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後鳥羽天皇

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後鳥羽から転送)
後鳥羽天皇
後鳥羽院像(伝藤原信実筆、水無瀬神宮蔵)

即位礼 1184年9月4日元暦元年7月28日
大嘗祭 1184年12月22日(元暦元年11月18日
元号 寿永
元暦
文治
建久
時代 鎌倉時代
摂政 近衛基通松殿師家→近衛基通
九条兼実
関白 九条兼実→近衛基通
先代 安徳天皇
次代 土御門天皇

誕生 1180年8月6日治承4年7月14日)午時
五条町亭
崩御 1239年3月28日延応元年2月22日
隠岐
大喪儀 1239年6月19日(延応元年5月16日
陵所 大原陵、隠岐海士町陵(火葬塚)
漢風諡号 顕徳院
1239年5月(延応元年)諡号勅定
追号 後鳥羽院
(後鳥羽天皇)
1242年8月5日仁治3年7月8日)追号勅定
尊成
別称 良然(法名)
隠岐院
元服 1190年2月9日建久元年1月3日
父親 高倉天皇
母親 坊門殖子(七条院)
中宮 九条任子(宜秋門院)
子女 下記参照
皇居 平安宮
閑院
大炊御門殿
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後鳥羽天皇(ごとばてんのう、旧字体後鳥羽󠄀天皇1180年8月6日治承4年7月14日[1]〉- 1239年3月28日延応元年2月22日[2][3])は、日本の第82代天皇(在位:1183年9月8日寿永2年8月20日〉- 1198年2月18日建久9年1月11日〉)。尊成(たかひら・たかなり)。

高倉天皇の第四皇子。母は、坊門信隆の娘・殖子(七条院)。後白河天皇の孫で、安徳天皇の異母弟に当たる。

文武両道で、新古今和歌集の編纂でも知られる。鎌倉時代1221年承久3年)に、承久の乱鎌倉幕府執権北条義時に対して討伐の兵を挙げたが敗北し隠岐配流され、1239年延応元年)に同地で崩御した。

経歴

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神器なき即位

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寿永2年(1183年)7月25日、木曾義仲の軍が京都に迫ると、平家は安徳天皇と神鏡剣璽を奉じて西国に逃れた。尊成親王(後鳥羽天皇)の生母・坊門殖子(七条院)の継母は平清盛の娘であり、親王の乳母・高倉範子(刑部卿三位局)の夫である能円は清盛の妻・平時子の異父弟であるため、平家が尊成親王を西国に連れていく可能性があった。事実かどうかは判断できないものの、『平家物語』にも能円が妻と親王を連れて落ちようとした際に範子の弟である藤原範光に阻止されて能円一人で落ちていく場面がある[4]。これに従わなかった後白河法皇公卿の間では平家追討を行うべきか、それとも平和的な交渉によって天皇と神鏡剣璽を帰還させるかで意見が分かれた。この過程で義仲や源頼朝への恩賞問題その他政務の停滞を解消するために、安徳天皇に代わる「新主践祚」問題が浮上していた。8月に入ると、後白河法皇は神器無き新帝践祚と安徳天皇に期待を賭けるかを卜占に託した。結果は後者であったが、既に平氏討伐のために新主践祚の意思を固めていた法皇は、再度占わせて「吉凶半分」の結果をようやく得たという。法皇は九条兼実にこの答えをもって勅問した。兼実はこうした決断の下せない法皇の姿勢に不満を示したが、天子の位は一日たりとも欠くことができないとする立場から「新主践祚」に賛同し、継体天皇は即位以前に既に天皇と称し、その後剣璽を受けたとする先例があると勅答している(『玉葉』寿永2年8月6日条。ただし『日本書紀』にはこうした記述はなく、兼実の誤認と考えられている)。10日には法皇が改めて左右内大臣らに意見を求め、更に博士たちに勘文を求めた。そのうちの藤原俊経が出した勘文が『伊呂波字類抄』「璽」の項に用例として残されており、「神若為レ神其宝蓋帰(神器は神なので(正当な持主のもとに)必ず帰る)」と述べて、神器なき新帝践祚を肯定する内容となっている。

新帝の候補者としては義仲が北陸宮を推挙していたが、後白河法皇は安徳天皇の異母弟である4歳の尊成親王を即位させることに決めた。これは丹後局の進言を容れたものだという。安徳天皇の異母弟のうち、尊成の同母兄でもある守貞親王乳母平知盛正室治部卿局であったこともあって安徳天皇と共に平家に西国に連れ出され、惟明親王は法皇の側妾坊門局の姪を母親としていたが唯一の後見人と言える法皇の寵臣平信業(坊門局の兄で親王の大伯父にあたる)が既に死去していたことで候補から消えたと考えられている[5]

