日本における死刑囚の一覧 (-1950年代)
日本における死刑囚の一覧 (-1950年代) (にほんにおけるしけいしゅうのいちらん)は、明治維新から1950年代まで、即ち1868年(慶応3年/明治元年)から1959年(昭和34年)までの日本で、刑事裁判によって死刑判決を言い渡された主な死刑囚(現行の刑事訴訟法における呼称は「死刑確定者」)の一覧記事である。
1860年代
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
堺事件(箕浦猪之吉) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 土佐藩士によるフランス帝国水兵殺傷(攘夷)事件。即日切腹刑執行。 |
堺事件(西村佐平次) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(池上弥三吉) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(大石甚吉) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(杉本広五郎) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(勝賀瀬三六) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(山本哲助) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(森本茂吉) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(北代堅助) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(稲田貫之丞) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(柳瀬常七) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 即日切腹刑執行。 |
堺事件(橋詰愛平) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
堺事件(川谷銀太郎) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
堺事件(金田時治) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
堺事件(竹内民五郎) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
堺事件(岡崎栄兵衛) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
堺事件(土居八之助) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
堺事件(横田辰五郎) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
堺事件(垣内徳太郎) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
堺事件(武内弥三郎) | 1868年3月16日 | 1868年3月8日 | 直前で切腹刑中止、流罪に変更。 |
パークス襲撃事件(三枝蓊) | 1868年3月27日 | 1868年3月23日 | ハリー・パークス一行を襲撃。即日梟首(獄門)刑執行。事件時に護衛に首を刎ねられ死亡した朱雀操の首と共に3日間晒された[1]。 |
戊辰戦争(近藤勇) | 1868年5月17日に梟首刑執行。 | ||
浜一色村養父母殺害・窃盗事件(新助) | 1868年11月16日 | 新助は養父母の元に養子に出されていたが、品行が悪く、ひそかに伊勢参りをしたことから離縁された。その後は江戸で別の家の養子になったが、すぐに離縁され帰郷。その際、かつて自分を離縁した遺恨から養父母を殺害し、金銭を盗んだ。磔刑は廃止されていたが、重罪であることから、居村引廻しの上磔刑の判決が言い渡された[2]。 | |
大村益次郎暗殺事件(神代直人) | 1869年11月23日 | 1869年10月7日 | 斬罪執行。 |
会津郡大石村女性強盗殺人事件(伊藤重次郎) | 1869年12月1日 | 1869年5月21日 | 松平容保の元家来(42歳)は降伏の後謹慎中、同村の家に押し入り婦人を竹槍で殺害、金品及び家財を奪った。判決は斬罪[3]。 |
横井小楠暗殺事件(上田立夫) | 1869年12月16日 | 1869年2月15日 | 1870年11月3日に梟首刑執行[4]。 |
横井小楠暗殺事件(津下四郎左衛門) | 1869年12月16日 | 1869年2月15日 | 1870年11月3日に梟首刑執行。 |
横井小楠暗殺事件(前岡力雄) | 1869年12月16日 | 1869年2月15日 | 1870年11月3日に梟首刑執行。 |
横井小楠暗殺事件(鹿島又之允) | 1869年12月16日 | 1869年2月15日 | 1870年11月3日に梟首刑執行。 |
1870年代
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
大村益次郎暗殺事件(關島金十郎) | 1869年10月7日 | 1870年1月28日に梟首刑執行。 | |
大村益次郎暗殺事件(金輪五郎) | 1869年10月7日 | 1870年1月28日に梟首刑執行。 | |
大村益次郎暗殺事件(五十嵐伊織) | 1869年10月7日 | 1870年1月28日に梟首刑執行。 | |
大村益次郎暗殺事件(太田光太郎) | 1869年10月7日 | 1870年1月28日に梟首刑執行。 | |
大村益次郎暗殺事件(團伸二郎) | 1869年10月7日 | 1870年1月28日に梟首刑執行。 | |
高崎五万石騒動(高井喜三郎) | 1870年3月5日 | 1869年11月20日 | 凶作を契機に重い年貢を課せられていた農民らが起こした一揆。1870年3月5日に斬罪執行[5]。 |
高崎五万石騒動(佐藤三喜蔵) | 1870年3月5日 | 1869年11月20日 | 1870年3月5日に斬罪執行[5]。 |
会田・麻績騒動(藤松長兵衛) | 1869年9月30日 | 1870年6月26日もしくは6月28日に斬罪執行[6][7]。 | |
会田・麻績騒動(小林愛次郎) | 1869年9月30日 | 1870年6月28日に斬罪執行[7]。 | |
庚午事変(平瀬伊右衛門) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年9月27日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(大村純安) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年9月27日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(多田禎吾) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年9月27日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(南堅夫) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年9月27日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(小川錦司) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年9月27日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(三木寿三郎) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年9月27日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(瀧直太郎) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年9月27日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(藤岡次郎太夫) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年9月27日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(新居与一助(新居水竹)) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年10月9日に切腹刑執行[8]。 |
庚午事変(小倉富三郎) | 1870年9月7日 | 1870年6月11日 | 1870年10月9日に切腹刑執行[8]。 |
高崎五万石騒動(小島文次郎) | 1869年11月20日 | 1870年10月1日に斬罪執行[5]。 | |
ばんどり騒動(宮崎忠次郎) | 1870年11月20日 | 1869年10月-11月 | 年貢減免などを要求して一揆を指導。1870年11月20日に斬罪執行[9]。 |
上田騒動(九郎右衛門) | 1869年9月21日 | 幕末の政情不安に加え、偽二分金の流通により農村の経済が混乱したことで発生した世直し一揆。1870年11月20日梟首刑執行[10]。 | |
雲井龍雄事件(雲井龍雄) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 新政府に不満を持つ旧幕府方諸藩の藩士と集会を開いていたことが政府転覆の陰謀とみなされた。1871年2月17日梟首刑執行[11]。 |
雲井龍雄事件(原直鐵) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(簗瀬勝吉) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(南齊敬吉) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(三木勝) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(大忍坊源吾) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(増岡謇吉) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(星野彌吉) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(田中晋六郎) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(能見武一郎) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(自在院) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(願龍寺慈觀) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(師岡千牧) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
雲井龍雄事件(茂木盛朴) | 1871年2月15日 | 1870年2月頃 | 斬罪執行[11]。 |
中野騒動 | 1871年2月8日 | 斬罪6人、絞罪22人。 | |
本多政均暗殺事件(山邊沖太郎) | 1871年4月3日 | 1869年9月12日 | 即日切腹刑執行[12]。 |
本多政均暗殺事件(井口義平) | 1871年4月3日 | 1869年9月12日 | 即日切腹刑執行[12]。 |
松代騒動(小平甚右衛門) | 1871年7月13日 | 1871年1月15日 | 藩が発行した藩札の太政官札に対する2割5分引きの撤回を求める農民一揆を指導。即日斬罪執行[13]。 |
太政官札贋造事件(立花増美) | 1871年8月17日 | 1870年 | 即日斬罪執行。 |
太政官札贋造事件(矢野安雄) | 1871年8月17日 | 1870年 | 即日斬罪執行。 |
太政官札贋造事件(小河愛四郎) | 1871年8月17日 | 1870年 | 即日斬罪執行。 |
太政官札贋造事件(徳永織人) | 1871年8月17日 | 1870年 | 即日斬罪執行。 |
太政官札贋造事件(三隈傳八) | 1871年8月17日 | 1870年 | 即日斬罪執行。 |
大浜騒動(石川台嶺) | 1871年12月28日 | 1871年3月9日 | 廃仏毀釈反対運動中に発生した暴動事件。1871年12月29日に死刑(斬罪)執行(29歳没)[14][15]。 |
大浜騒動(榊原喜與七) | 1871年12月28日 | 1871年3月9日 | 上記共犯。1871年12月29日に絞罪執行(37歳没)[15]。 |
二卿事件(外山光輔) | 1872年1月12日 | 1871年3月18日 | 即日切腹刑執行[16]。 |
二卿事件(愛宕通旭) | 1872年1月12日 | 1871年3月18日 | 即日切腹刑執行[16]。 |
二卿事件(比喜田源二) | 1872年1月12日 | 1871年3月18日 | 即日斬罪執行[16]。 |
二卿事件(古賀十郎) | 1872年1月12日 | 1871年3月18日 | 即日斬罪執行[16]。 |
二卿事件(初岡敬二) | 1872年1月12日 | 1871年3月18日 | 即日斬罪執行[16]。 |
二卿事件(河上彦斎) | 1872年1月12日 | 1871年3月18日 | 即日斬罪執行[16]。 |
久留米藩難事件(小河真文) | 1872年1月12日 | 1870-1871年 | 即日斬罪執行。 |
土佐膏取り一揆(竹本森三郎) | 1872年1月 | 「徴兵令によって年齢を調査し、家屋に番号を付すのは外国人が子供の油を取るためだ」との事実無根の噂を信じた農民らが起こした暴動。旧知事、穢多非人の復活及び政令を十年前に戻すことを要求。主犯の竹本は自らを「五明山の大将平兵部之助」と名乗り、小袴を着用の上帯刀。采牌を執って数百人を指揮して各村を扇動した。1872年2月14日に梟首刑執行[17][18]。 | |
土佐膏取り一揆(兼󠄁太郎) | 1872年1月 | 1872年2月14日に梟首刑執行[17][18]。 | |
土佐膏取り一揆(善平) | 1872年1月 | 1872年2月16日に梟首刑執行[17][18]。 | |
土佐膏取り一揆(作治) | 1872年1月 | 1872年2月16日に梟首刑執行[17][18]。 | |
土佐膏取り一揆(覺治) | 1872年1月 | 1872年2月16日に梟首刑執行[17][18]。 | |
殺鼠剤毒殺事件(原田きぬ) | 1872年3月28日に小塚原刑場で死刑執行(斬首刑)。 | ||
若松県内徒刑場の反乱計画(庄八) | 1872年5月29日 | 1871年 | 強姦と恐喝の罪で徒3年の刑を受け服役していた庄八は、旧会津藩の脱走者らが旧会津藩を復興させようと画策しているとの風聞を聞き共鳴。準流の受刑者200人を誘って徒刑場の役人を殺害の上、会津城に立て篭もって大砲小銃で官邸を襲撃する計画を立てていたが、同囚の者に悟られ密告された。庄八は共犯者とともに斬罪を求刑され、司法省は1872年5月29日、庄八に梟首、他の2人に準流10年の指令を出した。判決言い渡し及び死刑執行日は不明[19][20]。 |
悌輔騒動(渡邊悌輔) | 1872年10月12日 | 1872年5月10日 | 即日梟首刑執行[21]。 |
悌輔騒動(月岡帯刀) | 1872年10月12日 | 1872年5月10日 | 即日梟首刑執行[21]。 |
悌輔騒動(金子松藏) | 1872年10月12日 | 1872年5月10日 | 即日斬罪執行[21]。 |
悌輔騒動(花井五右衛門) | 1872年10月12日 | 1872年5月10日 | 即日斬罪執行[21]。 |
悌輔騒動(川崎九郎治) | 1872年10月12日 | 1872年5月10日 | 即日斬罪執行[21]。 |
悌輔騒動(關五太郎) | 1872年10月12日 | 1872年5月10日 | 即日絞罪執行[21]。 |
悌輔騒動(笹川六七郎) | 1872年10月12日 | 1872年5月10日 | 即日絞罪執行[21]。 |
玉乃世履暗殺未遂事件(服部喜平治) | 1872年10月29日 | 1872年9月12日 | 民事訴訟で恨みを持たれ、短刀で襲撃される。殺人未遂罪で即日斬罪執行[22]。 |
石鐵県死刑囚蘇生事件(田中藤作) | 1872年11月 | 1871年8月15日 | 放火犯。死刑執行も、不備により蘇生。再度の死刑執行はされず。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(岡野悌五郎暗殺事件)(本多弥一) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(岡野悌五郎暗殺事件)(富田総) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(岡野悌五郎暗殺事件)(鏑木勝喜知) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(岡野悌五郎暗殺事件)(吉見亥三郎) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(菅野輔吉暗殺事件)(矢野策平) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(菅野輔吉暗殺事件)(西村熊) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(菅野輔吉暗殺事件)(舟喜鉄外) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(菅野輔吉暗殺事件)(浅井弘五郎) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(菅野輔吉暗殺事件)(廣田嘉三郎) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(菅野輔吉暗殺事件)(湯口藤九郎) | 1872年12月4日 | 1871年12月28日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(多賀堅三郎暗殺事件)(芝木喜内) | 1872年12月4日 | 1872年1月4日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
本多政均暗殺に対する仇討ち事件(多賀堅三郎暗殺事件)(藤江金三郎) | 1872年12月4日 | 1872年1月4日 | 日本法制史上最後の切腹刑。 |
大小切騒動(小沢留兵衛) | 1872年9月10日 | 1872年12月10日に絞罪執行。 | |
大小切騒動(島田富十郎) | 1872年9月10日 | 1872年12月10日に絞罪執行。 | |
大小切騒動(倉田利作) | 1872年9月10日 | 準流10年となったが、囚人数名とともに脱獄。再び捕縛され処刑。 | |
越前護法大一揆(高橋多左衛門) | 1873年3月22日 | 1873年3月6日 | 新政府が仏教を排斥する方針との誤った噂が広がったことにより発生。寺の住職や庄屋を指導者として農民数万人が各地で焼き打ちや打ちこわしを行った。1873年4月4日に斬罪執行[23][24]。 |
越前護法大一揆(棚専乗) | 1873年3月22日 | 1873年3月6日 | 1873年4月4日に斬罪執行[23][24]。 |
越前護法大一揆(金森顕順) | 1873年3月22日 | 1873年3月6日 | 1873年4月4日に斬罪執行[23][24]。 |
越前護法大一揆(桑崎與八郎) | 1873年3月22日 | 1873年3月6日 | 1873年4月4日に絞罪執行[23][24]。 |
越前護法大一揆(桶屋治助) | 1873年3月22日 | 1873年3月6日 | 1873年4月4日に絞罪執行[23][24]。 |
越前護法大一揆(竹尾五右衛門) | 1873年3月22日 | 1873年3月6日 | 1873年4月4日に斬罪執行[23][24]。 |
豊後農民騒擾(後藤吉十郎) | 1873年4月30日 | 1873年1月13日 | 知藩事の復活と諸新令の改正を求める騒擾を首謀[25]。 |
豊後農民騒擾(阿南千代五郎) | 1873年4月30日 | 1873年1月13日 | 上記共犯。即日斬罪執行[25]。 |
豊後農民騒擾(麻布菊治) | 1873年4月30日 | 1873年1月13日 | 上記共犯。即日斬罪執行[25]。 |
豊後農民騒擾(安部音平) | 1873年4月30日 | 1873年1月13日 | 上記共犯。少属(警察官)の従者を殴殺。即日絞罪執行[25][26]。 |
美作騒擾(筆保宇太郎) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 外国人の通行止め、徴兵令・小学校・太陽暦の廃止等を求めて蜂起。即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(高橋辨藏) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(川田嘉平治) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(宇治貞藏) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(内山豊藏) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(蘆谷島五郎) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(水島寅平) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(大谷類治郎) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(川島伴次郎) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(井上良藏) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(蘆平林平) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(内田數平) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(鈴木七郎治) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(小林久米藏) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
