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「志村けん」の版間の差分

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2020年4月12日 (日) 00:55時点における版

むら けん
本名 志村 康徳(しむら やすのり)
ニックネーム けんちゃん、しむけん
生年月日 (1950-02-20) 1950年2月20日
日本の旗 日本 東京都東村山市
没年月日 (2020-03-29) 2020年3月29日(70歳没)
日本の旗 日本 東京都新宿区[1]
血液型 A型
身長 166cm
言語 日本語
方言 標準語
西関東方言多摩弁(コントの役により)[注 1]
最終学歴 東京都立久留米高等学校(現・東京都立東久留米総合高等学校
師匠 いかりや長介
加藤茶(二度目の付き人時代)
コンビ名 マックボンボン(解散)
カトケン(正式なコンビではない)
グループ名 ザ・ドリフターズ
相方 いかりや長介
高木ブー
仲本工事
加藤茶
芸風 コント喜劇
立ち位置 左端(ザ・ドリフターズ)
事務所 イザワオフィス
活動時期 1972年 - 2020年
同期 ビートたけし
笑福亭鶴瓶 など
過去の代表番組

レギュラー番組
天才!志村どうぶつ園
志村でナイト
加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ
ドリフ大爆笑
8時だョ!全員集合
ほか

スペシャル番組
志村けんのバカ殿様
志村けんのだいじょうぶだぁ
6人の村人!全員集合
ほか
作品 曲「東村山音頭
他の活動 トークバラエティ
弟子 上島竜兵
山崎まさや
乾き亭げそ太郎
大悟
公式サイト 志村けんプロフィール(イザワオフィスサイト内)
志村けんオフィシャルブログ「Kens BLOG」Powered by Ameba
受賞歴
1999年 ゴールデン・アロー賞 芸能賞
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志村 けん(しむら けん、1950年2月20日 - 2020年3月29日[2][3])は、日本コメディアンお笑いタレント司会者である。ザ・ドリフターズのメンバー。イザワオフィス所属。1972年までの旧芸名および中国語での表記は「志村 健」。本名は志村 康徳(しむら やすのり)[4]

来歴

1950年2月20日、小学校教諭だった父・憲司(けんじ)と母・和子(かずこ)の三男として東京都北多摩郡東村山町(現:東京都東村山市)に生まれる。二人の兄(長男・知之と次男・美佐男)が大学を卒業して公務員になったが、末っ子の彼は後述の通り異なる人生を歩むこととなった。なお、芸名の「けん」は父親の名前から取ったものである。

幼い頃、父は厳格な人物で、彼の支配する家庭はいつも重苦しい雰囲気に包まれていたが、当時はまだ珍しかったテレビのお笑い番組で漫才落語を観ていた時だけは、嫌な日常を忘れることが出来た。志村は、「その時だけは父も声を出して笑っていた」と語り、そのような体験から、お笑い芸人の世界に憧れを抱くようになり、中学生の頃から本格的にお笑いを仕事とすることを決心する。志村が中学生だった頃の父・憲司は、校長への昇進を目指して勉強に励む毎日を送っており、自身は「つまらない人生だな」と思っていたとのこと。

東村山第二中学校時代は文化祭でよくコントを披露していたといい、所ジョージの遠戚とバンドを組んだこともあった。その後、両親の方針で「お金がかからない都立に行け」との理由から、新設された東京都立久留米高等学校に進学し、同高の第1期生となる。志村の中学校から同高を受験したのは志村を含めて13人で、教師からは「志村は無理だろう」と言われたが、合格したのは志村1人だけだった。同高ではサッカー部に所属し、GKとして在籍した。

付き人から芸能界デビューを経てドリフ入り

1968年2月、高校卒業間際にいかりや長介の家へ直接押しかけ、弟子入りを志願する。由利徹コント55号ザ・ドリフターズ(以下ドリフ)のいずれに弟子入りするか迷ったが、音楽性の面からドリフを選んだ(高校二年時に実際に由利徹のもとを訪ね弟子入りを志願したが、断られている)。雪の降る中、いかりやの帰宅を12時間ほど待ち続けるも、門前払い同然の扱いで、容赦なく突き放されたが、それでも食い下がったため根性を買われ、「バンドボーイ」が辞めてメンバーに欠員が出たらという条件で仮採用された。いかりやは後に「帰宅すると勝手に居ただけで待っててくれと言った覚えはない」と語った。一週間後に呼び出された後楽園ホールで、いかりやから正式に採用を告げられた志村が、「じゃあ(高校)卒業したら来ます!」と答えると、「バーカ、明日から行くんだよ、青森に!」と言われ、翌日から青森巡業などへ同行させられるなどすぐに多忙となり、高校卒業式は当日の午前中だけ時間を貰い慌ただしく式に出席し、仕事に戻った[5]

加藤茶の付き人となるも1年余りで一度脱走し[注 2][注 3]バーテンダーなどのアルバイトをしていた。仲間が伝えるのを忘れていたため、脱走したとメンバー内で騒がれていた。戻って来た時にはいかりやの家に行きづらかった事から、加藤の家に行って頼み、いかりやへ口添えしてもらったところ、「二度も弟子入りする奴は、よくよく好きなんだろう」と出戻りを認めてくれた。その後、しばらく加藤の付き人兼加藤家居候となる。

1972年、22歳の時に井山淳とお笑いコンビ・「マックボンボン」を結成し、「志村健」の芸名で芸能界デビュー[注 4]。井山のボケに対して、志村が立ったままの姿勢から足で顔面にツッコミを入れるなど、身体を張ったネタを披露し、歌謡ショーの前座として人気を獲得していく。10月には早くもコンビの名前を冠したテレビ番組『ぎんぎら!ボンボン!』(『シャボン玉ホリデー』の後番組で、後に放送時間を変更の上で『シャボン玉ボンボン』に改題)に出演が決まり、芸能界デビューが冠番組となる幸運となるが、知名度の低さ、ネタの少なさもあり人気は低迷(いかりやはテレビのレギュラーが決まる前からそのことを危惧していた)。12月31日放送分で番組は打ち切りとなり、この時点で井山が脱退(失踪)。コンビはその後自衛隊出身の福田正夫を相方に迎え心機一転を図るが、福田はそもそも芸能界志望ではなく、ネタ合わせも全く身が入らない有様で、結局自然消滅へと向かう。

志村はその後ドリフターズの付き人に戻ったが、戻った直後の1973年12月に「メンバー見習い」の扱いで、「志村けん」に改名した上でドリフに加入する[注 5]

1974年3月31日をもって荒井注が脱退し、4月1日に正式にドリフのメンバーとなる。この時、いかりやは自分や荒井と同年代の新メンバー豊岡豊の加入[6]、及び、すわしんじの昇格も検討していたが、志村の順番であったことと[7]加藤の推薦により若手の志村が起用された[注 6]。当時、志村は24歳だった。

「東村山音頭」でヒット

ドリフメンバーとなり、楽器はギターを担当するようになった。

ドリフの正メンバーになって2年間ほど(この頃の芸名は「志村ケン」の表記もあった)は、ギャグがあまりウケず、志村にとってスランプの時代であった。

転機となったのは、『8時だョ!全員集合』の「少年少女合唱隊」のコーナーで「東村山音頭」を歌ったことで、これにより一躍人気者となる。きっかけは1976年3月6日新潟県民会館での公開生放送での同コーナーで、新潟にちなんだ歌として「佐渡おけさ」を全員で歌い、その後にゲストやドリフメンバーの故郷の歌をそれぞれ歌うという趣向だった。そこで志村は地元の「東村山音頭」を披露することになり、制作段階でリメイクを施して4丁目が完成。これに手応えを感じ、さらにリーダーのいかりやが3丁目を作詞・作曲し、志村の作詞・作曲による1丁目が加えられて、この3曲を本番でまとめて歌った。すると「毎回このコーナーの最後に歌った方がいい」ということになり、ついには各丁目ごとの衣装が作られるまでになり、特に1丁目は毎回様々な衣装で観客や視聴者を笑わせた。志村の「東村山音頭」は東村山市の知名度向上にも大きく寄与した(詳しくは後述)。

