「新幹線大爆破」の版間の差分
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2020年7月11日 (土) 12:09時点における版
新幹線大爆破 | |
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The Bullet Train Super Express 109 | |
監督 | 佐藤純弥 |
脚本 | 小野竜之助・佐藤純弥 |
原案 | 加藤阿礼[注釈 1] |
出演者 |
高倉健 千葉真一 宇津井健 |
音楽 | 青山八郎 |
撮影 | 飯村雅彦 |
編集 | 田中修 |
製作会社 | 東映 |
配給 | 東映 |
公開 |
1975年7月5日 1975年9月10日 1976年1月1日 1976年6月30日[4][5] |
上映時間 |
152分 115分 100分 |
製作国 | 日本 |
言語 | 日本語 |
製作費 | 5億3,000万円[6][7] |
『新幹線大爆破』(しんかんせんだいばくは、The Bullet Train, Super Express 109 )は、1975年の日本映画。オールスターキャストによるパニック映画で、日本よりも海外での評価が高い作品である。
概要
「新幹線が走行速度80km/hを下回ると爆発する」という状況下で繰り広げられる、犯人と国家との攻防劇である。新幹線に爆弾を仕掛けた犯人、危機の回避に全力を尽くす日本国有鉄道(国鉄)サイド、わずかな糸口を頼りにその正体を追いかけ、徐々に犯人グループを追い詰めていく警察、パニックを起こす乗客の姿で主に構成されている。犯人側の人生背景にも大きくスポットが当てられており、町の零細工場の経営に失敗した男・過激派くずれ・集団就職で都会に来た沖縄出身の青年がなぜ犯行に至ったのか、日本の高度経済成長時代への批判を暗示しつつ明らかにされていく[8][9][10][11]。犯人側にもドラマを与え感情移入を狙った演出も相まって、単なるパニックムービーとして括れないことが高評価に繋がっている[1]。
ストーリー
ある朝、国鉄に「本日東京駅を出発した“ひかり109号”に爆弾を仕掛けた」と、脅迫電話がかかってきた。犯人は三名のグループで、新幹線に爆弾を仕掛け、誰も殺さず殺されずに巨額の身代金を得ようと完全犯罪を計画したのであった。終盤まで、犯人グループと警察当局・国鉄とのスリリングな駆け引き、そして乗客乗員らのパニックが続く。
出演者
主要人物
その他
- 山本圭:古賀勝
- 郷鍈治:藤尾信次
- 織田あきら:大城浩
- 竜雷太:菊池(鉄道公安官)
- 宇津宮雅代:富田靖子(沖田の元妻)
- 藤田弓子:秋山(女医)
- 多岐川裕美:スカンジナビア航空係員
- 志穂美悦子:国鉄本社電話交換係
- 渡辺文雄:宮下義典国鉄公安本部長
- 福田豊土:田代車掌長(ひかり109号)
- 藤浩子:事務員
- 松平純子:喫茶店「サンプラザ」ウェイトレス
- 久富惟晴:広田警視庁特捜係長
- 青木義朗:千田刑事
- 千葉治郎:救援列車の運転士
- 原田清人:三宅新幹線技師長
- 浜田晃:長田刑事
- 中井啓輔:哲ちゃん(マネージャー)
- 山本清:高沢運転車輌部長
- 矢野宣:南(商社マン)
- 近藤宏:松原刑事
- 田中浩:堤刑事
- 中田博久:新幹線東京運転所係員
- 林ゆたか:中やん(録音技師)
- 横山あきお:アパートあかね荘管理人
- 浅若芳太郎:乗客
- 植田峻:平尾修一(和子の夫)
- 松野健一:小宮運転指令
- 田島義文:佐々木刑事
- 田坂都:平尾和子(妊婦)
- 十勝花子:乗客
- 片山由美子:バー「スナックファミリー」のホステス
- 渡辺耐子:古賀の兄嫁
- 津奈美里ん:アパートあかね荘の住人
- 森みつる:田口洋子(バー「スナックファミリー」のホステス)
- 風見章子:靖子の母
- 荘司肇:乗客
- 阪脩:テレビアナウンサー
- 佐伯赫哉:野口運転指令
- 福岡正剛:杉村(会社員)
- 岩城滉一:東郷あきら(ロックミュージシャン)
- 小林稔侍:森本運転士(ひかり109号)
- 片岡五郎:佐原刑事
- 仲野力永:大阪商人
- 日尾孝司:機動隊長
- 伊達三郎:商人風の男
- 藤山浩二:広岡記者
- 滝沢双:河村専務車掌(ひかり109号)
- 佐藤晟也:乗客
- 仲原新二:警視庁公安一課長
- 森祐介:畑電気指令
- 佐藤和男:小野運転指令
- 岡本八郎:山ちゃん(カメラマン)
- 阿久津元:警視庁刑事
- 黒部進:後藤刑事
- 河合絃司:部長刑事
- 土山登士幸:岩上刑事
- 相川圭子:ウェイトレス
- 小田登枝恵:清掃係の小母さん
- 山下則夫:清水専務車掌(ひかり109号)
- 須賀良:男
- 山本相時:電話局係員
- 松沢勇:電話局係員
- 山本緑:乗客
- 久地明:消防士
- 相馬剛三:刑事
- 山田光一:乗客
- 木村修:記者
- 五野上力:上野刑事
- 高月忠:浜松駅係員
- 城春樹:食堂車コック
- 畑中猛重:貨物5790列車機関士
- 浜田勇:テレビの歌手
- 清水照夫:救援車作業員
- 亀山達也:救援車作業員
- 山浦栄:食堂車コック
- 田辺進三:閉所恐怖症の男
- 青木卓司 :乗客
- 佐川二郎:野上駅荷物扱所係員
- 中条文秋:乗客
- 菅原靖人:賢一(沖田の息子)
- 秋山幸輝
- 河口真佐幸
- 岡久子
- 伊藤慶子:乗客
- 美原亮三:乗客
- 宮地謙吾:貨物5790列車機関助士
- 長岡義隆:若者
- 打越久員:志村駅長
- 祝真一:武田伸夫
- 渡辺義文:ナベちゃん
- 泉水直子
- 新倉文男
- 前田美智子
- 篠ゆたか
- 藤本あけみ
- 菊地正孝:刑事
- 横山繁:航空会社係員
- 大泉公孝:埼玉県警刑事
- 高島志敏:空港の刑事
- 宇野静代
- 藤井秀之
- 志村喬:国鉄総裁
- 山内明:内閣官房長官
- 永井智雄:国鉄新幹線総局長
- 鈴木瑞穂:花村警察庁捜査第一課長
- 特別出演[注釈 2]
- ノンクレジット
- エンベル・アルテンバイ:空港の外国人
- 泉福之助:救援列車作業員
スタッフ
- 監督:佐藤純弥
- 企画:天尾完次・坂上順
- 原案:加藤阿礼[注釈 1]
- 脚本:小野竜之助・佐藤純弥
- 撮影:飯村雅彦・山沢義一・清水政郎
- 美術:中村修一郎・桑名忠之
- 録音:井上賢三
- 照明:川崎保之丞・梅谷茂
- 監督補佐:岡本明久
- 編集:田中修
- 記録:勝原繁子
- 擬斗協力:日尾孝司
- スチール:加藤光男
- 進行主任:東一盛
- 装置:畠山耕一
- 装飾:米沢一弘
- 美粧:住吉久良蔵
- 美容:宮島孝子
- 衣装:河合啓一
- 演技事務:山田光男
- 現像:東映化学
- 音楽:青山八郎
- 主題曲:RCAレコード
- 特殊撮影:小西昌三(NACフィルムエフェクト)・成田亨(モ・ブル)・郡司製作所
- 協力:日本無線株式会社・旭光学工業株式会社・谷村新興製作所・イスのコトブキ
製作
企画
1974年5月、岡田茂東映社長は、天尾完次東映東京撮影所企画部長[12] との打ち合わせで実録路線に替わる新たな(映画の)素材を探し始めた[13][14][15][16]。「アメリカでヒットしているものは日本でもウケるから、常にアメリカの動向を観察していなければならない[2][13][17]」「洋画で流行っているものは、必ず邦画にもその流れが来るはずだ[15]」「世間をアッと言わせるような作品を早急に考えろ![14]」と、カンフー映画に触発されて製作した千葉真一主演の格闘映画『殺人拳シリーズ』が業績好調と裏付けられていたため[15][18]、岡田は企画部に新たな企画を出すよう指示[13][15][17]。「『大地震』や『タワーリング・インフェルノ』みたいなパニック映画をやってみろ!」と東映東京撮影所に社長命令を出した[1][2][14][15][17][19][20][21][22]。アメリカではパニック映画がピークを迎えていた[23]。
