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「鉄道事故」の版間の差分

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平成10年以降(1998~ ): 東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切死傷事故を内容を推敲した上で掲載
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: [[高知県]][[宿毛市]]の[[第三セクター]]・[[土佐くろしお鉄道宿毛線]][[宿毛駅]]構内で、宿毛行き特急「[[南風 (列車)|南風]]」が116km/hで宿毛駅に進入し、頭端式(行き止まり式)のホームを過走して駅舎に激突した。この事故で、乗員1名が死亡し、乗員1名、乗客9名が負傷した。宿毛駅の駅舎は大破し、半年以上にわたって駅舎の使用停止を余儀なくされた。
: [[高知県]][[宿毛市]]の[[第三セクター]]・[[土佐くろしお鉄道宿毛線]][[宿毛駅]]構内で、宿毛行き特急「[[南風 (列車)|南風]]」が116km/hで宿毛駅に進入し、頭端式(行き止まり式)のホームを過走して駅舎に激突した。この事故で、乗員1名が死亡し、乗員1名、乗客9名が負傷した。宿毛駅の駅舎は大破し、半年以上にわたって駅舎の使用停止を余儀なくされた。
:詳細は[[土佐くろしお鉄道宿毛駅衝突事故]]を参照。
:詳細は[[土佐くろしお鉄道宿毛駅衝突事故]]を参照。

====東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切死傷事故====
*[[2005年]][[3月15日]] 午後4時50分頃
:[[東京都]][[足立区]]の[[東武伊勢崎線]][[竹ノ塚駅]]南側の伊勢崎線第37号踏切で、女性4名が[[太田駅 (群馬県)|太田駅]]発[[浅草駅]]行きの上り準急電車にはねられ2名が死亡し、2名が負傷した。
:当時、この踏切は手動式(第1種乙踏切という)であり、東武鉄道の係員が操作していた。事故発生前の列車が通過後、列車の接近を知らせる警報ランプが点灯しているにも関わらず、次の準急列車通過までに余裕があると踏切警手が思い込み、遮断機のロックを解除して2~3m上げってしまうという誤操作が原因であった。
:東武伊勢崎線は[[北千住駅]]~[[北越谷駅]]を複々線化する際、ほとんどの区間では立体交差化を行っていた。しかし、竹ノ塚駅では南側に[[東京地下鉄]](東京メトロ)の[[竹ノ塚検車区]]が存在しており、高架化が困難なため踏切による平面交差としていた。その一方で、検車区への入出庫列車が頻繁にあったためいわゆる「開かずの踏切」となっており、自動化すると遮断時間が長くなる恐れがあり、手動踏切として残していた。
:事故後、東武線内に存在していた手動踏切は全て自動化され、竹ノ塚駅の前後に存在する踏切では踏切道の拡幅や歩道橋の設置が行われ<ref>[http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2005/04/20f4m700.htm 東武伊勢崎線竹ノ塚駅付近における緊急踏切対策について(平成17年4月22日・東京都)]</ref>、[[京成電鉄]][[京成高砂駅]]にあった手動踏切についても自動化された<ref>[http://www.metro.tokyo.jp/INET/OSHIRASE/2006/07/20g73500.htm 京成本線京成高砂駅付近における踏切対策について(平成18年7月3日・東京都)]</ref>。また、国土交通省もこの事故を踏まえて踏切対策のスピードアップを図る方針<ref>[http://www.mlit.go.jp/road/press/press06/20060110/20060110.html 踏切交通実態総点検および踏切対策の推進について(平成18年10月・国土交通省)]</ref>としている。その一方で竹ノ塚駅付近の立体化は費用の面などから事業化には未だ目処が立っていないのが現状である。

=====以下脚注=====
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<references/>



==== 福知山線脱線転覆事故 ====
==== 福知山線脱線転覆事故 ====

2007年2月17日 (土) 15:33時点における版

鉄道事故(てつどうじこ)は列車の運転においておきた事故である。

事故と称するケースは、列車の遅れなどの日常頻繁に起こる小規模なアクシデントから、死者がでる大事故までさまざまだが、ここでは、死傷者が出たり、衝突、脱線、火災が発生したなど、規模の大きな事故を示す。

概要

鉄道は大人数輸送、高速運転、定時運行が特徴であり、そのため一旦事故を起こすと、多くの被害者、社会的影響を与える。また鉄道事故件数は近年減少しているものの、些細なものも含めて日本国内で年間500件以上起きており、そのうち半数近くが踏切障害事故である。

国土交通省令鉄道事故等報告規則では、鉄道運転事故としては列車衝突事故列車脱線事故列車火災事故踏切障害事故・道路障害事故・鉄道人身障害事故・鉄道物損事故の7項目を定めている。

鉄道による輸送に障害を生じた事態であって、上記の鉄道運転事故以外のものは鉄道事故ではなく輸送障害という。特に雨や雪などで休止や遅延が発生した場合には、輸送障害ではなく、災害と呼ばれる。事故を惹起する危険が高い事態が発生し、なおかつ実際には事故が発生しなかった事案は、運転事故が発生するおそれがあると認められる事態=インシデントと呼ばれる。

主な鉄道事故(日本)

各項目の見出し(事故の名称)を変更する場合は、ほかの記事から[[鉄道事故#○○事故|○○事故]]などの形でリンクされていることがありますので、リンク元の記事のリンクも確認・修正してください。

明治・大正時代

新橋駅構内列車脱線事故

新橋駅構内で横浜からの列車が到着する際、ポイント通過時に機関車貨車1両が脱線し転覆。負傷者なし。以後終日運休となった。
原因はポイントの故障とされる。日本最初の鉄道事故。

東海道線西ノ宮列車正面衝突事故

東海道線神戸駅西ノ宮駅間で上り旅客列車と下り回送列車が正面衝突。
上下列車は本来西ノ宮駅で行き違う予定だったが、上り旅客列車の直前に臨時列車が設定され、下り回送列車の運転士が臨時列車の到着後、旅客列車を待たずに発車したのが事故の原因である。上り旅客列車と正面衝突し、乗務員3人が死亡した。
従来は駅長同士の電信連絡で列車の運行を管理していたが、事故を機に1区間に1本の列車しか入れないようにする票券閉塞方式の導入が前倒しされた。日本最初の鉄道死亡事故。

大森駅構内列車脱線事故

東海道線大森駅構内で、到着した新橋発大森行き臨時列車(客車14両編成、池上本門寺参詣客用)を下り線から上り線に転線する作業中、分岐器上で客車が脱線転覆。乗客1名死亡、1名負傷。
事故原因は推進運転中の機関士が入換合図を見間違え、開通していない分岐器に進入したためといわれる。日本の鉄道事故において最初の旅客死亡事故。

山陽鉄道軍用列車海中転落事故

当時山陽鉄道の路線であった山陽本線尾道駅糸崎駅間を深夜に走行していた上り軍用列車(蒸気機関車牽引、客車23両)が、折からの暴風雨による満潮時の波浪で、築堤が300mにわたって崩壊していた線路に突入したため、機関車と客車6両が瀬戸内海に脱線転落した。
軍用列車には日清戦争に従軍した傷病兵362名が乗車していたが、11名が死亡し98名が負傷した。なお、同区間は現在は海岸より少し離れたところに線路があり、海岸との間に国道2号線があるため、同種の災害が起きる危険度は低い。

箒川鉄橋列車転落事故

当時日本鉄道の路線であった東北本線矢板野崎間で発生した明治時代最大の鉄道事故である。当日、折からの台風接近による強い風雨をついて、上野福島行きの貨車客車混合第375列車(機関車2両+貨車11両+客車7両)は矢板駅を約1時間遅れで17時頃発車した。そして箒川鉄橋を通過中突風にあおられ、この瞬間貨車最後尾の緩急車の連結が外れて緩急車とその後ろの客車7両が鉄橋上で転覆、そのまま箒川へ転落した。増水した川の濁流で貨車・客車は砕かれ、一部の遺体は下流の茨城県まで流されたという。死者19名、負傷者38名。
対策として、大雨・強風時などに運転抑制を行うことが検討されたが、運転抑制するべきか判定が難しく具体化までまだ時間を要した。

横川~軽井沢間乗務員乗客転落事故

横川駅を発車し軽井沢駅へ向かって登坂中の長野行き第51列車において、21時頃蒸気機関車のスチームパイプが突然破裂し、噴出した蒸気によって機関助士2名が車外に吹き飛ばされて重軽傷を負った。機関士は非常制動をかけたがブレーキが効かず、列車は重力によって自然停止した後に退行しはじめた。このとき乗客は40人おり、うち1人が退行前に飛び降りて無事に軽井沢駅にたどり着いたが、退行開始後に飛び降りた日本鉄道副社長男爵毛利重輔とその子息の2人が列車に巻き込まれて死亡した。技術者であった毛利は碓氷峠の急勾配で退行し始めたことは制動不能になったと判断、その恐ろしさを知っていたため、他の乗客にも飛び降りることを勧めて飛び降りたという。列車は約1.9km退行したが、機関士の必死の操作により停車に成功し、残った乗客は無事であった。

北陸線東岩瀬駅列車正面衝突事故

北陸本線東岩瀬駅(現在の東富山駅※)で、上り列車と行き違いを行う予定の下り貨物列車オーバーランを起こして本線に飛び出して停車したため退行中に、上り団体旅客列車が衝突。24名以上が死亡した。
上り列車の停止信号の見落とし、またはブレーキ操作の遅れが衝突の原因とされている。
但し、後のこの事故に関する関係者の処分では、緩急車へのブレーキホースの連絡が不完全だったにもかかわらず(つながってはいたが、ブレーキはかからない状態だった)発車させ、そのときの虚偽報告が元で当時の富山駅助役が減俸処分となっている(交通世界大正4年2月15日号より)。
この事故を機に安全側線が採用され、日本全国に整備された。
富山ライトレール富山港線にある東岩瀬駅は当時未開業で、1924年(大正13年)に越中岩瀬駅として開業した。

東北線列車正面衝突事故

東北本線下田駅~古間木駅(現三沢駅)間で、下り臨時旅客列車と上り貨物列車が正面衝突。20名が死亡した。
当時、東北本線は単線通票閉塞方式をとっていた。当日夜、古間木駅助役と駅員1人が勤務時間中に外出し飲酒した。先に戻ってきた駅員は下り臨時列車の運転の連絡を受け閉塞扱いをしたのち就寝し、後に駅に戻った助役も寝てしまった。その後、下り臨時列車の運転を知らされていない別の駅員が、到着した上り貨物列車に渡す通票が見当たらないために助役を起こして指示を仰ぐが、泥酔した助役は閉塞機から通票が取り出せないのは故障だと判断し、針金を差し込む不正操作で通票を取り出して上り貨物列車に渡し発車させてしまった。当時の閉塞機は通票が引っかかって取り出せなくなる故障が時として起こっており、その際は針金などを差し込んで通票を取り出していたが、この事故を機に、不正扱いが出来ないよう閉塞機の改良が進んだ。

信越本線熊ノ平駅列車脱線事故

貨第191列車(補助機関車2両+貨車11両+本務機関車1両)の本務機関士が、熊ノ平駅を発車後第20号トンネル通過中に異臭を感じ停車した。本務機に異常はなく、補機機関士との連絡をとったところ補機の軽微な故障と判断した。そこで再発車しようとしたが起動せず、碓氷峠の急勾配を退行し始めた。機関士は制動を試みたが発電ブレーキが故障して効かず、10箇所のトンネルを通過暴走して熊ノ平駅の引込線に突っ込み、第10号トンネル終点側出口壁に衝突した。本務機と貨車は転覆して大破、補機も脱線した。これにより乗務員2名、熊ノ平駅転轍手1名が即死、本務機関士が重傷後死亡で計4名が犠牲となり、6名が負傷した。
アプト式電気機関車時代の唯一の死亡事故である。機関車はドイツから輸入した10000形(後のEC40形)で、故障原因は不明。

北陸線列車雪崩直撃事故

北陸本線親不知~青海間にあった勝山トンネル西口で65列車(2120型蒸気機関車2296号機関車牽引、6両編成)が雪崩の直撃を受け客車2両が脱線大破した。乗員乗客200名のうち除雪作業員88名と職員1名、乗客1名が死亡した。
事故原因は豪雪による積雪が季節外れの大雨によって緩んだために発生した雪崩に巻き込まれたものであった。1回の雪崩による犠牲者数では日本で最悪の数字である。
除雪作業員は幹線が積雪で不通になっていたため、鉄道省と陸軍省の要請により沿線村落から建設会社を仲介して集められた青年団などの住民であった。そのため地元は多くの働き手を失ったことに衝撃を受けた。なお犠牲になった乗客1名の身元は判明しなかった。

