{Sfn|丹羽|2018|p=240}}。
1959年から1964年にかけて、サタジット・レイは『{{仮リンク|女神 (サタジット・レイの映画)|label=女神|en|Devi (1960 film)}}』のような[[イギリス領インド帝国]]時代を題材にした作品、ドキュメンタリー『{{仮リンク|詩聖タゴール|en|Rabindranath Tagore (film)}}』、喜劇映画『聖者』、オリジナル脚本で撮影した初の映画『{{仮リンク|カンチェンジュンガ (映画)|label=カンチェンジュンガ|en|Kanchenjungha}}』などを製作した。また、一連の作品において、インド女性の最も深い描写がその中にあるという評論を受けた<ref name="kael1">{{cite web|author = Palopoli S|publisher = metroactive.com | url=http://www.metroactive.com/papers/cruz/10.08.03/apu-0341.html | title=Ghost 'World' |accessdate=2006-06-19}}</ref>。


同年、サタジットは詩人の{{仮リンク|スバーシ・ムコーパデャイ|en|Subhas Mukhopadhyay (poet)}}らと、かつて祖父が出版し、それを引き継いだ父の死によって途絶えていた子供向け雑誌『ションデシュ』を再刊行した<ref name=":1"/>。このためにサタジットは何年もかけて資金を蓄えていた{{Sfn|Seton|1971|p=189}}。サタジットはその雑誌のためにイラストを描き、小説や詩を書き始めたが、やがて執筆業はサタジットにとって主な収入源となった<ref name="sensesofcinema">{{Cite web|last=Goritsas|first=Helen|date=May 2002|title=Ray, Satyajit|url=https://www.sensesofcinema.com/2002/great-directors/ray/|accessdate=11 November 2020|website=Senses of Cinema|language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web|last=Robinson|first=Andrew|date=20 May 2020|title=Satyajit Ray: a moral attitude |url=https://www2.bfi.org.uk/news-opinion/sight-sound-magazine/features/satyajit-ray-moral-attitude|accessdate=9 November 2020|website=Sight & Sound |work=British Film Institute|language=en}}</ref>。一方の映画監督業でもシナリオの執筆に変化があった。それまでのすべての作品は原作ものだったが、[[1962年]]公開の『{{仮リンク|カンチェンジュンガ (映画)|label=カンチェンジュンガ|en|Kanchenjungha}}』で初めてオリジナル脚本を使用した。この作品は西ベンガルの丘の町[[ダージリン]]で午後を過ごす上流階級の家族を描いた作品で、サタジットにとって初の[[カラー映画]]にもなった<ref name="自作を語る"/>。
『大樹のうた』に続いて制作された作品『女神』は、[[ヒンドゥー教]]社会にはびこる[[迷信]]を考察した映画である。若妻Doyamoyee(シャルミラ・タゴール)が、義父によって[[女神]][[カーリー]]に祭り上げられてしまう筋に、サタジットは検閲局による差し止めや再編集の指示を恐れたが無事上映された。1961年には首相[[ジャワハルラール・ネルー]]から強く要請され、詩人ラヴィンドナート・タゴール生誕100年を記念した『詩聖タゴール』を制作したが、サタジット自身も影響を受けた詩人への捧げ物として本作を仕上げたと思われる。しかし、タゴールを撮影した映像は限られていたため、サタジットは静止画から映画を作る手法を取らざるをえず、彼が言うには普通の映画撮影3本分相当の労力を強いられたという<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=277}}</ref>。


その次にサタジットは『{{仮リンク|遠征 (1962年の映画)|label=遠征|en|Abhijan}}』(1962年)を撮影し、そのあとにカルカッタの中流家庭の夫婦関係を題材にした『{{仮リンク|ビッグ・シティ|en|Mahanagar}}』(1963年)と『[[チャルラータ]]』(1964年)を撮影した{{Sfn|杉本|2002|p=130}}。『ビッグ・シティ』は夫の収入を助けるために仕事を始める女性がさまざまなトラブルに悩む姿を描き<ref name="自作を語る"/>、『チャルラータ』はタゴールの短編小説『{{仮リンク|壊れた巣|en|Nastanirh}}』を原作に、19世紀ベンガルの孤独な妻チャルの義弟アマルへの恋心を描いた<ref>{{Cite news|last=Bradshaw|first=Peter|date=21 August 2014|title=Charulata review – a vitamin boost for the mind and heart|language=en-GB|work=The Guardian|url=https://www.theguardian.com/film/2014/aug/21/charulata-review|accessdate=11 November 2020|issn=0261-3077}}</ref>。この2本はサタジットの中期の代表作とされており{{Sfn|杉本|2002|p=130}}、とくに『チャルラータ』は多くの批評家からサタジットの最も優れた作品と見なされ、サタジット自身もお気に入りの映画に挙げている{{Sfn|Robinson|2003|p=157}}。また、サタジットはこの2本で、[[ベルリン国際映画祭]]の[[銀熊賞 (監督賞)|銀熊賞(監督賞)]]を2年連続で受賞した<ref name="berlinale1">{{cite web|url=http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1964/03_preistr_ger_1964/03_Preistraeger_1964.html|title=Prizes & Honours 1964|accessdate=7 June 2014|publisher=Internationale Filmfestspiele Berlin|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150319032841/http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1964/03_preistr_ger_1964/03_Preistraeger_1964.html|archivedate=19 March 2015}}</ref><ref name="berlinale2">{{cite web|url=http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1965/03_preistr_ger_1965/03_Preistraeger_1965.html|title=Prizes & Honours 1965|accessdate=7 June 2014|publisher=Internationale Filmfestspiele Berlin|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150319033406/http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1965/03_preistr_ger_1965/03_Preistraeger_1965.html|archivedate=19 March 2015}}</ref>。
同年、詩人の{{仮リンク|スバーシ・ムコーパデャイ|en|Subhas Mukhopadhyay (poet)}}らと、かつて祖父が出版していた子供向け雑誌「{{仮リンク|サンデシュ|en|Sandesh (magazine)}}」の再刊行を行った。このためにサタジットは何年もかけて資金を蓄えていた<ref>{{Harvnb|Seton|1971|p=189}}</ref>。サンデシュ (Sandesh) とはベンガル語の「ニュース」とよく知られた甘いお菓子の名前の両方の意味を持ち、教育的な部分と面白さの両立を特徴とする方針を立てた。サタジットはイラストと随筆また小説を執筆した。後年、著述業は彼にとって主な収入源となった。


=== 新たな取り組み ===
1962年、サタジットは『カンチェンジュンガ』を制作した。これは彼の手による初のオリジナル脚本が使われ、また手がけた初のカラー作品でもあった。映画は、裕福な一家が一幅の絵のような西ベンガルの丘の町ダージリングで過ごす午後の様子を映す。一家は、一番若い娘をロンドンで学んだ高給取りのエンジニアに嫁がせようとしている。当初サタジットは場面を大邸宅の中にしようと考えたが、後になって高名な丘の町に決めた。緊張した場面を表現するために光がつくる陰影や霧が多用された。彼は照明がどのような状態でも撮影に適応できる脚本を書くことに留意したが、同時にダージリングで宣伝用撮影を行った隊は晴天しか想定していなかったために撮影に失敗した<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=142}}</ref>。60年代にサタジットは[[日本]]を訪問し、尊敬する[[黒澤明]]と会う機会を持った。自国では、彼は消耗しがちな都市生活からしばしば離れ、ダージリンや[[プリー]]のような場所で脚本を仕上げる事もあった。
1960年代後半から1980年代前半まで、サタジットは[[ファンタジー]]や[[サイエンス・フィクション|SF]]、探偵ものから[[歴史映画]]まで、さまざまなジャンルに取り組んだ。また、この時期は少なからぬ形式上の実験も行い、これまでのサタジットの作品に欠如されていたと指摘された、インド人の生活における現代的な問題を探求した。その最初の主要な映画は、{{仮リンク|ウッタム・クマール|en|Uttam Kumar}}とシャルミラ・タゴールが主演した『{{仮リンク|英雄 (1966年の映画)|label=英雄|en|Nayak (1966 film)}}』(1966年)である。この作品はある映画スターが列車の旅で、ウマの合う若き女性ジャーナリストと出くわした24時間を描き、売れっ子と思われる{{仮リンク|二枚目俳優|en|matinée idol}}が抱える内面の葛藤を探求した{{Sfn|Dasgupta|1996|p=91}}。この作品を発表した年、サタジットは[[日本]]を訪れ、尊敬する[[黒澤明]]と対面した<ref name="川喜多">[[川喜多かしこ]]「偉大なシネアスト」({{Harvnb|世界の映画作家|1975|pp=49-56}})</ref>。


[[1967年]]、サタジットは『ションデシュ』に書いた短編小説『''Bankubabur Bandhu'' (''Banku Babu's Friend'')』を下敷きに『{{仮リンク|エイリアン (未制作の映画)|label=エイリアン|en|The Alien (unproduced film)}}』という映画脚本を執筆した。この作品はアメリカとインドの共同製作で企画され、[[コロンビア ピクチャーズ|コロンビア映画]]が製作会社となり、[[ピーター・セラーズ]]と[[マーロン・ブランド]]を主演に起用することになった。ところが、脚本の著作権と権利金の受け取りは[[マイケル・ウィルソン]]に帰属されていることが判明した。ウィルソンは当初、共通の知り合いである[[アーサー・C・クラーク]]を通じてサタジットに近づき、ハリウッドにおける代理人となり、「Mike Wilson & Satyajit Ray」の名で著作権登録をしていたが、ウィルソンが脚本に関与したのはただ一単語に過ぎなかった<ref name=UCSCcurrents>{{cite news|last=Newman |first=John|url=http://www.ucsc.edu/currents/01-02/09-17/ray.html|title=Satyajit Ray Collection receives Packard grant and lecture endowment|publisher=UC Santa Cruz Currents online|date=2001-09-17|accessdate=2006-04-29}}</ref><ref name=unmaderay>{{cite web|url=http://www.satyajitrayworld.com/raysfilmography/unmaderay.aspx|title=Ordeals of the Alien|last=Ray|first=Satyajit|work=The Unmade Ray|publisher=Satyajit Ray Society|accessdate=2008-04-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080427215538/http://www.satyajitrayworld.com/raysfilmography/unmaderay.aspx <!--Added by H3llBot-->|archivedate=2008-04-27}}</ref>。後にサタジットは、この脚本執筆で一銭も受け取らなかったと明かした<ref name=unmaderay/>。さらにマーロン・ブランドが企画を降り、製作側は代わりに[[ジェームズ・コバーン]]を立てようとしたが、その頃にはサタジットは企画を放棄し、幻滅してカルカッタに戻った<ref name=UCSCcurrents/><ref name=unmaderay/>。コロンビア映画は1970年代から80年代に企画を復活させようとサタジットを説得したが、実現はしなかった。[[1982年]]に[[スティーヴン・スピルバーグ]]監督の『[[E.T.]]』が公開された時、サタジットはそれが『エイリアン』の脚本の盗用であると主張し、「『エイリアン』の脚本の写しなしに、アメリカで『E.T.』を作ることはできなかっただろう」と述べたが、スピルバーグはこれを否定している<ref name=UCSCcurrents/>。『エイリアン』以外に、サタジットが構想しながら実現しなかった企画には、古代インド[[叙事詩]]『[[マハーバーラタ]]』や、[[E・M・フォースター]]の小説『[[インドへの道]]』がある<ref>{{cite web|title=Book review: ''Satyajit Ray'' by Surabhi Banerjee|author=C. J. Wallia|year=1996|publisher=''India Star''|url=http://www.indiastar.com/satyajitray.html|accessdate=2009-05-31}}</ref>。
1964年の『{{仮リンク|チャルラータ|en|Charulata}}』は、この頃の傑作という呼び声が高く、評論家たちからもサタジット最高の映画作品と評された<ref name="robinson">{{Harvnb|Robinson|2003|p=157}}</ref>。ラヴィンドナート・タゴールの短編『{{仮リンク|壊れた巣|en|Nastanirh}}』を基に、19世紀ベンガルの孤独な妻チャルの義弟アマルへの沸きあがる想いを映したこの映画は、サタジットにとってほんの少し欠点を含んだもので、同じ手法を続けるかどうかを考えさせるただひとつの機会となったという<ref name="slant">{{cite web|author = Antani J|publisher = Slant magazine | url=http://www.slantmagazine.com/film/film_review.asp?ID=1080 | title=Charulata| accessdate=2006-06-19}}</ref>。チャルラータを演じた{{仮リンク|マドビ・ムカージ|en|Madhabi Mukherjee}}や、スブラタ・ミットラとボンシ・チャンドログプタの演技も高く評価された。この頃には他に、『{{仮リンク|大都会 (映画)|label=大都会|en|Mahanagar}}』、『三人の娘』、『遠征』、『臆病者と聖者』が制作された。


[[1969年]]、サタジットは祖父が書いた童話を基にした[[ミュージカル]]・ファンタジー映画『{{仮リンク|グビとバガの冒険|en|Goopy Gyne Bagha Byne}}』を発表した<ref name="グビ">{{Cite web|last=Banerjee|first=Rabi|date=24 June 2018|title=Reimagining Goopy Gyne Bagha Byne, a Satyajit Ray cult classic|url=https://www.theweek.in/leisure/society/2018/06/24/reimagining-goopy-gyne-bagha-byne-satyajit-ray-cult-classic.html|accessdate=11 November 2020|website=The Week|language=en}}</ref>。その内容は歌手のグビと太鼓を叩くバガの2人が、幽霊の王から授かった3つの品物を手に、隣り合う2つの王国で起こりそうな戦争を食い止めるために旅をするというものである。この作品はサタジットの最も製作費が高い作品の1つとなり、資金調達に困難をきたした。それでも自身の最も商業的に成功した作品にもなり、ベンガル語映画で最も人気のある映画の1本に位置付けられている<ref name="グビ"/>{{Sfn|Seton|1971|pp=291-297}}。続いて、詩人で作家の{{仮リンク|シュニル・ゴンゴパッダエ|en|Sunil Gangopadhyay}}の小説の映画化『{{仮リンク|森の中の昼と夜|en|Aranyer Din Ratri}}』(1969年)を撮影した{{Sfn|Wood|1972|p=13}}。この作品は日々の生活から離れようと休暇を過ごしに森へやって来た都会の青年4人のうち3人が、それぞれ女性と関わりを持つようになるという筋で、インドの中産階級を深く理解できる題材となっている<ref name=":3">{{Cite book|last=Ray, Satyajit, 1921-1992.|url=https://www.worldcat.org/oclc/70176953|title=Satyajit Ray : interviews|date=2007|publisher=University Press of Mississippi|others=Cardullo, Bert.|isbn=978-1-57806-936-1|edition=1st|location=Jackson|pages=53, 180|oclc=70176953}}</ref>。
=== 新たな取り組み(1965-1982年)===
『チャルラータ』以後、サタジットは様々な領域に踏み出し始め、[[ファンタジー]]から[[サイエンス・フィクション|SF]]、[[推理小説]]映画、[[歴史映画]]などの制作にも進出した。またこの時期、少なからぬ形式上の実験も行った。インド人の生活における現代的な問題を映画の中からは気づく事が出来ないという点に応え、彼はそれら問題を取り上げて表現した。この時期の最初の映画は『{{仮リンク|ナヤック|en|Nayak (1966 film)}}(英雄)』である。ある映画スターが列車の旅で、ウマの合う若き女性ジャーナリストと出くわした24時間を描く物語であり、{{仮リンク|ウッタム・クマル|en|Uttam Kumar}}とシャルミラ・タゴールが主演した。映画では、売れっ子と思われる{{仮リンク|二枚目俳優|en|matinée idol}}が抱える内面の葛藤を描き出す。本作は[[ベルリン国際映画祭]]で国際批評家連盟賞を受賞した<ref name="dasgupta">{{Harvnb|Dasgupta|1996|p=91}}</ref>。


『森の中の昼と夜』の発表後、サタジットは現代ベンガル人の生活を題材とした「{{仮リンク|カルカッタ三部作|en|Calcutta trilogy}}」と呼ばれる『{{仮リンク|対抗者|en|Pratidwandi}}』(1970年)、『{{仮リンク|株式会社 ザ・カンパニー|en|Seemabaddha}}』(1971年)『[[ミドルマン]]』(1975年)を撮影した{{Sfn|杉本|2002|p=130}}{{Sfn|Robinson|2003|pp=200-220}}。この3本はそれぞれ別々に構想されたが、一貫したテーマでつながりを持つ{{Sfn|Robinson|2003|pp=200-220}}。三部作は抑圧に焦点を合わせており、男性の主人公は禁じられたものに手を付ける<ref>{{Cite journal|last=Ganguly|first=Suranjan|date=1 January 2020|title=Encounters with the Forbidden: Satyajit Ray's Pratidwandi and Jana Aranya|url=http://hdl.handle.net/2027/spo.13761232.0044.103|journal=Film Criticism|volume=44|issue=1|doi=10.3998/fc.13761232.0044.103|hdl=2027/spo.13761232.0044.103|issn=2471-4364|doi-access=free}}</ref>。『対抗者』では卒業したての理想主義の青年の幻滅、『株式会社 ザ・カンパニー』では利益のために自らの道徳を放棄するエリートビジネスマン、『ミドルマン』では生きるために退廃した文化に漬かってしまう若い男を描いた。また、『対抗者』では大胆な[[フラッシュバック (物語)|フラッシュバック]]の使用など、新しい物語の表現手法を試みた{{Sfn|Robinson|2003|pp=200-220}}。サタジットは三部作を手がけている間、[[シッキム王国]]のドキュメンタリー映画『{{仮リンク|シッキム (映画)|label=シッキム|en|Sikkim (film)}}』(1971年){{Refnest|group="注"|『シッキム』はシッキムの王室によって製作され、[[2010年]]までインド政府によって発禁処分を受けていたが、サタジットの息子サンディープ・レイによると、その映像は土地の動植物と美しい景観のみを撮影したもので、論争の的になるような内容は含まれていないという<ref>{{cite web|date=2012-1-20|url=http://mungpoonews.blogspot.in/2012/01/sikkim-film-by-satyajit-ray-sikkim-not.html|title= Sikkim: film by Satyajit Ray | Sikkim not controversial: Gautam|publisher=Mungpoo New|accessdate=2021-8-23}}</ref>。}}や、ビブティブション・ボンドパッダエの小説を映画化した『[[遠い雷鳴]]』(1973年)も撮影した。『遠い雷鳴』はベンガル地方の村を舞台とし、[[バラモン]]の夫婦を通して[[ビルマの戦い#日本軍の侵攻(1941-1942年)|日本軍のビルマ侵攻]]というはるか遠くの地の戦争がおよぼす悲劇を描き、[[第23回ベルリン国際映画祭]]で[[金熊賞]]を受賞した<ref>[[三木宮彦]]「その後のライ」({{Harvnb|世界の映画作家|1975|pp=232-237}})</ref>。
1967年サタジットは、1962年に雑誌「サンデシュ」に掲載した短編小説『Bankubabur Bandhu (Banku Babu's Friend)』を下敷きに『{{仮リンク|エイリアン (サタジット・レイ)|label=エイリアン|en|The Alien (film)}}(英雄)』と呼ばれる映画脚本を書いた。インドとアメリカの共同制作が企画されたこの映画には、[[コロンビア ピクチャーズ]]が制作社となり、[[ピーター・セラーズ]]と[[マーロン・ブランド]]が主役に配される事になった。ところが気づくと、脚本の著作権と権料の受け取りはマイク・ウィルソンに帰属されていた。彼は当初、共通の知り合いである[[アーサー・C・クラーク]]を通じてサタジットに近づき、ハリウッドにおける代理人となった。ウィルソンは著作権登録を「Mike Wilson & Satyajit Ray」の名で登録していたが、彼が脚本に関与したのはただ一単語に過ぎなかった。後にサタジットは、この脚本執筆で一銭も受け取らなかったと明かした<ref name=unmaderay>{{cite web|url=http://www.satyajitrayworld.com/raysfilmography/unmaderay.aspx|title=Ordeals of the Alien|last=Ray|first=Satyajit|work=The Unmade Ray|publisher=Satyajit Ray Society|accessdate=2008-04-21|archiveurl=https://web.archive.org/web/20080427215538/http://www.satyajitrayworld.com/raysfilmography/unmaderay.aspx <!--Added by H3llBot-->|archivedate=2008-04-27}}</ref>。企画はマーロン・ブランドが降板し、代わりに[[ジェームズ・コバーン]]が立てられたが、サタジットは幻滅してコルカタに戻った<ref name=unmaderay/><ref name=IMDbRay>{{cite web|author= Neumann P|publisher=Internet Movie Database Inc|url=http://www.imdb.com/name/nm0006249/bio|title=Biography for Satyajit Ray|accessdate=2006-04-29}}</ref>。コロンビア映画は1970年代や1980年代に企画を復活させようとしたが実現しなかった。1980年に、映画雑誌[[:en:Sight & Sound|Sight & Sound]]上でサタジットはアメリカでの共同制作が潰えたことについて話している。1982年に『[[E.T.]]』が公開されると、クラークとサタジットは『エイリアン』初期の脚本との類似性を見つけた。事の顛末はサタジットの伝記を書いた{{仮リンク|W・アンドリュー・ロビンソン|en|W. Andrew Robinson}}の『The Inner Eye』(1989年)に詳しい。サタジットは彼が書いた脚本の写し無しにアメリカで[[スティーヴン・スピルバーグ]]が映画を制作できたとは信じていないが、スピルバーグはこの非難を否定している<ref name=UCSCcurrents>{{cite news|author=Newman J|url=http://www.ucsc.edu/currents/01-02/09-17/ray.html|title=Satyajit Ray Collection receives Packard grant and lecture endowment|publisher=UC Santa Cruz Currents online|date=2001-09-17|accessdate=2006-04-29}}</ref>。『エイリアン』以外に、サタジットが構想しながら陽の目を見なかった企画には、古代インド[[叙事詩]]『[[マハーバーラタ]]』や、[[E・M・フォースター]]1924年の小説『[[インドへの道]]』がある<ref>{{cite web|title= Book review: ''Satyajit Ray'' by Surabhi Banerjee|author=C. J. Wallia|year=1996|publisher=''India Star''|url=http://www.indiastar.com/satyajitray.html|accessdate=2009-05-31}}</ref>。


この頃、サタジットは[[バングラデシュ独立戦争]]を題材にした映画を作ることを構想していたが、結果的にそのアイデアを放棄した。後にサタジットは映画監督として戦争の受難者を描くことに興味を持てても、政治には関心が持てないと発言した{{Sfn|Robinson|2003|p=206}}。[[1977年]]、サタジットは[[ムンシー・プレームチャンド]]の小説を映画化した『{{仮リンク|チェスをする人|en|Shatranj Ke Khiladi}}』を撮影した。[[インド大反乱]]前の[[1856年]]の[[アワド太守|アワド藩王国]]を舞台としたこの作品は、イギリスによるインド植民地支配に関わる問題を取り上げており、サタジットの作品として初めてベンガル語以外の言語([[ヒンディー語]])を使用した長編映画となった。キャストには{{仮リンク|サンジーヴ・クマール|en|Sanjeev Kumar (actor)}}、[[サイード・ジャフリー]]、{{仮リンク|アムジャド・カーン|en|Amjad Khan (actor)}}、[[シャバーナー・アーズミー]]、{{仮リンク|ヴィクター・バナルジ|en|Victor Bannerjee}}、[[リチャード・アッテンボロー]]などの人気俳優が名を連ね、製作費はサタジットの作品で最高額の約200万ルピーとなったが、それでもこの金額は[[ボリウッド|ヒンディー語映画]]の平均予算(400万~1000万ルピー)を下回っている<ref>{{Cite web|last=Antani|first=Jay|date=7 April 2006|title=DVD Review: The Chess Players|url=https://www.slantmagazine.com/dvd/the-chess-players/|accessdate=9 November 2020|website=Slant Magazine|language=en-US}}</ref><ref>{{Cite web |url=https://satyajitray.org/shatranj-ke-khilari-the-chess-players/ |title=Shatranj Ke Khilari (The Chess Players) |website=satyajitray.org |accessdate=2021年8月23日}}</ref>。
1969年、サタジットは商業的に最も成功した映画作品を発表した。彼の祖父が書いた子供向け短編小説『{{仮リンク|グビとバガの冒険|en|Goopy Gyne Bagha Byne}}』を基にした[[ミュージカル]]兼[[ファンタジー]]映画である。歌手のグビと太鼓を叩くバガの二人が、幽霊の王から授かった3つの品物を手に、奇妙な冒険をする。そして、隣り合う2つの王国で起こりそうな戦争を食い止めるため奔走する。サタジットが手がけた高い制作費をかけた事業の中でも、この映画は財政的に困難を来たした。そのためカラーでの制作をあきらめたが、[[ボリウッド]]の俳優から主役を条件に届いたオファーは拒絶した<ref>{{Harvnb|Seton|1971|pp=291–297}}</ref>。

