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[[苫小牧駒澤大学]]教授の[[石純姫]]らの研究によると、[[和人]]の本格的な[[北海道]]への入植がはじまる以前の幕末から明治初期にすでに[[朝鮮人]]の[[蝦夷]]への定住が進んでおり、アイヌとの通婚が行われていたとする資料が発見されている<ref>[[北海道立文書館]]から明治16年、札幌懸勧業課農務係が朝鮮人に対して鳥獣猟を許可する公文書(「本邦在留朝鮮人鳥獣猟免状ヲ請求スル時ハ遊猟免状ヲ下付シ総テ内国人同様ニ処分スルトス」)が発見された事実が根拠。(石純姫2017、석순희2019、岡本雅享2018)。</ref><ref>1870年[[平取町]]の[[アイヌコタン]]で朝鮮人男性とアイヌの女性との間に長子(男子)が誕生したことを記録する[[戸籍]]が残っている。その子は後にロシア人(父親)とサハリンアイヌ(母親)の間の混血の女性と結婚している(石純姫2017、석순희2019)</ref>。1911年には北海道の朝鮮人の人口は公式には6人のみであったが[[三井]]や[[三菱]]系列の炭鉱<ref>藤井暢七郎1935「北海道に於ける石炭鑛業の現状」『燃料協会誌』14(8), 912-37</ref>が朝鮮人労務者を集めたため、1917年に1706人、1928年には2790人に急増している<ref>石純姫2017</ref>。1938年になり[[国家総動員法]]<ref>統制法規研究會編1931『國家總動員法規總覽』統制法規</ref>が適用される。1944年9月には朝鮮人に対しても[[日本統治時代の朝鮮人徴用|労務動員]]<ref>朝鮮総督府企画部編纂1996『朝鮮時局関係法規』柏書房</ref><ref>山田昭次, 古庄正, 樋口雄一著2005『朝鮮人戦時労働動員』岩波書店</ref>が定められ強制的な[[日本統治時代の朝鮮人徴用|朝鮮人労務動員]]<ref>朝鮮総督府企画部編纂1996『朝鮮時局関係法規』柏書房</ref>が行われた。これら朝鮮人労務者に対しては低賃金で過酷で危険な労務が強制され<ref>[[徐京植]]1989『皇民化政策から指紋押捺まで――在日朝鮮人の「昭和史」』[[岩波ブックレット]](p.13)によれば賃金も支払われなかった事例も報告されている。</ref>、やむなく現場を脱走した朝鮮人は捉えられ<ref>「移動防止令」によって職場を離れることは禁じられていた([[文京洙]]他2015『在日朝鮮人――歴史と現在』[[岩波新書]]、p.71)</ref>、厳しく罰せられ、暴行を受け、その結果死に至る事例もあった<ref>[[山田昭次]],[[古庄正]],[[樋口雄一]]著2005『朝鮮人戦時労働動員』[[岩波書店]]</ref><ref>[[文京洙]]他2015『在日朝鮮人――歴史と現在』岩波新書、p.68 </ref><ref>[[水野直樹]]他2001『日本の植民地支配――肯定・賛美論を検証する』岩波ブックレット、p.40 </ref><ref>徐京植1989『皇民化政策から指紋押捺まで――在日朝鮮人の「昭和史」』岩波ブックレット、10ff.</ref><ref>[[小池喜孝]]『鎖塚――自由民権と囚人労働の記録』[[現代史出版会]]、p.231</ref>。これに対しアイヌがこれら朝鮮人を積極的に官憲から匿い、保護した歴史的事実が確認されている<ref>石純姫はこれはかつて[[北米]]において、脱走した黒人奴隷を[[先住民]]の米国[[インディアン]]が匿った事例と類似性があるとしている(石純姫2017、석순희2019)</ref>。こういった行為はアイヌ側にとって自分たちの政治的な立場を危うくする危険を伴うものであったが、被差別、被抑圧<ref>[[小笠原信之]]2004『アイヌ差別問題読本』[[緑風出版]]</ref>という共通の境遇に共感し両者は連帯したのである。これが縁となってアイヌと朝鮮人の血縁が結ばれ、その子孫および朝鮮人が今日、[[アイヌ文化]]の伝承の重要な担い手となっている現実がある<ref>「アイヌ舞踊、私も 韓国人女性、継承へ意気込み 釧路・阿寒湖」『[[朝日新聞]]』2018.8.17</ref><ref>石純姫2010「北海道・穂別における朝鮮人の労務動員とアイヌ民族のつながり--重層的なアイデンティティの葛藤と韓国での受容状況について」『環太平洋・アイヌ文化研究』8:41-51</ref><ref>石純姫2016「帝国と植民地における先住民と奴隷(強制的労務者) : 東アジアと北・中南米における比較」『苫小牧駒澤大学紀要』(31), 37,39-62, </ref><ref>石純姫2014「近代期朝鮮人の移住と定住化の形成過程とアイヌ民族---淡路・鳴門地区から日高への移住に関して」『アジア太平洋レビュー』12:1-24</ref><ref>石純姫2007「前近代期の朝鮮人の移動に関する一考察--北海道における在日朝鮮人の形成過程とサハリンアイヌの関係を中心に」『苫小牧駒澤大学紀要』18:145-66</ref><ref>石純姫2012「アイヌ民族と朝鮮人をめぐる記憶と表象 : 日高地方を中心に」『大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター年報』(9), 41-48 </ref><ref>石純姫2017『朝鮮人とアイヌ民族の歴史的つながり』([[寿郎社]])</ref><ref>[[岡本雅享]]2018.12書評『朝鮮人とアイヌ民族の歴史的つながり』石純姫著([[寿郎社]])、2017年[http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/publication_2018-12.pdf]</ref><ref>[[석순희]]2019『조선인과 아이누 민족의 역사적 유대 제국의 선주민·식민지 지배의 중층성(重層性)』[[어문학사]] ISBN13 9788961849012 </ref>。
[[苫小牧駒澤大学]]教授の[[石純姫]]らの研究によると、[[和人]]の本格的な[[北海道]]への入植がはじまる以前の幕末から明治初期にすでに[[朝鮮人]]の[[蝦夷]]への定住が進んでおり、アイヌとの通婚が行われていたとする資料が発見されている<ref>[[北海道立文書館]]から明治16年、札幌懸勧業課農務係が朝鮮人に対して鳥獣猟を許可する公文書(「本邦在留朝鮮人鳥獣猟免状ヲ請求スル時ハ遊猟免状ヲ下付シ総テ内国人同様ニ処分スルトス」)が発見された事実が根拠。(石純姫2017、석순희2019、岡本雅享2018)。</ref><ref>1870年[[平取町]]の[[アイヌコタン]]で朝鮮人男性とアイヌの女性との間に長子(男子)が誕生したことを記録する[[戸籍]]が残っている。その子は後にロシア人(父親)とサハリンアイヌ(母親)の間の混血の女性と結婚している(石純姫2017、석순희2019)</ref>。1911年には北海道の朝鮮人の人口は公式には6人のみであったが[[三井]]や[[三菱]]系列の炭鉱<ref>藤井暢七郎1935「北海道に於ける石炭鑛業の現状」『燃料協会誌』14(8), 912-37</ref>が朝鮮人労務者を集めたため、1917年に1706人、1928年には2790人に急増している<ref>石純姫2017</ref>。1938年になり[[国家総動員法]]<ref>統制法規研究會編1931『國家總動員法規總覽』統制法規</ref>が適用される。1944年9月には朝鮮人に対しても[[日本統治時代の朝鮮人徴用|労務動員]]<ref>朝鮮総督府企画部編纂1996『朝鮮時局関係法規』柏書房</ref><ref>山田昭次, 古庄正, 樋口雄一著2005『朝鮮人戦時労働動員』岩波書店</ref>が定められ強制的な[[日本統治時代の朝鮮人徴用|朝鮮人労務動員]]<ref>朝鮮総督府企画部編纂1996『朝鮮時局関係法規』柏書房</ref>が行われた。これら朝鮮人労務者に対しては低賃金で過酷で危険な労務が強制され<ref>[[徐京植]]1989『皇民化政策から指紋押捺まで――在日朝鮮人の「昭和史」』[[岩波ブックレット]](p.13)によれば賃金も支払われなかった事例も報告されている。</ref>、やむなく現場を脱走した朝鮮人は捉えられ<ref>「移動防止令」によって職場を離れることは禁じられていた([[文京洙]]他2015『在日朝鮮人――歴史と現在』[[岩波新書]]、p.71)</ref>、厳しく罰せられ、暴行を受け、その結果死に至る事例もあった<ref>[[山田昭次]],[[古庄正]],[[樋口雄一]]著2005『朝鮮人戦時労働動員』[[岩波書店]]</ref><ref>[[文京洙]]他2015『在日朝鮮人――歴史と現在』岩波新書、p.68 </ref><ref>[[水野直樹]]他2001『日本の植民地支配――肯定・賛美論を検証する』岩波ブックレット、p.40 </ref><ref>徐京植1989『皇民化政策から指紋押捺まで――在日朝鮮人の「昭和史」』岩波ブックレット、10ff.</ref><ref>[[小池喜孝]]『鎖塚――自由民権と囚人労働の記録』[[現代史出版会]]、p.231</ref>。これに対しアイヌがこれら朝鮮人を積極的に官憲から匿い、保護した歴史的事実が確認されている<ref>石純姫はこれはかつて[[北米]]において、脱走した黒人奴隷を[[先住民]]の米国[[インディアン]]が匿った事例と類似性があるとしている(石純姫2017、석순희2019)</ref>。こういった行為はアイヌ側にとって自分たちの政治的な立場を危うくする危険を伴うものであったが、被差別、被抑圧<ref>[[小笠原信之]]2004『アイヌ差別問題読本』[[緑風出版]]</ref>という共通の境遇に共感し両者は連帯したのである。これが縁となってアイヌと朝鮮人の血縁が結ばれ、その子孫および朝鮮人が今日、[[アイヌ文化]]の伝承の重要な担い手となっている現実がある<ref>「アイヌ舞踊、私も 韓国人女性、継承へ意気込み 釧路・阿寒湖」『[[朝日新聞]]』2018.8.17</ref><ref>石純姫2010「北海道・穂別における朝鮮人の労務動員とアイヌ民族のつながり--重層的なアイデンティティの葛藤と韓国での受容状況について」『環太平洋・アイヌ文化研究』8:41-51</ref><ref>石純姫2016「帝国と植民地における先住民と奴隷(強制的労務者) : 東アジアと北・中南米における比較」『苫小牧駒澤大学紀要』(31), 37,39-62, </ref><ref>石純姫2014「近代期朝鮮人の移住と定住化の形成過程とアイヌ民族---淡路・鳴門地区から日高への移住に関して」『アジア太平洋レビュー』12:1-24</ref><ref>石純姫2007「前近代期の朝鮮人の移動に関する一考察--北海道における在日朝鮮人の形成過程とサハリンアイヌの関係を中心に」『苫小牧駒澤大学紀要』18:145-66</ref><ref>石純姫2012「アイヌ民族と朝鮮人をめぐる記憶と表象 : 日高地方を中心に」『大阪経済法科大学アジア太平洋研究センター年報』(9), 41-48 </ref><ref>石純姫2017『朝鮮人とアイヌ民族の歴史的つながり』([[寿郎社]])</ref><ref>[[岡本雅享]]2018.12書評『朝鮮人とアイヌ民族の歴史的つながり』石純姫著([[寿郎社]])、2017年[http://www.keiho-u.ac.jp/research/asia-pacific/pdf/publication_2018-12.pdf]</ref><ref>[[석순희]]2019『조선인과 아이누 민족의 역사적 유대 제국의 선주민·식민지 지배의 중층성(重層性)』[[어문학사]] ISBN 9788961849012 </ref>。