参宮線列車転覆事故

参宮線(現在の紀勢本線)の下庄~一身田間(亀山から約8.1キロ地点)で、湊町駅鳥羽駅行急行62列車が脱線転覆した事故。死者15名、負傷者約160ないし200名。
この日は先発列車の第60列車が定員オーバーにより連結器が破損、そのため2時間以上遅れ、その間に亀山駅より名古屋方面より来た乗客を乗せるため臨時列車が第60列車のダイヤに沿って発車(臨時60列車)、そして遅れて到着した第60列車が第62列車のダイヤに沿って運行、さらにその後ろを走っていた第62列車は下庄で上り第310列車を待ち合わせ、発車の時には32分遅れで運行された。
そして事故現場ではこの第310列車の通過後40分列車が来ない事になっており、この間にレール交換の予定になっていた。そしてそれを知らせる標識は一切出していなかった。そしてレールを外し終わったところに62号が来て脱線転覆。
機関車は線路の敷かれていた築堤上に停車、しかし木造客車7両のうち4輪単車だった1~3両目は築堤の下に落ちて大破、同じく4輪単車の4,5両目も折り重なるようにして大破、線路上に残っていたボギー車の6,7両目も破損した。そして築堤下に落ちたうちの1両は写真では一切確認できないほど、原型をとどめていない事故であった。

根府川駅列車転落事故

  • 1923年(大正12年)9月1日
熱海線(現在の東海道本線)の根府川駅にホームに停止しようとしていた真鶴駅行き下り列車(960型機関車牽引)が、折りしも発生した関東大震災による地滑りに遭遇し、根府川駅のホームごとおよそ45m下の海中に転落した。そのため、客車8両のうち最後部の1両が波打ち際に残ったほかは海中に没した。列車および駅員を合わせ112名が死亡し13名が負傷した。
遭難した下り列車を牽引していた機関車であるが、1932年9月に海中から引き上げられ、「977」のナンバープレートが交通博物館に所蔵されていた。
根府川駅で、下り事故列車と交換するはずであった東京駅行き上り列車も近づいていたが、駅直前の賽の目トンネルを出たところで地滑りに遭遇し蒸気機関車が埋没し、乗務員6名が死亡し3名が負傷した。こちらも、もう少し地震発生が遅かったら大惨事になった可能性があったという。なお根府川駅付近の住民も200名以上が死亡ないし行方不明となった。
関東大震災では12件の鉄道事故が発生し、犠牲者が出た事故は7件あったが、根府川駅における事故が最大の犠牲者を出していた。

箱根登山鉄道電車脱線転落事故

小田原電気鉄道(現在の箱根登山鉄道小湧谷駅宮ノ下駅間の80パーミルの下り勾配を走行していた下り単行電車のブレーキが利かなくなり、加速してカーブで脱線し、築堤から12m下に落下し、民家2軒(留守で誰もいなかった)を半壊させた。この事故で17名が死亡10名が負傷した。唯一無傷だったのは途中で飛び降りた乗客1名のみだった。
事故原因は電車の運転手が速度制御に失敗したとされているが、運転手は生存したものの重傷のうえ精神に異常をきたした為、詳細を調査できなかったという。

山陽線特急列車脱線事故

山陽本線安芸中野駅海田市駅間で、豪雨により築堤が崩壊し線路が浮き上がっていた場所に東京発下関行きの下り特急第1列車(事故後の1929年(昭和4年)に「富士」と命名)がさしかかり、築堤下に脱線転覆。34名が死亡した。
事故列車はヨーロッパアジア国際連絡運輸の一部を担うものであり、著名人が多数犠牲となった。木造客車の車体強度の弱さが指摘され、この事故と参宮線における事故により木造車両の製造を中止し、翌年から鋼製客車が製造されるようになった。
事故の詳細については、山陽本線特急列車脱線事故を参照のこと。

昭和元年~9年(1926~1934)

北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故

北陸本線刀根駅柳ヶ瀬駅間(別線が作られたため1964年に廃止)にある柳ヶ瀬トンネル(単線)を走行していた上り556貨物列車(D50蒸気機関車2両、前部本務機D5064、後部補機D50206)が、トンネル内の25パーミルの登り坂で車輪が空転し速度が低下し、トンネル内に煤煙が充満したため、出口から25mの地点で走行不能になった。そのため上り貨物列車の乗員10名が窒息したが、かろうじて前部本務機の乗務員3名が這いでて昏倒した。
トンネル直前にあった雁ヶ谷信号所で待機していた下り553貨物列車の機関車が救助のために牽引し、トンネル外に押し出したが、下り機関車の乗務員2名も昏倒した。結果上下の貨物列車の乗務員12名全員が窒息し、上り貨物列車の車掌・荷扱手、機関助士見習の3名が死亡した。(一部に5名死亡の記録もある)
事故原因は、2日前に別の鉄道事故で1日間不通になったため、滞貨していた貨物を大量に牽引していたため、重量が超過していたこと。レールに積雪があり車輪が空転していたこと。風が貨物列車にとって追い風となり、煤煙が纏わり付いて拡散しなかったことがあげられている。しかし、最大の原因は柳ヶ瀬トンネルが1884年に開通したトンネルであり、明治時代の小さな蒸気機関車にあわせたトンネル幅の規格(後年の標準規格の71%のサイズしかなかった)で建設されていたことである。そのため、昭和時代になって大型蒸気機関車が通行すると、空間に余裕がないため煤煙が充満し当該窒息事故が発生した。
事故対策として、全国の長大トンネルで列車が入ると煤煙にまかれないように遮断幕を下ろす設備が整備されたほか、蒸気機関車の運転室に煤煙が入らないように、集煙装置が付けられるようになった。

久大線機関車ボイラ破損事故

久大本線鬼瀬駅小野屋駅間で、後進牽引(ボイラ側を客車に向けて牽引)していた機関車のボイラが破裂。煙室扉が開き、熱水(飽和蒸気もしくは水性ガスの説あり)が客車内に吹き込み、23名が死亡した。
この事故を機に、後進牽引を極力抑えるため、終点駅への転車台設置が進められた。

山陽線急行列車脱線事故

山陽本線河内駅を通過中の上り急行列車が分岐器で脱線。機関車が横転して後位の客車5両が駅前方の川に転落し、7名が死亡した。
分岐器通過の際の速度超過が原因とされ、速度制限標の設置が進められた。
なお、事故の原因については分岐器の設置ミスとの説もある。(日本経済評論社発行 続・事故の鉄道史に該当記事あり)

東海道線急行列車脱線転覆事故

東海道本線草津駅石山駅間(現在の瀬田駅~石山駅間)の瀬田川橋梁上を徐行運転していた下り急行列車(11両編成)が室戸台風の強風により脱線。3両目以降の9両の客車が橋梁上に転覆し、11名が死亡、202名が負傷した。
事故を機に、主要駅に風速計を設置した。

昭和10年代(1935~1944)

西成線列車脱線火災事故

西成線(現桜島線安治川口駅構内で、駅員の誤操作により列車通過中にポイントが転換したため、通勤客で満員のガソリン動車(ガソリンカー)3両編成のうち最後尾の1両(キハ42000形42056号車)が2対のレールにまたがったまま走行し、踏切付近の構築物に衝突して脱線・転覆。燃料ガソリンへの引火により火災が発生し、満員のまま横転した車両で189名が焼死・69名が負傷した。
事故の詳細については、西成線列車脱線火災事故を参照のこと。

山陽線網干駅列車衝突事故

山陽本線網干駅構内で、上り急行列車が駅場内信号の赤信号を冒進して駅構内に進入し、停車中の普通列車に追突。65名が死亡、71名が負傷した。
当時の橙信号など中間現示には速度制限がなかったので、橙信号下で減速せず走行したことから次閉塞区間の赤信号で停車できずに事故を招いたとされた。この事故を機に、中間現示制限が試行され、それがダイヤ維持に悪影響のないことも分かり、橙信号下では30km/h制限などの変遷を経て45km/h以下(改良線55km/h以下)に落とす規定となり、また東海道・山陽・鹿児島線に連続コード速度照査式ATS設置工事を開始したが、受信機が運用直前に爆撃で使えなくなり頓挫、戦後は米占領軍に工事再開を拒否されて放置された。

豊肥線列車脱線転落事故

豊肥本線竹中駅中判田駅を走行していた下り列車(8620型蒸気機関車牽引)が、豪雨で路盤が軟弱化していた河原内鉄橋付近で機関車と客車4両全てが脱線し、機関車と客車2両が立小野川に転落した。44名が死亡、72名が負傷した。

常磐線土浦駅列車衝突事故

常磐線土浦駅構内で、入換中の貨車が上り本線に進入し、同駅を発車した上り貨物列車と衝突。貨物列車は脱線して下り本線を支障し、下り普通列車と衝突した。普通列車の客車4両が脱線転覆、そのうち1両が桜川へ水没し、最終的に110名が死亡、107名が負傷した。
事故内容が類似していることから三河島事故の予兆とされこの事故がしっかりと検証されていれば、その事故の重大化は避けられたものと思われる事故である。
またこのときの事故車両D51 651は修理後運用復帰し、1949年下山事件下山総裁を轢断している。

高野電気鉄道電車脱線転覆事故

高野山電気鉄道(現在の南海電鉄高野線紀伊細川駅上古沢駅を走行していた上り極楽橋駅行き電車が、床下より出火し急停車した。点検していたところ停止ブレーキのかけ方に不備があったため、33パーミルの急勾配を電車は逆走し曲線区間で脱線転覆した。71名が死亡、138名が負傷した。
なお、事故の引き金になった出火原因であるが、鉄道会社に記録が残っておらず不明である。

山陽線列車追突事故

山陽本線上郡駅三石駅を走行していた下り233旅客列車(C57牽引)が閉塞信号の停止現示で停止していたところ、午前1時56分に後続の下り345貨物列車(D52牽引)が追突し、追突した機関車と貨車56両中4両と、旅客列車11両中5両が脱線し大破した。38名が死亡、59名が負傷した。
事故は、後続の貨物列車の乗務員が居眠りし、信号冒進したためであった。なお後続列車の乗務員は生存していたが、自責の念から後に蒸気機関車の火室で焼身自殺した。

昭和20年代(1945~1954)

高山線列車脱線事故

高山線飛騨金山駅焼石駅間にある益田川第三鉄橋を走行中の下り303列車(C58牽引)が競合脱線を起こし、客車6両のうち2両目と3両目が脱線のうえ下の益田川に転落した。死者43名、負傷者56名。
競合脱線の原因として戦時体制下のため客車やレールなどの鉄道施設が荒廃していたことが背景にある。

飯田線電車脱線転覆事故

飯田線三河槙原駅三河川合駅間を走行中の201電車が山腹から突然落下してきた巨大な岩石の直撃を受け、2両編成の電車は脱線転覆し三輪川に転落した。死者20名、負傷者23名。

肥薩線列車退行事故

肥薩線吉松駅真幸駅間の山神第二トンネル内において、蒸気機関車(D51重連)牽引の上り人吉方面行き列車が、粗悪石炭使用のため出力が不足して勾配を登りきれずに停止。トンネル内に充満した煙に耐えられなくなった復員者などが列車から降りて出口へ向かって歩いていた所へ列車が逆走し始め、多くの乗客が轢死した。死者53名。
終戦直後の混乱期における、劣悪な輸送状況を象徴する一つの例として挙げられることがある。
詳しくは肥薩線列車退行事故の項を参照。

八高線列車正面衝突事故

八高線小宮駅拝島駅間の多摩川鉄橋上において上り列車と下り列車が正面衝突し、客車が川に転落。少なくとも105名の死亡が確認された。終戦直後の混乱期のため列車は超満員で、多数の乗客が川に流されており、実際の死者数は上記の倍とも3倍とも言われている。
原因は、小宮~拝島間での列車の運行の連絡不備による人為的なものとされている。2001年に当時の車両の車輪が川の中州から発見され、2004年に河原の公園脇に設置された。また下記のように八高線では、2年後にも184人の死者を出す事故が発生した。
参考記事:読売新聞都内支局「さびた車輪 八高線多摩川鉄橋事故」