サタジットは、若き詩人かつ作家の{{仮リンク|シュニル・ゴンゴパッダエ|en|Sunil Gangopadhyay}}が書いた小説の映画化に取り組み、『チャルラータ』を超える複雑さを持つと賞賛される音楽を主題とした作品<ref name="Wood 1972 13">{{Harvnb|Wood|1972|p=13}}</ref>『{{仮リンク|森の中の昼と夜|en|Aranyer Din Ratri}}』を制作した。日々の生活から離れようと休暇を過ごしに森へやって来た都会の青年4人のうち3人が、それぞれ女性との関わりを持つようになる筋で、インドの中産階級を深く理解できる題材ともなっている。ロビン・ウッドは「(映画の)ひとつのシーケンスだけも...小論文の題材になるだろう」と述べた<ref name="Wood 1972 13"/>。

次にサタジットは、現代ベンガル人の生活を題材とした。これは{{仮リンク|コルカタ三部作|en|Calcutta trilogy}}と呼ばれる『{{仮リンク|対抗者|en|Pratidwandi}}』(1970年)、『{{仮リンク|株式会社 ザ・カンパニー|en|Seemabaddha}}』(1971年)『[[ミドルマン]]』(1975年)である。この3作品はそれぞれ独立に構想されたが、一貫したテーマでつながりを持つ<ref name=caltri>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=200–220}}</ref>。『対抗者』は、卒業したての理想主義の青年を描き、映画の終わりで幻滅の感情を持つことで、彼がまだ腐りきっていない事を示した。『ミドルマン』は、生きるために退廃した文化に漬かってしまう若い男を描いた。そして『株式会社』では、利益のために自らの道徳を放棄するエリートビジネスマンを描いた。『対抗者』でサタジットは新たに、詳細な説明を大胆に省略する手法を用いた<ref name=caltri/>。1970年代には、好評を博していた探偵シリーズから、子供を主にターゲットとした『{{仮リンク|黄金の砦|en|Sonar Kella}}』と『{{仮リンク|象神万歳|en|Joy Baba Felunath}}』を映画化した<ref>{{Harvnb|Rushdie|1992}}</ref>。また1973年には、[[ビブティブション・ボンドパッダエ]]の小説を映画化した『[[遠い雷鳴]]』を制作した。この作品では、ベンガル地方の片田舎に住む[[バラモン]]の一夫婦を通し、日本軍のビルマ侵攻というはるか遠くの戦争がおよぼす悲劇を描いた。『遠い雷鳴』は[[第23回ベルリン国際映画祭]]では[[金熊賞]]を獲得した。

一時サタジットは[[バングラデシュ独立戦争]]を舞台とする映画を構想したが、結果的に彼はこれをやめた。後に彼は、映画制作者として受難者を描くことに情熱を感じても、政治には関心が持てないと言った<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=206}}</ref>。1977年、サタジットは『{{仮リンク|チェスをする人|en|Shatranj Ke Khiladi}}』を制作した。原作は[[ムンシー・プレームチャンド]]の小説で、[[インド大反乱]]前のウード{{enlink|Oudh}}州[[ラクナウ]]を舞台としている。イギリス人によるインド植民地支配に関わる問題を取り上げた本作は、ベンガル語以外で撮影されたサタジット初の作品であり、また最も費用がかけられた。本作には{{仮リンク|サンジーヴ・クマール|en|Sanjeev Kumar (actor)}}、[[サイード・ジャフリー]]、{{仮リンク|アムジャド・カーン|en|Amjad Khan}}、[[シャバーナー・アーズミー]]、{{仮リンク|ヴィクター・バナルジ|en|Victor Bannerjee}}、[[リチャード・アッテンボロー]]らが出演した。

1980年には『グビとバガの冒険』の続編にあたり、やや政治色を帯びた『{{仮リンク|ダイヤモンドの王国|en|Hirak Rajar Deshe}}』が上映された。邪悪なるダイヤモンド王国の王 Hirok Raj は、[[インディラ・ガンディー]]による{{仮リンク|インドの非常事態令 (1975-77)|en|Indian Emergency (1975 - 77)}}を暗示している<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=188–189}}</ref>。称賛された短編映画『{{仮リンク|ピクー|en|Pikoor Diary}}』と、一時間の[[ヒンディー語]]映画『{{仮リンク|遠い道|en|Sadgati}}』もこの頃の作品である。

=== シッキムのドキュメント ===
1971年、サタジットは王室が制作する[[シッキム州#シッキム王国|シッキム王国]]の[[ドキュメント]]映像を監督した。この映像は長くインド政府によって発禁処分を受けていたが、2010年に禁が解けてDVDは発売された。これは、土地の動植物と美しい景観のみを撮影したもので、論争の的になるような内容は含まれていない<ref> {{cite web|url= http://mungpoonews.blogspot.in/2012/01/sikkim-film-by-satyajit-ray-sikkim-not.html|title=
Sikkim: film by Satyajit Ray | Sikkim not controversial: Gautam|publisher=Mungpoo New|accessdate= November 18,2012}}</ref>。


=== 晩年 ===
=== 晩年 ===
[[ファイル:SatyajitRay.jpg|thumb|サタジットの肖像画。]]
1983年、『{{仮リンク|家と世界|en|Ghare Baire (film)}}』製作中にサタジットは心臓発作を起こした。これが原因となり、その後亡くなるまでの9年間、彼の制作活動は非常に制限されてしまった。『家と世界』は、健康状態を鑑みて初めてカメラを担当した息子の助けを得ながら1984年に完成した。本作は愛国心の危機を題材としたラヴィンドナート・タゴールの小説を基に、サタジットが長く映画化を考えていたもので、最初の脚本草稿は1940年代には着手されていた<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=66–67}}</ref>。病気のため細切れの印象を免れないが、映画は大きな称賛を浴びた。この中で、サタジットの映画としては初のキスシーンがあった。1987年には父シュクマルを題材としたドキュメンタリー『{{仮リンク|シュクマル・レイ (映画)|label=シュクマル・レイ|en|Sukumar Ray (film)}}』を制作した。
1980年代に入ると、『グビとバガの冒険』の続編で、やや政治色を帯びた『{{仮リンク|ダイヤモンドの王国|en|Hirak Rajar Deshe}}』(1980年)や{{Sfn|Robinson|2003|pp=188-189}}、称賛された短編映画『{{仮リンク|ピクー|en|Pikoor Diary}}』(1981年)、1時間の[[ヒンディー語]]映画『{{仮リンク|遠い道|en|Sadgati}}』(1981年)を発表した。しかし、[[1983年]]の『{{仮リンク|家と世界|en|Ghare Baire (film)}}』の製作中に[[心臓発作]]に見舞われ、これが原因でその後亡くなるまでの9年間の活動が著しく制限された<ref name="sensesofcinema"/>。『家と世界』は健康状態を鑑みて初めてカメラを担当した息子の助けを得ながら1984年に完成した。この作品は愛国心の危機を題材としたラヴィンドナート・タゴールの小説を基に、サタジットが長く映画化を考えていたもので、最初の脚本草稿は1940年代には着手されていた{{Sfn|Robinson|2003|pp=66-67}}。病気のため細切れの印象は免れなかったが、作品はいくつかの称賛を受けた<ref>{{Cite news |last=Canby |first=Vincent |date=21 June 1985 |title=Film: By Satyajit Ray |language=en-US |work=The New York Times |url=https://www.nytimes.com/1985/06/21/movies/film-by-satyajit-ray.html |accessdate=11 November 2020 |issn=0362-4331}}</ref>。[[1987年]]には父シュクマルを題材としたドキュメンタリー『{{仮リンク|シュクマル・レイ (映画)|label=シュクマル・レイ|en|Sukumar Ray (film)}}』を製作した{{Sfn|丹羽|2018|p=240}}。


サタジット晩年の3は、健康の回復と医療の支援が効をなして実現したが、いずれも室内撮影であり、そのために独特の効果を持っている。以前よりも対話シーンが多く、そのために過去の作品には及ばないという意見もある<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=339–364}}</ref>。『{{仮リンク|民衆の敵 (1990年の映画)|label=民衆の敵|en|Ganashatru}}』は著名な戯曲『[[民衆の敵 (戯曲)|民衆]]の映画化であり、この頃サタジットの健康状態は悪かったと考えられる<ref>{{Harvnb|Dasgupta|1996|p=134}}</ref>しかしその後回復を見せ、1990年には『{{仮リンク|枝わかれ|en|Shakha Proshakha}}』が制作され<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=353}}</ref>作は実直な人生を送る老人が、3人の息子たちの不正を知るところとなる筋ある。最後の場面で老人は唯一不正を働いていない心を病む4番目の息子に慰められる。そしてサタジット最後の作品となった『[[見知らぬ人]]』は、より軽いムードながら深いテーマを扱ったもので、長らく行方不明になっていた叔父がルカタのを訪ね、そのために周囲が疑念に囚われる様を映す。本作は、文明に対する遠大な質問を投げかけている<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=353–364}}</ref>1992年、サタジットは心合併症から来る健康状態の悪化を示し、彼は入院たが回復は叶わなかった。彼にアカデミー賞特別名誉賞が授与されたが、これを病床で受けたサタジットに残された時間数週間過ぎかった。1992年4月23日、サタジット・レイは70歳去った。
1990年代に手がけたサタジット晩年の3は、健康の回復と医療の支援が効をなして実現したが、いずれも室内撮影であり、以前よりも対話シーンが増えたが、そのために過去の作品には及ばないという意見もある{{Sfn|Robinson|2003|pp=339-364}}。『{{仮リンク|民衆の敵 (1990年の映画)|label=民衆の敵|en|Ganashatru}}』(1990年)は著名な[[民衆の敵 (戯曲)|同名戯曲]]の映画化であり、撮影時の健康状態は悪かったと考えられている{{Sfn|Dasgupta|1996|p=134}}。その後回復を見せ、『{{仮リンク|枝わかれ|en|Shakha Proshakha}}』(1990年)を撮影した。このは実直な人生を送る老人が、3人の息子たちの不正を知るという物語最後の場面で老人は唯一不正を働いていない心を病む4番目の息子に慰められる{{Sfn|Robinson|2003|pp=353-364}}。そしてサタジット最後の作品となった『[[見知らぬ人]]』(1991年)[[フランス]]と共同製作で、長らく行方不明になっていた叔父がルカタのを訪ね、そのために周囲が疑念に囚われる様を描いている{{Sfn|Robinson|2003|pp=353-364}}{{Sfn|杉本|2002|p=131}}。この作品はフランスで大ヒットしたが、サタジットはその出来満足せず、亡くるま次作『目覚め (''Jagaran'')』の製作構想してい{{Sfn|杉本|2002|p=131}}


サタジットはヘビースモーカーだが酒は飲まず、何よりも仕事を大切にし、1日12時間も働き、深夜2時に就寝した。また、[[骨董品]]や[[写本]]、珍しい蓄音機のレコード、絵画、珍しい本の収集を楽しんだ<ref>{{Cite web |last=T.S. |first=Satyan |date=8 June 2002 |title=A FILM-MAKER FILMED |url=https://frontline.thehindu.com/other/article30245124.ece |accessdate=10 November 2020 |website=Frontline |language=en}}</ref>。そんな私生活を送ったサタジットは、[[1992年]]1月に心臓病で健康状態が悪化し、カルカッタの病院に入院するも、そのまま回復に向かうことはなかった<ref name="University News">{{Cite web |last=Gibb |first=Ann |date=2002-2-21 |url=https://news.ucsc.edu/2002/02/69.html |title=Film retrospective of acclaimed director fulfills deathbed promise |website=University News |work=UC Santa Cruz |accessdate=2021年9月3日}}</ref>。亡くなる24日前の3月30日には、ビデオ映像を介して[[オードリー・ヘプバーン]]から[[アカデミー名誉賞]]を授与され、これを「映画監督のキャリアで最高の成果」と呼んで病床から受賞スピーチをした<ref name="thenationalnews">{{Cite web |author=Huma qureshi |date=2013-8-31 |url=https://www.thenationalnews.com/arts-culture/art/exhibition-reveals-another-side-to-satyajit-ray-genius-of-indian-cinema-1.299627 |title=Exhibition reveals another side to Satyajit Ray, genius of Indian cinema |website=The National |accessdate=2021年9月3日}}</ref><ref name="oscar">{{cite web|url=http://aaspeechesdb.oscars.org/link/064-24/|title=Acceptance Speeches: Satyajit Ray|accessdate=18 May 2014|publisher=[[映画芸術科学アカデミー]]|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141020193036/http://aaspeechesdb.oscars.org/link/064-24/|archivedate=20 October 2014}}</ref>。[[1992年]]4月23日、サタジットは71歳の誕生日を迎える9日前に亡くなった<ref>{{Cite news |date=24 April 1992 |title=Satyajit Ray dead |page=1 |work=The Indian Express |url=https://news.google.com/newspapers?nid=P9oYG7HA76QC&dat=19920424&printsec=frontpage&hl=en}}</ref>。通夜には4万人以上が訪れ、市内を進む葬列には50万人もの人々が加わったという{{Sfn|杉本|2002|p=131}}。
== 主な監督作品 ==
*[[大地のうた]] (1955)
*{{仮リンク|大河のうた|en|Aparajito}} (1956)
*{{仮リンク|音楽サロン (映画)|label=音楽サロン|en|Jalsaghar}}(1958)
*{{仮リンク|大樹のうた|en|The World of Apu}} (1958)
*{{仮リンク|女神 (1960年の映画)|label=女神|en|Devi (1960 film)}}(1960)
*{{仮リンク|詩聖タゴール|en|Rabindranath Tagore (film)}} (1961)
*{{仮リンク|カンチェンジュンガ (映画)|label=カンチェンジュンガ|en|Kanchenjungha}}(1962)
*{{仮リンク|大都会 (映画)|label=大都会|en|Mahanagar}} (1963)
*{{仮リンク|チャルラータ|en|Charulata}} (1964)
*{{仮リンク|ナヤック|en|Nayak (1966 film)}}(1966)
*{{仮リンク|株式会社 ザ・カンパニー|en|Seemabaddha}} (1972)
*[[遠い雷鳴]] (1973)
*[[ミドルマン]] (1975)
*{{仮リンク|チェスをする人|en|Shatranj Ke Khiladi (film)}} (1977)
*{{仮リンク|遠い道|en|Sadgati}} (1981)
*{{仮リンク|ピクー|en|Pikoor Diary}} (1981)
*{{仮リンク|家と世界|en|Ghare Baire (film)}} (1984)
*[[見知らぬ人]] (1991)


== 映画作 ==
== 映画のスタイル ==
サタジット・レイは自身のキャリアを通して、映画監督になるきっかけを作った[[ジャン・ルノワール]]に敬意を表し、その作品とスタイルから大きな影響を受けた<ref name="岩崎昶">[[岩崎昶]]「インドの映画詩人」({{Harvnb|世界の映画作家|1975|pp=23-38}})</ref><ref name="indiewire">{{Cite web|last=Roisin|first=Fariha|date=18 August 2014|title=Why the Best American Filmmakers Owe a Debt to Satyajit Ray|url=https://www.indiewire.com/2014/08/why-the-best-american-filmmakers-owe-a-debt-to-satyajit-ray-23072/|access-date=9 November 2020|website=IndieWire|language=en}}</ref>。また、[[イタリア]]の[[ネオレアリズモ]]の代表的監督である[[ヴィットリオ・デ・シーカ]]の影響も受けており、彼の代表作『自転車泥棒』からは低予算で映画を作る方法や、アマチュアの俳優を起用すること、そして現実的なテーマに目を向けることを学んだ<ref name="自作を語る"/><ref name=":4">{{Cite book|last=Cooper|first=Darius|url=https://www.worldcat.org/oclc/40948522|title=The cinema of Satyajit Ray : between tradition and modernity|date=2000|publisher=Cambridge University Press|isbn=0-521-62026-0|location=Cambridge, UK|pages=73|oclc=40948522}}</ref>{{Sfn|レイ|1993|p=162}}。さらに[[ジョン・フォード]]、[[ビリー・ワイルダー]]、[[エルンスト・ルビッチ]]などの{{仮リンク|古典的ハリウッド映画|en|Classical Hollywood cinema}}の監督から映画技術を学んだことを認め、自身が巨匠と見なした同時代の監督の[[黒澤明]]と[[イングマール・ベルイマン]]に深い敬意と称賛を示した<ref name=":4"/>。黒澤からは『[[羅生門 (1950年の映画)|羅生門]]』(1950年)の光の使い方に影響を受けたことを明らかにしている{{Sfn|レイ|1993|p=233}}。ほかにもサタジットは[[ロバート・フラハティ]]と{{仮リンク|マルク・ドンスコイ|ru|Донской, Марк Семёнович}}を自身の作品に最も影響を与えた監督に挙げており、また[[モンタージュ理論]]の提唱者[[セルゲイ・エイゼンシュテイン]]のスタイルに影響を受けたことも指摘されている<ref name="自作を語る"/>{{Sfn|レイ|1993|pp=74-75}}。
サタジット・レイは制作において脚本執筆が重要だと考えていた。当初彼はベンガル語で脚本を書くことにこだわったが、後に2作品の脚本を英語で書いている。翻訳者によってヒンディー語や[[ウルドゥー語]]に訳して使われたが、サタジットはこの作業も監督した。サタジットの詳細まで至る目配せは、ディレクターのボンシ・チャンドログプタも同調していた。重要な役割を果たすベンガル人でないチャンドログプタのために、サタジットはベンガル語の前に英語で脚本を書いた。スブラタ・ミットラの撮影技術は、サタジットの映画に賞賛が集まる大きな役割を果たした。多くの評論家は、彼が去ったため、後の映画は撮影の質に低下が見られると述べた<ref name="dasgupta"/>。ミットラを手放しで賞賛しつつも、サタジットは一本気な人物で『チャルラータ』以後はカメラ操作を奪ってしまったため、1966年以後ミットラは供に仕事をしなくなった。ミットラは「バウンズ光」という、照明光を布に当てて反射させ、セットなどを散乱した現実的な光で照らすテクニックを開発した。サタジットは、彼の[[ヌーヴェルヴァーグ]]派の[[ジャン=リュック・ゴダール]]や[[フランソワ・トリュフォー]]に対する負債を肩代わりし、新しい技術の導入や映画への革新を手助けした<ref name=abhijitsen>{{cite web|author = Sen A|publisher = Parabaas | url=http://www.parabaas.com/satyajit/articles/pAbhijit.html | title=Western Influences on Satyajit Ray | accessdate=2006-04-29}}</ref>。


サタジットの長編劇映画29本のほとんどは、既存の物語を映画化した文芸映画であり、オリジナル脚本による作品は6本しかない{{Sfn|丹羽|2018|p=223}}<ref name="Story & Script">{{Cite web |url=https://satyajitray.org/story-script/ |title=Satyajit Ray - Story & Script |website=satyajitray.org |accessdate=2021年8月25日}}</ref>。原作ものを脚色する時は、自分が原作で不満に思うところに手を加えたため、しばしば原作のストーリーと大きく異なるところがあり、そのために原作と比較され、批判にさらされることがあった{{Sfn|丹羽|2018|p=223}}{{Sfn|レイ|1993|pp=86-89}}<ref name="Story & Script"/>。脚本を書く時は、自身がよく知るキャラクターや環境を選ぶことが多く、オリジナル作品では『カンチェンジュンガ』や『英雄』のように、限られた時空間の中で密度の濃い物語を書くことが多かった{{Sfn|レイ|1993|pp=86-89}}<ref name="Story & Script"/>。サタジットの作品は[[リアリズム]]を基調とし、19世紀または20世紀の[[ベンガル人]]の生活と社会的問題を題材に扱い、主人公の{{仮リンク|社会的アイデンティティ|en|Social identity theory}}に深い関心を持っている<ref>{{Cite web |url=https://satyajitray.org/subjects/ |title=Subjects : Satyajit Ray's world |website=satyajitray.org |accessdate=2021年8月25日}}</ref><ref name="海外論">山本喜久男「ショトジット・ライ海外論」({{Harvnb|世界の映画作家|1975|pp=57-66}})</ref>。例えば、オプー三部作や『遠い雷鳴』では[[バラモン]]の清貧の生活、『チャルラータ』や『家と世界』では封建的大家族制や階級社会の中で自由に目覚める女性、『音楽ホール』『チェスをする人』などでは古い社会のあり方が崩れ、近代化へと変化する社会に取り残され、苦悩する上流階級の姿を描いている{{Sfn|杉本|2002|p=130}}<ref name="佐藤忠男">[[佐藤忠男]]「サタジット・レイの映画」({{Harvnb|レイ|1993|pp=282-289}})</ref>。
サタジットの作品は通常、{{仮リンク|ドゥラル・ドット|en|Dulal Datta}}が[[映像編集]]を担当した。しかし、実際の編集作業はドットよりも監督のサタジットが多くを担った。それは、経済的理由に加えサタジットの綿密な構想があり、『大地のうた』は別として、カメラ撮影そのものでカットが施されたためである。サタジットは当初、[[ラヴィ・シャンカル]]、{{仮リンク|ウスタッド・ヴィラヤット・カーン|en|Vilayat Khan}}、{{仮リンク|アリ・アクバル・カーン|en|Ali Akbar Khan}}ら[[インドの伝統音楽]]家らを起用したが、やがて彼らの音楽はその伝統に忠実なあまり彼の映画に馴染まないと気づいた。彼は西洋の[[クラシック音楽]]に深い造詣を持っており、都市周辺での場面ではこれらを用いた<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=315–318}}</ref>。 『三人の娘』からは、サタジットは作曲も手がけた。


撮影は、『大地のうた』以来コンビを組んだカメラマンの{{仮リンク|スブラタ・ミットラ|en|Subrata Mitra}}の貢献度が大きかった。ミットラは『大河のうた』の撮影で「{{仮リンク|バウンスライティング|en|Reflector (photography)# Bounce lighting}}」という、照明の光を天井や壁、または布に当て、その反射光でリアルな照明効果を生み出すテクニックを開発し、世界中の撮影技師に影響を与えた<ref>{{cite web|title=Subrata Mitra|url=http://www.cinematographers.nl/GreatDoPh/mitra.htm|url-status=live|archiveurl=https://web.archive.org/web/20090602164022/http://www.cinematographers.nl/GreatDoPh/mitra.htm|archivedate=2 June 2009|accessdate=22 May 2009|publisher=Internet Encyclopedia of Cinematographers}}</ref>。『チャルラータ』以降はサタジットが自分でカメラを回すようになり、『英雄』を最後にミットラとのコンビを解消したが、多くの批評家はミットラが去ったことで、その後のサタジットの作品は撮影の質が低下したと指摘している{{Sfn|Dasgupta|1996|p=91}}{{Sfn|レイ|1993|p=95}}。編集は通常、{{仮リンク|ドゥラル・ドット|en|Dulal Datta}}が担当したが、ほとんどの作品ではカメラ撮影そのものでカットを施し、そのうえカットになるのが分かりきっている部分を撮らないようにしたため、実際の編集作業はドットよりもサタジットが多くを担った{{Sfn|レイ|1993|p=96}}<ref>{{Cite web |url=https://satyajitray.org/editing/ |title=Satyajit Ray - Editing |website=satyajitray.org |accessdate=2021年8月30日}}</ref>。
サタジットは、有名な映画スターから『大河のうた』のように全く無名な役者まで、さまざまな俳優を起用した<ref>{{Harvnb|Ray|1994|p=100}}</ref>。{{仮リンク|ロビン・ウッド|en|Robin Wood (critic)}}ら評論家の中には、サタジットは子供を演出させたら右に出る者はいないと評し、その例として「オプー」や『大地のうた』のドルガ、『郵便局長』のラタン、『黄金の城砦』のムクルなどが挙げられた。サタジットは俳優の技量や経験に応じて指示の度合いを変え、例えば[[ウタパル・ダット]]のような人物にはほとんど指図をせず、逆に少年オプーを演じたシュビル・ボンドバッタエやアパルマ役のシャルミラー・タゴールなど俳優によっては「操り人形」のように扱った事もある<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=78}}</ref>。サタジットの映画に出演した俳優たちは、彼が変わらず信頼を寄せてくれることを賞賛したが、その一方で「すごい侮辱」を持って無能がごとく扱われた事についても述べている<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=307}}</ref>


