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|画像=Cruyff a la banqueta del Camp Nou.jpg
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|本名=Hendrik Johannes Cruijff(Johan Cruyff)
|本名=ヘンドリック・ヨハネス・クライフ<br />{{lang|nl|Hendrik Johannes Cruijff}}
|愛称=フライング・ダッチマン<ref name="学研">{{Cite book|和書|author=日本スポーツプレス協会編 |chapter=フランツ・ベッケンバウアーとヨハン・クライフ |year=2000|title=20世紀スポーツの肖像-心に残るアスリートたち |publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]] |page= 64-65|isbn=978-4054012677}}</ref><br />エル・サルバドール<ref name="story149">{{Cite web|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=149 |title=ヨハン・クライフ |publisher=賀川サッカーライブラリー |date= |accessdate=2012年7月7日}}</ref><br />エル・フラコ<ref name="サントス181">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、181頁</ref><br />スーパースター<ref name="encyclopedia665">{{Cite book|和書 |year=2006 |title=サッカーマルチ大辞典 改討版 |publisher=[[ベースボールマガジン社]] |page= 665 |isbn=978-4583038803 }}</ref>
|愛称=フライング・ダッチマン、ジーザス・クライスト
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|出身地=[[アムステルダム]]、[[:en:Heemstede|ヘームステーデ]]
|出身地=[[アムステルダム]]・{{仮リンク|ベトンドルプ|nl|Betondorp}}地区
|身長=176cm
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|利き足=右足
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|ユースクラブ=[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]
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|ユース年=1957-1964
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|年=1964-1973<br />1973-1978<br />1979-1980<br />1980-1981<br />1981<br />1981-1983<br >1983-1984
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|出場(得点)=240 (190)<br />143 (48)<br />27 (16)<br />32 (12)<br />10 (2)<br />36 (14)<br />33 (11)<!--国内リーグ戦の成績に限る-->
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|代表={{NEDf}}
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|代表年1=1966-1977<ref name="rsssf">{{en icon}} {{Cite news | url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/cruijff-intlg.html| title= Johan Cruijff - Goals in International Matches | publisher=rsssf.com |author= |date=|accessdate=2014年1月4日}}</ref>
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'''ヨハン・クライフ'''こと'''ヘンドリック・ヨハネス・クライフ'''({{lang-nl|Hendrik Johannes Cruijff}}{{#tag:ref|[[英語]]表記では「Cruyff」と綴られることもある<ref name="FIFA CP">{{en icon}} {{Cite news|url=http://www.fifa.com/classicfootball/players/player=1043/ |title=FIFA Classic Player: - Johan CRUYFF The Netherlands' Grand Master |publisher=FIFA.com|accessdate=2014年1月4日}}</ref>。|group=注}} {{仮リンク|オレンジ=ナッソー勲章|label=OON|en|Order of Orange-Nassau}}, [[1947年]][[4月25日]] - )は、[[オランダ]]出身の元[[サッカー選手]]、サッカー指導者である。選手時代のポジションは[[フォワード (サッカー)|フォワード]]([[センターフォワード]]、[[ウイング (サッカー)|ウインガー]])、[[ミッドフィールダー]](攻撃的MF)。


[[リヌス・ミケルス]]監督の志向した組織戦術「[[トータルフットボール]]」をピッチ上で体現した選手であり<ref name="学研"/><ref name="encyclopedia">{{Cite book|和書 |year=2006 |title=サッカーマルチ大辞典 改討版 |publisher=[[ベースボールマガジン社]] |page= 165 |isbn=978-4583038803 }}</ref>、選手時代に在籍した[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]では[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]3連覇、[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]では[[FIFAワールドカップ]]準優勝に導いた実績などから[[バロンドール]](欧州年間最優秀選手賞)を3度受賞した。[[フランツ・ベッケンバウアー]]([[ドイツ]])と並ぶ[[1970年代]]を代表する選手<ref name="学研"/><ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、232頁</ref><ref>[[#大住 1998|大住 1998]]、56頁</ref>であり、[[ペレ]]([[ブラジル]])や[[アルフレッド・ディ・ステファノ]]や[[ディエゴ・マラドーナ]](共に[[アルゼンチン]])と並ぶ20世紀を代表する選手と評されている<ref name="FIFA CP"/><ref name="encyclopedia"/>。
'''ヨハン・クライフ [[オランダ王国オレンジ・ナッソー勲章|OON]]'''('''Johan Cruijff'''<ref>英語表記では「Cruyff」と綴られることもある。</ref>、フルネーム:Hendrik Johannes Cruijff、[[1947年]][[4月25日]] - )は、[[オランダ]]・[[北ホラント州]][[ヘームステーデ]])出身の元[[サッカー選手]]、サッカー指導者であり、現在は[[サッカーカタルーニャ選抜|カタルーニャ選抜]]の監督を務める人物である。現役時代のポジションは主に[[フォワード (サッカー)|FW]]([[センターフォワード]]、[[ウイング (サッカー)|ウインガー]])、[[ミッドフィールダー|MF]](攻撃的MF)であった。


引退後は指導者に転身し古巣のアヤックスや、[[FCバルセロナ]]の監督を務めると、バルセロナでは[[リーガ・エスパニョーラ]]4連覇やUEFAチャンピオンズカップ優勝などの実績を残し監督としても成功を収めた<ref name="学研"/>。その後は監督業から退いていたが[[2009年]]から[[2013年]]まで[[サッカーカタルーニャ選抜|カタルーニャ選抜]]の監督を務めた。[[リヒャルト・ワーグナー]]の[[楽劇]]「[[さまよえるオランダ人]]」に由来する「'''空飛ぶオランダ人'''(フライング・ダッチマン)」<ref name="学研"/><ref name="asahi">{{Cite web|url=http://www.asahi.com/sports/fb/world/TKY201007090212.html |title=「スペイン流」先生はオランダ クライフの攻撃サッカーを継承 |publisher=[[朝日新聞]] |date=2010年7月9日 |accessdate=2014年1月4日}}</ref>、[[スペイン語]]で[[救世主]]を意味する「エル・サルバドール」<ref name="story149"/>など、様々な[[ニックネーム]]を持つ。
== 概要 ==


== 生い立ち ==
クライフは[[1960年]]代後半から[[1970年]]代にかけて欧州年間最優秀選手賞([[バロンドール]])を3度受賞し、オランダ代表監督などを歴任した[[リヌス・ミケルス]]監督の組織戦術「[[トータルフットボール]]」における中心選手であった。このミケルス監督とは[[1965年]]の[[アヤックス・アムステルダム]]時代から、[[FCバルセロナ]]、そしてオランダ代表でも監督と選手の間柄であった。
[[ファイル:Oogststraat Betondorp Amsterdam NL 1.jpg|left|thumb|250px|クライフが育ったベトンドルプの街並み]]
[[1947年]][[4月25日]]、[[アムステルダム]]の東部にある{{仮リンク|ベトンドルプ|nl|Betondorp}}という労働者の住む街で、青果店を営む家庭に産まれた<ref name="サントス70-71">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、70-71頁</ref>。家庭は貧しく日頃の生活に窮していたが<ref name="サントス70-71"/>、仲の良かった2歳年上の兄や近所の友人達と毎日のようにストリートサッカーに興じてテクニックを磨いた<ref name="サントス70-71"/>。少年時代を過ごした生家から数100mほどの場所にアヤックスのホームスタジアムや施設があり、頻繁に出入りしていたことから選手やスタッフから可愛がられマスコットのような存在になった<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、75頁</ref>。


少年時代は華奢な体格で実際の年齢より幼く見えたほどだったが、ストリートサッカーで身に付けたテクニックはこの当時から話題となっており、10歳の時に兄の後を追ってアヤックスの下部組織に入団した<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、77-78頁</ref><ref name="賀川20050329">{{Cite web|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=870 |title=第12回 ヨハン・クライフ(1)スリムで、鋼のように強く、チームを意のままに動かし、観客をしびれさせた|publisher=賀川サッカーライブラリー |accessdate=2014年1月4日}}</ref>{{#tag:ref|アヤックスの攻撃的なサッカースタイルは[[イングランド]]出身の{{仮リンク|ジャック・レイノルズ (1881年生のサッカー選手)|label=ジャック・レイノルズ|en|Jack Reynolds (footballer born 1881)}}によって初めて導入された<ref name="ウィルソン277-278">[[#ウィルソン 2010|ウィルソン 2010]]、277-278頁</ref>。レイノルズは選手としての成功とは無縁だったが[[1915年]]にアヤックスの監督に就任すると、役員との対立や[[第二次世界大戦]]の影響による退団を挟んで25年間に渡って同クラブを指導しオランダ国内の強豪チームへと育て上げた<ref name="ウィルソン277-278"/>。彼は「攻撃とは最高の形の守備である」との信条に基いた指導を行うと共に、下部組織の基礎を作り各年代ごとのチームが一貫したスタイルでプレー出来るように配慮した<ref name="ウィルソン277-278"/>。|group=注}}。当時のアヤックスには[[第二次世界大戦]]後に駐屯していた[[アメリカ軍]]の影響もあって[[野球]]部門があり、クライフは[[捕手|キャッチャー]]を務めていた<ref name="大住74-75">[[#大住 2004|大住 2004]]、74-75頁</ref><ref name="story872">{{Cite web|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=872 |title=第14回 ヨハン・クライフ(3)互いに話し合い互いにプレーを知っていた74年のオランダ |publisher=賀川サッカーライブラリー|accessdate=2014年1月4日}}</ref>。有望なキャッチャーであったといい<ref name="サカマガ秋季52-53">[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、52-53頁</ref>[[メジャーリーグベースボール|メジャーリーグ]]でスター選手になる夢も持ち合わせていた<ref name="大住74-75"/>が、オランダ国内においてサッカーのプロ化の機運が高まったことを受けてクラブが野球部門を廃止したことで野球選手としての道は絶ち、サッカーに専念することになった<ref name="大住74-75"/><ref name="サカマガ秋季52-53"/>。
選手時代のクライフのには[[リヒャルト・ワーグナー]]の[[楽劇]]「[[さまよえるオランダ人]]」に由来する「'''空飛ぶオランダ人'''('''フライング・ダッチマン''')」<ref name="asahi">{{cite web|url=http://www.asahi.com/sports/fb/world/TKY201007090212.html |title=「スペイン流」先生はオランダ クライフの攻撃サッカーを継承 |publisher=[[朝日新聞]] |date=2010-07-09 |accessdate=2010-07-11}}</ref>、イニシャルの「J.C.」が[[イエス・キリスト]]と同じことに由来する「ジーザス・クライスト/ジーザス・クライフ」など、様々な[[ニックネーム]]が付けられたが、Jesus(ジーザス)はキリスト圏で神を意味するため、ジーザスというニックネームではほとんど呼ばれていない。
特に「フライング・ダッチマン」の異名は1974年の[[1974 FIFAワールドカップ|ワールドカップ西ドイツ大会]]、対[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]戦の2点目で見せたジャンピングボレーシュートに由来するものであり、このシュート自身も「フライング・ボレー」という固有名詞扱いされることもある。この他に現役時代のプレーとしては軸足の後ろ側にボールを通しながらターンする「'''[[クライフターン]]'''」もまた有名であり、今日ではサッカーの基本テクニックの一つとなっている。


[[1959年]][[7月8日]]、12歳の時に父が心臓発作で亡くなると精神的なショックを受けることになった<ref name="サントス72-73">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、72-73頁</ref>。クライフ自身は「影響は受けたことは確かだが、その程度は判らない」としているが周囲の人々は立ち直るまでに時間を有したと証言している<ref name="サントス72-73"/>。父の死後、クライフは父の墓前に語り掛けるようになり、架空の対話を通じて父の魂とともにあり見守られているのだと確信していたという<ref name="サントス72-73"/>。母は青果店を手放し、アヤックスの清掃員や家政婦として家計を支えていたが<ref name="大住75">[[#大住 2004|大住 2004]]、75頁</ref>、やがてアヤックスの用務員を務める男性と再婚した<ref name="サントス79">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、79頁</ref>。男性はクライフとは幼少のころから交流があり精神的な安定をもたらすことになった<ref name="サントス79"/>。この時期、[[プロテスタント]]系の小学校を卒業後に地元の4年制の中学校へ進学したが勉学には不熱心であり<ref name="サカマガ秋季68-69">[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、68-69頁</ref>、2年次に中退しスポーツ用品店の店員を務めながらアヤックスの下部組織でプレーを続けた<ref name="サカマガ秋季52-53"/>。
現役引退後は指導者としても実績を残した。特に1990年代には[[FCバルセロナ]]の監督を務め、[[リーガ・エスパニョーラ]]4連覇し、「[[エル・ドリーム・チーム]]」の異名を取っている。[[1996年]]以降は体調不良の為、監督を退いているが、FCバルセロナの名誉会長やスペイン・カタルーニャ選抜監督を務め、今も尚、サッカー界に多大な影響を与え続けている。


15歳でユースチームに昇格したが当時のクライフは他のチームメイトと比べて体格で見劣りをしていた<ref name="サントス78">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、78頁</ref>。一方、持ち前の突破力を生かしセンターフォワードとして1シーズンの公式戦で74得点を挙げるなど才能を発揮し<ref name="サントス78"/>、1963-64シーズンにはオランダのユース年代の全国大会で優勝を果たした<ref name="Biografie">{{nl icon}} {{Cite web| url = http://www.cruyff.com/asp/ned/flashcontent.asp?page=7 | title= Biografie Johan Cruijff |publisher= Cruijff.com | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>。こうした経緯からトップチームの監督を務めていた{{仮リンク|ヴィク・バッキンガム|en|Vic Buckingham}}はクライフのトップチーム昇格の機会を模索するようになり<ref name="サントス79"/>、個人プレーに走りがちなクライフに対してチームプレーの重要さを指導した<ref name="サントス79"/>。
== 経歴 ==
=== 少年時代 ===
クライフは[[1947年]][[4月25日]]、[[第二次世界大戦]]後の[[オランダ]]・[[ヘームステーデ]]で、父親が青果店を営む家庭に産まれた。ストリートサッカーに明け暮れた少年時代は華奢で、周囲からは「この子は病気ではないか」と心配されていた程だった。小さい時から[[アヤックス・アムステルダム]]の大ファンだったクライフは、10歳の時に入団テストに合格し、アヤックスの下部組織に入団した。


=== アヤッス時代 ===
== クラブ経歴 ==
=== アヤックス ===
アヤックスに入団したクライフであったが12歳の時に父親が死去し、13歳の時にサッカーへ専念するため学校を退学している。16歳の時にアヤックスのトップチームに昇格し、1964-65シーズンに[[FCフローニンゲン]]戦でデビューを果たし、同時に初ゴールも決めている。その後、[[エールディヴィジ]]はプロ化され、クライフもプロ選手となっている。アヤックスには[[1973年]]まで9シーズン以上在籍し、その間、[[UEFAチャンピオンズカップ]]に3回優勝、個人では[[バロンドール]]に2回選出されている。
==== 選手としての成功 ====
なお、アヤックスのユース時代に、審判のポジショニングミスを指摘し抗議したため退場になった事がある。
16歳の時に[[1964年]]にトップチームへの昇格と[[プロフェッショナル (サッカー)|プロ契約]]を打診されると、小柄な体躯であることを懸念する母を説得し、契約金1500[[ギルダー]](約15万円)、年俸4万ギルダー(約400万円)でプロ契約を結んだ<ref name="サントス80">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、80頁</ref>。クライフがプロ契約を結んだ当時のオランダ国内では[[1954年]]からプロ契約が認められ{{#tag:ref|オランダでプロが認められたのは1954年のことで<ref name="ウィナー24-25">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、24-25頁</ref><ref name="サカマガ197108">{{Cite book|和書 |author=エリック・バッティ |chapter=躍進オランダの新星 ヨハン・クライフ |title=[[週刊サッカーマガジン|サッカーマガジン]]|volume=1971年8月号 |publisher=[[ベースボールマガジン社]] |page=106-108}}</ref><ref name="ウィルソン 276">[[#ウィルソン 2010|ウィルソン 2010]]、276頁</ref>、前年にオランダ西部の[[ゼーラント州]]が[[洪水]]に見舞われた際に同国のスター選手達が災害支援のために、[[サッカーフランス代表|フランス代表]]と慈善試合を行ったことがきっかけだった<ref name="ウィナー24-25"/>。しかしプロが認められた後も、多くの選手がアマチュアやセミプロの選手としてピッチに立っており<ref name="ウィナー24-25"/>、待遇面だけでなく戦術レベルにおいても欧州の先進国と比べ大きく立ち遅れていた<ref name="ウィナー26-27">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、26-27頁</ref><ref name="ウィルソン 276"/>。個々の選手に才能はあってもそれを試合で発揮する術のない状況は1960年代初頭まで続いたという<ref name="ウィナー26-27"/>。また、1954年にオランダで認められたのは「[[セミプロフェッショナル|セミプロ契約]]」であったとする指摘もある<ref>[[#クーパー 2005|クーパー 2005]]、232頁</ref>。|group=注}}クライフが所属していたアヤックスは1960年代半ばになると国内のスポーツ界に先駆けて高額の給与での選手と契約を始めたが<ref name="クーパー233-234">[[#クーパー 2005|クーパー 2005]]、233-234頁</ref>、この契約に関してアマチュアやセミプロが主流だったオランダサッカー界において2人目の事例であり、1人目はアヤックスの主力選手であった[[ピート・カイザー]]とする指摘がある<ref name="クーパー233-234"/><ref name="サントス86">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、86頁</ref>{{#tag:ref|クライフは自身のプロ契約について以下のように発言している。{{Quotation|記憶が正しければ、私はオランダで2人目の「フルタイム」のプロサッカー選手だった。1964年のことだ。考えてもみてくれ、つい最近のことだよ。1人目はピート・カイザーであり、私は2人目だ<ref name="クーパー233-234"/>。|ヨハン・クライフ}}|group=注}}。
同年[[11月15日]]にアウェーで行われた[[FCフローニンゲン|GVAV]]戦でデビューを果たすと試合は1-3で敗れたものの初得点を決め<ref name="Cruijff as">{{en icon}} {{Cite news| url = http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler | title= Cruijff as a player |publisher= Cruijff.com |accessdate = 2014年1月4日}}</ref>、[[11月22日]]にホームで行われた[[PSVアイントホーフェン]]戦でも得点を決め勝利に貢献しサポーターの人気を獲得した<ref name="サントス81">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、81頁</ref>。一方、バッキンガムや彼の後任として[[1965年]]1月に監督に就任した[[リヌス・ミケルス]]の下でクライフはレギュラー選手としてではなくスーパーサブとして起用された<ref name="サカマガ秋季55">[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、55頁</ref>。これはクライフの素質を認めながらも時間をかけて育成していきたいとの指導者側の意向によるものであり<ref name="サカマガ秋季55"/>、ミケルスは「ヨハンは可能性を秘めていたが少年であり精神的や肉体的には依然として未熟だった」と評している<ref name="大住77">[[#大住 2004|大住 2004]]、77頁</ref>。


[[ファイル:Rinus Michels 1984.jpg|thumb|250px|選手時代にクライフを指導した[[リヌス・ミケルス]]。彼の志向した組織戦術「[[トータル・フットボール]]」を遂行する上で、クライフは欠かせない存在となっていった。]]
クライフの代名詞である[[サッカーの背番号|背番号]]「'''14'''」はこのアヤックス時代から好んで付けていた。当時、背番号は選手固定ではなく、毎試合前に選手同士で話し合って決めていた。ある時、主に控え選手が付ける「14」を選ぶクライフに監督がその理由を尋ねると、クライフは「誰も付けていないこの番号を、これから自分の番号にするためだ」と言ったという。代名詞となった背番号14は2007年4月25日、アヤックスの[[永久欠番]]となった。
ミケルスは自らが志向する「トータル・フットボール」を実践するために選手達に厳しいサーキットトレーニングを課していたが、クライフはミケルスの課した練習に熱心に取り組んだ<ref name="大住80">[[#大住 2004|大住 2004]]、80頁</ref>。[[1965年]][[10月24日]]に行われた{{仮リンク|AFCドース・ウィルスクラフト・ステルク|label=AFC DWS|en|AFC DWS}}戦で{{仮リンク|クラース・ヌニンハ|en|Klaas Nuninga }}との交代で1965-66シーズンの初出場を果たすとカイザーとのパス交換から2得点をあげる活躍を見せて勝利に貢献<ref name="Biografie"/>。同シーズンに19試合に出場し16得点をあげ[[エールディヴィジ]]優勝に貢献するなど順調に成長を見せると、19歳の頃にはミケルスの志向するサッカーを実践する上で欠かすことのできない選手となっていた<ref name="大住77"/>。


また若い頃は、クライフより1歳上で[[マンチェスター・ユナイテッドFC]]に所属していた[[ジョージ・ベスト]]に例えられ「オランダのベスト」と称されたこともあった<ref name="大住78">[[#大住 2004|大住 2004]]、78頁</ref>が、クライフは[[1950年代]]のスター選手である[[アルフレッド・ディ・ステファノ]]のファンであり<ref name="大住80">[[#大住 2004|大住 2004]]、80頁</ref>、ベストに例えられることを嫌っていた<ref name="大住80"/>。才能がありながら不摂生が災いして表舞台から姿を消した<ref name="大住78"/>ベストではなく、ディ・ステファノのセンターフォワードでありながらミッドフィールダーの位置で幅広く動き周り積極的に守備に加わる、従来の概念を覆すプレースタイルを理想としていた<ref name="大住80"/>。
当時のオランダには[[徴兵制度]]があり、兄は徴兵され軍に入れられたが、クライフは[[仮病]]やありとあらゆるワガママと言い訳を使い続け、ついに医者を根負けさせた。よって本人は兵役を逃れたため、このように若い頃から活躍する事が可能であった。


国内では1965-66シーズンからリーグ3連覇を成し遂げるなどリーグ優勝6回 (1965-66, 1966-67, 1967-68, 1969-70, 1971-72, 1972-73)、KNVBカップ優勝4回 (1966-67, 1969-70, 1970-71, 1971-72)。個人としても1966-67シーズンに33得点、1971-72シーズンに25得点をあげリーグ得点王を獲得した。
=== FCバルセロナ時代 ===
[[1973年]]、200万ドルという当時としては破格の移籍金で[[リーガ・エスパニョーラ|スペイン]]の[[FCバルセロナ]]に移籍し、このシーズンのリーグ優勝に貢献した。特に[[アトレティコ・マドリード]]戦でのゴールやアウェー[[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ|サンティアゴ・ベルナベウ]]で行われた[[エル・クラシコ]]に5-0で歴史的大勝を収めた事などは語り草となっている。その後、5シーズンにわたってバルセロナに多くのタイトルをもたらした。なお、アヤックス時代には「14」の背番号を着けていたクライフであったが、当時の[[リーガ・エスパニョーラ]]には先発メンバーは「1」~「11」の背番号をつけるという規定があったため、「14」ではなく「9」をつけている。


=== 選手キャリア晩年 ===
==== 国際タイトル獲得 ====
[[ファイル:Johan Cruijff bij de uitreiking van de Ballon d'Or in 1971.jpg|thumb|270px|left|1971年の[[バロンドール]]授賞式でのクライフ]]
[[1979年]]、FCバルセロナ上層部と運営方針を巡って衝突し、クラブを退団した。一時は引退を宣言するも、[[アメリカ合衆国|アメリカ]]・[[北米サッカーリーグ]]の[[ロサンゼルス・アズテックス]]に移籍、その後[[ワシントン・ディプロマッツ]]へと移籍
[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]には[[UEFAチャンピオンズカップ 1966-67|1966-67]]シーズンに初出場を果たし2回戦で[[ビル・シャンクリー]]監督が率いるイングランドの[[リヴァプールFC]]と対戦した。この試合前のアヤックスの評価は低かったが<ref name="クーパー242-243">[[#クーパー 2005|クーパー 2005]]、242-243頁</ref>、[[霧|濃霧]]の中で行われたホームでの第1戦においてクライフは奔放な動きを見せてリヴァプール守備陣を翻弄し5-1と大勝した<ref name="クーパー242-243"/>。敵地での第2戦を前に相手のシャンクリー監督は「我々が7-0で勝利する」と記者に対し公言したが<ref name="クーパー242-243"/>、クライフが2得点を挙げる活躍を見せて2-2と引分け、準々決勝進出へ導いた<ref name="サカマガ197108"/><ref name="クーパー242-243"/>。
ベッケンバウアーと共にリーグを彩った。その後、スペインの[[レバンテUD]]を経て、[[1981年]]に古巣アヤックスに戻ったが
アヤックス上層部から「君は年を取って居るからダメだ」と言われ、激怒したクライフは「それを決めるのはあなたじゃない、私だ」と言い放ち[[1983年]]にライバルチームの[[フェイエノールト]]へ移籍して[[1984年]]にエールディヴィジを優勝して現役を引退した。


このリヴァプール戦の勝利を境にクライフの存在はヨーロッパ各国の関係者の知るところとなり、国際舞台において厳しいマークを受けることになった<ref name="サカマガ197108"/>。[[UEFAチャンピオンズカップ 1967-68|1967-68]]シーズンに1回戦でスペインの[[レアル・マドリード]]と対戦した際、マドリードの[[ミゲル・ムニョス]]監督はマンマーク役の{{仮リンク|フェルナンド・スンスネギ|en|Fernando Zunzunegui}}に対しクライフへの密着マークを指示<ref name="レアル・マドリー">{{Cite book|和書|author=フィル・ボール著、野間けい子訳|year=2004 |title=レアル・マドリー--ディ・ステファノからベッカムまで|publisher=[[ネコ・パブリッシング]]|isbn=978-4777050369 |page=226-227頁}}</ref>。スンスネギはムニョスからの指示を忠実に遂行し試合中だけでなくロッカールームへも追走してクライフのマークを続けたという(結果はレアル・マドリードの勝利)<ref name="レアル・マドリー"/>。
最後の2年は連続でオランダ年間最優秀選手に選ばれており、余力を残しての引退のように見えたが、実際は体が相当限界に近かった事を自らの自伝に書いている。最後の試合を終えた後、ロッカールームで[[スパイクシューズ|スパイク]]を無造作に放り投げ、引退の意思を示した。


{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
=== オランダ代表として ===
|-
[[ファイル:Perfumo y cruyff.jpg|thumb|200px|left|[[1974 FIFAワールドカップ]]のクライフ(左)と[[ロベルト・ぺルフーモ]]]]
|<div style="position: relative;">
[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-N0716-0314, Fußball-WM, BRD - Niederlande 2-1.jpg|thumb|230px|right|[[1974 FIFAワールドカップ]]決勝の[[サッカードイツ代表|西ドイツ代表]]戦でのクライフ]]
[[ファイル:Soccer.Field Transparant.png|225px]]
クライフは[[1966年]][[9月7日]]の対[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]戦で[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]デビューを果たした。
{{Image label|x=0.10|y=0.40|scale=225|text=[[ピート・カイザー|<span style="font-size: 90%; color: white">'''カイザー'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.43|y=0.40|scale=225|text=[[ヨハン・クライフ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''クライフ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.75|y=0.40|scale=225|text=[[ヨニー・レップ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''レップ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.18|y=0.61|scale=225|text=[[ヨハン・ニースケンス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ニースケンス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.65|y=0.61|scale=225|text=[[ヘリー・ミューレン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ミューレン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.43|y=0.78|scale=225|text=[[アリー・ハーン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ハーン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.58|y=0.90|scale=225|text=[[ヴィム・スールビール|<span style="font-size: 90%; color: white">'''スールビール'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.08|y=0.90|scale=225|text=[[ルート・クロル|<span style="font-size: 90%; color: white">'''クロル'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.10|y=1.03|scale=225|text=[[ホルスト・ブランケンブルク|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ブランケンブルク'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.65|y=1.03|scale=225|text=[[バリー・フルスホフ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''フルスホフ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.41|y=1.18|scale=225|text=[[ハインツ・ストゥイ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ストゥイ'''</span>]]}}
|-
|style="font-size: smaller;"|[[1973年]][[5月30日]]、[[UEFAチャンピオンズカップ 1972-73]]決勝、[[ユヴェントスFC|ユヴェントス]]戦のメンバー<ref>{{en icon}} {{Cite news | url=http://www.rsssf.com/ec/ec197273det.html#cc | title=European Champions' Cup 1972-73 - Details | publisher=rsssf.com |accessdate=2014年1月4日}}</ref>
</div>
|}
[[UEFAチャンピオンズカップ 1968-69|1968-69]]シーズンにはオランダ勢として初の決勝進出を果たしたものの、[[イタリア]]の[[ACミラン]]に1-4で敗退。[[UEFAチャンピオンズカップ 1970-71|1970-71]]シーズンには決勝で[[ギリシャ]]の[[パナシナイコスFC]]を下し初優勝に貢献すると、[[1971年]]の[[バロンドール]](欧州年間最優秀選手賞)の投票では116ポイントを獲得し、2位の[[サンドロ・マッツォーラ]](57ポイント)、3位のジョージ・ベスト(56ポイント)を抑えて初受賞を果たした<ref name="rsssf71">{{en icon}} {{Cite news | url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/europa-poy71.html| title= European Footballer of the Year ("Ballon d'Or") 1971| publisher=rsssf.com |date=|accessdate=2014年1月4日}}</ref>。


[[UEFAチャンピオンズカップ 1971-72|1971-72]]シーズンにはミケルスが退任し[[ルーマニア人]]の[[シュテファン・コヴァチ]]が監督に就任した<ref name="スホッツ、ラウツェン52">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、52頁</ref>。コヴァチはミケルスの提唱した「トータル・フットボール」を引き継ぐ一方で規律を重んじた前任者とは対照的に選手の自主性を許容し<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、86頁</ref><ref>[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、122頁</ref>「トータル・フットボール」の組織的な連動性を進化させた<ref name="スホッツ、ラウツェン52"/>。この時期のアヤックスについてクライフは「コヴァチの下では後方のミッドフィールダーやディフェンダーが前線へと飛び出し、本来は前線にいるフォワードが後方から飛び出した選手のポジションをカバーリングするといった自由が認められ相手チームの脅威となっている。ミケルスの下では決して認められなかっただろう」と評している<ref name="スホッツ、ラウツェン52"/>。準決勝でポルトガルの[[SLベンフィカ]]を下し2年連続で決勝進出を果たした際には規律の低下と最少得点差での勝ちあがりに批判の声が上がったものの<ref name="ウィルソン292">[[#ウィルソン 2010|ウィルソン 2010]]、277-278頁</ref>、決勝でイタリアの[[インテルナツィオナーレ・ミラノ|インテル・ミラノ]]と対戦した際にはクライフが2得点をあげる活躍を見せ2-0と下し2連覇を達成した<ref name="ウィルソン292"/>。この大会の勝者として挑んだ[[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]]ではアルゼンチンの[[CAインデペンディエンテ]]と対戦し2試合合計4-1のスコアで初優勝した<ref name="サントス51">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、51頁</ref>。
1974年の[[1974 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・西ドイツ大会]]にもオランダ代表として出場。「'''時計じかけのオレンジ'''」([[時計じかけのオレンジ|同名の小説]]に由来)と称されたチームの一員として決勝戦に進出した。[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]戦で、クライフはキックオフ直後にPKを獲得するプレーを見せた<ref>{{cite web|url=http://www.sponichi.co.jp/soccer/flash/KFullFlash20100711009.html |title=74年クライフ旋風…過去のオランダ決勝戦 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=2010-07-11 |accessdate=2010-07-11}}</ref>が西ドイツのディフェンダー・[[ベルティ・フォクツ]]の執拗なマークに遭い完全に封じ込められ、クライフを封じられた事で組織として機能しなくなったオランダは1対2で敗れ、準優勝に終わっている。クライフ自身はこの大会の最優秀選手に選ばれ、またこの年は3度目のバロンドールにも輝いた。


[[UEFAチャンピオンズカップ 1972-73|1972-73]]シーズンには準々決勝で[[フランツ・ベッケンバウアー]]、[[ゲルト・ミュラー]]、[[ゼップ・マイヤー]]を擁する[[西ドイツ]]の[[バイエルン・ミュンヘン]]と対戦することになり、クライフとベッケンバウアーの対決にヨーロッパ全土の注目を集めた<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、88-89頁</ref>。ホームでの第1戦に4-0で完勝するとアウェイでの第2戦を1-2で敗れたものの合計5-2のスコアで勝利を収め、決勝ではイタリアの[[ユヴェントスFC]]を下し3連覇を達成した<ref name="サントス51"/>。[[1973年]]のバロンドールの投票では96ポイントを獲得し2位の[[ディノ・ゾフ]](47ポイント)、3位のゲルト・ミュラー(44ポイント)を抑えて2回目の受賞を果たした<ref name="rsssf73">{{en icon}} {{Cite news | url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/europa-poy73.html| title= European Footballer of the Year ("Ballon d'Or") 1973 | publisher=rsssf.com |date=|accessdate=2014年1月4日}}</ref>。
[[1978年]]の[[1978 FIFAワールドカップ|ワールドカップ・アルゼンチン大会]]では、欧州予選にこそ出場したものの、[[1977年|77年]][[10月]]に代表を引退した。1978年ワールドカップを目前にした代表引退はワールドカップ開催国[[アルゼンチン]]の[[ホルヘ・ラファエル・ビデラ]][[軍事政権]]に対する抗議のため大会参加を拒否したという噂が流れていた。また、[[1974年]]のワールドカップにおいて決勝まで進出しながら敗れ、目の前にあるワールドカップトロフィーを掲げることができなかったことを振り返り、「筆舌に尽くしがたい屈辱で、あのような思いは二度と体験したくなかったため代表を辞退した。」とも語ることもあった。何より自伝で「一ヶ月以上も家族と離れ離れになるのは絶えられない」とも書いている。この不出場は長年噂が付きまとい、『なら何故欧州予選に出場したんだ?』等の矛盾だらけの謎であったが、[[2008年]]4月スペインのラジオ番組において、その真の理由が1977年に起こった子どもの[[誘拐]]未遂事件に遭ったためだったことを明らかにした。事の詳細は、何者かがクライフの自宅に押し入り、クライフは頭に[[銃]]を突きつけられ、妻は縛り上げられ、子供達は床に伏せさせられ、その後クライフの自宅と子供達の通学には4ヶ月間スペインの警察がガードした、とスペインのサイトなどに書かれていた。これはヨーロッパ中のサッカー界を激震させた発言であった。これが真の理由であるため「一ヶ月以上も家族と離れ離れになるのは耐えられない」と言う自伝で書いた事や、本戦不出場なのに予選出場という矛盾などは消え去った。要するに家族を危険にさらされたまま一ヶ月も家族と離れるのは耐えられない、と言う事であったのだ。なお、未だに犯人は不明である<ref>{{cite web|url=http://www.jiji.com/jc/wcup?id=wcup_s_africa&s=news&c=top&k=2010071000299 |title=理想だけでは届かなかった頂点=オランダ、最後の壁破れるか |publisher=[[時事通信]] |date=2010-07-10 |accessdate=2010-07-11}}</ref>。


=== 指導者として成功 ===
==== 国外からオファー ====
一方で元モデルの妻や、宝飾商を営んでいた妻の父{{仮リンク|コー・コスター|nl|Cor Coster}}(後にクライフのマネージャーを務める)の助言もあり、高額の報酬を求めて移籍に心が傾くようになった<ref name="サントス92">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、92頁</ref>。アヤックスでの活躍によりスペインのFCバルセロナが関心を持つようになり、1970年1月にクライフをアヤックスのトップチームに抜擢した当時の監督である{{仮リンク|ヴィク・バッキンガム|en|Vic Buckingham}}を招聘しクライフ獲得に向けた仲介役としてオファーを申し出た<ref name="大住85-86">[[#大住 2004|大住 2004]]、85-86頁</ref><ref name="トーラス154">[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、154頁</ref>。当時の[[スペインサッカー連盟]]の規定では外国籍選手の獲得は禁止されていたが、年内に規定が改正される可能性を見通してのオファーだった<ref name="大住85-86"/><ref name="トーラス154"/>。バルセロナ側からはアヤックス時代の3倍の年俸、ボーナス、住居、自動車、オランダとの往復航空券などの付与するなどの条件を掲示され<ref name="大住85-86"/>、両クラブ間で合意に達した<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、94頁</ref>が、同年3月に行われたスペインサッカー連盟の総会において規定改正が見送られた<ref name="トーラス155">[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、155頁</ref>ことで移籍は消滅し<ref name="大住85-86"/><ref name="トーラス155"/><ref name="サントス92"/>、代わりにミケルスがバルセロナの監督として引き抜かれることになった<ref name="大住85-86"/>。
[[ファイル:Johan Cruijff met Japanse fans.jpg|thumb|230px|right|日本人のファンにサインをするクライフ(1982年)]]
[[1985年]]、アヤックスの監督に就任。就任時はまだ公式な指導者ライセンスを取得していなかった為、当初の肩書きは「テクニカルディレクター」だった。3年間同クラブを指揮し、[[1987年]]には[[UEFAカップウィナーズカップ]]優勝に導いた。この時の教え子に[[フランク・ライカールト]]、[[マルコ・ファン・バステン]]、[[アーロン・ヴィンター]]、[[デニス・ベルカンプ]]といった選手たちがいる。


アヤックスでのチャンピオンズカップ3連覇など選手として絶頂期にあった1973年[[5月26日]]にスペインの外国人選手規定が改正<ref name="トーラス156">[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、156頁</ref>されると改めてバルセロナへの移籍へ向けた交渉が行われたが、スター選手を手放すことに難色を示すアヤックス側との交渉は長期化<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、91頁</ref>。この移籍を巡って{{仮リンク|ヤープ・ファン・プラーフ (サッカー組織の幹部)|label=ヤープ・ファン・プラーフ|en|Jaap van Praag (sportbestuurder)}}会長と対立し、「バルセロナへ移籍させないのなら選手を引退する」「移籍を認めないのならば法廷闘争も辞さない」と宣言する騒動に発展した<ref name="サントス87">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、87頁</ref><ref name="サントス96">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、96頁</ref>。また、クライフが試合出場をボイコットする構えを見せたことからチームメイトとの関係も悪化し<ref name="サントス96"/>、サポーターからも批判を受けるようになったが<ref name="サントス96"/>、最終的にクラブ側が譲歩し移籍を認めることになった<ref name="サントス87"/>。
[[1988年]]に監督として[[FCバルセロナ]]に戻ったクライフは、それまでの主力選手を大量解雇するなど低迷するクラブの再建に着手。[[カンテラ]]から素早いパス回しによる攻撃的なサッカーを徹底した<ref name="asahi"/><ref>{{cite web|url=http://mainichi.jp/enta/sports/news/20100709k0000e050044000c.html |title=源流はヨハン・クライフ オランダとスペイン |publisher=[[毎日新聞]] |date=2010-07-09 |accessdate=2010-07-11}}</ref>。また多額の費用を投じて[[フリオ・サリナス]]らスター選手たちを次々獲得していき、在任8シーズンの間に[[リーガ・エスパニョーラ]]4連覇(1990-94)を含む数々のタイトルを獲得。1991-92シーズンにはクラブ初の[[UEFAチャンピオンズリーグ|チャンピオンズカップ]]奪取を成し遂げた。このクライフが創り上げたチームは「'''[[エル・ドリーム・チーム]]'''」と称された。