中央線笹子駅構内脱線転覆事故

中央線笹子駅構内で、スイッチバックのため折り返し線に午前3時41分に到着した下り403列車(ED16電気機関車牽引)が車止めを突破し機関車と客車9両のうち3両が大破転覆した。死者60名、負傷者91名。
原因は機関車の乗務員2名が居眠りしブレーキ操作が遅れたためとされている。

神戸有馬電気鉄道電車脱線転覆事故

神戸有馬電気鉄道(現在の神戸電鉄有馬線鷹取道駅(現在の丸山駅)~長田駅間を走行中の神戸行き上り電車が33パーミルの下り勾配でブレーキ制御が不能になり、長田付近の曲線で2両編成の電車は脱線転覆した。死者48名、負傷者180名。
事故原因として電車運転手の制御ミスとされているが、終戦直後のため電車の整備状態も悪かったことも背景にあると指摘されている。

東急小田原線列車脱線転覆事故

当時東京急行電鉄の路線であった小田原線大根駅(「おおねえき」、現・東海大学前駅)から渋沢駅までの区間は、上り勾配が延々と続いており、事故の発端はここで発生した。
事故を起こしたのは、東京急行(現・小田急電鉄)新宿駅を午前7時50分に発車した小田原駅行き2両編成の電車(第294列車)で、この電車が停電のため15分遅れで大秦野駅(現・秦野駅)を発車したところ、駅から約500mの地点で再び停電し、運転手は制動機をかけて停車したが、まもなく送電。この時、制動機故障のため電車がひとりでに逆行し始めたので、運転手と車掌が下車して車体点検を行ったが、電車は徐々に速度を増し、運転手と車掌は取り残されてしまった。逆行した電車の速度は約90km/hにも達し、鶴巻駅(現・鶴巻温泉駅)の急カーブで前車両が脱線し、転覆した。死者30人、重軽傷者165人。

中央線乗客転落事故

中央本線大久保駅東中野駅間で、上り電車の4両目の中央扉が満員の乗客の圧力により外れたため、乗客3名が車外に投げ出され神田川に転落して死亡した。
応急対策として扉に外れ止めが取り付けられ、恒久策としては鋼製扉への取替えが進められた。

尾道鉄道電車脱線転覆事故

尾道鉄道1964年に全線廃止)石畦(いしぐろ)駅を発車し終点の市駅に向かっていた、下り電車が尾道鉄道第五トンネルの急勾配ににさしかかった際に突如、集電ポールが外れ猛烈な速度で退行しはじめ急カーブで脱線したうえ、山腹に激突し大破した。車両はほぼ満員であったため、死者37名、重軽傷者101名を出す事故となった。
事故原因は乗客による悪戯とブレーキ故障が複合したとされているが、詳細は不明である。

八高線列車脱線転覆事故

八高線東飯能駅高麗川駅間の20‰下り勾配で、C57 93が牽引する超満員の乗客を乗せた6両編成の客車列車が過速度により半径250mの曲線を曲がりきれずに後部4両が脱線し、築堤上から5m下の畑に転落。客車の木造車体が大破し、184名が死亡し495人が負傷するという大事故となった。
184名という死者は1940年(昭和15年)1月に発生した西成線列車脱線火災事故に次ぐものであり、負傷者とあわせた被害者数では当時最悪の鉄道事故であった。
この事故で、事故車両が木造客車であったために被害が拡大したことからその脆弱性が問題視され、木造車の淘汰が決定したが、鋼製客車の新規製造のみによる置き換えはコスト的に困難であったため、木造客車の台車と台枠を再利用し、その上に鋼製車体を載せる鋼体化改造が実施されることになった(→国鉄60系客車の記事を参照)。

名鉄瀬戸線脱線転覆事故

名鉄瀬戸線尾張瀬戸堀川(現在は廃止)行き急行電車が、大森駅(現在の大森・金城学院前駅)東側にある半径160mのカーブに差し掛かったところ、後部の車両サ2241形が脱線転覆し大破。そのまま50mほど引きずられ、前方の電動車モ565形も転覆した。この事故により、36人が死亡、153人が負傷するという、瀬戸線史上最悪の事故となった。
原因はスピードの出し過ぎと見られている。熱田神宮への初詣客などで大混雑し、運悪くすし詰め状態であったことが、被害をさらに大きいものにした。その後、事故現場付近などで曲線改良を実施した。

近鉄奈良線暴走追突事故

(生駒トンネルノーブレーキ事故)

近鉄奈良線奈良上本町行き急行電車デボ1形他3両編成)が、生駒トンネルを走行中にブレーキが効かなくなり、トンネル内からの下り坂を加速・暴走して70~100km/hで河内花園駅を発車しかけた前方の普通電車に追突。木造車体が大破し、特に一両目は原型さえもとどめていないほどだった。この事故により49名が死亡した。
原因は戦中戦後の酷使の結果、老朽状態で放置されていたブレーキホースの破損とされる。
詳細は、近鉄奈良線列車暴走追突事故の記事を参照。

桜木町事故

(京浜線桜木町駅電車火災事故、桜木町国電火災、国鉄戦後五大事故の一つ)

京浜線の電車(モハ63形、5両編成1271B列車)が、桜木町駅構内で、碍子交換工事中に誤って切断され垂れ下がっていた架線に接触し、電流の地絡により炎上。先頭車が全焼、2両目が半焼し、死者106名、重傷者92名を出す大事故となった。
その当時、京浜線電車に使用していた戦時設計63系の粗悪な構造が死傷者を多くしたとして、国電の安全対策強化の契機となった。
桜木町事故を参照。

昭和30年代(1955~1964)

参宮線六軒駅列車衝突事故

参宮線(当該箇所は現・紀勢本線六軒駅での列車衝突事故。
同駅を通過の予定であった名古屋発鳥羽行き下り快速列車が、機関士の信号見落としにより安全側線に突っ込み脱線、本線側に横たわった所に上り列車が進入し、大破。死者42名、負傷者94名。
詳細は六軒事故を参照のこと。

山陽本線「さくら」・「あきよし」衝突事故

山陽本線西宇部(現・宇部)~小野田間で20系客車による東京発長崎行き下り寝台特急「さくら」に、2時間57分遅れで運転されていた山口発博多行き気動車準急「あきよし」(キハ55系気動車)が追突した。
この日は大雪の影響で通信不能となり、列車の運転は前方を目視で確認しながら15km/h程度の低速で一定時間間隔毎に列車を運行する隔時法によっていた。前方に先行列車を見つけて停車中の「さくら」に「あきよし」の運転士が気づいたのは「さくら」最後尾から約80m手前で、45km/hと速度を出していたこともあり非常ブレーキを扱ったが間に合わなかった。この事故を機に隔時法は廃止された。
この事故では双方の列車に乗客がいたが、「さくら」「あきよし」で計50名の重軽傷者を出したものの、20系客車の軽量構造が衝撃を吸収し、客室部分の損傷を最小限にとどめ、死者は出さなかった。この点では軽量車体の優位性を示したといえる。しかし、当時20系は予備編成が確保されていない状態での運転であった為、付属編成6両が不足する事態となった。そのため、急遽10系ナハネ10形・オハネ17形や旧型客車スハネ30形を20系と併結して、急場をしのいだ(→うばざくらも参照)。

三河島事故

(常磐線三河島駅列車多重衝突事故、国鉄戦後五大事故の一つ)

常磐線三河島駅構内で貨物線から下り本線に進入しようとした田端操車場発水戸行の下り貨物列車(蒸気機関車牽引)が、赤信号を冒進して安全側線に進入し脱線。先頭の機関車が下り本線を支障した直後に三河島駅を1分遅れで出発し下り本線を進行してきた上野発取手行きの下り電車と衝突し、上り本線を支障した。約6分後、さらにその現場に上野行きの上り電車が突入。双方の先頭車両は原形を留めず粉砕され、一部の車両が築堤下の小屋に突っ込み、死者160名を出す大事故になった。
列車や設備、事後直後の保安対策が十分に行われなかった事が原因とされ、自動列車停止装置(ATS)の設置を推進する事になった。三河島事故を参照。

南武線踏切事故

南武線津田山駅久地駅間の第3種踏切で警報を無視して進入したトラックに下り電車が衝突。上り線を支障した下り電車に上り電車が衝突し、3名が死亡した。
踏切事故の多発が問題視され、踏切設備の改良や立体化など、踏切の抜本的な整備対策が検討され、当面の対策として踏切支障警報装置の設置が進められた。

羽越線正面衝突事故

羽越本線羽後本荘駅羽後岩谷駅間で下り単行機関車(D51形蒸気機関車)と上り貨物列車(DF50形ディーゼル機関車牽引)が正面衝突。ディーゼル機関車は前頭部が完全に粉砕されて炎上し、貨物列車の乗務員2名が死亡。単行機関車の乗員3名が重軽傷を負った。
詳細は羽越本線列車衝突事故を参照。

鶴見事故

(東海道線鶴見列車多重衝突事故、国鉄戦後五大事故の一つ)

東海道本線鶴見駅新子安駅間で、貨物線(現在の横須賀線線路)走行中の下り貨物列車が脱線し、そこに上下旅客列車が進入して三重衝突事故となる。合わせて死者161名、重軽傷者120名という大事故になった。
調査の結果、競合脱線が原因だとされた。鶴見事故を詳しくは参照のこと。

昭和40年代(1965~1974)

米軍燃料輸送列車衝突炎上事故

新宿駅構内で、渡り線を通過中の中央線立川行き貨物列車(電気機関車EF10 、タンク車18両)の側面に、中央線上りの浜川崎行き貨物列車(電気機関車EF10 、ホッパ車20両)が、停止信号を示していた場内信号機を越えて衝突。脱線・転覆したタンク車から漏れた航空燃料に引火し、機関車とタンク車3両が炎上した。この事故で死傷者は出なかったものの、激しい火災の消火と、炎上を免れたタンク車からの燃料の抜き取り作業や復旧作業に手間取ったことから復旧が遅れ、中央線は丸1日ストップした。
詳細は米軍燃料輸送列車事故を参照。

南海電鉄天下茶屋駅列車衝突事故

17時17分頃、南海電気鉄道の春木発難波行臨時急行電車(11001系5両編成)が天下茶屋駅ホーム通過後、停止信号を無視して進行、別方向に開通していた分岐器を割り出し、その先の分岐器から分岐側に進入して、出発待機していた回送電車(モハ561形2両編成)に正面衝突した。急行の前頭2両と回送の前頭1両が脱線し、急行電車の旅客と双方の乗務員合わせて296名が負傷した。
直接原因は、急行運転士の信号無視と制動操作の誤りとされたが、競輪競馬(競輪場のほか、1974年まで春木競馬場があった)の観戦客輸送で急行通過が10分程度遅れていたことを理由として、回送電車の出発を優先して急行に停止信号を出した駅員の運転取扱いも問題とされた。

営団地下鉄日比谷線神谷町駅車両火災事故

営団地下鉄(現:東京メトロ日比谷線神谷町駅付近で、回送中の東武鉄道2000系の主抵抗器が過熱発火して火災を起こし、1両が全焼した。事故後、全焼した車両は車体・機器とも全て作り直され修理扱いで復帰。
事故列車は主制御器故障により六本木駅で乗客を降ろし回送中だったため幸い死者は発生しなかったものの、当時の耐火基準の最高ランクであったA-A様式に該当する車両が1両全焼したことから可燃性の車両部品の使用が見直され、翌1969年(昭和44年)に運輸省が耐火基準を強化するきっかけになった(いわゆるA-A基準)。この基準は世界的に見ても厳格なもので、以後の鉄道火災事故防止に貢献している。

御茶ノ水駅電車追突事故

中央本線・御茶ノ水駅に停車中の豊田駅行き2239F電車(10両編成)に、後続の高尾駅行き2201F電車が午後10時38分に追突した。双方の電車とも5両ずつが脱線した。負傷者210名(昭和44年度運輸白書参照)。事故原因は後続運転士の制限速度オーバーとブレーキ操作遅れという人的ミスとされた。
またこの年は、4月に上越線群馬総社駅構内列車衝突事故(69名負傷),6月に伊豆急行川奈駅構内列車接触事故(60名負傷)、8月に相模鉄道瀬谷駅構内列車衝突事故(83名負傷)と豊橋鉄道老津駅構内列車衝突事故(58名負傷)、10月の函館本線奈井江駅における列車脱線事故(29名負傷)、11月の山陽電鉄中八木駅江井ヶ島駅間列車衝突事故(死者1名、72名負傷)など、鉄道事故が多発していた。

