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ジョーン・クロフォード

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』
ジョーン・クロフォード
Joan Crawford
ジョーン・クロフォード Joan Crawford
ジョージ・ハレルが1936年に撮影したクロフォードの宣材写真
本名 Lucille Fay LeSueur
生年月日 (1904-03-23) 1904年3月23日
没年月日 (1977-05-10) 1977年5月10日(73歳没)
出生地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国テキサス州サンアントニオ
死没地 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国ニューヨーク
国籍 アメリカ合衆国の旗 アメリカ合衆国
職業 女優
ジャンル 映画
活動期間 1923年 - 1974年
配偶者 ダグラス・フェアバンクスJr.(1929年 - 1933年)
フランチョット・トーン(1935年 - 1939年)
フィリップ・テリー(1942年 - 1946年)
アルフレッド・スティール(1956年 - 1959年)
著名な家族 クリスティーナ(養女)
クリストファー(養子)
シンシア(養女)
キャサリン(養女)
主な作品
グランド・ホテル』(1932年)
ミルドレッド・ピアース』(1945年)
大砂塵』(1954年)
何がジェーンに起ったか?』(1962年)
受賞
アカデミー賞
主演女優賞
1945年ミルドレッド・ピアース
AFI賞
AFIアメリカ映画100年シリーズ
1999年 女優部門第10位
ゴールデングローブ賞
セシル・B・デミル賞
1970年 生涯功労賞
その他の賞
ハリウッド名声の歩道
1960年 映画産業への貢献、映画・演劇業界への業績に対して
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ジョーン・クロフォードのサイン。

ジョーン・クロフォード: Joan Crawford1904年3月23日[注釈 2] - 1977年5月10日)はアメリカ合衆国テキサス州サンアントニオ出身の女優。映画、舞台、テレビで活躍した。

ブロードウェイのコーラスガールとして舞台に出演するまでは、アメリカ各地を巡業する演劇一座のダンサーだった。1925年に映画製作会社メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM)と映画出演の契約を結び、クロフォードの本格的な女優人生が始まっている。当初のクロフォードに割り当てられた役柄は端役で、つまらない役が多かったためにクロフォードは苛立ちをつのらせていたが、徐々に自身を売り込むことに成功し始め、1920年代の終わりには流行の最先端をいくフラッパーを代表する女優として世界的に有名になった。1930年代になると、クロフォードの人気は当時のMGMの看板スターであるノーマ・シアラーグレタ・ガルボと並び称されるようになった。クロフォードは、最終的に恋や成功を勝ち取る勤勉な若い女性を演じる機会が多かった。このような「シンデレラ・ストーリー」的な作品は、世界恐慌のさなかにあった当時の大衆、とくに女性層に大きく受け入れられた。クロフォードはハリウッドでももっとも有名な女優の一人となり、出演料も女優の中で最高額を受け取るまでになった。しかしながら徐々に作品の興行成績は落ち込みを見せはじめ、1930年代の終わりには出演料のわりに興行成績に貢献しない女優 (Box Office Poison) というレッテルをはられてしまう。しかしながら、女優としてのキャリアは1940年代前半から再び上昇し始めた。そして1945年に主演した『ミルドレッド・ピアース』で、クロフォードはアカデミー主演女優賞を獲得したのである。

1955年にクロフォードはペプシコ社の社長アルフレッド・スティールと4度目の結婚をし、社長夫人としてペプシコ社での実権を持つようになった。1959年に夫スティールが死去すると、クロフォードは取締役会から推挙されて、1973年まで役員としてペプシコ社に籍を置いていた。スティールとの結婚中もクロフォードは映画やテレビで女優を続けていたが、スティールとの死別後の1960年代は女優としての活動量はどんどん減っていった。そして1970年のイギリスのホラー映画『地底の原始人・キングゴリラ (Trog)』への出演を最後に、クロフォードは映画界から引退した。1974年に老いで衰えたクロフォードの容貌があからさまに写しだされた写真が公開されると、クロフォードは人前に出ることを完全に避けるようになり、1977年に死去するまで隠棲生活を送った。

クロフォードは4回にわたって結婚している。最初の3回は離婚で、最後に結婚したアルフレッド・スティールとは死別だった。クロフォードには5人の養子がいるが、そのうちの1人は生みの親のもとに戻っている。残った4人の養子のうち、年長のクリスティーナ (Christina Crawford)とクリストファーのクロフォードとの関係はとげとげしいものだった。クロフォードはこの二人の遺産相続権を剥奪し、クロフォードの死後にクリスティーナは暴露本『親愛なるマミー―ジョーン・クロフォードの虚像と実像 (Mommie Dearest)』を出版している。この本にはクロフォードが子供たちに対して肉体的、精神的に虐待を繰り返していたと断言されている。

クロフォードは、アメリカン・フィルム・インスティチュートが1999年に選定した映画スターベスト100の女優部門で、第10位にランクされている。

前半生

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クロフォードは、トーマス・E・ルスールとアンナ・ベル・ジョンソンの第3子として、テキサス州サンアントニオに生まれ、ルシール・フェイ・ルスール (Lucille Fay LeSueur) と名付けられた。父トーマスはフランスのユグノーの血を引くイギリス人で、クリーニング店で働いていた。母アンナはテキサス州生まれで、スウェーデンとアイルランドの血を引いていた。長姉デイジーはクロフォード誕生以前に死去しており、長兄のハル・ルスール (Hal LeSueur) は長じて俳優となっている。トーマスはクロフォードが生まれる数カ月前に家族を捨てて出て行ったが、62歳の1930年にテキサス州のアビリーンで建設作業員として働いていたことが分かっている[9]。その後アンナはヘンリー・J・カシンと結婚した。当時の国勢記録にはこの結婚がアンナの初婚であると記載されているため、トーマスとアンナは法的には結婚していなかった可能性がある[10]。一家はオクラホマ州ロートンに住んでおり、カシンはここでラムジー・オペラ・ハウスを経営していた。このオペラ・ハウスではさまざまな出し物が行われており、アンナ・パヴロワやエヴァ・タンガイ (Eva Tanguay) といった有名人が公演をすることもあった。幼いクロフォードはカシンをダディと呼んでおり、実の父親ではないことを兄のハルから教えられるまで知らなかったといわれている[11]。「ビリー (Billie)」 という愛称で呼ばれていたクロフォードは、義父のオペラ・ハウスで上演されるヴォードヴィルを観ることが好きな子供だった。オペラ・ハウスを経営していたとはいえ一家の暮らしは苦しく不安定なもので、クロフォードも小学校以降は正式な教育を受けることはできなかった[12]

クロフォードはダンサーになることが夢だったが、ある日クロフォードが友人と遊ぶためにピアノのレッスンをさぼろうとして家のベランダから飛降りたときに、牛乳瓶の破片で脚に深い傷を負ってしまった。クロフォードは3度の手術を受け、小学校にも18カ月にわたって通うことが出来なかった。幸いなことにこの怪我は完治し、クロフォードはダンサーになるという夢を捨てることはなかった。あるときカシンは使い込みの疑いで告訴され、最終的には無罪判決を受けたもののロートンには居られなくなり、一家は1916年ごろにミズーリ州カンザスシティへ引っ越している[10]。カシンの名前が最初に市の電話番号簿に記載されたのは1917年で、住所は東9番街403となっていた。クロフォードはカンザスシティのカトリック系の聖アグネス・アカデミーに入学した。後にアンナとカシンが離婚すると、クロフォードは勤労学生として学校に残った。その後、クロフォードはロッキンガム・アカデミーへ勤労学生として入学している。クロフォードは後年、この学校の校長夫人に叩かれたことと、料理、掃除などに追われていてほとんど勉強する暇がなかったと振り返っている。クロフォードはロッキンガム・アカデミー在学中に、最初の恋人であるトランペット奏者のレイ・スターリングと付き合っていた。スターリングはクロフォードに勉学に励むように諭していたといわれている[13]。クロフォードは1922年にミズーリ州コロンビアのスティーヴンス女子大学に入学した。このときの名簿には1906年生まれとして登録されている。大学に入学したクロフォードだったが、わずか数カ月で退学した[14]

キャリア

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キャリア初期

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1928年に撮影されたクロフォード。

大学を中退したクロフォードは巡業演劇一座に加わり、本名のルシール・ルスールでダンサーとして働いていた。そして巡業先のデトロイトで、クロフォードは劇場主でプロデューサーのジェイコブ・シュバート (Jacob J. Shubert) に見出された[12][15]。シュバートは、1924年にブロードウェイ・シアターのウィンター・ガーデン・シアターで上演される『イノセント・アイズ』のコーラスガールにクロフォードを起用した。『イノセント・アイズ』の出演中に、クロフォードはサックス奏者のジェームズ・ウェルトンと知り合った。二人は1924年に結婚し、数カ月間ともに暮らしたといわれているが、後年のクロフォードはこの「結婚」について語ったことは一度もない[16]。クロフォードはさらなる仕事を求めて、ロウズ・シアターの宣伝担当者ニルス・グランランドに近づいた。グランランドはプロデューサーのハリー・リッチモンドの舞台に出演させることでクロフォードの身分を安定させ、さらにはスクリーン・テストを受けさせるために、クロフォードをハリウッドのプロデューサーであるハリー・ラッフ (Harry Rapf) のもとへと送った[17]。当時のクロフォードが、家計の足しにするためにポルノ映画への出演やヌードモデルをしていたという根強い噂があるが[16]、この噂の真偽ははっきりとしていない[18]。1924年12月24日にラッフはグランランドに、メトロ・ゴールドウィン・メイヤー (MGM)が、週給75ドルでクロフォードと契約したいと申し出ていることを伝えた。グランランドはすぐさま電話をかけ、カンザスシティに帰省していたクロフォードにこの話を伝えている。クロフォードはハリウッドまでの旅費400ドルを借金でまかない[19]、12月26日にカンザスシティを離れ、MGMの本社があるカリフォルニア州カルヴァーシティに到着したのは1925年1月1日のことだった。

