コンテンツにスキップ

英文维基 | 中文维基 | 日文维基 | 草榴社区

「ヨハン・クライフ」の版間の差分

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
削除された内容 追加された内容
m Cite webにおける引数修正・アーカイブ追加もしくはテンプレート変更
 
(100人を超える利用者による、間の333版が非表示)
1行目: 1行目:
{{Otheruses|[[オランダ]]の[[サッカー選手]]|[[イギリス]]で生産された[[競走馬]]|ヨハンクライフ (競走馬)}}
{{Otheruses|[[オランダ]]の[[プロサッカー選手]]|[[イギリス]]で生産された[[競走馬]]|ヨハンクライフ (競走馬)|[[オランダ]]にあるスタジアム|ヨハン・クライフ・アレナ|[[スペイン]]にあるスタジアム|エスタディ・ヨハン・クライフ}}
{{サッカー選手
{{サッカー選手
|名前=ヨハン・クライフ
|名前=ヨハン・クライフ
|画像=Cruyff a la banqueta del Camp Nou.jpg
|画像=Johan Cruyff 1974c.jpg
|画像サイズ=250px
|画像サイズ=220px
|画像の説明=[[1974年]]のヨハン・クライフ
|本名=Hendrik Johannes Cruijff(Johan Cruyff)
|本名=ヘンドリック・ヨハネス・クライフ<br />{{lang|nl|Hendrik Johannes Cruijff}}
|愛称=フライング・ダッチマン、ジーザス・クライスト
|愛称=フライング・ダッチマン<ref name="学研">[[#日本スポーツプレス協会編集 2000|日本スポーツプレス協会編集 2000]]、64-65頁</ref><ref name="number901-52-57">{{Cite book|和書|chapter=ヨハン・クライフ完全年表 1947-2016|title=[[Sports Graphic Number]]|volume=901号|publisher=[[文藝春秋]]|year=2016|page=52-57}}</ref><br />エル・サルバドール<ref name="number901-52-57"/><ref name="story149">{{Cite web|和書|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=149|title=ヨハン・クライフ|publisher=賀川サッカーライブラリー|accessdate=2012-07-07}}</ref><br />エル・フラコ<ref name="サントス181">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、181頁</ref><br />スーパースター<ref name="number901-52-57"/><ref name="encyclopedia665">[[#国吉 2006|国吉 2006]]、665頁</ref>
|カタカナ表記=ヘンドリック・ヨハネス・クライフ
|アルファベット表記=
|カタカナ表記=
|アルファベット表記={{lang|nl|Johan Cruijff}}
|原語名=
|原語名=
|原語表記=
|原語表記=
|国={{NED}}
|国={{NLD}}
|誕生日={{生年月日と年齢|1947|4|25}}
|誕生日={{生年月日と年齢|1947|4|25|no}}
|没年月日={{死亡年月日と没年齢|1947|4|25|2016|3|24|}}
|出身地=[[アムステルダム]]、[[:en:Heemstede|ヘームステーデ]]
|出身地=[[アムステルダム]]
|身長=176cm
|身長=178cm
|体重=67kg
|体重=67kg
|血液型=
|所属チーム名=
|所属チーム名=
|ポジション=[[フォワード (サッカー)|FW]] / [[ミッドフィールダー|MF]]
|ポジション=[[フォワード (サッカー)|FW]] / [[ミッドフィールダー|MF]]
|背番号=14
|背番号=
|利き足=右足
|利き足=右足
|ユースクラブ=[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]
|ユース年1=1957-1964 |ユースクラブ1={{Flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]
|年1=1964-1973|クラブ1={{Flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]|出場1=240|得点1=190
|ユース年=1957-1964
|年2=1973-1978|クラブ2={{Flagicon|ESP}} [[FCバルセロナ|バルセロナ]]|出場2=143|得点2=48
|クラブ=[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]<br />[[FCバルセロナ|バルセロナ]]<br />[[ロサンゼルス・アズテックス]]<br />[[ワシントン・ディプロマッツ]]<br />[[レバンテUD|レバンテ]]<br />[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]<br />[[フェイエノールト]]
|年3=1979|クラブ3={{Flagicon|USA}} {{仮リンク|ロサンゼルス・アズテックス|en|Los Angeles Aztecs}}|出場3=27|得点3=14
|年=1964-1973<br />1973-1978<br />1979-1980<br />1980-1981<br />1981<br />1981-1983<br >1983-1984
|年4=1980|クラブ4={{Flagicon|USA}} {{仮リンク|ワシントン・ディプロマッツ|en|Washington Diplomats}}|出場4=27|得点4=10
|出場(得点)=240 (190)<br />143 (48)<br />27 (16)<br />32 (12)<br />10 (2)<br />36 (14)<br />33 (11)<!--国内リーグ戦の成績に限る-->
|年5=1981|クラブ5={{Flagicon|ESP}} [[レバンテUD|レバンテ]]|出場5=10|得点5=2
|年6=1981|クラブ6={{Flagicon|USA}} {{仮リンク|ワシントン・ディプロマッツ|en|Washington Diplomats}}|出場6=5|得点6=2
|年7=1981-1983|クラブ7={{Flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]|出場7=36|得点7=14
|年8=1983-1984|クラブ8={{Flagicon|NED}} [[フェイエノールト]]|出場8=33|得点8=11
|クラブ成績更新日=
|クラブ成績更新日=
|代表年1=1966-1977|代表1={{NEDf}} <ref name="rsssf">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/cruijff-intlg.html|title=Johan Cruijff - Goals in InternationalMatches|publisher=rsssf.com|accessdate=2014-01-04}}</ref>|代表出場1=48|代表得点1=33
|代表国={{NEDf}}
|代表年=1966-1977
|代表出場(得点)=48 (33)
|代表成績更新日=
|代表成績更新日=
|監督年1=1985-1988|監督チーム1={{Flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]
|監督年=1985-1988<br />1988-1996<br />2009-
|監督チーム=[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]<br />[[FCバルセロナ|バルセロナ]]<br />[[サッカーカタルーニャ選抜|カタルーニャ選抜]]
|監督年2=1988-1996|監督チーム2={{Flagicon|ESP}} [[FCバルセロナ|バルセロナ]]
|監督年3=2009-2013|監督チーム3={{CTLf}}選抜
}}
}}
'''ヨハン・クライフ'''({{lang|nl|Johan Cruijff}}{{#tag:ref|{{IPA-nl|ˈjoːɦɑn ˈkrœyf|-|JohanCruiff.ogg}}。[[英語]]表記では「Cruyff」と綴られることもある<ref name="number901-52-57"/>。|group=注}})こと'''ヘンドリック・ヨハネス・クライフ'''({{lang|nl|Hendrik Johannes Cruijff}} {{仮リンク|オラニエ=ナッサウ勲章|label=OON|en|Order of Orange-Nassau}}, [[1947年]][[4月25日]] - [[2016年]][[3月24日]])は、[[オランダ]]出身の[[プロサッカー選手|サッカー選手]]、サッカー指導者。選手時代のポジションは[[フォワード (サッカー)|フォワード]]、[[ミッドフィールダー]]。


[[リヌス・ミケルス]]監督の志向した組織戦術「[[トータルフットボール]]」をピッチ上で体現した選手であり<ref name="学研"/><ref name="encyclopedia">[[#国吉 2006|国吉 2006]]、165頁</ref>、選手時代に在籍した[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]では[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]3連覇、[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]では[[FIFAワールドカップ]]準優勝に導いた実績などから[[バロンドール]](欧州年間最優秀選手賞)を3度受賞した。[[フランツ・ベッケンバウアー]]([[ドイツ]])と並ぶ1970年代を代表する選手<ref name="学研"/><ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、232頁</ref><ref>[[#大住 1998|大住 1998]]、56頁</ref><ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、12頁</ref>であり、[[ペレ]]([[ブラジル]])や[[ディエゴ・マラドーナ]]([[アルゼンチン]])と並ぶ史上最高の選手と評されており<ref name="encyclopedia"/>、サッカー界に最も影響を与えた人物の1人である。
'''ヨハン・クライフ [[オランダ王国オレンジ・ナッソー勲章|OON]]'''('''Johan Cruijff'''<ref>英語表記では「Cruyff」と綴られることもある。</ref>、フルネーム:Hendrik Johannes Cruijff、[[1947年]][[4月25日]] - )は、[[オランダ]]・[[北ホラント州]][[ヘームステーデ]])出身の元[[サッカー選手]]、サッカー指導者であり、現在は[[サッカーカタルーニャ選抜|カタルーニャ選抜]]の監督を務める人物である。現役時代のポジションは主に[[フォワード (サッカー)|FW]]([[センターフォワード]]、[[ウイング (サッカー)|ウインガー]])、[[ミッドフィールダー|MF]](攻撃的MF)であった。


引退後は指導者に転身し古巣のアヤックスや[[FCバルセロナ]]の監督を務めると、バルセロナでは[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]4連覇やUEFAチャンピオンズカップ優勝などの実績を残し監督としても成功を収め<ref name="学研"/>、史上最高の監督の1人とみなされた。その後は監督業から退いていたが2009年から2013年まで[[サッカーカタルーニャ代表|カタルーニャ選抜]]の監督を務めた。<!--[[リヒャルト・ワーグナー]]の[[楽劇]]「[[さまよえるオランダ人]]」-->相手のタックルを柔軟なボールタッチやフェイントで飛び越えたプレースタイルに由来する「'''空飛ぶオランダ人'''([[フライング・ダッチマン]])」<ref name="学研"/><ref name="asahi">{{Cite web|和書|url=http://www.asahi.com/sports/fb/world/TKY201007090212.html|title=「スペイン流」先生はオランダ クライフの攻撃サッカーを継承|publisher=[[朝日新聞]]|date=2010-07-09|accessdate=2014-01-04}}</ref><ref name="クライフ2014-232"/>、[[スペイン語]]で[[救世主]]を意味する「エル・サルバドール」<ref name="story149"/> など、様々な[[愛称|ニックネーム]]を持つ。
== 概要 ==


== 生い立ち ==
クライフは[[1960年]]代後半から[[1970年]]代にかけて欧州年間最優秀選手賞([[バロンドール]])を3度受賞し、オランダ代表監督などを歴任した[[リヌス・ミケルス]]監督の組織戦術「[[トータルフットボール]]」における中心選手であった。このミケルス監督とは[[1965年]]の[[アヤックス・アムステルダム]]時代から、[[FCバルセロナ]]、そしてオランダ代表でも監督と選手の間柄であった。
[[ファイル:Oogststraat Betondorp Amsterdam NL 1.jpg|left|thumb|250px|クライフが育ったベトンドルプの街並み]]
1947年4月25日、[[アムステルダム]]の東部にある{{仮リンク|ベトンドルプ|nl|Betondorp}}という労働者の住む街で、青果店を営む家庭<ref name="サントス70-71">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、70-71頁</ref><ref>[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、125頁</ref>の次男として生まれた<ref>[[#マルメリンク 2017|マルメリンク 2017]]、74頁</ref>。家庭は貧しく、日頃の生活に窮していたが<ref name="サントス70-71"/>、仲の良かった2歳年上の兄や近所の友人達と毎日のようにストリートサッカーに興じてテクニックを磨いた<ref name="サントス70-71"/>。少年時代を過ごした生家から数100mほどの場所にアヤックスのホームスタジアムや施設があり、頻繁に出入りしていたことから選手やスタッフから可愛がられ、マスコットのような存在になった<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、75頁</ref>。


少年時代は華奢な体格で実際の年齢より幼く見られたほどだったが、ストリートサッカーで身に付けたテクニックはこの当時から話題となっており、10歳の時に兄の後を追ってアヤックスの下部組織に入団した<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、77-78頁</ref><ref name="賀川20050329">{{Cite web|和書|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=870|title=第12回 ヨハン・クライフ(1)スリムで、鋼のように強く、チームを意のままに動かし、観客をしびれさせた|publisher=賀川サッカーライブラリー|accessdate=2014-01-04}}</ref>{{#tag:ref|アヤックスの攻撃的なサッカースタイルは[[イングランド]]出身の{{仮リンク|ジャック・レイノルズ (1881年生のサッカー選手)|label=ジャック・レイノルズ|en|Jack Reynolds (footballer born 1881)}}によって初めて導入された<ref name="ウィルソン277-278">[[#ウィルソン 2010|ウィルソン 2010]]、277-278頁</ref>。レイノルズは選手としての成功とは無縁だったが、[[1915年]]にアヤックスの監督に就任すると、役員との対立や[[第二次世界大戦]]の影響による退団を挟んで25年間にわたり同クラブを指導し、オランダ国内の強豪チームへと育て上げた<ref name="ウィルソン277-278"/>。彼は「攻撃とは最高の形の守備である」との信条に基いた指導を行うと共に、下部組織の基礎を作り各年代ごとのチームが一貫したスタイルでプレー出来るように配慮した<ref name="ウィルソン277-278"/>。|group=注}}。当時のアヤックスには[[第二次世界大戦]]後に駐屯していた[[アメリカ軍]]の影響もあって[[野球]]部門があり、野球は主にサッカーのオフシーズンにプレーしていた<ref>[[#クライフ 2014|クライフ 2014]]、11頁</ref>。打順は1番<ref name="クライフ2017-20">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、20頁</ref>、ポジションは[[捕手|キャッチャー]]を務め<ref name="大住74-75">[[#大住 2004|大住 2004]]、74-75頁</ref><ref name="story872">{{Cite web|和書|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=872|title=第14回 ヨハン・クライフ(3)互いに話し合い互いにプレーを知っていた74年のオランダ|publisher=賀川サッカーライブラリー|accessdate=2014-01-04}}</ref>、有望なキャッチャーであったクライフは<ref name="サカマガ秋季52-53">[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、52-53頁</ref>15歳までは[[野球オランダ代表|オランダ代表]]にも選ばれていた<ref name="クライフ2017-20"/>。[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]でスター選手になるという夢も持ち合わせていたが<ref name="大住74-75"/>、オランダ国内においてサッカーのプロ化の機運が高まったことを受けてクラブが野球部門を廃止したため野球選手としての道を絶ち、サッカーに専念することになった<ref name="大住74-75"/><ref name="サカマガ秋季52-53"/>{{#tag:ref|クライフは野球を経験したことが「私にとっては非常に有効な手段だったと確信している」と述べている<ref name="クライフ2017-21">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、21頁</ref>。またフィールド全体を見渡せるキャッチャーを経験したことによって、自然とサッカー選手として必要な能力である全体を把握する力が強化され、また常に次のプレーを考えるように教えられたため、先の展開を考えることも学んだと述べており<ref name="クライフ2017-21"/>、サッカーに専念するようになった後も野球を学び続けた結果、監督になってからは一歩先の動きを読む、瞬間的に戦術的な判断を下し、さらに技術的に正確な行動をとるなどといった、「野球の視点から行えるアドバイスをサッカーにうまく適応できた」と述べている<ref name="クライフ2017-21"/>。|group="注"}}。
選手時代のクライフのには[[リヒャルト・ワーグナー]]の[[楽劇]]「[[さまよえるオランダ人]]」に由来する「'''空飛ぶオランダ人'''('''フライング・ダッチマン''')」<ref name="asahi">{{cite web|url=http://www.asahi.com/sports/fb/world/TKY201007090212.html |title=「スペイン流」先生はオランダ クライフの攻撃サッカーを継承 |publisher=[[朝日新聞]] |date=2010-07-09 |accessdate=2010-07-11}}</ref>、イニシャルの「J.C.」が[[イエス・キリスト]]と同じことに由来する「ジーザス・クライスト/ジーザス・クライフ」など、様々な[[ニックネーム]]が付けられたが、Jesus(ジーザス)はキリスト圏で神を意味するため、ジーザスというニックネームではほとんど呼ばれていない。
特に「フライング・ダッチマン」の異名は1974年の[[1974 FIFAワールドカップ|ワールドカップ西ドイツ大会]]、対[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦の2点目で見せたジャンピングボレーシュートに由来するものであり、このシュート自身も「フライング・ボレー」という固有名詞扱いされることもある。この他に現役時代のプレーとしては軸足の後ろ側にボールを通しながらターンする「'''[[クライフターン]]'''」もまた有名であり、今日ではサッカーの基本テクニックの一つとなっている。


1959年7月8日、12歳の時に45歳の父が心臓発作により死去<ref name="マルメリンク2017-79">[[#マルメリンク 2017|マルメリンク 2017]]、79頁</ref><ref name="クライフ2017-1819">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、18-19頁</ref>。クライフは精神的なショックを受け<ref name="サントス72-73">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、72-73頁</ref>、後にクライフ自身は「影響は受けたことは確かだが、その程度は判らない」としたものの、周囲の人々によるとこの時のクライフは立ち直るまでに時間を有したという<ref name="サントス72-73"/>。父の死後、クライフは父の墓前に語り掛けるようになり、架空の対話を通じて父の魂とともにあり見守られているのだと確信していたという<ref name="サントス72-73"/>。母は青果店を手放し、アヤックスの清掃員や家政婦として家計を支えていたが<ref name="大住75">[[#大住 2004|大住 2004]]、75頁</ref>、やがてアヤックスの用務員を務める男性と再婚した<ref name="サントス79">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、79頁</ref>。クライフは幼少のころから男性と交流があり、クライフの情緒に安定と安心感をもたらすことになった<ref name="サントス79"/>。この時期に[[プロテスタント]]系の小学校を卒業後に地元の4年制の中学校へ進学したが、勉学には不熱心であり<ref name="サカマガ秋季68-69">[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、68-69頁</ref>、2年時に中退し、スポーツ用品店の店員を務めながらアヤックスの下部組織でプレーを続けた<ref name="サカマガ秋季52-53"/>。
現役引退後は指導者としても実績を残した。特に1990年代には[[FCバルセロナ]]の監督を務め、[[リーガ・エスパニョーラ]]4連覇し、「[[エル・ドリーム・チーム]]」の異名を取っている。[[1996年]]以降は体調不良の為、監督を退いているが、FCバルセロナの名誉会長やスペイン・カタルーニャ選抜監督を務め、今も尚、サッカー界に多大な影響を与え続けている。


15歳でユースチームに昇格したが、当時のクライフは他のチームメイトと比べて体格で見劣りをしていた<ref name="サントス78">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、78頁</ref>。一方、持ち前の突破力を生かしてセンターフォワードとして1シーズンの公式戦で74得点を挙げるなど才能を発揮し<ref name="サントス78"/>、1963-64シーズンにはオランダのユース年代の全国大会で優勝を果たした<ref name="Biografie">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.cruyff.com/asp/ned/flashcontent.asp?page=7|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140104205301/http://www.cruyff.com/asp/ned/flashcontent.asp?page=7|title=Biografie Johan Cruijff|publisher=Cruijff.com|archivedate=2014-01-04|accessdate=2014-01-04}}</ref>。こうした経緯から、トップチームの監督を務めていた[[ヴィク・バッキンガム]]はクライフのトップチーム昇格の機会を模索するようになり<ref name="サントス79"/>、個人プレーに走りがちなクライフに対してチームプレーの重要さを指導した<ref name="サントス79"/>。
== 経歴 ==
=== 少年時代 ===
クライフは[[1947年]][[4月25日]]、[[第二次世界大戦]]後の[[オランダ]]・[[ヘームステーデ]]で、父親が青果店を営む家庭に産まれた。ストリートサッカーに明け暮れた少年時代は華奢で、周囲からは「この子は病気ではないか」と心配されていた程だった。小さい時から[[アヤックス・アムステルダム]]の大ファンだったクライフは、10歳の時に入団テストに合格し、アヤックスの下部組織に入団した。


=== アヤッス時代 ===
== クラブ経歴 ==
=== アヤックス ===
アヤックスに入団したクライフであったが12歳の時に父親が死去し、13歳の時にサッカーへ専念するため学校を退学している。16歳の時にアヤックスのトップチームに昇格し、1964-65シーズンに[[FCフローニンゲン]]戦でデビューを果たし、同時に初ゴールも決めている。その後、[[エールディヴィジ]]はプロ化され、クライフもプロ選手となっている。アヤックスには[[1973年]]まで9シーズン以上在籍し、その間、[[UEFAチャンピオンズカップ]]に3回優勝、個人では[[バロンドール]]に2回選出されている。
==== 選手としての成功 ====
なお、アヤックスのユース時代に、審判のポジショニングミスを指摘し抗議したため退場になった事がある。
[[ファイル:Johan Cruijff (1965).jpg|thumb|240px|1965年のクライフ]]
16歳の時に1964年にトップチームへの昇格と[[プロサッカー選手|プロ契約]]を打診されると、小柄な体躯であることを懸念する母を説得し、契約金1500[[ギルダー]](約15万円)、年俸4万ギルダー(約400万円)でプロ契約を結んだ<ref name="サントス80">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、80頁</ref><ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、122頁</ref>。クライフがプロ契約を結んだ当時のオランダ国内では1954年からプロ契約が認められ{{#tag:ref|オランダでプロが認められたのは1954年のことで<ref name="ウィナー24-25">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、24-25頁</ref><ref name="サカマガ197108">{{Cite book|和書|author=エリック・バッティ|chapter=躍進オランダの新星 ヨハン・クライフ|title=[[サッカーマガジン]]|volume=1971年8月号|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|year=1971|page=106-108}}</ref><ref name="ウィルソン 276">[[#ウィルソン 2010|ウィルソン 2010]]、276頁</ref>、前年にオランダ西部の[[ゼーラント州]]が洪水に見舞われた際に同国のスター選手達が災害支援のために、[[サッカーフランス代表|フランス代表]]と慈善試合を行ったことがきっかけだった<ref name="ウィナー24-25"/>。しかしプロが認められた後も、多くの選手がアマチュアやセミプロの選手としてピッチに立っており<ref name="ウィナー24-25"/>、待遇面だけでなく戦術レベルにおいても欧州の先進国と比べ大きく立ち遅れていた<ref name="ウィルソン 276"/><ref name="ウィナー26-27">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、26-27頁</ref>。個々の選手に才能はあってもそれを試合で発揮する術のない状況は1960年代初頭まで続いたという<ref name="ウィナー26-27"/>。また、1954年にオランダで認められたのは「[[セミプロフェッショナル|セミプロ契約]]」であったとする指摘もある<ref>[[#クーパー 2005|クーパー 2005]]、232頁</ref>。|group=注}}、クライフが所属していたアヤックスは1960年代半ばになると国内のスポーツ界に先駆けて高額の給与での選手と契約を始めたが<ref name="クーパー233-234">[[#クーパー 2005|クーパー 2005]]、233-234頁</ref>、この契約に関してアマチュアやセミプロが主流だったオランダサッカー界において2人目の事例であり、1人目はアヤックスの主力選手であった[[ピート・カイザー]]とする指摘がある<ref name="クーパー233-234"/><ref name="サントス86">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、86頁</ref>{{#tag:ref|クライフは自身のプロ契約について以下のように発言している。{{Quotation|記憶が正しければ、私はオランダで2人目の「フルタイム」のプロサッカー選手だった。1964年のことだ。考えてもみてくれ、つい最近のことだよ。1人目はピート・カイザーであり、私は2人目だ<ref name="クーパー233-234"/>。|ヨハン・クライフ}}|group=注}}。


同年11月15日にアウェーで行われた[[FCフローニンゲン|GVAV]]戦でデビューを果たし、試合は1-3で敗れたものの初得点を挙げ<ref name="サントス81"/>、11月22日にホームで行われた[[PSVアイントホーフェン]]戦でも得点を決め勝利に貢献しサポーターの人気を獲得した<ref name="サントス81">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、81頁</ref>。一方、バッキンガムや彼の後任として1965年1月に監督に就任した[[リヌス・ミケルス]]の下でクライフはレギュラー選手としてではなくスーパーサブとして起用された<ref name="サカマガ秋季55">[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、55頁</ref>。これはミケルスがクライフを「ダイヤモンドの原石」と称して<ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、27頁</ref>その素質を認めながらも時間をかけて育成していきたいとの指導者側の意向によるものであり<ref name="サカマガ秋季55"/>、ミケルスは「ヨハンは可能性を秘めていたが少年であり、精神的や肉体的には依然として未熟だった」と評している<ref name="大住77">[[#大住 2004|大住 2004]]、77頁</ref>。クライフは1軍の試合ではフィールドプレーヤーとして出場していたが、3軍の試合に出場する際は[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]として出場し<ref name="クライフ2017-22">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、22頁</ref>、アヤックスで[[UEFAチャンピオンズリーグ|ヨーロッパカップ]]に参加していた際は第二ゴールキーパーであった<ref name="クライフ2017-22"/>。
クライフの代名詞である[[サッカーの背番号|背番号]]「'''14'''」はこのアヤックス時代から好んで付けていた。当時、背番号は選手固定ではなく、毎試合前に選手同士で話し合って決めていた。ある時、主に控え選手が付ける「14」を選ぶクライフに監督がその理由を尋ねると、クライフは「誰も付けていないこの番号を、これから自分の番号にするためだ」と言ったという。代名詞となった背番号14は2007年4月25日、アヤックスの[[永久欠番]]となった。


[[ファイル:Persconferentie ivm vertrek van bondscoach Kees Rijvers en de opvolging van hem , Bestanddeelnr 933-1360.jpg|thumb|250px|選手時代にクライフを指導した[[リヌス・ミケルス]]。彼の志向した組織戦術「[[トータル・フットボール]]」を遂行する上で、クライフは欠かせない存在となっていった。]]
当時のオランダには[[徴兵制度]]があり、兄は徴兵され軍に入れられたが、クライフは[[仮病]]やありとあらゆるワガママと言い訳を使い続け、ついに医者を根負けさせた。よって本人は兵役を逃れたため、このように若い頃から活躍する事が可能であった。
ミケルスは自らが志向する「トータル・フットボール」を実践するために選手達に厳しいサーキットトレーニングを課していたが、クライフはミケルスの課した練習に熱心に取り組んだ<ref name="大住80">[[#大住 2004|大住 2004]]、80頁</ref>。1965年[[10月24日]]に行われた{{仮リンク|AFCドール・ウィルスクラフト・ステルク|label=AFC DWS|en|AFC DWS}}戦で{{仮リンク|クラース・ヌニンハ|en|Klaas Nuninga}}との交代で1965-66シーズンの初出場を果たすとカイザーとのパス交換から2得点をあげる活躍を見せて勝利に貢献<ref name="Biografie" />。同シーズンに19試合に出場し16得点をあげ[[エールディヴィジ]]優勝に貢献するなど順調に成長を見せると、19歳の頃にはミケルスの志向するサッカーを実践する上で欠かせない選手となっていた<ref name="大住77" />。


国内では1965-66シーズンからリーグ3連覇を成し遂げるなどリーグ優勝6回(1965-66、1966-67、1967-68、1969-70、1971-72、1972-73)、KNVBカップ優勝4回(1966-67、1969-70、1970-71、1971-72)<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、121頁</ref><ref name="クライフ2017-312-314">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、312-314頁</ref>。個人としても1966-67シーズンに33得点、1971-72シーズンに25得点をあげリーグ得点王を獲得した<ref name="クライフ2017-312-314"/>。
=== FCバルセロナ時代 ===
[[1973年]]、200万ドルという当時としては破格の移籍金で[[リーガ・エスパニョーラ|スペイン]]の[[FCバルセロナ]]に移籍し、このシーズンのリーグ優勝に貢献した。特に[[アトレティコ・マドリード]]戦でのゴールやアウェー[[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ|サンティアゴ・ベルナベウ]]で行われた[[エル・クラシコ]]に5-0で歴史的大勝を収めた事などは語り草となっている。その後、5シーズンにわたってバルセロナに多くのタイトルをもたらした。なお、アヤックス時代には「14」の背番号を着けていたクライフであったが、当時の[[リーガ・エスパニョーラ]]には先発メンバーは「1」~「11」の背番号をつけるという規定があったため、「14」ではなく「9」をつけている。


=== 選手キャリア晩年 ===
==== 国際タイトル獲得 ====
[[ファイル:Johan Cruijff krijgt in Amstelveen Ballon dor (onderscheiding voor Europees vo, Bestanddeelnr 925-5239.jpg|thumb|270px|left|1971年の[[バロンドール]]授賞式でのクライフ]]
[[1979年]]、FCバルセロナ上層部と運営方針を巡って衝突し、クラブを退団した。一時は引退を宣言するも、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[北米サッカーリーグ]]の[[ロサンゼルス・アズテックス]]に移籍、その後[[ワシントン・ディプロマッツ]]へと移籍
[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]には[[UEFAチャンピオンズカップ 1966-67|1966-67]]シーズンに初出場を果たし、2回戦で[[ビル・シャンクリー]]監督が率いるイングランドの[[リヴァプールFC]]と対戦した。この試合前のアヤックスの評価は低かったが<ref name="クーパー242-243">[[#クーパー 2005|クーパー 2005]]、242-243頁</ref>、[[霧|濃霧]]の中で行われたホームでの第1戦においてクライフは奔放な動きを見せてリヴァプール守備陣を翻弄し5-1と大勝した<ref name="クーパー242-243"/><ref name="クライフ2017-29">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、29頁</ref>。敵地での第2戦を前に相手のビル・シャンクリー監督は「我々が7-0で勝利する」と記者に対し公言したが<ref name="クーパー242-243"/><ref name="クライフ2017-29"/>、クライフが2得点を挙げる活躍を見せて2-2と引分け、準々決勝進出へ導いた<ref name="サカマガ197108"/><ref name="クーパー242-243"/>。アヤックスはリヴァプールを相手に勝利したことで「ヨーロッパカップを優勝する可能性がある」と騒ぎ立てられたが<ref name="クライフ2017-29"/>、続く[[FKデュクラ・プラハ|デュクラ・プラハ]]戦では敵地での第2戦で敗れたため準決勝進出を逃した<ref name="NRC20061207">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.nrc.nl/next/2006/12/07/faam-ajax-begon-in-de-mist-11240622|title=Faam Ajax begon in de mist|publisher=NRC|date=2006-12-07|accessdate=2016-03-26}}</ref>。しかし、「霧の試合({{lang-nl|De Mistwedstrijd}})」<ref name="NRC20061207"/><ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.olympischstadion.nl/page/80|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160406125032/http://www.olympischstadion.nl/page/80|title=1966: De Mistwedstrijd|publisher=Olympisch Stadion|archivedate=2016-04-06|accessdate=2016-03-26}}</ref> と称されるリヴァプール戦の勝利を境にミケルス指揮下のアヤックスは国際的な名声を集め、オランダサッカー界の今後を示す試金石となった<ref name="NRC20061207"/>。また、クライフの存在はヨーロッパ各国の関係者の知るところとなり、国際舞台において厳しいマークを受けることになった<ref name="サカマガ197108"/>。
ベッケンバウアーと共にリーグを彩った。その後、スペインの[[レバンテUD]]を経て、[[1981年]]に古巣アヤックスに戻ったが
アヤックス上層部から「君は年を取って居るからダメだ」と言われ、激怒したクライフは「それを決めるのはあなたじゃない、私だ」と言い放ち[[1983年]]にライバルチームの[[フェイエノールト]]へ移籍して[[1984年]]にエールディヴィジを優勝して現役を引退した。


[[UEFAチャンピオンズカップ 1967-68|1967-68]]シーズンには1回戦でスペインの[[レアル・マドリード]]に敗退<ref name="サントス44">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、44頁</ref>。[[UEFAチャンピオンズカップ 1968-69|1968-69]]シーズンには準々決勝でポルトガルの[[SLベンフィカ]]、準決勝でチェコスロバキアの[[FCスパルタク・トルナヴァ|スパルタク・トルナヴァ]]を下すなどオランダ勢として初の決勝進出を果たしたが、決勝ではイタリアの[[ACミラン]]に1-4で敗れた<ref name="サントス44"/>。[[UEFAチャンピオンズカップ 1970-71|1970-71]]シーズンには決勝で[[ギリシャ]]の[[パナシナイコスFC]]を下し初優勝に貢献すると、1971年の[[バロンドール]](欧州年間最優秀選手賞)の投票では116ポイントを獲得し、2位の[[サンドロ・マッツォーラ]](57ポイント)を抑えて初受賞を果たした<ref name="バーランド、ファンドープ227-228">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、227-228頁</ref>。
最後の2年は連続でオランダ年間最優秀選手に選ばれており、余力を残しての引退のように見えたが、実際は体が相当限界に近かった事を自らの自伝に書いている。最後の試合を終えた後、ロッカールームで[[スパイクシューズ|スパイク]]を無造作に放り投げ、引退の意思を示した。


[[UEFAチャンピオンズカップ 1971-72|1971-72]]シーズンにはミケルスが退任し[[ルーマニア人]]の[[シュテファン・コヴァチ]]が監督に就任した<ref name="スホッツ、ラウツェン52">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、52頁</ref>。コヴァチはミケルスの提唱した「トータル・フットボール」を引き継ぐ一方で規律を重んじた前任者とは対照的に選手の自主性を許容し<ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、38頁</ref><ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、86頁</ref><ref>[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、122頁</ref><ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、38頁</ref>、「トータル・フットボール」の組織的な連動性を進化させた<ref name="スホッツ、ラウツェン52"/>。この時期のアヤックスについてクライフは「コヴァチの下では後方のミッドフィールダーやディフェンダーが前線へと飛び出し、本来は前線にいるフォワードが後方から飛び出した選手のポジションをカバーリングするといった自由が認められ相手チームの脅威となっている。ミケルスの下では決して認められなかっただろう」と評している<ref name="スホッツ、ラウツェン52"/>。
=== オランダ代表として ===
[[ファイル:Perfumo y cruyff.jpg|thumb|200px|left|[[1974 FIFAワールドカップ]]のクライフ(左)と[[ロベルト・ぺルフーモ]]]]
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-N0716-0314, Fußball-WM, BRD - Niederlande 2-1.jpg|thumb|230px|right|[[1974 FIFAワールドカップ]]決勝の[[サッカードイツ代表|西ドイツ代表]]戦でのクライフ]]
クライフは[[1966年]][[9月7日]]の対[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]戦で[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]デビューを果たした。


準決勝でポルトガルの[[SLベンフィカ]]を下し2年連続で決勝進出を果たした際には規律の低下と最少得点差での勝ちあがりに批判の声が上がったものの<ref name="ウィルソン277-278">[[#ウィルソン 2010|ウィルソン 2010]]、277-278頁</ref>、決勝でイタリアの[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル・ミラノ]]と対戦した際にはクライフが2得点をあげる活躍を見せ2-0と下し2連覇を達成した<ref name="ウィルソン277-278"/>。この大会の勝者として挑んだ[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]ではアルゼンチンの[[CAインデペンディエンテ]]と対戦し、2試合合計4-1のスコアで初優勝した<ref name="サントス51">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、51頁</ref>。
1974年の[[1974 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・西ドイツ大会]]にもオランダ代表として出場。「'''時計じかけのオレンジ'''」([[時計じかけのオレンジ|同名の小説]]に由来)と称されたチームの一員として決勝戦に進出した。[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]戦で、クライフはキックオフ直後にPKを獲得するプレーを見せた<ref>{{cite web|url=http://www.sponichi.co.jp/soccer/flash/KFullFlash20100711009.html |title=74年クライフ旋風…過去のオランダ決勝戦 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=2010-07-11 |accessdate=2010-07-11}}</ref>が西ドイツのディフェンダー・[[ベルティ・フォクツ]]の執拗なマークに遭い完全に封じ込められ、クライフを封じられた事で組織として機能しなくなったオランダは1対2で敗れ、準優勝に終わっている。クライフ自身はこの大会の最優秀選手に選ばれ、またこの年は3度目のバロンドールにも輝いた。


{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
[[1978年]]の[[1978 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・アルゼンチン大会]]では、欧州予選にこそ出場したものの、[[1977年|77年]][[10月]]に代表を引退した。1978年ワールドカップを目前にした代表引退はワールドカップ開催国[[アルゼンチン]]の[[ホルヘ・ラファエル・ビデラ]][[軍事政権]]に対する抗議のため大会参加を拒否したという噂が流れていた。また、[[1974年]]のワールドカップにおいて決勝まで進出しながら敗れ、目の前にあるワールドカップトロフィーを掲げることができなかったことを振り返り、「筆舌に尽くしがたい屈辱で、あのような思いは二度と体験したくなかったため代表を辞退した。」とも語ることもあった。何より自伝で「一ヶ月以上も家族と離れ離れになるのは絶えられない」とも書いている。この不出場は長年噂が付きまとい、『なら何故欧州予選に出場したんだ?』等の矛盾だらけの謎であったが、[[2008年]]4月スペインのラジオ番組において、その真の理由が1977年に起こった子どもの[[誘拐]]未遂事件に遭ったためだったことを明らかにした。事の詳細は、何者かがクライフの自宅に押し入り、クライフは頭に[[銃]]を突きつけられ、妻は縛り上げられ、子供達は床に伏せさせられ、その後クライフの自宅と子供達の通学には4ヶ月間スペインの警察がガードした、とスペインのサイトなどに書かれていた。これはヨーロッパ中のサッカー界を激震させた発言であった。これが真の理由であるため「一ヶ月以上も家族と離れ離れになるのは耐えられない」と言う自伝で書いた事や、本戦不出場なのに予選出場という矛盾などは消え去った。要するに家族を危険にさらされたまま一ヶ月も家族と離れるのは耐えられない、と言う事であったのだ。なお、未だに犯人は不明である<ref>{{cite web|url=http://www.jiji.com/jc/wcup?id=wcup_s_africa&s=news&c=top&k=2010071000299 |title=理想だけでは届かなかった頂点=オランダ、最後の壁破れるか |publisher=[[時事通信]] |date=2010-07-10 |accessdate=2010-07-11}}</ref>。
|-
|<div style="position: relative;">
[[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|225px]]
{{Image label|x=0.10|y=0.40|scale=225|text=[[ピート・カイザー|<span style="font-size: 90%; color: white">'''カイザー'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.43|y=0.40|scale=225|text=<span style="font-size: 90%; color: white">クライフ</span>}}
{{Image label|x=0.75|y=0.40|scale=225|text=[[ヨニー・レップ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''レップ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.18|y=0.61|scale=225|text=[[ヘリー・ミューレン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ミューレン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.65|y=0.61|scale=225|text=[[ヨハン・ニースケンス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ニースケンス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.43|y=0.78|scale=225|text=[[アリー・ハーン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ハーン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.08|y=0.90|scale=225|text=[[ルート・クロル|<span style="font-size: 90%; color: white">'''クロル'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.58|y=0.90|scale=225|text=[[ヴィム・シュルビア|<span style="font-size: 90%; color: white">'''シュルビア'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.10|y=1.03|scale=225|text=[[ホルスト・ブランケンブルク|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ブランケンブルク'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.65|y=1.03|scale=225|text=[[バリー・フルスホフ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''フルスホフ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.41|y=1.18|scale=225|text=[[ハインツ・ストイ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ストイ'''</span>]]}}
</div>
|-
|style="font-size: smaller;"|1973年5月30日、[[UEFAチャンピオンズカップ 1972-73]]決勝、[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]戦のメンバー<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/ec/ec197273det.html#cc | title=European Champions' Cup 1972-73 - Details|publisher=rsssf.com|accessdate=2014-01-04}}</ref>
|}
[[UEFAチャンピオンズカップ 1972-73|1972-73]]シーズンには準々決勝で[[フランツ・ベッケンバウアー]]、[[ゲルト・ミュラー]]、[[ゼップ・マイヤー]]を擁する[[西ドイツ]]の[[FCバイエルン・ミュンヘン]]と対戦することになり、クライフとベッケンバウアーの対決にヨーロッパ全土の注目を集めた<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、88-89頁</ref>。ホームでの第1戦に4-0で完勝するとアウェイでの第2戦を1-2で敗れたものの合計5-2のスコアで勝利を収め、決勝ではイタリアの[[ユヴェントスFC]]を下し3連覇を達成した<ref name="サントス51"/>。1973年のバロンドールの投票では96ポイントを獲得し2位の[[ディノ・ゾフ]](47ポイント)、を抑えて2回目の受賞を果たした<ref name="バーランド、ファンドープ227-228" />。


=== 指導者として成功 ===
==== 国外からオファー ====
一方で元モデルの妻、ダニー・コスターや、宝飾商を営んでいた妻の父{{仮リンク|コー・コスター|nl|Cor Coster}}(後にクライフのマネージャーを務める)の助言もあり、高額の報酬を求めて移籍に心が傾くようになった<ref name="サントス92">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、92頁</ref>。アヤックスでの活躍によりスペインのFCバルセロナが関心を持つようになり、1970年1月にクライフをアヤックスのトップチームに抜擢した当時の監督である[[ヴィク・バッキンガム]]を招聘しクライフ獲得に向けた仲介役としてオファーを申し出た<ref name="大住85-86">[[#大住 2004|大住 2004]]、85-86頁</ref><ref name="トーラス154">[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、154頁</ref>。当時の[[スペインサッカー連盟]]の規定では外国籍選手の獲得は禁止されていたが、年内に規定が改正される可能性を見通してのオファーだった<ref name="大住85-86"/><ref name="トーラス154"/>。
[[ファイル:Johan Cruijff met Japanse fans.jpg|thumb|230px|right|日本人のファンにサインをするクライフ(1982年)]]
[[1985年]]、アヤックスの監督に就任。就任時はまだ公式な指導者ライセンスを取得していなかった為、当初の肩書きは「テクニカルディレクター」だった。3年間同クラブを指揮し、[[1987年]]には[[UEFAカップウィナーズカップ]]優勝に導いた。この時の教え子に[[フランク・ライカールト]]、[[マルコ・ファン・バステン]]、[[アーロン・ヴィンター]]、[[デニス・ベルカンプ]]といった選手たちがいる。


バルセロナ側からはアヤックス時代の3倍の年俸、ボーナス、住居、自動車、オランダとの往復航空券などの付与するなどの条件を掲示され<ref name="大住85-86"/>、両クラブ間で合意に達した<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、94頁</ref>が、同年3月に行われたスペインサッカー連盟の総会において規定改正が見送られた<ref name="トーラス155">[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、155頁</ref>ことで移籍は消滅し<ref name="サントス92"/><ref name="大住85-86"/><ref name="トーラス155"/>、代わりにミケルスがバルセロナの監督として引き抜かれることになった<ref name="大住85-86"/>。
[[1988年]]に監督として[[FCバルセロナ]]に戻ったクライフは、それまでの主力選手を大量解雇するなど低迷するクラブの再建に着手。[[カンテラ]]から素早いパス回しによる攻撃的なサッカーを徹底した<ref name="asahi"/><ref>{{cite web|url=http://mainichi.jp/enta/sports/news/20100709k0000e050044000c.html |title=源流はヨハン・クライフ オランダとスペイン |publisher=[[毎日新聞]] |date=2010-07-09 |accessdate=2010-07-11}}</ref>。また多額の費用を投じて[[フリオ・サリナス]]らスター選手たちを次々獲得していき、在任8シーズンの間に[[リーガ・エスパニョーラ]]4連覇(1990-94)を含む数々のタイトルを獲得。1991-92シーズンにはクラブ初の[[UEFAチャンピオンズリーグ|チャンピオンズカップ]]奪取を成し遂げた。このクライフが創り上げたチームは「'''[[エル・ドリーム・チーム]]'''」と称された。


アヤックスでのチャンピオンズカップ3連覇など選手として絶頂期にあった1973年5月26日にスペインの外国人選手規定が改正<ref name="トーラス156">[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、156頁</ref>されると改めてバルセロナへの移籍へ向けた交渉が行われたが、スター選手を手放すことに難色を示すアヤックス側との交渉は長期化<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、91頁</ref>。この移籍を巡って{{仮リンク|ヤープ・ファン・プラーフ (サッカー組織の幹部)|label=ヤープ・ファン・プラーフ|nl|Jaap van Praag (sportbestuurder)}}会長と対立し、「バルセロナへ移籍させないのなら選手を引退する」「移籍を認めないのならば法廷闘争も辞さない」と宣言する騒動に発展した<ref name="サントス87">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、87頁</ref><ref name="サントス96">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、96頁</ref>。また、クライフが試合出場をボイコットする構えを見せたことからチームメイトとの関係も悪化し<ref name="サントス96"/>、サポーターからも批判を受けるようになったが<ref name="サントス96"/>、最終的にクラブ側が譲歩し移籍を認めることになった<ref name="サントス87"/>。しかし、バルセロナへの移籍が決まったクライフは、家に様々な毒虫が送られてくるなどといった嫌がらせの被害を受けた<ref name="クライフ2017-44"/>。
=== その後 ===
[[1996年]]、健康上の理由で監督を勇退すると、以後は一線の指導者から退いている。2009年、スペインの[[サッカーカタルーニャ選抜|カタルーニャ選抜]]監督に就任した<ref>{{cite web|url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/soccer-others/2661941/4875891 |title=クライフ新監督 カタルーニャ選抜で「魅惑的な」サッカーを約束 |publisher=[[フランス通信|AFP]] |date=2009-11-10 |accessdate=2010-07-11}}</ref>。


=== バルセロナ ===
FCバルセロナの[[ジョアン・ラポルタ]]前会長とは親しい友人であり、2009年に監督に就任しリーガ・エスパニョーラ連覇などの結果を残している[[ジョゼップ・グアルディオラ]]を、1年前から推薦をしていた。また、2010年4月、バルセロナの[[名誉会長]]に就任したが、7月にバルセロナ会長となった[[サンドロ・ロセル]]がクラブの規定に名誉会長職はないとした為、クライフは名誉会長職を返上している<ref>{{cite web|url=http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20100705-649681.html |title=クライフ氏、バルサ名誉会長職を返上 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=2010-07-05 |accessdate=2010-07-11}}</ref>。2011年2月からは、アヤックスのテクニカルアドバイザーに就任した<ref>{{cite web|url=http://www.sanspo.com/soccer/news/110213/scb1102130507010-n1.htm |title=クライフ氏、アヤックスのTAに就任 |publisher=サンスポ |date=2011-2-13 |accessdate=2011-9-20}}</ref>。
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
|-
|<div style="position: relative;">
[[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|225px]]
{{Image label|x=0.08|y=0.40|scale=225|text=[[ウーゴ・ソティル|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ソティル'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.38|y=0.40|scale=225|text=<span style="font-size: 90%; color: white">クライフ</span>}}
{{Image label|x=0.68|y=0.40|scale=225|text=[[カルロス・レシャック|<span style="font-size: 90%; color: white">'''レシャック'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.18|y=0.61|scale=225|text=[[フアン・マヌエル・アセンシ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''アセンシ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.61|y=0.61|scale=225|text=[[マルシアル・ピナ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''マルシアル'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.33|y=0.78|scale=225|text=[[フアン・カルロス・ペレス・ロペス (1945年生のサッカー選手)|<span style="font-size: 90%; color: white">'''フアン・カルロス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.77|y=0.90|scale=225|text=[[ジョアキン・リフェ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''リフェ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.08|y=0.90|scale=225|text=[[アントニオ・デラ・クルス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''デ・ラ・クルス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.21|y=1.03|scale=225|text=[[エンリケ・アルバレス・コスタス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''コスタス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.55|y=1.03|scale=225|text=[[アントニ・トーレス・ガルシア|<span style="font-size: 90%; color: white">'''トーレス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.46|y=1.18|scale=225|text=[[ペドロ・バレンティン・モラ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''モラ'''</span>]]}}
</div>
|-
|style="font-size: smaller;"|1974年2月17日、[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]22節、[[レアル・マドリード]]戦のメンバー<ref name="トーラス174">[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、174頁</ref>
|}
1973年夏、600万ギルダー<ref name="サカマガ197310">{{Cite book|和書|chapter=至宝クライフ バルセロナ入り 57000万円の超特大トレード|title=サッカーマガジン|volume=1973年10月号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1973|page=127}}</ref>{{#tag:ref|当時の金額で約200万ドル<ref name="ピ75">[[#ピ 2000|ピ 2000]]、75頁</ref>、[[円 (通貨)|日本円]]で約5億7000万円<ref name="サカマガ197310"/>。|group="注"}}という金額で[[プリメーラ・ディビシオン|スペイン]]のFCバルセロナに移籍。なお、この移籍金額は同年7月にイタリアの[[ピエリーノ・プラティ]]がACミランから[[ASローマ]]へ移籍する際に記録した金額を大幅に上回る世界記録だった<ref name="サカマガ197310"/>。


移籍成立後は手続きが遅れたため、リーグ戦デビューは1973-74シーズン開幕後になり<ref name="ピ76">[[#ピ 2000|ピ 2000]]、76頁</ref>、同年10月28日に行われた[[グラナダCF]]戦でデビューを果たすとこの試合で2得点を記録し4-0で勝利した<ref name="ピ76"/>。同年12月22日に行われた[[アトレティコ・マドリード]]戦ではアクロバティックな得点を決める活躍を見せたが<ref name="サントス100"/><ref>{{es icon}} {{Cite web|url=http://www.marca.com/2015/10/22/futbol/equipos/barcelona/1445529409.html|title=Los 14 goles inolvidables del gran '14' de la historia del fútbol|publisher=[[マルカ (新聞)|Marca]]|date=2015-10-22|accessdate=2016-03-27}}</ref>、この得点は1999年にクラブ創立100周年を祝うテレビ番組の中でファン投票により、クラブ史上最高の得点に選ばれた<ref name="サントス100"/>。1974年2月17日、敵地の[[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ|サンティアゴ・ベルナベウ]]で行われた[[レアル・マドリード]]戦([[エル・クラシコ]])では5-0と歴史的勝利に貢献し<ref name="ピ76" /><ref name="サントス100">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、100頁</ref>、同年4月17日、敵地での[[スポルティング・デ・ヒホン]]戦で4-2と勝利を収めると、残り5節を残した段階で2位以下のクラブを勝ち点で上回り14シーズンぶりのリーグ優勝を成し遂げた<ref name="ピ76" />。また同年にはオランダ代表での活躍もあり、3度目のバロンドールを受賞した<ref name="バーランド、ファンドープ227-228" />。
==エピソード==
* 息子の[[ジョルディ・クライフ]]もプロサッカー選手。バルセロナ所属当時([[1974年]])に産まれたため、[[カタルーニャ語]]風に「Jordi(ジョルディ)」と命名したという。
* 選手時代は、[[プーマ]]とスポンサー契約を結んでいた。[[1974 FIFAワールドカップ]]のオランダ代表は[[アディダス]]のユニフォームを採用しており、袖にはアディダスのシンボルである3本線が入っていたが、クライフのユニフォームだけは線が2本になっていた<ref>同様の例として、クライフと同じくプーマとスポンサー契約を結んでいた[[ペレ]]は、1984年の[[釜本邦茂]]引退試合で来日した際、[[ヤンマーディーゼルサッカー部|ヤンマー]]の赤いアディダス製ユニフォームの3本線とロゴマークを消し、プーマ製のパンツとソックスを履いていた。</ref>。
* 携帯もパソコンもクレジットカードも持っていない、それどころかビデオの予約録画も出来無いほどの機械オンチである。
* かつてはアヤックス野球チームに所属、ポジションはキャッチャーだったが本人も遊び感覚レベルの事であるがもう一人のヨハンことヨハン・ニースケンスはメジャーからスカウトが来るほどの名選手であった<ref>{{cite web|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=872 |title=第14回 ヨハン・クライフ(3)互いに話し合い互いにプレーを知っていた74年のオランダ |publisher=[[週刊サッカーマガジン]] |date=2010-07-05 |accessdate=2010-07-11}}</ref>。
* アヤックスユース時代、審判のポジショニングミスを指摘して退場処分になった事があると言う。
* FCバルセロナ監督時代、持病の[[心臓病]]のために[[禁煙]]をしなければならなくなり、代わりにベンチで[[チュッパチャプス]]を舐めていたのがテレビ放送に写ったことがチュッパチャプスが世界に広まった一因と言われている。これはチュッパチャプス本社も認めており、それから同社はFCバルセロナの公式スポンサーをしている。


