天龍源一郎
Gen'ichiro Tenryu | |
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(2008年撮影) | |
プロフィール | |
リングネーム |
天龍 源一郎 天竜 テン・ルー 大ハヤブサ |
本名 | 嶋田 源一郎(しまだ げんいちろう) |
ニックネーム |
ミスター・プロレス 風雲昇り龍 モンスター大将 ハッスル大将 |
身長 | 189cm |
体重 | 120kg |
誕生日 | 1950年2月2日(74歳) |
出身地 | 福井県勝山市 |
所属 | 天龍プロジェクト |
スポーツ歴 | 大相撲 |
トレーナー |
ジャイアント馬場 ドリー・ファンク・ジュニア ルー・テーズ |
デビュー | 1976年11月13日 |
引退 | 2015年11月15日 |
基礎情報 | ||||
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四股名 | 島田 源一郎 → 嶋田 源一郎 → 島田 源一郎 → 天龍 源一郎 | |||
本名 | 嶋田 源一郎(しまだ げんいちろう) | |||
生年月日 | 1950年2月2日(74歳)[1] | |||
出身 | 福井県勝山市[1] | |||
身長 | 186cm | |||
体重 | 112kg | |||
BMI | 32.37 | |||
所属部屋 | 二所ノ関部屋 | |||
得意技 | 突っ張り、左四つ、上手投げ | |||
成績 | ||||
現在の番付 | 引退 | |||
最高位 | 西前頭筆頭 | |||
生涯戦歴 | 393勝355敗(77場所) | |||
幕内戦歴 | 108勝132敗(16場所) | |||
優勝 |
十両優勝1回 幕下優勝1回 | |||
データ | ||||
初土俵 | 1964年1月場所[1] | |||
入幕 | 1973年1月場所[1] | |||
引退 | 1976年9月場所[1] | |||
引退後 | プロレスラー | |||
備考 | ||||
2019年7月22日現在 |
天龍 源一郎(てんりゅう げんいちろう、1950年2月2日 - )は、日本の男性タレント、元プロレスラー、元大相撲力士。本名は嶋田 源一郎(しまだ げんいちろう)。福井県勝山市出身。身長189cm、体重120kg(力士時代は身長186cm、体重112kg)。血液型A型。所属事務所はMILLENNIUM PRO。エクセリングと業務提携している。
多くの同年代レスラーが年齢と共に前座でファンを楽しませる役割に回る、または引退する中、天龍は65歳まで第一線で活躍し続け、日本のプロレス界において「生ける伝説(Living Legend)」として一目置かれる存在だった。
来歴
[編集]角界入門前
[編集]福井県の勝山市にて農家の長男として生まれる。農家の生まれであることから幼少期より米をたくさん食べて大きく育ち、中学2年の身体検査では182cm、82kgを記録した。同時に大きな体がコンプレックスになっており、勉強も苦手だったことと合わせて周囲からはからかわれがちであった。幼少期は夕方から相撲を見て、夜はプロレスやプロ野球の巨人戦を見るのが嶋田の世代の日常であった[2]。嶋田が好きであった力士は「栃若」ではなく朝潮であり、嶋田は勝負に淡々としていたところやどこかほんわかした雰囲気を好きな理由として挙げている。朝潮が好きな力士であったため、入門が内定してからも高砂部屋の方が良かったと思うことがほんの少しだけあった。いわゆる「アンチ大鵬」であり、大鵬戦の際は柏戸、栃ノ海、佐田の山など対戦相手の方を応援したという[3]。
当時の時代柄もあったが、小学校高学年になると学校を休んで田植えの手伝いを行うことを家族から課せられた。夏になると葉タバコの剪定を行い、足元にマムシがとぐろを巻く風を通さない畑の中で作業した。タバコの匂いが手に付くため嶋田少年は当時タバコに興味を持たず、タバコを吸ったのは50歳を過ぎてから5、6年の間だけである[4]。
嶋田は後に「学校が好きだったわけじゃないけど、理不尽な気がして、自分が不憫で悔しかったのを覚えています」と家業の手伝いに対する思いを語っている。小学校時代から砲丸投げにリレーの選手、中学校に入ると柔道部や野球部と、少年時代はほとんどの運動部の試合に駆り出された。なかでも相撲は嶋田本人にとって楽しく、小学5年生からは中学生に負け無しであった[5]。一方野球部の活動に関しては父も娯楽としか見ておらず否定的であり、相撲大会に駆り出されるうちに野球部はいつの間にか退部扱いになっていた[6]。後に本人は、体が大きくて左投げであったことから、野球を続けていたらプロになってもっと金を稼いでいただろうと、冗談めかしながら振り返っていた[6]。
嶋田の父は厳格であったが、稲刈りの季節でも秋場所が始まると作業を嶋田の祖父母や母に任せ、嶋田を連れて相撲を見ていた。嶋田の父も相撲の時だけは優しい父親というイメージであったため、相撲は嶋田にとって良い思い出であり、嶋田が相撲の世界に抵抗なく入れた要因となった[4]。
勝山市立北郷小学校卒業後は勝山市立北部中学校へ入学するも、父が床屋で髪を切ってもらっていた際に床屋の店主が二所ノ関部屋後援者に「この辺りに相撲に入れられるような身体の大きい子はいないかな?」と声を掛けられ、父が「うちの息子は大きいよ」と返答したことで二所ノ関部屋の巡業が来た時に二所ノ関部屋後援会が嶋田を連れて行って大鵬に会わせ、大相撲へ勧誘した。嶋田は相撲取りと言えばゴツゴツした厳つい風貌を思い浮かべていたが、均整のとれた綺麗な体をしていた大鵬を見た嶋田は泰然自若としたものを感じた。ちゃんこを食べながら大鵬と話を行っている時、大鵬からある食べ物を勧められたが、それが牛タンであることを知る(これが嶋田が牛タンを生れて初めて食べた時であった。)と、草を食べて涎を垂らしている牛の姿が想像され、途端にえづき、そこから箸が進まなくなった。中学2年の夏休みに20日間の体験入門を経験したが、目に飛び込んだ部屋施設は近代的なビルであり、親方の自室も映画に出てくるような洋館であった。嶋田は3階にある客室で寝泊まりしていたが、朝に4階の稽古場から四股を踏む音が響いて驚いたという。その時関取衆は巡業中であったため留守番していた若い衆としか相撲を取らなかったが、実際に相撲を取るとあっという間に羽目板まで吹っ飛ばされ、その強さを思い知らされた。嶋田の性格的にも、瞬時に勝ち負けが決まり、またすぐにリセットして仕切り直すという相撲のリズムは合っていた。入門後、地元に帰って秋の相撲大会に出れば1回も負けず、賞品の大学ノートが100冊くらい溜まったため、やはりプロで鍛えられるということは凄いと嶋田は思ったという。父は中学を卒業してから入門してほしいと考えており、嶋田に対しても「トボけた考えを起こすなよ!」と釘を刺したが、1963年の暮れに二所ノ関部屋の若者頭が再び勧誘に訪れ、紆余曲折があったが嶋田はその話を聞きたくなかったため友人の家に逃げていた。そんな時に力道山が刺殺されたことを伝える大ニュースを知った。プロレス界を築き上げた人物が、後にプロレスで大成する嶋田の入門の際にこの世を去ることに関して、後に嶋田は「なんか運命的ですね」と振り返る。因みに父も体が大きく村相撲でも強かったため将来は相撲取りになりたかったが、一人っ子なので両親に反対されて断念したという経緯をたどっている[3]。
角界時代
[編集]1963年12月、大相撲の二所ノ関部屋に入門[7]。入門に際して地元の名士から5万円の餞別を貰った(当時平均的な月給が8000円から1万円程度であった)。新聞にも入門したという報告が掲載されて餞別ももらったので、本人はおめおめとは帰れないと覚悟していた[8]。入門に伴い、中学2年途中で墨田区立両国中学校へ転校した[9]。転校初日に教師から「お相撲さんは大学まで進む気はないでしょう。授業中に眠ってもいいから」と言われたことから学業の指導に差別を感じ、実際に白紙の答案用紙を提出する新弟子もいたことから頭に来て嶋田はこっそり通信教育の教材を取り寄せて相撲と学業の両立を誓い頑張っていたが、結局は兄弟子に見つかって通信教育を中止させられたという。入門当初は部屋に所属力士が80人おり、その中の一人であった大麒麟(当時・麒麟児)などと稽古をして力を付けた。最初はその日その日を過ごすので精いっぱいであったが、力士生活に慣れていくと「20歳までに十両に上がれればいいな」などと目標を持てるようになった。大鵬の付け人をしていたある時、大鵬は嶋田に対して「上の力士が下の者とやるときは、受けて立つ相撲を取れるようにならないとダメなんだ。自分からぶちかましにいくような、みっともない相撲は取るなよ」と助言した[3]。
14歳のある時、自身を部屋に勧誘した若者頭に連れられて錦糸町の「ヤマキ」というステーキ屋で生まれて初めてステーキを食べた。当時の日本人にとってステーキは大層な贅沢品で、ましてや福井の田舎から上京した14歳の少年にとっては格別の味であった。この味は嶋田の印象に残り、プロレス入り後にはゲン担ぎとしてステーキを食べる習慣が身に付いた[10]。現役当時の二所ノ関部屋は、場所中の初日と中日は決まってすき焼きだった。タニマチの三和銀行が毎回、大量の牛肉を差し入れたという。番付社会なので嶋田は入門してから5年から6年経って、ようやく肉のある場所に座れるようになった。しかもそれでも、生卵をつけて食べられるようになるのは、そこからさらに2年から3年を要した[10]。当時の普段の食糧事情はというと、鍋の他におかずが3品から4品付くのは十両以上で、若い衆は鍋だけであった。嶋田は鍋の汁だけでどんぶり飯を3杯食べ、その汁も漬物すらも無くなって砂糖をかけて米を食べたりもした。2020年代になると下っ端力士も正面に座って胡坐をかいて食べているが、当時嶋田のような下っ端は、半身になって箸を持った手だけのばして米を食わなければならなかった。当時は弟子が多く、座れる人数が限られていたため、できるだけ多く座れるようにみんな半身で車座になっていた[10][11]。
相撲部屋での生活は、入門前に父の下で過ごした日々より厳しくなく自由があったと嶋田本人は後年振り返っている[6]。相撲教習所で受けた和歌森太郎の授業は本人曰く「俺らみたいな連中にはもったいないよ。あの和歌森先生の授業でも寝ているんだから(苦笑)」とのこと[6]。教習所では礼儀を教え込まれたが、嶋田にとって一番印象的だったのは、ある親方に言われた「もし、今後相撲人気が無くなったとしても、40~50年は今の給与形態でお前たちを養っていけるだけの余裕はある」という話であり、嶋田は後に協会が今の両国国技館を無借金で建てた時に「あの話は本当だったんだ!」と実感した[12]。一方、入門当初は「練習生」扱いであったため、当時の相撲部屋全体の経済水準によるところもあろうが、「練習生3、4人のためにもったいない」と稽古後に体を洗うための湯を沸かしてもらえず、冬でも水を浴びて体を洗った[13]。師匠の事は最初「いつも火鉢の前に座っているかったるいオヤジ」程度にしか思っていなかったが、番付を上げて相撲のことが分かるようになると、自分を自由に破門・廃業させる権限を持つ、生殺与奪の権利を握る人物だと自覚して怖いという意識が生まれるようになった[14]。