クロフォードが初めて映画に出演したのは、1925年の『サークル (The Circle)』で、引き続きザス・ピッツ (ZaSu Pitts) 主演作品『美人帝国 (Pretty Ladies)』にも出演した。ほかにこの年には『The Only Thing』と『古着屋クーガン (Old Clothes)』にも端役で出演している。このときのクロフォードは本名のルシール・ルスールを名乗っていた。MGMの広報責任者ピート・スミス (Pete Smith) はクロフォードの才能に気づいていたが、「ルシール・ルスール」という名前の響きがよくないと感じており、製作総責任者のルイス・B・メイヤーに「下水管 (Le Sewer)」とに聞こえると話したことがある。スミスは公募でクロフォードの芸名を決めることにし、雑誌『ムービー・ウィークリー』で読者アンケートを募った。そしてクロフォードの芸名は「ジョーン・アーデン」に決まりかかったが、同名の女優がいることが分かり、「ジョーン・クロフォード」が芸名として選ばれた[20]。当初クロフォードは名前を「ジョアン」と発音されることを望んでいた。また「クロフォード」という姓が「ザリガニ (crawfish)」みたいに聞こえるとして嫌っていた。クロフォードと仲がよかった俳優のウィリアム・ヘインズは「みんなは君のことを“クランベリー”って呼んで、感謝祭には七面鳥といっしょにテーブルに出すんだよ」とまぜっかえしている[21]。クロフォードはその生涯を通じて「ジョーン・クロフォード」という芸名を嫌いぬいたが「この名前が私を守ってくれたのも間違いない」と語っている[22]

実を結んだ自己アピール

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自身に割り当てられる役柄が端役で、つまらない役ばかりだったために苛立ちをつのらせていたクロフォードは、自分から積極的に売り込んでいくことを決心した。MGMの脚本家フレデリカ・サガー (Frederica Sagor Maas) は「誰もジョーンをスターにしようとは思っていなかった。ジョーンがスターになったのは、ジョーンがスターになると決めたから」と振り返っている[23]。午後にダンスを練習し、夜はハリウッド周辺のホテルで開催されていたチャールストン・ダンスやブラックボトム・ダンス (Black Bottom) の大会で優勝して顔を売っていった[24]

『四つの壁』(1928年)で共演したジョン・ギルバートとクロフォード。

クロフォードの自己アピールは実を結び、1925年のエドマンド・グールディング監督作品『三人の踊子 (Sally, Irene and Mary)』で、主役の一人である売れないコーラスガールのアイリーンを演じて観客の目を引いた。また、この年にはノーマ・シアラーの主演作品『夜の女 (Lady of the Night)』にも出演している。この作品での役割はシアラーのボディダブルで、クロフォードの顔が映し出される場面はごくわずかしかない。クロフォードはシアラーが演じる役柄を切望していたが、MGMで絶大な権限を持っていた大物プロデューサーであるアーヴィング・タルバーグと結婚していたシアラーが一番に優遇されるのは当然のことだった。クロフォードは「どうやったってノーマには勝てっこないわ」「彼女はボスと寝てるのよ」とこぼしている[25]

翌1926年にクロフォードは、メアリー・アスター、メアリー・ブライアン (Mary Brian)、ドロレス・コステロドロレス・デル・リオジャネット・ゲイナーフェイ・レイらとともに、WAMPAS (Western Association of Motion Picture Advertisers) が選ぶ13名のスター候補 (WAMPAS Baby Stars) の一人に選出されている。クロフォードが1926年に出演した作品には『巴里 (Paris)』がある。クロフォードは、当時のMGMの看板俳優であるラモン・ノヴァロ、ウィリアム・ヘインズ、ジョン・ギルバート、ティム・マッコイ (Tim McCoy) らに恋心を抱くようになっていった。クロフォードは『知られぬ人』(1927年)でロン・チェイニーと共演した。チェイニーはナイフ投げ芸人のアロンソ、クロフォードは半裸でナイフ投げの的をつとめるアシスタントで、アロンソとの結婚を夢見るナノンを演じた。クロフォードは自身の女優としてのキャリアのなかで、チェイニーの演技から学んだことが何よりも大きかったとしている。「そのときが初めてでした」「カメラの前に立つこととカメラの前で演技することの違いに気づいたのは」と語っている[26]。また、この1927年には『Spring Fever』で親友のウィリアム・ヘインズと最初の共演を果たしている。

クロフォードは1928年の『シンガポール (Across to Singapore)』で、ラモン・ノヴァロの相手役を演じている。そして同年の『踊る娘達』のダイアナ・メッドフォード役で、クロフォードは一躍スター女優の座を手に入れた。クロフォードはこの作品で、1920年代の流行の最先端をいく女優というイメージを確立し、ハリウッドでもっとも有名なフラッパーとなったのである。『踊る娘達』の後の作品も大ヒットを続け、クロフォードを崇拝する大勢のファンが生まれた。ファンの大部分は女性であり、クロフォードはアメリカ全土における自由奔放な女性の象徴に祭り上げられていった。アメリカの小説家F・スコット・フィッツジェラルドは、クロフォードについて次のように述べている。

ジョーン・クロフォードは間違いなく本物のフラッパーの見本だ。とびきり洗練された格好でナイトクラブを楽しみ、氷の入ったグラスをもてあそぶ。わずかに不機嫌そうな様子でダンスに興じ、目を見開いて大声で笑ったかと思うと、傷ついたような目をして惑わせる。人生を楽しむ才能にあふれた女性だよ[27]

1929年6月3日に、クロフォードは俳優の礼拝堂と呼ばれるマンハッタンの聖マラキ・ローマカトリック教会で、俳優ダグラス・フェアバンクス・ジュニアと結婚式を挙げた。その名の通りにこの教会はローマ・カトリック教会だが、クロフォードもフェアバンクスもカトリック信者ではなかった[28]。フェアバンクスは俳優ダグラス・フェアバンクス・シニアの息子で、女優のメアリー・ピックフォードの義息にあたる。フェアバンクス・シニアとピックフォードはこの結婚に反対で、結婚後八カ月にわたって二人を自分たちの邸宅「ピックフェア (Pickfair)」に招くことはなかった。後にクロフォードとフェアバンクス・シニアの関係は修復され、クロフォードはフェアバンクス・シニアを「ダグおじさま (Uncle Doug)」、フェアバンクス・シニアはクロフォードを幼いときの愛称だった「ビリー」と呼び合う仲になっている[29]。初めてフェアバンクス・シニアの邸宅に招き入れられて以来、二人はよくフェアバンクス・シニアの邸宅を訪れるようになったが、このことはクロフォードには苦痛だった。フェアバンクス親子がゴルフにでかけると、クロフォードはピックフォードと二人きり、あるいは一人で留守番をしなければならなかった[30]

クロフォードには南部訛りがあり、自身の言葉遣いや口調の矯正に根気よく取り組んでいた。

当時の私は台詞の練習をするときに、自分自身に語りかけるように読み上げていました。耳に入ってくる自分の声の抑揚や発声を注意して聞き取ったりしながら、正しい言葉遣いを学ぶのがいいやり方だと思っていたのです。部屋に鍵をかけて閉じこもり、新聞、雑誌、書籍を声を出しながら読みました。手元にはいつも辞書を置いていました。発音が分からない単語が出てくると辞書を引き、正確な発音を15回ほど繰り返したものです[31]

フェアバンクス・ジュニアと結婚した1929年に、クロフォードは最後のサイレント映画となる『Our Modern Maidens』に出演し、最初のトーキー映画となる『花嫁修業 (Untamed)』でロバート・モンゴメリーと共演している。『花嫁修業』の興行成績は目ざましく、クロフォードのトーキー映画への移行は成功を収めた。

映画界の女王と人気の低下

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1932年に撮影されたクロフォードの宣材写真。

1930年に公開された初期のトーキー映画『モンタナの月』で、ジョニー・マック・ブラウン (Johnny Mack Brown) の相手役を演じたクロフォードは大成功を収め、新たなトーキー映画の時代でもスター女優であることを証明した。続いてロバート・モンゴメリーと競演した『デパートの横顔 (Our Blushing Brides)』も大ヒットしている。これらの映画は、サイレント映画時代にクロフォードの代名詞となっていたフラッパー女優としてではなく、クロフォードをより洗練された女優として売り出そうとするMGMの意向で製作されたものだった[32]

