千島アイヌ語
千島アイヌ語 クリル・アイヌ語 | |
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話される国 | ロシア, 日本 |
地域 | 千島列島, 後にカムチャツカ半島と北海道 |
民族 | 千島アイヌ |
消滅時期 | 1884年以降、1962年消滅確認 |
言語系統 |
アイヌ語
|
言語コード | |
ISO 639-2 |
ain |
ISO 639-3 |
ain |
Glottolog |
kuri1257 [1] |
消滅危険度評価 | |
Extinct (Moseley 2010) |
千島アイヌ語(ちしまアイヌご、Kuril Ainu language)またはアイヌ語千島方言(アイヌごちしまほうげん)は千島列島で話されていたアイヌ語の方言である。現在は消滅した言語(死語)である。主な分布は国後島、択捉島、得撫島、占守島であった。カムチャツカ半島南端ではイテリメンと千島アイヌが混淆した集団が少数存在したことが考えられる。
千島アイヌは比較的最近北海道から千島列島に入り、近年ニヴフ説が有力となっている[2]オホーツク文化を置き換えた。1875年に千島列島が日本の施政下になったときには、カムチャツカ半島にも100人のアイヌがいた。1884年、北千島(主に占守島と幌筵島)のアイヌは日本政府により、色丹島に強制移住させられた[3][4]。一部はのちに幌筵島や温禰古丹島へ戻ったが[4]、あくまで「出稼ぎのため」で本格的な帰還は認められなかった[3]。移住後の千島アイヌは生活環境の変化から急激に数を減らし、言語自体もその頃には絶えたとされている。1945年に千島列島がソビエト連邦の施政下になると、残った南千島のアイヌは北海道に移住し同化して姿を消した。
1962年に当時北海道大学大学院生だった村崎恭子(後に同大教授)が7人の千島アイヌ(及び和人とのハーフ)の生存を確認し、8月に弟子屈町などに住んでいた4人から聞き取り調査を行った。そのうち二人は、両親は千島アイヌ語を話していたが自分たちの世代では話さなかったので知らないと証言した。他の二名は言葉を覚えていたというが、北海道での辛い経験のせいか、村崎はほとんど話を聞いてもらえなかった(うち一人はアイヌであることすら否定した)。このため、言葉を覚えている人にはついに一人も出会えずに終わった。そして翌年の論文で村崎は千島アイヌ語の消滅を報告した[5]。
言語資料と特徴
[編集]現在、千島アイヌ語の言語資料は
- 1738年にステパン・クラシェニンニコフがカムチャツカでポロムシル出身の千島アイヌから聞き取った記録
- 1879年から1882年にカムチャダルで勤務していたポーランドの動物学者であるベネディクト・ディボウスキーが占守島出身の北千島アイヌから聞き取った1900語[6]
- 1891年に水科七三郎と和田雄治は全道各所に巡視し千島列島に到着した際に、色丹島の戸長の和田良成から聞き取った占守島より移住した千島アイヌの、気象・自然・日付・計数などに関する127単語[7][8]
- 1899年に鳥居龍蔵が色丹島に移住した千島アイヌのグリゴリーとラウレンチ(原文ママ)から聞き取った700語[9]
くらいしか残されておらず[10]、現在もこれらの乏しい資料を基に研究が続けられている。
このうち数詞については、18世紀のクラシェニンニコフの記録では十進法だったのに対し、19世紀のディボウスキーの記録では二十進法に変化したことが判明している。
脚注
[編集]- ^ Hammarström, Harald; Forkel, Robert; Haspelmath, Martin et al., eds (2016). “千島アイヌ語”. Glottolog 2.7. Jena: Max Planck Institute for the Science of Human History
- ^ 謎の北方海洋民族の生活いきいき アイヌ文化に大きな影響 - 日本経済新聞 NIKKEI STYLEアーカイブ・
- ^ a b 麓慎一「北千島アイヌの改宗政策について--色丹島におけるアイヌの改宗政策と北千島への帰還問題を中心に (特集 連続講座「国民国家と多文化社会」第17シリーズ グローバリゼーションと植民地主義) -- (国内植民地をめぐって)」(PDF)『立命館言語文化研究』第19巻第1号、立命館大学国際言語文化研究所、2007年9月、43-55頁、ISSN 09157816、NAID 40015702950。
- ^ a b 明治末期の日本海軍 千島アイヌの生活調査 - 北海道新聞2015年6月9日号
- ^ 村崎恭子「千島アイヌ語絶滅の報告」『民族學研究』第27巻第4号、日本文化人類学会、1963年、657-661頁、doi:10.14890/minkennewseries.27.4_657、NAID 110001835731。
- ^ 村山七郎「DYBOWSKI のシュムシュ島アイヌ語資料について(第1部)」『文學研究』第67巻、九州大学文学部、1970年3月、19-88頁、CRID 1390290699827076352、doi:10.15017/2332776、hdl:2324/2332776、ISSN 03872823。
- ^ 水科七三郎「北海氣象鎖談(承前)」『氣象集誌』第1輯、第11巻第9号、1892年、394-405頁、doi:10.2151/jmsj1882.11.9_394。
- ^ 鳥居龍藏「第一章 千島アイヌに就ての參考書」『千島アイヌ』。「(一九)水科七三郞氏色丹󠄁アイヌの單語表
氣象集誌第十一年第九號にあり、氏は明治二十四年和田雄治氏と共に北海道巡回の傍、色丹󠄁島に立寄られたる際、同戶長和田良成氏より色丹󠄁土人の氣象に關する單語を多く聞き取りて書き集められ一覽表とせられたるなり、千島土人の言語を硏究するには參考とすべきものなり、」 - ^ 鳥居龍蔵『千島アイヌ』吉川弘文館、1903年7月28日、128頁
- ^ 村崎恭子「樺太アイヌ語の数詞について」『サハリンの言語世界 : 北大文学研究科公開シンポジウム報告書』平成20年9月6日. 札幌市、北海道大学大学院文学研究科、2009年3月、71-84頁、NAID 120006660461。