寝台特急日本海北陸トンネル列車火災事故

  • 1969年(昭和44年)12月6日 6時20分
青森発大阪行き寝台特急「日本海」が北陸本線敦賀~今庄間の北陸トンネル通過中に最前部電源車から火災が発生。機関士はとっさにトンネル内での停止は危険だと判断し運転規則に逆ってトンネルを脱出して停車してから消防車の協力を得て消火作業を行い火元車両焼損だけで無事鎮火させた。このことは、乗客の安全を守る機転のトンネル脱出として好意的に報道された。
ところが国鉄は、この犠牲者・負傷者ゼロをもたらした殊勲のトンネル脱出の判断を運転規則に反映させるのではなく「運転規則違反」だとして乗務員を処分し、後に急行「きたぐに」で起きる#北陸線北陸トンネル列車火災事故の引き金を引いた(「きたぐに」事故後に行われた運転規則訂正後に処分撤回)。

富士急行列車脱線転覆事故

富士急行大月線月江寺駅富士吉田駅方踏切で、河口湖駅大月駅行き電車(3100形3103+3104)がトラックと衝突。空気溜めを破損したためブレーキが故障し、約4kmを暴走、月江寺駅~暮地駅(現寿駅)間の4駅を通過した後、暮地駅~三つ峠駅間(最急40の下り勾配)のカーブに猛スピードで進入し、進行方向左側の沢に転落した。16名が死亡、70名が負傷した。
この事故後、空気ブレーキの系統を多重化するなどの対策が採られるようになった。また、同社ではこの事故以降、車両番号の末尾が忌み番である「4」の車両は存在しない(後に登場した1000形のうち、1204-1304は欠番)。

近鉄大阪線列車正面衝突事故

(青山トンネル事故・垣内東事故)

近鉄大阪線西青山駅東青山駅間の青山トンネル東口手前200m地点のトンネルで、制動装置の取り扱いを誤った事により暴走した下りの特急列車が、総谷トンネル手前の垣内東信号所の安全側線で脱線して転覆したまま一部車両がトンネルへ進入、そこへ上りの特急が正面衝突し、死者25名(乗務員3名)、重軽傷者255名という大事故になった。
詳しくは近鉄大阪線列車衝突事故を参照。

日暮里駅構内追突事故

京浜東北線北行第1332C電車(桜木町大宮行き:103系10両編成)が日暮里駅で客扱いを終了し、2分遅れで発車したところ運転台の戸閉表示灯が消灯したためブレーキを掛け、約90m進んだ所で停止した。一方で、後続の山手線内回り第1370電車の運転士は(当時は線路保守のため、データイムは田端田町間で山手線と京浜東北線が同一の線路を走行していた。この運転方式は現在でもリフレッシュ工事と称される工事が行われる際に見かける)、一つ手前の鶯谷駅を1分遅れで発車し日暮里駅に進入しようとする際、先行列車がホーム中央部分に停車しているのに気付き、非常ブレーキを掛けたが間に合わずに追突し、143名が負傷した。
原因は山手線の運転士が場内信号機の制限速度を超過して運転したためで、この事故をきっかけに信号保安機器の検討がなされ、京浜東北線・山手線のATC化が決定されることになった。しかし車両面での準備が遅れたため、実施は1981年12月6日まで待たねばならなかった。

船橋駅構内追突事故

総武本線船橋駅で、7時21分頃、駅構内の信号機トラブルにより停車中の緩行線上り613C列車(中野行き、101系10両編成)に、後続の緩行線上り711C列車(三鷹行き、101系10両編成)が追突し、三鷹行きの6両目が脱線した。幸い死者は出なかったものの、朝の通勤時間帯で乗客が非常に多かったため、重軽傷者758名という負傷者数では国内最悪の事故となった。
事故発生の直前、蕨変電所の送電線が断線したことにより信号系が停電し、そのため先行の緩行列車は船橋駅に停車中だった。信号系の停電で閉塞信号機、及び場内信号機が消灯していて、通常であれば後続列車もこれを確認して直ちに停止の手配が取られるところであったが(信号機消灯は停止現示とみなして直ちに停止するよう規定で定められている)、後続列車の運転士は信号系停電時にATS-B型の警報が確認ボタンを押しても鳴り止まないことを認識できなかったため(停電時に警報が鳴り止まないことは運転士教育で教えられていたが、運転士はこのとき自分の置かれている状況がそれであることに思い及ばなかった)、鳴り止まないATS警報に気を取られて故障ではないかとATSスイッチの操作を行っているうちに消灯している信号機を見落としてそのまま進行し、ブレーキ操作が遅れて追突したものである。

北陸線北陸トンネル列車火災事故

(急行「きたぐに」火災事故)

北陸トンネル内を走行中であった、大阪発青森行き客車急行列車「きたぐに」の11号車食堂車オシ17形)喫煙室椅子下から火災が発生し、列車が当時の規則に基づいてトンネル内で停車した。しかし、密閉された空間であるトンネル内であったことから、乗客・乗務員の多くが一酸化炭素中毒にかかり、30名が死亡、714名が負傷した。
この事故を教訓に、地下鉄や長大トンネルを走る車両の難燃化・不燃化の基準が改訂され、車両の防火対策が進められた。
事故の詳細については、北陸トンネル火災事故を参照のこと。

地下鉄日比谷線広尾駅車両火災事故

帝都高速度交通営団(現・東京地下鉄)日比谷線下りB871S電車(3000系8両・全電動車)が、広尾駅600m手前で過負荷継電器により編成内の電源が落ち、復旧後もノッチ操作に制御器が応答せず力行不可能となった。電車は広尾駅で運転を中止し乗客を降車させた。
直後の点検では車両に異常は認められなかった。しかし、乗客から「4両目の床下からボーンという音がした」「床下から少し煙が出ていた」という話を聞いた乗員と駅係員は、上記の北陸トンネル火災の直後ということもあり、大事をとって編成を広尾駅の側線に退避させ、パンタグラフを降下させた上で再度点検することにした。
点検中、5号車(運転中の前から4両目)の断流器から発煙しているのを発見。粉末式消火器で消火を試みたが、作業中に爆発音とともに煙の勢いが強くなり、退避した。その後煙がおさまらないため消防に通報。
3539号車の断流器焼損、高圧ツナギ箱等の床下機器を一部焼損した。死傷者はゼロであった。

関西線平野駅列車脱線転覆事故

関西本線平野駅構内を走行中の湊町(現:JR難波)発奈良行き普通第722列車(113系6両編成)の運転士は、8時12分頃、上り第1閉塞信号機の減速信号および平野駅場内信号機の注意信号の確認を欠き、分岐器に対する制限速度を超過したまま運転し、平野駅3番線で第56ロ転轍機にさしかかった際に制限速度時速35km/hを超過していることに気付き、非常ブレーキを使用した。当該列車は、56号転轍機のトングレール先端から34m進入した上り本線と上下待避線のわたり線で進行右側に脱線、196m進行して停止した。先頭車両が全軸脱線、車体が進行右側に横転転覆、2~6両目車両も全軸脱線転覆し、3名が死亡、149名以上(156名とも)が重軽傷を負った。当該列車が関西線では快速運用に入ることが多かった113系電車による編成であったことから運転士が快速(平野駅を通過する)と勘違いしており、制限速度35km/hの分岐器を70km/h以上で通過したため。運転士は意識朦朧となった状態で運転したもの。
この事故を契機に関西本線における113系の運用はJR発足まで長らく快速運用に限定されることになる。さらに関西本線ではトランスポンダ式Pとの比較で廃止された変周式ATS-Pの長期試験も実施された。事故列車の先頭車は廃車となった。

昭和50年代(1975~1984)

信越線軽井沢駅-横川駅間回送機関車脱線転落事故

信越本線軽井沢横川間上り線で、単行機関車列車(回送列車)列車番号単5462列車(4両編成、EF63 5,9+EF62 12,35)が下り勾配でブレーキが利かなくなり、スピードが超過したため、脱線転落した事故。乗務員3名が重軽傷を負った。事故機は4両とも現場で解体され廃車となった。
事故がおきたのは、午前6時16分ごろ。信越線上り線第一トンネル内で暴走し、出口付近で脱線した後、転覆・転落した。この区間は、最大66.7‰の急勾配のため、下り勾配を走行するEF63は、発電ブレーキという抑速ブレーキを作動させながら、列車が過速度で暴走しないように下りてくる。その際に全ての列車は、過速度検知装置(OSR)によって最高速度を旅客列車40km/h、貨物列車25km/hに制限されており、機関車の回送列車である当該列車は貨物列車と同じ扱いで25km/hの制限によって走ることになっていた。ところが何らかの原因でこのスイッチが正常に作動しなかったものと見られ(一説には運転手が誤って旅客列車側にスイッチを入れていたとも)、制限速度を大幅に超過して坂を下り、トンネル内壁に傷をつけるなど暴走した後に脱線・転覆した。
EF63には下り勾配で暴走したときのために、回路をショートさせ、電動機を破壊してでも列車を止めるための装置が装備されていた。この事故の際、運転士は最終手段であるこのブレーキも使用しているが、それでも下り坂で暴走する列車を止めることはできなかった。急勾配の恐ろしさを関係者に知らしめた事故である。この事故を教訓に、EF63全車両に設置されている過速度検知装置(OSR)に、より厳重な安全対策が施された。

山陽線須磨駅ホーム転落事故

15時50分ごろ、須磨駅にて新快速153系または165系の6両編成)の通過待避をしていた各駅停車の大山健一車掌が、ホームから転落した泥酔の老人を救おうと線路に飛び降りたが、老人とともに新快速にひかれて死亡する事故が起こった。大山車掌は入局2年目であり、その勇気を称えて碑が立てられている。

高松琴平電鉄志度線列車正面衝突事故

東海道線蒸気機関車接触事故

この日、東海道本線の京都駅大阪駅間で同区間の開業100周年を記念し、C57形蒸気機関車が牽引するイベント列車の「京阪100年号」が1往復運行されていたが、その上り列車に線路際で撮影をしていた小学5年生の男児が接触し、死亡した。
事故そのものは、国鉄側に責任のない鉄道人身障害事故であったが、国鉄における蒸気機関車の動態保存に対する考え方を大きく変えた事故となった。
詳しくは、京阪100年号事故を参照のこと。

営団地下鉄東西線列車横転事故

営団地下鉄東西線の西船橋行き快速列車(営団5000系10両編成)が、南砂町~葛西間の荒川橋梁上で竜巻による突風を受けて後部2両が中野方面行きの線路上に横転、1両が脱線。負傷者23人。
当時、営団では地上部要所に風速計を設置、風速15m/s以上でブザーが鳴動、注意運転を指示、20m/sで列車運転を見合わせ、25m/s以上で運転休止を指示することになっていた。現場から800mの地点に風速計が設置されていたが、大手町運輸司令所では警報ブザーは鳴動しなかった。当時、天候は、午後9時の気圧配置では、北緯40度東経137度付近に低気圧988mbがあり、不連続線の1本が東京上空を通過、非常に不安定な気象状況であった。竜巻突風による被害は、午後9時20分頃、川崎市戸田で突風により民家8戸が全壊、60戸の屋根が飛ぶなど、被害区域は幅300~500mの帯状の範囲、川崎市から市川市東方までの30kmの範囲、時間は25~30分間に集中した。竜巻突風は時速80~100kmで北東ないし東北東に直進したものと思われる。
ステンレスカーの車重が問題となったが、その後の調査により、走行中の列車を竜巻が直撃する確率は50~100年に1回と計算され、不可抗力という結論になった。

京王帝都電鉄京王線列車障害事故

京王帝都電鉄(現:京王電鉄京王線飛田給駅武蔵野台駅間の踏切で、トラックの荷台から転落した重機に新宿行き上り急行列車(5000系7両編成)が衝突して下り線を支障したところに、京王八王子行き下り特急0015列車(5000系7両編成)が衝突し前2両が脱線転覆。重機を退かそうとして重機に乗り込んだトラックの運転手が列車に轢かれて死亡し、列車の乗員・乗客ら52名が負傷した。荷物重量制限の確認が厳重にされているが、注意を見落とした可能性もある。余談であるが荷物過剰による事故は、その後も西日本の紀勢線で丸太が衝突した事故でも実際に発生している。この踏切には障害物検知装置が設置されていなかったことから、以後京王線の踏切の安全対策強化が進められた。事故車両は高幡不動駅構内の高幡不動検車区に運ばれ、損傷が酷かった京王八王子方の先頭車1両(クハ5871号車)が廃車となった。

