コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「安政南海地震」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
濱口儀兵衛 入野松原
(同じ利用者による、間の1版が非表示)
36行目: 36行目:
| plus =
| plus =
}}
}}
'''安政南海地震'''(あんせいなんかいじしん)は、[[江戸時代]]後期の[[嘉永]]7年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]([[1854年]][[12月24日]])に発生した[[南海地震]]である。
'''安政南海地震'''(あんせいなんかいじしん)は、[[江戸時代]]後期の[[嘉永]]7年[[11月5日 (旧暦)|11月5日]]([[1854年]][[12月24日]])に発生した[[南海地震]]<ref group="注">「南海地震」とは、本来1946年南海地震を指していたが、南海トラフの西側半分の南海道沖を震源域とする地震も一般的に南海道地震と呼ばれてきた。2001年の「東南海、南海地震等に関する専門調査会」設置以来、土佐湾から紀伊水道沖を震源域として発生するとされる[[固有地震]]の名称としても使われ始め、「[http://www.shugiin.go.jp/internet/itdb_housei.nsf/html/housei/15420020726092.htm 東南海・南海地震に係る地震防災対策の推進に関する特別措置法]」(平成14年法律第92号)に明記された。</ref>である。


[[南海トラフ巨大地震]]の一つとされ、約32時間前に発生した[[安政東海地震]]([[東南海地震]]含む)と共に'''安政地震'''、'''安政大地震'''とも総称される<ref name="Sawamura">[http://www.geocities.jp/kyoketu/sub8.html 五つの大地震] 高木金之助編、沢村武雄「五つの大地震」『四国山脈』毎日新聞社、1959年</ref>。この[[地震]]は[[嘉永]]年間に起きたが<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/22/3/22_3_253/_article/-char/ja/ 湯村哲男(1969)] 湯村哲男(1969): 本邦における被害地震の日本暦について, 地震, 第2輯, '''22''', pp.253-255, {{JOI|JST.Journalarchive/zisin1948/22.253}}</ref>、この天変地異や前年の[[黒船来航]]を期に[[改元]]されて[[安政]]と改められ、歴史年表上では安政元年([[1854年]])であることから安政を冠して呼ばれる<ref>[https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/23/4/23_4_335/_article/-char/ja/ 神田茂(1970)] 神田茂(1970): 本邦における被害地震の日本暦の改元について, 地震, 第2輯, '''23''', pp.335-336, {{JOI|JST.Journalarchive/zisin1948/23.335}}</ref>。当時は'''寅の大変'''(とらのたいへん)とも呼ばれた。
[[南海トラフ巨大地震]]の一つとされ、約32時間前に発生した[[安政東海地震]]と共に'''安政地震'''<ref name="Sawamura">[[#Sawamura (1959)|沢村(1959), p59-60.]]</ref>、'''安政大地震'''とも総称される<ref name="Kadomura">[[#Kadomura (1983)|門村(1983).]]</ref>。この[[地震]]は[[嘉永]]年間に起きたが<ref>{{Cite journal |date=1969 |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/22/3/22_3_253/_article/-char/ja/ |title=本邦における被害地震の日本暦について |format= |author=湯村哲男 |accessdate= |journal=地震 第2輯 |volume=22 |issue= |pages=253-255}} {{JOI|JST.Journalarchive/zisin1948/22.253}}</ref>、この天変地異や前年の[[黒船来航]]を期に[[改元]]されて[[安政]]と改められ、歴史年表上では安政元年([[1854年]])であることから安政を冠して呼ばれる<ref>{{Cite journal |date=1970 |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/23/4/23_4_335/_article/-char/ja/ |title=本邦における被害地震の日本暦の改元について |format= |author=神田茂 |accessdate= |journal=地震 第2輯 |volume=23 |issue= |pages=335-336}} {{JOI|JST.Journalarchive/zisin1948/23.335}}</ref>。当時は'''寅の大変'''(とらのたいへん)とも呼ばれた。


== 江戸時代の関連地震 ==
安政南海地震の2日後には[[豊予海峡]]で''M'' 7.4の[[豊予海峡地震]]が発生。また翌年には[[安政江戸地震]](''M'' 6.9-7.4)が起きた。本地震や安政東海地震は安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」とも呼ばれ、[[伊賀上野地震]]から[[1858年]][[飛越地震]]まで安政年間に連発した一連の大地震を[[安政の大地震]]とも呼ぶ。
江戸時代には[[南海トラフ]]沿いが震源域と考えられている[[巨大地震]]として、この他に[[宝永]]4年([[1707年]])の[[宝永地震]]の記録がある。また、[[安政地震]]については「宝永地震の後始末地震」だった可能性も考えられ、この宝永地震後の再来間隔147年は南海トラフ沿いの巨大地震としてはむしろ短い部類になるとの見解もある<ref name="Matsuura2014">{{Cite journal |date=2014 |url=http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_29/HE29_263_263_Matsuura.pdf |title=[講演要旨]1605年慶長地震は南海トラフの地震か? |format=PDF |author=松浦律子 |accessdate= |journal=歴史地震 |volume=29 |issue= |pages=263}}</ref>。


江戸時代には[[南海トラフ]]沿いが震源域と考えられている[[巨大地震]]として、この他に[[慶長]]9年([[1605年]])に起きた[[慶長地震]]<ref group="注">慶長地震の震源域には諸説あり、南海トラフ沿いの地震ではないとする見解も出されてる。- 石橋克彦, 原田智也(2013): 1605(慶長九)年伊豆-小笠原海溝巨大地震と1614(慶長十九)年南海トラフ地震という作業仮説,日本地震学会2013年秋季大会講演予稿集,D21‒03, 松浦律子(2014): {{PDFlink|[http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_29/HE29_263_263_Matsuura.pdf [講演要旨]1605年慶長地震は南海トラフの地震か?]}}, 歴史地震, 第29号, 263.</ref>、および[[宝永]]4年([[1707年]])の[[宝永震]]記録がある。
[[慶長]]9年([[1605年]])に起きた[[慶長地震]]もかつては震源域が東海道・南海道に亘り<ref>{{Cite journal |date=1943 |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1929/15/6/15_6_150/_pdf |title=慶長九年の東海南海雨道の地震津浪に就いて |format= |author=[[今村明恒]] |accessdate= |journal=地震 第1輯 |volume=15 |issue= |pages=150-155}}</ref>、南海トラフ沿いの[[津波地震]]と考えられていた<ref>{{Cite journal |date=1983 |url=http://ci.nii.ac.jp/naid/10004725302 |title=1605(慶長9)年東海・南海津波地震の地学的意義 |format= |author=石橋克彦 |accessdate= |journal=地震学会講演予稿集 |volume=1 |issue= |pages=96}}, [http://historical.seismology.jp/ishibashi/archive/1605KeichoEq83.pdf 石橋克彦の歴史地震研究のページ アーカイブ]</ref>。慶長地震の震源域には諸説あり、南海トラフ沿いの巨大地震とするには多くの疑問点が残り、南海トラフ沿の地震ではなく例えば[[伊豆・小笠原海溝]]沿い<ref>石橋克彦, 原田智也(2013): 1605(慶長九)年伊豆-小笠原海溝巨大地震と1614(慶長十九)年南海トラフ地震という作業仮説,日本地震学会2013年秋季大会講演予稿集,D21‒03</ref>、あるいは遠津波可能性もあるとする見解も出されている<ref name="Matsuura2014" />

安政南海地震の2日後には[[豊予海峡]]で''M'' 7.4の[[豊予海峡地震]]が発生。また翌年には[[安政江戸地震]](''M'' 6.9-7.4)が起きた<ref>[[#Kadomura (1983)|門村(1983), p19-21.]]</ref>。本地震や安政東海地震は安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」とも呼ばれ、[[伊賀上野地震]]から[[1858年]][[飛越地震]]まで安政年間に連発した一連の大地震を[[安政の大地震]]とも呼ぶ。

この地震に関する古記録は[[歴史地震]]としては非常に多く残されている<ref name="Shinsaiyobo">[[#Shinsaiyobo|田山『大日本地震史料 下巻』.]]</ref><ref name="Musha">[[#Musha (1951)|武者『日本地震史料』.]]</ref><ref name="E.R.I.5-5-1(1987)">[[#Earthquake Research Institute (1987a)|『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-一』.]]</ref><ref name="E.R.I.5-5-2(1987)">[[#Earthquake Research Institute (1987b)|『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』.]]</ref><ref name="E.R.I.hoi(1989)">[[#Earthquake Research Institute (1989)|『新収 日本地震史料 補遺 別巻』.]]</ref><ref name="E.R.I.zokuhoi(1994)">[[#Earthquake Research Institute (1994)|『新収 日本地震史料 続補遺 別巻』.]]</ref>。安政の頃になると[[日記]]に加えて[[手紙]]などにも地震の記述が現れるようになり、被災時の人々の詳細な行動記録まで残るようになる<ref name="Yata (2008)">[[#Yata (2008)|矢田(2008), p180-195.]]</ref>。


== 地震 ==
== 地震 ==
=== 地震動 ===
=== 地震動 ===
[[File:1854 Ansei Nankai earthquake intensity.PNG|thumb|right|270px|安政南海地震の震度分布<ref name="Usami">{{PDFlink|[http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou41/07_01.pdf 宇佐美龍夫(1989)]}} [[信州大学]]工学部 宇佐美龍夫 「安政東海地震(1854-12-23),安政南海地震(1854-12-24)の震度分布」 1989年</ref><ref name="Usami2003">宇佐美龍夫 『最新版 日本被害地震総覧』 東京大学出版会、2003年</ref>]]
[[File:1854 Ansei Nankai earthquake intensity.PNG|thumb|right|270px|安政南海地震の震度分布<ref name="Usami, Ansei-Shindo">{{Cite web |author=宇佐美龍夫 |title=安政東海地震(1854-12-23),安政南海地震(1854-12-24)の震度分布 |url=http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou41/07_01.pdf |format=pdf |work= 地震予知連絡会会報, 第31巻, 7-3.(公式ウェブサイト)|publisher=[[信州大学]]工学部 |date=1989 |accessdate=2018-02-02}}</ref><ref name="Usami (2003)">[[#Usami (2003)|宇佐美(2003), p164-168.]]</ref>]]

嘉永七年[[甲寅]]十一月五日[[庚午]]の[[申]]下刻(七ツ半)(1854年12月24日、日本時間16時半頃)、[[紀伊半島]]から[[四国]]沖を震源([[北緯]]33.0°、[[東経]]135.0°<ref group="注" name="震央" />)とする巨大地震が起きた。[[フィリピン海プレート]]が[[ユーラシアプレート]]下に沈み込む南海トラフ沿いで起きた[[地震#プレート間地震|海溝型地震]]と考えられている<ref name="Ando1975">[http://ci.nii.ac.jp/naid/80013225967 Masataka Ando(1975)]: Source mechanisms and tectonic significance of historical earthquakes along the Nankai trough, Japan, ''Tectonophysics'', Vol. '''27''', 119-140.</ref>。


嘉永七年[[甲寅]]十一月五日[[庚午]]の[[申]]下刻(七ツ半)(1854年12月24日、日本時間16時半頃)、[[紀伊半島]]から[[四国]]沖を震源([[北緯]]33.0°、[[東経]]135.0°<ref group="注" name="震央" />)とする巨大地震が起きた。[[フィリピン海プレート]]が[[ユーラシアプレート]]下に沈み込む南海トラフ沿いで起きた[[地震#プレート間地震|海溝型地震]]と考えられている<ref name="Ando1975">{{Cite journal |date=1975 |url=http://ci.nii.ac.jp/naid/80013225967 |title=Source mechanisms and tectonic significance of historical earthquakes along the Nankai trough, Japan |format= |author=Masataka Ando |accessdate= |journal=Tectonophysics |volume=27 |issue= |pages=119-140}}{{Cite journal |date=1975 |url=http://www.researchgate.net/publication/248239606_Source_mechanisms_and_tectonic_significance_of_historical_earthquakes_along_the_nankai_trough_Japan |title=Source mechanisms and tectonic significance of historical earthquakes along the nankai trough, Japan |format= |author=Masataka Ando |accessdate= |journal=Tectonophysics (Impact Factor: 2.87) |volume=27 |issue= |pages=119-140}} DOI: 10.1016/0040-1951(75)90102-X</ref>。
当日、[[土佐国|土佐]]は小春日和の快晴で、[[高知城]]下は南川原にて[[相撲|相撲巡業]]があり、見物客が群集をなすところに地震が襲い、一時大混乱に陥った<ref name="Teraishi">寺石正路 『土佐古今ノ地震』 土佐史談会、1923年</ref>。『桑滄談』の記録によれば土佐入野(現・[[黒潮町]]大方地区)においては、初めゆるゆる震い次第に強くなりやがて激震になったという<ref name="Nakamura city">[[中村市]] 『中村市史 続編』 1984年</ref>。


当日、[[土佐国|土佐]]は小春日和の快晴で、[[高知城]]下は南川原にて[[相撲|相撲巡業]]があり、見物客が群集をなすところに地震が襲い、一時大混乱に陥った<ref>[[#Teraishi (1923)|寺石(1923), p41-42.]]</ref>。『桑滄談』の記録によれば土佐入野(現・[[黒潮町]]大方地区)においては、初めゆるゆる震い次第に強くなりやがて激震になったという<ref name="Nakamura city">[[中村市]] 『中村市史 続編』 1984年</ref>。
[[畿内]]では昨日の東海地震に続いて「又々大地震」となり、[[三河吉田藩|三河吉田]]、[[田原藩|田原]]および[[尾張藩|名古屋]]など前日に地震津波で甚大な被害となった[[東海地方]]各地でも、又々長い地震動に続いて西方から雷鳴が聞かれた。[[新居宿]]では暮六ツ時(17時頃)に地震少々震う内に日の入りとなり、申酉([[西]])の方から「どう/\/\」と鳴音が大雷の如くなりと記録されている(『安政大地震』[[新居関所|新居町関所資料館]])<ref name="E.R.I.5-5-1(1987)">[[#Earthquake Research Institute (1987a)|東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-一 安政元年十一月四日・五日・七日』 日本電気協会、1987年]]</ref>。


[[畿内]]では昨日の東海地震に続いて「又々大地震」となり、特に[[河内平野]]において、若江(現・[[東大阪市]])を中心に半径約4kmの範囲で家屋倒壊が見られ、震度6弱から最大震度6強と推定される場所が分布した。ここは[[弥生時代]]に[[河内湖]]が存在した場所に一致し、陸化して1000年以上経過しても地震の揺れが[[異常震域|強く現れる場所]]として存在し続けた<ref>[[#Tsuji (2011)|都司(2011), p128-131.]]</ref>。[[三河吉田藩|三河吉田]]、[[田原藩|田原]]および[[尾張藩|名古屋]]など前日に地震津波で甚大な被害となった[[東海地方]]各地でも、又々長い地震動に続いて西方から雷鳴が聞かれた。[[新居宿]]では暮六ツ時(17時頃)に地震少々震う内に日の入りとなり、申酉([[西]])の方から「どう/\/\」と鳴音が大雷の如くなりと記録されている(『安政大地震』[[新居関所|新居町関所資料館]])<ref name="Earthquake Research Institute (1987a)-1143">[[#Earthquake Research Institute (1987a)|『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-一』, p1143-1158.]]</ref>。
[[小浜藩|小浜]](現・[[小浜市]]『続地震雑纂』)や尾鷲九鬼(現・[[尾鷲市]]『九木浦庄屋宮崎和右衛門御用留』)では地震動は南海地震より東海地震の方が強く感じられたが、那智勝浦(現・[[那智勝浦町]]『嘉永七年寅十一月 大地震洪浪記録書』)や[[湯浅]](現・[[湯浅町]]『[[深専寺]]門前碑文』)・広(現・[[広川町 (和歌山県)|広川町]]『[[濱口梧陵]]手記』)では南海地震の方が強く感じられた<ref name="E.R.I.5-5-1(1987)" />。[[京都]](現・[[京都市]])では東海地震の方がやや強いか(『安政元寅年正月より同卯ノ三月迄御写物』)、ほぼ同程度で(『御広間雑記』)、[[大坂]]でも両地震の強さは同程度であり(現・[[大阪市]]『鍾奇斎日々雑記』)、破損の度合いを加えたが、南海地震では津波被害も加わった<ref name="E.R.I.5-5-1(1987)" /><ref name="Musha">[[#Musha (1951)|武者金吉 『日本地震史料』 毎日新聞社、1951年]]</ref>。


[[小浜藩|小浜]](現・[[小浜市]]『続地震雑纂』<ref>[[#Musha (1951)|『日本地震史料』, p145.]]</ref>)や尾鷲九鬼(現・[[尾鷲市]]『九木浦庄屋宮崎和右衛門御用留』<ref>[[#Earthquake Research Institute (1987a)|『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-一』, p1416.]]</ref>)では地震動は南海地震より東海地震の方が強く感じられたが、那智勝浦(現・[[那智勝浦町]]『嘉永七年寅十一月 大地震洪浪記録書』<ref>[[#Earthquake Research Institute (1989)|『新収 日本地震史料 補遺 別巻』, p516.]]</ref>)や[[湯浅]](現・[[湯浅町]]『[[深専寺]]門前碑文』<ref>[[#Usami (2005)|『日本の歴史地震史料 拾遺三』, p525.]]</ref>)・広(現・[[広川町 (和歌山県)|広川町]]『[[濱口梧陵]]手記』<ref name="Musha (1951)-266">[[#Musha (1951)|『日本地震史料』, p266-269.]]</ref>)では南海地震の方が強く感じられた。[[京都]](現・[[京都市]])では東海地震の方がやや強いか(『安政元寅年正月より同卯ノ三月迄御写物』<ref>[[#Earthquake Research Institute (1987a)|『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-一』, p2.]]</ref>)、ほぼ同程度で(『御広間雑記』<ref>[[#Earthquake Research Institute (1987b)|『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』, p1448.]]</ref>)、[[大坂]]でも両地震の強さは同程度であり(現・[[大阪市]]『鍾奇斎日々雑記』<ref>[[#Earthquake Research Institute (1987b)|『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』, p1495.]]</ref>)、破損の度合いを加えたが、南海地震では津波被害も加わった<ref name="Musha" />。
この地震に関する古記録は[[歴史地震]]としては非常に多く残されている<ref name="E.R.I.5-5-1(1987)" /><ref name="Musha" /><ref name="Dainippon">[[#Shinsaiyobo|震災予防調査会編 『大日本地震史料』 下巻、丸善、1904年]]</ref><ref name="E.R.I.5-5-2(1987)">[[#Earthquake Research Institute (1987b)|東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二 安政元年十一月四日・五日・七日』 日本電気協会、1987年]]</ref><ref name="E.R.I.hoi(1989)">[[#Earthquake Research Institute (1989)|東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 補遺 別巻』 日本電気協会、1994年]]</ref><ref name="E.R.I.zokuhoi(1994)">[[#Earthquake Research Institute (1994)|東京大学地震研究所 『新収 日本地震史料 続補遺 別巻』 日本電気協会、1994年]]</ref>。安政の頃になると[[日記]]に加えて[[手紙]]などにも地震の記述が現れるようになり、被災時の人々の詳細な行動記録まで残るようになる<ref name="Yata">[[矢田俊文 (歴史学者)|矢田俊文]] 『中世の巨大地震』 吉川弘文館、2009年</ref>。


震度6と推定される領域は四国太平洋側から[[紀伊水道]]沿岸部、[[淡路島]]、[[大阪平野]]および[[播州平野]]、震度4以上の領域は[[九州]]から[[中部地方]]に及び<ref>{{PDFlink|[http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/nankai/16/sankousiryou2_2.pdf 中央防災会議(2003)]}} [[中央防災会議]] 宇佐美(1989):歴史地震の震度分布</ref>、震源域の長さは約400kmと推定される<ref>{{PDFlink|[http://wwwsoc.nii.ac.jp/jepsjmo/cd-rom/2007cd-rom/program/pdf/T235/T235-010.pdf 都司嘉宣(2007)]}} 都司嘉宣行谷佑一(2007): 連動型巨大地震としての宝永地震(1707), 日本地球惑星科学連合2007年大会講演要旨,T235-010.</ref><ref>[http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/KOHO/PANKO2005/openlecture/tsuji.html 公開講義2005] 都司嘉宣「2004年ンドネシア・スマラ島西方沖地震津波の教訓」</ref>。
震度6と推定される領域は四国太平洋側から[[紀伊水道]]沿岸部、[[淡路島]]、[[大阪平野]]および[[播州平野]]、震度4以上の領域は[[九州]]から[[中部地方]]に及び<ref>{{PDFlink|[http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/nankai/16/sankousiryou2_2.pdf 中央防災会議(2003)]}} [[中央防災会議]] 宇佐美(1989):歴史地震の震度分布</ref>、震源域の長さは約400kmと推定される<ref name="Tsuji (2007)">{{Cite web |author=都司嘉宣行谷佑一 |title=連動型巨大地震としての宝永地震(1707) |url=http://www2.jpgu.org/meeting/2007/program/pdf/T235/T235-010.pdf |format=pdf |work= |publisher=日本地球惑星科学連合2007年大会、T235, 010 |date=2007 |accessdate=11-10-26}}</ref><ref name="Tsuji, Kokai-kogi">{{Cite web |author=[[都司嘉宣]] |title=2004年インドネシア・スマトラ島西方沖地震津波の教訓 日本の巨大地震 |url=http://www.eri.u-tokyo.ac.jp/KOHO/PANKO2005/openlecture/tsuji.html |format= |work=(式ウェブサイト)|publisher=東京大学地震研究所 |date= |accessdate=2011-06-22}}</ref>。


『中国地震歴史資料彙編』には江蘇粛県や嘉定(上海市郊外)で「水溢地震」、[[上海]]で「黄浦水沸二三[[尺]]、嘉定、蘇州皆同」と記されており<ref name="Utsu1988">[https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/41/4/41_4_613/_article/-char/ja/ 宇津徳治(1988)] 宇津徳治(1988): 日本の地震に関連する中国の史料, 地震第2輯, '''41''' , pp.613- 614, {{JOI|JST.Journalarchive/zisin1948/41.613}}</ref>、震央から約1300km離れた[[中国]]の上海でも有感であったという<ref name="Ishibashi">[[石橋克彦]] 『大地動時代 -地震学者は警告する- 岩波新書</ref>。
『中国地震歴史資料彙編』には江蘇粛県や嘉定(上海市郊外)で「水溢地震」、[[上海]]で「黄浦水沸二三[[尺]]、嘉定、蘇州皆同」と記されており<ref name="Utsu1988">{{Cite journal |date=1988 |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/41/4/41_4_613/_article/-char/ja/ |title=日本の地震に関連する中国の史料 |format= |author=宇津徳治 |accessdate= |journal=地震, 第2輯 |volume=41 |issue= |pages=613-614}} {{JOI|JST.Journalarchive/zisin1948/41.613}}</ref>、震央から約1300km離れた[[中国]]の上海付近でも有感であったという<ref name="Ishibashi (1994)-28">[[#Ishibashi (1994)|石橋(1994), p28.]]</ref>。津波が到達したとする説もあるが、[[長周期]]による[[副振動|セイシュ]]が水面を動揺させた可能性もある。2日後豊予海峡地震でも上海付近でかなり揺れたらしい<ref name="Ishibashi (2014)-40">[[#Ishibashi (2014)|石橋(2014), p40-45.]]</ref>。


