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「大山巌」の版間の差分

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大正5年(1916年)、[[大正天皇]]に供奉し[[福岡県]]で行われた陸軍[[演習|特別大演習]]を参観した帰途に胃病から倒れ、[[胆嚢炎]]を併発。療養中の12月10日に内大臣在任のまま[[薨去]]。享年75歳。病床についてから死ぬ間際まで[[永井建子]]作曲の『[[雪の進軍]]』を聞いていたと伝えられている。本人は大変この曲を気に入っていたという。
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臨終の枕元には[[山縣有朋]]、[[川村景明]]、[[寺内正毅]]、[[黒木為もと|黒木為楨]]などが一堂に顔を揃え、まるで[[元帥府]]が大山家に越してきたようだったという。大山の死は[[夏目漱石]]の死の翌日のことだった。新聞の多くは文豪の死を悼んで多くの紙面を彼に割いたため、明くる日の大山の訃報は他の元老の訃報とは比較にならないほど地味なものだったが、それが大山と他の元老たちの違いを改めて印象づけた。12月17日の[[国葬]]では、参列する駐日ロシア[[大使]]とは別にロシア[[駐在武官|大使館付武官]]のヤホントフ少将が直に大山家を訪れ、「全[[ロシア陸軍]]を代表して」弔詞を述べ、ひときわ目立つ花輪を自ら霊前に供えた。かつての敵国の軍人からのこのような丁重な弔意を受けたのは、この大山と後の東郷平八郎の二人だけだった。
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那須に葬られた。墓所は栃木県[[那須塩原市]]。遺品は[[陸上自衛隊]][[宇都宮駐屯地]]に多数収蔵され、資料館に展示されている。
那須に葬られた。墓所は栃木県[[那須塩原市]]。遺品は[[陸上自衛隊]][[宇都宮駐屯地]]に多数収蔵され、資料館に展示されている。

2020年7月22日 (水) 04:46時点における版

大山 巌
おおやま いわお
大山巌(日露戦争後)
生年月日 1842年11月12日
天保13年10月10日
出生地 日本の旗 日本 薩摩国鹿児島郡加治屋町
(現:鹿児島県鹿児島市加治屋町)
没年月日 (1916-12-10) 1916年12月10日(74歳没)
死没地 日本の旗 日本 東京府
前職 武士薩摩藩士)
陸軍軍人
称号 元帥陸軍大将
従一位
大勲位菊花章頸飾
功一級金鵄勲章
公爵
配偶者 大山沢(先妻)
大山捨松(後妻)
子女 長女:大山信子
次女:大山美津子
三女:細川芙蓉子
四女:渡邊留子
五女:井田久子
長男:大山高
六女:大山永子
次男:大山柏
親族 大山綱栄(高祖父)
大山綱道(曾祖父)
大山綱毅(祖父)
西郷隆充(祖父)
大山綱昌(父)
西郷吉兵衛(伯父)
大山誠之助(弟)
西郷隆盛(従兄)
西郷従道(従弟)
吉井友実(義父)
山川浩(義兄)
山川健次郎(義兄)
山川二葉(義姉)
井田磐楠(娘婿)
大山梓(孫)
大山桂(孫)
渡邉昭(孫)
渡邉允(曾孫)

日本の旗 第5代 内大臣
在任期間 1915年4月23日 - 1916年12月10日

日本の旗 第3代 陸軍大臣
内閣 第2次伊藤内閣
第2次松方内閣
在任期間 1892年8月8日 - 1896年9月20日

内閣 黒田内閣
在任期間 1889年2月16日 - 1889年3月22日

日本の旗 初代 陸軍大臣
内閣 第1次伊藤内閣
黒田内閣
第1次山縣内閣
第1次松方内閣
在任期間 1885年12月22日 - 1891年5月17日

日本の旗 第2代 大警視
在任期間 1879年10月16日 - 1880年2月28日
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大山 巌(おおやま いわお、正字: 大山 巖、天保13年10月10日1842年11月12日) - 大正5年(1916年12月10日)は、日本武士薩摩藩士)、陸軍軍人政治家幼名岩次郎通称弥助雅号赫山瑞岩清海称号階級元帥陸軍大将栄典位階勲等および爵位)は従一位大勲位功一級公爵

大警視(第2代)、陸軍大臣(初代・第3代)、陸軍参謀総長(第4・6代)、文部大臣臨時兼任)、内大臣(第5代)、元老貴族院議員を歴任した。西郷隆盛従道兄弟は従兄弟にあたる。