==墓地の盗掘と遺骨返還==
==墓地の盗掘と遺骨返還==
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* {{Cite web |author=[[篠田謙一]] |url=http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainu/dai5/5siryou.pdf |format=PDF|title=自然人類学から見たアイヌ民族 |publisher=首相官邸 |date=2009-02-26 |accessdate=2019-03-17 |ref={{SfnRef|篠田|2009}} }}
* {{Cite web |author=[[篠田謙一]] |url=http://www.kantei.go.jp/jp/singi/ainu/dai5/5siryou.pdf |format=PDF|title=自然人類学から見たアイヌ民族 |publisher=首相官邸 |date=2009-02-26 |accessdate=2019-03-17 |ref={{SfnRef|篠田|2009}} }}
* {{Cite web |author=[[日本学術会議]] 地域研究委員会 人類学分科会 |url=http://www.scj.go.jp/ja/info/kohyo/pdf/kohyo-21-h133-1.pdf |format=PDF|title=報告 アイヌ政策のあり方と国民的理解 |date=2011-09-15 |publisher=日本学術会議 |accessdate=2019-03-17 |ref={{SfnRef|日本学術会議|2011}} }}
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*[[石純姫]]2017『朝鮮人とアイヌ民族の歴史的つながり』([[寿郎社]])ISBN9784902269994
*[[石純姫]]2017『朝鮮人とアイヌ民族の歴史的つながり』([[寿郎社]])ISBN 9784902269994
* [[本多勝一]]『先住民アイヌの現在』朝日文庫 1993年 ISBN 4-02-260776-9
* [[本多勝一]]『先住民アイヌの現在』朝日文庫 1993年 ISBN 4-02-260776-9
* [[本多勝一]]『アイヌ民族』朝日文庫 2001年 ISBN 4-02-261357-2
* [[本多勝一]]『アイヌ民族』朝日文庫 2001年 ISBN 4-02-261357-2
*[[小川隆吉]]2015『おれのウチャシクマ―あるアイヌの戦後史』寿郎社ISBN-10: 490226983X
*[[小川隆吉]]2015『おれのウチャシクマ―あるアイヌの戦後史』寿郎社ISBN 490226983X
*[[小熊英二]]1998『「日本人」の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで』[[新曜社]] ISBN-10: 4788506483
*[[小熊英二]]1998『「日本人」の境界―沖縄・アイヌ・台湾・朝鮮 植民地支配から復帰運動まで』[[新曜社]] ISBN 4788506483
*[[皇甫康子]]2016『家族写真をめぐる私たちの歴史: 在日朝鮮人・被差別部落・アイヌ・沖縄・外国人女性』[[御茶の水書房]] ISBN-10: 4275020472
*[[皇甫康子]]2016『家族写真をめぐる私たちの歴史: 在日朝鮮人・被差別部落・アイヌ・沖縄・外国人女性』[[御茶の水書房]] ISBN 4275020472