[[映画音楽]]では、キャリア初期はオプー三部作で[[シタール]]奏者の[[ラヴィ・シャンカル]]を起用したのをはじめ、{{仮リンク|ウスタッド・ヴィラヤット・カーン|en|Vilayat Khan}}や{{仮リンク|アリ・アクバル・カーン|en|Ali Akbar Khan}}といった[[インドの伝統音楽]]の作曲家を起用した{{Sfn|丹羽|2018|pp=224-225}}。しかし、やがて彼らの音楽がその伝統に忠実なあまり自身の映画に馴染まないと気づき、スケジュールを合わせてもらうのが難しかったこともあり、『三人の娘』からはサタジット自身が映画音楽を作曲するようになった{{Sfn|丹羽|2018|pp=224-225}}{{Sfn|Robinson|2003|pp=315-318}}。サタジットは正式な音楽教育を受けていなかったが、インドの伝統音楽だけでなく西洋の[[クラシック音楽]]にも造詣が深く、[[ルートヴィヒ・ヴァン・ベートーヴェン|ベートーヴェン]]をお気に入りの作曲家とした<ref name=":5"/>{{Sfn|丹羽|2018|p=240}}。都会を舞台にした作品では西洋クラシック音楽を使用したが、『家と世界』などでは[[総譜|スコア]]に西洋音楽とインド伝統音楽を混ぜる実験を行っている{{Sfn|Robinson|2003|pp=315-318}}<ref>{{Cite web|title=Music of Satyajit Ray|url=https://satyajitray.org/music-of-satyajit-ray/|access-date=9 November 2020|website=Satyajit Ray Org|language=en-US}}</ref>。サタジットの音楽のアイデアは閃くように浮かび、時にはシナリオの段階でアイデアをメモすることがあった{{Sfn|レイ|1993|p=97}}。実際にスコアを書き下ろすのは編集をすべて終えてからで、演奏者に応じてインドもしくは西洋の[[記譜法]]でスコアを書いた<ref name=":5"/>。
== 文学作品 ==
サイエンス・フィクションにおいても著名な作者であったサタジットは子供向けベンガル文学において非常に有名になった2人の登場人物を創作した。[[探偵]]の{{仮リンク|フェルダー|en|Feluda}}と[[科学者]]の{{仮リンク|プロフェッサー・ションク|en|Professor Shonku}}である。フェルダーシリーズは。丁度[[シャーロック・ホームズ]]に対する[[ジョン・H・ワトソン]]の役どころを担う彼のいとこに当るトペシュの語りで展開する。プロフェッサー・ションクのSFは、謎めいた失踪をした科学者が残した日記の形式で物語が進む。また、[[ルイス・キャロル]]著『[[ジャバウォックの詩]]』の翻訳を含む{{仮リンク|ノンセンスバース|en|nonsense verse}}『[[:en:Today Bandha Ghorar Dim|Today Bandha Ghorar Dim]]』や、ベンガル語で[[ナスレッディン・ホジャ]]を主人公にした小話も書いている。


キャスティングでは、有名な映画スターから無名の素人俳優まで、さまざまな俳優を起用した{{Sfn|Ray|1994|p=100}}。一部の作品のシナリオは、有名俳優のために書くことがあり、その例として『哲学者の石』の{{仮リンク|トゥルシー・チャクラボルティ|en|Tulsi Chakraborty}}、『英雄』の{{仮リンク|ウッタム・クマール|en|Uttam Kumar}}、『音楽ホール』『女神』『カンチェンジュンガ』の{{仮リンク|チャビ・ビスワース|en|Chhabi Biswas}}が挙げられる{{Sfn|レイ|1993|pp=90-91}}。サタジットの基本的な演技指導の方法は、リハーサルの回数を最小限に抑え、俳優に短い指示を出し、あとは俳優が自分の解釈で演じるようにするというものである{{Sfn|レイ|1993|pp=90-91}}。俳優の技量や経験に応じて指示の度合いを変えており、例えば[[ウタパル・ダット]]のような俳優にはほとんど指示をせず、逆に『大地のうた』でオプーを演じた{{仮リンク|スビル・バネルジー|en|Subir Banerjee}}や『大樹のうた』でアパルナを演じた{{仮リンク|シャルミラ・タゴール|en|Sharmila Tagore}}などの俳優には、操り人形のように扱うことがあった{{Sfn|Robinson|2003|p=78}}。サタジットの映画に出演した俳優たちは、サタジットが変わらず信頼を寄せてくれることを賞賛したが、その一方で無能のように扱われて軽蔑されたことについても言及している{{Sfn|Robinson|2003|p=307}}。
サタジットが書き纏めて出版された12の大人向け[[短編小説]]は、その各タイトルが例えば (''Aker pitthe dui'' - "Two on top of one") のような12に紐づいたものになっていた。これは彼の[[パズル]]と駄洒落好きが反映したものだった。これら短編小説は、映画ではあえて避けていた猟奇性や緊張感といったものに彼が関心を寄せていたことを示し、心理学への興味を喚起させるものになっている<ref name="nandy">{{Harvnb|Nandy|1995}}</ref>。サタジットの著作の大部分は英訳され、あらたな読者を獲得し続けている。


== 映画以外の活動 ==
ほとんどの映画脚本は雑誌『Eksan』上で、ベンガル語にて発表された。1982年には幼少期の自伝『[[:en:Jakhan Choto Chilam|Jakhan Choto Chilam]]』を出版した。
=== 文学 ===
{{Main|{{仮リンク|サタジット・レイの文学作品|en|Literary works of Satyajit Ray}}}}
サタジット・レイは{{仮リンク|ベンガル文学|en|Bengali literature}}の著名な作家でもある。とくに[[児童文学]]作家として人気を博し<ref>{{Cite web |author=シュニル・ゴンゴパッダエ |url=https://dl.ndl.go.jp/view/download/digidepo_1166390_po_2009-09.pdf?contentNo=1 |format=PDF |date=2009-12-13 |title=インド児童文学の現在 |website=[[国際子ども図書館]] |accessdate=2021年8月24日}}</ref>、10代の子供向けに[[冒険小説]]、探偵小説、[[ファンタジー]]、[[サイエンス・フィクション]]、[[ホラー]]などのジャンルの物語を創作した<ref>{{Cite web |url=https://satyajitray.org/rays-literary-career/ |title=Satyajit Ray's Literary Career |website=satyajitray.org |accessdate=2021年8月24日}}</ref>。サタジットの児童文学で最も人気のある作品は、架空の[[探偵|私立探偵]]の「{{仮リンク|フェルダー|en|Feluda}}」が主人公の探偵小説のシリーズと、同じく架空の[[科学者]]の「{{仮リンク|プロフェッサー・ションク|en|Professor Shonku}}」が主人公のSF小説のシリーズである<ref>{{Cite web |url=https://www.hindustantimes.com/regional-movies/after-spy-feluda-satyajit-ray-s-other-creation-prof-shonku-to-be-depicted-onscreen/story-xWH8v1YYin9f3SnitAXkCP.html |date=2017-12-1 |title=After spy Feluda, Satyajit Ray’s other creation Prof Shonku to be depicted onscreen |website=Hindustan Times |accessdate=2021年8月30日}}</ref>。フェルダーのシリーズは、インド全土や国外を舞台にして事件を解決するという内容で、フェルダーのいとこのトペシュの語りで物語が進行する<ref>{{Cite web |author=Soham Deb |url=https://www.outlookindia.com/outlooktraveller/explore/story/70795/travelling-with-feluda-by-satyajit-ray |date=2021-5-2 |title=In the Footsteps of Feluda |website=Outlook India Magazine Online |accessdate=2021年8月30日}}</ref>。サタジットは30本以上のフェルダーの物語を執筆し、そのうち『{{仮リンク|黄金の城塞|en|Sonar Kella}}』(1974年)と『{{仮リンク|消えた象神|en|Joi Baba Felunath (film)}}』(1979年)を映画化した<ref>{{Cite web |url=https://economictimes.indiatimes.com/business-of-bollywood/feluda-reappears-on-silver-screeen/articleshow/2712559.cms?from=mdr |date=2008-1-19 |title=Feluda reappears on silver screeen |website=The Economic Times |accessdate=2021年8月30日}}</ref>。プロフェッサー・ションクのシリーズは、風変わりな科学者であるションクの発明と冒険を描いたもので、サタジットは38本の物語を執筆した<ref>{{cite web|title=Professor Shonku|url=http://www.satyajitrayworld.com/literarycreations_fiction_prof.php|publisher=Satyajit Roy official website|accessdate=2021-8-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130506005121/http://www.satyajitrayworld.com/literarycreations_fiction_prof.php|archivedate=6 May 2013|url-status=dead}}</ref><ref>{{Cite web |last=Biswas |first=Atanu |url=https://scroll.in/article/993866/satyajit-ray-centenary-professor-shonkus-world-no-longer-exists-can-he-still-cast-a-spell |date=2021-5-2 |title=Satyajit Ray centenary: Professor Shonku’s world no longer exists. Can he still cast a spell? |website=Scroll.in |accessdate=2021年8月30日}}</ref>。


ほかにもサタジットは、超自然的な力を持つ架空の人物「{{仮リンク|タリーニ・フロ|en|Tarini Khuro}}」が主人公の冒険小説のシリーズや、12のエピソードを纏めた『''Ek Dojon Gappo''』『''Aker pitthe dui''』といった短編小説集{{Refnest|group="注"|サタジットの短編小説は12本のエピソードを1冊に纏めて出版されたが、そのタイトルは12という言葉に紐づくものとなっていた(例えば、『''Aker pitthe dui''』は「Two on top of one」という意味を持つ)<ref name="短編"/>。}}などの作品を執筆した<ref name="短編">{{Cite web |url=https://www.indiatvnews.com/entertainment/web-series-srijit-mukherjee-to-direct-web-series-based-on-satyajit-ray-s-short-stories-442067 |date=2018-3-13 |title=Srijit Mukherjee to direct web series based on Satyajit Ray's short stories |website=indiatvnews.com |accessdate=2021年8月31日}}</ref><ref>{{cite news|title=Tarini Khuro’s screen saga|url=http://articles.timesofindia.indiatimes.com/2012-06-07/news-interviews/32100093_1_ghost-stories-sandip-ray-film|archiveurl=https://archive.today/20130103204432/http://articles.timesofindia.indiatimes.com/2012-06-07/news-interviews/32100093_1_ghost-stories-sandip-ray-film|url-status=dead|archivedate=3 January 2013|accessdate=2021-8-31|newspaper=[[The Times of India]]|date=7 June 2012}}</ref>。また、[[ルイス・キャロル]]や[[エドワード・リア]]などの詩を含むナンセンス・ヴァース集『''[[:en:Today Bandha Ghorar Dim|Today Bandha Ghorar Dim]]''』(1976年)、[[ナスレッディン・ホジャ]]が主人公の『''Molla Nasiruddiner Galpo''』(1985年)などの翻訳本や<ref>{{cite web|url=http://www.satyajitrayworld.com/literarycreationsi_astranslator.php |title=as translator |website=Satyajit Ray Society |accessdate=2021-8-30 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130315162858/http://www.satyajitrayworld.com/literarycreationsi_astranslator.php |archivedate=2013-3-15}}</ref>、『{{仮リンク|わが映画インドに始まる|en|Our Films, Their Films}}』(1976年)、『''[[:en:Bishoy Chalachchitra|Bishoy Chalachchitra]]''』(1976年)、『''[[:en:Ekei Bole Shooting|Ekei Bole Shooting]]''』(1979年)などの映画批評やエッセイを纏めた本も出版した。[[1982年]]には幼少期の自伝『''[[:en:Jakhan Choto Chilam|Jakhan Choto Chilam]]''』を出版し、妻のビジョ・レイによって『''Childhood Days: A Memoir''』の題名で英訳された<ref>{{Cite book|last=Ray, Satyajit, 1921-1992.|url=https://www.worldcat.org/oclc/41532327|title=Childhood days : a memoir|date=1998|publisher=Penguin Books|others=Rāẏa, Bijaẏā.|isbn=0-14-025079-4|location=New Delhi|oclc=41532327}}</ref>。[[1994年]]にはオプー三部作を製作した時の回想録『''[[:en:My Years with Apu|My Years with Apu]]''』を出版した<ref>{{Cite web|last=Dhillon|first=Amrit|date=30 November 1994|title=Book review: Satyajit Ray's My years with Apu: A memoir|url=https://www.indiatoday.in/magazine/society-the-arts/story/19941130-book-review-satyajit-rays-my-years-with-apu-a-memoir-810309-1994-11-30|accessdate=9 November 2020|website=India Today|language=en}}</ref>。
彼はまた映画の批評も書き、これらは『[[:en:Our Films, Their Films|Our Films, Their Films]]』(1976年)、『[[:en:Bishoy Chalachchitra|Bishoy Chalachchitra]]』(1976年)、『[[:en:Ekei Bole Shooting|Ekei Bole Shooting]]』(1979年)に纏められた。1990年代中頃には、サタジットの映画についてのエッセーや短編は西洋にて英語で出版された。『Our Films, Their Films』は彼による映画評論のアンソロジーであるが、この中には記事の他に個人的な話しの抜粋が含まれている。この本は、最初は彼がハリウッドに注目する前の[[インドの映画]]について論じ、さらに特定の映画制作者([[チャールズ・チャップリン]]や黒澤明)と[[ネオレアリズモ]]などの活動に触れる。彼の書籍『[[:en:Bishoy Chalachchitra|Bishoy Chalachchitra]]』は2006年に『Speaking of Films』のタイトルで翻訳出版された。これは、映画に関する様々な哲学を簡潔に述べたものである。


== カリグラフー ==
=== カリグラフとデザイン ===
サタジット・レイは[[カリグラフィー]]も行い[[ローマン体]]4つの[[書体]]をデザイした。いなるベンガル文字とも異なるこれらはレイ・ローマン (Ray Roman)レイ・ビザール (Ray Bizarre)ダフニス (Daphnis) 、ホリディスクリプト (Holiday Script) と呼ばれ、雑誌「サデシュ」用に作られた<ref name=show>{{cite news|url=http://www.financialexpress.com/news/The-Ray-show-goes-on/263406/|title= The Ray show goes on|last=Datta|first=Sudipta| date=19 January 2008|accessdate=2008-04-10|work=The Financial Express|publisher= Indian Express Newspapers (Mumbai) Ltd}}</ref>。このうちレイ・ローマンとレイ・ビザール は1971年国際コンペティションち取っ<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=57}}</ref>。またコルカ彼を、自作映画向け著名なグラフィックデザイナーと見る向きもある。映画広告の制作だけでなく、彼は出版した本やそのカバー手がけた。そゆえ[[ベンガル文字]]に施されたサタジット芸術もポスターやプロモーション用冊子表紙で見るこができる。彼は著にとどらず、他の作家の本表紙デザインを手がけた<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=57–59}}</ref>
サタジット・レイは[[カリグラフィー|カリグラファー]]として活動し自身雑誌『ショデシュ』用に、ほのどのベンガル文字とも異なる[[ローマン体]]の「レイ・ローマン (Ray Roman)」「レイ・ビザール (Ray Bizarre)」「ダフニス (Daphnis)ホリディスクリプト (Holiday Script)と呼ばれる4つの書体をデザイた<ref>{{cite news|url=http://www.financialexpress.com/news/The-Ray-show-goes-on/263406/ |title=The Ray show goes on |last=Datta |first=Sudipta |date=19 January 2008 |accessdate=10 April 2008 |work=The Financial Express |publisher=Indian Express Newspapers (Mumbai) Ltd |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080121103144/http://www.financialexpress.com/news/The-Ray-show-goes-on/263406/ |archivedate=21 January 2008 }}</ref><ref>{{cite web|url=http://www.satyajitrayworld.com/versatility_typography.php |title=Ray Typography |website=Satyajit Ray Society |accessdate=24 July 2014 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140809064842/http://www.satyajitrayworld.com/versatility_typography.php |archivedate= 9 August 2014 }}</ref>。このうちレイ・ローマンとレイ・ビザールは1971年国際コンペティションで優た{{Sfn|Robinson|2003|pp=57-59}}。また、サジットは映画のキャリアを積み重ねる中で、グラフィックデザイナーとして活動したことで知られ、自身映画ポスターのんどをデザインし、たは他の作家の本のイラストや表紙デザインを手がけた{{Sfn|Robinson|2003|pp=57-59}}。


いわゆる古臭く田舎的な芸術分野は、サタジットのベンガル[[書記素]]表現の前で霞んでしまう。ベンガル文字における3層からなるエックスハイト(基本文字の高さ)楽譜や輪郭のように示され、水平線と垂直線が交わる点の間には曲線が使われ、{{仮リンク|アルポナ|en|alpana}}(ベンガル伝統の文様)が続く。また、書記素を変容させて[[アルケー]]文字とも呼べるような生物や物を形づくったベンガル文字への建設的な働きかけもサタジットの特徴である<ref>{{cite web|url=http://ssrn.com/abstract=2027105 |title=Chobi Lekhen Sottojit (Satyajit Ray Writes Paintings) |publisher=Ssrn.com |date= |accessdate=2012-11-04}}</ref>。
サタジットのデザインの芸術は、映画のポスターやプロモーション用冊子の表紙で見ることができる{{Sfn|Robinson|2003|pp=57-59}}。サタジットがデザインした映画ポスター多くはシンプルで、ベンガル語の[[書記素]]を使用したカリグラフィーに、1つの視覚的に印象的なイメージを描いており、インドの要素も取り入れられている<ref name="thenationalnews"/>。ポスターなどに見られるサタジットのベンガル語の書記素の表現はベンガル文字特有の3層の{{仮リンク|エックスハイト|en|x-height}}(基本文字の高さ)楽譜のように示され、水平線と垂直線が交わる点の間には{{仮リンク|アルポナ|en|alpana}}(ベンガル伝統の文様)のパターンに従った曲線で書かれるの特徴的である。また、ベンガル文字の書記素を変容させて[[アルケー]]文字とも呼べるような生物や物を形づくったベンガル文字を創作した<ref>{{cite journal|url=https://www.academia.edu/411331|title=Chobi Lekhen Sottojit (Satyajit Ray Writes Paintings)|journal=Dhrubapad. Yearbook-Vi. (Pp.392-417). Kolkata|last1=Bandyopadhyay|first1=Debaprasad}}</ref>。


== 評価 ==
== 評価 ==
サタジット・レイは[[インド]]の[[西ベンガルの映画|ベンガル語映画]]を代表する監督であり{{Sfn|丹羽|2018|pp=224-225}}、インドまたは[[ベンガル地方]]の文化的アイコンとして世界中に広く知られた<ref name="HinduIcon">{{cite news|url=http://www.hindu.com/2007/12/01/stories/2007120151070200.htm |title=Returning to the classics of Ray |last=Tankha |first=Madhur |date=1 December 2007 |accessdate=1 May 2008 |work=The Hindu |location=Chennai, India |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140426201006/http://www.hindu.com/2007/12/01/stories/2007120151070200.htm |archivedate=26 April 2014}}</ref>。サタジットは国際的に高い認知と評価を受けた最初のインド人監督であり{{Sfn|宇田川|2007|p=77}}{{Sfn|丹羽|2018|p=240}}、とくに『大地のうた』はインド映画が欧米で注目されるきっかけとなった<ref>{{Cite book|和書 |author=松岡環 |chapter=ラエ、サタジット |date=2008-7 |title=世界映画大事典 |publisher=[[日本図書センター]] |page=929}}</ref>。また、[[黒澤明]]と並んでアジア映画を代表する巨匠と見なされており{{Sfn|宇田川|2007|p=77}}、[[マーティン・スコセッシ]]はサタジットを黒澤、[[イングマール・ベルイマン]]、[[フェデリコ・フェリーニ]]とともに世界映画の偉大な監督に挙げている<ref name="indiewire"/>。そんなサタジットの[[映画史]]的功績は、それまで歌と踊りをふんだんに盛り込んだ娯楽作品が主流だったインド映画に、現実を見据える[[リアリズム]]を導入し、新しく[[アート映画|芸術映画]]や{{仮リンク|社会派映画|en|Social problem film}}の流れを確立したことである{{Sfn|宇田川|2007|p=77}}<ref name="佐藤忠男"/>。戦後のベンガル語映画では「[[パラレル映画]]」という芸術映画の潮流が生まれたが、サタジットは同時代に活躍した[[リッティク・ゴトク]]や{{仮リンク|ムリナル・セン|en|Mrinal Sen}}などとともに、その潮流を代表する監督と見なされている<ref>{{Cite web |last=Ayaz |first=Shaikh |date=2020-5-5 |url=https://indianexpress.com/article/entertainment/opinion-entertainment/parallel-cinema-movies-6375603/ |title=Our ultimate guide to the 1970-80s parallel cinema gems |website=The Indian Express |accessdate=2021年9月1日}}</ref>。しかし、ベンガル語で作られたサタジットの作品は、インド国内のほかの言語地域では理解されず、字幕付きで上映されることもなかった。そのためベンガル地方以外では、サタジットの作品が上映されることは少なく、それゆえにサタジットはあまり知られておらず、インド国外の方がサタジットの作品にアクセスしやすいという側面があり、国内と国外とで評価のずれが見られた{{Sfn|丹羽|2018|p=240}}{{Sfn|杉本|2002|p=131}}。
サタジットの作品は[[ヒューマニズム]]と普遍性に溢れ、一見単純ながら内に深く根底的な複雑さを秘めている<ref name="malcolm2">{{cite news|author = Malcolm D
|publisher = guardian.co.uk | url=http://www.guardian.co.uk/culture/2002/may/02/artsfeatures1 | title=The universe in his backyard| accessdate=2007-02-15 | location=London | date=2002-05-02}}</ref><ref name="sragrow">{{cite web|author = Michael Sragow|publisher = The Atlantic Monthly | url=http://satyajitray.ucsc.edu/articles/sragow.html | title=An Art Wedded to Truth | accessdate=2007-02-15}}</ref>。[[黒澤明]]は「サタジット・レイの映画を見た事がないとは、この世で太陽や月を見た事がないに等しい」と述べた<ref name=Robinson-96>{{Harvnb|Robinson|2003|p=96}}</ref>。一方で、批判者からは展開の遅さを「荘厳なカタツムリ」と揶揄された<ref name="robinson"/>。[[ジャン=リュック・ゴダール]]など同時代人の中には、サタジットに純粋なヒューマニズムや現代的なものを否定する側面を見出し、新しい流行や表現また実験的な要素に欠くという批判を行う者もいた<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=306–318}}</ref>。{{仮リンク|スタンレー・カウフマン|en|Stanley Kauffman}}が書いたように、評論家の中には「(サタジットは鑑賞者に)登場人物に課した波乱に満ちた人生を見せるよりも、映画で単純に示された登場人物そのものの存在に魅かれるよう意図する」と考えている者もいる<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=352–353}}</ref>。サタジット自身は展開の遅さは如何ともしがたいと述べたが、黒澤明は「遅い」とは的外れで「彼の作品は大河のように悠然とした流れが表現されているのだ」と弁護した<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=314–315}}</ref>。


サタジットの作品は一般的に、[[ヒューマニズム]]と普遍性に溢れ、一見単純でありながら内に深く根底的な複雑さを秘めていると評価されている<ref name="malcolm2">{{cite news|last=Derek |first=Malcolm |work=The Guardian |url=https://www.theguardian.com/cultures/2002/may/02/artsfeatures1 |title=The universe in his backyard |accessdate=15 February 2007 |location=London |date=2 May 2002 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140426235816/http://www.theguardian.com/culture/2002/may/02/artsfeatures1 |archivedate=26 April 2014}}</ref><ref name="sragrow">{{cite web|last=Sragow |first=Michael |work=The Atlantic Monthly |url=http://satyajitray.ucsc.edu/articles/sragow.html |title=An Art Wedded to Truth |accessdate=15 February 2007 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090412212046/http://satyajitray.ucsc.edu/articles/sragow.html |archivedate=12 April 2009}}</ref>。黒澤明は「サタジット・レイの映画を見た事がないとは、この世で太陽や月を見た事がないに等しい」と述べた{{Sfn|Robinson|2003|p=96}}。一方で、批判者からは作品のテンポの遅さを指摘され、「雄大なカタツムリ」と揶揄された{{Sfn|Robinson|2003|p=157}}。サタジット自身は展開の遅さは如何ともしがたいと述べたが、黒澤は「遅い」とは的外れで「彼の作品は大河のように悠然とした流れが表現されているのだ」と弁護した{{Sfn|Robinson|2003|pp=306-318}}。一部の批評家はサタジットの作品が現代的ではないと指摘し、サタジットと同時代に活躍した[[ジャン=リュック・ゴダール]]の作品に見られるような、新しい表現や実験的な要素が欠けていると批判した{{Sfn|Robinson|2003|pp=306-318}}。批評家からは[[アントン・チェーホフ]]、[[ウィリアム・シェイクスピア]]などの他分野の芸術家やその作品と比べられることもあり、作家の[[V・S・ナイポール]]は『チェスをする人』のシーンをシェイクスピアの劇と比較して「たった300の単語が口にされるだけなのになんと言うことだ!ものすごい」と評した<ref name="Wedded">{{Cite journal|title=An Art Wedded to Truth |first=Michael |last=Sragow |year=1994 |journal=The Atlantic Monthly |url=http://satyajitray.ucsc.edu/articles/sragow.html |accessdate=11 May 2009 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090412212046/http://satyajitray.ucsc.edu/articles/sragow.html |archivedate=12 April 2009}}</ref><ref>{{cite news|author=Ebert|first=Roger|title=The Music Room (1958)|work=Chicago Sun-Times|url=http://rogerebert.suntimes.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/19990117/REVIEWS08/401010342/1023|url-status=live|accessdate=29 April 2006|archiveurl=https://web.archive.org/web/20051226145349/http://rogerebert.suntimes.com/apps/pbcs.dll/article?AID=%2F19990117%2FREVIEWS08%2F401010342%2F1023|archivedate=26 December 2005}}</ref>{{Sfn|Robinson|2003|p=246}}。
時にサタジットは、他分野の芸術家とも比べられた。例えば[[アントン・チェーホフ]]、[[ジャン・ルノワール]]、[[ヴィットリオ・デ・シーカ]]、[[ハワード・ホーク]]、[[ヴォルフガング・アマデウス・モーツァルト]]などである。作家の[[V・S・ナイポール]]は、『チェスをする人』の場面を[[ウィリアム・シェークスピア]]の劇と比較して「たった300の単語が口にされるだけなのになんと言うことだ!‐ものすごい」と評した<ref>{{cite news|author = Ebert R|publisher = suntimes.com | url=http://rogerebert.suntimes.com/apps/pbcs.dll/article?AID=/19990117/REVIEWS08/401010342/1023 | title=The Music Room (1958) | accessdate=2006-04-29}}</ref><ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=246}}</ref>。サタジットの映画にある[[美学]]を好まない批評家でさえ、彼の映画には微妙なニュアンスすべての中で、文化全体を包括する能力が発揮されていると認めている。[[インデペンデント]]紙が掲載したサタジットの死亡記事にある「誰を彼と並べることができるか?」という文句に、この評が込められている<ref>{{Harvnb|Robinson|2005|pp=13–14}}</ref>。