=== 被害 ===
=== 被害 ===
被害は[[中部地方]]から[[九州地方]]へ及び、2つの巨大地震が重なった[[近畿地方]]では[[東海地震]]における被害と明確に区別ができない。その上、[[伊予国|伊予]]や[[豊後国|豊後]]、特に[[肥後国|肥後]][[人吉藩|人吉]]等では約40時間後に発生した豊予海峡地震被害との区別が困難である。
被害は[[中部地方]]から[[九州地方]]へ及び、2つの巨大地震が重なった[[近畿地方]]では[[東海地震]]における被害と明確に区別ができない。その上、[[伊予国|伊予]]や[[豊後国|豊後]]、特に[[肥後国|肥後]][[人吉藩|人吉]]等では約40時間後に発生した豊予海峡地震被害との区別が困難である。


宝永地震と同じく、[[出雲国|出雲]]杵築周辺でも震動が強く潰家が150軒あった(『嘉永甲寅諸国地震記』)。一方で宝永地震とは異なり、[[冬至]]頃の気温の下がる夕刻でかつ夕食の支度で火を使う時間帯であり[[火災]]が多く発生した。特に[[高知]]、中村および[[宿毛]]は大火事に見舞われた<ref name="Daijishin">間城龍男 『宝永大地震 -土佐最大の被害地震-』 あさひ謄写堂、1995年</ref>。土佐国(現、高知県)での死者は、藩主:[[山内容堂|山内豊信]]により372名と集計・報告されている<ref>{{PDFlink|[http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_26/HE26_91.pdf 都司嘉宣(2011)]}} 都司嘉宣, 松岡祐也(2011): [講演要旨] 安政南海地震(1854)による土佐国の死者分布, 歴史地震研究会, 歴史地震26号, p91.</ref>。
宝永地震と同じく、[[出雲国|出雲]]杵築周辺でも震動が強く潰家が150軒あった(『嘉永甲寅諸国地震記』<ref>[[#Musha (1951)|『日本地震史料』, p101.]]</ref><ref name="Utsu et al. (2001)">[[#Utsu et al. (2001)|宇津ほか(2001), p599-600.]]</ref>。一方で宝永地震とは異なり、[[冬至]]頃の気温の下がる夕刻でかつ夕食の支度で火を使う時間帯であり[[火災]]が多く発生した。特に[[高知]]、中村および[[宿毛]]は大火事に見舞われた<ref>[[#Mashiro (1995)|間城(1995), p42-45.]]</ref>。土佐国(現、高知県)での死者は、藩主:[[山内容堂|山内豊信]]により372名と集計・報告されている<ref name="Tsuji-Matsuoka2011">{{Cite journal |date=2011 |url=http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_26/HE26_91.pdf |title=[講演要旨安政南海地震(1854)による土佐国の死者分布 |format=PDF |author=都司嘉宣・松岡祐也 |accessdate= |journal=歴史地震 |volume=26 |issue= |pages=91}}</ref>。


[[吉野川]]下流域では液状化現象が見られ、加賀須野村では「土砂多数吹上川之如くに相成り跡に而砂取捨地毎に数百石申出候川筋は津波壱[[丈]]程参り候由下吉衛築新田大荒白海之如く相成り」(『大地震実録記』)と記録される。[[上板町]]の神宅遺跡にもこの地震による液状化の痕跡が見られる<ref name="joshinshi">寒川旭 『揺れる大地 日本列島の地震史』 同朋舎出版、1997年</ref>。
[[吉野川]]下流域では液状化現象が見られ、加賀須野村では「土砂多数吹上川之如くに相成り跡に而砂取捨地毎に数百石申出候川筋は津波壱[[丈]]程参り候由下吉衛築新田大荒白海之如く相成り」(『大地震実録記』<ref>[[#Earthquake Research Institute (1987b)|『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』, p1793.]]</ref>)と記録される。[[上板町]]の神宅遺跡にもこの地震による液状化の痕跡が見られる<ref name="Sangawa (1997)">[[#Sangawa (1997)|寒川(1997), p28-30.]]</ref>。


なお、[[司馬遼太郎]]の小説『[[竜馬がゆく]]』では、[[坂本龍馬]]が[[江戸]]にいるときに地震を感じた(江戸で強震であったのは東海地震)と描かれているが、史実では地震当日に既に土佐に滞在していた。
なお、[[司馬遼太郎]]の小説『[[竜馬がゆく]]』(「寅の大変」の節がある)では、[[坂本龍馬]]が[[江戸]]にいるときに地震を感じた(江戸で強震であったのは東海地震)と描かれているが、史実では地震当日に既に土佐に滞在していた。


{| class="wikitable"
{| class="wikitable"
! style="background-color:#669999" | 街道 !! style="background-color:#aad" | 推定震度<ref name="Usami" /><ref name="Usami2003" />
! style="background-color:#669999" | 街道 !! style="background-color:#aad" | 推定震度<ref name="Usami, Ansei-Shindo" /><ref name="Usami (2003)" />
|-
|-
| style="white-space:nowrap"| [[畿内]] || [[京都]](4-5), [[伏見宿 (京街道)|伏見]](5), [[宇治郡|宇治]](5), [[門真神社|門真]](5-6), [[服部 (豊中市)|服部]](6), [[大坂]](5-6), [[布施 (東大阪市)|布施]](6), [[堺市|堺]](5), [[岸和田藩|岸和田]](5-6), [[奈良市|奈良]](5), [[郡山藩|郡山]](5), [[大和五条藩|五条]](5), [[尼崎藩|尼崎]](5-6), [[西宮神社|西宮]](5-6), [[神戸市|神戸]](5)
| style="white-space:nowrap"| [[畿内]] || [[京都]](4-5), [[伏見宿 (京街道)|伏見]](5), [[宇治郡|宇治]](5), [[門真神社|門真]](5-6), [[服部 (豊中市)|服部]](6), [[大坂]](5-6), [[布施 (東大阪市)|布施]](6), [[堺市|堺]](5), [[岸和田藩|岸和田]](5-6), [[奈良市|奈良]](5), [[郡山藩|郡山]](5), [[大和五条藩|五条]](5), [[尼崎藩|尼崎]](5-6), [[西宮神社|西宮]](5-6), [[兵庫津|神戸]](5)
|-
|-
| style="white-space:nowrap"| [[東海道五十三次|東海道]]<br/>(宿場町) || [[江戸]](e) - [[品川宿|品川]] - [[川崎宿|川崎]] - [[神奈川宿|神奈川]] - [[程ヶ谷宿|程ヶ谷]] - [[戸塚宿|戸塚]] - [[藤沢宿|藤沢]](E) - [[平塚宿|平塚]] - [[大磯宿|大磯]] - [[小田原宿|小田原]] - [[箱根宿|箱根]] - [[三島宿|三島]] - [[沼津宿|沼津]] - [[原宿 (東海道)|原]] - [[吉原宿|吉原]] - [[蒲原宿|蒲原]] - [[由比宿|由比]] - [[興津宿|興津]] - [[江尻宿|江尻]](E) - [[府中宿|府中]] - [[鞠子宿|鞠子]] - [[岡部宿|岡部]] - [[藤枝宿|藤枝]] - [[島田宿|島田]] - [[金谷宿|金谷]] - [[日坂宿|日坂]] - [[掛川宿|掛川]](4-5) - [[袋井宿|袋井]](4-5) - [[見附宿|見附]] - [[浜松宿|浜松]] - [[舞阪宿|舞阪]] - [[新居宿|新居]](E) - [[白須賀宿|白須賀]] - [[二川宿|二川]] - [[吉田宿|吉田]](E) - [[御油宿|御油]] - [[赤坂宿 (東海道)|赤坂]] - [[藤川宿|藤川]] - [[岡崎宿|岡崎]] - [[池鯉鮒宿|池鯉鮒]] - [[鳴海宿|鳴海]] - [[宮宿|宮]] - [[桑名宿|桑名]](4-5) - [[四日市宿|四日市]](5-6) - [[石薬師宿|石薬師]] - [[庄野宿|庄野]] - [[亀山宿|亀山]] - [[関宿|関]] - [[坂下宿|坂下]] - [[土山宿|土山]] - [[水口宿|水口]] - [[石部宿|石部]] - [[草津宿|草津]] - [[大津宿|大津]](S) - 京都(4-5)
| style="white-space:nowrap"| [[東海道五十三次|東海道]]<br/>(宿場町) || [[江戸]](e) - [[品川宿|品川]] - [[川崎宿|川崎]] - [[神奈川宿|神奈川]] - [[程ヶ谷宿|程ヶ谷]] - [[戸塚宿|戸塚]] - [[藤沢宿|藤沢]](E) - [[平塚宿|平塚]] - [[大磯宿|大磯]] - [[小田原宿|小田原]] - [[箱根宿|箱根]] - [[三島宿|三島]] - [[沼津宿|沼津]] - [[原宿 (東海道)|原]] - [[吉原宿|吉原]] - [[蒲原宿|蒲原]] - [[由比宿|由比]] - [[興津宿|興津]] - [[江尻宿|江尻]](E) - [[府中宿|府中]] - [[鞠子宿|鞠子]] - [[岡部宿|岡部]] - [[藤枝宿|藤枝]] - [[島田宿|島田]] - [[金谷宿|金谷]] - [[日坂宿|日坂]] - [[掛川宿|掛川]](4-5) - [[袋井宿|袋井]](4-5) - [[見附宿|見附]] - [[浜松宿|浜松]] - [[舞阪宿|舞阪]] - [[新居宿|新居]](E) - [[白須賀宿|白須賀]] - [[二川宿|二川]] - [[吉田宿|吉田]](E) - [[御油宿|御油]] - [[赤坂宿 (東海道)|赤坂]] - [[藤川宿|藤川]] - [[岡崎宿|岡崎]] - [[池鯉鮒宿|池鯉鮒]] - [[鳴海宿|鳴海]] - [[宮宿|宮]] - [[桑名宿|桑名]](4-5) - [[四日市宿|四日市]](5-6) - [[石薬師宿|石薬師]] - [[庄野宿|庄野]] - [[亀山宿|亀山]] - [[関宿|関]] - [[坂下宿|坂下]] - [[土山宿|土山]] - [[水口宿|水口]] - [[石部宿|石部]] - [[草津宿|草津]] - [[大津宿|大津]](S) - 京都(4-5)
96行目: 99行目:


=== 地殻変動 ===
=== 地殻変動 ===
地震による[[地殻変動]]の結果、四国、[[紀伊半島]]は南東上りの傾動を示し、串本(現・[[串本町]])は1-1.2m、[[室戸岬]]は1.2mそれぞれ隆起した(汐四尺程へり『久保野繁馬所蔵記録』)。[[足摺岬]]は伊佐浦で五尺(約1.5m)隆起した(『嘉永七寅年地震津浪記』)<ref name="Tsuji1988">都司嘉宣(1988): 安政南海地震(安政元年11月5日,1854・11・24)に伴う四国の地盤変動, 歴史地震, 4号, 149-156.</ref>。
地震による[[地殻変動]]の結果、四国、[[紀伊半島]]は南東上りの傾動を示し、串本(現・[[串本町]])は1-1.2m、[[室戸岬]]は1.2mそれぞれ隆起した(汐四尺程へり『久保野繁馬所蔵記録』)。[[足摺岬]]は伊佐浦で五尺(約1.5m)隆起した(『嘉永七寅年地震津浪記』)<ref name="Tsuji1988">{{Cite journal |date=1988 |url= |title=安政南海地震(安政元年11月5日,1854・11・24)に伴う四国の地盤変動 |format= |author=都司嘉宣 |accessdate= |journal=歴史地震 |volume=4 |issue= |pages=149-156}}</ref>。


加太(現・[[和歌山市]])1m、甲浦(現・[[東洋町]])は1.2m沈下、高知周辺も3.5尺(約1m)沈下して[[潮江村]]、新町下知一円など[[新田]]の所が海となった(『続地震雑纂』)<ref name="Teraishi" />。宇佐(現・[[土佐市]])でも「宇佐福嶋一面の海と成る」(『眞覚寺日記』)の記録があり、上ノ加江(現・[[中土佐町]])では『大変略記』に「上の賀江久礼平生潮より五尺高、在所に迄汐入る」とあり<ref name="Musha" />地盤は1.5m沈下した<ref name="jiten">[[宇津徳治]]、嶋悦三、吉井敏尅、山科健一郎 『地震の事典』 朝倉書店、2001年</ref>。
加太(現・[[和歌山市]])1m、甲浦(現・[[東洋町]])は1.2m沈下、高知周辺も3.5尺(約1m)沈下して[[潮江村]]、新町下知一円など[[新田]]の所が海となった(『続地震雑纂』)<ref>[[#Teraishi (1923)|寺石(1923), p44-45.]]</ref>。宇佐(現・[[土佐市]])でも「宇佐福嶋一面の海と成る」(『眞覚寺日記』<ref name="Earthquake Research Institute (1987b)-2249">[[#Earthquake Research Institute (1987b)|『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』, p2249-2306.]]</ref>)の記録があり、上ノ加江(現・[[中土佐町]])では『大変略記』に「上の賀江久礼平生潮より五尺高、在所に迄汐入る」とあり<ref>[[#Musha (1951)|『日本地震史料』, p198.]]</ref>地盤は1.5m沈下した<ref name="Utsu et al. (2001)" />。


地震により[[道後温泉]]は106日間湧出が停止し翌年2月23日([[1855年]]4月9日)から再び湧き出し(『松山市要』)、[[湯の峰温泉|湯ノ峰温泉]]も翌年の2 - 3月頃まで出湯が停止した(『田所氏記録』)<ref name="Usami2003" />。
地震により[[道後温泉]]は106日間湧出が停止し翌年2月23日([[1855年]]4月9日)から再び湧き出し(『松山市要』)、[[南紀白浜温泉|鉛山村温泉]]も崎之湯は翌年3月まで一滴も出ず、[[湯の峰温泉|湯ノ峰温泉]]も翌年の2 - 3月頃まで出湯が停止した(『田所氏記録』<ref>[[#Musha (1951)|『日本地震史料』, p91-95.]]</ref>)<ref name="Usami (2003)" />。


このような南東上がりの地殻変動は宝永地震および[[昭和東南海地震|昭和東南海]]・[[昭和南海地震|南海地震]]と同様であり、南海トラフ西側において[[ユーラシアプレート]]が[[衝上断層|衝上]]する低角逆断層の[[地震#プレート間地震|プレート境界型地震]]であることを示唆している<ref name="Ando1975" />。
このような南東上がりの地殻変動は宝永地震および[[昭和東南海地震|昭和東南海]]・[[昭和南海地震|南海地震]]と同様であり、南海トラフ西側において[[ユーラシアプレート]]が[[衝上断層|衝上]]する低角逆断層の[[地震#プレート間地震|プレート境界型地震]]であることを示唆している<ref name="Ando1975" />。


=== 規模 ===
=== 規模 ===
[[File:Fault models of 1854 Ansei-Nankai-earthquake.png|thumb|right|270px|安政南海地震の安藤(1975)<ref name="Ando1975" />および相田(1981)<ref name="Aida2">{{Cite journal |date=1981b |url=http://hdl.handle.net/2261/12828 |title=南海道沖の津波の数値実験 |format= |author=相田勇 |accessdate= |journal=東京大学地震研究所彙報 |volume=56 |issue=4 |pages=713-730}}</ref>の断層モデルによる震源域(各断層は矩形で近似されている)。および、南海トラフの巨大地震モデル検討会による震源域<ref name="Chuobosai2015">{{Cite web |author=南海トラフの巨大地震モデル検討会 |title=別冊①-3南海トラフ沿いの過去地震の津波断層モデル(図表集) |url=http://www.bousai.go.jp/jishin/nankai/pdf/jishinnankai20151217_03.pdf |format=PDF |work= |publisher=中央防災会議 |date=2015-12 |accessdate=2018-02-05}}</ref>。]]
[[河角廣]](1951)は規模''M''<sub>K</sub> = 7. を与え<ref>[http://hdl.handle.net/2261/11692 Kawasumi(1951)] 有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値,東京大學地震研究所彙報. 第29冊第3号, 1951.10.5, pp.469-482.</ref>、[[マグニチュード]]は ''M'' = 8.4に換算されている。宇佐美龍夫(1970)はこの河角の規模と気象庁マグニチュードの関係を検討し、やはり8.4に近いであろうと推定したが当時はモーメントマグニチュードという概念は存在せず、1960年の[[チリ地震 (1960年)|チリ地震]]も''M'' 8.5とされていた<ref name="Usami2003" /><ref>[http://hdl.handle.net/2261/12546 宇佐美龍夫(1970)] 宇佐美龍夫、茅野一郎(1970): 河角の規模と気象庁の規模との関係, 東京大学地震研究所彙報, 第48冊第5号</ref>、数値実験から2つの大きな[[断層]]モデルが仮定されている。各断層個別のモーメントマグニチュード ''M''w は西側からそれぞれ、8.4, 8.2(合計で ''M''w = 8.5)と推定された。この断層モデルは[[昭和南海地震|1946年南海地震]]の紀伊半島側の断層モデルを北側にずらし四国側の断層モデルを延長して、それぞれのすべり量に多少の変更を加えたものであった<ref name="Aida">[http://hdl.handle.net/2261/12828 相田勇(1981)] 相田勇(1981): 南海道沖の津波の数値実験, 東京大学地震研究所彙報, '''56''', 713-730.</ref><ref name="Rikitake">[[力武常次]] 『固体地球科学入門』 共立出版、1994年</ref>。
[[河角廣]](1951)は規模''M''<sub>K</sub> = 7. を与え<ref>{{Cite journal |date=1951.10.5 |url=http://hdl.handle.net/2261/11692 |title=有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値 |format= |author=河角廣 |accessdate= |journal=東京大學地震研究所彙報 |volume=29 |issue=3 |pages=469-482}}</ref>、[[マグニチュード]]は ''M'' = 8.4に換算されている。宇佐美龍夫(1970)はこの河角の規模と気象庁マグニチュードの関係を検討し、やはり8.4に近いであろうと推定したが当時はモーメントマグニチュードという概念は存在せず、1960年の[[チリ地震 (1960年)|チリ地震]]も''M'' 8.5とされていた<ref>{{Cite journal |date=1970 |url=http://hdl.handle.net/2261/12546 |title=河角の規模と気象庁の規模との関係 |format= |author=宇佐美龍夫・茅野一郎 |accessdate= |journal=東京大学地震研究所彙報 |volume=48 |issue=5 |pages=923-933}}</ref>、1975年に安藤雅孝は、数値実験から2つの大きな[[断層]]モデルを仮定し<ref name="Ando1975" />、1981年の相田勇のモデルは、安藤のモデルの内、東側の断層を北側へ移動させたものであった<ref name="Aida2" />。各断層個別のモーメントマグニチュード ''M''w は西側からそれぞれ、8.4, 8.2(合計で ''M''w = 8.5)と推定された。この断層モデルは[[昭和南海地震|1946年南海地震]]の紀伊半島側の断層モデル<ref>{{Cite journal |date=1972 |url=https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/0031920172900829 |title=Tectonic implications of the 1944 Tonankai and the 1946 Nankaido earthquakes |format= |author=Hiroo Kanamori |accessdate= |journal=Physics of the Earth and Planetary Interiors |volume=5 |issue= |pages=129–139}}</ref>を北側にずらし四国側の断層モデルを延長して、それぞれのすべり量に多少の変更を加えたものであった<ref name="Rikitake (1994)">[[#Rikitake (1994)|力武(1994), p66-67.]]</ref><ref>[[#Sato et al. (1989)|佐藤(1989), p132-133.]]</ref>。


内閣府の「南海トラフの巨大地震モデル検討会」による「南海トラフ沿いの巨大地震による長周期地震動に関する報告」では、東海地震を含む安政地震全体として''M''w8.84の断層モデルが想定され<ref>南海トラフの巨大地震モデル検討会, {{PDFlink|[http://www.bousai.go.jp/jishin/nankai/pdf/jishinnankai20151217_03.pdf 別冊①-3南海トラフ沿いの過去地震の津波断層モデル(図表集)]}}</ref>、同モデルを用いた建築研究所では安政東海地震の断層モデルとして地震モーメント''M''<sub>0</sub> = 9.02 × 10<sup>21</sup>N・m (''M''w8.6)を想定しており<ref>建築研究所, {{PDFlink|[http://www.kenken.go.jp/japanese/contents/topics/lpe/23.pdf 「別紙2 付録3」長周期地震動評価に使用した震源モデル]}}</ref>、この地震モーメントを差し引けば安政南海地震は''M''w8.7となる。
内閣府の「南海トラフの巨大地震モデル検討会」による「南海トラフ沿いの巨大地震による長周期地震動に関する報告」では、東海地震を含む安政地震全体として''M''w8.84の断層モデルが想定され<ref name="Chuobosai2015" />、同モデルを用いた建築研究所では安政東海地震の断層モデルとして地震モーメント''M''<sub>0</sub> = 9.02 × 10<sup>21</sup>N・m (''M''w8.6)を想定しており<ref>建築研究所, {{PDFlink|[http://www.kenken.go.jp/japanese/contents/topics/lpe/23.pdf 「別紙2 付録3」長周期地震動評価に使用した震源モデル]}}</ref>、この地震モーメントを差し引けば安政南海地震は''M''w8.7となる。


=== 余震 ===
=== 余震 ===
[[File:Shinkakuji temple.jpg|thumb|right|240px|眞覚寺、安政南海地震およびその余震について記した『眞覚寺日記』で知られる。右下は[[昭和南海地震]]津波碑。[[高知県]][[土佐市]]宇佐。]]
[[File:Shinkakuji temple.jpg|thumb|right|240px|眞覚寺、安政南海地震およびその余震について記した『眞覚寺日記』で知られる。右下は[[昭和南海地震]]津波碑。[[高知県]][[土佐市]]宇佐。]]
この地震の約40時間後、11月7日[[辰]]下刻(1854年12月26日9時頃)には[[豊後水道]]付近を震源とする[[豊予海峡地震]](''M'' 7.4)があり[[伊予国|伊予]]から[[豊後国|豊後]]付近で激しく揺れ[[大洲藩|伊予大洲]]や[[伊予吉田藩|伊予吉田]]で潰家があった<ref name="Dainippon" />。
この地震の約40時間後、11月7日[[辰]]下刻(1854年12月26日9時頃)には[[豊後水道]]付近を震源とする[[豊予海峡地震]](''M'' 7.4)があり[[伊予国|伊予]]から[[豊後国|豊後]]付近で激しく揺れ[[大洲藩|伊予大洲]]や[[伊予吉田藩|伊予吉田]]で潰家があった<ref>[[#Musha (1951)|『日本地震史料』, p468-469.]]</ref>。


