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平村ペンリウク

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ひらむら ペンリウク

平村 ペンリウク
平村ペンリウク翁
生誕 1833年
北海道沙流郡平取町日高振興局管内)
死没 1903年11月28日
記念碑 頌徳碑(義経神社境内)
国籍 日本の旗 日本
民族 アイヌ民族
職業 コタンコロクル(首長)
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平村 ペンリウク(ひらむら ペンリウク、1833年 - 1903年明治36年)11月28日)は、明治期のアイヌ指導者の一人。平取コタンのコタンコロクル(首長)。

人物・事績

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写真中央がペンリウク翁

1833年(天保4年)、平取コタンにシュロクの長男として生まれ[1]松浦武四郎『左留日誌』のなかにも名前が記されている。幼年の頃から勇敢で知られ、成長してからは同胞の苦難を救うためにしばしば北蝦夷地(樺太)に渡った[1]

1876年(明治9年)、イギリス人宣教師のウォルター・デニングはペンリウクの家に来てアイヌ語を学んだという[2]1878年(明治11年)、ハインリヒ・フォン・シーボルト次いでイギリス人の旅行者イザベラ・バードを迎え、バードはその滞在の思い出を紀行文に残した[3]。また、1879年(明治12年)、平取コタンを訪問したイギリス人宣教師ジョン・バチェラーにアイヌ語を教えている[4]

1880年(明治13年)、現在の平取町立平取小学校の前身である佐瑠太学校・平取分校の設置に尽力し、アイヌの子弟を就学させた[5]1887年(明治20年)には当時の北海道庁長官の岩村通俊に呼ばれて、アイヌの現状を語っている[1]

1903年(明治36年)、71歳で亡くなったとき、その遺産は土地やを合わせて千円もあったという[1][注釈 1]

平取町の義経神社の境内には「頌徳碑」が建立されている。

脚注

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注釈

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  1. ^ 明治27年頃の1円はおよそ現代の2万円に換算することが可能である[6]

出典

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  1. ^ a b c d 河野(1979)p.306
  2. ^ 仁多見(1963)p.28-29
  3. ^ I・バード(2008)pp.80-146
  4. ^ J・バチェラー(1928)p.170
  5. ^ 橘(1957)p.6
  6. ^ Column6 明治時代の「1円」の価値ってどれぐらい?”. お金の歴史雑学コラム. manabow(野村ホールディングス・日本経済新聞社運営). 2022年6月22日閲覧。

参考文献

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関連文献

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  • 土橋芳美『痛みのペンリウク:囚われのアイヌ人骨』草風館、2017年3月。ISBN 978-4883231997 
  • 小柳誠之 編「(別冊)文献上のエカシとフチ」『エカシとフチ―北の島に生きたひとびとの記録』札幌テレビ放送、1983年。ASIN B000J7959G 
  • 貝沢正「平村ペンリウク翁をしのぶ」『先駆者の集い』23号)

関連項目

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