岡田社長が東京撮影所全体に本作製作の指示を出したのは、岡田社長宅にデモをかけ逮捕者を出すなど[24][25]、同撮影所が組合運動ばかり熱心で[18][26][27]、当たる映画を一本も作れていなかったからで[28]、天尾完次は[29](鈴木則文も[29])それまで東映京都にいたプロデューサーだったが[29]、1973年秋、岡田が閉鎖の構想を持っていた[14][26][30][31] 東京撮影所の徹底的なテコ入れのため[29]、同撮影所に送り込んだ刺客であった[29]。
そんな中、6人いた東京撮影所企画部のプロデューサーの一人[12]坂上順は、黒澤明の脚本『暴走機関車』や[20]、ロッド・サーリング脚本による1966年のアメリカのTVムービー『夜空の大空港』をヒントに[32]、「何か問題があれば必ず止まる“安全神話”を誇る新幹線が、もし止まらなくなったら?[15]」という企画を提出した[15][20][33][34][35]。「『日本にしかない題材の新幹線を選び、それを乗っ取る・爆発させる』というストーリーは日本だけでしか出来ず、外国に持っていっても遜色ないものが出来る[2][13]」と製作は進んでいく[15][36]。バリバリの共産党員で[14] 本作のチーフ助監督[14]岡本明久は「高度経済成長のシンボルとも言える新幹線を爆破するという発想には驚いた」と話し[37]「岡田社長は他社にない東映の良さは、時代の流れを見て何でもやる、変幻自在なところだと話していた」と述べている[37]。佐藤は「当時の東映ってのは企画も非日常、バカバカしい大騒ぎするようなことを出していかないといけないムードでね。今でいうなら『東京オリンピック爆破』くらいのことね」などと述べている[33]。大川博が国鉄OBだった縁で、1960年の映画『大いなる旅路』は、機関士の半生の話で冒頭で貨物列車が転覆するというシーンに本物の車両を出し、国鉄から表彰されていた[34][38][39]。このような実績と蜜月で、全面的な協力を期待[19][34][38][40]。東映は特撮があまり得意でなく、「実写をふんだんに使い、迫力のあるパニック物を作ろう」と構想していた[13]。
予定していたタイトルは『新幹線爆破魔を追え』であったが[41][42]、岡田は「新幹線大爆破!」と変更[15][43][44]。「半期に一本のスーパーアクション」[45]「実録ものの一バリエーションとして、企画の幅を広げる意味でも是非実現し成功させたい」[42]「従来の東映の客層にプラスアルファを狙いたい」などと張り切り[46]、東映系の映画館主や関係者からも「これは当たる」「東映カラーを打ち破る手がかりになる」などと評判が良く、マスメディアからの反響も大きく「本作が成功すれば路線変更」という声も上がった[13]。
監督・脚本
天尾完次と坂上順は緻密なコンストラクションという点で「東映東京撮影所では佐藤純弥しかいない」「それに粘り強いライターなら小野竜之助だろう」と二人を組ませた[13][19]。佐藤へのオファーが1974年初夏[6]。小野へのオファーは同年の11月だった[13]。坂上が「網走番外地シリーズ」のロケでお世話になった層雲峡温泉の「ホテル大雪」にお願いして[8]、佐藤と小野は二人で当地に一ヶ月以上籠り[8][32][33]、ストーリーを練った[8][19]。佐藤は本作の2、3年前、国鉄国際部の依頼で[32]、海外広報用に新幹線のPR映画を作った経験があった[6]。有名な“新幹線が一定速度を下回ると爆発する”というアイデアは、坂上順の着想とされ[6][47]、「飛行機は着陸したくても着陸できないというサスペンス映画があるけれど、新幹線の場合、停まりたくても停まれないというサスペンス映画はできないですか」と佐藤に伝えた[13][33]。佐藤は東京・駒込六義園近くにある、鉄道関係の専門書を多く発刊している書店の交友社に出向き「新幹線教則本」を購入[6][34]。また前記のPR映画を作った際に、国鉄の広報担当者が「新幹線は地上最速の輸送機関でありながら、最も安全である。何故ならば、新幹線の安全対策は多岐に渡るが、その根本思想は、何かあったら直ちに停止するということだからだ」と言っていたのを思い出し、爆発のメカニズムのアイデアを膨らませた[6][33][48]。走行速度80km/hで爆発する設定を考案したのは佐藤である[33]。元々、子供の頃からラジオ製作などが好きで、一定の周波数を検知するとスイッチが入るというメカニズムは有り得るということは知っていた[33]。国鉄サイドからすれば、本作のアイデアがそうした盲点を突いていたことが、当初は蜜月関係だったにも関わらず、協力を嫌がった理由といわれる(後述)[13][49]。佐藤は後年のインタビューで「ああいう爆弾を素人が作ることは難しいでしょうけど、あの頃は東京駅の階段の横から新幹線内部に潜入することも出来ましたし、当時は計画を実行することはそれなりに可能だったと思います。だから国鉄は映画が公開されたら、真似されることを恐れたんだと思います」と述べている[32]。また演出的なバネとなったのは『わらの犬』と話していた[50]。
浜松駅での上り線への切り替えシーンのアイデアは、黒澤明脚本『暴走機関車』に佐藤がB班として参加した際、実現はしなかったが似たシークエンスがあったという[8]。関川秀雄の兄が新幹線開発に加わっていたために話を聞いたり[34][注釈 3]、静岡県浜松市の国鉄浜松工場を訪ねたりして資料を集めていた[6]。
キャスティング
1973年の『ゴルゴ13』からプロデューサーとなった坂上順は[20]、製作進行係をしていた時から俊藤浩滋や高倉健にいろいろ教えてもらっていた縁から[20]、主役の沖田哲男役のみ、高倉と決めていた[20][40]。しかし岡田茂は「もう鶴田浩二、高倉ばかりに頼るな」と言い、社の方針として「菅原文太・梅宮辰夫・千葉真一でやっていく」と東映は決めていた[20]。
坂上は高倉に脚本を見せると「こんな面白い映画なら、どんな役でもいいからぜひ参加したい、もちろん犯人役でも構わない[35]」と言ったが[34][47][52]、社の方針で沖田には菅原がキャスティングされ[20]、倉持には高倉がキャスティングされる。[要出典]しかし菅原は「この映画の主役は新幹線で、演技者は付け足しだ[42][52]」「国鉄の協力が無くてできるわけがない[53]( ⇒ #撮影)」と断ってきた[42][52][53]。坂上は本社で「社長(岡田)が『若いのでやれ』って言ってるんだから梅宮か、小林旭にしろ」と聞かされ、岡田からも「高倉にこだわっていたら、企画が前に進まない」と念押しされた[53]。高橋英樹も主演候補に挙がったが[54]、坂上は散々迷った挙句に岡田の家へ夜10時頃に電話して「どうしても健さんでやりたい」と伝えた[40][53]。通常の映画作品よりキャスト・特撮の双方で予算が掛かっているため「本来のギャラを出せない」と思っていた岡田は、「通常のギャラの半分でいいなら、高倉を起用してもいい」と条件をつける[40][53]。高倉は「ギャラは半分でいいが、その代わり映画が当たったら成功報酬のパーセンテージが欲しい[52]」という契約で坂上のオファーを受けた[40][53]。高倉は「この映画に関しては俳優の魅力なんかは二の次で、ストーリーの面白さがある」「大変面白い脚本で、久しぶりにのってるんです」と当時のインタビューで述べていた[13]。
脚本の小野竜之助は、フランスで公開された内容のような凶悪犯と設定し、犯罪者側の視点は簡潔なもので[47]、国鉄・警察側のみから描く予定だった[55]。しかし高倉の出演により[38][55]、犯人の人間像を膨らまし[55]、「なぜ、犯行に至ったのか」という犯人側のそれぞれの背景を書き足し、シナリオを“複眼”にした[38]。やくざ映画のヒーローでならした高倉が、ジャンパー姿の、倒産した中小企業のオヤジ役を引き受け、時代に取り残され絶望的な反撃を試みる男を演じ、同作は彼がこれ以降に幅広い役柄をこなすきっかけとなった[8][54]。