* [[宮島利光]]『アイヌ民族と日本の歴史』三一新書 1996年 ISBN 4-380-96011-0
* [[宮島利光]]『アイヌ民族と日本の歴史』三一新書 1996年 ISBN 4-380-96011-0

2019年8月29日 (木) 00:10時点における版

日本人 > アイヌ
アイヌ
アイヌ民族
総人口
北海道内における調査(平成25年)[1]では16,786人であるが、詳細は不明
居住地域
日本の旗 日本北海道東京都他)
ロシアの旗 ロシア樺太カムチャツカ地方
言語
日本語アイヌ語ロシア語
宗教
自然崇拝・一部は神道仏教ロシア正教会
の信仰
関連する民族
大和民族琉球民族

アイヌは、北海道を主な居住圏とする先住民であり[2]少数民族である[3]。独自の文化を有する[4]。かつては北海道のみならず、北は樺太、東は千島列島全域、南は本州北端にまたがる地域に居住していた[5]。19世紀に列強の国々が領土拡張するにあたり、多くの先住民族が編入されたが、19世紀中頃にはアイヌも同様の運命をたどった[6]。現在、日本とロシアに居住し、日本国内では北海道地方の他に首都圏等にも広く居住している。母語アイヌ語日本語とは系統が全く異なる。アイヌは縄文人の遺伝子を色濃く受け継ぐ民族とされている。

1878年(明治11年)、
イギリス人旅行家・イザベラ・バードが北海道の日高地方でスケッチしたアイヌ民族の男性。

アイヌは、元来は物々交換による交易を行う狩猟採集民族である。文字を持たない民族であったが[注 1]、生業から得られる毛皮海産物などをもって、アムール川下流域や沿海州カムチャツカ半島南部の地域と交易を行い、永くオホーツク海地域一帯に経済圏を有していた[7]

1855年2月7日安政元年12月21日)の当時のロシア帝国との日露和親条約での国境線決定により、当時の国際法の下[8][9]、各々の領土が確定し編入した以降は、大半が日本国民、一部がロシア国民となった。2018年12月、ロシアのプーチン大統領は、クリール諸島(北方領土を含む千島列島)などに住んでいたアイヌ民族をロシアの先住民族に認定する考えを示した[10]

呼称

アイヌ

アイヌの一族(1863年から1870年代)
樺太東海岸のアイという集落の長・バフンケ(日本語名・木村愛吉 1855~1919?)。ブロニスワフ・ピウスツキに撮影された[11]
シャクシャイン時代の北海道

アイヌとはアイヌ語で「人間」を意味する言葉で、もともとは「カムイ」(自然界の全てのものに心があるという精神に基づいて自然を指す呼称)に対する概念としての「人間」という意味であったとされている。世界の民族集団でこのような視点から「人間」をとらえ、それが後に民族名称になっていることはめずらしいことではない[注 2]。これが異民族に対する「自民族の呼称」として意識的に使われだしたのは、大和民族和人シサム・シャモ[注 3])とアイヌとの交易量が増加した17世紀末から18世紀初めにかけての時期とされている。

アイヌの社会では、本来は「アイヌ」という言葉は行いの良い人にだけ使われた。丈夫な体を持ちながらも働かず、生活に困るような人物は、アイヌと言わずにウェンペ(悪いやつ)と言う。

地域によって文化や集団意識が異なり、北海道太平洋岸東部に住したアイヌは「メナシクル」と称し、同様に太平洋岸西部のアイヌは「シュムクル」(シュムは西を意味する)、千島のアイヌは「クルムセ」もしくは「ルートムンクル」などと呼ばれるなど居住地域ごとに互いを呼びわけていた。

大和民族(和人)は、アイヌのことを「蝦夷」、幕末期には「土人(その当時は「現地人」のような意味の言葉であったが、近代には次第に侮蔑感とともに使われるようになった[12])」とも呼び、「アイノ」(=アイヌ)と呼んでいた。 その他にも一般的には「アイヌ人」「アイヌの人々」「アイヌ民族」など様々な呼び名があり、歴史的文書にも色々な言い方がされている。

ウタリ

ウタリの本来の意味は、アイヌ語で人民・親族・同胞・仲間であるが[13]、長年の差別の結果、「アイヌ」という言葉に忌避感を持つ人が多いことから、アイヌを指す言葉として用いられることがあり、行政機関の用語としても長年使われてきた。

蝦夷

中世以降、大和民族(和人)はアイヌを蝦夷(えぞ)、北海道・樺太を蝦夷地と称してきた[14]

朝廷の「蝦夷征伐」など、古代からの歴史に登場する「蝦夷」、あるいは「遠野物語」に登場する「山人(ヤマヒト)」をアイヌと捉える向きもあったが、アイヌと古代の蝦夷との関連については未だに定説はなく、日本史学においては一応区別して考えられている。