=== その後 ===
=== バルセロナ ===
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
[[1996年]]、健康上の理由で監督を勇退すると、以後は一線の指導者から退いている。2009年、スペインの[[サッカーカタルーニャ選抜|カタルーニャ選抜]]監督に就任した<ref>{{cite web|url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/soccer-others/2661941/4875891 |title=クライフ新監督 カタルーニャ選抜で「魅惑的な」サッカーを約束 |publisher=[[フランス通信|AFP]] |date=2009-11-10 |accessdate=2010-07-11}}</ref>。
|-
|<div style="position: relative;">
[[ファイル:Soccer.Field Transparant.png|225px]]
{{Image label|x=0.08|y=0.40|scale=225|text=[[ウーゴ・ソティル|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ソティル'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.38|y=0.40|scale=225|text=[[ヨハン・クライフ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''クライフ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.68|y=0.40|scale=225|text=[[カルロス・レシャック|<span style="font-size: 90%; color: white">'''レシャック'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.18|y=0.61|scale=225|text=[[フアン・マヌエル・アセンシ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''アセンシ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.61|y=0.61|scale=225|text=[[マルシアル・ピナ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''マルシアル'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.33|y=0.78|scale=225|text=[[フアン・カルロス・ペレス・ロペス (1945年生のサッカー選手)|<span style="font-size: 90%; color: white">'''フアン・カルロス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.77|y=0.90|scale=225|text=[[ジョアキン・リフェ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''リフェ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.08|y=0.90|scale=225|text=[[アントニオ・デラクルス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''デ・ラ・クルス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.21|y=1.03|scale=225|text=[[エンリケ・アルバレス・コスタス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''コスタス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.55|y=1.03|scale=225|text=[[アントニ・トーレス・ガルシア|<span style="font-size: 90%; color: white">'''トーレス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.46|y=1.18|scale=225|text=[[ペドロ・バレンティン・モラ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''モラ'''</span>]]}}
|-
|style="font-size: smaller;"|[[1974年]][[2月17日]]、[[リーガ・エスパニョーラ]]22節、[[レアル・マドリード]]戦のメンバー<ref name="トーラス174">[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、174頁</ref>
</div>
|}
[[1973年]]夏、600万ギルダー<ref name="サカマガ197310">{{Cite book|和書 |chapter=至宝クライフ バルセロナ入り 57000万円の超特大トレード|title=サッカーマガジン|volume=1973年10月号 |publisher=ベースボールマガジン社 |page=127頁}}</ref>(当時の金額で約200万ドル<ref name="ピ75">[[#ピ 2000|ピ 2000]]、75頁</ref>、[[円 (通貨)|日本円]]で約5億7000万円<ref name="サカマガ197310"/>)という金額で[[リーガ・エスパニョーラ|スペイン]]のFCバルセロナに移籍。なお、この移籍金額は同年7月にイタリアの[[ピエリーノ・プラティ]]がACミランから[[ASローマ]]へ移籍する際に記録した金額を大幅に上回る世界記録だった<ref name="サカマガ197310"/>。


移籍が成立したものの手続きが遅れたためリーグ戦デビューは1973-74シーズン開幕後になり<ref name="ピ76">[[#ピ 2000|ピ 2000]]、76頁</ref>、同年[[10月28日]]に行われた[[グラナダCF]]戦でデビューを果たすとこの試合で2得点を記録し4-0で勝利した<ref name="ピ76"/>。[[1974年]][[2月17日]]、敵地の[[エスタディオ・サンティアゴ・ベルナベウ|サンティアゴ・ベルナベウ]]で行われた[[レアル・マドリード]]戦([[エル・クラシコ]])では5-0と歴史的大勝を収め<ref name="ピ76"/><ref name="サントス100">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、100頁</ref>、[[アトレティコ・マドリード]]戦ではアクロバチックな得点を決める<ref name="サントス100"/><ref>{{Cite web|url=http://www.youtube.com/watch?v=2mme7xdbTeE |title=Cruyff: A Legend |publisher=[[YouTube]] |accessdate=2014年1月4日}}</ref>などの活躍を見せたが、この得点は[[1999年]]にクラブ創立100周年を祝うテレビ番組の中でファン投票により、クラブ史上で最高の得点に選ばれている<ref name="サントス100"/>。同年4月17日、敵地での[[スポルティング・ヒホン]]戦で4-2と勝利を収めると、残り5節を残した段階で2位以下のクラブを勝ち点で上回り14シーズンぶりのリーグ優勝を成し遂げた<ref name="ピ76"/>。また同年にはオランダ代表での活躍もあり、3度目のバロンドールを受賞した<ref name="rsssf74">{{en icon}} {{Cite news | url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/europa-poy74.html| title= European Footballer of the Year ("Ballon d'Or") 1974 | publisher=rsssf.com|date=|accessdate=2014年1月4日}}</ref>。
FCバルセロナの[[ジョアン・ラポルタ]]前会長とは親しい友人であり、2009年に監督に就任しリーガ・エスパニョーラ連覇などの結果を残している[[ジョゼップ・グアルディオラ]]を、1年前から推薦をしていた。また、2010年4月、バルセロナの[[名誉会長]]に就任したが、7月にバルセロナ会長となった[[サンドロ・ロセル]]がクラブの規定に名誉会長職はないとした為、クライフは名誉会長職を返上している<ref>{{cite web|url=http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20100705-649681.html |title=クライフ氏、バルサ名誉会長職を返上 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=2010-07-05 |accessdate=2010-07-11}}</ref>。2011年2月からは、アヤックスのテクニカルアドバイザーに就任した<ref>{{cite web|url=http://www.sanspo.com/soccer/news/110213/scb1102130507010-n1.htm |title=クライフ氏、アヤックスのTAに就任 |publisher=サンスポ |date=2011-2-13 |accessdate=2011-9-20}}</ref>。


当時のスペインは[[フランシスコ・フランコ]]の独裁政治の時代にあった<ref name="トーラス190">[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、190頁</ref>が、クラブ創立75周年を迎えた1974年のリーグ優勝とクライフの活躍はバルセロナ市民や反フランコ派の人々を歓喜させた<ref >[[#トーラス 2007|トーラス 2007]]、186頁</ref>。クラブは1960年代後半頃から「バルサは単なるクラブ以上の存在である」とのスローガンを掲げ<ref name="トーラス190"/>、首都マドリードの中央集権政治に対し、民主化とカタルーニャ化のシンボルとなっていった<ref name="トーラス190"/>が、メディアは連日のようにクライフの動向を注視しファンは「エル・サルバドール」(''El Salvador''、[[救世主]]の意)と讃えた<ref name="story149"/>。
==エピソード==
* 息子の[[ジョルディ・クライフ]]もプロサッカー選手。バルセロナ所属当時([[1974年]])に産まれたため、[[カタルーニャ語]]風に「Jordi(ジョルディ)」と命名したという。
* 選手時代は、[[プーマ]]とスポンサー契約を結んでいた。[[1974 FIFAワールドカップ]]のオランダ代表は[[アディダス]]のユニフォームを採用しており、袖にはアディダスのシンボルである3本線が入っていたが、クライフのユニフォームだけは線が2本になっていた<ref>同様の例として、クライフと同じくプーマとスポンサー契約を結んでいた[[ペレ]]は、1984年の[[釜本邦茂]]引退試合で来日した際、[[ヤンマーディーゼルサッカー部|ヤンマー]]の赤いアディダス製ユニフォームの3本線とロゴマークを消し、プーマ製のパンツとソックスを履いていた。</ref>。
* 携帯もパソコンもクレジットカードも持っていない、それどころかビデオの予約録画も出来無いほどの機械オンチである。
* かつてはアヤックス野球チームに所属、ポジションはキャッチャーだったが本人も遊び感覚レベルの事であるがもう一人のヨハンことヨハン・ニースケンスはメジャーからスカウトが来るほどの名選手であった<ref>{{cite web|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=872 |title=第14回 ヨハン・クライフ(3)互いに話し合い互いにプレーを知っていた74年のオランダ |publisher=[[週刊サッカーマガジン]] |date=2010-07-05 |accessdate=2010-07-11}}</ref>。
* アヤックスユース時代、審判のポジショニングミスを指摘して退場処分になった事があると言う。
* FCバルセロナ監督時代、持病の[[心臓病]]のために[[禁煙]]をしなければならなくなり、代わりにベンチで[[チュッパチャプス]]を舐めていたのがテレビ放送に写ったことがチュッパチャプスが世界に広まった一因と言われている。これはチュッパチャプス本社も認めており、それから同社はFCバルセロナの公式スポンサーをしている。


1974-75シーズンにはオランダ代表の同僚である[[ヨハン・ニースケンス]]の獲得をクラブ首脳陣に推挙した<ref name="サントス111">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、111頁</ref>こともありチームに加わったが、[[ギュンター・ネッツァー]]と[[パウル・ブライトナー]]を擁するレアル・マドリードに優勝を明け渡し3位でシーズンを終えると監督のミケルスは解任された<ref name="サントス111"/>。
== 個人タイトル ==
* [[バロンドール]](欧州年間最優秀選手賞) - 1971、1973、1974年<ref>同賞を3度受賞しているのはクライフの他に[[ミシェル・プラティニ]]、[[マルコ・ファン・バステン|ファン・バステン]]のみである。</ref>
* エールディヴィジ得点王 2回(1967、1972)
* [[1974 FIFAワールドカップ|1974年ワールドカップ西ドイツ大会]] - 最優秀選手賞、ベストイレブン
* [[国際サッカー歴史統計連盟#20世紀世界最優秀選手|20世紀世界最優秀選手]] 2位 (国際サッカー歴史統計連盟) - 1999年<ref name="C">[http://www.rsssf.com/miscellaneous/iffhs-century.html IFFHS' Century Elections] 1999年の国際サッカー歴史統計連盟(IFFHS)による20世紀最優秀選手選定。</ref>
* [[国際サッカー歴史統計連盟#20世紀世界最優秀選手|20世紀欧州最優秀選手]] 1位 (国際サッカー歴史統計連盟) - 1999年<ref name="C"/>
* [[ワールドサッカー (雑誌)|世界最優秀監督賞]](ワールドサッカー誌)- 1987年
* [[ワールドサッカー (雑誌)|20世紀の偉大なサッカー選手100人]] 3位(ワールドサッカー誌)


[[ファイル:Johan Cruijff als Barcelona-speler op het Amsterdam 700 Tournament in 1975.jpg|thumb|200px|[[FCバルセロナ]]在籍時のクライフ]]
==個人成績==
1975-76シーズンに西ドイツの[[ボルシア・メンヒェングラートバッハ]]を指揮して実績のある[[ヘネス・バイスバイラー]]が新監督に就任したがクライフとの確執が続き<ref name="サントス111"/><ref name="サカマガ19760525">{{Cite book|和書 |chapter=海外だより バイスバイラー監督辞任、クライフ残留 |title=サッカーマガジン|volume=1976年5月25日号 |publisher=ベースボールマガジン社 |page=88頁}}</ref>、クライフ自ら「バイスバイラーとは上手くいかない。6月30日に契約が終了したらオランダへ帰国する」と発言し退団の意思を示した<ref name="サカマガ19760525"/>。これにより、サポーターがクライフの残留とバイスバイラーの解任を求める抗議活動を行う事態に発展したが<ref name="サカマガ19760525"/>、[[1976年]]3月にバイスバイラーが辞意を表明したことによりクライフはバルセロナに残留しチームと再契約を結んだ<ref>{{Cite book|和書 |chapter=海外だより クライフ、バルセロナにとどまる |title=サッカーマガジン|volume=1976年6月10日号 |publisher=ベースボールマガジン社 |page=98}}</ref>。なお、クライフとバイスバイラーを巡るチーム内の内紛もあって2シーズン連続で優勝を逃した<ref name="サントス111"/>。
{|class="wikitable" style="margin:1em; text-align:center;"

翌1976-77シーズンにクライフの進言により再びミケルスが監督として呼び戻され<ref name="サントス111"/>、リーグ戦では21節まで首位に立つなど優勝の可能性が残されていたが、最終的にアトレティコ・マドリードに勝ち点1差で及ばず優勝を逃した<ref name="サントス111"/>。また国際大会においては{{仮リンク|UEFAチャンピオンズカップ 1974-75|en|1974-75 European Cup}}では準決勝進出を果たすもイングランドの[[リーズ・ユナイテッドAFC|リーズ・ユナイテッド]]に敗退、[[UEFAカップ1975-76]]では準決勝進出を果たすもリヴァプールFCに敗退、[[UEFAカップ1976-77]]では準々決勝で[[アスレティック・ビルバオ]]に敗退するなど、欧州タイトルを獲得したアヤックス時代やバルセロナ加入初年度となった1973-74シーズンほどの結果を残すことはできなかった<ref name="サントス109">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、109頁</ref>。成績低下の理由について、相手選手の厳しいディフェンスを受けるうちに抑え気味にプレーするようになり自身の持ち合わせる能力を100%発揮することがなくなったことが指摘されている<ref name="サントス109"/><ref name="ストライカー19930717">{{Cite book|和書 |author=エリック・バッティ |chapter=エリック・バッティのTHE LEGEND 歴史を作ったスゴイ奴 第11回 ヨハン・クライフ(前)|title=[[ストライカー (雑誌)|ストライカー]] |volume=1993年7月17日号 |publisher=[[学研ホールディングス|学習研究社]] |page=64-65}}</ref>。また、強気な性格が災いし判定を巡って[[審判員 (サッカー)|審判]]とたびたび口論となるなどプレー以外の側面で注目を集めるようになっていた<ref name="サントス110">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、110頁</ref>。

バルセロナでの最後のシーズンとなった1977-78シーズンは[[コパ・デル・レイ]]決勝で[[UDラス・パルマス]]を3-1で下し優勝を果たしたものの<ref name="Biografie"/>、国際大会では[[UEFAカップ1977-78]]では準決勝でオランダの[[PSVアイントホーフェン]]と対戦し2試合合計3-4のスコアで敗れた<ref name="Biografie"/>。リーグ戦ではレアル・マドリードに優勝を明け渡し2位でシーズンを終えると、[[1978年]][[5月27日]]に行われた古巣のアヤックスとの親善試合を最後にバルセロナを退団し、正式な引退試合を行うことを表明した<ref name="Biografie"/>。

=== 引退試合と実業家への転身 ===
[[ファイル:Cruijff afscheidswedstrijd bij Ajax.jpg|200px|thumb|left|[[1978年]][[11月7日]]に行われた引退試合でのクライフ。]]
1978年5月、バルセロナで現役引退を表明したクライフはオランダへ帰国した<ref name="サカマガ19781225">{{Cite book|和書 |chapter=さよならナンバー14 ヨハン・クライフ引退記念試合 |title=サッカーマガジン|volume=1978年12月25日号 |publisher=ベースボールマガジン社 |page=86-87}}</ref>。同年[[8月30日]]に[[アメリカ合衆国]]の[[ニューヨーク・コスモス]]に招待され、コスモス対世界選抜の親善試合に出場したほか<ref name="サカマガ19781225"/>、イングランドの[[チェルシーFC]]からオファーを受けていたが、選手としての正式な復帰を断り続けた<ref name="サカマガ19781225"/>。

同年11月7日、アムステルダムの[[オリンピスフ・スタディオン (アムステルダム)|オリンピスフ・スタディオン]]で、クライフの引退試合が開催された<ref name="サカマガ19781225"/>。クライフは自身がプロデビューを果たし長年にわたって在籍したアヤックスの選手として出場し、対戦相手には西ドイツのバイエルン・ミュンヘンが選ばれた<ref name="サカマガ19781225"/>。試合当日は6万5千人の観客が訪れ、入場料収入の17万5千ドル(約3千5百万円)はオランダのアマチュアサッカー界の振興と障害者施設のために寄付された<ref name="サカマガ19781225"/>。この試合は世界6か国にテレビ中継されたが、試合は友好ムードのアヤックスとは対照的に激しいボディコンタクトを厭わず真剣勝負を挑むバイエルンという展開となった<ref name="サカマガ19781225"/>。序盤こそアヤックスが優勢に試合を進めたものの、バイエルンがゲルト・ミュラーが先制点を含め2得点、[[パウル・ブライトナー]]と[[カール=ハインツ・ルンメニゲ]]が揃ってハットトリックを達成するなどして8-0と大勝した<ref name="サカマガ19781225"/>。クライフ自身は時おり往時のプレーを垣間見せたものの味方からの支援はなく、一方的な展開に観客席からは座布団が投げ込まれ、試合に見切りをつけスタジアムを後にする観客もいた<ref name="サカマガ19781225"/>。試合後にはクライフに花束が贈られ、チームメイトに肩車をされてファンに別れを告げる演出が行われたが、クライフは「私のイメージした引退試合とはかけ離れた内容となった」と心境を語った<ref name="サカマガ19781225"/>。バイエルンが真剣勝負を挑んだ経緯についてブライトナーは「オランダ国内でバイエルンを歓迎する雰囲気はなく、[[空港]]や宿泊した[[ホテル]]では敵対的な対応を受けた。そこで試合を我々の独演会(バイエルン・ショー)に代えることを決めたんだ」と証言している<ref name="ESPN FC20070620">{{en icon}} {{Cite web|url=http://espnfc.com/columns/story?id=440207&root=global&cc=4716 |title=Beckham's a path once trodden by Cruyff |publisher=ESPN FC |date=2007年6月20日 |accessdate=2014年1月4日}}</ref>。

引退試合の後、クライフはスペインで実業家へと転身した<ref name="Volkskrant19970425">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.volkskrant.nl/vk/nl/2698/Sport/archief/article/detail/507972/1997/04/25/Geweldige-voetballer-fantastisch-mens-rampzalig-seizoen.dhtml |title=Geweldige voetballer, fantastisch mens, rampzalig seizoen |publisher=Volkskrant |date=1997年4月25日 |accessdate=2014年1月4日}}</ref>。クライフはバルセロナ在籍時から自身の肖像ブランドを冠したビジネスを展開していたが<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、108頁</ref>、友人やビジネスパートナーらと新たに「CBインターナショナル」を設立し、[[不動産]]取引、[[ワイン]]や[[セメント]]や[[野菜]]の輸出業務に従事した<ref name="Volkskrant19970425"/>。その際、ビジネスパートナーはクライフの信用を得て彼の所有する銀行口座から自由に事業資金を引き出していたが結果的に事業は失敗に終わった<ref name="スホッツ、ラウツェン139-140">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、139-140頁</ref><ref name="Volkskrant19970425"/>。これによりクライフの下には600万ギルダーの借金が残されたとも<ref name="Volkskrant19970425"/>、総資産の4分の3に相当する900万ギルダーを失い破産寸前となったとも言われる<ref name="スホッツ、ラウツェン139-140"/>。一連の経緯についてクライフは「以前から義父や友人から幾度となく「専門外のことに関わってはいけない」と注意を受けていたが、罠にかかり唯一の間違いを犯した。その代償は大きなものだが多くのことを学んだ」と語っている<ref name="スホッツ、ラウツェン139-140"/>。事業に失敗し多額の借金を背負ったことが後にアメリカ合衆国で現役復帰を果たす決定的要因となったと複数の論者から指摘されている<ref name="サントス108-109">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、108-109頁</ref>。一方で事業の失敗と現役復帰の因果性についてクライフ本人は否定している<ref name="サントス108-109"/>が、引退から数か月後には現役復帰を決意した<ref name="ESPN FC20070620"/>。

=== ロサンゼルス・アズテックス ===
クライフのアメリカ合衆国での復帰に関して最初に関心を示したのは、[[北米サッカーリーグ]] (NASL) のニューヨーク・コスモスだった<ref name="サカマガ19790725">{{Cite book|和書 |chapter=スーパースターはなぜ米国へ渡ったか |title=サッカーマガジン|volume=1979年7月25日号 |publisher=ベースボールマガジン社 |page=76-79}}</ref>。 同クラブのオーナーを務める{{仮リンク|スティーヴ・ロス|en|Steve Ross (Time Warner CEO)}}は、クライフとの間で優先的に交渉を行うための仮契約を締結し3年契約で400万ドルを提供した<ref name="ESPN FC20070620"/>。一方、クライフは「私はアメリカサッカー界の発展の助力となりたいのだ。最初に移籍先と考えたコスモスは常に5万人以上を動員する人気チームだが、そこには私の果たすべき役目はない。私の希望は将来的に成長する可能性を秘めたチームだ」としてコスモスへの移籍を固辞し<ref name="サカマガ19790725"/>、恩師のミケルスが監督を務める{{仮リンク|ロサンゼルス・アズテックス|en|Los Angeles Aztecs}}と契約した<ref name="サカマガ19790725"/>。契約内容は年俸70万ドル(約1億5千万円)に、本拠地とする[[ローズボウル (競技場)|ローズボウル]]で観客動員数が増加した場合に派生する歩合給を加えたもので、換算すると年収100万ドルに上るものと推測された<ref name="サカマガ19790725"/>。また、アズテックスは優先交渉権を持つコスモスに対し60万ドルを支払った<ref name="サカマガ19790725"/>。

[[1979年]][[5月19日]]、{{仮リンク|ロチェスター・ランチャーズ|en|Rochester Lancers}}戦でデビューすると前半10分のうちに2得点をあげ後半には3点目の得点をアシストし3-0と勝利した<ref name="ESPN FC20070620"/>。アズテックスには監督のミケルスをはじめ、アヤックスやオランダ代表でチームメイトだった[[ヴィム・スールビール]]、{{仮リンク|レオ・ファン・フェーン|nl|Leo van Veen}}、{{仮リンク|フープ・スメーツ|nl|Huub Smeets}}らといったオランダ人が在籍していたこともありリラックスした雰囲気を味わった<ref name="ESPN FC20070620"/>。チームはナショナルカンファレンス西地区で2位となりプレーオフ進出を果たすと、カンファレンス準決勝で{{仮リンク|バンクーバー・ホワイトキャップス (1974年–1984年)|label=バンクーバー・ホワイトキャップス|en|Vancouver Whitecaps (1974–84)}}に敗れたものの、クライフはNASLの年間最優秀選手に選ばれた<ref name="サカマガ198401">{{Cite book|和書 |chapter=アウトロー・ストーリー ヨハン・クライフ(下)女王をわずらわせた空飛ぶ救世主 |title=サッカーマガジン|volume=1984年1月号 |publisher=ベースボールマガジン社 |page=156-158}}</ref>。

=== ワシントン・ディプロマッツ ===
[[ファイル:Johan Cruijff naast Leo Beenhakker.jpg|thumb|250px|[[1980年]]、古巣のアヤックスにテクニカルアドバイザーとして復帰すると[[FCトゥウェンテ]]戦の試合途中から指揮を執った。]]
[[1980年]]2月、首都[[ワシントンD.C.]]を本拠地とする{{仮リンク|ワシントン・ディプロマッツ|en|Washington Diplomats}}に移籍した<ref name="サカマガ秋季78-79">[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、78-79頁</ref>。ディプロマッツは1979年秋に[[マディソン・スクエア・ガーデン]]・グループが経営に参画し大幅な選手補強に乗り出していたが<ref name="サカマガ秋季78-79"/>、当初獲得を目指したイングランド代表の[[ケビン・キーガン]]との交渉は失敗したものの、代わりにクライフと契約を結んだ<ref name="ESPN FC20070620"/>。契約内容は3年契約で150万ドル(約3億2500万円)、ディプロマッツが移籍元となるアズテックスに対して移籍料100万ドル(約2億5千万円)を支払うというものだった。人気の低迷が続いていたディプロマッツ側にはスター選手の獲得により観客動員数を増加させたいとの狙いがあった<ref name="ESPN FC20070620"/>。

同年[[3月29日]]、{{仮リンク|タンパベイ・ロウディーズ (1975年–1993年)|label=タンパベイ・ロウディーズ|en|Tampa Bay Rowdies (1975–1993)}}戦でデビューしたがPK戦の末に2-3で敗れた<ref name="サカマガ秋季78-79"/>。ディプロマッツにはオランダ代表のチームメイトだった[[ビム・ヤンセン]]が在籍していたものの、チームが志向するスタイルはイングランドの下部リーグで行われているような荒々しいものでトータルフットボールとはかけ離れていた<ref name="ESPN FC20070620"/>。前年に所属していたアズテックスでは多くの選手がクライフの助言を受け入れたのに対しディプロマッツの選手たちは関心を示さず、監督の{{仮リンク|ゴードン・ブラッドリー|en|Gordon Bradley}}をはじめ何人かの選手から反発を招いた<ref name="ESPN FC20070620"/>。また、[[人工芝]]の影響による怪我に苦しめられるなど困難なシーズンとなった<ref name="ESPN FC20070620"/>。チームはナショナルカンファレンス東地区で2位となりプレーオフ進出を果たしたが、カンファレンス1回戦でクライフが前年に所属していたアズテックスに敗れた<ref name="ESPN FC20070620"/>。

同年秋、ディプロマッツの企画したアジアツアーに参加し[[日本]]、[[香港]]、[[インドネシア]]を転戦したが、この時期には出場困難な怪我を負っていた<ref name="スホッツ、ラウツェン55-56">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、55-56頁</ref>。

クライフはNASLがシーズンオフとなった間にオランダへ帰国し古巣のアヤックスでプレーすることを試みた<ref name="Biografie"/>。これに対し[[オランダサッカー協会]] (KNVB) はNASLに所属する選手が期限付きでオランダのクラブへ移籍しリーグ戦に出場することを認めない決定を下した<ref name="Biografie"/>。そのため、アヤックスのテクニカル・アドバイザーという名目でチームに加わると同年[[11月30日]]に行われた[[FCトゥウェンテ]]戦をスタンドで観戦した<ref name="バーランド、ファンドープ40-41">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、40-41頁</ref>。試合は1-3とアヤックスがリードされる展開となったが、業を煮やしたクライフはスタンドを降りてベンチへと向かい、監督の[[レオ・ベーンハッカー]]の隣で直接指揮を執った<ref name="バーランド、ファンドープ40-41"/>。クライフの助言を受けたチームは調子を取り戻すと4点を奪い5-3とトゥウェンテに勝利した<ref name="バーランド、ファンドープ40-41"/>。

=== レバンテ ===
[[ファイル:Johan Cruijff op de tribune met Cor Coster.jpg|250px|thumb|left|クライフと義父の{{仮リンク|コー・コスター|nl|Cor Coster}}(右側)。]]
[[1981年]]、クライフはオランダの[[FCドルトレヒト|DS'79]]の会長の依頼を受けて[[ロブ・レンセンブリンク]]と共に招待選手として同クラブに参加<ref name="Biografie"/>。イングランドのチェルシーFC、[[ベルギー]]の[[シャルルロワSC]]、オランダの[[MVVマーストリヒト]]の3つの親善試合に出場した<ref name="Biografie"/>。クライフは欧州のクラブへの移籍を模索していたためイングランドのチェルシーFCや[[アーセナルFC]]や[[レスター・シティFC]]が獲得に乗り出し<ref name="サカダイ198105">{{Cite book|和書 |chapter=世界サッカー情報 クライフ、レスター移籍はお流れ |title=[[週刊サッカーダイジェスト|サッカーダイジェスト]]|volume=1981年5月号 |publisher=[[日本スポーツ企画出版社]] |page=108}}</ref>、2部リーグへの降格争いの渦中にあったレスターが高額の条件を掲示したこともあり移籍は決定的との報道もなされた<ref name="サカダイ198105"/>。

同年[[2月26日]]、スペイン・[[セグンダ・ディビシオン]](2部リーグ)の[[レバンテUD]]へ移籍することに合意した<ref name="Biografie"/><ref>{{Cite book|和書 |chapter=世界サッカー情報 結局クライフは二部入り |title=サッカーダイジェスト|volume=1981年5月号 |publisher=日本スポーツ企画出版社 |page=111}}</ref>。レバンテはクライフが加入する時点では2部リーグの上位を争っていた<ref name="Volkskrant19970425"/>が、観客動員数が伸び悩んでいたこともありクラブの首脳陣は人気回復の起爆剤としてクライフと契約するに至った<ref name="Volkskrant19970425"/>。契約の際、義父のコスターの手腕により、バルセロナの様な欧州のトップクラブに所属する選手と同等の給与、ホームでの観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得ることになった<ref name="スホッツ、ラウツェン137-138">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、139-140頁</ref>が、報酬が1か月以上支払われなかった場合には契約を破棄し他チームへ移籍することが出来る、といった自身に有利な条件が盛り込まれた<ref name="スホッツ、ラウツェン137-138"/>。

クライフは[[3月2日]]に行われた{{仮リンク|CFパレンシア|en|CF Palencia}}戦でデビューしたが、ディプロマッツ在籍時に負った怪我の影響もありリーグ戦10試合に出場し2得点という結果に終わり<ref name="Levante">{{en icon}} {{Cite web| url = http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-levante | title= Short period with Levante |publisher= Cruijff.com | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>、クライフの加入と前後してチームの成績も下降線を下り最終的に9位でシーズンを終え1部昇格を逃した<ref name="Volkskrant19970425"/>。一方でクライフとの間で結んだ高額の契約が経営状態を圧迫しチーム内に不協和音を生み出したと指摘されている<ref name="Volkskrant19970425"/>。クライフとクラブ側との間で「観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得る」契約を交わしていたが、この報酬が未払いとなるトラブルが派生したためシーズン終了後にチームを退団した<ref name="Levante"/><ref name="スホッツ、ラウツェン137-138"/>。

同年6月、イタリアのACミランと契約交渉を行い<ref name="スホッツ、ラウツェン55-56"/>、ミランの招待選手として同国で開催された世界各国のクラブを招いた対抗戦「{{仮リンク|ムンディアリート・ペル・クラブ|it|Mundialito per club}}」に参加した<ref name="サカマガ198109">{{Cite book|和書 |chapter=ヨハン・クライフ ACミランへのゲスト参加で衰えぬ力を証明 |title=サッカーマガジン|volume=1981年9月号 |publisher=ベースボールマガジン社 |page=126-127}}</ref>。[[6月16日]]に行われたフェイエノールト戦に先発出場した<ref name="サカマガ198109"/>が、[[鼠蹊部]]の負傷のために<ref name="スホッツ、ラウツェン55-56"/>コンディショニングが万全でなかったこともあり45分間の出場のみに終わった<ref name="サントス119">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、119頁</ref><ref name="Sport120111123">{{nl icon}} {{cite news| url = http://www.sport1.nl/nieuws/26911-johan-cruijffs-mislukte-duel-met-ac-milan.html| title= Johan Cruijffs mislukte duel met AC Milan |publisher= Sport1.nl | date = 2011年11月23日| accessdate = 2014年1月4日}}</ref>。クライフはフェイエノールト戦で負傷の影響もあって精彩を欠き、残りの試合も欠場するなど周囲の期待に答えることは出来なかった<ref name="Sport120111123"/>。ミランとの契約交渉が失敗に終わると現役引退が現実味を帯び始めた<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、119頁</ref>。

同年[[6月18日]]、クライフはワシントン・ディプロマッツと短期間の契約を結んだ<ref name="Biografie"/>。[[7月1日]]に行われた{{仮リンク|サンディエゴ・ソッカーズ (1978年–1996年)|label=サンディエゴ・ソッカーズ|en|San Diego Sockers (1978–96)}}戦でデビューしたが<ref name="Biografie"/>、チームはナショナルカンファレンス東地区で3位となったためプレーオフ進出を逃し、{{仮リンク|モントリオール・マニック|en|Montreal Manic}}戦がアメリカ合衆国での最後の試合となった<ref name="Biografie"/>。

=== アヤックスへの復帰 ===
[[ファイル:Johan Cruijff bij terugkeer Ajax in 1981.jpg|thumb|255px|アヤックスへの復帰直後のクライフ。左隣は会長の{{仮リンク|トン・ハルムセン|nl|Ton Harmsen}}。]]
クライフはレバンテの退団後にワシントン・ディプロマッツを経て、同年秋に古巣のアヤックスに復帰したが、既に34歳となっており、年齢的な問題もあり選手としては限界と考えられていた<ref name="サントス119"/>。しかし同年12月6日に行われた[[HFCハールレム]]戦でのキーパーの意表を突くループシュートを決める活躍などにより4-1と勝利し、周囲でささやかれていた限界説を退けた<ref name="ajax">{{en icon}} {{Cite news| url = http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-ajax | title= Playing for Ajax |publisher= Cruijff.com | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>。

当時のアヤックスは[[マルコ・ファンバステン]]や[[フランク・ライカールト]]や[[ジェラルド・ファネンブルグ]]といったオランダの次世代を担う選手達が在籍していたものの多くの結果を残すことが出来ずにいた<ref name="サントス119"/>。クライフが加入した1981年12月の時点でリーグ戦で[[AZアルクマール]]や[[PSVアイントホーフェン]]に敗れるなど4敗を喫し首位の座を明け渡していたが、クライフの加入後は17勝2分けの成績でAZやPSVを退けて1981-82シーズンのリーグ優勝を果たした<ref>{{nl icon}} {{Cite news| url = http://www.eredivisiestats.nl/wedstrijden.php | title= Wedstrijden |publisher= EredivisieStats | accessdate =2014年1月4日}}</ref>。

2年目の1982-83シーズンには[[UEFAチャンピオンズカップ 1982-83]]に出場し、1回戦で[[スコットランド]]の[[セルティックFC]]と対戦。アウェーでの第1戦を2-2と引き分けて迎えたホームでの第2戦は1-1の同点で迎えた88分にクライフが交代すると、試合終了間際に失点を喫し合計3-4のスコアで敗退した<ref>{{en icon}} {{Cite news| url = http://www.uefa.com/uefachampionsleague/season=1982/matches/round=1034/match=63820/postmatch/lineups/index.html | title= UEFA Champions League 1982/83 - History - Ajax-Celtic Lineups |publisher= UEFA.com | accessdate =2013年8月7日}}</ref>。この試合は選手生活を通じて最後の国際大会での公式戦出場となった<ref name="Biografie"/>。

[[1982年]][[12月5日]]に行われた[[ヘルモント・スポルト]]戦では印象的なトリックプレーを見せた<ref name="ajax20071206">{{nl icon}} {{Cite news| url = http://www.ajax.nl/Ajax-nieuws/Ajax-nieuws-archief/Ajax-nieuwsartikel/De-extras-van-Cruijff.htm?channel=print | title=De‘extra’s’van Cruijff |publisher= Ajax.nl | accessdate = 2007年12月6日 | accessdate =2014年1月4日}}</ref>。試合中に[[ペナルティーキック]]を獲得するとクライフは自らシュートをせずに左斜め前に緩やかなパスを送り、後方から走りこんできた{{仮リンク|イェスパー・オルセン|en|Jesper Olsen}}へと繋がり相手のキーパーと一対一の状況となった。オルセンはゴール前で待ち構えるクライフにパスを戻すとキーパーのいない無人のゴールにシュートを決めるというもので、結果的にクライフとオルセンのワンツーパスの形となった<ref name="ajax20071206"/>。ヘルモントの選手たちは主審に抗議を行ったがルール上においても正当なもので<ref name="ajax20071206"/>、一連のプレーに関するアイデアは練習中に考案されたものだった<ref name="ajax20071206"/>。

リーグ戦では[[フェイエノールト]]との間でシーズン終盤まで優勝争いを続けていたが、[[1983年]][[5月1日]]に行われたフェイエノールトとの直接対決を3-3と引分け、残り2試合を残して首位のアヤックスと2位のフェイエノールトとの勝ち点差4の状態を維持<ref name="サカマガ198307">{{Cite book|和書 |chapter=世界サッカー情報 WORLD CONFIDENTIAL オランダ・フランス|title=サッカーダイジェスト|volume=1983年7月号 |publisher=日本スポーツ企画出版社 |page=80}}</ref>。[[5月1日]]に行われたヘルモント・スポルト戦ではクライフを累積警告による出場停止で欠いたものの4-1と勝利しリーグ連覇を達成した<ref name="サカマガ198307"/>。この時期のクライフは継父の死や故障を繰り返していたことで精神的に困窮していたものの<ref name="サントス119-120">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、119-120頁</ref>、同シーズンのリーグ戦とカップ戦との二冠獲得の原動力となった<ref name="サカマガ198309">{{Cite book|和書 |chapter=世界サッカー情報 WORLD CONFIDENTIAL フランス他|title=サッカーダイジェスト|volume=1983年9月号 |publisher=日本スポーツ企画出版社 |page=78}}</ref>。一方、1983年に入るとクラブ会長の{{仮リンク|トン・ハルムセン|nl|Ton Harmsen}}がクライフに対し36歳という年齢を理由に引退を迫ったことや<ref name="サントス119-120"/>、クラブ側との間で締結していた入場料収入に応じた給与体系の更新を拒否されたこともあり確執を生んでいた<ref name="スホッツ、ラウツェン57">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、57頁</ref>。クライフは[[5月10日]]に行われたカップ戦決勝第一戦の[[NECナイメヘン]]戦の終了後に退団を表明し<ref name="Biografie"/>、[[5月14日]]に行われたリーグ戦最終節の[[フォルトゥナ・シッタート]]戦がアヤックスでの最後の試合出場となった<ref name="Biografie"/>。

=== フェイエノールトへの移籍と引退 ===
[[ファイル:Johan neemt afscheid als voetballer in 1984.jpg|thumb|200px|left|公式戦最後の試合となった[[フェイエノールト]]対[[FCズヴォレ]]戦でのクライフ。]]
1983年夏、アヤックスを退団したクライフはライバルクラブの[[フェイエノールト]]へ移籍し1年契約を結んだ<ref name="サカマガ198309"/>。この移籍についてアヤックスのサポーターからは反発が上がり<ref name="サントス119-120"/>、[[8月21日]]に行われたリーグ戦開幕戦の[[FCフォレンダム]]戦でもフェイエノールトのサポーターから批判のブーイングを受ける可能性があったものの試合開始とともに自らの価値を示すことで批判を払拭した<ref name="スホッツ、ラウツェン57"/>。フェイエノールトでは当時21歳の[[ルート・フリット]]らとチームメイトとなったが、監督の{{仮リンク|テイス・リブレフツ|en|Thijs Libregts}}を尊重しつつ頻繁に選手たちの対して技術指導やポジショニング指導を行った<ref name="スホッツ、ラウツェン58-59">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、58-59頁</ref>。また、フェイエノールトへの移籍後は自分自身のプレーにも変化が生じ、体力的な衰えもあり以前の様な個人技を前面に出したプレーを抑え、中盤でボールを落ちつかせ味方に指示を送りポジショニングやパスコースの修正を行うことに徹した<ref name="スホッツ、ラウツェン58-59"/>。

同年[[9月18日]]に行われた古巣のアヤックス戦では2-8と大敗を喫した<ref name="Biografie"/><ref>{{en icon}} {{Cite news| url = http://www.footballderbies.com//results/match_details.php?id=9&match_id=421 | title= Ajax - Feyenoord |publisher= footballderbies.com | accessdate =2014年1月4日}}</ref>が、その後は[[1984年]][[2月26日]]に行われたアヤックスとの再戦で4-1と勝利するなどチーム状態は回復<ref name="Biografie"/>。カップ戦決勝で[[フォルトゥナ・シッタート]]を下すと<ref name="Feyenoord">{{en icon}} {{cite news| url = http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-fey | title= Playing for Feyenoord |publisher= Cruijff.com | accessdate = 2012年7月7日}}</ref>、リーグ戦でも[[PSVアイントホーフェン]]やアヤックスとの優勝争いを制すると[[5月6日]]に行われた[[ヴィレムII]]戦で5-0と勝利し1973-74シーズン以来となる10シーズンぶりの優勝を決めた<ref name="サカマガ198407">{{Cite book|和書 |chapter=世界サッカー情報 WORLD CONFIDENTIAL フランス他|title=サッカーダイジェスト|volume=1984年7月号 |publisher=日本スポーツ企画出版社 |page=78}}</ref>。クライフにとって国内での優勝はリーグ戦が9回目、カップ戦が6回目となり、二冠獲得は2シーズン連続となった<ref name="サカマガ198407"/>。既に引退の意思を表明していたクライフは[[5月13日]]に行われた[[FCズヴォレ]]戦が最後の公式戦出場となり<ref name="Cruijff as"/><ref name="Biografie"/>、この試合の79分に[[マリオ・ベーン]]との交代でピッチを退いた<ref name="Biografie"/>。