安政元年[[大晦日]]辰刻([[1855年]]2月16日8時頃)に高知付近で大規模な余震があり徳島(『徳島県板野郡誌』)および田辺(『田所氏記録』)でも強く感じられ、その直後余震数が急増している<ref name="Usami2003" />。
安政元年[[大晦日]]辰刻([[1855年]]2月16日8時頃)に高知付近で大規模な余震があり徳島(『徳島県板野郡誌』)および田辺(『田所氏記録』)でも強く感じられ、その直後余震数が急増している<ref name="Usami (2003)" />。


[[土佐市]]宇佐眞覚寺の住職、井上静照師による地震被害の詳細な記録である『眞覚寺日記』には毎日の地震が記録され、余震は[[文久]]3年[[極月]]卅日([[1864年]]2月7日)「此頃地震もなきニ馬鹿らしく何を書そへ下手ノ横好」と地震日記を締め括るまでの9年間で2979回(計2981回、東海地震・南海地震の本震2回は除く)記録された。有感余震回数は昭和南海地震を大幅に上回るものであった。この余震回数を改良[[大森公式]]に当てはめると係数''p'' = 0.9-1.0、''c'' = 0.8-1.0となる<ref>[http://hdl.handle.net/2261/12592 宇佐美龍夫(1975)] 宇佐美龍夫(1975): 安政元年南海地震の余震 -歴史的地震の余震の減り方-, 東京大学地震研究所彙報, '''50''', 153-169.</ref>。
[[土佐市]]宇佐眞覚寺の住職、井上静照師による地震被害の詳細な記録である『眞覚寺日記』<ref name="Earthquake Research Institute (1987b)-2249" />には毎日の地震が記録され、余震は[[文久]]3年[[極月]]卅日([[1864年]]2月7日)「此頃地震もなきニ馬鹿らしく何を書そへ下手ノ横好」と地震日記を締め括るまでの9年間で2979回(計2981回、東海地震・南海地震の本震2回は除く)記録された。有感余震回数は昭和南海地震を大幅に上回るものであった。この余震回数を改良[[大森公式]]に当てはめると係数''p'' = 0.9-1.0、''c'' = 0.8-1.0となる<ref>{{Cite journal |date=1975 |url=http://hdl.handle.net/2261/12592 |title=安政元年南海地震の余震 -歴史的地震の余震の減り方- |format= |author=宇佐美龍夫 |accessdate= |journal=東京大学地震研究所彙報 |volume=50 |issue= |pages=153-169}}</ref>。


高知城下では番匠町の水門の番人により、地震後1ヶ年間に817回の余震が記録されている<ref name="Teraishi" />。この高知城下における有感余震数は、震源域に近い宇佐よりも少ない<ref>{{PDFlink|[http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou31/07_04.pdf 高知大学付属地震観測所(2008)]}} 高知大学理学部附属高知地震観測所(2008): 安政南海地震の余震活動. -「真覚寺地震日記」と新史料「地震日記-木屋本」との比較-, 地震予知連絡会会報</ref>。
高知城下では番匠町の水門の番人により、地震後1ヶ年間に817回の余震が記録されている(『地震日記』<ref>[[#Musha (1951)|『日本地震史料』, p170-171.]]</ref><ref>[[#Earthquake Research Institute (1987b)|『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』, p2225-2245.]]</ref>)<ref>[[#Teraishi (1923)|寺石(1923), p46-47.]]</ref>。この高知城下における有感余震数は、震源域に近い宇佐よりも少ない<ref>{{Cite journal |date= |url=http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou31/07_04.pdf |title=安政南海地震の余震活動. -「真覚寺地震日記」と新史料「地震日記-木屋本」との比較- |format=PDF |author=高知大学付属地震観測所 |accessdate= |journal=地震予知連絡会会報 |volume=31 |issue= |pages=}}</ref>。


{| class="wikitable"
{| class="wikitable"
155行目: 159行目:


== 津波 ==
== 津波 ==
紀伊半島以西では東海地震よりさらに激しい[[津波]]が襲来し、波高は[[串本]]15m、宍喰5-6m、室戸3.3m、種崎11m、久礼で16.1mに達した<ref name="Usami2003" /><ref name="Imamura">[[今村明恒]] 『地震の国』 文芸春秋新社、1949年</ref>。『末世之記録大地震大津浪上り』には[[熊野]]新宮(現・[[新宮市]])より東は四日の地震にて津波が上ったと記され、那智勝浦では昨日の津浪に対し思いの外軽く見えたと記録されている(『藤社家雑録』、『新田家過去帳』)。[[潮岬]]以西の津波被害は主に南海地震津波によるものであった<ref name="jiten" />。
紀伊半島以西では東海地震よりさらに激しい[[津波]]が襲来し、波高は[[串本]]15m、宍喰5-6m、室戸3.3m、種崎11m、久礼で16.1mに達した<ref name="Usami (2003)" /><ref name="Imamura (1949)">[[#Imamura (1949)|今村(1949), 172-177.]]</ref>。『末世之記録大地震大津浪上り』<ref>[[#Earthquake Research Institute (1987b)|『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』, p1576.]]</ref>には[[熊野]]新宮(現・[[新宮市]])より東は四日の地震にて津波が上ったと記され、那智勝浦では昨日の津浪に対し思いの外軽く見えたと記録されている(『藤社家雑録』<ref>[[#Musha (1951)|『日本地震史料』, p362.]]</ref>、『新田家過去帳』<ref>[[#Musha (1951)|『日本地震史料』, p362.]]</ref>)。[[潮岬]]以西の津波被害は主に南海地震津波によるものであった<ref name="Utsu et al. (2001)" />。


波高は全般的に見て[[土佐湾]]沿いで昭和南海地震より2倍程高く、宝永地震の半分程度であるが、[[美波町]]田井ノ浜の池の津波堆積物の厚さによる推定から徳島県東岸等では一部宝永津波を上回った所もあった<ref>{{PDFlink|[http://web.archive.org/web/20120220040020/http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/nankai_trough/chukan_matome.pdf 南海トラフの巨大地震モデル検討会]}} 南海トラフの巨大地震モデル検討会 中間とりまとめ 産業技術総合研究所報告(2012年2月20日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。
波高は全般的に見て[[土佐湾]]沿いで昭和南海地震より2倍程高く、宝永地震の半分程度であるが、[[美波町]]田井ノ浜の池の津波堆積物の厚さによる推定から徳島県東岸等では一部宝永津波を上回った所もあった<ref>{{PDFlink|[http://web.archive.org/web/20120220040020/http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/nankai_trough/chukan_matome.pdf 南海トラフの巨大地震モデル検討会]}} 南海トラフの巨大地震モデル検討会 中間とりまとめ 産業技術総合研究所報告(2012年2月20日時点の[[インターネットアーカイブ|アーカイブ]])</ref>。

一方で前日に起きた東海地震の教訓が生かされ被害が軽減された面もある。紀伊や阿波などでは東海地震で強い揺れと津波を経験し、翌日の南海地震のより強大な揺れと津波への準備となった<ref name="Naikakufu bousai2005-3">{{Cite web |author=都司嘉宣 |title=中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1854年安政東海地震・安政南海地震」, 第3章, 第5節, 当時の先人自身が残した教訓 |url=http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1854_ansei_toukai_nankai_jishin/index.html |format= |work= |publisher=内閣府 |date=2005 |accessdate=2018-02-05}}</ref>。


{| class="wikitable" style="line-height:1.25em; font-size:95%; margin-right:0px;"
{| class="wikitable" style="line-height:1.25em; font-size:95%; margin-right:0px;"
163行目: 169行目:
! rowspan="2" colspan="2" style="background-color:#669999" | 地域 !! colspan="5" style="line-height:1.6em; background-color:#aad" | 推定波高・遡上高
! rowspan="2" colspan="2" style="background-color:#669999" | 地域 !! colspan="5" style="line-height:1.6em; background-color:#aad" | 推定波高・遡上高
|-
|-
! 古文書の記録 !! style="vertical-align:top; white-space:nowrap;" | [[今村明恒|今村]]<br />(1935-40)<br /><ref name="Imamura1938a">[http://dx.doi.org/10.14834/zisin1929.10.394 今村明恒(1938)] 今村明恒(1938): 土佐における宝永・安政両度津浪の高さ, 地震 第1輯, '''10''', 394-404,{{JOI|JST.Journalarchive/zisin1929/10.394}}</ref> !! style="vertical-align:top; white-space:nowrap;" | 羽鳥<br />(1977-84) !! style="vertical-align:top; white-space:nowrap;" | [[都司嘉宣|都司]]<br />(2007-11) !! style="vertical-align:top; white-space:nowrap;" |その他
! 古文書の記録 !! style="vertical-align:top; white-space:nowrap;" | [[今村明恒|今村]]<br />(1935-40)<br /><ref name="Imamura (1938a)">{{Cite journal |date=1938 |url=http://doi.org/10.14834/zisin1929.10.394 |title=土佐における宝永・安政両度津浪の高さ |format= |author=今村明恒 |accessdate= |journal=地震 第1輯 |volume=10 |issue= |pages=394-404}} {{JOI|JST.Journalarchive/zisin1929/10.394}}</ref> !! style="vertical-align:top; white-space:nowrap;" | 羽鳥<br />(1977-84) !! style="vertical-align:top; white-space:nowrap;" | [[都司嘉宣|都司]]<br />(2007-11) !! style="vertical-align:top; white-space:nowrap;" |その他
|-
|-
| style="white-space:nowrap;" | [[伊豆国|伊豆]]下田 || style="white-space:nowrap;" | 現・[[静岡県]][[下田市]] || 夕六ツ半頃、又津波来り申候。下田岡方村江上り候得共、最早流し候人家無故に、さして騒ぎ不申候。二の潮も凡十町許の方まで上り申候。『伊豆下田より之書状』 || || || || 2m<ref name="Ishibashi" />
| style="white-space:nowrap;" | [[伊豆国|伊豆]]下田 || style="white-space:nowrap;" | 現・[[静岡県]][[下田市]] || 夕六ツ半頃、又津波来り申候。下田岡方村江上り候得共、最早流し候人家無故に、さして騒ぎ不申候。二の潮も凡十町許の方まで上り申候。『伊豆下田より之書状』 || || || || 2m<ref name="Ishibashi (1994)-28" />
|-
|-
| [[紀伊国|紀伊]]勝浦 || 現・[[和歌山県]][[那智勝浦町]] || 五日七ツ時迄ニ又々大地震ニテ、又津浪起リ、(中略)此辺ハ昨日ノ浪ヨリ思ノ外小浪ニテ『藤社家雑録』 || || 2m<ref name="Hatori1980">[http://hdl.handle.net/2261/12765 羽鳥徳太郎(1980)] [[羽鳥徳太郎]](1980): 22. 大阪府・和歌山県沿岸における 宝永・安政南海道津波の調査地震研究所彙報,55, 505-535.</ref> || ||
| [[紀伊国|紀伊]]勝浦 || 現・[[和歌山県]][[那智勝浦町]] || 五日七ツ時迄ニ又々大地震ニテ、又津浪起リ、(中略)此辺ハ昨日ノ浪ヨリ思ノ外小浪ニテ『藤社家雑録』 || || 2m<ref name="Hatori1980">{{Cite journal |date=1980 |url=http://hdl.handle.net/2261/12765 |title=22. 大阪府・和歌山県沿岸における 宝永・安政南海道津波の調査 |format= |author=羽鳥徳太郎 |accessdate= |journal=地震研究所彙報 |volume=55 |issue= |pages=505-535}}</ref> || ||
|-
|-
| 串本 || 現・[[串本町]] || 江田組・二色にて凡浪重五丈余『和歌山県串本町誌』 || || 4.5m<ref name="Hatori1980" /> || 6m<ref>{{PDFlink|[http://www.bousai.go.jp/jishin/chubou/kyoukun/rep/1854-ansei-toukai_nankaiJISHIN/1854-ansei-toukai_nankaiJISHIN_05_chap2.pdf 都司嘉宣]}} 都司嘉宣: 第2章 安政東海・南海地震(1854)の詳細実態, 中央防災会議</ref><ref name="Tsuji1992">都司嘉宣(1992):『南海地震,日本の大地震』,地震学会ニュースレター,4, 4, 8-12.</ref> || 15m<ref name="Usami2003" />
| 串本 || 現・[[串本町]] || 江田組・二色にて凡浪重五丈余『和歌山県串本町誌』 || || 4.5m<ref name="Hatori1980" /> || 6m<<ref name="Naikakufu bousai2005-2">{{Cite web |author=都司嘉宣 |title=中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1854年安政東海地震・安政南海地震」, 第2章, 第3節, 2. 安政東海地震の詳細震度分布と津波浸水高さ分布 |url=http://www.bousai.go.jp/kyoiku/kyokun/kyoukunnokeishou/rep/1854_ansei_toukai_nankai_jishin/index.html |format= |work= |publisher=内閣府 |date=2005 |accessdate=2018-02-05}}</ref><ref name="Tsuji1992">都司嘉宣(1992):『南海地震,日本の大地震』,地震学会ニュースレター,4, 4, 8-12.</ref> || 15m<ref name="Usami (2003)" />
|-
|-
| 古座 || 現・串本町 || 袋湊は常水より三丈の溢れ入りたるよし『地震洪浪の記』 || || 4.5-5m<ref name="Hatori1980" /> || || 9m<ref name="Usami2003" />
| 古座 || 現・串本町 || 袋湊は常水より三丈の溢れ入りたるよし『地震洪浪の記』 || || 4.5-5m<ref name="Hatori1980" /> || || 9m<ref name="Usami (2003)" />
|-
|-
| [[紀伊田辺藩|田辺]] || 現・[[田辺市]] || 津浪は会津川筋の秋津、釘貫井辺迄、町中は上片町小坂迄、袋町小坂迄、下長町、伊丹屋新七宅前迄『和歌山県下に於ける宝永安政年度の津浪状況調査』 || 12尺<ref name="Imamura1938b">[http://dx.doi.org/10.14834/zisin1929.10.236 今村明恒(1938)] 今村明恒(1938): 和歌山下に於ける永安政年度の津浪状況調査, 和歌山県土木課調査</ref> || 3-3.5m<ref name="Hatori1980" /> || ||
| [[紀伊田辺藩|田辺]] || 現・[[田辺市]] || 津浪は会津川筋の秋津、釘貫井辺迄、町中は上片町小坂迄、袋町小坂迄、下長町、伊丹屋新七宅前迄『和歌山県下に於ける宝永安政年度の津浪状況調査』 || 12尺<ref name="Imamura1938b">{{Cite journal |date=1938 |url=http://dx.doi.org/10.14834/zisin1929.10.236 |title=和歌山下に於ける永安政年度の津浪状況調査 |format= |author=今村明恒 |accessdate= |journal=地震 第1輯 |volume=10 |issue=6 |pages=236-249}}</ref> || 3-3.5m<ref name="Hatori1980" /> || ||
|-
|-
| 広 || 現・[[広川町 (和歌山県)|広川町]] || [[広八幡神社|八幡]]下の俗称一本松の根元まで来た || 海岸6m、<br />一本松8.0m<ref name="Imamura1940">[http://dx.doi.org/10.14834/zisin1929.12.220 今村明恒(1940)] 今村明恒(1940): 廣村に於ける寳永安政兩度津浪の高さ, 地震 第1輯, 12, 5, pp.220-222.</ref> || 5m<ref name="Hatori1983">[http://hdl.handle.net/2261/12872 羽鳥徳太郎(1983)] 羽鳥徳太郎、相田勇、坂下至功、日比谷紀之(1983): 7.和歌山県湯浅・広に遡上した南海道津波の調査, 東京大学地震研究所彙報, '''58''' (1), pp.187- 206.</ref> || ||
| 広 || 現・[[広川町 (和歌山県)|広川町]] || [[広八幡神社|八幡]]下の俗称一本松の根元まで来た || 海岸6m、<br />一本松8.0m<ref name="Imamura1940">{{Cite journal |date=1940 |url=http://doi.org/10.14834/zisin1929.10.394 |title=廣村に於ける寳永安政兩度津浪の高さ |format= |author=今村明恒 |accessdate= |journal=地震 第1輯 |volume=12 |issue=5 |pages=220-222}}</ref> || 5m<ref name="Hatori1983">{{Cite journal |date=1983 |url=http://hdl.handle.net/2261/12872 |title=7.和歌山県湯浅・広に遡上した南海道津波の調査 |format= |author=羽鳥徳太郎・相田勇・坂下至功・日比谷紀之 |accessdate= |journal= |volume=58 |issue=1 |pages=187-206}}</ref> || ||
|-
|-
| 湯浅 || 現・[[湯浅町]] || 津浪は南別所勝楽寺下及『和歌山県下に於ける宝永安政年度の津浪状況調査』 || 5.1m<ref name="Imamura1940" /> || 4.2m<ref name="Hatori1983" /> || ||
| [[湯浅]] || 現・[[湯浅町]] || 津浪は南別所勝楽寺下及『和歌山県下に於ける宝永安政年度の津浪状況調査』 || 5.1m<ref name="Imamura1940" /> || 4.2m<ref name="Hatori1983" /> || ||
|-
|-
| [[和泉国|和泉]][[堺市|堺]] || 現・[[大阪府]][[堺市]] || 暮なんころ俄に津波たちて、川すしへけハしく込いり『擁護璽碑文』 || || 2.5m<ref name="Hatori1980" /> || || 2.5m<ref name="Yamamoto">{{PDFlink|[http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_19/23-Yamamoto.pdf 山本尚明(2003)]}} 山本尚明(2003): 瀬戸内海の歴史南海地震津波について,『歴史地震 19号, 153-160.</ref>
| [[和泉国|和泉]][[堺市|堺]] || 現・[[大阪府]][[堺市]] || 暮なんころ俄に津波たちて、川すしへけハしく込いり『擁護璽碑文』 || || 2.5m<ref name="Hatori1980" /> || || 2.5m<ref name="Yamamoto">{{Cite journal |date=2003 |url=http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_19/23-Yamamoto.pdf |title=瀬戸内海の歴史南海地震津波について |format=PDF |author=山本尚明 |accessdate= |journal=歴史地震 |volume=19 |issue= |pages=153-160}}</ref>
|-
|-
| [[大坂]] || 現・[[大阪市]] || 船着の海岸雁木の処、五段は泥に成、夫より上四五段往来迄も水上り候『大坂地震津波荒増日記写』 || || 2.5-3m<ref name="Hatori1980" /> || || 3m<ref name="Yamamoto" /><ref name="Nagao">{{PDFlink|[http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_23/23_063.pdf 長尾武(2008)]}} 長尾武(2008): 1854 年安政南海地震津波,大阪への伝播時間と津波遡上高, 歴史地震 23号, 63-79.</ref>
| [[大坂]] || 現・[[大阪市]] || 船着の海岸雁木の処、五段は泥に成、夫より上四五段往来迄も水上り候『大坂地震津波荒増日記写』 || || 2.5-3m<ref name="Hatori1980" /> || || 3m<ref name="Yamamoto" /><ref name="Nagao">{{Cite journal |date=2008 |url=http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_23/23_063.pdf |title=1854年安政南海地震津波,大阪への伝播時間と津波遡上高 |format=PDF |author=長尾武 |accessdate= |journal=歴史地震 |volume=23 |issue= |pages=63-79}}</ref>
|-
|-
| [[播磨国|播磨]][[赤穂藩|赤穂]] || 現・[[兵庫県]][[赤穂市]] || 五日晩より夜分へ沖汐高くさし引不定津浪参り候と申立夜四つ時前ニ騒き申町灘目も一統山へ逃登り候『年中用事扣』 || || 3m<ref name="Hatori1988">[https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/41/2/41_2_215/_article/-char/ja/ 羽鳥徳太郎(1988)] 羽鳥徳太郎(1988): 瀬戸内海・豊後水道沿岸における宝永(1707)・安政(1854)・昭和(1946) 南海道津波の挙動,『地震第2輯 '''41''', 2, pp.215-221, {{JOI|JST.Journalarchive/zisin1948/41.215}}</ref> || || 3m<ref name="Yamamoto" />
| [[播磨国|播磨]][[赤穂藩|赤穂]] || 現・[[兵庫県]][[赤穂市]] || 五日晩より夜分へ沖汐高くさし引不定津浪参り候と申立夜四つ時前ニ騒き申町灘目も一統山へ逃登り候『年中用事扣』 || || 3m<ref name="Hatori1988">{{Cite journal |date=1988 |url=https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/41/2/41_2_215/_article/-char/ja/ |title=瀬戸内海・豊後水道沿岸における宝永(1707)・安政(1854)・昭和(1946) 南海道津波の挙動 |format= |author=羽鳥徳太郎 |accessdate= |journal=地震 第2輯 |volume=41 |issue=2 |pages=215-221}} {{JOI|JST.Journalarchive/zisin1948/41.215}}</ref> || || 3m<ref name="Yamamoto" />
|-
|-
| [[備前国|備前]]虫明 || 現・[[岡山県]][[岡山市]] || 平水より凡七尺余を増し『邑久郡誌』 || || 2m<ref name="Hatori1988" /> || || 2m<ref name="Yamamoto" />
| [[備前国|備前]]虫明 || 現・[[岡山県]][[岡山市]] || 平水より凡七尺余を増し『邑久郡誌』 || || 2m<ref name="Hatori1988" /> || || 2m<ref name="Yamamoto" />
201行目: 207行目:
| [[高松藩|高松]] || 現・[[高松市]] || 塩溜坪五百十二崩申候、塩浜石垣三千七百六十九間崩申候、汐除堤七千二百二十六間大破仕候『靖公実録』 || || 1.5m<ref name="Hatori1988" /> || || 1.5m<ref name="Yamamoto" />
| [[高松藩|高松]] || 現・[[高松市]] || 塩溜坪五百十二崩申候、塩浜石垣三千七百六十九間崩申候、汐除堤七千二百二十六間大破仕候『靖公実録』 || || 1.5m<ref name="Hatori1988" /> || || 1.5m<ref name="Yamamoto" />
|-
|-
| [[阿波国|阿波]]撫養 || 現・[[徳島県]][[鳴門市]] || 津波が一丈四・五尺の高さで撫養に襲来し、人家塩田は多くが浸水し、山西庄五郎の持船をはじめ多くの船が破損流失した。『鳴門市史』 || || 4m<ref name="Hatori1988" /> || || 1-2m<ref name="Murakami1996">[http://ci.nii.ac.jp/naid/110002941602 村上仁士(1996), CiNii] 村上仁士ほか(1996): 四国における歴史津波(1605慶長・1707宝永・1854安政)の津波高の再検討 ''自然災害科学'', '''15''' (1), pp.39- 52.</ref>
| [[阿波国|阿波]]撫養 || 現・[[徳島県]][[鳴門市]] || 津波が一丈四・五尺の高さで撫養に襲来し、人家塩田は多くが浸水し、山西庄五郎の持船をはじめ多くの船が破損流失した。『鳴門市史』 || || 4m<ref name="Hatori1988" /> || || 1-2m<ref name="Murakami1996">{{Cite journal |date=1996 |url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110002941602 |title=四国における歴史津波(1605慶長・1707宝永・1854安政)の津波高の再検討 |format= |author=村上仁士ほか |accessdate= |journal=自然災害科学 |volume=15 |issue=1 |pages=39-52}}</ref>
|-
|-
| 牟岐 || 現・[[徳島県]][[牟岐町]] || 汐の高さ三丈余、又山々の麓へ指込みし汐先は五六丈とも見えたり『安政元年地震被害高抄出』 || || 5-6m<ref name="Hatori1978b">[http://hdl.handle.net/2261/12664 羽鳥徳太郎(1978)] 羽鳥徳太郎(1978): 17. 高知・徳島における慶長・宝永・安政南海道津波の記念碑地震研究所彙報,53, 423-445.</ref> || 9m<ref name="Tsuji1992" /> || 9m<ref name="Usami2003" />
| 牟岐 || 現・[[徳島県]][[牟岐町]] || 汐の高さ三丈余、又山々の麓へ指込みし汐先は五六丈とも見えたり『安政元年地震被害高抄出』 || || 5-6m<ref name="Hatori1978b">{{Cite journal |date=1978 |url=http://hdl.handle.net/2261/12664 |title=17. 高知・徳島における慶長・宝永・安政南海道津波の記念碑 |format= |author=羽鳥徳太郎 |accessdate= |journal=地震研究所彙報 |volume=53 |issue= |pages=423-445}}</ref> || 9m<ref name="Tsuji1992" /> || 9m<ref name="Usami (2003)" />
|-
|-
| 浅川 || 現・[[海陽町]] || 津浪高サ弐丈ヨリ処により三丈余り観音堂石磴廿五段迄『浅川御崎神社大地震津浪記』 || || 7m<ref name="Hatori1978b" /> || || 6.5-7.2m<ref name="Murakami1996" />
| 浅川 || 現・[[海陽町]] || 津浪高サ弐丈ヨリ処により三丈余り観音堂石磴廿五段迄『浅川御崎神社大地震津浪記』 || || 7m<ref name="Hatori1978b" /> || || 6.5-7.2m<ref name="Murakami1996" />
|-
|-
| 宍喰 || 現・海陽町 || 港口の辺にて二丈三尺余『阿波海嘯誌略』 || || 5-6m<ref name="Hatori1978b" /> || || 6m<ref name="Usami2003" />
| 宍喰 || 現・海陽町 || 港口の辺にて二丈三尺余『阿波海嘯誌略』 || || 5-6m<ref name="Hatori1978b" /> || || 6m<ref name="Usami (2003)" />
|-
|-
| style="white-space:nowrap;" | [[土佐国|土佐]]室戸室津 || 現・[[高知県]][[室戸市]] || 津浪汐先は御家中町各々下も一丁位い浸る市中江は汐不入又下地は勿論新町近辺は是又各々下も一丁位い浸る昔宝永年中の津浪は大門前迄海の様に成と云此度津浪汐先き如此『大変記』 || || 3m<ref name="Hatori1978b" /> || || 3.3m<ref name="Usami2003" />
| style="white-space:nowrap;" | [[土佐国|土佐]]室戸室津 || 現・[[高知県]][[室戸市]] || 津浪汐先は御家中町各々下も一丁位い浸る市中江は汐不入又下地は勿論新町近辺は是又各々下も一丁位い浸る昔宝永年中の津浪は大門前迄海の様に成と云此度津浪汐先き如此『大変記』 || || 3m<ref name="Hatori1978b" /> || || 3.3m<ref name="Usami (2003)" />
|-
|-
| 安芸 || 現・[[安芸市]] || 御留山二二ヶ所・塩田八ヶ所・普請七四ヶ所大破した『安芸郡史考』 || || 4-5m<ref name="Hatori1978b" /> || ||
| 安芸 || 現・[[安芸市]] || 御留山二二ヶ所・塩田八ヶ所・普請七四ヶ所大破した『安芸郡史考』 || || 4-5m<ref name="Hatori1978b" /> || ||
|-
|-
| 種崎 || 現・[[高知市]] || 二本松の根もとを浸した || 11m<ref name="Imamura1938a" /> || 5m<ref name="Hatori1978b" /> || ||
| 種崎 || 現・[[高知市]] || 二本松の根もとを浸した || 11m<ref name="Imamura (1938a)" /> || 5m<ref name="Hatori1978b" /> || ||
|-
|-
| 高知 || 現・高知市 || 海面ヨリ高キコト凡ソ二十尺ナリ『浦戸港沿岸震浪記』 || || 1.8m<ref name="Hatori1978b" /> || ||
| 高知 || 現・高知市 || 海面ヨリ高キコト凡ソ二十尺ナリ『浦戸港沿岸震浪記』 || || 1.8m<ref name="Hatori1978b" /> || ||
219行目: 225行目:
| 宇佐 || 現・[[土佐市]] || 宇佐の地勢は前高く後低く東は岩崎西は福島の低みより汐先逃路を取巻故昔宝永の変にも油断の者夥敷流死の由今度もその遺談を信じ取あへず山手へ逃登る者皆恙なく『萩谷名号碑』 || 8.5m || 7-8m<ref name="Hatori1978b" /> || || 5.8-8.9m<ref name="Murakami1996" />
| 宇佐 || 現・[[土佐市]] || 宇佐の地勢は前高く後低く東は岩崎西は福島の低みより汐先逃路を取巻故昔宝永の変にも油断の者夥敷流死の由今度もその遺談を信じ取あへず山手へ逃登る者皆恙なく『萩谷名号碑』 || 8.5m || 7-8m<ref name="Hatori1978b" /> || || 5.8-8.9m<ref name="Murakami1996" />
|-
|-
| 須崎 || 現・[[須崎市]] || 七ツ時大地震半時バカリアリテ大塩入来其時地震ニ而家蔵潰レ地少々引サケ候ニ付浜町五六軒ノ者一同小船四五艘ニ取乗地震ノ難ヲ海上ニノガレ候場合イ大潮押来右船ノ者大凡流失ス『発生寺過去帳』 || 5m || 5m<ref name="Hatori1978b" /> || 8.9<ref name="Tsuji (2007)">{{PDFlink|[http://wwwsoc.nii.ac.jp/jepsjmo/cd-rom/2007cd-rom/program/pdf/T235/T235-010.pdf 都司嘉宣(2007)]}} 都司嘉宣, 行谷佑一(2007): 連動型巨大地震としての宝永地震(1707), 日本地球惑星科学連合2007年大会、T235, 010.</ref> || 5.5m<br />吾井郷7-8m<ref name="Murakami1996" />
| 須崎 || 現・[[須崎市]] || 七ツ時大地震半時バカリアリテ大塩入来其時地震ニ而家蔵潰レ地少々引サケ候ニ付浜町五六軒ノ者一同小船四五艘ニ取乗地震ノ難ヲ海上ニノガレ候場合イ大潮押来右船ノ者大凡流失ス『発生寺過去帳』 || 5m || 5m<ref name="Hatori1978b" /> || 8.9<ref name="Tsuji (2007)" /> || 5.5m<br />吾井郷7-8m<ref name="Murakami1996" />
|-
|-
| [[久礼]] || 現・[[中土佐町]] || 五十人許八幡社山に登り難を免れた『三災録』/社殿に懸れる絵馬の釘の辺まで浸水 || 海岸12.1m、<br />焼坂16.1m || 5.2m<ref name="Hatori1981">[http://hdl.handle.net/2261/12817 羽鳥徳太郎(1981)] 羽鳥徳太郎(1981): 高知県南西部の宝永・安政南海道津波の調査-久礼・入野・土佐清水の津波の高さ, 東京大学地震研究所彙報, '''56''' (3), pp.547- 570.</ref> || || 5.6-8.3m<ref name="Murakami1996" />
| [[久礼]] || 現・[[中土佐町]] || 五十人許八幡社山に登り難を免れた『三災録』/社殿に懸れる絵馬の釘の辺まで浸水 || 海岸12.1m、<br />焼坂16.1m || 5.2m<ref name="Hatori1981">{{Cite journal |date=1981 |url=http://hdl.handle.net/2261/12817 |title=高知県南西部の宝永・安政南海道津波の調査-久礼・入野・土佐清水の津波の高さ |format= |author=羽鳥徳太郎 |accessdate= |journal=東京大学地震研究所彙報 |volume=56 |issue=3 |pages=547- 570}}</ref> || || 5.6-8.3m<ref name="Murakami1996" />
|-
|-
| 入野 || style="white-space:nowrap;" |現・[[黒潮町]][[大方町|大方地区]] || 先を争ふて山頂に登山上より両川を窺見るに西牡蠣瀬川東吹上川を漲り潮正溢る是即海嘯也初潮頭緩々として進第二第三相追至第四潮勢最猛大にして実に肝を冷す家の漂流する事数を覚ず通計に海潮七度進退す初夜に至て潮全く退く園は砂漠となり田畛更に海と成る『加茂神社震災碑』 || || 6.5m<ref name="Hatori1981" /> || || 6-6.5m<ref name="Murakami1996" />
| 入野 || style="white-space:nowrap;" |現・[[黒潮町]][[大方町|大方地区]] || 先を争ふて山頂に登山上より両川を窺見るに西牡蠣瀬川東吹上川を漲り潮正溢る是即海嘯也初潮頭緩々として進第二第三相追至第四潮勢最猛大にして実に肝を冷す家の漂流する事数を覚ず通計に海潮七度進退す初夜に至て潮全く退く園は砂漠となり田畛更に海と成る『加茂神社震災碑』 || || 6.5m<ref name="Hatori1981" /> || || 6-6.5m<ref name="Murakami1996" />
231行目: 237行目:
| [[柏島]] || 現・[[大月町]] || 海上にて見及申処、騒動中三度許山の如き浪押入、そりや見よ柏島浦人どもは、残らず押潰したりと見る所『三災録』 || || 4m || 4m<ref name="Tsuji1992" /> || 3.3m<ref name="Murakami1996" />
| [[柏島]] || 現・[[大月町]] || 海上にて見及申処、騒動中三度許山の如き浪押入、そりや見よ柏島浦人どもは、残らず押潰したりと見る所『三災録』 || || 4m || 4m<ref name="Tsuji1992" /> || 3.3m<ref name="Murakami1996" />
|-
|-
| 宿毛大島|| 現・[[宿毛市]] || ハイタカ神社の石段七段目『甲寅大地震御手許日記』 || || || || 3.2m<ref name="Usami (2005)">[[#Usami (2005)|宇佐美(2005)]]</ref><ref name="Murakami1996" />
| 宿毛大島|| 現・[[宿毛市]] || ハイタカ神社の石段七段目『甲寅大地震御手許日記』 || || || || 3.2m<ref>[[#Usami (2005)|宇佐美(2005), p145-146.]]</ref><ref name="Murakami1996" />
|-
|-
| [[伊予吉田藩|伊予吉田]] || 現・[[宇和島市]] || 海岸附村方等は高浪に而、所々破損仕『書付留』 || || 4m<ref name="Hatori1988" /> || || 3.7m<ref name="Murakami1996" />
| [[伊予吉田藩|伊予吉田]] || 現・[[宇和島市]] || 海岸附村方等は高浪に而、所々破損仕『書付留』 || || 4m<ref name="Hatori1988" /> || || 3.7m<ref name="Murakami1996" />
241行目: 247行目:
| [[豊後国|豊後]][[杵築藩|杵築]] || 現・[[大分県]][[杵築市]] || 沖鳴致高潮来り候と口々ニ呼叫走帰り大混雑不一方、其中六軒町より不時之潮烈敷満来り『杵築町役所日記』 || || || || 1.5m<ref name="Yamamoto" />
| [[豊後国|豊後]][[杵築藩|杵築]] || 現・[[大分県]][[杵築市]] || 沖鳴致高潮来り候と口々ニ呼叫走帰り大混雑不一方、其中六軒町より不時之潮烈敷満来り『杵築町役所日記』 || || || || 1.5m<ref name="Yamamoto" />
|-
|-
| 佐伯 || 現・[[佐伯市]] || 申之下刻、俄ニ高汐川内ニ込入、枡方大土手外水一面ニ相成『御用日記』 || || 3m<ref name="Hatori1985">[http://hdl.handle.net/2261/12949 羽鳥徳太郎(1985)] 羽鳥徳太郎(1985): 九州東部沿岸における歴史津波の現地調査 1662年寛文・1769年明和日向灘および1707年宝永・1854年安政南海道津波, 東京大学地震研究所彙報, '''60''' (3), pp.439- 459.</ref> || || 7m<ref>[http://kn.ndl.go.jp/4c44c746-f218-4ae7-a7a0-12e345d6c0e2 千田昇(2006)] 千田昇、中上二美 「大分県佐伯市米水津とその周辺地域における宝永4年, 安政元年の南海地震と津波の分析」『大分大学教育福祉科学部研究紀要</ref>
| 佐伯 || 現・[[佐伯市]] || 申之下刻、俄ニ高汐川内ニ込入、枡方大土手外水一面ニ相成『御用日記』 || || 3m<ref name="Hatori1985">{{Cite journal |date=1985 |url=http://hdl.handle.net/2261/12949 |title=九州東部沿岸における歴史津波の現地調査 1662年寛文・1769年明和日向灘および1707年宝永・1854年安政南海道津波 |format= |author=羽鳥徳太郎 |accessdate= |journal=東京大学地震研究所彙報 |volume=60 |issue=3 |pages=439- 459}}</ref> || || 米水津7m<ref name="Chida">{{Cite journal |date=2006 |url=http://kn.ndl.go.jp/4c44c746-f218-4ae7-a7a0-12e345d6c0e2 |title=大分県佐伯市米水津とその周辺地域における宝永4年, 安政元年の南海地震と津波の分析 |format= |author=千田昇・中上二美 |accessdate= |journal=大分大学教育福祉科学部研究紀要 |volume= |issue= |pages=}}</ref>
|-
|-
| [[日向国|日向]]延岡 || 現・[[宮崎県]][[延岡市]] ||『勤向日記』 洪波ニ而浜方浪打越候場所茂有之 || || 2m<ref name="Hatori1985" /> || ||
| [[日向国|日向]]延岡 || 現・[[宮崎県]][[延岡市]] ||『勤向日記』 洪波ニ而浜方浪打越候場所茂有之 || || 2m<ref name="Hatori1985" /> || ||
|-
|-
| 美々津 || 現・[[日向市]] || 『勤向日記』美々津の儀は五日未明より遠沖汐合不穏之所、大地震にて高汐湊へ込入船々破損等も御座候由 || || 2-3m<ref name="Hatori1985" /> || ||
| 美々津 || 現・[[日向市]] || 美々津の儀は五日未明より遠沖汐合不穏之所、大地震にて高汐湊へ込入船々破損等も御座候由『勤向日記』 || || 2-3m<ref name="Hatori1985" /> || ||
|-
|-
| 外浦 || 現・[[日南市]] || || || 2-3m<ref name="Hatori1985" /> || ||
| 外浦 || 現・[[日南市]] || 飫肥外ノ浦海溢る。新堤の中央七八間壊決す。『日向郷土史年表』 || || 2-3m<ref name="Hatori1985" /> || ||
|-
|-
| [[サンフランシスコ]] || || 1[[フィート]]<ref name="Ishibashi" /> || || || || 0.3m
| [[サンフランシスコ]] || || 1[[フィート]]<ref name="Ishibashi (1994)-28" /> || || || || 0.3m
|}
|}