美作騒擾(蘆田島吉) | 1873年6月22日 | 1873年5月26日 | 即日斬罪執行[27]。 |
筑前竹槍一揆(井上勝次) | 1873年7月5日 | 1873年6月16日 | 即日斬罪執行[28]。 |
筑前竹槍一揆(石坂九右衛門) | 1873年7月5日 | 1873年6月16日 | 即日斬罪執行[28]。 |
筑前竹槍一揆(長澤小三郎) | 1873年7月5日 | 1873年6月16日 | 即日斬罪執行[28]。 |
筑前竹槍一揆(淵上琢璋) | 1873年7月5日 | 1873年6月16日 | 即日絞罪執行[28]。 |
西讃竹槍騒動(矢野文次) | 1873年8月2日 | 1873年6月27日 | 1873年10月28日に斬罪執行[29][30]。 |
西讃竹槍騒動(合田龜太郎) | 1873年8月2日 | 1873年6月27日 | 1873年10月28日に斬罪執行[29][30]。 |
西讃竹槍騒動(横内駒吉) | 1873年8月2日 | 1873年6月27日 | 1873年10月28日に斬罪執行[29][30]。 |
西讃竹槍騒動(大谷清平) | 1873年8月2日 | 1873年6月27日 | 1873年10月28日に斬罪執行[29][30]。 |
西讃竹槍騒動(矢野丹次) | 1873年8月2日 | 1873年6月27日 | 1873年10月28日に絞罪執行[29][30]。 |
西讃竹槍騒動(矢野廣次) | 1873年8月2日 | 1873年6月27日 | 1873年10月28日に絞罪執行[29][30]。 |
西讃竹槍騒動(篠原伊勢吉) | 1873年8月2日 | 1873年6月27日 | 1873年10月28日に絞罪執行[29][30]。 |
喰違の変(武市熊吉) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
喰違の変(武市喜久馬) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
喰違の変(山崎則雄) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
喰違の変(島崎直方) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
喰違の変(下村義明) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
喰違の変(岩田正彦) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
喰違の変(中山泰道) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
喰違の変(中西茂樹) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
喰違の変(澤田悦彌太) | 1874年7月9日 | 1874年1月14日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(江藤新平) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日梟首刑執行。 |
佐賀の乱(島義勇) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日梟首刑執行。 |
佐賀の乱(副島義高) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(村山長栄) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(福地常彰) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(重松基吉) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(中川義純) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(山中一郎) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(中島鼎蔵) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(朝倉尚武) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(西義質) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(香月経五郎) | 1874年4月13日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
佐賀の乱(山田平蔵) | 1874年4月17日 | 1874年2月1日 | 即日斬罪執行。 |
ドイツ領事ハーバー殺害事件(田崎秀親) | 1874年9月26日 | 1874年8月11日 | 自らが修めている皇学が衰退してきているのは外国人と親しくしているためと考えた秋田県士族の田崎は、外人を斬害しようと郷里を出奔。函館に赴いたところ、外国人であるドイツ領事ルードヴィッヒ・ハーバーを見つけたため、追いかけて殺害した。函館裁判所で罪状申渡の上即日斬罪執行[31][32]。 |
紅屋の市右衛門毒殺事件(浅子お仲) | 1876年8月24日 | 1874年8月6日 | 浅草で紅屋(現在の化粧品販売店に当たる。)を営んでいた夫の市右衛門が長年に渡り病気の身であることをきっかけに紅屋で働いていた安川巳之助と不倫関係を持つ。そして、自身が安川との間に出来た子供を懐妊しお腹が膨らんできたのをきっかけに、安川と共謀して殺害し、正式に夫婦となり紅屋の乗っ取りを決意する。そして、医師の鹿倉道伯に夫を病気の苦しみから解放し、楽に極楽浄土へ逝かせるための薬が欲しい。」と何度もしつこく催促し毒薬を貰って、1874年8月6日午前10時ごろに市右衛門を毒殺。しかし、お仲の息子が跡を継ぐことになり、当初の目的が果たせず、失敗に終わってしまう。なお、お仲が身ごもっていた子供は、鹿倉道伯に3円払って中絶している[33]。
この毒殺事件により、1876年8月24日に東京裁判所で梟首(獄門)刑の判決を下されたが[34][35]、明治12年(1879年)1月4日に明治12年太政官布告第1号により梟首を正式に廃止[36][37]されたため斬首刑となり、高橋お伝と同じ市ヶ谷監獄で同じ日に高橋お伝と安川巳之助より前に、斬首刑により執行された[38][39]。 また、西南戦争で西郷軍側に立ち戦ったことにより禁錮5年の刑を受刑した高田露によれば、浅子お仲は執行前に安川巳之助に「では、私は一歩先に参ります。貴方もすぐにいらっしゃいな。」と言いながら談笑していたという[39]。 |
紅屋の市右衛門毒殺事件(安川巳之助) | 1876年8月24日 | 1874年8月6日 | 上記の浅子お仲と共謀して、浅子お仲の夫を毒殺。その後、お仲と一緒に暮らしたいため、1874年12月26日夜にお仲の家の物置を放火して58戸を延焼させ、失火であると偽る。
放火事件後、お仲が自分に冷たい態度を取り、他の男との関係をもっている噂を聞いたことをきっかけにお仲殺害を決意。1875年3月29日に購入した折箱寿司に殺鼠剤を混ぜて、お仲・お仲の息子・お仲の弟がそれを食べ腹痛嘔吐の症状が出たものの未遂に終わる。 その後、これらの犯罪の内、浅子お仲の夫を毒殺したことを理由に1876年8月24日に東京裁判所(現・東京地方裁判所)で斬首刑の判決が下されこととなった[40][35][41] そして、安川巳之助の斬首刑執行を担当していた八代目山田浅右衛門の弟吉亮によれば、斬首刑の執行に対する恐怖のあまり震えていたため、高橋お伝はこの姿に対し笑って、 「お前さんも臆病だね。男の癖にさ。私をご覧よ。女じゃあないか。」 と励ましていた[38][42]。そして、高橋お伝より1つ前になる形で1879年1月31日に死刑執行。 |
呉服屋店主井上仙次郎殺人事件(井上喜三郎) | 1875年3月19日 | 1875年2月2日 | 明治維新後の日本史上初の少年死刑囚(当時18歳)。1874年9月20日に結婚をしたが、夫婦仲が悪く、1875年1月15日に離婚をし、実兄であり新潟県で呉服屋を営む井上仙次郎の家に舞い戻った。そして、商売をするための費用が必要となり、父が亡くなった際に遺言により本宅の土地家屋を仙次郎、別宅の土地家屋を喜三郎を相続していたが、本宅は売却され、別宅が仙次郎の住む家となったため、別宅を売却して費用を捻出することが出来なくなっていた。
井上仙次郎に前述を理由に財産の分け与えるよう直談判したが、分け与えても商売のために使わないと判断されたため、聞き入れてもらえず、仙次郎殺害を決意する。 そして、1875年2月2日夜に仙次郎が寝ているときに、短刀で喉元を突き刺し殺害し、同日7日に逮捕された[43][44]。その後、同年3月19日に司法省より尊属殺人の罪で梟示(獄門)にするよう認可され、同月23日に新潟県へ指令が出され、同月31日に判決を言い渡された[45][46][47]。 なお、1875年3月時点で18歳5ヵ月であり20歳未満であった。 |
おしん短刀串刺し殺人事件(白澤喜三郎) | 1875年9月19日 | 1875年2月11日 | 表具師の白澤喜三郎は、飯島おしんと1872年4月24日に結婚したが、自身の我侭で粗暴な性格とおしんの両親の言うことを聞きいれず夫婦仲が悪くなり、1875年2月1日に離縁状と手切れ金10円(現在の価値で20万円[48])で離婚した。その後、同年2月11日の夜に飯島おしんに忍び寄り、寝ているおしんを短刀で気管を突き破る形で串刺しにして殺害する。その際、おしんの父は、娘の殺害に怒り、白澤喜三郎に飛降りて、組伏せ押さえつけていた[49][50][44]。
執行月日は不明だが、司法省の死刑認可日が1875年9月19日であるため、その日以降から1875年12月31日までの間で執行された可能性がある[51][52]。 なお、Wikipediaの「東京日日新聞」に、この事件の様子を現した錦絵の画像(短刀による串刺し殺害のおしんの遺体が描きだされているため、閲覧注意)が掲載されている。 |
神風連の乱(浦楯記) | 1876年12月3日 | 1876年10月24日 | 即日斬罪執行[53]。 |
神風連の乱(高津運記) | 1876年12月3日 | 1876年10月24日 | 即日斬罪執行[53]。 |
神風連の乱(吉村義節) | 1876年12月3日 | 1876年10月24日 | 即日斬罪執行[53]。 |
秋月の乱(今村百八郎) | 1876年12月3日 | 1876年10月27日 | 即日斬罪執行。 |
秋月の乱(益田静方) | 1876年12月3日 | 1876年10月27日 | 即日斬罪執行[53]。 |
萩の乱(佐世八十郎(前原一誠)) | 1876年12月3日 | 1876年10月28日 | 即日(翌日説あり)斬罪執行。 |
萩の乱(奥平謙輔) | 1876年12月3日 | 1876年10月28日 | 即日(翌日説あり)斬罪執行。 |
萩の乱(山田頴太郎) | 1876年12月3日 | 1876年10月28日 | 即日(翌日説あり)斬罪執行。 |
萩の乱(佐世一清) | 1876年12月3日 | 1876年10月28日 | 即日(翌日説あり)斬罪執行。 |
萩の乱(小倉信一) | 1876年12月3日 | 1876年10月28日 | 即日(翌日説あり)斬罪執行。 |
萩の乱(有福旬允) | 1876年12月3日 | 1876年10月28日 | 即日(翌日説あり)斬罪執行。 |
萩の乱(横山俊彦) | 1876年12月3日 | 1876年10月28日 | 即日(翌日説あり)斬罪執行。 |
萩の乱(河野義一) | 1876年12月3日 | 1876年10月28日 | 即日(翌日説あり)斬罪執行。 |
思案橋事件(井口慎次郎) | 1877年2月7日 | 1876年10月29日 | 即日斬罪執行[54][55]。 |
思案橋事件(中原成業) | 1877年2月7日 | 1876年10月29日 | 即日斬罪執行[54][55]。 |
思案橋事件(竹村俊秀) | 1877年2月7日 | 1876年10月29日 | 即日斬罪執行[54][55]。 |
堤上村老人強盗殺人事件(土川與五郎) | 1877年3月27日 | 1868年7月17日 | 土川は廃寺の堂主及び掃除をして生活していたが、80代位の老人がその仕事を引き継ぐことになった。その際に被害者は貯金をしている様子だったことから強盗を計画。2人の共犯者(深谷艶吉・篠塚直十)とともに金を出さなかったら殺すと被害者を脅したが、出さなかったため竹や棒で殴打した。被害者は強盗に殴られたと隣家に助けを求めたが、そこで力尽きた。1868年、土川は一度笠間藩に逮捕されたが、深谷に罪をなすりつけ、自分は見張っていただけで殴っていない旨証言したため徒30日に処された。しかし、1875年に深谷が逮捕され事件を自供したことから土川も再逮捕された。一審の茨城裁判所は、被害者の死因は病死の可能性があるとして殺人を認めず、土川に懲役3年、深谷に別件の事件と併せて終身刑を言い渡した。検察は判決を不服として上告。その後大審院は強盗殺人の成立を認めて土川に斬罪を言い渡した。深谷は上告中に病死している[56]。 |
福岡の変(越智彦四郎) | 1877年5月1日 | 1877年3月27日 | 斬罪執行[57]。 |
福岡の変(久光忍太郎) | 1877年5月1日 | 1877年3月27日 | 斬罪執行[57]。 |
福岡の変(村上彦十) | 1877年5月1日 | 1877年3月27日 | 斬罪執行[57]。 |
福岡の変(加藤堅武) | 1877年5月1日 | 1877年3月27日 | 斬罪執行[57]。 |
福岡の変(武部小四郎) | 1877年5月1日 | 1877年3月27日 | 斬罪執行[57]。 |
西南戦争(大山綱良) | 1877年9月30日 | 1877年1月29日 | 即日斬罪執行[58]。 |
西南戦争(上田休) | 1877年9月30日 | 1877年1月29日 | 即日斬罪執行[58]。 |
西南戦争(堀田政一) | 1877年1月29日 | 1877年10月6日に斬罪執行[58][59]。 | |
西南戦争(後藤純平) | 1877年10月22日 | 1877年1月29日 | 即日斬罪執行[58]。 |
西南戦争(坂田諸潔) | 1877年10月22日 | 1877年1月29日 | 即日斬罪執行[58]。 |
西南戦争(鮫島元) | 1877年1月29日 | 1877年10月25日に斬罪執行[58]。 | |
西南戦争(池辺吉十郎) | 1877年10月26日 | 1877年1月29日 | 即日斬罪執行[58]。 |
西南戦争(石井貞興) | 1877年10月26日 | 1877年1月29日 | 即日斬罪執行[58]。 |
西南戦争(松浦新吉郎) | 1877年10月31日 | 1877年1月29日 | 斬罪執行[58]。 |
西南戦争(櫻田總四郎) | 1877年10月31日 | 1877年1月29日 | 斬罪執行[58]。 |
西南戦争(友成正雄) | 1877年10月31日 | 1877年1月29日 | 斬罪執行[58]。 |
西南戦争(大里八郎) | 1877年10月31日 | 1877年1月29日 | 斬罪執行[58]。 |
西南戦争(横山經營) | 1877年1月29日 | 1877年12月30日に斬罪執行[58]。 | |
広島県笠岡町川上松助殺人事件(川上春) | 女性死刑囚、出刃包丁で夫を殺害、1878年2月15日に梟首刑[60]。 | ||
紀尾井坂の変(島田一郎) | 1878年7月27日 | 1878年5月14日 | 大久保利通殺害犯。同志5人とともに判決確定1時間後に斬首刑に処せられた(30歳没)。 |
紀尾井坂の変(長連豪) | 1878年7月27日 | 1878年5月14日 | 上記共犯で斬首刑に処された(23歳没)。 |
紀尾井坂の変(杉本乙菊) | 1878年7月27日 | 1878年5月14日 | 上記共犯で斬首刑に処された(30歳没)。1889年に大赦。 |
紀尾井坂の変(脇田巧一) | 1878年7月27日 | 1878年5月14日 | 上記共犯で斬首刑に処された(29歳没)。1889年に大赦。 |
紀尾井坂の変(浅井寿篤) | 1878年7月27日 | 1878年5月14日 | 上記共犯で斬首刑に処された(25歳没)。1889年に大赦。 |
紀尾井坂の変(杉村文一) | 1878年7月27日 | 1878年5月14日 | 犯行当時は18歳(少年死刑囚)、上記共犯で斬首刑に処された(18歳没)。1889年に大赦。 |
梅吉殺人事件(稲イシ) | 1878年10月3日 | 1878年1月21日 | 夫の不倫を疑い、夫の就寝中に13か所に傷を負わせ刺殺。1878年10月14日に死刑執行。 日本国内最後の女性梟首(獄門)囚 |
竹橋事件(三添卯之助) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 小島万助、長島竹四郎を誘って反乱を起こした罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(小島万助) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 三添卯之助の発意に乗り、各部隊を誘って反乱を起こした罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(長島竹四郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 三添卯之助の発意に乗り、各部隊を誘って反乱を起こした罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(広瀬喜市) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(野中与吉) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(高橋小三郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(藤橋吉三郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(松本久三郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(水上丈平) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(馬場鉄市) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(新熊安三郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(谷新四郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(金井惣太郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(宮崎関四郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(松宮弁次郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(小川弥蔵) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり深沢巳吉大尉を斬りつけた罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(辻亀吉) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり官金を窃取、更に深沢巳吉大尉を斬りつけた罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(田島森助) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり宇都宮茂敏少佐を殺害した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(岩本久造) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(浅見綾次郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(松居善助) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(近藤祖舟) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(笹井常七) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(見山今朝治) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(山本丈作) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(今井政十郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり、捕縛の際に士官に抵抗した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(堤熊吉) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり宇都宮茂敏少佐を殺害した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(沢本久米吉) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり官金を窃取した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(宮崎忠次) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 兵卒を誘って反乱を企てた罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(真田兼松) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 兵卒を誘って反乱を企てた罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(高見沢卯助) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 兵卒を誘って反乱を企てた罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(鈴木直次) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 