16歳の時のある巡業では、移動の際に兄弟子から大鵬の双眼鏡を持って行くよう命じられたが、それを聞き忘れたためその巡業中にかわいがりに遭い、竹刀や青竹、さらに角材で殴られたが「これで俺も一人前の力士だ」と却って自信をつけたといい、かわいがりを行った兄弟子たちも「どうだい、きつかったか? これでお前も一人前だよ」と翌日からは何事もなかったかのように接していた[15][16]。日頃からかわいがりを行う兄弟子を稽古場の相撲で負かすことは自身にとっての気晴らしであった。嶋田本人もかわいがりを行う側になったことがあり、その時には人間の残虐性が出る様に自分も恐ろしくなったという[17]。後年時津風部屋力士暴行死事件を受けて元幕内力士として記者からコメントを求められた際には「全く必要なし、人間がいじけるだけ、金属バットやビール瓶が出てくるようなのはただのイジメ」「かわいがりってのは原因があって、例えば門限を破ったとか、ご法度のタバコとか、やられる人に落ち度があったからで、やる方だって何かがないとやれないですよ」と当時とは正反対の認識を示した[18]。自著でも同様の主張をしていた[19]。
若手時代は金が無かったため両国から離れた小岩や平井で酒を飲み、よく兄弟子の悪口を言って憂さ晴らしをした。現役当時、力士の気晴らしと言えばパチンコとストリップぐらいであり、北の富士や玉の海が当時力士の趣味として珍しいゴルフやボウリングを嗜んでいたことには、天龍を含む力士皆が驚いていた[20]。当時後年よりも大相撲力士が多かった時代背景上幕下になることは一定のステータスで、幕下になると一目置かれるようになったため、それで兄弟子気分になって遊び惚けてしまったのもしばらく足踏みした要因であると後に本人が振り返っている[21]。
1965年5月場所初土俵の貴ノ花とは、相撲教習所で手を合わせており、負けはしなかったが吊り上げているつもりでも残られたりと独特のしなやかさとバネに手を焼き、当時三段目と幕下を往復していた嶋田は「俺って素質がないのかな」と考えさせられたという。ある時から突っ張りを取り入れ、それが自分に合っていたのか、以降番付を伸ばしていった[3]。入門は嶋田の方が1年ほど早かったが、新弟子時代の貴ノ花には「おう、嶋田!」と呼び捨てにされていた[12]。
「天龍」の四股名で1973年1月場所から幕内に16場所在位し西前頭筆頭まで上り詰める。四股名「天龍」は細くてすらっとした当時の嶋田の体型、反骨心のある気質などから、師匠が天竜と重なる所を覚え、関取に上がったらこの四股名を付けようと考えていたという。元々出羽海部屋の四股名であったため部屋付きの10代湊川(後9代二所ノ関)が出羽海部屋へ何度も出向いてようやく許しを得たといい、その天竜からは「お前、間違っても俺の名前を汚すなよ、コノヤロウ!」と面と向かって言われたという。しかし天龍は、「競走馬の名前や、町の中華料理屋の名前のイメージが先立って(苦笑)、その四股名の大きさにまったく気づいていなかったんですよ。のちにだんだん、文献を読んだりするうちに、『龍(竜)』とは中国では皇帝のシンボルとなるような最高の霊獣であるとか、あの『梅常陸』で、大相撲界に一時代を築いた、大横綱常陸山が直々に天竜さんに付けられた四股名だとか、そういうことを知ってあらためてすごさを認識したというのが、正直なところです」と当時を振り返っている。大鵬の引退相撲には関取として参加しており、かつての付け人として面目を保ち恩返しを行うことに成功した。常に先手で突っ張ってそのまま突き切るか叩き込む、攻撃の中に勝機を見いだすような取り口であったが、四つになった時に「こうなったら勝てる」という型がないという弱みがあった、と後に本人が2017年の相撲専門書籍で分析している[3]。
力士時代はおだてられた部分もあったであろうが周囲から「大鵬二世」と称され、それだけの大器として期待されていた。しかし天龍本人は、それが自身の自惚れを生み、勝負に対する執念や相撲に向き合う姿勢が足りていない原因となったと2017年にムックの特集で振り返っている。現役当時、貴ノ花や輪島が砂だらけになって泥臭く鍛錬していたのを「ダサいな」と冷めた目で見ていた、相撲を舐めていた自分がいたと、後に自己批判している。1973年5月場所、3勝4敗で迎えた栃東知頼との取り組みから5連敗したのは、勝負に対する執念の無さの表れであったと自ら語っている。一方、1973年5月場所で三役に上がっていればプロレスに行くことはなかったであろうと語っている[3]。因みに「大鵬二世」と称された弟子は6人いると後で天龍は聞いたという[8]。
1975年、師匠の死去に端を発する部屋の後継問題(押尾川事件)に巻き込まれる。自身は押尾川親方(大麒麟)の押尾川部屋に入りたかったのだが、金剛正裕が二所ノ関を襲名して継承した二所ノ関部屋に戻され意気消沈し、その後も部屋の力士に稽古相手をしてもらえなくなるなどの仕打ちを受ける[22]。親方に1度反旗を翻したということから部屋の衆から嫌がらせを受けた天龍は「ここにいるのはよくない。俺がいなくなればコミュニケーションをとれる」と考えていた[23]。完全に嫌気がさしていた頃、大鵬と昵懇だった元東京タイムズ記者の森岡理右(後筑波大学名誉教授)と出会い、森岡がブレーンを務めていたジャイアント馬場を紹介され、プロレス転向を決意[24]。それまでプロレスを観戦したことはなく、レスラーの名前はおろか、技名も知らなかったという説がある。大相撲時代に向上心が無く甘えがあると自分で感じていた天龍は、プロレスに進んで自分を変えたいと感じていた[25]。1976年秋場所に勝ち越した(東前頭13枚目、8勝7敗)のを最後に廃業し、同年10月全日本プロレスへ入団した。入門に至った背景には廃業前に付き合っていた女性が死去して相撲に対する励みが無くなったのもあり、一説には最終場所で勝ち越して相撲を辞めるのが勿体なく思っていたところ当時の師匠からプロレス入りすることをサンケイスポーツにバラされて引くに引けなくなったという[26]。
全日本プロレス
[編集]入団と共に渡米し、ザ・ファンクスのもとで修行する。相撲時代にプロレスごっこをしていた時の感触から自分でも少しはやれるだろうと考えていたが、初めて全日本の道場でジャンボ鶴田にボディスラムを放たれた時には脱糞するかと思うほどの衝撃を受け、大相撲で幕内まで昇進した天龍の自信は崩れ去った。当時、そばで見ていた渕正信が言った「ねえ、プロレスは簡単じゃないでしょ。甘くないんだよ」という一言は40年以上経過しても本人にとって忘れられないものであった[12]。ドリー・ファンク・ジュニアは現役の選手であったため1週間から10日に1回程度しか天龍を指導する余裕が無く、天龍は毎日のように電話で教えを乞うた[12]。ドリーからは何かとジャンボ鶴田と比較され、当時の天龍にとってそれは嫌な事であったが、ドリーは倒されることに抵抗があってプロレスに適応できなかったアントン・ヘーシンクの指導に苦心した経験から「プロレスは投げられても負けじゃない。相手に身をゆだねることがスタミナを温存するポイントだ」と諭すように教えたという[27]。ドリーに指導してもらえない間は腹筋ローラーやブリッジで体を鍛えたと言い、このトレーニングのおかげで現役を長く続けることができたとプロレス引退後に本人は振り返っている[27]。
1976年11月13日(土曜日)にテキサス州にてテッド・デビアス戦でデビューした(アメリカ時代のリングネームは「テン・ルー」。詳細は後述)。帰国後の同年12月5日、日大講堂(初代両国国技館)においてリング上で断髪式を行う[28]。止め鋏は馬場が入れている[29]。通常、幕内経験者の断髪式典は国技館(当時は蔵前国技館)の土俵上で開催されるのが通例であるが、プロレスのリング上でそれが行われるのはきわめて珍しい出来事でもあった。なお、デビュー当時のリング名は単に四股名と同じ「天竜」だけであった[30]。
天龍の日本でのデビューは1977年6月11日、東京・世田谷区体育館における馬場と組んでのマリオ・ミラノ&メヒコ・グランデ戦で、グランデをフォールして初陣を白星で飾る[31][32]。大相撲幕内経験者の入団とあってデビュー直後からジャイアント馬場に大変期待されており、巡業も毎回グリーン車のチケットが用意された(グリーン車に乗れる日本人選手は他には馬場、ジャンボ鶴田だけ)。しかし本人はまだ一人前の動きもできないのに大熊元司、グレート小鹿ら大先輩レスラーを差し置いてグリーン車に乗るのは気が引けたため、普通車両に移動して先輩達と話をしていた。デビュー数年でメインイベントでのタイトルマッチが組まれるなどしたが、体格は大相撲時代の名残を残し、スタミナが不足していたこともあり、通常のシングルマッチでも見どころ無くあっさり敗戦を喫するなど結果が出ない時期が続いた。人気・評価は馬場や鶴田とは比較できないほど低く、タイガー戸口が全日本所属だった時期には、キャリアの違いもあって戸口よりも格下扱いであった。
その後はアメリカで再修行を行い、エディ・グラハムのCWF、ジム・バーネットのGCW、ジム・クロケット・ジュニアのMACWなど、NWAの南部テリトリーをヒールのポジションで転戦[33]。MACWでは1981年2月7日、ノースカロライナ州グリーンズボロにてミスター・フジと組み、デューイ・ロバートソン&ジョージ・ウェルズを破ってNWAミッドアトランティック・タッグ王座を獲得[34]。タイトル初戴冠を果たした[35]。
帰国後の7月30日、交通事故の後遺症で緊急帰国したディック・スレーターの代打としてビル・ロビンソンのパートナーに起用され、当時の王者組の馬場・鶴田組保持のインターナショナル・タッグ王座の挑戦をしたことを契機に飛躍のきっかけを掴む。天龍自身も「あの試合が俺の真打昇進の試合だった」と語っている[36]ように、この試合以降から評価も急上昇。全日本プロレス第3の男、風雲昇り龍としてブレイクする。この年の秋にはNWA世界王者リック・フレアーへの挑戦権も獲得した。