政治的イデオロギーはサタジットの作品と相容れるものではなかった。1960年代サタジットは[[マルクス主義]]者の映画制作者{{仮リンク|ムリナル・セン|en|Mrinal Sen}}と公開で議論重ねが、センはサタジット対しウッタム・クマルのような二枚目俳優を起用す事を非難、それは妥協だと述べた<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=177}}</ref>。一方のサタジットは、センベンガル中産階級のよう「安易ターゲット」攻撃ていると述べた。共産主義信奉者の中には、サタジットが国内の虐げられたが生まれる原因を描き出していないと述べ中には『大地のうた』や『[[遠い雷鳴]]』が叙情的で美しい映画の中で貧困を賛美していると訴える者もいた。物語の中は問題を解決するための闘争が描かれておらず、サタジットが持つ[[ブルジョワジー]]的経歴を乗り越えられなかったものと主張した。1970年代に{{仮リンク|ナクサライト|en|naxalite}}(インドの武装革命至上主義)運動が盛ん頃、押しかけた主義者たちによって息子が身体的危害を加えられそうになった事もある<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=205}}</ref>。1980年代初頭にはインドの[[国会議員]]で元女優の[[ナルギス]]が、サタジットを「貧困を輸出している」と非難し、現代インドを描く作品をつくるべきだと述べ<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|pp=327–328}}</ref>
政治的イデオロギーはサタジットの作品と相容れるものではなかった。1960年代サタジットは[[マルクス主義]]者の監督ムリナル・センと公開書簡を交わし、センの『{{仮リンク|雲の上に|en|Akash Kusum}}』(1965年)を「カラス映画」呼び、羽借りカラスの寓話例え独創性に欠けと酷評した{{Sfn|杉本|2002|p=133}}<ref name="セン">{{Cite web |last=Mukhopadhyay |first=Dipankar |date=2018-12-31 |url=https://scroll.in/reel/827100/mrinal-sen-versus-satyajit-ray-the-lengthy-war-of-words-between-two-of-indias-greatest-directors |title=Mrinal Sen versus Satyajit Ray: The war of words that lasted nearly 30 years |website=Scroll.in |accessdate=2021年9月1日}}</ref>。後2人はサタジットが亡くるまで、お互いの映画に建設的批判をし続け<ref name="セン"/><ref>{{Cite web |date=2018-12-31 |url=https://www.news18.com/news/movies/when-mrinal-sen-and-satyajit-ray-duelled-over-films-1987545.html |title=When Mrinal Sen and Satyajit Ray Duelled Over Films |website=News18 |accessdate=2021年9月1日}}</ref>社会主義の支持者の中には、サタジットがインド社会で虐げられた人たちが生まれる原因を描き出していないを指摘し一部の批評家『大地のうた』や『遠い雷鳴』が叙情的で美しい描き方によって貧困を賛美していると非難した。彼らはサタジットが物語で起きる対立に解決策を出さず、サタジット[[ブルジョワジー]]的経歴を克服することができなかったと主張した。1970年代に{{仮リンク|ナクサライト|en|naxalite}}(インドの武装革命至上主義)運動が盛んだったには、押しかけた主義者たちによって息子が身体的危害を加えられそうになった事もあった{{Sfn|Robinson|2003|p=205}}。1980年代にはインドの[[国会議員]]で元女優の[[ナルギス]]が、サタジットを「貧困を輸出している」と非難し、現代インドを描く作品をるべきだと主張した{{Sfn|Robinson|2003|pp=327-328}}。


== 影響 ==
== 影響 ==
サタジット・レイはに広く知られたインドそてベの文化的象徴である<ref name=HinduIcon>{{cite news|url=http://www.hindu.com/2007/12/01/stories/2007120151070200.htm|title= Returning to the classics of Ray|last=Tankha|first=Madhur|date=1 December 2007|accessdate=2008-05-01|work=The Hindu|location=Chennai, India}}</ref>。彼の死にルカタ市街は悲しみに暮れ、数百数千も人々家に集まって別れ惜しんだ<ref>{{cite web|author = Amitav Ghosh|publisher = Doom Online|url = http://www.dosco.org/pages/info_features/features_spotlights/spotlights/aghosh/ray.htm|title=Satyajit Ray| accessdate=2006-06-19}}</ref>。彼は[[西ベガル映画|西ベンガル映画]]や、インドでは{{仮リンク|アパセン|en|Aparna Sen}}、{{仮リンク|リトゥポノ・ゴシュ|en|Rituparno Ghosh}}、[[ゴータム・ゴース]]、バングラデシュでは{{仮リンク|タレクマスード|en|Tareq Masud}}{{仮リンク|タンビモカメル|en|Tanvir Mokammel}}、イギリスでは{{仮リンク|ニーマッド|en|Aneel Ahmad}}などのベンガル系映画監督に広く深い影響を与えた。広範囲な活動はインド映画の発展に貢献したと[[ブッダデーブ・ダースグプタ]]や{{仮リンク|ムリナルセン|en|Mrinal Sen}}<ref>{{cite web|author = Mrinal Sen|publisher = Little Magazine | url=http://www.littlemag.com/2000/mrinal.htm | title=Our lives, their lives | accessdate=2006-06-29}}</ref>また{{仮リンク|アドゥール・ゴーパーラクリシュナン|en|Adoor Gopalakrishnan}}らは評している。インド以外にも、サタジットの映画スタイルは黒澤明らとともに、[[マーティン・スコセッシ]]<ref>{{cite web|author = Chris Ingui|publisher = Hatchet |url=http://media.www.gwhatchet.com/media/storage/paper332/news/2002/03/04/Arts/Martin.Scorsese.Hits.Dc.Hangs.With.The.Hachet-195598.shtml | title=Martin Scorsese hits DC, hangs with the Hachet | accessdate=2009-06-06}}</ref><ref>{{cite web|title=Raging Bull: A film review|author=Jay Antani|year=2004|publisher=Filmcritic.com|url=http://www.filmcritic.com/misc/emporium.nsf/reviews/Raging-Bull|accessdate=2009-05-04}}</ref>、[[ジェームズ・アイヴォリー]]<ref>{{cite web|author = Sheldon Hall|publisher = Screen Online | url=http://www.screenonline.org.uk/people/id/532213/index.html | title=Ivory, James (1928-) | accessdate=2007-02-12}}</ref>、[[カルロス・サウラ]]<ref>{{cite web|title=Satyajit Ray is this Spanish director's inspiration|author=Suchetana Ray|publisher=CNN-IBN|date=11 March 2008|url=http://ibnlive.in.com/news/satyajit-ray-is-this-spanish-directors-inspiration/60900-8.html|accessdate=2009-06-06}}</ref>、[[高畑勲]]<ref>{{cite web|author=Daniel Thomas|title=Film Reviews: Grave of the Fireflies (Hotaru no Haka)|date=20 January 2003|url=http://www.danielthomas.org/pop/film_reviews/fireflies.htm|accessdate=2009-05-30}}</ref>[[ダニー・ボイル]]<ref name=Jivani>{{cite web |author=Alkarim Jivani |title=Mumbai rising |work=Sight & Sound |date=February 2009 |url=http://www.bfi.org.uk/sightandsound/feature/49511 |accessdate=2009-02-01}}</ref>ら他の映画制作者に大きな影響を与えた<ref name=Robinson-96/>。[[グレゴリー・ナヴァ]]1995年の映画『{{仮リンク|ミ・ファミリア|en|My Family (film)}}』では、ラストシーンで『大樹のうた』を再現した。[[アイラ・サックス]]2005年の映画『[[:en:Forty Shades of Blue|Forty Shades of Blue]]』は『チャルラータ』からインスピレーションを受けて制作された。他にも、『[[:en:Sacred Evil|Sacred Evil]]』<ref>{{cite news|author = SK Jha|publisher = Telegraph India | url=http://www.telegraphindia.com/1060609/asp/etc/story_6319302.asp | title=Sacred Ray | accessdate=2006-06-29 | location=Calcutta, India | date=2006-06-09}}</ref>や[[ディーパ・メータ]]の「{{仮リンク|エレメント三部作|en|Elements trilogy}}」、[[ジャン=リュック・ゴダール]]の作品にも<ref>{{cite web|author = André Habib|publisher = Senses of Cinema | url=http://archive.sensesofcinema.com/contents/01/16/godard_habib.html | title=Before and After: Origins and Death in the Work of Jean-Luc Godard | accessdate=2006-06-29|archiveurl = https://web.archive.org/web/20060614150838/http://www.sensesofcinema.com/contents/01/16/godard_habib.html <!-- Bot retrieved archive --> |archivedate = 2006-06-14}}</ref>サタジットの要素が含まれる。マイケル・スラゴーは「[[:en:The Atlantic|The Atlantic]]」誌にて、「1950年代中頃から若者が成人とるドラマが劇場に溢れるようになったは、オプー三部作の存在に負うところが非常に大きい」と述べた<ref>{{Cite journal|title=An Art Wedded to Truth|first=Michael|last=Sragow|year=1994|journal=The Atlantic|publisher=University of California, Santa Cruz|url=http://satyajitray.ucsc.edu/articles/sragow.html|accessdate=2009-05-11|ref=harv}}</ref>。またこの3部作はバウンス光の技術を導入した<ref>{{cite web|title=Subrata Mitra|publisher=Internet Encyclopedia of Cinematographers|url=http://www.cinematographers.nl/GreatDoPh/mitra.htm|accessdate=2009-05-22}}</ref>。1962年の『カンチェンジュンガ』は後に{{仮リンク|ハイパーリンク映画|en|hyperlink cinema}}と呼ばれる技法の先駆的存在であり<ref>{{cite web|title=An Interview with Satyajit Ray|year=1982|url=http://raylifeandwork.blogspot.com/2009/02/interview-with-satyajit-ray.html|accessdate=2009-05-24}}</ref>、1970年の『対抗者』は[[ネガフィルム]]のフラッシュバックや[[X線]]技術用いた初期の作品である<ref>{{cite web|title=First Light: Satyajit Ray From the Apu Trilogy to the Calcutta Trilogy|author=Nick Pinkerton|date=April 14, 2009|publisher=''The Village Voice''|url=http://www.villagevoice.com/2009-04-15/film/first-light-satyajit-ray-from-the-apu-trilogy-to-the-calcutta-trilogy|accessdate=2009-07-09}}</ref>。サタジットはマドビ・ムカージとともに、インド人の映画関係者としては初めて外国([[ドミニカ国|ドミニカ]])発行の[[切手]]図案に姿が使われた。
サタジット・レイの影響ベンガル語映画界に広く浸透、{{仮リク|アパナ・セン|en|Aparna Sen}}や{{仮リンク|リトゥポルノ・ゴーシュ|en|Rituparno Ghosh}}、[[ゴータム・ゴース]]、{{仮リンク|スリジット・ムカルジー|en|Srijit Mukherji}}、[[バングラデシュ]]の{{仮リンク|タレク・マスード|en|Tareq Masud}}、{{仮リンク|タンビー・モメル|en|Tanvir Mokammel}}などベンガル語系監督影響受けた<ref name="HinduIcon"/><ref name="Death Anniversary">{{Cite web |author=SRIJITA SEN |date=2021-4-23 |url=https://www.news18.com/news/movies/satyajit-rays-death-anniversary-a-look-at-the-auteurs-impact-on-filmmakers-3669932.html |title=Satyajit Ray's Death Anniversary: A Look at the Auteur's Impact on Filmmakers |website=News18 |accessdate=2021年9月3日}}</ref>。さらにヒディー語監督の{{仮リンク|ヴィシャール・バルドワジ|en|Vishal Bhardwaj}}、{{仮リンク|ディバカー・バネー|en|Dibakar Banerjee}}、{{仮リンク|シャームベネガル|en|Shyam Benegal}}{{仮リンク|アヌラバス|en|Anurag Basu}}、{{仮リンク|ニーラジワン|en|Neeraj Ghaywan}}、{{仮リンク|スジョイゴーシュ|en|Sujoy Ghosh}}などもサタジットの影響を受けている<ref>{{Cite web |author=Kusumita Das |date=2021-6-25 |url=https://www.firstpost.com/entertainment/tracing-satyajit-rays-influence-on-hindi-cinema-netflix-anthology-on-auteurs-short-stories-is-only-a-drop-in-the-ocean-9743971.html |title=Tracing Satyajit Ray's influence on Hindi cinema |website=Firstpost |accessdate=2021年9月3日}}</ref>。インド以外にも、サタジットの映画スタイルは[[マーティン・スコセッシ]]<ref>{{cite web|author=Ingui, Chris |publisher=Hatchet |url=http://media.www.gwhatchet.com/media/storage/paper332/news/2002/03/04/Arts/Martin.Scorsese.Hits.Dc.Hangs.With.The.Hachet-195598.shtml |title=Martin Scorsese hits DC, hangs with the Hachet |accessdate=6 June 2009 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20090826214118/http://media.www.gwhatchet.com/media/storage/paper332/news/2002/03/04/Arts/Martin.Scorsese.Hits.Dc.Hangs.With.The.Hachet-195598.shtml |archivedate=26 August 2009}}</ref>、[[ジェームズ・アイヴォリー]]<ref>{{cite web|author=Hall, Sheldon |publisher=Screen Online |url=http://www.screenonline.org.uk/people/id/532213/index.html |title=Ivory, James (1928–) |accessdate=12 February 2007 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20061230165100/http://www.screenonline.org.uk/people/id/532213/index.html |archivedate=30 December 2006}}</ref>、[[カルロス・サウラ]]<ref>{{cite web|title=Satyajit Ray is this Spanish director's inspiration |author=Ray, Suchetana |publisher=CNN-IBN |date=11 March 2008 |url=http://ibnlive.in.com/news/satyajit-ray-is-this-spanish-directors-inspiration/60900-8.html |accessdate=6 June 2009 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140707181226/http://ibnlive.in.com/news/satyajit-ray-is-this-spanish-directors-inspiration/60900-8.html |archivedate= 7 July 2014}}</ref>、[[高畑勲]]<ref>{{cite web|author=Thomas, Daniel |title=Film Reviews: Grave of the Fireflies (Hotaru no Haka)|date=20 January 2003|url=http://www.danielthomas.org/pop/film_reviews/fireflies.htm|accessdate=30 May 2009|url-status=dead|archiveurl=https://www.webcitation.org/6AC5bYmGF?url=http://www.danielthomas.org/pop/film_reviews/fireflies.htm|archivedate=26 August 2012}}</ref>[[ダニー・ボイル]]<ref name=Jivani>{{cite web|author=Jivani, Alkarim |title=Mumbai rising |work=Sight & Sound |date=February 2009 |url=http://old.bfi.org.uk/sightandsound/feature/49511 |accessdate=1 February 2009 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150221145109/http://old.bfi.org.uk/sightandsound/feature/49511 |archivedate=21 February 2015}}</ref>なの映画監督に影響与えた。


[[グレゴリー・ナヴァ]]は『{{仮リンク|ミ・ファミリア|en|My Family (film)}}』(1995年)のラストシーンで『大樹のうた』を再現し、[[アイラ・サックス]]は『チャルラータ』からインスピレーションを受けて『''[[:en:Forty Shades of Blue|Forty Shades of Blue]]''』(2005年)を監督した<ref name="Death Anniversary"/>。[[マジッド・マジディ]]はサタジットとその作品に称賛を示すために『''[[:en:Beyond the Clouds (2017 film)|Beyond the Clouds]]''』(2017年)を作った<ref>{{cite web |url=http://in.glamsham.com/en/majid-majidi-satyajit-rays-remarkable-work-inspired-me-to-make-beyond-the-clouds |title=Archived copy |accessdate=10 April 2018 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20180411174603/http://in.glamsham.com/en/majid-majidi-satyajit-rays-remarkable-work-inspired-me-to-make-beyond-the-clouds |archivedate=11 April 2018}}</ref>。[[ウェス・アンダーソン]]もインドで撮影した『[[ダージリン急行]]』(2007年)をサタジットに捧げ、サタジットが作曲した音楽を[[サウンドトラック]]に使用した<ref>{{Cite web|last=Romney|first=Jonathan|date=11 November 2007|title=Wes Anderson: Isn't it time the writer and director showed a little|url=http://www.independent.co.uk/arts-entertainment/films/features/wes-anderson-isnt-it-time-the-writer-and-director-showed-a-little-heart-399522.html|accessdate=10 November 2020|website=The Independent|language=en}}</ref>。映画批評家の{{仮リンク|マイケル・スラゴー|en|Michael Sragow}}は、1950年代中頃から主人公の成長を描くドラマがアート系映画で溢れるようになったのは、オプー三部作の存在に負うところが非常に大きいと指摘している<ref name="Wedded"/>。また、『カンチェンジュンガ』は{{仮リンク|ハイパーリンク映画|en|hyperlink cinema}}と呼ばれる物語構造による作品の先駆けと見なされている<ref >{{cite web|url=http://www.amc.com/movie/1962/Kanchenjungha|title=Kanchenjungha|work=AMC|archiveurl=https://web.archive.org/web/20151211105908/http://www.amc.com/movie/1962/Kanchenjungha|archivedate=2015-12-11|accessdate=2021-9-3}}</ref>。さらに、[[ソール・ベロー]]の『{{仮リンク|ハーツォグ|en|Herzog (novel)}}』、[[J・M・クッツェー]]の『''[[:en:Youth: Scenes from Provincial Life II|Youth]]''』などの文学作品にも、サタジットからの影響が見られる<ref>{{Cite web |author=Amitabha Bhattacharya |date=2020-4-5 |url=https://www.theweek.in/theweek/leisure/2020/03/26/ray-undimmed.html |title=Ray undimmed |website=The Week |accessdate=2021年9月3日}}</ref>。
[[ソール・ベロー]]の『{{仮リンク|ハーツォグ|en|Herzog (novel)}}』、[[J・M・クッツェー]]の『[[:en:Youth: Scenes from Provincial Life II|Youth]]』などの文学作品にも、サタジットから受けた影響がある。[[サルマン・ラシュディ]]の『{{仮リンク|ハルーンとお話の海|en|Haroun and the Sea of Stories}}』にはグビとバガという名の魚が登場する。1993年、[[カリフォルニア大学サンタクルーズ校]]は「サタジット・レイ映画研究所」を設け、1995年にはインド政府によって「サタジット・レイ映画テレビ研究所」が設立された。2007年、[[BBC]]は探偵フェルダーのラジオドラマを2作放送した<ref>{{cite web|author = Datta S|publisher = Financial Express | url=http://www.financialexpress.com/old/fe_archive_full_story.php?content_id=152924 | title= Feluda goes global, via radio | accessdate=2007-02-12}}</ref>。[[ロンドン映画祭]]にて、初監督作品の中で最も「芸術性に優れ、サタジットのような感性と人間性を備える」作品にはサタジット・レイ賞が贈られる。[[ウェス・アンダーソン]]はサタジットから影響を受けたと語り、インドで撮影された2007年の作品『[[ダージリン急行]]』を彼に捧げた。

[[1993年]]に[[カリフォルニア大学サンタクルーズ校]](UCSC)は、サタジットの作品を保存し、一般に公開するために「サタジット・レイ映画研究コレクション(レイFASC)」を設け、映画やポスター、写真、さまざまな言語で刊行された本、新聞や雑誌の記事、スケッチブックなど、10000点を超える文書から成る[[アーカイブ]]を確立した<ref name=UCSCcurrents/><ref name="University News"/>。これらのアーカイブは、UCSCの{{仮リンク|マクヘンリー図書館|en|McHenry Library}}に所蔵されている<ref name="University News"/>。[[1995年]]にはインド政府によって[[映画学校]]の「{{仮リンク|サタジット・レイ映画テレビ研究所|en|Satyajit Ray Film and Television Institute}}」が創設された<ref>{{Cite web |url=http://srfti.ac.in/?p=142 |title=Our Institute |website=Satyajit Ray Film & Television Institute |accessdate=2021年9月3日}}</ref>。[[1996年]]から[[2008年]]まで[[ロンドン映画祭]]では、初監督作品の中で最も芸術性に優れ、サタジットのような感性と人間性を備える作品に贈られる「サタジット・レイ賞」が設けられた<ref>{{Cite web |last= Baughan |first=Nikki |date=2018-10-9 |url=https://www2.bfi.org.uk/news-opinion/news-bfi/features/lff-62-history-london-film-festival-awards-competition |title=60 years of awards at the London Film Festival – A brief history of the competition |website=BFI |accessdate=2021年9月3日}}</ref>。また、{{仮リンク|ロンドン・インド映画祭|en|London Indian Film Festival}}にも「サタジット・レイ短編映画賞」という賞が設けられている<ref>{{Cite web |url=https://birminghamindianfilmfestival.co.uk/satyajit-ray-short-film-award-2019/ |title=Satyajit Ray Short Film Award 2019 |website=London Indian Film Festival |accessdate=2021年9月3日}}</ref>。サタジットの生誕100周年にあたる[[2021年]]には、インド政府の情報放送大臣{{仮リンク|プラカシュ・ジャバデカール|en|Prakash Javadekar}}が、インドで最高の映画賞[[ダーダーサーハバ・パールケー賞]]と同等の映画賞として、サタジット・レイの名を冠した賞を設けることを発表した<ref>{{Cite news|title=Centre to institute award in the name of Satyajit Ray: Javadekar|url=https://www.telegraphindia.com/west-bengal/centre-to-institute-an-award-in-the-name-of-satyajit-ray-javadekar/cid/1807557|accessdate=23 February 2021|work=The Telegraph|date=23 February 2021}}</ref>。