兵卒を反乱に誘った罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(横山昇) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(是永虎市) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(伊藤丈三郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(桜井鶴次) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(布施千吉) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(久保田善作) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(木村円解) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(菊池作次郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(永合竹次郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(佐藤種五郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(本橋兼次郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(吉田定吉) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(新家仲吉) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(浦塚城次郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(高橋竹四郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わった罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(羽成常助) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり深沢巳吉大尉を殺害した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(門井藤七) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり深沢巳吉大尉に斬りつけた罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(中沢章治) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり放火した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(山中繁蔵) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり大砲を発射した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(山部七蔵) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり官金を窃取した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
竹橋事件(木島次三郎) | 1878年10月15日 | 1878年8月23日 | 反乱に加わり官金を窃取した罪。即日銃殺刑[61][62]。 |
東京・浅草蔵前古物商強盗殺人事件(高橋お伝) | 1879年1月31日 | 1876年8月23日 | 1879年1月31日に死刑執行。 |
竹橋事件(平山荆) | 1879年4月10日 | 1878年8月23日 | 小島万助らの賞典減給に不平を抱いており、横山昇らが反乱に加わった際にはこれを制止せず、様子を見て自らも加わろうとした。即日死刑執行[61][62]。 |
竹橋事件(梁田正直) | 1879年4月10日 | 1878年8月23日 | 小島万助らの賞典減給に不平を抱いており、様子を見て自らも反乱に加わろうとした。即日死刑執行[61][62]。 |
1880年代
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
千葉媒酌人一家6人殺害事件(横森末吉) | 1880年4月22日 | 1879年2月27日 | 横森は妻と不仲になったため仲直りをしようとしたが、媒酌人に妨害された上、罵られたことに憤怒し、媒酌人の殺害を決意。脇差を持って被害者宅に侵入し媒酌人を殺害したが、その際に妻子も目覚め出したため精神錯乱状態に陥り、手当たりしだいに切り付けて被害者の妻子5人も殺害した。一審の東京上等裁判所は、本来は斬罪であるところ情状を酌量し終身刑を言い渡した。検事は判決を不服として上告。大審院は妻子まで殺害したことに情状酌量の余地は無いとして一審を破棄、被告に斬罪を言い渡した[63]。 |
堤上村老人強盗殺人事件(篠塚直十) | 1880年7月9日 | 1868年7月17日 | 土川與五郎(1877年死刑判決)らと共謀し老人を殺害して金を奪う。被告は事件後金を酒のツケ返済に充てて逃亡したが、1879年に賭博で逮捕され、その過程で過去の殺人を詳細に自白した。一審の熊谷裁判所前橋支庁は事件を殺意が低い“闘殴殺”に近いものとして認定した上で、改定律例頒布以前であることを酌量し懲役10年を言い渡した。検事は判決を不服として上告。大審院は殺意を認めて一審を破棄、被告に斬罪を言い渡した[64]。 |
大蔵三等属一家4人強盗殺人事件 (岩尾竹次郎) | 1881年 | 1881年2月 | 1881年7月27日に死刑執行。九代目山田浅右衛門による最後の斬首刑[55][65]。 |
大蔵三等属一家4人強盗殺人事件 (川口国蔵) | 1881年 | 1881年2月 | 上記共犯者、1881年7月27日に死刑執行。九代目山田浅右衛門による最後の斬首刑。 |
養父母謀殺・放火事件(柳井鶴松) | 1883年7月11日[66] | 1882年10月14日 | 養父母を殴殺し、家屋に放火。 |
養父母謀殺事件(會田佐十郎) | 1883年7月23日[67] | 1883年3月3日 | 1883年7月20日頃死刑執行(28歳没)[68]。 |
愛媛県管生村持凶器窃盗未遂・故殺事件(山中道太郎) | 1883年7月24日[69] | 1883年1月21日 | 被害者宅に窃盗目的で侵入し、住人を殺害。 |
煙草店強盗殺傷事件(表谷嘉十郎) | 1883年8月25日[70] | 1882年8月18日 | 煙草店に宿泊した夜、同店管理人を殺害、雇人に重傷を負わせ、金五十圓を強奪。死刑執行[71]。 |
養母謀殺事件(寺田善吉) | 1883年9月4日[72] | 1882年9月1日[73] | 実家から持ち出した脇差で養母を殺害。 |
島根県本郷村強盗殺人事件(藤野天丸) | 1884年6月10日[74] | 1882年8月12日 | 被害者宅に押し入り、家人を縛っている際に同家の養子が裏口から逃げ出し、隣家に助けを求めようとしたため、追いかけて殺害。 |
島根県本郷村強盗殺人事件(田中其太) | 1884年6月10日 | 1882年8月12日 | 上記共犯者。 |
斬首謀殺事件(佐伯京藏) | 1884年6月11日[75] | 1882年10月18日 | 佐伯は明治14年以来、脱獄や強窃盗、殺人等10個の罪を犯した。その内被害者を食事中に裏庭に呼び出して斬首した謀殺の罪で死刑判決。 |
賭博仲間謀殺・金品強奪事件(神長吉五郎) | 1884年10月10日[76] | 1883年12月17日 | 賭博中に被害者が不良品のサイコロを使用したとして口論になったため、熟睡を窺って殺害し、金品を強奪。 |
賭博仲間謀殺・金品強奪事件(神長百藏) | 1884年10月10日 | 1883年12月17日 | 上記共犯者 |
大阪府長興寺村夫婦強盗殺人事件(清水藤吉) | 1884年10月29日[77] | 1882年11月8日 | 夜、氏名不詳の4名と共謀して被害者宅に押し入り、夫婦を殺害、同家に居合わせた一名に傷を負わせ、金品を強奪した。 |
秩父事件(田代栄助) | 1885年2月19日 | 1884年10月31日-11月9日 | 政府に対する武装蜂起。1885年5月17日に死刑執行(52歳没)。 |
秩父事件(加藤織平) | 1885年2月19日 | 1884年10月31日-11月9日 | 上記共犯として死刑執行(37歳没)。 |
秩父事件(高岸善吉) | 1885年2月19日 | 1884年10月31日-11月9日 | 上記共犯として死刑執行(37歳没)。 |
秩父事件(坂本宗作) | 1885年2月19日 | 1884年10月31日-11月9日 | 上記共犯として死刑執行(32歳没)。 |
秩父事件(新井周三郎) | 1885年2月19日 | 1884年10月31日-11月9日 | 上記共犯として死刑執行(24歳没)。 |
秩父事件(菊池貫平) | 1885年2月19日 | 1884年10月31日-11月9日 | 上記共犯で死刑判決を受けるも、逃走中だったため欠席裁判となる。1886年に強盗教唆で逮捕されて収監されるが、大日本帝国憲法発布の大赦で免罪、別件で無期懲役。1905年に出獄、1914年死去。 |
秩父事件(井上伝蔵) | 1885年2月19日 | 1884年10月31日-11月9日 | 上記共犯で死刑判決を受けるも、逃走中だったため欠席裁判となる。北海道で変名で生活し、1918年に死去。 |
人力車夫殺害事件(赤井景韶) | 1885年6月9日[78] | 1884年 | 高田事件で重禁錮9年の判決を受けて服役中に脱獄し、逃走中に人力車夫を殺害して逮捕された。1885年7月27日に死刑執行[79](27歳没)。 |
加波山事件(富松正安) | 1886年8月12日 | 1884年9月23日 | 栃木県令三島通庸の暗殺未遂。1886年10月5日に死刑執行(38歳没)。 |
加波山事件(保多駒吉) | 1886年8月12日 | 1884年9月23日 | 上記共犯で死刑執行(27歳没)。 |
加波山事件(琴田岩松) | 1886年8月12日 | 1884年9月23日 | 上記共犯で死刑執行(25歳没)。 |
加波山事件(小針重雄) | 1886年8月12日 | 1884年9月23日 | 上記共犯で死刑執行(23歳没)。 |
加波山事件(杉浦吉副) | 1886年8月12日 | 1884年9月23日 | 上記共犯で死刑執行(43歳没)。 |
加波山事件(三浦文治) | 1886年8月12日 | 1884年9月23日 | 上記共犯で死刑執行(31歳没)。 |
加波山事件(横山信六) | 1886年8月12日 | 1884年9月23日 | 上記共犯で死刑判決を受けるが、執行前の1886年9月3日に肺病のため獄死[80](24歳没)。 |
「青森の亭主殺し」事件(小山内スミ) | 1886年11月6日 | 1886年8月18日 | 12月に死刑執行。浮気相手(小野長之助)と共謀し、青森県陸奥国中津軽郡鬼沢村(現在の弘前市)で自分の夫を殺害した女性死刑囚。法に反して公開で斬首刑に処されたという。地元では数え歌が作られたり、『鬼沢新聞・枕の刃』という覗きメガネが作られた[81]。 |
「青森の亭主殺し」事件(小野長之助) | 1886年11月6日 | 1886年8月18日 | 12月に死刑執行。上記共犯[81]。 |
「ピストル強盗[82]」事件(清水定吉) | 1887年8月[83] | 1882年 - 1886年 | 日本最初のピストル強盗。1887年9月7日に死刑執行[83]。 |
尻無川事件(佐野義一) | 1888年10月16日 | 1887年1月2日 | 大臣暗殺を企て上阪したが、尻無川で金銭のもつれから高知県人を縊殺[84][85]。1889年4月15日に死刑執行[86]。 |
1890年代
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
強盗殺人事件(長島高之助) | 1893年5月12日 | 1893年7月24日 | 強盗目的で侵入し、犯罪の発覚を恐れて斧で須崎光太郎に重傷を負わせ死に至らしめ、長嶋に飛び掛かってきたキミ(光太郎の妻)を殺害。更に、当時4歳だったコト(光太郎の娘)を泣き出したことを理由に殺害した。 その後、捕まり、裁判では強盗殺人ではなく須崎光太郎から賭博で貸した金の催促の際、口論となって殴っただけであると主張したが、最終的に東京控訴院により死刑判決が確定する[87][88]。そして、長島が死刑執行の3日間の猶予を懇願し、号泣しながら一寸も微動だにせず、看守らにより形場まで引き連れた上で、1893年7月27日に執行された。しかし、執行用の縄が2回とも外れ長島高之助が地上から落下してしまい、3回目でようやく執行するという事故が発生している[89][90][88]。 |
山座峠強盗殺人事件(河野才蔵) | 1893年5月20日 | 1893年4月9日 | 1904年6月13日に死刑執行[91]。 |
連続針金強盗殺人事件(貝原喜勢冶) | 1897年3月 | 1894年 - 1897年 | 連続強盗殺人犯、途中で共犯となった高橋金作は無期懲役、なお、高橋金作は熱で寝込んでいたため広島護送死刑囚脱獄事件には参加していない、処刑場に護送中に脱獄し警察官と格闘した際の傷で1897年12月死亡[92]。 |
連続針金強盗殺人事件(福永友三郎) | 1897年3月 | 1894年 - 1897年 | 上記共犯、護送中に一緒に脱獄し警察官と格闘し首を切り落とされ1897年6月死亡[92]。 |
連続針金強盗殺人事件(湊蔵貞) | 1897年3月 | 1894年 - 1897年 | 上記共犯、護送中に一緒に脱獄したが、再逮捕され広島監獄に収監[92]。 |
連続針金強盗殺人事件(明石章吉) | 1897年3月 | 1894年 - 1897年 | 上記共犯、護送中に一緒に脱獄し、以後消息不明[92]。 |
西導寺バラバラ殺人事件(黒田水精) | 1898年6月20日 | 1896年12月 | 下記共犯者である妻と共謀して、水精の従弟を金銭目的で睡眠薬を飲ませた後に殺害、その後にバラバラに解体し自分の寺である西導寺の境内に埋めた[93][94]。 |
西導寺バラバラ殺人事件(黒田華尾) | 1898年6月20日 | 1896年12月 | 上記共犯者、女性死刑囚。 |
山陽鉄道列車強盗殺人事件(岩永元吉) | 1899年2月27日 | 1898年12月2日 | 走行中の夜行列車で陸軍大尉を殺害、列車内の殺人は日本国内では最初[95]。1899年10月30日に死刑執行。 |
山陽鉄道列車強盗殺人事件(中島多次郎) | 1899年5月3日 | 1898年12月2日 | 上記共犯者、一審は無期だったが、検察が控訴し逆転死刑判決。1899年10月30日に死刑執行。 |
稲妻強盗事件(坂本慶次郎) | 1899年10月6日 | 1898年11月15 - 1899年1月23日? | 連続強盗殺人犯、日本刀やピストルを用いて強盗目的で連続的に殺害、犯行の範囲が広い事から「稲妻強盗」や「稲妻小僧」の異名を持つ。1900年2月17日に死刑執行。 |
ミルラー事件(ロバート・ミルラー) | 1899年12月23日[96] | 1899年7月17日 | 就寝中の日本人女将と店員の日本人女性(いずれも当時24歳)、アメリカ人青年(当時18歳)の3名を殺害。1900年1月16日に死刑執行[97]。日本の法律に基づく在留外国人の死刑執行第1号。 |
大和九人斬り(血塗騒動)(尾崎留吉) | 1894年4月 | 刀で一家8人を惨殺(胎児も含めると9人)[98][99][100]。 |
1900年代
1906年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
青森連続放火事件(E) | 1905年3月3日 | 1904年12月19日 - 1905年1月12日 | 快楽目的で連続的に放火、犠牲者は出なかったが、放火の罪で死刑判決[101]。 |
「紬屋殺し[102]」事件(大久保時三郎) | 1906年11月17日 | 1905年11月8日 | 紬屋1人を誘い出し殺害。そして紬屋仲間1人を偽の書状で誘い出しこれも殺害。反物を質に入れ400円を得る。さらに2人に借金をしたが返済がないと嘘を言い、家人をだまし現金を得ようとした。共犯の妻は無期徒刑となった。また、別件で詐欺もしている[103]。1909年4月23日に死刑執行[104]。 |
堀江六人斬り(中川萬次郎) | 1906年2月16日[105] | 1905年6月21日 | 親族ら6人を刀剣で斬り付け、5人を殺害。1907年2月1日に死刑執行[106]。 |
強盗殺人(矢野袈裟松) | 1906年5月25日 | 1907年4月22日に死刑執行[107]。 | |
強盗殺人(坂本善作) | 1906年7月20日 | 1908年5月16日に死刑執行[108]。 | |
強盗殺人(込山林三) | 1906年11月13日 | 1908年5月12日に死刑執行[109]。 | |
強盗殺人(東文雄) | 1906年12月7日 | 1908年5月26日に死刑執行[110]。 | |
謀殺(佐藤爲蔵) | 1906年12月7日 | 1908年5月27日に死刑執行[111]。 | |
北海道一已村一家7人殺害事件(神谷勇松) | 1906年12月18日 | 謀殺罪で死刑判決。1908年5月15日に死刑執行[108][112]。 | |
日本橋貰い子殺人事件(箕形イチ) | 1906年12月25日 | 1896年 - 1906年[113] | 女性死刑囚、1906年春以来数十名〜200名以上の貰い子を殺害。残虐性極まりない犯行から「悪婆」の異名を持つ。1908年5月26日に死刑執行[110][114][115]。 |
日本橋貰い子殺人事件(川原あきの) | 1906年12月25日 | 1896年 - 1906年 | 女性死刑囚、上記共犯者、1908年5月26日に死刑執行。 |
強盗殺人(松田廣吉) | 1906年12月25日 | 1908年8月6日に死刑執行[116]。 |
1907年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
謀殺(石田菊次郎) | 1907年2月5日 | 1908年5月29日に死刑執行[117]。 | |
強盗殺人(黑川己之吉) | 1907年4月15日 | 1908年6月13日に死刑執行[118]。 | |
強盗殺人(中村才一郎) | 1907年4月15日 | 1908年6月13日に死刑執行[118]。 | |
強盗殺人・強盗傷人・放火(山村富太郎) | 1907年4月22日 | 1908年5月17日に死刑執行[119]。 | |
謀殺(藤井正太郎) | 1907年4月26日 | 1908年5月29日に死刑執行[117]。 | |
強盗殺人(田畑忠市) | 1907年5月15日 | 1908年5月26日に死刑執行[110]。 | |
伯父謀殺事件(鶴田才藏) | 1907年6月7日 | 1906年1月10日 | 伯父で予備陸軍軍曹の男性を殺害[120]。1909年10月4日に死刑執行[121]。 |
肝取り勝太郎事件(馬場勝太郎) | 1907年6月14日 | 1905年 - 1907年 | 謀殺既遂、謀殺未遂、故殺既遂の罪。1908年6月18日に死刑執行[122]。 |
強盗殺人(有吉義良) | 1907年6月25日 | 1908年6月1日に死刑執行[123]。 | |
中国天津豪商強盗殺人事件(石附宇吉) | 1907年9月10日 | 勲八の軍人であったものの、清国滞在中に馬賊に加わって略奪を行い、更に同僚2人とともに天津の豪商を殺害し、軍票二千円を強奪[124]。1908年6月3日に死刑執行[125]。 | |
野口男三郎事件(野口男三郎) | 1907年10月10日[126] | 1905年5月14日 | 3件の殺人と1件の文書偽造で起訴。うち薬店店主殺害事件と卒業証書偽造が有罪となる。1908年7月2日に死刑執行。 |
茨城県島名村実父殺害事件(根本茂平) | 1907年11月21日[111] | 1905年4月20日 | 恋仲にあった女性が妊娠したため、両親に結婚を認めてもらおうとしたが、父親が認めなかったため、日本刀で斬殺。1908年5月30日に死刑執行[127]。 |
1908年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
強盗殺人(鈴木芳太郎) | 1907年2月14日 | 1908年8月4日に死刑執行[128]。 |
1909年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
強盗殺人(山口虎彦) | 1909年6月17日 | 1909年10月18日に死刑執行[129]。 | |
栃木県南摩村一家3人強盗殺傷事件(岩本初三郎) | 1909年10月22日 | 1908年12月27日 | 貧困による金銭欲しさで被害者宅に侵入。夫婦を日本刀で斬殺し、長女に重傷を負わせた[130]。1910年2月15日に死刑執行[131]。 |
栃木県片岡村夫婦殺害事件(小滝恵比之助) | 1909年10月29日 | 1907年6月10日 | 1907年6月10日深夜、栃木県塩谷郡片岡村(現:矢板市)で夫婦が殺害される事件が発生。同居していた被害者夫婦の娘婿で養子の小滝恵比之助(29)は、「二人組の賊に縛られて脅された。その後被害者らが就寝する奥座敷で悲鳴が聞こえた。」旨証言。しかし小滝は、訴訟を繰り返したり、温泉宿を開くといい金を放蕩する被害者夫婦らと折り合いが悪かったことが判明。その後取り調べの結果、共犯者の平山卯三郎(29)とともに逮捕された。2人は1908年4月に死刑判決を受けたが、1909年7月10日、東京控訴院で小滝は死刑、平山は無期徒刑に減軽された。同年10月29日、小滝の上告は棄却され死刑が確定。1910年2月3日、小滝の死刑が執行された[132][133]。 |
生坂村惨殺事件(矢花酒造恵) | 1909年5月25日 | 下記共犯者である平林親子と矢花の3人で共謀し強盗目的で生坂村の一家5人を刀で惨殺。1912年3月4日に執行死刑[134][135]。 | |
生坂村惨殺事件(平林林蔵) | 1909年5月25日 | 上記共犯者、下記の共犯者は林蔵の息子である。1912年3月4日に執行死刑[136]。 | |
生坂村惨殺事件(平林幹雄) | 1909年5月25日 | 上記共犯者、上記共犯者は幹雄の父親である。1912年3月4日に執行死刑[137]。 |
1910年代
1910年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
伊藤博文暗殺事件(安重根) | 1910年2月14日 | 1909年10月26日 | 関東都督府法院(二審制)で一審死刑判決。控訴せず確定。1910年3月26日に死刑執行。 |