京阪電気鉄道置石脱線事故

大阪府枚方市京阪電鉄京阪本線枚方市駅御殿山駅間で、同市内の中学2年生5人組のグループが悪戯で側溝のコンクリート蓋を線路に置き、ここを通りかかった淀屋橋駅三条駅行の急行電車(5000系7両編成・乗客約400名)の先頭3両が脱線、先頭車が民家に突っ込んだ。幸い犠牲者は出なかったが負傷者104名の大事故になった。
事故により先頭車両5554号車は廃車になった。また中学生グループ及び保護者に対して京阪電鉄は損害賠償訴訟を起こし、その内の1人の親権者最高裁まで争い、高裁に差し戻されたが、1988年に実際の損害額の10分の1を支払うよう命じた判決が出され、和解が成立した(残る9割の損害は保険で対処した)。

名古屋駅寝台特急「紀伊」機関車衝突事故

2時16分頃、機関車付け替えのため名古屋駅に停車中の東京紀伊勝浦行寝台特急「紀伊」(14系客車6両編成)に、連結しようとしていたDD51形ディーゼル機関車(DD51 717)が約20km/hで衝突し、客車3両が脱線した。負傷者14名。機関士が前日の夜、仮眠時間に飲酒しており、それによる居眠り運転をしたことが原因であった。この事故は、当時マスメディアを中心に展開されていた、国鉄職員のモラル欠如への批判キャンペーンをさらに強めることとなり、国鉄と国労などでは、本社職員幹部を更迭するなどし、マル生運動破綻以来の労使癒着関係を解消させることにもつながった。機関車と事故列車の先頭車(スハネフ14 102)が廃車となった。

阪急神戸線六甲駅列車衝突事故

阪急神戸本線六甲駅構内で、本線に出てきた上り回送列車(山陽電鉄3050系4両編成)に、同駅を通過しようとした上り特急電車阪急電鉄2000系8両編成)が衝突。特急電車の前部3両と、回送列車の4両が脱線し、負傷者72名を出した。回送列車の運転士山陽電鉄運転士)が故意に自動列車停止装置(ATS)のスイッチを切り、車掌の合図と信号を無視して定刻より早く発車したことが原因。ゴールデンウィーク中であったため、特急電車は満員状態であった。また事故時には、反対方向へ向かう普通列車が同駅に向かって走行しており、衝突した特急列車運転士阪急電鉄の運転士)が異常を知らせるために重傷を負いながらも線路上を大阪方へ向かって走ったことにより、二次的事故を免れたとされる。当該車両のうち、損傷の酷かった阪急2000系2050号車が廃車となった。
事故を起こした山陽電鉄運転士は後に懲戒解雇され(動力車操縦者免許も剥奪)、同乗していた車掌も直接の責任はないながら、事故を未然に防げなかったという自責の念に駆られ、事故から11日後の5月16日自社線特急電車に飛び込み自殺をした。大阪陸運局(現在の近畿運輸局)が特別保安監査を行ったところ、安全教育の不徹底が指摘され、同年5月31日山陽電鉄に対して業務改善命令が出された。

西明石駅寝台特急列車脱線事故

  • 1984年(昭和59年)10月19日
1時48分頃、西明石駅を通過中の宮崎発東京行寝台特急「富士」(機関車+24系25形客車14両)の先頭客車(13号車)が脱線してホームに激突し、車体側面下部が大きく削り取られて大破した。最後尾の電源車を除く他の12両の客車もすべて脱線した。負傷者32名。
駅構内で保守工事が実施されており、「富士」の機関士にも分岐器の曲線側を減速通過するように通達が出されていたもの、その旨を忘れて高速で進入したのが原因であった。機関士が飲酒運転を行っていたことも発覚し、世間からは2年前の「紀伊」の事故とあわせて、強い非難を浴びた。
西明石駅列車脱線事故を参照。

上信電鉄列車正面衝突事故

上信電鉄上信線赤津信号所付近において、下り列車(6000系2両編成)と上り列車(100形2両編成)が正面衝突し、上り列車の運転士1名が死亡、乗客132人が負傷した。
原因は下り列車の運転士が、上り列車と交換予定であった同信号所の停止信号を見落とし通過してしまったため。 事故当時、同線にはATSは設置されておらず、赤信号を無視しても列車を止めることができなかった。
当時のダイヤでは上下列車の交換地点が列車によってばらつきがあり、そのことが事故の遠因になったのではないかと指摘されたため、事故後列車交換駅の統一や列車の減便を伴う大規模なダイヤ改正が行われた。 またATSについては、事故発生から1年後の1985年12月までに整備を完了している。
この事故により運転士が死亡した上り列車の車両2両(クモハ102+クハ102)が廃車されている。

昭和60年代(1985~1988)

能登線列車脱線事故

能登線(後に第三セクター化されてのと鉄道能登線に変更、現在当該区間は廃止)古君駅鵜川駅間で、下り気動車急行列車「能登路5号」(金沢発蛸島行き、キハ58系4両編成)が、古君駅を15分遅れで速度約50km/hで力行運転、進行左側の築堤の盛土が一部崩壊し線路が浮いている場所に進入して、直ちに非常ブレーキを使用したが、全車両が脱線、気動車の前3両が築堤の約8m下の水田上に落下、横転、4両目が進行左側に約30度傾斜して停止した。旅客7名が横転した2両目気動車の下敷きになって死亡、32名(気動運転士、車掌、従業外の国鉄職員)が負傷した。
事故現場の築堤の盛土は水抜きパイプがなく、両端に草を植えた古い方式の土工法によるものであった。前日夜から当日朝まで連続雨量95mmの豪雨が観測されていたが、事故当時は降雨はなかった。豪雨時の運転規制条件の見直しと、同種の方式の盛土の一斉点検が実施された。事故車両はすべて廃車となった。
付近の累計雨量は7月10日から11日8時まで約100mmであったが、その後、降雨は無かった。現場より約2km離れた鵜川駅の雨量計によれば、6月30日より降り始めた雨は7月1日までに107mm、その後7月4日から降り始めた雨は8日まで降り続き、5日間で445mmにまで達した。続く2日間降り止んだ後、7月10日から降り始め、7月11日8時までに95mm、全体で12日間に540mmの累計雨量であった。
開業以来、最大の連続降雨により盛土内水位が異常に上昇し、安定が損なわれ、クリープ的破壊が生じ始めたところに列車が進入し、急激な滑動に至ったものと推定される。
盛土は軟弱地盤(厚さ約2m)の上に高さ7.5mで建設され、盛土右側は斜面に接していた。盛土材料は粘性土であった。盛土の崩壊は線路中心から起き、円弧すべり(後述)により約3mの沈下を生じた。盛土のり尻付近ではあぜ道が盛土とともに横移動、田面が隆起、基底破壊が引き起こされていた。崩壊の原因は、長期にわたる降雨による台地からの浸透水と台地上の表流水が徐々に盛土本体および支持地盤に浸透、盛土および地盤の隙間水圧が上昇、また盛土重量が増大したためと思われる。降雨後約6時間を経て崩壊したのは、盛土材料が粘性土であり、台地も粘性地盤であるために、降雨の影響が及ぶのにタイムラグが生じたためであると思われる。
土木工学上、円弧すべりは、盛土が締め固め不足である、また排水工事が不十分であるときなど、土中の水により新しい盛土が滑る、一般的な現象である。すなわち盛土内で飽和状態にある水により滑り台のように盛土が滑るのである。円弧すべりによる事故としては、1938年6月、山陽本線和気~熊山間の、半年前に新たに築堤を造成し線路移転を図った箇所で、長期にわたる降雨により築堤崩壊がおこり、列車が横転、死者25名、負傷者108名の重大事故が起きていた。1938年の事故は線路改良後短期間で起きたが、1985年の当該事故は、建設後長期間が経過し安定したかに思われる地盤においても長期にわたる降雨とその他予想し得ない条件が重なれば円弧すべりが発生することをしめしたものである。
従来の要領で定められていた連続降雨および降雨量では危険性を適切に評価できない長期にわたる降雨に対する防災対策と運転規制については、日本鉄道施設協会内に、学識経験者をまじえた「降雨時の災害防止に関する研究委員会」が設置され、審議、抜本的な見直しが行われた。
その後、同様な崩壊が発生すると考えられる軟弱地盤上の粘性土高築堤その他を、長雨重点警備箇所として指定、これら対象区間には、従来の運転規制基準に加え、ひと雨の降り止み、降り始めを定義する降雨中断時間を48時間とする「累積雨量」による運転規制を定め、この規制ルールにも対応し得る演算機能を有する雨量警報装置(レインピュータ)の配備を行った。長雨重点警備箇所のうち、防護工の設置による対策が講じられ、土中水位の断続観測によりその効果が確認され長雨による後(おく)れ破壊が起こるおそれがないと判定されたものについては逐次、指定の解除が行われた。

東急東横線横浜駅脱線事故

東急東横線横浜駅構内において、元住吉桜木町行き急行電車(9000系8両編成)の最後尾が脱線。負傷者はいなかった。
原因は、輪重比不均衡で乗客乗降の荷重急変に追従できなかったためと考えられ、以降、東急では輪重比10%以内(輪重0.9~1.1)に管理、半径450R以下の曲線への脱線防止ガード設置を決め、後の日比谷線中目黒事故で、ガードレールについては、設置判別式を制定して全事業者に採用されたが、運輸省はこの時点では他事業者対する注意喚起を行わなかった。
東急横浜駅脱線事故を参照。

西武新宿線田無駅列車追突事故

西武新宿線田無駅構内に接近した西武新宿行き上り急行電車(2000系8両編成)のブレーキが効かなくなり、ホームに停車中の準急電車(2000系8両編成)に追突、200名余が負傷した。
当日は大雪であり、車輪とブレーキシューの間に雪が挟み込まれたのが原因とされた。事故にあった車両のうち、損傷のひどかった8両(2両編成1本のほか、6両編成2本のうちそれぞれ2両と4両)が廃車となった(残った6両編成の車両はまとめられて6両編成1本として復旧)。その後、事故車両と同系の車両全車には耐雪ブレーキが装備された。事故当時、新宿線専用であった2000系には、耐雪ブレーキは装備されていなかった。

山陰線余部鉄橋列車転落事故

お座敷列車「みやび」の回送列車(DD51形ディーゼル機関車+14系客車7両)が山陰本線鎧駅餘部駅間にある余部鉄橋を速度約50km/hで走行中、日本海からの強風にあおられて客車が鉄橋より転落した。転落した車両は真下にあった食品加工場(カニ加工工場)を直撃し、工場の従業員5名と車掌1名が死亡、車内販売員1名と工場の従業員5名が重軽傷を負った。転落した客車「みやび」は全車廃車となった。
この列車を運転していた機関士は鉄橋通過中に、非常ブレーキが動作したのを感じて後方を確認したが、この時すでに客車は転落していて、鉄橋上には台車の一部が残されたのみであった。非常ブレーキが動作したのは、機関車と客車をつなぐブレーキホースが引きちぎられたためであると考えられている。
列車運行を規制するために沿線には風速計が設置されているが、この設置が不十分であったことや、地形的な理由などから、列車運行に支障を及ぼす強風を予測しきれなかったことが主な原因と見られている。当時から現在に至るまで現場の風速計は、この地方特有の突風で頻繁に動作し、列車遅れの原因となっていた。そのため、台風の接近により連続的な強風となっていた当日も、運転指令ではいつもと同じ突風と勘違いをして列車を進行させたとも言われている。単線区間では列車を長時間止めると、ダイヤを正常に戻すのに長時間かかることも警報軽視の遠因であろうと推測されている。事故後、国鉄は運行規制基準を見直し、20m/s以上の風が吹くと列車の運行を停止するようになった。
なお、余部鉄橋については老朽化や、この事故で厳しくなった運行基準のために列車の運休や遅れが続出していることから2010年完成を目指し架け替えが予定されている。
事故後、関係者5人が送検され、神戸地裁で、CTC指令長と指令員2人に執行猶予付きの禁固刑(2年6月から2年)の判決が言い渡された。