8月20日、尊成親王は後白河法皇の院宣を受ける形で践祚し(後鳥羽天皇)、その儀式は剣璽渡御を除く譲国の儀に倣って行われた。即位式も元暦元年(1184年)7月28日に、やはり剣璽なきまま行われた。

安徳天皇が在位のまま後鳥羽天皇が即位したため、寿永2年(1183年)から平家滅亡の文治元年(1185年)までの2年間は両帝の在位期間が重複する。壇ノ浦の戦いで平家が滅亡した際、神器のうち宝剣だけは海中に沈んだままついに回収できず、文治3年(1187年)9月27日に佐伯景弘から宝剣探索失敗の報告を受けて捜索は事実上終結した。建久元年(1190年)1月3日に行われた天皇の元服の儀も剣璽を欠いたまま行われた。その後は、平家都落ちの直前に伊勢神宮から後白河法皇に献上されていた剣を形代の剣として当面の間宝剣の代用とすることになり、建久9年(1198年)の土御門天皇への譲位もこれで乗り切った。そして承元4年(1210年)の順徳天皇践祚に際して、後鳥羽上皇はこの形代の剣を以後は正式に宝剣とみなすこととした。それでも2年後の建暦2年(1212年)になって検非違使藤原秀能を今一度西国に派遣して宝剣の探索にあたらせている。

皇位の象徴である三種の神器が揃わないまま登極した後鳥羽は、このことが耐えがたいコンプレックスとなって苛まされ続けたであろうことは想像に難くない[注 1]。また、後鳥羽天皇の治世を批判する際に神器が揃っていないことと天皇の不徳が結び付けられる場合があった[注 2]。後鳥羽はこのひけめを克服するために強力な王権の存在を内外に示す必要があり、それが内外に対する強硬的な政治姿勢、ひいては承久の乱の遠因になったとする見方もある[8]

治世

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建久3年(1192年)3月までは、後白河法皇による院政が続いた。後白河院の崩御後は関白・九条兼実が朝廷を主導した。兼実は源頼朝への征夷大将軍の授与を実現したが、後に頼朝の娘の入内問題から後鳥羽天皇と関係が疎遠となった。これは土御門通親丹後局の策謀によるともいわれる。建久7年(1196年)、通親の娘に皇子が産まれたことを機に政変が起こり、兼実の勢力は朝廷から一掃され、兼実の娘・任子中宮の位を奪われ、宮中から追われた(建久七年の政変)。この政変には頼朝の同意があったともいう。また兼実の過度な権勢や院近臣家出身の国母七条院藤原殖子)に対する無礼などが後鳥羽天皇の怒りと不信を招いた面もあったとみられる。

院政

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建久9年(1198年1月11日土御門天皇に譲位し、以後、土御門、順徳仲恭承久3年(1221年)まで、3代23年間に亘り太上天皇として院政を敷く。上皇になると通親をも抑え、殿上人を整理(旧来は天皇在位中の殿上人はそのまま院の殿上人となる慣例であった)して院政機構の改革を行うなどの積極的な政策を採る一方で、正治元年(1199年)の頼朝死後も台頭する鎌倉幕府に対しては融和的な姿勢で応じた。建仁元年(1201年)に京で挙兵した城長茂による幕府追討宣旨の要求も拒否し、逆に幕府の要求により長茂追討宣旨を下している(建仁の乱)。

建仁2年(1202年)に兼実が出家し、通親が急死した。既に後白河法皇・頼朝も死去しており、後鳥羽上皇が名実ともに治天の君となった。翌年の除目は上皇主導で行われ、藤原定家は「除目偏出自叡慮云々」と記している(『明月記』建久3年1月13日条)。また、公事の再興・故実の整備にも積極的に取り組み、廷臣の統制にも意を注いだ。その厳しさを定家は「近代事踏虎尾耳」(『明月記』建暦元年8月6日条)と評している。

建仁3年(1203年)に比企能員の変で将軍源頼家が失脚し、幕府が頼家は死去したと偽って弟千幡の将軍就任を要請してくるとそれを認め、上皇が自ら「実朝」の名乗りを定めた(『猪隈関白記』建仁3年9月7日条)。後に頼家は存命であることがわかるが不問に付しており、幕府の実権を握る北条時政と友好関係を築いて、京都守護として上洛した時政の娘婿の平賀朝雅を厚遇し、元久元年(1204年)に伊勢国伊賀国で起こった三日平氏の乱平定の命を受けた朝雅を伊賀国知行国主に任じている。さらに朝雅を院の殿上人として重用した。