当時のスペインは[[フランシスコ・フランコ]]の独裁政治の時代にあり<ref name="トーラス190">[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、190頁</ref>、バルセロナへの移籍が決まった際には「独裁者のためにサッカーをする」という批判を受けた<ref name="クライフ2017-44">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、44頁</ref>が、クラブ創立75周年を迎えた1974年のリーグ優勝とクライフの活躍はバルセロナ市民や反フランコ派の人々を歓喜させた<ref>[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、186頁</ref>。クラブは1960年代後半頃から「バルサは単なるクラブ以上の存在である」とのスローガンを掲げ<ref name="トーラス190"/>、首都マドリードの中央集権政治に対し、民主化とカタルーニャ化のシンボルとなっていったが<ref name="トーラス190"/>、メディアは連日のようにクライフの動向を注視しファンは「[[救世主]]」(''El Salvador''、スペイン語:エル・サルバドール、カタルーニャ語:アル・サルバドー)と讃えた<ref name="story149"/>。
== 個人タイトル ==

* [[バロンドール]](欧州年間最優秀選手賞) - 1971、1973、1974年<ref>同賞を3度受賞しているのはクライフの他に[[ミシェル・プラティニ]]、[[マルコ・ファン・バステン|ファン・バステン]]のみである。</ref>
1974-75シーズンにはオランダ代表の同僚である[[ヨハン・ニースケンス]]の獲得をクラブ首脳陣に推挙した<ref name="サントス111">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、111頁</ref>こともありチームに加わったが、[[ギュンター・ネッツァー]]と[[パウル・ブライトナー]]を擁するレアル・マドリードに優勝を明け渡し3位でシーズンを終えると監督のミケルスは解任された<ref name="サントス111"/>。
* エールディヴィジ得点王 2回(1967、1972)

* [[1974 FIFAワールドカップ|1974年ワールドカップ西ドイツ大会]] - 最優秀選手賞、ベストイレブン
[[ファイル:Cruijff met de beker van de derde prijs, Bestanddeelnr 928-0928.jpg|thumb|200px|[[FCバルセロナ]]在籍時のクライフ]]
* [[国際サッカー歴史統計連盟#20世紀世界最優秀選手|20世紀世界最優秀選手]] 2位 (国際サッカー歴史統計連盟) - 1999年<ref name="C">[http://www.rsssf.com/miscellaneous/iffhs-century.html IFFHS' Century Elections] 1999年の国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)による20世紀最優秀選手選定。</ref>
1975-76シーズンには西ドイツの[[ボルシア・メンヒェングラートバッハ]]を指揮して実績のある[[ヘネス・バイスバイラー]]が監督に就任したが、クライフとの確執が続き<ref name="サントス111"/><ref name="サカマガ19760525">{{Cite book|和書|chapter=海外だより バイスバイラー監督辞任、クライフ残留|title=サッカーマガジン|volume=1976年5月25日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1976|page=88}}</ref>、クライフ自ら「バイスバイラーとは上手くいかない。6月30日に契約が終了したらオランダへ帰国する」と発言し退団の意思を示した<ref name="サカマガ19760525"/>。これにより、サポーターがクライフの残留とバイスバイラーの解任を求める抗議活動を行う事態に発展したが<ref name="サカマガ19760525"/>、1976年3月にバイスバイラーが辞意を表明したことによりクライフはバルセロナに残留しチームと再契約を結んだ<ref>{{Cite book|和書|chapter=海外だより クライフ、バルセロナにとどまる|title=サッカーマガジン|volume=1976年6月10日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1976|page=98}}</ref>。なお、クライフとバイスバイラーを巡るチーム内の内紛もあって2シーズン連続で優勝を逃した<ref name="サントス111"/>。
* [[国際サッカー歴史統計連盟#20世紀世界最優秀選手|20世紀欧州最優秀選手]] 1位 (国際サッカー歴史統計連盟) - 1999年<ref name="C"/>

* [[ワールドサッカー (雑誌)|世界最優秀監督賞]](ワールドサッカー誌)- 1987年
翌1976-77シーズンにクライフの進言により再びミケルスが監督として呼び戻され<ref name="サントス111"/>、リーグ戦では21節まで首位に立つなど優勝の可能性が残されていたが、最終的にアトレティコ・マドリードに勝ち点1差で及ばず優勝を逃した<ref name="サントス111"/>。また国際大会においては[[UEFAチャンピオンズカップ 1974-75]]では準決勝進出を果たすもイングランドの[[リーズ・ユナイテッドAFC|リーズ・ユナイテッド]]に敗退、[[UEFAカップ1975-76]]では準決勝進出を果たすもリヴァプールFCに敗退、[[UEFAカップ1976-77]]では準々決勝で[[アスレティック・ビルバオ]]に敗退するなど、欧州タイトルを獲得したアヤックス時代やバルセロナ加入初年度となった1973-74シーズンほどの結果を残すことはできなかった<ref name="サントス109">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、109頁</ref>。成績低下の理由について、相手選手の厳しいディフェンスを受けるうちに抑え気味にプレーするようになり自身の持ち合わせる能力を100%発揮することがなくなったことが指摘されている<ref name="サントス109"/><ref name="ストライカー19930717">{{Cite book|和書|author=エリック・バッティ|chapter=エリック・バッティのTHE LEGEND 歴史を作ったスゴイ奴 第11回 ヨハン・クライフ(前)|title=[[ストライカー (雑誌)|ストライカー]]|volume=1993年7月17日号|publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]]|year=1993|page=64-65}}</ref>。またクライフ自身は強気な性格が災いし判定を巡って[[審判員 (サッカー)|審判]]とたびたび口論となるなどプレー以外の側面で注目を集めるようになっていた<ref name="サントス110">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、110頁</ref>。バルセロナでの最後のシーズンとなった1977-78シーズンは[[コパ・デル・レイ]]決勝で[[UDラス・パルマス]]を3-1で下し優勝を果たしたものの<ref name="Biografie" />、国際大会では[[UEFAカップ1977-78]]では準決勝でオランダの[[PSVアイントホーフェン]]と対戦し2試合合計3-4のスコアで敗れた<ref name="Biografie" />。リーグ戦ではレアル・マドリードに優勝を明け渡し2位でシーズンを終えると、1978年5月27日に行われた古巣のアヤックスとの親善試合を最後にバルセロナを退団し、正式な引退試合を行うことを表明した<ref name="Biografie" />。
* [[ワールドサッカー (雑誌)|20世紀の偉大なサッカー選手100人]] 3位(ワールドサッカー誌)

=== 引退試合と実業家への転身 ===
[[ファイル:Cruijff afscheidswedstrijd bij Ajax.jpg|200px|thumb|left|1978年11月7日に行われた引退試合でのクライフ。]]
1978年5月、バルセロナで現役引退を表明したクライフはオランダへ帰国した<ref name="サカマガ19781225">{{Cite book|和書|chapter=さよならナンバー14 ヨハン・クライフ引退記念試合|title=サッカーマガジン|volume=1978年12月25日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1978|page=86-87}}</ref>。同年8月30日に[[アメリカ合衆国]]の[[ニューヨーク・コスモス]]に招待され、コスモス対世界選抜の親善試合に出場したほか<ref name="サカマガ19781225"/>、イングランドの[[チェルシーFC]]からオファーを受けていたが、選手としての正式な復帰を断り続けた<ref name="サカマガ19781225"/>。

同年11月7日、アムステルダムの[[オリンピスフ・スタディオン (アムステルダム)|オリンピスフ・スタディオン]]で、クライフの引退試合が開催された<ref name="サカマガ19781225"/>。クライフは自身がプロデビューを果たし長年にわたって在籍したアヤックスの選手として出場し、対戦相手には西ドイツのバイエルン・ミュンヘンが選ばれた<ref name="サカマガ19781225"/>。試合当日は6万5000人の観客が訪れ、入場料収入の17万5000ドル(約3500万円)はオランダのアマチュアサッカー界の振興と障害者施設のために寄付された<ref name="サカマガ19781225"/>。この試合は世界6か国にテレビ中継されたが、試合は友好ムードのアヤックスとは対照的に激しいボディコンタクトを厭わず真剣勝負を挑むバイエルンという展開となった<ref name="サカマガ19781225"/>。序盤こそアヤックスが優勢に試合を進めたものの、バイエルンがゲルト・ミュラーが先制点を含め2得点、[[パウル・ブライトナー]]と[[カール=ハインツ・ルンメニゲ]]が揃ってハットトリックを達成するなどして8-0と大勝した<ref name="サカマガ19781225"/>。

クライフ自身は時おり往時のプレーを垣間見せたものの味方からの支援はなく、一方的な展開に観客席からは座布団が投げ込まれ、試合に見切りをつけスタジアムを後にする観客もいた<ref name="サカマガ19781225"/>。試合後にはクライフに花束が贈られ、チームメイトに肩車をされてファンに別れを告げる演出が行われたが、クライフは「私のイメージした引退試合とはかけ離れた内容となった」と心境を語った<ref name="サカマガ19781225"/>。バイエルンが真剣勝負を挑んだ経緯についてブライトナーは「オランダ国内にバイエルンを歓迎する雰囲気はなく、[[空港]]や宿泊した[[ホテル]]では敵対的な対応を受けた。そこで試合を我々の独演会(バイエルン・ショー)に代えることを決めたんだ」と証言している<ref name="ESPN FC20070620">{{en icon}} {{Cite web|url=http://espnfc.com/columns/story?id=440207&root=global&cc=4716|title=Beckham's a path once trodden by Cruyff|publisher=ESPN FC|date=2007-06-20|accessdate=2014-01-04}}</ref>。クライフはこの試合で得た収益のうち30万ギルダーを子供病院へ寄付した<ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、125頁</ref>。

引退試合の後、クライフはスペインで実業家へと転身した<ref name="Volkskrant19970425">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.volkskrant.nl/vk/nl/2698/Sport/archief/article/detail/507972/1997/04/25/Geweldige-voetballer-fantastisch-mens-rampzalig-seizoen.dhtml|title=Geweldige voetballer, fantastisch mens, rampzalig seizoen|publisher=Volkskrant|date=1997-04-25|accessdate=2014-01-04}}</ref>。クライフはバルセロナ在籍時から自身の肖像ブランドを冠したビジネスを展開していたが<ref name="サントス108-109"/>、友人やビジネスパートナーらと新たに「CBインターナショナル」を設立し、[[不動産]]取引、ワインやセメントや野菜の輸出業務に従事した<ref name="Volkskrant19970425"/>。その際、ビジネスパートナーはクライフの信用を得て彼の所有する銀行口座から自由に事業資金を引き出していたが結果的に事業は失敗に終わった<ref name="Volkskrant19970425"/><ref name="スホッツ、ラウツェン137-138">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、139-140頁</ref>。これによりクライフの下には600万ギルダーの借金が残されたとも<ref name="Volkskrant19970425"/>、総資産の4分の3に相当する900万ギルダーを失い破産寸前となったとも言われる<ref name="スホッツ、ラウツェン137-138"/>。

一連の経緯についてクライフは「以前から義父や友人から幾度となく「専門外のことに関わってはいけない」と注意を受けていたが、罠にかかり唯一の間違いを犯した。その代償は大きなものだが多くのことを学んだ」と語っている<ref name="スホッツ、ラウツェン137-138"/>。事業に失敗し多額の借金を背負ったことが後にアメリカ合衆国で現役復帰を果たす決定的要因となったと複数の論者から指摘されている<ref name="サントス108-109">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、108-109頁</ref>。一方で事業の失敗と現役復帰の因果性についてクライフ本人は否定した<ref name="サントス108-109"/>が、引退から数か月後には現役復帰を決意した<ref name="ESPN FC20070620"/>。

=== ロサンゼルス・アズテックス ===
クライフのアメリカ合衆国での復帰に関して最初に関心を示したのは、[[北米サッカーリーグ]] (NASL) のニューヨーク・コスモスだった<ref name="サカマガ19790725">{{Cite book|和書|chapter=スーパースターはなぜ米国へ渡ったか|title=サッカーマガジン|volume=1979年7月25日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1979|page=76-79}}</ref>。 同クラブのオーナーを務める{{仮リンク|スティーヴ・ロス|en|Steve Ross (Time Warner CEO)}}は、クライフとの間で優先的に交渉を行うための仮契約を締結し3年契約で400万ドルを提供した<ref name="ESPN FC20070620"/>。一方、クライフは「私はアメリカサッカー界の発展の助力となりたいのだ。最初に移籍先と考えたコスモスは常に5万人以上を動員する人気チームだが、そこには私の果たすべき役目はない。私の希望は将来的に成長する可能性を秘めたチームだ」としてコスモスへの移籍を固辞し<ref name="サカマガ19790725"/>、恩師のミケルスが監督を務める{{仮リンク|ロサンゼルス・アズテックス|en|Los Angeles Aztecs}}と契約した<ref name="サカマガ19790725"/>。契約内容は年俸70万ドル(約1億5000万円)に、本拠地とする[[ローズボウル (競技場)|ローズボウル]]で観客動員数が増加した場合に派生する歩合給を加えたもので、換算すると年収100万ドルに上るものと推測された<ref name="サカマガ19790725"/>。また、アズテックスは優先交渉権を持つコスモスに対し60万ドルを支払った<ref name="サカマガ19790725"/>。

1979年5月19日、{{仮リンク|ロチェスター・ランチャーズ|en|Rochester Lancers (1967–1980)}}戦でデビューすると、前半10分のうちに2得点をあげ、後半には3点目の得点をアシストし、3-0と勝利した<ref name="ESPN FC20070620"/>。アズテックスには監督のミケルスをはじめ、アヤックスやオランダ代表でチームメイトだった[[ヴィム・シュルビア]]、[[レオ・ファン・フェーン]]、{{仮リンク|フープ・スメーツ|nl|Huub Smeets}}らといったオランダ人が在籍していたこともありリラックスした雰囲気を味わった<ref name="ESPN FC20070620"/>。チームはナショナルカンファレンス西地区で2位となりプレーオフ進出を果たすと、カンファレンス準決勝で{{仮リンク|バンクーバー・ホワイトキャップス (1974年-1984年)|label=バンクーバー・ホワイトキャップス|en|Vancouver Whitecaps (1974–84)}}に敗れたものの、クライフはNASLの年間最優秀選手に選ばれた<ref name="サカマガ198401">{{Cite book|和書|chapter=アウトロー・ストーリー ヨハン・クライフ(下)女王をわずらわせた空飛ぶ救世主|title=サッカーマガジン|volume=1984年1月号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1983|page=156-158}}</ref>。

=== ワシントン・ディプロマッツ ===
[[ファイル:Ajax tegen FC Twente 5-3, Johan Cruijff nam in tweede helft plaats naast Leo Bee, Bestanddeelnr 931-1799.jpg|thumb|250px|1980年、古巣のアヤックスにテクニカルアドバイザーとして復帰すると[[FCトゥウェンテ]]戦の試合途中から指揮を執った。]]
1980年2月、首都[[ワシントンD.C.]]を本拠地とする{{仮リンク|ワシントン・ディプロマッツ|en|Washington Diplomats}}に移籍した<ref name="サカマガ秋季78-79">[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、78-79頁</ref>。ディプロマッツは1979年秋に[[マディソン・スクエア・ガーデン]]・グループが経営に参画し大幅な選手補強に乗り出していたが<ref name="サカマガ秋季78-79"/>、当初獲得を目指したイングランド代表の[[ケビン・キーガン]]との交渉は失敗したものの、代わりにクライフと契約を結んだ<ref name="ESPN FC20070620"/>。契約内容は3年契約で150万ドル(約3億2500万円)、ディプロマッツが移籍元となるアズテックスに対して移籍料100万ドル(約2億5000万円)を支払うというものだった。人気の低迷が続いていたディプロマッツ側にはスター選手の獲得により観客動員数を増加させたいとの狙いがあった<ref name="ESPN FC20070620"/>。

同年3月29日、{{仮リンク|タンパベイ・ロウディーズ (1975年-1993年)|label=タンパベイ・ロウディーズ|en|Tampa Bay Rowdies (1975–1993)}}戦でデビューしたがPK戦の末に2-3で敗れた<ref name="サカマガ秋季78-79"/>。ディプロマッツにはオランダ代表のチームメイトだった[[ビム・ヤンセン]]が在籍していたものの、チームが志向するスタイルはイングランドの下部リーグで行われているような荒々しいものでトータルフットボールとはかけ離れていた<ref name="ESPN FC20070620"/>。前年に所属していたアズテックスでは多くの選手がクライフの助言を受け入れたのに対し、ディプロマッツの選手たちは関心を示さず、監督の{{仮リンク|ゴードン・ブラッドリー|en|Gordon Bradley}}をはじめ何人かの選手から反発を招いた<ref name="ESPN FC20070620"/>。また、[[人工芝]]の影響による怪我に苦しめられるなど困難なシーズンとなった<ref name="ESPN FC20070620"/>。チームはナショナルカンファレンス東地区で2位となりプレーオフ進出を果たしたが、カンファレンス1回戦でクライフが前年に所属していたアズテックスに敗れた<ref name="ESPN FC20070620"/>。

同年秋、ディプロマッツの企画したアジアツアーに参加し[[日本]]、[[香港]]、[[インドネシア]]を転戦したが、この時期には出場困難な怪我を負っていた<ref name="スホッツ、ラウツェン55-56">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、55-56頁</ref>。

クライフはNASLがシーズンオフとなった間にオランダへ帰国し古巣のアヤックスでプレーすることを試みた<ref name="Biografie"/>。これに対し[[オランダサッカー協会]] (KNVB) は、NASLに所属する選手が期限付きでオランダのクラブへ移籍しリーグ戦に出場することを認めない決定を下した<ref name="Biografie"/>。そのため、アヤックスのテクニカル・アドバイザーという名目でチームに加わると同年11月30日に行われた[[FCトゥウェンテ]]戦をスタンドで観戦した<ref name="バーランド、ファンドープ40-41">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、40-41頁</ref>。試合は1-3とアヤックスがリードされる展開となったが、業を煮やしたクライフはスタンドを降りてベンチへと向かい、監督の[[レオ・ベーンハッカー]]の隣で直接指揮を執った<ref name="バーランド、ファンドープ40-41"/>。クライフの助言を受けたチームは調子を取り戻すと4点を奪い5-3とトゥウェンテに勝利した<ref name="バーランド、ファンドープ40-41"/>。

=== レバンテ ===
[[ファイル:Johan Cruijff en voetbalmakelaar Cor Coster (r) op de tribune, Bestanddeelnr 930-4447.jpg|250px|thumb|left|クライフと義父の{{仮リンク|コー・コスター|nl|Cor Coster}}(右側)。]]
1981年、クライフはオランダの[[FCドルトレヒト|DS'79]]の会長の依頼を受けて[[ロブ・レンセンブリンク]]と共に招待選手として同クラブに参加<ref name="Biografie"/>。イングランドのチェルシーFC、[[ベルギー]]の[[シャルルロワSC]]、オランダの[[MVVマーストリヒト]]の3つの親善試合に出場した<ref name="Biografie"/>。当時のクライフは欧州のクラブへの移籍を模索しており、イングランドのチェルシーFC、[[アーセナルFC]]、[[レスター・シティFC]]が獲得に乗り出した<ref name="サカダイ198105">{{Cite book|和書|chapter=世界サッカー情報 クライフ、レスター移籍はお流れ|title=[[サッカーダイジェスト]]|volume=1981年5月号|publisher=[[日本スポーツ企画出版社]]|year=1981|page=108}}</ref>。この中で、2部リーグへの降格争いの渦中にあったレスターが高額の条件を掲示したこともあり、移籍は決定的との報道もなされたが実現には至らなかった<ref name="サカダイ198105"/>。

同年2月26日、スペイン・[[セグンダ・ディビシオン]](2部リーグ)の[[レバンテUD]]へ移籍することに合意した<ref>{{Cite book|和書|chapter=世界サッカー情報 結局クライフは二部入り|title=サッカーダイジェスト|volume=1981年5月号|publisher=日本スポーツ企画出版社|year=1981|page=111}}</ref>。レバンテはクライフが加入する時点では2部リーグの上位を争っていたものの<ref name="Volkskrant19970425"/>、観客動員数が伸び悩んでいたこともありクラブの首脳陣は人気回復の起爆剤としてクライフと契約するに至った<ref name="Volkskrant19970425"/>。契約の際、義父のコスターの手腕により、バルセロナの様な欧州のトップクラブに所属する選手と同等の給与、ホームでの観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得ることになった<ref name="スホッツ、ラウツェン137-138"/>が、報酬が1か月以上支払われなかった場合には契約を破棄し他チームへ移籍することが出来る、といった自身に有利な条件が盛り込まれた<ref name="スホッツ、ラウツェン137-138"/>。

3月2日に行われた[[CFパレンシア]]戦でデビューしたが、ディプロマッツ在籍時に負った怪我の影響もありリーグ戦10試合に出場し2得点という結果に終わり<ref name="Levante">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-levante|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160602054413/http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-levante|title=Short period with Levante|publisher=Cruijff.com|archivedate=2016-06-02|accessdate=2014-01-04}}</ref>、クライフの加入と前後してチームの成績も下降線を下り最終的に9位でシーズンを終え1部昇格を逃した<ref name="Volkskrant19970425"/>。一方でクライフとの間で結んだ高額の契約が経営状態を圧迫しチーム内に不協和音を生み出したと指摘されている<ref name="Volkskrant19970425"/>。クライフとクラブ側との間で「観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得る」契約を交わしていたが、この報酬が未払いとなるトラブルが派生したためシーズン終了後にチームを退団した<ref name="スホッツ、ラウツェン137-138"/><ref name="Levante"/>。

同年6月、イタリアのACミランと契約交渉を行い<ref name="スホッツ、ラウツェン55-56"/><ref name="サントス119"/>、ミランの招待選手として同国で開催された世界各国のクラブを招いた対抗戦「{{仮リンク|ムンディアリート・ペル・クラブ|it|Mundialito per club}}」に参加した<ref name="サカマガ198109">{{Cite book|和書|chapter=ヨハン・クライフ ACミランへのゲスト参加で衰えぬ力を証明|title=サッカーマガジン|volume=1981年9月号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1981|page=126-127}}</ref>。6月16日に行われたフェイエノールト戦に先発出場した<ref name="サカマガ198109" /> が、[[鼠蹊部]]の負傷のために<ref name="スホッツ、ラウツェン55-56" />コンディショニングが万全でなかったこともあり45分間の出場のみに終わった<ref name="サントス119">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、119頁</ref><ref name="Sport120111123">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.sport1.nl/nieuws/26911-johan-cruijffs-mislukte-duel-met-ac-milan.html|title=Johan Cruijffs mislukte duel met AC Milan|publisher= Sport1.nl|date=2011-11-23|accessdate=2014-01-04}}</ref>。クライフはフェイエノールト戦で負傷の影響もあって精彩を欠き、残りの試合も欠場するなど周囲の期待に答えることは出来なかった<ref name="Sport120111123" />。ミランとの契約交渉が失敗に終わると現役引退が現実味を帯び始めた<ref name="サントス119" />。

同年6月18日、クライフはワシントン・ディプロマッツと短期間の契約を結んだ<ref name="Biografie"/>。7月1日に行われた{{仮リンク|サンディエゴ・ソッカーズ (1978年-1996年)|label=サンディエゴ・ソッカーズ|en|San Diego Sockers (1978–96)}}戦でデビューしたが<ref name="Biografie" />、チームはナショナルカンファレンス東地区で3位となったためプレーオフ進出を逃し、{{仮リンク|モントリオール・マニック|en|Montreal Manic}}戦がアメリカ合衆国での最後の試合となった<ref name="Biografie" />。

=== アヤックスへの復帰 ===
[[ファイル:Van links naar rechts voorzitter Harmsen, Johan Cruijff en secretaris Bartels, Bestanddeelnr 931-8431.jpg|thumb|255px|アヤックスへの復帰直後のクライフ。左隣は会長の{{仮リンク|トン・ハルムセン|nl|Ton Harmsen}}。]]
レバンテの退団後にワシントン・ディプロマッツを経て同年秋に古巣のアヤックスに復帰したが、既に34歳となっており、年齢的な問題もあり選手としては限界と考えられていた<ref name="サントス119"/>。しかし同年12月6日に行われた[[HFCハールレム]]戦でのキーパーの意表を突くループシュートを決める活躍などにより4-1と勝利し、周囲でささやかれていた限界説を退けた<ref name="ajax">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-ajax|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160406214600/http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-ajax|title=Playing for Ajax|publisher=Cruijff.com|archivedate=2016-04-06|accessdate=2014-01-04}}</ref>。

当時のアヤックスは[[マルコ・ファン・バステン]]や[[フランク・ライカールト]]や[[ジェラルド・ファネンブルグ]]といったオランダの次世代を担う選手達が在籍していたものの、多くの結果を残すことが出来ずにいた<ref name="サントス119"/>。クライフが加入した1981年12月の時点でリーグ戦で[[AZアルクマール]]や[[PSVアイントホーフェン]]に敗れるなど4敗を喫し首位の座を明け渡していたが、クライフの加入後は17勝2分けの成績でAZやPSVを退けて1981-82シーズンのリーグ優勝を果たした<ref>{{nl icon}} {{Cite news|url=http://www.eredivisiestats.nl/wedstrijden.php|title=Wedstrijden|publisher=EredivisieStats|accessdate=2014-01-04}}</ref>。

2年目の1982-83シーズンには[[UEFAチャンピオンズカップ 1982-83]]に出場し、1回戦で[[スコットランド]]の[[セルティックFC]]と対戦。アウェーでの第1戦を2-2と引き分けて迎えたホームでの第2戦は1-1の同点で迎えた88分にクライフが交代すると、試合終了間際に失点を喫し合計3-4のスコアで敗退した<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.uefa.com/uefachampionsleague/season=1982/matches/round=1034/match=63820/postmatch/lineups/index.html|title=UEFA Champions League 1982/83 - History - Ajax-Celtic Lineups|publisher=UEFA.com|accessdate=2013-08-07}}</ref>。この試合は選手生活を通じて最後の国際大会での公式戦出場となった<ref name="Biografie"/>。

1982年12月5日に行われた[[ヘルモント・スポルト]]戦では印象的なトリックプレーを見せた<ref name="ajax20071206">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.ajax.nl/Ajax-nieuws/Ajax-nieuws-archief/Ajax-nieuwsartikel/De-extras-van-Cruijff.htm?channel=print|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140104213636/http://www.ajax.nl/Ajax-Nieuws/Ajax-nieuwsarchief/Ajax-nieuwsartikel/64914/De-extras-van-Cruijff.htm?channel=print|title=De‘extra’s’van Cruijff|publisher= Ajax.nl|archivedate=2014-01-04|accessdate=2015-10-29}}</ref>。試合中に[[ペナルティーキック]]を獲得するとクライフは自らシュートをせずに左斜め前に緩やかなパスを送り、後方から走りこんできた[[イェスパー・オルセン]]へと繋がり相手のキーパーと1対1の状況となった。オルセンはゴール前で待ち構えるクライフにパスを戻すとキーパーのいない無人のゴールにシュートを決めるというもので、結果的にクライフとオルセンのワンツーパスの形となった<ref name="ajax20071206"/>。ヘルモントの選手たちは主審に抗議を行ったがルール上においても正当なもので<ref name="ajax20071206"/>、一連のプレーに関するアイデアは練習中に考案されたものだった<ref name="ajax20071206"/>。

リーグ戦では[[フェイエノールト]]との間でシーズン終盤まで優勝争いを続けていたが、1983年5月1日に行われたフェイエノールトとの直接対決を3-3と引分け、残り2試合を残して首位のアヤックスと2位のフェイエノールトとの勝ち点差4の状態を維持<ref name="サカマガ198307">{{Cite book|和書|chapter=世界サッカー情報 WORLD CONFIDENTIAL オランダ・フランス|title=サッカーダイジェスト|volume=1983年7月号|publisher=日本スポーツ企画出版社|year=1983|page=80}}</ref>。[[5月1日]]に行われたヘルモント・スポルト戦ではクライフを累積警告による出場停止で欠いたものの4-1と勝利しリーグ連覇を達成した<ref name="サカマガ198307"/>。この時期のクライフは継父の死や故障を繰り返していたことで精神的に困窮していたものの<ref name="サントス119-120">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、119-120頁</ref>、同シーズンのリーグ戦とカップ戦との二冠獲得の原動力となった<ref name="サカマガ198309">{{Cite book|和書|chapter=世界サッカー情報 WORLD CONFIDENTIAL フランス他|title=サッカーダイジェスト|volume=1983年9月号|publisher=日本スポーツ企画出版社|year=1983|page=78}}</ref>。

一方、1983年に入るとクラブ会長の{{仮リンク|トン・ハルムセン|nl|Ton Harmsen}}がクライフに対し36歳という年齢を理由に引退を迫ったことや<ref name="サントス119-120"/>、クラブ側との間で締結していた入場料収入に応じた給与体系の更新を拒否されたこともあり確執を生んでいた<ref name="スホッツ、ラウツェン57">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、57頁</ref>。クライフは5月10日に行われたカップ戦決勝第一戦の[[NECナイメヘン]]戦の終了後に退団を表明し<ref name="Biografie"/>、5月14日に行われたリーグ戦最終節の[[フォルトゥナ・シッタート]]戦がアヤックスでの最後の試合出場となった<ref name="バーランド、ファンドープ224-225">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、224-225頁</ref>。

=== フェイエノールトへの移籍と引退 ===
[[ファイル:Feyenoord tegen PEC, met afscheid Johan Cruijff Johan Cruijff zwaaiend met blo, Bestanddeelnr 932-9659.jpg|thumb|200px|left|公式戦最後の試合となった[[フェイエノールト]]対[[PECズヴォレ]]戦でのクライフ。]]
1983年夏、アヤックスを退団したクライフはライバルクラブの[[フェイエノールト]]へ移籍し1年契約を結んだ<ref name="サカマガ198309"/>。この移籍についてアヤックスのサポーターからは反発が上がり<ref name="サントス119-120"/>、8月21日に行われたリーグ戦開幕戦の[[FCフォレンダム]]戦でもフェイエノールトのサポーターから批判のブーイングを受ける可能性があったものの、試合開始とともに自らの価値を示すことで批判を払拭した<ref name="スホッツ、ラウツェン57"/>。フェイエノールトでは当時21歳の[[ルート・フリット]]らとチームメイトとなったが、監督の{{仮リンク|テイス・リブレフツ|en|Thijs Libregts}}を尊重しつつ頻繁に選手たちの対して技術指導やポジショニング指導を行った<ref name="スホッツ、ラウツェン58-59">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、58-59頁</ref>。またフェイエノールトへの移籍後は自分自身のプレーにも変化が生じ、体力的な衰えもあり以前の様な個人技を前面に出したプレーを抑え、中盤でボールを落ちつかせ味方に指示を送りポジショニングやパスコースの修正を行うことに徹した<ref name="スホッツ、ラウツェン58-59"/>。

同年9月18日に行われた古巣のアヤックス戦では2-8と大敗を喫したが<ref name="マルメリンク313">[[#マルメリンク 2017|マルメリンク 2017]]、313頁</ref>、その後は1984年2月26日に行われたアヤックスとの再戦で4-1と勝利するなどチーム状態は回復<ref name="マルメリンク313"/>。カップ戦決勝で[[フォルトゥナ・シッタート]]を下すと<ref name="Feyenoord">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-fey|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160410004543/http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-fey|title=Playing for Feyenoord|publisher=Cruijff.com|archivedate=2016-04-10|accessdate=2012-07-07}}</ref>、リーグ戦でも[[PSVアイントホーフェン]]やアヤックスとの優勝争いを制すると5月6日に行われた[[ヴィレムII]]戦で5-0と勝利し、1973-74シーズン以来となる10シーズンぶりの優勝を決めた<ref name="サカマガ198407">{{Cite book|和書|chapter=世界サッカー情報 WORLD CONFIDENTIAL フランス他|title=サッカーダイジェスト|volume=1984年7月号|publisher=日本スポーツ企画出版社|year=1984|page=78}}</ref>。クライフにとって国内での優勝はリーグ戦が9回目、カップ戦が6回目となり、二冠獲得は2シーズン連続となった<ref name="サカマガ198407"/>。既に引退の意思を表明していたクライフは5月13日に行われた[[PECズヴォレ]]戦が最後の公式戦出場となり<ref name="バーランド、ファンドープ224-225"/><ref name="マルメリンク313"/>、この試合の79分に[[マリオ・ベーン]]との交代でピッチを退いた<ref name="Biografie"/>。

クライフの現役選手として最後の試合は[[サウジアラビア]]で行われた<ref name="スホッツ、ラウツェン62-63">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、62-63頁</ref>。この試合は同国でプレーする2名の選手の引退試合にクライフの参加を条件にフェイエノールトが招待されたものだった<ref name="スホッツ、ラウツェン62-63"/>。クライフは前半を[[サッカーサウジアラビア代表|サウジアラビア代表]]の選手として、後半はフェイエノールトの選手としてプレーし、試合後には[[ファイサル・ビン=ファハド]]王子から記念品として24金製の食器が贈呈された<ref name="スホッツ、ラウツェン62-63"/>。サウジアラビアへの遠征後、クライフはクラブの会長から選手としての残留または[[選手兼任監督]]としてのオファーを受けたが、精神的にも肉体的にも消耗し切っていることを理由に固辞した<ref name="スホッツ、ラウツェン62-63"/>。
{{-}}

== 代表経歴 ==
=== 初期の経歴 ===
[[ファイル:Johan Cruijff tijdens zijn debuut bij het Nederlands elftal in 1966.jpg|thumb|250px|left|オランダ代表として初出場を果たした[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]戦でのクライフ(前列中央)]]
[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]としては1966年9月7日に行われた[[UEFA欧州選手権1968予選]]の[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]戦で代表デビューを飾った<ref name="バーランド、ファンドープ224-225"/>。同年7月に行われた[[1966 FIFAワールドカップ]]で[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]を下し準々決勝に進出した強豪チームを相手に、代表初得点を決めた<ref name="大住77">[[#大住 2004|大住 2004]]、77頁</ref>。しかし同年11月6日に行われた[[サッカーチェコスロバキア代表|チェコスロバキア]]との親善試合において、クライフはチェコの選手に絶えずに蹴られていたが、主審を務めたルーディー・グロックナー<ref name="バーランド、ファンドープ1999-148">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、148頁</ref><ref name="クライフ2014-185-186">[[#クライフ 2014|クライフ 2014]]、185-186頁</ref><ref name="クライフ2017-27">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、27頁</ref>はこの状態を放置し続け、クライフは一時間以上も経った後で彼に抗議を行ったがグロックナーは取り合わず<ref name="クライフ2017-27"/>、さらに抗議をした直後にクライフはグロックナーが見ている前で再びチェコの選手に蹴られたたもののファールすら取られず<ref name="クライフ2017-27"/>、再び抗議を行ったがここで退場処分を受けた<ref name="大住78">[[#大住 2004|大住 2004]]、78頁</ref>{{#tag:ref|クライフは「文化の違い(グロックナーは[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]出身<ref name="クライフ2014-185-186"/><ref name="クライフ2017-27"/>)から衝突することになってしまった。(中略)私が彼(グロックナー)に歩み寄った行為がすでに許せなかったらしく、(グロックナーは)私に退場処分を下した」と述べている<ref name="クライフ2014-185-186"/>。|group="注"}}。グロックナーはクライフを退場させた理由について、「生意気なクライフにお灸をすえるためだった」と説明しており<ref name="クライフ2014-185-186"/>{{#tag:ref|クライフはこの説明に対して「私はグロックナーが全く試合の流れを感じ取っていなかったという意見をくつがえす気はない」と述べており、またグロックナーを「すべての面で失敗していた」と批判している<ref name="クライフ2014-185-186"/>。また、クライフはこの件を念頭に置いて「私は[[イギリス人]]審判のほうがやりやすい。彼らの前では激しいバトルも許されていたが、問題を起こした場合は即座に処された。さらに彼らは試合の流れを読みながら笛を吹いていたので、時には選手を援護する精神を見せた」と述べている<ref name="クライフ2014-185-186"/>。|group="注"}}、「クライフが私に暴行を加えようとした」との主張は映像記録により退けられたが<ref>[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、140頁</ref>、[[オランダサッカー協会]] (KNVB) はクライフに対し1年間招集を見送る処分を下し<ref name="バーランド、ファンドープ1999-148"/><ref name="大住78"/>、クライフは公式の国際試合出場停止の処分を受けた最初のオランダ人選手となった<ref name="バーランド、ファンドープ1999-148"/>。

[[1970 FIFAワールドカップ・予選|1970 FIFAワールドカップ予選]]では[[サッカーブルガリア代表|ブルガリア]]や[[サッカーポーランド代表|ポーランド]]に敗れ、[[UEFA欧州選手権1972予選]]では[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア]]に敗れ予選で敗退するなど、1960年代後半以降のアヤックスやフェイエノールトといったクラブが国際大会で結果を残していたのに対し、代表チームは予選敗退が続いていた。

{{仮リンク|1974 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|label=1974 FIFAワールドカップ・予選|en|1974 FIFA World Cup qualification (UEFA)}}では隣国の[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]と同じグループとなったが、報酬面での問題からチーム全体にまとまりを欠いていた<ref name="グランヴィル119">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、119頁</ref>。1973年11月18日にホームで行われた最終戦での両者の直接対決(0-0の引分け)の結果により、[[1938 FIFAワールドカップ|1938年大会]]以来となるワールドカップ出場が決まったが、この試合の終了間際に決まったかに思われたベルギーの得点がオフサイドと判定され無効にされる場面もあった<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、92頁</ref><ref>[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、141頁</ref>。


=== 1974 FIFAワールドカップ ===
==個人成績==
{|class="wikitable" style="margin:1em; text-align:center;"
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
|-
|-
|<div style="position: relative;">
!rowspan="2"|年度!! rowspan="2"|クラブ!!rowspan="2"|リーグ!! rowspan="2"|背番号!! colspan="2"|リーグ!! colspan="2"|カップ戦!! colspan="2"|欧州カップ戦
[[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|225px]]
{{Image label|x=0.38|y=0.35|scale=225|text=<span style="font-size: 90%; color: white">クライフ</span>}}
{{Image label|x=0.07|y=0.45|scale=225|text=[[ロブ・レンセンブリンク|<span style="font-size: 90%; color: white">'''レンセンブリンク'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.75|y=0.45|scale=225|text=[[ヨニー・レップ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''レップ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.07|y=0.61|scale=225|text=[[ヴィレム・ファン・ハネヘム|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ファン・ハネヘム'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.61|y=0.61|scale=225|text=[[ヨハン・ニースケンス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ニースケンス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.38|y=0.78|scale=225|text=[[ビム・ヤンセン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ヤンセン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.58|y=0.90|scale=225|text=[[ヴィム・シュルビア|<span style="font-size: 90%; color: white">'''シュルビア'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.11|y=0.90|scale=225|text=[[ルート・クロル|<span style="font-size: 90%; color: white">'''クロル'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.17|y=1.03|scale=225|text=[[ウィム・レイスベルヘン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''レイスベルヘン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.71|y=1.03|scale=225|text=[[アリー・ハーン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ハーン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.31|y=1.18|scale=225|text=[[ヤン・ヨングブルート|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ヨングブルート'''</span>]]}}
</div>
|-
|-
|style="font-size: smaller;"|[[1974 FIFAワールドカップ]]での[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]の基本布陣<ref>{{Cite web|url=http://www.rsssf.com/tables/74full.html#final|title=World Cup 1974 finals|publisher=rsssf.com|accessdate=2014-01-04}}</ref><ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、105頁</ref>
|}
[[File:Johan Cruyff in trainingspak Nederlands Elftal , kop.jpg|180px|thumb|left|オランダ代表でのクライフ(1973年)]]
翌1974年に西ドイツで開催される[[1974 FIFAワールドカップ|本大会]]に向けチームの立て直しが求められると、KNVBは[[チェコスロバキア]]出身の{{仮リンク|フランティシェク・ファドルホンツ|en|František Fadrhonc}}を監督からコーチに降格させ、当時FCバルセロナを指揮していた[[リヌス・ミケルス]]を監督に迎えた<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、93頁</ref>。ミケルスは代表チームに新たなサッカースタイルを導入するには時間的な猶予が少ないことから<ref name="大住94-95">[[#大住 2004|大住 2004]]、94-95頁</ref>、かつて自身が率いていた[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]のメンバーを中心にし、「トータルフットボールでワールドカップに挑む」ことを前提に代表メンバーを選出した<ref name="大住94-95"/>。また、この組織戦術をピッチ上で体現するリーダーとしてクライフを指名し、選手達に戦術理解と90分間戦い抜く体力を求めた<ref name="大住94-95"/>。クライフは前線から最後尾まで自由に動き回り攻守に絡むと共に、ミケルスの理論を体現するピッチ上の監督として味方に細かなポジショニングの指示を与えた<ref name="武智19">[[#武智 2010|武智 2010]]、19頁</ref>。

1次リーグ初戦の[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ]]戦を2-0で勝利を収め、第2戦の[[サッカースウェーデン代表|スウェーデン]]戦を0-0で引き分けたが、第3戦の[[サッカーブルガリア代表|ブルガリア]]戦を4-1で勝利し首位で2次リーグへ進出を果たし、オランダの展開する全員攻撃・全員守備のサッカーが注目を集めた<ref name="武智19"/><ref name="グランヴィル228">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、228頁</ref>。

2次リーグにおいても[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]を4-0<ref name="サントス57">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、57頁</ref>、[[サッカー東ドイツ代表|東ドイツ]]を2-0で下し<ref name="サントス57"/>、第3戦を迎えた。試合相手は[[1970 FIFAワールドカップ|前回大会]]の優勝国である[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]だったが、50分にニースケンスの得点をアシスト、70分には左サイドを突破した[[ルート・クロル]]のクロスをジャンピングボレーシュートによるゴールを決めて1得点1アシストの活躍で勝利し、初の決勝戦進出を果たした<ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、231頁</ref>。このゴールが「空飛ぶオランダ人([[フライング・ダッチマン]])」という異名で呼ばれるきっかけとなった<ref name="クライフ2014-232">[[#クライフ 2014|クライフ 2014]]、232頁</ref>。

決勝の相手は開催国であり、同世代のライバルである[[フランツ・ベッケンバウアー]]らを擁する[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]となった<ref name="サントス58-59">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、58-59頁</ref>。西ドイツは開幕前に[[イギリス]]の[[ブックメーカー]]が発表した優勝予想では1位(オッズは3-1)と高評価を受けていた<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、102頁</ref>が、オランダとは対照的に苦戦が続けながらの決勝進出だった<ref name="グランヴィル227-228">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、227-228頁</ref>。戦前の予想ではオランダ有利との意見も見られ<ref>{{Cite web|和書|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=325|title=オランダ 力強さと、速さと、柔らかさ|publisher=賀川サッカーライブラリー|accessdate=2014-01-04}}</ref>、オランダの中心選手であるクライフを西ドイツがいかに抑えるのか、どの選手がマークするのかが焦点となった<ref name="グランヴィル232-233">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、232-233頁</ref>。

[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-N0716-0314, Fußball-WM, BRD - Niederlande 2-1a.jpg|200px|thumb|right|1974 FIFAワールドカップ決勝の[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]戦でドリブルを仕掛けるクライフ(中央の人物)。後方は[[ベルティ・フォクツ]]。]]
試合は開始早々にクライフがドリブルで相手エリアに踏み込んだところ、[[ウリ・ヘーネス]]の足が絡んでクライフが倒され、開始から1分も経たないうちにオランダがPKを獲得<ref name="サントス58-59"/>。これをニースケンスが決めて先制した<ref name="サントス58-59"/>。しかし早い時間帯に先制したことで攻勢を緩めたオランダに対し西ドイツが試合の流れを掴み、前半までに[[パウル・ブライトナー]]と[[ゲルト・ミュラー]]の得点により2-1と逆転した<ref name="サントス58-59"/>。後半に入りオランダは反撃に転じたが、クライフが西ドイツの[[ベルティ・フォクツ]]の徹底したマークを受けて動きを封じられたこともあり得点はならず<ref name="グランヴィル233-234">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、233-234頁</ref>、1-2で敗れ準優勝に終わった<ref name="サントス58-59"/>。

この試合の敗因については「早い時間帯に先制点を決めたことで気持ちが緩み、西ドイツの反撃を許した」ことが挙げられる<ref name="グランヴィル233-234"/><ref name="武智20">[[#武智 2010|武智 2010]]、20頁</ref>が、クライフは「決勝戦に進出したことに多くの選手が満足してしまった。[[オランダ人]]に([[ドイツ人]]のような)勝者のメンタリティが欠けていた」ことを挙げた<ref name="武智20"/><ref name="サントス60-61">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、60-61頁</ref>。選手達がオランダへ帰国すると準優勝という結果に国民を挙げて歓迎を受け<ref name="サントス62">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、62頁</ref><ref name="ウィナー289-292">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、160頁</ref>、国王への謁見を許されたが<ref name="サントス62"/><ref name="ウィナー289-292"/>、クライフ自身は「もう一歩の所で世界タイトルを逃した」事実を拭い去ることはできなかったという<ref name="サントス62"/>。

その一方でクライフを中心としたこの時の代表チームは[[スタンリー・キューブリック]]により映画化された同名小説に準え「[[時計じかけのオレンジ]]」<ref name="武智20"/><ref name="サントス60-61"/>と呼ばれ、決勝戦で敗れたものの「大会を通じて最も優秀なチーム<ref name="story149"/>」「我々に未来のサッカーを啓示した<ref name="大住1998・60">[[#大住 1998|大住 1998]]、60頁</ref><ref name="武智21">[[#武智 2010|武智 2010]]、21頁</ref>」「オランダには11人のディフェンダーと10人のフォワードが存在する<ref name="武智21"/>」と評価された。クライフ自身は後にこの大会について次のように振り返っている。
{{Quotation|私は1974年のワールドカップ決勝を忘れることはないだろう。1-2で敗れた後、私は茫然自失となっていた。しかし数年後にファンの記憶に残っているのは試合に勝利した方ではなく敗れた我々の方であることを知った。それから数十年を経た今日においても世界中のサッカーファンが、あの時の我々のプレーを賞賛してくれることを誇りに思っている<ref>[[#FIFA 2004|FIFA 2004]]</ref>。|ヨハン・クライフ}}

=== UEFA欧州選手権1976 ===
1974年のワールドカップ後にミケルスが監督を退き{{仮リンク|ジョージ・クノベル|en|George Knobel}}が就任したものの、クライフをはじめこの大会を経験した主力選手の多くがチームに残り同年9月から始まった[[UEFA欧州選手権1976予選]]に参加<ref name="サカマガ19760810">{{Cite book|和書|chapter=全4試合が延長戦!チェコが大激戦を制す!|title=サッカーマガジン|volume=1976年8月10日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1976|page=74-76}}</ref>。予選1次グループでは[[サッカーポーランド代表|ポーランド]]やイタリアを退け、準々決勝ラウンドでもベルギーにホームで5-0と大勝するなど2連勝で本大会出場を果たした。

1976年に[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦]]で行われた[[UEFA欧州選手権1976|本大会]]では、準決勝で[[サッカーチェコスロバキア代表|チェコスロバキア]]と対戦することになったが、地元の[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア]]やワールドカップ優勝国の西ドイツ、同準優勝のオランダと比べ1ランク劣るチームと見做されていた<ref name="サカマガ19760810"/>。一方、オランダは優勝候補の筆頭と目されていたが<ref name="ウィナー286-289">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、286-289頁</ref>、開幕前にクノベルが監督を辞任する意向を示すなどオランダ協会内で内紛が発生し<ref name="サカマガ19760810"/><ref name="ウィナー286-289"/>、クライフが一時「クノベルが辞めるなら大会に出場しない」と宣言する事態に発展した<ref name="サカマガ19760810"/>。

チェコスロバキア戦は互いに退場者を出し、クライフ自身も主審の{{仮リンク|クライヴ・トーマス|en|Clive Thomas}}に抗議した際に警告を受けるなど荒れた展開となったが<ref name="ウィナー289-292"/><ref name="サカマガ19760810"/>、延長後半にチェコスロバキアに2得点を許し1-3で敗れた<ref name="ウィナー289-292"/>。なおクライフは予選から通算2枚目の警告を受けたことで次の3位決定戦は出場停止となったため、チームには帯同せず帰国した<ref name="サカマガ19760810"/>。3位決定戦は若手メンバー中心で挑むことになり<ref name="サカマガ19760810"/>、地元のユーゴスラビアを3-2で下して3位となった<ref name="ウィナー289-292"/>。

=== 代表からの引退 ===
[[ファイル:Nederland tegen Belgie 1-0, na afloop vlnr Neeskens, Suurbier, Hovenkamp, Kr, Bestanddeelnr 929-4096.jpg|thumb|250px|left|1977年10月26日に行われた[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]戦でのクライフ(右から2人目)。この試合が最後の代表出場となった。]]
同年9月から始まった{{仮リンク|1978 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|label=1978 FIFAワールドカップ・予選|en|1978 FIFA World Cup qualification (UEFA)}}にも引き続き参加し、隣国のベルギーや[[サッカー北アイルランド代表|北アイルランド]]を退けて2大会連続で本大会出場を果たした。しかし1977年10月26日に行われた同予選のベルギー戦を最後に代表から引退することになり、翌1978年に[[アルゼンチン]]で開催される[[1978 FIFAワールドカップ|本大会]]への出場は辞退することになった<ref name="グランヴィル250">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、250頁</ref><ref>[[#大住 1998|大住 1998]]、64頁</ref>。クライフに続いてストライカーの[[ルート・ヘールス]]やキーパーの[[ヤン・ファン・ベベレン|ヤン・ファン・ベフェレン]]、前回準優勝メンバーの[[ヴィレム・ファン・ハネヘム]]らも大会への参加を辞退することになった<ref name="グランヴィル250"/>。

ワールドカップを目前にした代表からの引退については「開催国のアルゼンチンは[[ホルヘ・ラファエル・ビデラ]]大統領の軍事政権による統治下にあったが、国内情勢が不安定だったことや弾圧に抗議するため<ref name="サントス114-115">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、114-115頁</ref><ref name="ウィナー162-163">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、162-163頁</ref>」、「所属クラブであるFCバルセロナとの間で金銭トラブルが派生しており、大会出場の見返りとして多額の報奨金を要求したため<ref name="サントス114-115"/>」、「事前合宿を含め2か月近く家族と離れて過ごさなければならなくことを妻が許さなかったため<ref name="サントス114-115"/><ref name="ウィナー162-163"/><ref name="バーランド、ファンドープ118-119">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、118-119頁</ref>」など様々な憶測が囁かれた<ref name="サントス114-115"/>。