いかりやがツッコミであるドリフではボケを担当することが多いが、マックボンボン時代はツッコミであり、『全員集合』でいかりやがポリープの手術後で声を出せない時に、いかりやの代役としてツッコミを担当したこともある。『全員集合』の後半コントなどでも女性歌手や加藤をボケに立て、自身がツッコミに回るコントもあった。カトケンのコンビでは基本的に加藤がボケで志村がツッコミを担当した。1980年代後半以降の自らの冠番組でもツッコミが相当あり、現在も『バカ殿様』でダチョウ倶楽部相手にツッコミを入れて落とすことがある。『NHK紅白歌合戦』の応援コーナーでビートたけしとコントを演じた際も、たけしのボケに志村がひたすらツッコミで回していた。

この頃、沢田研二とのコント内でのやり取り、息の合ったコンビネーションが絶大な人気を呼ぶ(詳細は#沢田研二との関係を参照)。

1979年には加藤茶との「ヒゲダンス」、1980年には「♪カラスの勝手でしょ〜(童謡『七つの子』の替え唄)」が人気を博した。

1981年2月18日仲本工事居作昌果と共に競馬のノミ行為容疑で任意聴取を受け書類送検されたことが発覚。当時の新聞の社会面やトップを飾り、朝日新聞の見出しは「ノミ馬券だョ!全員集合」であった。賭金が多額だった仲本と居作は略式起訴罰金刑となったが、志村は賭金が1万6千円と少額だったことから起訴猶予処分になった。この事件で仲本とともに1か月間謹慎となり、以降しばらく『全員集合』などへの出演を見合わせ、当時ドリフ全員で出演していた永谷園ふりかけのCMも、志村・仲本を除く3人のみが出演しているバージョンに改められた。また、『ドリフ大爆笑』で加藤茶とのコントで、加藤の馬を使ったボケに対して「俺あんまり馬で良い思い出ないんだよ」と語り、加藤が苦笑いで「俺随分働いたっけねあの時」と述べたことがある[注 7]など、他のコントでも、加藤が志村に対してノミ行為のことをけしかけて笑いを取るという場面があった。この時志村が仲本・居作と同様に略式起訴され罰金刑となっていたら、競馬法の規定で馬主になることはできなかった。

冠番組へ

1985年に『全員集合』が終了。1986年に『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』がスタート。加藤がボケで、志村がツッコミを担当する。その後、自身をメイン出演者とした初の冠番組『志村けんの失礼しまぁーす!』、『志村けんのだいじょうぶだぁ』(現在は単発不定期で放送中)、現在も続く『志村けんのバカ殿様』などで、ドリフメンバー以外(田代まさし松本典子桑野信義石野陽子ダチョウ倶楽部)との活動が多くなる。この頃から「変なおじさん」に代表される、ドリフとは一線を画した独自のコントスタイルを確立し、第2の人気ピークとなる。

1988年大晦日には、山中秀樹と共にニュース番組『デイトライン特別版』のキャスターを担当した。しかし、1992年頃から数年間に渡り一時的な低迷期を迎える。ただしドリフターズとしての出演や志村名義でのゴールデンタイムの番組はタイトルを変更しながらも継続されており、当時と比較するとやや低迷気味と解釈される部分があった。

1996年にはゴールデンタイムのレギュラーから深夜枠で『志村〝X〟』『志村〝XYZ〟』『Shimura〝X〟天国』を2000年まで担当した。

死亡説

1996年9月頃、突如として「志村けん死亡説」が全国的に流布する[8]パソコン通信などを通じて広まった[8]

噂は尾ひれがついて拡大し、「群馬県赤城国際カントリークラブで急性心筋梗塞を起こし急死した」「尾瀬を観光中に尾瀬沼に落ちて溺死した」「たばこの吸い過ぎが原因の肺がんで、栃木県がんセンターで死んだ」「栃木県の国道交通事故に巻き込まれて事故死した」「死んだことは四十九日法要が過ぎてからでないと公表されない(この時期に亡くなった渥美清が遺言に「四十九日法要が済むまで公表するな」と書いていたことからとされる)」「今放送している番組は生前に撮り溜めしたもの」などと具体的な内容の噂に発展。栃木県立がんセンターが「志村(康徳)さんは入院していない」という異例の声明を出すに至り、9月28日には本人がインターホン越しに記者会見し、健在をアピールする事態になった。

この時期、志村は健康体で、入院が必要な大きな病気やケガもしておらず、噂の発生原因は不明だが、「志村のゴールデンタイムの全国ネット番組が終了したことで志村が自殺したのではないか?」「収入が無くなって死んだ」などという噂が週刊誌などでも広まった。騒動が収まったのち、高木ブーが自身が聞いた発生説として「この時期に『しむらけん』という人が北関東地方[注 8]で亡くなり、それが志村と混同されたからだ」と語っている(志村の本名は康徳であり志村けんは芸名である)。

その後

1997年後半以降、バラエティ番組のゲストとして呼ばれることが多くなる。また、子供の時にテレビで志村を見て育った芸能人などから再び注目され始め、第3の人気ピークを迎えた。ただし以前のピーク時とは異なり、重鎮的なポジションで扱われる立場となったこともあり、全盛時と比べれば露出度は穏やかなものであった。

1998年12月30日、『21世紀プロジェクト〜年越し30時間テレビ 今日だけお見せ数々の名番組大集合!〜』後半部では、加藤と共に出演した。

一方、1985年の『全員集合』の終了後、シリアスな俳優として新境地を開いたいかりやや加藤と路線を異にし、『古畑任三郎』の犯人役のオファーを断るなど、一貫してコントやバラエティ以外のテレビ番組や映画で俳優として出演しないことを信条としていた[注 9]志村だったが、1999年には映画『鉄道員(ぽっぽや)』に俳優として出演した。自宅の留守番電話高倉健直々の出演依頼のメッセージが残されていたため、「高倉の申し出があったのに出演しないとは言えなかった」と出演の理由を明かしている。この時の録音テープは、家宝としてその後も大切に保存しているという。なお、その映画で担当した役は原作にはないシーンで原作に登場しない人物である。その後、「鉄道員」出演以降は一部の声優業を除いて映画には1度も出演した事が無かったが、2020年12月に公開される映画「キネマの神様」(原作は原田マハによる同名小説)にて俳優である菅田将暉とダブル主演を務めるが告知され実に「鉄道員」以来約20年ぶりに映画出演を果たす予定となっていた。しかしながら、新型コロナウイルスに感染したことで辞退を余儀なくされ、結局出演を果たせぬまま2020年3月29日に合併症の肺炎で死去した[9]

『バカ殿』で共演していた東八郎に「東はいい歳になってもなぜ馬鹿な演技ができるのでしょうか」と尋ねた時、東から「芸人が本当は利口だと思わせようとしたり、文化人面(づら)したりするようになったらおしまい」と言われた。志村はこの言葉に深く感銘を受け、東に尊敬の念を抱いていたと何度も発言している。

1990年代半ばあたりまでの志村は非常に照れ屋で、フリートークが苦手だったため、トーク主体のバラエティ番組への出演はほとんどなかった。トークバラエティ番組に出た際は歓迎されたが、やはりツッコミが主な仕事だった(これは他のドリフメンバーにも共通する特徴だった)。当初はほとんどがコント用のかつらにメイクをした姿(「変なおじさん」「バカ殿」など)での出演だったが、これはそれまでコント一筋だった志村にとって、バラエティ番組に出演することは勝手が分からず気恥ずかしいという気持ちからである。「自分自身のことを語るトーク番組の出演は苦手であり、地声は低音である」と、2002年5月29日に放送された『わたしはあきらめない』でも語っている。しかし、その後は様々なトーク番組に頻繁にゲスト出演する経験を経て、素顔・コント用メイクのどちらでも出演するようになった。

2001年、「けん♀♂けん」名義で研ナオコとのデュエット曲「銀座あたりでギン!ギン!ギン!」をリリース。2002年4月、「バカ殿様とミニモニ。姫」として活動。持ちギャグの「アイーン!」を冠した曲を歌った。

