山口喜久一郎 (政治家)
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山口 喜久一郎 やまぐち きくいちろう | |
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生年月日 | 1897年5月11日 |
出生地 | 長崎県佐世保市 |
没年月日 | 1981年5月6日(83歳没) |
出身校 | 早稲田大学専門部 |
所属政党 |
立憲政友会 日本自由党 民主自由党 自由党 自由民主党 |
第52代 衆議院議長 | |
在任期間 | 1965年12月20日 - 1966年12月3日 |
天皇 | 昭和天皇 |
内閣 | 第2次岸内閣 |
在任期間 | 1958年6月12日 - 1959年6月18日 |
第5代 賠償庁長官 | |
内閣 | 第3次吉田内閣 |
在任期間 | 1949年3月11日 - 1950年6月28日 |
内閣 | 第3次吉田内閣 |
在任期間 | 1949年2月16日 - 1949年3月11日 |
選挙区 |
戦前・和歌山県第1区→全県区→ 旧和歌山県第1区 |
当選回数 | 11回 |
在任期間 | 1942年4月30日 - 1969年12月2日 |
山口 喜久一郎(やまぐち きくいちろう、1897年5月11日 - 1981年5月6日[1])は日本の政治家、第52代衆議院議長(在任期間・1965年12月20日 - 1966年12月3日)。長崎県佐世保市出身(選挙区は和歌山県)。栄典は勲一等旭日大綬章、佐世保市名誉市民。
来歴・人物
[編集]1915年旧制鹿島中学(現佐賀県立鹿島高等学校)卒業。1920年早稲田大学専門部中退。株式ブローカー、岡崎邦輔秘書を経て、1930年和歌山県会議員に当選。1937年の第20回衆議院議員総選挙に当時の旧和歌山1区から立憲政友会公認で立候補するが落選。同年より県会議長を2期務めた後、1942年の第21回衆議院議員総選挙(翼賛選挙)に前回と同じく旧和歌山1区から非推薦で立候補し衆議院議員に初当選。以後11回連続当選を果たす。
戦後は日本自由党の結党に参加し、その後は民主自由党・自由党・自由民主党に所属した。主に議会運営・国会対策畑で活動した。1949年第3次吉田内閣国務大臣(賠償庁長官、大野伴睦の取りなしによる)、保守合同後は1958年第2次岸内閣に国務大臣(行政管理庁長官兼北海道開発庁長官)として入閣。なお、戸川猪佐武『小説吉田学校』に登場する「中井川隆一郎」は、山口がモデルである。
1965年、船田中の後任として衆議院議長に就任したが、当時不祥事で問題となっていた、手形割引業者東京大証・水野繁彦社長の結婚式で仲人を務めていたことが発覚し、翌年の1966年辞任を余儀なくされた(東京大証社長仲人問題)。1969年の第32回衆議院議員総選挙に落選し、引退した。秘書として中西啓介が仕えていた。1981年5月6日、83歳にて死去。
演じた俳優
[編集]- 鈴木瑞穂(『小説吉田学校』、1983年)※役名は中井川隆一郎。
脚注
[編集]議会 | ||
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先代 船田中 |
衆議院議長 第52代:1965年 - 1966年 |
次代 綾部健太郎 |
先代 倉石忠雄 |
衆議院予算委員長 1954年 |
次代 牧野良三 |
先代 浅沼稲次郎 |
衆議院議院運営委員長 第3代:1948年 |
次代 大村清一 |
公職 | ||
先代 石井光次郎 |
北海道開発庁長官 第16代:1958年 - 1959年 |
次代 村上勇 |
先代 石井光次郎 |
行政管理庁長官 第18代:1958年 - 1959年 |
次代 益谷秀次 |
先代 樋貝詮三 |
賠償庁長官 第5代:1949年 - 1950年 |
次代 増田甲子七 |