千葉真一は当初別の役だったが、坂上が何とかお願いして青木運転士を引き受けてもらった[56]。全編ほぼ運転席に座っていた青木だが、ゴーグルを着けて客車の床を焼き切り[57]、ヤケドをするシーンは千葉のアイデアによるもの[56]。高倉・千葉・宇津井健は同時アングルで出演していないが、高倉と宇津井が談笑する姿や新幹線の模型を持つスチル写真が残されており[58]、新東宝出身の宇津井は東映初出演となった。坂上は犯人と対峙する花村警察庁捜査第一課長に丹波哲郎を配役し、『網走番外地』で高倉と対峙するイメージを描いていたが、丹波に「4日しか空かない」と言われ、鈴木瑞穂に変更[59]。脚本では丹波と鈴木の役は1人だったが、分けたことで丹波の役は重要度が下がることとなる[59]。坂上はポスターを作った時、キャスト並びで丹波を中止めにして宇津井を止めにした[59]。これに新東宝で宇津井の先輩である丹波がクレームをつけてきたため、本編のクレジットで丹波はエンディングに特別出演とロールされている[59]。
学生運動くずれ・古賀勝には当初、原田芳雄へオファーしたが、「テロリズム的なものは嫌だ」と断られたため[60]、山本圭がキャスティングされた。しかし本作を観た原田は「断って申し訳なかった。次は是非ご一緒に」と、『君よ憤怒の河を渉れ』(1976年)に出演した[60]。山本の出演で坂上はプロデューサーの宮古とく子と縁ができ、『新幹線大爆破』を宮古に褒められ「『君よ憤怒の河を渉れ』の監督に起用したいので佐藤を紹介してくれ」と頼まれた[56]。高倉の『君よ憤怒の河を渉れ』出演も本作と同じ佐藤監督からの縁によるもの[61]。制作費の高騰により、俳優へ協力を頼み、通常より低めのギャラで出演してもらった[13]。カメオ出演のうち、北大路欣也はノーギャラ[34]。岩城滉一は映画デビュー作だったもののアップがないため、役柄を前もって確認しておかないと気付きにくい[62]。
この他、『小川宏ショー』に出演していたフジテレビの人気アナウンサー・露木茂にテレビの報道記者の役で、1975年5月16日に正式に出演オファーを出した[63][64]。露木がよど号ハイジャック事件やあさま山荘事件のリポートで知られていたことから[64]、テレビで刻々とニュースを伝え、犯人にも呼びかけるうってつけの配役と、露木も「断る理由は何もない」と話し、『小川宏ショー』のスタッフからも「いいお話じゃないですか」などと乗り気だったが[63][64]、露木はアナウンス部ではなく、解説委員室というお堅いセクションに所属していて[64]、同セクションの上司から「映画の内容が内容だけにどうか?」と反対され出演はならなかった[64]。
製作費
制作費は5億3,000万円[6][7][16][65]。製作当時の東映東京撮影所所長・幸田清は「ふんだんに岡田社長に金を使わせてもらっているので、これが当たらなかったらオレはクビだと思う。俳優、スタッフとものりにのっており、東撮始まって以来の熱気だ」などと話していた[65]。東映の作品において過去最大の金額と言われ[13]、監督の佐藤純弥は2002年のトークショーで「現在の貨幣価値なら20億円くらいでないか」と述べている[34]。プロデューサーの坂上順は2012年のインタビューで「制作費は1億5,000万円、今に換算すれば10億円ぐらいになるでしょう」と述べている[40]。1975年の小学校教師初任給は8万1,104円、東京都内のもりそば、かけそば料金は230円、4ドア普通乗用車96~140万円の時代である[66]。
撮影
準備まで
国鉄に、実物の新幹線0系電車の撮影協力を交渉したところ、安全を謳い文句にしていた国鉄は、刺激的な映画のタイトルに難色を示し[19]、「『新幹線大爆破』という映画のタイトルでは新幹線のイメージが悪くなるので、『新幹線危機一髪』というタイトルへ変えるなら撮影に協力しても良い」とタイトル変更を打診するが[8][15]、岡田茂は「題名は絶対に変えんぞ!」と断固拒否[15][33][38][40][44]。当時国鉄は、森繁久彌が「安全です国鉄は」と訴えかけるCMを放送していた[67]。1974年12月、国鉄が「現在、新幹線に爆弾を仕掛けたという電話は週に1本の割合でかかって来て、その度にいたずら電話かも知れないが、必ず最寄の駅に停車させて検査するような状態である。このような映画は、更に類似の犯罪を惹起する恐れがあるから製作を中止されたい」と、本作の企画に断固反対の姿勢を打ち出した[6][10][14][48]。1975年2月初めに国鉄から80%協力は得られないという線が出て[36]、児童教育映画を作るからと称して申し入れたがこれも拒否され[68]、同年4月にいっさいの撮影協力を断られた[13][15][68][69][70]。1975年3月~4月の間、表立った製作はストップしたが[36]、この間に国鉄の協力なしで撮影が可能か検討された[36]。
撮影決行
『週刊朝日』(1975年4月18日号)に「九割がた製作中止になりそう」と報道されるが[67]、「活動屋魂、見せてやろうじゃねえか!」と[14] 現場の士気はかえって上がった[8][10][14][33]。1年以上かけた企画を潰すことはできず、ロケーション撮影が不可能となり、岡田から「隠し撮りとミニチュア撮影の合成」と指示を受けた[13][54]。製作態勢がほぼ整ったのは1975年4月半ば[36]。A班、B班、特撮班、実写班と4班のスタッフが編成され[36]、1975年4月29日クランクイン[36][71]。特撮カメラを担当した清水政郎は「時期が時期だけに中止だろう」と思っていたため、製作決行にビックリしたという[72]。
製作会見
撮影中の1975年5月12日、東京有楽町交通会館15階スカイラウンジにて製作発表会見が行われ、登石雋一企画製作部長、佐藤監督、高倉健、宇津井健、山本圭らが出席した[71][73]。ここから東京駅の新幹線ホームがよく見え[71]、高倉らはそれを背に質問に答えた[71]。国鉄が非協力だけでなく、クレームを付けているという報道が流れていたため、世間の関心も高く、報道陣からの質問はそれに集中した[73]。佐藤は「現実に爆弾を仕掛けたという脅迫電話が新幹線総局に月に二、三十件あると聞いている。映画で多少は増えるかも知れないが全く別の問題だと思う。類似犯罪についても絶対に真似でできない仕掛けだから心配ない」などと話した[71]。マスメディアからはできないのではないかと思われていたため[74]、「本当に作るのか?」という質問まで出た[75]。他に登石より「作品は二部構成で二部の結末にはアイデアを募集。詳細は何れ新聞で発表する」との説明があった[73]。
特撮とロケなど
東京駅ホームの階段を、バンド仲間と昇る東郷あきら(岩城滉一)のシーンは、東映東京撮影所の中庭に東京駅の原寸大のプラットホームを建てたが[33][76]、東京駅全景のカットは盗み撮り[33]。新幹線運転司令室は、同撮影所の最大のステージにセットが組まれ[14]、中央部に実際に使われていたものと同じCTC表示板が鎮座し[14]、他のステージの多くも本作撮影用に占拠された[14]。「岡田社長が京都か東京のどちらかの撮影所を潰すと言っている」という信頼性の高い情報が駆け巡ったため[14][26][30]、東京撮影所の存続を賭け、多くのスタッフが本作製作に志願した[14]。裏ルートで取材を行い、実物大の客車セットや模型を作り、撮影を進める[6][19]。急ピッチで撮影に入るが[44][77]、実質、撮影に充てられる期間は五週間程度だった[33]。当時のニュース映像や資料写真を参考にしたり、色々な手を使って本物そっくりのセットを作りあげた[6]。このため、国鉄からは3年間出入り禁止となった[33][34]。特撮部分に総額6,000万円をかけている[13]。