クロフォードは1931年の『蜃気楼の女』で、クラーク・ゲーブルの相手役をつとめた。撮影中にクロフォードとゲーブルは関係を持つようになったが、製作総責任者のルイス・B・メイヤーがゲーブルに最後通告を突きつけたために二人の関係は終わっている。この『蜃気楼の女』は公開と同時に大ヒットした。

『蜃気楼の女』に引き続いて、クロフォードは『グランド・ホテル』(1932年)に出演した。この作品は世界初のオールスター・キャストの映画作品として知られており、出演者は当時のMGMの看板スターだったグレタ・ガルボジョン・バリモアウォーレス・ビアリーといった俳優陣だった。『グランド・ホテル』は1932年度のMGMでもっとも興行成績を揚げた作品であり、第5回アカデミー作品賞を受賞している。この年に『モーション・ピクチャー・ヘラルド誌』が実施した「もっとも興行成績をあげられるスター」の投票企画で、クロフォードはマリー・ドレスラージャネット・ゲイナーに続く3位となっている。ドレスラーは1931年に、ゲイナーは1928年に、それぞれアカデミー主演女優賞を獲得していた女優だった。

クロフォードは続く『令嬢殺人事件』(1932年)でも成功を収めた。しかしながら公開後間もなくして、この映画のあらすじが他の作品からの盗作ではないかという声が上がり、MGMは『令嬢殺人事件』の公開中止を余儀なくされた。この『令嬢殺人事件』はTV放映されたことがなく、ビデオ作品としてもリリースされていないために、クロフォードの幻の作品となっている。『令嬢殺人事件』でクロフォードが演じたレティ・リントンが着用した、衣装担当のエイドリアン (Adrian) のデザインによるドレスは「レティ・リントン・ドレス」と呼ばれて大きな注目を集めた。肩に大きなフリルのついた白いコットンオーガンジーのこのドレスを、ニューヨークの百貨店メイシーズがレプリカとして1932年に販売し、アメリカ全土で500,000着以上売れている。次作の『』(1932年)はジョン・コルトン (John Colton) が脚本を担当した映画である。サマセット・モームの短編小説を原作とする『雨』は、過去に何度か舞台化、映画化された作品だった。クロフォードが演じた、したたかだが傷つきやすい娼婦サディ・トンプソン役は、舞台でジーン・イーグルス (Jeanne Eagels)、サイレント映画でグロリア・スワンソンらが過去に演じている。しかしながらクロフォードのサディ・トンプソン役は評判がよくなく、作品の興行的にも失敗作となっている[33]

1933年5月に、クロフォードはフェアバンクス・ジュニアと離婚した。クロフォードは「心にこの上ない大きな傷を負った」とし、フェアバンクス・ジュニアがクロフォードの友人たちに対して「嫉妬と猜疑の目を向け」「とるに足らない些細なことで、私を一晩中大声で責め立てた」と主張している[34]。フェアバンクス・ジュニアと離婚したクロフォードは『ダンシング・レディ』(1933年)で再びクラーク・ゲーブルと共演した。まだ映画界では無名だったころのフレッド・アステアも出演しているこの作品の出演者の中で、クロフォードはもっとも出演料が高額な俳優だった。次作『蛍の光 (Sadie McKee)』ではジーン・レイモンド (Gene Raymond)、フランチョット・トーンと共演している。この年のクロフォードとクラーク・ゲーブルとの共演はこの後も続き、『私のダイナ』(1934年)で5本目、『結婚十分前』(1934年)で6本目の共演となっている。

1935年にクロフォードは『蛍の光』でも共演した、ニューヨーク出身の舞台俳優フランチョット・トーンと結婚した。クロフォードとトーンは『今日限りの命』(1933年)で初共演し、すぐに意気投合した。ただし、当時のクロフォードはフェアバンクス・ジュニアと離婚したばかりで、新たな恋愛には二の足を踏んでいたともいわれている[35]。結婚した二人は、クロフォードの自宅があったカリフォルニア州ブレントウッドに小さな劇場を建て、仲間うちで古典劇を上演して楽しんだ[36]。クロフォードは結婚する以前からトーンのハリウッドでの俳優活動を支援、宣伝していたが、トーンは映画にはほとんど興味がなかったために、クロフォードも最後には諦めている[37]。その後トーンは酒浸りとなり、クロフォードに暴力を振るうようになっていった。トーンとの結婚生活に耐えられなくなったクロフォードは離婚調停を申請し、1939年にこの申請が認められた[38]。後にクロフォードとトーンは和解し、1964年にトーンがクロフォードに再び求婚したこともあった。1968年にトーンが死去したときには、クロフォードが火葬の手配をし、遺灰をカナダのマスコカ湖に散骨した[39]

1936年にクロフォードは『豪華一代娘』に、マーガレット・オニール・イートン (Margaret O'Neill Eaton) 役で出演し、ロバート・テイラーや当時はまだ夫だったフランチョット・トーンと共演した。興行成績は普通であり、MGMが期待したほどのヒットとはならなかった。また、この年にはクラーク・ゲーブルとの共演作『空駆ける恋』も公開されている。クロフォードが出演する作品の興行成績は概ね好調を続けていたが、クロフォード自身の人気は緩やかに落ち込んでいった。1937年にクロフォードは、雑誌『ライフ』で「映画界の女王」の称号で呼ばれているが、大衆からの人気の衰えは止まらなかった[40]。1937年の夏には、クロフォードが出演する映画の興行成績順位が7位から40位に落ち込んでいる[40]。1937年の『花嫁は紅衣装』は、その年のMGM最大の失敗作となってしまっている。1938年5月に雑誌『インディペンデント・フィルム・ジャーナル』は、グレタ・ガルボキャサリン・ヘプバーンフレッド・アステアノーマ・シアラーマレーネ・ディートリヒらと並んで、クロフォードを出演料が高く人気がある割には興行成績に貢献しない俳優 (Box Office Poison) として記事にした[41]

ザ・ウィメン』(1939年)の予告編。

クロフォードは1939年の『ザ・ウィメン』に、浮気相手の家庭を壊すクリスタル・アレン役で出演した。1940年の『Strange Cargo』は、8本目にして最後となるクラーク・ゲーブルとの共演作品となった。1941年の『女の顔』では、顔に醜い傷跡を持つ恐喝者アンナ・ホルム役を演じた。この映画は1938年に公開されたスウェーデン映画のリメイク作品で、このときのアンナ・ホルム役はハリウッド進出前の若きイングリッド・バーグマンが演じていた[42]

クロフォードが最初の養子となる娘を引き取ったのは1940年のことである。当時のクロフォードは独身であり、カリフォルニアの州法では養子をとることはできなかったために、クロフォードはラスベガスの代理人経由で養子縁組を成立させた。この娘はジョーンという名前で呼ばれていたが、クロフォードが引き取ったときにクリスティーナ (Christina) という名前に改名している。その後クロフォードは6カ月の交際期間を経て、1942年7月21日に俳優フィリップ・テリー (Phillip Terry) と結婚した[43]。クロフォードとフィリップは二人目となるとなる養子をとり、クリストファーと名付けた。しかしながらクリストファーが生みの親のもとに戻されたために二人は別の養子を迎え、フィリップ・テリー・ジュニアと名付けた。しかしながら、1946年にクロフォードとフィリップは離婚したために、養子のフィリップ・テリー・ジュニアはクリストファー・クロフォードに改名している。

MGMと契約を結んでから18年後の1943年6月29日に、クロフォードとMGMは双方合意のもとで契約を終了した。このとき映画の製作契約がクロフォード側に数本分残っていたために、MGMはクロフォードに100,000ドルの違約金を支払っている。第二次世界大戦中にクロフォードはアメリカ女性志願兵 (American Women's Voluntary Services) の一員に加わっている[44]

ワーナー・ブラザースへの移籍

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新たな環境を求めてMGMとの契約を終了したクロフォードは、1943年7月1日にワーナー・ブラザースと500,000ドルで3本の映画出演契約を結び、ワーナー・ブラザースの女優となった。クロフォードがワーナー・ブラザースで最初に出演した映画は1944年の『ハリウッド玉手箱 (Hollywood Canteen)』である。第二次世界大戦時のアメリカ軍の士気向上を目的として製作されたこの作品には、クロフォードをはじめ当時のトップスターたちが多数カメオ出演している。クロフォードはワーナー・ブラザースに移籍した大きな理由の一つとして、イーディス・ウォートン (Edith Wharton) が1911年に書いた小説『イーサン・フローム (Ethan Frome)』を1944年に映画化する予定で、そのマッティ役をワーナー・ブラザースから提示されたからだと語っている。

