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千五百番歌合

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

千五百番歌合(せんごひゃくばんうたあわせ)は、鎌倉時代後鳥羽院が主催した歌合。仙洞百首歌合とも言う。[1]

和歌史上最大規模の歌合であり、「新古今和歌集」撰集資料としても第1位である(90首入集)。[2]

概要

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建仁元年(1201年)、後鳥羽院の命を受けた30人の歌人が100首ずつ詠進した(「後鳥羽院第三度百首」)が、この3000首が1500番の歌合に結番され、建仁2年(1202年)9月に選定された10人の判者に2巻(150番)ずつ送られた。披講や評定は行われず、判者の裁量で加判され[2]建仁3年(1203年)春頃に成立した。[1]

各歌人が詠進した百首歌すべてを番えて歌合にするのは、建久4年(1193年)もしくは建久5年(1194年)頃成立した[1]九条家主催の「六百番歌合」が嚆矢であるが、後鳥羽院はそれをはるかに超える規模で行ったものである。[2]

出詠歌人

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左方 15名
女房左大臣前権僧正公経卿公継卿季能卿隆信朝臣保季朝臣有家朝臣具親良平顕昭宮内卿小侍従讃岐
右方 15名
三宮内大臣忠良卿兼宗卿通光卿釈阿定家朝臣通具朝臣家隆朝臣雅経家長寂蓮俊成卿女丹後越前

構成・判者

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判者10名で2巻(150番・300首)ずつ分判。

春  300番(600首)
一・二 藤原忠良
三・四 釈阿(藤原俊成)     *建仁3年11月23日九十賀を賜る
夏  225番(450首)
一・二 源通親         *建仁2年10月21日薨去のため欠判
三   藤原良経   *判に真名序を置く。判詞が漢詩(判詩
秋  300番(600首)
一   藤原良経
二・三 後鳥羽院   *判に仮名序を置く。判詞が和歌(判歌)、折句で勝敗を示す
四   藤原定家        *判詞に漢文と散文を併用
冬  225番(450首)
一   藤原定家
二・三 蓮経(藤原季経)
祝   75番(150首)
    生蓮(源師光)
恋  225番(450首)
一   生蓮(源師光)
二・三 顕昭
雑  150番(300首)
一・二 慈円     *判に(和歌)を置く。判詞が和歌(判歌

後鳥羽院・良経・慈円の判が特殊であるのは、院や摂関家の人々が晴の会で、身分の低い臣下と同様の判詞(散文)を書くのを避けたためと考えられている。[3]

伝本

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伝本には3系統がある。[1]

  • 改訂前の系統:高松宮旧蔵本(『新編国歌大観』底本) 等
  • 改訂後の系統:書陵部蔵桂宮本 等
  • 改訂前・改訂後の両方を含む混態本

脚注

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  1. ^ a b c d 松野陽一・𠮷田薫編『藤原俊成全歌集』笠間書院、2007年 ISBN 978-4305703286 pp.1032
  2. ^ a b c 田渕句美子『新古今集 後鳥羽院と定家の時代』角川学芸出版、2010年 ISBN 978-4047034815 pp.76-85
  3. ^ 安井重雄「『千五百番歌合』定家判詞について」(浅田徹・藤平泉『古今集 新古今集の方法―和歌文学会論集』笠間書院、2004年 ISBN 978-4305401151