クライフの現役選手として最後の試合は[[サウジアラビア]]で行われた<ref name="スホッツ、ラウツェン62-63">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、62-63頁</ref>。この試合は同国でプレーする2名の選手の引退試合にクライフの参加を条件にフェイエノールトが招待されたものだった<ref name="スホッツ、ラウツェン62-63"/>。クライフは前半を[[サッカーサウジアラビア代表|サウジアラビア代表]]の選手として後半はフェイエノールトの選手としてプレーし、試合後には[[ファイサル・ビン=ファハド]]王子から記念品として24金製の食器が贈呈された<ref name="スホッツ、ラウツェン62-63"/>。サウジアラビアへの遠征後、クライフはクラブの会長から選手としての残留または[[選手兼任監督]]としてのオファーを受けたが、精神的にも肉体的にも消耗し切っていることを理由に固辞した<ref name="スホッツ、ラウツェン62-63"/>。

== 代表経歴 ==
=== 初期の経歴 ===
[[ファイル:Johan Cruijff tijdens zijn debuut bij het Nederlands elftal in 1966.jpg|thumb|250px|left|オランダ代表として初出場を果たした[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]戦でのクライフ(前列右から3人目)]]
オランダ代表としては[[1966年]]9月7日に行われた[[UEFA欧州選手権1968予選]]の[[サッカーハンガリー代表|ハンガリー]]戦で[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]デビュー。同年6月に行われた[[1966 FIFAワールドカップ]]で[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]を下し準々決勝に進出した強豪チームを相手に、代表初得点を決めた<ref name="大住77">[[#大住 2004|大住 2004]]、77頁</ref>。しかし同年11月6日に行われた[[サッカーチェコスロバキア代表|チェコスロバキア]]との親善試合において、主審に抗議をした際に退場処分を受けた<ref name="大住78">[[#大住 2004|大住 2004]]、78頁</ref>。主審の「クライフが私に暴行を加えようとした」との主張は映像記録により退けられたが、[[オランダサッカー協会]] (KNVB) はクライフに対し1年間招集を見送る処分を下した<ref name="大住78"/><ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、148頁</ref>。

[[1970 FIFAワールドカップ・予選|1970 FIFAワールドカップ予選]]では[[サッカーブルガリア代表|ブルガリア]]や[[サッカーポーランド代表|ポーランド]]に敗れ、[[UEFA欧州選手権1972予選]]では[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア]]に敗れ予選で敗退するなど、1960年代後半以降のアヤックスやフェイエノールトといったクラブが国際大会で結果を残していたのに対し、代表チームは予選敗退が続いていた。

{{仮リンク|1974 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|label=1974 FIFAワールドカップ・予選|en|1974 FIFA World Cup qualification (UEFA)}}では隣国の[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]と同じグループとなったが、報酬面での問題からチーム全体にまとまりを欠いていた<ref name="グランヴィル119">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、119頁</ref>。1973年11月18日にホームで行われた最終戦での両者の直接対決(0-0の引分け)の結果により、[[1938 FIFAワールドカップ|1938年大会]]以来となるワールドカップ出場が決まったが、この試合の終了間際に決まったかに思われたベルギーの得点がオフサイドと判定され無効にされる場面もあった<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、92頁</ref><ref>[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、141頁</ref>。

=== 1974 FIFAワールドカップ ===
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
|-
|-
|<div style="position: relative;">
!rowspan="2"|年度!! rowspan="2"|クラブ!!rowspan="2"|リーグ!! rowspan="2"|背番号!! colspan="2"|リーグ!! colspan="2"|カップ戦!! colspan="2"|欧州カップ戦
[[ファイル:Soccer.Field Transparant.png|225px]]
{{Image label|x=0.38|y=0.35|scale=225|text=[[ヨハン・クライフ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''クライフ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.07|y=0.45|scale=225|text=[[ロブ・レンセンブリンク|<span style="font-size: 90%; color: white">'''レンセンブリンク'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.75|y=0.45|scale=225|text=[[ヨニー・レップ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''レップ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.07|y=0.61|scale=225|text=[[ヴィレム・ファン・ハネヘム|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ファン・ハネヘム'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.61|y=0.61|scale=225|text=[[ヨハン・ニースケンス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ニースケンス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.38|y=0.78|scale=225|text=[[ビム・ヤンセン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ヤンセン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.58|y=0.90|scale=225|text=[[ヴィム・スールビール|<span style="font-size: 90%; color: white">'''スールビール'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.11|y=0.90|scale=225|text=[[ルート・クロル|<span style="font-size: 90%; color: white">'''クロル'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.17|y=1.03|scale=225|text=[[ウィム・レイスベルヘン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''レイスベルヘン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.71|y=1.03|scale=225|text=[[アリー・ハーン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ハーン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.31|y=1.18|scale=225|text=[[ヤン・ヨンクブルート|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ヨンクブルート'''</span>]]}}
|-
|-
|style="font-size: smaller;"|[[1974 FIFAワールドカップ]]での[[サッカーオランダ代表|オランダ代表]]の基本布陣<ref>{{Cite news | url=http://www.rsssf.com/tables/74full.html#final | title=World Cup 1974 finals | publisher=rsssf.com |accessdate=2014年1月4日}}</ref><ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、105頁</ref>
!出場!!得点!!出場!!得点!!出場!!得点
</div>
|}
翌1974年に西ドイツで開催される[[1974 FIFAワールドカップ|本大会]]に向けチームの立て直しが求められると、KNVBは[[チェコスロバキア]]出身の{{仮リンク|フランティシェク・ファドルホンツ|en|František Fadrhonc}}を監督からコーチに降格させ、当時FCバルセロナを指揮していた[[リヌス・ミケルス]]を監督に迎えた<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、93頁</ref>。ミケルスは代表チームに新たなサッカースタイルを導入するには時間的な猶予が少ないことから<ref name="大住94-95">[[#大住 2004|大住 2004]]、94-95頁</ref>、かつて自身が率いていた[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]のメンバーを中心にし、「トータルフットボールでワールドカップに挑む」ことを前提に代表メンバーを人選した<ref name="大住94-95"/>。また、この組織戦術をピッチ上で体現するリーダーとしてクライフを指名し、選手達に戦術理解と90分間戦い抜く体力を求めた<ref name="大住94-95"/>。クライフは前線から最後尾まで自由に動き回り攻守に絡むと共に、ミケルスの理論を体現するピッチ上の監督として味方に細かなポジショニングの指示を与えた<ref name="武智19">[[#武智 2010|武智 2010]]、19頁</ref>。

1次リーグ初戦の[[サッカーウルグアイ代表|ウルグアイ]]戦を2-0で勝利を収め、第2戦の[[サッカースウェーデン代表|スウェーデン]]戦を0-0で引き分けたが、第3戦の[[サッカーブルガリア代表|ブルガリア]]戦を4-1で勝利し首位で2次リーグへ進出を果たし、オランダの展開する全員攻撃・全員守備のサッカーが注目を集めた<ref name="グランヴィル228">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、228頁</ref><ref name="武智19"/>。

2次リーグにおいても[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]を4-0、[[サッカードイツ民主共和国代表|東ドイツ]]を2-0で下し第3戦を迎えた。試合相手は[[1970 FIFAワールドカップ|前回大会]]の優勝国である[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]だったが、50分にニースケンスの得点をアシスト、70分には左サイドを突破した[[ルート・クロル]]のクロスをジャンピングボレーシュートでゴールに決め1得点1アシストの活躍で勝利し、初の決勝戦進出を果たした<ref>[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、231頁</ref>。

決勝の相手は開催国であり、同世代のライバルである[[フランツ・ベッケンバウアー]]らを擁する[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]となった。西ドイツは開幕前に[[イギリス]]の[[ブックメーカー]]が発表した優勝予想では1位(オッズは3-1)と高評価を受けていた<ref>[[#大住 2004|大住 2004]]、102頁</ref>が、オランダとは対照的に苦戦が続けながらの決勝進出だった<ref name="グランヴィル227-228">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、227-228頁</ref>。戦前の予想ではオランダ有利との意見も見られ<ref>{{Cite web|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=325 |title=オランダ 力強さと、速さと、柔らかさ |publisher= 賀川サッカーライブラリー |accessdate=2014年1月4日}}</ref>、オランダの中心選手であるクライフを西ドイツがいかに抑えるのか、どの選手がマークするのかが焦点となった<ref name="グランヴィル232-233">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、232-233頁</ref>。

[[ファイル:Bundesarchiv Bild 183-N0716-0314, Fußball-WM, BRD - Niederlande 2-1a.jpg|200px|thumb|right|1974 FIFAワールドカップ決勝の[[サッカードイツ代表|西ドイツ]]でドリブルを仕掛けるクライフ(中央の人物)。後方は[[ベルティ・フォクツ]]。]]
試合は開始2分にクライフのドリブル突破からPKを獲得し<ref>{{Cite web|url=http://www.sponichi.co.jp/soccer/flash/KFullFlash20100711009.html |title=74年クライフ旋風…過去のオランダ決勝戦 |publisher=[[スポーツニッポン]] |date=2010年7月11日 |accessdate=2014年1月4日}}</ref>、これをニースケンスが決めて先制した。しかし早い時間帯に先制したことで攻勢を緩めたオランダに対し西ドイツが試合の流れを掴み、前半までに[[パウル・ブライトナー]]と[[ゲルト・ミュラー]]の得点により2-1と逆転した。後半に入りオランダは反撃に転じたが、クライフが西ドイツの[[ベルティ・フォクツ]]の徹底したマーク<ref name="グランヴィル233-234">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、233-234頁</ref>を受けて動きを封じられたこともあり得点はならず、1-2で敗れ準優勝に終わった。

この試合の敗因については「早い時間帯に先制点を決めたことで気持ちが緩み、西ドイツの反撃を許した」ことが挙げられる<ref name="グランヴィル233-234"/><ref name="武智20">[[#武智 2010|武智 2010]]、20頁</ref>が、クライフは「決勝戦に進出したことに多くの選手が満足してしまった。[[オランダ人]]に([[ドイツ人]]のような)勝者のメンタリティが欠けていた」ことを挙げた<ref name="武智20"/><ref name="サントス60-61">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、60-61頁</ref>。選手達がオランダへ帰国すると準優勝という結果に国民を挙げて歓迎を受け<ref name="サントス62">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、62頁</ref><ref name="ウィナー160">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、160頁</ref>、国王への謁見を許されたが<ref name="サントス62"/><ref name="ウィナー160"/>、クライフ自身は「もう一歩の所で世界タイトルを逃した」事実を拭い去ることはできなかったという<ref name="サントス62"/>。

その一方でクライフを中心としたこの時の代表チームは[[スタンリー・キューブリック]]により映画化された同名小説に準え「[[時計じかけのオレンジ]]」<ref name="武智20"/><ref name="サントス60-61"/>と呼ばれ、決勝戦で敗れたものの「大会を通じて最も優秀なチーム<ref name="story149"/>」「我々に未来のサッカーを啓示した<ref name="大住1998・60">[[#大住 1998|大住 1998]]、60頁</ref><ref name="武智21">[[#武智 2010|武智 2010]]、21頁</ref>」「オランダには11人のディフェンダーと10人のフォワードが存在する<ref name="武智21"/>」と評価された。クライフ自身は後にこの大会について次のように振り返っている。
{{Quotation|私は1974年のワールドカップ決勝を忘れることはないだろう。1-2で敗れた後、私は茫然自失となっていた。しかし数年後にファンの記憶に残っているのは試合に勝利した方ではなく敗れた我々の方であることを知った。それから数十年を経た今日においても世界中のサッカーファンが、あの時の我々のプレーを賞賛してくれることを誇りに思っている<ref>『フットボールの歴史 FIFA創立100周年記念出版』、[[講談社]]、2004年、''Players Portraits''</ref>。|ヨハン・クライフ}}

=== UEFA欧州選手権1976 ===
1974年のワールドカップ後にミケルスが監督を退き{{仮リンク|ジョージ・クノベル|en|George Knobel}}が就任したものの、クライフをはじめこの大会を経験した主力選手の多くがチームに残り同年9月から始まった[[UEFA欧州選手権1976予選]]に参加<ref name="サカマガ19760810">{{Cite book|和書 |chapter=全4試合が延長戦!チェコが大激戦を制す! |title=サッカーマガジン |volume=1976年8月10日号 |publisher=ベースボールマガジン社 |volume=|page=74-76頁 }}</ref>。予選1次グループでは[[サッカーポーランド代表|ポーランド]]やイタリアを退け、準々決勝ラウンドでもベルギーにホームで5-0と大勝するなど2連勝で本大会出場を果たした。

[[1976年]]に[[ユーゴスラビア社会主義連邦共和国|ユーゴスラビア連邦]]で行われた[[UEFA欧州選手権1976|本大会]]では、準決勝で[[サッカーチェコスロバキア代表|チェコスロバキア]]と対戦することになったが、地元の[[サッカーユーゴスラビア代表|ユーゴスラビア]]やワールドカップ優勝国の西ドイツ、同準優勝のオランダと比べ1ランク劣るチームと見做されていた<ref name="サカマガ19760810"/>。一方オランダは優勝候補の筆頭と目されていた<ref name="ウィナー286-289">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、286-289頁</ref>が、開幕前にクノベルが監督を辞任する意向を示すなどオランダ協会内で内紛が発生し<ref name="サカマガ19760810"/><ref name="ウィナー286-289"/>、クライフが一時「クノベルが辞めるなら大会に出場しない」と宣言する事態に発展した<ref name="サカマガ19760810"/>。

チェコスロバキア戦は互いに退場者を出し、クライフ自身も主審の{{仮リンク|クライヴ・トーマス|en|Clive Thomas}}に抗議した際に警告を受けるなど荒れた展開となった<ref name="サカマガ19760810"/><ref name="ウィナー289-292">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、160頁</ref>が、延長後半にチェコスロバキアに2得点を許し1-3で敗れた<ref name="ウィナー289-292"/>。なおクライフは予選からの通算2枚目の警告となったため次の3位決定戦は出場停止となったためチームに帯同せず帰国<ref name="サカマガ19760810"/>、3位決定戦は若手メンバー中心で挑むことになり<ref name="サカマガ19760810"/>、地元のユーゴスラビアを3-2で下して3位となった<ref name="ウィナー289-292"/>。

=== 代表からの引退 ===
[[ファイル:Johan Neeskens, Wim Suurbier, Hugo Hovenkamp, Ruud Krol, Johan Cruijff en Johnny Dusbaba.jpg|thumb|250px|left|[[1977年]][[10月26日]]に行われた[[サッカーベルギー代表|ベルギー]]戦でのクライフ(右から2人目)。この試合が最後の代表出場となった。]]
同年9月から始まった
{{仮リンク|1978 FIFAワールドカップ・ヨーロッパ予選|label=1978 FIFAワールドカップ・予選|en|1978 FIFA World Cup qualification (UEFA)}}にも引き続き参加し、隣国のベルギーや[[サッカー北アイルランド代表|北アイルランド]]を退けて2大会連続で本大会出場を果たした。しかし[[1977年]]10月26日に行われた同予選のベルギー戦を最後に代表から引退することになり、翌[[1978年]]に[[アルゼンチン]]で開催される[[1978 FIFAワールドカップ|本大会]]への出場は辞退することになった<ref name="グランヴィル250">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、250頁</ref><ref>[[#大住 1998|大住 1998]]、64頁</ref>。クライフに続いてストライカーの[[ルート・ヘールス]]やキーパーの[[ヤン・ファン・ベベレン|ヤン・ファン・ベフェレン]]、前回準優勝メンバーの[[ヴィレム・ファン・ハネヘム]]らも大会への参加を辞退することになった<ref name="グランヴィル250"/>。

ワールドカップを目前にした代表からの引退については「開催国のアルゼンチンでは[[ホルヘ・ラファエル・ビデラ]]大統領の軍事政権による統治下にあったが、国内情勢が不安定だったことや弾圧に抗議するため<ref name="サントス114-115">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、114-115頁</ref><ref name="ウィナー162-163">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、162-163頁</ref>」、「所属クラブであるFCバルセロナとの間で金銭トラブルが派生しており、大会出場の見返りとして多額の報奨金を要求したため<ref name="サントス114-115"/>」、「事前合宿を含め2か月近く家族と離れて過ごさなければならなくことを妻が許さなかったため<ref name="サントス114-115"/><ref name="ウィナー162-163"/><ref name="バーランド、ファンドープ118-119">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、118-119頁</ref>」など様々な憶測が囁かれた<ref name="サントス114-115"/>。

クライフはこれまで
{{Quotation|ワールドカップに出場するには100%の体調では駄目だ。200%でなければ駄目だ。私は1974年大会を経験しているが、あれだけのプレーを再現できるとは思えないから辞退するのだ。今シーズン限りでバルセロナを含め、あらゆるサッカー活動から引退し家族と共に過ごす時間を増やすことにする。私は大衆の前から姿を消す。|ヨハン・クライフ<ref>{{Cite book|和書|author=エディ・プールマン|chapter=オランダ、ベルギーを蹴落してアルゼンチンへ …しかしクライフはチームを去る|title=サッカーマガジン|volume=1977年12月10日号|publisher=ベースボールマガジン社|page=80}}</ref>}}と発言するなど「完全なコンディショニングで大会に挑める状況にはなかった」ことを理由として挙げていた<ref name="バーランド、ファンドープ118-119"/><ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、112-113頁</ref>が、[[2008年]]4月にスペインのラジオ番組に出演した際に、1977年に発生した息子の誘拐未遂事件が大会辞退の真の理由だったことを明らかにした<ref name="ウィナー162-163"/><ref name="guardian20080416">{{en icon}}{{Cite web|url=http://www.guardian.co.uk/football/2008/apr/16/newsstory.sport15 |title=Kidnappers made Cruyff miss World Cup |publisher=guardian.co.uk |date=2008年4月16日 |accessdate=2014年1月4日}}</ref>。
{{Quotation|大会の前年に子供の誘拐事件が発生した。私は犯人からライフル銃を突きつけられ妻と共に拘束されたが、子供に危害は与えられなかった。その後、4か月間は自宅周辺や子供の通学路では警察の警護を受ける状況となった。家族のことが心配となりオランダ代表としてワールドカップの舞台でプレーする気にはなれなかった。人生には何より代え難い物がある。|ヨハン・クライフ<ref name="guardian20080416"/>}}
オランダ代表としての通算成績は国際Aマッチ48試合出場33得点<ref name="rsssf"/>。

== 指導者経歴 ==
=== アヤックス ===
引退から1年後の[[1985年]]にアヤックスの監督に就任した。就任時は公式な指導者ライセンスを取得しておらず<ref name="サントス126-127">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、126-127頁</ref>、ライセンスを取得するための講習を受講した経験がなかったため、「テクニカルディレクター」という肩書きでの就任だった<ref name="サントス126-127"/><ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、41頁</ref>。監督の上位に位置づけられる「テクニカルディレクター」として、クラブのトップチームから下部組織まで統括して戦術やシステムなどの志向するサッカーを立案し管理する役職だが<ref name="サントス126-127"/>、これはクライフが前述の北米リーグ時代に[[ワシントン大学 (ワシントン州)|ワシントン大学]]で学んだ、スポーツマネジメントに基づいた考えであり<ref name="サントス126-127"/>、アメリカから帰国したクライフがヨーロッパで自らが広めたものなのだという<ref name="サントス128">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、128頁</ref>。

クライフは1970年代に展開した攻撃的スタイルの復活を掲げ、ベテランの[[アーノルド・ミューレン]]、中堅の[[マルコ・ファン・バステン]]や[[フランク・ライカールト]]らを軸に、[[デニス・ベルカンプ]]や[[アーロン・ヴィンター]]といった10代の選手を積極的に起用。アヤックスではリーグ優勝はならなかったが、KNVBカップを制して[[UEFAカップウィナーズカップ 1986-87]]への出場権を獲得。この大会で決勝進出を果たすと[[1987年]][[5月13日]]に行われた決勝戦では[[ドイツ民主共和国|東ドイツ]]の{{仮リンク|1.FCロコモティヴ・ライプツィヒ|en|1. FC Lokomotive Leipzig}}をファンバステンの得点で下し、選手時代にチャンピオンズカップ3連覇を果たした1973-74シーズン以来となる14シーズンぶりの国際タイトルを獲得した。

[[1988年]]4月、選手の移籍問題に関する見解の相違などの、{{仮リンク|トン・ハルムセン|nl|Ton Harmsen}}会長との確執もありクラブを退団した<ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、165-166頁</ref>

=== バルセロナ ===
{{main|エル・ドリーム・チーム}}
==== 監督就任の経緯 ====
[[ファイル:Johan Cruyff.jpg|thumb|250px|right|[[FCバルセロナ]]の監督として指揮を執るクライフ(右から3人目の人物。右隣の人物は[[カルロス・レシャック]]。]]
1988年[[5月4日]]、[[FCバルセロナ]]の監督に就任することになったが、監督就任の背景には同クラブ会長の[[ホセ・ルイス・ヌニェス]]の存在があった<ref name="サントス134">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、134頁</ref>。ヌニェスは同年にクラブの会長選挙を控えていたが、チーム自体は[[ルイス・アラゴネス]]監督の下で1987-88シーズンを戦い、カップ戦では優勝を成し遂げたものの、リーグ戦では成績が低迷し<ref name="バルセロナ">{{Cite book|和書 |author= 岡部明子 |year=2010 |title=バルセロナ--地中海都市の歴史と文化 |publisher=[[中央公論新社]] |page= 177 |isbn=978-4121020710 }}</ref>、選手達が同年4月28日に会長とクラブ役員の辞任を求め「エスペリアの反乱」と呼ばれる記者会見を開くなど内紛が続いていた<ref name="サントス135">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、135頁</ref>。ヌニェスには、自らの政権維持のために[[ソシオ]]と呼ばれるクラブの会員達の間で依然として人気の高いクライフの招聘を公約として掲げ、この局面を乗り切ろうとの思惑があった<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、136-137頁</ref>。

クライフは「エスペリアの反乱」に加わった多くの選手達が他クラブへ放出されたため<ref name="サントス148-149">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、148-149頁</ref>、残留した選手と新たに補強した選手で1からチーム作りに取り掛かることになり<ref name="サントス148-149"/>、自らの経験に基づいたサッカー哲学とアヤックスで採用されている攻撃的サッカーをクラブに浸透させるためクラブの改革に着手していった<ref name="サントス148-149"/>。監督としての実績がアヤックスでの数シーズンのみと乏しかったことによる懸念や、結果を残すまでに時間が掛かったことで批判を受けることもあったが<ref name="バルセロナ"/>、自らのスタイルを押し通すと[[UEFAカップウィナーズカップ 1988-89]]でイタリアの[[UCサンプドリア]]を下し国際タイトルを獲得したことで批判を退けた<ref name="サントス151">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、151頁</ref>。

==== ドリーム・チームの完成 ====
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
|-
|-
|<div style="position: relative;">
|1964-65||rowspan="10"|[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]||rowspan="10"|[[エールディヴィジ]]||||10||4||0||0||0||0
[[ファイル:Soccer.Field Transparant.png|225px]]
{{Image label|x=0.08|y=0.35|scale=225|text=[[フリスト・ストイチコフ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ストイチコフ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.68|y=0.35|scale=225|text=[[フリオ・サリナス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''サリナス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.33|y=0.45|scale=225|text=[[ミカエル・ラウドルップ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ラウドルップ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.18|y=0.61|scale=225|text=[[ホセ・マリア・バケーロ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''バケーロ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.61|y=0.61|scale=225|text=[[エウセビオ・サクリスタン・メナ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''エウセビオ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.33|y=0.78|scale=225|text=[[ジョゼップ・グアルディオラ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''グアルディオラ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.67|y=0.90|scale=225|text=[[アルベルト・フェレール|<span style="font-size: 90%; color: white">'''フェレール'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.08|y=0.90|scale=225|text=[[フアン・カルロス・ロドリゲス・モレノ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''フアン・カルロス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.31|y=1.03|scale=225|text=[[フェルナンド・ムニョス・ガルシア|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ナンド'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.55|y=1.03|scale=225|text=[[ロナルド・クーマン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''クーマン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.36|y=1.18|scale=225|text=[[アンドニ・スビサレッタ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''スビサレッタ'''</span>]]}}
|-
|-
|style="font-size: smaller;"|[[1992年]][[5月20日]]、[[UEFAチャンピオンズカップ 1991-92]]決勝、[[UCサンプドリア]]戦のメンバー<ref>{{Cite web | url=http://www.rsssf.com/ec/ec199192det.html#cc | title= European Champions' Cup 1991-92 - Details | publisher=rsssf.com |accessdate=2014年1月4日}}</ref>
|1965-66||||19||16||4||9||0||0
</div>
|}
1989-90シーズンに、デンマークの[[ミカエル・ラウドルップ]]、オランダの[[ロナルド・クーマン]]といったスペイン国外のスター選手を獲得してチーム強化に努めるが、リーグ戦では[[ウーゴ・サンチェス]]や[[エミリオ・ブトラゲーニョ]]を擁する[[レアル・マドリード]]が5連覇を達成したため優勝を逃すと、再びソシオの間で批判を受けることになり、クライフ流の戦術ではなく、守備的な戦術を志向する監督を望む意見が持ち上がった<ref name="サントス153">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、153頁</ref>が、ヌニェス会長がクライフを擁護する立場を採ったため残留が決定した<ref name="サントス153"/>。

1990-91シーズン、過去2シーズンの反省から守備的なポジションの[[アルベルト・フェレール|フェレール]]、ユーティリティ・プレーヤーの[[ヨン・アンドニ・ゴイコエチェア|ゴイコエチェア]]、ブルガリア出身の[[フリスト・ストイチコフ]]らを獲得する一方で下部組織から[[ジョゼップ・グアルディオラ]]を昇格させるなど、それまで良いプレーを続けながら勝ちきることの出来なかったチームに変化を与えることが出来る選手達と契約を結んだ<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、154頁</ref>。シーズン最中の1991年2月26日に[[心筋梗塞]]により倒れ[[冠動脈大動脈バイパス移植術|バイパス手術]]を受けたため<ref name="ピ79">[[#ピ 2000|ピ 2000]]、9頁</ref>、復帰するまでの間は代理として[[カルロス・レシャック]]が指揮を執ったが、2節で首位に立つと、そのまま他チームを引き離しリーグ優勝を果たした。

翌1991-92シーズン、リーグ戦ではレアル・マドリードとの優勝争いに競り勝ち2連覇を果たし、[[UEFAチャンピオンズカップ 1991-92]]では決勝戦に進出しイタリアのサンプドリアとの対戦となった。[[ウェンブリー・スタジアム (1923)|ウェンブリー・スタジアム]]で行われた試合は両者無得点のまま延長戦に入り、111分にクーマンのフリーキックが決まり1-0で勝利。クラブに初のチャンピオンズカップをもたらした。

クライフはボールポゼッション、シュートパス、サイド攻撃を柱とした攻撃的なサッカーを志向し<ref name="number767">{{Cite book|和書|author=横井信幸 |chapter=クライフを神にした伝説のクラシコ |year=2010 |title=[[Sports Graphic Number]] |volume= 767号 |page=174 |publisher=[[文藝春秋]]}}</ref>、結果を残すまで時間がかかり批判を受けることもあったが、クライフの思想は徐々に選手だけでなく、クラブの首脳陣、ソシオに浸透し、クラブ全体に欠けていた勝者のメンタリティを植え付けた<ref name="ピ78-79">[[#ピ 2000|ピ 2000]]、79頁</ref>。在任した8シーズンの間に国内では[[リーガ・エスパニョーラ]]4連覇 (1990-91, 1991-92, 1992-93, 1993-94) 、コパ・デル・レイ優勝1回 (1989-90) 、[[スーペルコパ・デ・エスパーニャ|スーペルコパ]]優勝3回 (1992, 1993, 1995) 、国際大会では[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]優勝1回 (1991-92) 、UEFAカップウィナーズカップ優勝1回 (1988-89) を成し遂げた。

1980年代後半から1990年代中盤にかけてクライフの作り上げたチームは、[[1992年]]に行われた[[バルセロナオリンピック]]の[[バルセロナオリンピックにおけるバスケットボール競技|バスケットボール競技]]において、[[マイケル・ジョーダン]]らを擁して[[金メダル]]を獲得した[[バスケットボール男子アメリカ合衆国代表|アメリカ合衆国代表]]の通称である[[ドリームチーム]]に準えて「'''[[エル・ドリーム・チーム]]'''」と称された<ref name="サントス145">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、145頁</ref>。また、クライフを招聘したヌニェス会長は、この時期に多くのサポーターを獲得し、クラブの世界的ブランドとしての価値を高めることに寄与した<ref name="バルセロナ"/>。

==== ドリーム・チームの終焉 ====
1993-94シーズンに新たに[[ブラジル]]の[[ロマーリオ]]が入団。ロマーリオは[[1994年]][[1月8日]]に行われたレアル・マドリードとの[[エル・クラシコ]]において2得点を挙げる活躍を見せるなどシーズン通算30得点を挙げ得点王を獲得した。リーグ戦の優勝争いは首位に立つ[[デポルティボ・ラ・コルーニャ]]をバルセロナが追い上げる展開だったが、[[1994年]]5月14日に行われた最終節の結果、両者が勝ち点で並んだものの得失点差によりバルセロナが上回り4連覇を達成した。

一方、国内リーグでの優勝から4日後に[[ギリシャ]]の[[アテネ]]で{{仮リンク|UEFAチャンピオンズリーグ 1993-94|en|1993-94 UEFA Champions League}}決勝が行われ、[[ファビオ・カペッロ]]の率いるイタリアのACミランと対戦し0-4と大敗した。この敗戦により、これまで築きあげた「ドリームチーム」の崩壊が始まったと評されている<ref name="number767"/><ref name="サントス203">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、203頁</ref>。

1993-94シーズンに外国人選手の出場枠の問題により出場機会を失うことの多かったラウドルップ、GKの[[アンドニ・スビサレッタ]]がクライフから戦力外と見做され退団<ref name="サントス203"/>。1994-95シーズンが開幕するとロマーリオが[[ホームシック]]にかかりシーズン途中に退団<ref name="サントス204-205">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、204-205頁</ref>し、故国の[[フラメンゴ]]に移籍した。この一連の問題が発端となり<ref name="サントス204-205"/>、人気選手であり問題児として知られるストイチコフがクライフ体制やチームメイトを批判する事態となり<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、206-207頁</ref>、シーズン終了後にストイチコフと守備の要だったクーマンも退団した。

1995-96シーズン、「ドリームチーム」と呼ばれた当時の選手達の多くは既に退団し[[ホセ・マリア・バケーロ]]とグアルディオラ、[[アルベルト・フェレール|フェレール]]の3人のみとなったことで、クライフは「新たなドリーム・チーム」の構築を目指して下部組織で育成された選手達を積極的に登用するなどチーム改革を行った<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、213-220頁</ref>。しかしリーグ戦でアトレティコ・マドリードに競り負け2シーズン続けてタイトルを逃すと、[[1996年]][[5月18日]]にヌニェス会長は「クライフは間違った決断を下した」と告発し<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、221頁</ref>、監督解任を発表した<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、222頁</ref><ref>{{Cite book|和書 |chapter=ワールドワイドインフォメーション スペイン |title=サッカーマガジン|volume=1996年6月12日号 |publisher=ベースボールマガジン社 |page=91}}</ref>。

=== オランダ代表監督問題 ===
FCバルセロナの監督を務めていた1990年代当時、オランダ代表監督への就任が取り沙汰された<ref name="グランヴィル401">[[#グランヴィル 1998|グランヴィル 1998]]、401頁</ref><ref name="バーランド、ファンドープ135-136">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、135-136頁</ref>。1990年にイタリアで開催された[[1990 FIFAワールドカップ]]の大会直前に主力選手からクライフの監督就任を要望する意見が高まったが、代表監督の任命権を持つミケルスが[[レオ・ベーンハッカー]]を指名し自らアドバイザーに就任したために実現には至らず<ref name="バーランド、ファンドープ135-136"/><ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、111頁</ref>。1994年の[[1994 FIFAワールドカップ]]の大会直前には監督の[[ディック・アドフォカート]]と選手間の確執が続いたことから再びクライフの監督就任を望む世論が高まったが<ref name="グランヴィル401"/>、クライフとオランダサッカー協会との間で合意に達することはなかった<ref name="グランヴィル401"/>。1994年大会の際には1990年大会に比しても就任の可能性が高かったが<ref name="スホッツ、ラウツェン112">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、112頁</ref>、マルコ・ファンバステンの復帰の見通しが立たなかったこと、KNVBがクライフにコーチングスタッフの人選に関する権限を与えることを認めなかったことが、就任に至らなかった原因とされる<ref name="スホッツ、ラウツェン112"/>。

== その後の経歴 ==
バルセロナでのキャリアを最後に指導者としての第一線から退き、自身の名を冠した子供のスポーツ活動を支援する[[ヨハン・クライフ財団]]や、スポーツマネジメントに関する人材育成を目的とした{{仮リンク|ヨハン・クライフ大学|nl|Johan Cruyff University}}を設立し社会貢献に努めている<ref>{{nl icon}} {{Cite web | url = http://www.cruyff.com/asp/ned/cruijfffoundation.asp?page=6 | title = Johan Cruyff Foundation | publisher = cruyff.com | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>。

各クラブやサッカー協会の会長職などの要職を務めた経験はないが、友人でもある[[ジョアン・ラポルタ]]が[[2003年]]にバルセロナの会長に就任した際には、教え子である[[フランク・ライカールト]]を監督に推薦<ref name="ウィナー371">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、371頁</ref>。オランダサッカー協会に対しても、それまでアヤックスの下部組織を率いた経験があるのみで指導者としての実績が十分ではなかった[[マルコ・ファン・バステン]]をオランダ代表監督に推薦<ref name="ウィナー371"/>するなど影響力を行使し続けている。

=== バルセロナを巡る論争 ===
[[ファイル:Johan Cruijff golfer cropped.jpg|thumb|right|200px|2009年のクライフ]]
[[ホセ・ルイス・ヌニェス]]会長との確執が原因となり<ref name="木村72">[[#木村 2003|木村 2003]]、72頁</ref>クライフが1996年5月18日にバルセロナの監督を解任された。解任後、ヌニェス会長とクライフの対立や舌戦はエスカレートし、互いに[[名誉毀損]]訴訟を起こす事態に発展しただけでなく、マスコミやファンを巻き込んでいった<ref name="木村72"/>。ヌニェスが解任に際して「クライフの収賄疑惑」を暴露したこともあり、クラブの[[ソシオ]]達はクライフ派とヌニェス派の二派に分裂<ref name="木村72"/>し、クラブの会長選挙の際に両派は互いに候補者を擁立するなど対立を繰り返した<ref name="木村72"/>。

[[1997年]]の会長選挙でヌニェスは再戦を果たすが、この直後にクライフ派のジョアン・ラポルタらのグループがヌニェスの不信任動議に乗り出した<ref name="木村72"/>。1998年3月7日にクラブ史上初の不信任投票が行われた結果、30%の賛同を得るに留まりヌニェスの不信任案は否決された<ref name="木村72"/>。クライフ派はドリームチーム時代のスタイルを崇拝しヌニェスが招聘したファン・ハールのスタイルを「退屈」として批判<ref name="木村72"/>、スタジアムでは抗議を意味する白いハンカチが振られた<ref name="ボール146">[[#ボール 2002|ボール 2002]]、146頁</ref>。また、[[1999年]]に行われたドリームチームを記念する行事と前後して、クライフが先頭に立ちメディアを通じてヌニェス会長への批判を展開した<ref name="ボール142">[[#ボール 2002|ボール 2002]]、142頁</ref>

[[2000年]]の会長選挙ではヌニェス派は副会長の{{仮リンク|ジョアン・ガスパール|en|Joan Gaspart}}を擁立し、クライフ派は企業家のルイス・バサットを擁立<ref name="木村72"/>。バサットは公約として「クライフを顧問としてクラブに復帰させる」事を掲げるも、僅差でガスパールが当選した<ref name="木村72"/>。クライフはガスパールの就任当初は静観の構えを見せていたが、彼が招聘した[[ロレンソ・セラ・フェレール|セラ・フェレール]]監督がリーグ戦で4位に終わると、一転してガスパールを擁立したヌニェス派を糾弾し<ref name="木村72"/>、かつての僚友だったレシャックが後任監督として就任すると彼にもその矛先が向けられ「裏切り者」と批判した<ref name="木村72"/>。こうしたクライフの姿勢にソシオ内でも、その影響力を懸念する声も現れ始めた<ref name="木村73">[[#木村 2003|木村 2003]]、73頁</ref>。

[[2003年]]の会長選挙ではバサットとラポルタのクライフ派同士の争いとなった<ref name="木村73"/>。バサットは対立を続けていた「両派の融和」を掲げたが<ref name="木村73"/>、「ドリームチームの再現」を目指すラポルタが約9万4000人のクラブ会員の約53%の支持を集めて会長に就任した<ref>{{Cite web|url=http://www.47news.jp/CN/200306/CN2003061601000057.html |title=ベッカム獲得に前進か バルサ会長にラポルタ氏 |publisher=[[47NEWS]] |date=2003年6月15日 |accessdate=2014年1月4日}}</ref>。

[[2010年]]4月にバルセロナの[[名誉会長]]に就任した<ref>{{en icon}} {{Cite web | url = http://www.fcbarcelona.com/web/english/noticies/club/temporada09-10/03/26/n100326110082.html | title = Johan Cruyff named Honorary President | publisher = FC Barcelona | date = 2012年7月7日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref> が、同年7月に会長となった[[サンドロ・ロセイ]]がクラブの規定に名誉会長職はないとしたため、名誉会長職を返上した<ref>{{Cite web|url=http://www.nikkansports.com/soccer/world/news/p-sc-tp3-20100705-649681.html |title=クライフ氏、バルサ名誉会長職を返上 |publisher=[[日刊スポーツ]] |date=2010年7月5日 |accessdate=2014年1月4日}}</ref><ref>{{en icon}} {{Cite web | url = http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=807580&sec=europe&cc=5739 | title = Cruyff unimpressed by Barca 'circus' | publisher = [[ESPN]] | date = 2010年7月10日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref><ref>{{en icon}} {{Cite web | url = http://www.guardian.co.uk/football/2010/jul/02/johan-cruyff-barcelona-president | title = Johan Cruyff stripped of Barcelona honorary president title | publisher = [[The Guardian]]| date =2010年7月10日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>。