ミルドレッド・ピアース』1945年)の予告編。この作品のミルドレッド・ピアース役で、クロフォードはアカデミー主演女優賞を獲得した。

クロフォードはジェームズ・M・ケインの小説を原作とした『ミルドレッド・ピアース』(1945年)の主役を熱望していたが、ワーナー・ブラザースが主役ミルドレッド・ピアースに考えていたのはベティ・デイヴィスだった。しかしながらデイヴィスはこの役を断った。監督のマイケル・カーティスはクロフォードがミルドレッド役に相応しいとは思っておらず、デイヴィスの代役としてバーバラ・スタンウィックオリヴィア・デ・ハヴィランドジョーン・フォンテインなどの女優を希望していた。最終的にはワーナー・ブラザースがカーティスの主張を押し切って、ミルドレッド役にクロフォードを起用することを決定した。カーティスはクロフォードに対して、スクリーンテストを受けて自分がミルドレッド役に相応しいことを証明するよう求めている。そしてテストの結果を確認したカーティスは、クロフォードのミルドレッド役への起用を認めた。しかしながら『ミルドレッド・ピアース』の撮影中も監督カーティスはクロフォードに批判的で、両者の間には緊張感がただよっており、プロデューサーのジェリー・ウォルドがいつもなだめ役に回っていた.[45]。カーティスはジャック・L・ワーナーに向かって「彼女(クロフォード)は鼻持ちならない気取った様子で、肩パッドをつめこんだ忌々しい格好をしてスタジオにやってくるんですよ。こんな映画の監督をやるなんて時間の無駄にすぎません」と愚痴ったことがある[46]。クロフォードの共演陣は、ジャック・カーソン、ザカリー・スコット (Zachary Scott)、イヴ・アーデン (Eve Arden)、アン・ブライス、バタフライ・マックイーン (Butterfly McQueen) だった。『ミルドレッド・ピアース』は大評判となり、興行的にも成功した。クロフォードも「キャリア最高の演技を見せつけた」と高く評価されている[47]。『ミルドレッド・ピアース』はアカデミー賞に6部門でノミネートされ、クロフォードは初のノミネートでアカデミー主演女優賞を獲得した。クロフォードはさらにこの作品でナショナル・ボード・オブ・レビュー主演女優賞も受賞している[48]

『ミルドレッド・ピアース』の大成功は、クロフォードの女優としての評価を蘇らせた。その後の数年間、クロフォードはハリウッドでもっとも尊敬され、成功した女優として君臨していた。1946年にクロフォードは、中年女性と若い男性との恋愛を描いた『ユーモレスク』でジョン・ガーフィールドと共演した。ヴァン・ヘフリンと共演した1947年の『失われた心』で演じたルイーズ・ハウエル役で、クロフォードは2度目のアカデミー主演女優賞にノミネートされている。『哀しみの恋』(1947年)ではダナ・アンドリュースヘンリー・フォンダと共演し、ザカリー・スコット、デイヴィッド・ブライアン (David Brian) と共演した『美しさゆえに (Flamingo Road)』(1949年)では、カーニヴァル・ダンサー役を演じた。また、ドリス・デイが主演した『It's a Great Feeling』(1949年)には全編にわたって、エロール・フリンゲイリー・クーパーエドワード・G・ロビンソンら当時の人気スターが多くカメオ出演しており、自身に扮したクロフォードも見ることができる。1950年にクロフォードはフィルム・ノワール作品『悪党は泣かない (The Damned Don't Cry!)』でデイヴィッド・ブライアン、スティーヴ・コクラン (Steve Cochran) と共演し、『ハリエット・クレイグ (Harriet Craig)』ではウェンデル・コリー (Wendell Corey) と共演した。

クロフォード自身が「最悪」と評した映画『This Woman Is Dangerous』(1952年)が完成すると、クロフォードはワーナー・ブラザースへ契約解除を申し入れた。これは、すでにワーナー・ブラザースがクロフォードへの興味を失っており、自身の女優としてのキャリアからしても移籍したほうがいいと考えたためだった。同年に出演したRKO作品『突然の恐怖』(1952年)のマイラ・ハドソン役で、クロフォードは3度目にして最後となるアカデミー主演女優賞にノミネートされている。1953年に最後のMGMでの作品となる『Torch Song』で、ブロードウェイのミュージカルスターであるジェニー・スチュワート役を演じた。この作品は好評を博し、興行成績もまあまあだった。クロフォードの演技も「生気にあふれ、刺激的だ。激しくもあり、女性的でもある。ジョーン・クロフォードの全てがとらえられている」と評価されている[49]

クロフォードは1947年に、シンディとキャシーという名前の双子と養子縁組した[50]

ラジオ番組とテレビ番組

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クロフォードは1939年1月8日に「スクリーン・ギルド・シアター (The Screen Guild Theater)」というラジオ番組に出演した。その他、1940年の「ライト・アウト (Lights Out)」、1941年の「みんなの劇場 (Everyman's Theater)」、1948年の「ラックス・ラジオ・シアター (Lux Radio Theater)」、「ドキュメント A/777」など複数のラジオに出演経験がある。また、俳優のエピソードを紹介するアンソロジーテレビ番組「パイロット・エピソード」で特集された1959年の「ジョーン・クロフォード・ショウ」にゲストで出演した。

アルフレッド・スティールとペプシコ社

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1955年5月10日にクロフォードは、ラスベガスのフラミンゴ・ホテルでアルフレッド・スティール (Alfred Steele) と結婚式を挙げた[51]。クロフォードとスティールが出会ったのは1950年に開かれたパーティの会場で、当時のスティールはペプシコ社の重役だった。二人は1954年の年越しパーティでさらに親密になっていった。このときのスティールはペプシコ社の社長になっていた[52]。後にスティールはペプシコ社の会長兼最高経営責任者となっている。結婚後のクロフォードは、ペプシコ社の代表として各地を訪れた。クロフォードがペプシコ社の社用で旅した距離は、およそ100,000マイルだといわれている[53]

スティールは心臓麻痺で1959年に死去した。未亡人となったクロフォードに、ペプシコ社は当初、もう社用に関わる必要はないと告知していた。しかしながらクロフォードがコラムニストのルエラ・パーソンズにペプシコ社とのいきさつを話すと、ペプシコ社は前言を撤回してクロフォードをもとの地位に戻し、取締役会は空席となっていた役員の席をクロフォードに与えた[54]

クロフォードは年に1回の「パリー賞 (Pally Award)」を、ペプシコ社から6度受賞している。ブロンズのペプシコーラのボトルをトロフィーとしたこの賞は、販売成績にもっとも貢献した従業員に贈られるペプシコ社の社内褒賞である。1973年にクロフォードはペプシコ社の幹部職員ドナルド・M・ケンドールからの勧告でペプシコ社からの引退を余儀なくされた。ケンドールは数年来クロフォードのことを「毒牙」と評していた人物だった[55]

後半生

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1952年の『突然の恐怖』でアカデミー主演女優賞にノミネートされて以降も、クロフォードは数十年間にわたって女優の仕事を続けていた。1954年の西部劇大砂塵』ではスターリング・ヘイドンと共演している。その後クロフォードはいわゆるB級映画メロドラマにも出演しているが、評価も興行成績も芳しくない作品もあった。1955年の『Female on the Beach』でジェフ・チャンドラー (Jeff Chandler) と、同年の『Queen Bee』ではジョン・アイアランドと、それぞれ共演している。1956年には『枯葉』でクリフ・ロバートソン、1957年には『光は愛とともに (The Story of Esther Costello)』でロッサノ・ブラッツィと共演した。スティールと死別後、ほぼ全財産を使い果たしていたクロフォードは[56]、『大都会の女たち (The Best of Everything)』(1959年)のアマンダ・ファロウのような端役も引き受けるようになっていった。映画スターとはいわれなくなったクロフォードだったが、その演技に対する評価は高かった。しかしながら1960年代前半には、クロフォードの映画界での地位や名声は大きく低下していた。

何がジェーンに起ったか?』(1962年)の予告編。クロフォードはブランチ・ハドソン役を演じた。

クロフォードは『何がジェーンに起ったか?』(1962年)に出演し、以前はきわめて人気の高い映画スターだったが、現在では事故のために車椅子生活を送っているブランチ・ハドソン役を演じた。精神障害者の妹との確執を描いたこの心理スリラー作品は非常に高い評価を得た。当初のクロフォードはこの役にあまり乗り気ではなかったが、自身の相手役となる妹ジェーン役にベティ・デイヴィスを推したといわれている。監督のロバート・アルドリッチは、デイヴィスもクロフォードもこの映画がいかに自分たちのキャリアで重要な作品であるかを理解していたとし「二人がお互いを心から嫌いあっていたことは間違いない。だが二人とも本当に完璧な立ち居振る舞いをみせた」とコメントしている[57]。撮影が終わると互いにとどまるところを知らない悪口を公言しあうようになり、結局この二人の仲は終生悪いままとなってしまった。『何がジェーンに起ったか?』は大ヒットし、アメリカ全土での公開後わずか11日間で製作費用を全額回収した。第35回アカデミー賞ではベティ・デイヴィスが主演女優賞にノミネートされたほか、助演男優賞撮影賞(モノクロ)衣装デザイン賞(モノクロ)音響賞にノミネートされている。第35回アカデミー賞において、主演女優賞にノミネートされなかったジョーン・クロフォードは、ベティ・デイヴィスの受賞への反対活動を行った[58][59]。また、同賞の授賞式に「監督賞のプレゼンター役」で出演し、さらに、演劇に出演中であって授賞式に出演できなかった受賞者アン・バンクロフト(『奇跡の人』で受賞)の代理人として、オスカー像を手にした[58][60]

