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道覚法親王

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
道覚入道親王から転送)
道覚入道親王
続柄 後鳥羽天皇皇子

全名 朝仁
称号 西山宮、吉水宮
身位 親王
出生 元久元年(1204年
死去 建長2年1月11日1250年2月13日)(享年47)
父親 後鳥羽天皇
母親 尾張局
役職 天台座主
青蓮院門跡
無動寺検校
横川検校
三昧院成就院別当
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道覚法親王(どうかくほっしんのう、元久元年(1204年)- 建長2年1月11日1250年2月13日))は、鎌倉時代前期から中期にかけての天台宗。父は後鳥羽天皇。母は尾張局。親王宣下後の入道のため、道覚入道親王(どうかくにゅうどうしんのう)とも。

略歴

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承元2年(1208年)、親王宣下を受けて朝仁と称した。建保4年(1216年)、出家して慈円慈賢真性などに天台教学を学んだ。慈円は青蓮院門跡を道覚に譲る予定であったが、承久の乱で後鳥羽院が隠岐に流されると、承久3年(1221年)に青蓮院を退出せざるを得なかった[1]

宝治元年(1247年)に天台座主となり、翌宝治2年(1248年)に後嵯峨上皇の院宣によって青蓮院門跡を引き継いでいる。しかし、青蓮院の継承は慈円の孫弟子にあたる慈源九条道家の子)を訴訟[2]によって青蓮院から追放したものであり、道覚が死去すると慈源の青蓮院門跡への復帰が認められた。だが、道覚も慈源も独自に後継者を指名した上、慈源が父・道家の失脚によって再度青蓮院を追われたために青蓮院は2派に分裂し、その最終的な解決は後醍醐天皇の仲裁によって尊円法親王が継承する建武3年(1336年)までかかることになった[1]

脚注

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  1. ^ a b 稲葉伸道 著「青蓮院門跡の成立と展開」、河音能平; 福田榮次郎 編『延暦寺と中世社会』法蔵館、2004年。 /所収:稲葉伸道『日本中世の王朝・幕府と寺社』吉川弘文館、2019年、280-291頁。 
  2. ^ 道覚は承久の乱後に青蓮院を退出したものの、慈円の後継者としての約束を取り消された訳ではなく、慈円が改めて良快(九条兼実の子、慈源の師にあたる)を後継者に指名して青蓮院を譲ったのは無効であると主張して、良快の後継者である慈源の門主としての地位を否定していた。

関連項目

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