クライフはこれまで
{{Quotation|ワールドカップに出場するには100%の体調では駄目だ。200%でなければ駄目だ。私は1974年大会を経験しているが、あれだけのプレーを再現できるとは思えないから辞退するのだ。今シーズン限りでバルセロナを含め、あらゆるサッカー活動から引退し家族と共に過ごす時間を増やすことにする。私は大衆の前から姿を消す。|ヨハン・クライフ<ref>{{Cite book|和書|author=エディ・プールマン|chapter=オランダ、ベルギーを蹴落してアルゼンチンへ …しかしクライフはチームを去る|title=サッカーマガジン|volume=1977年12月10日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1977|page=80}}</ref>}}と発言するなど「完全なコンディショニングで大会に挑める状況にはなかった」ことを理由として挙げていた<ref name="バーランド、ファンドープ118-119"/><ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、112-113頁</ref> が、[[2008年]]4月にスペインのラジオ番組に出演した際に、1977年に発生した息子の誘拐未遂事件が大会辞退の真の理由だったことを明らかにした<ref name="ウィナー162-163"/><ref name="guardian20080416">{{en icon}}{{Cite web|url=http://www.guardian.co.uk/football/2008/apr/16/newsstory.sport15|title=Kidnappers made Cruyff miss World Cup|publisher=guardian.co.uk|date=2008-04-16日|accessdate=2014-01-04}}</ref>。
{{Quotation|大会の前年に子供の誘拐事件が発生した。私は犯人からライフル銃を突きつけられ妻と共に拘束されたが、子供に危害は与えられなかった。その後、4か月間は自宅周辺や子供の通学路では警察の警護を受ける状況となった。家族のことが心配となりオランダ代表としてワールドカップの舞台でプレーする気にはなれなかった。人生には何より代え難い物がある。|ヨハン・クライフ<ref name="guardian20080416"/>}}
オランダ代表としての通算成績は国際Aマッチ48試合出場33得点<ref name="rsssf"/>。

== 指導者経歴 ==
=== アヤックス ===
[[ファイル:Vertrek Ajax van Schiphol voor Europa Cup II wedstrijd tegen Olympiakos Piraeus, Bestanddeelnr 933-8034.jpg|thumb|250px|right|[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]の監督時代のクライフ(中央の人物)。右隣は[[フランク・ライカールト]]、左隣は[[マルコ・ファン・バステン]]。]]
引退から1年後の1985年にアヤックスの監督に就任した。就任時は公式な指導者ライセンスを取得しておらず<ref name="サントス126-127">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、126-127頁</ref>、ライセンスを取得するための講習を受講した経験がなかったため、「テクニカルディレクター」という肩書きでの就任だった<ref name="バーランド、ファンドープ40-41"/><ref name="サントス126-127"/>。監督の上位に位置づけられる「テクニカルディレクター」として、クラブのトップチームから下部組織まで統括して戦術やシステムなどの志向するサッカーを立案し管理する役職だが<ref name="サントス126-127"/>、これはクライフが前述の北米リーグ時代に[[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]]で学んだ、スポーツマネジメントに基づいた考えであり<ref name="サントス126-127"/>、アメリカから帰国したクライフがヨーロッパで自らが広めたものなのだという<ref name="サントス128">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、128頁</ref>。

クライフは1970年代に展開した攻撃的スタイルの復活を掲げ、ベテランの[[アーノルド・ミューレン]]、中堅の[[マルコ・ファン・バステン]]や[[フランク・ライカールト]]らを軸に、[[デニス・ベルカンプ]]や[[アーロン・ヴィンター]]といった10代の選手を積極的に起用。アヤックスではリーグ優勝はならなかったが、KNVBカップを制して[[UEFAカップウィナーズカップ 1986-87]]への出場権を獲得。この大会で決勝進出を果たすと、1987年5月13日に行われた決勝戦では[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の[[1.FCロコモティヴ・ライプツィヒ]]をファンバステンの得点で下し、選手時代にチャンピオンズカップ3連覇を果たした1973-74シーズン以来となる14シーズンぶりの国際タイトルを獲得した。

1988年4月、選手の移籍問題に関する見解の相違などの、{{仮リンク|トン・ハルムセン|nl|Ton Harmsen}}会長との確執もありクラブを退団した<ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、165-166頁</ref>。

=== バルセロナ ===
{{main|エル・ドリーム・チーム}}
==== 監督就任の経緯 ====
1988年5月4日、[[FCバルセロナ]]の監督に就任することになったが、監督就任の背景には同クラブ会長の[[ホセ・ルイス・ヌニェス]]の存在があった<ref name="サントス134">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、134頁</ref>。ヌニェスは同年にクラブの会長選挙を控えていたが、チーム自体は[[ルイス・アラゴネス]]監督の下で1987-88シーズンを戦い、カップ戦では優勝を成し遂げたものの、リーグ戦では成績が低迷し<ref name="バルセロナ">[[#岡部 2010|岡部 2010]]、177頁</ref>、選手達が同年4月28日に会長とクラブ役員の辞任を求め「エスペリアの反乱」と呼ばれる記者会見を開くなど内紛が続いていた<ref name="サントス135">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、135頁</ref>。ヌニェスには、自らの政権維持のために[[ソシオ]]と呼ばれるクラブの会員達の間で依然として人気の高いクライフの招聘を公約として掲げ、この局面を乗り切ろうとの思惑があった<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、136-137頁</ref>。

クライフはバルセロナに着いて間もない時に「私は意欲のあるチャンピオン精神を備えた素晴らしいチームを作ります。そして、ここ数年落ち込んでいるクラブを再起させるのです」と目標を掲げた<ref name="サントス148-149">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、148-149頁</ref>。しかし、前述の「エスペリアの反乱」に加わった多くの選手達が他クラブへ放出されたため<ref name="サントス148-149"/>、残留した選手と新たに補強した選手で1からチーム作りに取り掛かることになり<ref name="サントス148-149"/>、自らの経験に基づいたサッカー哲学とアヤックスで採用されている攻撃的サッカーをクラブに浸透させるためクラブの改革に着手していった<ref name="サントス148-149"/>。監督としての実績がアヤックスでの数シーズンのみと乏しかったことによる懸念や、結果を残すまでに時間が掛かったことで批判を受けることもあったが<ref name="バルセロナ"/>、自らのスタイルを押し通すと[[UEFAカップウィナーズカップ 1988-89]]でイタリアの[[UCサンプドリア]]を下し国際タイトルを獲得したことで批判を退けた<ref name="サントス151">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、151頁</ref>。

==== ドリーム・チームの完成 ====
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
|-
|<div style="position: relative;">
[[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|225px]]
{{Image label|x=0.08|y=0.35|scale=225|text=[[フリスト・ストイチコフ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ストイチコフ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.68|y=0.35|scale=225|text=[[フリオ・サリナス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''サリナス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.40|y=0.45|scale=225|text=[[ホセ・マリア・バケーロ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''バケーロ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.12|y=0.61|scale=225|text=[[ミカエル・ラウドルップ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ラウドルップ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.61|y=0.61|scale=225|text=[[エウセビオ・サクリスタン・メナ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''エウセビオ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.33|y=0.78|scale=225|text=[[ジョゼップ・グアルディオラ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''グアルディオラ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.67|y=0.90|scale=225|text=[[アルベルト・フェレール|<span style="font-size: 90%; color: white">'''フェレール'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.08|y=0.90|scale=225|text=[[フアン・カルロス・ロドリゲス・モレノ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''フアン・カルロス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.25|y=1.03|scale=225|text=[[ロナルド・クーマン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''クーマン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.60|y=1.03|scale=225|text=[[フェルナンド・ムニョス・ガルシア|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ナンド'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.36|y=1.18|scale=225|text=[[アンドニ・スビサレッタ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''スビサレッタ'''</span>]]}}
</div>
|-
|style="font-size: smaller;"|1992年5月20日、[[UEFAチャンピオンズカップ 1991-92]]決勝、[[UCサンプドリア]]戦のメンバー<ref>{{Cite web|url=http://www.rsssf.com/ec/ec199192det.html#cc|title=European Champions' Cup 1991-92 - Details|publisher=rsssf.com|accessdate=2014-01-04}}</ref>
|}
1989-90シーズン、デンマークの[[ミカエル・ラウドルップ]]、オランダの[[ロナルド・クーマン]]といったスペイン国外のスター選手を獲得してチーム強化に努めたが、リーグ戦では[[ウーゴ・サンチェス]]や[[エミリオ・ブトラゲーニョ]]を擁する[[レアル・マドリード]]が5連覇を達成したため優勝を逃した。そのため再びソシオの間で批判を受けることになりクライフ流の戦術ではなく、守備的な戦術を志向する監督を望む意見が持ち上がったが<ref name="サントス153">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、153頁</ref>、ヌニェス会長がクライフを擁護する立場を採ったため残留が決定した<ref name="サントス153"/>。

1990-91シーズン、過去2シーズンの反省から守備的なポジションの[[アルベルト・フェレール|フェレール]]、[[ユーティリティープレイヤー]]の[[ヨン・アンドニ・ゴイコエチェア|ゴイコエチェア]]、ブルガリア出身の[[フリスト・ストイチコフ]]らを獲得する一方で下部組織から[[ジョゼップ・グアルディオラ]]を昇格させるなど、それまで良いプレーを続けながら勝ちきることの出来なかったチームに変化を与えることが出来る選手達と契約を結んだ<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、154頁</ref>。シーズン最中の1991年2月26日に[[心筋梗塞]]により倒れ[[冠動脈大動脈バイパス移植術|バイパス手術]]を受けたため<ref name="ピ79">[[#ピ 2000|ピ 2000]]、9頁</ref><ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、147頁</ref>、復帰するまでの間は代理として[[カルロス・レシャック]]が指揮を執ったが、2節で首位に立つと、そのまま他チームを引き離しリーグ優勝を果たした。

1991-92シーズン、リーグ戦ではレアル・マドリードとの優勝争いに競り勝ち2連覇を果たすと、[[UEFAチャンピオンズカップ 1991-92]]では決勝戦に進出しイタリアのサンプドリアと対戦した。[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー・スタジアム]]で行われた試合は両者無得点のまま延長戦に入ったが、111分にクーマンのフリーキックが決まってバルセロナが1-0で勝利し、クラブに初のチャンピオンズカップをもたらした<ref name="サントス162">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、162頁</ref>。

クライフはボールポゼッション、シュートパス、サイド攻撃を柱とした攻撃的なサッカーを志向し<ref name="number767">{{Cite book|和書|author=横井伸幸|chapter=クライフを神にした伝説のクラシコ|title=[[Sports Graphic Number]]|volume=767号|publisher=[[文藝春秋]]|year=2010|page=174}}</ref>、結果を残すまで時間がかかり批判を受けることもあったが、クライフの思想は徐々に選手だけでなく、クラブの首脳陣、ソシオに浸透し、クラブ全体に欠けていた勝者のメンタリティを植え付けた<ref name="ピ78-79">[[#ピ 2000|ピ 2000]]、78-79頁</ref>。在任した8シーズンの間に国内では[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]4連覇(1990-91、1991-92、1992-93、1993-94)、コパ・デル・レイ優勝1回(1989-90)、[[スーペルコパ・デ・エスパーニャ|スーペルコパ]]優勝3回(1991、1992、1994)、国際大会では[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]優勝1回(1991-92)、UEFAカップウィナーズカップ優勝1回(1988-89)、[[UEFAスーパーカップ]]優勝1回(1992)を成し遂げた<ref name="クライフ2017-312-314"/>。

1980年代後半から1990年代中盤にかけてクライフの作り上げたチームは、[[1992年バルセロナオリンピック]]の[[1992年バルセロナオリンピックのバスケットボール競技|バスケットボール競技]]において、[[マイケル・ジョーダン]]らを擁して[[金メダル]]を獲得した[[バスケットボール男子アメリカ合衆国代表|アメリカ合衆国代表]]の通称である[[ドリームチーム]]になぞらえて「'''[[エル・ドリーム・チーム]]'''」と称された<ref name="サントス145">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、145頁</ref>。また、クライフを招聘したヌニェス会長は、この時期に多くのサポーターを獲得し、クラブの世界的ブランドとしての価値を高めることに寄与した<ref name="バルセロナ"/>。

==== ドリーム・チームの終焉 ====
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
|-
|<div style="position: relative;">
[[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|225px]]
{{Image label|x=0.35|y=0.40|scale=200|text=[[ロマーリオ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ロマーリオ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.72|y=0.40|scale=200|text=[[フリスト・ストイチコフ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ストイチコフ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.09|y=0.40|scale=200|text=[[セルジ・バルフアン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''セルジ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.42|y=0.55|scale=200|text=[[ホセ・マリア・バケーロ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''バケーロ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.75|y=0.70|scale=200|text=[[ギジェルモ・アモール|<span style="font-size: 90%; color: white">'''アモール'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.16|y=0.70|scale=200|text=[[ミゲル・アンヘル・ナダル|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ナダル'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.40|y=0.85|scale=200|text=[[ジョゼップ・グアルディオラ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''グアルディオラ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.74|y=1.00|scale=200|text=[[アルベルト・フェレール|<span style="font-size: 90%; color: white">'''フェレール'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.08|y=1.00|scale=200|text=[[ヨン・アンドニ・ゴイコエチェア|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ゴイコエチェア'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.45|y=1.15|scale=200|text=[[ロナルド・クーマン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''クーマン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.40|y=1.30|scale=200|text=[[アンドニ・スビサレッタ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''スビサレッタ'''</span>]]}}
</div>
|-
|style="font-size: smaller;"|1994年1月8日、[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]18節、[[レアル・マドリード]]戦のメンバー<ref name="number767"/>。
|}
1993-94シーズンに新たに[[ブラジル]]の[[ロマーリオ]]が入団<ref name="サントス204-205"/>。ロマーリオは1994年1月8日に行われたレアル・マドリードとの[[エル・クラシコ]]において2得点を挙げる活躍を見せるなどシーズン通算30得点を挙げ得点王を獲得した<ref name="サントス204-205"/>。リーグ戦の優勝争いは首位に立つ[[デポルティーボ・ラ・コルーニャ]]をバルセロナが追い上げる展開だったが、1994年5月14日に行われた最終節の結果、両者が勝ち点で並んだものの得失点差によりバルセロナが上回り4連覇を達成した<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、170頁</ref>。

一方、国内リーグでの優勝から4日後に[[ギリシャ]]の[[アテネ]]で[[UEFAチャンピオンズリーグ 1993-94]]決勝が行われ、[[ファビオ・カペッロ]]の率いるイタリアのACミランと対戦し0-4で大敗を喫した<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、169頁</ref>。この敗戦により、これまで築きあげた「ドリームチーム」の崩壊が始まったと評されている<ref name="number767"/><ref name="サントス202-203">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、202-203頁</ref>。

1993-94シーズンに外国人選手の出場枠の問題により出場機会を失うことの多かったラウドルップ、GKの[[アンドニ・スビサレッタ]]がクライフから戦力外と見做され退団<ref name="サントス202-203"/>。1994-95シーズンが開幕するとロマーリオが[[ノスタルジア|ホームシック]]にかかりシーズン途中に退団し<ref name="サントス204-205">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、204-205頁</ref>、故国の[[CRフラメンゴ]]に移籍した。この一連の問題が発端となり<ref name="サントス204-205"/>、人気選手であり問題児として知られるストイチコフがクライフ体制やチームメイトを批判する事態となり<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、206-207頁</ref>、シーズン終了後にはストイチコフと守備の要だったクーマンも退団した<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、209頁</ref>。

1995-96シーズン、「ドリームチーム」と呼ばれた当時の選手達の多くは既に退団し[[ホセ・マリア・バケーロ]]とグアルディオラ、[[アルベルト・フェレール|フェレール]]の3人のみとなったことで、クライフは「新たなドリーム・チーム」の構築を目指して下部組織で育成された選手達を積極的に登用するなどチーム改革を行った<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、213-220頁</ref>。しかしリーグ戦でアトレティコ・マドリードに競り負け2シーズン続けてタイトルを逃すと、1996年5月18日にヌニェス会長は「クライフは間違った決断を下した」と告発し<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、221頁</ref>、監督解任を発表した<ref>{{Cite book|和書|chapter=ワールドワイドインフォメーション スペイン|title=サッカーマガジン|volume=1996年6月12日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1996|page=91}}</ref><ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、222頁</ref><ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、148頁</ref>。

=== オランダ代表監督問題 ===
FCバルセロナの監督を務めていた1990年代当時、オランダ代表監督への就任が取り沙汰された<ref name="グランヴィル401">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、401頁</ref><ref name="バーランド、ファンドープ135-136">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、135-136頁</ref>。1990年にイタリアで開催された[[1990 FIFAワールドカップ]]の大会直前に主力選手の間でクライフの監督就任を望む気運が高まったが、代表監督の任命権を持つミケルスが[[レオ・ベーンハッカー]]を指名し自らアドバイザーに就任したために実現には至らなかった<ref name="バーランド、ファンドープ135-136"/><ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、111頁</ref>。また、1994年の[[1994 FIFAワールドカップ]]の大会直前には監督の[[ディック・アドフォカート]]と選手間の確執が続いたことから、再びクライフの監督就任を望む気運が高まったが<ref name="グランヴィル401"/>、クライフと[[オランダサッカー協会]] (KNVB) との間で合意に達することはなかった<ref name="グランヴィル401"/>。1994年大会の際には1990年大会に比しても就任の可能性が高かったが<ref name="スホッツ、ラウツェン112">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、112頁</ref>、負傷中のファン・バステンの復帰の見通しが立たなかったことや、KNVBがクライフに対してコーチングスタッフの人選に関する権限を認めなかったことが就任に至らなかった原因とされている<ref name="スホッツ、ラウツェン112"/>。

== その後の経歴 ==
[[ファイル:Johan Cruijff golfer cropped.jpg|thumb|right|200px|2009年のクライフ]]
バルセロナでのキャリアを最後に指導者としての第一線から退き、自身の名を冠した子供のスポーツ活動を支援する[[ヨハン・クライフ財団]]や、スポーツマネジメントに関する人材育成を目的とした{{仮リンク|ヨハン・クライフ大学|nl|Johan Cruyff University}}を設立し社会貢献に努めた<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.cruyff.com/asp/ned/cruijfffoundation.asp?page=6|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140104205332/http://www.cruyff.com/asp/ned/cruijfffoundation.asp?page=6|title=Johan Cruyff Foundation|publisher=cruyff.com|archivedate=2014-01-04|accessdate=2014-01-04}}</ref>。

各クラブやサッカー協会の会長職などの要職を務めた経験はないが、友人でもある[[ジョアン・ラポルタ]]が2003年にバルセロナの会長に就任した際には、教え子である[[フランク・ライカールト]]を監督に推薦<ref name="ウィナー371">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、371頁</ref>。オランダサッカー協会に対しても、それまでアヤックスの下部組織を率いた経験があるのみで指導者としての実績が十分ではなかった[[マルコ・ファン・バステン]]をオランダ代表監督に推薦<ref name="ウィナー371"/>するなど影響力を行使し続けていた。

=== バルセロナを巡る論争 ===
1996年5月18日、クライフは[[ホセ・ルイス・ヌニェス]]会長との確執が原因となり<ref name="木村72">[[#木村 2003|木村 2003]]、72頁</ref>、バルセロナの監督を解任された。解任後、ヌニェス会長とクライフの対立や舌戦はエスカレートし、互いに[[名誉毀損]]訴訟を起こす事態に発展しただけでなく、マスコミやファンを巻き込んでいった<ref name="木村72"/>。ヌニェスが解任に際して「クライフの収賄疑惑」を暴露したこともあり、クラブの[[ソシオ]]達はクライフ派とヌニェス派の二派に分裂し<ref name="木村72"/>、クラブの会長選挙の際に両派は互いに候補者を擁立するなど対立を繰り返した<ref name="木村72"/>。

1997年の会長選挙でヌニェスは再戦を果たすが、この直後にクライフ派のジョアン・ラポルタらのグループがヌニェスの不信任動議に乗り出した<ref name="木村72"/>。1998年3月7日にクラブ史上初の不信任投票が行われた結果、30%の賛同を得るに留まりヌニェスの不信任案は否決された<ref name="木村72"/>。クライフ派はドリームチーム時代のスタイルを崇拝しヌニェスが招聘した[[ルイ・ファン・ハール]]のスタイルを「退屈」として批判<ref name="木村72"/>、スタジアムでは抗議を意味する白いハンカチが振られた<ref name="ボール146">[[#ボール 2002|ボール 2002]]、146頁</ref>。また、1999年に行われたドリームチームを記念する行事と前後して、クライフが先頭に立ちメディアを通じてヌニェス会長への批判を展開した<ref name="ボール142">[[#ボール 2002|ボール 2002]]、142頁</ref>。

2000年の会長選挙ではヌニェス派は副会長の[[ジョアン・ガスパール]]を擁立し、クライフ派は企業家のルイス・バサットを擁立<ref name="木村72"/>。バサットは「クライフを顧問としてクラブに復帰させる」という公約を掲げるも、僅差でガスパールが当選した<ref name="木村72"/>。クライフはガスパールの就任当初は静観の構えを見せていたが、彼が招聘した[[ロレンソ・セラ・フェレール|セラ・フェレール]]監督がリーグ戦で4位に終わると、一転してガスパールを擁立したヌニェス派を糾弾し<ref name="木村72"/>、かつての僚友だったレシャックが後任監督として就任すると彼にもその矛先が向けられ「裏切り者」と批判した<ref name="木村72"/>。こうしたクライフの姿勢にソシオ内でも、その影響力を懸念する声も現れ始めた<ref name="木村73">[[#木村 2003|木村 2003]]、73頁</ref>。

2003年の会長選挙ではバサットとラポルタのクライフ派同士の争いとなった<ref name="木村73"/>。バサットは対立を続けていた「両派の融和」を掲げたが<ref name="木村73"/>、「ドリームチームの再現」を目指すラポルタが約9万4000人のクラブ会員の約53%の支持を集めて会長に就任した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.47news.jp/CN/200306/CN2003061601000057.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140104212831/http://www.47news.jp/CN/200306/CN2003061601000057.html|title=ベッカム獲得に前進か バルサ会長にラポルタ氏|publisher=[[47NEWS]]|date=2003-06-15|archivedate=2014-01-04|accessdate=2014-01-04}}</ref>。

2010年4月にバルセロナの[[名誉会長]]に就任したが<ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、191頁</ref>、同年7月に会長となった[[サンドロ・ロセイ]]がクラブの規定に名誉会長職はないとしたため、名誉会長職を返上した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20100705-649681.html|title=クライフ氏、バルサ名誉会長職を返上|publisher=[[日刊スポーツ]]|date=2010-07-05|accessdate=2014-01-04}}</ref><ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.guardian.co.uk/football/2010/jul/02/johan-cruyff-barcelona-president|title=Johan Cruyff stripped of Barcelona honorary president title|publisher=[[The Guardian]]|date=2010-07-10|accessdate=2014-01-04}}</ref>。

=== アヤックスを巡る論争 ===
2008年2月19日、[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]は新たにテクニカル部門を創設し、クライフを責任者として迎えることを発表した<ref name="AFPBB20080221">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2353715?pid=2663295|title=クライフ氏がアヤックスに復帰|publisher=AFPBB News|date=2008-02-21|accessdate=2014-01-04}}</ref>。この背景にはアヤックスのトップチームの成績不振や、かつて多くの有望な若手選手を輩出し「世界有数の育成組織」と評されたユース部門からの人材供給が減少するなどの問題が存在した<ref name="WSD2008417">{{Cite book|和書|author=エルンスト・ブーベス|chapter=The JOUNALISTIC HOLLAND オランダ - 夢と消えたアヤックスの二頭体制|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2008年4月17日号|publisher=日本スポーツ企画出版社|page=102-103}}</ref>。改革の旗手としてクライフを迎えようとの声を反映したもので<ref name="WSD2008417"/>、3日後の2月22日には2008-09シーズンからの新監督としてマルコ・ファン・バステンを迎えることを発表した<ref name="WSD2008417"/>。この時点でクライフの復帰は正式決定には至っておらず、2週間後にクライフとファン・バステンの間で意思疎通を目的とした電話会談が行われたが、その際に両者の意見が対立<ref name="WSD2008417"/>。クライフは「育成方針に関するビジョンの共有が出来なかった」としてテクニカル部門の就任要請を辞退した<ref name="WSD2008417"/>。

2011年2月、アヤックスのテクニカルアドバイザーに就任した<ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、207頁</ref><ref>[[#マルメリンク 2017|マルメリンク 2017]]、449-452頁</ref>。

アヤックスの育成部門はこれまで数多くの人材を輩出し、2010年に[[南アフリカ共和国]]で開催されたFIFAワールドカップの舞台に[[ヴェスレイ・スナイデル]]をはじめ6人の育成部門出身の選手達をオランダ代表へ送り出した<ref name="WSD20110502">{{Cite book|和書|chapter=ニュースの裏側 News number 08 クライフのアドバイザー就任に伴うアヤックスの内紛|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2011年5月2日号|publisher=日本スポーツ企画出版社|page=102}}</ref>。スカウト網や育成プログラムが成果を残していると評価を受けていたが<ref name="WSD20110502"/>、一方でクライフは「育成部門はその価値を失い平凡な組織へ成り下がった。ユースの選手には大胆さや冒険心やテクニックを教え込み、世界中が驚く人材を再び供給しなければならない」と異議を唱え<ref name="WSD20110502"/>、育成部門の再建は急務であると主張した<ref name="WSD20110502"/>。

同年3月にクラブ運営に関するアドバイスを目的とした「テクニカル・プラット・フォーム」部門の責任者に就任すると、[[フランク・デ・ブール]]監督の下でアシスタントコーチを務めていた[[ダニー・ブリント]]をはじめコーチ陣を解雇し<ref name="WSD20110502"/>、デニス・ベルカンプや[[ヴィム・ヨンク]]らを新たに育成部門の責任者に抜擢するなどの組織改革に取り組んだ<ref name="WSD20110502"/>。こうした動きに対してクラブの幹部の間で物議を醸し、ウリ・コロネル会長をはじめ理事会メンバーが総辞職する事態となった<ref name="WSD20110502"/>。

同年11月16日、[[エドガー・ダーヴィッツ]]を含むアヤックスの理事4人が2012年7月から[[ルイ・ファン・ハール]]をゼネラル・ディレクター (GD) として迎えることを発表した<ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、211頁</ref>。これに対しクライフは「私の不在時に決定された」と主張しベルカンプをはじめ育成部門の10人の指導者と共に裁判所に提訴した<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2011/11/29/kiji/K20111129002133030.html|title=「ファンハールGM」に反発!アヤックス内紛が裁判沙汰に|publisher=スポニチ Sponichi Annex|date=2011-11-29|accessdate=2014-01-04}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://jp.reuters.com/article/idJPTYE81K32T20120210/|title=サッカー=クライフ氏らアヤックス理事全員が辞職へ|publisher=デイリースポーツonline|date=2012-02-10|accessdate=2014-01-04}}</ref>。12月の一審、2012年2月の二審で共にクライフ側の訴えが認められファン・ハールのGD就任の差し止めが申し渡された<ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、213頁</ref>。

=== カタルーニャ選抜 ===
[[ファイル:Homenatge a Johan Cruijff.jpg|thumb|250px|最後の采配となった[[サッカーナイジェリア代表|ナイジェリア]]戦で表彰を受けるクライフ。]]
2009年11月9日、[[サッカーカタルーニャ代表|カタルーニャ選抜]]の監督に就任した<ref name="AFPBB20091110">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2661941?pid=4875891|title=クライフ新監督 カタルーニャ選抜で「魅惑的な」サッカーを約束|publisher=[[フランス通信|AFPBB News]]|date=2009-11-10|accessdate=2014-01-04}}</ref>。なおカタルーニャ選抜は[[国際サッカー連盟]] (FIFA) や[[欧州サッカー連盟]] (UEFA) に加盟しておらず国際大会の公式戦への出場資格を有していないため親善試合のみ行なっている代表チームである<ref name="AFPBB20091110"/>。同年12月22日に行なわれた初采配の[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]との親善試合に4-2で勝利<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2677678?pid=5078271|title=カタルーニャ州選抜 アルゼンチンとの親善試合に勝利|publisher=AFPBB News|date=2009-12-23|accessdate=2014-01-04}}</ref>、2010年12月28日には[[サッカーホンジュラス代表|ホンジュラス]]と対戦し4-0で勝利<ref name="Goal20121111">{{Cite web|和書|url=http://www.goal.com/jp/news/73/リーガエスパニョーラ/2012/11/11/3517639/クライフ氏、カタルーニャ選抜指揮官辞任へ|title=クライフ氏、カタルーニャ選抜指揮官辞任へ|publisher=Goal.com|date=2012-11-11|accessdate=2014-01-04}}</ref>、2011年12月30日には[[サッカーチュニジア代表|チュニジア]]と対戦し0-0で引き分けた<ref name="Goal20121111"/>。

2012年11月11日、「カタルーニャ選抜の監督を務めたことは誇りに思うが一つのサイクルの終わりの時が来た」として監督辞任の意向を示し、2013年1月2日に[[サッカーナイジェリア代表|ナイジェリア]]との親善試合が最後の采配となった<ref name="ElPeriodico20130102">{{Cite web|url=http://www.elperiodico.com/es/noticias/deportes/catalunya-empata-nigeria-despedida-cruyff-2285524|title=Catalunya empata con Nigeria en la despedida de Cruyff |publisher=ElPeriodico.com|date=2013-01-02|accessdate=2014-01-04}}</ref>。試合は1-1の引き分けに終わったがクライフの指揮の下でカタルーニャ選抜は2勝2引き分けと無敗の成績を残した<ref name="ElPeriodico20130102"/>。

=== CDグアダラハラ ===
2012年2月25日、[[メキシコ]]の[[CDグアダラハラ]]のアドバイザーに就任したことが発表された<ref name="AFPBB20120226">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2861073?pid=8542031|title=クライフ氏がグアダラハラと3年のアドバイザー契約を結ぶ|publisher=AFPBB News|date=2012-02-26|accessdate=2014-01-04}}</ref>。契約期間は3年<ref name="AFPBB20120226"/><ref name="NYT20120228">{{Cite web|url=http://goal.blogs.nytimes.com/2012/02/28/chivas-goes-dutch-with-cruyff/|title=Chivas Goes Dutch With Cruyff|work=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]]|date=2012-02-28|accessdate=2014-01-04}}</ref> で、オーナーであり実業家の{{仮リンク|ホルヘ・ベルガラ|en|Jorge Vergara}}は「クライフに300万から500万ドルの給与を支払いクラブの再建のために全権を与えた」と語った<ref name="NYT20120228"/>。アドバイザー就任に際してクライフはクラブ側に忍耐を求めたが<ref name="FOX20121202">{{Cite web|url=http://msn.foxsports.com/foxsoccer/latinamerica/story/chivas-guadalajara-fires-cruyff-as-adviser-120212|title=Guadalajara Chivas fires Cruyff as adviser|publisher=FOX Sports on MSN|date=2012-12-02|accessdate=2014-01-04}}</ref>、9か月後の2012年12月に契約解除が発表された<ref name="FOX20121202"/>。

== 晩年と死 ==
[[File:Johan Cruijff 2013 Catalonia.jpg|thumb|200px|right|晩年期 (2013年)]]
2014年、[[FCバルセロナ]]では[[サンドロ・ロセイ]]の後任として副会長の[[ジョゼップ・マリア・バルトメウ]]が会長に就任。任期を1年残して2015年7月18日に行われた会長選挙においてバルトメウは54.63%の支持率を得てクライフ派の[[ジョアン・ラポルタ]]を退け勝利した<ref>{{Cite web|和書|url=http://www.goal.com/jp/news/73/%E3%82%B9%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3/2015/07/19/13703402/%E3%83%90%E3%83%AB%E3%82%BB%E3%83%AD%E3%83%8A%E3%83%90%E3%83%AB%E3%83%88%E3%83%A1%E3%82%A6%E6%B0%8F%E3%81%8C%E5%86%8D%E3%81%B3%E4%BC%9A%E9%95%B7%E3%81%AB-%E5%BE%97%E7%A5%A8%E7%8E%87%EF%BC%95%EF%BC%94%E5%BC%B7%E3%81%A7%E3%83%A9%E3%83%9D%E3%83%AB%E3%82%BF%E6%B0%8F%E3%82%92%E5%88%B6%E3%81%99|title=バルセロナ、バルトメウ氏が再び会長に 得票率54%強でラポルタ氏を制す|publisher=GOAL.com|date=2015-07-19|accessdate=2016-03-26}}</ref><ref name="Sportiva20150722">{{Cite web|和書|url=https://sportiva.shueisha.co.jp/clm/football/wfootball/2015/07/22/post_818/|title=【サイモン・クーパーのフットボールオンライン】ヨハン・クライフの落日(前編)|publisher=web Sportiva|date=2015-07-22|accessdate=2016-03-25}}</ref>。また、テクニカルアドバイザーを務める[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]では国内リーグ4連覇を成し遂げる一方で、「国際舞台で再び結果を残せるクラブとなる」という目標を果たせずにいた<ref>{{Cite web|和書|url=http://sportiva.shueisha.co.jp/clm/wfootball/2015/07/23/post_819/index2.php|title=【サイモン・クーパーのフットボールオンライン】ヨハン・クライフの落日(後編)|publisher=web Sportiva|date=2015-07-23|accessdate=2016-03-25}}</ref><ref name="wsd20151119">{{Cite book|和書|author=ハンス・フォス|chapter=The JOUNALISTIC HOLLAND オランダ - 自らの信念に従ったマルコの勇気|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2015年11月19日号|publisher=日本スポーツ企画出版社|page=96}}</ref>。そのため、両クラブに対する影響力の低下や<ref name="Sportiva20150722"/>、アヤックスについてはクライフの主導の下で行われてきたユース選手育成を柱としたクラブ再建計画に対する問題点が指摘された<ref name="wsd20151119"/>。

2015年10月22日、[[スペイン]]・[[バルセロナ]]の病院で検査を受けた際に[[肺癌|肺がん]]が発見されたことを発表した<ref name="Press Announcement">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.cruijff.com/asp/eng/newsarticle.asp?refId=649104|title=Press Announcement from the Management of Johan Cruyff|publisher=Cruijff.com|date=2015-10-22|accessdate=2015-10-29}}</ref><ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.bbc.com/sport/0/football/34602348|title=Johan Cruyff: Netherlands great thanks fans for support|publisher=BBC Sport|date=2015-10-23|accessdate=2015-10-29}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3063981|title=クライフ氏が肺がんに―元オランダ代表のレジェンド|publisher=AFPBB News|date=2015-10-23|accessdate=2015-10-29}}</ref>。クライフの公式ウェブサイトは「ヨハンと彼の家族のプライバシーおよび検査結果が確定していない点を尊重するため、現時点において詳細を発表することはできない」としていた<ref name="Press Announcement"/>。この発表を受けて、10月25日に行われたバルセロナ対[[SDエイバル]]戦や、10月23日から10月25日にかけて行われた[[エールディヴィジ]]の全試合において、クライフの現役時代の背番号にちなみ前半14分に合わせ、観客による[[スタンディングオベーション]]が行われた<ref>{{Cite book|和書|chapter=TOPICS FILE クライフが肺ガンを告白|title=ワールドサッカーダイジェスト|volume=2015年11月19日号|publisher=日本スポーツ企画出版社|page=78}}</ref>。

同年11月16日、クライフの示す展望がクラブ側に受け入れられていないことを理由にアヤックスのテクニカルアドバイザーを退任した<ref name="マルメリンク465">[[#マルメリンク 2017|マルメリンク 2017]]、465頁</ref>。翌2016年2月13日に公式ウェブサイト上において診断結果は極めて良好であることを公表し、「現時点では前半を2-0でリードしているといった感じだ。試合はまだ終わっていないがね。だが、私は勝利を確信している」と病状をサッカーに例えた<ref name="number901-52-57"/><ref>[[#マルメリンク 2017|マルメリンク 2017]]、466頁</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3076837|title=肺がん闘病中のクライフ氏「極めて良好」 現在は「前半を2-0でリード」|publisher=AFPBB News|date=2016-02-14|accessdate=2016-03-25}}</ref>。

その後、同年3月中旬まで『{{仮リンク|デ・テレフラーフ|nl|De Telegraaf}}』紙上の週刊コラムの連載を続けていたが<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.cruijff.com/asp/eng/newsarticle.asp?refId=656370|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160404043707/http://www.cruijff.com/asp/eng/newsarticle.asp?refId=656370|title=Compliments for PSV and Ajax|publisher=Cruijff.com|archivedate=2016-04-04|accessdate=2016-03-25}}</ref>、闘病生活の末に3月24日にバルセロナで死去した<ref name="AFPBB20160325">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3081611|title=元オランダ代表の名選手クライフ氏、肺がんのため68歳で死去|publisher=AFPBB News|date=2016-03-25|accessdate=2016-03-25}}</ref><ref>{{en icon}} {{Cite web|url=https://www.theguardian.com/football/2016/mar/24/johan-cruyff-dies-aged-68-holland-football-legend|title=Johan Cruyff, Total Football pioneer, dies at the age of 68|publisher=The Guardian|date=2016-03-25|accessdate=2017-06-24}}</ref>。{{没年齢|1947|4|25|2016|3|24}}<ref name="BBC20160324">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.bbc.com/sport/football/35892775|title=Netherlands great Johan Cruyff dies of cancer aged 68|publisher=BBC SPORT|date=2016-03-24|accessdate=2016-03-24}}</ref><ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.nrc.nl/nieuws/2016/03/24/johan-cruyff-is-overleden|title=Johan Cruijff is overleden (68)|publisher=NRC|date=2016-03-24|accessdate=2016-03-24}}</ref><ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.voetbalprimeur.nl/nieuws/647970/tragisch-nieuws-johan-cruijff-op-68-jarige-leeftijd-overleden.html|title=Tragisch nieuws: Johan Cruijff op 68-jarige leeftijd overleden|publisher=Voetbalprimeur|date=2016-03-24|accessdate=2016-03-24}}</ref>。翌3月25日、遺体はバルセロナ市内で近親者によって火葬された<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3081774|title=クライフ氏はバルセロナで火葬に、葬儀は近親者のみで予定|publisher=AFPBB News|date=2016-03-26|accessdate=2016-03-30}}</ref>。彼の死に際してオランダ国王の[[ウィレム=アレクサンダー (オランダ王)|ウィレム=アレクサンダー]]、現役時代にライバル関係にあった[[フランツ・ベッケンバウアー]]、教え子の[[ジョゼップ・グアルディオラ]]をはじめ各方面から哀悼の意を示すコメントが寄せられた<ref name="AFPBB20160325"/><ref name="BBC20160324"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://www.goal.com/jp/news/123/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84/2016/03/25/21674972/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E6%B0%8F%E3%81%AE%E8%A8%83%E5%A0%B1%E3%81%AB%E7%9A%87%E5%B8%9D%E3%83%99%E3%83%83%E3%82%B1%E3%83%B3%E3%83%90%E3%82%A6%E3%82%A2%E3%83%BC%E3%82%82%E3%82%B7%E3%83%A7%E3%83%83%E3%82%AF-%E5%85%84%E5%BC%9F%E3%81%AE%E3%82%88%E3%81%86%E3%81%AA%E5%AD%98%E5%9C%A8%E3%81%A0%E3%81%A3%E3%81%9F|title=クライフ氏の訃報に皇帝ベッケンバウアーもショック「兄弟のような存在だった」|publisher=Goal.com|date=2016-03-25|accessdate=2016-03-25}}</ref><ref>{{Cite web|和書|url=https://www.goal.com/jp/news/123/%E3%83%89%E3%82%A4%E3%83%84/2016/03/25/21683912/%E3%82%AF%E3%83%A9%E3%82%A4%E3%83%95%E6%B0%8F%E3%82%92%E6%83%9C%E3%81%97%E3%82%80%E3%82%B0%E3%82%A2%E3%83%AB%E3%83%87%E3%82%A3%E3%82%AA%E3%83%A9%E5%BD%BC%E3%81%AA%E3%82%89%E3%81%A9%E3%81%86%E3%81%99%E3%82%8B%E3%81%8B%E3%81%A8%E4%BD%95%E5%BA%A6%E3%82%82%E8%80%83%E3%81%88%E3%81%9F|title=クライフ氏を惜しむグアルディオラ「彼ならどうするかと何度も考えた」|publisher=Goal.com|date=2016-03-25|accessdate=2016-03-26}}</ref>。

同年3月25日、[[ヨハン・クライフ・アレナ|アムステルダム・アレナ]]で開催された国際親善試合の[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]対[[サッカーフランス代表|フランス代表]]戦では、両国の選手が喪章を着用し、試合前にクライフを悼んで黙祷が捧げられた<ref name="Soccer King20160326">{{Cite web|和書|url=http://www.soccer-king.jp/news/world/euro/20160326/414722.html|title=ユーロ開催国フランス、敵地でオランダに勝利…試合前にはクライフ氏へ黙祷|publisher=Soccer King|date=2016-03-26|accessdate=2016-03-26}}</ref><ref name="AFPBB20160326">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3081757|title=オランダ対フランスの親善試合が前半14分に一時中断、クライフ氏を追悼|publisher=AFPBB News|date=2016-03-26|accessdate=2016-03-27}}</ref>。また、試合の前半14分でプレーを中断すると観客が一斉に立ち上がって拍手を送り、スタンドには選手時代の姿をかたどった横断幕が掲げられた<ref name="AFPBB20160326"/><ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、208頁</ref>。終了間際の86分にはオランダ代表の[[イブラヒム・アフェレイ]]が得点を決めると背番号14を指で示す[[ゴールパフォーマンス]]を見せ、クライフの生前の功績を称えた<ref name="Soccer King20160326"/>。同年3月30日、[[ウェンブリー・スタジアム]]で開催された国際親善試合の[[サッカーイングランド代表|イングランド代表]]戦では、オランダ代表の選手が胸に14の数字が入ったユニホームを着用したが、フランス戦と同様に前半14分に合わせて観客から拍手が送られた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3082182?pid=17672512|title=イングランドが現実に引き戻される、オランダに逆転負け|publisher=AFPBB News|date=2016-03-30|accessdate=2016-03-31}}</ref>。

長年にわたって関わりのあったFCバルセロナの本拠地・[[カンプ・ノウ]]には追悼スペースが設けられ、3月末の時点で約6万人のファンが追悼に訪れた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3082182?pid=17672512|title=故クライフ氏のために勝利を、意欲高まるバルセロナ|publisher=AFPBB News|date=2016-03-31|accessdate=2016-03-31}}</ref>。また、4月2日にホームで行われた[[レアル・マドリード]]戦ではスタンドに「GRÀCIES JOHAN(ありがとう、ヨハン)」のメッセージや背番号14のユニフォームをかたどった人文字が掲げられ、1分間の黙祷が捧げられた<ref>{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/3082743|title=9万人のバルサファン、クラシコ前に故クライフ氏を追悼|publisher=AFPBB News|date=2016-04-03|accessdate=2016-04-03}}</ref>。クライフが選手として最初に所属したアヤックスでは4月2日に[[アムステルダム]]市内で約3,000人のファンによる行進が行われ、4月3日に開催された[[PECズヴォレ]]戦では試合前に背番号14のユニフォームをかたどった横断幕がピッチやスタンドに掲げられ、試合の前半14分でプレーを中断すると観客から拍手が送られた<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.nu.nl/overlijden-cruijff/4240879/indrukwekkend-eerbetoon-ajax-icoon-cruijff-in-arena.html|title=Indrukwekkend eerbetoon aan Ajax-icoon Cruijff in Arena|publisher=NU.nl|date=2016-04-05|accessdate=2016-04-05}}</ref>。

死後、クライフの功績を讃える目的でアムステルダム・アレナを'''ヨハン・クライフ・アレナ'''へ改名を検討していることが2017年8月9日に発表され、2018年4月5日には名称変更が正式決定したとアヤックスは公式HPで発表した<ref name=web>{{Cite news|title=アヤックスが本拠地の名称変更を正式発表…「ヨハン・クライフ・アレナ」に|newspaper=SOCCER KING|date=2018-04-06|url=https://www.soccer-king.jp/news/world/ned/20180406/738843.html|accessdate=2018-04-30|publisher=[[フロムワン]]}}</ref>。

== 人物 ==
=== プレースタイル ===
[[ファイル:Johan Cruijff (Ajax) scoort.jpg|250px|thumb|right|[[1971年]]のクライフ。]]
身長178cm、体重67kgという細身の体躯をしていたが、瞬間的な加速力を生かしたドリブル突破を得意とし<ref name="ピ76">[[#ピ 2000|ピ 2000]]、76頁</ref><ref name="武智18">[[#武智 2010|武智 2010]]、18頁</ref><ref name="西部111">[[#西部 2010|西部 2010]]、111頁</ref>、急加速急停止を繰り返し相手守備陣を翻弄した<ref name="ピ76"/><ref name="大住64">[[#大住 2004|大住 2004]]、64頁</ref>。細身の外見であるにも関わらず[[ディフェンス (サッカー)#マーク|マーク]]することが難しく、捕らえ所がなかったことからオランダでは「[[ウナギ]]」とも呼ばれていた<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、101頁</ref>。

利き足の右だけでなく、左足でも正確なパスを供給する技術の正確性を持ち合わせていた<ref name="story872"/><ref name="ピ76"/><ref name="武智18"/><ref name="西部111"/><ref>{{Cite web|和書|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=648|title=ヨハン・クライフ 「右足のインとアウト、左足のインとアウト、これで4種類のパスが出せる」|publisher=賀川サッカーライブラリー|accessdate=2014-01-04}}</ref>。一方で、現役時代を通じて[[ペナルティーキック]]を滅多に蹴ることがなかったことでも知られている<ref name="サカマガ秋季63">[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、63頁</ref>。この理由についてクライフは「第一に静止した状態ではなく、試合の流れの中でのキックを得意としていたため。第二にキックの威力の問題があったため」としており<ref name="サカマガ秋季63"/>、「極度の緊張下で行われるペナルティキックは私にとっても不安にかられる一瞬だった」と語っている<ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、94頁</ref>。

ピッチ上においての全体的な状況を把握する能力に長け<ref name="ウィナー94">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、94頁</ref>、味方選手がプレーするためのスペースを生み出し、見出す為には「いつどこにポジションを採るのか」「いつどこに走り込むのか」「いつどこでポジションを離れてはいけないのか」について常に思考していたという<ref name="ウィナー101-102">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、84頁</ref>。試合時には[[オーケストラ]]の[[指揮者]]の様に仲間達に対して詳細に指示を送り自らの思考を伝えた<ref name="ウィナー101-102"/>。ピッチ上での指揮官ぶりは時にドリブルやパス、スペースへの走り込みといった積極的にボールへと関わるプレーよりも印象を残した<ref name="ウィナー101-102"/>。

名義上はセンターフォワードというポジションだが<ref name="賀川20050329"/><ref name="大住1998・60"/><ref name="ベースボールマガジン211-212">{{Cite book|和書|author=ベースボール・マガジン社編|title=別冊サッカーマガジン秋季号 '74西ドイツ・ワールドカップ|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1974|page=211-212}}</ref>、試合が始まると最後尾や中盤、タッチライン際という具合に自由にポジションを代えてボールを受け<ref name="賀川20050329"/><ref name="大住1998・60"/><ref name="ベースボールマガジン211-212"/>、ドリブルやパスで攻撃を組み立てると共に、得点機に絡んだ<ref name="賀川20050329"/><ref name="大住1998・60"/>。また、他の選手もクライフの動きに連動してポジションを目まぐるしく移動させた<ref name="大住1998・60"/><ref name="ベースボールマガジン211-212"/>。チーム全体がクライフの動きに応じてポジションを修正する様は「[[渦巻]]」「変幻自在」と評され、その中心には常にクライフが存在した<ref name="ベースボールマガジン211-212"/>。

この他に現役時代のプレーとしては軸足の後ろ側にボールを通しながら180度ターンする「[[クライフターン]]」と呼ばれるフェイントを考案したことでも知られ、サッカーの基本テクニックの一つとなっている<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://news.bbc.co.uk/sportacademy/hi/sa/football/skills/newsid_2071000/2071794.stm|title=Learn the Johan Cruyff turn|publisher=BBC Sport Academy|accessdate=2014-01-04}}</ref>。

=== 背番号14 ===
[[ファイル:Finale wereldkampioenschap voetbal 1974 in Munchen, West Duitsland tegen Nederland 2-1; Cruyff verlaat het veld.jpg|200px|thumb|right|1974年のワールドカップ決勝で敗れ、ピッチを後にするクライフ。]]
クライフの代名詞である[[サッカーの背番号|背番号]]「'''14'''」はアヤックス時代から好んで着用していた<ref name="大住100-101">[[#大住 2004|大住 2004]]、100-101頁</ref>。1970-71シーズン開幕の際にクラブは個々の選手に固定の背番号を着用させることにしたが、クライフは攻撃的なポジションの選手が身に付ける「7」から「11」までの背番号ではなく、控え選手が付ける「14」を選んだ<ref name="大住1998・60"/><ref name="大住100-101"/>。この理由について役員が尋ねると、クライフは

{{Quotation|9番は[[アルフレッド・ディ・ステファノ|ディ・ステファノ]]、10番は[[ペレ]]の背番号だ。私は誰も身につけていない14番を「クライフの背番号」にする。|ヨハン・クライフ}}

と答えた<ref name="大住1998・60"/><ref name="大住100-101"/><ref>[[#クライフ 2014|クライフ 2014]]、234頁</ref>。1974年のワールドカップに出場した当時のオランダ代表では、背番号は選手のアルファベット順に身に付けることになっていたため<ref name="大住100-101"/>、頭文字が「C」で始まるクライフは本来であれば「1」番を着用するはずだったが<ref name="大住100-101"/>、特例として「14」を着用することが認められた<ref name="大住100-101"/>。

なお、アヤックスでは背番号「14」を着用していたが、[[FCバルセロナ]]では当時の[[プリメーラ・ディビシオン|リーガ・エスパニョーラ]]は固定制の背番号ではなく先発メンバーは試合毎に「1」から「11」の背番号が割り当てられる規程となっていたため背番号「9」を着用し<ref>[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、65頁</ref>、[[フェイエノールト]]では引退した[[ヴィレム・ファン・ハネヘム]]の背番号だった「10」を着用してプレーした<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://nos.nl/artikel/2038685-cruijff-gaat-vreemd-in-1983-1984.html|title=Cruijff gaat vreemd in 1983/1984|publisher=NOS|date=2015-05-31|accessdate=2016-03-25}}</ref>。

2007年4月25日、クライフの代名詞となった背番号「14」はアヤックスの[[永久欠番]]となった<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://english.ajax.nl/web/show/id=154814/contentid=62523|archiveurl=https://web.archive.org/web/20141216032633/http://english.ajax.nl/web/show/id=154814/contentid=62523|title=Ajax retire number 14|publisher=english.ajax.nl|archivedate=2014-12-16|accessdate=2016-03-25}}</ref>。