また、鉄橋の下での撮影などは『新幹線大爆破』というタイトルでの申請では門前払いを喰らうので、『大捜査網』というタイトルのシナリオを30部ほど印刷して、ロケ交渉ではそちらのシナリオを先方に渡し許可を取った[19]。貨物5790列車の走行シーンは、私鉄の北海道炭礦汽船真谷地炭鉱専用鉄道で、国鉄ではないために撮影が可能だった[8]。爆破シーンは、北海道炭礦汽船夕張鉄道線の一部を引き継いだ専用線で撮影された[49]。5790列車は、当時夕張線に実在し、実際に蒸気機関車が牽引していた。北海道夕張の貨物駅シーンも熊谷市の秩父鉄道広瀬川原車両基地を用いた。線路が見えるところや車両基地、古賀勝(山本圭)が線路を渡って逃げていくシーンは、西武鉄道の協力によるもの[33]。古賀が線路を渡って逃げるシーンは、都営地下鉄三田線の志村車両検修場構内。犯人グループのアジトがこの近辺に設定されたのは、1970年代初頭までここは小さな町工場が密集し[78]、過激派や学生運動の闘士が多く住んでいたため[78]。織田あきら扮する大城浩が売血するシーンは、佐藤の学生時代の実体験で[78]、1970年代初頭までは、貧乏な者がまだ売血で金を得ていた[78]。刑事の前を横切る電車は、都営地下鉄6000形である。その後、西台駅1番ホーム、東口改札口まで刑事が追跡する。
ひかり109号
車両のミニチュアは1台1メートル余りあり[23]、12両編成で12メートル。これを2セットで計24両製作[13]。この2台で2000万円かかった[13]。東映の「紡錘形を作らせたら日本一」といわれる美術担当者が、新幹線特有の紡錘形を再現した[13]。新幹線などのミニチュアの実製作は、長らく映画・テレビの特撮作品で金属模型を手掛けた郡司製作所が担当した。撮影所正門反対側の中庭260平方メートルに線路を敷いたオープンセットを建設[79]。線路は全長50メートル[6]、150メートル[34]、300メートル[70] と文献によって長さの記載が異なる。特撮シーンは特殊技術の成田亨によるもので、新幹線のミニチュアは自走式では無く、小型のスキージャンプ台のように30度の傾斜をつけて走らせ撮影した[6][79]。当時、このミニチュアが大変話題になり、宣伝部はここぞとばかりパブリシティを展開した[40]。この新幹線と線路のミニチュアは、のちに『ウルトラマン80』でも使用されており[80]、109号が爆破されるイメージカットは東映の特撮ドラマなどにも流用されている。爆破場面以外でも『大鉄人17』で新幹線ロボットの登場する前後編(第18話・第19話)等で流用された。背景の都市はミニチュアではなく、ビルのモノクロ写真を引き伸ばしてパネルに貼り付け、着色したものである。これは成田の発案で、限られた予算内で撮るためのアイデアの1つだった。この特撮のため、1日のレンタル料が100万円だった当時最新鋭のシュノーケル・カメラを借りている[34]。シュノーケル・カメラはそれまでCMでしか使われたことがなく[15]、同カメラを使用した映画は、本作が初めてといわれている[13][15]。このカメラを約1か月使用した[34] 2年後、同じカメラが『スター・ウォーズ』で使用されたという[34]。これらミニチュアの新幹線と実際の新幹線を撮った映像を組み合わせ[34][70]、迫力のある走行シーンを撮り上げた[13]。
『新幹線大爆破』『東京湾炎上』と邦画のパニック映画大作が世間でも大きな話題呼んだため[81]、1975年5月23日に東映、5月27日に東宝がバスをチャーターし、それぞれマスメディアを集めて、本社前集合から大泉、砧へ撮影見学会が行われた[74][79][81]。道中、幸田清東映東京撮影所長から丸一年を要した製作苦心談や、ミニ新幹線が近所の子供たちの評判を呼んだため見学希望者が殺到[74]。丁寧に断ってはいたが、子供たちが撮影所内に侵入しミニ新幹線に悪戯しようとするため、ガードマンを付けているなどの説明があり[81]、現場では新幹線ミニチュア(新幹線東映号)や特設レール建設の細かい説明の他、爆弾が仕掛けられたひかり号に救援車が近づく実際の撮影シーンや[79]、ラッシュ試写も見せた[74][81]。高倉と宇津井が新幹線の模型を持つスチル写真は[23]、この日セット撮影の合間をぬい、二人がここを見学した時に写されたもの[79]。高倉は「パニック映画というより人間ドラマです。素晴らしい映画に参加できてうれしい」宇津井は「子どもが見に来たがって困ってるんですよ」と話した[79]。
車内は材料の質感が本物そっくりに出ないと作品が全部絵空事になるという判断から、ベニヤ板でセットを組まず、当時実際に国鉄へ納入していた日立製作所や東芝などから実物の椅子や壁面、網棚などを発注して原寸大の車内を再現した[8][33][34]。これに手間と時間がかかり、撮影が遅れる一因になった[13]。後日、各会社は国鉄から怒られたという[34]。本物そのままのセットは5年間保存され、新幹線の車内が必要なテレビドラマ『新幹線公安官』などに使われ、そのレンタル料で完全に元を取った[33][34]。
司令室も内部の写真の提供を拒否されたため、美術監督が見学者を装って司令室に潜り込んだと書かれた文献もあるが[6]、2002年のトークショー以降は佐藤が「国鉄は外国人に弱いから日本で無名の外国の俳優をドイツの鉄道関係者に仕立てて、全部盗み撮りしてきた」と話している[33][34]。映画での司令室のCTC表示板は起点である東京駅が本来は左側であるところが右側となっているが、これは映画進行上のイマジナリーラインを右から左としているための意図的な演出である[15]。ただし、本来の表示の左右だけを反転させて上下を反転させていないため、表示と実際の線路配置とでは左右(上り線と下り線)が逆になっており、CTC表示板でのひかり109号が停車している東京駅19番ホームの位置と実際に19番ホームを発車するひかり109号の映像の間に、矛盾が生じている。
実際の「ひかり109号」は東京9:48発の博多行きで、途中の停車駅は名古屋・京都・新大阪・新神戸・姫路・岡山から先各駅停車といういわゆる「Aひかり」と言われる列車であり、時刻は以下の通りである[82]。
東京(9:48発/17番線発)→名古屋(11:49着/11:51発)→京都(12:41発)→新大阪(12:58着/13:00発)→新神戸(13:17発)→姫路(13:45発)→岡山(14:15着/14:17発)→新倉敷(14:31発)→福山(14:46発)→三原(15:01発)→広島(15:27着/15:29発)→新岩国(15:48発)→徳山(16:08発)→小郡((現:新山口)16:28発)→新下関(16:51発)→小倉(17:02着/17:04発)→博多(17:36着/11(現:13)番線着)
クライマックスシーン
羽田空港でのクライマックスシーンは、最終発着の終わる夜の10時から朝の5時前まで、同空港を貸し切り撮影が行われた[14]。搭乗ゲートでの細かいやりとりのシーンは重要な芝居を要求されるため、後日セットで撮影したが、エキストラ数百人を使った搭乗ゲート付近や滑走路、埋立地などの撮影は実際に羽田空港で夜間の7時間に全て行った[14]。ワンシーン終えるごとに機材を移動していたのでは間に合わないので、それぞれ四班体制でライティングやテストの準備を終え、スタッフ、キャストが移動する方式である[14]。夜間撮影のため用意された機材は膨大な数に上り、機材車や電源車だけで十数台、エキストラ数百人を乗せたロケバスと合わせ、夕暮れに羽田に向かう道に延々、何十台もの車列が続き、B班助監督だった佐伯俊道は「ああ、この撮影所も長いことないのかもしれないなァ」とその時は思ったという[14]。正規スタッフによる段取りは手際よく、夜明け前に撮影は完了し、朝8時に撮影所に到着。東映東京ほぼ総出による共通体験をこなした喜びから、朝にも関わらず、所内のあちこちで酒宴が開かれた[14]。
音楽
公開当時、サントラ盤は主題曲とスキャットのシングルのみ発売された。その後、バップからライナーに作品解説も含むCDが発売された。
劇中で流れた既製の楽曲のうち、沖田が爆弾の図面の入った封筒を預けた喫茶店サンプラザで流れていたのは、松平純子の「両国橋」(作詞:喜多條忠、作曲:吉田拓郎)。沖田が分け前の発送作業をしたモーテルで部屋のテレビから流れていたのは、浜田勇の「怨み唄」(作詞:佐藤純弥、作曲:野田ひさ志)。1996年(平成8年)10月2日にバップよりJ-CINEサントラコレクションシリーズの一作としてサントラCDが発売された[83]。なお、劇中に流れる青山八郎の音楽は、1977年(昭和52年)の東映実録ヤクザ映画『日本の仁義』に転用されている。