2001年12月、盗撮事件による謹慎が解けたばかりだった田代まさしが男性宅の風呂を覗き見および覚醒剤所持で再び逮捕されたことに対し、田代の芸能界復帰を支援していた志村は桑野信義と共に「あいつは最低なことをしたのだから芸能界から消えてもらいたい」と田代を突き放すコメントをした。しかし、2009年11月、志村の楽屋に田代が訪れて土下座をしたことを自身のブログで報告し、ブログ上で田代にエールを送った。

2004年4月15日、自身がMCを務める『天才!志村どうぶつ園』が放送開始。元来の動物好き、シャイで涙もろい志村の人柄をそのまま活かし、人気番組となる。当初は木曜日午後7時台の放送だったが、2007年4月から土曜日午後7時台に枠移動した。

2004年12月7日、東京都三鷹市内の自宅に泥棒が侵入し、時計宝石類1000万円相当と現金40万円を盗まれる被害に遭った。本人は会見で「迷惑だねぇ」と困惑の色を隠せなかったが、のちに「ちゃんと仕事して金稼いで下さい」と犯人にコメントし、最後に「だいじょうぶだぁー」と締めた。後に『天才!志村どうぶつ園』でこの事件が取り上げられた際、ペットの犬たちは人懐こいため泥棒に吠えなかったことが明かされ、「番犬にならない」と苦笑した。また、ホームセキュリティに加入していたにも関わらず、警備員が駆けつける前に盗難被害に遭ったことも話題となった。当時、志村は『発掘!あるある大事典Ⅱ』の収録の為、大阪に行っている最中に起きた出来事である[10]。似たような事件が2年前小出義雄宅でも起こっており、約500万円の現金が盗まれている。小出は「警察には被害届を出さない代わりに、その金を元手に商売するか、まっとうに仕事をしろ!」と犯人にアピールした。志村のコメントは小出のアピールを引用したものと思われる。

2005年ビートたけしと組んで1時間半のコント番組『たけし☆志村 史上最強の爆笑スペシャル!!』を制作。ダチョウ倶楽部やたけし軍団の一部も参加した。番組の最後には、志村の三味線とたけしのタップダンスの競演が披露された。

2006年4月、「理想のお笑い」を追求すべく、東京芸術劇場で『志村魂(しむらこん)』と銘打った舞台を上演する。前半に「バカ殿様」とコント1本、後半は藤山寛美の作品『一姫二太郎三かぼちゃ』をラサール石井がリメイクした舞台を上演した。

2007年6月には、東京芸術劇場と中日劇場で第2弾『志村魂2』を上演。第1弾の演目に加え、「津軽三味線」が上演された。2008年5月から7月にかけては、全国で第3弾『志村魂3』を上演。後半に藤山寛美の作品『人生双六』をリメイクした舞台を上演した。

2009年7月には、銀河劇場と中日劇場で第4弾『志村魂4』を上演。2010年7月から8月にかけては、全国で第5弾『志村魂 -初午の日に-』を上演し、後半に『初午の日に』を上演した。2011年7月には、銀河劇場で第6弾『志村魂 -初午の日に-再び!』を上演。

2012年6月から7月にかけては、全国で第7弾『志村魂 -先づ健康-』を上演し、後半に『先づ健康』を上演した。

2015年11月23日に「一番のファン」だった[11]実母が老衰のため死去。96歳没。ブログではたびたび「母に感謝す」と記していた志村は「天国からまだまだ応援見守って下さい」などのコメントを発表した[12][13]

2020年1月に、同年3月30日放送開始のNHK連続テレビ小説エール』でテレビドラマに初出演することが報じられ[14]山田耕筰をモデルとする役で、4月27日放送分から登場予定[15]

体調不良

2016年8月19日肺炎で入院したことが判明した。これに伴い、8月20日および21日に予定されていた公演『志村魂』の大阪・新歌舞伎座公演は中止することになった[16][17]。その後、8月31日に退院している[18]。それまでは1日に3箱のたばこを吸うほどのヘビースモーカーであったが、この件にショックを受け、その後禁煙をした[19]

2020年2月22日に都内で開かれた誕生日パーティーで胃の切除手術を受けたことを告白。その際に志村は詳細を語らず、胃癌だったのではないかと出席者から心配の声があがったが、所属事務所によると、健康診断でみつかったポリープ切除の内視鏡手術で1月に4日間入院していたとのことで、直接的に仕事に影響を及ぼすことはなかった[20]

新型コロナウイルスへの感染と死去

2020年3月17日に倦怠感を訴え、自宅で静養。19日に発熱と呼吸困難の症状が出始め、翌20日に訪問診察をしたところ重度の肺炎と診断され、東京都港区内の病院に緊急入院となった。入院後、21日に人工呼吸器に切り替えた段階から意識はなかった[21]。入院の際に新型コロナウイルスの検査を実施したところ、23日に陽性と判明した[22][23][24]。24日に人工心肺が必要と診断を受けて、新宿区内の病院へ転院してECMOを装着[25]。入院時には肺に影も見られ、一時は気道を確保する気管挿管の処置も取られた[23]。また、同日には保健所による調査で、17日が発症日であることと濃厚接触者の特定が完了したが、感染経路については不明とされている[22][23]。検査結果を受け、同年12月公開予定だった自身初の主演映画『キネマの神様』のクランクインが延期となり[26]、3月26日、同作への出演を辞退したことを所属事務所が発表した[27]

2020年3月29日午後11時10分、新型コロナウイルスによる肺炎のため、入院先の国立国際医療研究センター病院で死去した[1][2][3]。70歳没。

その他

2000年代になってから健康オタク、動物愛好家としても知られ、お笑いタレントとしてのみならずコメンテーター的存在としても活動していた。ただし、トーク主流のテレビ番組のあり方については、持論として、いくつかの雑誌などでのインタビューで疑問符を投げかけていた。また、テレビ不況についても嘆いており、自身のコントでも「クイズ番組が多すぎる」「時代劇が不振」と苦言を呈していた。

2006年より自身のブログを更新していた。ブログでは日々の生活などが書き込まれており、60代からは体調の変化について書き込まれることも増えていた。2015年11月25日のブログでは、母・和子が11月23日に亡くなったことを明かした。

お笑いの賞レースやコンテストで審査員を務める事もあり、コント専門ながら漫才の大会であるTHE MANZAI2014では審査員として出演した[28]。また、歌ネタ王決定戦でも第2回、第3回大会で審査員を務めた[29][30]

エピソード

音楽

ソウル・ミュージックファンクジャズなど、あらゆる分野の音楽に興味を示し、自宅には膨大な数のレコードやCDのコレクションがある。「ヒゲダンス」で使用されたBGMがテディ・ペンダーグラスの「Do Me」のリフループしたものであったり、「ドリフの早口ことば」が当時、渡辺音楽出版が発売権を買い付けたシュガーヒル・ギャングの「ラッパーズ・ディライト」の印象に、ウィルソン・ピケットの「Don't Knock My Love」のバックトラックをはめ込んだものだったりしたが、これは当時ソウル・ミュージックを好んで聴いていた志村が探し出して推薦したものである。更に志村加入後に発売されたドリフターズのシングル「ドリフのバイのバイのバイ」では、志村によるソウルフルな合いの手も聞かれる。また、かつて音楽誌『jam』でソウル・アルバムのレビューを書いていたこともある。

ドリフにおける担当はギター(初期はキーボード)。過去のバンド演奏でキーボードを弾いている姿が見られるが、高木ブーは「ギターだった俺が荒井の担当だったキーボードになって、ギターしか弾けない志村がギター担当になった」と発言している[注 10]。番組内でビートたけしのタップダンスに合わせて三味線を弾いたり、コントで霊媒師を演じた時には琵琶ギターのテクニックの一つであるチョーキングを披露するなど、バンドマンとしての技能が見られた。

なお、『志村けんの全員集合 東村山音頭』はザ・ドリフターズ名義の曲として、唯一加藤以外がソロボーカルとなる曲である。

中学以来のビートルズファン[31]。このためか、中学時代に畑でバンドをやっていたという(兄談)。ビートルズの日本公演を観に行った際、持参したカメラで1枚のみ隠し撮りをしており[32]、その写真をパネル化してテレビ番組で公開したことがある。その写真ではジョン・レノンが丸いサングラスをかけており、1966年7月2日公演と分かる。同日の公演は、音源・映像とも、公式には一切収録されていない。

