藤原通基 (大蔵卿)
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時代 | 平安時代後期 |
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生誕 | 寛治4年(1090年) |
死没 | 久安4年10月10日(1148年11月22日) |
別名 | 持明院通基 |
官位 | 正四位下、大蔵卿 |
主君 | 堀河天皇→鳥羽天皇→崇徳天皇→近衛天皇 |
氏族 | 藤原北家中御門流 |
父母 | 父:藤原基頼、母:藤原国仲の娘 |
兄弟 | 通基、俊保、覚基 |
妻 | 上西門院一条(源師隆の娘) |
子 | 道親、通重、基家、良基、長基、藤原公通室、藤原実綱室、休子(藤原信隆室) |
藤原 通基(ふじわら の みちもと)は、平安時代後期の貴族。能登守・藤原基頼の次男。官位は正四位下・大蔵卿。持明院 通基とも呼ばれる。
経歴
[編集]白河院政期末から鳥羽院政期前半にかけて、武蔵守・因幡守・丹波守と受領を歴任したほか、左京権大夫を務める。鳥羽院政期後半の康治2年(1143年)頃には大蔵卿に任ぜられている。久安4年(1148年)10月10日卒去。享年59。
天治年間(1124年-1126年)において、父の基頼が創建した持仏堂である持明院を改築・拡張して、安楽光院と改名。鳥羽上皇を招いて盛大な供養を行った。これ以降「持明院」の名称はその邸宅の名として残り、またその家の家号ともなった。三男の基家がこれを継承し、その子孫は羽林家の持明院家として発展した。
官歴
[編集]- 大治2年(1127年) 正月3日:見武蔵守[1]。12月7日:因幡守[1]
- 大治5年(1130年) 正月6日:正五位下[1]
- 長承3年(1134年) 8月13日:見丹波守[2]
- 保延元年(1135年) 5月:見左京権大夫兼丹波守[3]
- 康治2年(1143年) 7月11日:見大蔵卿[4]
- 久安4年(1148年) 10月10日:卒去[5]
系譜
[編集]『尊卑分脈』による。
脚注
[編集]脚注
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