興行
日本
上映中止要請
前年の『あゝ決戦航空隊』以来二度目の岡田社長を本部長とする特別動員対策本部が設置され[65][84]、「乗客の救出シーンのアイデアを一般から募集します」[68]、「夢の超大作」などと広告を打ち[85]、小中高校生などに標的を合わせた大宣伝キャンペーンがなされた[65][84][85]。国鉄vs.東映が少し前までお互いプロ野球チームを持っていたことにかけて「珍オープン戦」などと当時の週刊誌に盛んに取り上げられ[86]、宣伝効果はかなりあった[86]。「爆弾を仕掛けられたひかり109号が、浜松駅を通過と同時に平均時速を84キロに落とした。残り919.4キロの博多駅まで何時間かかるか?」というクイズを出したら、二万六千通の応募があり、数秒出演した多岐川裕美が銀座の東映本社で抽選会に臨み、「約11時間」と正解した中から当選者を選び、東京の小学六年生が一等になり、撮影に使ったミニ新幹線が贈られた[87]。国鉄はたぶん映画は出来ないだろうとタカをくくっていたが[86]、東映が大掛かりなセットを組んで撮影を始め、国鉄自慢の新幹線を爆破するとあって「こりゃいかん」と驚いた[86]。公開直前の1975年6月23日に国鉄の山崎忠政広報部長から東映に抗議文書が送り付けられた[16]。抗議内容は「十数年前の『天国と地獄』を観た者が、映画同様のテクニックで誘拐殺人事件を引き起こしたことがある。『新幹線大爆破』については、当初から、この設定が大きな社会不安をもたらすことを危惧して、口頭で中止を申し入れたが、再度この映画の上映計画を中止することを強く要望する」というもので[16]、国鉄サイドとしては、下手に騒いで宣伝上手の東映に逆手に取られてはと心配して一時沈黙していたが、もう我慢ならないと判断したといわれる[16]。国鉄や公安関係者は苦々しく感じていたという[74]。東映は既に5億3,000万円もの制作費を投入しており[16]、「冗談じゃない。中止などできるもんですか。国鉄サンが協力してくれないからミニチュアを作って撮影したんですから。社会不安を惹起するかどうかも充分に検討した上なんだから」などとカンカンに怒った[16]。また本気の抗議書なら藤井松太郎国鉄総裁発東映岡田社長行きじゃないと意味がないんじゃないかと、形式上のことだろうと推察された[16]。しかし国鉄は「東映さんには、よく考え、反省して頂きたい」と凄み[16]、東映のポスターを全国の駅から締め出し[16]、ミニチュアの新幹線や駅は肖像権侵害で告訴も辞さぬと脅した[16]。
公開とその結果
正規班、B班、特撮班で目一杯カメラを回したため。尺が膨大になり、編集作業に手間取り[14]、最後の一週間は二班体制でほとんど徹夜[32]。完成が封切の2日前までずれ込んだために[14]、試写会も開催できなかった[14][33]。マスメディアもこの奇妙な新作をどう取り上げていいのか分からずに右往左往していたといわれる[14]。
予告編では千葉真一が茶・白の縦縞ジャケットを羽織り、新宿副都心にいる姿だった[88]。これは1974年の映画『直撃! 地獄拳』のワンシーンの流用である[88]。全く無関係のシーンを予告編に使ったため、千葉が新幹線・ひかり109号運転士の青木役とはとても予想できるものではなかった[88]。志穂美悦子と多岐川裕美も全く違う役柄でワンシーンのみ登場[88]。撮影遅延により、予告編は未撮影部分を他の作品から拝借する反則気味のコラージュが多用され[62]、実際に観たら「全然違う」とガッカリする客も多かった[62][88]。予告編のBGMには、本作の一部と、『解散式』と『仁義の墓場』の一部が使われている。
邦画では珍しいパニック系アクションの製作ということもあり業界からも注目を集め、前評判は高かった[81][81][89]。しかし、タイトルを理由として新聞への広告も拒否され[90][注釈 4]、宣伝が十分に行き届くことがなかった。本作のみの1本立て興行ではなく、「ずうとるび」のドキュメンタリー風中編映画『ずうとるび 前進!前進!大前進!!』との2本立て興行だった[33][91]。『ずうとるび-』との併映は10代の映画ファンの興行への影響力が大きくなったのを見た岡田が、この年からメインの併映は「青春路線」で行くと発表していたからである[92][注釈 5]。製作費を注ぎ込んで第一級のサスペンス映画に仕上げながら、任侠路線が色濃く残る東映のイメージもあいまって、国内興行は成功を収められなかった[91]。内容もミスばかりする警察とは対照的に、国鉄マンの判断力も責任感のある男として描いていたため[96]、当時全国に40万人いた国鉄職員とその家族が観てくれるのでは、と東映は期待していた[96]。同年に企画段階で頓挫した作品の穴埋めとして急遽製作・上映された『トラック野郎・御意見無用』の配給収入5億3000万円に対し[97]、『新幹線大爆破』3億円と[97] 及ばなかった[62][97]。都心ではまずまずの入りだったが[89]、新幹線に縁のない北海道や東北地方(当時)の客入りは悪く[98]、大阪などでは途中打ち切りに遭い[76]、当時の週刊誌誌上では「1975年3月の山陽新幹線の博多開業に合わせて公開しようとした便乗企画」などと書かれたが[99]、山陽新幹線の通る西日本地域においても「サッパリだった」という[98]。
評価・反響
一方、『キネマ旬報』の読者選出ではベストワンに選ばれるなど[100]、観た人は面白さを評価し[14]、作品の評価そのものは非常に高かったために[101][102] マスメディアで様々な敗因の考察がなされた[98][101]。東映営業部では「映画の内容がハイブローすぎてヤクザ映画とポルノが好みの東映ファンにソッポを向かれた」[98][103]「題材がリアル過ぎた」などと分析[104]。客層はいつもと違いホワイトカラーと女性客が圧倒的で、東映本来の客は来ず[46]、頼みのオールナイト興行は閑古鳥が鳴いた[98]。監督の佐藤は、公開8ヶ月後の1976年3月26日に福岡市で開催された『キネマ旬報読者選出ベスト・テン表彰式』で「題名がどぎつ過ぎたこと、東映のミニチュアに信頼が低かったこと、『タワーリング・インフェルノ』にぶつかったこと、一般にクチコミでお客が増えるのは三週目なのに、その三週目に打ち切らざるを得なかったこと、封切り4日前に完成し試写ができなかったこと」を挙げ[50]、後年のインタビューでは「あの当時の新幹線ってやはり華やかなもので日本人は誇りを持っていたから、それを爆破しようとする映画は見たくないという気持ちになったかもしれない」と述べた[104]。脚本の小野竜之助は「ミニチュアを使った特撮を東映が大々的に宣伝し、トリックだとネタばらししたのがまずかった[47]」「アイドル映画とくっつけないで、一本立てにしていたら結果は違った[91]」などと話し、黒井和男も同様に「ミニチュアを派手に使って宣伝したポイントのズレが足を引っ張ったと思う」とのコメントを残している[102]。アメリカのパニック映画の国内進出を受けて立つという製作意図であったが[101][101][105]、同時期公開された『タワーリング・インフェルノ』の全国県庁所在地では全部二館以上上映、総数180館という前代未聞の拡大方式[76] による攻勢により[103]、本作も含めて東宝の『動脈列島』、松竹の『おれの行く道』などの日本映画は観客を持っていかれ[98]、『タワーリング・インフェルノ』は、それまでの『エクソシスト』27億円の二倍以上に当たる[76] 当時史上最高の興行収入を記録した(62億円)[76][106][107]。『新幹線大爆破』は製作費が高かったため、国内興行では1億円[85]、約二億円[97]、二億円の赤字を出し[108]、「大金を投じて開発した新路線の第一弾が大脱線」などと揶揄され[109]、岡田社長は「もう大作はこりごり」[85]「もう東映ファンに嫌われる企画は出さない」[110] などと、敷いたばかりの大作路線からの撤退を表明した[85][110][111][112]。本作公開の後、岡田企画だった『実録三億円事件 時効成立』の打ち合わせで[20]、岡田宅を訪れた坂上に岡田は「『新幹線大爆破』は俺の売り方が悪かった」と謝ったという[20]。