佐賀貰い子殺人事件(百武栄一)[138] | 1910年6月7日[139] | 1902年〜1905年 | 下記共犯者である妻と共謀して、療育費をだまし取る目的で生後6ヶ月の幼女を餓死させた。しかし医師が自然死の死亡診断書を書いたので事件は発覚しなかった、これに味をしめた夫婦は、行商人の松本ツエと共に、近隣各県から私生児を10円〜25円の療育費で引き取っては殺害し土に埋めた、なかには生き埋めにされた新生児もいた、夫婦と行商人の松本ツエは逮捕され、犠牲者は60人よりも少し多いと自供した。事件発覚後に3人組の犯行に激怒した近隣住民が夫婦の家を破壊したと言う。夫婦に死刑判決、共犯の松本ツエは懲役12年の刑となった、なお犯人達は「鬼」と呼ばれこの事件は当時の世間を騒がせ、多くのメディアが「鬼の顔を人目見たい」と懇願までし、大騒動となった。アメリカやイギリスの新聞にも取り上げられた。1913年2月8日死刑執行[140]。 |
佐賀貰い子殺人事件(百武タカ) | 1910年6月7日 | 1902年〜1905年 | 上記共犯者、女性死刑囚、1913年2月8日死刑執行。 |
東京府森元町乾物商夫婦強盗殺人事件(竹内徳藏) | 1910年11月28日 | 1910年2月1日 | 同家の雇人2名による犯行。もう一人は懲役12年に処された。1911年4月12日に死刑執行[141][142]。 |
阿弥陀堂堂主強盗殺人事件(岩上洪治[143]) | 1910年12月22日 | 1910年3月24日[144] | 阿弥陀堂に忍び入り、呼びとめて問いただしたことを理由に金火箸で堂守の僧侶を20か所余りの傷を負わせせて殺害し、米5升と4円[注 1][145]の金銭を窃盗する。1911年7月13日に死刑執行。[146]執行時の年齢が数え年で18歳(少年死刑囚)であったため、旧刑法制定して以来、20歳未満で初めて死刑執行された人物となり、30年ぶりに20歳未満の者が死刑執行された[147][148][144]。 |
1911年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
幸徳事件(幸徳秋水) | 1911年1月 | 1910年6月 | 天皇の暗殺を計画した大逆罪[注 2]の首謀者として死刑、判決6日後の1月24日に死刑執行(39歳没)。ただし実際には死刑判決を受けた24人(12人は恩赦減刑)のうち、陰謀に加担[注 3]していたのは5人のみであり、幸徳秋水も含む19人は冤罪だったと言われている。政府による社会主義者弾圧事件であったとされている。 |
幸徳事件(管野スガ) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 女性の社会運動家、彼女のみ1月25日に死刑執行(29歳没)。実際に陰謀に加担していた。 |
幸徳事件(森近運平) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(30歳没)。実際は陰謀に加担していたと言われている。 |
幸徳事件(宮下太吉) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(25歳没)。実際は陰謀に加担していたと言われている。 |
幸徳事件(新村忠雄) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(23歳没)。実際は陰謀に加担していたと言われている。 |
幸徳事件(古河力作) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(26歳没)。実際は陰謀に加担していたと言われている。 |
幸徳事件(奥宮健之) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(44歳没)。 |
幸徳事件(内山愚童) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 僧侶の社会主義者。1月24日に死刑執行(36歳没)。 |
幸徳事件(大石誠之助) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(43歳没)。 |
幸徳事件(松尾卯一太) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(31歳没)。 |
幸徳事件(新美卯一郎) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(32歳没)。 |
幸徳事件(成石平四郎) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 1月24日に死刑執行(29歳没)。兄も同罪として死刑判決を受けたが恩赦減刑。 |
幸徳事件(高木顕明) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 住職を務める和歌山県の浄泉寺で幸徳の談話会を寺で開催したことを咎められ死刑判決。後に恩赦減刑されたが1914年に自殺(50歳没)。判決前に僧籍剥奪処分を受けたが1996年に僧籍復帰の名誉回復が行われた。 |
幸徳事件(峯尾節堂) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、恩赦減刑されたが1919年に獄死。 |
幸徳事件(岡本一郎) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、恩赦減刑されたが1917年に獄死。 |
幸徳事件(三浦安太郎) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、恩赦減刑されたが1916年に自殺。 |
幸徳事件(佐々木道元) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、恩赦減刑されたが1916年に獄死。 |
幸徳事件(成石勘三郎) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 弟平四郎とともに同罪として死刑判決を受けたが弟処刑後に恩赦減刑された。1929年仮出所、1931年死去。 |
幸徳事件(坂本清馬) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、無期懲役に恩赦減刑。1934年仮出所、1947年特赦[注 4]。1961年に再審請求したが1967年に最高裁で棄却。1975年死去[149]。 |
幸徳事件(崎久保誓一) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、無期懲役に恩赦減刑され、1929年に仮出所、1955年死去。 |
幸徳事件(武田九平) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、無期懲役に恩赦減刑され、1929年に仮出所、1932年に事故死。 |
幸徳事件(飛松与次郎) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、無期懲役に恩赦減刑され、1925年に仮出所、1953年死去。 |
幸徳事件(小松丑治) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、無期懲役に恩赦減刑され、1931年に仮出所、1945年死去。 |
幸徳事件(岡林寅松) | 1911年1月18日 | 1910年6月 | 死刑判決後、無期懲役に恩赦減刑され、1931年に仮出所、1948年死去。 |
柏木の一家鏖殺事件(菊池辰太郎) | 1911年2月17日 | 1910年11月13日 | 犯行当時は19歳(少年死刑囚)、夜9時に金を借りるために被害者である金五郎宅へ訪れた、金五郎ともう1人の被害者である小僧萬起壽が銭湯から帰ってくるを待っていた妻のサダに「金貸してくれ」と懇願したが断られた為、深夜の午前2時に着衣を脱ぎ、シャツ1枚になり、唐鍬で戸をこじ開け侵入、主人の寝室に忍び込みタンスを開けるがその直後にサダが寝返りをうったため、犯行に気づかれたと思い込んだ菊池はサダを唐鍬で殴り斬り即死させた、さらに金五郎と小僧萬起壽も殺害した、その後にタンスの引き出しから財布を盗み逃走するが逮捕、1911年2月17日に死刑判決が言い渡された[150][151][152]。 |
1912年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
岡山県勝田郡強盗殺人事件 (J) | 1912年2月6日 | 1911年7月8日 | 勝田郡梶並村で、孫(当時32歳)が住居侵入罪の罰金20円が支払えず労役場留置処分を免れる為に金策協力を頼んだ祖父(当時74歳)に断られた。そのため祖父のへそくり50円を奪う為に殺害。1914年2月7日に死刑執行[153]。 |
鴨川右岸交際相手母殺害事件(上杉惠津郎) | 1912年3月12日 | 1911年3月19日 | 名古屋投宿中に母娘を誘い出し3人で生活。母娘ともに情を通じていたが、3人の間で嫉妬による喧嘩が発生。娘との仲を娘の母が邪魔していると邪推し、娘の母を京都府鞍馬口村の鴨川右岸で絞殺。後に各地で短銃強盗をしていたことも判明。殺人罪等で死刑が確定し、1914年1月28日に死刑執行[154][155]。 |
1913年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
岡山県上建部村実母殺害事件(溝口彭太) | 1913年5月6日 | 1912年10月12日 | 日頃から疎ましく思い食事を十分に与えていなかった母が豆を無断で食べたことから殺害を決意。手拭で絞殺し、家の下を流れる河原に遺棄。1913年12月24日に死刑執行[156][157]。 |
亀戸警察官電殺事件(Y) | 1913年12月9日 | 1913年4月4日 | 強盗目的で警察官を感電死させた。 |
1914年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
強盗致死(木島長德) | 1914年2月6日 | 1915年8月17日に死刑執行[158]。 | |
強盗致死(塩津要之助) | 1914年5月30日 | 1915年8月23日に死刑執行[159]。 | |
岡山県高松町強盗殺人事件(小林磯平) | 1914年6月24日 | 1914年1月21日 | 酒飲みたさに借金を申し込んだが断られたため棒で殴打し計百六十円を強取。1915年4月30日に死刑執行[160][161]。 |
強盗致死(藤岡重信) | 1914年9月28日 | 1915年8月23日に死刑執行[159]。 | |
愛知貰い子殺人事件(坂倉しげ) | 1914年10月21日 | 1898年 - 1913年 | 養育できない私生児を金銭とともに引き取りながら殺害する貰い子殺人常習犯。犠牲者は200人以上とされる。共犯2人とともに1915年9月9日に死刑執行。 |
愛知貰い子殺人事件(沖つた) | 1914年10月21日 | 1898年 - 1913年 | 上記共犯者。 |
愛知貰い子殺人事件(猪飼なか) | 1914年10月21日 | 1898年 - 1913年 | 上記共犯者。 |
丹生山中の二人殺し(桑田芳平) | 1914年12月3日 | 1913年12月15日 | 借金の返済を免れる為に被害者を射殺。更にその報酬を要求してきた共犯者も射殺[162]1915年9月17日に死刑執行[163]。 |
殺人(伊原淸太郎) | 1914年12月8日 | 1915年8月23日に死刑執行[159]。 | |
岡山県興除村一家3人殺害事件 (徳山黒太) | 1914年12月16日 | 1914年9月26日 | 未亡人A(当時52)は養子一家が家督相続することを不満に思っていた。そこで情夫B(当時55)に借金230円の棒引きと400円の報酬を約束し、養子一家殺害を指示し自身は事件当日外泊しアリバイ工作をしていた。また近所には自分が虐待されているといった虚偽の噂を立てていた。1915年8月27日に死刑執行[164]。 |
岡山県興除村一家3人殺害事件 (枝広勝) | 1914年12月16日 | 1914年9月26日 | 女性死刑囚の可能性?上記共犯者。なおBは殺害の手助けをCにさせていたが、Cは懲役10年になった。主犯Aとともに1915年8月27日に死刑執行[164]。 |
1915年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
青森実父殺害事件(葛西三九郎) | 1915年4月30日 | 1914年9月5日 | 犯行当時18歳(少年死刑囚)、嫌な嫁を貰わせられ、離婚したがっていたが、父親がこれを渋ったため、小刀で刺して溺死させ、強盗の仕業に見せかけた[165]。1915年8月16日に死刑執行[159]。 |
強盗致死(澤口萬吉) | 1915年6月19日 | 1915年8月16日に死刑執行[166]。 | |
岡山県長尾村未亡人強殺・放火事件(兼近治之助) | 1915年10月9日 | 1915年6月11日 | 情交関係にあった未亡人の首を絞めて財布を強奪し、布団に放火。1909年に内妻を殺害した罪で服役し、出獄したばかりだった。1916年6月24日に死刑執行[167][168]。 |
小石川七人斬り事件(大岩寅次郎) | 1915年10月22日 | 1915年3月15日 | 東京電燈小石川出張所において、同社主任以下7人が襲われ、5人が死亡した強盗殺人事件。2人とも1916年8月12日に死刑執行[169]。 |
小石川七人斬り事件(香取彦次郎) | 1915年10月22日 | 1915年3月15日 | 上記共犯者、1916年8月12日に死刑執行。 |
1916年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
大米龍雲連続殺人事件(大米龍雲) | 1916年5月22日 | 1905年 - 1915年 | 僧侶による連続強姦強盗殺人事件。犯行手口として舌を抜く、目玉をえぐり出す、陰部を生け花用バサミで突き刺すなどといった猟奇的な犯行から「和製の切り裂きジャック」の異名持つ、被害者の多くが尼僧であったことから「殺尼魔」とも報道された。6月26日に死刑執行[168]。 |
一家四人死刑事件 (細山要太郎) | 1916年7月8日 | 1914年12月30日 | 一家の父親が殺された事件について、一審では被害者の姑と妻、2人の息子の4人全員が死刑判決を受けた。控訴審では長男の単独犯行とされ、他の3人は無罪となった。死刑を維持された長男は、犯行は外部犯によるものとして無実を訴え続けたが1917年12月8日に死刑執行[170]。 |
名古屋市妻保険金殺人事件(種村見道) | 1916年11月6日 | 1915年12月28日 | 市会議員の男(41)が、保険金目的で妻(35)を絞殺し、強盗の仕業に見せかけた。男は妻がありながら放蕩して負債を負ったことから壮年会の金を使い込んでおり、その返済のための犯行だった[171]。1917年7月20日に死刑執行[172]。 |
東京・柳島自転車商一家殺人事件(橋本平三郎) | 1916年6月14日 | 1915年3月30日 | 冤罪事件、「警察の言う通りにすれば苦しまずにすむ、裁判で本当ことを言えばいいんだ」と警察に脅されたことで自白を強制されられた、1916年6月14日に再審請求で無罪確定。 |
1917年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
歌人夫婦殺し事件 (石井藤吉) | 1917年1月31日 | 1915年6月17日 | 横浜市在住の歌人O宅に強盗に押し入り、Oとその内縁の妻二人を殺害。その後石井は1915年7月13日に愛知県にて警官1名を殺害、同年11月から12月に掛けて共犯のSと共に2件の強姦強盗事件を起こした末に12月11日に逮捕。その取り調べの過程で鈴ヶ森おはる殺し事件に関する秘密の暴露を含む供述を開始した。石井は本件と鈴ヶ森おはる殺し事件の2件の死刑判決を受け、1918年8月17日に死刑執行[173]。 |
広島養父母殺害事件(小池幸二) | 1917年10月1日[174] | 1916年9月7日[175] | 5人で共謀し、財産目的で養父母を殺害。2名死刑、2名無期懲役判決。1918年2月18日に死刑執行[174]。 |
広島養父母殺害事件(中元三一郎) | 1917年10月1日 | 1916年9月7日 | 上記共犯者、1918年2月18日に死刑執行。 |
イルマ殺し (田中徳一) | 1917年10月26日 | 1917年2月26日[176] | 日独戦ドイツ兵捕虜となった夫と面会をするために来日していた女性に対する強盗殺人事件。夫は妻の後を追って自殺。1917年4月8日に逮捕され[177]、死刑判決後の1918年3月11日に長崎刑務所で死刑執行[178]。 |
「二十四人の嬰児殺し」事件 (S) | 1917年[179] | 不明 - 1917年[179] | 貰い子殺人の一種、1917年12月19日に死刑執行[180]。 |
1918年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
鈴ヶ森おはる殺し事件(石井藤吉) | 1918年3月30日 | 1915年4月30日 | 同時期に検察は同じ事件で「単独犯」として2人の裁判を進め、一人は無罪になった。真犯人とされた石井は1918年8月17日に死刑執行[173]。 |
神戸山中妻殺害事件 (K) | 1918年5月15日 | 1917年4月6日 | 養子を虐待する妻との離婚話がこじれた為、岡山市の男が神戸市の山中に連れ出して殺害。男は養子を実家に預けたあと外地に逃亡。1918年2月になって朝鮮から中華民国の青島へ逃亡しようとしていたところを逮捕。1919年2月19日に死刑執行[181]。 |
1919年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
岡山巡礼女性殺害事件 (上田仁作) | 1919年12月2日 | 1916年4月ごろ | 1916年4月に京都の寺院に巡礼に出かけるとして行方不明になっていた広島県高田郡の主婦が1917年4月18日になって岡山県都窪郡の廃坑で白骨死体として発見された。犯人として金銭目当てに被害女性の夫を広島県深安郡に呼び出し、山陽本線大門駅付近の山道で殺害しようとした殺人未遂の罪で服役中のAが逮捕起訴された。Aは殺害を否定し被害者は情夫の妻に殺害され自身は何者かにはめられたと主張したが、該当する人物は存在せず、そのうえAが妻に胴着するようにと渡した羽織が被害者が持参していたものと判明。それらを証拠に死刑が確定。1923年8月21日に死刑執行[182]。 |
1920年代
1920年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
斎藤実朝鮮総督暗殺未遂事件(姜宇奎) | 1919年9月2日 | 1920年11月29日に絞首刑執行。 | |
15歳少女連続強姦殺人事件かつ東京・柳島自転車商一家殺人事件(南館正夫) | 1915年3月30日・1915年4月・1916年7月 | 犯行当時は15歳の中学生(少年死刑囚)、東京の柳島に住む自転車商一家が玄能で滅多打ちにされ虐殺された。警察は事件とは全く無関係な人物を取り調べたことで冤罪事件を生じさせ、南館を検挙することが出来なかった。しかし逮捕から5年後に1920年7月24日に南館は籠いっぱいのナスを畑から盗み逮捕された[183][184]、その後に南館が毎日のように夜に奇声を上げて魘されているため、警察が「四人殺しをやったのは自分だ!と叫んでいたが本当か?」と余罪を追及すると一家殺しを自供し、自ら「申し訳ありません、犯人は確かに私です。」と認め、警察から「しかしよく考えてものをいいなさい、今年君は20歳だ、柳島殺しがあったのは5年前だから、当時君は15歳だ、そんな大それた事がやれるかね?」と言われたが容疑を否認することなく「いえ私です。あれ以来、もう生きていても生きた心地がしません。どうか私を死刑にしてください。」と激しく反省し犯行を認めた。また事件の翌月の1915年4月には栃木県で15歳の少女を強姦して刺殺、1916年7月には東京で同じく15歳の少女を強姦して絞殺していた事も自供。1922年代に死刑執行?(22歳没) |
1921年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
岡山県池田村母子強盗殺人事件(橋本玉男) | 1921年1月14日 | 1920年5月12日 | 従妹にあたる女性(39)とその長男(2)を殺害し預金通帳を強取。1916年6月24日に死刑執行[185][186]。 |
鈴弁殺し事件(山田憲) | 1921年3月10日 | 1919年5月31日 | 1921年4月2日に死刑執行。 |
福岡・大分連続強盗殺人事件(山口豁) | 1921年4月28日 | 1920年9月 - 10月 | 福岡県内の飲食店で手提げ金庫を盗んだ際に主人が目を醒まし捕らえようと背後から組み付いたため、出刃包丁で斬りつけ殺害。翌月には大分県佐伯町の旅館を襲撃し宿泊客23人の金品を盗んだ際、捕らえようと背後から組み付いた1人を短刀で刺し殺害。1921年6月21日に死刑執行[187][188]。 |
浜名郡貰い子殺人事件(鈴木小三郎) | 1919年7月26日-1920年10月5日 | 貰い子殺人の一種、按摩正悦こと鈴木小三郎は田辺幸次郎と共謀して、1919年7月26日から1920年10月5日にかけ10人の嬰児を療育費目当てで受け取りその後に絞殺するなどとして殺害。第一審は無期懲役であるが、第二審では逆転死刑、田辺には懲役15年[189]。 | |
高知貰い子殺人事件(赤バッチ事件)(中内丑太郎[190][191]) | 1920年1月 - 1921年3月 | 貰い子殺人の一種、赤バッチ事件とも呼ばれ「殺人鬼・赤バッチ」と恐れられた連続殺人犯。9人の嬰児を殺害した罪で死刑判決[192]。 |
1922年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
六反池バラバラ事件 (S) | 1922年1月[193] | 1920年12月6日[194] | 1922年6月に死刑執行[193]。 |
広島県赤坂村一家3人強盗殺人事件(横田勇) | 1922年6月1日 | 1921年8月12日 | 赤坂駅前の運送店で男性(28)と同妻(23)及び同息子(3)を殺害。1923年3月24日に死刑執行[195][196]。 |
1924年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
栗林公園・蓮池投げ込み殺人事件(U) | 1924年4月 | 1923年7月1日 | 公園へ散歩へ行こうと連れの女性を誘って蓮池の前で下駄で殴り気絶させた後に絞殺。日は不明だが1924年7月に死刑執行[197][198]。 |
虎ノ門事件(難波大助) | 1924年11月13日 | 1923年12月27日 | 摂政宮(後の昭和天皇)暗殺未遂で大逆罪により有罪(法定刑は死刑のみ)。確定2日後の11月15日に死刑執行。 |
1926年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
朴烈事件(朴烈) | 1926年3月25日 | 1925年 | 天皇暗殺を計画したとして無政府主義者の朝鮮人が有罪になるも4月5日に恩赦により減刑。1945年10月に釈放され韓国国務委員に就任したが朝鮮戦争の最中に北朝鮮へ連行され、1974年死亡(田中清玄によると処刑という)。 |
