閑院
閑院(かんいん)は、平安京左京三条二坊(現在の京都市中京区押小路通小川通付近)にあった邸宅。平安時代初期に藤原冬嗣が建てた邸宅が起源となっており、平安時代末期から鎌倉時代中期にかけて里内裏が置かれた。
二条大路の南、西洞院大路の西に所在し[1]、面積は方1町[1]。閑院の東には東三条殿、西には堀河殿があった[1]。
藤原冬嗣(775年 - 826年)が邸宅とし[1]「閑院大臣」と呼ばれた。その後、藤原兼通(925年 - 977年)が所有し[1]、その子の藤原朝光(951年 - 995年)も居住して「閑院大将」「閑院大納言」とも呼ばれた[1]。朝光が閑院に居住していた時、円融院が堀河殿に暮らしており、閑院に咲く桜をめぐって和歌のやり取りをした[1]。
その後、兼通の弟である藤原公季(956年 - 1029年)が閑院を受け継いだ。公季は太政大臣に上って「閑院大臣」と呼ばれ、その末裔は閑院流と呼ばれた。閑院流は白河天皇(生母は藤原茂子)、鳥羽天皇(生母は藤原苡子)、崇徳天皇・後白河天皇(生母は藤原璋子)の外戚となり、院政期に栄えた。
鎌倉幕府は閑院を改修して紫宸殿・清涼殿を具えた本格的な殿舎を造営し、後鳥羽天皇以来8代にわたって中心的な皇居(本所)となった[2](閑院内裏)。この間、後堀河天皇の安貞元年(1227年)に大内裏が焼亡して以後その再建は放棄され、「本内裏」が消滅した[2]。
閑院は宝治3年(1249年)の閑院火災など幾度かの火災に見舞われている。正元元年(1259年)に焼失したのち[1][2]、同じ場所で再建されることはなかった。後深草天皇は富小路殿に移り、一方で後深草天皇の系統(持明院統)と対立していた大覚寺統は万里小路殿や二条殿を本拠とした[2]。
閑院内裏はその後の里内裏の模範と見なされ、花園天皇の文保元年(1317年)に幕府が造営した富小路殿(冷泉富小路殿/二条富小路内裏)は、閑院内裏の復元を図ったものであった。『徒然草』第33段には、高齢の玄輝門院(洞院愔子)が50年以上前の閑院内裏の記憶から、特定の窓の形状について復元の誤りを指摘した話を載せている。
脚注
[編集]外部リンク
[編集]- 閑院内裏址 - 京都市