元久2年(1205年)に幕府で牧氏事件が起こり時政が失脚すると、幕府の実権を握った北条政子義時姉弟からの命令で朝雅は在京御家人に追討された。寵愛する朝雅が幕府側の事情で討たれたことに衝撃を受けた上皇は、それを機にそれまでの北面の武士に加えて西面の武士を設置して独自の武力を編成することを企図し始めたとする説がある。

建永元年(1206年)、上皇の熊野詣中に院の女房たちが法然門下の遵西住蓮の東山鹿ヶ谷草庵で念仏法会に参加し出家して尼僧となった。この事件に怒った上皇は、承元元年(1207年)に専修念仏を停止して法然・親鸞らを配流している(承元の法難)。

牧氏事件の後は実朝を取りこむことで幕府内部への影響力拡大を図った。実朝は上皇の従妹でもある上皇の寵臣坊門信清の娘西八条禅尼を正室に迎えており、上皇もまた信清の娘坊門局を后妃の1人としていたため、上皇と実朝は合婿の義兄弟関係となっていた。実朝自身も上皇を敬愛する人物だったため、朝幕関係は一時安定期を迎える。やがて幕府は子供のいない実朝の後継に上皇の皇子を迎えて政権を安定させる親王将軍の構想を打ち出したが、建保7年(1219年)に実朝が甥の公暁に暗殺されたことでこの関係にも終止符が打たれ、親王将軍も上皇は拒絶した。『愚管抄』では上皇は日本を2つに割ることになると危惧したとしている。幕府は重ねて親王の下向を要請したが、それに対して上皇は寵姫である亀菊の所領荘園の地頭廃止を要求した。幕府はこれを拒否して、北条時房に千騎を率いて上京させて交渉に当たらせたが、上皇も幕府も態度が強硬で交渉は不調に終わった[注 3]。ただし上皇は、皇子でさえなければ摂関家の子弟であろうと鎌倉殿として下して構わないと渋々ながらも妥協案を示したため、幕府はやむなく親王将軍をあきらめ、頼朝の妹の曾孫にあたる九条道家の子である三寅(後の藤原頼経)を4代目の鎌倉殿として迎え入れた。

三寅が鎌倉に下向して間もなく大内守護である源頼茂が上皇の命を受けた在京武士に襲われ、内裏の仁寿殿に籠って自害を遂げ、その際の火災によって仁寿殿ばかりか宜陽殿・校書殿など、内裏内の多くの施設が焼失した。この原因については、頼茂が将軍の地位を狙ったとする説や頼茂が上皇の討幕の意図を知ったからとする説、後鳥羽院政下における廷臣同士の権力闘争が原因とする説など諸説ある。上皇は堀川通具上卿として内裏再建を進め、全国に対して造内裏役を一国平均役として賦課した。だが、それに対する反発は予想以上に強く、公家・武家・寺社を問わず何らかの理由を付けて賦課を拒否する者が続出した。この再建が承久の乱以前に完成したのか、乱によって中絶したのかについては定かではないものの、この内裏再建が朝廷主導による内裏造営の最後のものとなった[11]。なお、翌年の承久の乱に関係するのか前年に藤原定家への勅勘があり、また前年から当年にかけて熊野詣をしており、摂津の南境の止止呂支比売命神社西北に行宮跡が残されている。

承久の乱

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承久3年(1221年5月15日、後鳥羽上皇は、時の執権北条義時追討の官宣旨院宣[注 4]を出し、山田重忠ら有力御家人を動員させて畿内・近国の兵を召集して承久の乱を起こした[注 5]が、幕府の大軍に完敗。わずか2か月あと7月13日、19万と号する大軍を率いて上京した義時の嫡男・泰時によって、後鳥羽上皇は隠岐島隠岐国海士郡中ノ島、現海士町)に配流された。父の計画に協力した順徳上皇は佐渡島に流され、関与しなかった土御門上皇も自ら望んで土佐国に遷った。これら三上皇のほかに、院の皇子雅成親王但馬国へ、頼仁親王備前国にそれぞれ配流された。さらに、在位わずか3か月足らずの懐成親王(仲恭天皇、当時4歳)も廃され、替わって後鳥羽の同母兄行助入道親王(守貞親王)の子である茂仁王が皇位に即き(後堀河天皇)、皇位を践んでいない行助入道親王が法皇として治天として院政を執ることになった(後高倉院)。