=== 監督としての戦術 ===
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
|-
|<div style="position: relative;">
[[ファイル:Soccer Field Transparant.svg|225px]]
{{Image label|x=0.28|y=0.30|scale=225|text=[[マルコ・ファン・バステン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ファン・バステン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.08|y=0.43|scale=225|text=[[ロブ・ウィツヘ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ウィツヘ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.58|y=0.43|scale=225|text=[[ヨン・ファント・シップ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ファントシップ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.38|y=0.53|scale=225|text=[[ジョン・ボスマン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ボスマン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.17|y=0.73|scale=225|text=[[アーノルド・ミューレン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ミューレン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.56|y=0.73|scale=225|text=[[ヤン・ボウタース|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ボウタース'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.38|y=0.90|scale=225|text=[[フランク・ライカールト|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ライカールト'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.75|y=1.03|scale=225|text=[[ダニー・ブリント|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ブリント'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.38|y=1.03|scale=225|text=[[ロナルト・スペルボス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''スペルボス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.07|y=1.03|scale=225|text=[[ソニー・シローイ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''シローイ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.41|y=1.18|scale=225|text=[[スタンリー・メンゾ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''メンゾ'''</span>]]}}
</div>
|-
|style="font-size: smaller;"|クライフがアヤックスの監督時代に採用していた4-3-3の布陣<ref name="バーランド、ファンドープ75-78"/>。中央に位置するDFのうちの1人をディフェンスラインより前方に配して攻守の舵取り役を担い、3人のFWのうち左右のウイングをタッチライン際まで開かせサイド攻撃を仕掛けることが特徴<ref name="長坂161">[[#長坂 2007|長坂 2007]]、161頁</ref>。
|}
選手としてのクライフは選手が頻繁にポジションチェンジを繰り返す「トータル・フットボール」の体現者となったが<ref name="Number797">{{Cite book|和書|author=田邊雅之|chapter=歴代名将を徹底比較 最新のバルサは最高のバルサなのか|title=Sports Graphic Number|volume=797号|publisher=文藝春秋|year=2012|page=50-53}}</ref>、監督としては変則的な4-3-3フォーメーションや3-4-3フォーメーションを駆使し、選手をピッチ全体に配置させて攻撃サッカーを展開するスタイルを追及した<ref name="Number797"/>。中盤にダイヤモンド型の陣形を構築するこれらのシステムの効能としては次の点などが挙げられる。
* 「試合を進行する際に、ピッチ上に数多くのトライアングルを形成することが出来る<ref name="Number797"/><ref name="長坂162">[[#長坂 2007|長坂 2007]]、162頁</ref>」
* 「パスコースが常に二方向以上存在する<ref name="Number797"/><ref name="長坂162"/>」
* 「ピッチ全体を幅広くカバーすることが可能となる<ref name="長坂162"/>」
* 「守備に回った際に前線の選手が即座に相手のチェックに移ることが出来る<ref name="長坂162"/>」

アヤックスの監督時代に採用していた4-3-3フォーメーション(アヤックス・フォーメーション)では、フィールドの中央に位置する[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]、[[ディフェンダー (サッカー)#センターバック|センターバック]]、[[ディフェンダー (サッカー)#リベロ|リベロ]]、[[ミッドフィールダー#攻撃的ミッドフィールダー|攻撃的ミッドフィールダー]]、[[フォワード (サッカー)#センターフォワード|センターフォワード]]の縦軸の5人が攻守の鍵となり、相互の意思疎通とコンビネーションを重要視した<ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、74頁</ref>。

GKはペナルティエリア内で相手の攻撃を阻止するだけでなく、攻撃時にはゴールから離れフィールドプレーヤーの1人としての役割もこなした<ref name="バーランド、ファンドープ75-78">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、75-78頁</ref>。守備陣ではリベロの選手が積極的に中盤や前線に進出するのに対して、センターバックは最後尾から攻撃の起点としてロングパスを駆使してゲームを構築<ref name="バーランド、ファンドープ75-78"/>。左右のサイドバックに位置する2人の選手はサッカー界で主流となっていた積極的な攻撃参加を行ず<ref name="バーランド、ファンドープ81-82">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、79頁</ref>、与えられたポジションとスペースのカバーリングに徹した<ref name="バーランド、ファンドープ81-82"/>。

中盤は左右の2人は後方から攻め上がったリベロの動きに応じてポジションを修正すると共に<ref name="バーランド、ファンドープ81-82"/>、リベロの進出により生じた後方のスペースや他の選手のミスをカバーする調整役を担った<ref name="バーランド、ファンドープ75-78"/><ref name="バーランド、ファンドープ81-82"/>。攻撃的ミッドフィールダーの選手は常にセンターフォワードと5mから10m以内の間隔でポジションを採り、ボールを保持してゲームを動かすのではなく<ref name="バーランド、ファンドープ81-82"/>、センターフォワードのためにスペースを作り出し、動きをサポートするなどの関係性を意識させた<ref name="バーランド、ファンドープ81-82"/>。

前線では左右のウイングに位置する選手がタッチライン際まで開いてセンタフォワードの為にスペースを確保し<ref name="バーランド、ファンドープ81-82"/>、攻撃時にはドリブルで対峙する相手を圧倒することを求め、守備時には3人が連携してボールを保持する選手に対してプレッシングを行った<ref name="バーランド、ファンドープ81-82"/>{{#tag:ref|2000年代以降は同じ3トップを採用する場合においても「ストライカー2人にドリブラー1人<ref name="戸塚">[[#戸塚 2010|戸塚 2010]]、133-136頁</ref>」「ストライカー、ドリブラー、攻撃的MFをそれぞれ1人<ref name="戸塚"/>」といった具合に、選手の組み合わせを自由に入れ替える傾向があり、クライフが好んだ左右の両サイドに典型的な[[フォワード (サッカー)#ウイング|ウインガー]]を配置するスタイルは希少となっている<ref name="長坂161"/><ref name="戸塚"/>。|group=注}}。

ただし、ここで述べたアヤックス時代のシステムはあくまでも優れたセンターフォワードが存在する場合の事例だとしている<ref name="木崎、若水21-27">[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、21-27頁</ref>。両サイドのフォワードに2人のウイングを配するコンセプト自体は変更はないが<ref name="木崎、若水21-27"/>、優れたセンターフォワードが存在しない場合は定型的な4-3-3フォーメーションを採用せずにセンターフォワードの位置には選手を配置せずにゲームメイク力のあるフォワードを前線から下がり気味に配置し中盤に近い位置でプレーをさせた<ref name="木崎、若水21-27"/>。

バルセロナで監督を務めていた当時も3トップや中盤でダイヤモンド型の陣形を作るなどのコンセプトは変わりなかったものの<ref name="木崎、若水21-27"/>、DFを3人にして3-4-3フォーメーションを採用する機会が多かった<ref name="Number797"/><ref name="木崎、若水21-27"/>。その背景には対戦する多くのチームが2トップを採用していたというスペインサッカー界の事情と<ref name="Number797"/><ref name="木崎、若水21-27"/>、1980年代後半にACミランを率いた[[アリゴ・サッキ]]が主唱した[[プレスディフェンス|プレッシング]]スタイルの戦術に対抗するための意図があった<ref name="Number797"/>。一方、バルセロナでは基本的に選手が自由に陣形を崩すことを認めていなかったとの指摘もある<ref name="Number797"/>。

アヤックスやバルセロナでは「パスを繋いで常に自分達のチームがボールをキープして攻撃を組み立て試合の主導権を握る」ボールポゼッションのスタイルを定着させたが<ref name="サカマガ20111227">{{Cite book|和書|author=横井伸幸|chapter=バルセロナを史上最高に導いた男を知る グアルディオラの、何がそんなにスゴイのか?|title=週刊サッカーマガジン|volume=2011年12月27日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=2011|page=16}}</ref>、一方でそのスタイルを打ち破られた際の守備のリスクは大きく<ref name="ボール146"/><ref name="長坂164">[[#長坂 2007|長坂 2007]]、164頁</ref>、戦術的な欠点を露呈することもあった<ref name="サカマガ20111227"/>。攻撃に人数を割き前掛かりになるため守備が手薄となり<ref name="長坂164"/>、前線の選手達がボールを奪われた際、相手にチェックを掛けボールを再奪取することに失敗し守備陣の裏にロングパスを通されれば一転して危機的な状況となった<ref name="長坂164"/>。不安定な守備と、その欠点を補って上回る攻撃力がクライフの志向した戦術の魅力でもあった<ref name="サカマガ20111227"/><ref name="長坂164"/>。

=== 人となり ===
[[ファイル:Fred Emmer, Sjaak Swart en Johan Cruijff.png|250px|thumb|left|1972年に[[オランダ放送協会]]の番組に出演した際のクライフ。右から一人をおいてクライフ、[[シャーク・スワルト]]。司会者の{{仮リンク|フレット・エメル|nl|Fred Emmer}}。]]
自分の理想や目標を達成するために周囲を引きこんでいく並外れたカリスマ性のある人物と評されている<ref name="サントス339-340">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、339-340頁</ref>。インタビューにおいて世界最高の選手と言われることについて問われた際に「私もそう思う」と答えたことがあるだけでなく<ref>[[#岩永 2005|岩永 2005]]、111頁</ref>、
{{Quotation|私が思い出すことは、私が一番優れていたということだけだ<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、178頁</ref>}}
{{Quotation|多くの人々から『最高の選手』と賞賛されるが、自分でもそのように考えている。しかし裏返せば多くの低水準な選手達と共に長年プレーをしていたことを意味する<ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、50頁</ref>}}
と公言してはばからない自信家であり我が強く<ref name="ピ78-79"/>、ミスを絶対に認めない頑固さを持ち合わせていた<ref name="ピ78-79"/><ref>[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、130-131頁</ref><ref name="木崎、若水2013-48-49">[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、48-49頁</ref>。監督になったばかりのころにオランダサッカー協会から監督講習を受けるように通達された際には、「いったい誰がオレにサッカーを教えられるんだ?」と反論したこともあった<ref name="木崎、若水2013-48-49"/>。13歳の時に受けた職業適性検査では「能力は平均水準をやや上回るが精神的にも肉体的にも未成熟である。感情的で常に刺激を求め興味の対象が頻繁に入れ替わりやすく、勉学よりもスポーツに興味を示す。精密さを必要とする職業には不向きであり強いてあげるならば貿易などの商業に向いているだろう」と診断されている<ref name="サカマガ秋季68-69"/>。

一方で、こうした自信家としてや感情的な側面は、報道陣や他の選手からの介入や外部の人間からの圧力を避けるための身を守るための人格であり<ref name="スホッツ、ラウツェン170-171">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、170-171頁</ref>、根底には親切心があり有名人然として振る舞うことを嫌っているともいわれていた<ref name="スホッツ、ラウツェン170-171"/>。

会話好きな性格で、一旦話し出すと止まらない側面があった<ref name="スホッツ、ラウツェン193">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、193頁</ref><ref name="木崎、若水114-115">[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、114-115頁</ref>。選手時代には試合中に休むことなく選手に指示を出していたことからドラマの『[[わんぱくフリッパー]]』の主人公の[[イルカ]]になぞらえて「フリッパー」とも呼ばれた<ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、44頁</ref>。バルセロナの監督を務めていた1990年代にオランダの番組のインタビューに応じたところ予定の時間を上回り30分近く会話を続けたため、番組スタッフが編集作業で取捨選択することが困難となり、改めてクライフのための番組が製作された<ref name="スホッツ、ラウツェン193"/>。また、オランダ国民には[[徴兵制度|兵役]]が義務付けられているが招集を受けた際にクライフが医師と直接交渉して相手を根負けさせ兵役が免除されたエピソードや<ref name="サントス81-82">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、81-82頁</ref>、1971年にオランダ君主の[[ユリアナ (オランダ女王)|ユリアナ]]女王と接見した際に税制についての見直しを直訴したため物議を醸したエピソードもある<ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、121頁</ref>。クライフ自身はこの癖に気づいており、「私の悪い癖は、すべてを把握しすぎてしまい、そのため常にしゃべらなくては気が済まなかったことだ。そしてどんな状況でも、すぐ誰かのミスを指摘していた。文句を言っていたのだ。それが私の中で、一番悪かった特徴だ」と反省しつつも<ref name="木崎、若水114-115"/>、「しゃべる」ことこそサッカーの基本と考えていたという<ref name="木崎、若水114-115"/>。

さまざまな渾名を持ち合わせており、選手時代には「空飛ぶオランダ人([[フライング・ダッチマン]])<ref name="学研"/><ref name="number901-52-57"/><ref name="asahi"/><ref name="クライフ2014-232"/>」、「エル・サルバドール<ref name="number901-52-57"/><ref name="story149"/>」(''El Salvador''、[[救世主]]の意)の他に「エル・フラコ」という渾名でも呼ばれていたが<ref name="サントス181"/>、これは1973年にバルセロナへ入団した当時、痩せた体格であったことに由来している<ref name="サントス181"/>。バルセロナの監督を務めていた当時の選手達は、かつてのスター選手への畏怖の念から「[[神]]」と呼んでいた<ref name="サントス181"/>。また、イニシャルの「J.C.」が[[イエス・キリスト]]と同じであることから、1970年代に流行した[[ロック・ミュージカル]]の『[[ジーザス・クライスト・スーパースター]]』に準え「スーパースター」とも呼ばれた<ref name="number901-52-57"/><ref name="story149"/><ref name="encyclopedia665"/>。

=== 言語感覚 ===
{{main|nl:Cruijffiaans}}
独特な言語感覚や文章表現の持ち主であることでも知られ<ref name="ピ78-79"/><ref name="AFP20070425">{{Cite web|和書|url=https://www.afpbb.com/articles/-/2216299?pid=1538745|title=クライフ氏が還暦を迎える|publisher=AFPBB News|date=2007-04-25|accessdate=2014-01-04}}</ref>、クライフ語録 (Cruyffian) と呼ばれる独自の理論が人気を博している<ref name="AFP20070425"/><ref name="クライフ2014-236">[[#クライフ 2014|クライフ 2014]]、236頁</ref>。クライフの発言で本が一冊まとめられたこともあり、「"Typisch Cruiffiaans:Uitspraken"(典型的クライフ語・発言集 クライフライブラリー出版)」という語録集も出版されている<ref name="クライフ2014-236"/>。 還暦を迎えた2007年に[[フランス通信|AFP通信]]が1200人のファンを対象に行った調査によると以下の名言が上位に挙げられた<ref name="AFP20070425"/>。

{{Quotation|あらゆる欠点には長所がある}}
{{Quotation|我々がボールをキープし続けていれば、相手は永遠に得点することはできない}}
{{Quotation|相手が何点取ろうが、それより多くの得点を取れば問題はない}}

なお同じ調査において25%の人々が「クライフ語録を理解できる」と回答した<ref name="AFP20070425"/> のに対し、53%の人々が「時々理解が出来なくなることもあるが、気にしていない」と回答している<ref name="AFP20070425"/>。母国語の[[オランダ語]]の他に、[[英語]]、[[スペイン語]]を話すことが出来る<ref name="story872"/><ref name="ピ78-79"/> ことから選手時代には監督に代わって記者に説明役を買って出ることもあった<ref name="story872"/>。しかし長年スペインに在住していたにも関わらずスペイン語は上達していなかった、との指摘もある<ref name="ピ78-79"/>。

=== 家族 ===
[[file:Johan Cruijff getrouwd met Danny Coster het bruidspaar bij het stadhuis, Bestanddeelnr 921-9071.jpg|250px|thumb|right|結婚式でのクライフ夫妻]]
[[ファイル:Scotland-holland euro 96.jpg|250px|thumb|right|オランダ代表としてプレーする[[ジョルディ・クライフ|ジョルディ]](右から3人目、背番号17の選手)]]
妻であるダニー・コスターとは1967年に行われた[[ピート・カイザー]]の結婚式を通じて知り合い<ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、74頁</ref>、1968年12月に結婚すると3人の子供をもうけた<ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、78-85頁</ref>。長女シャンタル(1970年生)はクライフがバルセロナの監督を務めていた当時の控えゴールキーパーだった{{仮リンク|ヘスス・マリアノ・アンゴイ|en|Jesús Angoy}}と結婚<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.dailymail.co.uk/sport/football/article-1218303/Barcelona-hanging-hopes-new-Cruyff-grandson-legend-Johan-makes-debut-youth-team.html|title =Barcelona hanging their hopes on the new Cruyff as the grandson of legend Johan makes his debut for youth team|publisher=Mail Online|date=2009-10-15|accessdate=2014-01-04}}</ref>。アンゴイは1996年にバルセロナを退団し引退すると[[アメリカンフットボール]]選手となり、[[NFLヨーロッパ]]の{{仮リンク|バルセロナ・ドラゴンズ|en|Barcelona Dragons}}<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/scotland/1929750.stm|title =Claymores make ideal start language|publisher=BBC SPORT|date=2002-04-14|accessdate=2014-01-04}}</ref> などで[[プレースキッカー]]を務めたが後に離婚した<ref name="スホッツ、ラウツェン70-71">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、70-71頁</ref>。

次女スシラ(1972年生)は物静かな性格であるが父親に似て自己主張が強く、10代から20代の時期に[[馬術]]の[[障害飛越競技]]の選手を志したが膝の故障により断念した<ref name="スホッツ、ラウツェン70-71"/>。

末っ子の[[ジョルディ・クライフ|ジョルディ]](1974年生)はクライフがバルセロナ在籍当時に産まれたため、[[キリスト教]]の守護聖人・[[ゲオルギオス (聖人)|聖ゲオルギオス]]の[[カタルーニャ語]]読みである「サン・ジョルディ」に因んで<ref name="サカマガ1996522">{{Cite book|和書|chapter=ワールドワイドインフォメーション スペイン|title=サッカーマガジン|volume=1996年5月22日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1996|page=103}}</ref>「ジョルディ」 (Jordi) と命名した<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、248頁</ref>。後に父親と同様にサッカー選手になるとバルセロナや[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]、[[デポルティーボ・アラベス]]などに在籍した<ref name="Jordi">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.fourfourtwo.com/features/name-father-how-cruyff-legacy-hampered-jordis-career#:OKFmLUeyF7p39A|title=In the name of the father: How the Cruyff legacy hampered Jordi's career|publisher=FourFourTwo|date=2014-03-21|accessdate=2016-03-27}}</ref>。また、オランダとスペインの二重国籍を有することから<ref name="サカマガ1996522"/>、いずれかの代表チームを選択する権利があり一時はU-21オランダ代表の招集を辞退していた<ref name="サカマガ1996522"/>。最終的に1996年4月にオランダ代表を選択し<ref name="サカマガ1996522"/>、同年に[[イングランド]]で開催された[[UEFA EURO '96|UEFA欧州選手権1996]]に出場するなど国際Aマッチ9試合に出場した<ref name="Jordi"/>。

実兄のヘニーもサッカー選手でありポジションは[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]を務めていた<ref name="サントス82">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、82頁</ref>。クライフと同様にアヤックスの下部組織で育ちトップチームへ昇格を果たしたが大成せずに数シーズンで引退し、その後はスポーツ用品店を経営した<ref name="サントス82"/>。ヘニーの娘でクライフの姪にあたる{{仮リンク|エステル・クライフ|nl|Estelle Cruijff}}はタレントとなり、2000年に[[ルート・フリット]]と結婚したが2013年に離婚が成立した<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.ad.nl/ad/nl/1002/Showbizz/article/detail/3450611/2013/06/01/Ruud-Gullit-en-Estelle-Cruijff-officieel-gescheiden.dhtml|title='Ruud Gullit en Estelle Cruijff officieel gescheiden'|publisher=AD.nl|date=2013-06-01|accessdate=2014-01-04}}</ref>。

=== 嗜好 ===
好きな選手は1950年代のスター選手である[[アルフレッド・ディ・ステファノ]]<ref name="大住80">[[#大住 2004|大住 2004]]、80頁</ref><ref name="Persoonlijk">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=fenomeen-persoonlijk|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160602054406/http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=fenomeen-persoonlijk|title=Persoonlijk|publisher=Cruijff.com|archivedate=2016-06-02|accessdate=2014-01-04}}</ref><ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、43頁</ref>と、「ロッテルダムの[[モナ・リザ]]」と呼ばれドリブルの名手だった[[ファース・ヴィルケス]]<ref name="Persoonlijk"/>{{#tag:ref|ヴィルケスはドリブルを得意とするフォワードであり<ref name="ウィナー25">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、25頁</ref>、[[アベ・レンストラ]]や{{仮リンク|ケース・ライフェルス|en|Kees Rijvers}}と並ぶ[[第二次世界大戦]]後のオランダサッカー界のスター選手だった。しかしプロサッカー選手としてプレーすることを希望して[[1949年]]にイタリアのインテル・ミラノへ移籍しオランダ初のプロサッカー選手となった<ref name="ウィナー25"/>ことでオランダサッカー協会から制裁措置として代表チームから数年間の追放処分を受けた<ref name="ウィナー25"/>。|group=注}}、好きな監督は[[リヌス・ミケルス]]<ref name="Persoonlijk"/>、苦手な選手としては1974年ワールドカップ決勝で徹底マークを受けた[[ベルティ・フォクツ]]<ref name="Persoonlijk"/> の名を挙げている。特にディ・ステファノのセンターフォワードでありながらミッドフィールダーの位置で幅広く動き周り積極的に守備に加わる、従来の概念を覆すプレースタイルを理想としていた<ref name="大住80"/>。なお、若い頃のクライフは自身より1歳年上で[[マンチェスター・ユナイテッドFC]]に所属していた[[ジョージ・ベスト]]に例えられ「オランダのベスト」と称されたこともあったが<ref name="大住78">[[#大住 2004|大住 2004]]、78頁</ref>、前述のようにディ・ステファノのファンであったクライフは、才能がありながら不摂生が災いして表舞台から姿を消したという過去を持つ<ref name="大住78"/>ベストに例えられることを嫌っていた<ref name="大住80"/>。

選手時代は[[プーマ]]社とスポンサー契約を結んでいた<ref name="ウィナー52">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、52頁</ref><ref name="木崎、若水153-155">[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、153-155頁</ref>。[[1974 FIFAワールドカップ]]のオランダ代表ではオランダサッカー協会が契約していた[[アディダス]]社のサッカーシューズの使用及びユニフォームを着用することを拒否し<ref name="ウィナー52"/><ref name="木崎、若水153-155"/>、オランダ代表での試合が近づくとオランダサッカー協会のスタッフとアディダスの代表担当がカミソリでユニフォームに施されたアディダスのシンボルである3本線の内一本を削ぎ落とし<ref name="木崎、若水153-155"/>、2本線となったユニフォームをクライフは着用して試合に出場していた<ref name="ウィナー52"/><ref name="木崎、若水153-155"/><ref>[[#マルメリンク 2017|マルメリンク 2017]]、7頁</ref>。また監督時代には、自らが設立したスポーツブランド『クライフ・スポーツ』以外のジャージやスーツを着用することを拒否し<ref name="木崎、若水153-155"/>、バルセロナの監督に就任した際には契約書に「自分が着る服は自分で決められる」という条項を盛り込んでいた<ref name="木崎、若水153-155"/>。

趣味の[[ゴルフ]]は選手時代にオランダからスペインへと移籍した直後の1973年頃に始めた<ref name="Telegraaf20110509">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.telegraaf.nl/telesport/columnist/johancruijff/article20276855.ece|title=Cruijff: Ballesteros fenomeen|work=Telegraaf.nl|date=2011-05-09|accessdate=2015-10-29}}</ref>。その際にプロゴルファーの[[セベ・バレステロス]]を紹介され、彼がクライフの所属するバルセロナのファンだったことから交流を続けたという<ref name="Telegraaf20110509"/>。引退後は数多くのアマチュアトーナメントに出場しているが<ref>{{es icon}} {{Cite web|url=http://www.realclubdegolfelprat.com/es/noticia-detalle/match-golf-in-barcelona-open-de-espana-2015-rafa-nadal-sergio-garcia-johan-cruyff-220-es|title=MATCH GOLF IN BARCELONA - OPEN DE ESPAÑA 2015 (RAFA NADAL, SERGIO GARCÍA, JOHAN CRUYFF)|publisher=Real Club de Golf El Prat
|date=2015-05-04|accessdate=2015-10-29}}</ref>、2006年6月に専門誌『ゴルフ・ウィークリー』が掲載した{{仮リンク|オランダゴルフ協会|nl|Koninklijke Nederlandse Golf Federatie}}のハンディキャップインデックスによるとクライフのハンディは35,3だった<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.golfersvannederland.nl/?p=3032|title=Golf en WK voetbal (deel IV)|publisher=Golfers Van Nederland|date=2006-06-13|accessdate=2015-10-29}}</ref>。

=== 喫煙と健康問題 ===
15歳の頃から[[喫煙|ヘビースモーカー]]であり<ref name="サントス335-336">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、335-336頁</ref>、選手時代にはハーフタイム中に体を休める仲間達を尻目に一服していたとの逸話もあった<ref name="サントス335-336"/>。引退し監督になった後も喫煙は続けられ、ベンチで頻繁にタバコをふかす姿が確認されていたが、1991年2月26日に心筋梗塞により倒れ、[[冠動脈大動脈バイパス移植術|バイパス手術]]により一命は取り留めた<ref name="サントス335-336"/>。手術後は医師から[[禁煙]]が言い渡され、タバコの代わりに[[チュッパチャプス]]を舐めるようになった<ref name="number901-52-57"/><ref name="サントス335-336"/><ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、217頁</ref><ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、110頁</ref><ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、206頁</ref>。監督時代には毎日80本のタバコを吸っていたとされている<ref name="マルメリンク465"/>。

[[ジャナラリター・デ・カタルーニャ|カタルーニャ州政府]]の依頼により、若者の喫煙防止のための[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]に出演した<ref name="サントス335-336"/><ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、92頁</ref>。このコマーシャルは背広姿のクライフがボールの代わりにタバコの箱をリフティングし、「サッカーはつねに私の人生だった」と言ったわずかな沈黙の後に箱を蹴り飛ばすと箱は破裂し<ref name="cruyff2017139">[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、139頁</ref>、最後に若者に向けて「喫煙は危うく私の人生を奪うところだった…<ref name="cruyff2017139"/>」「喫煙はバカなことである。悪習にならないように気を付けよう<ref name="サントス335-336"/>」というメッセージが添えられるという内容だった。このCMは[[スペイン語]]、[[カタルーニャ語]]、[[英語]]、[[ドイツ語]]、[[フランス語]]、[[オランダ語]]で放送された<ref name="cruyff2017139"/>。

=== その他 ===
[[ファイル:Johan Cruijff maakt grammofoonplaat in G.T.B. studio in Den Haag Johan Cruijff m, Bestanddeelnr 922-2604.jpg|thumb|200px|1969年、音楽スタジオでレコーディング中のクライフ。]]
* 1969年に歌手の{{仮リンク|ペーター・クールワイン|nl|Peter Koelewijn}}との共演で''Oei oei oei (dat was me weer een loei)''というシングルを発表した。レコーディングの際にクライフはリズム感を保って歌うことが出来ず[[ブランデー]]入りの[[コーラ (飲料)|コーラ]]を飲んだ上で再びレコーディングを行った<ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、51頁</ref><ref name="Koelewijn">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.peterkoelewijn.nl/discografie/produkties/cruyff_johan.html|title=Produkties en/of songs voor Johan Cruyff|publisher= Peter Koelewijn|accessdate=2014-01-04}}</ref>。このシングルはオランダ国内では目立った売り上げを残せなかったが、後にクライフが移籍したスペイン国内で人気を獲得したことから1974年にスペイン語に翻訳されて発売された<ref name="Koelewijn"/>。
* [[ルイ・ファン・ハール]]とは犬猿の仲として知られる<ref name="Goal20111121">{{Cite web|和書|url=http://www.goal.com/jp/news/3637/オランダ/2011/11/21/2766967/クライフ氏らアヤックス理事全員が辞職へ|title=サッカー=クライフ氏らアヤックス理事全員が辞職へ|publisher=Reuters|date=2012-02-10|accessdate=2014-01-04}}</ref>。クライフは機会がある度にファン・ハールの指導方針を批判していたが<ref name="goal20101110">{{Cite web|和書|url=http://www.goal.com/jp/news/73/オランダ/2010/11/10/2206365/ファン・ハール:「クライフを一生許さない」|title=ファン・ハール:「クライフを一生許さない」|publisher=Goal.com|date=2010-11-10|accessdate=2014-01-04}}</ref>、クライフの姿勢をファン・ハールも快く考えておらず2010年に「クライフは毎週のように私を無責任に批判し続けバルセロナでの仕事を挫折させようとした」と批判した<ref name="goal20101110"/>。ファン・ハールは仲違いのきっかけについて2009年に出版した自伝の中で「1989年にクライフの家族から[[クリスマス]]のパーティーに招待されたが私の姉妹の容態が急変したため誘いを断った。そのため気まずい関係となった」と告白した<ref name="AD20091011">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.ad.nl/ad/nl/1053/Primera-Division/article/detail/2070608/2009/10/11/Cruijff-Van-Gaal-heeft-Alzheimer.dhtml|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160406002909/http://www.ad.nl/ad/nl/1053/Primera-Division/article/detail/2070608/2009/10/11/Cruijff-Van-Gaal-heeft-Alzheimer.dhtml|title=Cruijff: Van Gaal heeft Alzheimer|publisher=AD.nl|archivedate=2016-04-06|accessdate=2014-01-04}}</ref>。これに対してクライフはオランダのテレビ局「RTVノールト」の取材に応じ「私は覚えていないが、ファン・ハールは[[アルツハイマー病]]なのだろう。私が解決すべきことは何もない」と発言した<ref name="AD20091011"/>。また『{{仮リンク|デ・テレフラーフ|nl|De Telegraaf}}』紙で連載している自身のコラムの中では「通常であればコメントしたくもないが、家族を守ってきた私の限度や価値観を超えている<ref name="AD20091011"/><ref name="MARCA20091013">{{es icon}} {{Cite web|url=http://www.marca.com/2009/10/13/futbol/futbol_internacional/1255437269.html|title=Cruyff cree que a Van Gaal "le falta un tornillo"|publisher=MARCA.com|date=2009-10-13|accessdate=2014-01-04}}</ref>」と発言した。

== 思想 ==
{{Main|ポゼッションフットボール}}
選手としても監督としても攻撃的サッカーの信奉者であり<ref name="バーランド、ファンドープ72-73">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、72-73頁</ref><ref>[[#クライフ 2017|クライフ 2017]]、31-32頁</ref>、攻撃をせずに守備を固めるような、美しくないサッカーに価値はないという思想を持っていた<ref name="バーランド、ファンドープ72-73"/>。そのため[[カウンターアタック]]に代表される守備的な戦術<ref name="Number plus">[[#ブーベス 2010|ブーベス 2010]]、16-21頁</ref>、中盤を省略してボールポゼッションと相互のコンビネーションを欠いた戦術<ref name="朝日20020701">{{Cite book|和書|author=ヨハン・クライフ|chapter=ブラジルVに思う 目 クライフ 中盤なき攻撃 魅力薄い|title=[[朝日新聞]]|volume=2002年7月1日 15版|year=2002|page=4面}}</ref>、一部のスター選手の個人主義と個人技に頼った戦術<ref name="朝日20020701"/>、結果のみを重視する風潮に対しては常に批判的だった<ref>{{Cite book|和書|author=潮智史|chapter=クライフさん美しさ追求 概念崩したトータルフットボール|title=朝日新聞|volume=2016年3月25日 13版|year=2016|page=24面}}</ref>。こうしたスタイルの実践は退屈なサッカーの横行に繋がるだけで<ref>[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、373頁</ref>サッカーの為にならない<ref>[[#グランヴィル 2002|グランヴィル 2002]]、579頁</ref>と主張しているが、自らの理想とするサッカーを遂行する上で最も重要な要素は走力ではなく頭脳や技術であるとし次のような言葉を残している。
{{Quotation|試合の中でのスピードを維持するために、パスは味方の足下ではなく常に味方の1m先に出さなくてはならない。また、選手Aが選手Bにパスを出す際、3人目の選手CはBからパスが出る場所を予測して走りこむように心がける。サッカーとは頭で考えるスポーツなのだ<ref name="Number plus112-113">[[#クーパー 2010|クーパー 2010]]、112-113頁</ref>。}}
{{Quotation|[[UEFA EURO 2008|ユーロ2008]]の頃から、試合中に一番多く走ったFWやMFが賞賛されるようになったが、こういうトレンドは、私のサッカー観とは完全に相反している。私に言わせれば、1試合で10kmも攻撃陣が走るのは、間違ったポジショニングをしているからだ。無駄に体力を消費してしまうと、判断が鈍り、プレーの切れが悪くなり、結果的にチームにとってもマイナスになってしまう<ref>[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、50-51頁</ref>。}}

この他に、クライフはことある機会に「サッカーとは楽しむものである」という趣旨の言葉を残しているが<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、22頁</ref><ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、160-161頁</ref><ref name="安藤">[[#安藤 2008|安藤 2008]]、76-79頁</ref>、現代のサッカー界にはその「楽しさ」が欠けているとして以下の言葉を残している<ref name="安藤"/>。
{{Quotation|現代のサッカーには「楽しさ」が欠けている。子供のころから、走ること、闘うこと、結果を求めることばかり追求し、基本的な技術すら身に付けないことは馬鹿げている<ref name="number901-52-57"/><ref name="安藤"/>。}}
{{Quotation|私が現役のころはプレーをすることが楽しくてしかたなかったが、時代が変わったのだろうか。顔を引きつらせ拳を握り締めながらプレーする選手はプレーを楽しんではいないし、サッカー選手というよりは[[陸上競技|陸上選手]]である。私は理想主義者だから、サッカー選手がいい<ref>{{Cite book|和書|author=ヨハン・クライフ著、坂路淳子訳|chapter=フットボーラーよ聞け! TEXT13|title=週刊サッカーダイジェスト|volume=1995年1月25日号|publisher=[[日本スポーツ企画出版社]]|year=1995|page=110-111}}</ref>。}}
{{Quotation|頑張って走ればいいのではない。それを見たければ、陸上競技のフィールドに行きたまえ。走ることは楽しいけれど、フットボールの基本はどんな時代でもテクニックなのだ<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、20頁</ref>。}}

なお、[[2002 FIFAワールドカップ]]で[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]が優勝した際には個々の能力は評価しつつ[[ルイス・フェリペ・スコラーリ]]の採用したカウンター戦術について「[[アンチフットボール]]<ref>{{Cite web|url=http://dailytimes.com.pk/default.asp?page=story_2-7-2002_pg2_18 |archiveurl=https://web.archive.org/web/20120207144927/http://dailytimes.com.pk/default.asp?page=story_2-7-2002_pg2_18|title=Cruyff slams World Cup, accuses Brazil of wrecking football|work=Daily Times|archivedate=2012-07-02|accessdate=2014-01-04}}</ref>」「ボールの出所に[[プレスディフェンス|プレッシャー]]を掛け3-5-2フォーメーションの両サイドの選手を守備に忙殺させてしまえば平凡なチーム<ref name="朝日20020701"/>」と評したが、こうした歯に衣着せぬ発言について「率直に考えを述べているだけであって、優勝したこと自体を非難しているのではない。優勝したブラジルには敬意を表したい。ただし、魅力は感じない」と評している<ref name="朝日20020701"/>。

[[UEFAチャンピオンズリーグ 2009-10]]で[[インテルナツィオナーレ・ミラノ]]が優勝した際には、[[UEFAチャンピオンズリーグ 2009-10 決勝|決勝戦]]の[[FCバイエルン・ミュンヘン|バイエルン・ミュンヘン]]戦でのインテルの選手について「インテルの守備陣形や、選手たちのポジショニングは素晴らしかったと思う」としつつも<ref name="木崎、若水2013-61-63">[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、61-63頁</ref>、「しかし守った後は、見るに堪えないサッカーだった。8割以上は、まるで目をつむって適当に蹴っているかの様なクリアボールだった。あのようなやり方で勝つことは、一時の快楽としては最高だろう。しかしこの勝利がイタリアリーグの未来に、何かをもたらすとは思えない」と批判的な意見を述べて「私は少しも興奮しなかった」と評し<ref name="木崎、若水2013-61-63"/>、またインテル監督の[[ジョゼ・モウリーニョ]]を指して「モウリーニョは素晴らしい監督だが、私のチームを任せたいとは思わない」と切り捨てている<ref>[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、35頁</ref>。

クライフには、以下のような5つの思考法があった<ref>[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、163-164頁</ref>。
*「『ひらめき』常に常識を疑い、新しいことに挑戦する。」
*「『度胸』誰を敵に回そうと、まったく引かない。」
*「『はったり』権威を認めず、自分が一番だと言い続ける。」
*「『イタズラ心』ピッチの中でも外でも、人を驚かすことに楽しみを見出す。」
*「『相手の限界点を試す遊び心』ルールは素直に受け入れず、どこまで脱線が許されるかを、駆け引きしながら探り出す。」

また、クライフは自著の『Ik hound van voetbal』(私はサッカーを愛している)の巻末において、選手たちへのメッセージとして以下の「10の心得」を記している<ref>[[#木崎、若水 2013|木崎、若水 2013]]、100-101頁</ref>。
*「1.サッカーはショーだ。でなければサッカーではない」
*「2.選手は常に技術の追求を考えなければならない」
*「3.他の人から学ぶ姿勢を持たなくてはいけない」
*「4.楽しむことが、サッカーでは特に重要」
*「5.チームメイト、サポーター、審判を尊敬することは、スポーツの基本であり、人生の基本だ」
*「6.チームメイトと、いい同僚でいるべき。他の選手が犯した間違いも受け止め、お互いを助け合うべき」
*「7.サッカーでも、人生でも、チームで機能しなくてはいけない。1人では試合に勝利することはできない」
*「8.100%の労力をささげることは、サッカーでは当然のこと」
*「9.サッカー選手は社会への責任がある。クラブやサポーターの代表だからだ」
*「10.サッカーは個人の成長を助ける。人間としても成長させてくれる」

== 影響 ==
=== 選手 ===
[[ファイル:Van Basten (r) juicht na zijn treffer (2-0), midden Feyenoorddoelman Hiele, Bestanddeelnr 932-7028.jpg|thumb|left|250px|1980年代から1990年代に活躍した[[マルコ・ファン・バステン]]はクライフと比較の対象となっていた。]]
クライフの影響を受けていると公言している選手としては、オランダの[[マルコ・ファン・バステン]]<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.ad.nl/ad/nl/37061/Johan-Cruijff/article/detail/4269961/2016/03/25/Van-Basten-Johan-altijd-mijn-idool-geweest.dhtml|title=Van Basten: Johan altijd mijn idool geweest|publisher=AD.nl|date=2016-03-25|accessdate=2016-03-27}}</ref><ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://nos.nl/artikel/2095149-column-van-basten-cruijff-was-mijn-idool.html|title=Column Van Basten: Cruijff was mijn idool|publisher=NOS|date=2016-03-25|accessdate=2016-03-27}}</ref>や[[フランク・ライカールト]]<ref>[[#フリエロス 2008|フリエロス 2008]]、128-129頁</ref>、フランスの[[ミシェル・プラティニ]]<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://fourfourtwo.com/interviews/one-on-one/147/article.aspx|title=Michel Platini - One-On-One - Interviews|publisher=FourFourTwo|date=2008-05-01|accessdate=2016-04-03}}</ref>や[[ダヴィド・ジノラ]]<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.fourfourtwo.com/features/david-ginola-i-got-call-david-dein-about-midnight-he-wanted-me-arsenal#:HfLs6cBOhPp39A|title=David Ginola: 'I got a call from David Dein at about midnight - he wanted me at Arsenal'|publisher=FourFourTwo|date=2015-01-16|accessdate=2016-04-03}}</ref>、ドイツの[[ピエール・リトバルスキー]]<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.fifa.com/classicfootball/players/do-you-remember/newsid=950285/index.html|title=Littbarski, dribble ace turned coach|publisher= FIFA.com|accessdate=2014-01-04}}</ref>、ルーマニアの[[ゲオルゲ・ハジ]]<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.uefa.com/memberassociations/association=rou/news/newsid=228135.html|title= Hagi at the heart of golden era|publisher=UEFA.com|date=2011-01-19|accessdate=2014-01-04}}</ref>、ブルガリアの[[フリスト・ストイチコフ]]<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.bbc.co.uk/blogs/jonathanstevenson/2010/09/bulgaria_in_shadow_of_class_of.html|title= Bulgarians remain in shadow of class of '94|publisher=BBC SPORT|date=2010-09-02|accessdate=2014-01-04}}</ref>、イングランドの[[ポール・ガスコイン]]<ref>[[#ガスコイン 2006|ガスコイン 2006]]、48頁</ref>、[[日本]]の[[西野朗]]<ref>{{Cite book|和書|chapter=攻めの美学 西野朗・ガンバ大阪前監督 3 クライフを追い続けてきた|title=[[朝日新聞]]|volume=2012年2月14日 13版|year=2012|page=16面}}</ref>らがいる。オランダ代表や所属クラブでも同僚だった[[ヨハン・ニースケンス]]は豊富な運動量とボール奪取能力が持ち味の選手だったが、クライフと同じ「ヨハン」という名前を持つこともあり「ヨハン二世」「第2のヨハン」と呼ばれていた<ref>[[#週刊サッカーマガジン編集 2006|週刊サッカーマガジン編集 2006]]、333頁</ref>。

1980年代から1990年代にはファン・バステンが「クライフの再来」として紹介されたことがあり<ref>{{Cite book|和書|chapter="キング"の座を狙え! 世界に君臨するマラドーナに挑む3人の刺客たち|title=サッカーマガジン|volume=1990年6月号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1990|page=106-107}}</ref>、しばしば比較の対象となっていた<ref name="サカマガ199006">{{Cite book|和書|chapter=1992年欧州年間最優秀選手決定 ファンバステン3度目の受賞 クライフ、プラティニに並ぶ|title=サッカーマガジン|volume=1992年2月21日号|publisher=ベースボール・マガジン社||year=1992|page=174-175}}</ref>。クライフとファン・バステンは同じポジションでプレーし共に高い能力を持ち合わせていたが<ref name="サカマガ199006"/>、クライフがピッチ全体を幅広く動き回り[[指揮者]]の様に振舞ったのに対し<ref name="サカマガ199006"/>、ファン・バステンは得点を挙げることにプレーを特化させるなど<ref name="サカマガ199006"/>、両者のスタイルは明確に異なっていた<ref name="サカマガ199006"/>。ファン・バステンはクライフとの比較について1992年の[[バロンドール]]授賞式の際に「クライフは私以上の才能と強さを持ち、ドリブラーでありストライカーでもある万能型の選手だ。そして日々のトレーニングにも励む努力家でもあった。クライフとの比較は名誉なことだが、私が彼に並ぶことは決してない」と評した<ref>{{Cite book|和書|chapter=ファンバステン三度目の受賞 クライフ、プラティニに並ぶ|title=サッカーマガジン|volume=1993年2月21日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=1993|page=174-175}}</ref>。

[[ブラジル]]のサッカー指導者の[[レヴィー・クルピ]]は[[セレッソ大阪]]時代に指導した日本の[[香川真司]]のプレーについて「香川はピッチのあらゆる場所に現れ、相手の守備陣をすり抜け、シュートを放ち得点を決める。さながら1974年のクライフを思い出させる」としてクライフとの類似性を指摘している<ref name="サッカーキング20120828">{{Cite web|和書|url=http://www.soccer-king.jp/news/world/eng/20120828/68253.html|title= 香川の恩師クルピ監督「シンジは1974年のヨハン・クライフのようだ」|publisher=サッカーキング|date=2012-08-28|accessdate=2014-01-04}}</ref>。

=== 指導者 ===
==== スペイン ====
{{main|ラ・マシア|ティキ・タカ}}
[[ファイル:Manager Josep Guardiola.jpg|thumb|upright|200px|[[ジョゼップ・グアルディオラ]]は「クライフが現代サッカーの基礎を作った」と評している。]]
バルセロナの監督時代に志向した<ref name="Telegraph">{{en icon}} {{Cite web|authorlink=Roberto Martinez|url=http://www.telegraph.co.uk/sport/football/teams/spain/7883131/World-Cup-final-Johan-Cruyff-sowed-seeds-for-revolution-in-Spains-fortunes.html|title=World Cup final: Johan Cruyff sowed seeds for revolution in Spain's fortunes|work=Telegraph.co.uk|date=2010-07-11|accessdate=2014-01-04}}</ref>、パスを繋ぎボール支配率を高めることで試合の主導権を握り続ける攻撃的なサッカースタイルは、監督が代わった後も下部組織([[カンテラ]])を通じてクラブのサッカースタイルとして浸透した<ref name="asahi"/><ref name="Telegraph"/><ref name="サカマガ20100727">{{Cite book|和書|author=北條聡|chapter=クライフ主義か反クライフ主義か 遺伝子を巡る『兄弟対決』|title=週刊サッカーマガジン|volume=2010年7月27日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=2010|page=10-11}}</ref><ref name="スポーツナビ20110711">{{Cite web|和書|author=セルヒオ・レビンスキー|url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/wcup/10southafrica/columndtl/201007100004-spnavi|archiveurl=https://web.archive.org/web/20140104204425/http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/wcup/10southafrica/columndtl/201007100004-spnavi|title=W杯の勝者はオランダサッカー 決勝プレビュー|publisher= スポーツナビ|archivedate=2014-01-04|accessdate=2014-01-04}}</ref>。監督時代の教え子である[[ジョゼップ・グアルディオラ]]は2008年から2012年までチームを率いてドリームチームの打ち立てたタイトル獲得数を上回る結果を残したがグアルディオラ指揮下のバルセロナでは、通常であれば守備時には自陣へ下がりゴール前に守備ブロックを形成し相手の攻撃に対処するのに対し<ref name="バルサ観戦術">{{Cite book|和書|chapter=バルサ観戦術 最強集団の取説123|title=週刊サッカーマガジン|volume=2011年12月27日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=2011|page=23}}</ref>、相手にボールを奪われた際には即座に複数の選手でチェックを掛けて相手陣内にいる内にボールを奪い返し<ref name="バルサ観戦術"/>、奪い返せない際にもパスコースを限定させミスを誘発させ奪い返す前線からの積極的な守備を採用することで<ref name="サカマガ20111227"/><ref name="バルサ観戦術"/>、クライフ時代に欠点と言われた守備面の修正を施した<ref name="サカマガ20111227"/>。

このことから、ドリームチーム時代の主力選手である[[ロナルド・クーマン]]は「チームとしての安定度と守備組織において、グアルディオラが率いるチームはかつてのドリームチームより優れている」と評したが<ref>{{Cite web|和書|url=https://news.livedoor.com/article/detail/5538832/|title=クーマン絶賛「グアルディオラ監督のバルサは“ドリーム・チーム”より上」|work=ライブドアニュース|date=2011-05-06|accessdate=2021-09-18|archive-url=https://web.archive.org/web/20210916045614/https://news.livedoor.com/article/detail/5538832/ |archive-date=2021-09-16 |url-status=dead |url-status-date=2024-09-17}}</ref>、クライフは「グアルディオラの成功はカンテラ出身の選手が多く存在するからこそ可能なのであり、20年に渡るサイクルの一つに過ぎない。2つのチームを比較して優劣を決めるより、20年という長いサイクルにおいての成功について評価するべきだ」と評した<ref name="Goal.com">{{Cite web|和書|title=クライフ氏:「バルサの哲学の成功」バルサのサイクルは20年前から始まったとの見解|url=http://www.goal.com/jp/news/73/スペイン/2011/05/16/2489233/クライフ氏:「バルサの哲学の成功」|work=Goal.com|date=2011-05-16|accessdate=2014-01-04}}</ref>。

また[[シャビ・エルナンデス]]や[[アンドレス・イニエスタ]]、[[セスク・ファブレガス]]といったバルセロナのカンテラ出身選手を多数擁する2000年代以降の[[サッカースペイン代表|スペイン代表]]はバルセロナのサッカースタイルを模倣しているとも言われ<ref name="サカマガ20100727"/><ref name="スポーツナビ20110711"/><ref>{{Cite web|first=Rob|last=Hughes|url=http://www.nytimes.com/2010/07/10/sports/soccer/10iht-WCSOCCER.html|title=Talent to Spare, but There’s Only One Trophy|work=[[ニューヨーク・タイムズ|New York Times]]|date=2010-07-09|accessdate=2014-01-04}}</ref>、同代表チームが[[2006 FIFAワールドカップ]]に出場した際に見せたパスを丁寧に繋ぐサッカーはスペイン国内で「[[ティキ・タカ]]」 (tiqui-taca) として紹介されると<ref name="Lavric, Pisek">{{Cite book|author=Eva Lavric, Gerhard Pisek|title=The linguistics of football|publisher=Gunter Narr Verlag|year=2008|isbn=978-3-8233-6398-9|page=354}}</ref>、やがてヨーロッパ中にその名が知れ渡るようになった<ref name="Lavric, Pisek"/>。ティキ・タカとは[[玩具]]の[[アメリカンクラッカー]]を鳴らす時に発生する音を字句で表した[[擬声語]]である<ref name="Lavric, Pisek"/>。同代表チームは[[UEFA EURO 2008|UEFA欧州選手権2008]]では[[ルイス・アラゴネス]]、[[2010 FIFAワールドカップ]]や[[UEFA EURO 2012|UEFA欧州選手権2012]]では[[ビセンテ・デル・ボスケ]]に率いられて、それぞれ優勝を果たしたが、前述の「ティキ・タカ」は代表チームのサッカースタイルとして継承されている<ref name="Telegraph"/>。

==== オランダ ====
[[ルイ・ファン・ハール]]は1991年からアヤックスの監督に就任するとクライフ監督時のシステムに修正を施した3-4-3システムを採用<ref name="長坂162"/>。選手に組織立ったプレーと規律を徹底させ<ref name="長坂162"/>、国内リーグ3連覇を果たし国際舞台においても[[UEFAカップ1991-92]]優勝や[[UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95]]優勝に導いた。1997年からはバルセロナの監督に就任し、アヤックス時代に育成した多くの教え子達を加入させて重用し組織的サッカーを実践したが、クライフ以上にシステムや個々の役割にこだわり<ref name="Number797"/>、選手の才能よりも自らのゲームプランを遂行させることを重視した<ref name="Number797"/>。クライフはファン・ハールの監督としての実績は認めながらも、指導方針については「彼のサッカーに対する哲学と私の哲学とは相反する<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、230頁</ref>」「私は現場でのプレーの実践こそが基本と考えているが、彼は自らの理論とデスクワークに時間を費やす。最良の指導とは戦術の講義ではなく、ピッチ上でプレーを実践し学習することだ<ref name="サントス231-232">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、231-232頁</ref>」と否定的な立場を採っている。

[[フース・ヒディンク]]はオランダ代表監督として[[1998 FIFAワールドカップ]]で指揮を執り同国を1978年大会以来20年ぶりのベスト4進出へと導いたが、その際に「このチームの強さは1974年大会のチームと異なり、クライフのような1人の選手に依存しない点にある」と評した<ref>[[#グランヴィル 2002|グランヴィル 2002]]、576-577頁</ref>。

2007年にはU-21オランダ代表監督を務めていた{{仮リンク|フォッペ・デ・ハーン|en|Foppe de Haan}}が「クライフの主唱する前線に2人のウィンガーを配するシステムは時代遅れであり現代サッカーには適さない」と主張し、クライフとの間で論争が行われた<ref name="ウィナー372-373">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、372-373頁</ref>。デ・ハーンは持論に従い4-4-2フォーメーションを採用して[[UEFA U-21欧州選手権]]において優勝に導いたことで世論の支持を集め<ref name="ウィナー374-376">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、374-376頁</ref>、オランダ代表においてもこのフォーメーションを採用するべきだとの批判が沸き起こった<ref name="ウィナー374-376"/>。また、ファン・バステンの率いたオランダ代表のUEFA欧州選手権2008での敗退やデ・ハーンとの論争を受けて、評論家の{{仮リンク|ヘンク・スパーン|nl|Henk Spaan}}や[[サイモン・クーパー]]らもクライフの思想を批判した<ref name="ウィナー372-373"/><ref name="ウィナー374-376"/>。