1964年にクロフォードは、ウィリアム・キャッスルが監督したホラー・ミステリー『血だらけの惨劇』にルーシー・ハービン役で出演した。同年に『何がジェーンに起ったか?』の監督ロバート・アルドリッチが、『ふるえて眠れ』で再びクロフォードとベティ・デイヴィスを共演させようとした。しかしながら、ルイジアナ州での撮影中にクロフォードがデイヴィスから嫌がらせを受け続けたといわれており、クロフォードはハリウッドに引き返してそのまま入院してしまった。クロフォードは長期間にわたって撮影現場に復帰せず、自分は病気だと言い張り続けた。結局アルドリッチはクロフォードを降板させ、代役にオリヴィア・デ・ハヴィランドを起用している。クロフォードはこの知らせに大きく憤慨し「私は配役の交代を、病院のベッドに横たわりながらラジオで知った」そして「9時間もの間泣き続けた」と語っている[61]。クロフォードは生涯デイヴィスとアルドリッチに恨みの念を持っており、アルドリッチのことを「邪悪で身の毛がよだつ下品なものを愛する男」だと非難し、アルドリッチも「だから私はミス・クロフォードを心から愛しているのか」と返している[62]

テレビドラマ『四次元への招待』出演時のクロフォード。1969年撮影。

クロフォードは1965年にジョン・アイアランドとウィリアム・キャッスル監督のスリラー映画『I Saw What You Did』で共演した。1967年にはホラー・スリラー映画『姿なき殺人』のモニカ・リヴァース役を演じている。『姿なき殺人』公開後に、クロフォードはテレビコメディドラマ『ルーシー・ショー』に自分自身の役でゲスト出演した。クロフォードが出演したエピソードは第87話「かわいそうなスター?」で、1968年2月26日に放映されている。番組のリハーサルが開始されたときに、クロフォードは最初から多量の酒を口にしており、もめ事を起こし続けた。このため『ルーシー・ショー』の主役ルシル・ボールは、クロフォードを降板させてグロリア・スワンソンを代役に起用すべきだと言い出す始末だった。しかしながら本番が始まると、クロフォードは台詞回しを始め番組を完璧にやり通した。チャールストンも踊りこなし、スタジオの観客から二度のスタンディング・オベーションを受けている[63]

1968年10月に、ニューヨークでCBS放送のソープオペラ『シークレット・ストーム (The Secret Storm)』に出演していた、クロフォードの義娘で当時29歳のクリスティーナが卵巣嚢胞破裂のために緊急入院した。このときクロフォードはクリスティーナが復帰するまで代役を務めることをテレビ局に申し入れ、プロデューサーのグロリア・モンティもこの提案を直ちに受け入れた。クロフォードはリハーサルこそ無難にまとめあげたが、本番撮影になると平静を失ってしまった。このため、ディレクターとプロデューサーは撮影フィルムから放映に耐えうるシーンを抜粋して切り貼りする編集作業に苦労することとなった[64]。クロフォードは1969年にテレビ映画『四次元への招待』のパイロット版に出演した。『四次元への招待』はスティーヴン・スピルバーグが監督を務めた最初期の作品の一つとしても知られている。ほかにクロフォードは、1970年1月30日に放映されたシットコム『ティム・コンウェイ・ショー (The Tim Conway Show)』のパイロット版第一話に、本人役でカメオ出演している[65]

クロフォードが出演する最後の映画作品となったのが、1970年のSFホラー作品『地底の原始人・キングゴリラ』である。クロフォードは女優としての45年間のキャリアで、90本以上の映画に出演した。映画からは引退したクロフォードだったが、テレビ番組にはこの後も出演している。西部劇ドラマ『バージニアン』の1970年に放映されたエピソード「ナイトメア」でのステファニー・ホワイト役と[66]、『シックス・センス (The Sixth Sense)』の1972年に放映されたエピソード「Dear Joan: We're Going to Scare You to Death」で[67]、この『シックス・センス』がクロフォードの最後の演技となった。

最晩年

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1970年にクロフォードはゴールデングローブ賞セシル・B・デミル賞を受賞した。クロフォードへのプレゼンターをジョン・ウェインがつとめ、ロサンゼルスのアンバサダーホテルで開催されたこの授賞式はテレビ放映されている。クロフォードはこのときの受賞スピーチで、わずか4カ月しか通わなかったスティーヴンス女子大学の思い出を口にしている。

クロフォードは1962年にジェーン・ケスナーと共著で自叙伝『A Portrait of Joan』をダブルデイ社から出版し、1971年にもサイモン&シュスター社から『My Way of Life』を出版している。両書ともに、出版前に噂されていた低俗な暴露本になるだろうという予想を裏切って、クロフォードの身だしなみ、衣服、運動、食生活などがこと細かに語られた書籍だった。クロフォードの死後、その部屋からジョン・F・ケネディの写真が発見された。ケネディは、1960年の大統領選挙でクロフォードが投票したといわれている政治家だった[68]

1973年9月にクロフォードは、それまで住んでいた部屋 (22-G) から、より狭い隣の部屋 (22-H) へと引っ越した。クロフォードが最後に公の場に姿を見せたのは1974年9月23日で、ニューヨークのレインボールームで開催された、クロフォードの旧友ロザリンド・ラッセルの記念パーティでのことだった。翌日の新聞に掲載されたこのパーティの模様を撮影した写真には、クロフォードの容貌の衰えがはっきりと写しだされていた。写真をみたクロフォードは「こんな私の姿を誰が見たいと思うでしょう」と語ったという[69]。これ以降、クロフォードはあらゆる公式の場への出席を断り、自宅に引きこもるようになっていった。歯の状態が悪くなったことに起因する口腔手術を受けて1972年から1975年半ばまで、ほぼ24時間体制の看護が必要になったこともあった。この時期クロフォードは抗生物質治療を受けていたが、1974年10月に酒を飲んで気を失い、顔を強打した。この事故のためにクロフォードは酒とタバコを止めている。ただしクロフォードは酒とタバコを止めたのはクリスチャン・サイエンスに帰依したためだと公言した。この事故でクロフォードと保険会社がやりとりした書簡が、ニューヨーク公共図書館の芸術コレクション (New York Public Library for the Performing Arts) に保管されている[70]

死去

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TCL・チャイニーズ・シアターの前庭に設置されているクロフォードのサイン、手形、足形。(1929年9月14日付)

クロフォードは1977年5月8日に、それまで可愛がっていたプリンセス・ロータス・ブロッサムという名前のシーズー犬を、しっかりと面倒を見ることができなくなったとして、他者に譲り渡した[71]。クロフォードが心臓麻痺により、マンハッタンの自宅で死去したのはそれから二日後のことで、膵臓がんにも罹病していたといわれている[53]。クロフォードの葬式は、1977年5月13日にマンハッタンのフランク・E・キャンベル葬儀場で行われた。1976年10月28日に作成された遺書により、クロフォードが残した2,000,000ドルの遺産から、養子4名のうち年少のシンディとキャシーにそれぞれ77,500ドルが贈与された。しかしながら、年長の養子であるクリスティーナとクリストファーには遺産相続権が剥奪されていた。クロフォードの遺書には「息子クリストファーと娘クリスティーナに遺すものはなにもありません。理由は二人が一番よく知っているはずです」と書かれていた。シンディとキャシーの相続分を除くクロフォードの遺産がどうなったかは公表されていない[72]

1977年5月16日に、ニューヨークのオールソウルズ・ユニテリアン教会でクロフォードの死を悼む祈念式典が開かれた。参列者の中には、クロフォードの旧友だった女優マーナ・ロイの姿もあった。6月24日には、映画監督ジョージ・キューカーが主催した祈念式典が、ビバリーヒルズ映画芸術科学アカデミーにあるサミュエル・ゴールドウィン・シアターで挙行されている。クロフォードの遺骨はニューヨークのハーツデイルにあるファーンクリフ墓地の、最後の夫であるアルフレッド・スティールの墓に合葬された[73]

ハリウッド大通りにあるTCL・チャイニーズ・シアターの前庭にはハリウッドに多大な貢献をした業界人たちのサインや手形のタイルがあり、クロフォードのサイン、手形、足型のタイルもこの前庭に置かれている。また、ハリウッド・ウォーク・オブ・フェームのヴァイン通り1750には、クロフォードのスター・プレートが設置されている。男性誌『PLAYBOY』は、1999年に「20世紀でもっともセクシーな女性 100」の84位にクロフォードを選定した。

なお、2017年に放送されたテレビシリーズ『フュード/確執 ベティ vs ジョーン』では、「何がジェーンに起ったか?」を中核としたクロフォードとのデイヴィスとの対立する人生が描かれ、ジェシカ・ラングがクロフォード役を演じた。

『親愛なるマミー』

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クロフォードと養子クリストファー。1951年撮影。クロフォードには、年長の養子であるクリスティーナとこのクリストファーに対する児童虐待の疑いがもたれている。