津軽三味線を趣味としており、上妻宏光の指導を受けて短期間で上達、舞台(『志村魂』など)の後半で度々披露していた。きっかけは、上妻の楽曲「紙の舞」を聴いて感銘を受けた志村が、その曲が弾けるようになりたいと上妻に指導を頼み込んだことにある。当初、上妻は「紙の舞」は非常に高度な技術が要求されるため、志村には基礎的なじょんから節から教えようと思っていたにもかかわらず、予想を超えるスピードで志村が「紙の舞」を習得してしまったという逸話がある。志村は、この上妻の楽曲「紙の舞」を舞台で度々演奏した。

ドリフメンバーとの関係

いかりや長介に弟子入りする際には、『芸能人名鑑に記載されていたいかりやの自宅住所を見て自ら押しかける』という手段を取ったことを志村自らが明らかにしている[33]

だがそのいかりやと志村は一時期(1989年から1990年代初め頃)不仲だった。当時の『ドリフ大爆笑』でもいかりやと絡むコントはほとんど無く、リハーサルや撮影が別々に行われたりもした(実際にドリフ大爆笑では、メンバーの中で志村だけ出演しないコーナーもあった)。また、雑誌『SWITCH November 1991 特集・志村けん「笑う男」』誌上では「今のいかりやさんは面白いとは思わない。実際、いかりやさんとは2年以上会っていないし…」と語っていた。しかし、いかりやが亡くなった時に自宅へ真っ先に向かったのは加藤と志村だった。二人ともショックでしばらく動けなかったとのことである。

ただし、いかりや自身の著書『だめだこりゃ』の中に「志村をリーダーに第2のドリフを作って欲しいと思っている」とする旨の記述がある。また、いかりやの息子である碇矢浩一も自身の著書の中で「自分の見た限りでは特に不仲を感じることはなかった」「父さんは『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』を見ては『こういう方法があるのか』と関心を示していた」と述べている。

上記のように、いかりやは幾度も打ち合わせやリハーサルを繰り返して、予め練りに練ったシナリオをこなしていく「予定調和のお笑い」を良しとしていたのに対して、志村は適宜アドリブや楽屋オチを入れ、時には「ボケ」と「ツッコミ」が目まぐるしく逆転する「予測できないハプニングを含めたお笑い」を志向し、スタジオコントでは画像処理やCG合成など最新の手法も積極的に取り入れていたという、お互いの「笑いのスタイル」に対する考え方のズレが現れていた。この兆候は『全員集合』時代後期に既に表れており、志村のいわゆる「客いじり」のアドリブが、当時番組内ではTBSの制作陣よりも発言力のあったとされるいかりやが組立てたコントのタイムテーブルを崩し、生放送の中では後半の時間が詰まる原因になった。とはいえ、いかりやが解った上で便乗したこともある[注 11]ため、全てを否定していたわけではない。

入れ替わりで脱退した荒井注とは、口数は少なかったものの良好な関係だったと志村自身は語っており、荒井がドリフを辞める1ヶ月前に付き人として二人でニューヨーク近辺を珍道中した事を語っている。

『全員集合』終了・『ドリフ大爆笑』不定期化後、いかりや以外のドリフメンバーとも距離を置いていたが、付き人時代の時からの支援やドリフ正式加入の経緯によって、一番年の近い加藤とは親密であり共演番組や二人をメインにした特別番組が製作されることが多かった。志村自身、加藤とは性格や趣味に至るまで自分と似ており、意気投合しやすい為、付き人になって間もない頃からすぐに仲がよくなったと振り返っている。加藤と共にラスベガスで豪遊するなどプライベートでも親交があった。1990年代までは志村が同一の番組で共演したことのあるドリフメンバーはほとんど加藤のみだったが、2000年代からは高木ブーがバカ殿にゲスト出演する事が増え、志村の主演する2005年のアリコジャパンのCMで高木は特別出演をする。2016年には志村の発案で「となりのシムラ」にゲスト出演する[34]など、高木との共演数も増えている。仲本工事とはいかりや逝去前後以降、その直後の特番を除いて単独で共演したことは一度も無い。

加藤の話によると、ドリフ再集結の話が持ち上がることを嫌がったとのこと。理由としては、いかりやとの不仲説や、この頃には単独で他のドリフメンバーを遙かに凌ぐ人気と活躍をしながら、ドリフに戻れば一番下扱いされることが不満だったと言われる。2012年3月に加藤が前年に入籍した妻との結婚式と披露宴を行った際には、高木と仲本が出席したにもかかわらず、志村はテレビ番組の収録を理由に欠席してビデオメッセージで済ませたため、一部のマスコミより加藤との不仲説が指摘された[35]

2017年、『志村けんのだいじょうぶだぁ』で12年ぶりのドリフ再集結を果たし、『寝台車』など往年のコントが復活したが、再集結を呼びかけたのは志村である[36]。そのきっかけについて、志村は「セットでコントをやる人が少なくなってきているので、実際にドリフはこういうことをやっていたというのを再確認して貰おうと思って集まって貰いました」と述べている[36]

恋愛関係・若手女性タレントとの関係

ドリフメンバーの中で唯一、結婚歴がない独身。しかし、結婚の願望は強く、「母に子供の顔を見せてやりたい[37]」「人恋しく、人肌恋しい[38]」とブログに載せている。

付き人時代に同棲していた女性とは、婚姻に至る前に子供ができたが、周囲の反対で彼女と別れたことを自著『変なおじさん』の中で告白している(その女性と子供の消息は不明)。その他、3年間の同棲の果てに内縁関係(事実婚)を主張して財産の半分を持っていった女性もいた(法律上の決まりはないが、判例によると同棲期間が長いほど別れる時に高額な慰謝料が発生する場合がある)が、この女性とは結婚も考えていたと直後の記者会見で語った。また、日本航空スチュワーデスの愛人が複数いると報じられたこともある[39]。さらに大のキャバクラ好きでもある。このように、女性との交際は多いものの、特定の女性との関係を長続きさせるのが苦手であるため、なかなか結婚に踏み切れないことは本人も認めていた。

1980年代から1990年代中盤にかけて、太地喜和子いしのようことの交際の噂が各メディアでたびたび報じられたものの、結婚へは辿り着かなかった。太地、いしのともに番組で共演、太地が亡くなった際には番組で追悼企画が組まれた。

ビッグ3との関係

タモリとの共演は極めて少ない。かつて『笑っていいとも!』のテレフォンショッキングのゲストとして出演した際に、桑野信義が志村をゲストとして呼ぼうとしたが、「俺、明日ゴルフだから」と断った。この頃の志村は前述にあるようにトーク番組が苦手なこともあり、コント以外の番組にゲスト出演することがほとんどなかったので『笑っていいとも!』に限り出たがらなかったということではない。なお、約10年後に作家の嵐山光三郎の紹介で初めて出演し、2007年にも加藤茶の紹介で、2013年にもバカ殿様の番宣でテレフォンショッキングに出演したほか、研ナオコとのユニット「けん♀♂けん」としてもゲスト出演した。他には過去に『ジャングルTV 〜タモリの法則〜』や『ミュージックステーション』でもゲスト出演した。

明石家さんまとの共演も多くないが、これはさんまが得意とするトーク主体の番組を苦手としているためである。ただし、さんまが司会を務める『さんまのまんま』をはじめ、『踊る!さんま御殿!!』や『恋のから騒ぎ』にゲスト出演した。

ビートたけしとは『神出鬼没!タケシムケン』での共演を機に、お互いを尊敬し合う仲である。それ以前よりたけしは志村をはじめ、ドリフターズに好意を持っており「たけし軍団はドリフターズを意識して結成した。こんなバカな人間が大変な賞をもらった事に、初心に帰ってバカをやらないといけない」とカンヌ国際映画祭のインタビューで話した。

沢田研二との関係

志村のドリフ加入からしばらく経過した1970年代後半、『8時だョ!全員集合』や『ドリフ大爆笑』などの番組内において沢田研二とよく共演していた。当時、沢田と志村は同じ事務所に所属していたこともあり、共演する回数は多かった。また、志村はドリフ加入前の「マックボンボン」時代に沢田のコンサートの前座を何度も務めていたことがある。