ファン・バステンの後任としてオランダ代表監督に就任した[[ベルト・ファン・マルワイク]]も同様に4-2-3-1フォーメーションとカウンター攻撃を採用したが<ref name="Number plus"/>、こうしたオランダ代表の傾向についてクライフは一定の理解を示す一方で、「美しくない」と批判的な立場を執っていた<ref name="Number plus"/><ref name="サカマガ20100727"/>。[[2010 FIFAワールドカップ・決勝]]ではスペインとオランダというクライフの影響を受けた代表チーム同士が対戦しスペインが勝利したが、クライフは「スペインの勝利は私の思想が間違いではなかったことを証明した」と評した<ref name="サカマガ20100727"/>。

==== その他 ====
[[アルゼンチン]]の[[ホルヘ・バルダーノ]]はクライフに追随し1990年代に[[CDテネリフェ]]や[[レアル・マドリード]]を率いて攻撃的なスタイルを標榜したが、クライフは「彼は友人であり私と近いコンセプトを持ち合わせている。われわれは魅力的なサッカーを披露しつつ結果を残す、という理想を信じることのない人々と立ち向かっているのだ」と評した<ref name="サントス144">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、144頁</ref>。

[[バレエダンサー]]の[[ルドルフ・ヌレエフ]]はクライフの移動の素早く、頭の回転も速く、プレーのスピードもあって早口だった彼のプレースタイルに魅了されていたといい、クライフを「[[チェスプレイヤー]]の頭脳を持ったダンサー」と称している<ref>{{Cite book|和書|author=レミー・ラコンブ著、安藤正純訳|chapter=革命に生きたカリスマ68年の偉大なる生涯|title=[[サッカー批評]]|volume=issue 80|publisher=双葉社|year=2016|page=12-13}}</ref>。

2000年代以降、クライフの用いた3-4-3フォーメーションは欧米の主要リーグで見られることは少ないと言われているが<ref name="サッカー批評52">{{Cite book|和書|author=河治良幸|chapter=検証3-4-3 ザッケローニの3-4-3は日本の武器になり得るのか? 前篇|title=サッカー批評|volume=issue 52|publisher=[[双葉社]]|year=2010|page=49-50}}</ref>、アルゼンチンの[[マルセロ・ビエルサ]]や[[イタリア]]の[[アルベルト・ザッケローニ]]のように3-4-3フォーメーションを堅守速攻型の戦術として運用する指導者もいる<ref name="サッカー批評52"/>。クライフが攻撃に特化しパスを繋ぎ常に自分達のチームがボールを保持して試合の主導権を握ることを求めたのに対し、ビエルサは3-4-3フォーメーションを変形させた3-3-1-3フォーメーションを用い全選手が攻守に連動することで主導権を握ることを求めた<ref name="サッカー批評52"/>。一方、ザッケローニの3-4-3は元々は4-4-2フォーメーションを発展させたもので中盤を横一列に配置した変則的な3-4-3フォーメーションが特徴だが<ref>{{Cite book|和書|author=北條聡|chapter=戦術解説 ザック流フットボールとは何か?|title=サッカーマガジン|volume=2010年9月21日号|publisher=ベースボール・マガジン社|year=2010|page=14-15}}</ref>、豊富な運動量をベースに同サイドのフォワード、サイドハーフ、セントラルミッドフィールダーが絡んだサイド攻撃を重視した<ref name="サッカー批評52"/>。

== 評価 ==
=== 選手 ===
選手としては[[アルフレッド・ディ・ステファノ]]<ref name="encyclopedia"/>、[[ペレ]]<ref name="encyclopedia"/>、[[ディエゴ・マラドーナ]]<ref name="encyclopedia"/>、[[フランツ・ベッケンバウアー]]<ref>[[#ピ 2000|ピ 2000]]、72頁</ref>らと並んでサッカー史上に名を残す選手と評される。[[オランダ]]国内では芸術家の[[レンブラント・ファン・レイン]]にたとえ「自らを芸術家として意識し、サッカー競技という芸術を確立させた最初の選手」と評する者もいる<ref name="ウィナー52"/>。一方、選手として成功を収めるとそれまでのプレーが影を潜め100%のプレーを発揮することはなくなったとの指摘もあり<ref name="ストライカー19930717"/>、[[イギリス]]のサッカー専門家のエリック・バッティは「[[UEFAチャンピオンズカップ 1971-72|1972年のチャンピオンズカップ決勝]]がクライフの選手としてのピークであり、バルセロナ時代に[[ヘネス・バイスバイラー]]監督と衝突した原因は試合時のサボり癖によるものだった」と評している<ref name="ストライカー19930717"/>。

=== 指導者 ===
監督としても[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]で[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]優勝、[[FCバルセロナ|バルセロナ]]では[[エル・ドリーム・チーム|ドリームチーム]]と呼ばれるタレント集団を指揮し[[プリメーラ・ディビシオン|国内リーグ]]4連覇や[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]優勝などの実績を残した<ref name="encyclopedia"/>。なお、選手と監督の双方でUEFAチャンピオンズカップ(後身のUEFAチャンピオンズリーグを含む)で優勝した経験を持つ人物は[[ミゲル・ムニョス]]、[[ジョバンニ・トラパットーニ]]、クライフ、[[カルロ・アンチェロッティ]]、[[フランク・ライカールト]]、[[ジョゼップ・グアルディオラ]]、[[ジネディーヌ・ジダン]]の7人のみである<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=https://www.vi.nl/nieuws/bara-evenaart-ajax-en-psv-guardiola-kopieert-cruijff|title=Barca evenaart Ajax en PSV, Guardiola 'kopieert' Cruijff|publisher=Voetbal International|date=2009-05-21|accessdate=2014-01-04}}</ref>。優勝などの実績を残しただけでなく世界各国の優秀な選手を獲得しつつ下部組織の優秀な選手を発掘し、「観客を楽しませながら選手も試合を楽しみ、なおかつ結果を残す」[[エンターテインメント]]性のあるサッカーを実践したと評されている<ref name="サントス144"/>。かつてのドリームチームの一員である[[ルイス・ミジャ]]や[[ジョゼップ・グアルディオラ]]は次のように評している。
{{Quotation|あの当時は慎重に試合を進めるサッカーが全盛の時代だったが、クライフに率いられたドリームチームが攻撃的なスタイルで勝利しタイトルを獲得できることを証明した。結果を残したことでサッカーファンが求める「サッカーとは、いかなるスポーツか」との質問への回答を一変させたのだ<ref name="number767"/>。|ルイス・ミジャ}}
{{Quotation|クライフが現代サッカーの基礎を作り、バルセロナの基礎を作った。それを引き継いで発展させることは、彼に続く指導者達の役割である<ref>[[#クベイロ、ガジャルド 2011|クベイロ、ガジャルド 2011]]、65頁</ref>。|ジョゼップ・グアルディオラ}}
一方、専門家のエリック・バッティは「最も重要な試合の際にクライフは結果のためだけの慎重な試合をしていた」と指摘している<ref>{{Cite book|和書|author=エリック・バッティ|chapter=エリック・バッティのTHE LEGEND 歴史を作ったスゴイ奴 第11回 ヨハン・クライフ(後)|title=ストライカー|volume=1993年8月1日号|publisher=学習研究社|year=1993|page=66-67}}</ref>。

== 個人成績 ==
=== クラブでの成績 ===
1983-84シーズン終了時の成績<ref name="Levante"/><ref name="ajax"/><ref name="Feyenoord"/><ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-barca |title=Playing for FC Barcelona|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160306115835/http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-barca|publisher=Cruijff.com|archivedate=2016-03-06|accessdate=2017-06-24}}</ref><ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-ameri|archiveurl=https://web.archive.org/web/20160602054421/http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-ameri|title=Playing for United States|publisher=Cruijff.com|archivedate=2016-06-02|accessdate=2014-01-04}}</ref>
{{Football player statistics 1|NY}}
|-
|1964-65||rowspan="10"|[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]||rowspan="10"|[[エールディヴィジ]]||10||4||0||0||0||0||10||4
|-
|1965-66||19||16||4||6||0||0||23||22
|-
|1966-67||30||33||5||5||6||3||41||41
|-
|1967-68||33||25||5||6||2||1||40||32
|-
|1968-69||29||24||3||3||10||6||42||33
|-
|1969-70||33||23||5||6||8||4||46||33
|-
|1970-71||25||21||6||5||6||1||37||27
|-
|1971-72||32||25||4||3||9||5||45||33
|-
|1972-73||26||16||0||0||6||3||32||19
|-
|1973-74||2||3||0||0||0||0||2||3
|-
!colspan="3"|小計
!239!!190!!32!!34!!47!!23!!318!!247
|-
|1973-74||rowspan="5"|[[FCバルセロナ]]||rowspan="5"|[[プリメーラ・ディビシオン|プリメーラ]]||26||16||12||8||0||0||38||24
|-
|1974-75||30||7||12||7||8||0||50||14
|-
|1975-76||29||6||10||3||9||2||48||11
|-
|1976-77||30||14||9||6||7||5||46||25
|-
|1977-78||28||5||7||1||10||5||45||11
|-
!colspan="3"|小計
!143!!48!!50!!25!!34!!12!!227!!85
|-
|1979||[[ロサンゼルス・アズテックス|ロサンゼルス]]||[[北米サッカーリーグ|NASL]]||27||14||colspan="2"|-||colspan="2"|-||27||14
|-
!colspan="3"|小計
!27!!14!!0!!0!!0!!0!!27!!14
|-
|1980||[[ワシントン・ディプロマッツ|ワシントン]]||NASL||27||10||colspan="2"|-||colspan="2"|-||27||10
|-
!colspan="3"|小計
!27!!10!!0!!0!!0!!0!!27!!10
|-
|1980-81||[[レバンテUD|レバンテ]]||[[セグンダ・ディビシオン|セグンダ]]||10||2||0||0||0||0||10||2
|-
!colspan="3"|小計
!10!!2!!0!!0!!0!!0!!10!!2
|-
|1981||[[ワシントン・ディプロマッツ|ワシントン]]||NASL||5||2||colspan="2"|-||colspan="2"|-||5||2
|-
!colspan="3"|小計
!5!!2!!0!!0!!0!!0!!5!!2
|-
|1981-82||rowspan="2"|[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]||rowspan="2"|エールディヴィジ||15||7||1||0||0||0||16||7
|-
|1982-83||21||7||7||2||2||0||30||9
|-
!colspan="3"|小計
!36!!14!!8!!2!!2!!0!!46!!16
|-
|1983-84||[[フェイエノールト]]||エールディヴィジ||33||11||7||1||4||1||44||13
|-
!colspan="3"|小計
!33!!11!!7!!1!!4!!1!!44!!13
|-
{{Football player statistics 3|3|NED}} 308 || 215 || 47 || 37 || 53 || 24 || 408 || 276
{{Football player statistics 4|ESP}} 153 || 50 || 50 || 25 || 34 || 12 || 237 || 87
{{Football player statistics 4|USA}} 59 || 26 ||colspan="2"|-||colspan="2"|-|| 59 || 26
{{Football player statistics 5}}520|| 291 || 97 || 62 || 87 || 36 || 704 || 389
{{Football player statistics end}}

=== 代表での成績 ===
オランダ代表として最後の試合となった1977年10月26日のベルギー戦までの出場数<ref name="rsssf"/>
{| class="wikitable" style="text-align:center"
!colspan="7"|[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]
|-
!rowspan="2"|年
!colspan="2"|国際大会
!colspan="2"|親善試合
!colspan="2"|合計
|- style="background:beige"
!出場!!得点!!出場!!得点!!出場!!得点
!出場!!得点!!出場!!得点!!出場!!得点
|-
|-
|1966
|1964-65||rowspan="10"|[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]||rowspan="10"|[[エールディヴィジ]]||||10||4||0||0||0||0
| 1 || 1 || 1 || 0 || 2 || 1
|-
|-
|1967
|1965-66||||19||16||4||9||0||0
| 2 || 1 || 1 || 0 || 3 || 1
|-
|-
|1968
|1966-67||||30||33||5||5||6||3
| 0 || 0 || 1 || 0 || 1 || 0
|-
|-
|1969
|1967-68||||33||25||5||6||2||1
| 2 || 1 || 1 || 0 || 3 || 1
|-
|-
|1970
|1968-69||||29||24||3||3||10||6
| 0 || 0 || 2 || 2 || 2 || 2
|-
|-
|1971
|1969-70||||33||23||5||6||8||4
| 3 || 5 || 1 || 1 || 4 || 6
|-
|-
|1972
|1970-71||||25||21||6||5||6||1
| 2 || 2 || 3 || 3 || 5 || 5
|-
|-
|1973
|1971-72||||32||25||4||3||9||5
| 4 || 5 || 2 || 1 || 6 || 6
|-
|-
|1974
|1972-73||||26||16||0||0||6||3
| 9 || 7 || 3 || 1 || 12 || 8
|-
|-
|1975
|1973-74||||2||3||0||0||0||0
| 2 || 0 || 0 || 0 || 2 || 0
|-
|-
|1976
|1973-74||rowspan="5"|[[FCバルセロナ]]||rowspan="5"|[[プリメーラ・ディビシオン|プリメーラ]]||||26||16||12||8||0||0
| 4 || 2 || 0 || 0 || 4 || 2
|-
|-
|1977
|1974-75||||30||7||12||7||8||0
| 3 || 1 || 1 || 0 || 4 || 1
|- style="background:beige"
! 通算 || 32 || 25 || 16 || 8 || 48 || 33
|-
|-
|}
|1975-76||||29||6||10||3||9||2

オランダ代表として最後の試合となった1977年10月26日のベルギー戦までの得点数<ref name="rsssf"/>
{| class="wikitable mw-collapsible mw-collapsed"
|-
|-
! # !! 開催日 !! 開催地 !! 対戦チーム !! スコア !! 結果 !! 試合概要
|1976-77||||30||14||9||6||7||5
|-
|-
| 1. || 1966年9月7日 || [[オランダ]]、[[ロッテルダム]] || {{HUN1957f}} || 2-0 || 2-2 ||rowspan="2"| [[UEFA欧州選手権1968予選]]
|1977-78||||28||5||7||1||10||5
|-
|-
| 2. || 1967年9月13日 || オランダ、[[アムステルダム]] || {{fb|DDR}} || 1-0 || 1-0
|1979||[[ロサンゼルス・アズテックス|ロサンゼルス]]||rowspan="2"|[[北米サッカーリーグ|NASL]]||||27||14||-||-||-||-
|-
|-
| 3. || 1969年3月26日 || オランダ、ロッテルダム || {{fb|LUX}} || 1-0 || 4-0 || [[1970 FIFAワールドカップ・予選|1970 FIFAワールドカップ予選]]
|1980||[[ワシントン・ディプロマッツ|ワシントン]]||||27||10||-||-||-||-
|-
|-
| 4. ||rowspan="2"| 1970年12月2日 ||rowspan="2"| オランダ、アムステルダム ||rowspan="2"| {{ROM1965f}} || 1-0 ||rowspan="2"| 2-0 ||rowspan="2"| 親善試合
|1980-81||[[レバンテUD|レバンテ]]||[[セグンダ・ディビシオン|セグンダ]]||||10||2||0||0||0||0
|-
|-
| 5. || 2-0
|1981||ワシントン||NASL||||5||2||-||-||-||-
|-
|-
|1981-82||rowspan="2"|アヤックス||rowspan="3"|エーディヴィジ||||15||7||1||0||0||0
| 6. ||rowspan="2"| 1971年2月24日 ||rowspan="2"| オランダ、ロッテダム ||rowspan="2"| {{fb|LUX}} || 3-0 ||rowspan="2"| 6-0 ||rowspan="5"| [[UEFA欧州選手権1972予選]]
|-
|-
| 7. || 4-0
|1982-83||||21||7||7||2||2||0
|-
|-
| 8. ||rowspan="3"| 1971年11月17日 ||rowspan="3"| オランダ、[[アイントホーフェン]] ||rowspan="3"| {{fb|LUX}} || 1-0 ||rowspan="3"| 8-0
|1983-84||[[フェイエノールト]]||||33||11||7||1||4||1
|-
|-
| 9. || 8-0
!rowspan="4"|通算
!colspan="3"|オランダ・エールディヴィジ||308||215||48||40||29||21
|-
|-
| 10. || 7-0
!colspan="3"|スペイン・[[プリメーラ・ディビシオン]]||143||48||50||25||34||12
|-
|-
| 11. || 1971年12月1日 || オランダ、アムステルダム || {{fb|SCO}} || 1-0 || 2-1 ||rowspan="4"| 親善試合
!colspan="3"|スペイン・[[セグンダ・ディビシオン]]||10||2||0||0||0||0
|-
|-
| 12. ||rowspan="2"| 1972年2月16日 ||rowspan="2"| [[ギリシャ]]、[[アテネ]] ||rowspan="2"| {{GRE1928f}} || 3-0 ||rowspan="2"| 5-0
!colspan="3"|アメリカNASL||59||26||-||-||-||-
|-
|-
| 13. || 5-0
! colspan="4" | 合計 !!520!!293!!98!!65!!88!!37
|-
| 14. || 1972年8月30日 || [[チェコスロバキア]]、[[プラハ]] || {{fb|TCH}} || 1-0 || 2-1
|-
| 15. ||rowspan="2"| 1972年11月1日 ||rowspan="2"| オランダ、ロッテルダム ||rowspan="2"| {{fb|NOR}} || 4-0 ||rowspan="2"| 9-0 ||rowspan="2"| [[1974 FIFAワールドカップ・予選|1974 FIFAワールドカップ予選]]
|-
| 16. || 8-0
|-
| 17. || 1973年5月2日 ||rowspan="3"| オランダ、アムステルダム || {{ESP1945f}} || 3-2 || 3-2 || 親善試合
|-
| 18. ||rowspan="2"| 1973年8月22日 ||rowspan="4"| {{fb|ISL}} || 2-0 ||rowspan="2"| 5-0 ||rowspan="5"| 1974 FIFAワールドカップ予選
|-
| 19. || 5-0
|-
| 20. ||rowspan="2"| 1973年8月29日 ||rowspan="2"| オランダ、[[デーフェンテル]] || 2-0 ||rowspan="2"| 8-1
|-
| 21. || 4-0
|-
| 22. || 1973年9月12日 || [[ノルウェー]]、[[オスロ]] || {{fb|NOR}} || 1-0 || 2-1
|-
| 23. ||rowspan="2"| 1974年6月26日 ||rowspan="2"| [[西ドイツ]]、[[ゲルゼンキルヒェン]] ||rowspan="2"| {{fb|ARG}} || 1-0 ||rowspan="2"| 4-0 ||rowspan="3"| [[1974 FIFAワールドカップ]]
|-
| 24. || 4-0
|-
| 25. || 1974年7月3日 || 西ドイツ、[[ドルトムント]] || {{fb|BRA}} || 2-0 || 2-0
|-
| 26. || 1974年9月4日 || [[スウェーデン]]、[[ストックホルム]] || {{fb|SWE}} || 1-0 || 5-1 || 親善試合
|-
| 27. ||rowspan="2"| 1974年9月25日 ||rowspan="2"| [[フィンランド]]、[[ヘルシンキ]] ||rowspan="2"| {{fb|FIN}} || 1-1 ||rowspan="2"| 3-1 ||rowspan="5"| [[UEFA欧州選手権1976予選]]
|-
| 28. || 2-1
|-
| 29. ||rowspan="2"| 1974年11月20日 ||rowspan="2"| オランダ、ロッテルダム ||rowspan="2"| {{fb|ITA}} || 2-1 ||rowspan="2"| 3-1
|-
| 30. || 3-1
|-
| 31. || 1976年5月22日 || [[ベルギー]]、[[ブリュッセル]] || {{fb|BEL}} || 2-1 || 2-1
|-
| 32. || 1976年10月13日 || オランダ、ロッテルダム || {{fb|NIR}} || 2-1 || 2-2 ||rowspan="2"| [[1978 FIFAワールドカップ・予選|1978 FIFAワールドカップ予選]]
|-
| 33. || 1977年3月26日 || ベルギー、[[アントウェルペン]] || {{fb|BEL}} || 2-0 || 2-0
|}
|}


=== 監督成績 ===
<!--
{{updated|2013-01-02}}<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://leden.ajax.nl/web/show/id=65486|archiveurl=https://web.archive.org/web/20120406203110/http://leden.ajax.nl/web/show/id%3D65486|title=Johan Cruijff|publisher=ajax.nl|archivedate=2012-04-06|accessdate=2014-01-04}}</ref><ref>{{es icon}} {{Cite web|url=http://arxiu.fcbarcelona.cat/web/downloads/diari/pdf/2009-2010/DIARI_BCN_97_FCB-RACING_BAIXA.pdf|title=Tècnics que han superat els 100 partits|publisher=Barça Camp Nou|format=PDF|page=9|accessdate=2014-01-04}}</ref>
2年半ほど経っているのに出典がないままのようですので、一度コメントアウトします。出典があるもののみ、復帰させていくのがいいかと思います。
{| class="wikitable" style="text-align: center"
== 語録 ==
! rowspan="2!" style="width:150px;"|チーム
{{出典の明記|section=1|date=2008年5月}}
! rowspan="2!" style="width:95px;"|就任
クライフはフットボールを語る際の、その独特の言い回しで数々の至言・名言を発している。また言葉遣いが独特なため記者達からは「クライフはオランダ語も英語もスペイン語も、何語で喋っても分かりづらい」と言われることがある。
! rowspan="2!" style="width:95px;"|退任
* 「サッカーは間違いのゲームだ。間違いの少ないチームが勝つ」
!colspan="5"|記録
* 「美しく敗れる事を恥と思うな、無様に勝つことを恥と思え」
|-
* 「『W杯と最優秀選手賞のどちらが欲しいか』と聞かれたら、私は迷わず最優秀選手賞が欲しいと答える。理由は簡単だ。優勝したチームが魅力的だとは限らない、だが最優秀選手賞は世界で一番魅力的なフットボールをした選手に贈られるものだから」
!width=40|試合
* 「[[FCバルセロナ|バルセロナ]]に移籍するか、そうでなければ私はフットボール界から引退する」 ―アヤックスからの移籍が揉めた際に発したコメント
!width=40|勝利
* 「1-0で守り切って勝つより、4-5で攻め切って負ける方が良い」
!width=40|引分
* 「ワンタッチこそ最高の技術だ」
!width=40|敗戦
* 「ダメな奴らが走るんだ。相手をもっと走らせろ」
!width=50|勝率
* 「月並みなやり方をするくらいなら、自分のアイデアと共に心中した方がマシだ」
|-
* 「いくら技術に優れ、スーパースターでも…、その上には、勝者が、チャンピオンがいる…」 ―1974年W杯決勝戦後のコメント。「スーパースター」とはクライフ自身を指し、「勝者・チャンピオン」とは同大会で優勝したベッケンバウアー率いる西ドイツ代表チームのこと
|align="left"|[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]
* 「だって9番といえば[[アルフレッド・ディ・ステファノ|ディ・ステファノ]]。10番は[[ペレ]]。私がそんな番号付けたら紛らわしいじゃないか」 ―どうして14番なんて番号を選んだのか?と聞かれた時のコメント
|align="left"|1985年6月
* 「[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]とは[[サグラダ・ファミリア]]のようなもの。どちらも1日でできあがるわけではない」
|align="left"|1988年1月
* 「ボールを回せ、ボールは汗をかかない」
{{WDL|117|86|10|21}}
* 「フットボールでは100mより30mから40mを速く走ることが重要。だがもっと重要なのは『いつ』走るかだ」
|-
* 「私はフットボールを始めて以来多くの選手を見てきたが、みんな私より下手だった。私は下手な選手を誰よりも見続けてきた。だから彼らの気持ちはよくわかる」
|align="left"|[[FCバルセロナ]]
* 「私は新しいディ・ステファノになれるかもしれないが、新しいペレにはなれない。彼は唯一、理論を越えている」
|align="left"|1988年5月
* 「理想のフットボールとは、常に勝ち続けること。スペクタクルでファンタスティックなプレーで」
|align="left"|1996年5月
* 「フットボールの試合は、まず観客を楽しませなければならない」
{{WDL|430|250|97|83}}
* 「私が思い出すのは、私が一番優れていたことだけだ」
|-
* 「ボール無しでもゲームを支配することは可能だし、ボール有りでも可能である」
|align="left"|[[サッカーカタルーニャ代表|カタルーニャ選抜]]
* 「[[イングランド]]のフットボールは見ている分には最もおもしろい。選手が危険を冒し、たくさんミスをするからだ」
|align="left"|2009年11月
* 「まずボールをコントロールする、それがすべての基盤だ。もしボールをコントロールできないなら、ボールを追って走る事になる。それは別のスポーツだ」
|align="left"|2013年1月
* 「良い監督は、あるプレーヤーの短所を別のプレーヤーの長所でカモフラージュする」
{{WDL|4|2|2|0}}
* 「才能ある若手にこそ挫折を経験させなければならない。 挫折はその選手を成長させる最大の良薬だからである」
|-
* 「ボールを持てば私が主役だ。決定するのは私で、だから創造するのは私だ」
!colspan="3"|合計
* 「本当に素晴らしいフットボールは、国境を越え、自分の属する国籍までも忘れさせ、人々を熱狂させる。外交官や政治家に出来ないことを、フットボールはやってのけられるんだ」
{{WDLtot|551|338|109|104}}
* 「人間は失敗することでしか学べない。大事な場面でミスを起こしたくないのなら、一度そのミスを起こすしか無い。」
|}
-->

== タイトル ==
=== 選手 ===
; アヤックス
* [[エールディヴィジ]] (8) : 1965-66, 1966-67, 1967-68, 1969-70, 1971-72, 1972-73, 1981-82, 1982-83<ref name="number901-52-57"/>
* [[KNVBカップ]] (5) : 1966-67, 1969-70, 1970-71, 1971-72, 1982-83<ref name="number901-52-57"/>
* [[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]] (3) : 1970-71, 1971-72, 1972-73<ref name="number901-52-57"/>
* [[UEFAスーパーカップ]] (2) : 1972, 1973<ref name="number901-52-57"/>
* [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]] (1) : 1972<ref name="number901-52-57"/>
; バルセロナ
* [[プリメーラ・ディビシオン|ラ・リーガ]] (1) : 1973-74<ref name="number901-52-57"/>
* [[コパ・デル・レイ]] (1) : 1977-78<ref name="number901-52-57"/>
; フェイエノールト
* エールディヴィジ (1) : 1983-84<ref name="number901-52-57"/>
* KNVBカップ (1) : 1983-84<ref name="number901-52-57"/>

=== 監督 ===
; アヤックス
* [[KNVBカップ]] (2) : 1985-86, 1986-87<ref name="number901-52-57"/>
* [[UEFAカップウィナーズカップ]] (1) : 1987<ref name="number901-52-57"/>
; バルセロナ
* [[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]] (1) : 1991-92<ref name="number901-52-57"/>
* [[UEFAカップウィナーズカップ]] (1) : 1989<ref name="number901-52-57"/>
* [[UEFAスーパーカップ]] (1) : 1992<ref name="number901-52-57"/>
* [[プリメーラ・ディビシオン|ラ・リーガ]] (4) : 1990-91, 1991-92, 1992-93, 1993-94<ref name="number901-52-57"/>
* [[コパ・デル・レイ]] (1) : 1989-90<ref name="number901-52-57"/>
* [[スーペルコパ・デ・エスパーニャ]] (3) : 1991, 1992, 1994<ref name="AD20160324"/>

== 個人タイトル ==
=== 選手 ===
* [[バロンドール]](欧州年間最優秀選手賞)(3){{#tag:ref|同賞を3度受賞した経験のある選手はクライフの他に[[ミシェル・プラティニ]]、[[マルコ・ファン・バステン]]、[[リオネル・メッシ]]の4名がいる。|group=注}}: 1971, 1973, 1974<ref name="バーランド、ファンドープ227-228"/>
* [[オランダ年間最優秀選手賞]] (3) : 1968, 1972, 1984<ref name="AD20160324">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.ad.nl/ad/nl/37061/Johan-Cruijff/article/detail/4269357/2016/03/24/Johan-Cruijff-op-68-jarige-leeftijd-overleden.dhtml|title=Johan Cruijff op 68-jarige leeftijd overleden|publisher=AD.nl|date=2016-03-24|accessdate=2016-04-05}}</ref>
* [[エールディヴィジ]]得点王 (2) : 1967, 1972<ref name="number901-52-57"/>
* [[オランダ スポーツマンオブザイヤー|オランダ年間最優秀スポーツ選手賞]] (2) : 1973, 1974<ref name="number901-52-57"/>
* [[ドン・バロン・アワード]]年間最優秀外国人選手 (2) : 1977, 1978<ref name="don balon">{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/spanpoy.html|title=Spain - Footballer of the Year|publisher=rsssf.com|accessdate=2016-04-05}}</ref>
* [[北米サッカーリーグ]]年間最優秀選手 (1) : 1979<ref name="number901-52-57"/>
* [[ワールドサッカー (雑誌)#20世紀の偉大なサッカー選手100人|ワールドサッカー選定 20世紀の偉大なサッカー選手100人]] 3位 : 1999
* [[20世紀ワールドチーム]] : 1998<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.nytimes.com/1998/06/10/sports/10iht-soccer.t_2.html|title=A Wave of Enthusiasm for the Lingua Franca of Kicking a Ball : From Pele and the Streets, Hope|work=[[ニューヨーク・タイムス|NYTimes.com]]|date=1998-06-10|accessdate=2014-01-04}}</ref>
* [[ワールドサッカー (雑誌)|ワールドサッカー誌選定20世紀の偉大なサッカー選手100人]] 3位 : 1999
* [[国際サッカー歴史統計連盟]] (IFFHS) 20世紀最優秀選手 2位 : 1999<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/iffhs-century.html#worldpoc|title=World - Player of the Century|work=rsssf.com|accessdate=2014-01-04}}</ref>
* 国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 20世紀欧州最優秀選手 : 1999<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/iffhs-century.html#eupoy|title=Europe - Player of the Century|work=rsssf.com|accessdate=2014-01-04}}</ref>
* 国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 20世紀オランダ最優秀選手 : 1999<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/iffhs-century.html#nedpoy|title=Netherlands - Player of the Century|work = rsssf.com|accessdate=2014-01-04}}</ref>
* [[フランス・フットボール]]選定20世紀最優秀選手 3位 : 1999<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/best-x-players-of-y.html#ff-poc|title=France Football's Football Player of the Century|work=rsssf.com|accessdate=2014-01-04}}</ref>
* [[UEFAジュビリーアウォーズ]]オランダ最優秀選手 : 2003<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.uefa.com/news/newsid=130150.html|title=Golden Players take centre stage|publisher=UEFA.com|date=2003-11-29|accessdate=2016-04-08}}</ref>
* [[FIFA 100]] : 2004<ref>{{en icon}} {{Cite news|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/3533891.stm|title=Pele's list of the greatest list|publisher=BBC SPORT|date=2004-03-04|accessdate=2014-01-04}}
</ref>

=== 監督 ===
* [[ワールドサッカー (雑誌)|ワールドサッカー誌選定世界最優秀監督賞]] (1) : 1987<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/wsoc-awards.html|title="World Soccer" Awards|work=rsssf.com|accessdate=2017-06-24}}</ref>
* [[ドン・バロン・アワード]]年間最優秀監督 (2) : 1991, 1992<ref name="don balon"/>
* [[オンズドール]]年間最優秀監督 (2) : 1992, 1994<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/onze-awards.html|title="Onze Mondial" Awards|work=rsssf.com|accessdate=2017-06-24}}</ref>
* UEFA歴代最高監督 : 2017<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.uefa.com/uefachampionsleague/news/newsid=2435568.html|title=Coaching greats in profile|publisher=uefa.com|date=2017-01-13|accessdate=2017-06-24}}</ref>

=== その他 ===
* {{仮リンク|フランシナ・ブランカース=クン キャリア賞|nl|Fanny Blankers-Koen Carrièreprijs}} : 2005<ref>{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.olympischsporterfgoed.nl/cms/showpage.aspx?id=9837|title=Fanny Blankers-Koen Carrièreprijs|publisher=NOC*NSF|accessdate=2016-04-08}}</ref>
* [[ローレウス世界スポーツ賞]]生涯功労賞 : 2006<ref name="AD20160324"/>
* [[FIFA功労賞]] : 2010<ref name="AD20160324"/>
* UEFA会長賞 : 2013<ref>{{Cite web|和書|url=http://jp.uefa.com/news/newsid=2056492.html?cid=PULSE_TW|title=クライフ氏、会長賞受賞に「誇り」|publisher=uefa.com|date=2014-02-16|accessdate=2014-02-22}}</ref>

== 栄典 ==
* {{仮リンク|オラニエ=ナッサウ勲章|en|Order of Orange-Nassau}}騎士位 : 1974<ref name="De Standaard">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.standaard.be/artikel/detail.aspx?artikelid=NFLD10042002_008|title=Johan Cruijff Officier in de Orde van Oranje Nassau VOETBAL|work=De Standaard|date=2002-04-10|accessdate=2014-01-04}}</ref>
* オラニエ=ナッサウ勲章士官位 : 2002<ref name="De Standaard"/>
* [[サン・ジョルディ十字勲章]] : 2006<ref>{{ca icon}} {{Cite web|url=http://www.enciclopedia.cat/enciclopèdies/gran-enciclopèdia-catalana/EC-GEC-0020640.xml#.UsdzIbuIrfM|title=Creu de Sant Jordi|work=enciclopedia.cat|accessdate=2014-01-04}}</ref>
* {{仮リンク|レアル・オルデン・デル・メリト・デポルティーボ|es|Real Orden del Mérito Deportivo}} : 2016<ref>{{es icon}} {{Cite web|url=http://www.lavanguardia.com/deportes/futbol/20160329/40732189628/johan-cruyff-mariano-rajoy-medalla-de-oro-al-merito-deportivo.html|title=El Gobierno concede a Cruyff la medalla de Oro al Mérito Deportivo|publisher=La Vanguardia|date=2016-03-29|accessdate=2016-04-05}}</ref>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist}}
{{Reflist|group="注"}}
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書
|author= 安藤正純
|title= サッカーについて僕たちが本音で語った本
|publisher= [[東邦出版]]
|year= 2008
|isbn=4809406733
|ref= 安藤 2008
}}
* {{Cite book|和書
|author= 岩永修幸
|title= 蹴球神髄―サッカーの名言集
|publisher= [[出版芸術社]]
|year= 2005
|isbn= 4882932695
|ref= 岩永 2005
}}
* {{Cite book|和書
|author= [[岡部明子]]
|title= バルセロナ--地中海都市の歴史と文化
|publisher= [[中央公論新社]]
|series = [[中公新書]]
|year= 2010
|isbn= 4121020715
|ref= 岡部 2010
}}
* {{Cite book|和書
|author= [[大住良之]]
|title= 新・サッカーへの招待
|publisher = [[岩波書店]]
|series = [[岩波新書]]
|year= 1998
|isbn= 400430556X
|ref= 大住 1998
}}
* {{Cite book|和書
|author= 大住良之
|title= 理想のフットボール 敗北する現実
|publisher= [[双葉社]]
|series = サッカー批評叢書
|year= 2004
|isbn= 4575296597
|ref= 大住 2004
}}
* {{Cite book|和書
|author= 木崎伸也、若水大樹
|title= 増補改訂版 クライフ哲学ノススメ-試合の流れを読む14の鉄則
|publisher= [[ガイドワークス]]
|series = サッカー小僧新書EX005
|year= 2013
|isbn= 4865350241
|ref= 木崎、若水 2013
}}
* {{Cite book|和書
|author= [[木村浩嗣]]
|chapter= 混迷する名門クラブ FCバルセロナ ヨハン・クライフの遺した功罪
|title= Spain 情熱の国の血と誇り。Wild Fanatics of Football
|publisher = [[文藝春秋]]
|series= [[Sports Graphic Number]] PLUS
|year = 2003
|isbn = 4160081290
|ref= 木村 2003
}}
* {{Cite book|和書
|author = 国吉好弘
|others = [[サッカーマガジン|週刊サッカーマガジン]]責任編集
|title = サッカーマルチ大事典 改訂版
|publisher = [[ベースボール・マガジン社]]
|year = 2006
|isbn = 4583038801
|ref = 国吉 2006
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[武智幸徳]]
|chapter = サッカーの未来を変えた革命家 ヨハン・クライフ
|title = ワールドカップ伝説 vol.4(’70年代編)―永久保存版 偉大なる開拓者たちの時代
|publisher = ベースボール・マガジン社
|series = B・B MOOK 666 スポーツシリーズ NO. 538
|year = 2010
|isbn = 4583616791
|ref = 武智 2010
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[戸塚啓]]
|title= 新・サッカー戦術論
|publisher = [[成美堂出版]]
|year = 2010
|isbn = 4415308422
|ref = 戸塚 2010
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[長坂寿久]]
|title = オランダを知るための60章
|series = エリア・スタディーズ
|publisher = [[明石書店]]
|year = 2007
|isbn = 475032518X
|ref = 長坂 2007
}}
* {{Cite book|和書
|author = 西部謙司
|title = 神の足 サッカースーパースター技術録
|publisher = [[コスミック出版]]
|series = COSMO BOOKS
|year = 2010
|isbn = 4774790397
|ref = 西部 2010
}}
* {{Cite book|和書
|author = カルラス・サンタカナ・イ・トーラス
|translator = [[山道佳子]]
|title = バルサ、バルサ、バルサ! スペイン現代史とフットボール 1968-78
|publisher = [[彩流社]]
|year = 2007
|isbn = 4779112656
|ref = トーラス 2007
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[サイモン・クーパー]]
|translator = 柳下穀一郎
|title = アヤックスの戦争-第二次世界大戦と欧州サッカー
|publisher = [[白水社]]
|year = 2005
|isbn = 456004970X
|ref = クーパー 2005
}}
* {{Cite book|和書
|author = ジョン・ピ
|translator = ノバジカ
|chapter = ヨハン・クライフ 勝者の魂
|title = スポーツ20世紀Vol.1 サッカー 英雄たちの世紀
|publisher = ベースボール・マガジン社
|series = B.B.mook (125)
|year = 2000
|isbn = 458361084X
|ref = ピ 2000
}}
* {{Cite book|和書
|author = ジョナサン・ウィルソン
|translator = 野間けい子
|title = サッカー戦術の歴史 2-3-5から4-6-0へ
|publisher = [[筑摩書房]]
|year = 2010
|isbn = 448087822X
|ref = ウィルソン 2010
}}
* {{Cite book|和書
|author = デイヴィッド・ウィナー
|others = 忠鉢信一監修
|translator = 西竹徹
|title = オレンジの呪縛-オランダ代表はなぜ勝てないか?
|publisher = [[講談社]]
|year = 2008
|isbn = 4062146010
|ref = ウィナー 2008
}}
* {{Cite book|和書
|author = ディートリッヒ・シュルツェ=マルメリンク
|translator = 円賀貴子
|title = ゲームの支配者 ヨハン・クライフ
|publisher = [[洋泉社]]
|year = 2017
|isbn = 4800312426
|ref = マルメリンク 2017
}}
* {{Cite book|和書
|author = トニー・フリエロス
|others = サッカー・プラネット監修
|translator = 山名洋子
|title = フランク・ライカールト--狂気を秘めた人格者
|publisher = 東邦出版
|year = 2008
|isbn = 4809407284
|ref = フリエロス 2008
}}
* {{Cite book|和書
|author = フアン・カルロス・クベイロ、レオノール・ガジャルド
|translator = 今井健策
|title = グアルディオラのサッカー哲学
|publisher = [[実業之日本社]]
|year = 2011
|isbn = 4408453242
|ref = クベイロ、ガジャルド 2011
}}
* {{Cite book|和書
|author = フィル・ボール
|translator = 近藤隆文
|title = バルサとレアル -スペイン・サッカー物語
|publisher = [[NHK出版|日本放送出版協会]]
|year = 2002
|isbn = 4140806737
|ref = ボール 2002
}}
* {{Cite book|和書
|author = ブライアン・グランヴィル
|others = [[賀川浩]]監修
|translator = 田村修一、土屋晃、田邊雅之
|year = 1998
|title = 決定版ワールドカップ全史
|publisher = [[草思社]]
|isbn = 4794208189
|ref = グランヴィル 1998
}}
* {{Cite book|和書
|author = ブライアン・グランヴィル
|others = [[賀川浩]]監修
|translator = 田村修一、土屋晃、田邊雅之
|title = ブライアン・グランヴィルのワールドカップ・ストーリー
|publisher = [[新紀元社]]
|year = 2002
|isbn = 4775300849
|ref = グランヴィル 2002
}}
* {{Cite book|和書
|author = フリーツ・バーランド、ヘンク・ファンドープ
|translator = [[金子達仁]]
|title = ヨハン・クライフ「美しく勝利せよ」
|publisher = [[二見書房]]
|year = 1999
|isbn = 457699199X
|ref = バーランド、ファンドープ 1999
}}
* {{Cite book|和書
|author = [[ポール・ガスコイン]]
|translator = [[東本貢司]]
|title = ガッザの涙-フットボーラーポール・ガスコイン自伝
|publisher = [[カンゼン]]
|year = 2006
|isbn = 4901782738
|ref = ガスコイン 2006
}}
* {{Cite book|和書
|author = ミゲルアンヘル・サントス
|translator = 松岡義行
|title = ヨハン・クライフ スペクタクルがフットボールを変える
|publisher = 中央公論新社
|series = [[中公文庫]]
|year = 2002
|isbn = 4122040272
|ref = サントス 2002
}}
* {{Cite book|和書
|author = ミック・スホッツ、ヤン・ラウツェン
|translator = 戸谷美保子
|title = クライフ公認「トータル」フットボーラーの全貌
|publisher = 東邦出版
|year = 2009
|isbn = 4809408396
|ref = スホッツ、ラウツェン 2009
}}
* {{Cite book|和書
|author = ヨハン・クライフ
|translator = 木崎伸也、若水大樹
|title = ヨハン・クライフ サッカー論
|publisher = 二見書房
|year = 2014
|isbn = 4576140558
|ref = クライフ 2014
}}
* {{Cite book|和書
|author = ヨハン・クライフ
|translator = 若水大樹
|title = ヨハン・クライフ自伝 サッカーの未来を継ぐ者たちへ
|publisher = 二見書房
|year = 2017
|isbn = 4576170120
|ref = クライフ 2017
}}
* {{Cite book|和書
|editor = サッカーマガジン編集部
|title = サッカーマガジン別冊秋季号 ヨハン・クライフ・スーパースター
|publisher = ベースボール・マガジン社
|year = 1980
|ref = サッカーマガジン編集部 1980
}}
* {{Cite book|和書
|editor = 日本スポーツプレス協会編集
|chapter = フランツ・ベッケンバウアーとヨハン・クライフ
|title = 20世紀スポーツの肖像-心に残るアスリートたち
|publisher = [[学研ホールディングス|学習研究社]]
|year = 2000
|isbn = 4054012671
|ref = 日本スポーツプレス協会編集 2000
}}
* {{Cite book|和書
|editor = [[国際サッカー連盟|FIFA]]
|chapter = Players Portraits
|title = フットボールの歴史 FIFA創立100周年記念出版
|publisher = 講談社
|year = 2004
|isbn = 4062125609
|ref = FIFA 2004
}}
* {{Cite book|和書
|title = 完全保存版 南アフリカW杯総集編
|publisher = 文藝春秋
|series = Sports Graphic Number PLUS
|year = 2010
|isbn = 458361084X
}}
:*{{Cite book|和書|author=エルンスト・ブーベス|title=理想から現実へ オランダ躍進、7つの秘密|ref=ブーベス 2010}}
:*{{Cite book|和書|author=サイモン・クーパー|translator=田邊雅之|title=大会総括 最先端のサッカーに、天才は必要ない。|ref=クーパー 2010}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[ヨハン・クライフ財団]]
* [[ヨハン・クライフ財団]]
* [[ヨハン・クライフ賞]]
* [[ヨハン・クライフ賞]]
* [[トータルットボール]]
* [[ヨハン・クライ・スハール]]
* [[夕空のクライフイズム]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{commonscat|Johan Cruijff|ヨハン・クライフ}}
* [http://www.cruijff.com/ Cruijff.com (オランダ語・スペイン語・英語)]
*{{Sports links}}
* [http://www.cruyffacademics.org/ Johan Cruyff Academics International (英語・スペイン語)]


{{Navboxes
{{Navboxes|title = オランダ代表- 出場大会
|title=タイトル・受賞歴
|titlestyle =background:#F1771D; color:#FFFFFF;
|titlestyle=background: gold; color:black;
|list1=
<span/>
{{1974 FIFAワールドカップオランダ代表}}
{{UEFA欧州選手権1976オランダ代表}}
}}
{{Navboxes|title=獲得タイトル・記録
|list1=
|list1=
{{FIFA 100}}
</span>
{{バロンドール受賞者}}
{{バロンドール受賞者}}
{{ドン・バロン・アワード}}
{{ドン・バロン・アワード}}
{{エールディヴィジ得点王}}
{{エールディヴィジ得点王}}
{{FIFA 100}}
{{WTTC}}
{{WTTC}}
{{UEFAジュビリーアウォーズ}}
}}
{{UEFAチャンピオンズリーグ優勝キャプテン}}

{{UEFAチャンピオンズカップ優勝監督}}
{{UEFAチャンピオンズリーグ優勝監督}}
{{UEFAカップウィナーズカップ優勝監督}}
{{UEFAカップウィナーズカップ優勝監督}}
}}
{{Navboxes
|title=オランダ代表 - 出場大会
|titlestyle=background:#F1771D; color:white;
|list1=
{{1974 FIFAワールドカップオランダ代表}}
{{UEFA欧州選手権1976オランダ代表}}
}}
{{Navboxes
|title=監督歴
|list1=
{{FCバルセロナ歴代監督}}
{{FCバルセロナ歴代監督}}
}}
{{Normdaten}}

{{Good article}}


{{DEFAULTSORT:くらいふ よはん}}
{{DEFAULTSORT:くらいふ よはん}}
[[Category:ヨハン・クライフ|*]]
[[Category:オランダのサッカー選手]]
[[Category:オランダのサッカー選手]]
[[Category:サッカーオランダ代表選手]]
[[Category:サッカーオランダ代表選手]]
241行目: 1,247行目:
[[Category:レバンテUDの選手]]
[[Category:レバンテUDの選手]]
[[Category:フェイエノールトの選手]]
[[Category:フェイエノールトの選手]]
[[Category:FIFAワールドカップオランダ代表選手]]
[[Category:1974 FIFAワールドカップ出場選手]]
[[Category:1974 FIFAワールドカップ出場選手]]
[[Category:FIFA100]]
[[Category:FIFA100]]
[[Category:バロンドール受賞者]]
[[Category:バロンドール受賞者]]
[[Category:ローレウス世界スポーツ賞受賞者]]
[[Category:FCバルセロナの監督]]
[[Category:オラニエ=ナッサウ勲章受章者]]
[[Category:在スペイン・オランダ人]]
[[Category:在アメリカ合衆国オランダ人のサッカー選手]]
[[Category:オランダ・スペイン関係]]
[[Category:アムステルダム出身の人物]]
[[Category:アムステルダム出身の人物]]
[[Category:肺癌で亡くなった人物]]
[[Category:1947年生]]
[[Category:1947年生]]
[[Category:存命人物]]
[[Category:2016年没]]

{{Link GA|es}}
{{Link FA|pt}}
{{Link FA|nl}}

2024年9月18日 (水) 01:14時点における最新版

ヨハン・クライフ
1974年のヨハン・クライフ
名前
本名 ヘンドリック・ヨハネス・クライフ
Hendrik Johannes Cruijff
愛称 フライング・ダッチマン[1][2]
エル・サルバドール[2][3]
エル・フラコ[4]
スーパースター[2][5]
ラテン文字 Johan Cruijff
基本情報
国籍 オランダの旗 オランダ
生年月日 (1947-04-25) 1947年4月25日
出身地 アムステルダム
没年月日 (2016-03-24) 2016年3月24日(68歳没)
身長 178cm
体重 67kg
選手情報
ポジション FW / MF
利き足 右足
ユース
1957-1964 オランダの旗 アヤックス
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1964-1973 オランダの旗 アヤックス 240 (190)
1973-1978 スペインの旗 バルセロナ 143 (48)
1979 アメリカ合衆国の旗 ロサンゼルス・アズテックス英語版 27 (14)
1980 アメリカ合衆国の旗 ワシントン・ディプロマッツ英語版 27 (10)
1981 スペインの旗 レバンテ 10 (2)
1981 アメリカ合衆国の旗 ワシントン・ディプロマッツ英語版 5 (2)
1981-1983 オランダの旗 アヤックス 36 (14)
1983-1984 オランダの旗 フェイエノールト 33 (11)
代表歴
1966-1977 オランダの旗 オランダ [6] 48 (33)
監督歴
1985-1988 オランダの旗 アヤックス
1988-1996 スペインの旗 バルセロナ
2009-2013 カタルーニャ州の旗 カタルーニャ選抜
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ヨハン・クライフJohan Cruijff[注 1])ことヘンドリック・ヨハネス・クライフHendrik Johannes Cruijff OON英語版, 1947年4月25日 - 2016年3月24日)は、オランダ出身のサッカー選手、サッカー指導者。選手時代のポジションはフォワードミッドフィールダー

リヌス・ミケルス監督の志向した組織戦術「トータルフットボール」をピッチ上で体現した選手であり[1][7]、選手時代に在籍したアヤックスではUEFAチャンピオンズカップ3連覇、オランダ代表ではFIFAワールドカップ準優勝に導いた実績などからバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を3度受賞した。フランツ・ベッケンバウアードイツ)と並ぶ1970年代を代表する選手[1][8][9][10]であり、ペレブラジル)やディエゴ・マラドーナアルゼンチン)と並ぶ史上最高の選手と評されており[7]、サッカー界に最も影響を与えた人物の1人である。

引退後は指導者に転身し古巣のアヤックスやFCバルセロナの監督を務めると、バルセロナではリーガ・エスパニョーラ4連覇やUEFAチャンピオンズカップ優勝などの実績を残し監督としても成功を収め[1]、史上最高の監督の1人とみなされた。その後は監督業から退いていたが2009年から2013年までカタルーニャ選抜の監督を務めた。相手のタックルを柔軟なボールタッチやフェイントで飛び越えたプレースタイルに由来する「空飛ぶオランダ人フライング・ダッチマン)」[1][11][12]スペイン語救世主を意味する「エル・サルバドール」[3] など、様々なニックネームを持つ。

生い立ち

[編集]
クライフが育ったベトンドルプの街並み

1947年4月25日、アムステルダムの東部にあるベトンドルプオランダ語版という労働者の住む街で、青果店を営む家庭[13][14]の次男として生まれた[15]。家庭は貧しく、日頃の生活に窮していたが[13]、仲の良かった2歳年上の兄や近所の友人達と毎日のようにストリートサッカーに興じてテクニックを磨いた[13]。少年時代を過ごした生家から数100mほどの場所にアヤックスのホームスタジアムや施設があり、頻繁に出入りしていたことから選手やスタッフから可愛がられ、マスコットのような存在になった[16]