== フィルモグラフィー ==
サタジット・レイの監督作品は36本存在する。その内訳は長編劇映画が29本、ドキュメンタリー映画が5本、短編映画が2本である<ref name="自作を語る"/><ref>{{cite web |url=http://satyajitray.org/films/filmo_directed.htm |title=Films directed by Ray |publisher=satyajitray.org |accessdate=2021-8-2 |urlstatus=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20130726133728/http://www.satyajitray.org/films/filmo_directed.htm |archivedate=26 July 2013 |df=dmy-all}}</ref><ref>{{cite web |url=http://satyajitray.ucsc.edu/filmography |title=Satyajit Ray > Filmography |publisher=satyajitray.ucsc.edu |accessdate=2021-8-2 |urlstatus=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150506072738/http://satyajitray.ucsc.edu/filmography |archivedate=6 May 2015 |df=dmy-all}}</ref><ref>「サタジット・レイ監督フィルモグラフィ」({{Harvnb|レイ|1993|pp=275-281}})</ref><ref>{{Cite web |url=https://www.kawakita-film.or.jp/kaleido/kaleido.ray.02.html |title=サタジット・レイ監督フィルモグラフィー |work=財団法人川喜多記念映画文化財団 |accessdate=2021年8月2日}}</ref>。
{| class="wikitable sortable" style="width:95%"
|-
! width="7%" rowspan="2" |公開年
! width="25%" rowspan="2" |{{ublist|邦題|英題}}
! width="10%" rowspan="2" |言語
! colspan="6" |役職
! rowspan="2" |備考
|-
! width="5%" |[[映画監督|監督]]
! width="5%" |[[脚本家|脚本]]
! width="5%" |[[原作]]
! width="5%" |[[映画プロデューサー|製作]]
! width="5%" |[[映画音楽|作曲]]
! width="11%" |その他
|-
|1955年||{{ublist|[[大地のうた]]|''Pather Panchali''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{No}}||||
|-
|1956年||{{ublist|[[大河のうた]]|''Aparajito''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||{{No}}||||
|-
|1958年||{{ublist|哲学者の石|''Parash Pathar''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{No}}||||別邦題表記に『化金石』
|-
|1958年||{{ublist|[[音楽ホール (映画)|音楽ホール]]|''Jalsaghar''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||{{No}}||||別邦題表記に『音楽サロン』
|-
|1959年||{{ublist|[[大樹のうた]]|''Apur Sansar''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||{{No}}||||
|-
|1960年||{{ublist|女神|''Devi''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||{{No}}||||
|-
|1961年||{{ublist|三人の娘|''Teen Kanya''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||{{Yes}}||||「''The Postmaster''」「''Monihara''」「''Samapti''」の3つのエピソードから成る[[アンソロジー映画]]
|-
|1961年||{{ublist|[[詩聖タゴール]]|''Rabindranath Tagore''}}||英語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{No}}||ナレーター||ドキュメンタリー映画
|-
|1962年||{{ublist|カンチェンジュンガ|''Kanchenjungha''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||
|-
|1962年||{{ublist|遠征|''Abhijan''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||
|-
|1963年||{{ublist|[[ビッグ・シティ]]|''Mahanagar''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||別邦題表記に『大都会』
|-
|1964年||{{ublist|[[チャルラータ]]|''Charulata''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||
|-
|1964年||{{ublist|ふたり|''Two''}}||言語なし||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||短編映画
|-
|1965年||{{ublist|臆病者と聖者|''Kapurush o Mahapurush''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||
|-
|1966年||{{ublist|英雄|''Nayak''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||
|-
|1967年||{{ublist|動物園|''Chiriyakhana''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||
|-
|1969年||{{ublist|グビとバガの冒険|''Goopy Gyne Bagha Byne''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||
|-
|1969年||{{ublist|森の中の昼と夜|''Aranyer Din Ratri''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||
|-
|1970年||{{ublist|対抗者|''Pratidwandi''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||
|-
|1971年||{{ublist|株式会社 ザ・カンパニー|''Seemabaddha''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||
|-
|1971年||{{ublist|シッキム|''Sikkim''}}||英語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||ナレーター<br/>サウンドデザイン||ドキュメンタリー映画
|-
|1972年||{{ublist|心の眼|''The Inner Eye''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||ナレーター<br/>サウンドデザイン||短編ドキュメンタリー映画
|-
|1973年||{{ublist|[[遠い雷鳴]]|''Ashani Sanket''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||
|-
|1974年||{{ublist|黄金の城塞|''Sonar Kella''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||||別邦題表記に『黄金の砦』
|-
|1975年||{{ublist|[[ミドルマン]]|''Jana Aranya''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||
|-
|1976年||{{ublist|バーラ|''Bala''}}||英語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||ナレーター||ドキュメンタリー映画
|-
|1977年||{{ublist|[[チェスをする人]]|''Shatranj Ke Khilari''}}||ヒンディー語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||ダイアローグ||
|-
|1979年||{{ublist|消えた象神|''Joi Baba Felunath''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||||別邦題表記に『象神万歳』
|-
|1980年||{{ublist|ダイヤモンドの王国|''Hirak Rajar Deshe''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||||
|-
|1980年||{{ublist|ピクー|''Pikoo''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||||短編映画
|-
|1981年||{{ublist|遠い道|''Sadgati''}}||ヒンディー語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||ダイアローグ||
|-
|1983年||{{ublist|家と世界|''Ghare Baire''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||
|-
|1987年||{{ublist|シュクマル・レイ|''Sukumar Ray''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||短編ドキュメンタリー映画
|-
|1990年||{{ublist|民衆の敵|''Ganashatru''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{No}}||{{Yes}}||||
|-
|1990年||{{ublist|枝わかれ|''Shakha Proshakha''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||{{Yes}}||||
|-
|1992年||{{ublist|[[見知らぬ人]]|''Agantuk''}}||ベンガル語||{{Yes}}||{{Yes}}||{{Yes}}||{{No}}||{{Yes}}||||
|}


== 受賞 ==
== 受賞 ==
サタジット・レイは32インド映画賞のみならず国際的な賞も多数受賞した。[[ベルリン国際映画祭]]では、[[銀熊賞 (監督賞)|銀熊賞]]を2度以上受けた3人の監督の1人であり<ref>{{cite web|title=Silver Bear winners (directors)|publisher=listal|date=24 November 2008|url=http://www.listal.com/list/silver-bear-winners|accessdate=2009-04-19}}</ref>、[[金熊賞]]ノミネートは最多の7度を誇る。[[ヴェネツィア国際映画祭]]では、1956年に『大河のうた』で[[金獅子賞]]を受賞し、1982年には[[栄誉金獅子賞]] (Golden Lion Honorary Award) が贈られた<ref>{{cite web|title=Awards for Satyajit Ray|publisher=Internet Movie Database|url=http://www.imdb.com/name/nm0006249/awards|accessdate=2009-04-19}}</ref>。同年、[[第35回カンヌ国際映画祭|カンヌ国際映画祭]]にて"Hommage à Satyajit Ray"が与えられた<ref>{{cite web|title=Personal Awards|publisher=Satyajit Ray official site|url=http://www.satyajitray.org/about_ray/awards_personal.htm|accessdate=2009-04-19}}</ref>。
サタジット・レイは国内外で多数の映画賞受賞した。[[ベルリン国際映画祭]]では、[[銀熊賞 (監督賞)|銀熊賞]]を2度以上受けた3人の監督の1人であり<ref>{{cite web|title=Silver Bear winners (directors)|publisher=listal|date=24 November 2008|url=http://www.listal.com/list/silver-bear-winners|accessdate=2009-04-19}}</ref>、[[金熊賞]]ノミネートは最多の7度を誇る。[[ヴェネツィア国際映画祭]]では、1956年に『大河のうた』で[[金獅子賞]]を受賞し、1982年には[[栄誉金獅子賞]]が贈られた<ref>{{cite web|title=Awards for Satyajit Ray|publisher=Internet Movie Database|url=http://www.imdb.com/name/nm0006249/awards|accessdate=2009-04-19}}</ref>。同年、[[第35回カンヌ国際映画祭|カンヌ国際映画祭]]"Hommage à Satyajit Ray"が与えられた<ref>{{cite web|title=Personal Awards|publisher=Satyajit Ray official site|url=http://www.satyajitray.org/about_ray/awards_personal.htm|accessdate=2009-04-19}}</ref>。インドの映画賞[[ナショナル・フィルム・アワード]]では合計32個の賞を受賞しており、歴代最多の監督賞の受賞者(6回受賞)となった<ref>{{cite web|url=http://www.rediff.com/movies/report/fun-facts-about-the-national-awards/20150407.htm|title=Fun Facts about the National Awards|work=Rediff.com|date=7 April 2015|accessdate=18 June 2015|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150409060124/http://www.rediff.com/movies/report/fun-facts-about-the-national-awards/20150407.htm|archivedate=9 April 2015}}</ref>。[[1985年]]にはインド映画で最高位の賞である[[ダーダーサーハバ・パールケー賞]]を受賞した<ref name="awards">{{cite web|url=http://www.satyajitray.org/about_ray/awards_personal.htm |title=Personal Awards |work=Awards |publisher=satyajitray.org |accessdate=9 April 2008 |url-status=live |archiveurl=https://web.archive.org/web/20080404095030/http://www.satyajitray.org/about_ray/awards_personal.htm |archivedate= 4 April 2008 }}</ref>。[[1992年]]には[[第64回アカデミー賞]]で「映画芸術でも類稀な円熟と深い人道主義の視野が世界中の映画製作者と観客に消えない影響を与えた」功績により[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]を受賞した<ref>{{Cite book|和書 |author= |date=2002-4 |title=最新版アカデミー賞 |publisher=[[共同通信社]] |series=MOOK21 |page=349}}</ref>。


映画賞以外にも、数多くの栄誉や称号を受けた。[[1978年]]には映画関係者では[[チャールズ・チャップリン]]に続いて2人目となる、[[オックスフォード大学]]の[[名誉博士号]]を授けられた{{Sfn|Robinson|2003|p=1}}。ほかにも[[デリー大学]]の文学博士(1973年){{Sfn|Ray|2013|p=164}}、[[ロイヤル・カレッジ・オブ・アート]]の名誉博士(1974年)<ref>{{cite web|url=http://www.rca.ac.uk/more/our-history/college-honours/honorary-doctors/|title=Honorary Doctors of Royal College of Art|publisher=Royal College of Art|accessdate=31 May 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150315030921/http://www.rca.ac.uk/more/our-history/college-honours/honorary-doctors/|archivedate=15 March 2015}}</ref>、[[コルカタ大学]]の文学博士(1985年)<ref>{{cite web|url=http://www.caluniv.ac.in/convocation/hony_degrees.htm|title=Recipients of Hony. Degrees|publisher=University of Calcutta|accessdate=1 June 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131230234707/http://www.caluniv.ac.in/convocation/hony_degrees.htm|archivedate=30 December 2013}}</ref>などの称号を与えられている。インドの勲章では、[[1958年]]に民間人賞で4番目に高い[[パドマ・シュリー勲章]]、[[1965年]]に同3番目の[[パドマ・ブーシャン勲章]]、[[1976年]]に同2番目の{{仮リンク|パドマ・ヴィブーシャン勲章|en|Padma Vibhushan}}、そして1992年に最高位の民間人賞である[[バーラト・ラトナ賞]]を授けられた<ref name="awards"/>。[[1987年]]には[[フランス政府]]から[[レジオンドヌール勲章]]のコマンドゥールの称号を授けられた<ref>{{cite news|url=http://www.hindustantimes.com/news-feed/nm19/french-honour-for-lata-mangeshkar/article1-172314.aspx|title=French honour for Lata Mangeshkar|newspaper=Hindustan Times|location=New Delhi|date=12 November 2006|accessdate=1 June 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140607123553/http://www.hindustantimes.com/news-feed/nm19/french-honour-for-lata-mangeshkar/article1-172314.aspx|archivedate=7 June 2014}}</ref>。また、[[1967年]]にはアジアのノーベル賞と呼ばれる[[マグサイサイ賞]]を受賞した<ref name="awards"/>。
サタジット・レイは、[[チャールズ・チャップリン]]に続き[[オックスフォード大学]]から[[名誉博士号]]を授けられた2人目の映画関係者である<ref>{{Harvnb|Robinson|2003|p=1}}</ref>。1985年にはインドの[[ダーダーサーハバ・パールケー賞]]、1987年には[[フランス]]の[[レジオンドヌール勲章]]を授けられた<ref name=awards>{{cite web|url=http://www.satyajitray.org/about_ray/awards_personal.htm|title=Personal Awards|work=Awards|publisher=satyajitray.org|accessdate=2008-04-09}}</ref>。またインド政府からは、死の直前に[[バーラト・ラトナ賞]]が贈与された<ref name=awards/>。1992年に[[映画芸術科学アカデミー]]は生涯で成し得た偉業を讃え[[アカデミー賞]]([[アカデミー名誉賞|名誉賞]])を授与した。プレゼンターはコルカタを訪問していたサタジットお気に入りの女優[[オードリー・ヘプバーン]]が行った。サタジットは病気のため式には出席できず、受賞スピーチを自宅から生放送で伝えた。死後の1992年、[[サンフランシスコ国際映画祭]]で黒澤明賞が授与され、シャルミラー・タゴールが代理となり受理した<ref>{{cite web|url= http://history.sffs.org/awards_tributes/search.php?search_by=6&searchfield=Satyajit+Ray|title=Awards and Tributes: Satyajit Ray|work=San Francisco International Film Festival: The First to Fifty|publisher=San Francisco Film Society|accessdate=2008-04-08}}</ref>。


1992年、イギリスの[[:en:Sight & Sound|Sight & Sound]]誌は、すべての時代における映画監督ベスト10の7くらいにサタジットを挙げ、アジア人としては最高位を与えた<ref>{{cite web|title=Sight and Sound Poll 1992: Critics|publisher=California Institute of Technology|url=http://alumnus.caltech.edu/~ejohnson/sight/1992_1.html|accessdate=2009-05-29}}</ref>。同誌2002年のランキングでは、サタジットは22位<ref name="Lee"/>、アジアでは4となっている<ref name=Lee>{{cite web|title=A Slanted Canon|author=Kevin Lee|publisher=Asian American Film Commentary|date=2002-09-05|url=http://www.asianamericanfilm.com/archives/000026.html|accessdate=2009-04-24}}</ref>。1996年[[エンターテインメント・ウィークリー]]誌「50人の偉大な映画監督」リストでサタジットを25位にランクした<ref>{{cite web|title=Greatest Film Directors and Their Best Films|publisher=Filmsite.org|url=http://www.filmsite.org/directors5.html|accessdate=2009-04-19}}</ref>2007年[[:en:Total Film|Total Film]]誌「100人の偉大な映画監督」に彼を載せた<ref>{{cite web|title=The Greatest Directors Ever by ''Total Film'' Magazine|publisher=Filmsite.org|url=http://www.filmsite.org/greatdirectors-totalfilm2.html|accessdate=2009-04-19}}</ref>。
1992年、イギリスの{{仮リンク|サイト・アンド・サウンド|en|Sight & Sound}}誌は、すべての時代における映画監督ベスト10のリストを発表し、サタジットをアジア人は最高位となる7位に選出した<ref>{{cite web|title=Sight and Sound Poll 1992: Critics |publisher=California Institute of Technology |url=http://alumnus.caltech.edu/~ejohnson/sight/1992_1.html |accessdate=29 May 2009 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150618053015/http://alumnus.caltech.edu/~ejohnson/sight/1992_1.html |archivedate=18 June 2015 }}</ref>。2002年の同誌の映画監督ベスト10では、アジアでは4番目となる22位にランクした<ref name="Lee">{{cite web|title=A Slanted Canon|author=Lee, Kevin |publisher=Asian American Film Commentary|date=5 September 2002|url=http://www.asianamericanfilm.com/archives/000026.html|accessdate=24 April 2009|url-status=dead|archiveurl=https://www.webcitation.org/684ysTg3l?url=http://www.asianamericanfilm.com/archives/000026.html|archivedate=31 May 2012}}</ref>。さらに、[[1996年]]に[[エンターテインメント・ウィークリー]]誌が発表した「50人の偉大な映画監督」リストで25位に選ばれ<ref>{{cite web|title=Greatest Film Directors and Their Best Films |publisher=Filmsite.org |url=http://www.filmsite.org/directors5.html |accessdate=19 April 2009 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20150419012235/http://www.filmsite.org/directors5.html |archivedate=19 April 2015 }}</ref>、[[2007年]]に[[:en:Total Film|Total Film]]誌が発表した「100人の偉大な映画監督」のリストも選出された<ref>{{cite web|title=The Greatest Directors Ever by ''Total Film'' Magazine |publisher=Filmsite.org |url=http://www.filmsite.org/greatdirectors-totalfilm2.html |accessdate=19 April 2009 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20140426215114/http://www.filmsite.org/greatdirectors-totalfilm2.html |archivedate=26 April 2014 }}</ref>。また、[[2004年]]に[[英国放送協会|BBC]]が発表した「{{仮リンク|史上最高のベンガル人|en|Greatest Bengali of all time}}」のリストでは13位にランクした<ref>{{Cite news |url=http://news.bbc.co.uk/2/hi/south_asia/3623345.stm| title=Listeners name 'greatest Bengali' |work=BBC News |date=14 April 2004 |accessdate=14 December 2017 |language=en-GB}}</ref>。