クロフォードが死去した翌年の1978年11月に、クロフォードの義娘クリスティーナが『親愛なるマミー―ジョーン・クロフォードの虚像と実像 (Mommie Dearest)』という題名の本を出版した。この本にはクロフォードが養子4人のうち、年長のクリスティーナとクリストファーに肉体的、精神的に虐待を繰り返していたと主張されている。これに対し、ヴァン・ジョンソンアン・ブライスマレーネ・ディートリヒマーナ・ロイシーザー・ロメロ、ダグラス・フェアバンクス・ジュニアら多くのクロフォードの友人や共演者たち、そしてクロフォードの年少の養子であるシンディとキャシーから、本の内容がでたらめで悪意に満ちているという非難の声が巻き起こった[74]。その一方で、ベティ・ハットンヘレン・ヘイズ[75]、ヘイズの息子ジェームズ・マッカーサー (James MacArthur)[76][77]ジューン・アリソン[78]、リズ・スミス (Liz Smith)[76]、レックス・リード (Rex Reed)[76]、ヴィンセント・シャーマン[79]などは、クロフォードが子供たちを虐待しているのを見たことがあると証言している。クロフォードの秘書だったジェリ・バインダー・スミスも、クリスティーナの書いた本は事実に基づいていると認めている[80]

『親愛なるマミー―ジョーン・クロフォードの虚像と実像』はベストセラーとなり、1981年にはフェイ・ダナウェイをクロフォード役に配して『愛と憎しみの伝説』という題名で映画化された。

出演作品

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サイレント映画

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公開年 # 邦題
原題
役名 製作会社
1925年 1 『夜の女』
Lady of the Night
ノーマ・シアラーボディダブル[81] メトロ・ゴールドウィン・メイヤー
2 Proud Flesh サンフランシスコ・ガール[81]
3 『モダン結婚』
A Slave of Fashion
マネキン[81]
4 『メリー・ウィドウ』The Merry Widow エキストラ(ボールルームで踊るダンサー)[81]
5 『美人帝国』
Pretty Ladies
ショーガールのボビー[82]
6 『サークル』
The Circle
レディ・キャサリン(若年期)[81]
7 『海軍士官候補生』
The Midshipman
エキストラ[81]
8 The Exquisite Sinner エキストラ[81]
9 『ビッグ・パレード』
The Big Parade
エキストラ[81]
10 ベン・ハー
Ben Hur
エキストラ[81]
11 『古着屋クーガン』
Old Clothes
メアリー・ライリー[82]
12 The Only Thing パーティー客[81]
13 『三人の踊子』
Sally, Irene and Mary
アイリーン
1926年 14 『初陣ハリー』
Tramp, Tramp, Tramp
ベティ・バートン ファースト・ナショナル・ピクチャーズ (First National Pictures)
15 『踊る英雄』
The Boob
ジェーン メトロ・ゴールドウィン・メイヤー
16 『巴里』
Paris
少女
1927年 17 『荒原の勝利者』
Winners of the Wilderness
レネ・コントレクール
18 The Taxi Dancer ジョスリン・ポー
19 The Understanding Heart モニカ・ダール
20 知られぬ人
The Unknown
ナノン
21 『密輸入者の恋』
Twelve Miles Out
ジェーン
22 Spring Fever アリー・モント
1928年 23 West Point ベティ・チャニング
24 en:The Law of the Range ベティ・ダラス
25 『ローズ・マリー』
Rose-Marie
ローズ=マリー
26 『シンガポール』
Across to Singapore
プリシラ・クロウニンフィールド
27 『四つの壁』
Four Walls
フリーダ
28 踊る娘達
Our Dancing Daughters
ダイアナ・メドフォード コスモポリタン・プロダクション
29 Dream of Love アドリエンヌ・ルクヴルール
1929年 30 『若殿頑張る』
The Duke Steps Out
スージー
31 Our Modern Maidens ビリー・ブラウン

‡ フィルムが現存していない

トーキー映画

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公開年 # 邦題
原題
役名 製作会社
1929年 32 ハリウッド・レヴィユー
The Hollywood Revue of 1929[83]
スペシャルティー メトロ・ゴールドウィン・メイヤー
33 『花嫁修業』
Untamed
アリス・"ビンゴ"・ダウリング
1930年 34 『モンタナの月』
Montana Moon
ジョーン・プレスコット
35 『デパートの横顔』
Our Blushing Brides
ジェリー・マーシュ
36 『暴露戦術』
Paid
メアリー・ターナー
1931年 37 『暗黒街に踊る』
Dance, Fools, Dance
ボニー・ジョーダン
38 Complete Surrender アイヴィー・スティーヴンス
39 『笑ふ罪人』
Laughing Sinners
アイヴィー・スティーヴンス
40 This Modern Age ヴァル・ウィンターズ
41 蜃気楼の女
Possessed
マリアン・マーティン
1932年 42 グランド・ホテル
Grand Hotel
フレムヒェン
43 令嬢殺人事件
Letty Lynton
レティ・リントン
44
Rain
サディ・トンプソン ユナイテッド・アーティスツ
1933年 45 今日限りの命
Today We Live
ディアナ・"アン"・ボイス・スミス メトロ・ゴールドウィン・メイヤー
46 ダンシング・レディ
Dancing Lady
ジャニー・ダッチェス・バーロウ
1934年 47 『蛍の光』
Sadie McKee
サディ・マッキー・ブレナン
48 私のダイナ
Chained
ダイアナ・"ダイナ"・ラヴァーリング
49 結婚十分前
Forsaking All Others
メアリー・クレイ
1935年 50 男子牽制
No More Ladies
マーシア・タウンセンド
51 『私の行状記』
I Live My Life
ケイ・ベントレー
1936年 52 豪華一代娘
The Gorgeous Hussy
マーガレット・オニール・イートン
53 空駆ける恋
Love on the Run
サリー・パーカー
1937年 54 真珠と未亡人
The Last of Mrs. Cheyney
フェイ・チェイニー
55 花嫁は紅衣装
The Bride Wore Red
アンニ・パヴロヴィッチ
1938年 56 Mannequin ジェシカ・キャシディ
57 The Shining Hour オリヴィア・ライリー
1939年 58 Ice Follies of 1939 メアリー・マッケイ、別名サンドラ・リー
59 ザ・ウィメン
The Women
クリスタル・アレン
1940年 60 Strange Cargo ジュリー
61 Susan and God スーザン・トレクセル
1941年 62 女の顔
A Woman's Face
アンナ・ホルム
63 When Ladies Meet メアリー・ハワード
1942年 64 They All Kissed the Bride マーガレット・ドリュー コロンビア ピクチャーズ
65 『再会のパリ』
Reunion in France
ミシェル・ド・ラ・ベック メトロ・ゴールドウィン・メイヤー
1943年 66 Above Suspicion フランセス・マイルス
1944年 67 ハリウッド玉手箱
Hollywood Canteen
自身 ワーナー・ブラザース
1945年 68 ミルドレッド・ピアース
Mildred Pierce
ミルドレッド・ピアース
1946年 69 ユーモレスク
Humoresque
ヘレン・ライト
1947年 70 失われた心
Possessed
ルイーズ・ハウエル・グレアム
1948年 71 哀しみの恋
Daisy Kenyon
デイジー・ケニヨン 20世紀フォックス
1949年 72 『美しさ故に』
Flamingo Road
レイン・ベラミー ワーナー・ブラザース
73 It's a Great Feeling 自身
1950年 74 『悪党は泣かない』
The Damned Don't Cry!
エセル・ホワイトヘッド
75 『ハリエット・クレイグ』
Harriet Craig
ハリエット・クレイグ コロンビア映画
1951年 76 Goodbye, My Fancy アガサ・リード ワーナー・ブラザース
1952年 77 This Woman is Dangerous ベス・オースティン
78 突然の恐怖
Sudden Fear
マイラ・ハドソン RKOラジオ・ピクチャーズ
1953年 79 Torch Song ジェニー・ステュアート メトロ・ゴールドウィン・メイヤー
1954年 80 大砂塵
Johnny Guitar
ヴィエンナ リパブリック・ピクチャーズ
1955年 81 Female on the Beach リン・マーカム ユニバーサル・ピクチャーズ
82 Queen Bee エヴァ・フィリップス コロンビア映画
1956年 83 枯葉
Autumn Leaves
ミリセント・ウェザビー
1957年 84 『光は愛とともに』
The Story of Esther Costello
マーガレット・ランディ
1959年 85 『大都会の女たち』
The Best of Everything
アマンダ・ファロウ 20世紀フォックス
1962年 86 何がジェーンに起ったか?
What Ever Happened to Baby Jane?
ブランチ・ハドソン ワーナー・ブラザース
1963年 87 The Caretakers ルクレツィア・テリー ユナイテッド・アーティスツ
1964年 88 血だらけの惨劇
Strait-Jacket
ルーシー・ハービン コロンビア映画
1965年 89 I Saw What You Did エイミー・ネルソン ユニバーサル・ピクチャーズ
1967年 90 姿なき殺人
Berserk!
モニカ・リヴァース コロンビア映画
1970年 91 『地底の原始人・キングゴリラ』
Trog
ブロックトン博士 ワーナー・ブラザース

