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'80年未来をこの手に!

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
80年未来をこの手に!
ジャンル 特別番組
出演者 西田敏行
藤真利子
熊谷真実
ザ・ドリフターズ
ほか
製作
制作 民放テレビ92社
(幹事局:TBS
放送
放送国・地域日本の旗 日本
放送期間1980年1月1日
放送時間1:00 - 2:25
放送分85分
回数1

特記事項:
ライオン株式会社一社提供番組。なお、びわ湖放送はネットせず。
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『'80年未来をこの手に!』(はちじゅうねん みらいをこのてに)は、1980年昭和55年)1月1日1:00 - 2:25に生放送された特別番組である。

概要

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「科学と人間の理想的な結びつきに焦点を当て(中略)八〇年代の人類の幸福と世界の平和を考えていく[1] 」ことを趣旨に、『ライオンスペシャル』と冠してライオン株式会社1社単独協賛番組[注釈 1]放送された[2]

1979年昭和54年)12月31日 - 1980年1月1日をまたいだ「ゆく年くる年[注釈 2]」の第2部的な位置づけに相当する。TBS[注釈 3]を制作幹事局とし、日本民間放送連盟加盟のテレビ局のうちびわ湖放送以外の92局共同制作による生放送であった[注釈 4]

番組内容として、スペースシャトルHSST・各種ロボットといった「新技術」の紹介および実演、ジョンソン宇宙センターからの生中継、ザ・ドリフターズによるコント等が設定されていた[2][4]

びわ湖放送のネット拒否

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当時広く使用されていたリン酸塩含有の合成洗剤琵琶湖水質汚染に繋がると問題になっており、1979年10月には滋賀県議会で『滋賀県琵琶湖の富栄養化の防止に関する条例』(通称:琵琶湖条例)が制定された。これを受けて、びわ湖放送の大株主である滋賀県が、県民感情を考えてネット受けを中止するよう働きかけた[5]

びわ湖放送は当初ネット受けをする方針で、1979年11月末の年末年始最終編成案にも盛り込まれていたという[5]が、急遽ネット受けを中止した。当時の放送業界では「たった一局の反乱」と呼ばれた。番組冒頭、司会の西田敏行が「全国の皆さんあけましておめでとうございます。全民放92局を結んでお送りします」と述べたが、当時の全民放は93局であり、嘘を承知の挨拶となった[5]

びわ湖放送では同日、『ゆく年くる年』の後に1:00からミニ番組『わがまち』を放送した後、1:04に放送を終了した。

もっとも、滋賀県は関西広域圏に含まれているため、毎日放送・朝日放送(現:朝日放送テレビ)・関西テレビよみうりテレビや、独立局の近畿放送など、周辺府県の視聴可能なテレビ局によって本番組を視聴できた。

なお、ライオンはこの騒動の4か月後、当時の主力洗剤「トップ」の無リンバージョンを発売している。

出演者

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その他

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本放送から44年後の2024年4月13日にTBS系列で放送された『この歌詞が刺さった!グッとフレーズ 春…出会いと別れに刺さる歌詞SP』で、冒頭部分の一部が放送された。

脚注

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注釈

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  1. ^ 同日(1980年1月1日)、ライオン歯磨とライオン油脂が対等合併して「ライオン株式会社」が発足した(法人格は、ライオン歯磨を継承)。
  2. ^ この年度の幹事局は、東京12チャンネル(現・テレビ東京)。
  3. ^ 当時は、東京放送のテレビセクション。
  4. ^ ライオンの社史においても、「全国民放92局の大ネットを編成」して、放送業界から「電波ジャック」と大いに話題になった旨が記載されている[2](なお、年表では「全国91局生放送」と誤って表記されている[3])。

出典

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  1. ^ 毎日新聞1979年12月31日付朝刊(東京本社版)、18頁
  2. ^ a b c ライオン 2014, p. 115.
  3. ^ ライオン 2014, p. 426.
  4. ^ 毎日新聞1979年12月31日付朝刊(東京本社版)、6頁
  5. ^ a b c メディア総合研究所 2005, p. 45.

出典

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  • メディア総合研究所 編『放送中止事件50年 : メディアは何を伝えることを拒んだか』花伝社 , 共栄書房 (発売)〈メディア総研ブックレット ; No.10〉、2005年。ISBN 9784763404442 
  • ライオン株式会社社史編纂委員会 編『ライオン120年史』ライオン、2014年。 NCID BB16147177 
  • 毎日新聞縮刷版・1979年12月
  • 広告景気年表(電通) ※1980年の項