朴烈事件(金子文子) | 1926年3月25日 | 1925年 | 女性死刑囚。無政府主義者で朴烈の愛人。共犯として死刑宣告も4月5日に恩赦で減刑。7月23日に獄死(当局発表は縊死)した。 |
ギロチン社事件(中浜哲) | 1926年 | 1923年-1925年 | 企業への恐喝、殺人未遂を繰り返したギロチン社の頭目。無政府主義者。1925年5月28日の一審では無期懲役が言い渡される[199]も、1926年3月6日の二審では死刑。直後に上訴権を放棄[200]、1926年4月15日、大阪刑務所内で死刑執行[201]。ギロチン社関係者は1人も殺害していない(中浜は殺人未遂の実行役ですらない)状況での死刑言い渡し、言い渡しから約1ヶ月後の死刑執行は戦前でも異例。 |
関東連続少女殺人事件(吹上佐太郎) | 1926年7月2日 | 1922年 - 1924年 | 27人を強姦し、うち6人を殺害。1926年9月28日に死刑執行。 |
ピス健事件(大西性次郎) | 1926年9月25日 | 1925年 | 1925年11月、大西は強盗目的で小学校校長宅に押し入り同居していた訓導を射殺、その後、警戒中の警察官を殺害して短銃を奪取。さらに関西方面に逃走しながら強盗殺人を重ねる。手口と偽名から「ピス健」の名で全国に知れ渡った。同年12月に神戸市内で逮捕[202]。1926年9月25日、大阪地方裁判所で死刑判決が言い渡されると控訴を放棄[203]。同年12月6日、大阪刑務所で死刑が執行された[204]。 |
観音丸事件(伊文致) | 1926年2月14日 | 朝鮮人、船上で2人を惨殺、その後に伝馬船で逃走した、その後に観音丸が漂流している所が発見され、観音丸には被害者の血が大量に付着していたため、当時は幽霊船だと思われ、大きな話題を呼び、騒ぎとなった、1927年6月2日に死刑執行。 |
1927年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
龍野6人斬り[205](T) | 1927年5月17日 | 1926年5月17日 |
1928年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
台中不敬事件(趙明河) | 1928年7月18日 | 1928年5月14日 | 久邇宮邦彦王(香淳皇后の父)暗殺未遂事件。台湾総督府の高等法院上告部において死刑判決。不敬事件は一審制のため即日刑が確定し、同年10月10日に死刑執行。 |
1929年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
広島県高村老夫婦強殺・放火事件(政木村吉) | 1929年2月9日 | 1928年1月26日 | 男性(76)及び同妻(62)を殺害し家に放火。貪欲冷酷な仕打ちに怒っての犯行。1929年7月26日に死刑執行[206][207]。 |
1930年代
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
上海天長節爆弾事件(尹奉吉) | 1932年5月25日 | 1932年 | 1932年12月19日に死刑執行。 |
大岡山連続殺人事件 (G) | 1931年4月20日 | 1925年9月6日・1928年8月19日 | 下記Tと共同で一家3人を殺害し、さらに3年後にもTとともに夫婦を殺害した。この間に大岡山事件の犯人として起訴されていた男性は、裁判中に獄死している。Gは控訴せず一審で確定し、1933年3月7日に死刑執行[208]。 |
大岡山連続殺人事件 (T) | 1932年4月5日 | 1925年9月6日・1928年8月19日 | 上記Gの共犯。最高裁まで争うも確定し、Gと同じく1933年3月7日に死刑執行[208]。 |
日大用務員殺害事件 (D) | 1932年8月29日 | 1930年12月 | 上告棄却。元用務員の男が日本大学に侵入し用務員を殺害し670円を奪った[209]。 |
桜田門事件(李奉昌) | 1932年9月30日 | 1932年1月8日 | 昭和天皇暗殺未遂犯。1932年10月10日に死刑執行(32歳没)。 |
目黒貰い子殺人事件(川俣初太郎) | 不明 | 1932年-1933年 | 養育費目当てに貰い子を引き受けて乳児や幼児を殺害。1929年に一度発覚して懲役4年の判決を受けるが、恩赦により3年の服役で出所。出所後は、貰い子を再開して25人を殺害、遺体を現在の西郷山公園などに遺棄した。1933年3月10日に逮捕、1934年9月23日に死刑執行[210]。 |
十三釣堀屋事件 (F) | 1933年3月8日 | 1931年3月1日 | 愛人の男と共謀し、夫を殺害した女性の被告人が死刑に処された事例。1934年6月28日に死刑執行。共犯の愛人は無期懲役[211]。 |
安田銀行玉島支店強盗殺人事件 (O) | 1933年10月30日 | 1933年6月18日 | 現職警察官による銀行ギャング[212]。1934年7月30日死刑執行[213]。 |
濱口首相遭難事件 (佐郷屋留雄) | 1933年11月6日 | 1930年11月14日 | 一審では殺人罪が適用され死刑、二審では殺人未遂罪が適用され死刑。1934年に恩赦で無期懲役に減刑され、1940年に仮出所。 |
隅田川コマ切れ殺人事件 (K) | 1934年9月19日 | 1934年6月 | 10月に死刑執行[214]。 |
福岡刑務所囚人殺害事件 (D) | 1934年11月7日 | 1933年10月28日 | 上告棄却。殺人未遂で懲役20年、恩赦により刑期短縮も1929年に殺傷事件を起こし無期懲役になった受刑者が同囚の者に「死に損ない」と罵られたことに腹を立て刑務活動中に刺殺[215]。 |
鳴海荘一家惨殺事件 (N) | 1935年3月18日 | 1933年1月19日 | 上告棄却。6月23日に死刑執行[216]。 |
原宿パス屋殺し事件(後藤もと) | 1936年3月30日 | 1931年8月27日 | 家業の利益目的で夫を殺害した女性の被告人に死刑判決が言い渡されたが、後に無期刑に減軽され、1943年ごろに獄死。被告人と共謀したとされていた愛人の男性については、一審の死刑判決が控訴審で無罪へ覆った[217][218]。 |
第二鬼熊事件[219](S[220]) | 殺傷事件、就寝中の母「しげ」と父「清次郎」と妹の「きい」、弟の「正治」と「勇」の5人を次々に絞殺した後に自宅を放火、その後に近くの民家の蚊帳を長さ一尺五寸余の日本刀で斬り侵入し、就寝中の「勝蔵」「やす」「保」「重男」「てる」の5人を滅多斬りにし殺傷、その後に山林へ逃亡したが、午前9時40分に逮捕された。 | ||
二・二六事件 (香田清貞) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 特設軍法会議(一審制)で死刑判決。1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (安藤輝三) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (栗原安秀) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (竹嶌継夫) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (村中孝次) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1937年8月19日に死刑執行。 |
二・二六事件 (磯部浅一) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1937年8月19日に死刑執行。 |
二・二六事件 (対馬勝雄) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (中橋基明) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (丹生誠忠) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (坂井直) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (田中勝) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (中島莞爾) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (安田優) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (高橋太郎) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (林八郎) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (渋川善助) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
二・二六事件 (水上源一) | 1936年7月5日 | 1936年2月26日 | 1936年7月12日に死刑執行。 |
浅草青酸カリ殺人事件 (U) | 1936年8月3日 | 1935年11月21日 | 足袋屋経営の男が、顔なじみの小学校校長を喫茶店に呼び出し、紅茶の中に入れた青酸カリで毒殺。区役所から小学校へ運んでいた教職員の給料3050円を奪った[221]。日本における青酸カリによる殺人事件第1号であり、青酸カリ自殺のブームを引き起こした。裁判は一審、二審ともに死刑判決、大審院は上告棄却しで死刑が確定。事件発生から8か月余りの最終判決決定は、当時でも記録破りの短さであった。1937年10月26日に死刑執行[222][223]。 |
荏原区八幡宮祭礼女児殺害事件 (Y) | 1937年7月12日 | 1935年5月27日 | 八幡宮の祭礼時に元印刷工の男(31)が、巡査の長女(10)を絞殺した[224]。 |
二・二六事件 (北輝次郎(一輝)) | 1937年8月14日 | 1936年2月26日 | 1937年8月19日に死刑執行。 |
二・二六事件 (西田税) | 1937年8月14日 | 1936年2月26日 | 1937年8月19日に死刑執行。 |
松山城放火事件 (F) | 1938年 | 1932年 - 1936年 | 西日本各地で公共施設45箇所を放火。1939年9月15日に死刑執行。 |
毒入「カステラ」殺人事件[225](高橋貞三郎)[226] | 1938年7月4日 | 1936年10月18日・1936年11月23日 | 耳鼻咽喉科医院長である犯人Tが、実家で病気静養中の妻(28歳)に見舞いと称してチフス菌入のカステラを送り、保険金5000円を手に入れようとしたが失敗した[227]。後に耳鼻咽喉科にもチフス菌入のカステラを送り、カステラを食べた看護婦3名が発症して死亡した[228] 1938年7月4日に浦和地裁で死刑判決を言い渡され、控訴審でも死刑判決を言い渡されたが、1940年2月の勅令第45号(減刑令)で無期懲役に減刑された[229][228]。 |
保険魔事件(K) | 女性死刑囚、連続して2人の夫を亜砒酸で毒殺、保険金目的の連続殺人であったため、犯人Kには保険魔の異名がついた[230]。 | ||
おりう・とらゑ事件(富上りう) | 女性死刑囚、共犯者3名、そのうちの共犯者の北野とらゑは無期懲役に減刑された[231]。 |
1940年代
1944年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
ゾルゲ事件(リヒアルド・ゾルゲ) | 1944年1月20日 | 国防保安法違反、軍機保護法違反、軍用資源秘密保護法違反、治安維持法違反の罪で死刑判決1944年11月7日に死刑執行。[232]。 | |
ゾルゲ事件(尾崎秀實) | 1944年4月5日 | 国防保安法違反、軍機保護法違反、軍用資源秘密保護法違反、治安維持法違反の罪で死刑判決。1944年11月7日に死刑執行[232]。 | |
浜松連続殺人事件(N) | 1944年6月19日 | 1941年8月-1942年8月 | 1944年7月24日に死刑執行。 |
1945年死刑確定囚(10人?)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
仕返し農夫殺し (白鳥由栄) | 脱獄後に畑泥棒と勘違いされ、集団リンチにされたため、過剰な正当防衛で農夫を刺殺。死刑判決が言い渡されたが、死刑判決を言い渡した裁判官らに仕返しをしようと思い、もう一度脱獄、後に懲役刑に減刑された。 | ||
三重県上野市山林内主婦強盗殺人事件 (K) | 1945年2月20日 | 1944年 | 死刑執行日は不明。 |
札幌一家3人強盗殺人事件 (T) | 1945年3月23日 | 1944年12月17日 | 1945年8月24日に死刑執行。 |
茨城県柳河村一家4人強盗殺人放火事件 (S) | 1945年7月3日 | 1944年8月29日 | 1945年12月22日に死刑執行。 |
樺太・西柵丹強盗殺人事件 (S) | 1945年7月7日 | 1944年10月22日 | 樺太で発生した強盗殺人事件。死刑確定後、樺太がソ連軍に侵略され、公判記録が滅失し死刑執行手続きが不能になった特殊事情により、1949年12月24日、個別恩赦。無期懲役に減刑された[233]。 |
東京洲崎人夫強盗殺人事件 (I) | 1945年8月3日 | 1943年12月3日 | 殺人前科(懲役5年)。1945年12月20日に死刑執行。 |
大阪戦時強盗致死事件 (M) | 1945年9月5日 | 不明 | 詳細不明。1945年11月20日に死刑執行。 |
同性愛少年友人一家殺傷放火事件 (S) | 1945年9月5日 | 1944年7月29日 | 犯行当時は未成年者(少年死刑囚)。1947年2月18日に個別恩赦。 |
戦時強姦致死事件 (T) | 1945年11月25日 | 不明 | 詳細・死刑執行日とも不明。 |
兵庫県岩岡村朝鮮人2人強盗殺傷事件 (M) | 1945年12月4日 | 1945年1月20日 | 犯行当時は未成年者(少年死刑囚)。1946年2月6日に死刑執行。少年では確定から執行までの最短記録(2ヶ月と2日) |
茨城県強盗殺人事件 (O) | 1945年12月18日 | 不明 | 詳細不明。1946年2月17日に死刑執行。確定から執行の戦後最短記録(1ヶ月と30日) |
戦時強盗殺人事件 (Y) | 1945年12月18日 | 不明 | 詳細・死刑執行日とも不明。 |
磯部村5人斬り(平田義雄[234]) | 1945年12月25日 | 1945年9月20日[235] | 1945年9月20日2時ごろ[235]、三重県志摩郡磯部村上之郷の民家に侵入し、一家5人を襲撃、男性(当時45歳)、妻(同45歳)、次女(当時16歳:鳥羽高等女学校生)、長男(当時13歳)の4人を殺害、長女(19歳)に重傷を負わせた[236]。翌20日15時ごろ、新聞配達の学童が事件を発見した[236]。凶器は鉈で、平田(当時32歳)は同日22日に河芸郡椋本村の実家に立ち寄ったところを津署員に逮捕された[234]。同年12月18日、安濃津地裁(現:津地裁、小室裁判長)で求刑通り死刑判決を言い渡された[237]。1947年4月18日死刑執行[238]。 |
1946年死刑確定囚
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
戦時強盗殺人事件 (T) | 1946年1月14日 | 不明 | 詳細・死刑執行日とも不明。 |
強姦殺人事件 (F) | 1946年2月12日 | 不明 | 詳細・死刑執行日とも不明。 |
第二鬼熊事件[239](S) | 1946年3月7日 | 1944年9月5日 | 1946年11月30日に死刑執行。 |
新居浜老夫婦強盗殺人事件 (K) | 1946年4月12日 | 1945年9月4日 | 死刑執行日は不明。 |
静岡県葉梨村老女強盗殺人事件 (A) | 1946年4月15日? | 1945年9月21日 | 犯行当時は未成年者(少年死刑囚)。死刑執行日は不明。 |
強盗殺人事件 (N) | 1946年4月18日 | 不明 | 詳細・死刑執行日とも不明。 |
父島人肉事件 (立花芳夫) | 1946年5月-9月 | 1945年 | 父島人肉事件こと小笠原事件の主犯格のB級戦犯の死刑囚、戦争中に食料に困ってないのにもかかわらず、米軍捕虜を真鍮のステッキで殴るなどとして拷問にかけて殺害して、その遺体の手足などの人肉を調理して、宴会を開いて下記共犯者の五人達(M・Y・N・I・森国造)と一緒に食べた、戦争とはいえ猟奇的である事から死刑判決が言い渡された[240]。 |
父島人肉事件 (M) | 1946年5月 | 1945年 | 上記共犯者。 |
父島人肉事件 (Y) | 1946年5月 | 1945年 | 上記共犯者。 |
父島人肉事件 (N) | 1946年5月 | 1945年 | 上記共犯者。 |
父島人肉事件 (I) | 1946年5月 | 1945年 | 上記共犯者。 |
蘭印作戦後捕虜虐待事件 (森国造) | 1946年5月 | 1945年 | 上記共犯者であるが、父島人肉事件では無期懲役判決が下されたが、蘭印作戦後の捕虜虐待容疑では死刑判決が下された。 |
確定年不明
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
松山農家強盗殺人事件 (K) | 不明 | 1945年10月29日 | 1949年7月30日に死刑執行。 |
京都一家3人強盗殺人・口封じ殺人事件 (I) | 1946-1947年 | 1946年2月28日-3月1日 | 1947年6月10日に死刑執行。 |
中間町一家6人殺害事件 (T) | 1946-1947年 | 1946年4月13日 | 1946年7月および11月当時、22歳[241][242]。 1946年4月13日、福岡県遠賀郡中間町岩瀬北町(現:中間市岩瀬)で質屋兼飲食店経営者の一家6人が惨殺された[243]。現場は日本炭礦高松一坑の近くで[244]、被害者は家主の男性(当時40歳)と妻(同43歳)、長女(同11歳)、次女(同9歳)、三女(同4歳)、長男(同2歳)で、事件は同月16日、14日から人気がないことを不審に思った隣家の住民が6人の他殺体を発見したことがきっかけで発覚した[245]。被害者は戦時中、炭鉱の独身寮で寮長を務めていたが、炭鉱夫たちをタコ部屋労働同然に酷使しており、戦後結成された労働組合からこれを問題視されて追放されたが、その後も炭鉱近くで炭坑夫相手に博打のための金貸しを行っていた[246]。 その後、近くの質屋に被害品の衣類が質入れされたことが確認されたことを手がかりに事件が解決した[247]。犯人は炭鉱夫の男Tで、遠賀郡水巻町高松在住[242]。Tは大阪市住吉区出身で、12、13歳のころに母親と死別して以来、母親の遺骨を持ち歩きながら宇部や筑豊の炭鉱を転々としていた[248]。Tは事件前夜に被害者の男性と博打を打って大敗し、一張羅だった軍服を抵当に13日夕方までに返済する条件で100円を借金したが、その100円も遣い込んでしまい、抵当の服も売られてしまったため、怒りのままに仕事道具の鶴嘴で男性一家を皆殺しにした[249]。 強盗殺人罪に問われ[242]、1946年7月8日に福岡地裁飯塚支部で死刑判決を受けた[250]。同年11月19日に福岡控訴院でも求刑通り死刑判決[242]。 1948年1月27日、広島刑務所で死刑執行[251]。当時は福岡刑務所に死刑執行施設がなく、広島刑務所に移送された上で死刑を執行された[252]。 |
宮城貨物経理課長強盗殺人事件 (S) | 1946-1947年 | 1945年11月3日 | 1947年9月5日に死刑執行。 |
五島貨物船船員2人強盗殺人事件 (N) | 1946-1947年 | 1946年2月13日 | 1947年12月15日に死刑執行。 |
1947年死刑確定囚(33人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
島原一家4人殺害事件 (H) | 1947年2月14日 | 1946年8月4日 | 1947年10月30日に死刑執行。 |
奈良県大淀町夫婦強盗殺人事件 (Y) | 1947年3月8日 | 1945年11月21日 | 1948年8月24日に死刑執行。 |
大分県判田村拳銃強盗殺傷事件 (K) | 1947年3月12日 | 1946年7月10日 | 1948年7月27日に死刑執行。 |
名古屋市港区真砂町煙草屋強盗殺人事件 (O) | 1947年3月18日 | 1946年10月8日 | 1947年9月17日に死刑執行。 |
久留米母子3人殺害事件 (I) | 1947年3月19日 | 1946年8月28日 | 1948年10月20日に死刑執行。 |
広島県西志和村老女強盗殺人事件 (S) | 1947年3月24日 | 1946年2月28日 | 1948年10月5日に死刑執行。 |
中野ラジオ商夫婦強盗殺人事件 (O) | 1947年4月9日 | 1945年9月5日 | 1948年8月25日に死刑執行。 |
医大生殺し (K) | 1947年8月 | 1946年7月9日 | 下記Sの共犯、兵庫県芦屋市春日町在住、三菱造船職工[253]。北アルプス・烏帽子岳登山口の「濁小屋」で東京慈恵会医科大学山岳部の男子学生4人を襲い[254]、2人を惨殺した[253]。 強盗殺人罪に問われ、1946年11月9日に長野地裁松本支部で開かれた第2回公判で、Sとともに死刑を求刑された[253]。同年11月28日、長野地裁松本支部で両被告人とも死刑判決を言い渡された[255][256]。 1948年7月13日に死刑執行。 |
医大生殺し (S) | 1947年8月 | 1946年7月9日 | 上記Kの共犯、兵庫県神戸市林田区東尻池町、無職[253]。1948年7月13日に死刑執行。 |
名古屋医師ら2人射殺事件 (R) | |||
一勝地村農家6人殺害事件 (H) | 1946年8月29日 | 朝鮮人であるHと下記共犯であるCとRは炭鉱夫として来日しており、終戦後に帰国しようとするが、帰国費用が無いため、帰国費用欲しさに強盗を決意、3人は「帰りが遅くなってしまったので泊めてもらえるでしょうか?」と懇願した、被害者一家は親切に受け入れ、HとCとRは親切なもてなしを受けた為、申し訳ないと感じた為この夜には犯行を決行出来ずにいた、翌日の夜に前日のお礼ということで酒を持って被害者宅に乗り込み、家人が寝静まったのを見計らって、家族6人を虐殺、その後にたんすの中から15800円を盗み、証拠隠滅の為に家を放火して逃走した、しばらくして佐賀県鳥栖市で逮捕され、HとCに死刑判決、Rには無期懲役判決が下された。1952年1月20日に死刑執行[257]。 | |
一勝地村農家6人殺害事件 (C) | 1946年8月29日 | 上記共犯者、朝鮮人。1952年1月20日に死刑執行。 | |
兵庫県奥吉川村住職夫婦強盗殺傷事件 (K) | |||
福岡県川崎町金物商夫婦強盗殺傷事件 (T) | |||