少年時代は華奢な体格で実際の年齢より幼く見られたほどだったが、ストリートサッカーで身に付けたテクニックはこの当時から話題となっており、10歳の時に兄の後を追ってアヤックスの下部組織に入団した[17][18][注 2]。当時のアヤックスには第二次世界大戦後に駐屯していたアメリカ軍の影響もあって野球部門があり、野球は主にサッカーのオフシーズンにプレーしていた[20]。打順は1番[21]、ポジションはキャッチャーを務め[22][23]、有望なキャッチャーであったクライフは[24]15歳まではオランダ代表にも選ばれていた[21]メジャーリーグでスター選手になるという夢も持ち合わせていたが[22]、オランダ国内においてサッカーのプロ化の機運が高まったことを受けてクラブが野球部門を廃止したため野球選手としての道を絶ち、サッカーに専念することになった[22][24][注 3]

1959年7月8日、12歳の時に45歳の父が心臓発作により死去[26][27]。クライフは精神的なショックを受け[28]、後にクライフ自身は「影響は受けたことは確かだが、その程度は判らない」としたものの、周囲の人々によるとこの時のクライフは立ち直るまでに時間を有したという[28]。父の死後、クライフは父の墓前に語り掛けるようになり、架空の対話を通じて父の魂とともにあり見守られているのだと確信していたという[28]。母は青果店を手放し、アヤックスの清掃員や家政婦として家計を支えていたが[29]、やがてアヤックスの用務員を務める男性と再婚した[30]。クライフは幼少のころから男性と交流があり、クライフの情緒に安定と安心感をもたらすことになった[30]。この時期にプロテスタント系の小学校を卒業後に地元の4年制の中学校へ進学したが、勉学には不熱心であり[31]、2年時に中退し、スポーツ用品店の店員を務めながらアヤックスの下部組織でプレーを続けた[24]

15歳でユースチームに昇格したが、当時のクライフは他のチームメイトと比べて体格で見劣りをしていた[32]。一方、持ち前の突破力を生かしてセンターフォワードとして1シーズンの公式戦で74得点を挙げるなど才能を発揮し[32]、1963-64シーズンにはオランダのユース年代の全国大会で優勝を果たした[33]。こうした経緯から、トップチームの監督を務めていたヴィク・バッキンガムはクライフのトップチーム昇格の機会を模索するようになり[30]、個人プレーに走りがちなクライフに対してチームプレーの重要さを指導した[30]

クラブ経歴

[編集]

アヤックス

[編集]

選手としての成功

[編集]
1965年のクライフ

16歳の時に1964年にトップチームへの昇格とプロ契約を打診されると、小柄な体躯であることを懸念する母を説得し、契約金1500ギルダー(約15万円)、年俸4万ギルダー(約400万円)でプロ契約を結んだ[34][35]。クライフがプロ契約を結んだ当時のオランダ国内では1954年からプロ契約が認められ[注 4]、クライフが所属していたアヤックスは1960年代半ばになると国内のスポーツ界に先駆けて高額の給与での選手と契約を始めたが[41]、この契約に関してアマチュアやセミプロが主流だったオランダサッカー界において2人目の事例であり、1人目はアヤックスの主力選手であったピート・カイザーとする指摘がある[41][42][注 5]

同年11月15日にアウェーで行われたGVAV戦でデビューを果たし、試合は1-3で敗れたものの初得点を挙げ[43]、11月22日にホームで行われたPSVアイントホーフェン戦でも得点を決め勝利に貢献しサポーターの人気を獲得した[43]。一方、バッキンガムや彼の後任として1965年1月に監督に就任したリヌス・ミケルスの下でクライフはレギュラー選手としてではなくスーパーサブとして起用された[44]。これはミケルスがクライフを「ダイヤモンドの原石」と称して[45]その素質を認めながらも時間をかけて育成していきたいとの指導者側の意向によるものであり[44]、ミケルスは「ヨハンは可能性を秘めていたが少年であり、精神的や肉体的には依然として未熟だった」と評している[46]。クライフは1軍の試合ではフィールドプレーヤーとして出場していたが、3軍の試合に出場する際はゴールキーパーとして出場し[47]、アヤックスでヨーロッパカップに参加していた際は第二ゴールキーパーであった[47]

選手時代にクライフを指導したリヌス・ミケルス。彼の志向した組織戦術「トータル・フットボール」を遂行する上で、クライフは欠かせない存在となっていった。

ミケルスは自らが志向する「トータル・フットボール」を実践するために選手達に厳しいサーキットトレーニングを課していたが、クライフはミケルスの課した練習に熱心に取り組んだ[48]。1965年10月24日に行われたAFC DWS英語版戦でクラース・ヌニンハ英語版との交代で1965-66シーズンの初出場を果たすとカイザーとのパス交換から2得点をあげる活躍を見せて勝利に貢献[33]。同シーズンに19試合に出場し16得点をあげエールディヴィジ優勝に貢献するなど順調に成長を見せると、19歳の頃にはミケルスの志向するサッカーを実践する上で欠かせない選手となっていた[46]

国内では1965-66シーズンからリーグ3連覇を成し遂げるなどリーグ優勝6回(1965-66、1966-67、1967-68、1969-70、1971-72、1972-73)、KNVBカップ優勝4回(1966-67、1969-70、1970-71、1971-72)[49][50]。個人としても1966-67シーズンに33得点、1971-72シーズンに25得点をあげリーグ得点王を獲得した[50]

国際タイトルの獲得

[編集]
1971年のバロンドール授賞式でのクライフ

UEFAチャンピオンズカップには1966-67シーズンに初出場を果たし、2回戦でビル・シャンクリー監督が率いるイングランドのリヴァプールFCと対戦した。この試合前のアヤックスの評価は低かったが[51]濃霧の中で行われたホームでの第1戦においてクライフは奔放な動きを見せてリヴァプール守備陣を翻弄し5-1と大勝した[51][52]。敵地での第2戦を前に相手のビル・シャンクリー監督は「我々が7-0で勝利する」と記者に対し公言したが[51][52]、クライフが2得点を挙げる活躍を見せて2-2と引分け、準々決勝進出へ導いた[37][51]。アヤックスはリヴァプールを相手に勝利したことで「ヨーロッパカップを優勝する可能性がある」と騒ぎ立てられたが[52]、続くデュクラ・プラハ戦では敵地での第2戦で敗れたため準決勝進出を逃した[53]。しかし、「霧の試合(オランダ語: De Mistwedstrijd)」[53][54] と称されるリヴァプール戦の勝利を境にミケルス指揮下のアヤックスは国際的な名声を集め、オランダサッカー界の今後を示す試金石となった[53]。また、クライフの存在はヨーロッパ各国の関係者の知るところとなり、国際舞台において厳しいマークを受けることになった[37]

1967-68シーズンには1回戦でスペインのレアル・マドリードに敗退[55]1968-69シーズンには準々決勝でポルトガルのSLベンフィカ、準決勝でチェコスロバキアのスパルタク・トルナヴァを下すなどオランダ勢として初の決勝進出を果たしたが、決勝ではイタリアのACミランに1-4で敗れた[55]1970-71シーズンには決勝でギリシャパナシナイコスFCを下し初優勝に貢献すると、1971年のバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)の投票では116ポイントを獲得し、2位のサンドロ・マッツォーラ(57ポイント)を抑えて初受賞を果たした[56]

1971-72シーズンにはミケルスが退任しルーマニア人シュテファン・コヴァチが監督に就任した[57]。コヴァチはミケルスの提唱した「トータル・フットボール」を引き継ぐ一方で規律を重んじた前任者とは対照的に選手の自主性を許容し[58][59][60][61]、「トータル・フットボール」の組織的な連動性を進化させた[57]。この時期のアヤックスについてクライフは「コヴァチの下では後方のミッドフィールダーやディフェンダーが前線へと飛び出し、本来は前線にいるフォワードが後方から飛び出した選手のポジションをカバーリングするといった自由が認められ相手チームの脅威となっている。ミケルスの下では決して認められなかっただろう」と評している[57]

準決勝でポルトガルのSLベンフィカを下し2年連続で決勝進出を果たした際には規律の低下と最少得点差での勝ちあがりに批判の声が上がったものの[19]、決勝でイタリアのインテル・ミラノと対戦した際にはクライフが2得点をあげる活躍を見せ2-0と下し2連覇を達成した[19]。この大会の勝者として挑んだインターコンチネンタルカップではアルゼンチンのCAインデペンディエンテと対戦し、2試合合計4-1のスコアで初優勝した[62]

1973年5月30日、UEFAチャンピオンズカップ 1972-73決勝、ユヴェントス戦のメンバー[63]

1972-73シーズンには準々決勝でフランツ・ベッケンバウアーゲルト・ミュラーゼップ・マイヤーを擁する西ドイツFCバイエルン・ミュンヘンと対戦することになり、クライフとベッケンバウアーの対決にヨーロッパ全土の注目を集めた[64]。ホームでの第1戦に4-0で完勝するとアウェイでの第2戦を1-2で敗れたものの合計5-2のスコアで勝利を収め、決勝ではイタリアのユヴェントスFCを下し3連覇を達成した[62]。1973年のバロンドールの投票では96ポイントを獲得し2位のディノ・ゾフ(47ポイント)、を抑えて2回目の受賞を果たした[56]

国外からのオファー

[編集]

一方で元モデルの妻、ダニー・コスターや、宝飾商を営んでいた妻の父コー・コスターオランダ語版(後にクライフのマネージャーを務める)の助言もあり、高額の報酬を求めて移籍に心が傾くようになった[65]。アヤックスでの活躍によりスペインのFCバルセロナが関心を持つようになり、1970年1月にクライフをアヤックスのトップチームに抜擢した当時の監督であるヴィク・バッキンガムを招聘しクライフ獲得に向けた仲介役としてオファーを申し出た[66][67]。当時のスペインサッカー連盟の規定では外国籍選手の獲得は禁止されていたが、年内に規定が改正される可能性を見通してのオファーだった[66][67]

バルセロナ側からはアヤックス時代の3倍の年俸、ボーナス、住居、自動車、オランダとの往復航空券などの付与するなどの条件を掲示され[66]、両クラブ間で合意に達した[68]が、同年3月に行われたスペインサッカー連盟の総会において規定改正が見送られた[69]ことで移籍は消滅し[65][66][69]、代わりにミケルスがバルセロナの監督として引き抜かれることになった[66]

アヤックスでのチャンピオンズカップ3連覇など選手として絶頂期にあった1973年5月26日にスペインの外国人選手規定が改正[70]されると改めてバルセロナへの移籍へ向けた交渉が行われたが、スター選手を手放すことに難色を示すアヤックス側との交渉は長期化[71]。この移籍を巡ってヤープ・ファン・プラーフオランダ語版会長と対立し、「バルセロナへ移籍させないのなら選手を引退する」「移籍を認めないのならば法廷闘争も辞さない」と宣言する騒動に発展した[72][73]。また、クライフが試合出場をボイコットする構えを見せたことからチームメイトとの関係も悪化し[73]、サポーターからも批判を受けるようになったが[73]、最終的にクラブ側が譲歩し移籍を認めることになった[72]。しかし、バルセロナへの移籍が決まったクライフは、家に様々な毒虫が送られてくるなどといった嫌がらせの被害を受けた[74]

バルセロナ

[編集]
1974年2月17日、リーガ・エスパニョーラ22節、レアル・マドリード戦のメンバー[75]

1973年夏、600万ギルダー[76][注 6]という金額でスペインのFCバルセロナに移籍。なお、この移籍金額は同年7月にイタリアのピエリーノ・プラティがACミランからASローマへ移籍する際に記録した金額を大幅に上回る世界記録だった[76]

移籍成立後は手続きが遅れたため、リーグ戦デビューは1973-74シーズン開幕後になり[78]、同年10月28日に行われたグラナダCF戦でデビューを果たすとこの試合で2得点を記録し4-0で勝利した[78]。同年12月22日に行われたアトレティコ・マドリード戦ではアクロバティックな得点を決める活躍を見せたが[79][80]、この得点は1999年にクラブ創立100周年を祝うテレビ番組の中でファン投票により、クラブ史上最高の得点に選ばれた[79]。1974年2月17日、敵地のサンティアゴ・ベルナベウで行われたレアル・マドリード戦(エル・クラシコ)では5-0と歴史的勝利に貢献し[78][79]、同年4月17日、敵地でのスポルティング・デ・ヒホン戦で4-2と勝利を収めると、残り5節を残した段階で2位以下のクラブを勝ち点で上回り14シーズンぶりのリーグ優勝を成し遂げた[78]。また同年にはオランダ代表での活躍もあり、3度目のバロンドールを受賞した[56]

当時のスペインはフランシスコ・フランコの独裁政治の時代にあり[81]、バルセロナへの移籍が決まった際には「独裁者のためにサッカーをする」という批判を受けた[74]が、クラブ創立75周年を迎えた1974年のリーグ優勝とクライフの活躍はバルセロナ市民や反フランコ派の人々を歓喜させた[82]。クラブは1960年代後半頃から「バルサは単なるクラブ以上の存在である」とのスローガンを掲げ[81]、首都マドリードの中央集権政治に対し、民主化とカタルーニャ化のシンボルとなっていったが[81]、メディアは連日のようにクライフの動向を注視しファンは「救世主」(El Salvador、スペイン語:エル・サルバドール、カタルーニャ語:アル・サルバドー)と讃えた[3]

1974-75シーズンにはオランダ代表の同僚であるヨハン・ニースケンスの獲得をクラブ首脳陣に推挙した[83]こともありチームに加わったが、ギュンター・ネッツァーパウル・ブライトナーを擁するレアル・マドリードに優勝を明け渡し3位でシーズンを終えると監督のミケルスは解任された[83]

FCバルセロナ在籍時のクライフ

1975-76シーズンには西ドイツのボルシア・メンヒェングラートバッハを指揮して実績のあるヘネス・バイスバイラーが監督に就任したが、クライフとの確執が続き[83][84]、クライフ自ら「バイスバイラーとは上手くいかない。6月30日に契約が終了したらオランダへ帰国する」と発言し退団の意思を示した[84]。これにより、サポーターがクライフの残留とバイスバイラーの解任を求める抗議活動を行う事態に発展したが[84]、1976年3月にバイスバイラーが辞意を表明したことによりクライフはバルセロナに残留しチームと再契約を結んだ[85]。なお、クライフとバイスバイラーを巡るチーム内の内紛もあって2シーズン連続で優勝を逃した[83]

翌1976-77シーズンにクライフの進言により再びミケルスが監督として呼び戻され[83]、リーグ戦では21節まで首位に立つなど優勝の可能性が残されていたが、最終的にアトレティコ・マドリードに勝ち点1差で及ばず優勝を逃した[83]。また国際大会においてはUEFAチャンピオンズカップ 1974-75では準決勝進出を果たすもイングランドのリーズ・ユナイテッドに敗退、UEFAカップ1975-76では準決勝進出を果たすもリヴァプールFCに敗退、UEFAカップ1976-77では準々決勝でアスレティック・ビルバオに敗退するなど、欧州タイトルを獲得したアヤックス時代やバルセロナ加入初年度となった1973-74シーズンほどの結果を残すことはできなかった[86]。成績低下の理由について、相手選手の厳しいディフェンスを受けるうちに抑え気味にプレーするようになり自身の持ち合わせる能力を100%発揮することがなくなったことが指摘されている[86][87]。またクライフ自身は強気な性格が災いし判定を巡って審判とたびたび口論となるなどプレー以外の側面で注目を集めるようになっていた[88]。バルセロナでの最後のシーズンとなった1977-78シーズンはコパ・デル・レイ決勝でUDラス・パルマスを3-1で下し優勝を果たしたものの[33]、国際大会ではUEFAカップ1977-78では準決勝でオランダのPSVアイントホーフェンと対戦し2試合合計3-4のスコアで敗れた[33]。リーグ戦ではレアル・マドリードに優勝を明け渡し2位でシーズンを終えると、1978年5月27日に行われた古巣のアヤックスとの親善試合を最後にバルセロナを退団し、正式な引退試合を行うことを表明した[33]

引退試合と実業家への転身

[編集]
1978年11月7日に行われた引退試合でのクライフ。

1978年5月、バルセロナで現役引退を表明したクライフはオランダへ帰国した[89]。同年8月30日にアメリカ合衆国ニューヨーク・コスモスに招待され、コスモス対世界選抜の親善試合に出場したほか[89]、イングランドのチェルシーFCからオファーを受けていたが、選手としての正式な復帰を断り続けた[89]

同年11月7日、アムステルダムのオリンピスフ・スタディオンで、クライフの引退試合が開催された[89]。クライフは自身がプロデビューを果たし長年にわたって在籍したアヤックスの選手として出場し、対戦相手には西ドイツのバイエルン・ミュンヘンが選ばれた[89]。試合当日は6万5000人の観客が訪れ、入場料収入の17万5000ドル(約3500万円)はオランダのアマチュアサッカー界の振興と障害者施設のために寄付された[89]。この試合は世界6か国にテレビ中継されたが、試合は友好ムードのアヤックスとは対照的に激しいボディコンタクトを厭わず真剣勝負を挑むバイエルンという展開となった[89]。序盤こそアヤックスが優勢に試合を進めたものの、バイエルンがゲルト・ミュラーが先制点を含め2得点、パウル・ブライトナーカール=ハインツ・ルンメニゲが揃ってハットトリックを達成するなどして8-0と大勝した[89]

クライフ自身は時おり往時のプレーを垣間見せたものの味方からの支援はなく、一方的な展開に観客席からは座布団が投げ込まれ、試合に見切りをつけスタジアムを後にする観客もいた[89]。試合後にはクライフに花束が贈られ、チームメイトに肩車をされてファンに別れを告げる演出が行われたが、クライフは「私のイメージした引退試合とはかけ離れた内容となった」と心境を語った[89]。バイエルンが真剣勝負を挑んだ経緯についてブライトナーは「オランダ国内にバイエルンを歓迎する雰囲気はなく、空港や宿泊したホテルでは敵対的な対応を受けた。そこで試合を我々の独演会(バイエルン・ショー)に代えることを決めたんだ」と証言している[90]。クライフはこの試合で得た収益のうち30万ギルダーを子供病院へ寄付した[91]

引退試合の後、クライフはスペインで実業家へと転身した[92]。クライフはバルセロナ在籍時から自身の肖像ブランドを冠したビジネスを展開していたが[93]、友人やビジネスパートナーらと新たに「CBインターナショナル」を設立し、不動産取引、ワインやセメントや野菜の輸出業務に従事した[92]。その際、ビジネスパートナーはクライフの信用を得て彼の所有する銀行口座から自由に事業資金を引き出していたが結果的に事業は失敗に終わった[92][94]。これによりクライフの下には600万ギルダーの借金が残されたとも[92]、総資産の4分の3に相当する900万ギルダーを失い破産寸前となったとも言われる[94]

一連の経緯についてクライフは「以前から義父や友人から幾度となく「専門外のことに関わってはいけない」と注意を受けていたが、罠にかかり唯一の間違いを犯した。その代償は大きなものだが多くのことを学んだ」と語っている[94]。事業に失敗し多額の借金を背負ったことが後にアメリカ合衆国で現役復帰を果たす決定的要因となったと複数の論者から指摘されている[93]。一方で事業の失敗と現役復帰の因果性についてクライフ本人は否定した[93]が、引退から数か月後には現役復帰を決意した[90]

ロサンゼルス・アズテックス

[編集]

クライフのアメリカ合衆国での復帰に関して最初に関心を示したのは、北米サッカーリーグ (NASL) のニューヨーク・コスモスだった[95]。 同クラブのオーナーを務めるスティーヴ・ロス英語版は、クライフとの間で優先的に交渉を行うための仮契約を締結し3年契約で400万ドルを提供した[90]。一方、クライフは「私はアメリカサッカー界の発展の助力となりたいのだ。最初に移籍先と考えたコスモスは常に5万人以上を動員する人気チームだが、そこには私の果たすべき役目はない。私の希望は将来的に成長する可能性を秘めたチームだ」としてコスモスへの移籍を固辞し[95]、恩師のミケルスが監督を務めるロサンゼルス・アズテックス英語版と契約した[95]。契約内容は年俸70万ドル(約1億5000万円)に、本拠地とするローズボウルで観客動員数が増加した場合に派生する歩合給を加えたもので、換算すると年収100万ドルに上るものと推測された[95]。また、アズテックスは優先交渉権を持つコスモスに対し60万ドルを支払った[95]

1979年5月19日、ロチェスター・ランチャーズ英語版戦でデビューすると、前半10分のうちに2得点をあげ、後半には3点目の得点をアシストし、3-0と勝利した[90]。アズテックスには監督のミケルスをはじめ、アヤックスやオランダ代表でチームメイトだったヴィム・シュルビアレオ・ファン・フェーンフープ・スメーツオランダ語版らといったオランダ人が在籍していたこともありリラックスした雰囲気を味わった[90]。チームはナショナルカンファレンス西地区で2位となりプレーオフ進出を果たすと、カンファレンス準決勝でバンクーバー・ホワイトキャップス英語版に敗れたものの、クライフはNASLの年間最優秀選手に選ばれた[96]

ワシントン・ディプロマッツ

[編集]
1980年、古巣のアヤックスにテクニカルアドバイザーとして復帰するとFCトゥウェンテ戦の試合途中から指揮を執った。

1980年2月、首都ワシントンD.C.を本拠地とするワシントン・ディプロマッツ英語版に移籍した[97]。ディプロマッツは1979年秋にマディソン・スクエア・ガーデン・グループが経営に参画し大幅な選手補強に乗り出していたが[97]、当初獲得を目指したイングランド代表のケビン・キーガンとの交渉は失敗したものの、代わりにクライフと契約を結んだ[90]。契約内容は3年契約で150万ドル(約3億2500万円)、ディプロマッツが移籍元となるアズテックスに対して移籍料100万ドル(約2億5000万円)を支払うというものだった。人気の低迷が続いていたディプロマッツ側にはスター選手の獲得により観客動員数を増加させたいとの狙いがあった[90]

同年3月29日、タンパベイ・ロウディーズ英語版戦でデビューしたがPK戦の末に2-3で敗れた[97]。ディプロマッツにはオランダ代表のチームメイトだったビム・ヤンセンが在籍していたものの、チームが志向するスタイルはイングランドの下部リーグで行われているような荒々しいものでトータルフットボールとはかけ離れていた[90]。前年に所属していたアズテックスでは多くの選手がクライフの助言を受け入れたのに対し、ディプロマッツの選手たちは関心を示さず、監督のゴードン・ブラッドリー英語版をはじめ何人かの選手から反発を招いた[90]。また、人工芝の影響による怪我に苦しめられるなど困難なシーズンとなった[90]。チームはナショナルカンファレンス東地区で2位となりプレーオフ進出を果たしたが、カンファレンス1回戦でクライフが前年に所属していたアズテックスに敗れた[90]

同年秋、ディプロマッツの企画したアジアツアーに参加し日本香港インドネシアを転戦したが、この時期には出場困難な怪我を負っていた[98]

クライフはNASLがシーズンオフとなった間にオランダへ帰国し古巣のアヤックスでプレーすることを試みた[33]。これに対しオランダサッカー協会 (KNVB) は、NASLに所属する選手が期限付きでオランダのクラブへ移籍しリーグ戦に出場することを認めない決定を下した[33]。そのため、アヤックスのテクニカル・アドバイザーという名目でチームに加わると同年11月30日に行われたFCトゥウェンテ戦をスタンドで観戦した[99]。試合は1-3とアヤックスがリードされる展開となったが、業を煮やしたクライフはスタンドを降りてベンチへと向かい、監督のレオ・ベーンハッカーの隣で直接指揮を執った[99]。クライフの助言を受けたチームは調子を取り戻すと4点を奪い5-3とトゥウェンテに勝利した[99]

レバンテ

[編集]
クライフと義父のコー・コスターオランダ語版(右側)。

1981年、クライフはオランダのDS'79の会長の依頼を受けてロブ・レンセンブリンクと共に招待選手として同クラブに参加[33]。イングランドのチェルシーFC、ベルギーシャルルロワSC、オランダのMVVマーストリヒトの3つの親善試合に出場した[33]。当時のクライフは欧州のクラブへの移籍を模索しており、イングランドのチェルシーFC、アーセナルFCレスター・シティFCが獲得に乗り出した[100]。この中で、2部リーグへの降格争いの渦中にあったレスターが高額の条件を掲示したこともあり、移籍は決定的との報道もなされたが実現には至らなかった[100]

同年2月26日、スペイン・セグンダ・ディビシオン(2部リーグ)のレバンテUDへ移籍することに合意した[101]。レバンテはクライフが加入する時点では2部リーグの上位を争っていたものの[92]、観客動員数が伸び悩んでいたこともありクラブの首脳陣は人気回復の起爆剤としてクライフと契約するに至った[92]。契約の際、義父のコスターの手腕により、バルセロナの様な欧州のトップクラブに所属する選手と同等の給与、ホームでの観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得ることになった[94]が、報酬が1か月以上支払われなかった場合には契約を破棄し他チームへ移籍することが出来る、といった自身に有利な条件が盛り込まれた[94]

3月2日に行われたCFパレンシア戦でデビューしたが、ディプロマッツ在籍時に負った怪我の影響もありリーグ戦10試合に出場し2得点という結果に終わり[102]、クライフの加入と前後してチームの成績も下降線を下り最終的に9位でシーズンを終え1部昇格を逃した[92]。一方でクライフとの間で結んだ高額の契約が経営状態を圧迫しチーム内に不協和音を生み出したと指摘されている[92]。クライフとクラブ側との間で「観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得る」契約を交わしていたが、この報酬が未払いとなるトラブルが派生したためシーズン終了後にチームを退団した[94][102]

同年6月、イタリアのACミランと契約交渉を行い[98][103]、ミランの招待選手として同国で開催された世界各国のクラブを招いた対抗戦「ムンディアリート・ペル・クラブイタリア語版」に参加した[104]。6月16日に行われたフェイエノールト戦に先発出場した[104] が、鼠蹊部の負傷のために[98]コンディショニングが万全でなかったこともあり45分間の出場のみに終わった[103][105]。クライフはフェイエノールト戦で負傷の影響もあって精彩を欠き、残りの試合も欠場するなど周囲の期待に答えることは出来なかった[105]。ミランとの契約交渉が失敗に終わると現役引退が現実味を帯び始めた[103]

同年6月18日、クライフはワシントン・ディプロマッツと短期間の契約を結んだ[33]。7月1日に行われたサンディエゴ・ソッカーズ英語版戦でデビューしたが[33]、チームはナショナルカンファレンス東地区で3位となったためプレーオフ進出を逃し、モントリオール・マニック英語版戦がアメリカ合衆国での最後の試合となった[33]

アヤックスへの復帰

[編集]
アヤックスへの復帰直後のクライフ。左隣は会長のトン・ハルムセンオランダ語版

レバンテの退団後にワシントン・ディプロマッツを経て同年秋に古巣のアヤックスに復帰したが、既に34歳となっており、年齢的な問題もあり選手としては限界と考えられていた[103]。しかし同年12月6日に行われたHFCハールレム戦でのキーパーの意表を突くループシュートを決める活躍などにより4-1と勝利し、周囲でささやかれていた限界説を退けた[106]

当時のアヤックスはマルコ・ファン・バステンフランク・ライカールトジェラルド・ファネンブルグといったオランダの次世代を担う選手達が在籍していたものの、多くの結果を残すことが出来ずにいた[103]。クライフが加入した1981年12月の時点でリーグ戦でAZアルクマールPSVアイントホーフェンに敗れるなど4敗を喫し首位の座を明け渡していたが、クライフの加入後は17勝2分けの成績でAZやPSVを退けて1981-82シーズンのリーグ優勝を果たした[107]

2年目の1982-83シーズンにはUEFAチャンピオンズカップ 1982-83に出場し、1回戦でスコットランドセルティックFCと対戦。アウェーでの第1戦を2-2と引き分けて迎えたホームでの第2戦は1-1の同点で迎えた88分にクライフが交代すると、試合終了間際に失点を喫し合計3-4のスコアで敗退した[108]。この試合は選手生活を通じて最後の国際大会での公式戦出場となった[33]

1982年12月5日に行われたヘルモント・スポルト戦では印象的なトリックプレーを見せた[109]。試合中にペナルティーキックを獲得するとクライフは自らシュートをせずに左斜め前に緩やかなパスを送り、後方から走りこんできたイェスパー・オルセンへと繋がり相手のキーパーと1対1の状況となった。オルセンはゴール前で待ち構えるクライフにパスを戻すとキーパーのいない無人のゴールにシュートを決めるというもので、結果的にクライフとオルセンのワンツーパスの形となった[109]。ヘルモントの選手たちは主審に抗議を行ったがルール上においても正当なもので[109]、一連のプレーに関するアイデアは練習中に考案されたものだった[109]

リーグ戦ではフェイエノールトとの間でシーズン終盤まで優勝争いを続けていたが、1983年5月1日に行われたフェイエノールトとの直接対決を3-3と引分け、残り2試合を残して首位のアヤックスと2位のフェイエノールトとの勝ち点差4の状態を維持[110]5月1日に行われたヘルモント・スポルト戦ではクライフを累積警告による出場停止で欠いたものの4-1と勝利しリーグ連覇を達成した[110]。この時期のクライフは継父の死や故障を繰り返していたことで精神的に困窮していたものの[111]、同シーズンのリーグ戦とカップ戦との二冠獲得の原動力となった[112]

一方、1983年に入るとクラブ会長のトン・ハルムセンオランダ語版がクライフに対し36歳という年齢を理由に引退を迫ったことや[111]、クラブ側との間で締結していた入場料収入に応じた給与体系の更新を拒否されたこともあり確執を生んでいた[113]。クライフは5月10日に行われたカップ戦決勝第一戦のNECナイメヘン戦の終了後に退団を表明し[33]、5月14日に行われたリーグ戦最終節のフォルトゥナ・シッタート戦がアヤックスでの最後の試合出場となった[114]

フェイエノールトへの移籍と引退

[編集]
公式戦最後の試合となったフェイエノールトPECズヴォレ戦でのクライフ。

1983年夏、アヤックスを退団したクライフはライバルクラブのフェイエノールトへ移籍し1年契約を結んだ[112]。この移籍についてアヤックスのサポーターからは反発が上がり[111]、8月21日に行われたリーグ戦開幕戦のFCフォレンダム戦でもフェイエノールトのサポーターから批判のブーイングを受ける可能性があったものの、試合開始とともに自らの価値を示すことで批判を払拭した[113]。フェイエノールトでは当時21歳のルート・フリットらとチームメイトとなったが、監督のテイス・リブレフツ英語版を尊重しつつ頻繁に選手たちの対して技術指導やポジショニング指導を行った[115]。またフェイエノールトへの移籍後は自分自身のプレーにも変化が生じ、体力的な衰えもあり以前の様な個人技を前面に出したプレーを抑え、中盤でボールを落ちつかせ味方に指示を送りポジショニングやパスコースの修正を行うことに徹した[115]

同年9月18日に行われた古巣のアヤックス戦では2-8と大敗を喫したが[116]、その後は1984年2月26日に行われたアヤックスとの再戦で4-1と勝利するなどチーム状態は回復[116]。カップ戦決勝でフォルトゥナ・シッタートを下すと[117]、リーグ戦でもPSVアイントホーフェンやアヤックスとの優勝争いを制すると5月6日に行われたヴィレムII戦で5-0と勝利し、1973-74シーズン以来となる10シーズンぶりの優勝を決めた[118]。クライフにとって国内での優勝はリーグ戦が9回目、カップ戦が6回目となり、二冠獲得は2シーズン連続となった[118]。既に引退の意思を表明していたクライフは5月13日に行われたPECズヴォレ戦が最後の公式戦出場となり[114][116]、この試合の79分にマリオ・ベーンとの交代でピッチを退いた[33]

クライフの現役選手として最後の試合はサウジアラビアで行われた[119]。この試合は同国でプレーする2名の選手の引退試合にクライフの参加を条件にフェイエノールトが招待されたものだった[119]。クライフは前半をサウジアラビア代表の選手として、後半はフェイエノールトの選手としてプレーし、試合後にはファイサル・ビン=ファハド王子から記念品として24金製の食器が贈呈された[119]。サウジアラビアへの遠征後、クライフはクラブの会長から選手としての残留または選手兼任監督としてのオファーを受けたが、精神的にも肉体的にも消耗し切っていることを理由に固辞した[119]

代表経歴

[編集]

初期の経歴

[編集]
オランダ代表として初出場を果たしたハンガリー戦でのクライフ(前列中央)

オランダ代表としては1966年9月7日に行われたUEFA欧州選手権1968予選ハンガリー戦で代表デビューを飾った[114]。同年7月に行われた1966 FIFAワールドカップブラジルを下し準々決勝に進出した強豪チームを相手に、代表初得点を決めた[46]。しかし同年11月6日に行われたチェコスロバキアとの親善試合において、クライフはチェコの選手に絶えずに蹴られていたが、主審を務めたルーディー・グロックナー[120][121][122]はこの状態を放置し続け、クライフは一時間以上も経った後で彼に抗議を行ったがグロックナーは取り合わず[122]、さらに抗議をした直後にクライフはグロックナーが見ている前で再びチェコの選手に蹴られたたもののファールすら取られず[122]、再び抗議を行ったがここで退場処分を受けた[123][注 7]。グロックナーはクライフを退場させた理由について、「生意気なクライフにお灸をすえるためだった」と説明しており[121][注 8]、「クライフが私に暴行を加えようとした」との主張は映像記録により退けられたが[124]オランダサッカー協会 (KNVB) はクライフに対し1年間招集を見送る処分を下し[120][123]、クライフは公式の国際試合出場停止の処分を受けた最初のオランダ人選手となった[120]

1970 FIFAワールドカップ予選ではブルガリアポーランドに敗れ、UEFA欧州選手権1972予選ではユーゴスラビアに敗れ予選で敗退するなど、1960年代後半以降のアヤックスやフェイエノールトといったクラブが国際大会で結果を残していたのに対し、代表チームは予選敗退が続いていた。

1974 FIFAワールドカップ・予選英語版では隣国のベルギーと同じグループとなったが、報酬面での問題からチーム全体にまとまりを欠いていた[125]。1973年11月18日にホームで行われた最終戦での両者の直接対決(0-0の引分け)の結果により、1938年大会以来となるワールドカップ出場が決まったが、この試合の終了間際に決まったかに思われたベルギーの得点がオフサイドと判定され無効にされる場面もあった[126][127]

1974 FIFAワールドカップ

[編集]
1974 FIFAワールドカップでのオランダ代表の基本布陣[128][129]
オランダ代表でのクライフ(1973年)

翌1974年に西ドイツで開催される本大会に向けチームの立て直しが求められると、KNVBはチェコスロバキア出身のフランティシェク・ファドルホンツ英語版を監督からコーチに降格させ、当時FCバルセロナを指揮していたリヌス・ミケルスを監督に迎えた[130]。ミケルスは代表チームに新たなサッカースタイルを導入するには時間的な猶予が少ないことから[131]、かつて自身が率いていたアヤックスのメンバーを中心にし、「トータルフットボールでワールドカップに挑む」ことを前提に代表メンバーを選出した[131]。また、この組織戦術をピッチ上で体現するリーダーとしてクライフを指名し、選手達に戦術理解と90分間戦い抜く体力を求めた[131]。クライフは前線から最後尾まで自由に動き回り攻守に絡むと共に、ミケルスの理論を体現するピッチ上の監督として味方に細かなポジショニングの指示を与えた[132]

1次リーグ初戦のウルグアイ戦を2-0で勝利を収め、第2戦のスウェーデン戦を0-0で引き分けたが、第3戦のブルガリア戦を4-1で勝利し首位で2次リーグへ進出を果たし、オランダの展開する全員攻撃・全員守備のサッカーが注目を集めた[132][133]

2次リーグにおいてもアルゼンチンを4-0[134]東ドイツを2-0で下し[134]、第3戦を迎えた。試合相手は前回大会の優勝国であるブラジルだったが、50分にニースケンスの得点をアシスト、70分には左サイドを突破したルート・クロルのクロスをジャンピングボレーシュートによるゴールを決めて1得点1アシストの活躍で勝利し、初の決勝戦進出を果たした[135]。このゴールが「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」という異名で呼ばれるきっかけとなった[12]

決勝の相手は開催国であり、同世代のライバルであるフランツ・ベッケンバウアーらを擁する西ドイツとなった[136]。西ドイツは開幕前にイギリスブックメーカーが発表した優勝予想では1位(オッズは3-1)と高評価を受けていた[137]が、オランダとは対照的に苦戦が続けながらの決勝進出だった[138]。戦前の予想ではオランダ有利との意見も見られ[139]、オランダの中心選手であるクライフを西ドイツがいかに抑えるのか、どの選手がマークするのかが焦点となった[140]

1974 FIFAワールドカップ決勝の西ドイツ戦でドリブルを仕掛けるクライフ(中央の人物)。後方はベルティ・フォクツ

試合は開始早々にクライフがドリブルで相手エリアに踏み込んだところ、ウリ・ヘーネスの足が絡んでクライフが倒され、開始から1分も経たないうちにオランダがPKを獲得[136]。これをニースケンスが決めて先制した[136]。しかし早い時間帯に先制したことで攻勢を緩めたオランダに対し西ドイツが試合の流れを掴み、前半までにパウル・ブライトナーゲルト・ミュラーの得点により2-1と逆転した[136]。後半に入りオランダは反撃に転じたが、クライフが西ドイツのベルティ・フォクツの徹底したマークを受けて動きを封じられたこともあり得点はならず[141]、1-2で敗れ準優勝に終わった[136]

この試合の敗因については「早い時間帯に先制点を決めたことで気持ちが緩み、西ドイツの反撃を許した」ことが挙げられる[141][142]が、クライフは「決勝戦に進出したことに多くの選手が満足してしまった。オランダ人に(ドイツ人のような)勝者のメンタリティが欠けていた」ことを挙げた[142][143]。選手達がオランダへ帰国すると準優勝という結果に国民を挙げて歓迎を受け[144][145]、国王への謁見を許されたが[144][145]、クライフ自身は「もう一歩の所で世界タイトルを逃した」事実を拭い去ることはできなかったという[144]

その一方でクライフを中心としたこの時の代表チームはスタンリー・キューブリックにより映画化された同名小説に準え「時計じかけのオレンジ[142][143]と呼ばれ、決勝戦で敗れたものの「大会を通じて最も優秀なチーム[3]」「我々に未来のサッカーを啓示した[146][147]」「オランダには11人のディフェンダーと10人のフォワードが存在する[147]」と評価された。クライフ自身は後にこの大会について次のように振り返っている。

私は1974年のワールドカップ決勝を忘れることはないだろう。1-2で敗れた後、私は茫然自失となっていた。しかし数年後にファンの記憶に残っているのは試合に勝利した方ではなく敗れた我々の方であることを知った。それから数十年を経た今日においても世界中のサッカーファンが、あの時の我々のプレーを賞賛してくれることを誇りに思っている[148] — ヨハン・クライフ

UEFA欧州選手権1976

[編集]

1974年のワールドカップ後にミケルスが監督を退きジョージ・クノベル英語版が就任したものの、クライフをはじめこの大会を経験した主力選手の多くがチームに残り同年9月から始まったUEFA欧州選手権1976予選に参加[149]。予選1次グループではポーランドやイタリアを退け、準々決勝ラウンドでもベルギーにホームで5-0と大勝するなど2連勝で本大会出場を果たした。

1976年にユーゴスラビア連邦で行われた本大会では、準決勝でチェコスロバキアと対戦することになったが、地元のユーゴスラビアやワールドカップ優勝国の西ドイツ、同準優勝のオランダと比べ1ランク劣るチームと見做されていた[149]。一方、オランダは優勝候補の筆頭と目されていたが[150]、開幕前にクノベルが監督を辞任する意向を示すなどオランダ協会内で内紛が発生し[149][150]、クライフが一時「クノベルが辞めるなら大会に出場しない」と宣言する事態に発展した[149]

チェコスロバキア戦は互いに退場者を出し、クライフ自身も主審のクライヴ・トーマス英語版に抗議した際に警告を受けるなど荒れた展開となったが[145][149]、延長後半にチェコスロバキアに2得点を許し1-3で敗れた[145]。なおクライフは予選から通算2枚目の警告を受けたことで次の3位決定戦は出場停止となったため、チームには帯同せず帰国した[149]。3位決定戦は若手メンバー中心で挑むことになり[149]、地元のユーゴスラビアを3-2で下して3位となった[145]

代表からの引退

[編集]
1977年10月26日に行われたベルギー戦でのクライフ(右から2人目)。この試合が最後の代表出場となった。

同年9月から始まった1978 FIFAワールドカップ・予選英語版にも引き続き参加し、隣国のベルギーや北アイルランドを退けて2大会連続で本大会出場を果たした。しかし1977年10月26日に行われた同予選のベルギー戦を最後に代表から引退することになり、翌1978年にアルゼンチンで開催される本大会への出場は辞退することになった[151][152]。クライフに続いてストライカーのルート・ヘールスやキーパーのヤン・ファン・ベフェレン、前回準優勝メンバーのヴィレム・ファン・ハネヘムらも大会への参加を辞退することになった[151]

ワールドカップを目前にした代表からの引退については「開催国のアルゼンチンはホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領の軍事政権による統治下にあったが、国内情勢が不安定だったことや弾圧に抗議するため[153][154]」、「所属クラブであるFCバルセロナとの間で金銭トラブルが派生しており、大会出場の見返りとして多額の報奨金を要求したため[153]」、「事前合宿を含め2か月近く家族と離れて過ごさなければならなくことを妻が許さなかったため[153][154][155]」など様々な憶測が囁かれた[153]

クライフはこれまで

ワールドカップに出場するには100%の体調では駄目だ。200%でなければ駄目だ。私は1974年大会を経験しているが、あれだけのプレーを再現できるとは思えないから辞退するのだ。今シーズン限りでバルセロナを含め、あらゆるサッカー活動から引退し家族と共に過ごす時間を増やすことにする。私は大衆の前から姿を消す。 — ヨハン・クライフ[156]

と発言するなど「完全なコンディショニングで大会に挑める状況にはなかった」ことを理由として挙げていた[155][157] が、2008年4月にスペインのラジオ番組に出演した際に、1977年に発生した息子の誘拐未遂事件が大会辞退の真の理由だったことを明らかにした[154][158]

大会の前年に子供の誘拐事件が発生した。私は犯人からライフル銃を突きつけられ妻と共に拘束されたが、子供に危害は与えられなかった。その後、4か月間は自宅周辺や子供の通学路では警察の警護を受ける状況となった。家族のことが心配となりオランダ代表としてワールドカップの舞台でプレーする気にはなれなかった。人生には何より代え難い物がある。 — ヨハン・クライフ[158]

オランダ代表としての通算成績は国際Aマッチ48試合出場33得点[6]

指導者経歴

[編集]

アヤックス

[編集]
アヤックスの監督時代のクライフ(中央の人物)。右隣はフランク・ライカールト、左隣はマルコ・ファン・バステン

引退から1年後の1985年にアヤックスの監督に就任した。就任時は公式な指導者ライセンスを取得しておらず[159]、ライセンスを取得するための講習を受講した経験がなかったため、「テクニカルディレクター」という肩書きでの就任だった[99][159]。監督の上位に位置づけられる「テクニカルディレクター」として、クラブのトップチームから下部組織まで統括して戦術やシステムなどの志向するサッカーを立案し管理する役職だが[159]、これはクライフが前述の北米リーグ時代にワシントン大学で学んだ、スポーツマネジメントに基づいた考えであり[159]、アメリカから帰国したクライフがヨーロッパで自らが広めたものなのだという[160]

クライフは1970年代に展開した攻撃的スタイルの復活を掲げ、ベテランのアーノルド・ミューレン、中堅のマルコ・ファン・バステンフランク・ライカールトらを軸に、デニス・ベルカンプアーロン・ヴィンターといった10代の選手を積極的に起用。アヤックスではリーグ優勝はならなかったが、KNVBカップを制してUEFAカップウィナーズカップ 1986-87への出場権を獲得。この大会で決勝進出を果たすと、1987年5月13日に行われた決勝戦では東ドイツ1.FCロコモティヴ・ライプツィヒをファンバステンの得点で下し、選手時代にチャンピオンズカップ3連覇を果たした1973-74シーズン以来となる14シーズンぶりの国際タイトルを獲得した。

1988年4月、選手の移籍問題に関する見解の相違などの、トン・ハルムセンオランダ語版会長との確執もありクラブを退団した[161]

バルセロナ

[編集]

監督就任の経緯

[編集]

1988年5月4日、FCバルセロナの監督に就任することになったが、監督就任の背景には同クラブ会長のホセ・ルイス・ヌニェスの存在があった[162]。ヌニェスは同年にクラブの会長選挙を控えていたが、チーム自体はルイス・アラゴネス監督の下で1987-88シーズンを戦い、カップ戦では優勝を成し遂げたものの、リーグ戦では成績が低迷し[163]、選手達が同年4月28日に会長とクラブ役員の辞任を求め「エスペリアの反乱」と呼ばれる記者会見を開くなど内紛が続いていた[164]。ヌニェスには、自らの政権維持のためにソシオと呼ばれるクラブの会員達の間で依然として人気の高いクライフの招聘を公約として掲げ、この局面を乗り切ろうとの思惑があった[165]

クライフはバルセロナに着いて間もない時に「私は意欲のあるチャンピオン精神を備えた素晴らしいチームを作ります。そして、ここ数年落ち込んでいるクラブを再起させるのです」と目標を掲げた[166]。しかし、前述の「エスペリアの反乱」に加わった多くの選手達が他クラブへ放出されたため[166]、残留した選手と新たに補強した選手で1からチーム作りに取り掛かることになり[166]、自らの経験に基づいたサッカー哲学とアヤックスで採用されている攻撃的サッカーをクラブに浸透させるためクラブの改革に着手していった[166]。監督としての実績がアヤックスでの数シーズンのみと乏しかったことによる懸念や、結果を残すまでに時間が掛かったことで批判を受けることもあったが[163]、自らのスタイルを押し通すとUEFAカップウィナーズカップ 1988-89でイタリアのUCサンプドリアを下し国際タイトルを獲得したことで批判を退けた[167]

ドリーム・チームの完成

[編集]
1992年5月20日、UEFAチャンピオンズカップ 1991-92決勝、UCサンプドリア戦のメンバー[168]

1989-90シーズン、デンマークのミカエル・ラウドルップ、オランダのロナルド・クーマンといったスペイン国外のスター選手を獲得してチーム強化に努めたが、リーグ戦ではウーゴ・サンチェスエミリオ・ブトラゲーニョを擁するレアル・マドリードが5連覇を達成したため優勝を逃した。そのため再びソシオの間で批判を受けることになりクライフ流の戦術ではなく、守備的な戦術を志向する監督を望む意見が持ち上がったが[169]、ヌニェス会長がクライフを擁護する立場を採ったため残留が決定した[169]

1990-91シーズン、過去2シーズンの反省から守備的なポジションのフェレールユーティリティープレイヤーゴイコエチェア、ブルガリア出身のフリスト・ストイチコフらを獲得する一方で下部組織からジョゼップ・グアルディオラを昇格させるなど、それまで良いプレーを続けながら勝ちきることの出来なかったチームに変化を与えることが出来る選手達と契約を結んだ[170]。シーズン最中の1991年2月26日に心筋梗塞により倒れバイパス手術を受けたため[171][172]、復帰するまでの間は代理としてカルロス・レシャックが指揮を執ったが、2節で首位に立つと、そのまま他チームを引き離しリーグ優勝を果たした。

1991-92シーズン、リーグ戦ではレアル・マドリードとの優勝争いに競り勝ち2連覇を果たすと、UEFAチャンピオンズカップ 1991-92では決勝戦に進出しイタリアのサンプドリアと対戦した。ウェンブリー・スタジアムで行われた試合は両者無得点のまま延長戦に入ったが、111分にクーマンのフリーキックが決まってバルセロナが1-0で勝利し、クラブに初のチャンピオンズカップをもたらした[173]

クライフはボールポゼッション、シュートパス、サイド攻撃を柱とした攻撃的なサッカーを志向し[174]、結果を残すまで時間がかかり批判を受けることもあったが、クライフの思想は徐々に選手だけでなく、クラブの首脳陣、ソシオに浸透し、クラブ全体に欠けていた勝者のメンタリティを植え付けた[175]。在任した8シーズンの間に国内ではリーガ・エスパニョーラ4連覇(1990-91、1991-92、1992-93、1993-94)、コパ・デル・レイ優勝1回(1989-90)、スーペルコパ優勝3回(1991、1992、1994)、国際大会ではUEFAチャンピオンズカップ優勝1回(1991-92)、UEFAカップウィナーズカップ優勝1回(1988-89)、UEFAスーパーカップ優勝1回(1992)を成し遂げた[50]

1980年代後半から1990年代中盤にかけてクライフの作り上げたチームは、1992年バルセロナオリンピックバスケットボール競技において、マイケル・ジョーダンらを擁して金メダルを獲得したアメリカ合衆国代表の通称であるドリームチームになぞらえて「エル・ドリーム・チーム」と称された[176]。また、クライフを招聘したヌニェス会長は、この時期に多くのサポーターを獲得し、クラブの世界的ブランドとしての価値を高めることに寄与した[163]

ドリーム・チームの終焉

[編集]
1994年1月8日、リーガ・エスパニョーラ18節、レアル・マドリード戦のメンバー[174]

1993-94シーズンに新たにブラジルロマーリオが入団[177]。ロマーリオは1994年1月8日に行われたレアル・マドリードとのエル・クラシコにおいて2得点を挙げる活躍を見せるなどシーズン通算30得点を挙げ得点王を獲得した[177]。リーグ戦の優勝争いは首位に立つデポルティーボ・ラ・コルーニャをバルセロナが追い上げる展開だったが、1994年5月14日に行われた最終節の結果、両者が勝ち点で並んだものの得失点差によりバルセロナが上回り4連覇を達成した[178]

一方、国内リーグでの優勝から4日後にギリシャアテネUEFAチャンピオンズリーグ 1993-94決勝が行われ、ファビオ・カペッロの率いるイタリアのACミランと対戦し0-4で大敗を喫した[179]。この敗戦により、これまで築きあげた「ドリームチーム」の崩壊が始まったと評されている[174][180]

1993-94シーズンに外国人選手の出場枠の問題により出場機会を失うことの多かったラウドルップ、GKのアンドニ・スビサレッタがクライフから戦力外と見做され退団[180]。1994-95シーズンが開幕するとロマーリオがホームシックにかかりシーズン途中に退団し[177]、故国のCRフラメンゴに移籍した。この一連の問題が発端となり[177]、人気選手であり問題児として知られるストイチコフがクライフ体制やチームメイトを批判する事態となり[181]、シーズン終了後にはストイチコフと守備の要だったクーマンも退団した[182]

1995-96シーズン、「ドリームチーム」と呼ばれた当時の選手達の多くは既に退団しホセ・マリア・バケーロとグアルディオラ、フェレールの3人のみとなったことで、クライフは「新たなドリーム・チーム」の構築を目指して下部組織で育成された選手達を積極的に登用するなどチーム改革を行った[183]。しかしリーグ戦でアトレティコ・マドリードに競り負け2シーズン続けてタイトルを逃すと、1996年5月18日にヌニェス会長は「クライフは間違った決断を下した」と告発し[184]、監督解任を発表した[185][186][187]

オランダ代表監督問題

[編集]