崩御

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後鳥羽院は隠岐に流される直前に出家して法皇となった。『明月記』の記録によると、文暦2年(1235年)の春頃には摂政・九条道家が後鳥羽院と順徳院の還京を提案したが、北条泰時は受け入れなかった。

四条天皇の御代の延応元年(1239年2月22日、配所にて崩御した。宝算60。同年5月、「顕徳院」と諡号が贈られた。『平戸記』によると泰時が死亡した仁治3年(1242年)の6月に、九条道家が追号を改めることを提案し、あらためて「後鳥羽院」の追号を贈ることとなった[16]。ただし、これを提案したのは土御門定通とする説もある[17]。後高倉皇統の断絶によって後嵯峨天皇(土御門院皇子)の即位となった仁治3年(1242年)7月には正式に院号が「後鳥羽院」とされた。

歌人として

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百人一首の札の一つ「後鳥羽院」 人もをし 人も恨めし あぢきなく 世を思ふゆゑに もの思ふ身は

後鳥羽院(ごとばいん/ごとばの いん)は中世屈指の歌人であり、その歌作は後代にまで大きな影響を与えている。

院がいつごろから歌作に興味を持ちはじめたかは分明ではないが、通説では建久9年(1198年)1月の譲位、ならびに同8月の熊野御幸以降急速に和歌に志すようになり、正治元年(1199年)以降盛んに歌会歌合などを行うようになった。院は当初から、当時新儀非拠達磨歌と毀誉褒貶相半ばしていた九条家歌壇、ことにその中心人物だった藤原定家の歌風に憧憬の念を抱いていたらしく、正治2年(1200年)7月に主宰した正治初度百首和歌では、式子内親王九条良経藤原俊成慈円寂蓮藤原定家藤原家隆ら、九条家歌壇の御子左家系の歌人に詠進を求めている。この百首歌を機に、院は藤原俊成に師事し、定家の作風の影響を受けるようになり、その歌作は急速に進歩してゆく。同年8月以降、正治後度百首和歌を召す。対象となった歌人は飛鳥井雅経源具親鴨長明後鳥羽院宮内卿ら院の近臣を中心とする新人。この時期、院は熱心に新たな歌人を発掘して周囲に仕えさせており、これが後に九条家歌壇、御子左家の歌人らとともに代表的な新古今歌人として成長する院近臣一派の基盤となる。

2度の百首歌を経て和歌に志を深めた院は勅撰集の撰進を思い立ち、建仁元年(1201年)7月には和歌所を再興する。寄人は藤原良経、慈円、土御門通親、源通具、釈阿(俊成)、藤原定家、寂蓮、藤原家隆、藤原隆信藤原有家六条藤家)、源具親、藤原雅経、鴨長明、藤原秀能の14名(最後の3名は後に追加)、開闔(かいこう)は源家長である。またこれより以前に未曾有の歌合・千五百番歌合を主宰した。当代の主要歌人30人に百首歌を召してこれを結番し、歌合形式で判詞を加えるという空前絶後の企画だったが、この歌合は、新古今期の歌論の充実、新進歌人の成長などの面から見ても日本文学史上大きな価値を持つ。さらにこのような大規模な企画を経て、同年11月には藤原定家、藤原有家、源通具、藤原家隆、藤原雅経、寂蓮の6人に勅撰集の命を下し、『新古今和歌集』撰進がはじまった。同集の編集にあたっては、『明月記』そのほかの記録から、院自身が撰歌、配列などに深く関与し、実質的に後鳥羽院が撰者の一人であったことも明らかになっている。

また、室町時代の皇族貞成親王後花園天皇実父)が著した日記『看聞日記』応永31年2月29日条(高松宮家旧蔵本)には後鳥羽院の宸記(日記)のうち、建保3年5月15日・19日および11月11日条の一部が引用されている。そこには、院が御忍びで地下連歌の席に出向いて、当時自らが出していた銭禁令(宋銭禁止令)に反してを賭けて勝利したこと、後日このことを「見苦し」としながらも再び連歌で賭け事をしたことが記されている[18]

後世の評価

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後白河法皇の崩御後は自ら親政および院政を行ったが、治天の君として土御門天皇を退かせて寵愛する順徳天皇を立て、その子孫に皇位継承させたことには、貴族社会だけでなく他の親王たちからの不満も買った。また三種の神器を欠いた即位の経緯も不評を買った。専制的な暴政や無謀な挙兵計画に対しては、院の側近以外の貴族たちは冷ややかな対応に終始した。このため、承久の乱後においては、幕府の政治的影響力の拡大を差し引いても後鳥羽院に同情的な意見は少なく、『愚管抄』・『六代勝事記』・『神皇正統記』などはいずれも、「院が覇道的な政策を追求した結果が招いた、自業自得の最期であった」と手厳しいものがあった。