=== アヤックスを巡る論争 ===
[[2008年]][[2月19日]]、[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]は新たにテクニカル部門を創設し、クライフを責任者として迎えることを発表した<ref name="AFPBB20080221">{{Cite web|url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/soccer-others/2353715/2663295 |title=クライフ氏がアヤックスに復帰 |publisher=AFPBB News |date=2008年2月21日 |accessdate=2014年1月4日}}</ref>。この背景にはアヤックスのトップチームの成績不振や、かつて多くの有望な若手選手を輩出し「世界有数の育成組織」と評されたユース部門からの人材供給が減少するなどの問題が存在した<ref name="WSD2008417">{{Cite book|和書 |author=エルンスト・ブーベス|chapter= The JOUNALISTIC HOLLAND オランダ - 夢と消えたアヤックスの二頭体制 |year= |title=ワールドサッカーダイジェスト |volume=2008年4月17日号|publisher=日本スポーツ企画出版社 |page= 102-103}}</ref>。改革の旗手としてクライフを迎えようとの声を反映したもので<ref name="WSD2008417"/>、3日後の[[2月22日]]には2008-09シーズンからの新監督としてマルコ・ファン・バステンを迎えることを発表した<ref name="WSD2008417"/>。この時点でクライフの復帰は正式決定には至っておらず、2週間後にクライフとファン・バステンの間で意思疎通を目的とした電話会談が行われたが、その際に両者の意見が対立<ref name="WSD2008417"/>。クライフは「育成方針に関するビジョンの共有が出来なかった」としてテクニカル部門の就任要請を辞退した<ref name="WSD2008417"/>。

[[2011年]]2月、アヤックスのテクニカルアドバイザーに就任した"<ref>{{Cite web| url=http://www.independent.co.uk/sport/football/european/johan-cruyff-returns-to-ajax-2211750.html | publisher=The Independent | title=Johan Cruyff returns to Ajax|date=2011年2月6日|accessdate=2014年1月4日}}</ref><ref>{{Cite web|title=Cruijff en Davids benoemd in bestuur Ajax|url=http://www.volkskrant.nl/vk/nl/2698/Sport/article/detail/2442224/2011/06/06/Cruijff-en-Davids-benoemd-in-bestuur-Ajax.dhtml|accessdate=21 January 2012|publisher=Volkskrant|date=2011年2月6日|accessdate=2014年1月4日}}</ref>。

アヤックスの育成部門はこれまで数多くの人材を輩出し、2010年に[[南アフリカ共和国]]で開催されたFIFAワールドカップの舞台に[[ヴェスレイ・スナイデル]]をはじめ6人の育成部門出身の選手達をオランダ代表へ送り出した<ref name="WSD20110502">{{Cite book|和書 |chapter=ニュースの裏側 News number 08 クライフのアドバイザー就任に伴うアヤックスの内紛 |year= |title=ワールドサッカーダイジェスト |volume=2011年5月2日号|publisher=日本スポーツ企画出版社 |page= 102}}</ref>。スカウト網や育成プログラムが成果を残していると評価を受けていたが<ref name="WSD20110502"/>、一方でクライフは「育成部門はその価値を失い平凡な組織へ成り下がった。ユースの選手には大胆さや冒険心やテクニックを教え込み、世界中が驚く人材を再び供給しなければならない」と異議を唱え<ref name="WSD20110502"/>育成部門の再建は急務であると主張した<ref name="WSD20110502"/>。

同年3月にクラブ運営に関するアドバイスを目的とした「テクニカル・プラット・フォーム」部門の責任者に就任すると、[[フランク・デ・ブール]]監督の下でアシスタントコーチを務めていた[[ダニー・ブリント]]をはじめコーチ陣を解雇し<ref name="WSD20110502"/>、デニス・ベルカンプや[[ヴィム・ヨンク]]らを新たに育成部門の責任者に抜擢するなどの組織改革に取り組んだ<ref name="WSD20110502"/>。こうした動きに対してクラブの幹部の間で物議を醸し、ウリ・コロネル会長をはじめ理事会メンバーが総辞職する事態となった<ref name="WSD20110502"/>。

同年[[11月16日]]、[[エドガー・ダービッツ]]を含むアヤックスの理事4人が[[2012年]]7月から[[ルイ・ファン・ハール]]をゼネラル・ディレクター (GD) として迎えることを発表した<ref name="デイリースポーツ20120208">{{Cite web | url =http://www.daily.co.jp/soccer/2012/02/09/0004801995.shtml | title =アヤックス内紛はクライフ氏が“勝利” | publisher = デイリースポーツonline | date =2012年2月8日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>。これに対しクライフは「私の不在時に決定された」と主張しベルカンプをはじめ育成部門の10人の指導者と共に裁判所に提訴した<ref>{{Cite web | url =http://www.sponichi.co.jp/soccer/news/2011/11/29/kiji/K20111129002133030.html | title =「ファンハールGM」に反発!アヤックス内紛が裁判沙汰に | publisher = スポニチ Sponichi Annex | date =2011年11月29日| accessdate = 2014年1月4日}}</ref><ref>{{Cite web | url =http://jp.reuters.com/article/idJPTYE81K32T20120210| title =サッカー=クライフ氏らアヤックス理事全員が辞職へ | publisher = デイリースポーツonline | date =2012年2月10日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>。12月の一審、2012年2月の二審で共にクライフ側の訴えが認められファン・ハールのGD就任の差し止めが申し渡された<ref name="デイリースポーツ20120208"/>。

=== カタルーニャ選抜 ===
[[ファイル:Homenatge a Johan Cruijff.jpg|thumb|250px|最後の采配となった[[サッカーナイジェリア代表|ナイジェリア]]戦で表彰を受けるクライフ。]]
[[2009年]][[11月9日]]、[[サッカーカタルーニャ選抜|カタルーニャ選抜]]の監督に就任した<ref name="AFPBB20091110">{{Cite web|url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/soccer-others/2661941/4875891 |title=クライフ新監督 カタルーニャ選抜で「魅惑的な」サッカーを約束 |publisher=[[フランス通信|AFPBB News]] |date=2009年11月10日 |accessdate= 2014年1月4日}}</ref>。なおカタルーニャ選抜は[[国際サッカー連盟]] (FIFA) や[[欧州サッカー連盟]] (UEFA) に加盟しておらず国際大会の公式戦への出場資格を有していないため親善試合のみ行なっている代表チームである<ref name="AFPBB20091110"/>。同年[[12月22日]]に行なわれた初采配の[[サッカーアルゼンチン代表|アルゼンチン]]との親善試合に4-2で勝利<ref>{{Cite web|url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/soccer-others/2677678/5078271 |title=カタルーニャ州選抜 アルゼンチンとの親善試合に勝利 |publisher=AFPBB News |date=2009年12月23日 |accessdate= 2014年1月4日}}</ref>、[[2010年]][[12月28日]]には[[サッカーホンジュラス代表|ホンジュラス]]と対戦し4-0で勝利<ref name="Goal20121111">{{Cite web|url=http://www.goal.com/jp/news/73/リーガエスパニョーラ/2012/11/11/3517639/クライフ氏、カタルーニャ選抜指揮官辞任へ |title=クライフ氏、カタルーニャ選抜指揮官辞任へ |publisher=Goal.com |date=2012年11月11日 |accessdate= 2014年1月4日}}</ref>、[[2011年]][[12月30日]]には[[サッカーチュニジア代表|チュニジア]]と対戦し0-0の引分けた<ref name="Goal20121111"/>。

[[2012年]][[11月11日]]、「カタルーニャ選抜の監督を務めたことは誇りに思うが一つのサイクルの終わりの時が来た」として監督辞任の意向を示し、[[2013年]][[1月2日]]に[[サッカーナイジェリア代表|ナイジェリア]]との親善試合が最後の采配となった<ref name="ElPeriodico20130102">{{Cite web|url=http://www.elperiodico.com/es/noticias/deportes/catalunya-empata-nigeria-despedida-cruyff-2285524|title=Catalunya empata con Nigeria en la despedida de Cruyff |publisher=ElPeriodico.com|date=2013年1月2日|accessdate= 2014年1月4日}}</ref>。試合は1-1の引き分けに終わったがクライフの指揮の下でカタルーニャ選抜は2勝2引き分けと無敗の成績を残した<ref name="ElPeriodico20130102"/>。

=== CDグアダラハラ ===
[[2012年]][[2月25日]]、[[メキシコ]]の[[CDグアダラハラ]]のアドバイザーに就任したことが発表された<ref name="AFPBB20120226">{{Cite web|url=http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/soccer-others/2861073/8542031 |title=クライフ氏がグアダラハラと3年のアドバイザー契約を結ぶ |publisher=AFPBB News |date=2012年2月26日 |accessdate= 2014年1月4日}}</ref>。契約期間は3年<ref name="AFPBB20120226"/><ref name="NYT20120228">{{Cite web| url=http://goal.blogs.nytimes.com/2012/02/28/chivas-goes-dutch-with-cruyff/ | work=[[ニューヨーク・タイムズ|The New York Times]] | title=Chivas Goes Dutch With Cruyff | date=2012年2月28日 |accessdate= 2014年1月4日}}</ref>で、オーナーであり実業家の{{仮リンク|ホルヘ・ベルガラ|en|Jorge Vergara}}は「クライフに3百万から5百万ドルの給与を支払いクラブの再建のために全権を与えた」と語った<ref name="NYT20120228"/>。アドバイザー就任に際してクライフはクラブ側に忍耐を求めたが<ref name="FOX20121202">{{Cite web| url=http://msn.foxsports.com/foxsoccer/latinamerica/story/chivas-guadalajara-fires-cruyff-as-adviser-120212|publisher= FOX Sports on MSN | title=Guadalajara Chivas fires Cruyff as adviser | date=2012年12月2日 |accessdate= 2014年1月4日}}</ref>、9か月後の2012年[[12月]]に契約解除が発表された<ref name="FOX20121202"/>。

== 人物 ==
=== プレースタイル ===
身長176cm、体重67kgと細身の体躯の持ち主だが、瞬間的な加速力を生かしたドリブル突破<ref name="ピ76">[[#ピ 2000|ピ 2000]]、76頁</ref><ref name="武智18">[[#武智 2010|武智 2010]]、18頁</ref><ref name="西部111">[[#西部 2010|西部 2010]]、111頁</ref>を得意とし、急加速急停止を繰り返し相手守備陣を翻弄した<ref name="ピ76"/><ref name="大住64">[[#大住 2004|西部 2004]]、64頁</ref>。細身の外見であるにも関わらず[[ディフェンス (サッカー)#マーク|マーク]]することが難しく、捕らえ所がなかったことからオランダでは「[[ウナギ]]」とも呼ばれていた<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、101頁</ref>。
[[ファイル:Johan Cruyff 1971c.jpg|200px|thumb|right|[[1971年]]のクライフ。]]
また、利き足の右だけでなく左足でも正確なパスを供給する技術の正確性を持ち合わせていた<ref name="story872"/><ref name="ピ76"/><ref name="武智18"/><ref name="西部111"/><ref>{{Cite web|url=http://library.footballjapan.jp/user/scripts/user/story.php?story_id=648 |title=ヨハン・クライフ 「右足のインとアウト、左足のインとアウト、これで4種類のパスが出せる」 |publisher=賀川サッカーライブラリー |accessdate= 2014年1月4日}}</ref>。両足での高いパス精度を持ち合わせる反面、現役時代を通じて[[ペナルティーキック]]を滅多に蹴ることがなかったことでも知られる<ref name="サカマガ秋季63">[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、63頁</ref>。この理由についてクライフは「第一に静止した状態ではなく、試合の流れの中でのキックを得意としていたため。第二にキックの威力の問題があったため」としている<ref name="サカマガ秋季63"/>。

ピッチ上においての全体的な状況を把握する能力にも恵まれており<ref name="ウィナー94">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、94頁</ref>、味方選手がプレーするためのスペースを生み出し、見出す為には「いつどこにポジションを採るのか」「いつどこに走り込むのか」「いつどこでポジションを離れてはいけないのか」について常に思考していたという<ref name="ウィナー84">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、84頁</ref>。試合時には[[オーケストラ]]の[[指揮者]]の様に仲間達に対して詳細に指示を送り自らの思考を伝えたが<ref name="ウィナー101-102">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、84頁</ref>、ピッチ上での指揮官ぶりは時にドリブルやパス、スペースへの走り込みといった積極的にボールへと関わるプレーよりも印象を残した<ref name="ウィナー101-102"/>。

名義上はセンターフォワードというポジションだが<ref name="賀川20050329"/><ref name="大住1998・60"/><ref name="ベースボールマガジン211-212">{{Cite book|和書|author=[[ベースボールマガジン社]]編|year=1974|title=別冊サッカーマガジン秋季号 '74西ドイツ・ワールドカップ|publisher=ベースボールマガジン社|isbn= |page=211-212頁}}</ref>、試合が始まると最後尾や中盤、タッチライン際という具合に自由にポジションを代えてボールを受け<ref name="賀川20050329"/><ref name="大住1998・60"/><ref name="ベースボールマガジン211-212"/>、ドリブルやパスで攻撃を組み立てると共に、得点機に絡んだ<ref name="賀川20050329"/><ref name="大住1998・60"/>。また、他の選手もクライフの動きに連動してポジションを目まぐるしく移動させた<ref name="大住1998・60"/><ref name="ベースボールマガジン211-212"/>。チーム全体がクライフの動きに応じてポジションを修正する様は「[[渦巻]]」「変幻自在」と評され、その中心には常にクライフが存在した<ref name="ベースボールマガジン211-212"/>。

この他に現役時代のプレーとしては軸足の後ろ側にボールを通しながら180度ターンする「[[クライフターン]]」と呼ばれるフェイントを考案したことでも知られ、サッカーの基本テクニックの一つとなっている<ref>{{en icon}} {{Cite web | url =http://news.bbc.co.uk/sportacademy/hi/sa/football/skills/newsid_2071000/2071794.stm | title =Learn the Johan Cruyff turn | publisher = BBC Sport Academy | accessdate = 2014年1月4日}}</ref><ref>{{Cite web | url = http://soccernet.espn.go.com/news/story?id=807580&sec=europe&cc=5739 | title = Cruyff unimpressed by Barca 'circus' | publisher = [[ESPN]] | date =2010年7月10日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>。

=== 背番号14 ===
クライフの代名詞である[[背番号]]「'''14'''」はアヤックス時代から好んで着用していた<ref name="大住100-101">[[#大住 2004|大住 2004]]、100-101頁</ref>。1970-71シーズン開幕の際にクラブは個々の選手に固定の背番号を着用させることにしたが、クライフは攻撃的なポジションの選手が身に付ける「7」から「11」までの背番号ではなく、控え選手が付ける「14」を選んだ<ref name="大住1998・60"/><ref name="大住100-101"/>。この理由について役員が尋ねると、クライフは
{{Quotation|9番は[[アルフレッド・ディ・ステファノ|ディ・ステファノ]]、10番は[[ペレ]]の背番号だ。私は誰も身につけていない14番を「クライフの背番号」にする。|ヨハン・クライフ}}と答えたという<ref name="大住1998・60"/><ref name="大住100-101"/>。また1974年のワールドカップに出場した当時のオランダ代表では、背番号は選手のアルファベット順に身に付けることになっていた<ref name="大住100-101"/>ため、頭文字が「C」で始まるクライフは本来であれば「1」番を着用するはずだった<ref name="大住100-101"/>が、特例として「14」を着用することが認められた<ref name="大住100-101"/>。

なお、アヤックス時代には「14」の背番号を着けていたクライフだったが、当時の[[リーガ・エスパニョーラ]]は固定制の背番号ではなく先発メンバーは試合毎に「1」から「11」の背番号が割り当てられる規程となっていたため、代名詞の背番号「14」ではなく背番号「9」を着用していた<ref>[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、65頁</ref>。なお、代名詞となった背番号「14」は[[2007年]][[4月25日]]にアヤックスの[[永久欠番]]となった<ref>{{en icon}} {{Cite web | url = http://english.ajax.nl/web/show/id=154814/contentid=62523 | title = Ajax retire number 14 | publisher = english.ajax.nl | date = 2007年4月18日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>。

=== 監督としての戦術 ===
{| style="float: right; margin-left: 1em; margin-bottom: 0.5em; width: 225px; border: #99B3FF solid 1px"
|-
|-
|<div style="position: relative;">
|1966-67||||30||33||5||5||6||3
[[ファイル:Soccer.Field Transparant.png|225px]]
{{Image label|x=0.28|y=0.30|scale=225|text=[[マルコ・ファン・バステン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ファン・バステン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.08|y=0.43|scale=225|text=[[ロブ・ウィツヘ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ウィツヘ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.58|y=0.43|scale=225|text=[[ヨン・ファント・シップ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ファントシップ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.38|y=0.53|scale=225|text=[[ジョン・ボスマン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ボスマン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.17|y=0.73|scale=225|text=[[アーノルド・ミューレン|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ミューレン'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.56|y=0.73|scale=225|text=[[ヤン・ボウタース|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ボウタース'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.38|y=0.90|scale=225|text=[[フランク・ライカールト|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ライカールト'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.75|y=1.03|scale=225|text=[[ダニー・ブリント|<span style="font-size: 90%; color: white">'''ブリント'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.38|y=1.03|scale=225|text=[[ロナルト・スペルボス|<span style="font-size: 90%; color: white">'''スペルボス'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.07|y=1.03|scale=225|text=[[ソニー・シローイ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''シローイ'''</span>]]}}
{{Image label|x=0.41|y=1.18|scale=225|text=[[スタンリー・メンゾ|<span style="font-size: 90%; color: white">'''メンゾ'''</span>]]}}
|-
|-
|style="font-size: smaller;"|クライフがアヤックスの監督時代に採用していた4-3-3の布陣<ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、77頁</ref>。中央に位置するDFのうちの1人をディフェンスラインより前方に配して攻守の舵取り役を担い、3人のFWのうち左右のウイングをタッチライン際まで開かせサイド攻撃を仕掛けることが特徴<ref name="長坂161">[[#長坂 2007|長坂 2007]]、161頁</ref>。
|1967-68||||33||25||5||6||2||1
</div>
|}
選手としてのクライフは選手が頻繁にポジションチェンジを繰り返す「トータル・フットボール」の体現者となったが<ref name="Number797">{{Cite book|和書|author=田邊雅之 |chapter=歴代名将を徹底比較 最新のバルサは最高のバルサなのか |year=2012 |title=Sports Graphic Number |volume= 797号 |publisher=文藝春秋= |page=50-53}}</ref>、監督としては変則的な4-3-3フォーメーションや3-4-3フォーメーションを駆使し、選手をピッチ全体に配置させて攻撃サッカーを展開するスタイルを追及した<ref name="Number797"/>。中盤にダイヤモンド型の陣形を構築するこれらのシステムの効能としては次の点などが挙げられる。
* 「試合を進行する際に、ピッチ上に数多くのトライアングルを形成することが出来る<ref name="Number797"/><ref name="長坂162">[[#長坂 2007|長坂 2007]]、162頁</ref>」
*「パスコースが常に二方向以上存在する<ref name="Number797"/><ref name="長坂162"/>」
*「ピッチ全体を幅広くカバーすることが可能となる<ref name="長坂162"/>」
*「守備に回った際に前線の選手が即座に相手のチェックに移ることが出来る<ref name="長坂162"/>」

アヤックスの監督時代に採用していた4-3-3フォーメーション(アヤックス・フォーメーション)では、フィールドの中央に位置する[[ゴールキーパー (サッカー)|ゴールキーパー]]、[[ディフェンダー (サッカー)#センターバック|センターバック]]、[[ディフェンダー (サッカー)#リベロ|リベロ]]、[[ミッドフィールダー#攻撃的ミッドフィールダー|攻撃的ミッドフィールダー]]、[[フォワード (サッカー)#センターフォワード|センターフォワード]]の縦軸の5人が攻守の鍵となり、相互の意思疎通とコンビネーションを重要視した<ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、74頁</ref>。

GKはペナルティエリア内で相手の攻撃を阻止するだけでなく、攻撃時にはゴールから離れフィールドプレーヤーの1人としての役割もこなした<ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、75-76頁</ref>。守備陣ではリベロの選手が積極的に中盤や前線に進出するのに対して、センターバックは最後尾から攻撃の起点としてロングパスを駆使してゲームを構築<ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、76-78頁</ref>。左右のサイドバックに位置する2人の選手はサッカー界で主流となっていた積極的な攻撃参加を行ず<ref name="バーランド、ファンドープ79">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、79頁</ref>、与えられたポジションとスペースのカバーリングに徹した<ref name="バーランド、ファンドープ79"/>。

中盤は左右の2人は後方から攻めあがったリベロの動きに応じてポジションを代えると共に<ref name="バーランド、ファンドープ79-80">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、79頁</ref>、リベロの進出により生じた後方のスペースや他の選手のミスをカバーする調整役を担った<ref name="バーランド、ファンドープ79-80"/><ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、75頁</ref>。攻撃的ミッドフィールダーの選手は常にセンターフォワードと5mから10m以内の間隔でポジションを採り、ボールを保持してゲームを動かすのではなく<ref name="バーランド、ファンドープ79-80"/>、センターフォワードのためにスペースを作り出し、動きをサポートするなどの関係性を意識させた<ref name="バーランド、ファンドープ79-80"/>。

前線では左右のウイングに位置する選手がタッチライン際まで開いてセンタフォワードの為にスペースを確保し<ref name="バーランド、ファンドープ81-82">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、79頁</ref>、攻撃時にはドリブルで対峙する相手を圧倒することを求め、守備時には3人が連携してボールを保持する選手に対してプレッシングを行った<ref name="バーランド、ファンドープ81-82"/>{{#tag:ref|2000年代以降は同じ3トップを採用する場合においても「ストライカー2人にドリブラー1人<ref name="戸塚">{{Cite book|和書 |author=[[戸塚啓]] |year=2010 |title=新・サッカー戦術論 |publisher=成美堂出版 |page= 133-136 |isbn=978-4415308425 }}</ref>」「ストライカー、ドリブラー、攻撃的MFをそれぞれ1人<ref name="戸塚"/>」といった具合に、選手の組み合わせを自由に入れ替える傾向があり、クライフが好んだ左右の両サイドに典型的な[[フォワード (サッカー)#ウイング|ウインガー]]を配置するスタイルは希少となっている<ref name="長坂161"/><ref name="戸塚"/>。|group=注}}。

ただし、ここで述べたアヤックス時代のシステムはあくまでも優れたセンターフォワードが存在する場合の事例だとしている<ref name="木崎、若水22-25">[[#木崎、若水 2010|木崎、若水 2010]]、22-25頁</ref>。両サイドのフォワードに2人のウイングを配するコンセプト自体は変更はないが<ref name="木崎、若水22-25"/>、優れたセンターフォワードが存在しない場合は定型的な4-3-3フォーメーションを採用せずにセンターフォワードの位置には選手を配置せずにゲームメイク力のあるフォワードを前線から下がり気味に配置し中盤に近い位置でプレーをさせた<ref name="木崎、若水22-25"/>。

バルセロナで監督を務めていた当時も3トップや中盤でダイヤモンド型の陣形を作る等のコンセプトは変わりなかったものの<ref name="木崎、若水22-25"/>DFを3人にし3-4-3フォーメーションを採用する機会が多かった<ref name="Number797"/><ref name="木崎、若水22-25"/>。その背景には対戦する多くのチームが2トップを採用していたというスペインサッカー界の事情と<ref name="Number797"/><ref name="木崎、若水22-25"/>、1980年代後半にACミランを率いた[[アリゴ・サッキ]]が主唱した[[プレッシング]]スタイルの戦術に対抗するための意図があった<ref name="Number797"/>。一方、バルセロナでは基本的に選手が自由に陣形を崩すことを認めていなかったとの指摘もある<ref name="Number797"/>。

アヤックスやバルセロナでは「パスを繋いで常に自分達のチームがボールをキープして攻撃を組み立て試合の主導権を握る」ボールポゼッションのスタイルを定着させたが<ref name="サカマガ20111227">{{Cite book|和書 |author=横井信幸 |chapter=バルセロナを史上最高に導いた男を知る グアルディオラの、何がそんなにスゴイのか? |year= |title=週刊サッカーマガジン |volume=2011年12月27日号|publisher=ベースボールマガジン社 |page= 16 }}</ref>、一方でそのスタイルを打ち破られた際の守備のリスクは大きく<ref name="ボール146"/><ref name="長坂164">[[#長坂 2007|長坂 2007]]、164頁</ref>、戦術的な欠点を露呈することもあった<ref name="サカマガ20111227"/>。攻撃に人数を割き前掛かりになるため守備が手薄となり<ref name="長坂164"/>、前線の選手達がボールを奪われた際、相手にチェックを掛けボールを再奪取することに失敗し守備陣の裏にロングパスを通されれば一転して危機的な状況となった<ref name="長坂164"/>。不安定な守備と、その欠点を補って上回る攻撃力がクライフの志向した戦術の魅力でもあった<ref name="サカマガ20111227"/><ref name="長坂164"/>。

=== 人となり ===
[[ファイル:Fred Emmer, Sjaak Swart en Johan Cruijff.png|250px|thumb|left|[[1972年]]に[[オランダ放送協会]]の番組に出演した際のクライフ。右から一人をおいてクライフ、[[シャーク・スワルト]]。司会者の{{仮リンク|フレッド・エメル|nl|Fred Emmer}}。]]
自分の理想や目標を達成するために周囲を引きこんでいく並外れたカリスマ性のある人物と評されている<ref name="サントス339-340">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、339-340頁</ref>。「私が思い出すことは、私が一番優れていたということだけだ<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、178頁</ref>」「多くの人々から「最高の選手」と賞賛されるが、自分でもそのように考えている。しかし裏返せば多くの低水準な選手達と共に長年プレーをしていたことを意味する<ref>[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、30頁</ref>」と公言してはばからない自信家であり我が強く<ref name="ピ78-79">[[#ピ 2000|ピ 2000]]、78-79頁</ref>、ミスを絶対に認めない頑固さを持ち合わせている<ref name="ピ78-79"/><ref>[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、130-131頁</ref>。13歳の時に受けた職業適性検査では「能力は平均水準をやや上回るが精神的にも肉体的にも未成熟である。感情的で常に刺激を求め興味の対象が頻繁に入れ替わり安く、勉学よりもスポーツに興味を示す。精密さを必要とする職業には不向きであり強いてあげるならば貿易などの商業に向いているだろう」と診断されている<ref name="サカマガ秋季68-69">[[#サッカーマガジン編集部 1980|サッカーマガジン編集部 1980]]、68-69頁</ref>。

一方で、こうした自信家としてや感情的な側面は、報道陣や他の選手からの介入や外部の人間からの圧力を避けるための身を守るための人格であり<ref name="スホッツ、ラウツェン170-171">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、170-171頁</ref>、根底には親切心があり有名人然として振る舞うことを嫌っているともいう<ref name="スホッツ、ラウツェン170-171"/>。

会話好きな性格で一旦話し出すと止まらない側面がある<ref name="スホッツ、ラウツェン193">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、193頁</ref>。選手時代には試合中に休むことなく選手に指示を出していたことからドラマの『[[わんぱくフリッパー]]』の主人公の[[イルカ]]に準えて「フリッパー」とも呼ばれた<ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、44頁</ref>。バルセロナの監督を務めていた1990年代にオランダの番組のインタビューに応じたところ予定の時間を上回り30分近く会話を続けたため、番組スタッフが編集作業で取捨選択することが困難となり、改めてクライフのための番組が製作された<ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、193頁</ref>。また、オランダ国民には[[徴兵制度|兵役]]が義務付けられているが招集を受けた際にクライフが医師と直接交渉して相手を根負けさせ兵役が免除されたエピソードや<ref name="サントス81-82">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、81-82頁</ref>、1971年にオランダ君主の[[ユリアナ (オランダ女王)|ユリアナ]]女王と接見した際に税制についての見直しを直訴したため物議を醸したエピソードもある<ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、121頁</ref>。

様々な渾名を持ち合わせており、選手時代には「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)<ref name="asahi"/>」、「エル・サルバドール」(''El Salvador''、[[救世主]]の意)の他に「エル・フラコ」と呼ばれていた<ref name="サントス181"/>が、これは1973年にバルセロナへ入団した当時、痩せた体格であったことに由来している<ref name="サントス181"/>。バルセロナの監督を務めていた当時の選手達は、かつてのスター選手への畏怖の念から「[[神]]」と呼んでいた<ref name="サントス181"/>。また、イニシャルの「J.C.」が[[イエス・キリスト]]と同じであることから、1970年代に流行した[[ロック・ミュージカル]]の『[[ジーザス・クライスト・スーパースター]]』に準え「スーパースター」とも呼ばれた<ref name="story149"/><ref name="encyclopedia665"/>。

=== 言語感覚 ===
{{main|:nl:Cruijffiaans}}
独特な言語感覚や文章表現の持ち主であることでも知られ<ref name="ピ78-79"/><ref name="AFP20070425">{{Cite web | url =http://www.afpbb.com/article/sports/soccer/soccer-others/2216299/1538745 | title =クライフ氏が還暦を迎える | publisher = AFPBB News | date =2007年4月25日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>、クライフ語録 (Cruyffian) と呼ばれる独自の理論が人気を博している<ref name="AFP20070425"/>。還暦を迎えた2007年に[[フランス通信|AFP通信]]が1200人のファンを対象に行った調査によると以下の名言が上位に挙げられた<ref name="AFP20070425"/><ref>{{en icon}} {{Cite web | url =http://www.fifa.com/worldfootball/news/newsid=127328.html | title =Cruyff turns 60 but refuses to mind his language | publisher = FIFA.com | date =2007年4月24日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>。

* 「あらゆる欠点には長所がある」
* 「我々がボールをキープし続けていれば、相手は永遠に得点することはできない」
* 「相手が何点取ろうが、それより多くの得点を取れば問題はない」

なお同じ調査において25%の人々が「クライフ語録を理解できる」と回答した<ref name="AFP20070425"/>のに対し、53%の人々が「時々理解が出来なくなることもあるが、気にしていない」と回答している<ref name="AFP20070425"/>。母国語の[[オランダ語]]の他に、[[英語]]、[[スペイン語]]を話すことが出来る<ref name="story872"/><ref name="ピ78-79"/>ことから選手時代には監督に代わって記者に説明役を買って出ることもあった<ref name="story872"/>。しかし長年スペインに在住していたにも関わらずスペイン語は上達していなかった、との指摘もある<ref name="ピ78-79"/>。

=== 家族 ===
[[ファイル:Scotland-holland euro 96.jpg|thumb|right|オランダ代表としてプレーする[[ジョルディ・クライフ|ジョルディ]](右から3人目、背番号17の選手)]]
妻とは[[1967年]]に行われた[[ピート・カイザー]]の結婚式を通じて知り合い<ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、74頁</ref>結婚すると3人の子供をもうけた。長女(1970年生)はクライフがバルセロナの監督を務めていた当時の控えゴールキーパーだった{{仮リンク|ヘスス・マリアノ・アンゴイ|en|Jesús Angoy}}と結婚<ref>{{en icon}} {{Cite web | url =http://www.dailymail.co.uk/sport/football/article-1218303/Barcelona-hanging-hopes-new-Cruyff-grandson-legend-Johan-makes-debut-youth-team.html | title =Barcelona hanging their hopes on the new Cruyff as the grandson of legend Johan makes his debut for youth team | publisher = Mail Online | date =2009年10月15日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>。アンゴイは[[1996年]]にバルセロナを退団し引退すると[[アメリカンフットボール]]選手となり、[[NFLヨーロッパ]]の{{仮リンク|バルセロナ・ドラゴンズ|en|Barcelona Dragons}}<ref>{{en icon}} {{Cite web | url =http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/scotland/1929750.stm | title =Claymores make ideal start language | publisher = BBC SPORT | date =2002年4月14日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>などで[[プレースキッカー]]を務めたが後に離婚した<ref name="スホッツ、ラウツェン70-71">[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、70-71頁</ref>。

次女(1972年生)は物静かな性格であるが父親に似て自己主張が強く、10代から20代の時期に[[馬術]]の[[障害飛越競技]]の選手を志したが膝の故障により断念した<ref name="スホッツ、ラウツェン70-71"/>。

末っ子の[[ジョルディ・クライフ|ジョルディ]](1974年生)はクライフがバルセロナ在籍当時に産まれたため、[[キリスト教]]の守護聖人の[[ゲオルギオス (聖人)|サン・ジョルディ]]に因んで<ref name="サカマガ1996522">{{Cite book|和書 |chapter=ワールドワイドインフォメーション スペイン |title=サッカーマガジン |volume=1996年5月22日号 |publisher=ベースボールマガジン社 |page=103頁}}</ref>[[カタルーニャ語]]風に「ジョルディ」 (Jordi) と命名した<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、248頁</ref>。後に父親と同様にサッカー選手になるとバルセロナや[[マンチェスター・ユナイテッドFC|マンチェスター・ユナイテッド]]、[[デポルティーボ・アラベス]]などに在籍した。オランダとスペインの二重国籍を持つ<ref name="サカマガ1996522"/>ことから、いずれかの代表チームを選択する権利があり、一時はU-21オランダ代表からの招集を辞退した<ref name="サカマガ1996522"/>が1996年4月にオランダ代表を選択し<ref name="サカマガ1996522"/>同年に開催された[[UEFA EURO '96|UEFA欧州選手権1996]]に出場するなど国際Aマッチ9試合に出場した。

実兄のへニーもサッカー選手でありポジションは[[ディフェンダー (サッカー)|ディフェンダー]]を務めていた<ref name="サントス82">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、82頁</ref>。クライフと同様にアヤックスの下部組織で育ちトップチームへ昇格を果たしたが大成せずに数シーズンで引退しスポーツ用品店を経営した<ref name="サントス82"/>。へニーの娘でクライフの姪にあたる{{仮リンク|エステル・クライフ|en|Estelle Cruijff}}はタレントとなり[[2000年]]に[[ルート・フリット]]と結婚をしたが[[2013年]]に離婚が成立した<ref>{{nl icon}} {{Cite web | url =http://www.ad.nl/ad/nl/1002/Showbizz/article/detail/3450611/2013/06/01/Ruud-Gullit-en-Estelle-Cruijff-officieel-gescheiden.dhtml | title ='Ruud Gullit en Estelle Cruijff officieel gescheiden' | publisher = AD.nl | date =2013年6月1日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>。

=== 嗜好 ===
好きな選手は1950年代のスター選手である[[アルフレッド・ディ・ステファノ]]<ref name="Persoonlijk">{{en icon}} {{Cite news| url = http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=fenomeen-persoonlijk | title= Persoonlijk |publisher= Cruijff.com| accessdate = 2014年1月4日}}</ref>と、「ロッテルダムの[[モナ・リザ]]」と呼ばれドリブルの名手だった[[ファース・ヴィルケス]]<ref name="Persoonlijk"/>{{#tag:ref|ヴィルケスはドリブルを得意とするフォワードであり<ref name="ウィナー25">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、25頁</ref>、{{仮リンク|アベ・レンストラ|en|Abe Lenstra}}や{{仮リンク|ケース・ライフェルス|en|Kees Rijvers}}と並ぶ[[第二次世界大戦]]後のオランダサッカー界のスター選手だった。しかしプロサッカー選手としてプレーすることを希望して[[1949年]]にイタリアのインテル・ミラノへ移籍しオランダ初のプロサッカー選手となった<ref name="ウィナー25"/><ref name="Vaarwel">{{nl icon}} {{Cite news | url=http://www.vaarwel.nl/register/2502/Servaas-%28Faas%29-Wilkes.html| title= Servaas (Faas) Wilkes | publisher=Vaarwel |accessdate= 2014年1月4日}}</ref>ことでオランダサッカー協会から制裁措置として代表チームから数年間の追放処分を受けた<ref name="ウィナー25"/><ref name="Vaarwel"/>。|group=注}}、好きな監督は[[リヌス・ミケルス]]<ref name="Persoonlijk"/>、苦手な選手としては1974年ワールドカップ決勝で徹底マークを受けた[[ベルティ・フォクツ]]<ref name="Persoonlijk"/>の名を挙げている。

15歳の頃から[[喫煙|ヘビースモーカー]]であり<ref name="サントス335-336">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、335-336頁</ref>、選手時代にはハーフタイム中に体を休める仲間達を尻目に一服していたとの逸話もあった<ref name="サントス335-336"/>。引退し監督になった後も喫煙は続けられベンチで頻繁にタバコをふかす姿が確認されていたが、1991年2月26日に心筋梗塞により倒れ、[[冠動脈大動脈バイパス移植術|バイパス手術]]により一命は取り留めた<ref name="サントス335-336"/>。手術後は医師から[[禁煙]]が言い渡され、タバコの代わりに[[チュッパチャプス]]を舐めるようになった<ref name="サントス335-336"/>。また[[ジャナラリター・デ・カタルーニャ|カタルーニャ州政府]]の依頼により若者の喫煙防止のための[[コマーシャルメッセージ|コマーシャル]]に出演した<ref name="サントス335-336"/>。なお、このコマーシャルは、背広姿のクライフがタバコの箱をボールをリフティングする要領であしらった後に画面外に箱を蹴り出し、最後に若者に向けたメッセージが入るといった内容だった<ref name="サントス335-336"/>。

=== その他 ===
[[ファイル:Johan Cruijf in de GTB Studio.jpg|thumb|200px|1969年、音楽スタジオでレコーディング中のクライフ。]]
* 選手時代は[[プーマ]]社とスポンサー契約を結んでいた<ref name="ウィナー52">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、52頁</ref>。[[1974 FIFAワールドカップ]]のオランダ代表ではオランダサッカー協会が契約していた[[アディダス]]社のサッカーシューズを使用することを拒否し<ref name="ウィナー52"/>、アディダスのシンボルである3本線が入ったユニフォームをクライフだけは2本線に変更して試合に出場していた<ref name="ウィナー52"/>。また監督時代には、自らが設立したスポーツブランド『クライフ・スポーツ』以外のジャージやスーツを着用することを拒否した<ref>[[#木崎、若水、2010|木崎、若水、2010]]、52頁</ref>。
* 1969年に歌手の{{仮リンク|ペーター・クールワイン|nl|Peter Koelewijn}}との共演で''Oei oei oei (dat was me weer een loei)''というシングルを発表した。レコーディングの際にクライフはリズム感を保って歌うことが出来ず[[ブランデー]]入りの[[コーラ (飲料)|コーラ]]を飲んだ上で再びレコーディングを行った<ref>[[#スホッツ、ラウツェン 2009|スホッツ、ラウツェン 2009]]、51頁</ref><ref name="Koelewijn">{{nl icon}} {{Cite news| url = http://www.peterkoelewijn.nl/discografie/produkties/cruyff_johan.html | title= Produkties en/of songs voor Johan Cruyff |publisher= Peter Koelewijn | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>。このシングルはオランダ国内では目立った売り上げを残せなかったが、後にクライフが移籍したスペイン国内で人気を獲得したことから1974年にスペイン語に翻訳されて発売された<ref name="Koelewijn"/>。
* [[ルイ・ファン・ハール]]とは犬猿の仲として知られる<ref name="Goal20111121">{{Cite web | url =http://www.goal.com/jp/news/3637/オランダ/2011/11/21/2766967/クライフ氏らアヤックス理事全員が辞職へ| title =サッカー=クライフ氏らアヤックス理事全員が辞職へ | publisher = Reuters |author= | date =2012年2月10日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>。クライフは機会がある度にファン・ハールの指導方針を批判していたが<ref name="goal20101110">{{Cite web | url =http://www.goal.com/jp/news/73/オランダ/2010/11/10/2206365/ファン・ハール:「クライフを一生許さない」 | title =ファン・ハール:「クライフを一生許さない」 | publisher = Goal.com |author= | date =2010年11月10日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>、クライフの姿勢をファン・ハールも快く考えておらず2010年に「クライフは毎週のように私を無責任に批判し続けバルセロナでの仕事を挫折させようとした」と批判した<ref name="goal20101110"/>。ファン・ハールは仲違いのきっかけについて2009年に出版した自伝の中で「1989年にクライフの家族から[[クリスマス]]のパーティーに招待されたが私の姉妹の容態が急変したため誘いを断った。そのため気まずい関係となった」と告白した<ref name="AD20091011">{{nl icon}} {{Cite news| url = http://www.ad.nl/ad/nl/1053/Primera-Division/article/detail/2070608/2009/10/11/Cruijff-Van-Gaal-heeft-Alzheimer.dhtml | title= Cruijff: Van Gaal heeft Alzheimer | publisher =AD.nl | date=2009年10月11日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>。これに対してクライフはオランダのテレビ局「RTVノールト」の取材に応じ「私は覚えていないが、ファン・ハールは[[アルツハイマー型認知症|アルツハイマー病]]なのだろう。私が解決すべきことは何もない」と発言した<ref name="AD20091011"/>。また『デ・テレフラーフ』誌で連載している自身のコラムの中では「通常であればコメントしたくもないが、家族を守ってきた私の限度や価値観を超えている<ref name="AD20091011"/><ref name="MARCA20091013">{{es icon}} {{Cite news| url = http://www.marca.com/2009/10/13/futbol/futbol_internacional/1255437269.html | title= Cruyff cree que a Van Gaal "le falta un tornillo" | publisher =MARCA.com | date=2009年10月13日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>」と発言した。