このインター・タッグ戦から、天龍はライバル団体である新日本プロレスの総帥のアントニオ猪木に遠慮して、全日マットでは誰も使っていなかった延髄斬りや卍固めを使い始め[37]、全日本で異彩を放つようになっていく。もともとアメリカでは使っていたが「日本でもイノキに遠慮せず使ってしまえ」とロビンソンからアドバイスがあったという逸話が専門誌に掲載されることもあった(本人へのインタビューではない)。天龍はそれまでは紫のタイツを使用していたが、1982年秋頃からタイツを紫から黒へ、そして黒と黄のリングシューズという、引退まで続いた天龍スタイルへと変更。鶴田と組み次期ダブルエースの座を確立する。1983年の世界最強タッグ決定リーグ戦では鶴田との鶴龍コンビを結成してリーグ戦に挑み、11月30日の馬場&ドリー・ファンク・ジュニア戦では「馬場の生涯最後の32文人間ロケット砲」を受けている。鶴龍コンビはリーグ最終戦まで得点単独1位だったが、最終戦でスタン・ハンセン&ブルーザー・ブロディのミラクルパワーコンビに敗れ優勝を逃した。しかし師匠の馬場&ドリーと同点2位という成績は、全日本エースの世代交代を印象づけるものとなり、この年のプロレス大賞の最優秀タッグチーム賞を受賞した。シングル戦でも頭角を見せ、1984年2月にはリッキー・スティムボートとの王座決定戦に勝利しUNヘビー級王座のタイトルを獲得する。
さらに1984年9月からの長州力率いるジャパンプロレスの全日参戦をきっかけに、闘争心をむき出しにして戦うスタイルへと変貌し、鶴田との鶴龍コンビで長州&谷津嘉章と抗争を繰り広げた。
1986年10月2日、阿修羅・原とシングル戦で引き分けたことを契機に、長州離脱後には全日本マットの活性化を目指して龍原砲を結成。「最終目標は新日マット参戦」と掲げた。その後天龍同盟を結成(構成員は原、サムソン冬木、川田利明、小川良成)。REVOLUTIONを旗印とした「地方でも決して手を抜かない」をテーマにした闘いは、やがてファンの大きな支持を得るようになった。特に鶴田とのシングル対決は鶴龍対決と呼ばれ全日本プロレスのドル箱カードとなり、1987年、1989年のプロレス大賞ベストバウト賞を獲得するなど、長州離脱後に人気が低落した全日本プロレスを盛り立てた。1989年6月には鶴田とのタイトルマッチを制し三冠ヘビー級王座を獲得、第2代王者となった。11月にはスタン・ハンセンと組んでの馬場&ラッシャー木村とのタッグ対決において、入場時に馬場を奇襲、孤立した木村を戦闘不能にした上で復活し孤軍奮闘する馬場からパワーボムからのエビ固めで、ハンセンと二人がかりながら日本人では初めて馬場からピンフォールを奪った[38]。天龍は試合後、当時人気絶頂であったUWFの東京ドーム大会が同日に開催されていたことを意識し「今日の勝利はドームより重い」と発言し語り草となる。ハンセンとのコンビは、世界最強タッグリーグ史上初の全勝優勝を飾った。1990年4月13日の東京ドームでの全日本・新日本・WWFとの合同興行「日米レスリングサミット」ではランディ・サベージと対戦し、まったく毛色の異なる両者でありながら、同興行のベストマッチと言われる名勝負を展開した。
SWS
[編集]1990年、横浜文化体育館大会において鶴田とのシングルマッチに敗れたのを最後に全日本を離脱し、SWSに移籍した。契約金は3億円とも言われている。SWSでは『部屋別制度』という、他団体には存在しなかったシステムを取り入れており、部屋対抗戦をカード編成の主体とし、天龍は道場『レボリューション』の道場主に就任。SWSがWWFと業務提携していたこともあり、1991年に行われたレッスルマニアVIIに出場[39]。北尾光司とタッグを組んでデモリッション(スマッシュ&クラッシュ)と対戦し、天龍がスマッシュをパワーボムに沈めて勝利した[40]。SWSはマッチメイカーを天龍派であるレボリューション所属のザ・グレート・カブキが担当していたため、集客面や注目度などを検討して天龍やレボリューション派寄りのマッチメイクになる傾向が強く、それに不満を持つ反天龍派からの不満と反感を買い、天龍派と反天龍派の対立が深刻化し、それが大きな要因となり旗揚げから約2年程で崩壊している。
WAR
[編集]SWS崩壊後の1992年6月28日、天龍はWARを設立して新日本との対抗戦に活路を見出した。反選手会同盟と熱戦を繰り広げ、12月14日に越中詩郎を、1993年になると1月に長州力、2月に木村健吾、6月と8月に橋本真也、9月に蝶野正洋、同じく9月に馳浩、12月に藤波辰爾を全てシングルマッチで破った。また、WAR時代にもWWFからの要請により1993年と1994年のロイヤルランブルに出場、1994年の試合では残り5人まで生き残った。
1994年1月4日、天龍は東京ドーム大会でアントニオ猪木にピンフォール勝ちを収め、これにより天龍はB(馬場)、I(猪木)の双方からピンフォール勝ちを収めた唯一の日本人レスラーと呼ばれることとなった[41]。1994年5月に、当時「邪道プロレス」と呼ばれていたFMWのマットで、大仁田厚とノーロープ有刺鉄線電流爆破デスマッチで対戦した。1996年10月グレート・ムタ、同年12月に高田延彦からもシングルでそれぞれ勝利した。
1997年11月より、所有者より借り受ける形で力道山ベルトを賭けた日本J1選手権争奪トーナメントを開催し藤原喜明、北尾を撃破。1998年1月14日後楽園ホールでの荒谷信孝との決勝戦に勝利し、日本J1選手権を獲得する。この試合は、天龍としても満足のいくものだったようで試合後のインタビューの際に「隣(東京ドームで開かれていたマライア・キャリーのコンサート)より熱かったろ?」とのコメントを残す。
フリー
[編集]1998年2月からフリーとなり、女子プロレスラーの神取忍とも対戦した。1999年12月10日大阪府立体育会館で行われたタイトルマッチで武藤敬司に勝利しIWGPヘビー級王座を獲得、ベイダーに続く史上2人目の全日本・新日本国内2大メジャーシングルタイトル制覇を達成した。2000年、全日本での選手大量離脱による経営危機もあって全日本に復帰。第26代及び29代三冠ヘビー級王座に輝いたほか、2001年のチャンピオン・カーニバル優勝、安生洋二とのタッグで第44代世界タッグ王者に輝くなどの活躍を果たした。
WJプロレス参戦
[編集]2003年に旗揚げしたWJプロレスに旗揚げから参戦、旗揚げ戦から長州力とシングル6連戦をする予定であったが、3戦で休止となった。8月にはWJに入団(実際は発表だけで、契約はフリーであった。)、11月には長州とタッグを組んでWMGタッグを奪取したもののWJは経営が迷走し、WJを離脱した。
新日本プロレス参戦
[編集]2004年1月4日、天龍は新日本プロレス東京ドーム大会に参戦、中西学とシングルで対決したが結果は天龍の敗北におわった。その後、同年2月1日、新日本プロレス札幌大会で中西とタッグを組んでIWGPタッグ王座に挑戦したが王座奪取は出来なかった。同年8月には2度目のG1 CLIMAX出場を果たす。
プロレスリング・ノア参戦
[編集]2005年初頭からは元全日本勢が多く所属するプロレスリング・ノアに参戦。三沢光晴や仲田龍は、三沢社長時代の全日本プロレスに参戦させようと働きかけたものの当時、馬場元子が認めなかったとされている。天龍も、ノア発足後もしばらく参戦のタイミングが合わなかったが、2004年まで主戦場としていた新日本プロレスから離脱したことでスケジュールに余裕ができ、参戦が実現した。7月18日のプロレスリング・ノア 東京ドーム大会では天龍の元付き人であった小川良成と対戦し、勝利を収めた。他にも、ノア参戦時にはKENTA、潮崎豪など次世代のエース候補選手ともシングルで対戦している。
DRAGONGATE参戦
[編集]この他、DRAGONGATEにも参戦し、天龍のWAR時代の元付き人でもあるマグナムTOKYOと十番勝負を繰り広げた。同団体では2005年より最高顧問も務める[42]。
ハッスル参戦
[編集]同年11月3日のハッスルマニアからハッスルへ参戦し、表面的にはシリアスなイメージの強い天龍だけに、エンターテインメント色の強いハッスルとは合わないのではないかという見方もある中、天龍は試合のみならずマイクも積極的に握っている。
2006年7月27日には6年ぶりとなるWARの大会「WAR FINAL 〜REBORN to FUTURE〜」が後楽園ホールにて行われた。
2007年6月、「ハッスルエイド2007」でレイザーラモンHGに敗れてモンスター軍を追われたが、翌月に浜松で開かれたハッスル24のメインイベントでハッスル軍に助太刀し、リーダーで2006年8月まで共闘していた坂田亘の要請を受けてハッスル軍に加入。10月、曙に酷似した「モンスター・ボノ」とハッスルで対戦。天龍もベテランとして若いメンバー達を支えつつ存在感を保ち続けた。 2008年3月14日、リアルジャパンプロレス後楽園大会で初代タイガーマスクと初対戦した。以後も主にハッスルを主戦場としつつ他団体へも時折出撃する形で活動を続けてきたが、2009年の年末にハッスルが事実上活動を停止してしまったことから、天龍は主戦場となるマットを失ってしまった。
天龍プロジェクト設立
[編集]ハッスルの活動停止後、しばらくは鳴りを潜めていた天龍だったが、2010年3月に入ると4月にプロレス団体「天龍プロジェクト」を設立し、活動を再開させる方針を明らかにした[43]。同興行には、百田光雄や折原昌夫などが参加することが発表されている。なお、天龍プロジェクトは天龍の娘でもある嶋田紋奈が代表を務め、興行に係る各種業務を切り盛りしている。
2011年3月6日、ユニオンプロレスにおいて高木三四郎がプロデュースするプロジェクト「TKG48」に最高顧問として加入することが発表され、4月3日のユニオンプロレス新木場大会に参戦した[44]。
2011年12月から腰部脊柱管狭窄症の治療のため、プロレス人生では初めての長期欠場に入った。2度の手術とリハビリを経て、2012年12月29日に後楽園ホールで行われた『天龍プロジェクト10 天龍源一郎復帰戦〜革命〜』のメインイベントで復帰戦を行った[45]。
引退
[編集]2015年2月9日、天龍は記者会見を開き、「今年(2015年)11月を以てプロレスラーを廃業し、現役を引退する」ことを表明した。引退の理由として天龍は、「妻の病気で、今度は俺が支える番だ」と思ったことと、「プロレス人気の盛り上がりにそろそろ潮時かな」と感じたことを挙げている[46]。また天龍は「たかだか幕内の相撲取りだった自分がプロレスの世界に入って、名前が知られるようになって良かった。(全日本プロレスでの師匠である)ジャイアント馬場さんに感謝している。」と語った[47]。11月に引退興行を行うことを予定し、それに合わせて『天龍源一郎 引退〜Revolution FINALTOUR』と題した引退カウントダウン大会を行っていくことも明らかにしている[46]。以降引退までにメジャー、インディー問わず各団体に「天龍引退ロード」として参戦している。
2015年6月26日、天龍プロジェクトの記者会見を行い、11月15日の両国国技館興行にて引退試合を挙行することを発表した。天龍は「(蔵前の)国技館で初土俵を踏み、最後は(両国)国技館で終わるとは、これもひとつの運命」と、引退試合を行う心境を語った[48]。