寛元2年(1244年)には後鳥羽上皇の追善八講が公家沙汰(朝廷主催の行事)に格上され、宝治2年(1248年)には後嵯峨上皇が後鳥羽上皇が定制化したものの承久の乱で中絶した院御所最勝講を先例として復活させた。これは、土御門天皇系の後嵯峨上皇(天皇)が皇位継承を巡って緊張関係にあった順徳天皇系の忠成王(仲恭天皇の弟)に対抗するために、土御門系が後鳥羽上皇(天皇)の正統な後継者であることを主張する必要があり、その前提として後鳥羽上皇の名誉回復を進める必要があったためである。これは、忠成王支持派を抑えて後嵯峨天皇即位を強行した鎌倉幕府の暗黙の了承の上での行為であった[19]。もっとも、後鳥羽上皇の崩御後に追善八講を行って来た修明門院(忠成王は彼女に養育されていた)はこの方針に反発し、修明門院が薨去する文永元年(1264年)まで、法要の主導権を巡る両者の対立が続いた[20]。なお、後鳥羽上皇が一度は拒絶した宮将軍の構想が、後嵯峨上皇の院政下で実現した(初代の宮将軍は後嵯峨上皇皇子の宗尊親王)背景には、後鳥羽上皇(天皇)の正統な後継者を巡る土御門系と順徳系の争いにおける土御門系の巻き返し工作の一環であったとする説が浮上している[21]

一方、鎌倉幕府滅亡後には、歌人としての後鳥羽院を再評価しようとする動きも高まった。『増鏡』における後鳥羽院はこうした和歌をはじめとする「宮廷文化の擁護者」としての側面をより強調している。

交野八郎

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古今著聞集によれば(巻12、偸盗)、交野八郎と呼ばれる強盗の親玉がおり、後鳥羽上皇みずから船を召し西面の武士を指揮して、今津(琵琶湖の今津[22])で召し取りになられた。そのさい西面の武士の囲いをたやすく逃げ回っていたものの、上皇みずから櫂を取られたところ、八郎はたやすく捕らえられた。のち水無瀬殿に引き出して上皇が問うたところ「捕まったのは、上皇が船をこぐ櫂をあたかも扇のように扱うのを見て運が尽き力が失せたためです」と応えたという。のち許されて中間として仕えたという[23][24]

怨霊としての後鳥羽院

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配流後の嘉禎3年(1237年)に後鳥羽院は「万一にもこの世の妄念にひかれて魔縁(魔物)となることがあれば、この世に災いをなすだろう。我が子孫が世を取ることがあれば、それは全て我が力によるものである。もし我が子孫が世を取ることあれば、我が菩提を弔うように」との置文を記した[25]。また同時代の公家平経高の日記『平戸記』には、延応元年(1239年)2月の後鳥羽院の死後、同年12月における三浦義村および翌延応2年(1240年)1月の北条時房の死を後鳥羽院の怨霊が原因とする記述があり、仁治3年(1242年)の北条泰時の死についても同様に後鳥羽院の怨霊による祟りではないかという風聞が流布しており、後鳥羽院は怨霊と化したと見られていた[26]。顕徳院から後鳥羽院への追号の変更はそうした怨霊説の払拭の意味もあったと考えられているが、別の角度からの見方として怨霊説は後鳥羽院が生前に志向していた順徳天皇系による皇位継承には有利な言説で、土御門天皇系である後嵯峨天皇の即位に対する批判の根拠に成り得たからとする説もある[27]

また『吾妻鏡』には宝治合戦直前の宝治元年(1247年)4月25日に鶴岡八幡宮の北西の山麓に後鳥羽院の怨霊を慰撫するための寺社を創建したという記事があり、『神明鏡』では前年の寛元の政変が後鳥羽院の怨霊の仕業であることを恐れて祀ったものだと、『皇代暦』では将軍九条頼嗣の妻で執権北条時頼の妹である檜皮姫の発病について託宣があり後鳥羽院を祀ったものだとある[28]。『吾妻鏡』が成立した13世紀末から14世紀初めの頃には後鳥羽院は水無瀬御影堂に祀られていたが、依然として盛んに託宣が下り、祟りを成し続けていたという[29]

御所焼・菊紋

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を打つことを好み、備前一文字派の則宗をはじめとして諸国から鍛冶を召して月番を定めて鍛刀させたと伝えられる。また自らも焼刃を入れそれに十六弁の菊紋を毛彫りしたという。これを「御所焼」「菊御作」などと呼ぶ。皇室の菊紋のはじまりである。