1975年度キネマ旬報ベストテン第7位、読者選出第1位[113]。1975年は和製パニック映画『新幹線大爆破』、『東京湾炎上』、『動脈列島』が封切られ、キネマ旬報は、他2作は惨敗、唯一『新幹線大爆破』が及第点だったと評価している[114]。1978年に『月曜ロードショー』(TBS系)で最初のテレビ放映があり[15]、1980年代以降、同作品のビデオレンタルやテレビ放送がされるにつれ、劇場公開に間に合わなかった若い世代が本作に熱狂し[15]、日本でも徐々に再評価されるようになった。
一方、後述のテレビ放映直後、鉄道雑誌に設定や鉄道の設備関係の扱いに誤りが多すぎると、酷評された[要出典]。
- 総合指令所の列車位置を表示する大型路線図の左右が逆
- 先行のひかり号の故障のシーンで、大型路線図内の位置表示の点滅が赤色になる機能はない
- 浜松駅で上りひかり20号通過直後の切替えポイントを遠隔操作で切替えるが、列車が転轍機手前9キロ以内に入ると「列車接近鎖錠」により遠隔操作できなくなり、通過後も9キロ以上離れるまでは「列車通過鎖錠」によって遠隔操作を受け付けないので、あの時点で上り線には入れず先行のひかり号に衝突してしまう
- 上り線を逆に走るときは、「伸縮継目を逆に走る場合の速度制限70キロ」によってブレーキが掛かり、爆発する
- 各駅や地点の通過時間を東京-博多間の距離を(運賃・料金計算に使用する)営業キロで計算して算出している。実キロ(実際の距離のこと)は100キロ以上短い[注釈 6] ので、実際におきたら1時間以上前に博多について爆発してしまっている。
世界各国
公開後の反響
国内公開終了後の秋にアメリカのジャーナリストを集めて試写を行うと高い評判を呼び、「通俗娯楽映画として水準を抜いたできばえ」「久しぶりの日本映画」などの評価を受けた[102]。特にアメリカの業界誌『バラエティ』で高く評価されたこと[115]、日本の新幹線が世界的に有名なことから、世界各国から注文が入り、1975年9月初めの時点で15万ドル以上の輸出契約が結ばれた[115]。
1975年10月のミラノ国際見本市(MIFED)「日本映画見本市」に出品すると[108]、各国から更に買い付けのオーダーが入ってきた[19][100][108][116]。これに気を良くした岡田社長は「新幹線大爆破応援団長」として、世界の映画祭に直接乗り込みアピール[116]。香港の日本映画見本市や第四回テヘラン映画祭(1975年11月26日~12月7日)[47][117]、第二十二回アジア映画祭(韓国釜山、1976年6月1日~17日)[118] など海外市場に積極的に売り込みを図った[6][116][119][120]。1976年2月にイタリア・ローマで開催された日本映画見本市では、代表団団長特権を利用し、オープニング上映を『同胞』から『新幹線大爆破』に変更した[121]。アラブ諸国では空手映画がヒットした実績があり[108]、オイルダラーを期待した[108]。東映は既に千葉真一主演の格闘アクション映画やアニメ作品をアメリカやアジア市場に売り込み成功を収めていたが、本作の出品は取引の少なかったヨーロッパ、中東、ソ連やメキシコから注文が入った[116]。派手好きな欧米人に受け入れられ[116]、特撮ではミニチュアを使用した撮影と思われない評価をされている[102][116]。
海外版編集
フランスに駐在していた東映国際部部長・杉山義彦は、公開直後に岡田社長に突然呼ばれ[19]、海外で売るように指示を受けた[19]。岡田社長から「海外版を編集せよ」と指示を受けた杉山は[19]、助監督時代に佐藤監督から若干の指導を受けただけのほぼ素人ながら[19]、佐藤に了承を取り付け「佐藤監督を差し置いて僭越ながら」海外版の編集を行った[19]。佐藤は「海外版に関しては、僕はノータッチ」と述べているが[32]、杉山は「倉持指令室長が運転手に指令を出すシーンで、列車制御について、織烈な応酬が繰り返される場面は絶対に残して欲しい。それ以外は好きに編集していいと言われた」と述べている[19]。
海外版では主演の表記をサニー千葉(千葉真一)に変更しており、これは千葉のほうが高倉健より海外では知名度が高いためである[116]。日本のスターが集結した超大作というよりも、アクションスターである千葉主演のパニック映画として封切りされていった[62][116]。英語圏では『The Bullet Train 』にて115分[47]、フランスで『Super Express 109 』もしくは『Crisis Express 109 』にて100分でそれぞれ公開されている[6]。海外版では犯人側のドラマをカットしたおかげでテンポがとてもよくなり、次々襲いかかる危機と息をつかせぬ展開となった[116]。フランス語版でも上映時間を2/3の102分に短縮して犯人側のドラマをカットしており[100]、高倉や山本圭は単なるテロリストとして扱われた[116]。
特にフランスではそれまで日本映画をマイナー扱いし[116]、アートシアター形式の小劇場でしか上映されなかったという前例を破り[100]、1976年6月からパリ及び近郊のゴーモン系劇場17館で一斉公開され[19]、8週間のロングランヒットを記録[6][100]。この時期、フランスはバカンスシーズンに当たるが[122]、この年夏にパリで公開された84本の映画のうち、第4位の興行成績で[122]、外国映画ではこの年カンヌ映画祭でパルム・ドールを受賞した『タクシードライバー』に次ぐ2位だった[123]。ヒットの理由は「フランスにも日本の新幹線に触発されて開発中だった高速鉄道のTGVがあったから」との声もあり[6][122]、約44万人の動員を記録し[4]、100万ドルの外貨を稼ぎ[40]、会社に3億円の収入をもたらしている[40]。ブルガリアでは当時、ソフィア - ブルガス間に時速160kmで走る自慢の超特急を運行していたが[122]、それを遥かに凌ぐスピードの超特急に感心し、それもコンピューター制御にビックリし[122]、観客はドヨメキと拍手、溜息の連続で、映画が終わると観客はグッタリしていたといわれる[122]。当時のヨーロッパの一般の人たちの日本に対する知識はごく僅かであった[122]。他にドイツで『Panik im Tokio-Express 』[124]、スペインで『Panico en el Tokio-Express 』[124]、イランで『BOMBA U SUPEREKSPRESU 』[124] など、1976年12月の時点で120ヵ国で公開されたとされ[100]、ソ連及び、東欧圏の全ての国で公開され[100]、ソ連では2500万人以上が観たのではといわれ[85]、100ヵ国のポスターが存在するといわれる[34]。犯人側と国鉄側ともに労働者に焦点があたっている内容ゆえか、東ドイツなど共産圏でも公開され好評を得た。[要出典]
1975年から1976年にかけて輸出された東映作品の中で抜群の売れ行きを見せた[6]。1976年12月18日からは日本でフランス語吹き替え版が凱旋公開された[6][19][100]。日本において不入り映画が再上映されるのは珍しい事例といわれる[15]。
佐藤純彌は海外版の大ヒットに複雑な思いがあり、フランス語版のテレビ放送を見た知人から「面白かったよ」という電話に対し、「本当はもっと面白かったんだ」と言い返していた[125]。1975年のロンドン映画祭のみ、日本版が英語字幕で上映され、「ベスト・アウトスタンディング・フィルム・オブ・ザ・イヤー(特別賞)」を受賞している[34][116]。
没となった設定・エピソード
1975年3月時点での脚本では、乗客に甲子園遠征に向かう長嶋監督ら巨人ナイン、名古屋場所へ向かう北の湖、人気歌手の西城秀樹も乗り合わせたという設定だった[42]。