8月16日、両国国技館で行われた新日本プロレス主催の「G1クライマックス」優勝決定戦の会場に現れ、オカダ・カズチカに対して引退試合の相手に指名し、オカダもこれを受諾して決定した[49]。
引退ロードのスケジュールと結果
[編集]引退ロード第1戦 2月21日 道頓堀プロレス 大阪府立体育会館 | ||
天龍源一郎 TORU 〇ラ・ピート 正岡大介 リアル・イヌナキン |
18分11秒 ダイビング・ダブル・ニー・ドロップ→片エビ固め |
空牙 ガメラス ヲロチ 三原一晃× ドラゴンJOKER |
引退ロード第2戦 3月6日 天龍プロジェクト 新木場1stRING大会 | ||
〇天龍源一郎 嵐 |
10分11秒 ラリアット→体固め |
那須晃太郎× 杉浦透 |
引退ロード第3戦 3月15日 かしま元気プロジェクト 鹿島町立体育館 | ||
天龍源一郎 〇高岩竜一 |
13分22秒 デスバレーボム→片エビ固め |
アントライダー ドラゴンJOKER× |
引退ロード第4戦 3月23日 プロレスリングFREEDOMS 後楽園ホール | ||
天龍源一郎 〇マンモス佐々木 Hi69 |
14分59秒 29歳→体固め |
グレート小鹿 佐々木貴× 葛西純 |
引退ロード第5戦 4月3日 天龍プロジェクト 新宿FACE | ||
〇天龍源一郎 越中詩郎 |
8分35秒 ラリアット→体固め |
高木三四郎× 竹下幸之介 |
引退ロード第6戦 4月25日 ニコニコ超プロレス 千葉・幕張メッセ | ||
天龍源一郎 〇竹下幸之介 アントーニオ本多 |
12分29秒 19歳→体固め |
KUDO 坂口征夫 マサ高梨× |
引退ロード第7戦 4月26日 琉球ドラゴンプロレスリング ネーブルカデナアリーナ | ||
天龍源一郎 〇越中詩郎 |
14分34秒 ダイビング・ヒップ・アタック |
グルクンマスク× 首里ジョー |
引退ロード第8戦 4月30日 天龍プロジェクト 新木場1stRINGメインイベント | ||
〇天龍源一郎 | 12分30秒 65歳→片エビ固め |
拳剛× |
引退ロード第9戦 5月30日 天龍プロジェクト 大阪府立体育会館第2競技場 | ||
〇天龍源一郎 ドリー・ファンク・ジュニア NOSAWA論外 |
16分31秒 ラリアット→片エビ固め |
諏訪魔 青木篤志 佐藤光留× |
引退ロード第10戦 6月7日 KAIENTAI DOJO 千葉BlueField | ||
天龍源一郎 〇真霜拳號 |
15分22秒 垂直落下式ブレーンバスター→片エビ固め |
稲松三郎 関根龍一× |
引退ロード第11戦 6月13日 プロレスリング・ノア 広島グリーンアリーナ | ||
天龍源一郎 小川良成 〇高山善廣 |
15分37秒 エベレスト・ジャーマン・スープレックス・ホールド |
丸藤正道 永田裕志 井上雅央× |
引退ロード第12戦 6月30日 大日本プロレス 札幌テイセンホール | ||
天龍源一郎 〇河上隆一 |
13分40秒 ハリケーン・ドライバー→片エビ固め |
橋本和樹 神谷ヒデヨシ× |
引退ロード第13戦 7月25日 全日本プロレス 後楽園ホール | ||
〇曙 天龍源一郎 ウルティモ・ドラゴン |
17分27秒 ヨコヅナ・インパクト→体固め |
秋山準 大森隆男 入江茂弘× |
引退ロード第14戦 7月27日 天龍プロジェクト 新木場1stRING | ||
天龍源一郎 新井健一郎 〇火野裕士 |
22分10秒 Fucking Bomb→エビ固め |
藤原喜明 真霜拳號 田村和宏× |
引退ロード第15戦 8月23日 DDTプロレスリング 東京両国国技館 | ||
天龍源一郎 〇高木三四郎 赤井沙希 |
13分9秒 シットダウンひまわりボム→エビ固め |
石川修司 樋口和貞× 里村明衣子 |
引退ロード第16戦 8月30日 大日本プロレス 愛知名古屋国際会議場イベントホール | ||
天龍源一郎 ×神谷ヒデヨシ |
12分16秒 ジャーマン・スープレックス・ホールド |
関本大介〇 橋本和樹 |
引退ロード第17戦 9月2日 天龍プロジェクト 東京後楽園ホール | ||
天龍源一郎 〇柴田勝頼 |
20分26秒 PK→体固め |
鈴木みのる 飯塚高史× |
引退ロード第18戦 9月13日 プロレスリングZERO1 新潟県佐渡市相川町民体育館 | ||
天龍源一郎 〇アジャ・コング |
8分11秒 ダイビング・エルボー・ドロップ→体固め |
里村明衣子× 大谷晋二郎 |
引退ロード第19戦 10月4日 FREEDOMS 岩手一関市総合体育館 | ||
〇佐々木貴 宮本裕向 |
19分45秒 新型Dガイスト |
天龍源一郎 葛西純× |
引退ロード第20戦 10月5日 FREEDOMS 秋田大館市民体育館 | ||
〇葛西純 佐々木貴 |
14分08秒 パールハーバー・スプラッシュ |
天龍源一郎 進祐哉× |
引退ロード最終戦 11月15日 天龍プロジェクト 東京両国国技館 | ||
×天龍源一郎 | 17分27秒 レインメーカー→片エビ固め |
〇オカダ・カズチカ |
引退後
[編集]天龍は引退後について、指導者としてプロレス界に関わることは頑なに否定していた[47]。自身のDVD発売を記念したトークショーを全国各地で行う一方で[50]、芸能活動を本格的に開始した。以後、バラエティ番組の司会[51]、本格的な俳優デビュー[52] など、バラエティタレントとして多岐に渡る活動を行っている。
2019年4月から小脳梗塞を発症し3度入院、6月に退院。入退院の事実は9月に公表され、同月から芸能活動に復帰した[53][54]。
2021年3月19日からは「うっ血性心不全」との診断により入院[55]。4月28日、退院した[56]。
2022年6月24日、天龍の現役時代に元WARのフロントやマネージャーを務めていた妻と死別した。妻は肺がんで療養中であった[57]。
2022年9月2日、広範囲にわたる頸髄損傷のため「突然死のリスクが非常に高い状態である」との診断を受け入院していることを明らかにした[58]。正式な病名を「環軸椎亜脱臼に伴う脊髄症・脊髄管狭窄症」と公表[59]した。2か月間は頸椎を固定する「ハローベスト」を装着しリハビリに努め、2023年1月には自宅に一時帰宅するなど回復の傾向を見せた。同年2月12日には新木場1stRINGで天龍を支援する興行『天龍祭~天龍源一郎AID』の開催が決定し、さらに同月19日の日本プロレス殿堂会主催イベントの来場へ向け、リハビリを続けていた[60]。しかし、同年2月11日に敗血症性ショックのため緊急手術を行った事を天龍プロジェクトが公表した。数日前から発熱や血圧の低下が見られたため、緊急性の高い状態であると判明し、緊急手術を行い成功したものの集中治療を受けている状態とされた[61]。6月時点では主治医の許可を得て週刊誌系インターネット記事の取材に応じられる段階まで回復した[10]。6月22日、退院[62]。
タイトル歴
[編集]- 三冠ヘビー級王座(第2代、第26代、第29代)
- 世界タッグ王座(第4代、第8代、第10代、第11代、第44代)(w / 阿修羅・原→スタン・ハンセン×3→安生洋二)
- アジアタッグ王座(第76代)(w / 渕正信)
- PWFヘビー級王座(第13代)
- UNヘビー級王座(第25代、第26代)
- PWF世界タッグ王座(第6代)(w / 阿修羅・原)
- インターナショナル・タッグ王座(第36代、第38代)(w / ジャンボ鶴田)
- 新三冠王者決定トーナメント優勝(2000年)
- チャンピオン・カーニバル優勝(2001年)
- 世界最強タッグ決定リーグ戦優勝(1984年、1986年、1989年)(w / ジャンボ鶴田×2→スタン・ハンセン)
- SWS vs WWF トーナメント優勝(1990年)
- タッグトーナメント優勝(1990年)(w / 北尾光司)
- IWGPヘビー級王座(第25代)
- IWGPタッグ王座(第35代)(w / 越中詩郎)
- 日本J1王座(初代)
- WAR世界6人タッグ王座(第5代、第13代)(w / アニマル浜口、北原光騎→荒谷信孝、ウルティモ・ドラゴン)
- 6人タッグトーナメント優勝(1994年)(w / 大仁田厚、クラッシャー・バンバン・ビガロ)
- タッグトーナメント優勝(1995年)(w / ウルティモ・ドラゴン)
- 日本J1選手権争奪トーナメント優勝(1998年)
- ハッスルスーパータッグ王座(初代)(w / 安田忠夫)
- WAR世界6人タッグ王座(第3代)(w / 嵐、石井智宏)
- MIZUCHI-R優勝(2013年)(w / 河上隆一)
- NWAミッドアトランティック・タッグ王座(w / ミスター・フジ)[34]
- NWA世界6人タッグ王座(w / ロード・ウォリアー・ホーク、ロード・ウォリアー・アニマル)[63]
- 殊勲賞(1981年)
- 敢闘賞(1983年)
- 最優秀タッグチーム賞(w / ジャンボ鶴田)(1983年)
- 殊勲賞(1984年)
- 最優秀タッグチーム賞(w / ジャンボ鶴田)(1985年)
- 最優秀選手賞 MVP(1986年)
- 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs ジャンボ鶴田、8月31日・日本武道館)(1987年)
- 最優秀選手賞 MVP(1987年)
- 最優秀タッグチーム賞(w / 阿修羅・原)(1987年)
- 最優秀選手賞 MVP(1988年)
- 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs スタン・ハンセン、7月27日・長野市民体育館=PWF、UN2冠戦)(1988年)
- 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs ジャンボ鶴田、6月5日・日本武道館=統一3冠戦)(1989年)
- 技能賞(1990年)
- 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs ハルク・ホーガン、12月12日・東京ドーム)(1991年)
- 最優秀選手賞 MVP(1993年)
- 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs 長州力、1月4日・東京ドーム)(1993年)
- 年間最高試合賞(大仁田厚、ターザン後藤 vs 天龍源一郎、阿修羅・原、3月2日・東京・両国国技館)(1994年)
- 殊勲賞(1996年)
- 年間最高試合賞(高田延彦 vs 天龍源一郎、9月11日・神宮球場)(1996年)
- 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs 武藤敬司、IWGPヘビー級選手権試合、5月3日・福岡国際センター)(1999年)