中津市朝鮮人一家殺害事件(R) | 1947年8月13日 | 1946年9月14日 | 朝鮮人。犯人であるIことRは度々、被害者宅へ上がり込んでは食事にありついていた。被害者であるSの妻が不機嫌そうに食事を出したところ、Rが文句を言ったため、Sと口論になり、Sの妻が短刀とハンマーを持ってきたので、ハンマーを取り上げて、Sの妻を殴った、その直後にSの妻が泣いて逃げ、その後にSと格闘になり、Sをハンマーで撲殺、その後に逃げたSの妻を海岸までに追い詰めて、短刀で刺殺、口封じの為にS夫妻の子供2人も絞殺、一家を虐殺した後にS一家の所持金2000円を盗んで逃走し全国指名手配された。1948年12月24日に死刑執行。 |
四日市伯母夫婦強盗殺人事件 (K) | |||
戸畑引揚者強盗殺人事件 (T) | |||
久留米母子3人殺害事件 (O) | |||
北海道奈井江村一家5人強盗殺傷事件 (K) | |||
京都一家3人強盗殺人・口封じ殺人事件 (O) | |||
知人一家3人強盗殺傷事件 (T) | |||
福岡県山田町男性強盗殺人事件 (A) | |||
徳島県三名村山林内ブローカー強盗殺人事件 (S) | |||
大阪市大正区古物商一家3人強盗殺傷事件 (R) | |||
半田ブローカー強盗殺人事件 (M) | |||
伊達夫婦強盗殺人事件 (F) | |||
宮崎県野尻村母子強盗殺人放火事件 (C) | |||
愛知県鳴海町一家3人強盗殺人事件 (O) | |||
窃盗団長崎署刑事射殺事件 (O) | |||
富山県大家庄村老婆殺害事件 (T) | 1947年12月3日[258] | 1946年10月25日[259] | 事件当時22歳[259]。1946年10月23日12時ごろ、男N(当時22歳)・男S(同25歳)・男M(同24歳)と共謀して楠見郵便局(和歌山県和歌山市)に忍び込み、小包などを盗んだ[259]。翌24日に和歌山を発ち、25日正午ごろに入善駅(富山県下新川郡入善町:北陸本線[注 5])に到着、同駅から大家庄村(現:朝日町)へ行ったが、金がなかったため、1人暮らしをしている老女[259](当時61歳)[260]宅に侵入して米を盗もうとした[259]。19時ごろ、就寝中の老女宅に侵入し、広間にあった米俵から米を出していたが、被害者が目を覚ましたために4人がかりで絞殺し、死体を農機具置き場に運ぶとともに、米(約1石)、現金1,150円を盗んだ[261]。 窃盗・強盗殺人の罪に問われ、1947年5月9日に富山地裁で開かれた第2回公判で、N・Sの両共犯とともに死刑を求刑される[262]。同日、被告人Tは死刑判決を[258]、N・Sの両被告人は無期懲役の判決を受けた[262]。 Tは同年10月15日に名古屋高裁でも死刑判決[注 6]を言い渡され、上告したが、同年12月3日に取り下げて確定[258]。 |
奈良県船倉村農家強盗殺傷事件 (U) | |||
寝屋川の一家六人惨殺事件[注 7](正井孝太郎) | 1947年12月17日 | 1945年12月18日[263] | 大阪府北河内郡寝屋川町(現:寝屋川市)で一家6人が惨殺され、自宅庭先の防空壕に埋められた[264]。被害者はベルトレーシング製造工場を経営していたが、事件発生当時は経営不振で休業状態だった[265]。 1946年2月13日、事件当時被害者一家と同居していた工場の工員(当時30歳)が逮捕され、主人たちから冷遇されたことを不満に思い、一家を殺害して家財を強奪しようと決意した後、一家5人を金槌で殴ったり出刃包丁で刺したりして殺害した旨を自供した[266]。 1947年12月17日に大阪地裁で死刑判決を言い渡された[267]。1948年12月15日に死刑執行[267]。 |
北海道古丹別古物商強盗殺人事件 (M) | |||
甲府雑貨商強盗殺人事件 (A) |
1948年死刑確定囚(41人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
友人強盗殺人事件 (Y) | 1948年1月28日 | 1946年2月24日 | 友人を鉄棒で撲殺。1948年12月6日に死刑執行。 |
京都雇い主強盗殺人事件 (U) | 1948年2月12日 | 1946年6月21日 | 雇い主を斧で殺害。1948年12月10日に死刑執行。 |
京都一家3人強盗殺人・口封じ殺人事件 (S) | 1948年3月9日 | 1946年2月28日-3月1日 | 1949年7月20日に死刑執行。 |
母妹殺し(邑神一行) | 1948年3月12日[268] | 1946年9月16日[269] | 1927年(昭和2年)1月10日生まれ[268]。犯行時19歳8か月の少年死刑囚[269]。 本籍地および住居は広島県佐伯郡吉和村字妙音寺原2228番地[268]。 勤務先の金を費消して辞めさせられ、実家に帰っても真面目に仕事をせず、母(事件当時49歳)と妹(当時16歳)から邪魔者扱いを受けていた[269]。 1946年9月16日、夕飯を用意してもらえなかったことに逆上して母と妹を藁打ち槌で撲殺し、遺体を古井戸に遺棄した[269]。 尊属殺、殺人、死体遺棄の罪に問われ[270]、1947年5月23日に第一審の広島地裁で無期懲役の判決を受けたが、同年8月25日に控訴審の広島高裁で死刑判決を受けた[269]。 1948年3月12日に最高裁大法廷(塚崎直義裁判長)で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[271]。同法廷はこの判決で、死刑制度は残虐な刑罰を禁止した日本国憲法第36条に違反せず、合憲であると判示した[272]。 1949年7月27日、福岡刑務所で死刑執行(22歳没)[273][274]。 |
名古屋愚連隊殺人事件 (K) | 1948年3月11日 | 1947年6月21日 | 犯行時17歳(少年死刑囚)。強盗に入った家人2人を布団で縛りつけ窒息死させた。主犯Aが死刑(控訴取り下げにより死刑確定)であったが犯行時17歳であったため、少年法改正により1949年3月23日に無期懲役に減刑。 |
神奈川県吉浜町重役夫婦射殺事件 (K) | 1948年3月27日 | 1946年7月7日 | 強盗に入った家で夫婦を射殺。1948年12月8日に死刑執行。 |
百田駐在所巡査殉職事件 (R) | 1948年4月8日 | 1947年3月35日 | 逮捕を免れるため、男性警察官(当時53歳)を拳銃で射殺した[275]。 殺人と銃刀法違反の罪に問われ、1947年4月11日に甲府地裁で死刑判決を受けた[275]。控訴したが、同年11月12日に東京高裁で死刑判決を受けた[275]。1948年4月8日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[275]。 1948年12月20日に死刑執行。 |
山口県国木峠農家老夫婦強盗殺人事件 (G) | |||
東京都中野区女性・北海道江部乙村農家連続強盗殺人事件 (M) | |||
名古屋古着屋強盗殺人事件 (Y) | |||
名古屋古着屋強盗殺人事件 (G) | |||
名古屋古着屋強盗殺人事件 (S) | |||
岩手県広瀬村老女強盗殺人事件 (K) | 1948年6月4日 | 1947年9月14日 | 共犯2名は一審死刑、控訴審無期懲役判決。量刑の均衡のため1950年7月29日、個別恩赦により無期懲役に減刑。 |
岐阜県清見村一家3人殺害事件 (R) | 1948年6月8日 | 1947年4月9日 | 犯行時17歳。雇い主の妻(29歳)から受けた仕打ちへの恨みから、彼女と子供2人(7歳男児、3歳女児)を包丁で刺殺した[275]。 殺人と窃盗の罪に問われ、1947年7月16日に岐阜地裁高山支部で無期懲役の判決を受けたが、同年11月25日、名古屋高裁で死刑判決を受けた1948年6月8日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[275]。 少年法改正により18歳未満に死刑が適用できなくなったことから、1949年3月23日、個別恩赦により無期懲役に減刑。 |
広島県乃美尾村知人姉妹絞殺事件 (N) | |||
丸亀老夫婦強盗殺人事件 (O) | |||
丸亀老夫婦強盗殺人事件 (T) | |||
愛媛県石城村農業会宿直員強盗殺人事件 (Y) | |||
都島煙草屋一家3人強盗殺人事件 (K) | |||
都島煙草屋一家3人強盗殺人事件 (Y) | |||
北海道奈井江村一家5人強盗殺傷事件 (A) | |||
神戸刑務所戒護課長殺害事件 (S) | 1948年7月7日 | 1947年6月9日 | 殺人で懲役15年に処された前科がある。 服役中の処遇の恨みから、戒護課長の男性(年齢不明)を斧で殴り殺した[275]。殺人罪に問われ、1947年7月18日に神戸地裁で死刑判決を受けた。控訴したが、1948年7月1日に大阪高裁で死刑判決を受け、確定[275]。 1949年2月18日に死刑執行。 |
呉沖洋上ブローカー2人射殺事件 (A) | |||
鶴見時計商射殺・浦賀署巡査部長射殺未遂事件 (K) | |||
芦別歯科医一家3人強盗殺人事件 (T) | |||
千葉県大柏村叔母一家殺害事件 (A) | |||
栃木県城山村老女強盗殺人事件 (H) | |||
明石2女性強盗殺人事件 (N) | 1948年9月4日[276] | ||
熊本県花房村飛行場跡ブローカー強盗殺人事件 (A) | |||
三重県荻原村近隣女性強盗殺人放火事件 (N) | 1948年9月21日[277] | ||
淡路島古物商ら強盗殺人事件 (T) | |||
愛知肝取り殺人事件 (H) | 1948年10月18日 | 1948年4月1日 | 自分を結核だと思い込んだ男(23)が、過去に朝鮮人から「人間の肝は結核に効くのですよ。」と教えてもらった事を思い出して、行商人の女性を絞殺、その後に解体し肝を抽出したが、あまりの見た目に気分が悪くないそのまま遺棄した。1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 |
長崎県時津村夫婦強盗殺人事件 (S) | 1948年10月21日[278] | 1949年7月28日に死刑執行[278]。 | |
長崎海上強盗殺人事件 (Y) | |||
大阪看板屋父子殺害事件 (N) | |||
小平事件(小平義雄) | 1948年11月16日 | 1945年5月25日 - 1946年8月6日 | 女性7人(17歳から22歳)を次々に強姦した上で絞殺した[275]。 殺人、強姦致死、強姦、窃盗の罪に問われ、1947年6月18日に東京地裁で死刑判決を受けた[275]。控訴したが、1947年2月27日に東京高裁で死刑判決を受けた[275]。1948年11月16日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[275]。 なお、小平は軍隊時代に山東出兵に派遣された際に現地の婦女子を殺害(軍規違反に問われず)したうえ、1932年に前妻の義父を殺害し懲役15年(二度の恩赦により8年で仮出所)を受けた前科を有していた。 1949年10月5日に宮城刑務所で死刑執行(45歳没)[279]。 |
豊中競馬誌編集人長女強盗強姦殺人事件 (U) | 1948年11月20日[280] | ||
鹿児島一家3人強盗殺傷放火事件 (A) | 1948年12月5日 | 1947年12月18日 | 犯行時17歳(少年死刑囚)。少年法改正により18歳未満に死刑が適用できなくなったことから、1949年4月6日、個別恩赦により無期懲役に減刑。 |
福岡県筑紫村夫婦強盗殺人事件 (H) | |||
福島県若松市ブローカー一家5人強盗殺人事件 (S) | 1948年12月11日[281] | 1948年2月21日[282] | |
福島県若松市ブローカー一家5人強盗殺人事件 (S) | 1948年12月11日[283] | 1948年2月21日[284] | |
亀戸情婦母子3人殺害事件 (O) | 1948年12月27日[285] |
1949年死刑確定囚(76人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
徳島県阿野村雑貨商夫婦強盗殺傷事件 (O) | |||
姫路母子強姦殺人事件 (N) | |||
和歌山県地蔵峠古着商射殺事件 (K) | |||
柏原旅館一家4人殺害事件 (山田憲) | 1949年2月1日[286] | 1921年4月2日に発生した鈴弁殺し事件の犯人と同姓同名。 | |
徳島県三庄村叔母一家4人殺傷事件 (F) | |||
岡山下宿先老女強盗殺人事件 (Y) | |||
荒尾隣人夫婦殺害事件 (K) | 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
和歌山県船着村逆恨み母子殺害事件 (Y) | 未成年(少年死刑囚)。 | ||
警視庁巡査による通行人射殺・母親と甥射殺事件 (U) | |||
阿倍野一家4人強盗殺傷事件 (H) | |||
十条友人の妹強盗強姦殺人事件 (I) | |||
神奈川県共和村老夫婦強盗殺人事件 (K) | |||
鈴鹿署巡査部長射殺事件 (O) | |||
諫早尼僧強盗殺人事件 (H) | |||
伊達夫婦強盗殺人事件 (E) | 未成年(少年死刑囚)。 | ||
毒殺強盗団事件 (H) | 1949年3月19日[287] | 1946年 - 1947年[288] | 1952年8月11日に死刑執行[289]。 |
毒殺強盗団事件 (K) | 1949年3月19日[290] | 1946年 - 1947年[288] | 上記の共犯。 |
毒殺強盗団事件 (K) | 1949年3月19日[291] | 1946年 - 1947年[292] | 上記の共犯。 |
三重県鈴鹿郡老女強盗殺人事件 (K) | |||
三重県鈴鹿郡老女強盗殺人事件 (K) | |||
川崎ブローカー強盗殺人事件 (H) | |||
千葉県二宮町老女強盗殺人事件 (S) | |||
神奈川県大野町砂糖売買強盗殺人事件 (I) | |||
横浜運転手強盗殺人事件 (O) | |||
鹿児島県西南方村小切手強盗殺人・神戸キャバレー経営者射殺事件 (C) | |||
熊本県郡浦村知人女性強盗殺人事件 (S) | 1949年3月20日[293] | 未成年(少年死刑囚)。 | |
千葉県遠山村強盗強姦殺人事件 (K) | |||
兵庫県小野尻峠隧道強盗殺人事件 (T) | |||
鹿児島県東市来町恩人夫婦強盗殺人事件 (N) | |||
関西の小平事件[294](K) | 1949年4月28日 | 1947年11月17日・1947年12月10日・1948年3月30日・1948年6月3日 | 朝鮮人であるMことKは1930年(当時16歳)に大阪府在住の兄を頼って朝鮮から渡来するが、やがて盗癖が身につき逮捕される、逮捕されたKは1943年に出所した後に名前をMに変えると、ブローカーとして働き初め、終戦後には莫大な利益を手に入れていた。しかしそれも長く続かず、仕立て業を始めるが上手くいかず、空き巣を繰り返す、1947年11月17日には西宮市に住むブローカー宅に押し入り妻と長女の首を絞め金品を強奪、妻は息を吹き返すが長女は亡くなる、その後、以前商売を手伝い大きな利益を得たのに約束した報酬を支払わなかった知人を恨み殺害を決意、1947年12月10日にその知人宅に宿泊し、深夜に寝室に侵入すると知人夫婦を匕首で刺殺、ついでに女中も絞殺し、金品を強奪し放火。翌年3月30日に母子を脅迫し絞殺し金品を奪って逃走、1948年6月3日には女性を絞殺し、衣類を盗んで逃走、その後に盗品を売ったことで足が付き、さらには過去の犯行を記録した日記が発見され、連続殺人事件の犯人である事が発覚し逮捕された。1951年11月17日に死刑執行[295][296]。 |
福島県若松市ブローカー一家5人強盗殺人事件 (S) | 1949年4月30日[297] | 1948年2月21日[298] | |
東淀川親族強盗殺人事件 (S) | |||
滝川老女強盗殺人事件 (S) | 未成年(少年死刑囚)。1954年1月15日、個別恩赦。 | ||
千葉県旭村白米取引拳銃殺傷事件 (I) | |||
笠岡情婦殺害事件 (F) | 内妻(事件当時45歳)の中傷により情婦に逃げられたことを恨み、内妻を手拭いで絞め殺した[299]。強盗殺人罪で起訴されたが、殺人罪を認定され、1949年5月14日に岡山地裁で死刑判決を受けた[299]。控訴せず確定[299]。 | ||
栃木県国本村一家4人強盗殺傷事件 (M) | |||
奈良県平城村兄弟強盗殺人事件 (S) | 1949年5月28日[300] | 1946年12月11日[300] | 強盗団4人組による犯行。Dを主犯として死刑が確定し、後に死刑執行されたが、1958年に出所した「従犯」が本当の主犯を恐喝して逮捕されDは濡れ衣であったという真相が発覚[301]。 |
熊本県龍峯村老夫婦強盗殺人事件 (Y) | 1949年5月31日[302] | 1947年12月28日[303] | 未成年(少年死刑囚)。 |
海南ブローカーら強盗殺人事件 (K) | |||
海南ブローカーら強盗殺人事件 (Y) | |||
別府男性・奈狩江村老女強盗殺傷事件 (T) | |||
岩手県巻堀村母娘強盗殺人事件 (S) | |||
栃木県氏家町恩人女性強盗殺人事件 (K) | |||
栃木県東那須野村ブローカー強盗殺人事件 (I) | |||
福岡県宝珠山村飲食店女性強盗殺人事件 (H) | |||
長崎県加津佐町いとこ夫婦強盗殺人事件 (O) | |||
姫路母子強盗殺人事件 (M) | |||
長野刑務所看守殺人事件 (T) | |||
山下村男女強盗殺傷事件 (O) | |||
横浜朝鮮人青果商一家殺傷事件 (S) | |||
福島県津島村古着行商女性強盗殺人事件 (K) | |||
北海道淕別村家族3人殺害事件 (K) | |||
横浜市金沢区父親ら3人殺害事件 (M) | |||
奈良県榛原町朝鮮人強盗殺傷事件 (R) | |||
奈良県榛原町朝鮮人強盗殺傷事件 (R) | |||
広島県田森村酪農一家強盗殺人事件 (H) | |||
大垣飲食店強盗殺人事件 (N) | |||
大津野村強盗殺人事件 (K) | 1949年7月13日 | 1945年12月18日 | 架空の商談話でおびき出した2人を殺害。共犯5人のうち2人が死刑に。 |
大津野村強盗殺人事件 (K) | 1949年7月13日 | 1945年12月18日 | 上記共犯。 |
和歌山県上名手村祖母・孫娘強盗殺傷事件 (K) | |||
滝川老女強盗殺人事件 (S) | 1954年1月15日、個別恩赦。 | ||
兵庫県東志方村住職兄妹強盗殺人事件 (M) | |||
兵庫県東志方村住職兄妹強盗殺人事件 (Y) | |||
兵庫県東志方村住職兄妹強盗殺人事件 (H) | |||
北海道南尻別一家3人強盗殺人事件 (Y) | 未成年(少年死刑囚)。 | ||
新発田青果商番頭強盗殺人事件 (S) | |||
宇多津拳銃強盗夫婦殺傷事件 (M) | |||
茨城県吉田村蓮乗壕内殺人事件 (Y) | |||
和歌山一家8人殺害事件 (O) | 1949年8月18日 | 1946年1月29日 | 母親を虐待した兄嫁を恨み、兄一家8人を虐殺。死刑確定後の1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。1968年春に仮出獄。 |
三重県柿野村内妻殺害事件 (N) | 殺人予備前科(懲役1年6月)、殺人前科(懲役8年)1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
荻窪美容師強盗殺人事件 (P) | |||
北海道鵡川村老兄弟強盗殺人事件 (S) | |||
福島県江名町雨宿り強盗殺人事件 (A) | |||
藤沢姉一家3人強盗殺人事件 (W) | |||
前橋警察官連続殺傷事件 (K) | 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
北海道古平峠ゴム長靴商強盗殺人事件 (O) | |||
滋賀刑務所看守部長殺害事件 (T) | 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
佐賀県境野村銀行員日本刀強盗殺人事件 (H) | 1948年1月20日・1949年2月14日 | 1947年10月16日 | 1947年10月16日、佐賀県神埼郡境野村(現:神埼市)の県道上木壽橋付近で通行人を脅して金品を奪おうと日本刀を持って通行人を待ち伏せ、偶然通りかかった日本勧業銀行佐賀支店貸付係男性(当時43歳)に日本刀を突きつけて脅迫するが、騒がれたため頭部、胸部、腹部など十数か所を切りつけて財布1個(550円在中)などを強取し、男性を肺動脈切断で失血死させた[304]。<r/>強盗殺人罪に問われ、1948年1月20日に佐賀地裁で、1949年2月14日に福岡高裁でそれぞれ死刑判決[305]。同年2月20日付で死刑が確定[306]。 |
1950年 - 1954年
1950年死刑確定囚(23人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
八幡市脳みそ嗜食強盗強姦殺人事件 (W) | 1950年1月8日 | 1949年3月25日 | 大師堂守夫婦宅に居候していた犯人W(58)は、夫婦を殺害して家財を売り払おうと計画。夫(68)を殺害後に、その妻(58)も陵辱後に殺害して24個に解体。解体中に刑務所で「人間の脳味噌は体にいい。食べると長生きする」と聞いた事を思い出し、夫の脳みそを味噌汁に調理して食べた。取り調べでは「体にいいと聞いて食べたがそんなに美味いもんじゃなかったよ」と自供した、控訴せず確定。1950年7月5日に死刑執行[307][308]。 |
和歌山市自転車店老女強盗殺人事件 (H) | 1950年1月31日 | 1949年6月8日 | 無関係の人物を絞殺。控訴取下げ。1950年4月26日に死刑執行。現行の刑事訴訟法下で確定から執行の最短記録(2ヶ月と26日) |
愛知県上郷村呉服商母娘強盗殺人事件 (N) | 1950年2月2日 | 1948年6月9日 | 強盗殺人罪に問われ、1948年4月13日に名古屋地裁岡崎支部で、1949年7月13日に名古屋高裁で死刑判決を受けた[309]。1950年2月2日に最高裁第一小法廷で上告棄却判決を受け[310]、同日付で死刑が確定[309]。 1953年4月10日に死刑執行。 |
第二小平事件 (K)[311] | 1950年2月3日 | 1946年(3月31日・11月9日・12月21日)[312] | 1910年(明治43年)12月20日、茨城県猿島郡五霞村で生まれた[313]。埼玉県と茨城県で以下の事件を起こした。「第二の小平」[314]「第二小平」[315]「小平二世」[316]「埼玉小平」と呼称された[315]。
また逮捕後には、1935年2月15日、知人関係にあった東京都墨田区の女工(当時24歳)を茨城県猿島郡五霞村元栗橋浅間下地内田圃に連れ出して絞殺し、ハンドバッグや原因などを奪った事件や[315]、1946年4月29日、埼玉県入間郡名細村で元娼婦の女性(当時19歳)を扼殺したという事件も自供した[314]。 |
志和堀村両親殺害事件 (M) | 1950年2月21日 | 1948年6月11日 | 犯行時19歳(少年死刑囚)、上告を取り下げにより死刑が確定したが、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約恩赦で無期懲役に減刑。 |
呉拳銃強盗殺人事件 (W) | 1950年4月7日 | 1948年4月10日 | 控訴取下げ。死刑執行日は不明。 |