東北の蝦夷(えみし)は和人により古代から征討の対象とされ(蝦夷征討)、鎌倉時代までには東北地方北端まで平定され和人と同化した。東北地方は弥生時代から稲作文化が流入していた一方、アイヌ語地名も散見され、古墳時代にアイヌが寒冷化により東北地方に南下するなど、歴史的にも和人、アイヌの混交の地であったとも考えられている。一方で北海道、樺太は室町時代に和人の入植が始まるまでは、阿倍比羅夫による征討の試みはあったものの中央政権からは化外の地と見なされていた。

また、中国東北部の民族からはアイヌは骨嵬(クギ)などと呼ばれてきた。

アイヌのなりたちをめぐる学説

続縄文・擦文文化

アイヌの男性(1880年)
髭を蓄えたアイヌの男性

アイヌの祖先は北海道在住の縄文人であり、続縄文時代擦文時代を経てアイヌ文化の形成に至ったという説がある[要出典]

他にはアイヌは大陸や樺太から来て、オホーツク人や擦文文化人を排除・混血しながら北海道に広がったという説もある。この説は、アイヌの熊送りの儀式が北海道縄文人や東北地方には見られず、ユーラシア大陸の狩猟民族の典型的な宗教文化であることと符合する。

擦文文化消滅後、文献に近世アイヌと確実に同定できる集団が出現するまでの経過は、考古学的遺物、文献記録ともに乏しく、その詳細な過程については不明な点が多い。これまでアイヌの民族起源や和人との関連については考古学・比較解剖人類学・文化人類学医学言語学などからアプローチされ、地名に残るアイヌ語の痕跡、文化(イタコなど)、言語の遺産(マタギ言葉、東北方言にアイヌ語由来の言葉が多い)などから、祖先または文化の母胎となった集団が東北地方にも住んでいた可能性が高いと推定されてきた[要出典]。近年遺伝子 (DNA) 解析が進み、縄文人や渡来人とのDNA上での近遠関係が明らかになってきて、さらに北海道の縄文人はアムール川流域などの北アジアの少数民族との関連が強く示唆されている[15][16][17][18]擦文時代以降の民族形成については、オホーツク文化人(ニヴフと推定されている[17][18])の熊送りなどに代表される北方文化の影響と、渡島半島南部への和人の定着に伴う交易等の文物の影響が考えられている。

自然人類学によるアイヌの特徴と他集団との関係

自然人類学から見たアイヌは、アイヌも本土日本人も、縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つとされる。南方系の縄文人、北方系の弥生人という「二重構造説」で知られる埴原和郎は、アイヌも和人も縄文人を基盤として成立した集団で、共通の祖先を持つが、本土人は、在来の縄文人が弥生時代に大陸から渡来した人々と混血することで成立した一方、アイヌは混血せず、縄文人がほとんどそのまま小進化をして成立したとされる[19]。アイヌは、大和民族に追われて本州から逃げ出した人々ではなく、縄文時代以来から北海道に住んでいた人々の子孫とされる[19]

身体的特徴

アイヌは古モンゴロイドに属し、周囲のモンゴロイドと大きく異なる形質を持っており、人種的にはアイノイド(Ainoid)と呼ばれる。和人など周囲のモンゴロイドと比較して、北海道アイヌは次のような特徴をもつ。

  1. 皮膚の色は、黄色みの乏しい明褐色
  2. 新生児の仙骨部の皮膚の色素斑(児斑、蒙古斑)がまれ(11%)
  3. 体毛が比較的太く、長い
  4. 頭毛が波状を呈し、断面形が扁平
  5. 脳頭蓋の前後径が大きく、頭長幅示数が長頭に近い中頭型(76.6%)
  6. 顔高が低く、頬骨弓幅が広い
  7. 眉稜、鼻骨の隆起が強く、目はくぼみ、上瞼は二重瞼が多く、蒙古ひだが少ない(5%)
  8. 耳垂が発達し、癒着型は少なく、遊離型がほとんど(95%)
  9. 耳垢は湿型が非常に多い(87%)
  10. 歯の咬合型式は鉗子状が多い
  11. 身長は和人と比べると低く、体の比例は上肢長、下肢長が相対的に長く、胴の長さが比較的短い
  12. 手の指紋は渦状紋が比較的少なく蹄状紋が多い

以上に挙げた特徴は、北海道アイヌ、樺太アイヌ、千島アイヌにもほぼ共通して認められるが、樺太アイヌは北海道アイヌに比べてやや顔高が大きく、千島アイヌはやや低身で短頭という傾向がある。

頭毛の形状、体毛の発達、瞼の形態、指紋型や湿型耳垢の頻度などでは、ネグロイドコーカソイドオーストラロイドなどとの共通性が認められるが、様々な遺伝子の研究により、アイヌは遺伝的にこれらの人種とは隔たりが長く、東アジアのモンゴロイドと系統的に最も近いことがわかっている。アイヌがモンゴロイドでありながら他人種に似たような形質的特徴を示すのは、アイヌが新モンゴロイドの固有派生形質を獲得していない、すなわち現生人類の祖先形質を残しているためである。形質的には古モンゴロイド(アイノイド)に属すとされ、また縄文人もアイノイドに属していたと考えられる。

これまでアイヌの起源論については考古学・比較解剖人類学・文化人類学医学言語学などからアプローチされてきたが、近年DNA解析が進み、遺伝的にはコーカソイドの影響は皆無であり、完全にモンゴロイドの系統に属することが判明した。

ただし、明治以来、アイヌは他のモンゴロイドに比べて、彫りが深い、体毛が濃い、四肢が発達しているなどの身体的特徴を根拠として、人種論的な観点からコーカソイドに近いという説が広く行き渡っていた時期があった。20世紀のアイヌ語研究者の代表とも言える金田一京助も、この説の影響を少なからず受けてアイヌ論を展開した。

遺伝子調査

近年の遺伝子調査では、アイヌとDNA的にもっとも近いのは琉球人で、次いで本土日本人であり、本土日本人とアイヌ人の共通性は約30%程である。他の30人類集団のデータとあわせて比較しても、日本列島人(アイヌ、琉球人、本土日本人)の特異性が示された。これは、現在の東アジア大陸部の主要な集団とは異なる遺伝的構成、おそらく縄文人の系統を日本列島人が濃淡はあるものの受け継いできたことを示している[20]。アイヌ集団にはニヴフなど本土日本人以外の集団との遺伝子交流も認められ、これら複数の交流がアイヌ集団の遺伝的特異性をもたらしたとされる[21]

アイヌにはATLのレトロウイルス(HTLV-1)が日本列島内でも高頻度で観察される事から、縄文人の血が濃く残っていると考えられる[22]