生涯

青年期

薩摩国鹿児島城加治屋町柿本寺通(下加治屋町方限)に薩摩藩士・大山綱昌(彦八)の次男として生まれた。家紋佐々木源氏大山氏として典型的な「丸に隅立て四つ目」である。

同藩の有馬新七等に影響されて過激派に属したが、文久2年(1862年)の寺田屋事件では公武合体派によって鎮圧され、大山は帰国謹慎処分となる。薩英戦争に際して謹慎を解かれ、砲台に配属された。ここで西欧列強の軍事力に衝撃を受け、幕臣・江川英龍の塾にて、黒田清隆らとともに砲術を学ぶ。

戊辰戦争

戊辰戦争では新式銃隊を率いて、鳥羽・伏見の戦い会津戦争などの各地を転戦。また、12ドイム臼砲四斤山砲の改良も行い、これら大山の設計した砲は「弥助砲」と称された。

会津戦争では薩摩藩二番砲兵隊長として従軍していたが、鶴ヶ城攻撃初日、大手門前の北出丸からの篭城側の射撃で攻略に手間どる土佐藩部隊の援護に出動するも、弾丸が右股を内側から貫き負傷し翌日後送されている。そのため実際大山が鶴ヶ城で戦ったのは初日のみで砲撃を指揮した訳でもなく、よく言われる「会津若松城に向けて、大砲を雨霰のように撃ちこんで勝利に貢献した」というのも事実ではない。なお、このとき篭城側は主だった兵が殆ど出撃中で城内には老幼兵と負傷兵しかおらず、北出丸で戦っていたのは山本八重と僅かな兵たちだった。そのため狙撃者は八重であるとも言われている。この時の会津若松城には、のちに後妻となる山川捨松とその家族が籠城していた。

留学

維新後の明治2年(1869年)、渡欧して普仏戦争などを視察。明治3年(1870年)から6年(1873年)の間はジュネーヴ留学した。留学時、ロシアの革命運動家レフ・メーチニコフと知り合う。メーチニコフは後に東京外国語学校に教師として赴任したが、これは大山の影響によるといわれる。

西南戦争

西南戦争をはじめ、相次ぐ士族反乱を鎮圧した。西南戦争では政府軍の指揮官(攻城砲隊司令官)として、城山に立て籠もった親戚筋の西郷隆盛を相手に戦ったが、大山はこのことを生涯気にして、二度と鹿児島に帰る事はなかった。ただし西郷家とは生涯にわたって親しく、特に西郷従道とは親戚以上の盟友関係にあった。明治13年(1880年)には陸軍卿となり[1]、第1次伊藤内閣において最初の陸軍大臣となった。

日清日露戦争

日露戦争中、満州

日清戦争直前には右目を失明していたという記録が残っているが、日清戦争では陸軍大将として第2軍司令官となった。明治32年(1899年)には参謀総長に就任し、また元帥に列せられた[1]日露戦争では元帥陸軍大将として満州軍総司令官を務め、ともに日本の勝利に大きく貢献した。同郷の東郷平八郎と並んで「陸の大山、海の東郷」と言われた。

元老

大山は陸軍を代表する存在であり、最重要の重臣である元老のメンバーとしても活動した。ただし、大山は陸軍内の意向に従う傾向があり、黒田清隆・西郷従道没後は会議内のバランスをとるためしばらく元老会議のメンバーから外されている[2]。大正4年(1915年)には内大臣となり、宮中入りした。

薨去

大正5年(1916年)、大正天皇に供奉し福岡県で行われた陸軍特別大演習を参観した帰途に胃病から倒れ、胆嚢炎を併発。療養中の12月10日に内大臣在任のまま薨去。享年75歳。病床についてから死ぬ間際まで永井建子作曲の『雪の進軍』を聞いていたと伝えられている。本人は大変この曲を気に入っていたという。

臨終の枕元には山縣有朋川村景明寺内正毅黒木為楨などが一堂に顔を揃え、まるで元帥府が大山家に越してきたようだったという。大山の死は夏目漱石の死の翌日のことだった。新聞の多くは文豪の死を悼んで多くの紙面を彼に割いたため、明くる日の大山の訃報は他の元老の訃報とは比較にならないほど地味なものだったが、それが大山と他の元老たちの違いを改めて印象づけた。12月17日の国葬では、参列する駐日ロシア大使とは別にロシア大使館付武官のヤホントフ少将が直に大山家を訪れ、「全ロシア陸軍を代表して」弔詞を述べ、ひときわ目立つ花輪を自ら霊前に供えた。かつての敵国の軍人からのこのような丁重な弔意を受けたのは、この大山と後の東郷平八郎の二人だけだった。