== 思想 ==
{{main|ポゼッションフットボール|6×4とロンドのトレーニング}}
選手としても監督としても攻撃的サッカーの信奉者であり<ref name="バーランド、ファンドープ72-73">[[#バーランド、ファンドープ 1999|バーランド、ファンドープ 1999]]、72-73頁</ref>、攻撃をせずに守備を固めるような、美しくないサッカーに価値はないとの思想の持ち主である<ref name="バーランド、ファンドープ72-73"/>。そのため[[カウンターアタック]]に代表される守備的な戦術<ref name="Number plus">{{Cite book|和書|author=エルンスト・ブーベス |chapter=理想から現実へ オランダ躍進、7つの秘密|year=2010|title=[[Sports Graphic Number]] PLUS 完全保存版 南アフリカW杯総集編|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4160081628 |page=102-103頁}}</ref>、中盤を省略してボールポゼッションと相互のコンビネーションを欠いた戦術<ref name="朝日20020701">{{Cite book|和書|author=ヨハン・クライフ |chapter=ブラジルVに思う 目 クライフ 中盤なき攻撃 魅力薄い |title=[[朝日新聞]] |volume=2002年7月1日 15版 4面}}</ref>、一部のスター選手の個人主義と個人技に頼った戦術<ref name="朝日20020701"/>、結果のみを重視する指導者に対しては常に批判的である。こうしたスタイルの実践は退屈なサッカーの横行に繋がるだけで<ref>[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、373頁</ref>サッカーの為にならない<ref>[[#グランヴィル 2002|グランヴィル 2002]]、579頁</ref>と主張しているが、自らの理想とするサッカーを遂行する上で最も重要な要素は走力ではなく頭脳や技術であるとし次のような言葉を残している。
{{Quotation|試合の中でのスピードを維持するために、パスは味方の足下ではなく常に味方の1m先に出さなくてはならない。また、選手Aが選手Bにパスを出す際、3人目の選手CはBからパスが出る場所を予測して走りこむように心がける。サッカーとは頭で考えるスポーツなのだ<ref name="Number plus112-113">{{Cite book|和書|author=[[サイモン・クーパー]]著、田邊雅之訳「大会総括 最先端のサッカーに、天才は必要ない。」|year=2010|title=[[Sports Graphic Number]] PLUS 完全保存版 南アフリカW杯総集編 |publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4160081628 |page=112-113頁}}</ref>。}}
{{Quotation|近年、試合中に最も多くの距離を走った攻撃陣の選手が賞賛される傾向にあるが、私のサッカー観とは相反している。1試合で10kmも攻撃陣の選手が走るのは間違ったポジションを採っていることに他ならない。守備陣の選手は良いとしても攻撃陣の選手が走り回り体力を浪費することは、重要な局面での瞬間的な閃きや判断力が鈍りチームに悪影響を及ぼすことに繋がる<ref>[[#木崎、若水 2010|木崎、若水 2010]]、50-51頁</ref>。}}

この他に、クライフはことある機会に「サッカーとは楽しむものである」という趣旨の言葉を残している<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、22頁</ref><ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、160-161頁</ref><ref name="安藤">{{Cite book|和書 |author=安藤正純 |year=2008 |title=サッカーについて僕たちが本音で語った本 |publisher=[[東邦出版]] |page= 76-79頁 |isbn=978-4809406737 }}</ref>が、現代のサッカー界にはその「楽しさ」が欠けているとして以下の言葉を残している<ref name="安藤"/>。
{{Quotation|現代のサッカーには「楽しさ」が欠けている。子供の頃から、走ること、闘うこと、結果を求めることばかり追求し、基本的な技術すら身に付けないことは馬鹿げている<ref name="安藤"/>。}}
{{Quotation|私が現役の頃はプレーをすることが楽しくてしかたなかったが、時代が変わったのだろうか。顔を引きつらせ拳を握り締めながらプレーする選手はプレーを楽しんではいないし、サッカー選手というよりは[[陸上競技|陸上選手]]である。私は理想主義者だから、サッカー選手を求める<ref>{{Cite book|和書 |author=ヨハン・クライフ著、坂路淳子訳 |chapter=フットボーラーよ聞け! TEXT13 |year=|title=[[週刊サッカーダイジェスト]] |volume= 1995年1月25日号 |publisher=[[日本スポーツ企画出版社]] |page= 110-111 }}</ref>。}}

なお、[[2002 FIFAワールドカップ]]で[[サッカーブラジル代表|ブラジル]]が優勝した際には個々の能力は評価しつつ[[ルイス・フェリペ・スコラーリ]]の採用したカウンター戦術について「[[アンチフットボール]]<ref>{{Cite web |url=http://dailytimes.com.pk/default.asp?page=story_2-7-2002_pg2_18 |archiveurl=http://web.archive.org/web/20120207144927/http://dailytimes.com.pk/default.asp?page=story_2-7-2002_pg2_18|title=Cruyff slams World Cup, accuses Brazil of wrecking football |work=Daily Times |archivedate=2002年7月2日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>」「ボールの出所に[[プレッシング|プレッシャー]]を掛け3-5-2システムの両サイドの選手を守備に忙殺させてしまえば平凡なチーム<ref name="朝日20020701"/>」と評したが、こうした歯に衣着せぬ発言について「率直に考えを述べているだけであって、優勝したこと自体を非難しているのではない。優勝したブラジルには敬意を表したい。ただし、魅力は感じない」と評している<ref name="朝日20020701"/>。

== 影響 ==
=== 選手 ===
[[ファイル:Marco van Basten ACMilan.jpg|thumb|left|180px|1980年代から1990年代に活躍した[[マルコ・ファン・バステン]]はクライフと比較の対象となっていた。]]
クライフの影響を受けていると公言している選手としては、フランスの[[ミシェル・プラティニ]]<ref>{{en icon}} {{Cite news| url = http://fourfourtwo.com/interviews/one-on-one/147/article.aspx | title= Michel Platini - One-On-One - Interviews |publisher=FourFourTwo | date=2008年4月 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>、ドイツの[[ピエール・リトバルスキー]]<ref>{{en icon}} {{Cite news| url = http://www.fifa.com/classicfootball/players/do-you-remember/newsid=950285/index.html | title= Littbarski, dribble ace turned coach |publisher= FIFA.com | date= | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>、ルーマニアの[[ゲオルゲ・ハジ]]<ref>{{en icon}} {{Cite news| url = http://www.uefa.com/memberassociations/association=rou/news/newsid=228135.html | title= Hagi at the heart of golden era |publisher= UEFA.com | date=2011年1月19日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>、ブルガリアの[[フリスト・ストイチコフ]]<ref>{{en icon}} {{Cite news| url = http://www.bbc.co.uk/blogs/jonathanstevenson/2010/09/bulgaria_in_shadow_of_class_of.html | title= Bulgarians remain in shadow of class of '94 |publisher= BBC SPORT | date=2010年9月2日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>、イングランドの[[ポール・ガスコイン]]<ref>{{Cite book|和書|author=[[ポール・ガスコイン]]著、[[東本貢司]]訳|year=2006|title=ガッザの涙-フットボーラーポール・ガスコイン自伝|publisher=カンゼン |page=48 |isbn=978-4901782739 }}</ref>、オランダの[[フランク・ライカールト]]<ref>{{Cite book|和書|author=トニー・フリエロス著、サッカー・プラネット監修、山名洋子訳|year=2008 |title=フランク・ライカールト-狂気を秘めた人格者|publisher=[[東邦出版]] |page=128-129|isbn=978-4809407284 }}</ref>、[[日本]]の[[西野朗]]<ref>{{Cite book|和書 |author=「攻めの美学 西野朗・ガンバ大阪前監督 3 クライフを追い続けてきた」|title=[[朝日新聞]] |volume= 2012年2月14日 13版 16面 }}</ref>らがいる。オランダ代表や所属クラブでも同僚だった[[ヨハン・ニースケンス]]は豊富な運動量とボール奪取能力が持ち味の選手だったが、クライフと同じ「ヨハン」という名前を持つこともあり「ヨハン二世」「第2のヨハン」と呼ばれていた<ref>{{Cite book|和書|author= |year=2006 |title=サッカーマルチ大辞典 改討版 |publisher=ベースボールマガジン社 |page=333 |isbn=978-4583038803 }}</ref>。

また1980年代から1990年代にはオランダの[[マルコ・ファン・バステン]]が「クライフの再来」として紹介されたことがあり<ref>{{Cite book|和書 |chapter="キング"の座を狙え! 世界に君臨するマラドーナに挑む3人の刺客たち |title=サッカーマガジン |volume=1990年6月号 |publisher=ベースボールマガジン社 |page=106-107}}</ref>、しばしば比較の対象となっていた<ref name="サカマガ199006">{{Cite book|和書 |chapter=1992年欧州年間最優秀選手決定 ファンバステン3度目の受賞 クライフ、プラティニに並ぶ |title=サッカーマガジン |volume=1992年2月21日号 |publisher=ベースボールマガジン社 |page=174-175}}</ref>。クライフとファン・バステンは同じポジションでプレーし共に高い能力を持ち合わせていたが<ref name="サカマガ199006"/>、クライフがピッチ全体を幅広く動き回り[[指揮者]]の様に振舞ったのに対し<ref name="サカマガ199006"/>、ファン・バステンは得点を挙げることにプレーを特化させるなど<ref name="サカマガ199006"/>、両者のスタイルは明確に異なっていた<ref name="サカマガ199006"/>。ファン・バステンはクライフとの比較について[[1992年]]の[[バロンドール]]授賞式の際に「クライフは私以上の才能と強さを持ち、ドリブラーでありストライカーでもある万能型の選手だ。そして日々のトレーニングにも励む努力家でもあった。クライフとの比較は名誉なことだが、私が彼に並ぶことは決してない」と評した<ref>{{Cite book|和書 |chapter=ファンバステン三度目の受賞 クライフ、プラティニに並ぶ |title=サッカーマガジン |volume= 1993年2月21日号 | publisher=ベースボールマガジン社 |page= 174-175 }}</ref>。

[[ブラジル]]のサッカー指導者の[[レヴィー・クルピ]]は[[セレッソ大阪]]時代に指導した日本の[[香川真司]]のプレーについて「香川はピッチのあらゆる場所に現れ、相手の守備陣をすり抜け、シュートを放ち得点を決める。さながら1974年のクライフを思い出させる」としてクライフとの類似性を指摘している<ref name="サッカーキング20120828">{{Cite web| url = http://www.soccer-king.jp/news/world/eng/20120828/68253.html | title= 香川の恩師クルピ監督「シンジは1974年のヨハン・クライフのようだ」|publisher=サッカーキング | date=2012年8月28日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>。

=== 指導者 ===
==== スペイン ====
{{main|ラ・マシア|ティキ・タカ}}
[[ファイル:Manager Josep Guardiola.jpg|thumb|upright|200px|[[ジョゼップ・グアルディオラ]]は「クライフが現代サッカーの基礎を作った」と評している。]]
バルセロナの監督時代に志向した<ref name="Telegraph">{{en icon}} {{Cite news|authorlink=Roberto Martinez |title=World Cup final: Johan Cruyff sowed seeds for revolution in Spain's fortunes |url=http://www.telegraph.co.uk/sport/football/teams/spain/7883131/World-Cup-final-Johan-Cruyff-sowed-seeds-for-revolution-in-Spains-fortunes.html |date=2010年7月11日 |accessdate=2014年1月4日|work=Telegraph.co.uk }}</ref>、パスを繋ぎボール支配率を高めることで試合の主導権を握り続ける、攻撃的なサッカースタイルは、監督が代わった後も下部組織([[カンテラ]])を通じてクラブのサッカースタイルとして浸透した<ref name="asahi"/><ref name="Telegraph"/><ref name="サカマガ20100727">{{Cite book|和書 |author=北條聡 |chapter=クライフ主義か反クライフ主義か 遺伝子を巡る『兄弟対決』|year= |title=週刊サッカーマガジン |volume=2010年7月27日号|publisher=ベースボールマガジン社 |page= 10-11 }}</ref><ref name="スポーツナビ20110711">{{Cite news|authorlink=セルヒオ・レビンスキー |title=W杯の勝者はオランダサッカー 決勝プレビュー |url=http://sportsnavi.yahoo.co.jp/sports/soccer/wcup/10southafrica/columndtl/201007100004-spnavi |publisher= スポーツナビ |date=2010年7月11日 |accessdate=2014年1月4日}}</ref>。監督時代の教え子である[[ジョゼップ・グアルディオラ]]は[[2008年]]から[[2012年]]までチームを率いてドリームチームの打ち立てたタイトル獲得数を上回る結果を残したがグアルディオラ指揮下のバルセロナでは、通常であれば守備時には自陣へ下がりゴール前に守備ブロックを形成し相手の攻撃に対処するのに対し<ref name="バルサ観戦術">{{Cite book|和書 |chapter=バルサ観戦術 最強集団の取説123 |year= |title=週刊サッカーマガジン |volume=2011年12月27日号|publisher=ベースボールマガジン社 |page= 23 }}</ref>、相手にボールを奪われた際には即座に複数の選手でチェックを掛けて相手陣内にいる内にボールを奪い返し<ref name="バルサ観戦術"/>、奪い返せない際にもパスコースを限定させミスを誘発させ奪い返す前線からの積極的な守備を採用することで<ref name="サカマガ20111227"/><ref name="バルサ観戦術"/>、クライフ時代に欠点と言われた守備面の修正を施した<ref name="サカマガ20111227"/>。

このことから、ドリームチーム時代の主力選手である[[ロナルド・クーマン]]は「チームとしての安定度と守備組織において、グアルディオラが率いるチームはかつてのドリームチームより優れている」と評したが<ref>{{cite news|authorlink= |title=バルセロナOBのクーマン氏「グアルディオラ監督のチームは“ドリーム・チーム”より優れている」|url=http://www.wowow.co.jp/sports/liga/news_110506_1.html |date=2011年5月6日 |accessdate=2014年1月4日|work=WOWOWオンライン}}</ref>、クライフは「グアルディオラの成功はカンテラ出身の選手が多く存在するからこそ可能なのであり、20年に渡るサイクルの一つに過ぎない。2つのチームを比較して優劣を決めるより、20年という長いサイクルにおいての成功について評価するべきだ」と評した<ref name="Goal.com">{{Cite news |title=クライフ氏:「バルサの哲学の成功」バルサのサイクルは20年前から始まったとの見解 |url=http://www.goal.com/jp/news/73/スペイン/2011/05/16/2489233/クライフ氏:「バルサの哲学の成功」 |work=Goal.com|date=2011年5月16日 |accessdate=2014年1月4日}}</ref>。

また[[シャビ]]や[[アンドレス・イニエスタ]]、[[フランセスク・ファブレガス]]といったバルセロナのカンテラ出身選手を多数擁する2000年代以降の[[サッカースペイン代表|スペイン代表]]はバルセロナのサッカースタイルを模倣しているとも言われ<ref name="サカマガ20100727"/><ref name="スポーツナビ20110711"/><ref>{{Cite news|url=http://www.nytimes.com/2010/07/10/sports/soccer/10iht-WCSOCCER.html|title=Talent to Spare, but There’s Only One Trophy|first=Rob|last=Hughes|date=2010年7月9日|work=New York Times |accessdate=2014年1月4日}}</ref>、同代表チームが[[2006 FIFAワールドカップ]]に出場した際に見せたパスを丁寧に繋ぐサッカーはスペイン国内で「[[ティキ・タカ]]」 (tiqui-taca) として紹介されると<ref name="スポーツナビ">{{Cite web | url =http://archive.sportsnavi.yahoo.co.jp/soccer/euro/08/text/200806300011-spnavi.html | title =永遠に続くフットボール巡礼の旅 ドイツ 0-1 スペイン | publisher = スポーツナビ |author=中田徹 | date =2012年7月7日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>、やがてヨーロッパ中にその名が知れ渡るようになった<ref name="スポーツナビ"/>。ティキ・タカとは[[玩具]]の[[アメリカンクラッカー]]を鳴らす時に発生する音を字句で表した[[擬声語]]である<ref>{{cite book |title=The linguistics of football|page=354 |year=2008 |publisher=Gunter Narr Verlag |isbn=978-3-8233-6398-9 }}</ref>。同代表チームは[[UEFA EURO 2008]]では[[ルイス・アラゴネス]]、[[2010 FIFAワールドカップ]]や[[UEFA EURO 2012]]では[[ビセンテ・デル・ボスケ]]に率いられて、それぞれ優勝を果たしたが、前述の「ティキ・タカ」は代表チームのサッカースタイルとして継承されている<ref name="Telegraph"/>。

==== オランダ ====
[[ルイ・ファン・ハール]]は1991年からアヤックスの監督に就任するとクライフ監督時のシステムに修正を施した3-4-3システムを採用<ref name="長坂162"/>。選手に組織立ったプレーと規律を徹底させ<ref name="長坂162"/>、国内リーグ3連覇を果たし国際舞台においても[[UEFAカップ1991-92]]優勝や[[UEFAチャンピオンズリーグ 1994-95]]優勝に導いた。1997年からはバルセロナの監督に就任し、アヤックス時代に育成した多くの教え子達を加入させて重用し組織的サッカーを実践したが、クライフ以上にシステムや個々の役割にこだわり<ref name="Number797"/>、選手の才能よりも自らのゲームプランを遂行させることを重視した<ref name="Number797"/>。クライフはファン・ハールの監督としての実績は認めながらも、指導方針については「彼のサッカーに対する哲学と私の哲学とは相反する<ref>[[#サントス 2002|サントス 2002]]、230頁</ref>」「私は現場でのプレーの実践こそが基本と考えているが、彼は自らの理論とデスクワークに時間を費やす。最良の指導とは戦術の講義ではなく、ピッチ上でプレーを実践し学習することだ<ref name="サントス231-232">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、231-232頁</ref>」と否定的な立場を採っている。

[[フース・ヒディンク]]はオランダ代表監督として[[1998 FIFAワールドカップ]]で指揮を執り同国を1978年大会以来20年ぶりのベスト4進出へと導いたが、その際に「このチームの強さは1974年大会のチームと異なり、クライフのような1人の選手に依存しない点にある」と評した<ref>[[#グランヴィル 2002|グランヴィル 2002]]、576-577頁</ref>。

[[2007年]]にU-21オランダ代表監督を務めていた{{仮リンク|フォッペ・デ・ハーン|en|Foppe de Haan}}が「クライフの主唱する前線に2人のウィンガーを配するシステムは時代遅れであり現代サッカーには適さない」と主張しクライフとの間で論争が行われた<ref name="ウィナー372-373">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、372-373頁</ref>。デ・ハーンは持論に従い4-4-2フォーメーションを採用して[[UEFA U-21欧州選手権]]において優勝に導いたことで世論の支持を集め<ref name="ウィナー374-375">[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、374-375頁</ref>、オランダ代表においてもこのフォーメーションを採用するべきだとの批判が沸き起こった<ref name="ウィナー374-375"/>。また、ファン・バステンの率いたオランダ代表の[[UEFA EURO 2008]]での敗退やデ・ハーンとの論争を受けて、評論家の{{仮リンク|ヘンク・スパーン|nl|Henk Spaan}}や[[サイモン・クーパー]]らもクライフの思想を批判した<ref name="ウィナー372-373"/><ref>[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、375-376頁</ref>。

ファン・バステンの後任としてオランダ代表監督に就任した[[ベルト・ファン・マルワイク]]も同様に4-2-3-1フォーメーションとカウンター攻撃を採用したが<ref name="Number plus">{{Cite book|和書|author=エルンスト・ブーベス |chapter=理想から現実へ オランダ躍進、7つの秘密|year=2010|title=[[Sports Graphic Number]] PLUS 完全保存版 南アフリカW杯総集編|publisher=[[文藝春秋]]|isbn=978-4160081628 |page=102-103}}</ref>、こうしたオランダ代表の傾向についてクライフは一定の理解を示す一方で、「美しくない」と批判的な立場を執っていた<ref name="サカマガ20100727"/><ref name="Number plus"/>。[[2010 FIFAワールドカップ・決勝]]ではスペインとオランダというクライフの影響を受けた代表チーム同士が対戦しスペインが勝利したが、クライフは「スペインの勝利は私の思想が間違いではなかったことを証明した」と評した<ref name="サカマガ20100727"/>。

==== その他 ====
[[アルゼンチン]]の[[ホルヘ・バルダーノ]]はクライフに追随し[[1990年代]]に[[CDテネリフェ]]や[[レアル・マドリード]]を率いて攻撃的なスタイルを標榜したが、クライフは「彼は友人であり私と近いコンセプトを持ち合わせている。われわれは魅力的なサッカーを披露しつつ結果を残す、という理想を信じることのない人々と立ち向かっているのだ」と評した<ref name="サントス144">[[#サントス 2002|サントス 2002]]、144頁</ref>。

[[2000年代]]以降、クライフの用いた3-4-3フォーメーションは欧米の主要リーグで見られることは少ないと言われているが<ref name="サッカー批評52">{{Cite book|和書|author=河治良幸 |chapter= 検証3-4-3 ザッケローニの3-4-3は日本の武器になり得るのか? 前篇|title=[[サッカー批評]]|volume=issue 52|year=2010|publisher=[[双葉社]] |page=49-50}}</ref>、アルゼンチンの[[マルセロ・ビエルサ]]や[[イタリア]]の[[アルベルト・ザッケローニ]]のように3-4-3フォーメーションを堅守速攻型の戦術として運用する指導者もいる<ref name="サッカー批評52"/>。クライフが攻撃に特化しパスを繋ぎ常に自分達のチームがボールを保持して試合の主導権を握ることを求めたのに対し、ビエルサは3-4-3フォーメーションを変形させた3-3-1-3フォーメーションを用い全選手が攻守に連動することで主導権を握ることを求めている<ref name="サッカー批評52"/>。一方、ザッケローニの3-4-3は元々は4-4-2フォーメーションを発展させたもので中盤を横一列に配置した変則的な3-4-3フォーメーションが特徴だが<ref>{{Cite book|和書|author=北條聡 |chapter= 戦術解説 ザック流フットボールとは何か?|title=サッカーマガジン|volume=2010年9月21日号|publisher=ベースボールマガジン社 |page=14-15}}</ref>、豊富な運動量をベースに同サイドのフォワード、サイドハーフ、セントラルミッドフィールダーが絡んだサイド攻撃を重視した<ref name="サッカー批評52"/>。

== 評価 ==
=== 選手 ===
選手としては[[アルフレッド・ディ・ステファノ]]<ref name="encyclopedia"/>、[[ペレ]]<ref name="encyclopedia"/>、[[ディエゴ・マラドーナ]]<ref name="encyclopedia"/>、[[フランツ・ベッケンバウアー]]<ref>[[#ピ 2000|ピ 2000]]、72頁</ref>らと並んでサッカー史上に名を残す選手と評される。[[オランダ]]国内では芸術家の[[レンブラント・ファン・レイン]]に例え「自らを芸術家として意識し、サッカー競技という芸術を確立させた最初の選手」と評する者もいる<ref>[[#ウィナー 2008|ウィナー 2008]]、52頁</ref>。一方、選手として成功を収めるとそれまでのプレーが影を潜め100%のプレーを発揮することはなくなったとの指摘もあり<ref name="ストライカー19930717"/>、[[イギリス]]のサッカー専門家のエリック・バッティは「1972年のチャンピオンズカップ決勝がクライフの選手としてのピークであり、バルセロナ時代にバイスバイラー監督と衝突した原因は試合時のサボり癖によるものだった」と評している<ref name="ストライカー19930717"/>。

=== 指導者 ===
監督としても[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]で[[UEFAヨーロッパリーグ|UEFAカップ]]優勝、[[FCバルセロナ|バルセロナ]]では[[エル・ドリーム・チーム|ドリームチーム]]と呼ばれるタレント集団を指揮し[[リーガ・エスパニョーラ|国内リーグ]]4連覇や[[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]]優勝などの実績を残した<ref name="encyclopedia"/>。なお、選手と監督の双方でUEFAチャンピオンズカップ(後身のUEFAチャンピオンズリーグを含む)で優勝した経験を持つ人物は[[ミゲル・ムニョス]]、[[ジョバンニ・トラパットーニ]]、クライフ、[[カルロ・アンチェロッティ]]、[[フランク・ライカールト]]、グアルディオラの6人のみである<ref>{{nl icon}} {{Cite web| url = http://www.vi.nl/nieuws/164753/Bara-evenaart-Ajax-en-PSV,-Guardiola-kopieert-Cruijff.htm | title= Barca evenaart Ajax en PSV, Guardiola 'kopieert' Cruijff |publisher= Voetbal International | date=2009年5月21日 | accessdate = 2014年1月4日}}</ref>。優勝などの実績を残しただけでなく世界各国の優秀な選手を獲得しつつ下部組織の優秀な選手を発掘し、「観客を楽しませながら選手も試合を楽しみ、なおかつ結果を残す」[[エンターテインメント]]性のあるサッカーを実践したと評されている<ref name="サントス144"/>。かつてのドリームチームの一員である[[ルイス・ミジャ]]や[[ジョゼップ・グアルディオラ]]は次のように評している。
{{Quotation|あの当時は慎重に試合を進めるサッカーが全盛の時代だったが、クライフに率いられたドリームチームが攻撃的なスタイルで勝利しタイトルを獲得できることを証明した。結果を残したことでサッカーファンが求める「サッカーとは、いかなるスポーツか」との質問への回答を一変させたのだ<ref name="number767">{{Cite book|和書
|author=横井信幸 |chapter=クライフを神にした伝説のクラシコ |title=[[Sports Graphic Number]] |volume=767号 |year=2010 |publisher=[[文藝春秋]] |page=174 }}</ref>。|ルイス・ミジャ}}
{{Quotation|クライフが現代サッカーの基礎を作り、バルセロナの基礎を作った。それを引き継いで発展させることは、彼に続く指導者達の役割である<ref>{{Cite book|和書|author=フアン・カルロス・クベイロ、レオノール・ガジャルド著、今井健策訳 |year=2011 |title=グアルディオラのサッカー哲学 |publisher=[[実業之日本社]] |page= 65 |isbn=978-4408453248 }}</ref>。|ジョゼップ・グアルディオラ}}
一方、専門家のエリック・バッティは「最も重要な試合の際にクライフは結果のためだけの慎重な試合をしていた」と指摘している<ref>{{Cite book|和書 |author=エリック・バッティ |chapter=エリック・バッティのTHE LEGEND 歴史を作ったスゴイ奴 第11回 ヨハン・クライフ(後)|title=ストライカー |volume=1993年8月1日号 |publisher=学習研究社 |page=66-67}}</ref>。

== 個人成績 ==
=== クラブでの成績 ===
1983-84シーズン終了時の成績<ref name="ajax"/><ref>{{en icon}} {{Cite news| url = http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-barca | title= Playing for FC Barcelona |publisher= Cruijff.com | accessdate = 2014年1月4日}}</ref><ref>{{en icon}} {{Cite news| url = http://www.cruyff.com/asp/eng/info.asp?page=speler-ameri | title= Playing for United States |publisher= Cruijff.com | accessdate =2014年1月4日}}</ref><ref name="Levante"/><ref name="Feyenoord"/>
{{Football player statistics 1|NY}}
|-
|-
|1964-65||rowspan="10"|{{flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]||rowspan="10"|[[エールディヴィジ]]||10||4||0||0||0||0||10||4
|1968-69||||29||24||3||3||10||6
|-
|-
|1969-70||||33||23||5||6||8||4
|1965-66||19||16||4||6||0||0||23||22
|-
|-
|1970-71||||25||21||6||5||6||1
|1966-67||30||33||5||5||6||3||41||41
|-
|-
|1971-72||||32||25||4||3||9||5
|1967-68||33||25||5||6||2||1||40||32
|-
|1968-69||29||24||3||3||10||6||42||33
|-
|-
|1972-73||||26||16||0||0||6||3
|1969-70||33||23||5||6||8||4||46||33
|-
|-
|1973-74||||2||3||0||0||0||0
|1970-71||25||21||6||5||6||1||37||27
|-
|-
|1971-72||32||25||4||3||9||5||45||33
|1973-74||rowspan="5"|[[FCバルセロナ]]||rowspan="5"|[[プリメーラ・ディビシオン|プリメーラ]]||||26||16||12||8||0||0
|-
|-
|1974-75||||30||7||12||7||8||0
|1972-73||26||16||0||0||6||3||32||19
|-
|-
|1975-76||||29||6||10||3||9||2
|1973-74||2||3||0||0||0||0||2||3
|-
|-
!colspan="3"|小計
|1976-77||||30||14||9||6||7||5
!239!!190!!32!!34!!47!!23!!318!!247
|-
|1973-74||rowspan="5"|{{flagicon|ESP}} [[FCバルセロナ]]||rowspan="5"|[[プリメーラ・ディビシオン|プリメーラ]]||26||16||12||8||0||0||38||24
|-
|-
|1977-78||||28||5||7||1||10||5
|1974-75||30||7||12||7||8||0||50||14
|-
|-
|1975-76||29||6||10||3||9||2||48||11
|1979||[[ロサンゼルス・アズテックス|ロサンゼルス]]||rowspan="2"|[[北米サッカーリーグ|NASL]]||||27||14||-||-||-||-
|-
|-
|1976-77||30||14||9||6||7||5||46||25
|1980||[[ワシントン・ディプロマッツ|ワシントン]]||||27||10||-||-||-||-
|-
|-
|1977-78||28||5||7||1||10||5||45||11
|1980-81||[[レバンテUD|レバンテ]]||[[セグンダ・ディビシオン|セグンダ]]||||10||2||0||0||0||0
|-
|-
!colspan="3"|小計
|1981||ワシントン||NASL||||5||2||-||-||-||-
!143!!48!!50!!25!!34!!12!!227!!85
|-
|1979||{{flagicon|USA}} [[ロサンゼルス・アズテックス|ロサンゼルス]]||[[北米サッカーリーグ|NASL]]||27||14||colspan="2"|-||colspan="2"|-||27||14
|-
|-
!colspan="3"|小計
|1981-82||rowspan="2"|アヤックス||rowspan="3"|エールディヴィジ||||15||7||1||0||0||0
!27!!14!!0!!0!!0!!0!!27!!14
|-
|1980||{{flagicon|USA}} [[ワシントン・ディプロマッツ|ワシントン]]||NASL||27||10||colspan="2"|-||colspan="2"|-||27||10
|-
|-
!colspan="3"|小計
|1982-83||||21||7||7||2||2||0
!27!!10!!0!!0!!0!!0!!27!!10
|-
|1980-81||{{flagicon|ESP}} [[レバンテUD|レバンテ]]||[[セグンダ・ディビシオン|セグンダ]]||10||2||0||0||0||0||10||2
|-
|-
!colspan="3"|小計
|1983-84||[[フェイエノールト]]||||33||11||7||1||4||1
!10!!2!!0!!0!!0!!0!!10!!2
|-
|1981||{{flagicon|USA}} [[ワシントン・ディプロマッツ|ワシントン]]||NASL||5||2||colspan="2"|-||colspan="2"|-||5||2
|-
|-
!rowspan="4"|通算
!colspan="3"|小計
!5!!2!!0!!0!!0!!0!!5!!2
!colspan="3"|オランダ・エールディヴィジ||308||215||48||40||29||21
|-
|1981-82||rowspan="2"|{{flagicon|NED}} [[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]||rowspan="2"|エールディヴィジ||15||7||1||0||0||0||16||7
|-
|-
|1982-83||21||7||7||2||2||0||30||9
!colspan="3"|スペイン・[[プリメーラ・ディビシオン]]||143||48||50||25||34||12
|-
|-
!colspan="3"|小計
!colspan="3"|スペイン・[[セグンダ・ディビシオン]]||10||2||0||0||0||0
!36!!14!!8!!2!!2!!0!!46!!16
|-
|1983-84||{{flagicon|NED}} [[フェイエノールト]]||エールディヴィジ||33||11||7||1||4||1||44||13
|-
|-
!colspan="3"|アメリカNASL||59||26||-||-||-||-
!colspan="3"|小計
!33!!11!!7!!1!!4!!1!!44!!13
|-
{{Football player statistics 3|3|NED}} 308 || 215 || 47 || 37 || 53 || 24 || 408 || 276
{{Football player statistics 4|ESP}} 153 || 50 || 50 || 25 || 34 || 12 || 237 || 87
{{Football player statistics 4|USA}} 59 || 26 ||colspan="2"|-||colspan="2"|-|| 59 || 26
{{Football player statistics 5}}520|| 291 || 97 || 62 || 87 || 36 || 704 || 389
{{Football player statistics end}}

=== 代表での成績 ===
オランダ代表として最後の試合となった1977年10月26日のベルギー戦までの出場数<ref name="rsssf"/>
{| class="wikitable" style="text-align: center;"
|- style="background:beige"
!rowspan="2"|チーム
!rowspan="2"|年
!colspan="2"|公式戦
!colspan="2"|親善試合
!colspan="2"|合計
|- style="background:beige"
!出場
!得点
!出場
!得点
!出場
!得点
|-
|rowspan="12"|{{NED|fb}}
|1966
| 1 || 1 || 1 || 0 || 2 || 1
|-
|1967
| 2 || 1 || 1 || 0 || 3 || 1
|-
|1968
| 0 || 0 || 1 || 0 || 1 || 0
|-
|1969
| 2 || 1 || 1 || 0 || 3 || 1
|-
|1970
| 0 || 0 || 2 || 2 || 2 || 2
|-
|1971
| 3 || 5 || 1 || 1 || 4 || 6
|-
|1972
| 2 || 2 || 3 || 3 || 5 || 5
|-
|1973
| 4 || 5 || 2 || 1 || 6 || 6
|-
|1974
| 9 || 7 || 3 || 1 || 12 || 8
|-
|1975
| 2 || 0 || 0 || 0 || 2 || 0
|-
|1976
| 4 || 2 || 0 || 0 || 4 || 2
|-
|1977
| 3 || 1 || 1 || 0 || 4 || 1
|- style="background:beige"
!colspan="2"|通算
! 32 || 25 || 16 || 8 || 48 || 33
|-
|-
! colspan="4" | 合計 !!520!!293!!98!!65!!88!!37
|}
|}