1980年代中頃以降は共演する機会も減っていたが、2001年にNHKの番組で久々に共演し「東村山音頭」を一緒に歌うなどをした。同年には沢田の希望により、共同でラジオ番組『ジュリけん』(文化放送)もやっていた。2003年には沢田と志村の両方が主役として、沢田の希望で舞台「沢田・志村のさぁ、殺せ!!」での共演が実現した。沢田とは同一事務所時代から30年以上の交流があるが、プライベートで行動を共にする機会は比較的少なかったものの、2000年代に入り徐々にではあるが、交流の機会が増えていた。

志村は上記にあるように、女性の友人で付き合いの長い人物は若手を中心に多いが、男性の友人で付き合いの長い人物は極めて少ない方であり、ドリフメンバーや志村ファミリーを除くと沢田程度しかいない。

後輩タレントとの関係

天才!志村どうぶつ園』で共演している相葉雅紀を弟子のように可愛がっており、しばしば自分の人生論などを伝授した。

タカアンドトシが、自身の持ちギャグである「欧米か!」をこのまま続けて行くべきか真剣に悩んでいた際、「このままずっとやり続けるべきだ」と励ました[注 12]。志村はタカアンドトシを非常に気に入っており、志村の冠番組での共演も数多い。

千鳥の大悟とも仲が良く、週8のペースで飲みに行っている[40]

大御所となった現在、志村相手に真剣に突っ込みを入れられるタレントはほとんどいなくなったが、浜田雅功は自身の番組で志村の頭を叩く。このことに対し志村が「おれが頭を叩かせるのは、いかりやのいない今は、浜田だけなんだから」と許容していた。

出身地・東村山市

志村けんの木(東京都東村山市・東村山駅前、2009年8月22日撮影)

志村はプライベートで、東村山市および自身の実家に帰ることはほとんど無い。東村山ネタで人気が出始めた頃、地元における志村後援の動きは、元祖「東村山音頭」を企画した東村山市農業協同組合が中心であった。その後、東村山ネタが全国的なブームになり、東村山市自体も注目を集めるようになった。

1976年7月、「東村山市の知名度を高めた」功績が認められ、当時の東村山市長の熊木令治から感謝状が贈られた。当初、志村の東村山ネタについて、市議会議員や教育関係者の中には否定的な者もいた。志村が当時テレビでギャグネタに「東村山市名誉市民・志村けん」を名乗ったため、本当に志村が名誉市民称号を授与されたと思い込んだファンがかなり存在するが、実際にはその事実はなく、東村山市当局も公式にこれを否定している。またいかりや長介が「東村山非国民」というギャグを使用して笑いを取っていた。

なお、この時に東村山駅東口の交番前に、感謝状授与記念と志村への激励の証として3本のケヤキが植えられた。通称「志村けんの木」。2015年に東村山市が市制50周年記念として木の前に看板を設置した。この看板の題字「志村けんの木」は志村の直筆であり、またサインも掲載されている。

1995年、東村山市商工会が主催した東村山駅開業100周年記念イベントで司会を務めた。駅前広場に立つ「東村山停車場の碑」前で開かれた式典の後の小規模な催しであったが、当時東村山市役所職員の兄の紹介で出演が実現した。

東村山市商工会ウェブサイトではタイトルロゴに「あい〜ん」と表記していたことがある[41]

志村の小学校時代の同級生が先代の社長を務めた和菓子店「餅萬」では、先代社長時代より志村にちなむ「だいじょぶだぁ饅頭」や「だっふんだぁどら焼き」を「東村山名物」として販売している[42][43]

なお、長兄である志村知之は、東村山市職員として2017年4月まで勤務していた。知之は60歳の正規職員としての定年退職以降も臨時職員として70歳まで東村山市に奉職した。知之が退職日に渡部尚と握手している写真が掲載され、「志村けんそっくり」と話題になった。[44]

各方面での人気と影響

日本だけでなく、台湾(『だいじょうぶだぁ』)、タイ(『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』)、インド蚊取り線香のCM)でも知名度が高い。また、イランの政府高官は駐日イラン大使館の在留大使時に志村のコントを見て大ファンになり、帰国後「国賓として招きたい」と言ったり、テヘランのレンタルビデオショップには志村の特設コーナーもある。さらに、在日外国人に最も人気が高いタレントの1人とも言われ、六本木で出会ったアメリカ兵から「お前はアメリカに行くべきだ。俺の部隊の連中は、みんなお前が大好きだ」と言われたこともある[注 13]

太地喜和子は志村の熱心なファンだった。志村の著書によると、若い劇団員に対し「ね。志村さんのお婆さんは本物に見えるでしょ。先ずは、そう見えるかどうかが大事なのよ」と言ってくれたと記されている。太地は『だいじょうぶだぁ』の常連ゲストとしてたびたび出演し、太地の急死直後には追悼番組が放映された。

その他

  • 父・憲司は小学校教諭で教頭まで昇進し、教頭になってからは校長への昇進を目指して日々勉強に励んでいた。しかし、志村が中学生だった1962年に、自宅前で交通事故に遭う。事故から3年後、志村が夕飯ができたので書斎に呼びに行ったところ、「どちら様ですか?」と聞かれ、この時の憲司は脳内出血による記憶喪失となっており、志村がドリフの付き人になろうと決意した頃には、物事の判断がほとんどできなかった。そのため、志村が実際にドリフの付き人になった時にも、憲司は反対しなかったとのこと。志村の爺さんコントは「この時期の父親をモデルにしたもの」であると、自身の著書『変なおじさん』にて明言している。憲司は47歳の時に学校を休職し、その後は町を徘徊するなどの行動を取るようになっていた。そして、志村が正式にドリフのメンバーになる前の年である1973年に54歳で亡くなった。志村はテレビの収録直前、母・和子から電話で一報を知らされて駆け付けたが、「(亡くなった父の)顔は見れなかった」と振り返っている。一方、母・和子は踊りや芸事が好きで、自分は母の性格を受け継いだのかもしれないと志村自身は語っている。和子は、志村がドリフの付き人として修業を始めた時から常に志村を応援し続け、晩年まで「志村けんの一番のファン」であることを公言しており、『バカ殿』のコントでは志村と共演するなど、自らテレビに出演することもあったが、2015年11月23日に96歳で亡くなった。当時、志村も自身のブログにおいて、「私の1番のファンの母親が亡くなりました」と公式に語った。
  • 小学校時代、給食費を滞納しており、中学校に上がってからそのことが発覚したため、父・憲司に激しく怒られたというエピソードがある。
  • 生まれて初めてピザを食べたのは高校生の時、当時交際していた女性と新宿の喫茶店にて。初めてハンバーガーを食べたのも高校生の頃で、ハンバーガーはその店のものしか食べなかった(現在は閉店)。
  • 付き人時代は貧乏で、食べるにも事欠く生活だった。他のメンバーが楽屋ラーメンを食べている時でも、付き人の志村はラーメンを注文する金もなく、他のメンバーの食べ残しを全部合わせて1人前のラーメンにしてそれを付き人どうしで分けて食べていた。ある時「スープの中に入れておじやにして食べよう」とライスを注文し、メンバーがスープを残してくれるのを待っていると全員がスープまで残さず平らげてしまったため、志村は思わず隣にいた加藤茶に向かって「加藤さん! このライスの立場はどうなるんですか! 」と激怒した事がある。
  • 送迎用にロールス・ロイスを所有しているが、志村自身は自動車運転免許を持っていないため、専属の運転手を雇っている。ただし、『人気者でいこう!』の企画で教習所で1度だけ車の運転をしたことがある。
  • 競走馬馬主としてアイーンベル等を所有している。
  • 2011年7月、愛犬の大輔(ゴールデン・レトリーバー)を亡くした。
  • 2017年4月19日、Instagramが乗っ取られ、男性の局部と思われる写真がアップロードされ、即削除された。所属事務所は公式サイトで「管理権のない第三者によって不正にログインされ、弊社及び志村けん本人が関知しない画像を投稿されるという事態が発生しました。本件について、弊社では、同日12時40分頃に事務所スタッフが不正な投稿を発見、当該の投稿を削除した上で、志村けん本人にも事実関係の確認を行ない、不正アクセス行為の禁止等に関する法律に違反する不正アクセス行為の被害を受けたとして、同日14時頃、警視庁赤坂警察署に被害の報告をしております。今後の対応については関係各所と協議を行なった上で対処を致します」とコメントした[45]