- 年間最高試合賞(天龍源一郎 vs オカダ・カズチカ、11月15日・東京・両国国技館)(2015年)
- 特別功労賞(2015年)
大相撲時代
[編集]土俵歴
[編集]主な成績
[編集]- 通算成績:393勝355敗 勝率.525
- 幕内成績:108勝132敗 勝率.450
- 十両成績:94勝71敗 勝率.570
- 現役在位:77場所
- 幕内在位:16場所
- 十両在位:11場所
- 各段優勝
- 十両優勝:1回(1975年7月場所)
- 幕下優勝:1回(1970年9月場所)
場所別成績
[編集]一月場所 初場所(東京) |
三月場所 春場所(大阪) |
五月場所 夏場所(東京) |
七月場所 名古屋場所(愛知) |
九月場所 秋場所(東京) |
十一月場所 九州場所(福岡) |
|
---|---|---|---|---|---|---|
1964年 (昭和39年) |
(前相撲) | 西序ノ口22枚目 5–2 |
西序二段96枚目 4–3 |
東序二段67枚目 3–4 |
西序二段87枚目 5–2 |
東序二段38枚目 4–3 |
1965年 (昭和40年) |
東序二段13枚目 5–2 |
東三段目64枚目 3–4 |
西三段目77枚目 5–2 |
西三段目33枚目 4–3 |
東三段目22枚目 2–5 |
西三段目47枚目 3–4 |
1966年 (昭和41年) |
西三段目58枚目 3–4 |
西三段目63枚目 4–3 |
西三段目51枚目 5–2 |
東三段目14枚目 4–3 |
東幕下95枚目 4–3 |
西幕下75枚目 6–1 |
1967年 (昭和42年) |
西幕下43枚目 3–4 |
西幕下46枚目 3–4 |
西幕下58枚目 2–5 |
東三段目12枚目 3–4 |
西三段目20枚目 1–6 |
西三段目50枚目 5–2 |
1968年 (昭和43年) |
東三段目22枚目 4–3 |
西三段目11枚目 3–4 |
西三段目26枚目 5–2 |
東三段目5枚目 5–2 |
東幕下43枚目 4–3 |
東幕下36枚目 3–4 |
1969年 (昭和44年) |
東幕下39枚目 5–2 |
西幕下24枚目 3–4 |
東幕下29枚目 5–2 |
西幕下18枚目 3–4 |
東幕下24枚目 4–3 |
西幕下20枚目 3–4 |
1970年 (昭和45年) |
西幕下24枚目 6–1 |
東幕下7枚目 3–4 |
西幕下9枚目 3–4 |
東幕下14枚目 3–4 |
西幕下19枚目 優勝 6–1 |
東幕下4枚目 3–4 |
1971年 (昭和46年) |
西幕下7枚目 3–4 |
西幕下12枚目 4–3 |
西幕下10枚目 5–2 |
西幕下3枚目 6–1 |
西十両11枚目 6–9 |
東幕下2枚目 3–4 |
1972年 (昭和47年) |
西幕下4枚目 4–3 |
西幕下3枚目 3–4 |
東幕下7枚目 6–1 |
東十両13枚目 8–7 |
西十両8枚目 10–5[64] |
東十両3枚目 10–5 |
1973年 (昭和48年) |
東前頭13枚目 8–7 |
東前頭10枚目 9–6 |
西前頭5枚目 6–9 |
西前頭9枚目 6–9 |
東前頭13枚目 9–6 |
東前頭7枚目 9–6 |
1974年 (昭和49年) |
西前頭筆頭 5–10 |
西前頭5枚目 6–9 |
西前頭9枚目 6–9 |
東前頭11枚目 8–7 |
西前頭8枚目 8–7 |
東前頭7枚目 5–10 |
1975年 (昭和50年) |
東前頭12枚目 5–10 |
西十両3枚目 8–7 |
東十両2枚目 4–11 |
西十両10枚目 優勝 13–2 |
西前頭13枚目 6–9 |
西十両2枚目 8–7 |
1976年 (昭和51年) |
東前頭14枚目 4–11 |
西十両4枚目 10–5 |
東十両筆頭 7–8 |
西十両2枚目 10–5 |
東前頭13枚目 引退 8–7–0 |
x |
各欄の数字は、「勝ち-負け-休場」を示す。 優勝 引退 休場 十両 幕下 三賞:敢=敢闘賞、殊=殊勲賞、技=技能賞 その他:★=金星 番付階級:幕内 - 十両 - 幕下 - 三段目 - 序二段 - 序ノ口 幕内序列:横綱 - 大関 - 関脇 - 小結 - 前頭(「#数字」は各位内の序列) |
幕内対戦成績
[編集]力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 | 力士名 | 勝数 | 負数 |
---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|---|
朝登 | 0 | 1 | 旭國 | 1 | 3 | 荒瀬 | 2 | 0 | 巌虎 | 2(1) | 1 |
大潮 | 4 | 2 | 大錦 | 3 | 4 | 大鷲 | 2 | 4 | 魁輝 | 1 | 0 |
和錦 | 0 | 1 | 北瀬海 | 5 | 3 | 北の湖 | 1 | 1 | 北の富士 | 0 | 1 |
黒姫山 | 0 | 4 | 高鉄山 | 2 | 0 | 琴ヶ嶽 | 1 | 0 | 琴乃富士 | 1 | 1 |
白田山 | 1 | 3 | 大旺 | 2 | 2 | 大豪 | 1 | 0 | 大受 | 0 | 1 |
大竜川 | 2 | 2 | 貴ノ花 | 0 | 1 | 高見山 | 1 | 1 | 玉輝山 | 0 | 3 |
玉ノ富士 | 0 | 2 | 千代櫻 | 0 | 1 | 千代の富士 | 1 | 0 | 時葉山 | 3 | 1 |
栃東 | 6 | 3 | 金城 | 1 | 1 | 羽黒岩 | 5 | 2 | 播竜山 | 0 | 3 |
福の花 | 2 | 9 | 富士櫻 | 6 | 0 | 二子岳 | 4 | 7 | 双津竜 | 1 | 2 |
前の山 | 2 | 3 | 増位山 | 1 | 5 | 丸山 | 1 | 1 | 三重ノ海 | 1 | 3 |
陸奥嵐 | 4 | 5 | 豊山 | 2 | 4 | 吉王山 | 2 | 3 | 吉の谷 | 4 | 2 |
義ノ花 | 1 | 0 | 琉王 | 3 | 3 | 龍虎 | 1 | 3 | 若獅子 | 3 | 3 |
若ノ海 | 2 | 6 | 若三杉 | 1 | 1 | 若二瀬 | 0 | 2 | 輪島 | 0 | 1 |
鷲羽山 | 4 | 2 |
改名歴
[編集]- 島田 源一郎(しまだ げんいちろう)1964年1月場所 - 1970年9月場所
- 嶋田 源一郎(しまだ - )1970年11月場所 - 1971年5月場所
- 島田 源一郎(しまだ - )1971年7月場所
- 天龍 源一郎(てんりゅう - )1971年9月場所 - 1976年9月場所
ファイトスタイル
[編集]痛みの伝わるプロレスを標榜していたこともあり、相手のどんな技も徹底的に受けて相手を光らせる術に長けている。相手の技を食らった際のやられっぷりも、天龍の試合を見る上では欠かせない。
ビッグマッチでは受けの時間のほうが長いが、それゆえに打たれ強さで耐えた上での反撃は半端ではなく、新日本に参戦した際にも多くの実力者とのシングルマッチで勝利を収めている。ここ一番ではジャーマン・スープレックス、浴びせ蹴り、トペといった意表を突く技を繰り出していくのも天龍の大きな特徴でもある。一方で、アメリカをサーキットした経験もあることから、アメリカン・プロレスにも対応でき、ランディ・サベージとの一戦では、女性マネージャーのシェリー・マーテルの介入に翻弄される役を演じきった。
50代に入ってからは肉体の衰えもあり、パワーボムの様な大技を使う機会は徐々に減ったが喉笛へのチョップとグーパンチの連打、顔面蹴りなどの打撃を中心とした武骨なファイトスタイルを確立している。メジャーからインディーまで多くの団体で戦ったことで、後年はファイトスタイルの幅を更に広げている。
打撃技の攻防には強い一方で、新日本勢と5対5のタッグマッチで戦った際には木戸修の脇固めやアキレス腱固めといった関節技に苦しめられ、試合途中にもかかわらず右腕を痛めてそのまま場外に戦線離脱したこともある。
天龍は「大技を乱発せずに試合を組み立て、必殺技は一発で仕留める」というオーソドックスな試合展開には「古い」として批判的であり、「勝てるんだったら先に得意技を出して、もしそこで跳ね返されたら、そこからまた組み立てればいい」としている[65]。
得意技
[編集]フィニッシュ・ホールド
[編集]- パワーボム
- 天龍の最大の必殺技で、幾多のレスラーをこの技でフォールしてきた。かつては、「オレのは他の奴らとフォールの姿勢が違う。ガッチリと押さえ込めば返せる奴はいない」と豪語していた。
- 全日本時代の1983年4月に来日したルー・テーズに伝授されたが、威力に懐疑的な天龍は使用しなかった。しかし、同年8月にテリー・ファンク引退試合の対戦相手として初来日したテリー・ゴディに仕掛けられ3カウントを奪われてしまい、あまりの衝撃に「こんなに効く技だったのか」と驚き、さらにジャンボ鶴田から「源ちゃん、新日さんが『カール・ゴッチ直伝』とか『ゴッチのスタイルを継承』を売りにするのなら、僕らは『ルー・テーズ直伝』『テーズのスタイルを継承』を売りにしていこうよ」と提案され、天龍もこの技を使うようになった[37]。以後この技で、馬場、猪木、鶴田、長州、藤波を始め、若き日の四天王、三銃士らトップどころ全員からピンフォールを奪った。
- やがてこの技は弟子の川田利明に受け継がれ、天龍は53歳を編み出してからほとんど使用していない。オカダとの引退試合で久々に披露したが、上手く持ち上げることができずテーズの使用する「リバース・スラム」に似たような形で不完全に終わっている。
- 53歳
- 独特のタイミングで落とす変形の垂直落下式ブレーンバスター。初期はジャックハマーのように体を浴びせる別物の技であったが、徐々に現在の形へと変化していった。パワーボムを使用しなくなってからは、こちらがフィニッシュ・ホールドとして使用されている。53歳は開発当時の年齢。当初は開発以降年齢を重ねるごとに「53歳→52歳→51歳→…」と1年ごとに若返っていく構想であったが、これは実現しなかった。
- 垂直落下式ブレーンバスター
- 上記のようにパワーボムが必殺技としての威力、迫力に陰りが見え始めた頃に新たな必殺技を模索していた時期があり、その頃から頻繁に使用し出す。この技と下記ノーザンライトボムを元に上記53歳を開発した。
投げ技
[編集]- ノーザンライト・ボム
- 1999年に佐々木健介を挑発する形で使用し始めた。試合後のマイクパフォーマンスでの「健介、ノーザンは貰ったぞ」という発言は今でも語り草となっている。その後、使用し続けることで「53歳」を編み出した。ちなみに、健介は後にテレビ番組のインタビューで「今までこんな酷いことを他人にやって来たのかと思った」と苦笑した。
- DDT