中央線東中野駅列車追突事故

JR東日本中央緩行線東中野駅に停車中の津田沼発中野行下り各駅停車(103系10両編成)に後続の千葉発中野行下り各駅停車(201系10両編成)が追突し、後続電車の運転士と乗客1名が死亡、116名が重軽傷を負い、両端のクハを除く18両が廃車となった。JR発足後初の死者の出た事故。
東中野駅列車追突事故を参照。

平成元年~9年(1989~1997)

飯田線北殿駅列車正面衝突事故

JR東海飯田線北殿駅において、停車中の天竜峡発長野行き下り普通列車(第537M。3両編成)に上諏訪天竜峡行き上り普通列車(第248M。2両編成)が正面衝突。下校途中の高等学校生ら146名が負傷した。
原因は、上り列車運転士がATSロング地上子の警報を受け、確認扱いを行い、出発信号機の進行現示を場内信号機の停止現示から進行現示に変更したものと誤認、速度節制を行わず運転を継続、場内信号機の赤信号を冒進した。場内信号機のATS直下による非常ブレーキが作動したが、車両接触限界内に停車できず、下り列車の過走対策によりポイントが下り列車方向を向いていたタイミングだったため正面衝突した。
飯田線ではATS-Sが使用されていたが、このシステムでは、警報が鳴動し運転士が確認扱いを行った後は、停止信号を忘れて、あるいはこの事故のように信号を誤認して運転しても非常ブレーキが作動しなくなる、運転士の注意力に全面的に依存したものであった。この弱点を突かれた事故であったとも言える。上記の東中野追突事故とこの北殿駅正面衝突事故を受けてJR各社はATS-Sの緊急改良を決め、JR東日本と東海が開発を担当し、ATS-Sの場内信号機と出発信号機などの絶対信号機直下に非常停止機能を追加したATS-Snを開発してJR東日本と北海道が採用、東海は更に時素式速度照査機能を追加してATS-STとし、-STから列車番号通知機能を除いたものを西日本(ATS-SW)・九州(ATS-SK)・四国(ATS-SS)・貨物(新ATS-SF)で採用した。

信楽高原鐵道列車正面衝突事故

滋賀県信楽高原鐵道信楽線小野谷信号場紫香楽宮跡駅間で、信楽貴生川行きの上り普通列車(レールバスSKR200形 4両編成)と、京都発信楽行きのJR直通下り臨時快速列車「世界陶芸祭しがらき号」(キハ58系 3両編成・先頭車両はキハ58-1023)が正面衝突。乗員5名、乗客37名の計42名が死亡、614名が重軽傷を負った。
信楽高原鐵道とJR西日本が閉塞方式の概念を軽視し、信楽駅の出発信号機が赤信号現示のまま列車を出発させたことと、信楽高原鐵道とJR西日本が信号装置の改造を双方が無認可で行ったことが原因とされた。
詳しくは信楽高原鐵道列車衝突事故を参照。

関東鉄道常総線列車衝突事故

関東鉄道常総線取手駅構内において、入線してきた同駅終着(新守谷発)上り列車(キハ300形気動車4両編成、乗客約900名)が停止せず暴走、車止めを飛び出し、そのまま駅ビルの2階の壁を突き破り、先頭車両が駅ビル店舗に突入し大破。乗客1名が死亡、250名以上が重軽傷を負った。
原因はブレーキ故障であるとされる。非常ブレーキも一駅手前の西取手駅で作動させた後に、発車しようとしたところ、ブレーキが緩まなくなり、運転士がブレーキ締め切りコックを閉めてブレーキを緩め、元に戻さずに発車してしまい、常用・非常の両系統のブレーキが作動しなかった。

営団地下鉄日比谷線中目黒駅引上線衝突事故

中目黒駅構内の引き上げ線ポイント上で、出庫中の営団3000系電車の後ろから3両目付近の側方に、入庫中の東武2000系電車が突っ込む形となった。引上線での衝突事故のため乗客への被害は無かった。
直接的な原因は東武2000系電車側に乗務の運転士の第2入換信号見落としであるが、従前は本線停止目標位置の第1入換信号で制御していたものを、折り返し時間を短縮して線路容量を増やすために入出双方向同時進入を許容し第2入換信号まで進出するよう改めたが、そこは引上線内としてATC防護を行わなかったから、支障限界まで10mしかなく、誤って過走したら停められる余地がなかった。
従って本線ATC導入線区ではあるがATC設備設置下の事故ではなかった。

東海道線来宮駅構内列車衝突事故

7時頃、東海道本線来宮信号所(伊東線来宮駅構内)で出発待機中の品川行回送列車(185系電車10両編成)の運転士が、上り本線の出発信号機5Lを自列車の上り1番線の出発信号機6Lと見誤って発車したが、前方の分岐器46号が異方向に開いているのを認めたため、直ちに停止手配をとったが、出発信号機を約45m通過して、隣の本線の車両限界内に侵入して、走行中の貨物列車第1066(EF66+コンテナ貨車19両編成)と衝突した。回送列車の先頭車両と貨物列車の機関車が脱線した。負傷者1名(回送列車の運転士)。
直接の原因は信号誤認であるが、10両編成の列車が15両の停止目標に停車して折り返したこと(これ自体は、事故の時点では正当な取り扱い)も間接的な原因とされた。すなわち、ATSは正常に作動したが、地上子までの距離が15両編成の場合と比べて5両分長く、その分加速が付いて、ATSが停められる速度を超えてしまったことである。
この事故を受けて、折り返し列車の両数が多種にわたる場所では、両数に応じて停止目標を細かく設定しなおす、という対策が採られた。ほかに、ATS直下子を当時位置からさらに16m手前の位置に移設し、また信号機には番線表示票を設置した。
また当該運転士は当該番線から出発するのは1年半ぶり、通算5回目であった。

成田線大菅踏切事故

JR東日本の成田線久住駅滑河駅間の大菅踏切で、遮断機が下りていた踏切に進入していた大型ダンプカー側面に千葉佐原行き113系普通電車が激突、その先頭車は脱線大破し、電車の運転士が死亡した。
運転士は直前に衝突を覚悟し、パンタグラフ降下による電源遮断等の安全措置をとっていた。
事故の原因は、過積載(最大搭載量の4倍もの山砂を積んでいた)のダンプカーが踏切の停止線でブレーキが効かず停止する事が出来なかったことに起因するものである。法律上はダンプカー側の道路交通法違反であり、JR東日本は被害者的立場ではあったが、この事故は先の東中野事故と合わせて当時のJR東日本の上層部を含む社内にも多大なショックを与えた。
これによりCMやポスター等、車のドライバーに注意を呼びかける「踏切事故防止キャンペーン」を実施することになる。
衝突当時、運転士は生きていたが、当時の運転室は狭く、ひしゃげた運転室からの救助は困難を極め、搬送途中で亡くなった。そのため、この事故以後には113系など既存車両の前面に鋼板を巻いて強度を上げる工事(通称「鉄仮面」)を実施した他、以降登場する209系量産車やE217系等における運転席背面からの脱出口の設置や運転室の拡大、衝撃吸収構造の採用に踏み切るきっかけとなった。
この踏切は事故後撤去され、大菅跨線橋に立体交差化された。
またこの事故に際し、JR東日本は過積載ダンプカーの運転手を相手に総額1億3000万円余の賠償を求める裁判を起こしている。

島原鉄道列車正面衝突事故

島原鉄道阿母崎駅吾妻駅間において、加津佐行下り列車(2000形気動車1両編成)と諫早行上り列車(2000形気動車1両編成)が正面衝突し、乗客74名が負傷(うち1名は事故後2週間後に死亡)。
原因は、上り列車運転士が運転している列車を別の列車と思い込み、所定の交換駅で下り列車を待たずに赤信号を無視して発車してしまったため。事故当時、同線にATSは設置されていなかった。
当時同線は、前年に発生した雲仙普賢岳の噴火災害により一部区間が不通になるなど甚大な被害を受けた最中での事故で、同社の経営に深刻なダメージを与えた。
事故後同線はダイヤの改正を実施、交換駅の統一を進めたほか、事故から1年後の1993年12月までにATSの整備を完了している。

営団地下鉄半蔵門線鷺沼車庫脱線事故

  • 1992年(平成4年)10月および12月
営団地下鉄半蔵門線鷺沼車庫内で続けて脱線事故が発生。軽量車体とボルスターレス台車への危惧が云われ、軌道区と検車区合同の社内調査委員会を設けて検討され、翌年5月輪重バランス測定の必要性を報告、さらに見積もりを行っている。営団はこれを取り上げず、半蔵門線車両のみの輪重調整に留めたことで日比谷線中目黒事故を防げなかった(参照)。
軽量車体では台車対角線の重量の差が比率として大きくなり脱線係数を大きくするので、軽量化に見あった輪重バランス調整が求められるが横浜駅事故後の東急を除き鉄道各社ともまったく行っていなかった。

ニュートラム暴走衝突事故

大阪府大阪市住之江区新交通システムである大阪市営南港ポートタウン線(愛称:ニュートラム)住之江公園駅構内で、中ふ頭発住之江公園行き電車(4両編成・無人運転)が本来の停止位置から50mも暴走し、約30km/hで車止めに衝突して停止。乗客217人が負傷した。
事故の原因は、ブレーキ信号を伝える中継継電基盤内のリレー装置の一部が通電不良を起こし、ブレーキが作動しなかったものと見られるが、警察の再現実験では再現ができなかった。
大阪市交通局は事故から1ヵ月半は全線で運行を停止し代行バスを走らせたが、その後11月19日に配線の組み換えや二重化を行うなどの対策を施した上で、添乗員を乗せて運行を再開した。現在では添乗員は乗車せず、無人での運行に戻っている。

特急おおぞら脱線事故

JR北海道根室本線西新得~広内信号場間で強風にあおられた釧路発札幌行特急「おおぞら10号」(キハ183系7両編成)の3両が脱線、1両が横転し28名が負傷した。
この事故をきっかけに防風フェンスを設置したほか、基準を超える風速を記録した場合運転を停止する措置を取っている。

銚子電鉄線列車正面衝突事故

銚子電気鉄道線本銚子駅笠上黒生駅間において、下り列車(1両編成)と上り列車(同)が正面衝突し、両列車の運転士2名と、出勤のため下り列車に添乗していた笠上黒生駅長、および上り列車の乗客4名が負傷した。
上り列車の運転士が、自分の運転していた列車を下り列車との交換を行わない始発列車と勘違いし、下り列車の到着を待たずに発車したため。事故当時、同線にはATSは設置されていなかった。
同線では、通常は仲ノ町駅~笠上黒生駅間を票券閉塞、笠上黒生駅~外川駅間をスタフ閉塞として取り扱っているが(銚子駅~仲ノ町駅は単線自動閉塞式)、事故当時は合理化のため(当時、笠上黒生駅は上り最終列車発車時から翌日の下り始発列車到着時までは無人であり、当駅場内信号機は後述する併合閉塞の取扱により使用停止状態であった。また余談ではあるが当駅で閉塞取扱中は当務駅長の出発合図により発車することになるため、当駅には出発信号機は存在しない。)上り始発列車および、下り最終列車に限り、仲ノ町駅~外川駅を1閉塞として運用する併合閉塞の取り扱いを行っていた。
本来のダイヤでは、下り始発列車が、笠上黒生駅に到着後、当務駅長において上り場内信号機を進行現示に操作し、当該上り列車が到着、その後上下列車の携行するタブレットを交換し、当務駅長の出発合図によって上下列車が出発する手順になっていたが、事故発生時は当該上り列車が下り始発列車より先に到着しており、下り列車が入線していなかったことから、上り列車の運転士が自分の運転する列車をタブレット交換を行わない始発列車と誤認したと見られた。
事故後同線では併合閉塞の取り扱いを中止し、全列車が笠上黒生駅でタブレットを交換する運用に改めた。

東海道新幹線三島駅乗客転落事故

JR東海の東海道新幹線三島駅で、東京発名古屋行き「こだま475号」(0系16両編成)の6号車ドアに、駆け込み乗車をして指を挟まれた男子高校生の乗客が、列車に引きずられてホーム下に転落、死亡した。
死亡した高校生は、閉まりかけていたドアに無理矢理手をかけたことで指挟みに至ったものであり、また列車の車掌とホームの係員が指挟みに気付かず、ドアの隙間がわずかであったため、運転席の戸閉ランプが点灯したことで運転士も気が付かず、そのまま列車が発車したことが主な原因である。
三島駅乗客転落事故を参照のこと。