系譜

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後鳥羽天皇の系譜
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
16. 第73代 堀河天皇
 
 
 
 
 
 
 
8. 第74代 鳥羽天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
17. 藤原苡子
 
 
 
 
 
 
 
4. 第77代 後白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
18. 藤原公実
 
 
 
 
 
 
 
9. 藤原璋子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
19. 藤原光子
 
 
 
 
 
 
 
2. 第80代 高倉天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
20. 平知信
 
 
 
 
 
 
 
10. 平時信
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
5. 平滋子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
22. 藤原顕頼
 
 
 
 
 
 
 
11. 藤原祐子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
23. 藤原忠子
 
 
 
 
 
 
 
1. 第82代 後鳥羽天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
24. 藤原経忠
 
 
 
 
 
 
 
12. 藤原信輔
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
6. 藤原信隆
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
26. 橘家光
 
 
 
 
 
 
 
13. 橘家光女
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
3. 藤原殖子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
28. 藤原基頼
 
 
 
 
 
 
 
14. 藤原通基
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
29. 藤原国仲女
 
 
 
 
 
 
 
7. 藤原休子
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 

系図

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77 後白河天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
78 二条天皇
 
以仁王
 
80 高倉天皇
 
亮子内親王
(殷富門院)
 
式子内親王
 
覲子内親王
宣陽門院
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
79 六条天皇
 
某王
北陸宮
 
81 安徳天皇
 
守貞親王
(後高倉院)
 
82 後鳥羽天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
86 後堀河天皇
 
83 土御門天皇
 
84 順徳天皇
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
87 四条天皇
 
88 後嵯峨天皇
 
85 仲恭天皇
 
忠成王
(岩倉宮)
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 


后妃・皇子女

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法華系の一部の著作では日蓮が後鳥羽の皇胤であるとするものもあるが、同時代にはそのような史料がなく、史実とは見られていない。

在位中の元号

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陵・霊廟

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大原陵
水無瀬神宮

(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市左京区大原勝林院町にある大原陵(おおはらのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造十三重塔。

また、島根県隠岐郡海士町には隠岐海士町陵(おきあまちょうのみささぎ)と通称される火葬塚がある。遺骨の大部分は今の火葬塚に納められたが、明治6年、明治天皇の命により大阪の水無瀬神宮に合祀された。明治7年、祠殿は取り壊され、山陵はその後、第82代後鳥羽天皇御火葬塚として、宮内庁で管理されている[30]

広島県三次市作木町香淀大山にも「天皇山」と呼ばれる山があり、後鳥羽院御陵と呼ばれる陵が存在し、同じく三次市作木町香淀川毛には後鳥羽院尊儀という角石塔が伝えられている(後鳥羽伝説[31]

佐賀県神埼市脊振町の鳥羽院地区にも隠岐島を逃れた後鳥羽院が潜幸し、この地で没したとの伝承があり、行宮とした教心寺(昭和20年代に現在の「善信寺」と改名)の裏手には、後鳥羽院の山稜と伝えられる墳墓「後鳥羽上皇山稜」がある。大正元年の調査では蓋石裏に「御白骨2枚西河左衛門太夫奉拝」と書かれた石棺が発見され、当時の宮内省にも報告された[32][33]

皇居では、皇霊殿宮中三殿の一つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。また、大阪府三島郡島本町にあった水無瀬離宮の跡は水無瀬神宮となり、後鳥羽院が祭神として祀られている。そのほか、宝治元年(1247年)に鶴岡八幡宮敷地内に建立された今宮は、後鳥羽院を主神とし、順徳院、土御門院、護持僧の長賢を合祀している。

関連美術工芸品

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  • 後鳥羽天皇宸翰御手印置文(国宝) - 水無瀬神宮蔵。暦仁2年(1239年)、隠岐に流されていた後鳥羽上皇が崩御の13日前に書いた自筆の遺言状。文面には上皇の手印(手形)が鮮明に付されている[34][35]
  • 紙本著色後鳥羽天皇像(国宝) - 水無瀬神宮蔵。鎌倉時代の似絵(にせえ、肖像画)の代表作。承久の乱に敗れた後鳥羽上皇は出家して隠岐に配流される前に、絵師・藤原信実に命じて自身の出家前の肖像画を描かせたことが『吾妻鏡』に見え、その絵にあたるものという。
  • 後鳥羽院置文案文(重要文化財) - 水無瀬神宮蔵
  • 後鳥羽院宸翰消息(重要文化財) - 水無瀬神宮蔵