アイヌ人の父系系譜を示すY染色体ハプログループの構成比については、日本列島固有のハプログループD1bが87.5%(うちD1b*が13/16=81.25%、D1b1aが1/6=6.25%)と大半を占める。ハプログループD1bは日本列島以外ではほぼ確認されず、縄文人特有の系統であったと考えられている。これは琉球人で50%弱、本土日本人で30%ほどであるため、アイヌ人は現代日本人の中では縄文人の遺伝子を最も色濃く引き継いでいると言える。 他に北方シベリアから樺太を経て南下してきたと考えられるC2が2/16=12.5%と報告されている[23]

北海道縄文人集団

母系系譜を示すミトコンドリアDNAを用いた系統解析により、北海道の縄文・続縄文時代人の系統の頻度分布は、本土日本人を含む現代東アジア人集団における頻度分布と大きく異なっている[24][15]。また坂上田村麻呂侵攻以前の東北地方古墳時代人に北海道縄文・続縄文人に多くみられる遺伝子型が観察され、東北地方縄文人についても北海道縄文・続縄文人と同様の母系を持つ可能性が指摘され、東北地方縄文時代人と北海道縄文時代人DNAと比較した結果、ハプログループN9bおよびM7aが北日本の縄文人のミトコンドリアDNAの遺伝子型の中心とされた[15]

北海道縄文人集団にはN9b、D10、G1b、M7aの4種類のハプログループが観察されている[16]。このうちN9bの頻度分布は64.8%と極めて高いのが特徴であるが、N9bはアムール川下流域の先住民の中に高頻度で保持されている[16]。D10も、アムール川下流域の先住民ウリチにみられ、主に北東アジアに見られるハプログループGのサブグループG1bはカムチャッカ半島先住民に高頻度でみられるが、現代日本人での報告例はない[16]

オホーツク人・カムチャツカ半島先住民族との関連

アイヌ(左)とニヴフを描いた絵(1862年)

近年の研究で、オホーツク人がアイヌ民族と共通性があるとの研究結果も出ている。樺太サハリン)起源とされるオホーツク文化5世紀ごろ北海道に南下したが10世紀ごろ姿を消している[25]

2009年、北海道のオホーツク文化遺跡で発見された人骨が、現在では樺太北部やシベリアアムール川河口一帯に住むニヴフに最も近く、またアムール川下流域に住むウリチ、さらに現在カムチャツカ半島に暮らすイテリメン族コリャーク人とも祖先を共有することがDNA調査でわかった[25][17][18]。また、オホーツク人のなかに縄文系には無いがアイヌが持つ遺伝子のタイプであるハプログループY遺伝子が確認され、アイヌとオホーツク人との遺伝的共通性も判明した[25][17][18]。アイヌ民族は縄文人や本土日本人にはないハプログループY遺伝子を20%の比率で持っていることが過去の調査で判明していたが、これまで関連が不明だった[17][18]

天野哲也北海道大学教授(考古学)は「アイヌは縄文人の単純な子孫ではなく、複雑な過程を経て誕生したことが明らかになった」とコメントした[25]増田隆一北大准教授は「オホーツク人と、同時代の続縄文人ないし擦文人が通婚関係にあり、オホーツク人の遺伝子がそこからアイヌ民族に受け継がれたのでは」と推測した[17][18]。この北大研究グループは、アイヌ民族の成り立ちに続縄文人・擦文人と、オホーツク人の両者がかかわったと考えられると述べた[17][18]

歴史

人類学的には日本列島の縄文人と近く、北海道にあった擦文文化を基礎に、オホーツク文化本州の文化を摂取して生まれたと考えられている。本州では農耕文化が始まるが、北海道では狩猟採集の文化が継続し、7世紀には擦文文化が始まる[14]。擦文文化やオホーツク文化はアイヌ文化に影響を与えている[14]。13~14世紀になると、農耕も開始され、約3万8千年前に海を渡った大和民族との交易も行われた[14]

またアイヌからオロッコと呼ばれたウィルタともアイヌは交易していた。1457年には大和民族・アイヌ間でコシャマインの戦いが生じ、勝利した蠣崎氏が台頭した[14]。蠣崎氏を祖先とした松前藩はアイヌとの交易を独占し、アイヌから乾燥ニシン・獣皮・の羽(矢羽の原料)・海草やからアイヌに伝わった衣服(蝦夷錦)などを輸入し、鉄製品・漆器木綿などで支払っていた[14]が、1669年シャクシャインの戦い後には、交易はアイヌにとって不利な条件となった[14]。江戸幕府はロシアからの軍事圧力に対抗して蝦夷地を幕府直轄地とした[14]

熊を檻から引き出し、ロープをかけて広場に連れ出す。右から、熊の世話係だった女性が従う。

明治2年(1869年)、蝦夷地は北海道と改称され、同時に開拓が本格的に開始される。屯田兵や一般の農民が次々と入植し、大和民族人口が増加した[14]。アイヌ人は「平民」として戸籍制度の中に組み入れられるが、「土人」とも呼ばれ、宗教儀礼や入墨耳環などアイヌ伝統の文化は「陋習」とみなされた。

同時に「旧土人学校」(アイヌ学校)が各地に設立され、教育は日本語で行われた[14]地租改正により大和民族に土地の所有権を奪われて移住を余儀なくされ、アイヌの伝統な生業である狩猟、漁撈も制限される過程で、生活も困窮の道をたどる。政府は勧農政策を実施し、1899年に制定された北海道旧土人保護法では土地の無償下付や農具の給付など優遇制度を実施したが、北海道は元来、農地に適していない土地が多く、また充分な農業指導が行われなかったために、アイヌの人々の生活改善は遅れた[14]

文化

宗教

アイヌの祭壇「ヌサ」。明治後期。
イオマンテを描いたアイヌ絵(『蝦夷島奇観』模写、平沢屏山筆、大英博物館蔵)

アイヌの宗教はアニミズムに分類されるもので、動植物、生活道具、自然現象、疫病などにそれぞれ「ラマッ」と呼ばれる魂が宿っていると考えた。この信仰に基づく儀礼として、「神が肉と毛皮を携えて人間界に現れた姿」とされる熊を集落で大切に飼育し、土産物を受け取った(殺した)上でその魂を持つ(カムイ)を天界に送り返す儀式イオマンテがある。祭壇はヌサとよばれ、ヒグマの頭骨が祀られた。