東海道線片浜列車追突事故

JR東海の東海道本線沼津駅片浜駅間で、停車中の百済行き下り貨物列車(EF65形1139号機牽引)に下り普通列車が追突し、43名が負傷。
無閉塞運転中における、速度超過が原因。何者かのいたずらと思われる踏切支障通報ボタンで停止現示だった先行列車に対する停止信号が解除操作で進行に変わったことを自列車に対するものと勘違いして、規定に反して次信号到達前に加速した。運輸省はJR各社に対応を求め、JR東日本が無閉塞運転を廃止し指令の許可を条件とする閉塞指示運転に改め、北海道・四国追随したが当該JR東海など残り3社は無視して同様の鹿児島線宗像追突事故に繋がった。無閉塞運転による事故を参照。

中央線大月駅列車衝突事故

JR東日本の中央本線大月駅構内で、下り本線を通過中の新宿発松本行き特急「スーパーあずさ13号」(E351系12両編成)の側面に、待避線から下り本線上に進入してきた入換車両(201系6両編成)が衝突し、特急列車(8号車は横転)の5~9号車と入換車両の前2両が脱線、特急の乗客77名が負傷した。
入換車両の運転士が、構内での入換作業のために自動列車停止装置(ATS)を独断で解除した後、下り本線の出発信号機の進行現示を入換車両の信号と誤認し、入換信号機の停止現示を見落としたため。
ATS投入はハンドル連動改造中で、事故車が未改造だったことと、運転士が切替操作を勘違いして断にしたことで誤出発を止められず衝突に至ったと推認されている。なお、衝突した201系は回送電車と表記されることが多いが、大月で富士急乗り入れの4両を切り離した後の入換車両である。事故後、JR東日本の車両のATS投入スイッチにはカバーがかけられた。

平成10年以降(1998~ )

土佐くろしお鉄道中村線列車衝突事故

9時15分ごろ、土佐くろしお鉄道中村線西大方~古津賀間において窪川発宿毛行普通列車(1両編成・乗客約40人)が、エンジン故障で立ち往生した。この列車を救援するため、伝令法を施行した救援列車が中村から現場に向かったが、徐行が原則のところを60km/hで進行したため、見通しの悪い曲線(R400m)の先に止まっていた事故列車に気が付くのが遅れ、非常制動をかけたものの止まりきれず衝突し、38人が負傷した。
エンジン故障とは、踏切通過の際に、踏切改良工事のための仮設踏切舗装板が浮き上がり、列車車両床下にある変速機オイル冷却用配管と接触、これを損傷したもの。
故障列車の運転士は信号煙管または赤旗による防護措置を怠った。
救援列車運転士に渡された運転通告券には故障列車の停止位置(現場のキロ程)が記載されていなかったため、故障列車の位置は不明であった。

営団地下鉄日比谷線列車脱線衝突事故

営団地下鉄(現:東京メトロ)日比谷線東横線直通電車が、中目黒駅付近における急曲線で脱線、対向電車の側面をえぐる形で衝突し、死者5名、負傷者64名を出した。この事故で、日比谷線03系1両が廃車になった。同駅付近では上記の1992年と、ほぼ同位置で1965年に事故が発生している。
営団日比谷線脱線衝突事故を参照。

京福電気鉄道越前本線列車衝突事故(松岡町)

京福電気鉄道永平寺線の上り列車(1両編成)がブレーキ故障により分岐駅である東古市駅(現在の永平寺口駅)に停車せず、越前本線に進入、越前本線下り列車と正面衝突、上り列車の運転士1名が死亡、両列車の乗客ら24名が重軽傷を負った。
ブレーキ故障は、ブレーキを作動させるロッドが老朽化により破断したのが原因であり、同社の車両検査体制が問われた。京福電気鉄道越前本線列車衝突事故を参照。

新大久保駅ホーム転落死亡事故

JR東日本山手線新大久保駅で線路に泥酔した男性が転落し、助けようとして2名がホームから線路に飛び降りたが、3名とも折から進入してきた電車にひかれ死亡した。
新大久保駅乗客転落事故を参照。

東海道線富士駅冒進阻害事故

  • 2001年(平成13年)4月18日
東海道線富士駅で下り貨物列車が出発信号を見落として東海型過走防止装置により停止したが冒進、同駅始発列車に向けられた先の進行信号を自列車のものと勘違いし、ポイントの開通方向が違うのに気付かず、ATS停止を無断解除して出発した。駅側がそれに気づき始発電車の防護無線を発報したが間に合わず非開通のポイントを割り込んで破損した。
当日は貨物列車が約10分遅れだったことから、富士駅始発列車を先行させることとし、貨物に抑止を掛けたがこの停止信号を見落としたため、場内信号による注意現示速度以下の速度で出発信号80m外方の過走防止速度照査が動作して非常制動が働き、75m冒進して停止した。
機関士は4つのエラーを冒したが、特に指令の許可を得ずにATSを解除して出発したことで衝突が危惧される事態となり、JR東海はJR貨物に厳しく抗議し再発防止を求めた。
背景としてはATS-Sxが冒進前提の防御で、停止後は機関士に停止理由が見えないことで遅れ回復の気持ちに押され見落とし思い違いのままの行動が続いてしまった。機関士が場内信号も見落としていたら注意現示以下に対応する東海型過走防止装置の防御対象外で宿毛事故のような高速冒進となる危険があることを示した。

京福電気鉄道越前本線列車衝突事故(勝山市)

京福電気鉄道越前本線保田発坂(ほっさか)間で、勝山発福井行きの上り普通列車と福井発勝山行きの下り急行列車が正面衝突して乗員乗客24名が重軽傷を負った。
事故原因は、本来、途中駅で対向する急行列車とすれ違う必要があったのを、普通列車の運転士が信号を確認せず早発したという人為ミスであった。
京福電気鉄道越前本線列車衝突事故を参照。

名鉄新羽島駅電車衝突事故

岐阜県羽島市名古屋鉄道羽島線新羽島駅構内で、羽島市役所発新羽島行き普通電車(3100系2両編成)が車止めに衝突、先頭車両の前部2.5メートルが高架橋終端から突き出て停止した。けが人は無かった。
原因は、降雪時に耐雪ブレーキを使用せずに運転したため、氷塊詰まりにより制動力が極端に落ちたものと思われる。この事故を受けて名鉄では、耐雪ブレーキの使用基準などを改めた。事故車両は修理を受け、現在も使用されている。

鹿児島線列車追突事故

福岡県宗像市JR九州鹿児島本線海老津教育大前駅間で、門司港荒尾行き下り普通列車(811系813系7両編成)がイノシシに衝突し車両点検のために停止中、無閉塞運転で進行してきた後続の門司港発荒木行き下り快速列車(813系5両編成)が追突、134名が重軽傷を負った。
後続列車が中継信号機の進行現示を自列車に対するものと勘違いし、無閉塞運転についての規則に反して加速したのが原因。無閉塞運転による事故を参照。

名鉄名古屋本線衝突脱線事故

名古屋鉄道名古屋本線新岐阜(現、名鉄岐阜)発豊橋行きの特急86列車(8両編成。内訳は1030系6両+1850系2両)が、稲沢市奥田堀畑町地内(奥田駅大里駅間)にある大里8号踏切付近(軌道内)で普通乗用車と衝突。うち前2両が軌道を外れ、軌道東側に設けられていたコンクリート製暗渠の用水路沿いに大きく脱線し、特に先頭車両は用水路に乗り上げた状態で停止した。なおその他の車両も脱線・損傷している。普通乗用車の運転手1名が死亡、列車の乗客32名と運転士・車掌の各1名が軽傷を負った。
事故の原因は、外国人の運転する普通乗用車が遮断桿が下がっていた踏切内に進入、踏切内で脱輪した上に線路上を走行し、これに追突した列車が乗用車を巻き込んで脱線したためである。これ以前にも、JR成田線酒々井成田間の県道を横切る踏切に差し掛かった酒酔い運転の乗用車の運転手が踏切を交差点と間違えて線路内に車を進入させた事件があったが、そちらの場合は踏切支障報知装置を使用して電車を止めたため、衝突は回避されている。
事故車両のうち、大破した1030系前2両(特別車:モ1134とモ1184)は事故廃車となった。残りの6両のうち、1850系2両はそのまま修理されたものの、1030系の後ろ4両部分(1384-1334-1584-1534)に関しては豊橋方のモ1384に運転台を取り付ける工事を行い、新たな固定編成に改造された。詳しくは1030系のページを参照のこと。

東海道線救急隊員死傷事故

JR西日本の東海道本線塚本駅尼崎駅間で、線路内で遊んでいて姫路駅行きの新快速列車にはねられた中学生を救助中の救急隊員2名が、後続の特急「スーパーはくと11号」にはねられ1名が死亡、1名が重傷となった事故である。
この原因として、当時JR西日本に人身事故発生時の明確なマニュアルがなく、現場を監視していた同社社員と同社運転指令所との連絡が上手くいかなかったため、運転指令所が現場の状況を正確に把握しないまま、運行を再開したことが原因の一つであるとされている。
後述する福知山線の事故が発生した際に、同社の運行管理体制の杜撰さを指摘する例として、報道などで取り上げられることもあった。
この事故の背景には、きっかけとなった中学生の線路侵入による運転抑止が長引く事で、乗客からの苦情が殺到する事を恐れていた事が指摘されている。

長崎線特急列車脱線転覆事故

長崎県諫早市のJR九州長崎本線肥前長田駅小江駅間で、長崎発博多行きの上り特急「かもめ46号」(885系6両編成)が大雨により線路横ののり面から線路上に崩れた岩石に衝突し脱線、転覆した。この事故で乗員乗客36名が重軽傷。列車の1両目が前後逆向きになって線路脇に横転し大破、2両目が水田に突っ込み大破、3両目が2両目に乗り上げるという大規模なものであったが、車両の落下場所が梅雨期の水田で衝撃を和らげたこともあり、比較的負傷者が少なくて済んだと見られる。岩石は直径80cm、質量約130kgで、線路脇の斜面にあったものが降雨による地盤の緩みで落下したものと思われ、線路周囲の法面の点検の徹底が国土交通省から指示された。なお、事故車両のうち脱線した3両が廃車、残る3両は不足する3両を新製して6両編成に戻した上で営業運転に復帰した。

名鉄新岐阜駅電車衝突事故

岐阜県岐阜市名古屋鉄道新岐阜駅(現名鉄岐阜駅)構内で、豊川稲荷発新岐阜行き急行電車(3100系3500系6両編成)が所定位置で停車せずにホーム端の車止めに衝突、1両目と3両目が脱線し、乗客4名が軽傷を負った。
原因は運転士の体調不良による運転操作ミスとされる。運転士が駅進入の際に気を失って運転レバーに倒れ込み、加速の向きに操作したため。運転士は、事故後の精密検査で中程度の睡眠時無呼吸症候群(SAS)の疑いがあると診断された。この事故を受けて名鉄は運転台にマスコン(力行とブレーキのレバー)の誤動作防止装置を付けた。

上越新幹線脱線事故

17時56分頃に新潟県中越地震が発生。震源地に近い上越新幹線浦佐駅長岡駅間を走行中だった東京発新潟行きとき325号(200系10両編成)のうち7・6号車を除く計8両が脱線した。地震発生当時、同列車は長岡駅への停車のため約200km/hに減速して走行中であったが、早期地震検知警報システム「ユレダス」による非常ブレーキが作動し、長岡駅の東京寄り約5kmの地点で停車した。
自然災害が直接の原因とはいえ、新幹線の営業列車が脱線した初の事例(回送列車では、既に1973年の東海道新幹線鳥飼基地における冒進脱線事故などがある)となったが、高架橋が頑強に造られており倒壊を免れた事と、対向列車が無かった事、脱線はしたものの転覆には至らなかったことなどが幸いし、死傷者は発生しなかった。
詳細は上越新幹線脱線事故を参照のこと。

土佐くろしお鉄道宿毛駅列車衝突事故

高知県宿毛市第三セクター土佐くろしお鉄道宿毛線宿毛駅構内で、宿毛行き特急「南風」が116km/hで宿毛駅に進入し、頭端式(行き止まり式)のホームを過走して駅舎に激突した。この事故で、乗員1名が死亡し、乗員1名、乗客9名が負傷した。宿毛駅の駅舎は大破し、半年以上にわたって駅舎の使用停止を余儀なくされた。
詳細は土佐くろしお鉄道宿毛駅衝突事故を参照。