持ち芸

スイカ
  • 『全員集合』や『加トちゃんケンちゃんごきげんテレビ』などでは、スイカを異常に速く食べる芸を披露した。使用したスイカはテレビに映らない裏側部分が削り取られており、身の部分は非常に薄い(通称「ドリフカット」)ものだったが、フジテレビの『めちゃ×2イケてるッ!』では削られていない通常のスイカでも早食いができることを証明した。『全員集合』時代には、観客から貰ったスイカ(スタッフが仕込みとして用意しておいたもの)をその場で食べたこともある。早食いはしていない。
  • 様々なキャラクターに扮しているが、お気に入りベスト3として、志村は「バカ殿様、変なおじさん、そして一番はひとみ婆さん」を挙げている。なお、若手当時の志村の役は老人役が多かった。

『8時だョ!全員集合』・『ドリフ大爆笑』時代

東村山音頭
童謡の替え歌
「カラス、なぜ鳴くの、カラスの勝手でしょ」の元ネタは「七つの子」で、裏番組『欽ちゃんのドンとやってみよう!』内コーナー「レコード大作戦」の視聴者投稿作品でもあった。志村自身は「赤坂界隈の子供が言っているのをもらった」と言っている。当初は少年少女合唱団のコーナーで披露されたが、好評を博したため、冒頭のコント内で披露された。劇の最中、突然カラスの操演物(可動式のぬいぐるみ)が登場し、「カー、カー!」と鳴き声を発するのを合図に、志村が舞台中央に立ち観客席に向かって「さん、はい」と指揮を執りながら歌う(同時に観客の子供たちも声をそろえて歌う)。最後に志村が観客席に向かって、威張り口調で「ありがとうございました!」と言って締める。
ぞうさん」の「かあさん」の部分を、当初は「ちんちん」に替えて歌っていたが、視聴者からの苦情が殺到し、2週ほどでやめさせられた。その後、「そうよ、短けりゃ、ブタなのよ」という歌詞に改められた。
「赤い靴、履いてたら脱げた」(「赤い靴」の替え歌)
「あんだ、バカヤロー!」、「おこっちゃヤーヨ!」
いかりやに対して反抗の意志を示すために、を突き出してポーズをとる。「アイーン」はこの時のポーズが後にドリフ大爆笑でも加藤と志村が時にやっていた「ニン」とのポーズとを合成したものである。
ディスコ婆ちゃん
1970年代のディスコソング風BGMに乗って激しく踊る。合間にしきりに「あーぁ」「ゲェッ!」「サンキューベイベー」と喚く。
キョーデー・ナンデー
加藤とのコンビ。お互いを「キョーデー」(兄弟)・「ナンデー」(何だい)と呼び合い、『ヤン坊マー坊天気予報』の替え歌を歌い始める。「大きなものから」(志村)「小さなものまで」(加藤)のところでお互いの股間を指し合うが、最後近くで2人ともいかりやに突っ込まれてオチがつく。
ジャンケン決闘
西部劇の酒場風セットにて行う「最初はグー」で始まるジャンケン。仲本工事とのペア。敗者には罰ゲーム(水や膨らむ風船などをズボンに入れられる、透明ケースを頭に被せられ多量の粉(呼吸器への影響を考慮して喉の薬を使用)を注入されるなど)が待っている。
後に「最初はグー、またまたグー(または「お次はチョキ」)、いかりやチョー介、頭がパー、正義は勝つ!」になった。最後の「勝つ」の部分はグーを出す。なお、本人および加藤茶によると「最初はグー」は、ジャンケンする人数が多すぎる場合にタイミングを合わせるべく『全員集合』の現場で始まったという。これにより、ジャンケン掛け声の第一声に「最初はグー」と言うのが世間に広まったとされる。
ヒゲダンス
加藤茶とのコンビ。黒タキシードと付けヒゲを着用し、煉瓦の壁をバックに踊りながら様々な芸を披露する。エレキベースによる印象的なBGM(『「ヒゲ」のテーマ』)は、ソウルの「Do Me」をたかしまあきひこがアレンジしたもの。たかしまによるとソウル通の志村がテディ・ペンダーグラスの「Do Me」のレコードを持って来て「これと似たようなBGMできないかな?」と言ったという。付けヒゲは、振付師兼ギャグアドバイザーだった藤村俊二トランクから拝借したと藤村本人が語っている。
私ってダメな女ね
桜田淳子との夫婦コント。『全員集合』の後半戦で、桜田がゲスト出演するたび毎回のように披露された。何をやっても駄目な新妻・桜田を、夫・志村が事細かく叱りまくり、叱られるたびに桜田が「私って駄目な女ね。あなたの妻でいる資格なんかないわ」と泣き崩れる(切ない音楽と共に照明が暗くなる)。そのたび、志村がなだめて桜田をおだて、(軽やかな音楽と共に照明が明るいピンク色になり)明るい表情に一変した桜田が「淳子、しあわせ…」と愛される幸せをかみしめる…というパターンを何度か繰り返す(例:桜田「お帰りなさい、あなた。ご飯にする?それともお風呂にする?」志村「じゃ、お風呂」というと桜田がお風呂に水を入れておくのを忘れていた。あるいは、ご飯炊くの忘れていた等)。ところが、志村の背広のポケットから“おさわりバー・百恵”という文字の入ったマッチが出てきて(“百恵”は山口百恵のこと。桜田と同じ花の中三トリオで親友かつライバル)、逆に桜田が志村を徹底的に糾弾。志村が「私って駄目な男ね。あなたの夫でいる資格なんかないわ」と泣き崩れてオチがつく。
パターン踏襲スタイルの古典的なコントではあるものの、志村と桜田のキャラクターと演技力に加えて、BGMや照明などの舞台効果が高度に計算されており、何度見ても笑えると評判になった。
お食事タイプライター
上記の夫婦コントの中などでも、たびたび行われていたギャグ。食事の前に「何かいい音楽ないの?」と志村が切り出し、相方がテープレコーダーのスイッチを入れると、ルロイ・アンダーソンの楽曲「タイプライター」が流れてくる。最初は普通に食べているが、余りのテンポの速さにせわしない食べ方になってしまい、「チーン、サッ」の音とともに、素早くカメラ目線をしては元に戻るという動作を繰り返す。最後には「やめろよ! 落ち着いて食事ができないじゃないか!」と志村が怒ってオチがつく。
借金取り
加藤、女性ゲスト(松本伊代中森明菜等)との三人で演じる時代劇コント。志村演じる病気の父と健気に看病する娘のもとへ、加藤演じる借金取りが現れて返済を迫る。加藤が「借金のカタに娘をもらってくぜ!」と言って強引に娘を連れ出そうとすると、志村が「加藤の旦那、それだけはご勘弁を!」と加藤を何度も壁に叩きつけたり、プロレス技をかけたりと散々痛めつけ、倒れた加藤が「おい、借金はいいからよ、医者呼んでくれ…」と音を上げてオチがつく。
ドリフ大爆笑』ではこのパターンをテレビ画面に映し、その傍で女性が着替えや入浴で服を脱ぐごとに、志村と加藤がコントそっちのけで目移りしてしまうなどのメタ的な変化を加えた派生型のコントも存在する。
バカ殿様
歌舞伎「一条大蔵譚」のパロディ。フジテレビでのシリーズが有名だが、1980年前後に『全員集合』で披露されたコントが原型と言われている。橋幸夫演じる立派な殿様の影武者として、いかにも愚者らしい白塗りの顔の志村が抜擢され、城内で大騒動が起こる…という内容だった。バカ殿に振り回される家老はいかりやが演じた。
コナミよりファミリーコンピュータソフト「ハイパーオリンピック」のプレイヤーキャラクターをバカ殿にすり替えたものがコント内で使用された際に視聴者から好評だったため、後に同社から「ハイパーオリンピック殿様版」として限定版として発売された。
当時は黒澤明の映画『影武者』が話題になっており、橋幸夫も漫才コンビザ・ぼんちに物まねをされて再ブレイクしていた。
志村、後ろ!
コント劇で志村の背後にお化けミイラなどの恐ろしい存在が現れ、それに志村が気づいていない(という演技をしている)時、観客(主に子供)が叫ぶ言葉。志村が能動的に行うギャグではなく、観客の偶発的なリアクションだったが、同種のコントを披露するたび「志村、後ろ、後ろ!」と客席から声が飛ぶようになり、番組中の一種の「お約束」になっていった。
後輩コメディアンいわく「舞台上の演技にタイミングを合わせて『後ろ、後ろ!』と声を掛けるのが難しく、プロのコメディアンであっても意識的に再現できる物ではない」とのこと。
観客のリアクションに関して、志村は番組終了後の特番で「朝からリハーサルやってんだから言われなくてもわかってるんだよ」と述懐している。生放送中にも、観客席の子供に向かって「言われなくても分かってる!」と言い返していたことを、同特番で加藤茶に暴露された(真偽は不明)。
お前、それはないだろう[注 14]
地位が上のいかりやの横暴にじっと平伏しているが、途中でいきなり強気で反論し始める。現在で言う“逆ギレ”。相手を指差しながら殿様のように淡々と言うバージョンもある。
勝手にシンドバッド
沢田研二の「勝手にしやがれ」とピンク・レディーの「渚のシンドバッド」の音をコラージュし、音に合わせて両方の振り付けで踊るが、どんどん滅茶苦茶になっていく。後年に作成されたサザンオールスターズのデビュー曲「勝手にシンドバッド」はこれがヒントになっている。
魅せられて
ジュディ・オングの「魅せられて」のパロディ。例の真っ白な衣装を着た志村にバックライトが当たり、ゴツゴツした体型がシルエットになって浮かび上がる。
宮崎美子・ピカピカに光って
宮崎美子が出演したミノルタカメラCMのパロディ。CMソングいまのキミはピカピカに光って)をBGMに服を脱ぎ青いビキニ姿になり、腹の贅肉をつかんで「みやざきよしこー!」と一言。仲本や加藤が背景の木を持って補助。
マダムヤーン
1982年にハウス食品から発売されたインスタントラーメン「楊夫人」(マダム・ヤン。現在絶版)のCMソングがモチーフ。若い女性アイドル歌手に「○○ちゃーん(アイドルの名前)、マダムヤン、マダム・ヤーン♪」と歌いながら奇妙な手つきでからむ。
ピッカピッカの一年生
1980年の小学館小学一年生』のCMがモチーフ。主に場面転換で舞台から退く直前、加藤茶と並んで「俺達○○するかなぁ?」「分かりません」「ピッカピッカの、一年生、ビシッ!」とやりとり。大抵は直後2人ともいかりやに突っ込まれ、急かされる様に一旦退場する。
アー・ミー・マー
英語の一人称変格のI - MY - ME - MINEと、志村が好きなビートルズの曲「アイ・ミー・マイン」("I Me Mine")にヒントを得て変化(所有代名詞の部分を省略)させたもの。学校コントの英語授業で、いかりやが志村を指名して変格を言わせる際のお決まりとなっていた。以後、ユー・ヤー・ユー(YOU - YOUR - YOUの誤用)、ヒー・ホー・ヒー(HE - HIS - HIMの誤用、「ヒズ・ヒム・ヒー」とするパターンもあり)、シー・ハッ・ハー(SHE - HER - HERの誤用)と続き、シー・ハッ・ハーの時は一段と声を荒らげ、おかしな顔をして笑いをとる。
「正しい英語教育の支障になる」として、「カラスの勝手でしょ」と共にPTAから槍玉に挙げられたが、居作昌果は著書『8時だョ!全員集合伝説』にて「日本に正しい英語教育そのものが存在していない」と反論している。
テレビ人形劇『飛べ!孫悟空』では、孫悟空の変身の際の呪文としても使われた。また、このギャグがエスカレートしたときの志村の振り付けが、後年に生み出された持ち芸の一つである変なおじさんの振り付けに転用されている。
その他
「5秒前!、4、3、2、1」「デーン」「ビシッ!」(加藤茶とのペア、ノミ行為による出演自粛中にネタおろしされ、フリはいかりやが担当していた)
Here we go, everybody, come on rock'n roll(ゴーゴーダンスの振りをつけながら、野太い声で。スネークマンショーのネタである「咲坂と桃内」を真似たもの)
あーあ、か…はたまたやーや、か… しからずんば ぬーぬ、か…(バカ殿コントの導入部で暇をもてあました殿が独り言のようにつぶやく)