主な受賞ノミネート以下通りである。
以下の表は、サタジット・レイが受賞した、もしくはノミネートされた映画賞(個人でなく作品自体に与えられた賞を含む)一覧である。
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
{| class="sortable wikitable" style="font-size:small"
|+サタジット・レイの主な映画賞の受賞とノミネートの一覧
!賞!!年!!部門!!作品!!結果
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! 賞 !! 年 !! 部門 !! 作品名 !! 結果 !! 出典
!rowspan="22" style="text-align:left"|[[ナショナル・フィルム・アワード]]
|rowspan="2"|1955年||{{仮リンク|作品賞|en|National Film Award for Best Feature Film}}||rowspan="2"|『大地のうた』||{{won}}
|-
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!rowspan="32" style="text-align:left"|[[ナショナル・フィルム・アワード]]
|rowspan="2"|{{仮リンク|ベンガル語映画賞|en|National Film Award for Best Feature Film in Bengali}}||{{won}}
|rowspan="2"|1955年|| {{仮リンク|ナショナル・フィルム・アワード 最優秀長編映画賞|en|National Film Award for Best Feature Film|label=最優秀長編映画賞}}||rowspan="2"|『大地のうた』||{{won}}||rowspan="2"|<ref name="3rdawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/3rd_nff_1956.pdf |title=3rd National Film Awards |publisher=Directorate of Film Festivals |accessdate=1 September 2011 |page=6 |url-status=dead |archiveurl=https://web.archive.org/web/20160802150604/http://dff.nic.in/2011/3rd_nff_1956.pdf |archivedate=2 August 2016 }}</ref>
|-
|-
|{{仮リンク|ナショナル・フィルム・アワード ベンガル語映画賞|label=ベンガル語映画賞|en|National Film Award for Best Feature Film in Bengali}}||{{won}}
|1958年||『音楽サロン』||{{won}}
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|1959年||最優秀長編映画賞||『大樹のうた』||{{won}}||<ref name="7thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/7th_nff.pdf|title=7th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=4 September 2011|page=2}}</ref>
|1959年||作品賞||『大樹のうた』||{{won}}
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|1960年||ベンガル語映画賞||『女神』||{{won}}||<ref name="8thaward">{{cite web|url=http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm8thNFAAward.aspx|title=8th National Film Awards|publisher=International Film Festival of India|accessdate=7 September 2011|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131012062918/http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm8thNFAAward.aspx|archivedate=12 October 2013|df=dmy-all}}</ref>
|1960年||rowspan="2"|ベンガル語映画賞||『女神』||{{won}}
|-
|-
|rowspan="2"|1961年||ベンガル語映画賞||『三人の娘』||{{won}}||rowspan="2"|<ref name="9thaward">{{cite web|url=http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm9thNFAAward.aspx|title=9th National Film Awards|publisher=International Film Festival of India|accessdate=8 September 2011|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20161202115652/http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm9thNFAAward.aspx|archivedate=2 December 2016|df=dmy-all}}</ref>
|1961年||『三人の娘』||{{won}}
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|-
|{{仮リンク|ナショナル・フィルム・アワード 最優秀非長編映画賞|en|National Film Award for Best Non-Feature Film|label=最優秀非長編映画賞}}||『詩聖タゴール』||{{won}}
|1964年||作品賞||『チャルラータ』||{{won}}
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|1964年||最優秀長編映画賞||『チャルラータ』||{{won}}||<ref name="12thaward">{{cite web|url=http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm12thNFAAward.aspx|title=12th National Film Awards|publisher=International Film Festival of India|accessdate=14 September 2011|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120225220334/http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm12thNFAAward.aspx|archivedate=25 February 2012|df=dmy-all}}</ref>
|1967年||[[ナショナル・フィルム・アワード 最優秀監督賞|監督賞]]||『動物園』||{{won}}
|-
|-
|1966年||{{仮リンク|ナショナル・フィルム・アワード 最優秀脚本賞|en|National Film Award for Best Screenplay|label=最優秀脚本賞}}||『英雄』||{{won}}||{{Sfn|Ray|2013|p=149}}
|rowspan="2"|1968年||作品賞||rowspan="2"|『グピとバガの冒険』||{{won}}
|-
|-
|1967年||[[ナショナル・フィルム・アワード 最優秀監督賞|最優秀監督賞]]||『動物園』||{{won}}||<ref name="15thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/15th_nff_1967.pdf|title=15th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=21 September 2011|page=4}}</ref>
|rowspan="2"|監督賞||{{won}}
|-
|-
|rowspan="2"|1968年||最優秀長編映画賞||rowspan="2"|『グピとバガの冒険』||{{won}}||rowspan="2"|<ref name="16thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/16th_nff_1970.pdf|title=16th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=22 September 2011|pages=2, 4}}</ref>
|1970年||『対抗者』||{{won}}
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|最優秀監督賞||{{won}}
|1971年||作品賞||『株式会社 ザ・カンパニー』||{{won}}
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|rowspan="3"|1970年||最優秀監督賞||rowspan="3"|『対抗者』||{{won}}||rowspan="3"|<ref name="18thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/17th_NFF_1971.pdf|title=18th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=26 September 2011|pages=2, 5}}</ref>
|1973年||ベンガル語映画賞||『遠い雷鳴』||{{won}}
|-
|-
|{{仮リンク|ナショナル・フィルム・アワード 第2位優秀映画賞|label=第2位優秀映画賞|en|National Film Award for Second Best Feature Film}}||{{won}}
|rowspan="2"|1974年||監督賞||rowspan="2"|『黄金の砦』||{{won}}
|-
|最優秀脚本賞||{{won}}
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|1971年||最優秀長編映画賞||『株式会社 ザ・カンパニー』||{{won}}||{{Sfn|Ray|2013|p=152}}
|-
|1972年||最優秀非長編映画賞||『心の眼』||{{won}}||<ref name="20thaward">{{cite web|url=http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm20thNFAAward.aspx|title=20th National Film Awards|publisher=International Film Festival of India|accessdate=26 September 2011|url-status=dead|archiveurl=https://web.archive.org/web/20131105220349/http://iffi.nic.in/Dff2011/Frm20thNFAAward.aspx|archivedate=5 November 2013|df=dmy-all}}</ref>
|-
|rowspan="2"|1973年||ベンガル語映画賞||rowspan="2"|『遠い雷鳴』||{{won}}||rowspan="2"|<ref name="21stawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/21st_nff_1973.pdf|title=21st National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=29 September 2011|pages=8, 20}}</ref>
|-
|{{仮リンク|ナショナル・フィルム・アワード 最優秀音楽監督賞|en|National Film Award for Best Music Direction|label=最優秀音楽監督賞}}||{{won}}
|-
|rowspan="3"|1974年||最優秀監督賞||rowspan="3"|『黄金の城塞』||{{won}}||rowspan="3"|<ref name="22ndawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/22nd_nff_1974.pdf|title=22nd National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=1 October 2011|pages=8, 11, 20}}</ref>
|-
|最優秀脚本賞||{{won}}
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|-
|ベンガル語映画賞||{{won}}
|ベンガル語映画賞||{{won}}
|-
|-
|1975年||最優秀監督賞||『ミドルマン』||{{won}}||<ref name="23rdawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/23rd_nff_1975.pdf|title=23rd National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=4 October 2011|page=6}}</ref>
|1975年||監督賞||『ミドルマン』||{{won}}
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|1977年||{{仮リンク|ヒンディー語映画賞|en|National Film Award for Best Feature Film in Hindi}}||『チェスをする人』||{{won}}
|1977年||{{仮リンク|ナショナル・フィルム・アワード ヒンディー語映画賞|label=ヒンディー語映画賞|en|National Film Award for Best Feature Film in Hindi}}||『チェスをする人』||{{won}}||<ref name="25thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/25th_nff_1977.pdf|title=25th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=4 October 2011|page=18}}</ref>
|-
|-
|1978年||{{仮リンク|ナショナル・フィルム・アワード 最優秀児童映画賞|en|National Film Award for Best Children's Film|label=最優秀児童映画賞}}||『消えた象神』||{{won}}||<ref name="26thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/26th_NFA.pdf|title=26th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=4 October 2011|page=14}}</ref>
|1980年||rowspan="3"|ベンガル語映画賞||『ダイヤモンドの王国』||{{won}}
|-
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|rowspan="2"|1980年||ベンガル語映画賞||rowspan="2"|『ダイヤモンドの王国』||{{won}}||rowspan="2"|<ref name="28thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/28th_nff_1981.pdf|title=28th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=4 October 2011|pages=20, 24}}</ref>
|1984年||『家と世界』||{{won}}
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|1989年||『民衆の敵』||{{won}}
|最優秀音楽監督賞||{{won}}
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|1981年||{{仮リンク|ナショナル・フィルム・アワード 審査員特別賞|en|National Film Award – Special Jury Award (feature film)|label=審査員特別賞}}||『遠い道』||{{won}}||<ref name="29thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/29th_nff_1982.pdf|publisher=Directorate of Film Festivals|title=29th National Film Awards|accessdate=4 October 2011|page=21}}</ref>
|rowspan="2"|1991年||作品賞||rowspan="2"|『見知らぬ人』||{{won}}
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|1984年||ベンガル語映画賞||『家と世界』||{{won}}||<ref name="32ndawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/32nd_nff_1985.pdf|title=32nd National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=6 January 2012|page=32}}</ref>
|監督賞||{{won}}
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|1989年||ベンガル語映画賞||『民衆の敵』||{{won}}||<ref name="37thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/37nfa.pdf|title=37th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=29 January 2012|page=64}}</ref>
!rowspan="3" style="text-align:left"|[[カンヌ国際映画祭]]
|rowspan="2"|[[第9回カンヌ国際映画祭|1956年]]||[[カンヌ国際映画祭 国際カトリック映画事務局賞|国際カトリック映画事務局賞]](特別賞)||rowspan="2"|『大地のうた』||{{won}}
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|-
|rowspan="2"|1991年||最優秀長編映画賞||rowspan="2"|『見知らぬ人』||{{won}}|| rowspan="2"|<ref name="39thawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/39nd_nff_1985.pdf|title=39th National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=27 February 2012|pages=14, 16}}</ref>
|人間的ドキュメント賞||{{won}}
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|-
|最優秀監督賞||{{won}}
|[[第35回カンヌ国際映画祭|1982年]]||''Hommage à Satyajit Ray''||||{{won}}
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|1994年||最優秀脚本賞||『''Uttoran''』||{{won}}||<ref name="41stawardPDF">{{cite web|url=http://dff.nic.in/2011/41st_nff_1994.pdf|title=41st National Film Awards|publisher=Directorate of Film Festivals|accessdate=3 March 2012|page=50}}</ref>
|-
!rowspan="2" style="text-align:left"|[[カンヌ国際映画祭]]
|rowspan="2"|[[第9回カンヌ国際映画祭|1956年]]||ヒューマン・ドキュメント賞||rowspan="2"|『大地のうた』||{{won}}||{{Sfn|杉本|2002|pp=128-129}}
|-
|[[カンヌ国際映画祭 国際カトリック映画事務局賞|国際カトリック映画事務局賞]]||{{won}}||<ref>{{cite book|last=Lyden|first=John|title=The Routledge Companion to Religion and Film|url=https://books.google.com/books?id=Q9OJLAZakI4C&pg=PA62|year=2009|publisher=Taylor & Francis|isbn=978-0-415-44853-6|page=62}}</ref>
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|-
!rowspan="4" style="text-align:left"|[[ヴェネツィア国際映画祭]]
!rowspan="4" style="text-align:left"|[[ヴェネツィア国際映画祭]]
|rowspan="2"|1957年||[[金獅子賞]]||rowspan="2"|『大河のうた』||{{won}}
|rowspan="3"|1957年||[[金獅子賞]]||rowspan="3"|『大河のうた』||{{won}}||<ref name="ヴェネツィア"/>
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|-
|[[ヴェネツィア国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]||{{won}}
|[[ヴェネツィア国際映画祭 FIPRESCI賞|国際映画批評家連盟賞]]||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://www.fipresci.org/awards/1957|title=FIPRESCI Award 1957|accessdate=4 June 2015|publisher=International Federation of Film Critics|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150605001553/http://www.fipresci.org/awards/1957|archivedate=5 June 2015}}</ref>
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|チネマ・ヌオヴォ賞||{{won}}||{{Sfn|Ray|2013|p=140}}
|1972年||国際映画批評家連盟賞||『株式会社 ザ・カンパニー』||{{won}}
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|1972年||国際映画批評家連盟賞||『株式会社 ザ・カンパニー』||{{won}}||{{sfn|Ray|2013|p=152}}
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!rowspan="5" style="text-align:left"|[[サンフランシスコ国際映画祭]]
|rowspan="2"|1957年||作品賞||rowspan="2"|『大地のうた』||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{cite web|url=http://history.sffs.org/films/film_details.php?id=3802|title=Pather Panchali |accessdate=4 June 2015|publisher=San Francisco International Film Festival|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130921212332/http://history.sffs.org/films/film_details.php?id=3802|archivedate=21 September 2013}}</ref>
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|監督賞||{{won}}
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|rowspan="2"|1958年||作品賞||rowspan="2"|『大河のうた』||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{cite web|url=http://history.sffs.org/films/film_details.php?id=255|title=Aparajito |accessdate=5 June 2015|publisher=San Francisco International Film Festival|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130921211042/http://history.sffs.org/films/film_details.php?id=255|archivedate=21 September 2013}}</ref>
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|監督賞||{{won}}
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|1992年||黒澤明賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://fest11.sffs.org/awards/oliver_stone.php|title=Founder's Directing Award: Oliver Stone|accessdate=1 June 2014|publisher=San Francisco International Film Festival|archiveurl=https://web.archive.org/web/20130604223647/http://fest11.sffs.org/awards/oliver_stone.php|archivedate=4 June 2013 }}</ref>
|1982年||[[栄誉金獅子賞]]||||{{won}}
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!rowspan="3" style="text-align:left"|[[英国アカデミー賞]]
!rowspan="3" style="text-align:left"|[[英国アカデミー賞]]
|1957年||[[英国アカデミー賞 作品賞|総合作品賞]]||『大地のうた』||{{nom}}||<ref>{{cite web|url=http://awards.bafta.org/award/1958/film/film-and-british-film|title=1958 Film Film And British Film|accessdate=5 June 2014|publisher=British Academy of Film and Television Arts|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141129200430/http://awards.bafta.org/award/1958/film/film-and-british-film|archivedate=29 November 2014}}</ref>
|1957年||rowspan="3"|[[英国アカデミー賞 作品賞|作品賞]](総合)||『大地のうた』||{{nom}}
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|1958年||総合作品賞||『大河のうた』||{{nom}}||<ref>{{cite web|url=http://awards.bafta.org/award/1959/film/film-and-british-film|title=1959 Film Film And British Film|accessdate=5 June 2014|publisher=British Academy of Film and Television Arts|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141031170656/http://awards.bafta.org/award/1959/film/film-and-british-film|archivedate=31 October 2014}}</ref>
|1958年||『大河のうた』||{{nom}}
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|1961年||総合作品賞||『大樹のうた』||{{nom}}||<ref>{{cite web|url=http://awards.bafta.org/award/1962/film/film-and-british-film|title=1962 Film Film And British Film|accessdate=5 June 2014|publisher=British Academy of Film and Television Arts|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150604032450/http://awards.bafta.org/award/1962/film/film-and-british-film|archivedate=4 June 2015}}</ref>
|1961年||『大樹のうた』||{{nom}}
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!rowspan="2" style="text-align:left"|[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]]
!rowspan="2" style="text-align:left"|[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞]]
|1958年||rowspan="2"|[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]||『大地のうた』||{{won}}
|1958年||[[ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 外国語映画賞|外国語映画賞]]||『大地のうた』||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://www.nationalboardofreview.org/award-years/1958/|title=1958 Award Winners|publisher=National Board of Review Awards|accessdate=5 June 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150602214619/http://www.nationalboardofreview.org/award-years/1958/|archivedate=2 June 2015}}</ref>
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|1960年||外国語映画賞||『大樹のうた』||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://www.nationalboardofreview.org/award-years/1960/|title=1960 Award Winners|publisher=National Board of Review Awards|accessdate=5 June 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141013193338/http://www.nationalboardofreview.org/award-years/1960/|archivedate=13 October 2014}}</ref>
|1960年||『大樹のうた』||{{won}}
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!rowspan="2" style="text-align:left"|[[英国映画協会]]
!style="text-align:left"|[[ロンドン映画祭|BFIロンドン映画]]
|1959年||[[サザーランド杯]]||『大樹のうた』||{{won}}
||1959年||[[サザーランド杯]]||『大樹のうた』||{{won}}||{{Sfn|Ray|2013|p=142}}
|-
|1983年||{{仮リンク|BFIフェローシップ賞|en|British Film Institute Fellowship}}||||{{won}}
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!rowspan="5" style="text-align:left"|[[ベルリン国際映画祭]]
!rowspan="5" style="text-align:left"|[[ベルリン国際映画祭]]
|1964年||rowspan="2"|[[銀熊賞 (監督賞)]]||『大都会』||{{won}}
|1964年||[[銀熊賞 (監督賞)]]||『ビッグ・シティ』||{{won}}||<ref name="berlinale1"/>
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|rowspan="2"|1965年||rowspan="2"|『チャルラータ』||{{won}}
|rowspan="2"|1965年||銀熊賞 (監督賞)||rowspan="2"|『チャルラータ』||{{won}}||<ref name="berlinale2"/>
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|-
|国際カトリック映画事務局賞||{{won}}||{{sfn|Ray|2013|p=147}}
|OCIC賞||{{won}}
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|-
|1966年||特別表彰||『英雄』||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1966/03_preistr_ger_1966/03_Preistraeger_1966.html|title=Prizes & Honours 1966|accessdate=7 June 2014|publisher=Internationale Filmfestspiele Berlin|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150319025331/http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1966/03_preistr_ger_1966/03_Preistraeger_1966.html|archivedate=19 March 2015}}</ref>
|1966年||特別賞||『''ナヤック''』||{{won}}
|-
|-
|1973年||[[金熊賞]]||『遠い雷鳴』||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1973/03_preistr_ger_1973/03_Preistraeger_1973.html|title=Programme 1973: In Competition|accessdate=7 June 2014|publisher=Internationale Filmfestspiele Berlin|archiveurl=https://web.archive.org/web/20150319040253/http://www.berlinale.de/en/archiv/jahresarchive/1973/03_preistr_ger_1973/03_Preistraeger_1973.html|archivedate=19 March 2015}}</ref>
|1973年||[[金熊賞]]||『遠い雷鳴』||{{won}}
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!rowspan="2" style="text-align:left"|[[キネマ旬報|キネマ旬報ベスト・テン]]
!rowspan="2" style="text-align:left"|[[キネマ旬報ベスト・テン]]
|rowspan="2"|1966年||外国映画ベストン||rowspan="2"|『大地のうた』||{{won}}
|rowspan="2"|1966年||外国映画ベスト・テン||rowspan="2"|『大地のうた』||{{won|1位}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite book |和書 |date=2012-05|title=キネマ旬報ベスト・テン85回全史 1924-2011|series=キネマ旬報ムック|publisher=キネマ旬報社|pages=231, 238頁}}</ref>
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|外国映画監督賞||{{won}}
|外国映画監督賞||{{won}}
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!rowspan="2" style="text-align:left"|[[ボディル賞]]
!rowspan="2" style="text-align:left"|[[ボディル賞]]
|1967年||rowspan="2"|[[ボディル賞 非アメリカ映画賞|非アメリカ映画賞]]||『大河のうた』||{{won}}
|1967年||{{仮リンク|ボディル賞 非ヨーロッパ映画賞|label=ヨーロッパ映画賞|en|Bodil Award for Best American Film}}||『大河のうた』||{{won}}||rowspan="2"|<ref>{{Cite web |url=http://www.bodilprisen.dk/priskategorier/ikke-amerikanske-film/ |title=Ikke-amerikanske film |website=Bodilprisen |accessdate=2021年8月3日}}</ref>
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|1969年||『大地のうた』||{{won}}
|1969年||非ヨーロッパ映画賞||『大地のうた』||{{won}}
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!style="text-align:left"|[[モスクワ国際映画祭]]
!style="text-align:left"|[[モスクワ国際映画祭]]
|1979年||名誉賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://www.moscowfilmfestival.ru/miff34/eng/archives/?year=1979|title=1979 :: Moscow International Film Festival|publisher=Moscow International Film Festival|accessdate=31 May 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140403102012/http://www.moscowfilmfestival.ru/miff34/eng/archives/?year=1979|archivedate=3 April 2014 }}</ref>
|1979年||名誉賞||||{{won}}
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!style="text-align:left"|[[フィルムフェア賞]]
!style="text-align:left"|[[フィルムフェア賞]]
|1979年||監督賞||『チェスをする人』||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://recipeguide.indiatimes.com/awards2001/ex_dir.html|title=Previous Awards: Best Director|accessdate=2 June 2014|publisher=Indiatimes|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141008210934/http://recipeguide.indiatimes.com/awards2001/ex_dir.html|archivedate=8 October 2014}}</ref>
|1979年||監督賞||『チェスをする人』||{{won}}
|-
!style="text-align:left"|{{仮リンク|BFIフェローシップ賞|en|British Film Institute Fellowship}}
|1983年||style="text-align:center"|-||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{Cite web|url=http://ftvdb.bfi.org.uk/sift/event/18693|publisher=British Film Institute|accessdate=31 May 2014|title=BFI Fellowship: 1983|archiveurl=https://web.archive.org/web/20121023062826/http://ftvdb.bfi.org.uk/sift/event/18693|archivedate=23 October 2012}}</ref>
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!style="text-align:left"|[[アカデミー賞]]
!style="text-align:left"|[[アカデミー賞]]
|[[第64回アカデミー賞|1991年]]||[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]||||{{won}}
|[[第64回アカデミー賞|1991年]]||[[アカデミー名誉賞|名誉賞]]||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref name="oscar"/>
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!style="text-align:left"|[[サンフランシスコ国際映画祭]]
!style="text-align:left"|[[東京国際映画祭]]
|[[第4回東京国際映画祭|1991年]]||特別功労賞||style="text-align:center"|-||{{won}}||<ref>{{cite web|url=http://history.tiff-jp.net/en/archives?no=4|title=4th Tokyo International Film Festival|publisher=Tokyo International Film Festival|accessdate=7 June 2014|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140714200240/http://history.tiff-jp.net/en/archives?no=4|archivedate=14 July 2014}}</ref>
|1992年||黒澤明賞||||{{won}}
|}
|}

== ドキュメンタリー作品 ==
* 『''Creative Artists of India - Satyajit Ray''』(1964年、{{仮リンク|バグワン・ダス・ガルガ|en|Bhagwan Das Garga}}監督)
* 『''Satyajit Ray''』(1982年、{{仮リンク|シャーム・ベネガル|en|Shyam Benegal}}監督)
* 『''The Music of Satyajit Ray''』(1984年、[[:en:Utpalendu Chakrabarty|Utpalendu Chakrabarty]]監督)
* 『''Ray Life and Work of Satyajit Ray''』(1999年、[[ゴータム・ゴース]]監督)

== 著書(日本語訳) ==
* 『黄金の城塞』[[西岡直樹]]訳、くもん出版〈くもんの海外児童文学シリーズ〉、1991年11月。ISBN 978-4875766605。
* 『消えた象神』西岡直樹訳、くもん出版〈くもんの海外児童文学シリーズ〉、1993年3月。ISBN 978-4875767657。
* 『わが映画インドに始まる 世界シネマへの旅』森本素世子訳、[[第三文明社]]、1993年7月。ISBN 978-4476031782。
* 『ユニコーンを探して サタジット・レイ小説集』内山眞理子訳、[[筑摩書房]]、1993年11月。ISBN 978-4480831446。


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
{{Reflist|colwidth=30em}}
{{Notelist2}}
=== 出典 ===
{{Reflist|25em}}


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書 |author=[[宇田川幸洋]] |date=2007-9 |chapter=レイ |title=世界大百科事典 |volume=第30巻 |publisher=[[平凡社]] |isbn=978-4582034004 |page=77 |ref={{Harvid|宇田川|2007}}}}
{{Refbegin}}
* {{Cite book|editor = Biswas, M|year = 2006|title = Apu and after: Revisiting Ray's cinema|publisher = Seagull Books|isbn = 978-1-905422-25-8|ref = harv}}.
* {{Cite book|和書 |author=[[杉本良男]] |date=2002-12 |title=インド映画への招待状 |publisher=[[青弓社]] |isbn=978-4787271617 |ref={{Harvid|杉本|2002}}}}
* {{Cite journal|和書 |author=[[丹羽京子]] |date=2018-7 |title=語りとしての映画~『チャルロタ』考~ |journal=東京外国語大学論集 |issue=96 |publisher=[[東京外国語大学]] |pages=223-242 |ref={{Harvid|丹羽|2018}}}}
* {{Cite book|last1 = Cooper|given1 = D|year = 2000|title = The Cinema of Satyajit Ray: Between Tradition and Modernity|url = http://assets.cambridge.org/052162/0260/sample/0521620260WSN01.pdf|publisher = Cambridge University Press|isbn = 0-521-62980-2|ref = harv}}.
* {{Cite book|和書 |author=サタジット・レイ |translator=森本素世子|date=1993-7 |title=わが映画インドに始まる 世界シネマへの旅 |publisher=[[第三文明社]] |isbn=978-4476031782 |page=77 |ref={{Harvid|レイ|1993}}}}
* {{Cite book|last1 = Dasgupta|given1 = C|year = 1996|title = The cinema of Satyajit Ray|publisher = Penguin India|isbn = 0-14-024780-7|ref = harv}}.
* {{Cite book|和書 |author= |date=1975-3 |title=世界の映画作家7 ショトジット・ライ、ルイス・ブニュエル |publisher=[[キネマ旬報社]] |isbn= |ref={{Harvid|世界の映画作家|1975}}}}
* {{Cite book|last1 = Ganguly|given1 = S|year = 2001|title = Satyajit Ray: In search of the modern|publisher = Indialog|isbn = 81-87981-04-0|ref = harv}}.
* {{Cite book |last=Dasgupta |first=Chidananda Das |year=1996 |title=The cinema of Satyajit Ray |publisher=Penguin India |isbn=0-14-024780-7 |ref={{Harvid|Dasgupta|1996}}}}
* Ishaghpour, Y (2002). ''Satyajit Ray, l'Orient et l'Occident'', Editions de la Différence, collection : Les essais, France. ISBN 2-7291-1401-7
* {{Cite journal|last1 = Mitra|given1 = S|year = 1983|title = The Genius of Satyajit Ray|journal = India Today|ref = harv}}.
* {{Cite book |last=Ray |first=Satyajit |year=1994 |title=My Years with Apu |publisher=Viking |isbn=0-670-86215-0 |ref={{Harvid|Ray|1994}}}}
* {{Cite book|last1 = Nandy|given1 = A|year = 1995|chapter = Satyajit Ray's Secret Guide to Exquisite Murders|title = The Savage Freud and Other Essays on Possible and Retrievable Selves|publisher = Princeton University Press|isbn = 0-691-04410-4|ref = harv}}.
*{{cite book |last=Ray |first=Satyajit |editor-last=Ray |editor-first=Sandip |title=Satyajit Ray on Cinema |url=https://books.google.com/books?id=cgeaM-Zl6ykC&pg=PA164 |publisher=[[Columbia University Press]] |year=2013 |isbn=978-0-231-16495-5 |ref={{Harvid|Ray|2013}}}}
* {{Cite book|last1 = Nyce|given1 = B|year = 1988|title = Satyajit Ray: A Study of His Films|publisher = Praeger Publishers|isbn = 0-275-92666-4
* {{Cite book |last=Robinson |first=Andrew |year=2003 |title=Satyajit Ray: The Inner Eye: The Biography of a Master Film-Maker |publisher=I. B. Tauris |isbn=1-86064-965-3|ref={{Harvid|Robinson|2003}}}}
* {{Cite book |last=Robinson |first=Andrew |year=2005 |title=Satyajit Ray: A Vision of Cinema |publisher=I. B. Tauris |isbn=1-84511-074-9 |ref={{Harvid|Robinson|2005}}}}
|ref = harv}}.
* {{Cite book|last1 = Ray|given1 = S|year = 1993|edition = 3|title = Our films, their films|publisher = Asia Book Corp of Amer|isbn = 0-86311-317-6|ref = harv}}.
* {{Cite book |last=Seton |first=Marie |year=1971 |title=Satyajit Ray: Portrait of a director |publisher=Indiana University Press |isbn=0-253-16815-5 |ref={{Harvid|Seton|1971}}}}
* {{Cite book|last1 = Ray|given1 = S|year = 1994|title = My Years with Apu|publisher = Viking|isbn= 0-670-86215-0|ref = harv}}.
* {{Cite book |last=Wood |first=Robin |year=1972 |title=The Apu trilogy |publisher=November Books Ltd |isbn=0-85631-003-4 |ref={{Harvid|Wood|1972}}}}

* {{Cite book|last1 = Ray|given1 = S|year = 2005|title = Speaking of films|publisher = Penguin India|isbn = 0-14-400026-1|ref = harv}}.
== 関連項目 ==
* {{Cite book|last1 = Robinson|given1 = A|year = 2003|title = Satyajit Ray: The Inner Eye: The Biography of a Master Film-Maker|publisher = I. B. Tauris|isbn = 1-86064-965-3|ref = harv}}.
* {{仮リンク|ベンガルの文化|en|Culture of Bengal}}
* {{Cite book|last1 = Robinson|given1 = A|year = 2005|title = Satyajit Ray: A Vision of Cinema|publisher = I. B. Tauris|isbn = 1-84511-074-9|ref = harv}}.
* {{仮リンク|西ベンガルの文化|en| Culture of West Bengal}}
* {{Cite book|last1 = Rushdie|given1 = S|year = 1992|title = Imaginary Homelands|publisher = Penguin|isbn = 0-14-014036-0|ref = harv}}.
* [[西ベンガルの映画]]
* {{Cite book|last1 = Santas|given1 = Constantine|year = 2002|title =Responding to film: A Text Guide for Students of Cinema Art|publisher = Rowman & Littlefield|isbn =0-8304-1580-7|ref = harv}}.
* [[パラレル映画]]
* {{Cite book|last1 = Seton|given1 = Marie|year = 1971|title = Satyajit Ray: Portrait of a director|publisher = Indiana University Press|isbn = 0-253-16815-5|ref = harv}}.
* {{Cite book|last1 = Wood|given1 = R|year = 1972|title = The Apu trilogy|publisher = November Books Ltd|isbn = 0-85631-003-4|ref = harv}}.
{{Refend}}


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{ウィキポータルリンク|映画|[[画像:Pictograms-nps-services-theater-2.svg|40px|Portal:映画]]}}
{{Commonscat|Satyajit Ray}}
{{Commonscat|Satyajit Ray}}
* [http://www.satyajitray.org.uk Satyajit Ray Foundation]{{en icon}}
{{Wikiquote|en: Satyajit Ray|サタジット・レイ{{en icon}}}}
* [http://www.satyajitray.org SatyajitRay.org]{{en icon}}
* [http://www.satyajitray.org Satyajit Ray.org]{{en icon}}
* {{IMDb name|0006249|Satyajit Ray}}
* [http://www.worldofray.com World of Ray]{{en icon}}
* {{AllRovi person|107687|Satyajit Ray}}
* {{allcinema name|4656|サタジット・レイ}}
* {{allcinema name|4656|サタジット・レイ}}
* {{Kinejun name|51682|サタジット・レイ}}
* {{Kinejun name|51682|サタジット・レイ}}
* {{IMDb name|0006249|Satyajit Ray}}


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2021年9月28日 (火) 15:47時点における版

サタジット・レイ
Satyajit Ray / সত্যজিৎ রায়
Satyajit Ray / সত্যজিৎ রায়
サタジット・レイ(1981年)
生年月日 (1921-05-02) 1921年5月2日
没年月日 (1992-04-23) 1992年4月23日(70歳没)
出生地 イギリス領インド帝国の旗 イギリス領インド帝国 ベンガル管区英語版カルカッタ(現在のインド 西ベンガル州コルカタ
死没地 インドの旗 インド 西ベンガル州カルカッタ
身長 6フィート4インチ (1.93 m)[1]
職業 映画監督脚本家作曲家小説家カリグラファーイラストレーター
活動期間 1950年 - 1992年
配偶者 ビジョヤ・レイ英語版(1949年 - 1992年)
著名な家族 祖父:ウペンドロキショル・レイ英語版(作家)
父:シュクマル・レイ英語版(作家)
息子:サンディープ・レイ英語版(映画監督)
主な作品
大地のうた』(1955年)
『大河のうた』(1956年)
『音楽ホール』(1958年)
『大樹のうた』(1959年)
『ビッグ・シティ』(1963年)
チャルラータ』(1964年)
遠い雷鳴』(1973年)
受賞
アカデミー賞
名誉賞
1991年 映画芸術でも類稀な円熟と深い人道主義の視野が世界中の映画製作者と観客に消えない影響を与えた功績に対して
カンヌ国際映画祭
ヒューマン・ドキュメント賞
1956年大地のうた
国際カトリック映画事務局賞
1956年『大地のうた』
ヴェネツィア国際映画祭
金獅子賞
1957年大河のうた
国際映画批評家連盟賞
1957年『大河のうた』
1972年『株式会社 ザ・カンパニー』
栄誉金獅子賞
1982年
ベルリン国際映画祭
金熊賞
1973年遠い雷鳴
銀熊賞(監督賞)
1964年ビッグ・シティ
1965年チャルラータ
国際カトリック映画事務局賞
1965年『チャルラータ』
その他の賞
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サタジット・レイのサイン。

サタジット・レイ英語:Satyajit Ray、ベンガル語সত্যজিৎ রায়1921年5月2日 - 1992年4月23日)は、インド映画監督脚本家作曲家小説家カリグラファーイラストレーターである。サタジット・レイという呼称は英語読みを日本語に移したもので、ベンガル語ではショトジット・ライSatyajitRay2.ogg [ˈʃɔtːodʒit ˈrai̯][ヘルプ/ファイル])と発音される[2]インド映画もしくはベンガル語映画を代表する監督であり、国際的に高く評価され影響を与えた巨匠のひとりと広く見なされている[2][3][4]。生涯で36本の映画を監督したが、その中には長編劇映画だけでなく、ドキュメンタリー短編映画も含まれている。映画以外にも、作家として児童文学作品などを執筆しており、さらにベンガル文字カリグラフィーの創作や、本やポスターのグラフィックデザインでも知られた。