オランダ代表として最後の試合となった1977年10月26日のベルギー戦までの得点数<ref name="rsssf"/>
<!--
{| class="wikitable" style="text-align: lleft;"
2年半ほど経っているのに出典がないままのようですので、一度コメントアウトします。出典があるもののみ、復帰させていくのがいいかと思います。
! # !! 開催日 !! 開催地 !! 対戦チーム !! スコア !! 結果 !! 試合概要
== 語録 ==
|-
{{出典の明記|section=1|date=2008年5月}}
| 1. || 1966年9月7日 || [[オランダ]]、[[ロッテルダム]] || {{HUN1957f}} || 2-0 || 2-2 ||rowspan="2"| [[UEFA欧州選手権1968予選]]
クライフはフットボールを語る際の、その独特の言い回しで数々の至言・名言を発している。また言葉遣いが独特なため記者達からは「クライフはオランダ語も英語もスペイン語も、何語で喋っても分かりづらい」と言われることがある。
|-
* 「サッカーは間違いのゲームだ。間違いの少ないチームが勝つ」
| 2. || 1967年9月13日 || オランダ、[[アムステルダム]] || {{fb|DDR}} || 1-0 || 1-0
* 「美しく敗れる事を恥と思うな、無様に勝つことを恥と思え」
|-
* 「『W杯と最優秀選手賞のどちらが欲しいか』と聞かれたら、私は迷わず最優秀選手賞が欲しいと答える。理由は簡単だ。優勝したチームが魅力的だとは限らない、だが最優秀選手賞は世界で一番魅力的なフットボールをした選手に贈られるものだから」
| 3. || 1969年3月26日 || オランダ、ロッテルダム || {{fb|LUX}} || 1-0 || 4-0 || [[1970 FIFAワールドカップ・予選|1970 FIFAワールドカップ予選]]
* 「[[FCバルセロナ|バルセロナ]]に移籍するか、そうでなければ私はフットボール界から引退する」 ―アヤックスからの移籍が揉めた際に発したコメント
|-
* 「1-0で守り切って勝つより、4-5で攻め切って負ける方が良い」
| 4. ||rowspan="2"| 1970年12月2日 ||rowspan="2"| オランダ、アムステルダム ||rowspan="2"| {{ROM1965f}} || 1-0 ||rowspan="2"| 2-0 ||rowspan="2"| 親善試合
* 「ワンタッチこそ最高の技術だ」
|-
* 「ダメな奴らが走るんだ。相手をもっと走らせろ」
| 5. || 2-0
* 「月並みなやり方をするくらいなら、自分のアイデアと共に心中した方がマシだ」
|-
* 「いくら技術に優れ、スーパースターでも…、その上には、勝者が、チャンピオンがいる…」 ―1974年W杯決勝戦後のコメント。「スーパースター」とはクライフ自身を指し、「勝者・チャンピオン」とは同大会で優勝したベッケンバウアー率いる西ドイツ代表チームのこと
| 6. ||rowspan="2"| 1971年2月24日 ||rowspan="2"| オランダ、ロッテルダム ||rowspan="2"| {{fb|LUX}} || 3-0 ||rowspan="2"| 6-0 ||rowspan="5"| [[UEFA欧州選手権1972予選]]
* 「だって9番といえば[[アルフレッド・ディ・ステファノ|ディ・ステファノ]]。10番は[[ペレ]]。私がそんな番号付けたら紛らわしいじゃないか」 ―どうして14番なんて番号を選んだのか?と聞かれた時のコメント
|-
* 「[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]とは[[サグラダ・ファミリア]]のようなもの。どちらも1日でできあがるわけではない」
| 7. || 4-0
* 「ボールを回せ、ボールは汗をかかない」
|-
* 「フットボールでは100mより30mから40mを速く走ることが重要。だがもっと重要なのは『いつ』走るかだ」
| 8. ||rowspan="3"| 1971年11月17日 ||rowspan="3"| オランダ、[[アイントホーフェン]] ||rowspan="3"| {{fb|LUX}} || 1-0 ||rowspan="3"| 8-0
* 「私はフットボールを始めて以来多くの選手を見てきたが、みんな私より下手だった。私は下手な選手を誰よりも見続けてきた。だから彼らの気持ちはよくわかる」
|-
* 「私は新しいディ・ステファノになれるかもしれないが、新しいペレにはなれない。彼は唯一、理論を越えている」
| 9. || 8-0
* 「理想のフットボールとは、常に勝ち続けること。スペクタクルでファンタスティックなプレーで」
|-
* 「フットボールの試合は、まず観客を楽しませなければならない」
| 10. || 7-0
* 「私が思い出すのは、私が一番優れていたことだけだ」
|-
* 「ボール無しでもゲームを支配することは可能だし、ボール有りでも可能である」
| 11. || 1971年12月1日 || オランダ、アムステルダム || {{fb|SCO}} || 1-0 || 2-1 ||rowspan="4"| 親善試合
* 「[[イングランド]]のフットボールは見ている分には最もおもしろい。選手が危険を冒し、たくさんミスをするからだ」
|-
* 「まずボールをコントロールする、それがすべての基盤だ。もしボールをコントロールできないなら、ボールを追って走る事になる。それは別のスポーツだ」
| 12. ||rowspan="2"| 1972年2月16日 ||rowspan="2"| [[ギリシャ]]、[[アテネ]] ||rowspan="2"| {{GRE1928f}} || 3-0 ||rowspan="2"| 5-0
* 「良い監督は、あるプレーヤーの短所を別のプレーヤーの長所でカモフラージュする」
|-
* 「才能ある若手にこそ挫折を経験させなければならない。 挫折はその選手を成長させる最大の良薬だからである」
| 13. || 5-0
* 「ボールを持てば私が主役だ。決定するのは私で、だから創造するのは私だ」
|-
* 「本当に素晴らしいフットボールは、国境を越え、自分の属する国籍までも忘れさせ、人々を熱狂させる。外交官や政治家に出来ないことを、フットボールはやってのけられるんだ」
| 14. || 1972年8月30日 || [[チェコスロバキア]]、[[プラハ]] || {{fb|TCH}} || 1-0 || 2-1
* 「人間は失敗することでしか学べない。大事な場面でミスを起こしたくないのなら、一度そのミスを起こすしか無い。」
-->
|-
| 15. ||rowspan="2"| 1972年11月1日 ||rowspan="2"| オランダ、ロッテルダム ||rowspan="2"| {{fb|NOR}} || 4-0 ||rowspan="2"| 9-0 ||rowspan="2"| [[1974 FIFAワールドカップ・予選|1974 FIFAワールドカップ予選]]
|-
| 16. || 8-0
|-
| 17. || 1973年5月2日 ||rowspan="3"| オランダ、アムステルダム || {{ESP1945f}} || 3-2 || 3-2 || 親善試合
|-
| 18. ||rowspan="2"| 1973年8月22日 ||rowspan="4"| {{fb|ISL}} || 2-0 ||rowspan="2"| 5-0 ||rowspan="5"| 1974 FIFAワールドカップ予選
|-
| 19. || 5-0
|-
| 20. ||rowspan="2"| 1973年8月29日 ||rowspan="2"| オランダ、[[デフェンテル]] || 2-0 ||rowspan="2"| 8-1
|-
| 21. || 4-0
|-
| 22. || 1973年9月12日 || [[ノルウェー]]、[[オスロ]] || {{fb|NOR}} || 1-0 || 2-1
|-
| 23. ||rowspan="2"| 1974年6月26日 ||rowspan="2"| [[西ドイツ]]、[[ゲルゼンキルヒェン]] ||rowspan="2"| {{fb|ARG}} || 1-0 ||rowspan="2"| 4-0 ||rowspan="3"| [[1974 FIFAワールドカップ]]
|-
| 24. || 4-0
|-
| 25. || 1974年7月日 || 西ドイツ、[[ドルトムント]] || {{fb|BRA}} || 2-0 || 2-0
|-
| 26. || 1974年9月4日 || [[スウェーデン]]、[[ストックホルム]] || {{fb|SWE}} || 1-0 || 5-1 || 親善試合
|-
| 27. ||rowspan="2"| 1974年9月25日 ||rowspan="2"| [[フィンランド]]、[[ヘルシンキ]] ||rowspan="2"| {{fb|FIN}} || 1-1 ||rowspan="2"| 3-1 ||rowspan="5"| [[UEFA欧州選手権1976予選]]
|-
| 28. || 2-1
|-
| 29. ||rowspan="2"| 1974年11月20日 ||rowspan="2"| オランダ、ロッテルダム ||rowspan="2"| {{fb|ITA}} || 2-1 ||rowspan="2"| 3-1
|-
| 30. || 3-1
|-
| 31. || 1976年5月22日 || [[ベルギー]]、[[ブリュッセル]] || {{fb|BEL}} || 2-1 || 2-1
|-
| 32. || 1976年10月13日 || オランダ、ロッテルダム || {{fb|NIR}} || 2-1 || 2-2 ||rowspan="2"| [[1978 FIFAワールドカップ・予選|1978 FIFAワールドカップ予選]]
|-
| 33. || 1977年3月26日 || ベルギー、[[アントウェルペン]] || {{fb|BEL}} || 2-0 || 2-0
|}

=== 監督成績 ===
{{updated|2013年1月2日}}<ref>{{nl icon}} {{Cite web |url=http://leden.ajax.nl/web/show/id=65486|archiveurl=http://web.archive.org/web/20120406203110/http://leden.ajax.nl/web/show/id=65486|title=Johan Cruijff |publisher=ajax.nl|archivedate=2012年4月6日|accessdate=2014年1月4日}}</ref><ref>{{es icon}} {{Cite web |url=http://www.fcbarcelona.cat/web/downloads/diari/pdf/2009-2010/DIARI_BCN_97_FCB-RACING_BAIXA.pdf|title=Tècnics que han superat els 100 partits|publisher=Barça Camp Nou|format=PDF|page=9|accessdate=2014年1月4日}}</ref>
{| class="wikitable" style="text-align: center"
! rowspan="2!" style="width:150px;"|チーム
! rowspan="2!" style="width:50px;"|国
! rowspan="2!" style="width:90px;"|就任
! rowspan="2!" style="width:90px;"|退任
!colspan=8|記録
|-
!width=40|試合
!width=40|勝利
!width=40|引分
!width=40|敗戦
!width=50|勝率
|-
|align="left"|[[アヤックス・アムステルダム|アヤックス]]
|{{flagicon|NED}}
|align="left"|1985年6月
|align="left"|1988年1月
{{WDL|117|86|10|21}}
|-
|align="left"|[[FCバルセロナ]]
|{{flagicon|ESP}}
|align="left"|1988年5月
|align="left"|1996年5月
{{WDL|430|250|97|83}}
|-
|align="left"|[[サッカーカタルーニャ選抜|カタルーニャ選抜]]
|{{flagicon|CAT}}
|align="left"|2009年11月
|align="left"|2013年1月
{{WDL|4|2|2|0}}
|-
!colspan="4"|合計
{{WDLtot|551|338|109|104}}
|}

== 獲得タイトル ==
=== 選手 ===
;アヤックス
* [[エールディヴィジ]] (8) : 1965–66, 1966–67, 1967–68, 1969–70, 1971–72, 1972–73, 1981–82, 1982–83
* [[KNVBカップ]] (5) : 1966–67, 1969–70, 1970–71, 1971–72, 1982–83
* [[UEFAインタートトカップ]] (1) : 1968
* [[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]] (3) : 1970–71, 1971–72, 1972–73
* [[UEFAスーパーカップ]] (2) : 1972, 1973
* [[インターコンチネンタルカップ (サッカー)|インターコンチネンタルカップ]] (1) : 1972
;バルセロナ
* [[リーガ・エスパニョーラ|ラ・リーガ]] (1) : 1973–74
* [[コパ・デル・レイ]] (1) : 1977–78
;フェイエノールト
* エールディヴィジ (1) : 1983–84
* KNVBカップ (1) : 1983–84
=== 監督 ===
;アヤックス
* [[KNVBカップ]] (2) : 1985–86, 1986–87
* [[UEFAカップウィナーズカップ]] (1) : 1987
;バルセロナ
* UEFAカップウィナーズカップ (1) : 1989
* [[コパ・デル・レイ]] (1) : 1989–90
* [[リーガ・エスパニョーラ|ラ・リーガ]] (4) : 1990–91, 1991–92, 1992–93, 1993–94
* [[スーペルコパ・デ・エスパーニャ]] (3) : 1991, 1992, 1994
* [[UEFAチャンピオンズリーグ|UEFAチャンピオンズカップ]] (1) : 1991–92
* [[UEFAスーパーカップ]] (1) : 1992

== 個人タイトル ==
; 選手
* [[バロンドール]](欧州年間最優秀選手賞)(3){{#tag:ref|同賞を3度受賞した経験のある選手はクライフの他に[[ミシェル・プラティニ]]、[[マルコ・ファン・バステン]]、[[リオネル・メッシ]]の4名がいる。|group=注}}: 1971, 1973, 1974<ref name="rsssf71"/><ref name="rsssf73"/><ref name="rsssf74"/>
* [[オランダ年間最優秀選手賞]] (2) : 1968, 1984
* [[エールディヴィジ]]得点王 (2) : 1967, 1972
* [[オランダ スポーツマンオブザイヤー|オランダ年間最優秀スポーツ選手賞]] (2) : 1973, 1974
* [[ドン・バロン・アワード]]年間最優秀外国人選手 (2) : 1977, 1978
* [[北米サッカーリーグ]]年間最優秀選手 (1) : 1979
*[[ワールドサッカー (雑誌)#20世紀の偉大なサッカー選手100人|ワールドサッカー選定 20世紀の偉大なサッカー選手100人]] 3位 : 1999
* [[20世紀ワールドチーム]] : 1998<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.nytimes.com/1998/06/10/sports/10iht-soccer.t_2.html |title=A Wave of Enthusiasm for the Lingua Franca of Kicking a Ball : From Pele and the Streets, Hope |work = [[ニューヨーク・タイムス|NYTimes.com]] |date=1998年6月10日| accessdate=2014年1月4日}}</ref>
* [[ワールドサッカー (雑誌)|ワールドサッカー誌選定20世紀の偉大なサッカー選手100人]] 3位 : 1999
* [[国際サッカー歴史統計連盟]] (IFFHS) 20世紀最優秀選手 2位 : 1999<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/iffhs-century.html#worldpoc |title=World - Player of the Century |work = rsssf.com |accessdate=2014年1月4日}}</ref>
* 国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 20世紀欧州最優秀選手 : 1999<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/iffhs-century.html#eupoy |title=Europe - Player of the Century |work = rsssf.com |accessdate=2014年1月4日}}</ref>
* 国際サッカー歴史統計連盟 (IFFHS) 20世紀オランダ最優秀選手 : 1999<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/iffhs-century.html#nedpoy |title=Netherlands - Player of the Century |work = rsssf.com |accessdate=2014年1月4日}}</ref>
* [[フランス・フットボール]]選定20世紀最優秀選手 3位 : 1999<ref>{{en icon}} {{Cite web|url=http://www.rsssf.com/miscellaneous/best-x-players-of-y.html#ff-poc |title=France Football's Football Player of the Century |work = rsssf.com |accessdate=2014年1月4日}}</ref>
* [[UEFAジュビリーアウォーズ]]オランダ最優秀選手 : 2003
* [[FIFA 100]] : 2004<ref>{{en icon}} {{Cite news|url=http://news.bbc.co.uk/sport2/hi/football/3533891.stm|title=Pele's list of the greatest list|publisher=BBC SPORT |date=2004年3月4日| accessdate =2014年1月4日}}
</ref>
; 監督
* [[ワールドサッカー (雑誌)|ワールドサッカー誌選定世界最優秀監督賞]] (1) : 1987
* [[ドン・バロン・アワード]]年間最優秀監督 (2) : 1991, 1992
* [[オンズドール]]年間最優秀監督 (2) : 1992, 1994
; その他
* [[ローレウス世界スポーツ賞]]生涯功労賞 : 2006
* [[FIFA功労賞]] : 2010

== 栄典 ==
* {{仮リンク|オレンジ=ナッソー勲章|en|Order of Orange-Nassau}}騎士位 : 1974<ref name="De Standaard">{{nl icon}} {{Cite web|url=http://www.standaard.be/artikel/detail.aspx?artikelid=NFLD10042002_008 |title=Johan Cruijff Officier in de Orde van Oranje Nassau VOETBAL |work = De Standaard |date=2002年4月10日|accessdate=2014年1月4日}}</ref>
* オレンジ・ナッソー勲章士官位 : 2002<ref name="De Standaard"/>
* {{仮リンク|サン・ジョルディ十字勲章|en|Creu de Sant Jordi}} : 2006<ref>{{ca icon}} {{Cite web|url=http://www.enciclopedia.cat/enciclopèdies/gran-enciclopèdia-catalana/EC-GEC-0020640.xml#.UsdzIbuIrfM |title=Creu de Sant Jordi |work = enciclopedia.cat |accessdate=2014年1月4日}}</ref>


== 脚注 ==
== 脚注 ==
=== 注釈 ===
{{Reflist}}
<references group="注" />
=== 出典 ===
{{Reflist|2}}

== 参考文献 ==
* {{Cite book|和書|author=デイヴィッド・ウィナー著、西竹徹訳|year=2008|title=オレンジの呪縛-オランダ代表はなぜ勝てないか?|publisher=[[講談社]]|isbn=978-4062146012 |ref=ウィナー 2008}}
* {{Cite book|和書|author=ジョナサン・ウィルソン著、 野間けい子訳|year=2010|title=サッカー戦術の歴史 |publisher=[[筑摩書房]]|isbn=978-4480878229 |ref=ウィルソン 2010}}
* {{Cite book|和書|author=[[大住良之]] |year=1998 |title=新・サッカーへの招待 |publisher=[[岩波書店]] |isbn=978-4004305569|ref=大住 1998}}
* {{Cite book|和書|author=大住良之著、|year=2004|title=理想のフットボール 敗北する現実|publisher=[[双葉社]]|isbn=978-4575296594|ref=大住 2004}}
* {{Cite book|和書|author=木崎伸也、若水大樹|year=2010|title=クライフ哲学ノススメ-試合の流れを読む14の鉄則|publisher=[[白夜書房]]|isbn=978-4861916762 |ref=木崎、若水 2010}}
* {{Cite book|和書 |author=木村浩嗣 |chapter=混迷する名門クラブ FCバルセロナ ヨハン・クライフの遺した功罪 |title=Sports Graphic Number plus |volume= 2003年4月号 |publisher=文藝春秋 |isbn=978-4160081291 |ref=木村 2003}}
* {{Cite book|和書|author=[[サイモン・クーパー]]著、柳下穀一郎訳|year=2005|title=アヤックスと戦争-第二次世界大戦と欧州サッカー |publisher=[[白水社]]|isbn=978-4560049709 |ref=クーパー 2005}}
* {{Cite book|和書|author=サッカーマガジン編集部|year=1980|title=サッカーマガジン別冊秋季号 ヨハン・クライフ・スーパースター|publisher=[[ベースボールマガジン社]]|ref=サッカーマガジン編集部 1980}}
* {{Cite book|和書|author=ブライアン・グランヴィル著、[[賀川浩]]監修、田村修一、土屋晃、田邊雅之訳|year=1998|title=決定版ワールドカップ全史|publisher=[[草思社]]|isbn=978-4794208187|ref=グランヴィル 1998}}
* {{Cite book|和書|author=ブライアン・グランヴィル著、賀川浩監修、田村修一、土屋晃、田邊雅之訳|year=2002|title=ブライアン・グランヴィルのワールドカップ・ストーリー |publisher=[[新紀元社]]|isbn=978-4775300848 |ref=グランヴィル 2002}}
* {{Cite book|和書|author=ミゲルアンヘル・サントス著、松岡義行訳|year=2002|title=ヨハン・クライフ スペクタクルがサッカーを変える|publisher=[[中央公論新社]]|isbn= 978-4122040274|ref=サントス 2002}}
* {{Cite book|和書|author=ミック・スホッツ、ヤン・ラウツェン著、戸谷美保子訳|year=2009|title=クライフ公認「トータル」フットボーラーの全貌 |publisher=[[東邦出版]]|isbn= 978-4809408397 |ref=スホッツ、ラウツェン 2009}}
* {{Cite book|和書|author=[[武智幸徳]] |chapter=サッカーの未来を変えた革命家 ヨハン・クライフ |year=2010|title=ワールドカップ伝説70年代編 偉大なる開拓者たちの時代|publisher=[[ベースボール・マガジン社]]|isbn=978-4583616797|ref=武智 2010}}
* {{Cite book|和書|author=カルレス・サンタカナ・イ・トーラス著、山道佳子訳|year=2007|title=バルサ、バルサ、バルサ! スペイン現代史とフットボール 1968-78|publisher=[[彩流社]]|isbn=978-4779112652 |ref=トーラス 2007}}
* {{Cite book|和書|author=[[長坂寿久]] |year=2007 |title=オランダを知るための60章 |publisher=[[明石書店]] |isbn=978-4750325187|ref=長坂 2007}}
* {{Cite book|和書|author=西部謙司|year=2010|title=神の足 サッカースーパースター技術録|publisher=コスミック出版|isbn=978-4774790398 |ref=西部 2010}}
* {{Cite book|和書|author=フリーツ・バーランド、ヘンク・ファンドープ著、[[金子達仁]]訳|year=1999|title=ヨハン・クライフ「美しく勝利せよ」|publisher=[[二見書房]]|isbn=978-4576991993|ref=バーランド、ファンドープ 1999}}
* {{Cite book| 和書| author =ジョアン・ピ著、ノバジカ訳 |chapter=ヨハン・クライフ 勝者の魂 | title = スポーツ20世紀Vol.1 サッカー 英雄たちの世紀| edition= | year = 2000| publisher = ベースボールマガジン社 | isbn=978-4583610849 |ref=ピ 2000}}
* {{Cite book|和書|author=フィル・ボール著、近藤隆文訳|year=2002|title=バルサとレアル-スペイン・サッカー物語 |publisher=[[日本放送出版協会]]|isbn= 978-4140806739 |ref=ボール 2002}}


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
* [[ヨハン・クライフ財団]]
* [[ヨハン・クライフ財団]]
* [[ヨハン・クライフ賞]]
* [[ヨハン・クライフ賞]]
* [[トータルットボール]]
* [[ヨハン・クライ・スハール]]


== 外部リンク ==
== 外部リンク ==
{{wikiquote|ヨハン・クライフ}}
* [http://www.cruijff.com/ Cruijff.com (オランダ語・スペイン語・英語)]
{{commons cat|Johan Cruijff|ヨハン・クライフ}}
* [http://www.cruyffacademics.org/ Johan Cruyff Academics International (英語・スペイン語)]
* [http://www.cruijff.com/ Cruijff.com]{{nl icon}} {{en icon}}{{es icon}}
* [http://www.cruyffacademics.org/ Johan Cruyff Academics International] {{en icon}}{{es icon}}
* [http://www.worldofjohancruyff.com/ The World of Johan Cruyff] – Explore the World of Johan Cruyff {{en icon}}
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2014年1月4日 (土) 03:05時点における版

ヨハン・クライフ
名前
本名 ヘンドリック・ヨハネス・クライフ
Hendrik Johannes Cruijff
愛称 フライング・ダッチマン[1]
エル・サルバドール[2]
エル・フラコ[3]
スーパースター[4]
ラテン文字 Johan Cruijff
基本情報
国籍 オランダの旗 オランダ
生年月日 (1947-04-25) 1947年4月25日(77歳)
出身地 アムステルダムベトンドルプオランダ語版地区
身長 176cm
体重 67kg
選手情報
ポジション FW / MF
利き足 右足
ユース
1957-1964 オランダの旗 アヤックス
クラブ1
クラブ 出場 (得点)
1964-1973 オランダの旗 アヤックス 240 (190)
1973-1978 スペインの旗 バルセロナ 143 (48)
1979-1980 アメリカ合衆国の旗 ロサンゼルス・アズテックス英語版 27 (14)
1980-1981 アメリカ合衆国の旗 ワシントン・ディプロマッツ英語版 27 (10)
1981 スペインの旗 レバンテ  10 (2)
1981 アメリカ合衆国の旗 ワシントン・ディプロマッツ英語版 5 (2)
1981-1983 オランダの旗 アヤックス 36 (14)
1983-1984 オランダの旗 フェイエノールト 33 (11)
代表歴
1966-1977[5] オランダの旗 オランダ 48 (33)
監督歴
1985-1988 オランダの旗 アヤックス
1988-1996 スペインの旗 バルセロナ
2009-2013 カタルーニャ州の旗 カタルーニャ選抜
1. 国内リーグ戦に限る。
■テンプレート■ノート ■解説■サッカー選手pj

ヨハン・クライフことヘンドリック・ヨハネス・クライフオランダ語: Hendrik Johannes Cruijff[注 1] OON英語版, 1947年4月25日 - )は、オランダ出身の元サッカー選手、サッカー指導者である。選手時代のポジションはフォワードセンターフォワードウインガー)、ミッドフィールダー(攻撃的MF)。

リヌス・ミケルス監督の志向した組織戦術「トータルフットボール」をピッチ上で体現した選手であり[1][7]、選手時代に在籍したアヤックスではUEFAチャンピオンズカップ3連覇、オランダ代表ではFIFAワールドカップ準優勝に導いた実績などからバロンドール(欧州年間最優秀選手賞)を3度受賞した。フランツ・ベッケンバウアードイツ)と並ぶ1970年代を代表する選手[1][8][9]であり、ペレブラジル)やアルフレッド・ディ・ステファノディエゴ・マラドーナ(共にアルゼンチン)と並ぶ20世紀を代表する選手と評されている[6][7]

引退後は指導者に転身し古巣のアヤックスや、FCバルセロナの監督を務めると、バルセロナではリーガ・エスパニョーラ4連覇やUEFAチャンピオンズカップ優勝などの実績を残し監督としても成功を収めた[1]。その後は監督業から退いていたが2009年から2013年までカタルーニャ選抜の監督を務めた。リヒャルト・ワーグナー楽劇さまよえるオランダ人」に由来する「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)」[1][10]スペイン語救世主を意味する「エル・サルバドール」[2]など、様々なニックネームを持つ。

生い立ち

クライフが育ったベトンドルプの街並み

1947年4月25日アムステルダムの東部にあるベトンドルプオランダ語版という労働者の住む街で、青果店を営む家庭に産まれた[11]。家庭は貧しく日頃の生活に窮していたが[11]、仲の良かった2歳年上の兄や近所の友人達と毎日のようにストリートサッカーに興じてテクニックを磨いた[11]。少年時代を過ごした生家から数100mほどの場所にアヤックスのホームスタジアムや施設があり、頻繁に出入りしていたことから選手やスタッフから可愛がられマスコットのような存在になった[12]

少年時代は華奢な体格で実際の年齢より幼く見えたほどだったが、ストリートサッカーで身に付けたテクニックはこの当時から話題となっており、10歳の時に兄の後を追ってアヤックスの下部組織に入団した[13][14][注 2]。当時のアヤックスには第二次世界大戦後に駐屯していたアメリカ軍の影響もあって野球部門があり、クライフはキャッチャーを務めていた[16][17]。有望なキャッチャーであったといい[18]メジャーリーグでスター選手になる夢も持ち合わせていた[16]が、オランダ国内においてサッカーのプロ化の機運が高まったことを受けてクラブが野球部門を廃止したことで野球選手としての道は絶ち、サッカーに専念することになった[16][18]

1959年7月8日、12歳の時に父が心臓発作で亡くなると精神的なショックを受けることになった[19]。クライフ自身は「影響は受けたことは確かだが、その程度は判らない」としているが周囲の人々は立ち直るまでに時間を有したと証言している[19]。父の死後、クライフは父の墓前に語り掛けるようになり、架空の対話を通じて父の魂とともにあり見守られているのだと確信していたという[19]。母は青果店を手放し、アヤックスの清掃員や家政婦として家計を支えていたが[20]、やがてアヤックスの用務員を務める男性と再婚した[21]。男性はクライフとは幼少のころから交流があり精神的な安定をもたらすことになった[21]。この時期、プロテスタント系の小学校を卒業後に地元の4年制の中学校へ進学したが勉学には不熱心であり[22]、2年次に中退しスポーツ用品店の店員を務めながらアヤックスの下部組織でプレーを続けた[18]

15歳でユースチームに昇格したが当時のクライフは他のチームメイトと比べて体格で見劣りをしていた[23]。一方、持ち前の突破力を生かしセンターフォワードとして1シーズンの公式戦で74得点を挙げるなど才能を発揮し[23]、1963-64シーズンにはオランダのユース年代の全国大会で優勝を果たした[24]。こうした経緯からトップチームの監督を務めていたヴィク・バッキンガムはクライフのトップチーム昇格の機会を模索するようになり[21]、個人プレーに走りがちなクライフに対してチームプレーの重要さを指導した[21]

クラブ経歴

アヤックス

選手としての成功

16歳の時に1964年にトップチームへの昇格とプロ契約を打診されると、小柄な体躯であることを懸念する母を説得し、契約金1500ギルダー(約15万円)、年俸4万ギルダー(約400万円)でプロ契約を結んだ[25]。クライフがプロ契約を結んだ当時のオランダ国内では1954年からプロ契約が認められ[注 3]クライフが所属していたアヤックスは1960年代半ばになると国内のスポーツ界に先駆けて高額の給与での選手と契約を始めたが[31]、この契約に関してアマチュアやセミプロが主流だったオランダサッカー界において2人目の事例であり、1人目はアヤックスの主力選手であったピート・カイザーとする指摘がある[31][32][注 4]。 同年11月15日にアウェーで行われたGVAV戦でデビューを果たすと試合は1-3で敗れたものの初得点を決め[33]11月22日にホームで行われたPSVアイントホーフェン戦でも得点を決め勝利に貢献しサポーターの人気を獲得した[34]。一方、バッキンガムや彼の後任として1965年1月に監督に就任したリヌス・ミケルスの下でクライフはレギュラー選手としてではなくスーパーサブとして起用された[35]。これはクライフの素質を認めながらも時間をかけて育成していきたいとの指導者側の意向によるものであり[35]、ミケルスは「ヨハンは可能性を秘めていたが少年であり精神的や肉体的には依然として未熟だった」と評している[36]

選手時代にクライフを指導したリヌス・ミケルス。彼の志向した組織戦術「トータル・フットボール」を遂行する上で、クライフは欠かせない存在となっていった。

ミケルスは自らが志向する「トータル・フットボール」を実践するために選手達に厳しいサーキットトレーニングを課していたが、クライフはミケルスの課した練習に熱心に取り組んだ[37]1965年10月24日に行われたAFC DWS英語版戦でクラース・ヌニンハ英語版との交代で1965-66シーズンの初出場を果たすとカイザーとのパス交換から2得点をあげる活躍を見せて勝利に貢献[24]。同シーズンに19試合に出場し16得点をあげエールディヴィジ優勝に貢献するなど順調に成長を見せると、19歳の頃にはミケルスの志向するサッカーを実践する上で欠かすことのできない選手となっていた[36]

また若い頃は、クライフより1歳上でマンチェスター・ユナイテッドFCに所属していたジョージ・ベストに例えられ「オランダのベスト」と称されたこともあった[38]が、クライフは1950年代のスター選手であるアルフレッド・ディ・ステファノのファンであり[37]、ベストに例えられることを嫌っていた[37]。才能がありながら不摂生が災いして表舞台から姿を消した[38]ベストではなく、ディ・ステファノのセンターフォワードでありながらミッドフィールダーの位置で幅広く動き周り積極的に守備に加わる、従来の概念を覆すプレースタイルを理想としていた[37]

国内では1965-66シーズンからリーグ3連覇を成し遂げるなどリーグ優勝6回 (1965-66, 1966-67, 1967-68, 1969-70, 1971-72, 1972-73)、KNVBカップ優勝4回 (1966-67, 1969-70, 1970-71, 1971-72)。個人としても1966-67シーズンに33得点、1971-72シーズンに25得点をあげリーグ得点王を獲得した。

国際タイトルの獲得

1971年のバロンドール授賞式でのクライフ

UEFAチャンピオンズカップには1966-67シーズンに初出場を果たし2回戦でビル・シャンクリー監督が率いるイングランドのリヴァプールFCと対戦した。この試合前のアヤックスの評価は低かったが[39]濃霧の中で行われたホームでの第1戦においてクライフは奔放な動きを見せてリヴァプール守備陣を翻弄し5-1と大勝した[39]。敵地での第2戦を前に相手のシャンクリー監督は「我々が7-0で勝利する」と記者に対し公言したが[39]、クライフが2得点を挙げる活躍を見せて2-2と引分け、準々決勝進出へ導いた[27][39]

このリヴァプール戦の勝利を境にクライフの存在はヨーロッパ各国の関係者の知るところとなり、国際舞台において厳しいマークを受けることになった[27]1967-68シーズンに1回戦でスペインのレアル・マドリードと対戦した際、マドリードのミゲル・ムニョス監督はマンマーク役のフェルナンド・スンスネギ英語版に対しクライフへの密着マークを指示[40]。スンスネギはムニョスからの指示を忠実に遂行し試合中だけでなくロッカールームへも追走してクライフのマークを続けたという(結果はレアル・マドリードの勝利)[40]

1973年5月30日UEFAチャンピオンズカップ 1972-73決勝、ユヴェントス戦のメンバー[41]

1968-69シーズンにはオランダ勢として初の決勝進出を果たしたものの、イタリアACミランに1-4で敗退。1970-71シーズンには決勝でギリシャパナシナイコスFCを下し初優勝に貢献すると、1971年バロンドール(欧州年間最優秀選手賞)の投票では116ポイントを獲得し、2位のサンドロ・マッツォーラ(57ポイント)、3位のジョージ・ベスト(56ポイント)を抑えて初受賞を果たした[42]

1971-72シーズンにはミケルスが退任しルーマニア人シュテファン・コヴァチが監督に就任した[43]。コヴァチはミケルスの提唱した「トータル・フットボール」を引き継ぐ一方で規律を重んじた前任者とは対照的に選手の自主性を許容し[44][45]「トータル・フットボール」の組織的な連動性を進化させた[43]。この時期のアヤックスについてクライフは「コヴァチの下では後方のミッドフィールダーやディフェンダーが前線へと飛び出し、本来は前線にいるフォワードが後方から飛び出した選手のポジションをカバーリングするといった自由が認められ相手チームの脅威となっている。ミケルスの下では決して認められなかっただろう」と評している[43]。準決勝でポルトガルのSLベンフィカを下し2年連続で決勝進出を果たした際には規律の低下と最少得点差での勝ちあがりに批判の声が上がったものの[46]、決勝でイタリアのインテル・ミラノと対戦した際にはクライフが2得点をあげる活躍を見せ2-0と下し2連覇を達成した[46]。この大会の勝者として挑んだインターコンチネンタルカップではアルゼンチンのCAインデペンディエンテと対戦し2試合合計4-1のスコアで初優勝した[47]

1972-73シーズンには準々決勝でフランツ・ベッケンバウアーゲルト・ミュラーゼップ・マイヤーを擁する西ドイツバイエルン・ミュンヘンと対戦することになり、クライフとベッケンバウアーの対決にヨーロッパ全土の注目を集めた[48]。ホームでの第1戦に4-0で完勝するとアウェイでの第2戦を1-2で敗れたものの合計5-2のスコアで勝利を収め、決勝ではイタリアのユヴェントスFCを下し3連覇を達成した[47]1973年のバロンドールの投票では96ポイントを獲得し2位のディノ・ゾフ(47ポイント)、3位のゲルト・ミュラー(44ポイント)を抑えて2回目の受賞を果たした[49]

国外からのオファー

一方で元モデルの妻や、宝飾商を営んでいた妻の父コー・コスターオランダ語版(後にクライフのマネージャーを務める)の助言もあり、高額の報酬を求めて移籍に心が傾くようになった[50]。アヤックスでの活躍によりスペインのFCバルセロナが関心を持つようになり、1970年1月にクライフをアヤックスのトップチームに抜擢した当時の監督であるヴィク・バッキンガムを招聘しクライフ獲得に向けた仲介役としてオファーを申し出た[51][52]。当時のスペインサッカー連盟の規定では外国籍選手の獲得は禁止されていたが、年内に規定が改正される可能性を見通してのオファーだった[51][52]。バルセロナ側からはアヤックス時代の3倍の年俸、ボーナス、住居、自動車、オランダとの往復航空券などの付与するなどの条件を掲示され[51]、両クラブ間で合意に達した[53]が、同年3月に行われたスペインサッカー連盟の総会において規定改正が見送られた[54]ことで移籍は消滅し[51][54][50]、代わりにミケルスがバルセロナの監督として引き抜かれることになった[51]

アヤックスでのチャンピオンズカップ3連覇など選手として絶頂期にあった1973年5月26日にスペインの外国人選手規定が改正[55]されると改めてバルセロナへの移籍へ向けた交渉が行われたが、スター選手を手放すことに難色を示すアヤックス側との交渉は長期化[56]。この移籍を巡ってヤープ・ファン・プラーフ英語版会長と対立し、「バルセロナへ移籍させないのなら選手を引退する」「移籍を認めないのならば法廷闘争も辞さない」と宣言する騒動に発展した[57][58]。また、クライフが試合出場をボイコットする構えを見せたことからチームメイトとの関係も悪化し[58]、サポーターからも批判を受けるようになったが[58]、最終的にクラブ側が譲歩し移籍を認めることになった[57]

バルセロナ

1974年2月17日リーガ・エスパニョーラ22節、レアル・マドリード戦のメンバー[59]

1973年夏、600万ギルダー[60](当時の金額で約200万ドル[61]日本円で約5億7000万円[60])という金額でスペインのFCバルセロナに移籍。なお、この移籍金額は同年7月にイタリアのピエリーノ・プラティがACミランからASローマへ移籍する際に記録した金額を大幅に上回る世界記録だった[60]

移籍が成立したものの手続きが遅れたためリーグ戦デビューは1973-74シーズン開幕後になり[62]、同年10月28日に行われたグラナダCF戦でデビューを果たすとこの試合で2得点を記録し4-0で勝利した[62]1974年2月17日、敵地のサンティアゴ・ベルナベウで行われたレアル・マドリード戦(エル・クラシコ)では5-0と歴史的大勝を収め[62][63]アトレティコ・マドリード戦ではアクロバチックな得点を決める[63][64]などの活躍を見せたが、この得点は1999年にクラブ創立100周年を祝うテレビ番組の中でファン投票により、クラブ史上で最高の得点に選ばれている[63]。同年4月17日、敵地でのスポルティング・ヒホン戦で4-2と勝利を収めると、残り5節を残した段階で2位以下のクラブを勝ち点で上回り14シーズンぶりのリーグ優勝を成し遂げた[62]。また同年にはオランダ代表での活躍もあり、3度目のバロンドールを受賞した[65]

当時のスペインはフランシスコ・フランコの独裁政治の時代にあった[66]が、クラブ創立75周年を迎えた1974年のリーグ優勝とクライフの活躍はバルセロナ市民や反フランコ派の人々を歓喜させた[67]。クラブは1960年代後半頃から「バルサは単なるクラブ以上の存在である」とのスローガンを掲げ[66]、首都マドリードの中央集権政治に対し、民主化とカタルーニャ化のシンボルとなっていった[66]が、メディアは連日のようにクライフの動向を注視しファンは「エル・サルバドール」(El Salvador救世主の意)と讃えた[2]

1974-75シーズンにはオランダ代表の同僚であるヨハン・ニースケンスの獲得をクラブ首脳陣に推挙した[68]こともありチームに加わったが、ギュンター・ネッツァーパウル・ブライトナーを擁するレアル・マドリードに優勝を明け渡し3位でシーズンを終えると監督のミケルスは解任された[68]

FCバルセロナ在籍時のクライフ

1975-76シーズンに西ドイツのボルシア・メンヒェングラートバッハを指揮して実績のあるヘネス・バイスバイラーが新監督に就任したがクライフとの確執が続き[68][69]、クライフ自ら「バイスバイラーとは上手くいかない。6月30日に契約が終了したらオランダへ帰国する」と発言し退団の意思を示した[69]。これにより、サポーターがクライフの残留とバイスバイラーの解任を求める抗議活動を行う事態に発展したが[69]1976年3月にバイスバイラーが辞意を表明したことによりクライフはバルセロナに残留しチームと再契約を結んだ[70]。なお、クライフとバイスバイラーを巡るチーム内の内紛もあって2シーズン連続で優勝を逃した[68]

翌1976-77シーズンにクライフの進言により再びミケルスが監督として呼び戻され[68]、リーグ戦では21節まで首位に立つなど優勝の可能性が残されていたが、最終的にアトレティコ・マドリードに勝ち点1差で及ばず優勝を逃した[68]。また国際大会においてはUEFAチャンピオンズカップ 1974-75では準決勝進出を果たすもイングランドのリーズ・ユナイテッドに敗退、UEFAカップ1975-76では準決勝進出を果たすもリヴァプールFCに敗退、UEFAカップ1976-77では準々決勝でアスレティック・ビルバオに敗退するなど、欧州タイトルを獲得したアヤックス時代やバルセロナ加入初年度となった1973-74シーズンほどの結果を残すことはできなかった[71]。成績低下の理由について、相手選手の厳しいディフェンスを受けるうちに抑え気味にプレーするようになり自身の持ち合わせる能力を100%発揮することがなくなったことが指摘されている[71][72]。また、強気な性格が災いし判定を巡って審判とたびたび口論となるなどプレー以外の側面で注目を集めるようになっていた[73]

バルセロナでの最後のシーズンとなった1977-78シーズンはコパ・デル・レイ決勝でUDラス・パルマスを3-1で下し優勝を果たしたものの[24]、国際大会ではUEFAカップ1977-78では準決勝でオランダのPSVアイントホーフェンと対戦し2試合合計3-4のスコアで敗れた[24]。リーグ戦ではレアル・マドリードに優勝を明け渡し2位でシーズンを終えると、1978年5月27日に行われた古巣のアヤックスとの親善試合を最後にバルセロナを退団し、正式な引退試合を行うことを表明した[24]

引退試合と実業家への転身

1978年11月7日に行われた引退試合でのクライフ。

1978年5月、バルセロナで現役引退を表明したクライフはオランダへ帰国した[74]。同年8月30日アメリカ合衆国ニューヨーク・コスモスに招待され、コスモス対世界選抜の親善試合に出場したほか[74]、イングランドのチェルシーFCからオファーを受けていたが、選手としての正式な復帰を断り続けた[74]

同年11月7日、アムステルダムのオリンピスフ・スタディオンで、クライフの引退試合が開催された[74]。クライフは自身がプロデビューを果たし長年にわたって在籍したアヤックスの選手として出場し、対戦相手には西ドイツのバイエルン・ミュンヘンが選ばれた[74]。試合当日は6万5千人の観客が訪れ、入場料収入の17万5千ドル(約3千5百万円)はオランダのアマチュアサッカー界の振興と障害者施設のために寄付された[74]。この試合は世界6か国にテレビ中継されたが、試合は友好ムードのアヤックスとは対照的に激しいボディコンタクトを厭わず真剣勝負を挑むバイエルンという展開となった[74]。序盤こそアヤックスが優勢に試合を進めたものの、バイエルンがゲルト・ミュラーが先制点を含め2得点、パウル・ブライトナーカール=ハインツ・ルンメニゲが揃ってハットトリックを達成するなどして8-0と大勝した[74]。クライフ自身は時おり往時のプレーを垣間見せたものの味方からの支援はなく、一方的な展開に観客席からは座布団が投げ込まれ、試合に見切りをつけスタジアムを後にする観客もいた[74]。試合後にはクライフに花束が贈られ、チームメイトに肩車をされてファンに別れを告げる演出が行われたが、クライフは「私のイメージした引退試合とはかけ離れた内容となった」と心境を語った[74]。バイエルンが真剣勝負を挑んだ経緯についてブライトナーは「オランダ国内でバイエルンを歓迎する雰囲気はなく、空港や宿泊したホテルでは敵対的な対応を受けた。そこで試合を我々の独演会(バイエルン・ショー)に代えることを決めたんだ」と証言している[75]