関連作品

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テレビドラマ

アニメ

小説

  • 周防柳『身もこがれつつ――小倉山の百人一首』(2021年7月、中央公論新社、ISBN 978‐4‐12‐005447‐1、中山義秀文学賞受賞)

脚注

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注釈

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  1. ^ 丸谷才一は、宝剣喪失が後鳥羽院の幼時からの「心の傷」であり、そこに由来する屈辱感と自己嫌悪がその行動原理に反映されていると説く[6]
  2. ^ 例えば、藤原定家は後鳥羽上皇と順徳天皇の度を越した蹴鞠好きを批判した際に「百王八十余代、神剣没海、卅廻于茲。事理可然」(『明月記』建保元年4月29日条)と神器の不在に原因を求め、近代においても武士の台頭の原因として後鳥羽天皇が「虚器」を擁していたことに求める意見があった[7]
  3. ^ 通説では、上皇が亀菊の荘園に対する地頭職撤廃を求めたことで決裂したとされているが、河内祥輔のように実朝暗殺を機に宮将軍の安全問題が浮上して、幕府の京都移転など幕府に受け入れがたい要求が出された可能性を指摘する説もある[9]。また、谷昇は実朝が暗殺された日に上皇が敵対者の調伏の修法として行われていた五壇法を行っていたことを指摘し、上皇が幕府自体の転覆や親王将軍による幕府掌握を意図して公暁を唆して実朝暗殺を行わせたとする“上皇黒幕説”を唱えている[10]
  4. ^ 後鳥羽上皇が義時追討の院宣を発したと記すのは慈光寺本『承久記』などだが、慈光寺本は『承久記』諸本の中で成立が一番古い上に唯一義時追討院宣の本文が採録されていること、その内容が現存する後鳥羽の他の(義時追討以外の)院宣に類似の形式が見られることから、慈光寺本に記された義時追討の院宣は実際に発給されたものの引き写しであった可能性が高いとする説がある[12]。一方で、実物が現存している義時追討の官宣旨に対して、同時代史料で後鳥羽が義時追討の院宣を発給したと記すものがない上に、義時追討の官宣旨と院宣の両方が出されたと記す史料は軍記物を含めて一点もなく、慈光寺本『承久記』は院宣のみに触れて実在する官宣旨には触れていない(一方で前田家本『承久記』は現存する官宣旨のみを引用している)ことから、慈光寺本『承久記』は実在する官宣旨から院宣を創作したとする説もある[13][14]
  5. ^ 承久の乱は通説では討幕計画とされているが、近年の研究ではあくまでも上皇に反抗的な北条義時を幕府から排除することで公武関係を正常化することが目的であったとして、討幕の意図には否定的な見方もある。承久の乱が討幕計画とみなされた経緯については、長村祥知が詳しく分析している[15]。ただし、そのような見方については反論も多く、従来通り討幕が目的だとする見解もある。