那須に葬られた。墓所は栃木県那須塩原市。遺品は陸上自衛隊宇都宮駐屯地に多数収蔵され、資料館に展示されている。

栄典

位階
勲章等
外国勲章佩用允許

家族・親族

晩年の大山巌・捨松夫妻

人物・逸話

第1次伊藤内閣成立時の高官を描いた錦絵

人柄

大山は青年期まで俊異として際立ったが、壮年以降は自身に茫洋たる風格を身に付けるよう心掛けた。これは薩摩に伝統的な総大将のスタイルであったと考えられる。日露戦争の沙河会戦で、苦戦を経験し総司令部の雰囲気が殺気立ったとき、昼寝から起きて来た大山の「児玉さん(児玉源太郎参謀長)、今日もどこかで戦(ゆっさ)がごわすか」の惚けた一言で、部屋の空気がたちまち明るくなり、皆が冷静さを取り戻したという逸話がある。ただし俊異の性格は日露戦争中も残っており、児玉が旅順に第3軍督励のため出張している間は、大山が自ら参謀会議を主宰し、積極的に報告を求め作戦を指揮したという公式記録が残っている。

桂太郎は大山の参謀総長時代の話として、次のような話を述べている。児玉、川上操六、桂が大議論を繰り広げていると、いつも大山が仲裁役となった。三人はそれぞれ理屈を述べるが、結局大山に唯々諾々と従ったという[26]大隈重信は世事に疎い武人と見られていた大山が新聞や雑誌を手元に置いていた常識人であったと述べている[27]

明治38年(1905年)12月7日にようやく東京・穏田の私邸に凱旋帰国した大山に対し、息子のが「戦争中、総司令官として一番苦しかったことは何か」と問うたのに対し、「若い者を心配させまいとして、知っていることも知らん顔をしなければならなかった」ことを挙げている。「茫洋」か「俊異」かという事項についての大山自身によるひとつの解答であろう[28]

教養

石黒忠悳は、大山と旅をしていると、その土地々々の有名な詩を暗誦していて驚かされたと回想している[29]。稀に和歌を読むこともあったが、てにをはの使い方などを注意されることがあっても気に留めなかったという[30]

容貌

従兄弟の西郷隆盛も大柄で肥満体だったが、大山もなかなかのものであった。その体型と顔の印象から「ガマ」(ガマガエル)というニックネームで呼ばれていた。しかもかなりの美食家であった。息子の大山柏の回想によると40cm以上もある蒲焼がのった鰻丼をペロリと完食し、ビーフステーキフランスから輸入した赤ワインが好物で、体重は最も重いときで95kgを越えていたという。その結果晩年は糖尿病に悩まされていた。妻の捨松は友人への手紙で「主人は最近ますます太り、私はますますやせ細っています。」と愚痴をこぼしていたという。ただし、『元帥公爵大山巌』(大山巌伝刊行会編、1935年)では肥満になったのは晩年のことで、当初はどちらかというと痩せ気味であったといい、槍術を得意としたという。

西郷隆盛像のモデル

キヨッソーネによる西郷隆盛の肖像画。顔の下半分は大山巌がモデルといわれる。

大山の従兄弟である西郷隆盛の肖像画として、イタリア人画家エドアルド・キヨッソーネが描いた肖像画がよく知られているが、西郷は生前に写真や肖像画を残していなかったため、キヨッソーネはこの肖像画を顔の上半分を西郷従道、下半分を大山巌をモデルにして描いたといわれている[31][32][33]東京・上野にある西郷隆盛像などもキヨッソーネの肖像画を基にしているとされる[31]

西洋かぶれ

大山は西洋かぶれで非常に西洋文化への憧憬が強く、また造詣も深かった。後藤象二郎西園寺公望らと共に「ルイ・ヴィトンの日本人顧客となった最初の人」として、ヴィトンの顧客名簿に自筆のサインが残っている。捨松との再婚の時の披露宴招待状は全文がフランス語で書かれた物で人々を仰天させたという。陸軍大臣公邸を出たあとに建てた自邸はドイツの古城をモチーフとした物だった。しかし、見た目の趣味はお世辞にもいいとはいえない代物で、ここを訪ねた捨松の旧友アリス・ベーコンにも酷評されている。巌はこの新居に満足していたが、妻・捨松は「あまりにも洋式生活になれると日本の風俗になじめないのでは」と、自分の経験から子供の将来を心配し、子供部屋は和室にしつらえていた。

