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平信業

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

平 信業(たいら の のぶなり、保延4年(1138年) - 寿永元年8月30日1182年9月29日))は、平安時代末期の貴族兵衛尉・平信重の子。官位は五位・大膳大夫後白河法皇近臣。姉妹には坊門局(円恵法親王定恵法親王の生母)及び平義範の妻[注釈 1]がいる。

経歴

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久寿2年(1155年)新帝・後白河天皇に寄せられた所衆並びに滝口の中にその名が見える[3]

後白河院政期に入り、保元3年(1159年従五位下右衛門尉に叙任される。仁安元年(1166年)従五位上に叙せられるが、その後以下の通り後白河院の近臣としての活動が見られる。

安元2年(1176年)異例の抜擢により大膳大夫に任ぜられる[7]。その後、治承3年(1179年治承三年の政変平清盛により院政が停止されると信業は業忠とともに解官されるが、翌治承4年(1180年)3月の後白河院出京に際して大膳大夫として出向いており、これまでに信業は復任したとみられる。

寿永元年(1182年)7月14日出家し、同年8月31日卒去享年45。後白河院は信業の死を嘆き、翌日に予定していた賀茂神社への参詣を取り止めたという。

後白河院の近臣として「法皇御第一者也」と評された(『山槐記』)[8]

官歴

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系譜

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  • 父:平信重[14]
  • 母:不詳
  • 妻:不詳

脚注

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注釈

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  1. ^ 娘の範子(少将局)は高倉天皇の寵愛を受けて惟明親王を生んでおり、信業は親王の後見人の1人であった可能性がある[1][2]

出典

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  1. ^ 曽我部愛「鎌倉期王家における皇統の断絶と在俗皇子」初出:『研究論集 歴史と文化』第3号(2018年)/所収:曽我部『中世王家の政治と構造』(同成社、2021年) ISBN 978-4-88621-879-7)2021年、P.141-142.
  2. ^ 松薗斉『王朝時代の実像15 中世の王家と宮家』(臨川書店、2023年) ISBN 978-4-653-04715-5 2023年、P31.
  3. ^ 『山槐記』久寿2年8月28日条
  4. ^ 『兵範記』仁安2年正月27日条
  5. ^ 『兵範記』仁安2年7月20日条
  6. ^ 『吉記』承安4年3月18日条
  7. ^ 「信業大膳大夫叉以驚眼歟」『玉葉』安元2年正月30日条
  8. ^ 『山槐記』治承4年3月18日条
  9. ^ a b c 『兵範記』
  10. ^ a b 『玉葉』
  11. ^ 『山槐記』
  12. ^ 『吉記』
  13. ^ 『玉葉』寿永元年9月1日条
  14. ^ 斉賀万智 2014, p. 23.

参考文献

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  • 斉賀万智「後白河院説話の周辺に関する一考察―六条西洞院とその周辺の人々の関係性から―」『国文学研究ノート』第53号、神戸大学「研究ノート」の会、2014年10月、17-31頁、doi:10.24546/81008687ISSN 0385-8189NAID 110009921643