- 日本では天龍により「デンジャラス・ドライバー・テンリュウ」の略と発言したため、命名の由来に誤解が生じたことがある。キャリア後期以降も、繋ぎ技として時折使用する。
- 天龍稲妻落とし
- 天龍が風雲登り龍として最初にブレイクした際の決め技。師である馬場から直々に指導を受けている。上記DDTと勘違いされることが多いが、フェイスバスターの型を取っているためやや異なる。
打撃技
[編集]- 逆水平チョップ
- チョップの威力を再び世に知らしめた中興の祖で、その「バチーン」という鈍い衝撃音は会場に響き渡り、驚愕した観客の歓声が沸く。1980年代までは天龍チョップというと相撲の突っ張りを応用したもので「突っ張り連発で相手をコーナーポストやロープ際に追い込む」だけのものを指したが、多様なチョップへ変化し、現役晩年は「天龍チョップ」と呼ばれることが多かった。特に天龍が繰り出すのど笛への逆水平チョップは「最もえげつないチョップ」としばしば評され、かつて鶴田をキレさせたことがある。
- 起き上がりこぼし式逆水平チョップ
- 上記の逆水平チョップのバリエーションの一つで、左手で相手の手首を掴み、チョップで倒れた相手を引きずり上げ再びチョップを打ち、倒れた相手を再び引きずり上げを繰り返す。全日における天龍同盟時代、観客の心無い野次に怒った天龍が、その怒りを対戦相手にぶつけるために使ったとも言われている。そのためか、現在はほとんど使用していない。この技も、川田が引き継いで使用している。
- グーパンチ
- 握り拳で顔面を殴りつける技。いわゆるナックルパートなのだが、天龍が独自の工夫を凝らし長年愛用してきた結果、解説者でさえ「グーパンチ」と呼ぶようになった。腰の回転は利用せず、殴ると同時に同じ側の足を強く踏みしめ、会場に音を響かせて見た目以上のインパクトを与えている。天龍のかつての付け人でもある小川も、同じようなグーパンチを繰り出している。本来は反則技だが、なぜか天龍が使用する場合は反則カウントを取られることは少ない。なお、グーパンチ→逆水平のコンビネーションを繰り返し使用するパターンもある。山崎一夫曰く「何がグーパンチだ、パンチはグーに決まってるじゃねえか!」
- 顔面蹴り
- 天龍同盟を結成した頃より多用している。ダメージを受け、うつぶせあるいは四つん這いになっている相手に対し、下から足の甲で思いきり相手の顔面を強烈に蹴飛ばす。レガースやパット付きブーツではなく普通のリングシューズのまま蹴るため、試合によっては相手の顔に靴紐の跡が残ることもあった。
- 延髄斬り
- 猪木の跳躍力を利用するものと違い、天龍の延髄斬りは左手を相手の左肩に乗せ、体重を下に乗せながら跳び、斜め上から鉈を振り落とすように重く脚を当てる技でもある。天龍と同じ相撲出身の田上明も、天龍型の延髄斬りを使用していた。アメリカ遠征時代に膝立ちの相手に偶然延髄斬りのようなキックが出たことからヒントを得、のちに新日本の興行から帰ってきたマスクド・スーパースターやブラックジャック・マリガンから「イノキが変なキック...ラウンド・ハイキックを使っている」という話を聞き、本格的に使用するようになった[66]。
- また「風雲昇り龍」としてブレイクし始めた頃は相手の背後から走り込んで蹴る(サッカーのジャンピング・ハイボレーシュートのような形になる)延髄斬りや、相手をロープに振って、戻ってきたところを横から蹴る延髄斬りを使っていた。ただしロープ・リバウンド式はタイミングを誤って相手に当らず空振りとなってしまうことがたまにあった。ジャンピング・ハイボレー式はこれが試合のフィニッシュになるくらい威力は高かった。
- 龍魂ラリアット
- 天龍のラリアットは、左腕で浴びせ倒すスタイルである。同じ型のラリアットをマグナムTOKYOが継承龍魂ラリアットとして受け継いでいる。
- 背面式ダイビング・エルボー・ドロップ
- リングに背を向けてコーナーにのぼり、そのまま後向きに飛び降りながらエルボー・ドロップを繰り出す。エルボーを落とした後、勢いで一回転することもある。また精度があり、滅多に回避されない稀有な空中技として有名。
- NWA王者時代のテリー・ファンクがフィニッシュとして多用していた技であり、テリーから若手の頃直伝されて使用している技。さらにアメリカ修行時代に、同じくこのタイプのエルボー・ドロップをフィニッシュにしていたフランキー・レインというレスラーからもOKをもらい、レパートリーに加えたという[37]。全盛期はリング中央近くまで飛んで行く飛距離を見せていた。
- 浴びせ蹴り
関節技
[編集]- WARスペシャル
- 尻餅をついた体勢の相手の両腕を背後から抱えるように極めながら相手の後頭部に上体を密着させ、窒息または首関節の圧迫を狙う。もともとはルー・テーズのライバルとして活躍していたルー・キムの必殺技で、「満州固め(マンチュリアン・クラッチ)」と呼ばれていた。隠し技として裏WARスペシャルという技も存在する(変形の羽根折り固め)。
- テキサス・クローバー・ホールド
- 相手の両足を両腕でインディアン・デスロック状に固定して逆エビ固め状態で絞り上げる。テリー・ファンクが元祖。天龍曰く「テリーから『この技だけは真似するな』と釘を刺されましたが、勝手に拝借しちゃいました。青春の技です」とのこと[37]。
- 卍固め
- 天龍が初めてインターナショナルタッグに挑戦した際、控室でパートナーだったビル・ロビンソンが教えた。現役後期はほとんど使っていない。
組み技
[編集]- ショルダー式ネックブリーカー
- いわゆるヨーロッパ式ネックブリーカーで、こちらもインターナショナルタッグに挑戦した際にビル・ロビンソンから教えられたもの。卍固めとは違い、こちらは現役後期も時々使用される。
その他、天龍の場合は試合中に対戦相手や観客を驚かせる意外な技を繰り出すことがある。以下、主な技を記す。
- 雪崩式フランケンシュタイナー
- この技を得意とする武藤との対戦で初めて繰り出して以来、時折使うことがあった。ちなみに、初めて使った時には天龍自身も頭を打った。
- スパイダー・ジャーマン→背面式ダイビング・エルボー・ドロップ の連携技
- ジャーマン・スープレックス・ホールド
- 1980年代から1990年代前半まで一時期多用していた技。フォームは決して綺麗ではないが、天龍の放つジャーマンは豪快さがあった。
飛び技
[編集]- トペ・スイシーダ
- 高齢のヘビー級選手かつパワーファイターがこの技を使用するのは非常に珍しい。身体をやや捻りながら飛んで行くためショルダー・スイシーダのような形になる。前述の馬場からピンフォールを奪った試合で、試合開始前に入場してきた馬場に放った一発は勝利への布石となった[67]。
反則技
[編集]- 凶器攻撃
- 代表的なものに本物のビール瓶をテープで覆って使用する。
- 毒霧
- 毒霧を仕掛ける前にセコンドからペットボトルらしき物を受け取っている。ムタとの三冠戦の時には、観客とカメラの真ん前で堂々と水筒から口に含んでいた。
エピソード
[編集]- 父は大変血気盛んな人物であったといい、自身が小学生の頃の地元の相撲大会で「うちの息子を中学生の部に参加させろ」(毎回源一郎が優勝していたという)と無茶を言うも認められず、源一郎少年に八つ当たりした挙句自宅からバイクで30分かかる会場へ置いて帰ってしまった、という類の出来事がしばしばあったという。夜に家で数学の宿題を行っている際に「てめぇ、こんなのもわからねぇのか!」と殴られたこともしばしばあり、父の時代と解き方も方程式も違っている事を説明しても納得せず更に殴ったという。このことについて、父が死去した際に週刊ゴングで本人が「厳しい父だった。怖い父だった。でも、俺の心の中で常に英雄だった」と語っていた。一方で、礼儀作法や長男としてのあり方を教え込む時は理にかなっていたという。この教育観について天龍は後年「娘が言うことを聞かないことがあれば手を挙げていたが、それが大きな間違いだと気付かされた」と語った一方で「子供は自己判断なんか出来ないんだから、抑制がなければ誘惑のおもむくまま。今の子供たちが好き勝手やって弊害を生じさせているとしたら、それは親の責任。こういう事を考えるような歳になると、昔ながらの親父のやり方もある意味間違ってなかったかな」と父の教育観に共感する場面も見せた。
- 東前頭7枚目だった1973年11月場所の千秋楽で横綱輪島が前日に休場した影響で「これより三役」に登場し、結びの一番で横綱琴櫻と対戦して上手出し投げで琴櫻に敗れている[68]。
- 天龍は、二所ノ関部屋で大麒麟と大鵬から特に影響を受けたという。まだ取的であったある年の九州場所中の夜、大麒麟が「じゃあ、俺はこれで帰るから。嶋田、これで遊んで来いよ!」と財布を手渡したが中に100万円[69]が入っていたという。大鵬も豪快だった様で、天龍には特に奮発して財布ごと渡したという[70]。だがあまりに高額なので、使わずに本人達の元へ戻しに行くことも多かったという。そうした出来事に影響を受け、天龍は関取に昇進してから現在に至るまで飲食は身銭を切る事にしている。大相撲時代もタニマチからの祝儀に一切頼らずに飲食は自費で行ったといい、金払いが滞ることも一切無かった。天龍の付き人をしていた小川良成は「巡業先での食事代はもちろんのことで、全日本の給料の何倍も天龍さんから小遣いを貰っていた」と公言している。
- 鶴龍コンビ時代の北陸遠征の際にジャンボ鶴田とラーメンを食べていると、鶴田が店を出た際に「あれ、ジャンボ鶴田だよな?なんだ、ラーメンなんか食ってて力が出るのかよ?ステーキとかを食べてるんじゃないの?」と客にヒソヒソと冷やかされ、以来「ファンのイメージを壊してはいけない」と天龍はコンビニエンスストアやファミリーレストランに行くことをしなくなった。当時ブルーザー・ブロディとスタン・ハンセンが村さ来のメニューの1本数十円の焼き鳥に感激していたのには、プロレスラーとしてのイメージにそぐわないその様には驚いていた[71][72]。
- 相撲時代は細身ではあったが、筋肉質の体躯と優しく均整の取れた顔立ちから美男子力士として女性の人気が高かった。本人は「いやぁ、そんなに人気はなかったよ。あの頃は、北の富士さんや増位山さんとか、カッコいい力士がいっぱいいたから、俺なんかカヤの外ですよ」と謙遜しているが、同時代に相撲を取っていた元力士によると「天龍はものすごくモテていた」とのこと[73]。
- 落語家6代目三遊亭円楽は墨田区立両国中学校の同級生で親友だった。田上明を紹介された際には全日本入団に協力しており、また『笑点』内ではしばしば天龍の物真似を披露することもあった。
- プロレス転向の話を持ちかけられた際に、当時のプロレス界が相撲で大成しなかった人間の吹き溜まりのようにもなっていたことから、「幕内で勝ち越してから相撲を辞める」と決意。実際にその通りの結果を残し、晴れてプロレス転向を遂げた。
- 「一人前に仕事が出来ないうちからカッコつけたことは言っちゃいけないと思って」プロレス転向後は「風雲昇り龍」として1981年にブレイクするまで無口で大人しい態度を貫いた。