政治家として

明治前期には陸軍卿として谷干城曾我祐準鳥尾小弥太三浦梧楼のいわゆる「四将軍派」との内紛(陸軍紛議)に勝利して陸軍の分裂を阻止し、彼等の拠点と化していた月曜会を解散させた。以後明治中期から大正期にかけて陸軍大臣を長期にわたって務めた。元老としても重きをなし、陸軍では山縣有朋と並ぶ大実力者となったが、政治的野心や権力欲は乏しく、元老の中では西郷従道と並んで総理大臣候補に擬せられることを終始避け続けた。

大隈重信は大山が薩摩人でありながら、郷土の縁故をもって頼み事をされても乗らず、超越した存在として公平に振る舞い、内大臣の適任者であったと回想している[27]。また山縣有朋も私心がなく公平であったと回想している[27]

君が代

大山は日本国歌となる君が代の成立にも関わっているとされることがある。明治2年(1869年)に設立された薩摩バンド薩摩藩軍楽隊)の隊員に対しイギリス公使館護衛隊歩兵大隊の軍楽隊長ジョン・ウィリアム・フェントン国歌あるいは儀礼音楽を設けるべきと進言し、それを受けた薩摩藩軍楽隊隊員の依頼を、当時の薩摩藩歩兵隊長である大山が受け愛唱歌である薩摩琵琶の「蓬莱山」より歌詞が採用された(現在の曲がつけられたのは明治13年(1880年))。ただし君が代を提案したのは静岡藩士の乙骨太郎乙であるという説もあるほか[34]、曾孫大山格は巌が国歌制定に関わったという話は大山家に全く伝わっていないとしている[35]

史跡・顕彰

九段坂上の大山巌騎馬像

邸宅

大山が生前に建設した本邸は大正12年(1923年)の関東大震災により崩壊した。その後大山家は、東京・表参道穏田一丁目=当時)[注釈 1]に広大な私邸を持っていたが、太平洋戦争大東亜戦争)末期の昭和20年(1945年)5月の東京大空襲で焼失した。その際アメリカ軍は大山邸などを目標にしていたといわれる。

また本邸の他に静岡県沼津市[注釈 2]栃木県那須[36]に別荘を所有しており、現在は大山別邸として県指定文化財となっている。那須では農場も持っており[注釈 3]、暇があれば山仕事に従事していたという[37]

銅像

現在、大山の騎馬姿の銅像が九段坂上に存在している。千代田区観光協会の解説によれば、この像は新海竹太郎の作によるもので、大正8年(1919年)11月3日に国会前庭北地区洋式庭園に建てられていたといわれているが、その後経緯は不明ながらも現在の位置に移設されたとしている[38]。一方で、巌の曾孫で歴史ライターの大山格は、公刊伝記『元帥公爵大山巌』や二反長半の『大山元帥』[39]を例示し、銅像は当初三宅坂の陸軍参謀本部の構内にあったとしている[40]。大山格によれば、銅像はその後東條内閣期に金属供出され三宅坂から撤去されたが、戦後になって上野の東京芸術大学構内で横倒しとなって放置されていたところを発見され、昭和39年(1964年)5月17日に現在の地に再建された[40]。巌の子である大山柏は著書『大山元帥と雪の進軍』において、再建に協力した人々に感謝の辞を述べている[40]

墓所

栃木県那須塩原市の大山巌墓所参道

栃木県那須塩原市にある大山の墓所参道にはモミジヒノキの並木が整備されており、秋には紅葉のトンネルのような景観となる[41][42]。参道の設計は山本直三郎によるもので[42]、当初はモミジと交互に桜も植えられていたが、桜は枯れてしまったため伐採され残っていない[42]