当時市販された映画の台本集[要文献特定詳細情報]には、浜松の故障車発生での上り線移動のシーンの次に岐阜羽島付近の変電所のトラブルで送電が停止してしまってひかり0109号も速度が落ち始めるシーンが入っていたが、公開された映画ではカットされていた(故障が直らないので電気指令長が係員に隣接の変電所から緊急送電させろと指示するが、トラブルの影響でその変電所からも送電は出来ないといわれ、更にその隣から緊急送電させろと指示し、その二つ隣の変電所からの緊急送電に成功したおかげでギリギリで送電が再開されて九死に一生を得るというような内容だった)。
後日談
前述のように新幹線車内や司令室にたくさん金をかけて製作したため、封切り前から「たった一作きりでバラすのはもったいない」と、これらセットを使った映画の次回作製作がほぼ決定していて、その作品は、森村誠一原作の『新幹線殺人事件』だった[126]。これは当時日本でイギリス映画の『オリエント急行殺人事件』がヒットしていた影響があった[126]。『新幹線大爆破』の封切り前日までこの製作を予定していたが『新幹線大爆破』が不振だったため中止となった。結局『新幹線殺人事件』は東映がテレビ朝日/朝日放送と共同製作した『土曜ワイド劇場』の第3回として1977年7月16日に放送されたが『新幹線大爆破』のセットを使用したかは不明[126]。
2014年の報道では、東映に『新幹線大爆破』の状態のいいフィルムは1本しかないという[127]。
テレビ放映
地上波での初めてのテレビ放送は、1978年4月24日月曜日にTBSの『月曜ロードショー』で、カットされた2時間バージョンだった。その後、1980年4月4日金曜日に『ゴールデン洋画劇場』(フジテレビ)で、放送枠を21:00-23:55まで拡大して放送された。後にテレビ朝日などでも、年末特番として3時間枠でほぼ全長版で放送された。日本テレビでは1990年代に深夜番組として海外版にシーンを追加したバージョンがCM無しで放送された。2010年代に入るとしばしば民放BS局にて放送されている。
有料放送では2009年(平成21年)頃にWOWOWで全長版が放送された。
東映チャンネルでは2016年2月5日-2月28日に、『佐藤純彌監督特集』として、『新幹線大爆破』ほかに5作品が放送された。
同チャンネルにて、2019年2月18日に佐藤純彌監督の追悼放送として、『新幹線大爆破 4Kレストア版』が放送された。
同チャンネルにて、2020年2月に一周忌メモリアル【佐藤純彌監督特集】として『新幹線大爆破』、『男たちの大和/YAMATO』など超大作を放送された。[128]。
小説版
1975年に勁文社より佐藤純弥・小野竜之助共著『新幹線大爆破』が刊行された。
当時、フランスでもノベライズが発売された[78]。また、イギリスのミステリー小説家ジョゼフ・ランス(本名:トレヴァー・ホイル)によるノベライズ版『Bullet Train 』が、1980年にイギリスで、1981年にアメリカで出版[3]、1992年に7ヵ国語[6]、2002年時点では16ヵ国で翻訳出版されているという[34][78]。訳書は2010年に、イギリス版を元にアメリカの作家が書いたものが[78]、論創社で翻訳刊行(論創海外ミステリ版、加藤阿礼・駒月雅子訳)された[129]。
映像ソフト
ビデオソフト黎明期からソフト化が行われており、1981年には東映芸能ビデオから2巻組の全長版VHSが8万5000円で、60分に短縮されたバージョンが2万4800円で発売されていた[130]。1983年8月16日にシネスコ版のビデオが発売され、その後1998年5月21日に再発売された。
1999年(平成11年)7月21日に東映ビデオより2枚組レーザーディスクが発売された[131]。東映プロデューサーの坂上順が、本作と1999年(平成11年)公開の「鉄道員」のプロデューサーであり、本作を機に東映を退社した高倉の事実上の復帰作でもある事から発売が企画された。佐藤監督と坂上プロデューサーのショートインタビューと公開当時の資料が見開きの内ジャケットに掲載され、インナージャケットには『ガメラ3 邪神覚醒』を制作していた庵野秀明と樋口真嗣による1998年(平成10年)の時点から作品を視聴した対談(現代との相違点・リメイクの話題など)が掲載されている。
2001年(平成13年)、東映50周年記念を機にDVDソフト化希望の映画タイトルを投票により募集したところ、3位にランキングされ、2002年4月12日にレンタル開始、7月21日にセル発売[132] となっている。
2017年10月25日、Blu-ray版発売。
サウンドトラック
- J-CINE サントラコレクション 『新幹線大爆破』(1996年10月2日、バップ)
- 『新幹線大爆破』(THE BULLET TRAIN,SUPER EXPRESS 109)※7インチ、TAVA TAVA RARE(イタリアレーベル)
本作を題材とした作品
TBSラジオ『コサキンDEワァオ!』で関根勤が、青木(千葉真一)と倉持(宇津井健)の一人二役ものまねを披露した(倉持「青木君、車を停めるんだっ!」青木「何を言ってるんですかぁっ!」)。同じネタがDVD『カマキリ伝説2』に収録されている。
類似作
- 暴走機関車
- 黒澤明原案、アンドレイ・コンチャロフスキー監督作品。佐藤純弥は「実は『暴走列車』は黒澤さんがやることになって、B班が実は僕がやることになっていたんです。ところがアメリカのプロデューサーと黒澤さんが対立して、結局流れちゃったんですけれども。だからあの『暴走列車』そのものの台本というのはたぶん僕が最初に日本で読んでたんだと思うんです。話は知っていました」と語っている[34]。
- 夜空の大空港
- 1966年の米テレビ映画。高度1万フィート(3048メートル)以下に降下すると爆発する爆弾を仕掛けられた飛行機という設定もアイデアの源になっており、『夜空の大空港』をたまたま観ていた山本圭が、プロデューサーにその話をしたところ「あ、わかる?」と答えたという[133]。
- スピード
- 1994年公開のヤン・デ・ボン監督作品。脚本を書いたグレアム・ヨストは、映画『暴走機関車』の原案である黒澤明が書いたオリジナル脚本を読んで思いついたと公表している。マイル表示の爆発設定速度をキロ表示に変換するとほぼ「時速80キロメートル」であり、『新幹線大爆破』が原典とする説もある。原案権を主張して訴訟を起こすべきという声が上がり[40]、坂上順が岡田社長に相談したら、岡田から「やめておけ」と言われた[40]。坂上は「40年近くプロデューサーとして生き残れたのは『新幹線大爆破』のおかげ。原案がハリウッド映画にピックアップされたのはひとつの勲章だと思っています」と述べている[40]。
- ヒート
- 1995年にアメリカで製作されたアクション映画。マイケル・マン監督。アル・パチーノ、ロバート・デ・ニーロ主演。 ラストシーンの演出が本作に影響を受けたと思われる。
- 動脈列島
- 本作と同時期に製作された、新幹線を題材にした東宝作品で、共に大映出身の増村保造監督・田宮二郎主演。『動脈列島』が新幹線による騒音公害と絡めた社会派路線なのに対して、本作は娯楽作品としての面白さを追求した路線を取っていると同時に、乗客や運行に携わる関係者の真剣な対応と、警察や政府の打算的な解決策、そして犯人らの個人的な思いが交錯して描かれている点が対照的である。
- カサンドラ・クロス
- 1976年(昭和51年)の映画。「止められなくなった列車内での乗客たちのパニックとサバイバル」というプロットがよく似ている。
- 皇帝のいない八月
- 小林久三による小説。『カサンドラ・クロス』をヒントに、寝台特急さくら号が決起部隊に乗っ取られるサスペンス作。松竹で山本薩夫監督で映画化され、本作で古賀役だった山本圭が主演した。
- 大鉄人17
- 1977年(昭和52年)に放送された東映制作の特撮番組。第18話「恐怖の夏休み! 暴走する新幹線」、第19話「夏休みのプレゼント! ワンセブン超特急」で、新幹線を暴走させて脅迫するというストーリーは本作のオマージュであり、本作のフィルムを流用しているシーン、脅迫する側の敵キャラを演じる山口暁は高倉健の演技に影響されていると思われるシーンがある。
- 無敵ロボ トライダーG7