FCバルセロナの監督を務めていた1990年代当時、オランダ代表監督への就任が取り沙汰された[188][189]。1990年にイタリアで開催された1990 FIFAワールドカップの大会直前に主力選手の間でクライフの監督就任を望む気運が高まったが、代表監督の任命権を持つミケルスがレオ・ベーンハッカーを指名し自らアドバイザーに就任したために実現には至らなかった[189][190]。また、1994年の1994 FIFAワールドカップの大会直前には監督のディック・アドフォカートと選手間の確執が続いたことから、再びクライフの監督就任を望む気運が高まったが[188]、クライフとオランダサッカー協会 (KNVB) との間で合意に達することはなかった[188]。1994年大会の際には1990年大会に比しても就任の可能性が高かったが[191]、負傷中のファン・バステンの復帰の見通しが立たなかったことや、KNVBがクライフに対してコーチングスタッフの人選に関する権限を認めなかったことが就任に至らなかった原因とされている[191]

その後の経歴

[編集]
2009年のクライフ

バルセロナでのキャリアを最後に指導者としての第一線から退き、自身の名を冠した子供のスポーツ活動を支援するヨハン・クライフ財団や、スポーツマネジメントに関する人材育成を目的としたヨハン・クライフ大学オランダ語版を設立し社会貢献に努めた[192]

各クラブやサッカー協会の会長職などの要職を務めた経験はないが、友人でもあるジョアン・ラポルタが2003年にバルセロナの会長に就任した際には、教え子であるフランク・ライカールトを監督に推薦[193]。オランダサッカー協会に対しても、それまでアヤックスの下部組織を率いた経験があるのみで指導者としての実績が十分ではなかったマルコ・ファン・バステンをオランダ代表監督に推薦[193]するなど影響力を行使し続けていた。

バルセロナを巡る論争

[編集]

1996年5月18日、クライフはホセ・ルイス・ヌニェス会長との確執が原因となり[194]、バルセロナの監督を解任された。解任後、ヌニェス会長とクライフの対立や舌戦はエスカレートし、互いに名誉毀損訴訟を起こす事態に発展しただけでなく、マスコミやファンを巻き込んでいった[194]。ヌニェスが解任に際して「クライフの収賄疑惑」を暴露したこともあり、クラブのソシオ達はクライフ派とヌニェス派の二派に分裂し[194]、クラブの会長選挙の際に両派は互いに候補者を擁立するなど対立を繰り返した[194]

1997年の会長選挙でヌニェスは再戦を果たすが、この直後にクライフ派のジョアン・ラポルタらのグループがヌニェスの不信任動議に乗り出した[194]。1998年3月7日にクラブ史上初の不信任投票が行われた結果、30%の賛同を得るに留まりヌニェスの不信任案は否決された[194]。クライフ派はドリームチーム時代のスタイルを崇拝しヌニェスが招聘したルイ・ファン・ハールのスタイルを「退屈」として批判[194]、スタジアムでは抗議を意味する白いハンカチが振られた[195]。また、1999年に行われたドリームチームを記念する行事と前後して、クライフが先頭に立ちメディアを通じてヌニェス会長への批判を展開した[196]

2000年の会長選挙ではヌニェス派は副会長のジョアン・ガスパールを擁立し、クライフ派は企業家のルイス・バサットを擁立[194]。バサットは「クライフを顧問としてクラブに復帰させる」という公約を掲げるも、僅差でガスパールが当選した[194]。クライフはガスパールの就任当初は静観の構えを見せていたが、彼が招聘したセラ・フェレール監督がリーグ戦で4位に終わると、一転してガスパールを擁立したヌニェス派を糾弾し[194]、かつての僚友だったレシャックが後任監督として就任すると彼にもその矛先が向けられ「裏切り者」と批判した[194]。こうしたクライフの姿勢にソシオ内でも、その影響力を懸念する声も現れ始めた[197]

2003年の会長選挙ではバサットとラポルタのクライフ派同士の争いとなった[197]。バサットは対立を続けていた「両派の融和」を掲げたが[197]、「ドリームチームの再現」を目指すラポルタが約9万4000人のクラブ会員の約53%の支持を集めて会長に就任した[198]

2010年4月にバルセロナの名誉会長に就任したが[199]、同年7月に会長となったサンドロ・ロセイがクラブの規定に名誉会長職はないとしたため、名誉会長職を返上した[200][201]

アヤックスを巡る論争

[編集]

2008年2月19日、アヤックスは新たにテクニカル部門を創設し、クライフを責任者として迎えることを発表した[202]。この背景にはアヤックスのトップチームの成績不振や、かつて多くの有望な若手選手を輩出し「世界有数の育成組織」と評されたユース部門からの人材供給が減少するなどの問題が存在した[203]。改革の旗手としてクライフを迎えようとの声を反映したもので[203]、3日後の2月22日には2008-09シーズンからの新監督としてマルコ・ファン・バステンを迎えることを発表した[203]。この時点でクライフの復帰は正式決定には至っておらず、2週間後にクライフとファン・バステンの間で意思疎通を目的とした電話会談が行われたが、その際に両者の意見が対立[203]。クライフは「育成方針に関するビジョンの共有が出来なかった」としてテクニカル部門の就任要請を辞退した[203]

2011年2月、アヤックスのテクニカルアドバイザーに就任した[204][205]

アヤックスの育成部門はこれまで数多くの人材を輩出し、2010年に南アフリカ共和国で開催されたFIFAワールドカップの舞台にヴェスレイ・スナイデルをはじめ6人の育成部門出身の選手達をオランダ代表へ送り出した[206]。スカウト網や育成プログラムが成果を残していると評価を受けていたが[206]、一方でクライフは「育成部門はその価値を失い平凡な組織へ成り下がった。ユースの選手には大胆さや冒険心やテクニックを教え込み、世界中が驚く人材を再び供給しなければならない」と異議を唱え[206]、育成部門の再建は急務であると主張した[206]

同年3月にクラブ運営に関するアドバイスを目的とした「テクニカル・プラット・フォーム」部門の責任者に就任すると、フランク・デ・ブール監督の下でアシスタントコーチを務めていたダニー・ブリントをはじめコーチ陣を解雇し[206]、デニス・ベルカンプやヴィム・ヨンクらを新たに育成部門の責任者に抜擢するなどの組織改革に取り組んだ[206]。こうした動きに対してクラブの幹部の間で物議を醸し、ウリ・コロネル会長をはじめ理事会メンバーが総辞職する事態となった[206]

同年11月16日、エドガー・ダーヴィッツを含むアヤックスの理事4人が2012年7月からルイ・ファン・ハールをゼネラル・ディレクター (GD) として迎えることを発表した[207]。これに対しクライフは「私の不在時に決定された」と主張しベルカンプをはじめ育成部門の10人の指導者と共に裁判所に提訴した[208][209]。12月の一審、2012年2月の二審で共にクライフ側の訴えが認められファン・ハールのGD就任の差し止めが申し渡された[210]

カタルーニャ選抜

[編集]
最後の采配となったナイジェリア戦で表彰を受けるクライフ。

2009年11月9日、カタルーニャ選抜の監督に就任した[211]。なおカタルーニャ選抜は国際サッカー連盟 (FIFA) や欧州サッカー連盟 (UEFA) に加盟しておらず国際大会の公式戦への出場資格を有していないため親善試合のみ行なっている代表チームである[211]。同年12月22日に行なわれた初采配のアルゼンチンとの親善試合に4-2で勝利[212]、2010年12月28日にはホンジュラスと対戦し4-0で勝利[213]、2011年12月30日にはチュニジアと対戦し0-0で引き分けた[213]

2012年11月11日、「カタルーニャ選抜の監督を務めたことは誇りに思うが一つのサイクルの終わりの時が来た」として監督辞任の意向を示し、2013年1月2日にナイジェリアとの親善試合が最後の采配となった[214]。試合は1-1の引き分けに終わったがクライフの指揮の下でカタルーニャ選抜は2勝2引き分けと無敗の成績を残した[214]

CDグアダラハラ

[編集]

2012年2月25日、メキシコCDグアダラハラのアドバイザーに就任したことが発表された[215]。契約期間は3年[215][216] で、オーナーであり実業家のホルヘ・ベルガラ英語版は「クライフに300万から500万ドルの給与を支払いクラブの再建のために全権を与えた」と語った[216]。アドバイザー就任に際してクライフはクラブ側に忍耐を求めたが[217]、9か月後の2012年12月に契約解除が発表された[217]

晩年と死

[編集]
晩年期 (2013年)

2014年、FCバルセロナではサンドロ・ロセイの後任として副会長のジョゼップ・マリア・バルトメウが会長に就任。任期を1年残して2015年7月18日に行われた会長選挙においてバルトメウは54.63%の支持率を得てクライフ派のジョアン・ラポルタを退け勝利した[218][219]。また、テクニカルアドバイザーを務めるアヤックスでは国内リーグ4連覇を成し遂げる一方で、「国際舞台で再び結果を残せるクラブとなる」という目標を果たせずにいた[220][221]。そのため、両クラブに対する影響力の低下や[219]、アヤックスについてはクライフの主導の下で行われてきたユース選手育成を柱としたクラブ再建計画に対する問題点が指摘された[221]

2015年10月22日、スペインバルセロナの病院で検査を受けた際に肺がんが発見されたことを発表した[222][223][224]。クライフの公式ウェブサイトは「ヨハンと彼の家族のプライバシーおよび検査結果が確定していない点を尊重するため、現時点において詳細を発表することはできない」としていた[222]。この発表を受けて、10月25日に行われたバルセロナ対SDエイバル戦や、10月23日から10月25日にかけて行われたエールディヴィジの全試合において、クライフの現役時代の背番号にちなみ前半14分に合わせ、観客によるスタンディングオベーションが行われた[225]

同年11月16日、クライフの示す展望がクラブ側に受け入れられていないことを理由にアヤックスのテクニカルアドバイザーを退任した[226]。翌2016年2月13日に公式ウェブサイト上において診断結果は極めて良好であることを公表し、「現時点では前半を2-0でリードしているといった感じだ。試合はまだ終わっていないがね。だが、私は勝利を確信している」と病状をサッカーに例えた[2][227][228]

その後、同年3月中旬まで『デ・テレフラーフオランダ語版』紙上の週刊コラムの連載を続けていたが[229]、闘病生活の末に3月24日にバルセロナで死去した[230][231]。68歳没[232][233][234]。翌3月25日、遺体はバルセロナ市内で近親者によって火葬された[235]。彼の死に際してオランダ国王のウィレム=アレクサンダー、現役時代にライバル関係にあったフランツ・ベッケンバウアー、教え子のジョゼップ・グアルディオラをはじめ各方面から哀悼の意を示すコメントが寄せられた[230][232][236][237]

同年3月25日、アムステルダム・アレナで開催された国際親善試合のオランダ代表フランス代表戦では、両国の選手が喪章を着用し、試合前にクライフを悼んで黙祷が捧げられた[238][239]。また、試合の前半14分でプレーを中断すると観客が一斉に立ち上がって拍手を送り、スタンドには選手時代の姿をかたどった横断幕が掲げられた[239][240]。終了間際の86分にはオランダ代表のイブラヒム・アフェレイが得点を決めると背番号14を指で示すゴールパフォーマンスを見せ、クライフの生前の功績を称えた[238]。同年3月30日、ウェンブリー・スタジアムで開催された国際親善試合のイングランド代表戦では、オランダ代表の選手が胸に14の数字が入ったユニホームを着用したが、フランス戦と同様に前半14分に合わせて観客から拍手が送られた[241]

長年にわたって関わりのあったFCバルセロナの本拠地・カンプ・ノウには追悼スペースが設けられ、3月末の時点で約6万人のファンが追悼に訪れた[242]。また、4月2日にホームで行われたレアル・マドリード戦ではスタンドに「GRÀCIES JOHAN(ありがとう、ヨハン)」のメッセージや背番号14のユニフォームをかたどった人文字が掲げられ、1分間の黙祷が捧げられた[243]。クライフが選手として最初に所属したアヤックスでは4月2日にアムステルダム市内で約3,000人のファンによる行進が行われ、4月3日に開催されたPECズヴォレ戦では試合前に背番号14のユニフォームをかたどった横断幕がピッチやスタンドに掲げられ、試合の前半14分でプレーを中断すると観客から拍手が送られた[244]

死後、クライフの功績を讃える目的でアムステルダム・アレナをヨハン・クライフ・アレナへ改名を検討していることが2017年8月9日に発表され、2018年4月5日には名称変更が正式決定したとアヤックスは公式HPで発表した[245]

人物

[編集]

プレースタイル

[編集]
1971年のクライフ。

身長178cm、体重67kgという細身の体躯をしていたが、瞬間的な加速力を生かしたドリブル突破を得意とし[78][246][247]、急加速急停止を繰り返し相手守備陣を翻弄した[78][248]。細身の外見であるにも関わらずマークすることが難しく、捕らえ所がなかったことからオランダでは「ウナギ」とも呼ばれていた[249]

利き足の右だけでなく、左足でも正確なパスを供給する技術の正確性を持ち合わせていた[23][78][246][247][250]。一方で、現役時代を通じてペナルティーキックを滅多に蹴ることがなかったことでも知られている[251]。この理由についてクライフは「第一に静止した状態ではなく、試合の流れの中でのキックを得意としていたため。第二にキックの威力の問題があったため」としており[251]、「極度の緊張下で行われるペナルティキックは私にとっても不安にかられる一瞬だった」と語っている[252]

ピッチ上においての全体的な状況を把握する能力に長け[253]、味方選手がプレーするためのスペースを生み出し、見出す為には「いつどこにポジションを採るのか」「いつどこに走り込むのか」「いつどこでポジションを離れてはいけないのか」について常に思考していたという[254]。試合時にはオーケストラ指揮者の様に仲間達に対して詳細に指示を送り自らの思考を伝えた[254]。ピッチ上での指揮官ぶりは時にドリブルやパス、スペースへの走り込みといった積極的にボールへと関わるプレーよりも印象を残した[254]

名義上はセンターフォワードというポジションだが[18][146][255]、試合が始まると最後尾や中盤、タッチライン際という具合に自由にポジションを代えてボールを受け[18][146][255]、ドリブルやパスで攻撃を組み立てると共に、得点機に絡んだ[18][146]。また、他の選手もクライフの動きに連動してポジションを目まぐるしく移動させた[146][255]。チーム全体がクライフの動きに応じてポジションを修正する様は「渦巻」「変幻自在」と評され、その中心には常にクライフが存在した[255]

この他に現役時代のプレーとしては軸足の後ろ側にボールを通しながら180度ターンする「クライフターン」と呼ばれるフェイントを考案したことでも知られ、サッカーの基本テクニックの一つとなっている[256]

背番号14

[編集]
1974年のワールドカップ決勝で敗れ、ピッチを後にするクライフ。

クライフの代名詞である背番号14」はアヤックス時代から好んで着用していた[257]。1970-71シーズン開幕の際にクラブは個々の選手に固定の背番号を着用させることにしたが、クライフは攻撃的なポジションの選手が身に付ける「7」から「11」までの背番号ではなく、控え選手が付ける「14」を選んだ[146][257]。この理由について役員が尋ねると、クライフは

9番はディ・ステファノ、10番はペレの背番号だ。私は誰も身につけていない14番を「クライフの背番号」にする。 — ヨハン・クライフ

と答えた[146][257][258]。1974年のワールドカップに出場した当時のオランダ代表では、背番号は選手のアルファベット順に身に付けることになっていたため[257]、頭文字が「C」で始まるクライフは本来であれば「1」番を着用するはずだったが[257]、特例として「14」を着用することが認められた[257]

なお、アヤックスでは背番号「14」を着用していたが、FCバルセロナでは当時のリーガ・エスパニョーラは固定制の背番号ではなく先発メンバーは試合毎に「1」から「11」の背番号が割り当てられる規程となっていたため背番号「9」を着用し[259]フェイエノールトでは引退したヴィレム・ファン・ハネヘムの背番号だった「10」を着用してプレーした[260]

2007年4月25日、クライフの代名詞となった背番号「14」はアヤックスの永久欠番となった[261]

監督としての戦術

[編集]
クライフがアヤックスの監督時代に採用していた4-3-3の布陣[262]。中央に位置するDFのうちの1人をディフェンスラインより前方に配して攻守の舵取り役を担い、3人のFWのうち左右のウイングをタッチライン際まで開かせサイド攻撃を仕掛けることが特徴[263]

選手としてのクライフは選手が頻繁にポジションチェンジを繰り返す「トータル・フットボール」の体現者となったが[264]、監督としては変則的な4-3-3フォーメーションや3-4-3フォーメーションを駆使し、選手をピッチ全体に配置させて攻撃サッカーを展開するスタイルを追及した[264]。中盤にダイヤモンド型の陣形を構築するこれらのシステムの効能としては次の点などが挙げられる。

  • 「試合を進行する際に、ピッチ上に数多くのトライアングルを形成することが出来る[264][265]
  • 「パスコースが常に二方向以上存在する[264][265]
  • 「ピッチ全体を幅広くカバーすることが可能となる[265]
  • 「守備に回った際に前線の選手が即座に相手のチェックに移ることが出来る[265]

アヤックスの監督時代に採用していた4-3-3フォーメーション(アヤックス・フォーメーション)では、フィールドの中央に位置するゴールキーパーセンターバックリベロ攻撃的ミッドフィールダーセンターフォワードの縦軸の5人が攻守の鍵となり、相互の意思疎通とコンビネーションを重要視した[266]

GKはペナルティエリア内で相手の攻撃を阻止するだけでなく、攻撃時にはゴールから離れフィールドプレーヤーの1人としての役割もこなした[262]。守備陣ではリベロの選手が積極的に中盤や前線に進出するのに対して、センターバックは最後尾から攻撃の起点としてロングパスを駆使してゲームを構築[262]。左右のサイドバックに位置する2人の選手はサッカー界で主流となっていた積極的な攻撃参加を行ず[267]、与えられたポジションとスペースのカバーリングに徹した[267]

中盤は左右の2人は後方から攻め上がったリベロの動きに応じてポジションを修正すると共に[267]、リベロの進出により生じた後方のスペースや他の選手のミスをカバーする調整役を担った[262][267]。攻撃的ミッドフィールダーの選手は常にセンターフォワードと5mから10m以内の間隔でポジションを採り、ボールを保持してゲームを動かすのではなく[267]、センターフォワードのためにスペースを作り出し、動きをサポートするなどの関係性を意識させた[267]

前線では左右のウイングに位置する選手がタッチライン際まで開いてセンタフォワードの為にスペースを確保し[267]、攻撃時にはドリブルで対峙する相手を圧倒することを求め、守備時には3人が連携してボールを保持する選手に対してプレッシングを行った[267][注 9]

ただし、ここで述べたアヤックス時代のシステムはあくまでも優れたセンターフォワードが存在する場合の事例だとしている[269]。両サイドのフォワードに2人のウイングを配するコンセプト自体は変更はないが[269]、優れたセンターフォワードが存在しない場合は定型的な4-3-3フォーメーションを採用せずにセンターフォワードの位置には選手を配置せずにゲームメイク力のあるフォワードを前線から下がり気味に配置し中盤に近い位置でプレーをさせた[269]

バルセロナで監督を務めていた当時も3トップや中盤でダイヤモンド型の陣形を作るなどのコンセプトは変わりなかったものの[269]、DFを3人にして3-4-3フォーメーションを採用する機会が多かった[264][269]。その背景には対戦する多くのチームが2トップを採用していたというスペインサッカー界の事情と[264][269]、1980年代後半にACミランを率いたアリゴ・サッキが主唱したプレッシングスタイルの戦術に対抗するための意図があった[264]。一方、バルセロナでは基本的に選手が自由に陣形を崩すことを認めていなかったとの指摘もある[264]

アヤックスやバルセロナでは「パスを繋いで常に自分達のチームがボールをキープして攻撃を組み立て試合の主導権を握る」ボールポゼッションのスタイルを定着させたが[270]、一方でそのスタイルを打ち破られた際の守備のリスクは大きく[195][271]、戦術的な欠点を露呈することもあった[270]。攻撃に人数を割き前掛かりになるため守備が手薄となり[271]、前線の選手達がボールを奪われた際、相手にチェックを掛けボールを再奪取することに失敗し守備陣の裏にロングパスを通されれば一転して危機的な状況となった[271]。不安定な守備と、その欠点を補って上回る攻撃力がクライフの志向した戦術の魅力でもあった[270][271]

人となり

[編集]
1972年にオランダ放送協会の番組に出演した際のクライフ。右から一人をおいてクライフ、シャーク・スワルト。司会者のフレット・エメルオランダ語版

自分の理想や目標を達成するために周囲を引きこんでいく並外れたカリスマ性のある人物と評されている[272]。インタビューにおいて世界最高の選手と言われることについて問われた際に「私もそう思う」と答えたことがあるだけでなく[273]

私が思い出すことは、私が一番優れていたということだけだ[274]
多くの人々から『最高の選手』と賞賛されるが、自分でもそのように考えている。しかし裏返せば多くの低水準な選手達と共に長年プレーをしていたことを意味する[275]

と公言してはばからない自信家であり我が強く[175]、ミスを絶対に認めない頑固さを持ち合わせていた[175][276][277]。監督になったばかりのころにオランダサッカー協会から監督講習を受けるように通達された際には、「いったい誰がオレにサッカーを教えられるんだ?」と反論したこともあった[277]。13歳の時に受けた職業適性検査では「能力は平均水準をやや上回るが精神的にも肉体的にも未成熟である。感情的で常に刺激を求め興味の対象が頻繁に入れ替わりやすく、勉学よりもスポーツに興味を示す。精密さを必要とする職業には不向きであり強いてあげるならば貿易などの商業に向いているだろう」と診断されている[31]

一方で、こうした自信家としてや感情的な側面は、報道陣や他の選手からの介入や外部の人間からの圧力を避けるための身を守るための人格であり[278]、根底には親切心があり有名人然として振る舞うことを嫌っているともいわれていた[278]

会話好きな性格で、一旦話し出すと止まらない側面があった[279][280]。選手時代には試合中に休むことなく選手に指示を出していたことからドラマの『わんぱくフリッパー』の主人公のイルカになぞらえて「フリッパー」とも呼ばれた[281]。バルセロナの監督を務めていた1990年代にオランダの番組のインタビューに応じたところ予定の時間を上回り30分近く会話を続けたため、番組スタッフが編集作業で取捨選択することが困難となり、改めてクライフのための番組が製作された[279]。また、オランダ国民には兵役が義務付けられているが招集を受けた際にクライフが医師と直接交渉して相手を根負けさせ兵役が免除されたエピソードや[282]、1971年にオランダ君主のユリアナ女王と接見した際に税制についての見直しを直訴したため物議を醸したエピソードもある[283]。クライフ自身はこの癖に気づいており、「私の悪い癖は、すべてを把握しすぎてしまい、そのため常にしゃべらなくては気が済まなかったことだ。そしてどんな状況でも、すぐ誰かのミスを指摘していた。文句を言っていたのだ。それが私の中で、一番悪かった特徴だ」と反省しつつも[280]、「しゃべる」ことこそサッカーの基本と考えていたという[280]

さまざまな渾名を持ち合わせており、選手時代には「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン[1][2][11][12]」、「エル・サルバドール[2][3]」(El Salvador救世主の意)の他に「エル・フラコ」という渾名でも呼ばれていたが[4]、これは1973年にバルセロナへ入団した当時、痩せた体格であったことに由来している[4]。バルセロナの監督を務めていた当時の選手達は、かつてのスター選手への畏怖の念から「」と呼んでいた[4]。また、イニシャルの「J.C.」がイエス・キリストと同じであることから、1970年代に流行したロック・ミュージカルの『ジーザス・クライスト・スーパースター』に準え「スーパースター」とも呼ばれた[2][3][5]

言語感覚

[編集]

独特な言語感覚や文章表現の持ち主であることでも知られ[175][284]、クライフ語録 (Cruyffian) と呼ばれる独自の理論が人気を博している[284][285]。クライフの発言で本が一冊まとめられたこともあり、「"Typisch Cruiffiaans:Uitspraken"(典型的クライフ語・発言集 クライフライブラリー出版)」という語録集も出版されている[285]。 還暦を迎えた2007年にAFP通信が1200人のファンを対象に行った調査によると以下の名言が上位に挙げられた[284]

あらゆる欠点には長所がある
我々がボールをキープし続けていれば、相手は永遠に得点することはできない
相手が何点取ろうが、それより多くの得点を取れば問題はない

なお同じ調査において25%の人々が「クライフ語録を理解できる」と回答した[284] のに対し、53%の人々が「時々理解が出来なくなることもあるが、気にしていない」と回答している[284]。母国語のオランダ語の他に、英語スペイン語を話すことが出来る[23][175] ことから選手時代には監督に代わって記者に説明役を買って出ることもあった[23]。しかし長年スペインに在住していたにも関わらずスペイン語は上達していなかった、との指摘もある[175]

家族

[編集]
結婚式でのクライフ夫妻
オランダ代表としてプレーするジョルディ(右から3人目、背番号17の選手)

妻であるダニー・コスターとは1967年に行われたピート・カイザーの結婚式を通じて知り合い[286]、1968年12月に結婚すると3人の子供をもうけた[287]。長女シャンタル(1970年生)はクライフがバルセロナの監督を務めていた当時の控えゴールキーパーだったヘスス・マリアノ・アンゴイ英語版と結婚[288]。アンゴイは1996年にバルセロナを退団し引退するとアメリカンフットボール選手となり、NFLヨーロッパバルセロナ・ドラゴンズ英語版[289] などでプレースキッカーを務めたが後に離婚した[290]

次女スシラ(1972年生)は物静かな性格であるが父親に似て自己主張が強く、10代から20代の時期に馬術障害飛越競技の選手を志したが膝の故障により断念した[290]

末っ子のジョルディ(1974年生)はクライフがバルセロナ在籍当時に産まれたため、キリスト教の守護聖人・聖ゲオルギオスカタルーニャ語読みである「サン・ジョルディ」に因んで[291]「ジョルディ」 (Jordi) と命名した[292]。後に父親と同様にサッカー選手になるとバルセロナやマンチェスター・ユナイテッドデポルティーボ・アラベスなどに在籍した[293]。また、オランダとスペインの二重国籍を有することから[291]、いずれかの代表チームを選択する権利があり一時はU-21オランダ代表の招集を辞退していた[291]。最終的に1996年4月にオランダ代表を選択し[291]、同年にイングランドで開催されたUEFA欧州選手権1996に出場するなど国際Aマッチ9試合に出場した[293]

実兄のヘニーもサッカー選手でありポジションはディフェンダーを務めていた[294]。クライフと同様にアヤックスの下部組織で育ちトップチームへ昇格を果たしたが大成せずに数シーズンで引退し、その後はスポーツ用品店を経営した[294]。ヘニーの娘でクライフの姪にあたるエステル・クライフオランダ語版はタレントとなり、2000年にルート・フリットと結婚したが2013年に離婚が成立した[295]

嗜好

[編集]

好きな選手は1950年代のスター選手であるアルフレッド・ディ・ステファノ[48][296][297]と、「ロッテルダムのモナ・リザ」と呼ばれドリブルの名手だったファース・ヴィルケス[296][注 10]、好きな監督はリヌス・ミケルス[296]、苦手な選手としては1974年ワールドカップ決勝で徹底マークを受けたベルティ・フォクツ[296] の名を挙げている。特にディ・ステファノのセンターフォワードでありながらミッドフィールダーの位置で幅広く動き周り積極的に守備に加わる、従来の概念を覆すプレースタイルを理想としていた[48]。なお、若い頃のクライフは自身より1歳年上でマンチェスター・ユナイテッドFCに所属していたジョージ・ベストに例えられ「オランダのベスト」と称されたこともあったが[123]、前述のようにディ・ステファノのファンであったクライフは、才能がありながら不摂生が災いして表舞台から姿を消したという過去を持つ[123]ベストに例えられることを嫌っていた[48]

選手時代はプーマ社とスポンサー契約を結んでいた[299][300]1974 FIFAワールドカップのオランダ代表ではオランダサッカー協会が契約していたアディダス社のサッカーシューズの使用及びユニフォームを着用することを拒否し[299][300]、オランダ代表での試合が近づくとオランダサッカー協会のスタッフとアディダスの代表担当がカミソリでユニフォームに施されたアディダスのシンボルである3本線の内一本を削ぎ落とし[300]、2本線となったユニフォームをクライフは着用して試合に出場していた[299][300][301]。また監督時代には、自らが設立したスポーツブランド『クライフ・スポーツ』以外のジャージやスーツを着用することを拒否し[300]、バルセロナの監督に就任した際には契約書に「自分が着る服は自分で決められる」という条項を盛り込んでいた[300]

趣味のゴルフは選手時代にオランダからスペインへと移籍した直後の1973年頃に始めた[302]。その際にプロゴルファーのセベ・バレステロスを紹介され、彼がクライフの所属するバルセロナのファンだったことから交流を続けたという[302]。引退後は数多くのアマチュアトーナメントに出場しているが[303]、2006年6月に専門誌『ゴルフ・ウィークリー』が掲載したオランダゴルフ協会オランダ語版のハンディキャップインデックスによるとクライフのハンディは35,3だった[304]

喫煙と健康問題

[編集]

15歳の頃からヘビースモーカーであり[305]、選手時代にはハーフタイム中に体を休める仲間達を尻目に一服していたとの逸話もあった[305]。引退し監督になった後も喫煙は続けられ、ベンチで頻繁にタバコをふかす姿が確認されていたが、1991年2月26日に心筋梗塞により倒れ、バイパス手術により一命は取り留めた[305]。手術後は医師から禁煙が言い渡され、タバコの代わりにチュッパチャプスを舐めるようになった[2][305][306][307][308]。監督時代には毎日80本のタバコを吸っていたとされている[226]

カタルーニャ州政府の依頼により、若者の喫煙防止のためのコマーシャルに出演した[305][309]。このコマーシャルは背広姿のクライフがボールの代わりにタバコの箱をリフティングし、「サッカーはつねに私の人生だった」と言ったわずかな沈黙の後に箱を蹴り飛ばすと箱は破裂し[310]、最後に若者に向けて「喫煙は危うく私の人生を奪うところだった…[310]」「喫煙はバカなことである。悪習にならないように気を付けよう[305]」というメッセージが添えられるという内容だった。このCMはスペイン語カタルーニャ語英語ドイツ語フランス語オランダ語で放送された[310]

その他

[編集]
1969年、音楽スタジオでレコーディング中のクライフ。
  • 1969年に歌手のペーター・クールワインオランダ語版との共演でOei oei oei (dat was me weer een loei)というシングルを発表した。レコーディングの際にクライフはリズム感を保って歌うことが出来ずブランデー入りのコーラを飲んだ上で再びレコーディングを行った[311][312]。このシングルはオランダ国内では目立った売り上げを残せなかったが、後にクライフが移籍したスペイン国内で人気を獲得したことから1974年にスペイン語に翻訳されて発売された[312]
  • ルイ・ファン・ハールとは犬猿の仲として知られる[313]。クライフは機会がある度にファン・ハールの指導方針を批判していたが[314]、クライフの姿勢をファン・ハールも快く考えておらず2010年に「クライフは毎週のように私を無責任に批判し続けバルセロナでの仕事を挫折させようとした」と批判した[314]。ファン・ハールは仲違いのきっかけについて2009年に出版した自伝の中で「1989年にクライフの家族からクリスマスのパーティーに招待されたが私の姉妹の容態が急変したため誘いを断った。そのため気まずい関係となった」と告白した[315]。これに対してクライフはオランダのテレビ局「RTVノールト」の取材に応じ「私は覚えていないが、ファン・ハールはアルツハイマー病なのだろう。私が解決すべきことは何もない」と発言した[315]。また『デ・テレフラーフオランダ語版』紙で連載している自身のコラムの中では「通常であればコメントしたくもないが、家族を守ってきた私の限度や価値観を超えている[315][316]」と発言した。

思想

[編集]

選手としても監督としても攻撃的サッカーの信奉者であり[317][318]、攻撃をせずに守備を固めるような、美しくないサッカーに価値はないという思想を持っていた[317]。そのためカウンターアタックに代表される守備的な戦術[319]、中盤を省略してボールポゼッションと相互のコンビネーションを欠いた戦術[320]、一部のスター選手の個人主義と個人技に頼った戦術[320]、結果のみを重視する風潮に対しては常に批判的だった[321]。こうしたスタイルの実践は退屈なサッカーの横行に繋がるだけで[322]サッカーの為にならない[323]と主張しているが、自らの理想とするサッカーを遂行する上で最も重要な要素は走力ではなく頭脳や技術であるとし次のような言葉を残している。

試合の中でのスピードを維持するために、パスは味方の足下ではなく常に味方の1m先に出さなくてはならない。また、選手Aが選手Bにパスを出す際、3人目の選手CはBからパスが出る場所を予測して走りこむように心がける。サッカーとは頭で考えるスポーツなのだ[324]
ユーロ2008の頃から、試合中に一番多く走ったFWやMFが賞賛されるようになったが、こういうトレンドは、私のサッカー観とは完全に相反している。私に言わせれば、1試合で10kmも攻撃陣が走るのは、間違ったポジショニングをしているからだ。無駄に体力を消費してしまうと、判断が鈍り、プレーの切れが悪くなり、結果的にチームにとってもマイナスになってしまう[325]

この他に、クライフはことある機会に「サッカーとは楽しむものである」という趣旨の言葉を残しているが[326][327][328]、現代のサッカー界にはその「楽しさ」が欠けているとして以下の言葉を残している[328]

現代のサッカーには「楽しさ」が欠けている。子供のころから、走ること、闘うこと、結果を求めることばかり追求し、基本的な技術すら身に付けないことは馬鹿げている[2][328]
私が現役のころはプレーをすることが楽しくてしかたなかったが、時代が変わったのだろうか。顔を引きつらせ拳を握り締めながらプレーする選手はプレーを楽しんではいないし、サッカー選手というよりは陸上選手である。私は理想主義者だから、サッカー選手がいい[329]
頑張って走ればいいのではない。それを見たければ、陸上競技のフィールドに行きたまえ。走ることは楽しいけれど、フットボールの基本はどんな時代でもテクニックなのだ[330]

なお、2002 FIFAワールドカップブラジルが優勝した際には個々の能力は評価しつつルイス・フェリペ・スコラーリの採用したカウンター戦術について「アンチフットボール[331]」「ボールの出所にプレッシャーを掛け3-5-2フォーメーションの両サイドの選手を守備に忙殺させてしまえば平凡なチーム[320]」と評したが、こうした歯に衣着せぬ発言について「率直に考えを述べているだけであって、優勝したこと自体を非難しているのではない。優勝したブラジルには敬意を表したい。ただし、魅力は感じない」と評している[320]

UEFAチャンピオンズリーグ 2009-10インテルナツィオナーレ・ミラノが優勝した際には、決勝戦バイエルン・ミュンヘン戦でのインテルの選手について「インテルの守備陣形や、選手たちのポジショニングは素晴らしかったと思う」としつつも[332]、「しかし守った後は、見るに堪えないサッカーだった。8割以上は、まるで目をつむって適当に蹴っているかの様なクリアボールだった。あのようなやり方で勝つことは、一時の快楽としては最高だろう。しかしこの勝利がイタリアリーグの未来に、何かをもたらすとは思えない」と批判的な意見を述べて「私は少しも興奮しなかった」と評し[332]、またインテル監督のジョゼ・モウリーニョを指して「モウリーニョは素晴らしい監督だが、私のチームを任せたいとは思わない」と切り捨てている[333]

クライフには、以下のような5つの思考法があった[334]

  • 「『ひらめき』常に常識を疑い、新しいことに挑戦する。」
  • 「『度胸』誰を敵に回そうと、まったく引かない。」
  • 「『はったり』権威を認めず、自分が一番だと言い続ける。」
  • 「『イタズラ心』ピッチの中でも外でも、人を驚かすことに楽しみを見出す。」
  • 「『相手の限界点を試す遊び心』ルールは素直に受け入れず、どこまで脱線が許されるかを、駆け引きしながら探り出す。」

また、クライフは自著の『Ik hound van voetbal』(私はサッカーを愛している)の巻末において、選手たちへのメッセージとして以下の「10の心得」を記している[335]

  • 「1.サッカーはショーだ。でなければサッカーではない」
  • 「2.選手は常に技術の追求を考えなければならない」
  • 「3.他の人から学ぶ姿勢を持たなくてはいけない」
  • 「4.楽しむことが、サッカーでは特に重要」
  • 「5.チームメイト、サポーター、審判を尊敬することは、スポーツの基本であり、人生の基本だ」
  • 「6.チームメイトと、いい同僚でいるべき。他の選手が犯した間違いも受け止め、お互いを助け合うべき」
  • 「7.サッカーでも、人生でも、チームで機能しなくてはいけない。1人では試合に勝利することはできない」
  • 「8.100%の労力をささげることは、サッカーでは当然のこと」
  • 「9.サッカー選手は社会への責任がある。クラブやサポーターの代表だからだ」
  • 「10.サッカーは個人の成長を助ける。人間としても成長させてくれる」

影響

[編集]

選手

[編集]
1980年代から1990年代に活躍したマルコ・ファン・バステンはクライフと比較の対象となっていた。

クライフの影響を受けていると公言している選手としては、オランダのマルコ・ファン・バステン[336][337]フランク・ライカールト[338]、フランスのミシェル・プラティニ[339]ダヴィド・ジノラ[340]、ドイツのピエール・リトバルスキー[341]、ルーマニアのゲオルゲ・ハジ[342]、ブルガリアのフリスト・ストイチコフ[343]、イングランドのポール・ガスコイン[344]日本西野朗[345]らがいる。オランダ代表や所属クラブでも同僚だったヨハン・ニースケンスは豊富な運動量とボール奪取能力が持ち味の選手だったが、クライフと同じ「ヨハン」という名前を持つこともあり「ヨハン二世」「第2のヨハン」と呼ばれていた[346]

1980年代から1990年代にはファン・バステンが「クライフの再来」として紹介されたことがあり[347]、しばしば比較の対象となっていた[348]。クライフとファン・バステンは同じポジションでプレーし共に高い能力を持ち合わせていたが[348]、クライフがピッチ全体を幅広く動き回り指揮者の様に振舞ったのに対し[348]、ファン・バステンは得点を挙げることにプレーを特化させるなど[348]、両者のスタイルは明確に異なっていた[348]。ファン・バステンはクライフとの比較について1992年のバロンドール授賞式の際に「クライフは私以上の才能と強さを持ち、ドリブラーでありストライカーでもある万能型の選手だ。そして日々のトレーニングにも励む努力家でもあった。クライフとの比較は名誉なことだが、私が彼に並ぶことは決してない」と評した[349]

ブラジルのサッカー指導者のレヴィー・クルピセレッソ大阪時代に指導した日本の香川真司のプレーについて「香川はピッチのあらゆる場所に現れ、相手の守備陣をすり抜け、シュートを放ち得点を決める。さながら1974年のクライフを思い出させる」としてクライフとの類似性を指摘している[350]

指導者

[編集]

スペイン

[編集]
ジョゼップ・グアルディオラは「クライフが現代サッカーの基礎を作った」と評している。

バルセロナの監督時代に志向した[351]、パスを繋ぎボール支配率を高めることで試合の主導権を握り続ける攻撃的なサッカースタイルは、監督が代わった後も下部組織(カンテラ)を通じてクラブのサッカースタイルとして浸透した[11][351][352][353]。監督時代の教え子であるジョゼップ・グアルディオラは2008年から2012年までチームを率いてドリームチームの打ち立てたタイトル獲得数を上回る結果を残したがグアルディオラ指揮下のバルセロナでは、通常であれば守備時には自陣へ下がりゴール前に守備ブロックを形成し相手の攻撃に対処するのに対し[354]、相手にボールを奪われた際には即座に複数の選手でチェックを掛けて相手陣内にいる内にボールを奪い返し[354]、奪い返せない際にもパスコースを限定させミスを誘発させ奪い返す前線からの積極的な守備を採用することで[270][354]、クライフ時代に欠点と言われた守備面の修正を施した[270]

このことから、ドリームチーム時代の主力選手であるロナルド・クーマンは「チームとしての安定度と守備組織において、グアルディオラが率いるチームはかつてのドリームチームより優れている」と評したが[355]、クライフは「グアルディオラの成功はカンテラ出身の選手が多く存在するからこそ可能なのであり、20年に渡るサイクルの一つに過ぎない。2つのチームを比較して優劣を決めるより、20年という長いサイクルにおいての成功について評価するべきだ」と評した[356]

またシャビ・エルナンデスアンドレス・イニエスタセスク・ファブレガスといったバルセロナのカンテラ出身選手を多数擁する2000年代以降のスペイン代表はバルセロナのサッカースタイルを模倣しているとも言われ[352][353][357]、同代表チームが2006 FIFAワールドカップに出場した際に見せたパスを丁寧に繋ぐサッカーはスペイン国内で「ティキ・タカ」 (tiqui-taca) として紹介されると[358]、やがてヨーロッパ中にその名が知れ渡るようになった[358]。ティキ・タカとは玩具アメリカンクラッカーを鳴らす時に発生する音を字句で表した擬声語である[358]。同代表チームはUEFA欧州選手権2008ではルイス・アラゴネス2010 FIFAワールドカップUEFA欧州選手権2012ではビセンテ・デル・ボスケに率いられて、それぞれ優勝を果たしたが、前述の「ティキ・タカ」は代表チームのサッカースタイルとして継承されている[351]

オランダ

[編集]

ルイ・ファン・ハールは1991年からアヤックスの監督に就任するとクライフ監督時のシステムに修正を施した3-4-3システムを採用[265]。選手に組織立ったプレーと規律を徹底させ[265]、国内リーグ3連覇を果たし国際舞台においてもUEFAカップ1991-92優勝やUEFAチャンピオンズリーグ 1994-95優勝に導いた。1997年からはバルセロナの監督に就任し、アヤックス時代に育成した多くの教え子達を加入させて重用し組織的サッカーを実践したが、クライフ以上にシステムや個々の役割にこだわり[264]、選手の才能よりも自らのゲームプランを遂行させることを重視した[264]。クライフはファン・ハールの監督としての実績は認めながらも、指導方針については「彼のサッカーに対する哲学と私の哲学とは相反する[359]」「私は現場でのプレーの実践こそが基本と考えているが、彼は自らの理論とデスクワークに時間を費やす。最良の指導とは戦術の講義ではなく、ピッチ上でプレーを実践し学習することだ[360]」と否定的な立場を採っている。

フース・ヒディンクはオランダ代表監督として1998 FIFAワールドカップで指揮を執り同国を1978年大会以来20年ぶりのベスト4進出へと導いたが、その際に「このチームの強さは1974年大会のチームと異なり、クライフのような1人の選手に依存しない点にある」と評した[361]

2007年にはU-21オランダ代表監督を務めていたフォッペ・デ・ハーン英語版が「クライフの主唱する前線に2人のウィンガーを配するシステムは時代遅れであり現代サッカーには適さない」と主張し、クライフとの間で論争が行われた[362]。デ・ハーンは持論に従い4-4-2フォーメーションを採用してUEFA U-21欧州選手権において優勝に導いたことで世論の支持を集め[363]、オランダ代表においてもこのフォーメーションを採用するべきだとの批判が沸き起こった[363]。また、ファン・バステンの率いたオランダ代表のUEFA欧州選手権2008での敗退やデ・ハーンとの論争を受けて、評論家のヘンク・スパーンオランダ語版サイモン・クーパーらもクライフの思想を批判した[362][363]

ファン・バステンの後任としてオランダ代表監督に就任したベルト・ファン・マルワイクも同様に4-2-3-1フォーメーションとカウンター攻撃を採用したが[319]、こうしたオランダ代表の傾向についてクライフは一定の理解を示す一方で、「美しくない」と批判的な立場を執っていた[319][352]2010 FIFAワールドカップ・決勝ではスペインとオランダというクライフの影響を受けた代表チーム同士が対戦しスペインが勝利したが、クライフは「スペインの勝利は私の思想が間違いではなかったことを証明した」と評した[352]

その他

[編集]

アルゼンチンホルヘ・バルダーノはクライフに追随し1990年代にCDテネリフェレアル・マドリードを率いて攻撃的なスタイルを標榜したが、クライフは「彼は友人であり私と近いコンセプトを持ち合わせている。われわれは魅力的なサッカーを披露しつつ結果を残す、という理想を信じることのない人々と立ち向かっているのだ」と評した[364]

バレエダンサールドルフ・ヌレエフはクライフの移動の素早く、頭の回転も速く、プレーのスピードもあって早口だった彼のプレースタイルに魅了されていたといい、クライフを「チェスプレイヤーの頭脳を持ったダンサー」と称している[365]

2000年代以降、クライフの用いた3-4-3フォーメーションは欧米の主要リーグで見られることは少ないと言われているが[366]、アルゼンチンのマルセロ・ビエルサイタリアアルベルト・ザッケローニのように3-4-3フォーメーションを堅守速攻型の戦術として運用する指導者もいる[366]。クライフが攻撃に特化しパスを繋ぎ常に自分達のチームがボールを保持して試合の主導権を握ることを求めたのに対し、ビエルサは3-4-3フォーメーションを変形させた3-3-1-3フォーメーションを用い全選手が攻守に連動することで主導権を握ることを求めた[366]。一方、ザッケローニの3-4-3は元々は4-4-2フォーメーションを発展させたもので中盤を横一列に配置した変則的な3-4-3フォーメーションが特徴だが[367]、豊富な運動量をベースに同サイドのフォワード、サイドハーフ、セントラルミッドフィールダーが絡んだサイド攻撃を重視した[366]

評価

[編集]

選手

[編集]

選手としてはアルフレッド・ディ・ステファノ[7]ペレ[7]ディエゴ・マラドーナ[7]フランツ・ベッケンバウアー[368]らと並んでサッカー史上に名を残す選手と評される。オランダ国内では芸術家のレンブラント・ファン・レインにたとえ「自らを芸術家として意識し、サッカー競技という芸術を確立させた最初の選手」と評する者もいる[299]。一方、選手として成功を収めるとそれまでのプレーが影を潜め100%のプレーを発揮することはなくなったとの指摘もあり[87]イギリスのサッカー専門家のエリック・バッティは「1972年のチャンピオンズカップ決勝がクライフの選手としてのピークであり、バルセロナ時代にヘネス・バイスバイラー監督と衝突した原因は試合時のサボり癖によるものだった」と評している[87]

指導者

[編集]

監督としてもアヤックスUEFAカップ優勝、バルセロナではドリームチームと呼ばれるタレント集団を指揮し国内リーグ4連覇やUEFAチャンピオンズカップ優勝などの実績を残した[7]。なお、選手と監督の双方でUEFAチャンピオンズカップ(後身のUEFAチャンピオンズリーグを含む)で優勝した経験を持つ人物はミゲル・ムニョスジョバンニ・トラパットーニ、クライフ、カルロ・アンチェロッティフランク・ライカールトジョゼップ・グアルディオラジネディーヌ・ジダンの7人のみである[369]。優勝などの実績を残しただけでなく世界各国の優秀な選手を獲得しつつ下部組織の優秀な選手を発掘し、「観客を楽しませながら選手も試合を楽しみ、なおかつ結果を残す」エンターテインメント性のあるサッカーを実践したと評されている[364]。かつてのドリームチームの一員であるルイス・ミジャジョゼップ・グアルディオラは次のように評している。

あの当時は慎重に試合を進めるサッカーが全盛の時代だったが、クライフに率いられたドリームチームが攻撃的なスタイルで勝利しタイトルを獲得できることを証明した。結果を残したことでサッカーファンが求める「サッカーとは、いかなるスポーツか」との質問への回答を一変させたのだ[174] — ルイス・ミジャ
クライフが現代サッカーの基礎を作り、バルセロナの基礎を作った。それを引き継いで発展させることは、彼に続く指導者達の役割である[370] — ジョゼップ・グアルディオラ

一方、専門家のエリック・バッティは「最も重要な試合の際にクライフは結果のためだけの慎重な試合をしていた」と指摘している[371]

個人成績

[編集]

クラブでの成績

[編集]

1983-84シーズン終了時の成績[102][106][117][372][373]

クラブ成績 リーグ カップ 国際大会 通算
シーズンクラブリーグ 出場得点出場得点 出場得点 出場得点
1964-65 アヤックス エールディヴィジ 10 4 0 0 0 0 10 4
1965-66 19 16 4 6 0 0 23 22
1966-67 30 33 5 5 6 3 41 41
1967-68 33 25 5 6 2 1 40 32
1968-69 29 24 3 3 10 6 42 33
1969-70 33 23 5 6 8 4 46 33
1970-71 25 21 6 5 6 1 37 27
1971-72 32 25 4 3 9 5 45 33
1972-73 26 16 0 0 6 3 32 19
1973-74 2 3 0 0 0 0 2 3
小計 239 190 32 34 47 23 318 247
1973-74 FCバルセロナ プリメーラ 26 16 12 8 0 0 38 24
1974-75 30 7 12 7 8 0 50 14
1975-76 29 6 10 3 9 2 48 11
1976-77 30 14 9 6 7 5 46 25
1977-78 28 5 7 1 10 5 45 11
小計 143 48 50 25 34 12 227 85
1979 ロサンゼルス NASL 27 14 - - 27 14
小計 27 14 0 0 0 0 27 14
1980 ワシントン NASL 27 10 - - 27 10
小計 27 10 0 0 0 0 27 10
1980-81 レバンテ セグンダ 10 2 0 0 0 0 10 2
小計 10 2 0 0 0 0 10 2
1981 ワシントン NASL 5 2 - - 5 2
小計 5 2 0 0 0 0 5 2
1981-82 アヤックス エールディヴィジ 15 7 1 0 0 0 16 7
1982-83 21 7 7 2 2 0 30 9
小計 36 14 8 2 2 0 46 16
1983-84 フェイエノールト エールディヴィジ 33 11 7 1 4 1 44 13
小計 33 11 7 1 4 1 44 13
通算 オランダ 308 215 47 37 53 24 408 276
スペイン 153 50 50 25 34 12 237 87
アメリカ 59 26 - - 59 26
総通算 520 291 97 62 87 36 704 389

代表での成績

[編集]

オランダ代表として最後の試合となった1977年10月26日のベルギー戦までの出場数[6]

オランダ代表
国際大会 親善試合 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点
1966 1 1 1 0 2 1
1967 2 1 1 0 3 1
1968 0 0 1 0 1 0
1969 2 1 1 0 3 1
1970 0 0 2 2 2 2
1971 3 5 1 1 4 6
1972 2 2 3 3 5 5
1973 4 5 2 1 6 6
1974 9 7 3 1 12 8
1975 2 0 0 0 2 0
1976 4 2 0 0 4 2
1977 3 1 1 0 4 1
通算 32 25 16 8 48 33

オランダ代表として最後の試合となった1977年10月26日のベルギー戦までの得点数[6]