キリスト教

千島列島に住むアイヌ人はロシア正教会の神父コウンチェウスキーによって、1747年最初に正教に改宗する者が出た。北千島には聖堂が建てられ、ロシア人宣教師は狩猟民族であったアイヌと一緒の生活を送り、季節毎に島々を移動した。1800年代には、北千島の千島アイヌ160人全てが正教徒になっていた。その後、北千島は日本の領土になり、北千島の住民は色丹島に移住させられた。色丹島のアイヌに対して最初日蓮宗僧侶が改宗を試みたが失敗した。その後、政府に雇われたロシア正教会の神父が色丹島を訪れ、色丹島のアイヌ人はこれを歓迎し、手厚くもてなした[26]。 また、アイヌの父として知られる聖公会の宣教師ジョン・バチェラーは自身の遺稿の中で、アイヌが和人との混血が急速に進んでいることや、アイヌの子供が和人と同様に教育を受け、法の下に日本人となっていることから「一つの民族として、アイヌ民族は存在しなくなった[27]」と記述している。

建築

平取町立二風谷アイヌ文化博物館の外の復元チセ(住宅)の写真。二風谷、北海道
アイヌの高床式倉庫、「プー」。

アイヌの伝統的な家屋はチセとよばれる、茅葺の掘立柱建物である。家の周囲にはプー(高床式倉庫)、アシンル(便所)、ヘペレセッ(熊飼育用の檻)などが設けられ、数家族が寄り集まってコタン(集落)を営んでいた。

アイヌの集落にはチセの他に、チャシと呼ばれるなどで囲まれる空間が造営されることも多かった。造営の目的は未解明な部分が多いが、防御用のであったという説などがあり、これまでに北海道内で500箇所以上のチャシ跡が見つかっている。

衣装

白老町アイヌ民族博物館の職員。噴火湾沿岸地方の伝統衣装・ルウンペを着用する

アイヌの伝統衣装はアミプと呼ばれ、特にオヒョウシナノキの樹皮から取った繊維で織った生地で仕立てた衣装をアットゥシと呼ぶ。仕立ては和服に似ているが、筒袖で衽(おくみ)が無い。装飾として、木綿の生地をアップリケし、さらに刺繍を施すが、模様は北海道各地に系統だったものが存在する。道南地方、特に噴火湾沿岸地方では長方形に裁断した綿布をアップリケして刺繍した「ルウンペ」。日高地方では紺地の綿布に白い綿布をアップリケして、曲線を多用した模様を描いた「カパリアミプ」がある。また、綿布の流通が乏しかった石狩川の上流部や十勝地方では、生地に直に刺繍することで模様を描いた「チヂリ」が存在する。さらに繊維用の森林資源にも乏しかった千島列島では、鳥の皮で作られた外套「チカプウル」がある。

江戸時代中期以降は、和人との交易で入手した小袖陣羽織が、儀礼用の衣装として着用された。

ユーカラ

アイヌは伝統的に文字を使用せず、生活の知恵や歴史はすべて口承で伝承された。口承文芸としてはウエペケレ(散文の昔話)やユーカラ(叙事詩)がある。明治時代、アイヌ出身の知里幸恵がローマ字表記のユーカラと日本語訳を併記して紹介した『アイヌ神謡集』を出版したほか、金田一京助が長大なユーカラ研究を発表している。

現在、保存運動によって若手の語り手が育成されている。

古式舞踊

祭事や祝宴などで演じられた伝統的な踊りで、「ウポポ(歌)」に合わせた「リムセ(輪舞)」がよく知られている。地域によって曲目や舞い方は異なる。1984年に国の重要無形民俗文化財に指定され、2009年ユネスコ無形文化遺産に登録[28]。また、アイヌ刀を用いた剣の舞もある。

言語

アイヌの言語であるアイヌ語言語類型論上は、膠着語に属する日本語とは異なり、抱合語に分類される。北海道、樺太、千島列島に分布していたが、現在ではアイヌの移住に伴い日本の他の地方(主に首都圏)にも拡散している。しかし母語話者は極めて少なくなっており、ユネスコによって2009年2月に「極めて深刻」(critically endangered) な消滅の危機にあると分類された、危機に瀕する言語である[29][30]。危険な状況にある日本の8言語のうち唯一最悪の「極めて深刻」に分類された[注 4]。系統的には「孤立した言語」とされており、縄文時代の言語をそのまま残しているという説の他、縄文時代からの言語に加えて中世以降のオホーツク文化人(ニヴフ系)の言語の影響も大きく受けているという説もある。北海道はもとより、東北地方北部にもアイヌ語地名が多数残っていることから、かつては分布域が東北北部まで広がっていたと考えられている。

地理

歴史的なアイヌ人口
樺太のアイヌ(1903年)
千島アイヌと竪穴式住居

アイヌの伝統的な分布地は、北海道樺太千島列島カムチャツカ、東北地方北部である。なお、北海道千島列島に残る地名の多くは、アイヌ語の地名に当て字をしたものである。

1756年弘前藩勘定奉行であった乳井貢が、津軽半島漁業に従事していたアイヌに対し同化政策を実施。以後、本州からアイヌ文化が急速に失われる。

1875年樺太千島交換条約後、物資の補給と防衛上の理由から、千島のアイヌはそのほとんどが当地を領有した日本政府によって色丹島へ移住させられた。

1945年ソビエト連邦日本に参戦し、南樺太と千島列島を占拠、現地に居住していたアイヌは残留の意志を示したものを除き本国である日本に送還された[31]

人口

北海道のアイヌ人の分布地図 1999年

江戸時代のアイヌの人口は、記録上最大26800人であったが、天領とされて以降は感染症の流行などもあって減少した。

1897年のロシア国勢調査によればアイヌ語を母語とする1,446人がロシア領に居住していた[32]

現在、国勢調査ではアイヌ人の項目はなく、国家機関での実態調査は行われていないに等しい。そのため、アイヌ人の正確な数は不明である。

2006年の北海道庁の調査によると、北海道内のアイヌ民族は23,782人[33][14]となっており、支庁(現在の振興局)別にみた場合、胆振日高支庁に多い。なお、この調査における北海道庁による「アイヌ」の定義は、「アイヌの血を受け継いでいると思われる」人か、または「婚姻・養子縁組等によりそれらの方と同一の生計を営んでいる」人というように定義している。また、相手がアイヌであることを否定している場合は調査の対象とはしていない。

1971年調査で道内に77,000人という調査結果もある。日本全国に住むアイヌは総計20万人に上るという調査もある[34]

北海道外に在住するアイヌも多い。1988年の調査では東京在住アイヌ人口が2,700人と推計された[33]1989年の東京在住ウタリ実態調査報告書では、東京周辺だけでも北海道在住アイヌの1割を超えると推測されており、首都圏在住のアイヌは1万人を超えるとされる[14]