- 相撲時代は十両・幕内を長く務めたことや、プロレス転向後も相撲時代の名をそのまま使用したことから、付き合いの長い人物や同じバックボーンを持つプロレスラー(キラー・カーンなど)からは「天龍関」と呼ばれることが多い[74]。
- 元幕内力士として、力士が大型化して怪我などで巨体を持て余す様子を「俺たちにとって不本意だ」と嘆いている1人である。一方で「でもお前も現役時代、突っ張りしかしてなかったじゃないかって言われそうだけどね(笑)」と話している[75]。
- 1980年代後半以降、新日本・全日本の二大団体時代が終焉し多団体時代が到来するとプロレス界は「メジャー系」「UWF・格闘技系」「インディー系」「エンタメ系」「ルチャリブレ系」「女子プロ系」という形に各団体がジャンル分けされていったが、天龍は女子も含めた全てのジャンルのトップレスラーと対戦した。最大の宿敵である鶴田を皮切りに猪木・藤波・長州・谷津・輪島・武藤・ムタ・蝶野・橋本・馳・佐々木健介・川田・小川良成・高田・藤原・北尾・大仁田・ターザン後藤・ハヤブサ・マグナムTOKYO・神取(女子)とシングルマッチで対戦していずれも勝利を収めており、タッグマッチながら馬場から日本人初のピンフォールを奪っている。この他にもNOAHの三沢・小橋・田上・秋山。第三世代の天山・小島・永田・中西・西村。新三銃士の中邑・棚橋・柴田。UWF系出身の初代タイガーマスク・山崎・鈴木・高山。インディー系のポーゴ・ケンドーナガサキ。ハッスルのHG・インリン様(女子)曙。ルチャ系のサスケ・新崎人生。西口プロレスのアントニオ小猪木。更にはUFO時代の最も暴走していた頃の小川直也とも対戦している。
- プロレス界一の豪傑・酒豪として知られ、数々の男気溢れるエピソードを持つ。特に様々な酒をアイスペールに注いだものは「天龍カクテル」などと呼ばれており、自分は飲まずに記者などに次々飲ませて潰してしまう。プロレス界のもう一人の酒豪として知られる藤原喜明と飲んだ際は、ヘッドバット合戦をしたり相撲を取ったりした[76]。またダチョウ倶楽部の上島竜兵に10万円の小遣いを与えたり、飲んでいた店にいた人全員(見知らぬ人も含め)の勘定を払ったりという気前の良さも持ち合わせる。地方巡業で若手レスラー・裏方スタッフ・マスコミと食事や飲み会に出かけた時も、勘定は全て天龍が持ってくれたという[77]。上記の通り相撲時代の大麒麟と大鵬、そしてアメリカ修行中に世話になったリック・フレアーから多大な影響を受けているとインタビューで語っている[78]。
- 越中詩郎が全日本を離脱して新日本プロレスに移籍することを決め、ジャイアント馬場に了解を取るために全日本の遠征先の宿に向かった際、そこで偶然天龍と遭遇したという。事情を知った天龍は越中に付き添って馬場の元に向かい、あくまで移籍を認めようとしない馬場に対し、越中の意を汲んであげるように説得した。そして越中が宿を離れる際に、はなむけの言葉とともに餞別として越中の服のポケットに大量の一万円札を入れたという[79]。
- 「全日本第3の男」が定着し、UNヘビー級獲得に苦労したり、延髄斬りや卍固めを使用したことから猪木の亜流と揶揄されたりしていたが、テリー・ファンクは一度目の引退後に雑誌のコラムで天龍を「馬場の後の全日のボス」と評し、他の外国人選手も同調したが、天龍自身は「俺が奴らに勝てないから慰めてくれているだけだろ!」と自嘲したという。
- 鶴田が返上したUNヘビー級への挑戦が決まった際、最初は親しい記者達に「なんでジャンボの『お下がり』のベルトに俺が挑戦しなきゃいけないんだ?」と不満を口にしていたが、猪木・坂口征二・カブキ(高千穂明久)が巻いたベルトであることを知ると、一転獲得に乗り気になったという[80]。だが、王者テッド・デビアスとの選手権試合で獲得に失敗。試合後のロッカー・ルームで「いくらいい試合をやったって、タイトルが取れなきゃ意味が無いよ…」と洩らしたきり、プロレス記者・若手レスラー達も声をかけられない程落胆した。弟子を滅多に慰めたりしない師匠・ジャイアント馬場が「天龍、ネクスト・トライだ。(この試合で)終わり、という訳じゃないんだから…。なぁ?」と労うほどであった。それ故にリッキー・スティムボートとの王座決定戦に勝利し王座に就いた時には、喜びと共に安堵した表情を見せている。
- 上記の通り、全日本時代は“兄貴肌”で後輩の面倒見も良く、支持派も多かったという[77]。三沢光晴はSWSに関して「もし(天龍さんから)直接声がかかっていれば行っていた」と語っており[81][82]、また川田利明もノアに関して「あの時(SWS)の方がよっぽど(移籍するか)迷った所があった」と語っている。
- 「なぜプロレスラーは技を避けないのですか?」という質問に対し、天龍は「よけられないんですよ。よけたら負けなんですよ。一度やっちゃったら、こいつにはもう勝てないって思っちゃう。俺はね」と答えている[83]。また、週刊大衆のプロレス特集では「ハンセンのラリアットだろうと、ジャンボ(鶴田)のバックドロップだろうと、全てまともに受け、それでも立ち上がってみせるのがプロレスラーだから。それで負けたら『ああ、俺が弱いから負けたんだな』って思うだけでね」という自身の「受けの哲学」も披露している[84]。
- 前田日明は、第一次UWFから新日本にUターンしていた1987年頃に「俺たちに比べたら全日さんはてれんこ、てれんこ試合をしている印象がある」とインタビューで評していたが、その直後に、天龍と輪島のシングルマッチが組まれ、天龍が輪島の顔面を、レガースを付けない硬いリングシューズで容赦なく蹴っていたこと、それでも立ち上がる輪島、さらに容赦なく蹴り続ける天龍の姿に衝撃を受けており「全日本であんな激しい戦いをされたら、自分たちの存在意義がなくなってしまう」と危機感を抱いたという[85]。天龍はこの行為について、「たとえ横綱だった人間でも簡単に出来るほどプロレスは甘くないということ。それから、やっぱり横綱だった人間はヤワじゃないんだよということ。この二つを皆に知ってほしかったからやったんだ」と述べている。後に「あの頃の全日では僕が一番相撲取りの凄さについては分かっていました。毎日ダンベルに頭突きをして額を鍛えたり、プロレスラーに負けないくらい力士だって体は頑丈で、タフなんですよ。だからその頂点である横綱になった輪島さんなら『これくらいやっても大丈夫だ』って思いましたから」と当時の輪島に対する敬意と対抗心もカミングアウトしている[84]。なお、輪島以外でも石川敬士・高木功や田上といった格下の相撲出身レスラーに対しても、厳しい洗礼を見舞い続けていた。
- 入場曲の『サンダーストーム』について、SWS時代は当初、個人別ではなく部屋単位での入場曲が使用されていたため、会場で流されない時期があった。[86]
- 上田馬之助は、SWSが失敗した原因として「(天龍がSWS移籍する前の全日本最後の試合で)最後に鶴田にピンフォール負けを食らった奴の試合なんて誰が見るの?」と語っていた。
- 私生活ではジャイアント馬場が勧誘した渕正信・ジャンボ鶴田・大仁田厚とは交流が無かった。渕は性格が暗いので天龍自身、一度も一緒に飲んだことがなく、鶴田はブレーキを掛けながら飲むので一緒に飲んだことはあったが、自分と飲んでも楽しいのかと疑問を感じるようになって一緒に飲まなくなった。大仁田に関しては、後輩でありながら馬場に特別視されていた天龍を彼が快く思っていなかったのが目に見えて分かっていたため、一緒に飲みに行くどころの話ではなかった[87]。
- 神取忍と対戦した際、グーパンチや逆水平チョップを浴びせ、ボコボコにした。試合後顔を腫らした神取が「死ぬかと思った」「今日ほど男に生まれたいと思ったことはないよ」などのコメントをしている。天龍は男女の壁を越えて『ミスタープロレス』に挑んできた『ミスター女子プロレス』に対し手加減しないことで敬意を示した。
- 全日本時代は色白だったが、SWS移籍を機に日焼けをし、褐色ボディへと変貌を遂げた。近年は白髪染めの影響か、頭髪が茶髪になっている。
- 若手時代はハスキーな美声だったが、年をとってからはしゃがれた悪声になってしまい、反面ある種「滑舌の悪さ」はトレードマークとなっている。しゃがれた声になった理由はラリアットを喉に喰らったことである。
- 2006年7月に、スポーツ紙上で「ずっとジャンボとの戦いに備えていた」と、袂を分かった後も変わることのない鶴田へのライバル心を明かした。記事では、ジャンボの死後も彼といつか出会うかのごとく、依然として戦いに備えており、そのことが2000年以降の活動につながっていると語られている。
- 鶴田に関しては「レスラーとしては最高だったかもしれないけど『鶴田友美』として見た時に、どうしても相容れないものがあった」と後年評しており「リング上ではエースとして威張っていたが、リングを離れると殊更目立たないようにするなど両極端であった」という趣旨のコメントもしている。鶴田についての天龍の分析として「周りの同年代の人たちは普通の会社に就職していた訳だから、もしかしたらそこに負い目があったのかなと思わないでもないよ。だからことさら一般の人の様に生活がしたいという憧れがあったかもしれないね」というものもある[88]。
- 天龍は高松でのロード・ウォーリアーズとの試合でダブル・インパクトを喰らって負けた時、頭を打って引っ繰り返っていたら鶴田から「源ちゃん、ホラ!いつまで寝てるんだよ!」と頭を掴んで引っ張り起こされたことがあった。他にもコブラツイストをかけてリングサイドのカメラマンに「OK?」と写真を取らせるなど相手を敬わない鶴田の姿をコーナーから見た天龍は、鶴田を尊敬出来なくなったという[89]。
- 天龍は自身のベストバウトとしては、鶴田とのシングルでの最後の戦いとなった鶴龍対決の第7戦目を挙げている。また天龍は「正直、3試合目くらいからジャンボとの地力の差を感じていた」「いつも『お客さんにはジャンボよりも1ミリ先を見せよう』って頑張っていたけど、この最後の一騎討ちだけは、試合中に初めて『転んで(負けて)もいいや』って思った。実際負けてしまったんですが、もう全日本を辞めようって気持ちがあって(この試合を最後に退団)、それとどこか重なってしまったんですね」と語っている[90]。また、試合前に鶴田が「今日はそんなにシャカリキにならなくても」と[91] 言っていたのを伝え聞きし、気持ちが萎えてしまったとも語っている[65]。
- 後年も時間を見つけては鶴田の墓参りに赴く姿がマスコミに取り上げられていたが、2015年の墓参の際に区切りをつけることにした。天龍も鶴田の墓前で「この次に会うのは、そっちに行った時だよ」と告げたという[92]。