==== 下田・遠地津波 ====
津波襲来前には各地で大砲を撃つ様な音が聞こえ、[[紀伊田辺藩|紀伊田辺]]では「又坤に当て黒雲の中より火の玉飛出、海中に入事七八ツ、夫れより海鉄砲の音トーン/\と鳴渡り」(『干鰯屋善助翁手記』)という記録もある<ref name="Musha" />。また田辺の新庄では「海鉄砲三ツ鳴り、峯に登り少し過し候得ば津浪にて大土手崩れ白波立チ来り申候」(『塩崎幸夫家文書』)という記録もある。
前日の東海地震津波で壊滅した[[下田市|下田]]は再び2mの津波に洗われ<ref name="Ishibashi (1994)-28" />、[[アメリカ合衆国西海岸|アメリカ西海岸]]の[[サンフランシスコ]]や[[サンディエゴ]]の[[験潮場]]でも1[[フィート]](0.3m)の津波を観測した<ref name="Ishibashi (1994)-28" /><ref name="Omori">{{Cite journal |date=1913 |url=http://ci.nii.ac.jp/naid/110006605117 |title=本邦大地震概説 |format= |author=大森房吉 |accessdate= |journal=震災豫防調査會報告 |volume=68(乙) |issue= |pages=93-109}}</ref>。中国でも[[江蘇省]][[丹徒県]]において[[長江|揚子江]]の水面の震動が見られた<ref name="Ishibashi (1994)-28" />。


==== 紀伊半島 ====
同文書には前日の東海地震では「震(中)五ツ時分、半時余り」とあり浪が入ったことが記され、五日の南海地震は「震(大)七ツ時分よりゆり出し井戸の水も飛出申候」とあり、さらに津波は第3波が最大であったことが記されている<ref name="E.R.I.5-5-2(1987)" />。
津波襲来前には各地で大砲を撃つ様な音が聞こえ、[[紀伊田辺藩|紀伊田辺]]では「又坤に当て黒雲の中より火の玉飛出、海中に入事七八ツ、夫れより海鉄砲の音トーン/\と鳴渡り」(『干鰯屋善助翁手記』<ref>[[#Musha (1951)|『日本地震史料』, p350-354.]]</ref>)という記録もある。また田辺の新庄では「海鉄砲三ツ鳴り、峯に登り少し過し候得ば津浪にて大土手崩れ白波立チ来り申候」(『塩崎幸夫家文書』)という記録もある。

同文書には前日の東海地震では「震(中)五ツ時分、半時余り」とあり浪が入ったことが記され、五日の南海地震は「震(大)七ツ時分よりゆり出し井戸の水も飛出申候」とあり、さらに津波は第3波が最大であったことが記されている<ref>[[#Earthquake Research Institute (1987b)|『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』, p1588.]]</ref>。
{{Quotation|
{{Quotation|
津浪之事
津浪之事
269行目: 279行目:
}}
}}


{{multiple image|caption_align=center|header_align=center| align = right| direction = vertical| width = 180| header = |footer= | image1 = Hiromura Teibo Seawall Aerial photograph.jpg | alt1 = | caption1 = [[広村堤防]]付近の空中写真。 | image2 = Hamaguchi Goryo.jpg | alt2 = | caption2 = 濱口梧陵。}}
* [[大坂]]では地震動の後2時間足らずで波高2.5-3mの津波が[[旧淀川|安治川]]や[[木津川 (大阪府)|木津川]]の河口から遡上し、河口付近に碇泊していた数百隻の[[千石船]]などの大船が押上げられ橋を破壊し多くの溺死者を出し、周辺の家屋や土蔵にも破損や倒壊の被害を及ぼした。これは宝永地震津浪の時と全く同じ様相であった<ref name="Nagao" />。
8mの津波が襲来した[[紀伊国|紀伊]][[広町|広村]]において[[濱口梧陵]](濱口儀兵衛, 物語では濱口五兵衛)が稲藁に火を着けて津波の襲来を村人に知らせて避難を誘導した逸話は[[小泉八雲]]による[[稲むらの火]]の物語となり、[[今村明恒]]の提言により[[尋常小学校]]5学年の国定教科書にも採用された。


ただし、物語では「今の地震は、別に烈しいといふ程のものではなかった。しかし、長いゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、・・・」となっているが、実際の広村の揺れは『濱口梧陵手記』<ref name="Musha (1951)-266" />に「其激烈なる事前日の比に非ず。瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵烟空を蓋ふ」とある程烈しいものであった。また物語の五兵衛は「これは、たゞ事ではない。」、「大変だ。津波がやつて来るに違ひない。」と村人らに津波の襲来を知らせた設定になっているが、実際には前日の東海地震とそれに伴う津波を経験しており、南海地震の強い揺れで誰もが大津波を予測していた。地震動については本作品が執筆された直前に発生した[[明治三陸地震|明治三陸津波]]から小泉八雲が何らかの示唆を得た可能性もあり、このように物語と事実の相違点が幾つか見受けられるものの、物語の文学的価値は事実とは左程関係は無くむしろ事実を歪めたがゆえにその価値を高めた節があると今村明恒は評価しており、津波の教訓を子供に教えるものとして高く評価されるべきものである。
* [[阿波国|阿波]]では東由岐(現・[[美波町]])で家屋が百数十戸流失し死者が夥しく(『東由岐修堤碑』)、牟岐(現・[[牟岐町]])では高さ3丈余の汐で浜先の家々数百軒が[[将棋倒し|将棋倒]]のように破壊され、人々が山上に逃げ登り、20人余が流死した(『牟岐町誌』)。宍喰(現・海陽町)では家141軒が流失し8人が流死(『阿波海嘯誌略』)した<ref name="Musha" /><ref name="Murakami1982">猪井達雄, 澤田健吉, 村上仁士『徳島の地震津波 -歴史資料から-』市民双書、[[徳島市立図書館]]、1982年</ref>。


さらに実在の儀兵衛(梧陵)は物語以上に嵩高・英雄的・献身的であり、[[醤油]]で財を成した彼は、その私財[[丁銀|銀]]94,344[[匁]]を投じて延長652.3mの堤建設の造営費とした<ref>{{Cite journal |date=1940 |url=http://dx.doi.org/10.14834/zisin1929.12.360 |title=「稻むらの火」の教方に就て |format= |author=今村明恒 |accessdate= |journal=地震 第1輯 |volume=12 |issue=8 |pages=360-374}} {{JOI|JST.Journalarchive/zisin1929/12.360}}</ref><ref>[[#Tsuji (2011)|都司(2011), p122-124.]]</ref><ref name="Kitahara (2016)-245">[[#Kitahara (2016)|北原(2016), p245-248.]]</ref>。
* 土佐においては[[酉]]上刻(17時頃)に第一波が到達した。須崎(現・[[須崎市]])および久礼(現・[[中土佐町]])では被害が甚だしく(『地震日記』)、宇佐(現・土佐市)では8-9度の津浪が入り、1番より2番、3番の引汐に浦中の家が流失した(『眞覚寺日記』)<ref name="E.R.I.5-5-2(1987)" />。


==== 大坂 ====
* 前日の東海地震津波で壊滅した[[下田市|下田]]は再び2mの津波に洗われ、[[アメリカ合衆国西海岸|アメリカ西海岸]]の[[サンフランシスコ]]や[[サンディエゴ]]の[[験潮場]]でも1[[フィート]](0.3m)の津波を観測した<ref name="Omori">[http://ci.nii.ac.jp/naid/110006605117 大森房吉(1913), CiNii] [[大森房吉]](1913): 本邦大地震概説, 震災豫防調査會報告, 68(乙), 93-109.</ref>。中国でも[[江蘇省]][[丹徒県]]において[[長江|揚子江]]の水面の震動が見られた<ref name="Ishibashi" />。
[[大坂]]では地震動の後2時間足らずで波高2.5-3mの津波が[[旧淀川|安治川]]や[[木津川 (大阪府)|木津川]]の河口から遡上し、河口付近に碇泊していた数百隻の[[千石船]]などの大船が押上げられ橋を破壊し多くの溺死者を出し、周辺の家屋や土蔵にも破損や倒壊の被害を及ぼした。これは宝永地震津浪の時と全く同じ様相であった<ref name="Nagao" />。


