渡辺東一
表示
(渡邊東一から転送)
渡辺東一 名誉九段 | |
---|---|
名前 | 渡辺東一 |
生年月日 | 1905年12月25日 |
没年月日 | 1985年5月27日(79歳没) |
プロ入り年月日 | 1922年10月1日(16歳)[注 1] |
引退年月日 | 1949年(43歳) |
棋士番号 | 4 |
出身地 | 千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市) |
所属 |
東京将棋倶楽部 →東京将棋連盟 →日本将棋連盟(関東) →将棋大成会(関東) →日本将棋連盟(関東) |
師匠 | 関根金次郎十三世名人 |
弟子 | 下平幸男、二上達也、北村昌男、佐藤大五郎、勝浦修 |
段位 | 名誉九段 |
棋士DB | 渡辺東一 |
順位戦最高クラス | A級(1期) |
2022年2月14日現在 |
渡辺 東一(わたなべ とういち、1905年(明治38年)12月25日 - 1985年(昭和60年)5月27日)は、将棋棋士。棋士番号4。名誉九段。日本将棋連盟会長。関根金次郎十三世名人門下。千葉県東葛飾郡関宿町(現・野田市)出身。
経歴
[編集]1918年、渡辺の親戚でもある関根金次郎に入門。1922年四段昇段。
1948年、日本将棋連盟会長に就任。在任中の1949年に名人戦の主催社が毎日新聞社から朝日新聞社に変更されるが、これは渡辺の北海道出張中に交渉を委任された加藤治郎副会長(後の名誉九段)がやったことで、渡辺の帰京後、委任の範囲を巡って渡辺と加藤の間で一悶着あったという。1953年将棋連盟名誉会長。
1975年11月17日に行なわれた第1回の「将棋の日」において、日本将棋連盟から「名誉九段」が贈られる[3]。
弟子
[編集]棋士
[編集]名前 | 四段昇段日 | 段位、主な活躍 |
---|---|---|
下平幸男 | 1948年 | 八段、一般棋戦優勝1回 |
二上達也 | 1950年4月1日 | 九段、王将1期、棋聖3期、一般棋戦優勝5回、A級在籍27期 |
北村昌男 | 1953年 | 九段、一般棋戦優勝2回 |
佐藤大五郎 | 1957年4月1日 | 九段、タイトル挑戦1回、一般棋戦優勝1回、A級在籍2期 |
勝浦修 | 1967年4月1日 | 九段、タイトル挑戦2回、一般棋戦優勝3回、A級在籍7期 |
昇段履歴
[編集]→昇段規定については「将棋の段級」を参照
- 1918年 : 入門
- 1922年10月 1日: 四段
- 1926年 : 五段
- 1929年 : 六段
- 1935年 : 七段
- 1941年 : 八段
- 1949年 : 引退
- 1975年11月将棋の日)[4] : 名誉九段(第一回
主な成績
[編集]在籍クラス
[編集]開始 年度 |
順位戦 出典[5]
| |||||||
---|---|---|---|---|---|---|---|---|
期 | 名人 | A級 | B級 | C級 | ||||
1組 | 2組 | 1組 | 2組 | |||||
1946 | 1 | 八段戦 順位8位▼ |
6-7 降級PO:0-2 | |||||
1947 | 2 | B級 順位2位 |
4-8 | |||||
1948 | 3 | B級 予選1組 B級 本戦不出場 |
1-4 | |||||
1949 | 1949年引退 | |||||||
順位戦の 枠表記 は挑戦者。 右欄の数字は勝-敗(番勝負/PO含まず)。 順位戦の右数字はクラス内順位 ( x当期降級点 / *累積降級点 / +降級点消去 ) |
年度別成績
[編集]年度 | 対局数 | 勝数 | 負数 | 勝率 | (出典) |
---|---|---|---|---|---|
1946 | 18 | 7 | 11 | 0.3889 | |
1947 | 14 | 5 | 9 | 0.3571 | |
1948 | 5 | 1 | 4 | 0.2000 | |
1949年引退 |
栄典
[編集]脚注
[編集]注釈
[編集]出典
[編集]- ^ 東公平『升田幸三物語』(日本将棋連盟)P.36
- ^ 加藤治郎、原田泰夫、田辺忠幸『証言・昭和将棋史』(毎日コミュニケーションズ)P.10、P.215-220
- ^ 山本武雄『将棋百年 改定新版』時事通信社、1976年、686頁。(国立国会図書館デジタルコレクション収蔵)
- ^ 『写真でつづる将棋昭和史』毎日コミュニケーションズ、1987年、246頁。(国立国会図書館デジタルコレクション収蔵)
- ^ 「名人戦・順位戦」『日本将棋連盟』。