サタジットはカルカッタ(現在のコルカタ)の著名な文学者の家に生まれ、広告会社や出版社のデザイナーとしてキャリアを始めたが、フランスの映画監督ジャン・ルノワールとの出会いや、ネオレアリズモ映画『自転車泥棒』(1948年)を見たことから映画監督の道へ進んだ。初監督作品『大地のうた』(1955年)は、第9回カンヌ国際映画祭のヒューマン・ドキュメント賞などを受賞し、インド映画が国際的に注目されるきっかけとなった。この作品は『大河のうた』(1956年)、『大樹のうた』(1959年)とともに「オプー三部作英語版」を成す。その後、サタジットはインドの芸術映画の代表者として、『音楽ホール英語版』(1958年)、『ビッグ・シティ英語版』(1963年)、『チャルラータ』(1964年)など、ベンガル人の社会や生活を題材にした作品を手がけた。映画製作では、脚本、キャスティング、映画音楽の作曲、編集、広告のデザインまでをすべて自分でこなした。サタジットはキャリアを通して、インドの映画賞ナショナル・フィルム・アワードをはじめ、ヴェネツィアベルリン国際映画祭などで数多くの賞を受賞しており、 1992年にはアカデミー名誉賞と、インド民間人の最高賞であるバーラト・ラトナ賞を授けられた。

生涯

生誕と初期の人生

幼少期のサタジット・レイ。

サタジット・レイの先祖は少なくとも十世代前まで遡ることができる[5]。祖父のウペンドロキショル・レイ英語版は著名な児童文学作家で、子供向け雑誌『ションデシュ英語版』の発行を手がけた[6]。また、印刷会社U. Ray and Sonsの設立者でもあり、ほかにもイラストレーターや哲学者、アマチュア天文学者、さらには19世紀のベンガルで興った宗教および社会活動のブラフモ・サマージの指導者としても活動し、詩人のラビンドラナート・タゴールの一家とも親しかった[6][7]。父のシュクマル・レイ英語版ベンガル語の児童文学とナンセンス・ヴァース英語版で先駆的な業績を残した作家であり、イラストレーターや評論家としても活動した[7]

1921年5月2日、サタジットはカルカッタ(現在のコルカタ)で、シュクマルと母スプラバ・レイの間に生まれた。サタジットは上流階級に属する家庭に生まれたが、わずか3歳の時にシュクマルが亡くなったため、スプラバの親戚の家に身を寄せながら、スプラバのわずかな収入で生活することになった[8][9]。成長したサタジットはカルカッタのバーリグンジ政府高校英語版で学び、プレジデンシー・カレッジ英語版(当時はコルカタ大学の管区カレッジ)で経済学の学士号を取得したが、既にサタジットの興味はいつもファインアートに向けられ、西洋音楽に夢中となった[6][8]

1940年、サタジットの母親はタゴールが設立したシャンティニケトン英語版ビシュバ・バラティ大学へ進学するよう求めたが、カルカッタに愛着を持つサタジットはシャンティニケトンで学業生活を送ることに乗り気ではなかった[10]。サタジットは母の説得と、タゴールを尊敬していたこともあって進学を決意し、美術学科に入ったが、この時期に東洋芸術に触れ、後に認めたところによると有名な画家のノンドラル・ボーズ英語版ビノード・ビハーリー・ムカルジー英語版[注 1]からたくさんの事を学んだ[12][13]。さらにこの時期にアジャンター石窟群エローラ石窟群エレファンタ石窟群を訪れ、そのインド芸術から大きな刺激を受けた[14]

22歳頃のサタジット・レイ。

1943年、サタジットはカルカッタのイギリス系広告会社D・J・キーマー社にグラフィックデザイナーとして就職し[12][15]、月80ルピーの給料を得た。サタジットはグラフィックデザインの制作を上手くこなしたが、会社内ではイギリス人とインド人の従業員の間にいさかいがあり、イギリス人社員は給与も優遇されていた。さらにサタジットは「依頼はどれも愚かしげなものばかり」と感じていた[16]。やがてサタジットは、D. K. Guptaが新たに設立した出版社シグネット・プレス英語版で働いた。この会社では出版される書籍の表紙デザインを任され、尚且つ完全な芸術的自由を与えられた。サタジットはJibanananda Dasの『Banalata Sen』と『Rupasi Bangla』、ジム・コーベット英語版の『Maneaters of Kumaon』、ジャワハルラール・ネルーの『インドの発見英語版』など多くの本の表紙をデザインした[17]。また、ビブティブション・ボンドパッダエが著したベンガル語の古典的小説『大地のうた英語版』を子供向けに改訂した『Aam Antir Bhepu』の表紙デザインと挿絵も手がけたが、サタジットはこの本に大きな感銘を受け、後に自身の初監督映画の題材に選び、その作品のいくつかの革新的な場面でこの挿絵を用いた[12][17]

1947年、サタジットは友人のチダナンダ・ダスグプタ英語版らとともに、カルカッタで最初のシネクラブであるカルカッタ・フィルム・ソサエティ英語版を設立した[15][18]。サタジットはセルゲイ・エイゼンシュテイン監督のソ連映画『戦艦ポチョムキン』(1925年)などのヨーロッパ映画をインドで初めて上映し、映画文化を普及させる運動に従事しながら、自らもそれらの作品を鑑賞して映画を勉強した[15][18][19]。また、第二次世界大戦中にカルカッタに駐留していたアメリカ兵と親しくなり、カルカッタで上映されるアメリカ映画の最新情報を仕入れ続けていた。この頃にサタジットはイギリス空軍にいたノーマン・クレールと親しくなり、クレールを通じてチェスや西洋クラシック音楽にも熱をあげた[18]

1949年、サタジットは従姉で長年の恋人だったビジョヤ・ダス英語版と結婚した[注 2]。夫婦は後に映画監督となる息子サンディープ・レイ英語版を得た[21]。この年、フランスの映画監督ジャン・ルノワールが『』の撮影のためにカルカッタを訪れた。サタジットはルノワールの仕事を手伝い、カルカッタ周辺のロケ地探しに務めた[9]。さらにサタジットはルノワールに長く心にとどまる『大地のうた』を映画化する構想を話し、ルノワールはそれを進めるよう励ました[22]。翌1950年、サタジットはD・J・キーマー社からロンドン本社での勤務を命じられ、約6ヶ月間その地にとどまり、その間に99本の映画を鑑賞した[23]。それらの映画の中にはヴィットリオ・デ・シーカ監督のネオレアリズモ映画『自転車泥棒』(1948年)があり、サタジットはこの作品に強い衝撃を受けた。後に語ったところによると、映画監督になることを決意して劇場を出たという[23]

オプー三部作

『大地のうた』製作時のサタジット・レイ(1955年)。

帰国したサタジットは、ボンドパッダエのベンガル語の古典的教養小説で、ベンガルの村で育った少年オプーの半生を描く作者の自伝的小説『大地のうた』を原作として、初めての映画監督作品に取りかかることにした[9][24]。サタジットはロンドンからインドへ帰る航海中に書き始めたシナリオと数百枚のデッサンを抱えて数人のプロデューサーと掛け合ったが、誰もこの企画に関心を持とうとはしなかった[9][25]。それでもサタジットは生命保険から資金を出して、1952年にようやく撮影を開始した[9]。スタッフは、サタジットの友人で後年まで仕事を共にしたカメラマンスブラタ・ミットラ英語版美術監督バンシ・チャンドラグプタ英語版の両者を除くと未経験者ばかりで、俳優もほとんどが素人だった[9][26]

サタジットはまだ広告会社の仕事を続けていたため、休みの週末にしか『大地のうた』の仕事を進めることができなかった[9]。自己調達で賄ったほんの少額の製作資金もすぐに使い果たしてしまい、相変わらず出資者も見つからなかったため、約1年半も製作を中断することになった[9][26]。その後、サタジットの母親と共通の友人がいた西ベンガル州首相のビダン・チャンドラ・ロイの計らいにより、政府から分割払いで融資を受けることになった[9]。政府はシナリオがあまりにもペシミスティックだという理由で、ハッピーエンドにするように要求したが、サタジットはこれを拒絶し、それにもかかわらず融資は受けた[27]。また、1954年にサタジットはニューヨーク近代美術館(MoMA)のディレクターのモンロー・ウィーラー英語版にフィルムの一部を見せた。これに感銘を受けたウィーラーは、サタジットに仕上げ資金を送り、MoMAで上映できるようにした[26][28]。さらに『王になろうとした男』のロケ場所をインドで探していたジョン・ヒューストンもフィルムを見て、「大いなる才能が海のむこうにいる」と語った[29]

大地のうた』は3年もの時間をかけてようやく完成し、1955年5月にMoMAで初公開され、8月にインド国内で劇場公開された[30]。作品は国際的に高い評価を受け、ベンガル語圏や欧米では興行的にも大成功を収めた[31]ザ・タイムズ・オブ・インディア紙は「他のインド映画と比べるなどとんでもない...『大地のうた』は純粋たる映画である」と賞賛の評を書き、イギリスでもリンゼイ・アンダーソンが熱烈な批評を書いた[32]。しかし中にはフランソワ・トリュフォーが鑑賞後に「私は農民らが手で食事をするような映画は見たくない」と語ったように批判もあった[33]。アメリカでは、当時最も権威のあった映画批評家ボズレー・クラウザーニューヨーク・タイムズに「この映画を楽しむには忍耐が必要だ」と仮借のない批評を書き[34]、アメリカでの配給元はクラウザーの批評で興行は上手くいかないと恐れたが、公開されると8ヶ月ものロングランを記録した[35]。また、翌1956年第9回カンヌ国際映画祭ではヒューマン・ドキュメント賞を受賞した[31]

サタジットの国際的なキャリアは、次作で『大地のうた』の続編にあたる『大河のうた』(1956年)の成功を受けて本格的に始まった[35]。『大河のうた』はオプーの青年期を描いた作品で[25]1957年ヴェネツィア国際映画祭で最高賞の金獅子賞を受賞した[36]ムリナル・セン英語版リッティク・ゴトクなどのインドの映画人は、この作品に前作を上回る高い評価を与えた[35]。しかし、『大河のうた』を撮り終えたサタジットは、それとはまったく異なるスタイルや雰囲気を持つ作品を撮りたいと考え、1958年に風刺喜劇の『哲学者の石英語版』と、タラションコル・ボンドパッダエ原作で徴税請負地主英語版の退廃を描いた『音楽ホール英語版』を撮影し、『音楽ホール』はサタジットの最も重要な作品のひとつと見なされている[37][38]

1959年、サタジットはオプーを主人公にした三部作(オプー三部作英語版)の最終作となる『大樹のうた』を撮影した。この作品は成人したオプーが、結婚、子供の誕生、そして妻の死を経験する姿を描いている[25]。元々サタジットは三部作にすることを計画していなかったが、『大河のうた』がヴェネツィア国際映画祭で上映された時に、数人のジャーナリストから三部作のアイデアについて質問されたことで思い立った[9][39]。この作品はインドで『大地のうた』をしのぐほどの興行的成功を収め[9]、映画批評家のロビン・ウッド英語版アバルナ・セーン英語版は三部作の最高傑作と評した。しかし、ベンガル人批評家からは厳しい批判を受け、サタジットは映画の弁護を記した。サタジットは批評家の言うことにほとんど反応しなかったが、この作品と後に撮影した『チャルラータ』に対する批判には反論した[40]。サタジットはオプー三部作で高い成功を収めたが、それは何年経っても自身の私生活に影響を与えることはなく、妻や子供や母親、そして親類たちと借家住まいを続けた[41]

『女神』から『チャルラータ』まで

1960年、サタジットはイギリス領インド帝国時代のヒンドゥー教社会における宗教的迷信を題材にした『女神英語版』を発表した。その粗筋はシャルミラ・タゴール演じる若妻が、義父によって女神カーリーに祭り上げられてしまうというものである[42]。サタジットは中央映画認証委員会による差し止めや再編集の指示を恐れたが、無事上映された。しかし、ヒンドゥー教側からは攻撃され、そのために国外に輸出することを禁じられた。その後、作品を見たインド首相のジャワハルラール・ネルーの計らいで禁が解かれ、第15回カンヌ国際映画祭に出品された[9][42]。翌1961年にはネルーの依頼で、タゴールの生誕100年を記念したドキュメンタリー映画『詩聖タゴール英語版』を撮影した。しかし、タゴールを撮影した映像は限られていたため、サタジットは静止画から映画を作る手法を取らざるをえず、普通の長編映画3本分と同じぐらいの労力がかかったという[9][43]。また、同年にサタジットは敬意を込めてタゴールに捧げるために、タゴールの短編小説3本を原作にしたアンソロジー映画三人の娘英語版』を撮影した[9][11]

同年、サタジットは詩人のスバーシ・ムコーパデャイ英語版らと、かつて祖父が出版し、それを引き継いだ父の死によって途絶えていた子供向け雑誌『ションデシュ』を再刊行した[7]。このためにサタジットは何年もかけて資金を蓄えていた[44]。サタジットはその雑誌のためにイラストを描き、小説や詩を書き始めたが、やがて執筆業はサタジットにとって主な収入源となった[45][46]。一方の映画監督業でもシナリオの執筆に変化があった。それまでのすべての作品は原作ものだったが、1962年公開の『カンチェンジュンガ英語版』で初めてオリジナル脚本を使用した。この作品は西ベンガルの丘の町ダージリンで午後を過ごす上流階級の家族を描いた作品で、サタジットにとって初のカラー映画にもなった[9]

その次にサタジットは『遠征英語版』(1962年)を撮影し、そのあとにカルカッタの中流家庭の夫婦関係を題材にした『ビッグ・シティ英語版』(1963年)と『チャルラータ』(1964年)を撮影した[47]。『ビッグ・シティ』は夫の収入を助けるために仕事を始める女性がさまざまなトラブルに悩む姿を描き[9]、『チャルラータ』はタゴールの短編小説『壊れた巣英語版』を原作に、19世紀ベンガルの孤独な妻チャルの義弟アマルへの恋心を描いた[48]。この2本はサタジットの中期の代表作とされており[47]、とくに『チャルラータ』は多くの批評家からサタジットの最も優れた作品と見なされ、サタジット自身もお気に入りの映画に挙げている[49]。また、サタジットはこの2本で、ベルリン国際映画祭銀熊賞(監督賞)を2年連続で受賞した[50][51]

新たな取り組み

1960年代後半から1980年代前半まで、サタジットはファンタジーSF、探偵ものから歴史映画まで、さまざまなジャンルに取り組んだ。また、この時期は少なからぬ形式上の実験も行い、これまでのサタジットの作品に欠如されていたと指摘された、インド人の生活における現代的な問題を探求した。その最初の主要な映画は、ウッタム・クマール英語版とシャルミラ・タゴールが主演した『英雄英語版』(1966年)である。この作品はある映画スターが列車の旅で、ウマの合う若き女性ジャーナリストと出くわした24時間を描き、売れっ子と思われる二枚目俳優英語版が抱える内面の葛藤を探求した[52]。この作品を発表した年、サタジットは日本を訪れ、尊敬する黒澤明と対面した[53]

1967年、サタジットは『ションデシュ』に書いた短編小説『Bankubabur Bandhu (Banku Babu's Friend)』を下敷きに『エイリアン英語版』という映画脚本を執筆した。この作品はアメリカとインドの共同製作で企画され、コロンビア映画が製作会社となり、ピーター・セラーズマーロン・ブランドを主演に起用することになった。ところが、脚本の著作権と権利金の受け取りはマイケル・ウィルソンに帰属されていることが判明した。ウィルソンは当初、共通の知り合いであるアーサー・C・クラークを通じてサタジットに近づき、ハリウッドにおける代理人となり、「Mike Wilson & Satyajit Ray」の名で著作権登録をしていたが、ウィルソンが脚本に関与したのはただ一単語に過ぎなかった[54][55]。後にサタジットは、この脚本執筆で一銭も受け取らなかったと明かした[55]。さらにマーロン・ブランドが企画を降り、製作側は代わりにジェームズ・コバーンを立てようとしたが、その頃にはサタジットは企画を放棄し、幻滅してカルカッタに戻った[54][55]。コロンビア映画は1970年代から80年代に企画を復活させようとサタジットを説得したが、実現はしなかった。1982年スティーヴン・スピルバーグ監督の『E.T.』が公開された時、サタジットはそれが『エイリアン』の脚本の盗用であると主張し、「『エイリアン』の脚本の写しなしに、アメリカで『E.T.』を作ることはできなかっただろう」と述べたが、スピルバーグはこれを否定している[54]。『エイリアン』以外に、サタジットが構想しながら実現しなかった企画には、古代インド叙事詩マハーバーラタ』や、E・M・フォースターの小説『インドへの道』がある[56]

1969年、サタジットは祖父が書いた童話を基にしたミュージカル・ファンタジー映画『グビとバガの冒険英語版』を発表した[57]。その内容は歌手のグビと太鼓を叩くバガの2人が、幽霊の王から授かった3つの品物を手に、隣り合う2つの王国で起こりそうな戦争を食い止めるために旅をするというものである。この作品はサタジットの最も製作費が高い作品の1つとなり、資金調達に困難をきたした。それでも自身の最も商業的に成功した作品にもなり、ベンガル語映画で最も人気のある映画の1本に位置付けられている[57][58]。続いて、詩人で作家のシュニル・ゴンゴパッダエ英語版の小説の映画化『森の中の昼と夜英語版』(1969年)を撮影した[59]。この作品は日々の生活から離れようと休暇を過ごしに森へやって来た都会の青年4人のうち3人が、それぞれ女性と関わりを持つようになるという筋で、インドの中産階級を深く理解できる題材となっている[60]

『森の中の昼と夜』の発表後、サタジットは現代ベンガル人の生活を題材とした「カルカッタ三部作英語版」と呼ばれる『対抗者英語版』(1970年)、『株式会社 ザ・カンパニー英語版』(1971年)『ミドルマン』(1975年)を撮影した[47][61]。この3本はそれぞれ別々に構想されたが、一貫したテーマでつながりを持つ[61]。三部作は抑圧に焦点を合わせており、男性の主人公は禁じられたものに手を付ける[62]。『対抗者』では卒業したての理想主義の青年の幻滅、『株式会社 ザ・カンパニー』では利益のために自らの道徳を放棄するエリートビジネスマン、『ミドルマン』では生きるために退廃した文化に漬かってしまう若い男を描いた。また、『対抗者』では大胆なフラッシュバックの使用など、新しい物語の表現手法を試みた[61]。サタジットは三部作を手がけている間、シッキム王国のドキュメンタリー映画『シッキム英語版』(1971年)[注 3]や、ビブティブション・ボンドパッダエの小説を映画化した『遠い雷鳴』(1973年)も撮影した。『遠い雷鳴』はベンガル地方の村を舞台とし、バラモンの夫婦を通して日本軍のビルマ侵攻というはるか遠くの地の戦争がおよぼす悲劇を描き、第23回ベルリン国際映画祭金熊賞を受賞した[64]

この頃、サタジットはバングラデシュ独立戦争を題材にした映画を作ることを構想していたが、結果的にそのアイデアを放棄した。後にサタジットは映画監督として戦争の受難者を描くことに興味を持てても、政治には関心が持てないと発言した[65]1977年、サタジットはムンシー・プレームチャンドの小説を映画化した『チェスをする人英語版』を撮影した。インド大反乱前の1856年アワド藩王国を舞台としたこの作品は、イギリスによるインド植民地支配に関わる問題を取り上げており、サタジットの作品として初めてベンガル語以外の言語(ヒンディー語)を使用した長編映画となった。キャストにはサンジーヴ・クマールサイード・ジャフリーアムジャド・カーンシャバーナー・アーズミーヴィクター・バナルジ英語版リチャード・アッテンボローなどの人気俳優が名を連ね、製作費はサタジットの作品で最高額の約200万ルピーとなったが、それでもこの金額はヒンディー語映画の平均予算(400万~1000万ルピー)を下回っている[66][67]

晩年

サタジットの肖像画。

1980年代に入ると、『グビとバガの冒険』の続編で、やや政治色を帯びた『ダイヤモンドの王国英語版』(1980年)や[68]、称賛された短編映画『ピクー英語版』(1981年)、1時間のヒンディー語映画『遠い道英語版』(1981年)を発表した。しかし、1983年の『家と世界英語版』の製作中に心臓発作に見舞われ、これが原因でその後亡くなるまでの9年間の活動が著しく制限された[45]。『家と世界』は健康状態を鑑みて初めてカメラを担当した息子の助けを得ながら1984年に完成した。この作品は愛国心の危機を題材としたラヴィンドナート・タゴールの小説を基に、サタジットが長く映画化を考えていたもので、最初の脚本草稿は1940年代には着手されていた[69]。病気のため細切れの印象は免れなかったが、作品はいくつかの称賛を受けた[70]1987年には父シュクマルを題材としたドキュメンタリー『シュクマル・レイ英語版』を製作した[11]

1990年代に手がけたサタジットの晩年の3本は、健康の回復と医療の支援が効をなして実現したが、いずれも室内撮影であり、以前よりも対話シーンが増えたが、そのために過去の作品には及ばないという意見もある[71]。『民衆の敵英語版』(1990年)は著名な同名の戯曲の映画化であり、撮影時の健康状態は悪かったと考えられている[72]。その後は回復を見せ、『枝わかれ英語版』(1990年)を撮影した。この作品は実直な人生を送る老人が、3人の息子たちの不正を知るという物語で、最後の場面で老人は唯一不正を働いていない心を病む4番目の息子に慰められる[73]。そしてサタジット最後の作品となった『見知らぬ人』(1991年)はフランスとの共同製作で、長らく行方不明になっていた叔父がカルカッタの娘を訪ね、そのために周囲が疑念に囚われる様を描いている[73][74]。この作品はフランスで大ヒットしたが、サタジットはその出来に満足せず、亡くなるまで次作『目覚め (Jagaran)』の製作を構想していた[74]

サタジットはヘビースモーカーだが酒は飲まず、何よりも仕事を大切にし、1日12時間も働き、深夜2時に就寝した。また、骨董品写本、珍しい蓄音機のレコード、絵画、珍しい本の収集を楽しんだ[75]。そんな私生活を送ったサタジットは、1992年1月に心臓病で健康状態が悪化し、カルカッタの病院に入院するも、そのまま回復に向かうことはなかった[76]。亡くなる24日前の3月30日には、ビデオ映像を介してオードリー・ヘプバーンからアカデミー名誉賞を授与され、これを「映画監督のキャリアで最高の成果」と呼んで病床から受賞スピーチをした[77][78]1992年4月23日、サタジットは71歳の誕生日を迎える9日前に亡くなった[79]。通夜には4万人以上が訪れ、市内を進む葬列には50万人もの人々が加わったという[74]

映画製作のスタイル

サタジット・レイは自身のキャリアを通して、映画監督になるきっかけを作ったジャン・ルノワールに敬意を表し、その作品とスタイルから大きな影響を受けた[80][81]。また、イタリアネオレアリズモの代表的監督であるヴィットリオ・デ・シーカの影響も受けており、彼の代表作『自転車泥棒』からは低予算で映画を作る方法や、アマチュアの俳優を起用すること、そして現実的なテーマに目を向けることを学んだ[9][82][83]。さらにジョン・フォードビリー・ワイルダーエルンスト・ルビッチなどの古典的ハリウッド映画英語版の監督から映画技術を学んだことを認め、自身が巨匠と見なした同時代の監督の黒澤明イングマール・ベルイマンに深い敬意と称賛を示した[82]。黒澤からは『羅生門』(1950年)の光の使い方に影響を受けたことを明らかにしている[84]。ほかにもサタジットはロバート・フラハティマルク・ドンスコイロシア語版を自身の作品に最も影響を与えた監督に挙げており、またモンタージュ理論の提唱者セルゲイ・エイゼンシュテインのスタイルに影響を受けたことも指摘されている[9][85]

サタジットの長編劇映画29本のほとんどは、既存の物語を映画化した文芸映画であり、オリジナル脚本による作品は6本しかない[3][86]。原作ものを脚色する時は、自分が原作で不満に思うところに手を加えたため、しばしば原作のストーリーと大きく異なるところがあり、そのために原作と比較され、批判にさらされることがあった[3][37][86]。脚本を書く時は、自身がよく知るキャラクターや環境を選ぶことが多く、オリジナル作品では『カンチェンジュンガ』や『英雄』のように、限られた時空間の中で密度の濃い物語を書くことが多かった[37][86]。サタジットの作品はリアリズムを基調とし、19世紀または20世紀のベンガル人の生活と社会的問題を題材に扱い、主人公の社会的アイデンティティ英語版に深い関心を持っている[87][88]。例えば、オプー三部作や『遠い雷鳴』ではバラモンの清貧の生活、『チャルラータ』や『家と世界』では封建的大家族制や階級社会の中で自由に目覚める女性、『音楽ホール』『チェスをする人』などでは古い社会のあり方が崩れ、近代化へと変化する社会に取り残され、苦悩する上流階級の姿を描いている[47][89]

撮影は、『大地のうた』以来コンビを組んだカメラマンのスブラタ・ミットラ英語版の貢献度が大きかった。ミットラは『大河のうた』の撮影で「バウンスライティング英語版」という、照明の光を天井や壁、または布に当て、その反射光でリアルな照明効果を生み出すテクニックを開発し、世界中の撮影技師に影響を与えた[90]。『チャルラータ』以降はサタジットが自分でカメラを回すようになり、『英雄』を最後にミットラとのコンビを解消したが、多くの批評家はミットラが去ったことで、その後のサタジットの作品は撮影の質が低下したと指摘している[52][91]。編集は通常、ドゥラル・ドット英語版が担当したが、ほとんどの作品ではカメラ撮影そのものでカットを施し、そのうえカットになるのが分かりきっている部分を撮らないようにしたため、実際の編集作業はドットよりもサタジットが多くを担った[92][93]