日本・ロシア国内以外にも、ポーランドには千島アイヌの末裔がいると1992年に報道されたが、アレウト族の末裔ではないかとの指摘もある[35]。一方、アイヌ研究の第一人者で写真や蝋管など膨大な研究資料を残したポーランドの人類学者ブロニスワフ・ピウスツキ樺太アイヌの女性チュフサンマと結婚して生まれた子供たちの末裔は日本にいる。

2017年の調査では、道内のアイヌ人口は約1万3000人となっている。これは2006年の2万4000人から急激に減少しているが、これは調査に協力している北海道アイヌ協会の会員数が減少したことと、個人情報の保護への関心の高まりから、調査に協力する人が減っていることが挙げられ、実際の人数とは合致しないと考えられている[36]

現在

アイヌの夫婦(1930年代)

アイヌ居留地は存在しないが、釧路阿寒平取町二風谷白老等をはじめとする「全道各地」に多数が居住するほか、白老阿寒湖温泉では観光名所としてアイヌコタンが存在する。

平成18年の北海道の調査によれば、かつて差別を受けたことがあるかという問いに、はい、と答えた人が16.8%、そのほかに別の誰かが受けたことを知っていると答えた人が、19.8%であった[14]。このうち、直近7年間に自分が差別を受けたという人は2%程度であり、平成25年の調査でも同様である。また、平成23年の北海道外での調査においても、同様に数%にとどまっている。

アイヌとして生活する者が周囲から差別的に扱われる順番として、第一に義務教育課程でアイヌ文化を扱った授業を受けた時、第二に婚姻・結婚、次に就職など社会に出た場合、とされる。中でも義務教育時代に受けた差別は普遍的な経験になっている、とされる[37]

明治以降は大和民族との通婚が増え、両親がともにアイヌであるアイヌは減少しているが、大和民族との通婚が増えている理由として西浦宏巳は1980年代前半に二風谷のアイヌ調査で、和人によるアイヌ差別があまりにも激しいため、和人と結婚することによって子孫のアイヌの血を薄めようと考えるアイヌが非常に多いと指摘している[38]。アイヌと和人の両方の血を引く人々の中にも、著名なエカシ(長老)の一人である浦川治造(1938年11月生)のように、アイヌ文化の保存と発展に尽力する者は少なくない。また、浦河町のエカシである細川一人(1922年11月21日生)は、和人の両親から生まれたが幼少時に父親と死別し14歳の時に母親がアイヌの男性と再婚したためにアイヌ文化を身につけたという[39]

長い間、和人による差別や蔑視をうけた事により、アイヌであることを肯定的に捉える人は少なく、大和民族への同化とともに出自を隠す傾向が強かった。しかし、近年は自らがアイヌであることを肯定的にとらえる傾向も、徐々にみられるようになってきた。北海道以外に住むアイヌ民族の活動も盛んになってきており、世界中の先住民族との交流も行われている。

アイヌと先住民族に関する論点

1950年代のアメリカ合衆国で先住民族の権利主張が取り上げられるようになり、日本でも権利回復運動が行われた[14]

1997年アイヌ文化振興法施行によって北海道旧土人保護法は廃止された。しかし、このアイヌ文化振興法ではアイヌを先住民族と認定されなかった[14]。またアイヌ文化振興法によるアイヌ民族共有財産の返還手続きに対してアイヌ民族共有財産裁判が行われたが、2006年に最高裁で原告敗訴が確定した。

2007年9月13日に国連総会で採択された先住民族の権利に関する国際連合宣言を踏まえて、2008年6月6日、アイヌを先住民族として認めることを政府に求める国会決議が衆参両院とも全会一致で可決された[40][41][42]。北海道アイヌ協会が北海道の区域外に居住するアイヌ認定事業[43]をアイヌ政策関係省庁連絡会議申合せ[44]に基づき実施している。その際には、家系図戸籍謄本、除籍謄本等を判断資料としている。

2008年5月12日鈴木宗男が国会に提出した「先住民族の定義及びアイヌ民族の先住民族としての権利確立に向けた政府の取り組みに関する第3回質問主意書」に対し、5月20日の政府答弁書で「アイヌの人々は、いわゆる和人との関係において、日本列島北部周辺、取り分け北海道に先住していたことは歴史的事実であり、また、独自の言語及び宗教を有し、文化の独自性を保持していること等から、少数民族であると認識している。」と答弁している(ただし「先住民族」との認識ではない)。6月6日には、衆参両院の全会一致で「アイヌ民族を先住民族とすることを求める決議」がなされた[45](ただし、「求める決議」で「認める決議」ではない)。一方で、『菊と刀』などの著作で知られる文化人類学者ルースベネディクトは、その著作の中で繰り返し、アイヌを日本の先住民族(aboriginal group)と書いている。[46]

2009年12月、「先住民族アイヌの権利回復を求める団体・個人署名の要請」が行われた[47]

2019年4月19日、アイヌの人々の誇りが尊重される社会を実現するための施策の推進に関する法律が成立し、同月26日公布された。同法1条の目的規定において「この法律は、日本列島北部周辺、とりわけ北海道の先住民族であるアイヌの人々の誇りの源泉であるアイヌの伝統及びアイヌの文化(以下「アイヌの伝統等」という。)が置かれている状況並びに近年における先住民族をめぐる国際情勢に鑑み、アイヌ施策の推進に関し、基本理念、国等の責務,政府による基本方針の策定、民族象徴共生空間構成施設の管理に関する措置、市町村(特別区を含む。以下同じ。)によるアイヌ施策推進地域計画の作成及び内閣総理大臣による認定、当該認定を受けたアイヌ施策推進地域計画に基づく事業に対する特別の措置、アイヌ政策推進本部の設置等について定めることにより、アイヌの人々が民族としての誇りを持って生活することができ、及びその誇りが尊重される社会の実現を図り、もって全ての国民が相互に人格と個性を尊重し合いながら共生する社会の実現に資することを目的とする。」と規定され、法制上アイヌの人々が北海道の先住民族であることを明記した。

同法に基づき、国有林野におけるアイヌにおける儀式の実施その他アイヌ文化の振興等に利用するための林産物の採取について共同使用権の取得に関する規定、内水面さけ採捕事業についての漁業法及び水産資源保護法上の許可の配慮規定などが設けられるにいたった。