引退試合の後、クライフはスペインで実業家へと転身した[76]。クライフはバルセロナ在籍時から自身の肖像ブランドを冠したビジネスを展開していたが[77]、友人やビジネスパートナーらと新たに「CBインターナショナル」を設立し、不動産取引、ワインセメント野菜の輸出業務に従事した[76]。その際、ビジネスパートナーはクライフの信用を得て彼の所有する銀行口座から自由に事業資金を引き出していたが結果的に事業は失敗に終わった[78][76]。これによりクライフの下には600万ギルダーの借金が残されたとも[76]、総資産の4分の3に相当する900万ギルダーを失い破産寸前となったとも言われる[78]。一連の経緯についてクライフは「以前から義父や友人から幾度となく「専門外のことに関わってはいけない」と注意を受けていたが、罠にかかり唯一の間違いを犯した。その代償は大きなものだが多くのことを学んだ」と語っている[78]。事業に失敗し多額の借金を背負ったことが後にアメリカ合衆国で現役復帰を果たす決定的要因となったと複数の論者から指摘されている[79]。一方で事業の失敗と現役復帰の因果性についてクライフ本人は否定している[79]が、引退から数か月後には現役復帰を決意した[75]

ロサンゼルス・アズテックス

クライフのアメリカ合衆国での復帰に関して最初に関心を示したのは、北米サッカーリーグ (NASL) のニューヨーク・コスモスだった[80]。 同クラブのオーナーを務めるスティーヴ・ロス英語版は、クライフとの間で優先的に交渉を行うための仮契約を締結し3年契約で400万ドルを提供した[75]。一方、クライフは「私はアメリカサッカー界の発展の助力となりたいのだ。最初に移籍先と考えたコスモスは常に5万人以上を動員する人気チームだが、そこには私の果たすべき役目はない。私の希望は将来的に成長する可能性を秘めたチームだ」としてコスモスへの移籍を固辞し[80]、恩師のミケルスが監督を務めるロサンゼルス・アズテックス英語版と契約した[80]。契約内容は年俸70万ドル(約1億5千万円)に、本拠地とするローズボウルで観客動員数が増加した場合に派生する歩合給を加えたもので、換算すると年収100万ドルに上るものと推測された[80]。また、アズテックスは優先交渉権を持つコスモスに対し60万ドルを支払った[80]

1979年5月19日ロチェスター・ランチャーズ英語版戦でデビューすると前半10分のうちに2得点をあげ後半には3点目の得点をアシストし3-0と勝利した[75]。アズテックスには監督のミケルスをはじめ、アヤックスやオランダ代表でチームメイトだったヴィム・スールビールレオ・ファン・フェーンフープ・スメーツオランダ語版らといったオランダ人が在籍していたこともありリラックスした雰囲気を味わった[75]。チームはナショナルカンファレンス西地区で2位となりプレーオフ進出を果たすと、カンファレンス準決勝でバンクーバー・ホワイトキャップス英語版に敗れたものの、クライフはNASLの年間最優秀選手に選ばれた[81]

ワシントン・ディプロマッツ

1980年、古巣のアヤックスにテクニカルアドバイザーとして復帰するとFCトゥウェンテ戦の試合途中から指揮を執った。

1980年2月、首都ワシントンD.C.を本拠地とするワシントン・ディプロマッツ英語版に移籍した[82]。ディプロマッツは1979年秋にマディソン・スクエア・ガーデン・グループが経営に参画し大幅な選手補強に乗り出していたが[82]、当初獲得を目指したイングランド代表のケビン・キーガンとの交渉は失敗したものの、代わりにクライフと契約を結んだ[75]。契約内容は3年契約で150万ドル(約3億2500万円)、ディプロマッツが移籍元となるアズテックスに対して移籍料100万ドル(約2億5千万円)を支払うというものだった。人気の低迷が続いていたディプロマッツ側にはスター選手の獲得により観客動員数を増加させたいとの狙いがあった[75]

同年3月29日タンパベイ・ロウディーズ英語版戦でデビューしたがPK戦の末に2-3で敗れた[82]。ディプロマッツにはオランダ代表のチームメイトだったビム・ヤンセンが在籍していたものの、チームが志向するスタイルはイングランドの下部リーグで行われているような荒々しいものでトータルフットボールとはかけ離れていた[75]。前年に所属していたアズテックスでは多くの選手がクライフの助言を受け入れたのに対しディプロマッツの選手たちは関心を示さず、監督のゴードン・ブラッドリー英語版をはじめ何人かの選手から反発を招いた[75]。また、人工芝の影響による怪我に苦しめられるなど困難なシーズンとなった[75]。チームはナショナルカンファレンス東地区で2位となりプレーオフ進出を果たしたが、カンファレンス1回戦でクライフが前年に所属していたアズテックスに敗れた[75]

同年秋、ディプロマッツの企画したアジアツアーに参加し日本香港インドネシアを転戦したが、この時期には出場困難な怪我を負っていた[83]

クライフはNASLがシーズンオフとなった間にオランダへ帰国し古巣のアヤックスでプレーすることを試みた[24]。これに対しオランダサッカー協会 (KNVB) はNASLに所属する選手が期限付きでオランダのクラブへ移籍しリーグ戦に出場することを認めない決定を下した[24]。そのため、アヤックスのテクニカル・アドバイザーという名目でチームに加わると同年11月30日に行われたFCトゥウェンテ戦をスタンドで観戦した[84]。試合は1-3とアヤックスがリードされる展開となったが、業を煮やしたクライフはスタンドを降りてベンチへと向かい、監督のレオ・ベーンハッカーの隣で直接指揮を執った[84]。クライフの助言を受けたチームは調子を取り戻すと4点を奪い5-3とトゥウェンテに勝利した[84]

レバンテ

クライフと義父のコー・コスターオランダ語版(右側)。

1981年、クライフはオランダのDS'79の会長の依頼を受けてロブ・レンセンブリンクと共に招待選手として同クラブに参加[24]。イングランドのチェルシーFC、ベルギーシャルルロワSC、オランダのMVVマーストリヒトの3つの親善試合に出場した[24]。クライフは欧州のクラブへの移籍を模索していたためイングランドのチェルシーFCやアーセナルFCレスター・シティFCが獲得に乗り出し[85]、2部リーグへの降格争いの渦中にあったレスターが高額の条件を掲示したこともあり移籍は決定的との報道もなされた[85]

同年2月26日、スペイン・セグンダ・ディビシオン(2部リーグ)のレバンテUDへ移籍することに合意した[24][86]。レバンテはクライフが加入する時点では2部リーグの上位を争っていた[76]が、観客動員数が伸び悩んでいたこともありクラブの首脳陣は人気回復の起爆剤としてクライフと契約するに至った[76]。契約の際、義父のコスターの手腕により、バルセロナの様な欧州のトップクラブに所属する選手と同等の給与、ホームでの観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得ることになった[87]が、報酬が1か月以上支払われなかった場合には契約を破棄し他チームへ移籍することが出来る、といった自身に有利な条件が盛り込まれた[87]

クライフは3月2日に行われたCFパレンシア戦でデビューしたが、ディプロマッツ在籍時に負った怪我の影響もありリーグ戦10試合に出場し2得点という結果に終わり[88]、クライフの加入と前後してチームの成績も下降線を下り最終的に9位でシーズンを終え1部昇格を逃した[76]。一方でクライフとの間で結んだ高額の契約が経営状態を圧迫しチーム内に不協和音を生み出したと指摘されている[76]。クライフとクラブ側との間で「観客動員数が一定数を超える毎に特別報酬を得る」契約を交わしていたが、この報酬が未払いとなるトラブルが派生したためシーズン終了後にチームを退団した[88][87]

同年6月、イタリアのACミランと契約交渉を行い[83]、ミランの招待選手として同国で開催された世界各国のクラブを招いた対抗戦「ムンディアリート・ペル・クラブイタリア語版」に参加した[89]6月16日に行われたフェイエノールト戦に先発出場した[89]が、鼠蹊部の負傷のために[83]コンディショニングが万全でなかったこともあり45分間の出場のみに終わった[90][91]。クライフはフェイエノールト戦で負傷の影響もあって精彩を欠き、残りの試合も欠場するなど周囲の期待に答えることは出来なかった[91]。ミランとの契約交渉が失敗に終わると現役引退が現実味を帯び始めた[92]

同年6月18日、クライフはワシントン・ディプロマッツと短期間の契約を結んだ[24]7月1日に行われたサンディエゴ・ソッカーズ英語版戦でデビューしたが[24]、チームはナショナルカンファレンス東地区で3位となったためプレーオフ進出を逃し、モントリオール・マニック英語版戦がアメリカ合衆国での最後の試合となった[24]

アヤックスへの復帰

アヤックスへの復帰直後のクライフ。左隣は会長のトン・ハルムセンオランダ語版

クライフはレバンテの退団後にワシントン・ディプロマッツを経て、同年秋に古巣のアヤックスに復帰したが、既に34歳となっており、年齢的な問題もあり選手としては限界と考えられていた[90]。しかし同年12月6日に行われたHFCハールレム戦でのキーパーの意表を突くループシュートを決める活躍などにより4-1と勝利し、周囲でささやかれていた限界説を退けた[93]

当時のアヤックスはマルコ・ファンバステンフランク・ライカールトジェラルド・ファネンブルグといったオランダの次世代を担う選手達が在籍していたものの多くの結果を残すことが出来ずにいた[90]。クライフが加入した1981年12月の時点でリーグ戦でAZアルクマールPSVアイントホーフェンに敗れるなど4敗を喫し首位の座を明け渡していたが、クライフの加入後は17勝2分けの成績でAZやPSVを退けて1981-82シーズンのリーグ優勝を果たした[94]

2年目の1982-83シーズンにはUEFAチャンピオンズカップ 1982-83に出場し、1回戦でスコットランドセルティックFCと対戦。アウェーでの第1戦を2-2と引き分けて迎えたホームでの第2戦は1-1の同点で迎えた88分にクライフが交代すると、試合終了間際に失点を喫し合計3-4のスコアで敗退した[95]。この試合は選手生活を通じて最後の国際大会での公式戦出場となった[24]

1982年12月5日に行われたヘルモント・スポルト戦では印象的なトリックプレーを見せた[96]。試合中にペナルティーキックを獲得するとクライフは自らシュートをせずに左斜め前に緩やかなパスを送り、後方から走りこんできたイェスパー・オルセンへと繋がり相手のキーパーと一対一の状況となった。オルセンはゴール前で待ち構えるクライフにパスを戻すとキーパーのいない無人のゴールにシュートを決めるというもので、結果的にクライフとオルセンのワンツーパスの形となった[96]。ヘルモントの選手たちは主審に抗議を行ったがルール上においても正当なもので[96]、一連のプレーに関するアイデアは練習中に考案されたものだった[96]

リーグ戦ではフェイエノールトとの間でシーズン終盤まで優勝争いを続けていたが、1983年5月1日に行われたフェイエノールトとの直接対決を3-3と引分け、残り2試合を残して首位のアヤックスと2位のフェイエノールトとの勝ち点差4の状態を維持[97]5月1日に行われたヘルモント・スポルト戦ではクライフを累積警告による出場停止で欠いたものの4-1と勝利しリーグ連覇を達成した[97]。この時期のクライフは継父の死や故障を繰り返していたことで精神的に困窮していたものの[98]、同シーズンのリーグ戦とカップ戦との二冠獲得の原動力となった[99]。一方、1983年に入るとクラブ会長のトン・ハルムセンオランダ語版がクライフに対し36歳という年齢を理由に引退を迫ったことや[98]、クラブ側との間で締結していた入場料収入に応じた給与体系の更新を拒否されたこともあり確執を生んでいた[100]。クライフは5月10日に行われたカップ戦決勝第一戦のNECナイメヘン戦の終了後に退団を表明し[24]5月14日に行われたリーグ戦最終節のフォルトゥナ・シッタート戦がアヤックスでの最後の試合出場となった[24]

フェイエノールトへの移籍と引退

公式戦最後の試合となったフェイエノールトFCズヴォレ戦でのクライフ。

1983年夏、アヤックスを退団したクライフはライバルクラブのフェイエノールトへ移籍し1年契約を結んだ[99]。この移籍についてアヤックスのサポーターからは反発が上がり[98]8月21日に行われたリーグ戦開幕戦のFCフォレンダム戦でもフェイエノールトのサポーターから批判のブーイングを受ける可能性があったものの試合開始とともに自らの価値を示すことで批判を払拭した[100]。フェイエノールトでは当時21歳のルート・フリットらとチームメイトとなったが、監督のテイス・リブレフツ英語版を尊重しつつ頻繁に選手たちの対して技術指導やポジショニング指導を行った[101]。また、フェイエノールトへの移籍後は自分自身のプレーにも変化が生じ、体力的な衰えもあり以前の様な個人技を前面に出したプレーを抑え、中盤でボールを落ちつかせ味方に指示を送りポジショニングやパスコースの修正を行うことに徹した[101]

同年9月18日に行われた古巣のアヤックス戦では2-8と大敗を喫した[24][102]が、その後は1984年2月26日に行われたアヤックスとの再戦で4-1と勝利するなどチーム状態は回復[24]。カップ戦決勝でフォルトゥナ・シッタートを下すと[103]、リーグ戦でもPSVアイントホーフェンやアヤックスとの優勝争いを制すると5月6日に行われたヴィレムII戦で5-0と勝利し1973-74シーズン以来となる10シーズンぶりの優勝を決めた[104]。クライフにとって国内での優勝はリーグ戦が9回目、カップ戦が6回目となり、二冠獲得は2シーズン連続となった[104]。既に引退の意思を表明していたクライフは5月13日に行われたFCズヴォレ戦が最後の公式戦出場となり[33][24]、この試合の79分にマリオ・ベーンとの交代でピッチを退いた[24]

クライフの現役選手として最後の試合はサウジアラビアで行われた[105]。この試合は同国でプレーする2名の選手の引退試合にクライフの参加を条件にフェイエノールトが招待されたものだった[105]。クライフは前半をサウジアラビア代表の選手として後半はフェイエノールトの選手としてプレーし、試合後にはファイサル・ビン=ファハド王子から記念品として24金製の食器が贈呈された[105]。サウジアラビアへの遠征後、クライフはクラブの会長から選手としての残留または選手兼任監督としてのオファーを受けたが、精神的にも肉体的にも消耗し切っていることを理由に固辞した[105]

代表経歴

初期の経歴

オランダ代表として初出場を果たしたハンガリー戦でのクライフ(前列右から3人目)

オランダ代表としては1966年9月7日に行われたUEFA欧州選手権1968予選ハンガリー戦でオランダ代表デビュー。同年6月に行われた1966 FIFAワールドカップブラジルを下し準々決勝に進出した強豪チームを相手に、代表初得点を決めた[36]。しかし同年11月6日に行われたチェコスロバキアとの親善試合において、主審に抗議をした際に退場処分を受けた[38]。主審の「クライフが私に暴行を加えようとした」との主張は映像記録により退けられたが、オランダサッカー協会 (KNVB) はクライフに対し1年間招集を見送る処分を下した[38][106]

1970 FIFAワールドカップ予選ではブルガリアポーランドに敗れ、UEFA欧州選手権1972予選ではユーゴスラビアに敗れ予選で敗退するなど、1960年代後半以降のアヤックスやフェイエノールトといったクラブが国際大会で結果を残していたのに対し、代表チームは予選敗退が続いていた。

1974 FIFAワールドカップ・予選英語版では隣国のベルギーと同じグループとなったが、報酬面での問題からチーム全体にまとまりを欠いていた[107]。1973年11月18日にホームで行われた最終戦での両者の直接対決(0-0の引分け)の結果により、1938年大会以来となるワールドカップ出場が決まったが、この試合の終了間際に決まったかに思われたベルギーの得点がオフサイドと判定され無効にされる場面もあった[108][109]

1974 FIFAワールドカップ

1974 FIFAワールドカップでのオランダ代表の基本布陣[110][111]

翌1974年に西ドイツで開催される本大会に向けチームの立て直しが求められると、KNVBはチェコスロバキア出身のフランティシェク・ファドルホンツ英語版を監督からコーチに降格させ、当時FCバルセロナを指揮していたリヌス・ミケルスを監督に迎えた[112]。ミケルスは代表チームに新たなサッカースタイルを導入するには時間的な猶予が少ないことから[113]、かつて自身が率いていたアヤックスのメンバーを中心にし、「トータルフットボールでワールドカップに挑む」ことを前提に代表メンバーを人選した[113]。また、この組織戦術をピッチ上で体現するリーダーとしてクライフを指名し、選手達に戦術理解と90分間戦い抜く体力を求めた[113]。クライフは前線から最後尾まで自由に動き回り攻守に絡むと共に、ミケルスの理論を体現するピッチ上の監督として味方に細かなポジショニングの指示を与えた[114]

1次リーグ初戦のウルグアイ戦を2-0で勝利を収め、第2戦のスウェーデン戦を0-0で引き分けたが、第3戦のブルガリア戦を4-1で勝利し首位で2次リーグへ進出を果たし、オランダの展開する全員攻撃・全員守備のサッカーが注目を集めた[115][114]

2次リーグにおいてもアルゼンチンを4-0、東ドイツを2-0で下し第3戦を迎えた。試合相手は前回大会の優勝国であるブラジルだったが、50分にニースケンスの得点をアシスト、70分には左サイドを突破したルート・クロルのクロスをジャンピングボレーシュートでゴールに決め1得点1アシストの活躍で勝利し、初の決勝戦進出を果たした[116]

決勝の相手は開催国であり、同世代のライバルであるフランツ・ベッケンバウアーらを擁する西ドイツとなった。西ドイツは開幕前にイギリスブックメーカーが発表した優勝予想では1位(オッズは3-1)と高評価を受けていた[117]が、オランダとは対照的に苦戦が続けながらの決勝進出だった[118]。戦前の予想ではオランダ有利との意見も見られ[119]、オランダの中心選手であるクライフを西ドイツがいかに抑えるのか、どの選手がマークするのかが焦点となった[120]

1974 FIFAワールドカップ決勝の西ドイツでドリブルを仕掛けるクライフ(中央の人物)。後方はベルティ・フォクツ

試合は開始2分にクライフのドリブル突破からPKを獲得し[121]、これをニースケンスが決めて先制した。しかし早い時間帯に先制したことで攻勢を緩めたオランダに対し西ドイツが試合の流れを掴み、前半までにパウル・ブライトナーゲルト・ミュラーの得点により2-1と逆転した。後半に入りオランダは反撃に転じたが、クライフが西ドイツのベルティ・フォクツの徹底したマーク[122]を受けて動きを封じられたこともあり得点はならず、1-2で敗れ準優勝に終わった。

この試合の敗因については「早い時間帯に先制点を決めたことで気持ちが緩み、西ドイツの反撃を許した」ことが挙げられる[122][123]が、クライフは「決勝戦に進出したことに多くの選手が満足してしまった。オランダ人に(ドイツ人のような)勝者のメンタリティが欠けていた」ことを挙げた[123][124]。選手達がオランダへ帰国すると準優勝という結果に国民を挙げて歓迎を受け[125][126]、国王への謁見を許されたが[125][126]、クライフ自身は「もう一歩の所で世界タイトルを逃した」事実を拭い去ることはできなかったという[125]

その一方でクライフを中心としたこの時の代表チームはスタンリー・キューブリックにより映画化された同名小説に準え「時計じかけのオレンジ[123][124]と呼ばれ、決勝戦で敗れたものの「大会を通じて最も優秀なチーム[2]」「我々に未来のサッカーを啓示した[127][128]」「オランダには11人のディフェンダーと10人のフォワードが存在する[128]」と評価された。クライフ自身は後にこの大会について次のように振り返っている。

私は1974年のワールドカップ決勝を忘れることはないだろう。1-2で敗れた後、私は茫然自失となっていた。しかし数年後にファンの記憶に残っているのは試合に勝利した方ではなく敗れた我々の方であることを知った。それから数十年を経た今日においても世界中のサッカーファンが、あの時の我々のプレーを賞賛してくれることを誇りに思っている[129] — ヨハン・クライフ

UEFA欧州選手権1976

1974年のワールドカップ後にミケルスが監督を退きジョージ・クノベル英語版が就任したものの、クライフをはじめこの大会を経験した主力選手の多くがチームに残り同年9月から始まったUEFA欧州選手権1976予選に参加[130]。予選1次グループではポーランドやイタリアを退け、準々決勝ラウンドでもベルギーにホームで5-0と大勝するなど2連勝で本大会出場を果たした。

1976年ユーゴスラビア連邦で行われた本大会では、準決勝でチェコスロバキアと対戦することになったが、地元のユーゴスラビアやワールドカップ優勝国の西ドイツ、同準優勝のオランダと比べ1ランク劣るチームと見做されていた[130]。一方オランダは優勝候補の筆頭と目されていた[131]が、開幕前にクノベルが監督を辞任する意向を示すなどオランダ協会内で内紛が発生し[130][131]、クライフが一時「クノベルが辞めるなら大会に出場しない」と宣言する事態に発展した[130]

チェコスロバキア戦は互いに退場者を出し、クライフ自身も主審のクライヴ・トーマス英語版に抗議した際に警告を受けるなど荒れた展開となった[130][132]が、延長後半にチェコスロバキアに2得点を許し1-3で敗れた[132]。なおクライフは予選からの通算2枚目の警告となったため次の3位決定戦は出場停止となったためチームに帯同せず帰国[130]、3位決定戦は若手メンバー中心で挑むことになり[130]、地元のユーゴスラビアを3-2で下して3位となった[132]

代表からの引退

1977年10月26日に行われたベルギー戦でのクライフ(右から2人目)。この試合が最後の代表出場となった。

同年9月から始まった 1978 FIFAワールドカップ・予選英語版にも引き続き参加し、隣国のベルギーや北アイルランドを退けて2大会連続で本大会出場を果たした。しかし1977年10月26日に行われた同予選のベルギー戦を最後に代表から引退することになり、翌1978年アルゼンチンで開催される本大会への出場は辞退することになった[133][134]。クライフに続いてストライカーのルート・ヘールスやキーパーのヤン・ファン・ベフェレン、前回準優勝メンバーのヴィレム・ファン・ハネヘムらも大会への参加を辞退することになった[133]

ワールドカップを目前にした代表からの引退については「開催国のアルゼンチンではホルヘ・ラファエル・ビデラ大統領の軍事政権による統治下にあったが、国内情勢が不安定だったことや弾圧に抗議するため[135][136]」、「所属クラブであるFCバルセロナとの間で金銭トラブルが派生しており、大会出場の見返りとして多額の報奨金を要求したため[135]」、「事前合宿を含め2か月近く家族と離れて過ごさなければならなくことを妻が許さなかったため[135][136][137]」など様々な憶測が囁かれた[135]

クライフはこれまで

ワールドカップに出場するには100%の体調では駄目だ。200%でなければ駄目だ。私は1974年大会を経験しているが、あれだけのプレーを再現できるとは思えないから辞退するのだ。今シーズン限りでバルセロナを含め、あらゆるサッカー活動から引退し家族と共に過ごす時間を増やすことにする。私は大衆の前から姿を消す。 — ヨハン・クライフ[138]

と発言するなど「完全なコンディショニングで大会に挑める状況にはなかった」ことを理由として挙げていた[137][139]が、2008年4月にスペインのラジオ番組に出演した際に、1977年に発生した息子の誘拐未遂事件が大会辞退の真の理由だったことを明らかにした[136][140]

大会の前年に子供の誘拐事件が発生した。私は犯人からライフル銃を突きつけられ妻と共に拘束されたが、子供に危害は与えられなかった。その後、4か月間は自宅周辺や子供の通学路では警察の警護を受ける状況となった。家族のことが心配となりオランダ代表としてワールドカップの舞台でプレーする気にはなれなかった。人生には何より代え難い物がある。 — ヨハン・クライフ[140]

オランダ代表としての通算成績は国際Aマッチ48試合出場33得点[5]

指導者経歴

アヤックス

引退から1年後の1985年にアヤックスの監督に就任した。就任時は公式な指導者ライセンスを取得しておらず[141]、ライセンスを取得するための講習を受講した経験がなかったため、「テクニカルディレクター」という肩書きでの就任だった[141][142]。監督の上位に位置づけられる「テクニカルディレクター」として、クラブのトップチームから下部組織まで統括して戦術やシステムなどの志向するサッカーを立案し管理する役職だが[141]、これはクライフが前述の北米リーグ時代にワシントン大学で学んだ、スポーツマネジメントに基づいた考えであり[141]、アメリカから帰国したクライフがヨーロッパで自らが広めたものなのだという[143]

クライフは1970年代に展開した攻撃的スタイルの復活を掲げ、ベテランのアーノルド・ミューレン、中堅のマルコ・ファン・バステンフランク・ライカールトらを軸に、デニス・ベルカンプアーロン・ヴィンターといった10代の選手を積極的に起用。アヤックスではリーグ優勝はならなかったが、KNVBカップを制してUEFAカップウィナーズカップ 1986-87への出場権を獲得。この大会で決勝進出を果たすと1987年5月13日に行われた決勝戦では東ドイツ1.FCロコモティヴ・ライプツィヒをファンバステンの得点で下し、選手時代にチャンピオンズカップ3連覇を果たした1973-74シーズン以来となる14シーズンぶりの国際タイトルを獲得した。

1988年4月、選手の移籍問題に関する見解の相違などの、トン・ハルムセンオランダ語版会長との確執もありクラブを退団した[144]

バルセロナ

監督就任の経緯

ファイル:Johan Cruyff.jpg
FCバルセロナの監督として指揮を執るクライフ(右から3人目の人物。右隣の人物はカルロス・レシャック

1988年5月4日FCバルセロナの監督に就任することになったが、監督就任の背景には同クラブ会長のホセ・ルイス・ヌニェスの存在があった[145]。ヌニェスは同年にクラブの会長選挙を控えていたが、チーム自体はルイス・アラゴネス監督の下で1987-88シーズンを戦い、カップ戦では優勝を成し遂げたものの、リーグ戦では成績が低迷し[146]、選手達が同年4月28日に会長とクラブ役員の辞任を求め「エスペリアの反乱」と呼ばれる記者会見を開くなど内紛が続いていた[147]。ヌニェスには、自らの政権維持のためにソシオと呼ばれるクラブの会員達の間で依然として人気の高いクライフの招聘を公約として掲げ、この局面を乗り切ろうとの思惑があった[148]

クライフは「エスペリアの反乱」に加わった多くの選手達が他クラブへ放出されたため[149]、残留した選手と新たに補強した選手で1からチーム作りに取り掛かることになり[149]、自らの経験に基づいたサッカー哲学とアヤックスで採用されている攻撃的サッカーをクラブに浸透させるためクラブの改革に着手していった[149]。監督としての実績がアヤックスでの数シーズンのみと乏しかったことによる懸念や、結果を残すまでに時間が掛かったことで批判を受けることもあったが[146]、自らのスタイルを押し通すとUEFAカップウィナーズカップ 1988-89でイタリアのUCサンプドリアを下し国際タイトルを獲得したことで批判を退けた[150]

ドリーム・チームの完成

1992年5月20日UEFAチャンピオンズカップ 1991-92決勝、UCサンプドリア戦のメンバー[151]

1989-90シーズンに、デンマークのミカエル・ラウドルップ、オランダのロナルド・クーマンといったスペイン国外のスター選手を獲得してチーム強化に努めるが、リーグ戦ではウーゴ・サンチェスエミリオ・ブトラゲーニョを擁するレアル・マドリードが5連覇を達成したため優勝を逃すと、再びソシオの間で批判を受けることになり、クライフ流の戦術ではなく、守備的な戦術を志向する監督を望む意見が持ち上がった[152]が、ヌニェス会長がクライフを擁護する立場を採ったため残留が決定した[152]

1990-91シーズン、過去2シーズンの反省から守備的なポジションのフェレール、ユーティリティ・プレーヤーのゴイコエチェア、ブルガリア出身のフリスト・ストイチコフらを獲得する一方で下部組織からジョゼップ・グアルディオラを昇格させるなど、それまで良いプレーを続けながら勝ちきることの出来なかったチームに変化を与えることが出来る選手達と契約を結んだ[153]。シーズン最中の1991年2月26日に心筋梗塞により倒れバイパス手術を受けたため[154]、復帰するまでの間は代理としてカルロス・レシャックが指揮を執ったが、2節で首位に立つと、そのまま他チームを引き離しリーグ優勝を果たした。

翌1991-92シーズン、リーグ戦ではレアル・マドリードとの優勝争いに競り勝ち2連覇を果たし、UEFAチャンピオンズカップ 1991-92では決勝戦に進出しイタリアのサンプドリアとの対戦となった。ウェンブリー・スタジアムで行われた試合は両者無得点のまま延長戦に入り、111分にクーマンのフリーキックが決まり1-0で勝利。クラブに初のチャンピオンズカップをもたらした。

クライフはボールポゼッション、シュートパス、サイド攻撃を柱とした攻撃的なサッカーを志向し[155]、結果を残すまで時間がかかり批判を受けることもあったが、クライフの思想は徐々に選手だけでなく、クラブの首脳陣、ソシオに浸透し、クラブ全体に欠けていた勝者のメンタリティを植え付けた[156]。在任した8シーズンの間に国内ではリーガ・エスパニョーラ4連覇 (1990-91, 1991-92, 1992-93, 1993-94) 、コパ・デル・レイ優勝1回 (1989-90) 、スーペルコパ優勝3回 (1992, 1993, 1995) 、国際大会ではUEFAチャンピオンズカップ優勝1回 (1991-92) 、UEFAカップウィナーズカップ優勝1回 (1988-89) を成し遂げた。

1980年代後半から1990年代中盤にかけてクライフの作り上げたチームは、1992年に行われたバルセロナオリンピックバスケットボール競技において、マイケル・ジョーダンらを擁して金メダルを獲得したアメリカ合衆国代表の通称であるドリームチームに準えて「エル・ドリーム・チーム」と称された[157]。また、クライフを招聘したヌニェス会長は、この時期に多くのサポーターを獲得し、クラブの世界的ブランドとしての価値を高めることに寄与した[146]

ドリーム・チームの終焉

1993-94シーズンに新たにブラジルロマーリオが入団。ロマーリオは1994年1月8日に行われたレアル・マドリードとのエル・クラシコにおいて2得点を挙げる活躍を見せるなどシーズン通算30得点を挙げ得点王を獲得した。リーグ戦の優勝争いは首位に立つデポルティボ・ラ・コルーニャをバルセロナが追い上げる展開だったが、1994年5月14日に行われた最終節の結果、両者が勝ち点で並んだものの得失点差によりバルセロナが上回り4連覇を達成した。

一方、国内リーグでの優勝から4日後にギリシャアテネUEFAチャンピオンズリーグ 1993-94決勝が行われ、ファビオ・カペッロの率いるイタリアのACミランと対戦し0-4と大敗した。この敗戦により、これまで築きあげた「ドリームチーム」の崩壊が始まったと評されている[155][158]

1993-94シーズンに外国人選手の出場枠の問題により出場機会を失うことの多かったラウドルップ、GKのアンドニ・スビサレッタがクライフから戦力外と見做され退団[158]。1994-95シーズンが開幕するとロマーリオがホームシックにかかりシーズン途中に退団[159]し、故国のフラメンゴに移籍した。この一連の問題が発端となり[159]、人気選手であり問題児として知られるストイチコフがクライフ体制やチームメイトを批判する事態となり[160]、シーズン終了後にストイチコフと守備の要だったクーマンも退団した。

1995-96シーズン、「ドリームチーム」と呼ばれた当時の選手達の多くは既に退団しホセ・マリア・バケーロとグアルディオラ、フェレールの3人のみとなったことで、クライフは「新たなドリーム・チーム」の構築を目指して下部組織で育成された選手達を積極的に登用するなどチーム改革を行った[161]。しかしリーグ戦でアトレティコ・マドリードに競り負け2シーズン続けてタイトルを逃すと、1996年5月18日にヌニェス会長は「クライフは間違った決断を下した」と告発し[162]、監督解任を発表した[163][164]

オランダ代表監督問題

FCバルセロナの監督を務めていた1990年代当時、オランダ代表監督への就任が取り沙汰された[165][166]。1990年にイタリアで開催された1990 FIFAワールドカップの大会直前に主力選手からクライフの監督就任を要望する意見が高まったが、代表監督の任命権を持つミケルスがレオ・ベーンハッカーを指名し自らアドバイザーに就任したために実現には至らず[166][167]。1994年の1994 FIFAワールドカップの大会直前には監督のディック・アドフォカートと選手間の確執が続いたことから再びクライフの監督就任を望む世論が高まったが[165]、クライフとオランダサッカー協会との間で合意に達することはなかった[165]。1994年大会の際には1990年大会に比しても就任の可能性が高かったが[168]、マルコ・ファンバステンの復帰の見通しが立たなかったこと、KNVBがクライフにコーチングスタッフの人選に関する権限を与えることを認めなかったことが、就任に至らなかった原因とされる[168]

その後の経歴

バルセロナでのキャリアを最後に指導者としての第一線から退き、自身の名を冠した子供のスポーツ活動を支援するヨハン・クライフ財団や、スポーツマネジメントに関する人材育成を目的としたヨハン・クライフ大学オランダ語版を設立し社会貢献に努めている[169]

各クラブやサッカー協会の会長職などの要職を務めた経験はないが、友人でもあるジョアン・ラポルタ2003年にバルセロナの会長に就任した際には、教え子であるフランク・ライカールトを監督に推薦[170]。オランダサッカー協会に対しても、それまでアヤックスの下部組織を率いた経験があるのみで指導者としての実績が十分ではなかったマルコ・ファン・バステンをオランダ代表監督に推薦[170]するなど影響力を行使し続けている。

バルセロナを巡る論争

2009年のクライフ

ホセ・ルイス・ヌニェス会長との確執が原因となり[171]クライフが1996年5月18日にバルセロナの監督を解任された。解任後、ヌニェス会長とクライフの対立や舌戦はエスカレートし、互いに名誉毀損訴訟を起こす事態に発展しただけでなく、マスコミやファンを巻き込んでいった[171]。ヌニェスが解任に際して「クライフの収賄疑惑」を暴露したこともあり、クラブのソシオ達はクライフ派とヌニェス派の二派に分裂[171]し、クラブの会長選挙の際に両派は互いに候補者を擁立するなど対立を繰り返した[171]

1997年の会長選挙でヌニェスは再戦を果たすが、この直後にクライフ派のジョアン・ラポルタらのグループがヌニェスの不信任動議に乗り出した[171]。1998年3月7日にクラブ史上初の不信任投票が行われた結果、30%の賛同を得るに留まりヌニェスの不信任案は否決された[171]。クライフ派はドリームチーム時代のスタイルを崇拝しヌニェスが招聘したファン・ハールのスタイルを「退屈」として批判[171]、スタジアムでは抗議を意味する白いハンカチが振られた[172]。また、1999年に行われたドリームチームを記念する行事と前後して、クライフが先頭に立ちメディアを通じてヌニェス会長への批判を展開した[173]

2000年の会長選挙ではヌニェス派は副会長のジョアン・ガスパールを擁立し、クライフ派は企業家のルイス・バサットを擁立[171]。バサットは公約として「クライフを顧問としてクラブに復帰させる」事を掲げるも、僅差でガスパールが当選した[171]。クライフはガスパールの就任当初は静観の構えを見せていたが、彼が招聘したセラ・フェレール監督がリーグ戦で4位に終わると、一転してガスパールを擁立したヌニェス派を糾弾し[171]、かつての僚友だったレシャックが後任監督として就任すると彼にもその矛先が向けられ「裏切り者」と批判した[171]。こうしたクライフの姿勢にソシオ内でも、その影響力を懸念する声も現れ始めた[174]

2003年の会長選挙ではバサットとラポルタのクライフ派同士の争いとなった[174]。バサットは対立を続けていた「両派の融和」を掲げたが[174]、「ドリームチームの再現」を目指すラポルタが約9万4000人のクラブ会員の約53%の支持を集めて会長に就任した[175]

2010年4月にバルセロナの名誉会長に就任した[176] が、同年7月に会長となったサンドロ・ロセイがクラブの規定に名誉会長職はないとしたため、名誉会長職を返上した[177][178][179]

アヤックスを巡る論争

2008年2月19日アヤックスは新たにテクニカル部門を創設し、クライフを責任者として迎えることを発表した[180]。この背景にはアヤックスのトップチームの成績不振や、かつて多くの有望な若手選手を輩出し「世界有数の育成組織」と評されたユース部門からの人材供給が減少するなどの問題が存在した[181]。改革の旗手としてクライフを迎えようとの声を反映したもので[181]、3日後の2月22日には2008-09シーズンからの新監督としてマルコ・ファン・バステンを迎えることを発表した[181]。この時点でクライフの復帰は正式決定には至っておらず、2週間後にクライフとファン・バステンの間で意思疎通を目的とした電話会談が行われたが、その際に両者の意見が対立[181]。クライフは「育成方針に関するビジョンの共有が出来なかった」としてテクニカル部門の就任要請を辞退した[181]

2011年2月、アヤックスのテクニカルアドバイザーに就任した"[182][183]

アヤックスの育成部門はこれまで数多くの人材を輩出し、2010年に南アフリカ共和国で開催されたFIFAワールドカップの舞台にヴェスレイ・スナイデルをはじめ6人の育成部門出身の選手達をオランダ代表へ送り出した[184]。スカウト網や育成プログラムが成果を残していると評価を受けていたが[184]、一方でクライフは「育成部門はその価値を失い平凡な組織へ成り下がった。ユースの選手には大胆さや冒険心やテクニックを教え込み、世界中が驚く人材を再び供給しなければならない」と異議を唱え[184]育成部門の再建は急務であると主張した[184]

同年3月にクラブ運営に関するアドバイスを目的とした「テクニカル・プラット・フォーム」部門の責任者に就任すると、フランク・デ・ブール監督の下でアシスタントコーチを務めていたダニー・ブリントをはじめコーチ陣を解雇し[184]、デニス・ベルカンプやヴィム・ヨンクらを新たに育成部門の責任者に抜擢するなどの組織改革に取り組んだ[184]。こうした動きに対してクラブの幹部の間で物議を醸し、ウリ・コロネル会長をはじめ理事会メンバーが総辞職する事態となった[184]

同年11月16日エドガー・ダービッツを含むアヤックスの理事4人が2012年7月からルイ・ファン・ハールをゼネラル・ディレクター (GD) として迎えることを発表した[185]。これに対しクライフは「私の不在時に決定された」と主張しベルカンプをはじめ育成部門の10人の指導者と共に裁判所に提訴した[186][187]。12月の一審、2012年2月の二審で共にクライフ側の訴えが認められファン・ハールのGD就任の差し止めが申し渡された[185]

カタルーニャ選抜

最後の采配となったナイジェリア戦で表彰を受けるクライフ。

2009年11月9日カタルーニャ選抜の監督に就任した[188]。なおカタルーニャ選抜は国際サッカー連盟 (FIFA) や欧州サッカー連盟 (UEFA) に加盟しておらず国際大会の公式戦への出場資格を有していないため親善試合のみ行なっている代表チームである[188]。同年12月22日に行なわれた初采配のアルゼンチンとの親善試合に4-2で勝利[189]2010年12月28日にはホンジュラスと対戦し4-0で勝利[190]2011年12月30日にはチュニジアと対戦し0-0の引分けた[190]