短編フィルム

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公開年 # 原題 役名 製作会社
1925年 1 MGM Studio Tour 自身[82] メトロ・ゴールドウィン・メイヤー
1925年 2 Miss MGM Miss.MGM[81]
1929年 3 Hollywood Snapshots #11 自身 コロンビア映画
1931年 4 The Slippery Pearls 自身 マスカーズ・クラブ・オブ・ハリウッド
1932年 5 スクリーン・スナップショット
Screen Snapshots
自身 コロンビア映画
1947年 6 The Jimmy Fund 自身
1958年 7 Hollywood Mothers and Fathers 自身
1972年 8 The Dreamer 自身 MDA アソシエーション
1973年 9 A Very Special Child 自身 MDA アソシエーション

アンソロジー

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公開年 # 邦題
原題
役名 製作会社
1964年 1 Four Days in November 自身 デイヴィッド・L・ウォルパー
ユナイテッド・アーティスツ
1964年 2 MGM's Big Parade of Comedy[84] 自身[85] メトロ・ゴールドウィン・メイヤー
1974年 3 ザッツ・エンターテインメント
That's Entertainment!
自身[85]
1984年 4 Terror in the Aisles 自身[85]
1985年 5 That's Dancing! 自身[85]

未完成、途中降板した作品

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公開年 # 邦題
原題
役名 製作会社 備考
1929年 1 『侵略の潮』
Tide of Empire
ジョセフィータ メトロ・ゴールドウィン・メイヤー 途中降板作品、代役ルネ・アドレー
1930年 2 Great Day スージー・トザリッジ メトロ・ゴールドウィン・メイヤー 未完成作品
1930年 3 The March of Time 自身 メトロ・ゴールドウィン・メイヤー 未完成作品
1964年 4 ふるえて眠れ
Hush… Hush, Sweet Charlotte
ミリアム・ディーリング 20世紀フォックス 途中降板作品、代役オリヴィア・デ・ハヴィランド

ゲスト出演したテレビ番組

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放映日時 # 邦題
原題
エピソード名 役名 放送網
1953年9月19日 1 Revlon's Mirror Theater "Because I Love Him" マーガレット・ヒューズ CBS
1954年10月31日 2 General Electric Theater "The Road to Edinburgh" メアリー・アンドリュース CBS
1958年3月23日 3 General Electric Theater "Strange Witness" ルース CBS
1959年1月4日 4 General Electric Theater "And One Was Loyal" アン・ハワード CBS
1959年12月3日 5 Dick Powell's Zane Grey Theater "Rebel Range" ステラ・ファリング CBS
1961年1月12日 6 Dick Powell's Zane Grey Theater "One Must Die" サラ・デイヴィッドソン、メラニー・デイヴィッドソン CBS
1963年10月4日 7 Route 66 "Same Picture, Different Frame" モーガン・ハーパー CBS
1967年3月31日 8 0011ナポレオン・ソロ
The Man from U.N.C.L.E.
"The Five Daughters Affair", Part 1[86] アマンダ・トゥルー NBC
1968年2月26日 9 ザ・ルーシー・ショー
The Lucy Show
"Lucy and Joan Crawford or The Lost Star" 自身 CBS
1968年10月21日 10 The Secret Storm - ジョーン・ボーマン・ケイン #2[87] CBS
1968年10月22日 11 The Secret Storm - ジョーン・ボーマン・ケイン #2[87] CBS
1968年10月24日 12 The Secret Storm - ジョーン・ボーマン・ケイン #2[87] CBS
1968年10月25日 13 The Secret Storm - ジョーン・ボーマン・ケイン #2[87] CBS
1970年1月21日 14 『バージニアン』
The Virginian
"The Nightmare" ステファニー・ホワイト NBC
1970年1月30日 15 『ティム・コンウェイ・ショウ』
The Tim Conway Show
パイロット版 自身 CBS
1972年9月30日 17 『シックス・センス』
The Sixth Sense
"Dear Joan: We're Going To Scare You To Death!" ジョーン・フェアチャイルド ABC

テレビ映画

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放映日時 # 邦題
原題
エピソード名 役名 放送網
1959年 1 The Joan Crawford Show "Woman On The Run"[88] スーザン・コンラッド 未放映
1961年9月21日 2 The Foxes[89] - ミリセント・フォックス NBC
1964年8月8日 3 Della[90] - デッラ・チャペル 地域別
1969年11月6日 4 四次元への招待
Night Gallery[91]
"Eyes" クラウディア・メンロー NBC
1969年11月8日 5 Garbo ドキュメンタリー 自身 BBC
1970年6月15日 6 Journey to the Unknown[92] - 自身 地域別
1971年1月5日 7 Journey to Murder[92] - 自身 地域別
1975年2月2日 8 Easter Island ドキュメンタリー ナレーター PBS
1975年3月18日 9 Scare Her to Death![93] - ジョーン・フェアチャイルド ITV

自叙伝

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  • (1962). A Portrait of Joan: The Autobiography of Joan Crawford. Doubleday. ISBN 978-1-258-17238-1 
  • (1972). My Way of Life. Simon & Schuster. ISBN 978-0-671-78568-0 

注釈

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  1. ^ 公認記録が存在せずクロフォードの出生年は不確かである。1910年の国勢調査は、1910年4月時点で5歳としている[1]。後世の伝記作者たちは1905年、1906年、そして最も信憑性のある年として1904年を挙げているが、クロフォード自身は1908年と主張した(彼女の墓石の日付である)[2][3][4][5][6][7]。クロフォードの娘クリスティーナは1978年の伝記「親愛なるマミー―ジョーン・クロフォードの虚像と実像英語版」の中で2度1904年とはっきり記している。

    公式には出生日は1908年3月23日とされていますが、祖母は実際には1904年生まれだと話してくれました[8]:20

    母は1904年にテキサス州サンアントニオでルシール・ルスールとして生まれましたが、ハリウッドに来た時に年齢をごまかして生年を1908年に変えました[8]:66

  2. ^ 他の情報源では1903年、1905年、1906年、1908年などとしている[注釈 1]