映画音楽では、キャリア初期はオプー三部作でシタール奏者のラヴィ・シャンカルを起用したのをはじめ、ウスタッド・ヴィラヤット・カーン英語版アリ・アクバル・カーン英語版といったインドの伝統音楽の作曲家を起用した[94]。しかし、やがて彼らの音楽がその伝統に忠実なあまり自身の映画に馴染まないと気づき、スケジュールを合わせてもらうのが難しかったこともあり、『三人の娘』からはサタジット自身が映画音楽を作曲するようになった[94][95]。サタジットは正式な音楽教育を受けていなかったが、インドの伝統音楽だけでなく西洋のクラシック音楽にも造詣が深く、ベートーヴェンをお気に入りの作曲家とした[4][11]。都会を舞台にした作品では西洋クラシック音楽を使用したが、『家と世界』などではスコアに西洋音楽とインド伝統音楽を混ぜる実験を行っている[95][96]。サタジットの音楽のアイデアは閃くように浮かび、時にはシナリオの段階でアイデアをメモすることがあった[97]。実際にスコアを書き下ろすのは編集をすべて終えてからで、演奏者に応じてインドもしくは西洋の記譜法でスコアを書いた[4]

キャスティングでは、有名な映画スターから無名の素人俳優まで、さまざまな俳優を起用した[98]。一部の作品のシナリオは、有名俳優のために書くことがあり、その例として『哲学者の石』のトゥルシー・チャクラボルティ英語版、『英雄』のウッタム・クマール英語版、『音楽ホール』『女神』『カンチェンジュンガ』のチャビ・ビスワース英語版が挙げられる[99]。サタジットの基本的な演技指導の方法は、リハーサルの回数を最小限に抑え、俳優に短い指示を出し、あとは俳優が自分の解釈で演じるようにするというものである[99]。俳優の技量や経験に応じて指示の度合いを変えており、例えばウタパル・ダットのような俳優にはほとんど指示をせず、逆に『大地のうた』でオプーを演じたスビル・バネルジー英語版や『大樹のうた』でアパルナを演じたシャルミラ・タゴールなどの俳優には、操り人形のように扱うことがあった[100]。サタジットの映画に出演した俳優たちは、サタジットが変わらず信頼を寄せてくれることを賞賛したが、その一方で無能のように扱われて軽蔑されたことについても言及している[101]

映画以外の活動

文学

サタジット・レイはベンガル文学英語版の著名な作家でもある。とくに児童文学作家として人気を博し[102]、10代の子供向けに冒険小説、探偵小説、ファンタジーサイエンス・フィクションホラーなどのジャンルの物語を創作した[103]。サタジットの児童文学で最も人気のある作品は、架空の私立探偵の「フェルダー」が主人公の探偵小説のシリーズと、同じく架空の科学者の「プロフェッサー・ションク英語版」が主人公のSF小説のシリーズである[104]。フェルダーのシリーズは、インド全土や国外を舞台にして事件を解決するという内容で、フェルダーのいとこのトペシュの語りで物語が進行する[105]。サタジットは30本以上のフェルダーの物語を執筆し、そのうち『黄金の城塞英語版』(1974年)と『消えた象神英語版』(1979年)を映画化した[106]。プロフェッサー・ションクのシリーズは、風変わりな科学者であるションクの発明と冒険を描いたもので、サタジットは38本の物語を執筆した[107][108]

ほかにもサタジットは、超自然的な力を持つ架空の人物「タリーニ・フロ英語版」が主人公の冒険小説のシリーズや、12のエピソードを纏めた『Ek Dojon Gappo』『Aker pitthe dui』といった短編小説集[注 4]などの作品を執筆した[109][110]。また、ルイス・キャロルエドワード・リアなどの詩を含むナンセンス・ヴァース集『Today Bandha Ghorar Dim』(1976年)、ナスレッディン・ホジャが主人公の『Molla Nasiruddiner Galpo』(1985年)などの翻訳本や[111]、『わが映画インドに始まる英語版』(1976年)、『Bishoy Chalachchitra』(1976年)、『Ekei Bole Shooting』(1979年)などの映画批評やエッセイを纏めた本も出版した。1982年には幼少期の自伝『Jakhan Choto Chilam』を出版し、妻のビジョ・レイによって『Childhood Days: A Memoir』の題名で英訳された[112]1994年にはオプー三部作を製作した時の回想録『My Years with Apu』を出版した[113]

カリグラフィーとデザイン

サタジット・レイはカリグラファーとしても活動し、自身の雑誌『ションデシュ』用に、ほかのどのベンガル文字とも異なるローマン体の「レイ・ローマン (Ray Roman)」「レイ・ビザール (Ray Bizarre)」「ダフニス (Daphnis)」 、「ホリディ・スクリプト (Holiday Script)」と呼ばれる4つの書体をデザインした[114][115]。このうちレイ・ローマンとレイ・ビザールは、1971年に国際コンペティションで優勝した[116]。また、サタジットは映画のキャリアを積み重ねる中で、グラフィックデザイナーとして活動したことでも知られ、自身の映画ポスターのほとんどをデザインし、自身または他の作家の本のイラストや表紙のデザインを手がけた[116]

サタジットのデザインの芸術性は、映画のポスターやプロモーション用冊子の表紙で見ることができる[116]。サタジットがデザインした映画ポスターの多くはシンプルで、ベンガル語の書記素を使用したカリグラフィーに、1つの視覚的に印象的なイメージを描いており、インドの要素も取り入れられている[77]。ポスターなどに見られるサタジットのベンガル語の書記素の表現は、ベンガル文字特有の3層のエックスハイト英語版(基本文字の高さ)が楽譜のように示され、水平線と垂直線が交わる点の間にはアルポナ英語版(ベンガル伝統の文様)のパターンに従った曲線で書かれるのが特徴的である。また、ベンガル文字の書記素を変容させて、アルケー文字とも呼べるような生物や物を形づくったベンガル文字を創作した[117]

評価

サタジット・レイはインドベンガル語映画を代表する監督であり[94]、インドまたはベンガル地方の文化的アイコンとして世界中に広く知られた[118]。サタジットは国際的に高い認知と評価を受けた最初のインド人監督であり[2][11]、とくに『大地のうた』はインド映画が欧米で注目されるきっかけとなった[119]。また、黒澤明と並んでアジア映画を代表する巨匠と見なされており[2]マーティン・スコセッシはサタジットを黒澤、イングマール・ベルイマンフェデリコ・フェリーニとともに世界映画の偉大な監督に挙げている[81]。そんなサタジットの映画史的功績は、それまで歌と踊りをふんだんに盛り込んだ娯楽作品が主流だったインド映画に、現実を見据えるリアリズムを導入し、新しく芸術映画社会派映画英語版の流れを確立したことである[2][89]。戦後のベンガル語映画では「パラレル映画」という芸術映画の潮流が生まれたが、サタジットは同時代に活躍したリッティク・ゴトクムリナル・セン英語版などとともに、その潮流を代表する監督と見なされている[120]。しかし、ベンガル語で作られたサタジットの作品は、インド国内のほかの言語地域では理解されず、字幕付きで上映されることもなかった。そのためベンガル地方以外では、サタジットの作品が上映されることは少なく、それゆえにサタジットはあまり知られておらず、インド国外の方がサタジットの作品にアクセスしやすいという側面があり、国内と国外とで評価のずれが見られた[11][74]

サタジットの作品は一般的に、ヒューマニズムと普遍性に溢れ、一見単純でありながら内に深く根底的な複雑さを秘めていると評価されている[121][122]。黒澤明は「サタジット・レイの映画を見た事がないとは、この世で太陽や月を見た事がないに等しい」と述べた[123]。一方で、批判者からは作品のテンポの遅さを指摘され、「雄大なカタツムリ」と揶揄された[49]。サタジット自身は展開の遅さは如何ともしがたいと述べたが、黒澤は「遅い」とは的外れで「彼の作品は大河のように悠然とした流れが表現されているのだ」と弁護した[124]。一部の批評家はサタジットの作品が現代的ではないと指摘し、サタジットと同時代に活躍したジャン=リュック・ゴダールの作品に見られるような、新しい表現や実験的な要素が欠けていると批判した[124]。批評家からはアントン・チェーホフウィリアム・シェイクスピアなどの他分野の芸術家やその作品と比べられることもあり、作家のV・S・ナイポールは『チェスをする人』のシーンをシェイクスピアの劇と比較して「たった300の単語が口にされるだけなのになんと言うことだ!ものすごい」と評した[125][126][127]

政治的イデオロギーは、サタジットの作品と相容れるものではなかった。1960年代にサタジットはマルクス主義者の監督ムリナル・センと公開書簡を交わし、センの『雲の上に英語版』(1965年)を「カラス映画」と呼び、羽を借りたカラスの寓話に例えて独創性に欠けると酷評した[128][129]。その後2人はサタジットが亡くなるまで、お互いの映画に建設的な批判をし続けた[129][130]。社会主義の支持者の中には、サタジットがインド社会で虐げられた人たちが生まれる原因を描き出していないことを指摘し、一部の批評家は、『大地のうた』や『遠い雷鳴』が叙情的で美しい描き方によって貧困を賛美していると非難した。彼らはサタジットが物語で起きる対立に解決策を出さず、サタジットのブルジョワジー的経歴を克服することができなかったと主張した。1970年代にナクサライト英語版(インドの武装革命至上主義)運動が盛んだった頃には、押しかけた主義者たちによって息子が身体的危害を加えられそうになった事もあった[131]。1980年代にはインドの国会議員で元女優のナルギスが、サタジットを「貧困を輸出している」と非難し、現代インドを描く作品を作るべきだと主張した[132]

影響

サタジット・レイの影響はベンガル語映画界に広く浸透し、アパルナ・セン英語版リトゥポルノ・ゴーシュ英語版ゴータム・ゴーススリジット・ムカルジー英語版バングラデシュタレク・マスード英語版タンビール・モカメル英語版などのベンガル語系監督がその影響を受けた[118][133]。さらにヒンディー語監督のヴィシャール・バルドワジ英語版ディバカー・バネルジー英語版シャーム・ベネガル英語版アヌラーグ・バス英語版ニーラジ・ゲーワン英語版スジョイ・ゴーシュなどもサタジットの影響を受けている[134]。インド以外にも、サタジットの映画スタイルはマーティン・スコセッシ[135]ジェームズ・アイヴォリー[136]カルロス・サウラ[137]高畑勲[138]ダニー・ボイル[139]などの映画監督に影響を与えた。

グレゴリー・ナヴァは『ミ・ファミリア英語版』(1995年)のラストシーンで『大樹のうた』を再現し、アイラ・サックスは『チャルラータ』からインスピレーションを受けて『Forty Shades of Blue』(2005年)を監督した[133]マジッド・マジディはサタジットとその作品に称賛を示すために『Beyond the Clouds』(2017年)を作った[140]ウェス・アンダーソンもインドで撮影した『ダージリン急行』(2007年)をサタジットに捧げ、サタジットが作曲した音楽をサウンドトラックに使用した[141]。映画批評家のマイケル・スラゴー英語版は、1950年代中頃から主人公の成長を描くドラマがアート系映画で溢れるようになったのは、オプー三部作の存在に負うところが非常に大きいと指摘している[125]。また、『カンチェンジュンガ』はハイパーリンク映画英語版と呼ばれる物語構造による作品の先駆けと見なされている[142]。さらに、ソール・ベローの『ハーツォグ英語版』、J・M・クッツェーの『Youth』などの文学作品にも、サタジットからの影響が見られる[143]

1993年カリフォルニア大学サンタクルーズ校(UCSC)は、サタジットの作品を保存し、一般に公開するために「サタジット・レイ映画研究コレクション(レイFASC)」を設け、映画やポスター、写真、さまざまな言語で刊行された本、新聞や雑誌の記事、スケッチブックなど、10000点を超える文書から成るアーカイブを確立した[54][76]。これらのアーカイブは、UCSCのマクヘンリー図書館英語版に所蔵されている[76]1995年にはインド政府によって映画学校の「サタジット・レイ映画テレビ研究所英語版」が創設された[144]1996年から2008年までロンドン映画祭では、初監督作品の中で最も芸術性に優れ、サタジットのような感性と人間性を備える作品に贈られる「サタジット・レイ賞」が設けられた[145]。また、ロンドン・インド映画祭英語版にも「サタジット・レイ短編映画賞」という賞が設けられている[146]。サタジットの生誕100周年にあたる2021年には、インド政府の情報放送大臣プラカシュ・ジャバデカール英語版が、インドで最高の映画賞ダーダーサーハバ・パールケー賞と同等の映画賞として、サタジット・レイの名を冠した賞を設けることを発表した[147]

フィルモグラフィー

サタジット・レイの監督作品は36本存在する。その内訳は長編劇映画が29本、ドキュメンタリー映画が5本、短編映画が2本である[9][148][149][150][151]

公開年
  • 邦題
  • 英題
言語 役職 備考
監督 脚本 原作 製作 作曲 その他
1955年
ベンガル語 Yes Yes No No No
1956年 ベンガル語 Yes Yes No Yes No
1958年
  • 哲学者の石
  • Parash Pathar
ベンガル語 Yes Yes No No No 別邦題表記に『化金石』
1958年 ベンガル語 Yes Yes No Yes No 別邦題表記に『音楽サロン』
1959年
ベンガル語 Yes Yes No Yes No
1960年
  • 女神
  • Devi
ベンガル語 Yes Yes No Yes No
1961年
  • 三人の娘
  • Teen Kanya
ベンガル語 Yes Yes No Yes Yes The Postmaster」「Monihara」「Samapti」の3つのエピソードから成るアンソロジー映画
1961年
英語 Yes Yes No No No ナレーター ドキュメンタリー映画
1962年
  • カンチェンジュンガ
  • Kanchenjungha
ベンガル語 Yes Yes No No Yes
1962年
  • 遠征
  • Abhijan
ベンガル語 Yes Yes No No Yes
1963年 ベンガル語 Yes Yes No No Yes 別邦題表記に『大都会』
1964年 ベンガル語 Yes Yes No No Yes
1964年
  • ふたり
  • Two
言語なし Yes Yes No No Yes 短編映画
1965年
  • 臆病者と聖者
  • Kapurush o Mahapurush
ベンガル語 Yes Yes No No Yes
1966年
  • 英雄
  • Nayak
ベンガル語 Yes Yes No No Yes
1967年
  • 動物園
  • Chiriyakhana
ベンガル語 Yes Yes No No Yes
1969年
  • グビとバガの冒険
  • Goopy Gyne Bagha Byne
ベンガル語 Yes Yes No No Yes
1969年
  • 森の中の昼と夜
  • Aranyer Din Ratri
ベンガル語 Yes Yes No No Yes
1970年
  • 対抗者
  • Pratidwandi
ベンガル語 Yes Yes No No Yes
1971年
  • 株式会社 ザ・カンパニー
  • Seemabaddha
ベンガル語 Yes Yes No No Yes
1971年
  • シッキム
  • Sikkim
英語 Yes Yes No No Yes ナレーター
サウンドデザイン
ドキュメンタリー映画
1972年
  • 心の眼
  • The Inner Eye
ベンガル語 Yes Yes No No Yes ナレーター
サウンドデザイン
短編ドキュメンタリー映画
1973年
ベンガル語 Yes Yes No No Yes
1974年
  • 黄金の城塞
  • Sonar Kella
ベンガル語 Yes Yes Yes No Yes 別邦題表記に『黄金の砦』
1975年
ベンガル語 Yes Yes No No Yes
1976年
  • バーラ
  • Bala
英語 Yes Yes No No Yes ナレーター ドキュメンタリー映画
1977年
ヒンディー語 Yes Yes No No Yes ダイアローグ
1979年
  • 消えた象神
  • Joi Baba Felunath
ベンガル語 Yes Yes Yes No Yes 別邦題表記に『象神万歳』
1980年
  • ダイヤモンドの王国
  • Hirak Rajar Deshe
ベンガル語 Yes Yes Yes No Yes
1980年
  • ピクー
  • Pikoo
ベンガル語 Yes Yes Yes No Yes 短編映画
1981年
  • 遠い道
  • Sadgati
ヒンディー語 Yes Yes No No Yes ダイアローグ
1983年
  • 家と世界
  • Ghare Baire
ベンガル語 Yes Yes No No Yes
1987年
  • シュクマル・レイ
  • Sukumar Ray
ベンガル語 Yes Yes No No Yes 短編ドキュメンタリー映画
1990年
  • 民衆の敵
  • Ganashatru
ベンガル語 Yes Yes No No Yes
1990年
  • 枝わかれ
  • Shakha Proshakha
ベンガル語 Yes Yes No Yes Yes
1992年 ベンガル語 Yes Yes Yes No Yes

受賞

サタジット・レイは国内外で多数の映画賞を受賞した。ベルリン国際映画祭では、銀熊賞を2度以上受けた3人の監督の1人であり[152]金熊賞ノミネートは最多の7度を誇る。ヴェネツィア国際映画祭では、1956年に『大河のうた』で金獅子賞を受賞し、1982年には栄誉金獅子賞が贈られた[153]。同年、カンヌ国際映画祭で"Hommage à Satyajit Ray"が与えられた[154]。インドの映画賞ナショナル・フィルム・アワードでは合計32個の賞を受賞しており、歴代最多の監督賞の受賞者(6回受賞)となった[155]1985年にはインド映画で最高位の賞であるダーダーサーハバ・パールケー賞を受賞した[156]1992年には第64回アカデミー賞で「映画芸術でも類稀な円熟と深い人道主義の視野が世界中の映画製作者と観客に消えない影響を与えた」功績により名誉賞を受賞した[157]

映画賞以外にも、数多くの栄誉や称号を受けた。1978年には映画関係者ではチャールズ・チャップリンに続いて2人目となる、オックスフォード大学名誉博士号を授けられた[158]。ほかにもデリー大学の文学博士(1973年)[159]ロイヤル・カレッジ・オブ・アートの名誉博士(1974年)[160]コルカタ大学の文学博士(1985年)[161]などの称号を与えられている。インドの勲章では、1958年に民間人賞で4番目に高いパドマ・シュリー勲章1965年に同3番目のパドマ・ブーシャン勲章1976年に同2番目のパドマ・ヴィブーシャン勲章英語版、そして1992年に最高位の民間人賞であるバーラト・ラトナ賞を授けられた[156]1987年にはフランス政府からレジオンドヌール勲章のコマンドゥールの称号を授けられた[162]。また、1967年にはアジアのノーベル賞と呼ばれるマグサイサイ賞を受賞した[156]

1992年、イギリスのサイト・アンド・サウンド英語版誌は、すべての時代における映画監督ベスト10のリストを発表し、サタジットをアジア人では最高位となる7位に選出した[163]。2002年の同誌の映画監督ベスト10では、アジア人では4番目となる22位にランクした[164]。さらに、1996年エンターテインメント・ウィークリー誌が発表した「50人の偉大な映画監督」リストでは25位に選ばれ[165]2007年Total Film誌が発表した「100人の偉大な映画監督」のリストにも選出された[166]。また、2004年BBCが発表した「史上最高のベンガル人英語版」のリストでは13位にランクした[167]

以下の表は、サタジット・レイが受賞した、もしくはノミネートされた映画賞(個人ではなく作品自体に与えられた賞を含む)の一覧である。

サタジット・レイの主な映画賞の受賞とノミネートの一覧
部門 作品名 結果 出典
ナショナル・フィルム・アワード 1955年 最優秀長編映画賞英語版 『大地のうた』 受賞 [168]
ベンガル語映画賞英語版 受賞
1959年 最優秀長編映画賞 『大樹のうた』 受賞 [169]
1960年 ベンガル語映画賞 『女神』 受賞 [170]
1961年 ベンガル語映画賞 『三人の娘』 受賞 [171]
最優秀非長編映画賞英語版 『詩聖タゴール』 受賞
1964年 最優秀長編映画賞 『チャルラータ』 受賞 [172]
1966年 最優秀脚本賞英語版 『英雄』 受賞 [173]
1967年 最優秀監督賞 『動物園』 受賞 [174]
1968年 最優秀長編映画賞 『グピとバガの冒険』 受賞 [175]
最優秀監督賞 受賞
1970年 最優秀監督賞 『対抗者』 受賞 [176]
第2位優秀映画賞英語版 受賞
最優秀脚本賞 受賞
1971年 最優秀長編映画賞 『株式会社 ザ・カンパニー』 受賞 [177]
1972年 最優秀非長編映画賞 『心の眼』 受賞 [178]
1973年 ベンガル語映画賞 『遠い雷鳴』 受賞 [179]
最優秀音楽監督賞英語版 受賞
1974年 最優秀監督賞 『黄金の城塞』 受賞 [180]
最優秀脚本賞 受賞
ベンガル語映画賞 受賞
1975年 最優秀監督賞 『ミドルマン』 受賞 [181]
1977年 ヒンディー語映画賞英語版 『チェスをする人』 受賞 [182]
1978年 最優秀児童映画賞英語版 『消えた象神』 受賞 [183]
1980年 ベンガル語映画賞 『ダイヤモンドの王国』 受賞 [184]
最優秀音楽監督賞 受賞
1981年 審査員特別賞英語版 『遠い道』 受賞 [185]
1984年 ベンガル語映画賞 『家と世界』 受賞 [186]
1989年 ベンガル語映画賞 『民衆の敵』 受賞 [187]
1991年 最優秀長編映画賞 『見知らぬ人』 受賞 [188]
最優秀監督賞 受賞
1994年 最優秀脚本賞 Uttoran 受賞 [189]
カンヌ国際映画祭 1956年 ヒューマン・ドキュメント賞 『大地のうた』 受賞 [31]
国際カトリック映画事務局賞 受賞 [190]
ヴェネツィア国際映画祭 1957年 金獅子賞 『大河のうた』 受賞 [36]
国際映画批評家連盟賞 受賞 [191]
チネマ・ヌオヴォ賞 受賞 [192]
1972年 国際映画批評家連盟賞 『株式会社 ザ・カンパニー』 受賞 [177]
サンフランシスコ国際映画祭 1957年 作品賞 『大地のうた』 受賞 [193]
監督賞 受賞
1958年 作品賞 『大河のうた』 受賞 [194]
監督賞 受賞
1992年 黒澤明賞 - 受賞 [195]
英国アカデミー賞 1957年 総合作品賞 『大地のうた』 ノミネート [196]
1958年 総合作品賞 『大河のうた』 ノミネート [197]
1961年 総合作品賞 『大樹のうた』 ノミネート [198]
ナショナル・ボード・オブ・レビュー賞 1958年 外国語映画賞 『大地のうた』 受賞 [199]
1960年 外国語映画賞 『大樹のうた』 受賞 [200]
BFIロンドン映画祭 1959年 サザーランド杯 『大樹のうた』 受賞 [201]
ベルリン国際映画祭 1964年 銀熊賞 (監督賞) 『ビッグ・シティ』 受賞 [50]
1965年 銀熊賞 (監督賞) 『チャルラータ』 受賞 [51]
国際カトリック映画事務局賞 受賞 [202]
1966年 特別表彰 『英雄』 受賞 [203]
1973年 金熊賞 『遠い雷鳴』 受賞 [204]
キネマ旬報ベスト・テン 1966年 外国映画ベスト・テン 『大地のうた』 1位 [205]
外国映画監督賞 受賞
ボディル賞 1967年 非ヨーロッパ映画賞英語版 『大河のうた』 受賞 [206]
1969年 非ヨーロッパ映画賞 『大地のうた』 受賞
モスクワ国際映画祭 1979年 名誉賞 - 受賞 [207]
フィルムフェア賞 1979年 監督賞 『チェスをする人』 受賞 [208]
BFIフェローシップ賞英語版 1983年 - - 受賞 [209]
アカデミー賞 1991年 名誉賞 - 受賞 [78]
東京国際映画祭 1991年 特別功労賞 - 受賞 [210]

ドキュメンタリー作品

著書(日本語訳)

脚注

注釈

  1. ^ 後にサタジットは、ムカルジーのドキュメンタリー映画『心の眼英語版』(1972年)を製作した[11]
  2. ^ ビジョヤは、サタジットの母方の叔父にあたるカルカンドラ・ダスの長女である。サタジットとビジョヤは、1940年頃から交際を始め、1948年にボンベイでひそかに式を挙げた。2人の婚姻は、翌年にコルカタで挙げた伝統的な宗教儀礼に則った式で認められた[20]
  3. ^ 『シッキム』はシッキムの王室によって製作され、2010年までインド政府によって発禁処分を受けていたが、サタジットの息子サンディープ・レイによると、その映像は土地の動植物と美しい景観のみを撮影したもので、論争の的になるような内容は含まれていないという[63]
  4. ^ サタジットの短編小説は12本のエピソードを1冊に纏めて出版されたが、そのタイトルは12という言葉に紐づくものとなっていた(例えば、『Aker pitthe dui』は「Two on top of one」という意味を持つ)[109]

出典

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外部リンク