- 1980年(昭和55年)に放送された日本サンライズ制作のロボットアニメ。第37話「火星で食べた!?サンマの味」で、主役ロボの飛行形態であるトライダーシャトルに速度が落ちると爆発する爆弾を仕掛けられるという場面があり、0系新幹線が出てくるカットがある。
- 特捜エクシードラフト
- 1992年7月26日放送の26話『明日への激走』に、時速30km以上でスイッチが入り、その後時速30km以下に成ると毒ガスを発生させる装置が取り付けられた自動車が登場する。
- 名探偵コナン 時計じかけの摩天楼
- 1997年(平成9年)の映画。「東都鉄道東都環状線」の線路上に爆弾が仕掛けられ、速度が60km/h以下になると爆発する[注釈 7] というシーンが登場。本作同様、ポイント切り替えシーンや新幹線総合指令所とそっくりなセットやカットがアニメ化された。
- 古畑任三郎 『最も危険なゲーム』
- 1999年(平成11年)に放送された第3シリーズ最終回のエピソード。
- TUBE
- 2003年の韓国映画。タイマー式爆弾をセットされた地下鉄車両が走るというストーリーである。この映画にも、走り続けている列車を回避するために待避線へ逃げる他の列車の描写がある。
- こちら葛飾区亀有公園前派出所
- 2003年のアニメTVスペシャルで放送された「爆走列車!!網走発東京行き・両津vs拳法バァさん」は、新幹線に仕掛けられた爆弾。時速150キロ以下で走ると爆発する。仕掛けられたのは秋田新幹線のE3系こまちで、新幹線の前に前哨で公園内に爆弾を仕掛ける手法や、両津が網走から東京まで犯人を護送するシーン。そして、電話をしてきた上条遊佐が0系の模型を手探る手法は本作をベースとした。
- 交渉人 真下正義
- 2005年(平成17年)に公開された映画。本作をオマージュした場面がある。
- 謀略軌道 新幹線最終指令
- 1998年(平成10年)に出版された小説。盛岡発東京行きの東北新幹線「やまびこ」号の車両に、時速100km/h以下になると爆発する爆弾が仕掛けられる。犯人は多額の身代金を要求し、JRは時間稼ぎのために急遽東京駅構内で東北新幹線と東海道新幹線の線路をつなぎ、「やまびこ」号を博多まで走らせる。
- 烈車戦隊トッキュウジャー
- 2014年(平成26年)に放送された東映製作の特撮作品。第8話「レインボーライン大爆破」で、倒された敵の分身により烈車のブレーキがかからなくなり、メンバーの1人に爆弾が仕掛けられ、揺らしたりすると爆発するというエピソードがある。車掌役の関根勤が千葉真一(青木運転士)の物真似をするなど本作品を意識した演出が行われた[134]。関根勤曰く、スタッフのひとりにかつて自らが出演していたラジオ番組『コサキンDEワァオ!』のリスナーがいて、前々から「関根さんが出演するなら『新幹線大爆破』をモチーフにした回を作りたかった」と言って実現したとのこと。[要出典]
- ニンジャスレイヤー
- ブラッドレー・ボンド (Bradley Bond) とフィリップ・ニンジャ・モーゼズ (Philip Ninj@ Morzez) のアメリカ人コンビによるとされるSF小説。2014年に公開されたエピソード「マグロ・サンダーボルト」で、主人公のニンジャスレイヤーは速度を落とすと爆発する爆弾を身体に取り付けられる。
脚注
注釈
- ^ a b カトリーヌ・アルレーをもじって付けた映画プロデューサー・坂上順のペンネームである[1][2]。本作以外では2001年の『ホタル』で脚本協力としてクレジットされている[3]。
- ^ 上記キャストはオープニングで流れるが、特別出演はエンディングのスタッフ前に表記され、丹波のみ単独、北大路・川地・田中は連名。
- ^ 関川の兄は、当時国鉄北海道総局長だった関川行雄である[51]。
- ^ 1975年6月2日の『サンケイスポーツ』11面に「撮影快調!」と書かれた広告が、公開直前の1975年7月1日の『サンケイスポーツ』11面、1975年7月4日の『サンケイスポーツ』15面に大きな宣伝広告が載っている。
- ^ 1975年2月19日、東映本社会議室にて上半期の東映ラインナップ発表の後、岡田社長が今後の企画方針を発表した。四ジャンルで節目のある編成で、衣替え活劇を製作すると説明し、具体的には「①実録アクション。ムードのあるものに持ってゆきたい。『京阪神暴力ファミリー』(『日本暴力列島 京阪神殺しの軍団』)『日本暴力列島』(『実録外伝 大阪電撃作戦』[93])『暴動島根刑務所』『日本列島トルコ風呂』(『札幌・横浜・名古屋・雄琴・博多 トルコ渡り鳥』)等である。②徹底的なアクションものを作る。『ゴルゴ13』の2も考えているが外地ロケは金がかかるので検討中だ。少林寺剣士で人気上昇中の志穂美悦子をフルに活用、アクションの第一人者千葉真一ものを製作する。③はファッション性を帯びたもので、中・高生層を狙う。少年少女雑誌掲載のものを中心に考える。『若い貴族たち 13階段のマキ』『女剣士』(『必殺女拳士』)などで、これには歌手や、テレビの若いタレントの起用も考える。④は半期に一本のスーパーアクションで『新幹線』ものなどがこれである」などと述べた[94]。また、1975年4月7日に東映本社で『青春讃歌 暴力学園大革命』の製作発表会見があり、この席で岡田が、「この映画は東映の若い観客層拡大を狙い新路線だ。今後は、二本立てのうち一本は19歳以下の若い層むきの映画を作りたい。企画意図としてヤングに読まれている硬派のものとしてシリーズにしたい。星正人は、東映としては渡瀬恒彦、伊吹吾郎以来、久しぶりの新人デビュー作となる」と話した[95]。
- ^ 東海道・山陽新幹線の実際の距離と営業キロの事情については新幹線運賃差額返還訴訟も参照。
- ^ この場合は「光が当たらなくなると起爆装置が作動し、一定時間光が当たらずにいると爆発する」パターンの起爆装置であり、起爆装置作動から爆発まで13秒に設定されていた(60km/h=16.7m/s。60km/hで10両編成の列車が通過するには、12秒かかるため)。
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- ^ 「DVD & VIDEO Selection COLOR」『宇宙船』Vol.100(2002年5月号)、朝日ソノラマ、2002年5月1日、40頁、雑誌コード:01843-05。
- ^ キネマ旬報2005年8月下旬特別号内「DVD特別インタビュー1 山本圭」より。
- ^ 「TOQGER MAIN STAFF INTERVIEW_04 加藤弘之」『OFFICIAL PERFECT BOOK TOQGER ETERNAL MEMORIES 烈車戦隊トッキュウジャー 公式完全読本』(第1版)ホビージャパン、東京〈ホビージャパンMOOK〉、2015年6月20日、74頁。ISBN 978-4-7986-1031-3。
関連項目
関連書籍
- 佐藤純彌、聞き手:野村正昭 + 増當竜也『映画監督 佐藤純彌 映画 (シネマ) よ憤怒の河を渉れ』DU BOOKS(原著2018年11月23日)。ISBN 978-4866470764。
外部リンク
- 新幹線大爆破 - allcinema
- 新幹線大爆破 - KINENOTE
- 新幹線大爆破 - MOVIE WALKER PRESS
- 新幹線大爆破 - 映画.com
- 新幹線大爆破 - 日本映画データベース
- 新幹線大爆破のチラシ[リンク切れ]エラー: タグの貼り付け年月を「date=yyyy年m月」形式で記入してください。間違えて「date=」を「data=」等と記入していないかも確認してください。 - ぴあ
- 東映ビデオ DVDカタログ 新幹線大爆破
- 東映ビデオ DVDカタログ 新幹線大爆破 海外版
- しんゆり映画祭ゲストトーク2002「新幹線大爆破」
- 「はしれ超特急」(南の放歌)
- shinkansen daibakuha - IMDb
- The Bullet Train - オールムービー
- “PARIS 1976 - (page 28) - BOX OFFICE STORY”. 2014年7月29日閲覧。(フランス語)