==== 阿波 ====
一方で前日に起きた東海地震の教訓が生かされ被害が軽減された面もある<ref>{{PDFlink|[http://www.bousai.go.jp/oshirase/h15/031222/2-2.pdf 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書原案「1854年安政東海地震・安政南海地震」]}}</ref>。
[[File:Yuki-tsutsumi.jpg|thumb|right|180px|東由岐修堤碑]]
[[阿波国|阿波]]では東由岐(現・[[美波町]])で家屋が百数十戸流失し死者が夥しく(『東由岐修堤碑』)<ref>[[#Inoi (1982)|猪井(1982), p69.]]</ref>、牟岐(現・[[牟岐町]])では高さ3丈余の汐で浜先の家々数百軒が[[将棋倒し|将棋倒]]のように破壊され、人々が山上に逃げ登り、20人余が流死した(『牟岐町誌』)。


* 阿波[[海部郡 (徳島県)|海部郡]]の浅川港では前日の東海地震の揺れと津波で丘に避難し翌日も丘で様子を見ている所に南海地震とそれに伴う津波が起きた<ref name="joshinshi">寒川旭 『揺れる大地 日本列島の地震史』 同朋舎出版、1997年</ref>。
[[海部郡 (徳島県)|海部郡]]の浅川港では前日の東海地震の揺れと津波で丘に避難し翌日も丘で様子を見ている所に南海地震とそれに伴う津波が起きた<ref name="Sangawa (1997)" /><ref>[[#Inoi (1982)|猪井(1982), p53-60.]]</ref>。


宍喰(現・海陽町)では前日辰ノ下刻(午前9時頃)中ゆりの地震(東海地震)の後、俄かにあぶきを生じて[[宍喰川]]に3度津波が入り込んだ。諸人驚いて逃散し、米麦諸物を山上に運び上げ騒動となった。5日の朝、潮の狂いが少なくなり人々が荷物を携えて家に立ち戻リ始めたが、午ノ刻(正午頃)日陰が黄色に変じ人々が怪しみ、また逃げ支度をし諸物を山上に運び上げている所に申ノ下刻(17時頃)極大地震となり、地割れから水を吹きあげた。津波により家271戸のうち141軒が流失し8人が流死(『阿波海嘯誌略』<ref>[[#Musha (1951)|『日本地震史料』, p375.]]</ref>)した。宍喰浦には本地震による津波被害に加え、[[永正地震|永正九年]]、[[慶長地震|慶長九年]]、[[宝永地震|宝永四年]]津波について古文書をまとめた旧記『永正九年八月四日・慶長九年十二月十六日・宝永四年十月四日・嘉永七寅年十一月五日四ヶ度之震潮記』(略して『震潮記』)が現存している<ref>[[#Inoi (1982)|猪井(1982), p51, 94-128.]]</ref><ref>[[#Isoda|磯田(2014), p152-170.]]</ref><ref>{{Cite web |author= |title=震潮記(第7-18回)(口語訳) |url=http://anshin.pref.tokushima.jp/bunya/shintyouki/more.html |format= |work=安心とくしま |publisher=徳島県 |date= |accessdate=2018-02-02}}</ref>。
* 8mの津波が襲来した[[紀伊国|紀伊]][[広町|広村]]において[[濱口梧陵]]が稲藁に火を着けて津波の襲来を村人に知らせて避難を誘導した逸話は[[小泉八雲]]による[[稲むらの火]]の物語となり、[[今村明恒]]の提言により[[尋常小学校]]5学年の国定教科書にも採用された<ref>[http://dx.doi.org/10.14834/zisin1929.12.360 今村明恒(1940)] 今村明恒(1940): 「稻むらの火」の教方に就て, 『地震』 第1輯, 12, 8, pp.360-374, {{JOI|JST.Journalarchive/zisin1929/12.360}}</ref>。

==== 土佐 ====
{{multiple image|caption_align=center|header_align=center| align = right| direction = vertical| width = 180| header = |footer= | image1 = Yasu-ansei.jpg | alt1 = | caption1 = 夜須観音山碑 | image2 = Irino-Kamo-Ansei.jpg | alt2 = | caption2 = 入野加茂神社震災碑}}
土佐においては[[酉]]上刻(17時頃)に第一波が到達した。須崎(現・[[須崎市]])および久礼(現・[[中土佐町]])では被害が甚だしく(『地震日記』)、宇佐(現・土佐市)では8-9度の津浪が入り、1番より2番、3番の引汐に浦中の家が流失した(『眞覚寺日記』<ref name="Earthquake Research Institute (1987b)-2249" />)。

夜須(現・[[香南市]])では第3波が強く、300軒の家の内250-260軒が流失し、山沿いにあった残りの家も殆ど被害に逢い、町の中で残ったのは笠松<ref group="注">この笠松は宝永地震後に植えられた二代目であり、初代笠松は宝永津波で流失した(『谷陵記』、『南路志』、『皆山集』「夜須笠松ノ記」)。</ref>と川村の歳増屋という[[造り酒屋]]の[[寛永通宝|正銭]]が一杯積み上げられた蔵のみであった(『眞覚寺日記』<ref>[[#Usami (1999)|『日本の歴史地震史料 拾遺 別巻』, p693.]]</ref>)<ref>[[#Tsuji (2012)|都司(2012), p136-139.]]</ref>。

入野松原(現・黒潮町)の中に賀茂神社があり、野並晴という地元の郷士が教訓を刻んだ縦1.7m×横1.8mの石碑<ref>[[#Earthquake Research Institute (1987b)|『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』, p2339.]]</ref>が据えられている。ここには難解な漢字が使用されているが要約すると「4日の昼に微かな地震があり、波が満ちてきた。これを鈴波と呼ぶ。これは大津波の前兆である。5日申刻大地震があり瓦葺の家も茅葺の家もすべて倒壊した。土煙が立ち込める中人々は山頂を目指して登った。牡蠣瀬川、吹上川に潮が漲り、津波は第4波が最大で7回襲い、庭も水田も海になった。かつて宝永4年にも同じことがあった。牡蠣瀬川の石を採って後人に警告を残すことにした」とある。現代の知識を以てすれば「鈴波」は東海地震津波であり前兆ではないが、100年後の人々に警告を発した点で敬意を表するものである<ref>[[#Tsuji (2012)|都司(2012), p146-147.]]</ref>。

土佐藩からの公儀への被害の報告数は、本地震が宝永地震に比較して津波が軽いため、流家などは宝永津波の方が圧倒的に多くなっている(『皆山集 巻六 第八章』)<ref>[[#Usami (1999)|『日本の歴史地震史料 拾遺 別巻』, p696.]]</ref>。また、宝永地震は地震20日後までにまとめられた被害報告で充分に調査を尽くした段階のものとは言い難いが<ref>[[#Tsuji (2012)|都司(2012), p111-113.]]</ref>、本地震の被害報告は地震50日後時点のものであり、当時としては最終の被害統計と考えられる<ref name="Tsuji-Matsuoka2011" />。
{| class="wikitable" style="text-align: right; white-space:nowrap;"
|-
! style="text-align:center; white-space:nowrap;" | !! 宝永地震 !! 安政南海地震
|-
| 倒壊家屋 || 4866 || 2939
|-
| 流失家屋 || 11170 || 3182
|-
| 流失破損船舶 || 768 || 776
|-
| 死亡者数 || 1844 || 372
|-
| 損田石高 || 45170 || 14121
|-
| 亡所の浦 || 61 || 4
|-
| 半亡所の浦 || 4 || 0
|-
| 亡所の郷 || 42 || 0
|-
| 半亡所の郷 || 32 || 0
|}


地震および津波の被害は家屋の全壊2万、半壊4万、焼失6千、流失1万5千、死者3千とされる。
地震および津波の全体的な被害は家屋の全壊2万、半壊4万、焼失6千、流失1万5千、死者3千とされる。


=== 津波碑 ===
=== 津波碑 ===
安政南海地震津波および、その他歴代南海地震津波により被害を受けた地区には被害状況、教訓などを記した[[災害記念碑]]がしばしば見られる。
安政南海地震津波および、その他歴代南海地震津波により被害を受けた地区には被害状況、教訓などを記した[[災害記念碑]]がしばしば見られる<ref>[[#Inoi (1982)|猪井(1982), p47-81.]]</ref><ref>[[#Tsuji (2012)|都司(2012), p139-150.]]</ref><ref>{{Cite web |author= |title=南海地震の碑を訪ねて -UJNR06巡検ガイド(2006.11.8)- |url=http://cais.gsi.go.jp/UJNR/6th/img/ExcursionGuide_J.pdf |format=PDF |work= |publisher=[[国土地理院]] |date=2006 |accessdate=2018-01-25}}</ref>
* 大地震両川口津浪記 : [[大阪府]][[大阪市]][[浪速区]]大正橋の石碑 - 地震津波は船で避難してはならない。[[宝永地震]](1707年)の際にも船で逃げ多数の死者出ている。このとき(147年前)の教訓を生かせず、350人ほど亡くなった。翌年石碑が建てられた。<ref> 都司嘉宣「ミレニアム津波にどう備えるか」/ 保立道久・成田龍一監修」、北島糸子他著『津波、噴火、、、 日本列島地震の2000年史』朝日新聞出版 2013年 40ページ</ref>
* 大地震両川口津浪記 : [[大阪府]][[大阪市]][[浪速区]]大正橋の石碑 - 地震津波は船で避難してはならない。[[宝永地震]](1707年)の際にも船で逃げ多数の死者出ている。このとき(148年前・[[数え年]])の教訓を生かせず、350人ほど亡くなった。翌年石碑が建てられた。<ref> 都司嘉宣「ミレニアム津波にどう備えるか」/ 保立道久・成田龍一監修」、北島糸子他著『津波、噴火、、、 日本列島地震の2000年史』朝日新聞出版 2013年 40ページ</ref>
* 堺市[[大浜公園 (堺市)|大浜公園]]擁護璽石碑文 : 大阪府[[堺市]]
* 堺市[[大浜公園 (堺市)|大浜公園]]擁護璽石碑文 : 大阪府[[堺市]] - 川に繋いだ船は碇綱切れ、舟は割れたが、宝永津波の教訓が活かされ里人は神社の広庭に避難したため一人も怪我人が無かった<ref>[[#Tsuji (2011)|都司(2011), p132-134.]]</ref>。
* 大地震津なみ心え之記碑 : [[和歌山県]][[有田郡]][[湯浅町]][[深専寺]]
* 大地震津なみ心え之記碑 : [[和歌山県]][[有田郡]][[湯浅町]][[深専寺]] - 4日、大地震凡半時ばかり、5日、昨日より強き地震、南東より海鳴3、4度。
* 感恩碑、[[広村堤防]] : 和歌山県[[有田郡]][[広川町 (和歌山県)|広川町]] - 濱口梧陵と稲むらの火。
* 感恩碑、[[広村堤防]] : 和歌山県[[有田郡]][[広川町 (和歌山県)|広川町]] - 濱口梧陵と稲むらの火。
* 津浪警告碑 : 和歌山県[[日高郡 (和歌山県)|日高郡]][[美浜町 (和歌山県)|美浜町]]
* 津浪警告碑 : 和歌山県[[日高郡 (和歌山県)|日高郡]][[美浜町 (和歌山県)|美浜町]]
* 帽巖(ぼうげん)跡 : [[徳島県]][[小松島市]]金磯町(1910年建立)<ref>[http://www.topics.or.jp/localNews/news/2016/12/2016_1483158674477.html 小松島で安政南海地震の碑発見 被害や発生日時記す] 徳島新聞、2017年1月1日閲覧。</ref> 地震破壊帽岩
* 帽巖(ぼうげん)跡 : [[徳島県]][[小松島市]]金磯町(1910年建立)<ref>[http://www.topics.or.jp/localNews/news/2016/12/2016_1483158674477.html 小松島で安政南海地震の碑発見 被害や発生日時記す] 徳島新聞、2017年1月1日閲覧。</ref> 地震破壊帽岩
* 蛭子神社百度石 : 徳島県[[徳島市]]南沖洲
* 蛭子神社百度石 : 徳島県[[徳島市]]南沖洲
* 庚申塔 : 徳島県[[那賀郡]][[那賀町]]谷内下傍示・妙法寺
* 庚申塔 : 徳島県[[那賀郡]][[那賀町]]谷内下傍示・妙法寺
* 震災碑 : 徳島県[[海部郡 (徳島県)|海部郡]][[美波町]]志和岐 - 四日朝五ツ時大地震不時ニ汐高満有此時浦中家財を寺或ハ高き人家へ持運ひ翌五日七ツ時亦ゝ大地震忽ち津浪押来リ舩網納屋
* 震災碑 : 徳島県[[海部郡 (徳島県)|海部郡]][[美波町]]志和岐 - 四日朝五ツ時大地震不時ニ汐高満有此時浦中家財を寺或ハ高き人家へ持運ひ翌五日七ツ時亦ゝ大地震忽ち津浪押来リ舩網納屋
* 修堤碑 : 徳島県海部郡美波町東由岐
* 修堤碑 : 徳島県海部郡美波町東由岐 - 流失家屋140戸、死傷夥極悲惨、大正3年堅牢な堤を築造。
* 石灯籠 : 徳島県海部郡美波町木岐・王子神社 - 大汐三度込入軒家流失凡四丈余上リ当宮流失
* 石灯籠 : 徳島県海部郡美波町木岐・王子神社 - 大汐三度込入軒家流失凡四丈余上リ当宮流失
* 大震潮記念碑 : 徳島県海部郡[[牟岐町]]
* 大震潮記念碑 : 徳島県海部郡[[牟岐町]] - 家屋流失640戸、溺死39名。
* 「大地震津浪記」扁額 : 徳島県海部郡[[海陽町]]浅川・浅川千光寺
* 「大地震津浪記」扁額 : 徳島県海部郡[[海陽町]]浅川・浅川千光寺 - 大地震須臾にして潮狂い町中に溢れ込、大汐年号、[[永正地震|永正九年]]、慶長九年、宝永四年。
* 鞆浦海嘯記 : 徳島県海部郡海陽町鞆浦 - 海溢に大荒の所ゝは二三丈も潮あがりて命うしなひし者も多かるに、許の浦は壱丈二尺はかりなれば屋舎もさまていたます人はひとりの怪我たになきこそ誠に有がたきさちなりけれ
* 鞆浦海嘯記 : 徳島県海部郡海陽町鞆浦 - 海溢に大荒の所ゝは二三丈も潮あがりて命うしなひし者も多かるに、許の浦は壱丈二尺はかりなれば屋舎もさまていたます人はひとりの怪我たになきこそ誠に有がたきさちなりけれ
* 夜須観音山碑 : [[高知県]][[香南市]]夜須町坪井
* 夜須観音山碑 : [[高知県]][[香南市]]夜須町坪井
* 飛鳥神社懲毖、岸本安政地震の碑 : 高知県香南市[[香我美町岸本|岸本]] - 4日の常より大きな地震で潮が20mも引き手結港で鰻が沢山採れた。5日大地震で家が崩れ人々は何一も徳王子の山で暮らした<ref>[[#Usami (2005)|『日本の歴史地震史料 拾遺三』, p537.]]</ref>。
* 萩谷名号碑 : 高知県[[土佐市]]宇佐町
* 萩谷名号碑 : 高知県[[土佐市]]宇佐町
* 入野加茂神社震災碑 : 高知県[[幡多郡]][[黒潮町]]大方入野
* 入野加茂神社震災碑 : 高知県[[幡多郡]][[黒潮町]]大方入野 - 家はすべて倒壊し牡蠣瀬川、吹上川に潮が漲り、庭も水田も海になった。今後100年後に生きる人に警告する。
* 伊田海岸石碑 : 高知県幡多郡黒潮町大方・金比羅神社
* 伊田海岸石碑 : 高知県幡多郡黒潮町大方・金比羅神社
* 中浜港地震碑 : 高知県[[土佐清水市]]中浜
* 中浜港地震碑 : 高知県[[土佐清水市]]中浜 - [[ジョン万次郎]]の碑の横に建つ。
* 池家墓碑 : 高知県土佐清水市中浜峠
* 池家墓碑 : 高知県土佐清水市中浜峠 - ゆり静る否湊の内の汐干く。
* 潮位碑 : 高知県[[宿毛市]]大島はいたか神社 - 石段の7段目まで浸水。
* 潮位碑 : 高知県[[宿毛市]]大島鷣(ハイタカ)神社 - 石段の7段目まで浸水。


<gallery>
<gallery>
File:Shiwagi-ansei.jpg|志和岐震災碑
File:Shiwagi-ansei.jpg|志和岐震災碑
File:Yuki-tsutsumi.jpg|東由岐修堤碑
File:Kiki-ansei.jpg|木岐王子神社・石灯籠
File:Kiki-ansei.jpg|木岐王子神社・石灯籠
File:Mugi-ansei-showa.jpg|牟岐大震潮記念碑
File:Mugi-ansei-showa.jpg|牟岐大震潮記念碑
File:Tomoura-ansei.jpg|鞆浦海嘯記
File:Tomoura-ansei.jpg|鞆浦海嘯記
File:Yasu-ansei.jpg|夜須観音山
File:Kishimoto-ansei.jpg|岸本安政地震の
File:Usa-ansei.jpg|萩谷名号碑
File:Usa-ansei.jpg|萩谷名号碑
File:Irino-Kamo-Ansei.jpg|入野加茂神社震災碑
File:Nakahama-Ansei.jpg|中浜港地震碑
File:Nakahama-Ansei.jpg|中浜港地震碑
File:Haitaka jinja shrine steps.jpg|はいたか神社石段・潮位碑
File:Haitaka jinja shrine steps.jpg|ハイタカ神社石段・潮位碑
</gallery>
</gallery>


=== 地震痕跡 ===
=== 地震痕跡 ===
* [[兵庫県]][[淡路市]]、志筑廃寺遺跡 : 地滑り跡<ref name="Sangawa">寒川旭 『地震の日本史 -大地は何を語るのか-』 中公新書、2007年</ref>
* [[兵庫県]][[淡路市]]、志筑廃寺遺跡 : 地滑り跡<ref name="Sangawa (2007)">[[#Sangawa (2007)|寒川(2007), p180-188.]]</ref>
* [[徳島県]][[板野郡]]、神託遺跡 : 液状化による砂脈
* [[徳島県]][[板野郡]]、神託遺跡 : 液状化による砂脈
* [[美波町]]、田井ノ浜の池 : 津波堆積物
* [[美波町]]、田井ノ浜の池 : 津波堆積物
329行目: 374行目:


== 前兆 ==
== 前兆 ==
『今昔大変記』には「大地震する時は四、五年前より天気不順するものなり」とあり、約一か月前の10月1日頃には[[干潟]]が広がり異常な[[干潮]]により船を出すのに往生したという(『三災録』)。地震の3 - 5日前には海底の鳴動、地鳴り、遠音、虹が見られ、[[浦戸湾]]で現れる「[[孕のジャン]]」は古来より大地震前後に鳴動があったことで知られる<ref name="Daijishin" /><ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2344_13796.html 寺田寅彦 怪異考]</ref>。
『今昔大変記』には「大地震する時は四、五年前より天気不順するものなり」とあり、約一か月前の10月1日頃には[[干潟]]が広がり異常な[[干潮]]により船を出すのに往生したという(『三災録』)。地震の3 - 5日前には海底の鳴動、地鳴り、遠音、虹が見られ、[[浦戸湾]]で現れる「[[孕のジャン]]」は古来より大地震前後に鳴動があったことで知られる<ref name="Mashiro (1995)-154">[[#Mashiro (1995)|間城(1995), p154-157.]]</ref><ref>[http://www.aozora.gr.jp/cards/000042/files/2344_13796.html 寺田寅彦 怪異考]</ref>。


また、[[ミミズ]]が地中より這い出し死に(『三災録』)、井戸水が枯れたり濁るなどの現象(『今昔大変記』)も見られた<ref>沢村武雄 『日本の地震と津波 -南海道を中心に-』 高知新聞社、1967年</ref><ref>{{PDFlink|[http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou70/08-05.pdf 京都大学防災研究所]}} 京都大学防災研究所: 南海地震の前の井戸水の減少について</ref>。以上のような現象が古文書には記載されており、地殻変動による隆起と思われるものもあるが、地震との因果関係については不明な点が多い<ref name="Daijishin" />。
また、[[ミミズ]]が地中より這い出し死に(『三災録』)、井戸水が枯れたり濁るなどの現象(『今昔大変記』)も見られた<ref name="Sawamura (1967)">[[#Sawamura (1967)|沢村(1967), p71-76.]]</ref><ref>{{Cite journal |date= |url=http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou70/08-05.pdf |title=南海地震の前の井戸水の減少について |format=PDF |author=京都大学防災研究所 |accessdate= |journal=地震予知連絡会会報 |volume=70 |issue= |pages=}}</ref>。以上のような現象が古文書には記載されており、地殻変動による隆起と思われるものもあるが、地震との因果関係については不明な点が多い<ref name="Mashiro (1995)-154" />。


南海地震発生の日の朝、[[熊野]]地方や高知付近で[[太陽]]が異様に赤色や黄色に染まる現象が見られたとされるが(『古座年代史』、『嘉永土佐地震記』)、これは前兆ではなく前日の東海地震による火災の粉塵が舞い上がったことが原因と推定されている<ref>{{PDFlink|[http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_24/HE24_185_192_21Tsuji.pdf 都司嘉宣(2009)]}} [[都司嘉宣]](2009): 安政東海地震・南海地震(1854)に伴う月日異常と火柱現象について, 歴史地震 24号, 185-192.</ref>。
南海地震発生の日の朝、[[熊野]]地方や高知付近で[[太陽]]が異様に赤色や黄色に染まる現象が見られたとされるが(『古座年代史』、『嘉永土佐地震記』)、これは前兆ではなく前日の東海地震による火災の粉塵が舞い上がったことが原因と推定されている<ref>{{Cite journal |date=2009 |url=http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_24/HE24_185_192_21Tsuji.pdf |title=安政東海地震・南海地震(1854)に伴う月日異常と火柱現象について |format=PDF |author=都司嘉宣 |accessdate= |journal=歴史地震 |volume=24 |issue= |pages=185-192}}</ref>。


土佐入野において地震の前日には『桑滄談』に「朝辰刻(8時)小地震ありて長し。」との記録があり、土佐伊田(現・黒潮町佐賀地区)では『大潮大変記』には「漣(すずなみ)と言うもの入来り」とあり潮の満ち干が四五度見られ、当時この地方に壊滅的打撃を与えた南海地震津浪の前兆のように云われたが、これらは東海地震とその津波によるものと見られる<ref name="Nakamura city" />。
土佐入野において地震の前日には『桑滄談』に「朝辰刻(8時)小地震ありて長し。」との記録があり、土佐伊田(現・黒潮町佐賀地区)では『大潮大変記』には「漣(すずなみ)と言うもの入来り」とあり潮の満ち干が四五度見られ、当時この地方に壊滅的打撃を与えた南海地震津浪の前兆のように云われたが、これらは東海地震とその津波によるものと見られる<ref name="Nakamura city" /><ref name="Mashiro (1995)-154" />。