評価

  • 大隈重信 「常識には非常に富んでおられ、決して世間の想像するが如く、世事に暗い一個の武弁たるに止まるものでは無い。しかし公はかくの如くして独楽独慎を事とする君子のおもかげはあるが、進んで積極的に悪を斥け善をなさるる如き言動には出でられない。畢竟するに公は一個の君子人であった」[27]
  • 山縣有朋 「沈黙寡言を以て、あるいは茫漠として捕捉する所なきが如く解する人あらんも、その聡明にして事物の推移を洞察し、大局の帰趨を達観するの明に至りては、実に敬服の外なく、更に黙々の間に人を見るの慧眼には、公を知る者の畏敬措かざる所なり」[43]
  • 伊藤博文「西郷翁(隆盛)は人を知って任せるし、大山は人を見て任せる。どっちも偉い。」 [37]
  • 土方久元 「徳の高い至って質素な大海の如き大量の人物であった。下に使わるる人々は誰として敬服、心服せぬ者はなかった。一言にして評せば将に将たる大将軍であった。こういう人物はただ生きているという事それだけで国家に対して利益のあるものである。即ち国宝と申すべき人物である」[44]
  • 桂太郎 「大山さんの偉いところは、大山さんの下僚に居った者でなければ分らぬ」[26]
  • 石黒忠悳 「公爵は決して才智を表に現す事のない人です。即ち智というものを全く超越している人であると思います」[45]「一見何事をも知らざるが如く、しかして何事をも知っていた。公の本領はもちろん、軍将として三軍を叱咤するにあったが、一面政治をも解し経済にも通じ、八方無凝の大才であった」[46]
  • ジョルジュ・デラ・ファイユ・デ・ルーヴェルゲンオランダ語版伯爵(ベルギー公使) 「公は常に我々外国人に接して、愉快な印象を与えられた。宮中などで山縣公と大山公に会った時の印象を区別すれば、山縣公は此方からの問あれば答えんと云う、極めて厳格な風の方であると思わるるが、大山公は何か話題を作って話しかけようと思われている様子がありありと見える、ごく平民的の方であった。公爵邸に行って種々お話している間に、公爵は外国に関する事を正確に話された。それで私は公爵が外国の書物や、外国の話に始終注意しておらるる方だと思っていました。と言うていたずらに外国の話をしてその知識を示そうという方ではなく、間々にはごく平易なお話もあり、ある時は公爵は私の最も好きなのは田園生活で、自然ほど自分を喜ばすものは無いなどと語られた」 [47]
  • 福島安正 「ああいう偉人は真似が出来ぬ。山が崩れても地が裂けてもビクともしないあの大きな所は真に天下の珍で国家の柱石である。公は中正廉潔で少しの私心ももたない。薩摩人であって薩摩贔屓をするでなく、私党私派を作ることを絶対しない。私行上何一点非難の打ち所のない立派な人で、ことに礼譲の徳に富み相手が豪い人であろうが凡人であろうがその態度に少しも差別は無い」[48]
  • ニコ・ミリアレッシー(ギリシャ軍事通信員) 「元帥も年を重ねられて大分頭が古いなどという人もありましたが、私はそうは思いませんでした。私は昨日独逸から帰ったばかりなどという新しい将校に会って話を聞きますが、それ等の人々の意見よりも却って老元帥の意見の方が新式で、また遥かに真に当たっているのに驚きました。私は老元帥は先天的の軍人で軍人中には珍しい遠大な計画を腹蔵していると思いました」[49]
  • 徳富蘇峰 「公の智は、自ら私するの小智にあらずして、天下の大局に処するの大智なり。古人曰く、その智には及ぶ可く、その愚には及ぶ可からずと。愚は智の極致なり。ただ我が大山公に於いて、之にちかし。公の智は大勢を見るに長じ、人を鑑別するに長じ、特に自ら処するに長じたり。公はある意味に於いて、個人主義者なり。親分もなければ、子分もなし。従って藩閥心もなければ、党閥心もなし。然もまた利己的個人主義者にあらずして、偉大なる個人主義者なり」[50]

大山巌が登場する作品

テレビドラマ

脚注

注釈

  1. ^ 現在の東京都渋谷区神宮前5丁目。
  2. ^ 牛臥山南斜面にあった。
  3. ^ 農場敷地は現在の西那須野駅東側、那須塩原市南町・西朝日町一帯であり、現在も別邸・門衛所・墓所がある。