埼玉県本畠村母娘強盗殺人事件 (S) | 1950年4月18日 | 1947年6月9日 | |
横浜朝鮮人青果商一家殺傷事件 (Y) | 1950年5月9日 | 1948年2月24日 | |
横浜朝鮮人青果商一家殺傷事件 (Y) | 1950年5月9日 | 1948年2月24日 | |
修善寺2女性強盗殺人事件 (I) | 1950年5月18日 | 1948年9月23日 | |
横須賀ガソリン売買強盗殺人事件 (H) | 1950年5月30日 | 1946年11月20日 | 1951年1月23日に死刑執行。 |
横須賀ガソリン売買強盗殺人事件 (N) | 1950年5月30日 | 1946年11月20日 | 1951年1月23日に死刑執行。 |
秋津村未亡人強盗殺人事件 (O) | 1950年5月23日 | 1949年5月11日 | 控訴取下げ。1950年11月28日に死刑執行。 |
国際ギャング団連続強盗殺傷事件 (K) | 1950年6月23日 | 1946年(1月12日・3月2日) | 年度は不明だが、12月28日もしくは29日に死刑執行。 |
愛知県岡田町飲食店男女強盗殺人事件 (R) | 1950年6月30日 | 1949年3月25日 | 1951年1月16日に死刑執行。 |
戸塚寄宿先家族強盗殺人事件 (K) | 1950年7月25日 | 1947年10月5日 | 控訴取下げ。1951年1月29日に死刑執行。 |
水俣沖船頭夫婦強盗殺人事件 (S) | 1950年7月28日 | 1947年4月8日 | 1954年9月24日に死刑執行。 |
日立雑貨商強盗殺人事件 (T) | 1950年7月29日 | 1949年8月8日 | 上告せず確定。1951年2月2日に死刑執行。 |
3人組拳銃強盗殺人事件(大谷高男) | 1950年9月5日[320] | 1946年4月23日[321] | 1955年2月11日に死刑執行[320]。死刑執行前に最後の言葉として「極楽では私の方が先輩ですからね」と言い残したことや、死刑執行前の会話を録音したテープが存在していることで有名。 |
静岡銀行留守番老女強盗殺人事件 (T) | 1950年10月5日 | 1949年3月13日 | 兄の難病を治す薬を買う為に強盗殺人、1951年5月21日に死刑執行。 |
三河島三味線師母子強盗殺人事件 (S) | 1950年10月31日 | 1948年1月11日 | |
福岡雇い主強盗殺人事件 (I) | 1950年11月22日 | 1950年4月6日 | 控訴取下げ。1951年7月31日に死刑執行。 |
佐賀県切木村強姦殺人事件 (I) | 1950年11月30日 | 1949年4月24日 | 殺人未遂前科(懲役4年)。 女性(当時20歳)を強姦した上、犯行の発覚を免れるため、手で口をふさいで窒息死させて殺害した[299]。 強姦致傷と殺人の罪に問われ、1949年6月24日に佐賀地裁で死刑判決を受けた[299]。控訴したが、1950年5月2日に福岡高裁で控訴棄却判決を受けた[299]。同年11月30日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[299]。死刑執行日は不明。 |
北海道枝幸町一家3人強盗殺人事件 (O) | 1950年12月14日 | 1948年6月4日 | 最高裁が下級審の判決を破棄し死刑判決。 |
1951年死刑確定囚(40人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
島根県湯里村老夫婦強盗殺人事件 (Y) | 1951年1月8日 | 1950年1月3日 | 控訴取下げ。1951年に死刑執行。 |
佐賀県龍光寺住職一家7人殺傷事件 (Y) | 1951年1月23日 | 1950年10月5日 | 控訴せず確定。1951年12月14日に死刑執行。 |
三重県安濃村老女強盗殺人事件 (T) | 1951年1月26日 | 1949年4月1日 | 1951年9月13日に死刑執行。 |
鶴見老夫婦強盗殺人事件 (K) | 1951年1月30日 | 1949年3月7日 | 死刑執行日は不明。 |
矢野村強盗殺人事件 (F) | 1951年2月2日 | 1947年5月23日 | 未成年(少年死刑囚)。兄弟で犯した強盗殺人について死刑判決を受けた弟が「主犯は兄である」と主張していた。兄もそれを裏付ける主張を行っていたが、弟の再審請求は容れられず、1953年2月20日に死刑執行。 |
福井県遠敷村老女ピストル強盗殺人事件 (K) | 1951年2月16日 | 1949年10月5日 | 死刑執行日は不明。 |
福島県鳩花温泉旅館強盗殺傷事件 (K) | 1951年3月6日 | 1948年12月4日 | 死刑執行日は不明。 |
千葉県富里村商売仲間女性強盗殺人事件 (T) | 1951年3月30日 | 1949年2月20日 | 死刑執行日は不明。 |
大分市元町強盗殺人事件 (S) | 1951年4月18日 | 1949年1月20日 | 1959年6月10日に死刑執行。 |
大分市元町強盗殺人事件 (N) | 1951年4月18日 | 1949年1月20日 | 1959年6月10日に死刑執行。 |
土浦老人強盗殺人事件 (O) | 1951年4月26日 | 1948年1月12日 | 死刑執行日は不明。 |
福島県鮫川村一家3人殺傷事件 (S) | 1951年6月8日 | 1949年6月28日 | 死刑執行日は不明。 |
鷺宮元陸軍大佐夫人強盗殺人事件 (Y) | 1951年6月15日 | 1948年11月5日 | 上告せず確定。1955年7月に死刑執行。 |
今里新地タクシー運転手強盗殺人事件 (Y) | 1951年6月19日 | 1949年10月24日 | 一審は無期懲役。死刑執行日は不明。 |
江東区友人の母強盗殺人事件 (Y) | 1951年7月5日 | 1949年11月21日 | 死刑執行日は不明。 |
福島県高久村一家4人殺害事件 (O) | 1951年7月6日 | 1949年6月3日 | 未成年(少年死刑囚)。死刑執行日は不明。 |
山梨県昭和村一家3人強盗殺傷事件 (S) | 1951年7月10日 | 1947年1月26日 | 死刑執行日は不明。 |
菅野村強盗殺人・放火事件(山本宏子) | 1951年7月10日 | 1949年6月10日 | 戦後日本で死刑の言い渡しを受けた女性[322]、および死刑確定者となった女性(女性死刑囚)はいずれも彼女が初で、女性への死刑確定は戦前の1939年以来だった[323]。 1969年9月2日付で死刑から無期懲役に恩赦減刑(当時54歳)[324]。その後は八王子医療刑務所や和歌山刑務所で服役したが、1978年3月4日、奈良県大和郡山市の国立療養所[注 8]で病死(62歳没)[324]。戦後、恩赦で無期懲役に減刑された女性死刑囚は彼女が唯一である[322]。 |
板橋母娘強盗殺人事件 (K) | 1951年8月6日 | 1949年11月24日 | 上告取下げ。死刑執行日は不明。 |
兵庫県東谷村老女強盗殺人事件 (T) | 1951年8月9日 | 1949年10月2日 | 一審は無期懲役。死刑執行日は不明。 |
熊本県宮内村煙草屋強盗殺人事件 (I) | 1951年8月9日 | 1950年4月20日 | 1952年6月19日に死刑執行。 |
熊本県菱形村社長夫妻強盗殺人事件 (U) | 1951年8月31日 | 1949年12月15日 | 1958年4月14日に死刑執行。 |
北海道弟子屈町母子3人強盗殺人事件 (K) | 1951年9月3日 | 1950年3月14日 | 上告取下げ。 |
千歳母子強盗殺人事件 (K) | 1951年9月4日 | 1950年7月19日 | 上告取下げ。 |
小田原一家5人殺害事件 (S) | 1951年9月6日[325] | 1949年9月14日[325] | 事件当時18歳4か月(少年死刑囚)[325]。大量殺人犯だが、1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑[326]。1970年3月に仮出獄したが[326]、1984年7月8日に殺人未遂事件を起こし[327]、同年12月19日に東京地裁刑事第15部(柴田孝夫裁判長)で懲役8年の実刑判決(求刑:懲役12年)を受けた[328]。これに伴い、仮釈放も取り消され再収監された[326]。 |
宮城刑務所看守殺害事件 (N) | 1951年9月6日 | 1949年7月29日 | 強盗強姦罪で無期懲役が確定し服役中。1952年6月19日に死刑執行。 |
福島県小塩江村老女強盗強姦殺人事件 (P) | 1951年10月8日 | 1950年3月28日 | 内妻との同棲資金欲しさから、知人女性(67歳)を強姦した上で杵で殴り殺し、現金約850円などを強取した[329]。 強盗強姦、強盗殺人の罪に問われ、1950年11月22日に福島地裁白河支部で死刑判決を受けた[329]。控訴したが、1951年4月28日に仙台高裁で控訴棄却判決を言い渡された[329]。 1951年10月8日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[329]。死刑執行日は不明。 |
宮城一家強盗殺傷事件 (A) | 1951年10月18日 | 1950年4月26日 | 金銭欲しさから無関係者3人(43歳男性・20歳男性、35歳女性)を鉈や鉞で殴打し、女性を殺害したほか、男性2人も負傷させ、現金約10万円などを強取した[330]。 強盗殺人罪に問われ、第一審の仙台地裁では1950年12月7日、無期懲役の判決を言い渡された[330]。しかし控訴審の仙台高裁では1951年5月18日、死刑(原判決を破棄自判)の判決を言い渡された[330]。 1951年10月18日に最高裁第一小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[330]。1955年1月29日に死刑執行。 |
強盗計画者による家人射殺事件 (P) | 1951年11月8日 | 1949年10月15日 | 1952年4月28日にサンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑された。 |
八熊事件[注 9] (T)[331] | 1951年11月30日 | 1947年2月10日・1948年4月15日 | 1946年春ごろから1948年4月15日までの間、愛知県名古屋市熱田区・中川区一円で11人の女性が夜間一人で歩いていたところを背後から首を絞められて強姦され、金品を強奪されるという事件が続発した[331]。生活費欲しさから夜間に通行中の女性(当時18歳)を陵辱した後に手拭で絞殺したほか、後に面識のない女性(当時20歳)を扼殺し、現金約120円などを奪った[330]。最終的に1948年5月12日に宝くじの番号から特定し逮捕された[331]。 強盗、強盗殺人未遂、強盗殺人の罪に問われ、1948年10月20日に名古屋地裁で死刑判決を言い渡された[330]。控訴したが、1951年3月12日に名古屋高裁で死刑判決を言い渡された[330]。 1951年11月30日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[330]。 |
長瀬村一家3人殺害事件 (Y) | 1951年12月7日 | 1948年12月19日 | 1924年(大正13年)3月12日生まれ[333]。 1948年12月18日、長野県小県郡長瀬村(現:上田市)で雑貨煙草商の男性A1(当時63歳)と妻A2(64歳)、A1の母A3(同84歳)の一家3人を肉切り包丁で刺殺し[334]、現金約4万円などを強取した[330]。動機は借金の返済資金欲しさで、A1・A2夫婦とは知人関係にあった[330]。事件発生から1年3か月後に食品衛生法違反容疑で別件逮捕され、現場に遺されていた指紋とYの指紋が一致したことから逮捕された[335]。 強盗殺人罪に問われ、1950年6月15日に長野地裁上田支部で死刑判決を言い渡された[330]。控訴したが、1951年5月25日に東京高裁で控訴棄却の判決を言い渡された[330]。 1951年12月7日に最高裁第二小法廷で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[330]。上訴中に獄中死したとする文献もある[335]。 |
高知県大川村拳銃強盗殺人事件 (Y) | 1951年12月18日 | 1949年11月12日 | 借金返済のための資金欲しさに無関係者の男性(当時46歳)を拳銃で射殺し、雑魚などを強取した[330]。 銃砲等所持禁止令違反などの罪に問われ、第一審の高知地裁では1950年9月7日に無期懲役の判決を言い渡された[330]。しかし控訴審の高松高裁では、1951年6月17日に死刑(原判決を破棄自判)の判決を言い渡された[330]。 1951年12月18日に最高裁第三小法廷で上告棄却の判決を言い渡され、死刑が確定[330]。死刑執行日は不明。 |
帯広一家3人強盗殺傷事件 (O) | 1951年12月20日 | 1950年3月26日 | |
大阪連続強盗強姦殺人事件(生野の小平事件) (K) | 1951年12月21日 | 1947年11月30日・1948年3月29日 | 未成年(少年死刑囚)。懲役15年(強姦致傷罪)刑執行停止中。死刑執行日は不明。 |
東住吉主婦強盗強姦殺人事件 (北山義信) | 1951年12月21日 | 1950年3月10日 | 一審は無期懲役。1954年5月6日に死刑執行。 |
免田事件(免田栄) | 1951年12月25日 | 1948年12月29日 | 1983年7月に再審で無罪が確定した冤罪事件。 |
栃木県須賀川村老婆強盗殺人事件 (山口仙次) | 1951年12月25日 | 1950年4月9日 | |
姫路知人2人強盗殺人事件 (O) | 1951年12月27日 | 1950年2月20日 | 死刑執行日は不明。 |
姫路知人2人強盗殺人事件 (T) | 1951年12月27日 | 1950年2月20日 | 死刑執行日は不明。 |
宇治博徒仲間強盗殺人・鉄道轢断事件 (K) | 1951年12月28日 | 1948年11月14日 | 一審は無期懲役。1957年6月27日に死刑執行。 |
1952年死刑確定囚(34人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
福島県清水峠拳銃強盗殺人事件 (A) | 1952年1月22日 | 1949年7月15日 | 死刑執行日は不明。 |
福島県清水峠拳銃強盗殺人事件 (T) | 1952年1月22日 | 1949年7月15日 | 死刑執行日は不明。 |
福島県清水峠拳銃強盗殺人事件 (H) | 1952年1月22日 | 1949年7月15日 | 死刑執行日は不明。 |
島根県連続強盗殺傷放火事件 (M) | 1952年1月23日 | 1951年5月25日/29日 | 1952年10月22日に死刑執行。 |
静岡雇い主一家3人殺害事件 (R) | 1952年1月23日 | 1950年6月25日 | 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 |
大分県駅館村雑貨商一家強盗殺傷事件 (N) | |||
兵庫友人兄弟強盗殺人事件 (G) | |||
兵庫友人兄弟強盗殺人事件 (N) | |||
水戸露天商夫婦強盗殺傷事件 (Y) | |||
神田知人父娘強盗殺人事件 (I) | |||
大分県上井田村内妻一家3人刺殺事件 (S) | 1952年4月28日、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
九段老女・太秦タクシー運転手連続強盗殺人事件 (O) | |||
栃木県落合村幼児強盗殺人事件 (N) | |||
宮城県吉田村3人組母子強盗殺人事件 (O) | |||
宮城県吉田村3人組母子強盗殺人事件 (T) | |||
市川博徒仲間殺害事件 (Y) | 1952年3月28日[336] | 1948年5月17日[336] | 1970年7月17日、個別恩赦減刑[336]。その後病死。 |
石岡強盗殺傷事件 (S) | |||
淀川堤防タクシー強盗殺人事件 (M) | |||
柳井元日通職員強盗殺人事件 (T) | |||
池袋カルピス毒殺事件(第二帝銀事件) (N) | 1948年9月5日 | 共犯者2名と共謀し、強盗目的で青酸カリ入りのカルピスを被害者に言葉巧み飲ませ、殺害、現場的にも帝銀事件と近く、犯行内容・手口も似ていたため、第二帝銀事件とも呼ばれた。共犯者2名は懲役刑。逮捕日は1948年11月5日 | |
福岡連続強盗殺人事件 (S) | 1952年4月9日(控訴審判決日)[337] | 1951年(5月15日・6月3日)[338] | 事件当時19歳10か月(少年死刑囚)[337]。福岡県内(福岡市および八幡市)で男性2人を殺害[339]。逮捕後、「『ソウさん』という共犯者(=当時逃亡中の古谷惣吉)がいる」と主張したが、警察はほとんどその共犯者(=古谷)について追及せず[340]、1951年11月7日に福岡地裁で死刑判決[339]。控訴したが、1952年4月9日に福岡高裁で控訴棄却判決を受け死刑が確定[337]。1953年に死刑執行[341]。 共犯者・古谷惣吉はSの死刑執行後に逮捕され、懲役10年の判決を受け服役したが[342]、出所後に8人連続殺人事件(警察庁広域重要指定105号事件)を起こして死刑確定(1985年〈昭和60年〉8月1日に死刑執行)[343]。 |
埼玉の小平事件 (T) | 埼玉県比企郡松山町(現:東松山市)の家畜商[344]。金銭欲しさから通行人の女性(当時21歳)を強姦した上で扼殺し、現金約1500円などを強取したほか、同種の強盗強姦、強盗殺人2件を犯した[345]。
3. 事件後の5月31日に逮捕され、6月11日に1. と2. の事件を自供した。またこれ以外にも暴行未遂3件や、群馬県でも若い女性を暴行・絞殺したことを自供した[346]。犯行手口が小平義雄と共通していたため[346]、「埼玉の小平」として埼玉県北部の若い女性に衝撃を与えた[347]。 | ||
国鉄職員による小山駅女性全裸殺人事件 (I) | |||
栃木県粟野町住職夫妻ら強盗殺人事件 (K) | |||
茨城県軽野村一家3人強盗殺人事件 (T) | 1952年7月10日 | 1950年2月19日 | 1956年11月10日に名古屋拘置所で死刑執行。 |
蔵前元雇い主親子強盗殺人事件 (K) | |||
宮城馬喰強盗殺人事件 (H) | |||
平戸幽霊船大生丸殺人事件 (U) | 1951年9月17日 | 1950年5月17日 | 共犯の兄NM(26)と共謀して船を乗っ取りをはかった強盗殺人犯、船長KT(50)と機関長KK(42)を殺害して、海に投げ込み、鮮魚と船を強奪。共犯の兄は無期懲役、再審請求を行っていたが、ある日突然執行された、1952年9月20日に死刑執行[350]。 |
貸しボート上暴力団抗争射殺事件 (T) | 1952年、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
茨城連続強盗殺人事件 (W) | |||
和歌山・奈良2女性連続殺人事件 (M) | |||
福岡・神戸警察官ら連続射殺事件 (H) | 1951年5月[351]。 | 1954年9月10日に死刑執行[352]。 | |
埼玉県大門村一家5人強盗殺傷事件 (I) | |||
佐賀県小城町玩具商父娘強盗殺傷事件 (W) |
1953年死刑確定囚(26人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
北海道穂別村老夫婦強盗殺人事件 (I) | |||
新潟八百屋夫婦強盗殺人事件 (K) | |||
富良野住職夫婦強盗殺人放火事件 (H) | |||
北海道永山村飯場仲間一家ら6人殺傷事件 (I) | |||
長崎若妻強盗殺人事件 (K) | |||
鳥取県大宮村林業従事者殺人窃盗事件 (M) | 1953年、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
矢板山林売買強盗殺人事件 (T) | |||
伊那老女強盗殺人事件 (N) | |||
千葉県富勢村ヤミ屋一家3人強盗殺人事件 (Y) | |||
千葉県富勢村ヤミ屋一家3人強盗殺人事件 (M) | |||
杉並老女強盗殺人事件 (S) | |||
元巡査による架空取引強盗殺人事件 (N) | |||
福岡県筑紫村牛目的強盗致死事件 (U) | |||
上伊那郡朝日村農協強盗殺人事件 (S) | |||
倉敷時計商親子強盗殺人事件 (H) | |||
長野県七貴村強盗殺人事件 (N) | |||
長野県七貴村強盗殺人事件 (S) | |||
北海道津別町一家5人強盗殺傷事件 (T) | |||
福島県白方村一家6人殺傷事件 (K) | |||
横浜火薬廠守衛長夫婦強盗殺人事件 (S) | |||
横浜火薬廠守衛長夫婦強盗殺人事件 (Y) | |||
共同事業者青酸ビール毒殺事件 (S) | 1954年、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
御殿場町役場宿直員強盗殺人事件 (K) | 未成年(少年死刑囚)。 | ||
茨城県磯浜町一家5人殺傷事件 (S) | 1954年、サンフランシスコ講和条約締結に伴う政令恩赦で減刑。 | ||
天草一町田村強盗殺人事件 (Y) | |||
東京松沢マーケット商人強盗殺人事件 (S) |
1954年死刑確定囚(20人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
大阪看板屋父子殺人・広島強盗事件 (N) | 1954年1月23日[353] | 1952年11月29日に脱獄するも2日後に神戸で逮捕される[353]。
1957年6月27日に死刑執行[353]。 | |
香川県山内村一家4人殺害事件 (W) | |||
香川県山内村一家4人殺害事件 (N) | |||
淀川堤防タクシー強盗殺人事件 (N) | |||
淀川堤防タクシー強盗殺人事件 (W) | |||
熊本県柿迫村炊事婦殺害事件 (M) | |||
横須賀材木商強盗殺人事件 (F) | |||
石巻図書館司書殺害事件 (A) | |||
別府内妻両親強盗殺人事件 (T) | |||
秋田一家3人殺害事件 (Y) | |||
茅ヶ崎知人の妻強盗殺人事件 (Y) | |||
岡山県和意谷叔父一家4人殺傷事件 (M) | |||
埼玉県幡羅村パチンコ店留守番強盗殺人事件 (A) | |||
水戸無尽会社宿直員殺傷事件 (H) | |||
神戸巡査夫人強盗殺人事件 (Y) | |||
福岡県添田町質商夫婦強盗殺傷事件 (H) | |||
金比羅丸事件 (I) | 1946年8月23日 | 炊事係、船長、船員の3人で生成された海賊による強盗殺人事件、最初は金比羅丸を襲う計画はなく、元々は朝鮮半島への密輸を目的としていた、しかし渡海中に金比羅丸を発見し、懇願し乗船し、しばらくして現金の場所を聞いた後に金比羅丸の船員3人を射殺、船員の内の1人は身を隠し犯人らによって発見されることは無く、生き残った。 | |
兵庫県多加野村農協事務員強盗殺人事件 (F) | |||