出典

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  1. ^ 丸谷 2013, p. 381.
  2. ^ 丸谷 2013, p. 411.
  3. ^ 今野慶信 著「後鳥羽院の怨霊―利用される怨霊―」、鈴木彰; 樋口州男 編『後鳥羽院のすべて』新人物往来社、2009年、170頁。 
  4. ^ 曽我部愛 著「後宮からみた後鳥羽王家の構造」、野口実 編『承久の乱の構造と展開 転換する朝廷と幕府の権力』 8巻、戎光祥出版〈戎光祥中世史論集〉、2019年3月16日、105-108頁。ISBN 978-4-86-403317-6 
  5. ^ 曽我部愛「鎌倉期王家における皇統の断絶と在俗皇子」(初出:『研究論集 歴史と文化』第3号(2018年)/所収:曽我部『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) ISBN 978-4-88621-879-7)2021年、P.141-142.
  6. ^ 丸谷 1973, p. [要ページ番号]。.
  7. ^ 池田晃淵「承久の乱の起因に就て」『史学雑誌』第7巻第2号、1896年。
  8. ^ 谷 2010a, pp. 76–81.
  9. ^ 河内祥輔『日本中世の朝廷・幕府体制』吉川弘文館、2007年。
  10. ^ 谷 2010b, pp. 155–167.
  11. ^ 小山田義夫「承久の大内裏再建事業について」『流通經濟大學論集』第10巻第4号、1976年。 /所収:小山田義夫『一国平均役と中世社会』岩田書院、2008年。ISBN 978-4-87294-504-1 
  12. ^ 長村祥知「承久三年五月十五日付の院宣と官宣旨-後鳥羽院宣と伝奏葉室光親-」(初出:『日本歴史』744号、2010年 所収:『中世公武関係と承久の乱』(吉川弘文館、2015年)ISBN 978-4642029285
  13. ^ 西田知広「書評 長村祥知著『中世公武関係と承久の乱』」『日本史研究』651、2016年
  14. ^ 呉座勇一『頼朝と義時 武家政権の誕生』講談社現代新書、2021年
  15. ^ 長村祥知「〈承久の乱〉像の変容-『承久記』の変容と討幕像の展開-」『文化史学』68号、2012年。 /所収: 長村祥知『中世公武関係と承久の乱』吉川弘文館、2015年。ISBN 978-4-64-202928-5 
  16. ^ 山本 2009, pp. 302–305.
  17. ^ 川合康「武家の天皇観」『鎌倉幕府成立史の研究』(校倉書房、2004年)
  18. ^ 井原今朝男『中世の国家と天皇・儀礼』校倉書房、2012年、245, 316-317, 345, 395頁。ISBN 978-4-7517-4430-7 なお、井原は第二次世界大戦前に和田英松が応永31年2月29日条を翻刻した際に後鳥羽院が自ら定めた宋銭禁止令を破って宋銭で賭け事をしていた事実を隠蔽するため意図的に該当記述を削除したことを指摘している。
  19. ^ 遠藤 2008, pp. 286–289, 333–338, 359–360.
  20. ^ 白根 2018, pp. 77–83, 163–167.
  21. ^ 曽我部愛『中世王家の政治と構造』同成社、2021年、200-208, 218-234頁。
  22. ^ 講談社デジタル版「日本人名大辞典+Plus」交野八郎
  23. ^ 講談社デジタル版「日本人名大辞典+Plus」交野八郎
  24. ^ 「古今著聞集」(巻12、偸盗)[1]国史大系第15巻P.436
  25. ^ 山本 2009, pp. 305–307.
  26. ^ 山本 2009, pp. 302–307.
  27. ^ 白根 2018, pp. 77–83, 161–162.
  28. ^ 藪本勝治『吾妻鏡 鎌倉幕府「正史」の虚実』中公新書、2024年、p254
  29. ^ 藪本勝治『吾妻鏡 鎌倉幕府「正史」の虚実』中公新書、2024年、p215
  30. ^ 後鳥羽上皇御火葬塚”. 隠岐郡海士町オフィシャルサイト. 島根県隠岐郡海士町. 2022年7月26日閲覧。
  31. ^ 新撰陵墓志(仮)岡山県、広島県”. geocities. 2019年3月30日時点のオリジナルよりアーカイブ。2019年3月30日閲覧。
  32. ^ 後鳥羽上皇山稜”. 神埼デジタルミュージアム「かんざき@NAVI」. 神埼市. 2022年7月26日閲覧。
  33. ^ 神埼まちあるき(3) 伝説が息づく鳥羽院”. 神埼デジタルミュージアム「かんざき@NAVI」. 神埼市 (2012年7月31日). 2022年7月26日閲覧。
  34. ^ 後鳥羽天皇宸翰御手印置文”. 文化遺産データベース. 文化遺産オンライン. 2022年7月26日閲覧。
  35. ^ 国宝「後鳥羽天皇筆 御手印置文」を見に行こう!”. 和樂web 日本文化の入り口マガジン (2018年3月15日). 2022年7月26日閲覧。

参考文献

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  • 遠藤基郎『中世王権と王朝儀礼』東京大学出版会、2008年。ISBN 978-4-13-026218-7 
  • 山本幸司『日本の歴史09:頼朝の天下草創』講談社〈講談社学術文庫〉、2009年。ISBN 978-4-06-291909-8 
  • 白根陽子『女院領の中世的展開』同成社、2018年。ISBN 978-4-88621-800-1 
  • 丸谷才一『後鳥羽院』筑摩書房〈日本詩人選10〉、1973年。ISBN 4-480-82346-8 
  • 樋口芳麻呂『後鳥羽院 我こそは、にい島守よ』集英社〈王朝の歌人10〉、1985年。 
  • 谷昇『後鳥羽院政の展開と儀礼』思文閣出版、2010年。 
    • 谷昇「後鳥羽院在位から院政期における神器政策と神器観」、50-89頁。 (初出:『古代文化』第60巻第2号、2008年。)
    • 谷昇「承久の乱に至る後鳥羽上皇の政治課題」、135-186頁。 (初出:『立命館文学』588号、2005年。)
伝記
歌論

関連項目

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外部リンク

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