2012年11月11日、「カタルーニャ選抜の監督を務めたことは誇りに思うが一つのサイクルの終わりの時が来た」として監督辞任の意向を示し、2013年1月2日ナイジェリアとの親善試合が最後の采配となった[191]。試合は1-1の引き分けに終わったがクライフの指揮の下でカタルーニャ選抜は2勝2引き分けと無敗の成績を残した[191]

CDグアダラハラ

2012年2月25日メキシコCDグアダラハラのアドバイザーに就任したことが発表された[192]。契約期間は3年[192][193]で、オーナーであり実業家のホルヘ・ベルガラ英語版は「クライフに3百万から5百万ドルの給与を支払いクラブの再建のために全権を与えた」と語った[193]。アドバイザー就任に際してクライフはクラブ側に忍耐を求めたが[194]、9か月後の2012年12月に契約解除が発表された[194]

人物

プレースタイル

身長176cm、体重67kgと細身の体躯の持ち主だが、瞬間的な加速力を生かしたドリブル突破[62][195][196]を得意とし、急加速急停止を繰り返し相手守備陣を翻弄した[62][197]。細身の外見であるにも関わらずマークすることが難しく、捕らえ所がなかったことからオランダでは「ウナギ」とも呼ばれていた[198]

1971年のクライフ。

また、利き足の右だけでなく左足でも正確なパスを供給する技術の正確性を持ち合わせていた[17][62][195][196][199]。両足での高いパス精度を持ち合わせる反面、現役時代を通じてペナルティーキックを滅多に蹴ることがなかったことでも知られる[200]。この理由についてクライフは「第一に静止した状態ではなく、試合の流れの中でのキックを得意としていたため。第二にキックの威力の問題があったため」としている[200]

ピッチ上においての全体的な状況を把握する能力にも恵まれており[201]、味方選手がプレーするためのスペースを生み出し、見出す為には「いつどこにポジションを採るのか」「いつどこに走り込むのか」「いつどこでポジションを離れてはいけないのか」について常に思考していたという[202]。試合時にはオーケストラ指揮者の様に仲間達に対して詳細に指示を送り自らの思考を伝えたが[203]、ピッチ上での指揮官ぶりは時にドリブルやパス、スペースへの走り込みといった積極的にボールへと関わるプレーよりも印象を残した[203]

名義上はセンターフォワードというポジションだが[14][127][204]、試合が始まると最後尾や中盤、タッチライン際という具合に自由にポジションを代えてボールを受け[14][127][204]、ドリブルやパスで攻撃を組み立てると共に、得点機に絡んだ[14][127]。また、他の選手もクライフの動きに連動してポジションを目まぐるしく移動させた[127][204]。チーム全体がクライフの動きに応じてポジションを修正する様は「渦巻」「変幻自在」と評され、その中心には常にクライフが存在した[204]

この他に現役時代のプレーとしては軸足の後ろ側にボールを通しながら180度ターンする「クライフターン」と呼ばれるフェイントを考案したことでも知られ、サッカーの基本テクニックの一つとなっている[205][206]

背番号14

クライフの代名詞である背番号14」はアヤックス時代から好んで着用していた[207]。1970-71シーズン開幕の際にクラブは個々の選手に固定の背番号を着用させることにしたが、クライフは攻撃的なポジションの選手が身に付ける「7」から「11」までの背番号ではなく、控え選手が付ける「14」を選んだ[127][207]。この理由について役員が尋ねると、クライフは

9番はディ・ステファノ、10番はペレの背番号だ。私は誰も身につけていない14番を「クライフの背番号」にする。 — ヨハン・クライフ

と答えたという[127][207]。また1974年のワールドカップに出場した当時のオランダ代表では、背番号は選手のアルファベット順に身に付けることになっていた[207]ため、頭文字が「C」で始まるクライフは本来であれば「1」番を着用するはずだった[207]が、特例として「14」を着用することが認められた[207]

なお、アヤックス時代には「14」の背番号を着けていたクライフだったが、当時のリーガ・エスパニョーラは固定制の背番号ではなく先発メンバーは試合毎に「1」から「11」の背番号が割り当てられる規程となっていたため、代名詞の背番号「14」ではなく背番号「9」を着用していた[208]。なお、代名詞となった背番号「14」は2007年4月25日にアヤックスの永久欠番となった[209]

監督としての戦術

クライフがアヤックスの監督時代に採用していた4-3-3の布陣[210]。中央に位置するDFのうちの1人をディフェンスラインより前方に配して攻守の舵取り役を担い、3人のFWのうち左右のウイングをタッチライン際まで開かせサイド攻撃を仕掛けることが特徴[211]

選手としてのクライフは選手が頻繁にポジションチェンジを繰り返す「トータル・フットボール」の体現者となったが[212]、監督としては変則的な4-3-3フォーメーションや3-4-3フォーメーションを駆使し、選手をピッチ全体に配置させて攻撃サッカーを展開するスタイルを追及した[212]。中盤にダイヤモンド型の陣形を構築するこれらのシステムの効能としては次の点などが挙げられる。

  • 「試合を進行する際に、ピッチ上に数多くのトライアングルを形成することが出来る[212][213]
  • 「パスコースが常に二方向以上存在する[212][213]
  • 「ピッチ全体を幅広くカバーすることが可能となる[213]
  • 「守備に回った際に前線の選手が即座に相手のチェックに移ることが出来る[213]

アヤックスの監督時代に採用していた4-3-3フォーメーション(アヤックス・フォーメーション)では、フィールドの中央に位置するゴールキーパーセンターバックリベロ攻撃的ミッドフィールダーセンターフォワードの縦軸の5人が攻守の鍵となり、相互の意思疎通とコンビネーションを重要視した[214]

GKはペナルティエリア内で相手の攻撃を阻止するだけでなく、攻撃時にはゴールから離れフィールドプレーヤーの1人としての役割もこなした[215]。守備陣ではリベロの選手が積極的に中盤や前線に進出するのに対して、センターバックは最後尾から攻撃の起点としてロングパスを駆使してゲームを構築[216]。左右のサイドバックに位置する2人の選手はサッカー界で主流となっていた積極的な攻撃参加を行ず[217]、与えられたポジションとスペースのカバーリングに徹した[217]

中盤は左右の2人は後方から攻めあがったリベロの動きに応じてポジションを代えると共に[218]、リベロの進出により生じた後方のスペースや他の選手のミスをカバーする調整役を担った[218][219]。攻撃的ミッドフィールダーの選手は常にセンターフォワードと5mから10m以内の間隔でポジションを採り、ボールを保持してゲームを動かすのではなく[218]、センターフォワードのためにスペースを作り出し、動きをサポートするなどの関係性を意識させた[218]

前線では左右のウイングに位置する選手がタッチライン際まで開いてセンタフォワードの為にスペースを確保し[220]、攻撃時にはドリブルで対峙する相手を圧倒することを求め、守備時には3人が連携してボールを保持する選手に対してプレッシングを行った[220][注 5]

ただし、ここで述べたアヤックス時代のシステムはあくまでも優れたセンターフォワードが存在する場合の事例だとしている[222]。両サイドのフォワードに2人のウイングを配するコンセプト自体は変更はないが[222]、優れたセンターフォワードが存在しない場合は定型的な4-3-3フォーメーションを採用せずにセンターフォワードの位置には選手を配置せずにゲームメイク力のあるフォワードを前線から下がり気味に配置し中盤に近い位置でプレーをさせた[222]

バルセロナで監督を務めていた当時も3トップや中盤でダイヤモンド型の陣形を作る等のコンセプトは変わりなかったものの[222]DFを3人にし3-4-3フォーメーションを採用する機会が多かった[212][222]。その背景には対戦する多くのチームが2トップを採用していたというスペインサッカー界の事情と[212][222]、1980年代後半にACミランを率いたアリゴ・サッキが主唱したプレッシングスタイルの戦術に対抗するための意図があった[212]。一方、バルセロナでは基本的に選手が自由に陣形を崩すことを認めていなかったとの指摘もある[212]

アヤックスやバルセロナでは「パスを繋いで常に自分達のチームがボールをキープして攻撃を組み立て試合の主導権を握る」ボールポゼッションのスタイルを定着させたが[223]、一方でそのスタイルを打ち破られた際の守備のリスクは大きく[172][224]、戦術的な欠点を露呈することもあった[223]。攻撃に人数を割き前掛かりになるため守備が手薄となり[224]、前線の選手達がボールを奪われた際、相手にチェックを掛けボールを再奪取することに失敗し守備陣の裏にロングパスを通されれば一転して危機的な状況となった[224]。不安定な守備と、その欠点を補って上回る攻撃力がクライフの志向した戦術の魅力でもあった[223][224]

人となり

1972年オランダ放送協会の番組に出演した際のクライフ。右から一人をおいてクライフ、シャーク・スワルト。司会者のフレッド・エメルオランダ語版

自分の理想や目標を達成するために周囲を引きこんでいく並外れたカリスマ性のある人物と評されている[225]。「私が思い出すことは、私が一番優れていたということだけだ[226]」「多くの人々から「最高の選手」と賞賛されるが、自分でもそのように考えている。しかし裏返せば多くの低水準な選手達と共に長年プレーをしていたことを意味する[227]」と公言してはばからない自信家であり我が強く[156]、ミスを絶対に認めない頑固さを持ち合わせている[156][228]。13歳の時に受けた職業適性検査では「能力は平均水準をやや上回るが精神的にも肉体的にも未成熟である。感情的で常に刺激を求め興味の対象が頻繁に入れ替わり安く、勉学よりもスポーツに興味を示す。精密さを必要とする職業には不向きであり強いてあげるならば貿易などの商業に向いているだろう」と診断されている[22]

一方で、こうした自信家としてや感情的な側面は、報道陣や他の選手からの介入や外部の人間からの圧力を避けるための身を守るための人格であり[229]、根底には親切心があり有名人然として振る舞うことを嫌っているともいう[229]

会話好きな性格で一旦話し出すと止まらない側面がある[230]。選手時代には試合中に休むことなく選手に指示を出していたことからドラマの『わんぱくフリッパー』の主人公のイルカに準えて「フリッパー」とも呼ばれた[231]。バルセロナの監督を務めていた1990年代にオランダの番組のインタビューに応じたところ予定の時間を上回り30分近く会話を続けたため、番組スタッフが編集作業で取捨選択することが困難となり、改めてクライフのための番組が製作された[232]。また、オランダ国民には兵役が義務付けられているが招集を受けた際にクライフが医師と直接交渉して相手を根負けさせ兵役が免除されたエピソードや[233]、1971年にオランダ君主のユリアナ女王と接見した際に税制についての見直しを直訴したため物議を醸したエピソードもある[234]

様々な渾名を持ち合わせており、選手時代には「空飛ぶオランダ人(フライング・ダッチマン)[10]」、「エル・サルバドール」(El Salvador救世主の意)の他に「エル・フラコ」と呼ばれていた[3]が、これは1973年にバルセロナへ入団した当時、痩せた体格であったことに由来している[3]。バルセロナの監督を務めていた当時の選手達は、かつてのスター選手への畏怖の念から「」と呼んでいた[3]。また、イニシャルの「J.C.」がイエス・キリストと同じであることから、1970年代に流行したロック・ミュージカルの『ジーザス・クライスト・スーパースター』に準え「スーパースター」とも呼ばれた[2][4]

言語感覚

独特な言語感覚や文章表現の持ち主であることでも知られ[156][235]、クライフ語録 (Cruyffian) と呼ばれる独自の理論が人気を博している[235]。還暦を迎えた2007年にAFP通信が1200人のファンを対象に行った調査によると以下の名言が上位に挙げられた[235][236]

  • 「あらゆる欠点には長所がある」
  • 「我々がボールをキープし続けていれば、相手は永遠に得点することはできない」
  • 「相手が何点取ろうが、それより多くの得点を取れば問題はない」

なお同じ調査において25%の人々が「クライフ語録を理解できる」と回答した[235]のに対し、53%の人々が「時々理解が出来なくなることもあるが、気にしていない」と回答している[235]。母国語のオランダ語の他に、英語スペイン語を話すことが出来る[17][156]ことから選手時代には監督に代わって記者に説明役を買って出ることもあった[17]。しかし長年スペインに在住していたにも関わらずスペイン語は上達していなかった、との指摘もある[156]

家族

オランダ代表としてプレーするジョルディ(右から3人目、背番号17の選手)

妻とは1967年に行われたピート・カイザーの結婚式を通じて知り合い[237]結婚すると3人の子供をもうけた。長女(1970年生)はクライフがバルセロナの監督を務めていた当時の控えゴールキーパーだったヘスス・マリアノ・アンゴイ英語版と結婚[238]。アンゴイは1996年にバルセロナを退団し引退するとアメリカンフットボール選手となり、NFLヨーロッパバルセロナ・ドラゴンズ英語版[239]などでプレースキッカーを務めたが後に離婚した[240]

次女(1972年生)は物静かな性格であるが父親に似て自己主張が強く、10代から20代の時期に馬術障害飛越競技の選手を志したが膝の故障により断念した[240]

末っ子のジョルディ(1974年生)はクライフがバルセロナ在籍当時に産まれたため、キリスト教の守護聖人のサン・ジョルディに因んで[241]カタルーニャ語風に「ジョルディ」 (Jordi) と命名した[242]。後に父親と同様にサッカー選手になるとバルセロナやマンチェスター・ユナイテッドデポルティーボ・アラベスなどに在籍した。オランダとスペインの二重国籍を持つ[241]ことから、いずれかの代表チームを選択する権利があり、一時はU-21オランダ代表からの招集を辞退した[241]が1996年4月にオランダ代表を選択し[241]同年に開催されたUEFA欧州選手権1996に出場するなど国際Aマッチ9試合に出場した。

実兄のへニーもサッカー選手でありポジションはディフェンダーを務めていた[243]。クライフと同様にアヤックスの下部組織で育ちトップチームへ昇格を果たしたが大成せずに数シーズンで引退しスポーツ用品店を経営した[243]。へニーの娘でクライフの姪にあたるエステル・クライフ英語版はタレントとなり2000年ルート・フリットと結婚をしたが2013年に離婚が成立した[244]

嗜好

好きな選手は1950年代のスター選手であるアルフレッド・ディ・ステファノ[245]と、「ロッテルダムのモナ・リザ」と呼ばれドリブルの名手だったファース・ヴィルケス[245][注 6]、好きな監督はリヌス・ミケルス[245]、苦手な選手としては1974年ワールドカップ決勝で徹底マークを受けたベルティ・フォクツ[245]の名を挙げている。

15歳の頃からヘビースモーカーであり[248]、選手時代にはハーフタイム中に体を休める仲間達を尻目に一服していたとの逸話もあった[248]。引退し監督になった後も喫煙は続けられベンチで頻繁にタバコをふかす姿が確認されていたが、1991年2月26日に心筋梗塞により倒れ、バイパス手術により一命は取り留めた[248]。手術後は医師から禁煙が言い渡され、タバコの代わりにチュッパチャプスを舐めるようになった[248]。またカタルーニャ州政府の依頼により若者の喫煙防止のためのコマーシャルに出演した[248]。なお、このコマーシャルは、背広姿のクライフがタバコの箱をボールをリフティングする要領であしらった後に画面外に箱を蹴り出し、最後に若者に向けたメッセージが入るといった内容だった[248]

その他

1969年、音楽スタジオでレコーディング中のクライフ。
  • 選手時代はプーマ社とスポンサー契約を結んでいた[249]1974 FIFAワールドカップのオランダ代表ではオランダサッカー協会が契約していたアディダス社のサッカーシューズを使用することを拒否し[249]、アディダスのシンボルである3本線が入ったユニフォームをクライフだけは2本線に変更して試合に出場していた[249]。また監督時代には、自らが設立したスポーツブランド『クライフ・スポーツ』以外のジャージやスーツを着用することを拒否した[250]
  • 1969年に歌手のペーター・クールワインオランダ語版との共演でOei oei oei (dat was me weer een loei)というシングルを発表した。レコーディングの際にクライフはリズム感を保って歌うことが出来ずブランデー入りのコーラを飲んだ上で再びレコーディングを行った[251][252]。このシングルはオランダ国内では目立った売り上げを残せなかったが、後にクライフが移籍したスペイン国内で人気を獲得したことから1974年にスペイン語に翻訳されて発売された[252]
  • ルイ・ファン・ハールとは犬猿の仲として知られる[253]。クライフは機会がある度にファン・ハールの指導方針を批判していたが[254]、クライフの姿勢をファン・ハールも快く考えておらず2010年に「クライフは毎週のように私を無責任に批判し続けバルセロナでの仕事を挫折させようとした」と批判した[254]。ファン・ハールは仲違いのきっかけについて2009年に出版した自伝の中で「1989年にクライフの家族からクリスマスのパーティーに招待されたが私の姉妹の容態が急変したため誘いを断った。そのため気まずい関係となった」と告白した[255]。これに対してクライフはオランダのテレビ局「RTVノールト」の取材に応じ「私は覚えていないが、ファン・ハールはアルツハイマー病なのだろう。私が解決すべきことは何もない」と発言した[255]。また『デ・テレフラーフ』誌で連載している自身のコラムの中では「通常であればコメントしたくもないが、家族を守ってきた私の限度や価値観を超えている[255][256]」と発言した。

思想

選手としても監督としても攻撃的サッカーの信奉者であり[257]、攻撃をせずに守備を固めるような、美しくないサッカーに価値はないとの思想の持ち主である[257]。そのためカウンターアタックに代表される守備的な戦術[258]、中盤を省略してボールポゼッションと相互のコンビネーションを欠いた戦術[259]、一部のスター選手の個人主義と個人技に頼った戦術[259]、結果のみを重視する指導者に対しては常に批判的である。こうしたスタイルの実践は退屈なサッカーの横行に繋がるだけで[260]サッカーの為にならない[261]と主張しているが、自らの理想とするサッカーを遂行する上で最も重要な要素は走力ではなく頭脳や技術であるとし次のような言葉を残している。

試合の中でのスピードを維持するために、パスは味方の足下ではなく常に味方の1m先に出さなくてはならない。また、選手Aが選手Bにパスを出す際、3人目の選手CはBからパスが出る場所を予測して走りこむように心がける。サッカーとは頭で考えるスポーツなのだ[262]
近年、試合中に最も多くの距離を走った攻撃陣の選手が賞賛される傾向にあるが、私のサッカー観とは相反している。1試合で10kmも攻撃陣の選手が走るのは間違ったポジションを採っていることに他ならない。守備陣の選手は良いとしても攻撃陣の選手が走り回り体力を浪費することは、重要な局面での瞬間的な閃きや判断力が鈍りチームに悪影響を及ぼすことに繋がる[263]

この他に、クライフはことある機会に「サッカーとは楽しむものである」という趣旨の言葉を残している[264][265][266]が、現代のサッカー界にはその「楽しさ」が欠けているとして以下の言葉を残している[266]

現代のサッカーには「楽しさ」が欠けている。子供の頃から、走ること、闘うこと、結果を求めることばかり追求し、基本的な技術すら身に付けないことは馬鹿げている[266]
私が現役の頃はプレーをすることが楽しくてしかたなかったが、時代が変わったのだろうか。顔を引きつらせ拳を握り締めながらプレーする選手はプレーを楽しんではいないし、サッカー選手というよりは陸上選手である。私は理想主義者だから、サッカー選手を求める[267]

なお、2002 FIFAワールドカップブラジルが優勝した際には個々の能力は評価しつつルイス・フェリペ・スコラーリの採用したカウンター戦術について「アンチフットボール[268]」「ボールの出所にプレッシャーを掛け3-5-2システムの両サイドの選手を守備に忙殺させてしまえば平凡なチーム[259]」と評したが、こうした歯に衣着せぬ発言について「率直に考えを述べているだけであって、優勝したこと自体を非難しているのではない。優勝したブラジルには敬意を表したい。ただし、魅力は感じない」と評している[259]

影響

選手

ファイル:Marco van Basten ACMilan.jpg
1980年代から1990年代に活躍したマルコ・ファン・バステンはクライフと比較の対象となっていた。

クライフの影響を受けていると公言している選手としては、フランスのミシェル・プラティニ[269]、ドイツのピエール・リトバルスキー[270]、ルーマニアのゲオルゲ・ハジ[271]、ブルガリアのフリスト・ストイチコフ[272]、イングランドのポール・ガスコイン[273]、オランダのフランク・ライカールト[274]日本西野朗[275]らがいる。オランダ代表や所属クラブでも同僚だったヨハン・ニースケンスは豊富な運動量とボール奪取能力が持ち味の選手だったが、クライフと同じ「ヨハン」という名前を持つこともあり「ヨハン二世」「第2のヨハン」と呼ばれていた[276]

また1980年代から1990年代にはオランダのマルコ・ファン・バステンが「クライフの再来」として紹介されたことがあり[277]、しばしば比較の対象となっていた[278]。クライフとファン・バステンは同じポジションでプレーし共に高い能力を持ち合わせていたが[278]、クライフがピッチ全体を幅広く動き回り指揮者の様に振舞ったのに対し[278]、ファン・バステンは得点を挙げることにプレーを特化させるなど[278]、両者のスタイルは明確に異なっていた[278]。ファン・バステンはクライフとの比較について1992年バロンドール授賞式の際に「クライフは私以上の才能と強さを持ち、ドリブラーでありストライカーでもある万能型の選手だ。そして日々のトレーニングにも励む努力家でもあった。クライフとの比較は名誉なことだが、私が彼に並ぶことは決してない」と評した[279]

ブラジルのサッカー指導者のレヴィー・クルピセレッソ大阪時代に指導した日本の香川真司のプレーについて「香川はピッチのあらゆる場所に現れ、相手の守備陣をすり抜け、シュートを放ち得点を決める。さながら1974年のクライフを思い出させる」としてクライフとの類似性を指摘している[280]

指導者

スペイン

ジョゼップ・グアルディオラは「クライフが現代サッカーの基礎を作った」と評している。

バルセロナの監督時代に志向した[281]、パスを繋ぎボール支配率を高めることで試合の主導権を握り続ける、攻撃的なサッカースタイルは、監督が代わった後も下部組織(カンテラ)を通じてクラブのサッカースタイルとして浸透した[10][281][282][283]。監督時代の教え子であるジョゼップ・グアルディオラ2008年から2012年までチームを率いてドリームチームの打ち立てたタイトル獲得数を上回る結果を残したがグアルディオラ指揮下のバルセロナでは、通常であれば守備時には自陣へ下がりゴール前に守備ブロックを形成し相手の攻撃に対処するのに対し[284]、相手にボールを奪われた際には即座に複数の選手でチェックを掛けて相手陣内にいる内にボールを奪い返し[284]、奪い返せない際にもパスコースを限定させミスを誘発させ奪い返す前線からの積極的な守備を採用することで[223][284]、クライフ時代に欠点と言われた守備面の修正を施した[223]

このことから、ドリームチーム時代の主力選手であるロナルド・クーマンは「チームとしての安定度と守備組織において、グアルディオラが率いるチームはかつてのドリームチームより優れている」と評したが[285]、クライフは「グアルディオラの成功はカンテラ出身の選手が多く存在するからこそ可能なのであり、20年に渡るサイクルの一つに過ぎない。2つのチームを比較して優劣を決めるより、20年という長いサイクルにおいての成功について評価するべきだ」と評した[286]

またシャビアンドレス・イニエスタフランセスク・ファブレガスといったバルセロナのカンテラ出身選手を多数擁する2000年代以降のスペイン代表はバルセロナのサッカースタイルを模倣しているとも言われ[282][283][287]、同代表チームが2006 FIFAワールドカップに出場した際に見せたパスを丁寧に繋ぐサッカーはスペイン国内で「ティキ・タカ」 (tiqui-taca) として紹介されると[288]、やがてヨーロッパ中にその名が知れ渡るようになった[288]。ティキ・タカとは玩具アメリカンクラッカーを鳴らす時に発生する音を字句で表した擬声語である[289]。同代表チームはUEFA EURO 2008ではルイス・アラゴネス2010 FIFAワールドカップUEFA EURO 2012ではビセンテ・デル・ボスケに率いられて、それぞれ優勝を果たしたが、前述の「ティキ・タカ」は代表チームのサッカースタイルとして継承されている[281]

オランダ

ルイ・ファン・ハールは1991年からアヤックスの監督に就任するとクライフ監督時のシステムに修正を施した3-4-3システムを採用[213]。選手に組織立ったプレーと規律を徹底させ[213]、国内リーグ3連覇を果たし国際舞台においてもUEFAカップ1991-92優勝やUEFAチャンピオンズリーグ 1994-95優勝に導いた。1997年からはバルセロナの監督に就任し、アヤックス時代に育成した多くの教え子達を加入させて重用し組織的サッカーを実践したが、クライフ以上にシステムや個々の役割にこだわり[212]、選手の才能よりも自らのゲームプランを遂行させることを重視した[212]。クライフはファン・ハールの監督としての実績は認めながらも、指導方針については「彼のサッカーに対する哲学と私の哲学とは相反する[290]」「私は現場でのプレーの実践こそが基本と考えているが、彼は自らの理論とデスクワークに時間を費やす。最良の指導とは戦術の講義ではなく、ピッチ上でプレーを実践し学習することだ[291]」と否定的な立場を採っている。

フース・ヒディンクはオランダ代表監督として1998 FIFAワールドカップで指揮を執り同国を1978年大会以来20年ぶりのベスト4進出へと導いたが、その際に「このチームの強さは1974年大会のチームと異なり、クライフのような1人の選手に依存しない点にある」と評した[292]

2007年にU-21オランダ代表監督を務めていたフォッペ・デ・ハーン英語版が「クライフの主唱する前線に2人のウィンガーを配するシステムは時代遅れであり現代サッカーには適さない」と主張しクライフとの間で論争が行われた[293]。デ・ハーンは持論に従い4-4-2フォーメーションを採用してUEFA U-21欧州選手権において優勝に導いたことで世論の支持を集め[294]、オランダ代表においてもこのフォーメーションを採用するべきだとの批判が沸き起こった[294]。また、ファン・バステンの率いたオランダ代表のUEFA EURO 2008での敗退やデ・ハーンとの論争を受けて、評論家のヘンク・スパーンオランダ語版サイモン・クーパーらもクライフの思想を批判した[293][295]

ファン・バステンの後任としてオランダ代表監督に就任したベルト・ファン・マルワイクも同様に4-2-3-1フォーメーションとカウンター攻撃を採用したが[258]、こうしたオランダ代表の傾向についてクライフは一定の理解を示す一方で、「美しくない」と批判的な立場を執っていた[282][258]2010 FIFAワールドカップ・決勝ではスペインとオランダというクライフの影響を受けた代表チーム同士が対戦しスペインが勝利したが、クライフは「スペインの勝利は私の思想が間違いではなかったことを証明した」と評した[282]

その他

アルゼンチンホルヘ・バルダーノはクライフに追随し1990年代CDテネリフェレアル・マドリードを率いて攻撃的なスタイルを標榜したが、クライフは「彼は友人であり私と近いコンセプトを持ち合わせている。われわれは魅力的なサッカーを披露しつつ結果を残す、という理想を信じることのない人々と立ち向かっているのだ」と評した[296]

2000年代以降、クライフの用いた3-4-3フォーメーションは欧米の主要リーグで見られることは少ないと言われているが[297]、アルゼンチンのマルセロ・ビエルサイタリアアルベルト・ザッケローニのように3-4-3フォーメーションを堅守速攻型の戦術として運用する指導者もいる[297]。クライフが攻撃に特化しパスを繋ぎ常に自分達のチームがボールを保持して試合の主導権を握ることを求めたのに対し、ビエルサは3-4-3フォーメーションを変形させた3-3-1-3フォーメーションを用い全選手が攻守に連動することで主導権を握ることを求めている[297]。一方、ザッケローニの3-4-3は元々は4-4-2フォーメーションを発展させたもので中盤を横一列に配置した変則的な3-4-3フォーメーションが特徴だが[298]、豊富な運動量をベースに同サイドのフォワード、サイドハーフ、セントラルミッドフィールダーが絡んだサイド攻撃を重視した[297]

評価

選手

選手としてはアルフレッド・ディ・ステファノ[7]ペレ[7]ディエゴ・マラドーナ[7]フランツ・ベッケンバウアー[299]らと並んでサッカー史上に名を残す選手と評される。オランダ国内では芸術家のレンブラント・ファン・レインに例え「自らを芸術家として意識し、サッカー競技という芸術を確立させた最初の選手」と評する者もいる[300]。一方、選手として成功を収めるとそれまでのプレーが影を潜め100%のプレーを発揮することはなくなったとの指摘もあり[72]イギリスのサッカー専門家のエリック・バッティは「1972年のチャンピオンズカップ決勝がクライフの選手としてのピークであり、バルセロナ時代にバイスバイラー監督と衝突した原因は試合時のサボり癖によるものだった」と評している[72]

指導者

監督としてもアヤックスUEFAカップ優勝、バルセロナではドリームチームと呼ばれるタレント集団を指揮し国内リーグ4連覇やUEFAチャンピオンズカップ優勝などの実績を残した[7]。なお、選手と監督の双方でUEFAチャンピオンズカップ(後身のUEFAチャンピオンズリーグを含む)で優勝した経験を持つ人物はミゲル・ムニョスジョバンニ・トラパットーニ、クライフ、カルロ・アンチェロッティフランク・ライカールト、グアルディオラの6人のみである[301]。優勝などの実績を残しただけでなく世界各国の優秀な選手を獲得しつつ下部組織の優秀な選手を発掘し、「観客を楽しませながら選手も試合を楽しみ、なおかつ結果を残す」エンターテインメント性のあるサッカーを実践したと評されている[296]。かつてのドリームチームの一員であるルイス・ミジャジョゼップ・グアルディオラは次のように評している。

あの当時は慎重に試合を進めるサッカーが全盛の時代だったが、クライフに率いられたドリームチームが攻撃的なスタイルで勝利しタイトルを獲得できることを証明した。結果を残したことでサッカーファンが求める「サッカーとは、いかなるスポーツか」との質問への回答を一変させたのだ[155] — ルイス・ミジャ
クライフが現代サッカーの基礎を作り、バルセロナの基礎を作った。それを引き継いで発展させることは、彼に続く指導者達の役割である[302] — ジョゼップ・グアルディオラ

一方、専門家のエリック・バッティは「最も重要な試合の際にクライフは結果のためだけの慎重な試合をしていた」と指摘している[303]

個人成績

クラブでの成績

1983-84シーズン終了時の成績[93][304][305][88][103]

クラブ成績 リーグ カップ 国際大会 通算
シーズンクラブリーグ 出場得点出場得点 出場得点 出場得点
1964-65 オランダの旗 アヤックス エールディヴィジ 10 4 0 0 0 0 10 4
1965-66 19 16 4 6 0 0 23 22
1966-67 30 33 5 5 6 3 41 41
1967-68 33 25 5 6 2 1 40 32
1968-69 29 24 3 3 10 6 42 33
1969-70 33 23 5 6 8 4 46 33
1970-71 25 21 6 5 6 1 37 27
1971-72 32 25 4 3 9 5 45 33
1972-73 26 16 0 0 6 3 32 19
1973-74 2 3 0 0 0 0 2 3
小計 239 190 32 34 47 23 318 247
1973-74 スペインの旗 FCバルセロナ プリメーラ 26 16 12 8 0 0 38 24
1974-75 30 7 12 7 8 0 50 14
1975-76 29 6 10 3 9 2 48 11
1976-77 30 14 9 6 7 5 46 25
1977-78 28 5 7 1 10 5 45 11
小計 143 48 50 25 34 12 227 85
1979 アメリカ合衆国の旗 ロサンゼルス NASL 27 14 - - 27 14
小計 27 14 0 0 0 0 27 14
1980 アメリカ合衆国の旗 ワシントン NASL 27 10 - - 27 10
小計 27 10 0 0 0 0 27 10
1980-81 スペインの旗 レバンテ セグンダ 10 2 0 0 0 0 10 2
小計 10 2 0 0 0 0 10 2
1981 アメリカ合衆国の旗 ワシントン NASL 5 2 - - 5 2
小計 5 2 0 0 0 0 5 2
1981-82 オランダの旗 アヤックス エールディヴィジ 15 7 1 0 0 0 16 7
1982-83 21 7 7 2 2 0 30 9
小計 36 14 8 2 2 0 46 16
1983-84 オランダの旗 フェイエノールト エールディヴィジ 33 11 7 1 4 1 44 13
小計 33 11 7 1 4 1 44 13
通算 オランダ 308 215 47 37 53 24 408 276
スペイン 153 50 50 25 34 12 237 87
アメリカ 59 26 - - 59 26
総通算 520 291 97 62 87 36 704 389

代表での成績

オランダ代表として最後の試合となった1977年10月26日のベルギー戦までの出場数[5]

チーム 公式戦 親善試合 合計
出場 得点 出場 得点 出場 得点
オランダの旗 オランダ 1966 1 1 1 0 2 1
1967 2 1 1 0 3 1
1968 0 0 1 0 1 0
1969 2 1 1 0 3 1
1970 0 0 2 2 2 2
1971 3 5 1 1 4 6
1972 2 2 3 3 5 5
1973 4 5 2 1 6 6
1974 9 7 3 1 12 8
1975 2 0 0 0 2 0
1976 4 2 0 0 4 2
1977 3 1 1 0 4 1
通算 32 25 16 8 48 33

オランダ代表として最後の試合となった1977年10月26日のベルギー戦までの得点数[5]

# 開催日 開催地 対戦チーム スコア 結果 試合概要
1. 1966年9月7日 オランダロッテルダム ハンガリーの旗 ハンガリー 2-0 2-2 UEFA欧州選手権1968予選
2. 1967年9月13日 オランダ、アムステルダム  東ドイツ 1-0 1-0
3. 1969年3月26日 オランダ、ロッテルダム  ルクセンブルク 1-0 4-0 1970 FIFAワールドカップ予選
4. 1970年12月2日 オランダ、アムステルダム ルーマニアの旗 ルーマニア 1-0 2-0 親善試合
5. 2-0
6. 1971年2月24日 オランダ、ロッテルダム  ルクセンブルク 3-0 6-0 UEFA欧州選手権1972予選
7. 4-0
8. 1971年11月17日 オランダ、アイントホーフェン  ルクセンブルク 1-0 8-0
9. 8-0
10. 7-0
11. 1971年12月1日 オランダ、アムステルダム  スコットランド 1-0 2-1 親善試合
12. 1972年2月16日 ギリシャアテネ ギリシャの旗 ギリシャ 3-0 5-0
13. 5-0
14. 1972年8月30日 チェコスロバキアプラハ  チェコスロバキア 1-0 2-1
15. 1972年11月1日 オランダ、ロッテルダム  ノルウェー 4-0 9-0 1974 FIFAワールドカップ予選
16. 8-0
17. 1973年5月2日 オランダ、アムステルダム スペインの旗 スペイン 3-2 3-2 親善試合
18. 1973年8月22日  アイスランド 2-0 5-0 1974 FIFAワールドカップ予選
19. 5-0
20. 1973年8月29日 オランダ、デフェンテル 2-0 8-1
21. 4-0
22. 1973年9月12日 ノルウェーオスロ  ノルウェー 1-0 2-1
23. 1974年6月26日 西ドイツゲルゼンキルヒェン  アルゼンチン 1-0 4-0 1974 FIFAワールドカップ
24. 4-0
25. 1974年7月日 西ドイツ、ドルトムント  ブラジル 2-0 2-0
26. 1974年9月4日 スウェーデンストックホルム  スウェーデン 1-0 5-1 親善試合
27. 1974年9月25日 フィンランドヘルシンキ  フィンランド 1-1 3-1 UEFA欧州選手権1976予選
28. 2-1
29. 1974年11月20日 オランダ、ロッテルダム  イタリア 2-1 3-1
30. 3-1
31. 1976年5月22日 ベルギーブリュッセル  ベルギー 2-1 2-1
32. 1976年10月13日 オランダ、ロッテルダム  北アイルランド 2-1 2-2 1978 FIFAワールドカップ予選
33. 1977年3月26日 ベルギー、アントウェルペン  ベルギー 2-0 2-0

監督成績

2013年1月2日現在[306][307]
チーム 就任 退任 記録
試合 勝利 引分 敗戦 勝率
アヤックス オランダの旗 1985年6月 1988年1月 117 86 10 21 073.50
FCバルセロナ スペインの旗 1988年5月 1996年5月 430 250 97 83 058.14
カタルーニャ選抜 カタルーニャ州の旗 2009年11月 2013年1月 4 2 2 0 050.00
合計 551 338 109 104 061.34

獲得タイトル

選手

アヤックス
バルセロナ
フェイエノールト
  • エールディヴィジ (1) : 1983–84
  • KNVBカップ (1) : 1983–84

監督

アヤックス
バルセロナ

個人タイトル

選手
監督
その他

栄典

脚注

注釈

  1. ^ 英語表記では「Cruyff」と綴られることもある[6]
  2. ^ アヤックスの攻撃的なサッカースタイルはイングランド出身のジャック・レイノルズ英語版によって初めて導入された[15]。レイノルズは選手としての成功とは無縁だったが1915年にアヤックスの監督に就任すると、役員との対立や第二次世界大戦の影響による退団を挟んで25年間に渡って同クラブを指導しオランダ国内の強豪チームへと育て上げた[15]。彼は「攻撃とは最高の形の守備である」との信条に基いた指導を行うと共に、下部組織の基礎を作り各年代ごとのチームが一貫したスタイルでプレー出来るように配慮した[15]
  3. ^ オランダでプロが認められたのは1954年のことで[26][27][28]、前年にオランダ西部のゼーラント州洪水に見舞われた際に同国のスター選手達が災害支援のために、フランス代表と慈善試合を行ったことがきっかけだった[26]。しかしプロが認められた後も、多くの選手がアマチュアやセミプロの選手としてピッチに立っており[26]、待遇面だけでなく戦術レベルにおいても欧州の先進国と比べ大きく立ち遅れていた[29][28]。個々の選手に才能はあってもそれを試合で発揮する術のない状況は1960年代初頭まで続いたという[29]。また、1954年にオランダで認められたのは「セミプロ契約」であったとする指摘もある[30]
  4. ^ クライフは自身のプロ契約について以下のように発言している。
    記憶が正しければ、私はオランダで2人目の「フルタイム」のプロサッカー選手だった。1964年のことだ。考えてもみてくれ、つい最近のことだよ。1人目はピート・カイザーであり、私は2人目だ[31] — ヨハン・クライフ
  5. ^ 2000年代以降は同じ3トップを採用する場合においても「ストライカー2人にドリブラー1人[221]」「ストライカー、ドリブラー、攻撃的MFをそれぞれ1人[221]」といった具合に、選手の組み合わせを自由に入れ替える傾向があり、クライフが好んだ左右の両サイドに典型的なウインガーを配置するスタイルは希少となっている[211][221]
  6. ^ ヴィルケスはドリブルを得意とするフォワードであり[246]アベ・レンストラケース・ライフェルス英語版と並ぶ第二次世界大戦後のオランダサッカー界のスター選手だった。しかしプロサッカー選手としてプレーすることを希望して1949年にイタリアのインテル・ミラノへ移籍しオランダ初のプロサッカー選手となった[246][247]ことでオランダサッカー協会から制裁措置として代表チームから数年間の追放処分を受けた[246][247]
  7. ^ 同賞を3度受賞した経験のある選手はクライフの他にミシェル・プラティニマルコ・ファン・バステンリオネル・メッシの4名がいる。

出典

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関連項目

外部リンク

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