出典

  1. ^ a b アジア歴史資料センター.
  2. ^ 伊藤之雄 2016, p. 102-103.
  3. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r 大山巌」 アジア歴史資料センター Ref.A06051166100 
  4. ^ 『官報』第993号「叙任及辞令」1886年10月20日。
  5. ^ 『官報』第3746号「叙任及辞令」1895年12月21日。
  6. ^ 『官報』第1308号「叙任及辞令」1916年12月11日。
  7. ^ 『官報』第307号「授爵・叙任及辞令」1884年7月8日。
  8. ^ 『官報』第1928号「叙任及辞令」1889年11月30日。
  9. ^ 『官報』第1971号「彙報」1890年1月27日。
  10. ^ 『官報』第3631号「授爵・叙任及辞令」1895年8月6日。
  11. ^ 『官報』第3824号・付録「辞令」1896年4月1日。
  12. ^ 『官報』号外「叙任及辞令」1906年12月30日。
  13. ^ 『官報』第7272号「叙任及辞令」1907年9月23日。
  14. ^ 『官報』第1310号・付録「辞令」1916年12月13日。
  15. ^ 『官報』第1187号「叙任及辞令」1916年7月15日。
  16. ^ 『官報』号外「勅令」1916年12月11日。
  17. ^ 『官報』第1311号「故大山内大臣葬儀」1916年12月14日。
  18. ^ 『官報』第178号「賞勲叙任」1884年2月5日。
  19. ^ a b c 『官報』第482号「賞勲」1885年2月12日。
  20. ^ 『官報』第2350号「叙任及辞令」1891年5月4日。
  21. ^ 『官報』第2372号「叙任及辞令」1891年5月29日。
  22. ^ 『官報』第6828号「叙任及辞令」1906年4月7日。
  23. ^ 『官報』第7051号「叙任及辞令」1906年12月28日。
  24. ^ 大山侯令嬢信子逝く『新聞集成明治編年史. 第九卷』林泉社、1940、p412
  25. ^ 大山柏『金星の追憶 回顧八十年』(鳳書房、1989年)が没後刊行
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  46. ^ 『維新雑史考』国立国会図書館デジタルコレクション
  47. ^ 西村文則 1917, p. 211-213.
  48. ^ 明治功臣録刊行会編輯局 1917, p. 345.
  49. ^ 明治功臣録刊行会編輯局 1917, p. 346-347.
  50. ^ 明治功臣録刊行会編輯局 1917, p. 324-333.

参考文献

  • 児島襄 『大山巌』(全4巻、文藝春秋 のち文春文庫)(双方とも品切絶版。日清戦争までを描く、続編は『日露戦争』 同)
  • 長南政義「日本の活国宝 大山巌」ゲームジャーナル編集部『坂の上の雲5つの疑問』(並木書房、2011年)ISBN 4890632840
  • 西村文則『大山元帥』(1917年、忠誠堂)NDLJP:951560
  • 明治功臣録刊行会編輯局編『武勲大山公』(1917年、明治功臣録刊行会)NDLJP:955878
  • 伊藤之雄『元老―近代日本の真の指導者たち』中央公論新社、2016年。ISBN 978-4121023797 
  • 大山巌”. 日露戦争特別展. アジア歴史資料センター. 2019年6月22日閲覧。

外部リンク


公職
先代
伏見宮貞愛親王
日本の旗 内大臣
第5代:1915年4月23日 - 1916年12月10日
次代
松方正義
先代
高島鞆之助
(新設)
日本の旗 陸軍大臣
第3代:1892年8月8日 - 1896年9月20日
初代:1885年12月22日 - 1891年5月17日
次代
高島鞆之助
高島鞆之助
先代
(新設→欠員)
日本の旗 内務大輔
1879年 - 1880年
次代
前島密
先代
川路利良
日本の旗 大警視
第2代:1879年10月16日 - 1880年2月28日
次代
樺山資紀
先代
鳥尾小弥太(→欠員)
日本の旗 陸軍少輔
1874年 - 1878年
次代
(欠員→)小沢武雄
軍職
先代
山県有朋
川上操六
参謀総長
第6代:1905年12月20日 - 1906年4月10日
第4代:1899年5月16日 - 1904年6月20日
次代
児玉源太郎
山県有朋
先代
山県有朋
監軍
1889年 - 1890年
次代
三好重臣
先代
山県有朋
参謀本部長
第3代:1882年9月4日 - 1884年2月13日
次代
山県有朋
先代
曽我祐準
陸軍士官学校長
1878年 - 1879年
次代
谷干城
先代
種田政明
熊本鎮台司令長官
1876年
次代
谷干城
日本の爵位
先代
陞爵
公爵
大山家初代
1907年 - 1916年
次代
大山柏
先代
陞爵
侯爵
大山家初代
1895年 - 1907年
次代
陞爵
先代
叙爵
伯爵
大山家初代
1884年 - 1895年
次代
陞爵