- 2009年6月に三沢が試合中の事故で他界したことについて記者からコメントを求められた時に、天龍は「俺とあいつの関係で月並みなことは言いたくない」として頑なにノーコメントを貫いた。2015年4月28日に原が亡くなった時も、徹底して(あえて)無言を貫き通した。引退後に上梓した自伝では、両者の死の知らせに接したときの思いを告白している[93]。
- 天龍の「リュウ」が、外国人には発音しにくいため、アメリカでの修行時代からアメリカでは「テン・ルー」のリングネームを使用していた[94]。その他、修行時代からの友人でタッグパートナーでもあったスタン・ハンセンやロード・ウォリアーズ・リック・フレアーらも「天龍」ではなく「テンルー」と呼んでいた。
- 1978年のフロリダ地区での再修行時代には、「テン・ルー」として素顔で闘うだけでなく白地に鷹をあしらったマスクを被り、パートナーに現地のレスラー(ソニー・ドライバー)、マネージャーにタイガー服部を従え、「ライジング・サンズ」として活動したこともある。
- インディー団体のリングにもこれまで上がり、若手を中心とした発展途上の選手に胸を貸している。アパッチプロレス軍のマンモス佐々木もその一人で、天龍に食らった(一騎討ちでフィニッシュ・ホールドとなった)必殺技である「53歳」を糧とし、当時佐々木の年齢に併せて「29歳」を開発している。
- 2010年5月31日、西口プロレスに出場。前年まで出場していたハッスルから新たに激しいプロレスを魅せる天龍プロジェクトを立ち上げた矢先にアントニオ小猪木と対戦。掌打・グーパンチ・喉笛チョップ・顔面蹴りなどで、小猪木の額には靴紐のアザ・左右の奥歯を2本折るという妥協なきスタイルを貫いた。
- 2009年12月23日には『ホリデーインタビュー』(NHK総合)という祝日の早朝番組に出演する。
- 2012年以降は『ダウンタウンのガキの使いやあらへんで!!』(日本テレビ)の大晦日年越しスペシャル『笑ってはいけないシリーズ』において、笑いの刺客として出演したことがある。長州の滑舌の悪さにメンバーが爆笑した後に天龍が登場し、更にメンバーを悶絶させた。
- 二所ノ関部屋が閉鎖された際、自身の育った部屋を見せようと部屋の前に娘を連れていった。天龍は看板を取って持ち帰りたい衝動に駆られたといい、それほど部屋への思い入れは深かった[3]。
- 大鵬の葬儀では外からでも手を合わせられればという思いで弔問に訪れたが、式場内に招き入れて貰ってきちんと故人の前で手を合わせることが出来た。天龍はこれを後に「あの時、すべてのことがクリアになったな、という思いがしました」と述懐している[3]。
- プロレスラー活動の傍ら、1997年に東京都世田谷区(桜新町駅前)に寿司屋『鮨處 しま田』をオープン。天龍の妻が女将を務め、天龍自ら週に数回店を訪れて接客したりしていた[95]。しかし2009年をもって閉店している[96]。
- 現役時代はブレイクして以降気の抜ける時間が無く、妻からは「あなたは24時間天龍源一郎だから、見ていても接していても疲れる」と言われた。そのため、引退後に家族旅行に行った際には当たり前のことなのに新鮮に思えたという[75]。
- 自慢の手料理は湯豆腐・油鍋(ごま油を大量に使用した鍋料理)・鯛麺。湯豆腐は二所ノ関部屋で若い衆だった頃に覚え、鯛麺はそうめん好きであった兄弟子の大文字が作っていたのを覚えた。油鍋は作ると部屋にごま油の匂いが充満するため、天龍が家庭でやるときには妻や娘が濡らしたバスタオルを振り回して必死で匂いを吸着するという[97][98][99]。
- 天龍は引退ロード終了後に嫌いなレスラーとして大仁田厚の名前を挙げており、その理由に関し「彼は自分がやっていることがすべて正義のように振舞うし、それをファンにも無理強いしているような所があるからね。ファンがそれで納得しているというのなら、なおさら節目でしっかりケジメをつけろと言いたいね」「大仁田は商売っけが先に立つから、とにかくそれが鼻について、相容れないものがあるよ」と説明している[100]。
入場曲
[編集]- THUNDER STORM
- レボリューション〜天龍源一郎のテーマ〜
メディア出演
[編集]映画
[編集]- 極道の妻(つま)たち Neo(2013年6月8日、東映ビデオ)
- 幕が上がる(2015年2月28日) - ユッコのお父さん 役
- LIVE FOR TODAY-天龍源一郎-(2017年2月4日、川野浩司監督)[103][104] - ドキュメンタリー
テレビドラマ
[編集]- マネーの天使〜あなたのお金、取り戻します!〜 第7話(2016年2月18日、読売テレビ) - 警備員 役[105]
テレビアニメ
[編集]- カイトアンサ(2017年) - テンテン 役[106]
- 100万の命の上に俺は立っている(2020年) - ゲームマスター 役
- せいぜいがんばれ!魔法少女くるみ(2021年) - デビるんパパ 役
その他テレビ番組
[編集]- 天龍源一郎のゴールデン洋画劇場 マッドマックス編(2020年9月11日、12日、フジテレビ)[107]
CM
[編集]- リーヴライフ トゥエンティーワン(2013年)
- 味の素冷凍食品「ザ・チャーハン」(2015年 - )[108]
- リクルート「フロムエー・ナビ」(2016年) 声の出演[109]
- 大塚食品「MATCH」(2017年)
- ソフトバンク「Y!mobile・タダ学割」(2018年)
- ファミリーマート「週刊プロレス×ワンダ モーニングショット ファミリーマートのプロレス缶」(2022年)宣伝隊長[110]
MV
[編集]- Gacharic Spin「Don't Let Me Down」(2015年6月3日)[111]
- GENERATIONS from EXILE TRIBE「DREAMERS」(2019年)[112]
ゲーム
[編集]テレビゲーム
[編集]- 『天龍源一郎のプロレスレヴォリューション』(1994年、ジャレコ、スーパーファミコン)
プロレスゲームの1つであり、画面の3分の2を埋めてしまう迫力のリアルタイムアクションウィンドウがメイン画面を食うような見栄えになっている[114]。
著書・自伝
[編集]- 『瞬間(いま)を生きろ! - 天龍源一郎の反骨格闘人生』 (1994年 竹書房 ISBN 9784884759575)
- 『天龍源一郎 天地に愧じず』 (小佐野景浩・菊池孝との共著 1998年 ビレッジセンター出版局 ISBN 9784894361089)
- 『七勝八敗で生きよ』(2007年 東邦出版 ISBN 9784809406638)
- 『天龍源一郎 酒羅の如く』(原作・岡戸隆一 画・叶精作 2013年 白夜書房 ISBN 9784861919961)
- 『龍魂継承 - 天龍源一郎対談集』(2015年 ベースボールマガジン社 ISBN 9784583108551)
- 『革命終焉』(嶋田まき代・ 嶋田紋奈との共著 2015年 辰巳出版 ISBN 9784777815890)
- 『レボリューション - 天龍源一郎自伝』(2015年 ベースボールマガジン社 ISBN 9784583109060)
- 『完本 天龍源一郎 LIVE FOR TODAY ‐いまを生きる‐』(『瞬間(いま)を生きろ!』の増補改訂版 2016年 竹書房 ISBN 9784801908444 )
- 連載
- 「格闘人生 腹いっぱい」『日経産業新聞』連載【仕事人秘録】全16回(2018年3月13日~4月4日)
- 天龍源一郎がレジェンドについて語る ミスタープロレス交龍録(BUBKA2018年11月号 - )
脚注
[編集]- ^ a b c d e ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p35
- ^ “【天龍源一郎連載2】「うちの息子はでかい」父が話したことでスカウトが…”. 日刊スポーツ (2021年12月8日). 2023年7月12日閲覧。
- ^ a b c d e f g h ベースボールマガジン社『大相撲名門列伝シリーズ(2) 二所ノ関部屋』p42-46
- ^ a b 天龍源一郎が語る“修行” 農家修行と相撲教習所、そしてジャンボ鶴田に食らったボディスラムの衝撃(1/4ページ) AERA dot. 2021.2.28 07:00 (2021年2月28日閲覧)
- ^ 「横綱までいく」と誘われ、中2で二所ノ関部屋へ(1/2ページ) NIKKEI STYLE 出世ナビ 仕事人秘録セレクション 2018/12/19(日経産業新聞2018年3月14日付より、2020年7月14日閲覧)
- ^ a b c d 天龍源一郎が語る“修行” 農家修行と相撲教習所、そしてジャンボ鶴田に食らったボディスラムの衝撃(2/4ページ) AERA dot. 2021.2.28 07:00 (2021年2月28日閲覧)
- ^ “天龍、最後まで昭和プロレス貫きレスラー40年に幕”. 日刊スポーツ (2015年11月16日). 2023年9月28日閲覧。
- ^ a b 力士「天龍」、西前頭筆頭に 部屋の騒動で居場所失う(1/2ページ) NIKKEI STYLE 出世ナビ 仕事人秘録セレクション 2018/12/26(日経産業新聞2018年3月15日付より、2020年7月14日閲覧)
- ^ 中学校の同級生に6代目三遊亭円楽がいる。
- ^ a b c d “天龍さんが語る“勝負メシ” 大横綱・大鵬の大好物をこっそり盗み食い!そのお味は?”. AERA dot. (朝日新聞出版). (2023年6月11日) 2023年6月22日閲覧。
- ^ 天龍さんが語る“勝負メシ” 大横綱・大鵬の大好物をこっそり盗み食い!そのお味は?(2/4ページ) AERAdot. 2023/06/11 07:00 (2023年6月11日閲覧)
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- ^ 【天龍源一郎連載3】貴ノ花、輪島、北の湖に抜かれ…「格好付けたかった」 日刊スポーツ 2021年12月9日10時0分 (2021年12月9日閲覧)
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関連項目
[編集]外部リンク
[編集]- 天龍源一郎/オフィシャルサイト
- 天龍源一郎オフィシャルブログ「天龍源一郎の人生腹いっぱい」 - Ameba Blog
- 天龍源一郎【official】 (@tenryu_genichiro) - Instagram
- 天龍源一郎 - YouTubeチャンネル
- 天龍プロジェクト - YouTubeチャンネル
- 天龍源一郎/MILLENNIUM PRO オフィシャルサイト
- 天龍源一郎/映画「LIVE FOR TODAY」オフィシャルサイト
- 天龍源一郎/天龍プロジェクト オフィシャルサイト
- エクセリング- 芸能事務所(業務提携)
- 天龍 源一郎 - 相撲レファレンス