『加トちゃんケンちゃん』・『だいじょうぶだぁ』以降

だいじょうぶだぁー、ウェ、ウェ、ウェ
3連の団扇太鼓を叩きながら「だいじょうぶだぁー」「ウェ、ウェ、ウェ」と言い、相手もその都度同じことを繰り返す。「ウェ、ウェ、ウェ」は「ウァ、ウォ、ウェ、ウィ」など時々変わる場合がある。
志村の兄が福島県喜多方市の女性と結婚し、その家に志村が遊びに行った時に、そこの家のお父さんから「あがっせ、あがっせ、だいじょぶだぁ」さらに「食べっせ、食べっせ、だいじょぶだぁ」と言われたのが起源となる。
また他説として、岩手県西和賀町にロケで宿泊した旅館の夕食にて、珍しい郷土料理を見て「これ、食べても大丈夫ですか?」との質問に、親父さんが「だいじょうぶだぁ、クェ、クェ、クェ(食べなさいの意)」と答えたのが語源となる。
後にこれが『志村けんのだいじょうぶだぁ』の契機となる。また同番組放送開始直後に、裁判コントで桑野信義らがインスパイアした。
ケンちゃんブー
加藤茶の「加トちゃんペ」に対抗するギャグとして編み出されたが、まったく定着しなかった。
変なおじさん
「何だ、チミ(君)はってか? え?」「そうです、私が変なおじさんです!」
変なおじさんがコントのオチで言うセリフの「だっふんだ」は、桂枝雀の落語「ちしゃ医者」に登場する医者の咳払いの声が元ネタである[46]。枝雀の関係者によると、志村は枝雀の歌舞伎座での独演会の最初の年に観客として来場していたとのこと[46]。「♪あはは、うふふ、えへへのおほほでだっふんだ」の歌は、四代目三遊亭金馬らの人気番組『お笑い三人組』のメロディーを使用している。
変なおじさんのメロディは、沖縄民謡の「ハイサイおじさん」が原曲だと言われている。
アイーンのポーズ
アイーン
もともと「アイーン」というセリフはなく、“怒っちゃヤーヨ!”の腕の位置がもう少し下がったポーズである。また、志村自身は「アイーンはギャグじゃない。ただのポーズだ。」と述べている[47]
岡村隆史は、「アイーン」という音の考案者は木村明浩バッファロー吾郎)であると語っている。過去に木村が、上記の志村のポーズにオリジナルで「アイーン」と音を付けて披露していた。これを覚えていた岡村が、志村との競演時に木村同様に音をつけて「アイーン」を行い、志村が逆にそれ取り入れたことで、現在のものに定着した。また、人気番組『進ぬ!電波少年』(日本テレビ)で、なすびが志村の真似をした際に「アイーン」と声を発したことで、全国的に認知されるようになった。
ウンジャラゲ
ハナ肇とクレージーキャッツのメンバーであった植木等のカバーだが、歌詞と振り付けの一部がオリジナルとは異なる。
ひとみ婆さん
メガネをかけた手の震える老婆。「ひとみと申します。ひぃちゃんと呼んでください」。非常に目が悪く物や人を見るときは近距離で見る。いつも早起きで、マッサージのコントでは、客をマッサージ中に寝てしまうことが多く、客から「寝てたんじゃないの?」や「起きてる?」などといったことを言われ、それに対しひぃちゃんは「寝えませんよ。」や「起きてましたよ」などと答える。一人の孫がいる。おじいさんは年上で、すでに他界している。
その他
爺さんや、婆さんや(田代まさしとの掛け合い)
ご、ご、ご、5時!?(いしのようことのコンビ)
そこまで言う!? 早見優北天佑しょうゆラー油、アイラブユー。仲直り!(いしのようことのコンビ)
メシはまだかい?(志村が爺さんで、いしのが留守番を頼まれた近所の主婦の設定。もともと実父が自宅前で交通事故に遭った後遺症で記憶障害が残った姿がヒントになっている)
うわぁ、効くなぁ(栄養ドリンクを飲んだ後に言う)
糸まきまき、糸まきまき、ひいてひいてとんとんとん
いいよなおじさん(「○○はいいよなぁー」と言って、勝手に人のものを食べたりするが、何故か憎めない)
いえいえおじさん(小心者で「いえいえ…」と遠慮するが、結果的にヤクザを退治したり、クイズ番組で全問正解になったり、トラブルを解決してしまう。本人は割と気に入っていたキャラだったが、出番に恵まれず埋もれて行った)

