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藤原信輔

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
 
藤原 信輔
時代 平安時代後期
生誕 不明
死没 元暦元年(1184年
改名 信輔→太秦入道
官位 正四位下右京大夫
主君 近衛天皇後白河天皇
氏族 藤原北家中関白家
父母 父:藤原経忠、母:藤原実子
兄弟 忠能経親信輔経雅信経実経、忠覚、増修、行縁、増忠、藤原家成
橘家光の娘
信隆信保信行親信師親経弘、信覚、藤原公行室、藤原顕時室、藤原惟方
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藤原 信輔(ふじわら の のぶすけ)は、平安時代後期の貴族藤原北家中関白家中納言藤原経忠の子。官位正四位下右京大夫

経歴

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従五位下叙爵後、白河院政期中期の永久2年(1114年能登権守に任官する。その後は、淡路守若狭守駿河守武蔵守因幡守と白河院政期後期から鳥羽院政期後期にかけて四半世紀以上に亘って受領を歴任した。

久寿3年(1156年)2月に右京大夫に任ぜられる。同年7月に鳥羽法皇が崩御した際、藤原成親源光保信西藤原惟方ら八人と法皇の遺体を入棺したという[1]

その後出家し、太秦入道と号した[2]元暦元年(1184年卒去

官歴

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系譜

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脚注

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  1. ^ 『兵範記』保元元年7月2日条
  2. ^ a b c 尊卑分脈』道隆公流
  3. ^ a b c d e 『中右記』
  4. ^ 『御産部類記』
  5. ^ 『中右記』大治2年正月20日条
  6. ^ 『平安遺文』2491
  7. ^ a b 『本朝世紀』
  8. ^ 『兵範記』

参考文献

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