# 開催日 開催地 対戦チーム スコア 結果 試合概要
1. 1966年9月7日 オランダロッテルダム ハンガリーの旗 ハンガリー 2-0 2-2 UEFA欧州選手権1968予選
2. 1967年9月13日 オランダ、アムステルダム  東ドイツ 1-0 1-0
3. 1969年3月26日 オランダ、ロッテルダム  ルクセンブルク 1-0 4-0 1970 FIFAワールドカップ予選
4. 1970年12月2日 オランダ、アムステルダム ルーマニアの旗 ルーマニア 1-0 2-0 親善試合
5. 2-0
6. 1971年2月24日 オランダ、ロッテルダム  ルクセンブルク 3-0 6-0 UEFA欧州選手権1972予選
7. 4-0
8. 1971年11月17日 オランダ、アイントホーフェン  ルクセンブルク 1-0 8-0
9. 8-0
10. 7-0
11. 1971年12月1日 オランダ、アムステルダム  スコットランド 1-0 2-1 親善試合
12. 1972年2月16日 ギリシャアテネ ギリシャの旗 ギリシャ 3-0 5-0
13. 5-0
14. 1972年8月30日 チェコスロバキアプラハ  チェコスロバキア 1-0 2-1
15. 1972年11月1日 オランダ、ロッテルダム  ノルウェー 4-0 9-0 1974 FIFAワールドカップ予選
16. 8-0
17. 1973年5月2日 オランダ、アムステルダム スペインの旗 スペイン 3-2 3-2 親善試合
18. 1973年8月22日  アイスランド 2-0 5-0 1974 FIFAワールドカップ予選
19. 5-0
20. 1973年8月29日 オランダ、デーフェンテル 2-0 8-1
21. 4-0
22. 1973年9月12日 ノルウェーオスロ  ノルウェー 1-0 2-1
23. 1974年6月26日 西ドイツゲルゼンキルヒェン  アルゼンチン 1-0 4-0 1974 FIFAワールドカップ
24. 4-0
25. 1974年7月3日 西ドイツ、ドルトムント  ブラジル 2-0 2-0
26. 1974年9月4日 スウェーデンストックホルム  スウェーデン 1-0 5-1 親善試合
27. 1974年9月25日 フィンランドヘルシンキ  フィンランド 1-1 3-1 UEFA欧州選手権1976予選
28. 2-1
29. 1974年11月20日 オランダ、ロッテルダム  イタリア 2-1 3-1
30. 3-1
31. 1976年5月22日 ベルギーブリュッセル  ベルギー 2-1 2-1
32. 1976年10月13日 オランダ、ロッテルダム  北アイルランド 2-1 2-2 1978 FIFAワールドカップ予選
33. 1977年3月26日 ベルギー、アントウェルペン  ベルギー 2-0 2-0

監督成績

[編集]
2013-01-02現在[374][375]
チーム 就任 退任 記録
試合 勝利 引分 敗戦 勝率
アヤックス 1985年6月 1988年1月 117 86 10 21 073.50
FCバルセロナ 1988年5月 1996年5月 430 250 97 83 058.14
カタルーニャ選抜 2009年11月 2013年1月 4 2 2 0 050.00
合計 551 338 109 104 061.34

タイトル

[編集]

選手

[編集]
アヤックス
バルセロナ
フェイエノールト
  • エールディヴィジ (1) : 1983-84[2]
  • KNVBカップ (1) : 1983-84[2]

監督

[編集]
アヤックス
バルセロナ

個人タイトル

[編集]

選手

[編集]

監督

[編集]

その他

[編集]

栄典

[編集]

脚注

[編集]

注釈

[編集]
  1. ^ オランダ語発音: [ˈjoːɦɑn ˈkrœyf] ( 音声ファイル)英語表記では「Cruyff」と綴られることもある[2]
  2. ^ アヤックスの攻撃的なサッカースタイルはイングランド出身のジャック・レイノルズ英語版によって初めて導入された[19]。レイノルズは選手としての成功とは無縁だったが、1915年にアヤックスの監督に就任すると、役員との対立や第二次世界大戦の影響による退団を挟んで25年間にわたり同クラブを指導し、オランダ国内の強豪チームへと育て上げた[19]。彼は「攻撃とは最高の形の守備である」との信条に基いた指導を行うと共に、下部組織の基礎を作り各年代ごとのチームが一貫したスタイルでプレー出来るように配慮した[19]
  3. ^ クライフは野球を経験したことが「私にとっては非常に有効な手段だったと確信している」と述べている[25]。またフィールド全体を見渡せるキャッチャーを経験したことによって、自然とサッカー選手として必要な能力である全体を把握する力が強化され、また常に次のプレーを考えるように教えられたため、先の展開を考えることも学んだと述べており[25]、サッカーに専念するようになった後も野球を学び続けた結果、監督になってからは一歩先の動きを読む、瞬間的に戦術的な判断を下し、さらに技術的に正確な行動をとるなどといった、「野球の視点から行えるアドバイスをサッカーにうまく適応できた」と述べている[25]
  4. ^ オランダでプロが認められたのは1954年のことで[36][37][38]、前年にオランダ西部のゼーラント州が洪水に見舞われた際に同国のスター選手達が災害支援のために、フランス代表と慈善試合を行ったことがきっかけだった[36]。しかしプロが認められた後も、多くの選手がアマチュアやセミプロの選手としてピッチに立っており[36]、待遇面だけでなく戦術レベルにおいても欧州の先進国と比べ大きく立ち遅れていた[38][39]。個々の選手に才能はあってもそれを試合で発揮する術のない状況は1960年代初頭まで続いたという[39]。また、1954年にオランダで認められたのは「セミプロ契約」であったとする指摘もある[40]
  5. ^ クライフは自身のプロ契約について以下のように発言している。
    記憶が正しければ、私はオランダで2人目の「フルタイム」のプロサッカー選手だった。1964年のことだ。考えてもみてくれ、つい最近のことだよ。1人目はピート・カイザーであり、私は2人目だ[41] — ヨハン・クライフ
  6. ^ 当時の金額で約200万ドル[77]日本円で約5億7000万円[76]
  7. ^ クライフは「文化の違い(グロックナーは東ドイツ出身[121][122])から衝突することになってしまった。(中略)私が彼(グロックナー)に歩み寄った行為がすでに許せなかったらしく、(グロックナーは)私に退場処分を下した」と述べている[121]
  8. ^ クライフはこの説明に対して「私はグロックナーが全く試合の流れを感じ取っていなかったという意見をくつがえす気はない」と述べており、またグロックナーを「すべての面で失敗していた」と批判している[121]。また、クライフはこの件を念頭に置いて「私はイギリス人審判のほうがやりやすい。彼らの前では激しいバトルも許されていたが、問題を起こした場合は即座に処された。さらに彼らは試合の流れを読みながら笛を吹いていたので、時には選手を援護する精神を見せた」と述べている[121]
  9. ^ 2000年代以降は同じ3トップを採用する場合においても「ストライカー2人にドリブラー1人[268]」「ストライカー、ドリブラー、攻撃的MFをそれぞれ1人[268]」といった具合に、選手の組み合わせを自由に入れ替える傾向があり、クライフが好んだ左右の両サイドに典型的なウインガーを配置するスタイルは希少となっている[263][268]
  10. ^ ヴィルケスはドリブルを得意とするフォワードであり[298]アベ・レンストラケース・ライフェルス英語版と並ぶ第二次世界大戦後のオランダサッカー界のスター選手だった。しかしプロサッカー選手としてプレーすることを希望して1949年にイタリアのインテル・ミラノへ移籍しオランダ初のプロサッカー選手となった[298]ことでオランダサッカー協会から制裁措置として代表チームから数年間の追放処分を受けた[298]
  11. ^ 同賞を3度受賞した経験のある選手はクライフの他にミシェル・プラティニマルコ・ファン・バステンリオネル・メッシの4名がいる。

出典

[編集]
  1. ^ a b c d e f 日本スポーツプレス協会編集 2000、64-65頁
  2. ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac 「ヨハン・クライフ完全年表 1947-2016」『Sports Graphic Number』 901号、文藝春秋、2016年、52-57頁。 
  3. ^ a b c d e f ヨハン・クライフ”. 賀川サッカーライブラリー. 2012年7月7日閲覧。
  4. ^ a b c d サントス 2002、181頁
  5. ^ a b 国吉 2006、665頁
  6. ^ a b c d (英語) Johan Cruijff - Goals in InternationalMatches”. rsssf.com. 2014年1月4日閲覧。
  7. ^ a b c d e f 国吉 2006、165頁
  8. ^ グランヴィル 1998、232頁
  9. ^ 大住 1998、56頁
  10. ^ サントス 2002、12頁
  11. ^ a b c 「スペイン流」先生はオランダ クライフの攻撃サッカーを継承”. 朝日新聞 (2010年7月9日). 2014年1月4日閲覧。
  12. ^ a b c クライフ 2014、232頁
  13. ^ a b c サントス 2002、70-71頁
  14. ^ 木崎、若水 2013、125頁
  15. ^ マルメリンク 2017、74頁
  16. ^ サントス 2002、75頁
  17. ^ サントス 2002、77-78頁
  18. ^ a b c d 第12回 ヨハン・クライフ(1)スリムで、鋼のように強く、チームを意のままに動かし、観客をしびれさせた”. 賀川サッカーライブラリー. 2014年1月4日閲覧。
  19. ^ a b c d e ウィルソン 2010、277-278頁
  20. ^ クライフ 2014、11頁
  21. ^ a b クライフ 2017、20頁
  22. ^ a b c 大住 2004、74-75頁
  23. ^ a b c d 第14回 ヨハン・クライフ(3)互いに話し合い互いにプレーを知っていた74年のオランダ”. 賀川サッカーライブラリー. 2014年1月4日閲覧。
  24. ^ a b c サッカーマガジン編集部 1980、52-53頁
  25. ^ a b c クライフ 2017、21頁
  26. ^ マルメリンク 2017、79頁
  27. ^ クライフ 2017、18-19頁
  28. ^ a b c サントス 2002、72-73頁
  29. ^ 大住 2004、75頁
  30. ^ a b c d サントス 2002、79頁
  31. ^ a b サッカーマガジン編集部 1980、68-69頁
  32. ^ a b サントス 2002、78頁
  33. ^ a b c d e f g h i j k l m n o (オランダ語) Biografie Johan Cruijff”. Cruijff.com. 2014年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月4日閲覧。
  34. ^ サントス 2002、80頁
  35. ^ スホッツ、ラウツェン 2009、122頁
  36. ^ a b c ウィナー 2008、24-25頁
  37. ^ a b c エリック・バッティ「躍進オランダの新星 ヨハン・クライフ」『サッカーマガジン』 1971年8月号、ベースボール・マガジン社、1971年、106-108頁。 
  38. ^ a b ウィルソン 2010、276頁
  39. ^ a b ウィナー 2008、26-27頁
  40. ^ クーパー 2005、232頁
  41. ^ a b c クーパー 2005、233-234頁
  42. ^ サントス 2002、86頁
  43. ^ a b サントス 2002、81頁
  44. ^ a b サッカーマガジン編集部 1980、55頁
  45. ^ クライフ 2017、27頁
  46. ^ a b c 大住 2004、77頁
  47. ^ a b クライフ 2017、22頁
  48. ^ a b c d 大住 2004、80頁
  49. ^ サントス 2002、121頁
  50. ^ a b c クライフ 2017、312-314頁
  51. ^ a b c d クーパー 2005、242-243頁
  52. ^ a b c クライフ 2017、29頁
  53. ^ a b c (オランダ語) Faam Ajax begon in de mist”. NRC (2006年12月7日). 2016年3月26日閲覧。
  54. ^ (オランダ語) 1966: De Mistwedstrijd”. Olympisch Stadion. 2016年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月26日閲覧。
  55. ^ a b サントス 2002、44頁
  56. ^ a b c d バーランド、ファンドープ 1999、227-228頁
  57. ^ a b c スホッツ、ラウツェン 2009、52頁
  58. ^ バーランド、ファンドープ 1999、38頁
  59. ^ 大住 2004、86頁
  60. ^ ウィナー 2008、122頁
  61. ^ クライフ 2017、38頁
  62. ^ a b サントス 2002、51頁
  63. ^ (英語) European Champions' Cup 1972-73 - Details”. rsssf.com. 2014年1月4日閲覧。
  64. ^ 大住 2004、88-89頁
  65. ^ a b サントス 2002、92頁
  66. ^ a b c d e 大住 2004、85-86頁
  67. ^ a b トーラス 2007、154頁
  68. ^ サントス 2002、94頁
  69. ^ a b トーラス 2007、155頁
  70. ^ トーラス 2007、156頁
  71. ^ サントス 2002、91頁
  72. ^ a b サントス 2002、87頁
  73. ^ a b c サントス 2002、96頁
  74. ^ a b クライフ 2017、44頁
  75. ^ トーラス 2007、174頁
  76. ^ a b c 「至宝クライフ バルセロナ入り 57000万円の超特大トレード」『サッカーマガジン』 1973年10月号、ベースボール・マガジン社、1973年、127頁。 
  77. ^ ピ 2000、75頁
  78. ^ a b c d e f g ピ 2000、76頁
  79. ^ a b c サントス 2002、100頁
  80. ^ (スペイン語) Los 14 goles inolvidables del gran '14' de la historia del fútbol”. Marca (2015年10月22日). 2016年3月27日閲覧。
  81. ^ a b c トーラス 2007、190頁
  82. ^ トーラス 2007、186頁
  83. ^ a b c d e f サントス 2002、111頁
  84. ^ a b c 「海外だより バイスバイラー監督辞任、クライフ残留」『サッカーマガジン』 1976年5月25日号、ベースボール・マガジン社、1976年、88頁。 
  85. ^ 「海外だより クライフ、バルセロナにとどまる」『サッカーマガジン』 1976年6月10日号、ベースボール・マガジン社、1976年、98頁。 
  86. ^ a b サントス 2002、109頁
  87. ^ a b c エリック・バッティ「エリック・バッティのTHE LEGEND 歴史を作ったスゴイ奴 第11回 ヨハン・クライフ(前)」『ストライカー』 1993年7月17日号、学習研究社、1993年、64-65頁。 
  88. ^ サントス 2002、110頁
  89. ^ a b c d e f g h i j 「さよならナンバー14 ヨハン・クライフ引退記念試合」『サッカーマガジン』 1978年12月25日号、ベースボール・マガジン社、1978年、86-87頁。 
  90. ^ a b c d e f g h i j k (英語) Beckham's a path once trodden by Cruyff”. ESPN FC (2007年6月20日). 2014年1月4日閲覧。
  91. ^ スホッツ、ラウツェン 2009、125頁
  92. ^ a b c d e f g h (オランダ語) Geweldige voetballer, fantastisch mens, rampzalig seizoen”. Volkskrant (1997年4月25日). 2014年1月4日閲覧。
  93. ^ a b c サントス 2002、108-109頁
  94. ^ a b c d e f スホッツ、ラウツェン 2009、139-140頁
  95. ^ a b c d e 「スーパースターはなぜ米国へ渡ったか」『サッカーマガジン』 1979年7月25日号、ベースボール・マガジン社、1979年、76-79頁。 
  96. ^ 「アウトロー・ストーリー ヨハン・クライフ(下)女王をわずらわせた空飛ぶ救世主」『サッカーマガジン』 1984年1月号、ベースボール・マガジン社、1983年、156-158頁。 
  97. ^ a b c サッカーマガジン編集部 1980、78-79頁
  98. ^ a b c スホッツ、ラウツェン 2009、55-56頁
  99. ^ a b c d バーランド、ファンドープ 1999、40-41頁
  100. ^ a b 「世界サッカー情報 クライフ、レスター移籍はお流れ」『サッカーダイジェスト』 1981年5月号、日本スポーツ企画出版社、1981年、108頁。 
  101. ^ 「世界サッカー情報 結局クライフは二部入り」『サッカーダイジェスト』 1981年5月号、日本スポーツ企画出版社、1981年、111頁。 
  102. ^ a b c (英語) Short period with Levante”. Cruijff.com. 2016年6月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月4日閲覧。
  103. ^ a b c d e サントス 2002、119頁
  104. ^ a b 「ヨハン・クライフ ACミランへのゲスト参加で衰えぬ力を証明」『サッカーマガジン』 1981年9月号、ベースボール・マガジン社、1981年、126-127頁。 
  105. ^ a b (オランダ語) Johan Cruijffs mislukte duel met AC Milan”. Sport1.nl (2011年11月23日). 2014年1月4日閲覧。
  106. ^ a b (英語) Playing for Ajax”. Cruijff.com. 2016年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月4日閲覧。
  107. ^ (オランダ語) “Wedstrijden”. EredivisieStats. http://www.eredivisiestats.nl/wedstrijden.php 2014年1月4日閲覧。 
  108. ^ (英語) UEFA Champions League 1982/83 - History - Ajax-Celtic Lineups”. UEFA.com. 2013年8月7日閲覧。
  109. ^ a b c d (オランダ語) De‘extra’s’van Cruijff”. Ajax.nl. 2014年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2015年10月29日閲覧。
  110. ^ a b 「世界サッカー情報 WORLD CONFIDENTIAL オランダ・フランス」『サッカーダイジェスト』 1983年7月号、日本スポーツ企画出版社、1983年、80頁。 
  111. ^ a b c サントス 2002、119-120頁
  112. ^ a b 「世界サッカー情報 WORLD CONFIDENTIAL フランス他」『サッカーダイジェスト』 1983年9月号、日本スポーツ企画出版社、1983年、78頁。 
  113. ^ a b スホッツ、ラウツェン 2009、57頁
  114. ^ a b c バーランド、ファンドープ 1999、224-225頁
  115. ^ a b スホッツ、ラウツェン 2009、58-59頁
  116. ^ a b c マルメリンク 2017、313頁
  117. ^ a b (英語) Playing for Feyenoord”. Cruijff.com. 2016年4月10日時点のオリジナルよりアーカイブ。2012年7月7日閲覧。
  118. ^ a b 「世界サッカー情報 WORLD CONFIDENTIAL フランス他」『サッカーダイジェスト』 1984年7月号、日本スポーツ企画出版社、1984年、78頁。 
  119. ^ a b c d スホッツ、ラウツェン 2009、62-63頁
  120. ^ a b c バーランド、ファンドープ 1999、148頁
  121. ^ a b c d e f クライフ 2014、185-186頁
  122. ^ a b c d クライフ 2017、27頁
  123. ^ a b c d 大住 2004、78頁
  124. ^ 木崎、若水 2013、140頁
  125. ^ グランヴィル 1998、119頁
  126. ^ 大住 2004、92頁
  127. ^ ウィナー 2008、141頁
  128. ^ World Cup 1974 finals”. rsssf.com. 2014年1月4日閲覧。
  129. ^ 大住 2004、105頁
  130. ^ 大住 2004、93頁
  131. ^ a b c 大住 2004、94-95頁
  132. ^ a b 武智 2010、19頁
  133. ^ グランヴィル 1998、228頁
  134. ^ a b サントス 2002、57頁
  135. ^ グランヴィル 1998、231頁
  136. ^ a b c d e サントス 2002、58-59頁
  137. ^ 大住 2004、102頁
  138. ^ グランヴィル 1998、227-228頁
  139. ^ オランダ 力強さと、速さと、柔らかさ”. 賀川サッカーライブラリー. 2014年1月4日閲覧。
  140. ^ グランヴィル 1998、232-233頁
  141. ^ a b グランヴィル 1998、233-234頁
  142. ^ a b c 武智 2010、20頁
  143. ^ a b サントス 2002、60-61頁
  144. ^ a b c サントス 2002、62頁
  145. ^ a b c d e ウィナー 2008、160頁
  146. ^ a b c d e f g 大住 1998、60頁
  147. ^ a b 武智 2010、21頁
  148. ^ FIFA 2004
  149. ^ a b c d e f g 「全4試合が延長戦!チェコが大激戦を制す!」『サッカーマガジン』 1976年8月10日号、ベースボール・マガジン社、1976年、74-76頁。 
  150. ^ a b ウィナー 2008、286-289頁
  151. ^ a b グランヴィル 1998、250頁
  152. ^ 大住 1998、64頁
  153. ^ a b c d サントス 2002、114-115頁
  154. ^ a b c ウィナー 2008、162-163頁
  155. ^ a b バーランド、ファンドープ 1999、118-119頁
  156. ^ エディ・プールマン「オランダ、ベルギーを蹴落してアルゼンチンへ …しかしクライフはチームを去る」『サッカーマガジン』 1977年12月10日号、ベースボール・マガジン社、1977年、80頁。 
  157. ^ サントス 2002、112-113頁
  158. ^ a b (英語)Kidnappers made Cruyff miss World Cup”. guardian.co.uk (2008-04-16日). 2014年1月4日閲覧。
  159. ^ a b c d サントス 2002、126-127頁
  160. ^ サントス 2002、128頁
  161. ^ バーランド、ファンドープ 1999、165-166頁
  162. ^ サントス 2002、134頁
  163. ^ a b c 岡部 2010、177頁
  164. ^ サントス 2002、135頁
  165. ^ サントス 2002、136-137頁
  166. ^ a b c d サントス 2002、148-149頁
  167. ^ サントス 2002、151頁
  168. ^ European Champions' Cup 1991-92 - Details”. rsssf.com. 2014年1月4日閲覧。
  169. ^ a b サントス 2002、153頁
  170. ^ サントス 2002、154頁
  171. ^ ピ 2000、9頁
  172. ^ スホッツ、ラウツェン 2009、147頁
  173. ^ サントス 2002、162頁
  174. ^ a b c d 横井伸幸「クライフを神にした伝説のクラシコ」『Sports Graphic Number』 767号、文藝春秋、2010年、174頁。 
  175. ^ a b c d e f ピ 2000、78-79頁
  176. ^ サントス 2002、145頁
  177. ^ a b c d サントス 2002、204-205頁
  178. ^ サントス 2002、170頁
  179. ^ サントス 2002、169頁
  180. ^ a b サントス 2002、202-203頁
  181. ^ サントス 2002、206-207頁
  182. ^ サントス 2002、209頁
  183. ^ サントス 2002、213-220頁
  184. ^ サントス 2002、221頁
  185. ^ 「ワールドワイドインフォメーション スペイン」『サッカーマガジン』 1996年6月12日号、ベースボール・マガジン社、1996年、91頁。 
  186. ^ サントス 2002、222頁
  187. ^ スホッツ、ラウツェン 2009、148頁
  188. ^ a b c グランヴィル 1998、401頁
  189. ^ a b バーランド、ファンドープ 1999、135-136頁
  190. ^ スホッツ、ラウツェン 2009、111頁
  191. ^ a b スホッツ、ラウツェン 2009、112頁
  192. ^ (オランダ語) Johan Cruyff Foundation”. cruyff.com. 2014年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月4日閲覧。
  193. ^ a b ウィナー 2008、371頁
  194. ^ a b c d e f g h i j k 木村 2003、72頁
  195. ^ a b ボール 2002、146頁
  196. ^ ボール 2002、142頁
  197. ^ a b c 木村 2003、73頁
  198. ^ ベッカム獲得に前進か バルサ会長にラポルタ氏”. 47NEWS (2003年6月15日). 2014年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月4日閲覧。
  199. ^ クライフ 2017、191頁
  200. ^ クライフ氏、バルサ名誉会長職を返上”. 日刊スポーツ (2010年7月5日). 2014年1月4日閲覧。
  201. ^ (英語) Johan Cruyff stripped of Barcelona honorary president title”. The Guardian (2010年7月10日). 2014年1月4日閲覧。
  202. ^ クライフ氏がアヤックスに復帰”. AFPBB News (2008年2月21日). 2014年1月4日閲覧。
  203. ^ a b c d e エルンスト・ブーベス「The JOUNALISTIC HOLLAND オランダ - 夢と消えたアヤックスの二頭体制」『ワールドサッカーダイジェスト』 2008年4月17日号、日本スポーツ企画出版社、102-103頁。 
  204. ^ クライフ 2017、207頁
  205. ^ マルメリンク 2017、449-452頁
  206. ^ a b c d e f g 「ニュースの裏側 News number 08 クライフのアドバイザー就任に伴うアヤックスの内紛」『ワールドサッカーダイジェスト』 2011年5月2日号、日本スポーツ企画出版社、102頁。 
  207. ^ クライフ 2017、211頁
  208. ^ 「ファンハールGM」に反発!アヤックス内紛が裁判沙汰に”. スポニチ Sponichi Annex (2011年11月29日). 2014年1月4日閲覧。
  209. ^ サッカー=クライフ氏らアヤックス理事全員が辞職へ”. デイリースポーツonline (2012年2月10日). 2014年1月4日閲覧。
  210. ^ クライフ 2017、213頁
  211. ^ a b クライフ新監督 カタルーニャ選抜で「魅惑的な」サッカーを約束”. AFPBB News (2009年11月10日). 2014年1月4日閲覧。
  212. ^ カタルーニャ州選抜 アルゼンチンとの親善試合に勝利”. AFPBB News (2009年12月23日). 2014年1月4日閲覧。
  213. ^ a b クライフ氏、カタルーニャ選抜指揮官辞任へ”. Goal.com (2012年11月11日). 2014年1月4日閲覧。
  214. ^ a b Catalunya empata con Nigeria en la despedida de Cruyff”. ElPeriodico.com (2013年1月2日). 2014年1月4日閲覧。
  215. ^ a b クライフ氏がグアダラハラと3年のアドバイザー契約を結ぶ”. AFPBB News (2012年2月26日). 2014年1月4日閲覧。
  216. ^ a b Chivas Goes Dutch With Cruyff”. The New York Times (2012年2月28日). 2014年1月4日閲覧。
  217. ^ a b Guadalajara Chivas fires Cruyff as adviser”. FOX Sports on MSN (2012年12月2日). 2014年1月4日閲覧。
  218. ^ バルセロナ、バルトメウ氏が再び会長に 得票率54%強でラポルタ氏を制す”. GOAL.com (2015年7月19日). 2016年3月26日閲覧。
  219. ^ a b 【サイモン・クーパーのフットボールオンライン】ヨハン・クライフの落日(前編)”. web Sportiva (2015年7月22日). 2016年3月25日閲覧。
  220. ^ 【サイモン・クーパーのフットボールオンライン】ヨハン・クライフの落日(後編)”. web Sportiva (2015年7月23日). 2016年3月25日閲覧。
  221. ^ a b ハンス・フォス「The JOUNALISTIC HOLLAND オランダ - 自らの信念に従ったマルコの勇気」『ワールドサッカーダイジェスト』 2015年11月19日号、日本スポーツ企画出版社、96頁。 
  222. ^ a b (英語) Press Announcement from the Management of Johan Cruyff”. Cruijff.com (2015年10月22日). 2015年10月29日閲覧。
  223. ^ (英語) Johan Cruyff: Netherlands great thanks fans for support”. BBC Sport (2015年10月23日). 2015年10月29日閲覧。
  224. ^ クライフ氏が肺がんに―元オランダ代表のレジェンド”. AFPBB News (2015年10月23日). 2015年10月29日閲覧。
  225. ^ 「TOPICS FILE クライフが肺ガンを告白」『ワールドサッカーダイジェスト』 2015年11月19日号、日本スポーツ企画出版社、78頁。 
  226. ^ a b マルメリンク 2017、465頁
  227. ^ マルメリンク 2017、466頁
  228. ^ 肺がん闘病中のクライフ氏「極めて良好」 現在は「前半を2-0でリード」”. AFPBB News (2016年2月14日). 2016年3月25日閲覧。
  229. ^ (英語) Compliments for PSV and Ajax”. Cruijff.com. 2016年4月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月25日閲覧。
  230. ^ a b 元オランダ代表の名選手クライフ氏、肺がんのため68歳で死去”. AFPBB News (2016年3月25日). 2016年3月25日閲覧。
  231. ^ (英語) Johan Cruyff, Total Football pioneer, dies at the age of 68”. The Guardian (2016年3月25日). 2017年6月24日閲覧。
  232. ^ a b (英語) Netherlands great Johan Cruyff dies of cancer aged 68”. BBC SPORT (2016年3月24日). 2016年3月24日閲覧。
  233. ^ (オランダ語) Johan Cruijff is overleden (68)”. NRC (2016年3月24日). 2016年3月24日閲覧。
  234. ^ (オランダ語) Tragisch nieuws: Johan Cruijff op 68-jarige leeftijd overleden”. Voetbalprimeur (2016年3月24日). 2016年3月24日閲覧。
  235. ^ クライフ氏はバルセロナで火葬に、葬儀は近親者のみで予定”. AFPBB News (2016年3月26日). 2016年3月30日閲覧。
  236. ^ クライフ氏の訃報に皇帝ベッケンバウアーもショック「兄弟のような存在だった」”. Goal.com (2016年3月25日). 2016年3月25日閲覧。
  237. ^ クライフ氏を惜しむグアルディオラ「彼ならどうするかと何度も考えた」”. Goal.com (2016年3月25日). 2016年3月26日閲覧。
  238. ^ a b ユーロ開催国フランス、敵地でオランダに勝利…試合前にはクライフ氏へ黙祷”. Soccer King (2016年3月26日). 2016年3月26日閲覧。
  239. ^ a b オランダ対フランスの親善試合が前半14分に一時中断、クライフ氏を追悼”. AFPBB News (2016年3月26日). 2016年3月27日閲覧。
  240. ^ クライフ 2017、208頁
  241. ^ イングランドが現実に引き戻される、オランダに逆転負け”. AFPBB News (2016年3月30日). 2016年3月31日閲覧。
  242. ^ 故クライフ氏のために勝利を、意欲高まるバルセロナ”. AFPBB News (2016年3月31日). 2016年3月31日閲覧。
  243. ^ 9万人のバルサファン、クラシコ前に故クライフ氏を追悼”. AFPBB News (2016年4月3日). 2016年4月3日閲覧。
  244. ^ (オランダ語) Indrukwekkend eerbetoon aan Ajax-icoon Cruijff in Arena”. NU.nl (2016年4月5日). 2016年4月5日閲覧。
  245. ^ “アヤックスが本拠地の名称変更を正式発表…「ヨハン・クライフ・アレナ」に”. SOCCER KING (フロムワン). (2018年4月6日). https://www.soccer-king.jp/news/world/ned/20180406/738843.html 2018年4月30日閲覧。 
  246. ^ a b 武智 2010、18頁
  247. ^ a b 西部 2010、111頁
  248. ^ 大住 2004、64頁
  249. ^ サントス 2002、101頁
  250. ^ ヨハン・クライフ 「右足のインとアウト、左足のインとアウト、これで4種類のパスが出せる」”. 賀川サッカーライブラリー. 2014年1月4日閲覧。
  251. ^ a b サッカーマガジン編集部 1980、63頁
  252. ^ バーランド、ファンドープ 1999、94頁
  253. ^ ウィナー 2008、94頁
  254. ^ a b c ウィナー 2008、84頁
  255. ^ a b c d ベースボール・マガジン社編『別冊サッカーマガジン秋季号 '74西ドイツ・ワールドカップ』ベースボール・マガジン社、1974年、211-212頁。 
  256. ^ (英語) Learn the Johan Cruyff turn”. BBC Sport Academy. 2014年1月4日閲覧。
  257. ^ a b c d e f 大住 2004、100-101頁
  258. ^ クライフ 2014、234頁
  259. ^ サッカーマガジン編集部 1980、65頁
  260. ^ (オランダ語) Cruijff gaat vreemd in 1983/1984”. NOS (2015年5月31日). 2016年3月25日閲覧。
  261. ^ (英語) Ajax retire number 14”. english.ajax.nl. 2014年12月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2016年3月25日閲覧。
  262. ^ a b c d バーランド、ファンドープ 1999、75-78頁
  263. ^ a b 長坂 2007、161頁
  264. ^ a b c d e f g h i j 田邊雅之「歴代名将を徹底比較 最新のバルサは最高のバルサなのか」『Sports Graphic Number』 797号、文藝春秋、2012年、50-53頁。 
  265. ^ a b c d e f 長坂 2007、162頁
  266. ^ バーランド、ファンドープ 1999、74頁
  267. ^ a b c d e f g h バーランド、ファンドープ 1999、79頁
  268. ^ a b c 戸塚 2010、133-136頁
  269. ^ a b c d e f 木崎、若水 2013、21-27頁
  270. ^ a b c d e 横井伸幸「バルセロナを史上最高に導いた男を知る グアルディオラの、何がそんなにスゴイのか?」『週刊サッカーマガジン』 2011年12月27日号、ベースボール・マガジン社、2011年、16頁。 
  271. ^ a b c d 長坂 2007、164頁
  272. ^ サントス 2002、339-340頁
  273. ^ 岩永 2005、111頁
  274. ^ サントス 2002、178頁
  275. ^ バーランド、ファンドープ 1999、50頁
  276. ^ ウィナー 2008、130-131頁
  277. ^ a b 木崎、若水 2013、48-49頁
  278. ^ a b スホッツ、ラウツェン 2009、170-171頁
  279. ^ a b スホッツ、ラウツェン 2009、193頁
  280. ^ a b c 木崎、若水 2013、114-115頁
  281. ^ スホッツ、ラウツェン 2009、44頁
  282. ^ サントス 2002、81-82頁
  283. ^ スホッツ、ラウツェン 2009、121頁
  284. ^ a b c d e クライフ氏が還暦を迎える”. AFPBB News (2007年4月25日). 2014年1月4日閲覧。
  285. ^ a b クライフ 2014、236頁
  286. ^ スホッツ、ラウツェン 2009、74頁
  287. ^ スホッツ、ラウツェン 2009、78-85頁
  288. ^ (英語) Barcelona hanging their hopes on the new Cruyff as the grandson of legend Johan makes his debut for youth team”. Mail Online (2009年10月15日). 2014年1月4日閲覧。
  289. ^ (英語) Claymores make ideal start language”. BBC SPORT (2002年4月14日). 2014年1月4日閲覧。
  290. ^ a b スホッツ、ラウツェン 2009、70-71頁
  291. ^ a b c d 「ワールドワイドインフォメーション スペイン」『サッカーマガジン』 1996年5月22日号、ベースボール・マガジン社、1996年、103頁。 
  292. ^ サントス 2002、248頁
  293. ^ a b (英語) In the name of the father: How the Cruyff legacy hampered Jordi's career”. FourFourTwo (2014年3月21日). 2016年3月27日閲覧。
  294. ^ a b サントス 2002、82頁
  295. ^ (オランダ語) 'Ruud Gullit en Estelle Cruijff officieel gescheiden'”. AD.nl (2013年6月1日). 2014年1月4日閲覧。
  296. ^ a b c d (英語) Persoonlijk”. Cruijff.com. 2016年6月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月4日閲覧。
  297. ^ クライフ 2017、43頁
  298. ^ a b c ウィナー 2008、25頁
  299. ^ a b c d ウィナー 2008、52頁
  300. ^ a b c d e f 木崎、若水 2013、153-155頁
  301. ^ マルメリンク 2017、7頁
  302. ^ a b (オランダ語) Cruijff: Ballesteros fenomeen”. Telegraaf.nl (2011年5月9日). 2015年10月29日閲覧。
  303. ^ (スペイン語) MATCH GOLF IN BARCELONA - OPEN DE ESPAÑA 2015 (RAFA NADAL, SERGIO GARCÍA, JOHAN CRUYFF)”. Real Club de Golf El Prat (2015年5月4日). 2015年10月29日閲覧。
  304. ^ (オランダ語) Golf en WK voetbal (deel IV)”. Golfers Van Nederland (2006年6月13日). 2015年10月29日閲覧。
  305. ^ a b c d e f サントス 2002、335-336頁
  306. ^ バーランド、ファンドープ 1999、217頁
  307. ^ スホッツ、ラウツェン 2009、110頁
  308. ^ クライフ 2017、206頁
  309. ^ スホッツ、ラウツェン 2009、92頁
  310. ^ a b c クライフ 2017、139頁
  311. ^ スホッツ、ラウツェン 2009、51頁
  312. ^ a b (オランダ語) Produkties en/of songs voor Johan Cruyff”. Peter Koelewijn. 2014年1月4日閲覧。
  313. ^ サッカー=クライフ氏らアヤックス理事全員が辞職へ”. Reuters (2012年2月10日). 2014年1月4日閲覧。
  314. ^ a b ファン・ハール:「クライフを一生許さない」”. Goal.com (2010年11月10日). 2014年1月4日閲覧。
  315. ^ a b c (オランダ語) Cruijff: Van Gaal heeft Alzheimer”. AD.nl. 2016年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月4日閲覧。
  316. ^ (スペイン語) Cruyff cree que a Van Gaal "le falta un tornillo"”. MARCA.com (2009年10月13日). 2014年1月4日閲覧。
  317. ^ a b バーランド、ファンドープ 1999、72-73頁
  318. ^ クライフ 2017、31-32頁
  319. ^ a b c ブーベス 2010、16-21頁
  320. ^ a b c d ヨハン・クライフ「ブラジルVに思う 目 クライフ 中盤なき攻撃 魅力薄い」『朝日新聞』 2002年7月1日 15版、2002年、4面頁。 
  321. ^ 潮智史「クライフさん美しさ追求 概念崩したトータルフットボール」『朝日新聞』 2016年3月25日 13版、2016年、24面頁。 
  322. ^ ウィナー 2008、373頁
  323. ^ グランヴィル 2002、579頁
  324. ^ クーパー 2010、112-113頁
  325. ^ 木崎、若水 2013、50-51頁
  326. ^ サントス 2002、22頁
  327. ^ サントス 2002、160-161頁
  328. ^ a b c 安藤 2008、76-79頁
  329. ^ ヨハン・クライフ著、坂路淳子訳「フットボーラーよ聞け! TEXT13」『週刊サッカーダイジェスト』 1995年1月25日号、日本スポーツ企画出版社、1995年、110-111頁。 
  330. ^ サントス 2002、20頁
  331. ^ Cruyff slams World Cup, accuses Brazil of wrecking football”. Daily Times. 2012年7月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月4日閲覧。
  332. ^ a b 木崎、若水 2013、61-63頁
  333. ^ 木崎、若水 2013、35頁
  334. ^ 木崎、若水 2013、163-164頁
  335. ^ 木崎、若水 2013、100-101頁
  336. ^ (オランダ語) Van Basten: Johan altijd mijn idool geweest”. AD.nl (2016年3月25日). 2016年3月27日閲覧。
  337. ^ (オランダ語) Column Van Basten: Cruijff was mijn idool”. NOS (2016年3月25日). 2016年3月27日閲覧。
  338. ^ フリエロス 2008、128-129頁
  339. ^ (英語) Michel Platini - One-On-One - Interviews”. FourFourTwo (2008年5月1日). 2016年4月3日閲覧。
  340. ^ (英語) David Ginola: 'I got a call from David Dein at about midnight - he wanted me at Arsenal'”. FourFourTwo (2015年1月16日). 2016年4月3日閲覧。
  341. ^ (英語) Littbarski, dribble ace turned coach”. FIFA.com. 2014年1月4日閲覧。
  342. ^ (英語) Hagi at the heart of golden era”. UEFA.com (2011年1月19日). 2014年1月4日閲覧。
  343. ^ (英語) Bulgarians remain in shadow of class of '94”. BBC SPORT (2010年9月2日). 2014年1月4日閲覧。
  344. ^ ガスコイン 2006、48頁
  345. ^ 「攻めの美学 西野朗・ガンバ大阪前監督 3 クライフを追い続けてきた」『朝日新聞』 2012年2月14日 13版、2012年、16面頁。 
  346. ^ 週刊サッカーマガジン編集 2006、333頁
  347. ^ 「"キング"の座を狙え! 世界に君臨するマラドーナに挑む3人の刺客たち」『サッカーマガジン』 1990年6月号、ベースボール・マガジン社、1990年、106-107頁。 
  348. ^ a b c d e 「1992年欧州年間最優秀選手決定 ファンバステン3度目の受賞 クライフ、プラティニに並ぶ」『サッカーマガジン』 1992年2月21日号、ベースボール・マガジン社、1992年、174-175頁。 
  349. ^ 「ファンバステン三度目の受賞 クライフ、プラティニに並ぶ」『サッカーマガジン』 1993年2月21日号、ベースボール・マガジン社、1993年、174-175頁。 
  350. ^ 香川の恩師クルピ監督「シンジは1974年のヨハン・クライフのようだ」”. サッカーキング (2012年8月28日). 2014年1月4日閲覧。
  351. ^ a b c (英語) World Cup final: Johan Cruyff sowed seeds for revolution in Spain's fortunes”. Telegraph.co.uk (2010年7月11日). 2014年1月4日閲覧。
  352. ^ a b c d 北條聡「クライフ主義か反クライフ主義か 遺伝子を巡る『兄弟対決』」『週刊サッカーマガジン』 2010年7月27日号、ベースボール・マガジン社、2010年、10-11頁。 
  353. ^ a b セルヒオ・レビンスキー. “W杯の勝者はオランダサッカー 決勝プレビュー”. スポーツナビ. 2014年1月4日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月4日閲覧。
  354. ^ a b c 「バルサ観戦術 最強集団の取説123」『週刊サッカーマガジン』 2011年12月27日号、ベースボール・マガジン社、2011年、23頁。 
  355. ^ クーマン絶賛「グアルディオラ監督のバルサは“ドリーム・チーム”より上」”. ライブドアニュース (2011年5月6日). 2021年9月16日時点のオリジナルよりアーカイブ。2021年9月18日閲覧。
  356. ^ クライフ氏:「バルサの哲学の成功」バルサのサイクルは20年前から始まったとの見解”. Goal.com (2011年5月16日). 2014年1月4日閲覧。
  357. ^ Hughes, Rob (2010年7月9日). “Talent to Spare, but There’s Only One Trophy”. New York Times. 2014年1月4日閲覧。
  358. ^ a b c Eva Lavric, Gerhard Pisek (2008). The linguistics of football. Gunter Narr Verlag. p. 354. ISBN 978-3-8233-6398-9 
  359. ^ サントス 2002、230頁
  360. ^ サントス 2002、231-232頁
  361. ^ グランヴィル 2002、576-577頁
  362. ^ a b ウィナー 2008、372-373頁
  363. ^ a b c ウィナー 2008、374-376頁
  364. ^ a b サントス 2002、144頁
  365. ^ レミー・ラコンブ著、安藤正純訳「革命に生きたカリスマ68年の偉大なる生涯」『サッカー批評』 issue 80、双葉社、2016年、12-13頁。 
  366. ^ a b c d 河治良幸「検証3-4-3 ザッケローニの3-4-3は日本の武器になり得るのか? 前篇」『サッカー批評』 issue 52、双葉社、2010年、49-50頁。 
  367. ^ 北條聡「戦術解説 ザック流フットボールとは何か?」『サッカーマガジン』 2010年9月21日号、ベースボール・マガジン社、2010年、14-15頁。 
  368. ^ ピ 2000、72頁
  369. ^ (オランダ語) Barca evenaart Ajax en PSV, Guardiola 'kopieert' Cruijff”. Voetbal International (2009年5月21日). 2014年1月4日閲覧。
  370. ^ クベイロ、ガジャルド 2011、65頁
  371. ^ エリック・バッティ「エリック・バッティのTHE LEGEND 歴史を作ったスゴイ奴 第11回 ヨハン・クライフ(後)」『ストライカー』 1993年8月1日号、学習研究社、1993年、66-67頁。 
  372. ^ (英語) Playing for FC Barcelona”. Cruijff.com. 2016年3月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2017年6月24日閲覧。
  373. ^ (英語) Playing for United States”. Cruijff.com. 2016年6月2日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月4日閲覧。
  374. ^ (オランダ語) Johan Cruijff”. ajax.nl. 2012年4月6日時点のオリジナルよりアーカイブ。2014年1月4日閲覧。
  375. ^ (スペイン語) Tècnics que han superat els 100 partits” (PDF). Barça Camp Nou. p. 9. 2014年1月4日閲覧。
  376. ^ a b c d (オランダ語) Johan Cruijff op 68-jarige leeftijd overleden”. AD.nl (2016年3月24日). 2016年4月5日閲覧。
  377. ^ a b (英語) Spain - Footballer of the Year”. rsssf.com. 2016年4月5日閲覧。
  378. ^ (英語) A Wave of Enthusiasm for the Lingua Franca of Kicking a Ball : From Pele and the Streets, Hope”. NYTimes.com (1998年6月10日). 2014年1月4日閲覧。
  379. ^ (英語) World - Player of the Century”. rsssf.com. 2014年1月4日閲覧。
  380. ^ (英語) Europe - Player of the Century”. rsssf.com. 2014年1月4日閲覧。
  381. ^ (英語) Netherlands - Player of the Century”. rsssf.com. 2014年1月4日閲覧。
  382. ^ (英語) France Football's Football Player of the Century”. rsssf.com. 2014年1月4日閲覧。
  383. ^ (英語) Golden Players take centre stage”. UEFA.com (2003年11月29日). 2016年4月8日閲覧。
  384. ^ (英語) “Pele's list of the greatest list”. BBC SPORT. (2004年3月4日). http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/3533891.stm 2014年1月4日閲覧。 
  385. ^ (英語) "World Soccer" Awards”. rsssf.com. 2017年6月24日閲覧。
  386. ^ (英語) "Onze Mondial" Awards”. rsssf.com. 2017年6月24日閲覧。
  387. ^ (英語) Coaching greats in profile”. uefa.com (2017年1月13日). 2017年6月24日閲覧。
  388. ^ (オランダ語) Fanny Blankers-Koen Carrièreprijs”. NOC*NSF. 2016年4月8日閲覧。
  389. ^ クライフ氏、会長賞受賞に「誇り」”. uefa.com (2014年2月16日). 2014年2月22日閲覧。
  390. ^ a b (オランダ語) Johan Cruijff Officier in de Orde van Oranje Nassau VOETBAL”. De Standaard (2002年4月10日). 2014年1月4日閲覧。
  391. ^ (カタルーニャ語) Creu de Sant Jordi”. enciclopedia.cat. 2014年1月4日閲覧。
  392. ^ (スペイン語) El Gobierno concede a Cruyff la medalla de Oro al Mérito Deportivo”. La Vanguardia (2016年3月29日). 2016年4月5日閲覧。

参考文献

[編集]
  • 安藤正純『サッカーについて僕たちが本音で語った本』東邦出版、2008年。ISBN 4809406733 
  • 岩永修幸『蹴球神髄―サッカーの名言集』出版芸術社、2005年。ISBN 4882932695 
  • 岡部明子『バルセロナ--地中海都市の歴史と文化』中央公論新社中公新書〉、2010年。ISBN 4121020715 
  • 大住良之『新・サッカーへの招待』岩波書店岩波新書〉、1998年。ISBN 400430556X 
  • 大住良之『理想のフットボール 敗北する現実』双葉社〈サッカー批評叢書〉、2004年。ISBN 4575296597 
  • 木崎伸也、若水大樹『増補改訂版 クライフ哲学ノススメ-試合の流れを読む14の鉄則』ガイドワークス〈サッカー小僧新書EX005〉、2013年。ISBN 4865350241 
  • 木村浩嗣「混迷する名門クラブ FCバルセロナ ヨハン・クライフの遺した功罪」『Spain 情熱の国の血と誇り。Wild Fanatics of Football』文藝春秋Sports Graphic Number PLUS〉、2003年。ISBN 4160081290 
  • 国吉好弘『サッカーマルチ大事典 改訂版』週刊サッカーマガジン責任編集、ベースボール・マガジン社、2006年。ISBN 4583038801 
  • 武智幸徳「サッカーの未来を変えた革命家 ヨハン・クライフ」『ワールドカップ伝説 vol.4(’70年代編)―永久保存版 偉大なる開拓者たちの時代』ベースボール・マガジン社〈B・B MOOK 666 スポーツシリーズ NO. 538〉、2010年。ISBN 4583616791 
  • 戸塚啓『新・サッカー戦術論』成美堂出版、2010年。ISBN 4415308422 
  • 長坂寿久『オランダを知るための60章』明石書店〈エリア・スタディーズ〉、2007年。ISBN 475032518X 
  • 西部謙司『神の足 サッカースーパースター技術録』コスミック出版〈COSMO BOOKS〉、2010年。ISBN 4774790397 
  • カルラス・サンタカナ・イ・トーラス 著、山道佳子 訳『バルサ、バルサ、バルサ! スペイン現代史とフットボール 1968-78』彩流社、2007年。ISBN 4779112656 
  • サイモン・クーパー 著、柳下穀一郎 訳『アヤックスの戦争-第二次世界大戦と欧州サッカー』白水社、2005年。ISBN 456004970X 
  • ジョン・ピ 著、ノバジカ 訳「ヨハン・クライフ 勝者の魂」『スポーツ20世紀Vol.1 サッカー 英雄たちの世紀』ベースボール・マガジン社〈B.B.mook (125)〉、2000年。ISBN 458361084X 
  • ジョナサン・ウィルソン 著、野間けい子 訳『サッカー戦術の歴史 2-3-5から4-6-0へ』筑摩書房、2010年。ISBN 448087822X 
  • デイヴィッド・ウィナー 著、西竹徹 訳『オレンジの呪縛-オランダ代表はなぜ勝てないか?』忠鉢信一監修、講談社、2008年。ISBN 4062146010 
  • ディートリッヒ・シュルツェ=マルメリンク 著、円賀貴子 訳『ゲームの支配者 ヨハン・クライフ』洋泉社、2017年。ISBN 4800312426 
  • トニー・フリエロス 著、山名洋子 訳『フランク・ライカールト--狂気を秘めた人格者』サッカー・プラネット監修、東邦出版、2008年。ISBN 4809407284 
  • フアン・カルロス・クベイロ、レオノール・ガジャルド 著、今井健策 訳『グアルディオラのサッカー哲学』実業之日本社、2011年。ISBN 4408453242 
  • フィル・ボール 著、近藤隆文 訳『バルサとレアル -スペイン・サッカー物語』日本放送出版協会、2002年。ISBN 4140806737 
  • ブライアン・グランヴィル 著、田村修一、土屋晃、田邊雅之 訳『決定版ワールドカップ全史』賀川浩監修、草思社、1998年。ISBN 4794208189 
  • ブライアン・グランヴィル 著、田村修一、土屋晃、田邊雅之 訳『ブライアン・グランヴィルのワールドカップ・ストーリー』賀川浩監修、新紀元社、2002年。ISBN 4775300849 
  • フリーツ・バーランド、ヘンク・ファンドープ 著、金子達仁 訳『ヨハン・クライフ「美しく勝利せよ」』二見書房、1999年。ISBN 457699199X 
  • ポール・ガスコイン 著、東本貢司 訳『ガッザの涙-フットボーラーポール・ガスコイン自伝』カンゼン、2006年。ISBN 4901782738 
  • ミゲルアンヘル・サントス 著、松岡義行 訳『ヨハン・クライフ スペクタクルがフットボールを変える』中央公論新社〈中公文庫〉、2002年。ISBN 4122040272 
  • ミック・スホッツ、ヤン・ラウツェン 著、戸谷美保子 訳『クライフ公認「トータル」フットボーラーの全貌』東邦出版、2009年。ISBN 4809408396 
  • ヨハン・クライフ 著、木崎伸也、若水大樹 訳『ヨハン・クライフ サッカー論』二見書房、2014年。ISBN 4576140558 
  • ヨハン・クライフ 著、若水大樹 訳『ヨハン・クライフ自伝 サッカーの未来を継ぐ者たちへ』二見書房、2017年。ISBN 4576170120 
  • サッカーマガジン編集部 編『サッカーマガジン別冊秋季号 ヨハン・クライフ・スーパースター』ベースボール・マガジン社、1980年。 
  • 日本スポーツプレス協会編集 編「フランツ・ベッケンバウアーとヨハン・クライフ」『20世紀スポーツの肖像-心に残るアスリートたち』学習研究社、2000年。ISBN 4054012671 
  • FIFA 編「Players Portraits」『フットボールの歴史 FIFA創立100周年記念出版』講談社、2004年。ISBN 4062125609 
  • 『完全保存版 南アフリカW杯総集編』文藝春秋〈Sports Graphic Number PLUS〉、2010年。ISBN 458361084X 
  • エルンスト・ブーベス『理想から現実へ オランダ躍進、7つの秘密』。 
  • サイモン・クーパー 著、田邊雅之 訳『大会総括 最先端のサッカーに、天才は必要ない。』。 

関連項目

[編集]

外部リンク

[編集]