アイヌ先住民族認定と保護政策に対する意見の食い違い

2014年8月に東区選出の札幌市議会議員自由民主党所属の金子快之[注 5]Twitterで「アイヌ民族なんて、いまはもういないんですよね。せいぜいアイヌ系日本人が良いところですが、利権を行使しまくっているこの不合理。納税者に説明できません」とアイヌ民族は今は存在しないと受け止められる書き込みを行っていたことが判明[49][50]、アイヌの団体などから批判され、自民党の市議会会派から除名された後、同9月に市議会からは議員辞職勧告決議[51]をうけた。金子議員は、北海道アイヌ協会がアイヌ民族の認定を独占的に行っていることに対し「アイヌ民族であることを法的に証明する手段が現状存在しない」とし、「アイヌ民族であることを『証明』している北海道アイヌ協会が「アイヌの血を受け継いでいる『と思われる』人」という曖昧な基準で認定しており出自がアイヌでなくとも養子や婚姻といった手段で認定してもらえればアイヌとしての優遇措置を受けられる、北海道アイヌ協会自体に数々の『不正行為』が存在しているなどを市役所の決算から市議会で告発した。アイヌの文化や歴史自体を否定するものではないとし、アイヌに様々な苦労があったことを認めつつも、利権の問題には今後も取り組んでいくと述べた[52]。しかし一方で除名処分に際し『アイヌ民族は先住民族』とした国会決議の内容は認めない」との趣旨の発言があったとされ、また発言も撤回していない[53]

その後の金子は辞職を拒否して保守系無所属の市議となり、札幌市のアイヌ政策に関する「官製談合」が存在したとして市議会で追及した後[54]、2015年の札幌市議選では東区選挙区から再選を目指したものの、落選した。ただし官製談合そのものは実際に何度も行われている事が判明している。札幌市役所は市民へ謝罪した[55]

アイヌと朝鮮人

苫小牧駒澤大学教授の石純姫らの研究によると、和人の本格的な北海道への入植がはじまる以前の幕末から明治初期にすでに朝鮮人蝦夷への定住が進んでおり、アイヌとの通婚が行われていたとする資料が発見されている[56][57]。1911年には北海道の朝鮮人の人口は公式には6人のみであったが三井三菱系列の炭鉱[58]が朝鮮人労務者を集めたため、1917年に1706人、1928年には2790人に急増している[59]。1938年になり国家総動員法[60]が適用される。1944年9月には朝鮮人に対しても労務動員[61][62]が定められ強制的な朝鮮人労務動員[63]が行われた。これら朝鮮人労務者に対しては低賃金で過酷で危険な労務が強制され[64]、やむなく現場を脱走した朝鮮人は捉えられ[65]、厳しく罰せられ、暴行を受け、その結果死に至る事例もあった[66][67][68][69][70]。これに対しアイヌがこれら朝鮮人を積極的に官憲から匿い、保護した歴史的事実が確認されている[71]。こういった行為はアイヌ側にとって自分たちの政治的な立場を危うくする危険を伴うものであったが、被差別、被抑圧[72]という共通の境遇に共感し両者は連帯したのである。これが縁となってアイヌと朝鮮人の血縁が結ばれ、その子孫および朝鮮人が今日、アイヌ文化の伝承の重要な担い手となっている現実がある[73][74][75][76][77][78][79][80][81]

墓地の盗掘と遺骨返還

北海道や千島、樺太の開発と学術調査が本格化した明治以降、国内外の民族学者や考古学者らが、アイヌを含む北方先住民族の墓地盗掘して、遺骨を乱雑に扱ったり、国外に持ち出したりした例があった。北海道大学では1995年に「北大人骨事件」が発覚。北大は学内で保管するアイヌの遺骨(16人分)を、日本政府のガイドラインに沿って子孫ら祭祀継承者へ渡す「アイヌ遺骨等返還室」を2015年4月に設置した[82]。またドイツの学術団体「ベルリン人類学・民族学・先史学協会」(BGAEU)は2017年7月31日、ドイツ人旅行者のゲオルク・シュレジンガーが1879年に札幌市内のアイヌ墓地から持ち出したアイヌの遺骨1体を、在ベルリン日本大使館で北海道アイヌ協会へ返還した。この遺骨は8月2日に北海道大学のアイヌ納骨堂に納められた後、同月4日に慰霊祭(イチャルパ)で供養される予定である[83]

画像

博物館

関連団体

関連作品

脚注

注釈

  1. ^ 1923年(大正12年)に出版された知里幸恵アイヌ神謡集では、その発音を、ローマ字で表記するなどの工夫がされている。
  2. ^ 例えば、「イヌイット」はカナダ・エスキモーの自称であるが、これはイヌクティトゥット語で「人」を意味する Inuk の複数形、すなわち「人々」という意味である。また、7世紀以前、日本列島に居住した民族は、中華王朝の史書では「倭人」と記載されているが、これは自らを「我(ワ)」と呼んだためとする説がある。他にも、タイ族チェロキーカザフなどにも、民族名に「人」の意が含まれる。
  3. ^ 当時、アイヌは和人のことを「シサム」「シャモ」と呼称していた。シサムは隣人という意味のアイヌ語で、シャモはその変化形の蔑称または「和人」のアイヌ読みともいわれる。
  4. ^ 他の7言語は与那国語八重山語が「重大な危険 (severely endangered)」、宮古語沖縄語国頭(くにがみ)語奄美語八丈語が「危険 (definitely endangered)」に分類されている。
  5. ^ 1970年、兵庫県生まれ。東京大学卒業後、1998年から北海道に在住し、2011年の市議会議員選挙でみんなの党公認で初当選した後、同年4月から自民党に所属していた[48]

出典

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  63. ^ 朝鮮総督府企画部編纂1996『朝鮮時局関係法規』柏書房
  64. ^ 徐京植1989『皇民化政策から指紋押捺まで――在日朝鮮人の「昭和史」』岩波ブックレット(p.13)によれば賃金も支払われなかった事例も報告されている。
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  71. ^ 石純姫はこれはかつて北米において、脱走した黒人奴隷を先住民の米国インディアンが匿った事例と類似性があるとしている(石純姫2017、석순희2019)
  72. ^ 小笠原信之2004『アイヌ差別問題読本』緑風出版
  73. ^ 「アイヌ舞踊、私も 韓国人女性、継承へ意気込み 釧路・阿寒湖」『朝日新聞』2018.8.17
  74. ^ 石純姫2010「北海道・穂別における朝鮮人の労務動員とアイヌ民族のつながり--重層的なアイデンティティの葛藤と韓国での受容状況について」『環太平洋・アイヌ文化研究』8:41-51
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  80. ^ 岡本雅享2018.12書評『朝鮮人とアイヌ民族の歴史的つながり』石純姫著(寿郎社)、2017年[1]
  81. ^ 석순희2019『조선인과 아이누 민족의 역사적 유대 제국의 선주민·식민지 지배의 중층성(重層性)』어문학사 ISBN 9788961849012
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参考文献

関連項目

外部リンク