主な出演番組

この節では志村単独の出演作品を記述する。

テレビ番組

死去時点の出演番組

3月29日以前の出演番組

レギュラー番組
スペシャル番組(単発・不定期)

過去の出演番組

ラジオ番組

CM

映画・舞台

映画

舞台

  • 沢田・志村の「さぁ、殺せ!」(2003年)
  • 志村魂(しむらこん、2006年4月)
  • 志村魂2(2007年6月)
  • 志村魂3(2008年5月 - 7月)
  • 志村魂4(2009年7月)
  • 志村魂 -初午の日に-(2010年7・8月)
  • 志村魂 -初午の日に-再び!(2011年7月)
  • 志村魂 -先づ健康-(2012年6・7月)

音楽・出版物

CD・レコード

著作

  • 変なおじさん(日経BP社) - 1998年10月
    • 変なおじさん 完全版(新潮文庫) - 2002年9月
  • 変なおじさんリタ〜ンズ(日経BP社) - 2000年10月
  • 志村流 金・ビジネス・人生成功の哲学(マガジンハウス)- 2002年3月
  • 志村流 遊び術(マガジンハウス)
  • 志村けん わたしはあきらめない(KTC中央出版
  • これでカラダだいじょうぶだぁ!〜志村けんのズボラ健康塾(アスコム
  • 月刊CIRCUS連載 やっぱり志村さんに訊こう。(KKベストセラーズ
  • 志村流(書籍)

漫画

  • わ〜お!ケンちゃん(作:竹村よしひこ小学館コロコロコミックス、全6巻、1991年 - 1995年)
    • 志村をディフォルメした小学生「志村ケン太」が主人公のギャグ漫画。ほかのドリフメンバーでは加藤茶がケン太の親友「加藤茶太郎」で、いかりや長介がケン太の通う小学校の校長「おこりや長介」というキャラクター。
    • それ以外の芸能人では、ビートたけしやウッチャンナンチャン、宮沢りえデーブ・スペクター(デブ・スペクターというデブキャラに設定されている)やダウンタウン、観月ありさジミー大西津川雅彦(当時、出演していたパナソニックのテレビ受像機「画王」CMキャラクターの王様で)、間寛平ルー大柴島木譲二ラッキィ池田、タモリ、加勢大周(モチーフは加勢だが、「汗体臭」と言う名前の汗臭いキャラに設定されている)、山田邦子などのデフォルメキャラがいる。そのまんま東(現:東国原英夫)もさりげなくキャラとして描かれていた。
    • 連載開始当初は『元気いっぱいシムラくん』というタイトルだったが、すぐに上記タイトルに変更された。なお、志村の通う小学校は板橋区志村小学校となっているが、実際に存在する板橋区立志村小学校とは無関係である。

ゲーム

テレビゲーム

パチンコ

  • CRフィーバーしむけん(2000年、SANKYO
  • CRフィーバーバカ殿(2002年、SANKYO)
  • CR志村ワールド(2006年、SANKYO)
  • CRフィーバー変なおじさん(2007年、SANKYO)

パチスロ

  • シムケンG(2000年、ダイドー
  • シムケンS(2000年、ダイドー)
  • 変なおじさんS(2002年、ダイドー)

脚注

注釈

  1. ^ 「ちっとんべえ」(少し)、「おっぺす」(押す)、「あんだって」(何だって)など。
  2. ^ 住友建機のコラム「Power Talk」取材時の本人の証言などによる。
  3. ^ 本人の著書では、社会勉強をするため他の付き人に伝言して辞めたというが、いかりやの許可をもらったわけではないため、脱走扱いとなっている。
  4. ^ この芸名は、現在台湾で使用されている。
  5. ^ 荒井注は1973年10月に脱退を表明しており、すでに「迷惑をかけないために、半年間、御礼奉公して辞める」との意思をいかりや始め周囲には伝えていた。志村の「見習い」昇格は、事実上正式加入までの移行期間として設けられたものだった。
  6. ^ ただし、いかりやの著書『だめだこりゃ』によれば、いかりやと井澤健ともに「荒井の後釜は志村しかいない」と考えていたとの記述があり、これらの経緯については矛盾点や諸説がある。
  7. ^ 例:コント タイガーマスク
  8. ^ 高木が話した伝播元である北関東のうち群馬栃木は志村姓が多い。他には甲信越3県も志村姓の多い県である。これは志村一族のルーツが甲斐を発祥とするとされ、元甲斐武田氏家臣の志村又左衛門が志村氏の先祖であるという。志村又左衛門は天正10年(1582年)3月の武田氏滅亡後は徳川家康に臣従し、『甲斐国志』によれば八王子千人同心頭として関東へ移住したとのこと。なお、新潟県には志村姓も多いが「碇矢姓の発祥の地」と書籍で公表される程、碇矢姓も多い(いかりや浩一著『親父の遺言』より)。
  9. ^ もっともドリフターズのメンバーはテレビでのコメディアン(お笑いタレント)路線とは別に松竹および東宝で製作・公開された映画に主演俳優として出演しており、正式加入前の付き人時代にたびたびチョイ役で出演している。出演作品のオープニングには、本名の志村康徳名義でクレジットされている(2018年10月からBS11で放映が始まったドリフターズ映画の番宣では、志村の出演作だと「この人も出演!」と、登場シーンをピックアップする形で紹介されている)。
  10. ^ 「ドリフのミュージックジャンボリー」でギターとキーボードを弾く志村、キーボードを弾く高木の映像が確認できる。
  11. ^ 志村が観客から失敬してきたスイカを、いかりやが一緒になって食べてしまったりなど。
  12. ^ 志村が自身のブログで明かしている(Kens BLOG「さすが」(2009年5月4日))。また、2009年2月9日放送『しゃべくり007』スペシャル内や『となりのマエストロ』の記者会見(志村けんが激励「『欧米か!』一生涯やれ」 - スポーツ報知(ウェブ魚拓)(2009年10月5日))などでも同様の発言があった。
  13. ^ エッセイ『変なおじさん』によると、志村に限らずドリフのコントは言葉よりも動きによる笑いに重点を置いていたため、日本語のあまり通じない外国人にも受けが良かったとのこと。これと同様のことは、いかりやの自伝『だめだこりゃ』でも説明されている。
  14. ^ もともとドリフ加入後最初に生み出したギャグだったが、当時は評価されず、東村山音頭でブレイクしてから一般に日の目を見るようになった。

出典

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  6. ^ たけしに加藤茶が明かした志村けんがドリフに加入した裏事情
  7. ^ 高木ブー85歳今だから語る「長さんは僕にだけ、愚痴をこぼした」
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  10. ^ 日刊スポーツ』.  2004年12月8日付. 芸能面.
  11. ^ 志村けん「Ken's Blog」『私事ですいません』11月25日更新
  12. ^ 志村けんの母死去 96歳朝日新聞デジタル 2015年11月25日
  13. ^ 志村けんの母死去、96歳 口癖は「結婚どうすんだ?」SponichiAnnex 2015年11月25日 Archived 2015年12月22日, at the Wayback Machine.
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  16. ^ 北日本新聞 2016年8月20日付35面『志村けんさん肺炎で入院』より
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  48. ^ “志村けんが期間限定で東京スカパラダイスオーケストラ加入、パートは三味線”. お笑いナタリー. (2016年7月12日). http://natalie.mu/owarai/news/194157 2016年7月12日閲覧。 

関連項目

ザ・ドリフターズ

その他

外部リンク