出典

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  1. ^ 1910 United States Federal Census, myheritage.com
  2. ^ Thomas S. Hischak (2008). The Oxford Companion to the American Musical:Theatre, Film, and Television: Theatre, Film, and Television. Oxford University Press. p. 174. ISBN 978-0-19-533533-0. https://books.google.co.jp/books?id=XbBz3C4Gr0EC&pg=PA174&redir_esc=y&hl=ja 
  3. ^ Mark Knowles (2009). The Wicked Waltz and Other Scandalous Dances: Outrage at Couple Dancing in the 19th and Early 20th Centuries. McFarland. p. 233. ISBN 978-0-7864-3708-5. https://books.google.co.jp/books?id=XAzP__xv7CkC&pg=PA233&redir_esc=y&hl=ja 
  4. ^ Liz Sonneborn (2002). A to Z of American Women in the Performing Arts. Infobase Publishing. p. 43. ISBN 978-1-4381-0790-5. https://books.google.co.jp/books?id=Yf2741A_BkYC&pg=PA43&redir_esc=y&hl=ja 
  5. ^ Lawrence J. Quirk; William Schoell (2002). Joan Crawford: The Essential Biography. University Press of Kentucky. p. 1. ISBN 978-0-8131-2254-0. https://books.google.co.jp/books?id=_yQtRavDvtUC&pg=PA1&redir_esc=y&hl=ja 
  6. ^ James Robert Parish (2011). The Hollywood Book of Extravagance: The Totally Infamous, Mostly Disastrous, and Always Compelling Excesses of America's Film and TV Idols. John Wiley & Sons. p. 72. ISBN 978-1-118-03902-1. https://books.google.co.jp/books?id=CJS5RL7eqdsC&pg=PA72&redir_esc=y&hl=ja 
  7. ^ Time magazine (June 23, 1947). LIFE. Time-Life Inc. p. 45. ISSN 0024-3019. https://books.google.co.jp/books?id=N0gEAAAAMBAJ&pg=PA45&redir_esc=y&hl=ja 
  8. ^ a b Christina Crawford (1979). Mommie Dearest. Berkley. ISBN 978-0-425-04444-5 
  9. ^ Donald S. Fracier, Robert F. Pace, and photographer Steve Butman, Abilene Landmarks: An Illustrated Tour, Abilene, Texas: State House Press, 2008, pg. 41
  10. ^ a b Spoto, Donald (2010). Possessed - the Life of Joan Crawford. Harper Collins. pp. 6-14. ISBN 978-0-06-185600-6 
  11. ^ Newquist, pg. 25
  12. ^ a b Denby, David, "Escape Artist, The Case for Joan Crawford", The New Yorker, January 3, 2011.
  13. ^ Thomas, pgs. 23–24
  14. ^ Time Inc (June 23, 1947). LIFE. p. 45. ISSN 0024-3019. https://books.google.co.jp/books?id=N0gEAAAAMBAJ&pg=PA45&redir_esc=y&hl=ja 
  15. ^ Thomas, pg. 30
  16. ^ a b Considine, pg. 12
  17. ^ Granlund, pg. 147
  18. ^ Thomas, pg. 106
  19. ^ Granlund, pg. 135
  20. ^ Thomas, pg. 42
  21. ^ Haines, quoted in Thomas, pg. 43
  22. ^ Crawford, quoted in Newquist, pg. 31
  23. ^ Maas, quoted in LaSalle, pg. 123
  24. ^ Thompson, pg. 47
  25. ^ Crawford, quoted in LaSalle, pg. 120
  26. ^ Crawford, quoted in Skal, pg. 73
  27. ^ Fitzgerald, quoted in Thomas, pg. vii
  28. ^ “Joan Crawford Weds in the East”. Jefferson City MO Daily Capital News. (June 4, 1929) 
  29. ^ Thomas, pg. 80
  30. ^ Thomas, pg. 63
  31. ^ Crawford, quoted in Thomas, pg. 65
  32. ^ Hay, Peter (1991), MGM: When the Lion Roars, Atlanta: Turner Publishing, Inc., p. 72, ISBN 1-878685-04-X 
  33. ^ Leese, pg. 18
  34. ^ “Time Magazine”. (March 8, 1933). http://www.time.com/time/magazine/article/0,9171,745463,00.html February 10, 2009閲覧。 
  35. ^ Thomas, pg. 94
  36. ^ Considine, pp. 91–92
  37. ^ Thomas, pg. 114
  38. ^ Considine, pgs. 97–98
  39. ^ Thomas, pg. 241
  40. ^ a b Thomas, pg. 113
  41. ^ Thomas, pg. 115
  42. ^ En Kvinnas Ansikte - IMDb(英語)
  43. ^ “Joan Crawford Weds Actor Phillip Terry”. Lubbock (TX) Morning Avalanche (UP): p. 11. (July 22, 1942) 
  44. ^ Quirk, Lawrence J. (2002). Joan Crawford: the essential biography. Lexington, KY: University of Kentucky Press. p. 124. ISBN 0-8131-2254-6. https://books.google.co.jp/books?id=_yQtRavDvtUC&printsec=frontcover&dq=crawfrod+quirk&cd=1&redir_esc=y&hl=ja#v=snippet&q=volunteer&f=false 
  45. ^ "Mildred Pierce" on TCM.com
  46. ^ Curtiz, quoted in Thomas, pg. 136
  47. ^ Variety. Film review, 1945. Last accessed: February 7, 2008.
  48. ^ http://www.nationalboardofreview.org/award-years/1945/ 1945 Award Winners] ナショナル・ボード・オブ・レビュー公式サイト
  49. ^ Quirk, Lawrence J.. The Films of Joan Crawford. The Citadel Press, 1968.
  50. ^ Day, Elizabeth (May 25, 2008). “I'll never forgive Mommie”. Guardian UK (London). http://www.guardian.co.uk/film/2008/may/25/biography.film May 6, 2010閲覧。 
  51. ^ “Joan Crawford Is Wed in Las Vegas to Businessman”. Moberly (MO) Monitor-Index and Democrat. Associated Press: p. 8. (May 10, 1955) 
  52. ^ Thomas, pg. 190
  53. ^ a b “Joan Crawford Dies at Home; Joan Crawford, Screen Star, Dies in Manhattan Home”. New York Times. (May 11, 1977, Wednesday). http://www.nytimes.com/learning/general/onthisday/bday/0323.html August 21, 2007閲覧。 
  54. ^ Considine, pg. 286
  55. ^ Quirk, Lawrence; Schoell (2002). Joan Crawford: the essential biography. Twenty-First Century Books. p. 312. ISBN 0-8131-2254-6. https://books.google.co.jp/books?id=_yQtRavDvtUC&pg=RA3-PA246&lpg=RA3-PA246&dq=Joan+Crawford+fang&redir_esc=y&hl=ja#v=onepage&q=fang&f=false 
  56. ^ “'I'm Broke, Says Joan Crawford”. Jefferson City (MO) Post-Tribune. Associated Press: p. 1. (June 1, 1959) 
  57. ^ Considine, ibid.
  58. ^ a b Considine
  59. ^ 川本三郎『アカデミー賞』(中公文庫)P.94
  60. ^ 川本三郎『アカデミー賞』(中公文庫)P.96-98
  61. ^ Thomas, pg. 225
  62. ^ Considine, pg. 363
  63. ^ Thomas, pg. 231
  64. ^ Thomas, pgs. 238–39
  65. ^ joancrawfordbest.com Joan Crawford TV: 1970s
  66. ^ Joan Crawford In "The Virginian" Part 1 of 8”. YouTube. October 6, 2012閲覧。
  67. ^ Joan Crawford on The Sixth Sense”. YouTube. October 6, 2012閲覧。
  68. ^ Cowie, Peter. Joan Crawford: The Enduring Star (Rizzoli Universe Promotional Books, March 8, 2011), pp. 204–205
  69. ^ Considine, pg. 396
  70. ^ Carl Johnnes. Joan Crawford: The Last Years. Dell Publishing. ISBN 0-440-11536-1 
  71. ^ Thomas, pg. 266
  72. ^ Joan Crawford's Last Will and Testament, quoted in Thomas, pg. 263
  73. ^ Crawford, Joan. “Joan Crawford's Final resting Place”. Find A Grave. March 11, 2012閲覧。
  74. ^ Considine, pg. 412
  75. ^ Hayes, Helen; Hatch, Katherine (1990). My Life in Three Acts. Harcourt, Brace Jovanovich. ISBN 0-15-163695-8 
  76. ^ a b c Redbook v. 165, Redbook Publishing, Inc. p. 25. OCLC 1763595.
  77. ^ Strouse, Jean (1978). "Mommie Monster" Newsweek: Volume 92, Issues 10–18. p. 134.
  78. ^ Allyson, June; Leighton, Frances Spatz (1983). June Allyson. New York: Berkley. pp. 77–84. ISBN 0-425-06251-1 
  79. ^ Sherman, Vincent (1996). Studio Affairs: My Life As a Film Director. University Press of Kentucky. pp. 209–213. ISBN 0813119758 
  80. ^ "Mysteries and Scandals: Joan Crawford". シーズン1. Episode 34. E! Entertainment. 9 November 1998. 20 該当時間:. {{cite episode}}: |series=は必須です。 (説明)
  81. ^ a b c d e f g h i j k クレジットなし。
  82. ^ a b c credited as Lucille LeSueur
  83. ^ With sound. In color. Singing, dancing, and part of an all-star cast performing the song "Singin' in the Rain".
  84. ^ a.k.a. The Big Parade of Comedy
  85. ^ a b c d archival footage
  86. ^ Different scenes were shot and turned into the theatrically released feature film The Karate Killers.
  87. ^ a b c d 義娘クリスティーナの代役。
  88. ^ Pilot for Unsold Series
  89. ^ Pilot for unsold series
  90. ^ Pilot for "Royal Bay" Unsold Series aka "Fatal Confinement"
  91. ^ パイロット版。
  92. ^ a b Culled from the series Journey to the Unknown
  93. ^ 『シックス・センス』出演エピソードの拡張改変版

参考文献

[編集]
記事本文
  • Considine, Shaun (1989). Bette and Joan: The Divine Feud. New York, E. P. Dutton, a division of Penguin Books. ISBN 0-525-24770-X.
  • Bret, David (2006). Joan Crawford: Hollywood Martyr. Robson. ISBN 1-86105-931-0.
  • Granlund, Nils T. (1957). Blondes, Brunettes, and Bullets. New York, David McKay Company.
  • Hoefling, Larry J. (2008). Nils Thor Granlund: The Swedish Showman Who Invented American Entertainment. Inlandia Press. ISBN 0-9822313-0-X.
  • LaSalle, Mick (2000). Complicated Women: Sex and Power in Pre-Code Hollywood. New York, Thomas Dunne Books, an imprint of St. Martin's Press. ISBN 0-312-25207-2.
  • Dunaway, Faye (1998). Looking For Gatsby. Pocket. ISBN 0-671-67526-5.
  • Leese, Elizabeth (1991). Costume Design in the Movies. Dover Books. ISBN 0-486-26548-X.
  • Newquist, Roy, with introduction by John Springer (1980). Conversations with Joan Crawford. New Jersey, Citadel Press, a division of Lyle Stuart, Inc. ISBN 0-8065-0720-9.
  • Skal, David J. (1993). The Monster Show: A Cultural History of Horror. Penguin Books. ISBN 0-14-024002-0.
  • Thomas, Bob (1978). Joan Crawford: A Biography. New York, Bantam Books. ISBN 0-553-12942-2.


出演作品

関連文献

[編集]
  • 筈見有弘 『ハリウッド・カップルズ』 キネマ旬報社、1998年 - クロフォードとクラーク・ゲーブルの共演・恋愛に一章がさかれている。
  • Carr, Larry (1970). Four Fabulous Faces:The Evolution and Metamorphosis of Swanson, Garbo, Crawford and Dietrich. Doubleday and Company. ISBN 0-87000-108-6 
  • Just Joan: A Joan Crawford Appreciation by Donna Marie Nowak. Albany, BearManor Media 2010. ISBN 978-1-59393-542-9.

外部リンク

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