== 次期南海地震への警戒 ==
== 次期南海地震への警戒 ==
南海トラフ沿いの巨大地震は凡そ90年から150周期で繰り返されており、[[1946年]]に発生した[[昭和南海地震]](''M''j = 8.0, ''M''w = 8.4)よりも[[宝永地震]]や安政南海地震の震害や津波災害の方がより甚大であったこと、さらに次期[[東南海地震]]、[[東海地震]]と連動る可能性があることから、[[21世紀]]中に起こると予想される地震への対策が求められている<ref>[http://www.pref.kochi.lg.jp/~shoubou/sonaetegood/index.html 高知県 南海地震に備えてGOOD!!]</ref><ref>[http://www.jma-net.go.jp/kochi/etc/jisin/jisin.html 高知地方気象台 高知県に影響する地震津波について]</ref>。
南海トラフ沿いの巨大地震は凡そ100年から200程度で繰り返されていると考えられており、[[1946年]]に発生した[[昭和南海地震]](''M''j = 8.0, ''M''w = 8.4)よりも[[宝永地震]]や安政南海地震の震害や津波災害の方がより甚大であったこと、さらに次期[[東南海地震]]、[[東海地震]]の震源域と連動して宝永型の様に広範囲の震源域となる可能性も考えられることから、[[21世紀]]中に起こると予想される地震への対策が求められている<ref>{{Cite web |title=高知県 南海トラフ地震に備えてGOOD!!|url=https://www.pref.kochi.lg.jp/sonaetegood/ |format= |work= |publisher=高知県 |date= |accessdate=2014-12-01}}</ref><ref name="JMA Kochi">{{Cite web |title=高知地方気象台 高知県に影響する地震津波について |url=http://www.jma-net.go.jp/kochi/etc/jisin/jisin.html |work=(公式ウェブサイト)|publisher=高知地方気象台 |date= |accessdate=2011-05-30}}</ref>。


==関連項目==
==関連項目==
* [[災害記念碑]] - 鷣神社([[高知県]][[宿毛市]])
* [[災害記念碑]] - 鷣神社([[高知県]][[宿毛市]])
* [[11月5日#記念日・年中行事|世界津波の日]]([[11月5日]]) - [[2011年]][[3月11日]]の[[東日本大震災]]を契機に「津波防災の日」として制定され、2015年12月22日の国連総会で「世界津波の日」として制定された<ref>{{Cite web|url=http://www.sankei.com/world/news/151223/wor1512230019-n1.html |title=「世界津波の日」を制定 国連総会本会議で日本主導|work=産経ニュース|publisher=産経新聞社|date=2015-12-23|accessdate=2015-12-23}}</ref>記念日だが、日付は安政南海地震の11月5日(ただし新暦)とされた。
* [[11月5日#記念日・年中行事|世界津波の日]]([[11月5日]]) - [[2011年]][[3月11日]]の[[東日本大震災]]を契機に「津波防災の日」として制定され、2015年12月22日の国連総会で「世界津波の日」として制定された<ref>{{Cite web|url=http://www.sankei.com/world/news/151223/wor1512230019-n1.html |title=「世界津波の日」を制定 国連総会本会議で日本主導|work=産経ニュース|publisher=産経新聞社|date=2015-12-23|accessdate=2015-12-23}}</ref>記念日だが、『稲むらの火』が[[第二次世界大戦]]以前から国語の教科書に津波救済物語として掲載されていた経緯から、日付は安政南海地震の11月5日(ただし新暦)とされた<ref name="Kitahara (2016)-245" />


== 脚注 ==
== 脚注 ==
352行目: 397行目:


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|editor=震災予防調査会編 |title=大日本地震史料 下巻|publisher=[[丸善]] |date=1904 |isbn= |ref=Shinsaiyobo}} pp.361-526 [http://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=59001580 国立国会図書館サーチ]
* {{Cite book|和書|author=[[今村明恒]] |title=地震の国 |publisher=[[文藝春秋新社]] |date=1949 |isbn=|ref=Imamura (1949)}}
* {{Cite book|和書|author=猪井達雄・澤田健吉・村上仁士 |title=徳島の地震津波 -歴史資料から- |publisher=[[徳島市立図書館]] |date=1982-02 |isbn= |ref=Inoi (1982)}}
* {{Cite book|和書|author=[[石橋克彦]] |title=大地動乱の時代 -地震学者は警告する- |publisher=[[岩波新書]] |date=1994-08 |isbn=4-00-430350-8 |ref=Ishibashi (1994)}}
* {{Cite book|和書|author=石橋克彦 |title=南海トラフ巨大地震 -歴史・科学・社会- |publisher=[[岩波書店]] |date=2014-03 |isbn=978-4-00-028531-5 |ref=Ishibashi (2014)}}
* {{Cite book|和書|author=[[磯田道史]] |title=天災から日本史を読みなおす |publisher=中公新書 |date=2014-11 |isbn=978-4-12-102295-0 |ref=Isoda (2014)}}
* {{Cite book|和書|author=門村浩・松田磐余・高橋博 |title=実録 安政大地震 その日静岡県は |publisher=静岡新聞社 |date=1983 |isbn=978-4-783810230 |ref=Kadomura (1983)}}
* {{Cite book|和書|author=[[北原糸子]] |title=日本震災史 -復旧から復興への歩み |publisher=ちくま新書 |date=2016-09 |isbn=978-4-480-06916-0 |ref=Kitahara (2016)}}
* {{Cite book|和書|author=間城龍男 |title=宝永大地震 -土佐最大の被害地震- |publisher=あさひ謄写堂 |date=1995-01 |isbn= |ref=Mashiro (1995)}}
* {{Cite book|和書|author=[[力武常次]] |title=固体地球科学入門―地球とその物理 |edition=第2版 |series= |volume= |publisher=[[共立出版]] |date=1994-05 |isbn=978-4-3200-4670-2 |ref=Rikitake (1994)}}
* {{Cite book|和書|author=寒川旭 |title=揺れる大地―日本列島の地震史 |publisher=[[同朋舎出版]] |date=1997-01 |isbn=978-4-8104-2363-1 |ref=Sangawa (1997)}}
* {{Cite book|和書|author=寒川旭 |title=地震の日本史 -大地は何を語るのか- |publisher=[[中公新書]] |date=2007-11 |isbn=978-4-12-101922-6 |ref=Sangawa (2007)}}
* {{Cite book|和書|author=阿部勝征・岡田義光・[[島崎邦彦]]・鈴木保典 |editor=[[佐藤良輔]]編著 |title=日本の地震断層パラメーター・ハンドブック |publisher=[[鹿島出版会]] |date=1989-03-25 |isbn=978-4-3060-3232-3 |ref=Sato et al. (1989)}}
* {{Cite book|和書|author=高木金之助編、沢村武雄 |title=「五つの大地震」四国山脈 |publisher=毎日新聞社 |date=1959 |isbn= |ref=Sawamura (1959)}} [http://www.geocities.jp/kyoketu/sub8.html 五つの大地震]
* {{Cite book|和書|author=沢村武雄 |title=日本の地震と津波 -南海道を中心に- |publisher=[[高知新聞社]] |date=1967 |isbn= |ref=Sawamura (1967)}}
* {{Cite book|和書|author=寺石正路 |title=土佐古今ノ地震 |publisher=土佐史談会 |date=1923 |isbn= |ref=Teraishi}}
* {{Cite book|和書|author=[[都司嘉宣]] |title=千年震災 -繰り返す地震と津波の歴史に学ぶ |publisher=ダイヤモンド社 |date=2011-05 |isbn=978-4-478-01611-4 |ref=Tsuji (2011)}}
* {{Cite book|和書|author=都司嘉宣 |title=歴史地震の話 -語り継がれた南海地震 |publisher=高知新聞社 |date=2012-06 |isbn=978-4-87503-437-7 |ref=Tsuji (2012)}}
* {{Cite book|和書|author=[[宇佐美龍夫]] |title=最新版 日本被害地震総覧 416‐2001 |edition= |series= |volume= |publisher=[[東京大学出版会]] |date=2003-04 |isbn=978-4-1306-0742-1 |ref=Usami (2003)}}
* {{Cite book|和書|chapter=宇佐美竜夫 『安政地震』|editor= |title=世界大百科事典 |edition= |series=[[世界大百科事典]] |volume=2 |publisher=[[平凡社]] |date=2009 |isbn= |pages= |ref=Usami, HWE (2009)}}
* {{Cite book|和書|editor=[[宇津徳治]]・嶋悦三・吉井敏尅・山科健一郎 |title=地震の事典 |edition=第2版 |series= |volume= |publisher=[[朝倉書店]] |date=2001 |isbn=978-4-2541-6039-0 |ref=Utsu et al. (2001)}}
* {{Cite book|和書|author=[[矢田俊文 (歴史学者)|矢田俊文]] |title=中世の巨大地震 |publisher=吉川弘文館 |date=2008-12 |isbn=978-4-6420-5664-9 |ref=Yata (2008)}}
* {{Cite book|和書|editor=田山實、震災予防調査会編 |title=大日本地震史料 下巻|publisher=[[丸善]] |date=1904 |isbn= |ref=Shinsaiyobo}} pp.361-526 [http://iss.ndl.go.jp/api/openurl?ndl_jpno=59001580 国立国会図書館サーチ]
* {{Cite book|和書|editor=武者金吉 |title=日本地震史料|publisher=毎日新聞社 |date=1951 |isbn= |ref=Musha (1951)}} pp.75-468
* {{Cite book|和書|editor=武者金吉 |title=日本地震史料|publisher=毎日新聞社 |date=1951 |isbn= |ref=Musha (1951)}} pp.75-468
* {{Cite book|和書|editor=東京大学地震研究所 |title=新収 日本地震史料 新収 日本地震史料 五巻 別巻五-一 安政元年十一月四日・五日・七日 |publisher=日本電気協会 |date=1987 |isbn= |ref=Earthquake Research Institute (1987a)}} pp.1-1438 - 安政地震に関する新収古記録原典の集成
* {{Cite book|和書|editor=東京大学地震研究所 |title=新収 日本地震史料 新収 日本地震史料 五巻 別巻五-一 安政元年十一月四日・五日・七日 |publisher=日本電気協会 |date=1987 |isbn= |ref=Earthquake Research Institute (1987a)}} pp.1-1438 - 安政地震に関する新収古記録原典の集成

2018年2月7日 (水) 03:39時点における版

安政南海地震
安政南海地震の位置(日本内)
安政南海地震
本震
発生日 1854年12月24日
発生時刻 16時半頃(日本標準時
震央 日本の旗 日本 南海道
北緯33度0分0秒 東経135度0分0秒 / 北緯33.00000度 東経135.00000度 / 33.00000; 135.00000[注 1]座標: 北緯33度0分0秒 東経135度0分0秒 / 北緯33.00000度 東経135.00000度 / 33.00000; 135.00000[注 1]
規模    M8.4, MW8.5 -8.7
最大震度    震度6:-7: 紀伊新宮土佐中村
津波 太平洋沿岸、特に紀伊水道、土佐湾。最大16.1m
地震の種類 海溝型地震
逆断層
被害
死傷者数 死者 数千人
被害地域 畿内山陰道山陽道南海道西海道
プロジェクト:地球科学
プロジェクト:災害
テンプレートを表示

安政南海地震(あんせいなんかいじしん)は、江戸時代後期の嘉永7年11月5日1854年12月24日)に発生した南海地震[注 2]である。

南海トラフ巨大地震の一つとされ、約32時間前に発生した安政東海地震と共に安政地震[1]安政大地震とも総称される[2]。この地震嘉永年間に起きたが[3]、この天変地異や前年の黒船来航を期に改元されて安政と改められ、歴史年表上では安政元年(1854年)であることから安政を冠して呼ばれる[4]。当時は寅の大変(とらのたいへん)とも呼ばれた。

江戸時代の関連地震

江戸時代には南海トラフ沿いが震源域と考えられている巨大地震として、この他に宝永4年(1707年)の宝永地震の記録がある。また、安政地震については「宝永地震の後始末地震」だった可能性も考えられ、この宝永地震後の再来間隔147年は南海トラフ沿いの巨大地震としてはむしろ短い部類になるとの見解もある[5]

慶長9年(1605年)に起きた慶長地震もかつては震源域が東海道・南海道に亘り[6]、南海トラフ沿いの津波地震と考えられていた[7]。慶長地震の震源域には諸説あり、南海トラフ沿いの巨大地震とするには多くの疑問点が残り、南海トラフ沿いの地震ではなく例えば伊豆・小笠原海溝沿い[8]、あるいは遠地津波の可能性もあるとする見解も出されている[5]

安政南海地震の2日後には豊予海峡M 7.4の豊予海峡地震が発生。また翌年には安政江戸地震(M 6.9-7.4)が起きた[9]。本地震や安政東海地震は安政江戸地震と合わせて「安政三大地震」とも呼ばれ、伊賀上野地震から1858年飛越地震まで安政年間に連発した一連の大地震を安政の大地震とも呼ぶ。

この地震に関する古記録は歴史地震としては非常に多く残されている[10][11][12][13][14][15]。安政の頃になると日記に加えて手紙などにも地震の記述が現れるようになり、被災時の人々の詳細な行動記録まで残るようになる[16]

地震

地震動

安政南海地震の震度分布[17][18]

嘉永七年甲寅十一月五日庚午下刻(七ツ半)(1854年12月24日、日本時間16時半頃)、紀伊半島から四国沖を震源(北緯33.0°、東経135.0°[注 1])とする巨大地震が起きた。フィリピン海プレートユーラシアプレート下に沈み込む南海トラフ沿いで起きた海溝型地震と考えられている[19]

当日、土佐は小春日和の快晴で、高知城下は南川原にて相撲巡業があり、見物客が群集をなすところに地震が襲い、一時大混乱に陥った[20]。『桑滄談』の記録によれば土佐入野(現・黒潮町大方地区)においては、初めゆるゆる震い次第に強くなりやがて激震になったという[21]

畿内では昨日の東海地震に続いて「又々大地震」となり、特に河内平野において、若江(現・東大阪市)を中心に半径約4kmの範囲で家屋倒壊が見られ、震度6弱から最大震度6強と推定される場所が分布した。ここは弥生時代河内湖が存在した場所に一致し、陸化して1000年以上経過しても地震の揺れが強く現れる場所として存在し続けた[22]三河吉田田原および名古屋など前日に地震津波で甚大な被害となった東海地方各地でも、又々長い地震動に続いて西方から雷鳴が聞かれた。新居宿では暮六ツ時(17時頃)に地震少々震う内に日の入りとなり、申酉(西)の方から「どう/\/\」と鳴音が大雷の如くなりと記録されている(『安政大地震』新居町関所資料館[23]

小浜(現・小浜市『続地震雑纂』[24])や尾鷲九鬼(現・尾鷲市『九木浦庄屋宮崎和右衛門御用留』[25])では地震動は南海地震より東海地震の方が強く感じられたが、那智勝浦(現・那智勝浦町『嘉永七年寅十一月 大地震洪浪記録書』[26])や湯浅(現・湯浅町深専寺門前碑文』[27])・広(現・広川町濱口梧陵手記』[28])では南海地震の方が強く感じられた。京都(現・京都市)では東海地震の方がやや強いか(『安政元寅年正月より同卯ノ三月迄御写物』[29])、ほぼ同程度で(『御広間雑記』[30])、大坂でも両地震の強さは同程度であり(現・大阪市『鍾奇斎日々雑記』[31])、破損の度合いを加えたが、南海地震では津波被害も加わった[11]

震度6と推定される領域は四国太平洋側から紀伊水道沿岸部、淡路島大阪平野および播州平野、震度4以上の領域は九州から中部地方に及び[32]、震源域の長さは約400kmと推定される[33][34]

『中国地震歴史資料彙編』には江蘇粛県や嘉定(上海市郊外)で「水溢地震」、上海で「黄浦水沸二三、嘉定、蘇州皆同」と記されており[35]、震央から約1300km離れた中国の上海付近でも有感であったという[36]。津波が到達したとする説もあるが、長周期地震動によるセイシュが水面を動揺させた可能性もある。2日後の豊予海峡地震でも上海付近でかなり揺れたらしい[37]

被害

被害は中部地方から九州地方へ及び、2つの巨大地震が重なった近畿地方では東海地震における被害と明確に区別ができない。その上、伊予豊後、特に肥後人吉等では約40時間後に発生した豊予海峡地震被害との区別が困難である。

宝永地震と同じく、出雲杵築周辺でも震動が強く潰家が150軒あった(『嘉永甲寅諸国地震記』[38][39]。一方で宝永地震とは異なり、冬至頃の気温の下がる夕刻でかつ夕食の支度で火を使う時間帯であり火災が多く発生した。特に高知、中村および宿毛は大火事に見舞われた[40]。土佐国(現、高知県)での死者は、藩主:山内豊信により372名と集計・報告されている[41]

吉野川下流域では液状化現象が見られ、加賀須野村では「土砂多数吹上川之如くに相成り跡に而砂取捨地毎に数百石申出候川筋は津波壱程参り候由下吉衛築新田大荒白海之如く相成り」(『大地震実録記』[42])と記録される。上板町の神宅遺跡にもこの地震による液状化の痕跡が見られる[43]

なお、司馬遼太郎の小説『竜馬がゆく』(「寅の大変」の節がある)では、坂本龍馬江戸にいるときに地震を感じた(江戸で強震であったのは東海地震)と描かれているが、史実では地震当日に既に土佐に滞在していた。

街道 推定震度[17][18]
畿内 京都(4-5), 伏見(5), 宇治(5), 門真(5-6), 服部(6), 大坂(5-6), 布施(6), (5), 岸和田(5-6), 奈良(5), 郡山(5), 五条(5), 尼崎(5-6), 西宮(5-6), 神戸(5)
東海道
(宿場町)
江戸(e) - 品川 - 川崎 - 神奈川 - 程ヶ谷 - 戸塚 - 藤沢(E) - 平塚 - 大磯 - 小田原 - 箱根 - 三島 - 沼津 - - 吉原 - 蒲原 - 由比 - 興津 - 江尻(E) - 府中 - 鞠子 - 岡部 - 藤枝 - 島田 - 金谷 - 日坂 - 掛川(4-5) - 袋井(4-5) - 見附 - 浜松 - 舞阪 - 新居(E) - 白須賀 - 二川 - 吉田(E) - 御油 - 赤坂 - 藤川 - 岡崎 - 池鯉鮒 - 鳴海 - - 桑名(4-5) - 四日市(5-6) - 石薬師 - 庄野 - 亀山 - - 坂下 - 土山 - 水口 - 石部 - 草津 - 大津(S) - 京都(4-5)
東海道 銚子(E), 熊谷(M), 習志野(e), 塩山(e), 甲府(4-5), 相良(4-5), 西尾(E), 田原(e), 名古屋(4-5), (5), 久居(E)
東山道 真岡(e), 中之条(e), 諏訪(E), 駒ヶ根(e), 飯田(E), 福島(E), 中津川(E), 大井(E), 高山(e), 大垣(5), 垂井(5), 上石津(5), 彦根(S)
北陸道 分水(e), 柏崎(e), 高岡(E), 氷見(M), 金沢(4), 大野(E), 福井(5), 鯖江(E), 小浜(4-5)
山陰道 亀山(4), 園部(4-5), 篠山(4), 宮津(E), 出石(E), 豊岡(5), 生野(e), 鳥取(5), 境港(5), 松江(5), 広瀬(5), 大社(5-6), 益田(4-5), (5), 長門(4)
山陽道 明石(5-6), 加古川(6), 姫路(5), 龍野(5-6), 網干(6), 赤穂(5-6), 津山(4-5), 勝山(e), 岡山(5), 児島(5), 倉敷(5), 三次(5), 福山(5-6), (5), 尾道(5), 三原(5), 竹原(5-6), (5), 広島(5), 岩国(5), 下松(5), 山口(4)
南海道 新宮(6-7), 勝浦(6), 古座(5-6), 串本(5-6), 白浜(5), 田辺(6), (5-6), 和歌山(5-6), 洲本(5-6), 鳴門(6), 徳島(6), 由岐(5-6), 日和佐(6), 浅川(6), 海陽町鞆浦(6), 宍喰(6), 祖谷山(5), 津田(5), 高松(6), 坂出(5-6), 丸亀(5-6), 多度津(5-6), 善通寺(5), 琴平(4-5), 川之江(5), 多喜浜(5), 西条(5-6), 小松(5-6), 今治(5), 松山(5), 大洲(5), 吉田(5-6), 宇和島(5-6), 甲浦(5-6), 野根(6), 室津(5-6), 夜須川(6), 赤岡(6), 長岡郡後免(5-6), 高知(5-6), 吾川郡浦戸(6), 佐川(5-6), 高岡郡宇佐(6), 須崎(6), 高岡郡上ノ加江(5-6), 窪川(5-6), 梼原(5), 幡多郡入野(6), 中村(6-7), 中浜(6), 柏島(6), 宿毛(6)
西海道 小倉(5), 博多(e), 対馬(e), 大宰府(e), 久留米(4), 佐賀(4-5), 諫早(e), 柳川(E), 熊本(5), 八代(5), 人吉(5-6), (4), 中津(4-5), 杵築(5), 日出(5), 別府(5-6), (5), 大分(5-6), 臼杵(5-6), 佐伯(5), 高千穂(5), 延岡(5), 高鍋(5), 佐土原(5)
S: 強地震(≧4),   E: 大地震(≧4),   M: 中地震(2-3),   e: 地震(≦3)

地殻変動

地震による地殻変動の結果、四国、紀伊半島は南東上りの傾動を示し、串本(現・串本町)は1-1.2m、室戸岬は1.2mそれぞれ隆起した(汐四尺程へり『久保野繁馬所蔵記録』)。足摺岬は伊佐浦で五尺(約1.5m)隆起した(『嘉永七寅年地震津浪記』)[44]

加太(現・和歌山市)1m、甲浦(現・東洋町)は1.2m沈下、高知周辺も3.5尺(約1m)沈下して潮江村、新町下知一円など新田の所が海となった(『続地震雑纂』)[45]。宇佐(現・土佐市)でも「宇佐福嶋一面の海と成る」(『眞覚寺日記』[46])の記録があり、上ノ加江(現・中土佐町)では『大変略記』に「上の賀江久礼平生潮より五尺高、在所に迄汐入る」とあり[47]地盤は1.5m沈下した[39]

地震により道後温泉は106日間湧出が停止し翌年2月23日(1855年4月9日)から再び湧き出し(『松山市要』)、鉛山村温泉も崎之湯は翌年3月まで一滴も出ず、湯ノ峰温泉も翌年の2 - 3月頃まで出湯が停止した(『田所氏記録』[48][18]

このような南東上がりの地殻変動は宝永地震および昭和東南海南海地震と同様であり、南海トラフ西側においてユーラシアプレート衝上する低角逆断層のプレート境界型地震であることを示唆している[19]

規模

安政南海地震の安藤(1975)[19]および相田(1981)[49]の断層モデルによる震源域(各断層は矩形で近似されている)。および、南海トラフの巨大地震モデル検討会による震源域[50]