東武伊勢崎線竹ノ塚駅踏切死傷事故

東京都足立区東武伊勢崎線竹ノ塚駅南側の伊勢崎線第37号踏切で、女性4名が太田駅浅草駅行きの上り準急電車にはねられ2名が死亡し、2名が負傷した。
当時、この踏切は手動式(第1種乙踏切という)であり、東武鉄道の係員が操作していた。事故発生前の列車が通過後、列車の接近を知らせる警報ランプが点灯しているにも関わらず、次の準急列車通過までに余裕があると踏切警手が思い込み、遮断機のロックを解除して2~3m上げってしまうという誤操作が原因であった。
東武伊勢崎線は北千住駅北越谷駅を複々線化する際、ほとんどの区間では立体交差化を行っていた。しかし、竹ノ塚駅では南側に東京地下鉄(東京メトロ)の竹ノ塚検車区が存在しており、高架化が困難なため踏切による平面交差としていた。その一方で、検車区への入出庫列車が頻繁にあったためいわゆる「開かずの踏切」となっており、自動化すると遮断時間が長くなる恐れがあり、手動踏切として残していた。
事故後、東武線内に存在していた手動踏切は全て自動化され、竹ノ塚駅の前後に存在する踏切では踏切道の拡幅や歩道橋の設置が行われ[1]京成電鉄京成高砂駅にあった手動踏切についても自動化された[2]。また、国土交通省もこの事故を踏まえて踏切対策のスピードアップを図る方針[3]としている。その一方で竹ノ塚駅付近の立体化は費用の面などから事業化には未だ目処が立っていないのが現状である。
以下脚注
  1. ^ 東武伊勢崎線竹ノ塚駅付近における緊急踏切対策について(平成17年4月22日・東京都)
  2. ^ 京成本線京成高砂駅付近における踏切対策について(平成18年7月3日・東京都)
  3. ^ 踏切交通実態総点検および踏切対策の推進について(平成18年10月・国土交通省)


福知山線脱線転覆事故

兵庫県尼崎市福知山線(JR宝塚線)・塚口駅尼崎駅間の曲線で、列車の遅延回復のための速度超過運転などが原因となり、宝塚同志社前行きの上り快速列車(207系電車7両編成)のうち、進行方向前より5両が脱線、うち最前方の2両が線路脇のマンションに衝突、大破した。
この事故で、乗員1名と乗客106名が死亡し、555名が負傷した。死者の数は鉄道事故としてJR史上最悪、国鉄時代を含めると三河島事故(160人)に続いて戦後4番目に多い。
事故車両の進行方向前より4両は解体された(事故当日に廃車手続きがとられた)が、被害が少なかった残る3両については、事故の風化防止に役立てるため解体せず、遺族の手記とともに鉄道施設に展示される予定となっている。
詳細はJR福知山線脱線事故を参照のこと。

羽越線特急脱線転覆事故

山形県庄内町榎木のJR羽越本線北余目駅砂越駅間の第2最上川橋梁で、秋田新潟行きの上り特急「いなほ14号」(485系3000番台6両編成)が、橋梁通過直後に全車両が脱線、うち3両が転覆し、先頭車両が沿線にある養豚場の飼料小屋に激突、大破した。
この事故により先頭車両に乗っていた5名が死亡、33名が重軽傷を負った。
突風が原因とされる。詳しくはJR羽越本線脱線事故を参照。


主な鉄道事故(日本以外)

19世紀

イギリスランカシャー州パークサイド駅で、リヴァプール-マンチェスター鉄道の開業当日、招待客の代議士ハスキソンが、同じく招待客であったウェリントンに挨拶をしようと線路を横断しようとしたところ、機関車ロケット号に轢かれ死亡。史上初の鉄道死亡事故。
アメリカ合衆国ロードアイランド州で列車が正面衝突。死者13名。鉄道事故が写真撮影された最初の例と考えられている。
イギリス・スコットランドのテイ川河口の鉄橋が強風の中、崩落し列車が転落。死者75名以上。
イギリス・北アイルランドアーマー州グレート・ノーザン鉄道で、機関車から切り離された客車が坂を逆走し後続列車と衝突。死者88名。客車15両編成の列車が13‰の急勾配を登り切れなかったため、客車を分けて牽引しようと後ろ10両を切り離した。切り離された客車には動かないよう処置されていたが、機関車が発車しようとした際の衝撃で逆走した。この事故を契機に自動ブレーキ閉塞の導入が義務づけられる。

20世紀前半

イギリス・スコットランドのキンティンスヒル駅で、軍用列車を含む5本の列車が衝突。兵士など227名が死亡。イギリス史上最悪の鉄道事故。駅に列車が停車していたにもかかわらず、場内信号を進行表示にしてしまったため、上り軍用列車が進入して衝突。その弾みで衝突した列車の炭水車が横転し、そこに下り急行列車が衝突した。
アメリカ合衆国ニューヨークのブルックリン高速鉄道(BRT)の地下線でカーブに高速で進入した列車が脱線。死者93名以上。
イギリス・スコットランドのキャッスルキャリ駅で、停止信号を通り過ぎて駅構内に停止していた急行列車に、後からやってきた急行列車が追突。35名が死亡、179名が負傷した。駅の信号係が、信号を無視した列車は既に駅を通過していってしまったものと思いこみ、後から来た列車を駅に入れようとしたことが原因であった。この事故の後AWSを取り付けることが勧告された。
ドイツ・Asslingでアメリカ陸軍戦車を輸送していた列車が停車していた列車に衝突。ドイツ軍捕虜約110名が死亡。

1950年代

ロンドン近郊で信号の見誤りにより列車が追突、脱線したところに別の列車が衝突し、112名が死亡。イギリスで自動列車警報装置が普及するきっかけとなる。
ニュージーランドのWhangaehu川に架かるTangiwai鉄橋がルアペフ山からの泥流により損傷、直後に通りかかった列車とともに崩落し151名が死亡。

1970年代

イギリス ロンドン地下鉄のMoorgate駅で列車が行き止まりのトンネルに衝突。死者43名。
オーストラリアシドニー近郊で列車が脱線し陸橋に衝突、陸橋が崩落し客車を押し潰した。死者83名。クラッシュ症候群による死者が多く出たことで知られる。
カナダオンタリオ州Mississauga市内の踏切で貨物列車が脱線。死者こそなかったものの、タンク車の塩素などが流出したことにより市民20万人以上が1週間に渡って市から避難した。

1980年代

ソビエト連邦南部での船舶が橋脚に衝突したことによる列車転落事故
中国上海近郊で急行列車同士が正面衝突(上海列車事故)。日本の修学旅行生らが死亡。
インドでの急行列車が脱線し湖に転落。死者107名。

1990年代

パキスタン・シンド州で旅客列車と貨物列車が衝突。死者210名以上。
韓国釜山で列車が脱線。死者79名。
アゼルバイジャンバクーの地下鉄で火災。死者337名。
カメルーンヤウンデで石油を輸送していた貨物列車が脱線、流出した石油に引火し120名以上が死亡。
ドイツ・エシェデ近郊でICE-1高速列車が脱線し道路橋に衝突。死者101名。ICE#エシェデ事故参照。

2000年代

オーストリアでケーブルカー火災事故。日本人10名を含め155名が死亡。
台湾阿里山森林鉄道・ブレーキ故障、脱線転覆事故。死者17名。
イラン・ニシャプール近郊で留置してあった無人の貨車51両が暴走し沿線の村に突入。積荷の石油類の爆発により村は壊滅し、300名以上が死亡。
北朝鮮・龍川駅で貨物列車が爆発(龍川駅列車爆発事故)。積荷の硝酸アンモニウムまたはANFOが流出し引火したものと推測されている。テロ説も有り。死者50名以上。
スリランカスマトラ島沖地震による津波のため列車が脱線転覆。列車内や屋上に避難していた地元住民を含め約1700名が死亡。
インドアーンドラ・プラデーシュ州で、鉄砲水で線路が流失したことにより急行列車が脱線。死者114名以上。
スペインバレンシア地下鉄で、速度超過が原因の脱線事故。死者40名以上。バレンシア地下鉄脱線事故を参照。
ドイツ磁気浮上式高速鉄道トランスラピッド)のエムスランド実験線で試運転中のトランスラピッドが、200km/h前後と推定される速度で工事用車両と衝突、作業員2人と、リニアに乗車していた見学者ら29名の計31名が巻き込まれ、死者21名。リニアモーターカーで初めて死者が出た大事故。関連:德國磁浮試驗線相撞事故(中国語)
フランス北東部のズフトゲンで、特急列車貨物列車が正面衝突。両列車の運転士と特急列車の乗客の計5名が死亡、乗客15名が重軽傷を負った。
イタリア首都ローマローマ地下鉄A線で、ビットリオ・エマヌエレ駅に停車中の列車に後続の列車が追突、1名が死亡、日本人4名含む約170名が負傷。

事故調査

従来、鉄道事故等においては警察による関係者の責任が問われていたが、個人責任の追及が中心になるあまり当事者の証言が歪められ本来の背後要因等の分析が不十分であるとの指摘があり、中立的な事故原因調査を行う機関の設立が望まれていた。現在、日本において鉄道事故が発生した場合には国土交通省内の航空・鉄道事故調査委員会によって原因究明と再発防止のための調査が行われる。また、業務上過失致死罪などの容疑で刑事捜査が行われる場合もある。

しかし、刑事捜査が優先のため、航空・鉄道事故調査委員会による調査は十分に行えず、さらに調査委員会の事故調査報告書が刑事裁判の証拠として採用されることもあるため、事故関係者が責任波及を恐れて事故に関する証言を拒んだり黙秘する問題も出てきており、また、刑事捜査は関係者の処罰が目的のため事故の再発防止には役立たないという指摘もある。

そのため、委員会をアメリカの国家運輸安全委員会(NTSB)の様な国土交通省から独立した強い権限を持つ機関に改めることと、過失による刑事責任を問わないことで関係者の証言を得やすくするべきだという意見も根強い。

参考文献

佐々木 冨泰・網谷 りょういち『事故の鉄道史―疑問への挑戦』日本経済評論社、1993年 ISBN 9784818806627
以下の事故に詳しい記述がある。

  • 1913年北陸線東岩瀬駅列車正面衝突事故(第2話「安全側線の誕生」)
  • 1916年東北線列車正面衝突事故(第3話「2個出たタブレット」)
  • 1922年北陸線列車雪崩直撃事故(第4話「親不知の2代の慰霊碑」)
  • 1923年参宮線列車転覆事故(第5話「来ないはずの列車」)
  • 1923年根府川駅列車転落事故(第6話「109列車、海底に沈む」)
  • 1926年山陽線特急列車脱線事故(第7話「国際特別急行列車の遭難」)
  • 1928年北陸線柳ヶ瀬トンネル窒息事故(第8話「柳ケ瀬トンネルの功罪」)
  • 1940年西成線列車脱線火災事故(第10話「炎上したガソリンカー」)
  • 1943年常磐線土浦駅列車衝突事故(第12話「土浦、知らされなかった戦中事故」)

同『続・事故の鉄道史』日本経済評論社、1995年 ISBN 9784818808195
上記作品の続編。以下の事故に詳しい記述がある。

  • 1899年箒川鉄橋列車転落事故(第1話「汽車の転落大事件―箒川橋梁での客車転落事故」)
  • 1931年山陽線急行列車脱線事故(第3話「河内駅五五号転轍器のミステリー―制限速度一覧表は教養材料にすぎず」)
  • 1948年近鉄奈良線暴走追突事故(第7話「この電車は停まれません―近鉄花園駅での追突事故」)
  • 1951年桜木町事故(第8話「桜木観音―桜木町駅の国鉄電車炎上事故」)
  • 1956年参宮線六軒駅列車衝突事故(第10話「六軒駅の通過信号機―参宮線六軒駅事故(その1)」、第11話「石碑の人、嗟嘆の人―参宮線六軒駅事故(その2)」)
  • 1972年北陸線北陸トンネル列車火災事故(第12話「北陸トンネルと「きたぐに」―トンネル内列車火災事故」)
  • 1986年山陰線余部鉄橋列車転落事故(第13話「但馬・余部・トレッスル―余部橋梁での列車転落事故」)

関連項目

外部リンク