河角廣(1951)は規模MK = 7. を与え[51]マグニチュードM = 8.4に換算されている。宇佐美龍夫(1970)はこの河角の規模と気象庁マグニチュードの関係を検討し、やはり8.4に近いであろうと推定したが当時はモーメントマグニチュードという概念は存在せず、1960年のチリ地震M 8.5とされていた[52]、1975年に安藤雅孝は、数値実験から2つの大きな断層モデルを仮定し[19]、1981年の相田勇のモデルは、安藤のモデルの内、東側の断層を北側へ移動させたものであった[49]。各断層個別のモーメントマグニチュード Mw は西側からそれぞれ、8.4, 8.2(合計で Mw = 8.5)と推定された。この断層モデルは1946年南海地震の紀伊半島側の断層モデル[53]を北側にずらし四国側の断層モデルを延長して、それぞれのすべり量に多少の変更を加えたものであった[54][55]

内閣府の「南海トラフの巨大地震モデル検討会」による「南海トラフ沿いの巨大地震による長周期地震動に関する報告」では、東海地震を含む安政地震全体としてMw8.84の断層モデルが想定され[50]、同モデルを用いた建築研究所では安政東海地震の断層モデルとして地震モーメントM0 = 9.02 × 1021N・m (Mw8.6)を想定しており[56]、この地震モーメントを差し引けば安政南海地震はMw8.7となる。

余震

眞覚寺、安政南海地震およびその余震について記した『眞覚寺日記』で知られる。右下は昭和南海地震津波碑。高知県土佐市宇佐。

この地震の約40時間後、11月7日下刻(1854年12月26日9時頃)には豊後水道付近を震源とする豊予海峡地震(M 7.4)があり伊予から豊後付近で激しく揺れ伊予大洲伊予吉田で潰家があった[57]

安政元年大晦日辰刻(1855年2月16日8時頃)に高知付近で大規模な余震があり徳島(『徳島県板野郡誌』)および田辺(『田所氏記録』)でも強く感じられ、その直後余震数が急増している[18]

土佐市宇佐眞覚寺の住職、井上静照師による地震被害の詳細な記録である『眞覚寺日記』[46]には毎日の地震が記録され、余震は文久3年極月卅日(1864年2月7日)「此頃地震もなきニ馬鹿らしく何を書そへ下手ノ横好」と地震日記を締め括るまでの9年間で2979回(計2981回、東海地震・南海地震の本震2回は除く)記録された。有感余震回数は昭和南海地震を大幅に上回るものであった。この余震回数を改良大森公式に当てはめると係数p = 0.9-1.0、c = 0.8-1.0となる[58]

高知城下では番匠町の水門の番人により、地震後1ヶ年間に817回の余震が記録されている(『地震日記』[59][60][61]。この高知城下における有感余震数は、震源域に近い宇佐よりも少ない[62]

地震度数
高知城下 番匠町 宇佐『眞覚寺日記』
地震
嘉永七年十一月 7 44 196 247 2 5 22 89 118
安政元年十二月 3 20 73 96 2 16 40 88 146
安政二年正月 8 107 115 3 229 91 396 719
二月 7 56 63 47 48 34 129
三月 6 42 48 27 69 12 108
四月 1 4 41 46 29 69 11 109
五月 1 2 31 33〔ママ 1 18 49 2 70
六月 1 31 32 19 52 5 76
七月 6 30 36 21 46 67
八月 10 9 19 15 52 1 68
九月 2 19 20 2 16 39 1 58
十月 1 28 29 11 40 51
十一月 18 18 16 33 49
十二月 14 14 6 42 2 50

津波

紀伊半島以西では東海地震よりさらに激しい津波が襲来し、波高は串本15m、宍喰5-6m、室戸3.3m、種崎11m、久礼で16.1mに達した[18][63]。『末世之記録大地震大津浪上り』[64]には熊野新宮(現・新宮市)より東は四日の地震にて津波が上ったと記され、那智勝浦では昨日の津浪に対し思いの外軽く見えたと記録されている(『藤社家雑録』[65]、『新田家過去帳』[66])。潮岬以西の津波被害は主に南海地震津波によるものであった[39]

波高は全般的に見て土佐湾沿いで昭和南海地震より2倍程高く、宝永地震の半分程度であるが、美波町田井ノ浜の池の津波堆積物の厚さによる推定から徳島県東岸等では一部宝永津波を上回った所もあった[67]

一方で前日に起きた東海地震の教訓が生かされ被害が軽減された面もある。紀伊や阿波などでは東海地震で強い揺れと津波を経験し、翌日の南海地震のより強大な揺れと津波への準備となった[68]

津波の被害状況
地域 推定波高・遡上高
古文書の記録 今村
(1935-40)
[69]
羽鳥
(1977-84)
都司
(2007-11)
その他
伊豆下田 現・静岡県下田市 夕六ツ半頃、又津波来り申候。下田岡方村江上り候得共、最早流し候人家無故に、さして騒ぎ不申候。二の潮も凡十町許の方まで上り申候。『伊豆下田より之書状』 2m[36]
紀伊勝浦 現・和歌山県那智勝浦町 五日七ツ時迄ニ又々大地震ニテ、又津浪起リ、(中略)此辺ハ昨日ノ浪ヨリ思ノ外小浪ニテ『藤社家雑録』 2m[70]
串本 現・串本町 江田組・二色にて凡浪重五丈余『和歌山県串本町誌』 4.5m[70] 6m<[71][72] 15m[18]
古座 現・串本町 袋湊は常水より三丈の溢れ入りたるよし『地震洪浪の記』 4.5-5m[70] 9m[18]
田辺 現・田辺市 津浪は会津川筋の秋津、釘貫井辺迄、町中は上片町小坂迄、袋町小坂迄、下長町、伊丹屋新七宅前迄『和歌山県下に於ける宝永安政年度の津浪状況調査』 12尺[73] 3-3.5m[70]
現・広川町 八幡下の俗称一本松の根元まで来た 海岸6m、
一本松8.0m[74]
5m[75]
湯浅 現・湯浅町 津浪は南別所勝楽寺下及『和歌山県下に於ける宝永安政年度の津浪状況調査』 5.1m[74] 4.2m[75]
和泉 現・大阪府堺市 暮なんころ俄に津波たちて、川すしへけハしく込いり『擁護璽碑文』 2.5m[70] 2.5m[76]
大坂 現・大阪市 船着の海岸雁木の処、五段は泥に成、夫より上四五段往来迄も水上り候『大坂地震津波荒増日記写』 2.5-3m[70] 3m[76][77]
播磨赤穂 現・兵庫県赤穂市 五日晩より夜分へ沖汐高くさし引不定津浪参り候と申立夜四つ時前ニ騒き申町灘目も一統山へ逃登り候『年中用事扣』 3m[78] 3m[76]
備前虫明 現・岡山県岡山市 平水より凡七尺余を増し『邑久郡誌』 2m[78] 2m[76]
備後三原 現・広島県三原市 浦嶋通り/\海中泥水ニ相成候事『上田家文書』 1.5m[78]
因島 現・尾道市 2m[76]
安芸大崎下島 現・呉市 又々如何体之大風吹替り高波内当テ候程も難計『地震損所土留方御願書附』 1.5m[78]
広島 現・広島市 芸州宮嶋大津浪ニ而損し候よし『嘉永雑記』 1m[78]
周防徳山 現・山口県周南市 海辺五日の夜以来不時に汐満干度々有之候間、同夜干汐に六尺位も満上り、六日迄も少々宛汐の動有之候由同断『部寄』 1m[78] 1.5m[76]
伊予西条 現・愛媛県西条市 1-2m[76]
高松 現・高松市 塩溜坪五百十二崩申候、塩浜石垣三千七百六十九間崩申候、汐除堤七千二百二十六間大破仕候『靖公実録』 1.5m[78] 1.5m[76]
阿波撫養 現・徳島県鳴門市 津波が一丈四・五尺の高さで撫養に襲来し、人家塩田は多くが浸水し、山西庄五郎の持船をはじめ多くの船が破損流失した。『鳴門市史』 4m[78] 1-2m[79]
牟岐 現・徳島県牟岐町 汐の高さ三丈余、又山々の麓へ指込みし汐先は五六丈とも見えたり『安政元年地震被害高抄出』 5-6m[80] 9m[72] 9m[18]
浅川 現・海陽町 津浪高サ弐丈ヨリ処により三丈余り観音堂石磴廿五段迄『浅川御崎神社大地震津浪記』 7m[80] 6.5-7.2m[79]
宍喰 現・海陽町 港口の辺にて二丈三尺余『阿波海嘯誌略』 5-6m[80] 6m[18]
土佐室戸室津 現・高知県室戸市 津浪汐先は御家中町各々下も一丁位い浸る市中江は汐不入又下地は勿論新町近辺は是又各々下も一丁位い浸る昔宝永年中の津浪は大門前迄海の様に成と云此度津浪汐先き如此『大変記』 3m[80] 3.3m[18]
安芸 現・安芸市 御留山二二ヶ所・塩田八ヶ所・普請七四ヶ所大破した『安芸郡史考』 4-5m[80]
種崎 現・高知市 二本松の根もとを浸した 11m[69] 5m[80]
高知 現・高知市 海面ヨリ高キコト凡ソ二十尺ナリ『浦戸港沿岸震浪記』 1.8m[80]
宇佐 現・土佐市 宇佐の地勢は前高く後低く東は岩崎西は福島の低みより汐先逃路を取巻故昔宝永の変にも油断の者夥敷流死の由今度もその遺談を信じ取あへず山手へ逃登る者皆恙なく『萩谷名号碑』 8.5m 7-8m[80] 5.8-8.9m[79]
須崎 現・須崎市 七ツ時大地震半時バカリアリテ大塩入来其時地震ニ而家蔵潰レ地少々引サケ候ニ付浜町五六軒ノ者一同小船四五艘ニ取乗地震ノ難ヲ海上ニノガレ候場合イ大潮押来右船ノ者大凡流失ス『発生寺過去帳』 5m 5m[80] 8.9[33] 5.5m
吾井郷7-8m[79]
久礼 現・中土佐町 五十人許八幡社山に登り難を免れた『三災録』/社殿に懸れる絵馬の釘の辺まで浸水 海岸12.1m、
焼坂16.1m
5.2m[81] 5.6-8.3m[79]
入野 現・黒潮町大方地区 先を争ふて山頂に登山上より両川を窺見るに西牡蠣瀬川東吹上川を漲り潮正溢る是即海嘯也初潮頭緩々として進第二第三相追至第四潮勢最猛大にして実に肝を冷す家の漂流する事数を覚ず通計に海潮七度進退す初夜に至て潮全く退く園は砂漠となり田畛更に海と成る『加茂神社震災碑』 6.5m[81] 6-6.5m[79]
大岐 現・土佐清水市 南は大岐下港海浜より新庄田に来り竹の花通寺の下を経て坪の内に至る『幡南探古録』 5.5m[81] 4.9-5.3m[79]
清水 現・土佐清水市 越と清水の間は双方より浸し来れる津浪の為陸地僅に残りて帯の如き地陜となり、蓮光寺の下方にある家の仏壇には磯魚を打ち上げ『嘉永七寅年地震津浪記』 3.5m[81] 4m[79]
柏島 現・大月町 海上にて見及申処、騒動中三度許山の如き浪押入、そりや見よ柏島浦人どもは、残らず押潰したりと見る所『三災録』 4m 4m[72] 3.3m[79]
宿毛大島 現・宿毛市 ハイタカ神社の石段七段目『甲寅大地震御手許日記』 3.2m[82][79]
伊予吉田 現・宇和島市 海岸附村方等は高浪に而、所々破損仕『書付留』 4m[78] 3.7m[79]
宇和島 現・宇和島市 宇和島城下は不残汐入候よし『続地震雑纂』 4m[78] 2-3m[79]
伊方 現・伊方町 川永田津波『安政及び寳永年度の南海道地震津浪に関する史料』 3m[78]
豊後杵築 現・大分県杵築市 沖鳴致高潮来り候と口々ニ呼叫走帰り大混雑不一方、其中六軒町より不時之潮烈敷満来り『杵築町役所日記』 1.5m[76]
佐伯 現・佐伯市 申之下刻、俄ニ高汐川内ニ込入、枡方大土手外水一面ニ相成『御用日記』 3m[83] 米水津7m[84]
日向延岡 現・宮崎県延岡市 『勤向日記』 洪波ニ而浜方浪打越候場所茂有之 2m[83]
美々津 現・日向市 美々津の儀は五日未明より遠沖汐合不穏之所、大地震にて高汐湊へ込入船々破損等も御座候由『勤向日記』 2-3m[83]
外浦 現・日南市 飫肥外ノ浦海溢る。新堤の中央七八間壊決す。『日向郷土史年表』 2-3m[83]
サンフランシスコ 1フィート[36] 0.3m

下田・遠地津波

前日の東海地震津波で壊滅した下田は再び2mの津波に洗われ[36]アメリカ西海岸サンフランシスコサンディエゴ験潮場でも1フィート(0.3m)の津波を観測した[36][85]。中国でも江蘇省丹徒県において揚子江の水面の震動が見られた[36]

紀伊半島

津波襲来前には各地で大砲を撃つ様な音が聞こえ、紀伊田辺では「又坤に当て黒雲の中より火の玉飛出、海中に入事七八ツ、夫れより海鉄砲の音トーン/\と鳴渡り」(『干鰯屋善助翁手記』[86])という記録もある。また田辺の新庄では「海鉄砲三ツ鳴り、峯に登り少し過し候得ば津浪にて大土手崩れ白波立チ来り申候」(『塩崎幸夫家文書』)という記録もある。

同文書には前日の東海地震では「震(中)五ツ時分、半時余り」とあり浪が入ったことが記され、五日の南海地震は「震(大)七ツ時分よりゆり出し井戸の水も飛出申候」とあり、さらに津波は第3波が最大であったことが記されている[87]

津浪之事

一番潮ニ峯之家流れ、其外小家ハ下拙家より外下へ皆流申候

二番潮ニて大分家流れ申候

三番潮高サ三丈余、此時下拙之家倉其外納屋一度ニ流れ申候、峯之倉も此時流れ申候、其外五反田迄流れ申候

四番ヨリ大潮も段々少しニ成申候、下拙ハほそ入山畑ヨリ見候故然とハ存不申候

廿度程寄候

広村堤防付近の空中写真。
濱口梧陵。

8mの津波が襲来した紀伊広村において濱口梧陵(濱口儀兵衛, 物語では濱口五兵衛)が稲藁に火を着けて津波の襲来を村人に知らせて避難を誘導した逸話は小泉八雲による稲むらの火の物語となり、今村明恒の提言により尋常小学校5学年の国定教科書にも採用された。

ただし、物語では「今の地震は、別に烈しいといふ程のものではなかった。しかし、長いゆつたりとしたゆれ方と、うなるやうな地鳴りとは、・・・」となっているが、実際の広村の揺れは『濱口梧陵手記』[28]に「其激烈なる事前日の比に非ず。瓦飛び、壁崩れ、塀倒れ、塵烟空を蓋ふ」とある程烈しいものであった。また物語の五兵衛は「これは、たゞ事ではない。」、「大変だ。津波がやつて来るに違ひない。」と村人らに津波の襲来を知らせた設定になっているが、実際には前日の東海地震とそれに伴う津波を経験しており、南海地震の強い揺れで誰もが大津波を予測していた。地震動については本作品が執筆された直前に発生した明治三陸津波から小泉八雲が何らかの示唆を得た可能性もあり、このように物語と事実の相違点が幾つか見受けられるものの、物語の文学的価値は事実とは左程関係は無くむしろ事実を歪めたがゆえにその価値を高めた節があると今村明恒は評価しており、津波の教訓を子供に教えるものとして高く評価されるべきものである。

さらに実在の儀兵衛(梧陵)は物語以上に嵩高・英雄的・献身的であり、醤油で財を成した彼は、その私財94,344を投じて延長652.3mの堤建設の造営費とした[88][89][90]

大坂

大坂では地震動の後2時間足らずで波高2.5-3mの津波が安治川木津川の河口から遡上し、河口付近に碇泊していた数百隻の千石船などの大船が押上げられ橋を破壊し多くの溺死者を出し、周辺の家屋や土蔵にも破損や倒壊の被害を及ぼした。これは宝永地震津浪の時と全く同じ様相であった[77]

阿波

東由岐修堤碑

阿波では東由岐(現・美波町)で家屋が百数十戸流失し死者が夥しく(『東由岐修堤碑』)[91]、牟岐(現・牟岐町)では高さ3丈余の汐で浜先の家々数百軒が将棋倒のように破壊され、人々が山上に逃げ登り、20人余が流死した(『牟岐町誌』)。

海部郡の浅川港では前日の東海地震の揺れと津波で丘に避難し翌日も丘で様子を見ている所に南海地震とそれに伴う津波が起きた[43][92]

宍喰(現・海陽町)では前日辰ノ下刻(午前9時頃)中ゆりの地震(東海地震)の後、俄かにあぶきを生じて宍喰川に3度津波が入り込んだ。諸人驚いて逃散し、米麦諸物を山上に運び上げ騒動となった。5日の朝、潮の狂いが少なくなり人々が荷物を携えて家に立ち戻リ始めたが、午ノ刻(正午頃)日陰が黄色に変じ人々が怪しみ、また逃げ支度をし諸物を山上に運び上げている所に申ノ下刻(17時頃)極大地震となり、地割れから水を吹きあげた。津波により家271戸のうち141軒が流失し8人が流死(『阿波海嘯誌略』[93])した。宍喰浦には本地震による津波被害に加え、永正九年慶長九年宝永四年津波について古文書をまとめた旧記『永正九年八月四日・慶長九年十二月十六日・宝永四年十月四日・嘉永七寅年十一月五日四ヶ度之震潮記』(略して『震潮記』)が現存している[94][95][96]

土佐

夜須観音山碑
入野加茂神社震災碑

土佐においては上刻(17時頃)に第一波が到達した。須崎(現・須崎市)および久礼(現・中土佐町)では被害が甚だしく(『地震日記』)、宇佐(現・土佐市)では8-9度の津浪が入り、1番より2番、3番の引汐に浦中の家が流失した(『眞覚寺日記』[46])。

夜須(現・香南市)では第3波が強く、300軒の家の内250-260軒が流失し、山沿いにあった残りの家も殆ど被害に逢い、町の中で残ったのは笠松[注 3]と川村の歳増屋という造り酒屋正銭が一杯積み上げられた蔵のみであった(『眞覚寺日記』[97][98]

入野松原(現・黒潮町)の中に賀茂神社があり、野並晴という地元の郷士が教訓を刻んだ縦1.7m×横1.8mの石碑[99]が据えられている。ここには難解な漢字が使用されているが要約すると「4日の昼に微かな地震があり、波が満ちてきた。これを鈴波と呼ぶ。これは大津波の前兆である。5日申刻大地震があり瓦葺の家も茅葺の家もすべて倒壊した。土煙が立ち込める中人々は山頂を目指して登った。牡蠣瀬川、吹上川に潮が漲り、津波は第4波が最大で7回襲い、庭も水田も海になった。かつて宝永4年にも同じことがあった。牡蠣瀬川の石を採って後人に警告を残すことにした」とある。現代の知識を以てすれば「鈴波」は東海地震津波であり前兆ではないが、100年後の人々に警告を発した点で敬意を表するものである[100]

土佐藩からの公儀への被害の報告数は、本地震が宝永地震に比較して津波が軽いため、流家などは宝永津波の方が圧倒的に多くなっている(『皆山集 巻六 第八章』)[101]。また、宝永地震は地震20日後までにまとめられた被害報告で充分に調査を尽くした段階のものとは言い難いが[102]、本地震の被害報告は地震50日後時点のものであり、当時としては最終の被害統計と考えられる[41]

宝永地震 安政南海地震
倒壊家屋 4866 2939
流失家屋 11170 3182
流失破損船舶 768 776
死亡者数 1844 372
損田石高 45170 14121
亡所の浦 61 4
半亡所の浦 4 0
亡所の郷 42 0
半亡所の郷 32 0

地震および津波の全体的な被害は家屋の全壊2万、半壊4万、焼失6千、流失1万5千、死者3千とされる。

津波碑

安政南海地震津波および、その他歴代南海地震津波により被害を受けた地区には被害状況、教訓などを記した災害記念碑がしばしば見られる[103][104][105]

  • 大地震両川口津浪記 : 大阪府大阪市浪速区大正橋の石碑 - 地震津波は船で避難してはならない。宝永地震(1707年)の際にも船で逃げ多数の死者出ている。このとき(148年前・数え年)の教訓を生かせず、350人ほど亡くなった。翌年石碑が建てられた。[106]
  • 堺市大浜公園擁護璽石碑文 : 大阪府堺市 - 川に繋いだ船は碇綱切れ、舟は割れたが、宝永津波の教訓が活かされ里人は神社の広庭に避難したため一人も怪我人が無かった[107]
  • 大地震津なみ心え之記碑 : 和歌山県有田郡湯浅町深専寺 - 4日、大地震凡半時ばかり、5日、昨日より強き地震、南東より海鳴3、4度。
  • 感恩碑、広村堤防 : 和歌山県有田郡広川町 - 濱口梧陵と稲むらの火。
  • 津浪警告碑 : 和歌山県日高郡美浜町
  • 帽巖(ぼうげん)跡 : 徳島県小松島市金磯町(1910年建立)[108] 地震破壊帽岩
  • 蛭子神社百度石 : 徳島県徳島市南沖洲
  • 庚申塔 : 徳島県那賀郡那賀町谷内下傍示・妙法寺。
  • 震災碑 : 徳島県海部郡美波町志和岐 - 四日朝五ツ時大地震不時ニ汐高満有此時浦中家財を寺或ハ高き人家へ持運ひ翌五日七ツ時亦ゝ大地震忽ち津浪押来リ舩網納屋。
  • 修堤碑 : 徳島県海部郡美波町東由岐 - 流失家屋140戸、死傷夥極悲惨、大正3年堅牢な堤を築造。
  • 石灯籠 : 徳島県海部郡美波町木岐・王子神社 - 大汐三度込入軒家流失凡四丈余上リ当宮流失。
  • 大震潮記念碑 : 徳島県海部郡牟岐町 - 家屋流失640戸、溺死39名。
  • 「大地震津浪記」扁額 : 徳島県海部郡海陽町浅川・浅川千光寺 - 大地震須臾にして潮狂い町中に溢れ込、大汐年号、永正九年、慶長九年、宝永四年。
  • 鞆浦海嘯記 : 徳島県海部郡海陽町鞆浦 - 海溢に大荒の所ゝは二三丈も潮あがりて命うしなひし者も多かるに、許の浦は壱丈二尺はかりなれば屋舎もさまていたます人はひとりの怪我たになきこそ誠に有がたきさちなりけれ。
  • 夜須観音山碑 : 高知県香南市夜須町坪井
  • 飛鳥神社懲毖、岸本安政地震の碑 : 高知県香南市岸本 - 4日の常より大きな地震で潮が20mも引き手結港で鰻が沢山採れた。5日大地震で家が崩れ人々は何一も徳王子の山で暮らした[109]
  • 萩谷名号碑 : 高知県土佐市宇佐町
  • 入野加茂神社震災碑 : 高知県幡多郡黒潮町大方入野 - 家はすべて倒壊し牡蠣瀬川、吹上川に潮が漲り、庭も水田も海になった。今後100年後に生きる人に警告する。
  • 伊田海岸石碑 : 高知県幡多郡黒潮町大方・金比羅神社
  • 中浜港地震碑 : 高知県土佐清水市中浜 - ジョン万次郎の碑の横に建つ。
  • 池家墓碑 : 高知県土佐清水市中浜峠 - ゆり静る否湊の内の汐干く。
  • 潮位碑 : 高知県宿毛市大島鷣(ハイタカ)神社 - 石段の7段目まで浸水。

地震痕跡

前兆

『今昔大変記』には「大地震する時は四、五年前より天気不順するものなり」とあり、約一か月前の10月1日頃には干潟が広がり異常な干潮により船を出すのに往生したという(『三災録』)。地震の3 - 5日前には海底の鳴動、地鳴り、遠音、虹が見られ、浦戸湾で現れる「孕のジャン」は古来より大地震前後に鳴動があったことで知られる[112][113]

また、ミミズが地中より這い出し死に(『三災録』)、井戸水が枯れたり濁るなどの現象(『今昔大変記』)も見られた[114][115]。以上のような現象が古文書には記載されており、地殻変動による隆起と思われるものもあるが、地震との因果関係については不明な点が多い[112]

南海地震発生の日の朝、熊野地方や高知付近で太陽が異様に赤色や黄色に染まる現象が見られたとされるが(『古座年代史』、『嘉永土佐地震記』)、これは前兆ではなく前日の東海地震による火災の粉塵が舞い上がったことが原因と推定されている[116]

土佐入野において地震の前日には『桑滄談』に「朝辰刻(8時)小地震ありて長し。」との記録があり、土佐伊田(現・黒潮町佐賀地区)では『大潮大変記』には「漣(すずなみ)と言うもの入来り」とあり潮の満ち干が四五度見られ、当時この地方に壊滅的打撃を与えた南海地震津浪の前兆のように云われたが、これらは東海地震とその津波によるものと見られる[21][112]

次期南海地震への警戒

南海トラフ沿いの巨大地震は凡そ100年から200年程度で繰り返されていると考えられており、1946年に発生した昭和南海地震(Mj = 8.0, Mw = 8.4)よりも宝永地震や安政南海地震の震害や津波災害の方がより甚大であったこと、さらに次期東南海地震東海地震の震源域と連動して宝永型の様に広範囲の震源域となる可能性も考えられることから、21世紀中に起こると予想される地震への対策が求められている[117][118]

関連項目

脚注

注釈

  1. ^ a b 震度分布による推定で、断層破壊開始点である本来の震源、その地表投影である震央ではない。
  2. ^ 「南海地震」とは、本来1946年南海地震を指していたが、南海トラフの西側半分の南海道沖を震源域とする地震も一般的に南海道地震と呼ばれてきた。2001年の「東南海、南海地震等に関する専門調査会」設置以来、土佐湾から紀伊水道沖を震源域として発生するとされる固有地震の名称としても使われ始め、「東南海・南海地震に係る地震防災対策の推進に関する特別措置法」(平成14年法律第92号)に明記された。
  3. ^ この笠松は宝永地震後に植えられた二代目であり、初代笠松は宝永津波で流失した(『谷陵記』、『南路志』、『皆山集』「夜須笠松ノ記」)。

出典

  1. ^ 沢村(1959), p59-60.
  2. ^ 門村(1983).
  3. ^ 湯村哲男 (1969). “本邦における被害地震の日本暦について”. 地震 第2輯 22: 253-255. https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/22/3/22_3_253/_article/-char/ja/.  JOI:JST.Journalarchive/zisin1948/22.253
  4. ^ 神田茂 (1970). “本邦における被害地震の日本暦の改元について”. 地震 第2輯 23: 335-336. https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/23/4/23_4_335/_article/-char/ja/.  JOI:JST.Journalarchive/zisin1948/23.335
  5. ^ a b 松浦律子 (2014). “[講演要旨]1605年慶長地震は南海トラフの地震か?” (PDF). 歴史地震 29: 263. http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_29/HE29_263_263_Matsuura.pdf. 
  6. ^ 今村明恒 (1943). “慶長九年の東海南海雨道の地震津浪に就いて”. 地震 第1輯 15: 150-155. https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1929/15/6/15_6_150/_pdf. 
  7. ^ 石橋克彦 (1983). “1605(慶長9)年東海・南海津波地震の地学的意義”. 地震学会講演予稿集 1: 96. http://ci.nii.ac.jp/naid/10004725302. , 石橋克彦の歴史地震研究のページ アーカイブ
  8. ^ 石橋克彦, 原田智也(2013): 1605(慶長九)年伊豆-小笠原海溝巨大地震と1614(慶長十九)年南海トラフ地震という作業仮説,日本地震学会2013年秋季大会講演予稿集,D21‒03
  9. ^ 門村(1983), p19-21.
  10. ^ 田山『大日本地震史料 下巻』.
  11. ^ a b 武者『日本地震史料』.
  12. ^ 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-一』.
  13. ^ 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』.
  14. ^ 『新収 日本地震史料 補遺 別巻』.
  15. ^ 『新収 日本地震史料 続補遺 別巻』.
  16. ^ 矢田(2008), p180-195.
  17. ^ a b 宇佐美龍夫 (1989年). “安政東海地震(1854-12-23),安政南海地震(1854-12-24)の震度分布” (pdf). 地震予知連絡会会報, 第31巻, 7-3.(公式ウェブサイト). 信州大学工学部. 2018年2月2日閲覧。
  18. ^ a b c d e f g h i j 宇佐美(2003), p164-168.
  19. ^ a b c d Masataka Ando (1975). “Source mechanisms and tectonic significance of historical earthquakes along the Nankai trough, Japan”. Tectonophysics 27: 119-140. http://ci.nii.ac.jp/naid/80013225967. Masataka Ando (1975). “Source mechanisms and tectonic significance of historical earthquakes along the nankai trough, Japan”. Tectonophysics (Impact Factor: 2.87) 27: 119-140. http://www.researchgate.net/publication/248239606_Source_mechanisms_and_tectonic_significance_of_historical_earthquakes_along_the_nankai_trough_Japan.  DOI: 10.1016/0040-1951(75)90102-X
  20. ^ 寺石(1923), p41-42.
  21. ^ a b 中村市 『中村市史 続編』 1984年
  22. ^ 都司(2011), p128-131.
  23. ^ 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-一』, p1143-1158.
  24. ^ 『日本地震史料』, p145.
  25. ^ 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-一』, p1416.
  26. ^ 『新収 日本地震史料 補遺 別巻』, p516.
  27. ^ 『日本の歴史地震史料 拾遺三』, p525.
  28. ^ a b 『日本地震史料』, p266-269.
  29. ^ 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-一』, p2.
  30. ^ 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』, p1448.
  31. ^ 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』, p1495.
  32. ^ 中央防災会議(2003) (PDF) 中央防災会議 宇佐美(1989):歴史地震の震度分布
  33. ^ a b 都司嘉宣・行谷佑一 (2007年). “連動型巨大地震としての宝永地震(1707)” (pdf). 日本地球惑星科学連合2007年大会、T235, 010. 11-10-26閲覧。
  34. ^ 都司嘉宣. “2004年インドネシア・スマトラ島西方沖地震津波の教訓 日本の巨大地震”. (公式ウェブサイト). 東京大学地震研究所. 2011年6月22日閲覧。
  35. ^ 宇津徳治 (1988). “日本の地震に関連する中国の史料”. 地震, 第2輯 41: 613-614. https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/41/4/41_4_613/_article/-char/ja/.  JOI:JST.Journalarchive/zisin1948/41.613
  36. ^ a b c d e f 石橋(1994), p28.
  37. ^ 石橋(2014), p40-45.
  38. ^ 『日本地震史料』, p101.
  39. ^ a b c 宇津ほか(2001), p599-600.
  40. ^ 間城(1995), p42-45.
  41. ^ a b 都司嘉宣・松岡祐也 (2011). “[講演要旨]安政南海地震(1854)による土佐国の死者分布” (PDF). 歴史地震 26: 91. http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_26/HE26_91.pdf. 
  42. ^ 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』, p1793.
  43. ^ a b 寒川(1997), p28-30.
  44. ^ 都司嘉宣 (1988). “安政南海地震(安政元年11月5日,1854・11・24)に伴う四国の地盤変動”. 歴史地震 4: 149-156. 
  45. ^ 寺石(1923), p44-45.
  46. ^ a b c 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』, p2249-2306.
  47. ^ 『日本地震史料』, p198.
  48. ^ 『日本地震史料』, p91-95.
  49. ^ a b 相田勇 (1981b). “南海道沖の津波の数値実験”. 東京大学地震研究所彙報 56 (4): 713-730. http://hdl.handle.net/2261/12828. 
  50. ^ a b 南海トラフの巨大地震モデル検討会 (2015年12月). “別冊①-3南海トラフ沿いの過去地震の津波断層モデル(図表集)” (PDF). 中央防災会議. 2018年2月5日閲覧。
  51. ^ 河角廣 (1951.10.5). “有史以來の地震活動より見たる我國各地の地震危險度及び最高震度の期待値”. 東京大學地震研究所彙報 29 (3): 469-482. http://hdl.handle.net/2261/11692. 
  52. ^ 宇佐美龍夫・茅野一郎 (1970). “河角の規模と気象庁の規模との関係”. 東京大学地震研究所彙報 48 (5): 923-933. http://hdl.handle.net/2261/12546. 
  53. ^ Hiroo Kanamori (1972). “Tectonic implications of the 1944 Tonankai and the 1946 Nankaido earthquakes”. Physics of the Earth and Planetary Interiors 5: 129–139. https://www.sciencedirect.com/science/article/pii/0031920172900829. 
  54. ^ 力武(1994), p66-67.
  55. ^ 佐藤(1989), p132-133.
  56. ^ 建築研究所, 「別紙2 付録3」長周期地震動評価に使用した震源モデル (PDF)
  57. ^ 『日本地震史料』, p468-469.
  58. ^ 宇佐美龍夫 (1975). “安政元年南海地震の余震 -歴史的地震の余震の減り方-”. 東京大学地震研究所彙報 50: 153-169. http://hdl.handle.net/2261/12592. 
  59. ^ 『日本地震史料』, p170-171.
  60. ^ 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』, p2225-2245.
  61. ^ 寺石(1923), p46-47.
  62. ^ 高知大学付属地震観測所. “安政南海地震の余震活動. -「真覚寺地震日記」と新史料「地震日記-木屋本」との比較-” (PDF). 地震予知連絡会会報 31. http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou31/07_04.pdf. 
  63. ^ 今村(1949), 172-177.
  64. ^ 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』, p1576.
  65. ^ 『日本地震史料』, p362.
  66. ^ 『日本地震史料』, p362.
  67. ^ 南海トラフの巨大地震モデル検討会 (PDF) 南海トラフの巨大地震モデル検討会 中間とりまとめ 産業技術総合研究所報告(2012年2月20日時点のアーカイブ
  68. ^ 都司嘉宣 (2005年). “中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1854年安政東海地震・安政南海地震」, 第3章, 第5節, 当時の先人自身が残した教訓”. 内閣府. 2018年2月5日閲覧。
  69. ^ a b 今村明恒 (1938). “土佐における宝永・安政両度津浪の高さ”. 地震 第1輯 10: 394-404. http://doi.org/10.14834/zisin1929.10.394.  JOI:JST.Journalarchive/zisin1929/10.394
  70. ^ a b c d e f 羽鳥徳太郎 (1980). “22. 大阪府・和歌山県沿岸における 宝永・安政南海道津波の調査”. 地震研究所彙報 55: 505-535. http://hdl.handle.net/2261/12765. 
  71. ^ 都司嘉宣 (2005年). “中央防災会議 災害教訓の継承に関する専門調査会報告書「1854年安政東海地震・安政南海地震」, 第2章, 第3節, 2. 安政東海地震の詳細震度分布と津波浸水高さ分布”. 内閣府. 2018年2月5日閲覧。
  72. ^ a b c 都司嘉宣(1992):『南海地震,日本の大地震』,地震学会ニュースレター,4, 4, 8-12.
  73. ^ 今村明恒 (1938). “和歌山縣下に於ける寶永安政年度の津浪状況調査”. 地震 第1輯 10 (6): 236-249. http://dx.doi.org/10.14834/zisin1929.10.236. 
  74. ^ a b 今村明恒 (1940). “廣村に於ける寳永安政兩度津浪の高さ”. 地震 第1輯 12 (5): 220-222. http://doi.org/10.14834/zisin1929.10.394. 
  75. ^ a b 羽鳥徳太郎・相田勇・坂下至功・日比谷紀之 (1983). 7.和歌山県湯浅・広に遡上した南海道津波の調査. 58. pp. 187-206. http://hdl.handle.net/2261/12872. 
  76. ^ a b c d e f g h i 山本尚明 (2003). “瀬戸内海の歴史南海地震津波について” (PDF). 歴史地震 19: 153-160. http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_19/23-Yamamoto.pdf. 
  77. ^ a b 長尾武 (2008). “1854年安政南海地震津波,大阪への伝播時間と津波遡上高” (PDF). 歴史地震 23: 63-79. http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_23/23_063.pdf. 
  78. ^ a b c d e f g h i j k 羽鳥徳太郎 (1988). “瀬戸内海・豊後水道沿岸における宝永(1707)・安政(1854)・昭和(1946) 南海道津波の挙動”. 地震 第2輯 41 (2): 215-221. https://www.jstage.jst.go.jp/article/zisin1948/41/2/41_2_215/_article/-char/ja/.  JOI:JST.Journalarchive/zisin1948/41.215
  79. ^ a b c d e f g h i j k l 村上仁士ほか (1996). “四国における歴史津波(1605慶長・1707宝永・1854安政)の津波高の再検討”. 自然災害科学 15 (1): 39-52. http://ci.nii.ac.jp/naid/110002941602. 
  80. ^ a b c d e f g h i 羽鳥徳太郎 (1978). “17. 高知・徳島における慶長・宝永・安政南海道津波の記念碑”. 地震研究所彙報 53: 423-445. http://hdl.handle.net/2261/12664. 
  81. ^ a b c d 羽鳥徳太郎 (1981). “高知県南西部の宝永・安政南海道津波の調査-久礼・入野・土佐清水の津波の高さ”. 東京大学地震研究所彙報 56 (3): 547- 570. http://hdl.handle.net/2261/12817. 
  82. ^ 宇佐美(2005), p145-146.
  83. ^ a b c d 羽鳥徳太郎 (1985). “九州東部沿岸における歴史津波の現地調査 1662年寛文・1769年明和日向灘および1707年宝永・1854年安政南海道津波”. 東京大学地震研究所彙報 60 (3): 439- 459. http://hdl.handle.net/2261/12949. 
  84. ^ 千田昇・中上二美 (2006). “大分県佐伯市米水津とその周辺地域における宝永4年, 安政元年の南海地震と津波の分析”. 大分大学教育福祉科学部研究紀要. http://kn.ndl.go.jp/4c44c746-f218-4ae7-a7a0-12e345d6c0e2. 
  85. ^ 大森房吉 (1913). “本邦大地震概説”. 震災豫防調査會報告 68(乙): 93-109. http://ci.nii.ac.jp/naid/110006605117. 
  86. ^ 『日本地震史料』, p350-354.
  87. ^ 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』, p1588.
  88. ^ 今村明恒 (1940). “「稻むらの火」の教方に就て”. 地震 第1輯 12 (8): 360-374. http://dx.doi.org/10.14834/zisin1929.12.360.  JOI:JST.Journalarchive/zisin1929/12.360
  89. ^ 都司(2011), p122-124.
  90. ^ a b 北原(2016), p245-248.
  91. ^ 猪井(1982), p69.
  92. ^ 猪井(1982), p53-60.
  93. ^ 『日本地震史料』, p375.
  94. ^ 猪井(1982), p51, 94-128.
  95. ^ 磯田(2014), p152-170.
  96. ^ 震潮記(第7-18回)(口語訳)”. 安心とくしま. 徳島県. 2018年2月2日閲覧。
  97. ^ 『日本の歴史地震史料 拾遺 別巻』, p693.
  98. ^ 都司(2012), p136-139.
  99. ^ 『新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二』, p2339.
  100. ^ 都司(2012), p146-147.
  101. ^ 『日本の歴史地震史料 拾遺 別巻』, p696.
  102. ^ 都司(2012), p111-113.
  103. ^ 猪井(1982), p47-81.
  104. ^ 都司(2012), p139-150.
  105. ^ 南海地震の碑を訪ねて -UJNR06巡検ガイド(2006.11.8)-” (PDF). 国土地理院 (2006年). 2018年1月25日閲覧。
  106. ^ 都司嘉宣「ミレニアム津波にどう備えるか」/ 保立道久・成田龍一監修」、北島糸子他著『津波、噴火、、、 日本列島地震の2000年史』朝日新聞出版 2013年 40ページ
  107. ^ 都司(2011), p132-134.
  108. ^ 小松島で安政南海地震の碑発見 被害や発生日時記す 徳島新聞、2017年1月1日閲覧。
  109. ^ 『日本の歴史地震史料 拾遺三』, p537.
  110. ^ 寒川(2007), p180-188.
  111. ^ 岡村眞(2011) (PDF) 岡村委員提出資料, 東北地方太平洋沖地震を教訓とした地震・津波対策に関する専門調査会
  112. ^ a b c 間城(1995), p154-157.
  113. ^ 寺田寅彦 怪異考
  114. ^ 沢村(1967), p71-76.
  115. ^ 京都大学防災研究所. “南海地震の前の井戸水の減少について” (PDF). 地震予知連絡会会報 70. http://cais.gsi.go.jp/KAIHOU/report/kaihou70/08-05.pdf. 
  116. ^ 都司嘉宣 (2009). “安政東海地震・南海地震(1854)に伴う月日異常と火柱現象について” (PDF). 歴史地震 24: 185-192. http://sakuya.ed.shizuoka.ac.jp/rzisin/kaishi_24/HE24_185_192_21Tsuji.pdf. 
  117. ^ 高知県 南海トラフ地震に備えてGOOD!!”. 高知県. 2014年12月1日閲覧。
  118. ^ 高知地方気象台 高知県に影響する地震津波について”. (公式ウェブサイト). 高知地方気象台. 2011年5月30日閲覧。
  119. ^ 「世界津波の日」を制定 国連総会本会議で日本主導”. 産経ニュース. 産経新聞社 (2015年12月23日). 2015年12月23日閲覧。

参考文献

  • 今村明恒『地震の国』文藝春秋新社、1949年。 
  • 猪井達雄・澤田健吉・村上仁士『徳島の地震津波 -歴史資料から-』徳島市立図書館、1982年2月。 
  • 石橋克彦『大地動乱の時代 -地震学者は警告する-』岩波新書、1994年8月。ISBN 4-00-430350-8 
  • 石橋克彦『南海トラフ巨大地震 -歴史・科学・社会-』岩波書店、2014年3月。ISBN 978-4-00-028531-5 
  • 磯田道史『天災から日本史を読みなおす』中公新書、2014年11月。ISBN 978-4-12-102295-0 
  • 門村浩・松田磐余・高橋博『実録 安政大地震 その日静岡県は』静岡新聞社、1983年。ISBN 978-4-783810230 
  • 北原糸子『日本震災史 -復旧から復興への歩み』ちくま新書、2016年9月。ISBN 978-4-480-06916-0 
  • 間城龍男『宝永大地震 -土佐最大の被害地震-』あさひ謄写堂、1995年1月。 
  • 力武常次『固体地球科学入門―地球とその物理』(第2版)共立出版、1994年5月。ISBN 978-4-3200-4670-2 
  • 寒川旭『揺れる大地―日本列島の地震史』同朋舎出版、1997年1月。ISBN 978-4-8104-2363-1 
  • 寒川旭『地震の日本史 -大地は何を語るのか-』中公新書、2007年11月。ISBN 978-4-12-101922-6 
  • 阿部勝征・岡田義光・島崎邦彦・鈴木保典 著、佐藤良輔編著 編『日本の地震断層パラメーター・ハンドブック』鹿島出版会、1989年3月25日。ISBN 978-4-3060-3232-3 
  • 高木金之助編、沢村武雄『「五つの大地震」四国山脈』毎日新聞社、1959年。  五つの大地震
  • 沢村武雄『日本の地震と津波 -南海道を中心に-』高知新聞社、1967年。 
  • 寺石正路『土佐古今ノ地震』土佐史談会、1923年。 
  • 都司嘉宣『千年震災 -繰り返す地震と津波の歴史に学ぶ』ダイヤモンド社、2011年5月。ISBN 978-4-478-01611-4 
  • 都司嘉宣『歴史地震の話 -語り継がれた南海地震』高知新聞社、2012年6月。ISBN 978-4-87503-437-7 
  • 宇佐美龍夫『最新版 日本被害地震総覧 416‐2001』東京大学出版会、2003年4月。ISBN 978-4-1306-0742-1 
  • 「宇佐美竜夫 『安政地震』」『世界大百科事典』 2巻、平凡社世界大百科事典〉、2009年。 
  • 宇津徳治・嶋悦三・吉井敏尅・山科健一郎 編『地震の事典』(第2版)朝倉書店、2001年。ISBN 978-4-2541-6039-0 
  • 矢田俊文『中世の巨大地震』吉川弘文館、2008年12月。ISBN 978-4-6420-5664-9 
  • 田山實、震災予防調査会編 編『大日本地震史料 下巻』丸善、1904年。  pp.361-526 国立国会図書館サーチ
  • 武者金吉 編『日本地震史料』毎日新聞社、1951年。  pp.75-468
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 新収 日本地震史料 五巻 別巻五-一 安政元年十一月四日・五日・七日』日本電気協会、1987年。  pp.1-1438 - 安政地震に関する新収古記録原典の集成
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 新収 日本地震史料 五巻 別巻五-二 安政元年十一月四日・五日・七日』日本電気協会、1987年。  pp.1439-2528 - 安政地震に関する新収古記録原典の集成
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 補遺 別巻』日本電気協会、1989年。  pp.409-612
  • 東京大学地震研究所 編『新収 日本地震史料 続補遺 別巻』日本電気協会、1994年。  pp.414-869
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺 別巻』東京大学地震研究所、1999年3月。  pp.467-710
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺二』東京大学地震研究所、2002年3月。  pp.296-435
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺三』東京大学地震研究所、2005年3月。  pp.463-543
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺四ノ上』東京大学地震研究所、2008年6月。  pp.589-1133
  • 宇佐美龍夫『日本の歴史地震史料 拾遺五ノ下』東京大学地震研究所、2012年6月。  pp.1082-1333
  • 『大坂大津浪図 (PDF) - 大阪城天守閣蔵、大阪市[1] 2014年3月28日閲覧
  • 大阪大津波の図”. 小野秀雄コレクション. 東京大学大学院情報学環・学際情報学府. 2014年3月28日閲覧。