千葉の母娘殺し[354](栗田源蔵) | 1954年10月21日[355] | 1952年1月13日[356] | 秋田県雄勝郡新成村(現:羽後町)生まれ[355]、千葉県千葉市検見川町在住[356]。1952年1月13日23時ごろ、検見川町の民家に侵入して室内を物色していたところ、家人の女性(当時25歳)に騒がれたため暴行を加えた上でタオルで絞殺、さらに女性の母親(当時65歳)も出刃包丁で腹を刺して殺した[356]。また強盗、殺人未遂などの余罪もあった[356]。 この事件では強盗殺人罪などの罪に問われ、1952年8月13日に千葉地裁で死刑判決を言い渡されたが[356]、控訴中に下記の余罪が判明した[357]。 |
おせんころがし殺人事件(栗田源蔵) | 1954年10月21日[355] | 上記と同一人。1948年2月、静岡県で闇米屋をしていた時に知り合った女性を殺害した[358]。1951年8月8日には栃木県小山町で天理教布教師の妻(当時26歳)を殺害し[357]、同年10月11日2時ごろには[359]、千葉県安房郡小湊町(現:鴨川市)[注 10]の「おせんころがし」で[358]、子供3人(9歳長女、6歳長男、3歳次女)を連れた女性(当時32歳)に関係を迫り、拒まれたため母子4人を数十メートル下の崖下に突き落とし、結果的に生存した長女を除く3人を殺害した[359]。それらの事件の裁判では1953年12月21日、宇都宮地裁(菅原裁判長)で死刑判決を言い渡された[360]。これらの犯行から「第二の小平」として世間を震撼させ[355]、小平義雄にも劣らない殺人鬼と評された[358]。 両事件とも死刑判決を不服として東京高裁(久礼田裁判長)へ控訴していたが[361]、1954年10月21日付でいずれも控訴を取り下げ、死刑が確定した[355]。その際は自ら早期の死刑執行を望む旨を語っていたが[362]、死刑確定後の1955年8月10日、宇都宮地裁で審理された事件のうち、おせんころがし事件については取り調べを行った国警栃木県本部の捜査官から「どうせ死刑なのだから事件を背負って行け」と強要されて自供したものであるとして、宇都宮地裁に再審請求した[363]。また1957年7月には千葉の母娘殺し事件でも、取り調べで拷問を受けた影響で第一審の公判中に真実を述べることができなかったことや、被害者の女性(当時25歳)とは夫婦約束があり、自分は犯人ではないこと、そして被害者宅に侵入した当時は友人と一緒だったため単独犯ではないとの理由から再審請求した[356]。しかし同地裁は1958年5月12日付で、栗田の犯行前後の行動は審理尽くされており、単独犯と認められるとして、再審請求を棄却する決定を出した[356]。 1959年10月14日、宮城刑務所で死刑執行(34歳没)[358]。死刑執行前の1956年から1957年にかけ、国会で死刑存廃問題が取り上げられた際、死刑存置論者は栗田を引き合いに「こんな男でも死刑にしてはならないのか」と訴えていた一方、晩年は一般の女性に獄中から手紙を出して同情を求めるなど、有害な行動も多かったという[358]。 | |
大宮女性郵便局員殺害事件 (S) |
1955年 - 1959年
1955年死刑確定囚(19人)
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
広島刑務所副看守長殺害事件(I) | 1955年2月2日 | 1953年5月29日 | 控訴取下げ。殺人前科あり。1957年2月4日に死刑執行。 |
京都脱獄囚による一家3人強盗強姦殺人事件 (U) | 1955年3月16日 | 1953年10月24日 | 上告取下げ。死刑執行日は不明。 |
横浜市金沢区留守番男性強盗殺人事件 (F) | 1955年3月22日 | 1952年1月28日 | 死刑執行日は不明。 |
帝銀事件(平沢貞通) | 1955年4月6日 | 1948年1月26日 | 1987年5月10日獄死(95歳没)。 |
大阪港機帆船船長兄弟殺害事件 (Y) | 1955年4月12日 | 1954年2月17日 | 上告せず確定。死刑執行日は不明。 |
蕨隣家夫婦射殺・茨城2人射殺未遂事件 (S) | 1955年6月9日 | 1947年12月30日・1951年12月25日 | 死刑執行日は不明。 |
三鷹事件(竹内景助) | 1955年6月22日 | 1949年7月15日 | 電車顛覆致死事件で6人死亡。ただし冤罪が指摘されている。1967年1月18日に獄死(45歳没)[364]。 |
栃木雑貨商一家殺害事件 (K) | 1955年6月28日 | 1953年3月17日 | 上告棄却、白内障を患った母親の治療費欲しさに近所の雑貨商に侵入し、一家3人と使用人を殺害。最高裁上告中に脱獄、後に確保され、1955年6月28日に最高裁が上告を棄却。同年11月22日宮城刑務所にて死刑執行。死刑確定から執行までの期間は戦後最短とする文献もあるが、これは誤りで、昭和20年代には確定から2か月前後で執行された者もいる。 |
湯島・羽生連続強盗殺人事件 (H) | |||
福島県黒土村強盗殺人事件 (F) | |||
宮崎老夫婦強盗殺人事件 (T) | |||
兵庫県若狭野村遠縁3人強盗殺人事件 (N) | |||
北海道標茶町内妻実家放火殺人事件 (A) | |||
大阪市住吉区銭湯一家4人強盗殺人事件 (S) | |||
神戸洋服商殺人事件(孫斗八) | 1955年12月16日 | 1951年1月17日 | 上告棄却、以前オーバーコートを購入した洋服商店に上り込み、夫婦2人を殺害。 |
新宿家政婦殺害事件[365] (F) | 1955年12月20日 | 1951年5月25日 | 上告棄却、金銭の貸主宅に侵入し、同家の家政婦を殺害。 |
福岡県豊津村一家8人殺害事件 (N) | 1955年12月26日 | 1954年9月7日 | 殺人未遂前科(懲役4年)あり、日頃から交際相手に対して暴力を行っていた美容師である犯人Nは別れ話を切り出された事に激怒し鍬で交際相手一家8人を虐殺、殺害後に家で仮眠をとって休憩した後に逃走、電車に乗って逃走していた所を警察に逮捕された。上告棄却 |
喜多方巡査殺害事件[366] (S) | 1955年12月26日 | 1953年5月7日 | 上告棄却、一審は無期懲役。駐在所巡査を殺害。成人4日後の犯行。死刑執行日は不明。 |
長野県松尾村医師見習強盗致死事件[366] (M) | 1955年12月26日 | 1954年9月5日 | 上告棄却、1人を刺殺。死刑執行日は不明。 |
1956年死刑確定囚(22人)
名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
門司幼児3人殺害事件 (K) | 1956年1月6日[367] | 1952年4月21日[368][369] 1952年5月13日[370][369] 1952年5月19日[370][369] |
1901年(明治34年)4月21日生まれ[371]。1952年4月21日 - 5月19日にかけ、福岡県門司市(現:北九州市門司区)内で幼児3人(5歳男児2人と8歳〈小学校2年生〉女児)[372]を相次いで殺害し[373]、死体を肥つぼに遺棄した[374]。 同事件で殺人罪・死体遺棄罪に問われ[371][375]、刑事裁判で弁護人は責任能力の問題(心神喪失もしくは心神耗弱)を主張したが、第一審の福岡地裁小倉支部で、1955年1月19日に求刑通り死刑判決を言い渡された[375]。その後、同年7月4日に福岡高裁で控訴棄却の判決を受ける[375]。K本人は上告審で、3件とも無実を主張したが[368]、同年12月26日には最高裁第三小法廷(島保裁判長)で上告棄却の判決を受け[376]、1956年1月6日付で死刑が確定[367]。 確定後、死刑執行まで計14回にわたり、約2か月おきに再審請求を繰り返していたが、死刑確定から2年3か月後の1958年4月12日に福岡刑務所[注 11]で死刑執行[379](56歳没)。これを受け、福岡高裁第4刑事部(柳田躬則裁判長)[注 12]は同月22日付で「請求人が死刑を執行されたため、(再審の)請求権[注 13]は消滅した」として、再審請求を棄却する決定[注 14]を出した[注 15][379]。 |
福島県田人村母子強盗殺人事件 (K) | 一審は無期懲役。 | ||
旭川通運宿直員強盗殺人事件 (H) | |||
旭川通運宿直員強盗殺人事件 (K) | |||
福岡事件 (N) | 1956年4月17日 | 1947年5月20日 | 1975年6月17日に死刑執行(60歳没)。死刑確定後にIとともに再審請求したが棄却され、それに対する即時抗告および特別抗告も1965年1月19日付で最高裁第三小法廷から棄却決定を出されている[381]。 |
福岡事件 (I) | 1956年4月17日 | 1947年5月20日 | 1975年6月17日に個別恩赦で無期懲役に減刑。1989年仮出獄、2008年11月7日に死去(91歳没)。 |
宗像坑木商強盗殺人事件 (O) | |||
京都母親強盗殺人事件 (K) | |||
宮城県利府村一家6人殺傷事件 (S) | |||
熊本市長安寺町女性強盗殺人事件 (T) | |||
延岡タクシー運転手強盗殺人事件 (T) | 控訴取下げ。 | ||
半田伯父ら連続強盗殺人事件 (I) | |||
福岡県八木山峠中学女性事務員強盗殺人事件 (T) | |||
福岡県八木山峠中学女性事務員強盗殺人事件 (Y) | |||
相模原質店強盗殺人事件 (S) | |||
文京区小2女児殺害事件 (S) | 1956年10月25日 | 1954年4月19日 | 1957年6月22日に死刑執行(享年22)。 |
茨城恩人強盗殺人事件 (M) | |||
藤井寺旅館母子殺傷事件 (M) | |||
銀座母娘殺し事件(別府似男[注 16][384]) | 1956年12月5日[385] | 1956年1月18日[386] | 1956年1月18日、東京都中央区銀座東七丁目(現:銀座七丁目13番)の弁護士・磯部常治(東京第二弁護士会副会長)方で、磯部の妻(当時52歳)と次女(当時22歳)が殺害された事件[387]。事件当時28歳[388]。まず妻をネクタイで絞殺、次いで帰宅してきた長女の胸小刀で刺して殺害し[389]、現金約800円などを強取した[384]。同月20日[386]、故郷の愛知県挙母市(現:豊田市)の挙母警察署長興寺派出所へ出頭して逮捕され[390]、同年2月7日に強盗殺人罪で起訴された[386]。 強盗殺人、窃盗、詐欺の罪に問われた[384]。1956年11月20日に東京地裁で死刑判決を言い渡された[258]。控訴せず[382]、同年12月5日付で死刑が確定[385]。被害者遺族である磯部は死刑廃止論者で、別府が罪を悔いて裁きを受けるならば彼の弁護を引き受けるという意向を示したが、事件関係者である磯部が弁護人になることは不適切とされ、実現しなかった[391]。 1960年7月17日に宮城刑務所で死刑執行[392]。 |
名古屋守衛夫人強盗殺人放火事件 (K) | 一審は無期懲役。 | ||
帯広一家3人強盗殺傷事件 (S) | |||
大阪市松屋町主人一家4人殺害事件 (M) | 未成年(少年死刑囚)。 | ||
東海銀行・大阪連続強盗殺人事件(権善五) | 1956年10月22日 | 1954年〜1955 年 | 第二審で控訴棄却、1957年9月に肺結核で病死。 |
1957年
1957年(昭和32年)に死刑判決が確定した死刑確定者は27人である[393]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
函館金塊事件 (M) | 1957年1月 | 1954年8月22日 | 二審判決が確定。 |
財田川事件(谷口繁義) | 1957年1月22日 | 1950年2月28日 | 高松地方検察庁で保存されていた捜査資料が破棄され死刑執行手続きが不可能になったうえに、古畑種基による証拠鑑定の杜撰さや被疑者に対する拷問といった問題点が明らかになった為、1984年3月12日に再審無罪となり放免された。 |
大分県野津町叔父夫婦強盗殺傷事件 (Y) | 1957年2月27日 | 1955年8月15日 | 鎌と棍棒で殺害し強奪。犠牲者1人、上告せず確定。 |
兵庫女性強姦殺人事件 (I) | 1957年4月5日 | 1954年12月1日 | 通行人1人を強姦の上刺殺。少年犯罪、一審は無期懲役。上告棄却。 |
保土ヶ谷女性強盗殺人事件 (U) | 1957年4月18日 | 1953年12月31日 | 通行人1人を強姦の上扼殺。上告棄却。 |
我孫子女子中学生殺害事件 (S) | 1957年4月26日 | 1955年9月12日 | 通行人1人を扼殺。控訴取下げ。1959年11月11日に死刑執行[394](28歳没)。 |
八王子マダム福笑い殺人事件 (Y) | 1957年6月27日 | 1955年2月3日 | 犯行当時未成年の少年Oと共謀、飲食店「みはる」で女将のKH(42)に福笑い遊びで目隠しをさせ麻縄で絞殺、控訴取下げ[395]。 |
佐賀雇主一家強盗殺傷事件 (W) | 1957年6月27日 | 1952年11月3日 | 知人1人を日本刀で惨殺。 |
和歌山県九重村一軒家母娘強盗殺傷事件 (T) | 1957年7月13日 | 1956年8月2日 | 死刑執行日は不明。 |
福岡県糸田町幼女殺害事件 (T) | 1957年7月16日 | 1955年3月7日 | 殺人未遂前科(執行猶予中)。1959年12月3日に死刑執行。 |
三越部長夫人強盗殺人事件 (T) | 1957年7月18日 | 1954年7月1日 | 下記Yの共犯。死刑執行日は不明。 |
三越部長夫人強盗殺人事件 (Y) | 1957年7月18日 | 1954年7月1日 | 上記Tの共犯。死刑執行日は不明。 |
人違いバラバラ殺人事件 (F) | 1957年7月19日 | 1954年9月5日 | 一審は無期懲役、控訴審最終尋問で証人を負傷させたことが問題に。1959年5月27日に死刑執行(40歳没)。 |
神戸生田神社通行人2人強盗殺人事件 (O) | 1957年7月24日 | 1956年6月30日 | 控訴取下げ。 |
藤本事件(藤本松夫) | 1957年8月23日 | 1952年7月6日 | 1962年9月14日に死刑執行(40歳没)。死刑囚がハンセン病患者であったため、当時から捜査と裁判の不正さ、冤罪の可能性が指摘されていたが、国の委託を受けた日弁連法務研究財団[396]は、2005年に調査報告書で、「手続的保障が十分に尽くされ(ていた事件かという)視野に立った場合、藤本事件は、到底、憲法的な要求を満たした裁判であったとはいえないだろう」と指摘した[397]。 |
北海道・千歳質店夫婦強盗殺人事件[398] (Y) | 1957年8月30日 | 1954年11月27日 | 一審は無期懲役、侵入先で夫婦を惨殺し子供1人を負傷させる。犯行時18歳4か月(少年死刑囚)で確定時も21歳。 |
十二銭五厘強盗殺人事件[399] (I) | 1957年9月3日 | 1955年12月9日 | 手提金庫にあった硬貨を掴んだ際に83歳女性にみつかり「口封じ」のために殺害しボストンバッグを持って逃走。硬貨は法的には既に通用しない古銭だった。 |
鹿児島雑貨商夫婦殺害事件 (Y) | 1957年9月12日 | 1955年6月28日 | 1960年8月31日に死刑執行。 |
栃木建設局員強盗殺人事件 (T) | 1957年9月12日 | 1951年5月20日 | 下記Iの共犯。死刑執行日は不明。 |
栃木建設局員強盗殺人事件 (I) | 1957年9月12日 | 1951年5月20日 | 上記Tの共犯。死刑執行日は不明。 |
宮城県利府村ハイヤー運転手強盗殺人事件 (M) | 1957年9月17日 | 1956年3月9日 | 死刑執行日は不明。 |
福岡県名島老女強盗致死事件 (A) | 1957年10月10日 | 1952年6月25日 | 死刑執行日は不明。 |
大分県鶴崎町青酸カリ毒殺事件 (K) | 1957年10月18日 | 1947年12月19日 | 別件殺人罪(懲役13年)服役中に発覚。1960年9月14日に死刑執行。 |
横浜一家6人殺傷事件 (O) | 1957年10月25日 | 1951年6月16日 | 死刑執行日は不明。 |
梅田事件など(北見・留辺蘂営林署員連続強盗殺人事件) (H) | 1957年11月14日 | 1950年10月10日 1951年6月11日 |
Hは2件の強盗殺人の首謀者であるが、無関係の第三者を2人も巻き込み、そのうちUが無期懲役で服役し後に再審無罪になった冤罪事件でもある。青地晨の「魔の時間」によればHはUを巻き込むことで共犯を守ろうとした可能性を指摘している。1960年6月20日に死刑執行(37歳没)。 |
1958年
1958年(昭和33年)に死刑判決が確定した死刑確定者は25人である[393]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
須坂連続親族毒殺事件 (H) | 1958年1月16日 | 1954年11月5日-1955年8月14日 | 1960年10月14日に死刑執行。 |
蒲田・磯子連続強盗殺傷事件 (K) | 1958年1月16日 | 1954年12月22-23日 | 共犯のNは1955年8月30日自殺。死刑執行日は不明。 |
岩見沢女性祈祷師強盗殺人事件 (H) | 1958年2月21日 | 1956年1月5日 | 死刑執行日は不明。 |
大宮公園強盗殺人事件 (T) | 1958年3月11日 | 1955年4月11日 | 死刑執行日は不明。 |
八王子老女強盗殺人事件 (S) | 1958年3月18日 | 1957年7月9日 | 控訴取下げ。死刑執行日は不明。 |
函館金塊殺人事件 (S) | 1958年4月10日 | 1954年8月22日 | 死刑執行日は不明。 |
東京高校小使殺害事件 (Y) | 1958年4月10日 | 1956年6月22日 | 死刑執行日は不明。 |
葛飾区神社殺人事件 (I) | 1958年4月15日 | 1957年3月31日 | 上告せず確定。死刑執行日は不明。 |
穂高一家4人殺害事件 (K) | 1958年4月17日 | 1949年10月3日[400] | 下記Mの共犯[400]。長野県南安曇郡南穂高村在住、第一審判決時点で36歳[400]。 下記M(第一審判決時点で21歳)や同郡東川手村の高校2年生(同18歳)と共謀し、1949年10月3日、南穂高村重柳で農家の一家4人を皆殺しにしたとして強盗殺人罪に問われた[400]。 長野地裁松本支部は1950年3月31日、KとMを死刑、高校生を懲役12年(いずれも求刑通り)の刑に処する判決を言い渡した[400]。1962年に死刑執行。 |
穂高一家4人殺害事件(死刑受執行業務不存在確認請求) (M) | 1958年4月17日 | 1949年10月3日[400] | 犯行時未成年の少年死刑囚。長野県東筑摩郡生坂村在住[400]。上記Kの共犯[400]。1962年に死刑執行。 |
八戸通運店員強盗殺人事件 (H) | 1958年4月17日 | 1955年5月30日 | 一審は無期懲役。死刑執行日は不明。 |
八戸通運店員強盗殺人事件 (K) | 1958年4月17日 | 1955年5月30日 | 一審は無期懲役。死刑執行日は不明。 |
神奈川県牧野村飲食店女性強盗殺人事件 (O) | 1958年4月17日 | 1954年7月26日 | 一審は無期懲役。1961年7月13日に死刑執行。 |
墨田老女強盗殺人事件 (M) | 1958年5月10日 | 1957年2月12日 | 控訴取下げ。死刑執行日は不明。 |
江戸川運転手殺害事件 (M) | 1958年6月13日 | 1956年4月5日 | 江戸川区で運転手を殴り付近のハス田に投げ込み窒息死にし約2500円を奪った[401]。1960年に死刑執行。 |
中野質屋夫婦殺傷事件 (T) | 1958年6月13日 | 1955年11月4日 | 遊興費に窮した男が質屋に押し入り、妻をナタで撲殺し夫は重傷。500円と腕時計を奪う[401]。死刑執行日は不明。 |
兵庫県戸倉峠強盗殺人事件 (K) | 1958年6月24日 | 1956年5月9日 | 死刑執行日は不明。 |
浅草夫婦強盗殺人事件 (O) | 1958年6月27日 | 1952年12月30日 | 1959年11月28日に死刑執行。 |
小金井少女強姦殺人事件 (K) | 1958年7月11日 | 1957年2月26日 | 控訴取下げ。求刑は無期懲役。死刑執行日は不明。 |
牟礼事件(佐藤誠) | 1958年8月5日 | 1950年4月13日 | 実行犯による証言のみ。物的証拠がないため冤罪との指摘がある。再審請求8回。1989年10月27日、くも膜下出血のため死亡(81歳没)。 |
津新町駅長夫人殺害事件 (N) | 1958年12月18日 | 1956年8月27日 | 一審は無期懲役。1962年11月8日に死刑執行。 |
1959年
1959年(昭和34年)に死刑判決が確定した死刑確定者は14人である[393]。
事件名(死刑囚名) | 判決確定日 | 事件発生日 | 備考(事件概要・死刑執行日など) |
---|---|---|---|
北海道連続強盗強姦殺傷事件 (K) | 1959年3月12日 | 1953年9月5日 1958年1月3日 |
控訴せず確定、侵入先一家3人を惨殺。 |
杉並重役夫人殺害事件[402] (H) | 1959年4月16日 | 1957年4月24日 | 一審は無期懲役で上告棄却、侵入先で1人を刺殺。 |
銀座の雑貨商殺し事件 (S)[403] | 1959年4月16日[403] | 1955年3月5日[403] | 1955年3月5日夜、東京都中央区銀座西の雑貨商男性(当時64歳)宅に侵入、男性をナタで殺害し、次女に乱暴した上、現金6000円を奪った[403]。事件から1年5か月後の1951年7月、奄美大島で名瀬警察署に喧嘩で逮捕された際、犯行を自供した[403]。強盗殺人、婦女暴行の罪に問われ、1959年4月16日に最高裁第一小法廷で一・二審の死刑判決を支持して上告を棄却する判決を言い渡されたことで死刑が確定[403]。1960年9月7日、宮城刑務所で死刑執行(35歳没)[403][404]。 |
長野一家4人殺害事件 (O) | 1959年4月23日 | 1956年12月30日 | |
札幌重役夫人殺害事件 (W) | 1959年4月28日 | 1957年1月30日 | |
横浜母子強盗殺人事件 (A) | 1959年6月9日 | 1957年5月17日 | |
八王子マダム福笑い殺人事件 (O) | 1959年6月16日 | 1955年2月3日 | 犯行当時は未成年者(少年死刑囚)。共犯のYは1957年6月27日に控訴取下げで死刑確定[395]。 |
宇部市兄一家4人殺害事件[405] (S) | 1959年9月18日 | 1957年3月6日 | 上告棄却、同居していた兄嫁と子供3人を惨殺。 |
品川トランク詰殺人事件 (N) | 1959年9月18日 | 1956年6月28日 | 男性に青酸カリ入りの寿司を食べさせて毒殺し、逃亡。共犯の女性Oは懲役15年(求刑無期懲役)。 |
中野友人殺害事件[405] (T) | 1959年9月18日 | 1956年12月1日 | 上告棄却、ネクタイで友人を絞殺。共犯は有期の懲役刑。 |
鹿児島接客婦殺害事件 (K) | 1959年10月22日 | 1957年12月18日 | 控訴取下げ。1960年3月1日に死刑執行。嘱託殺人前科(懲役1年)、殺人前科(懲役20年)。 |
北海道・羽幌強盗放火殺人事件[406] (O) | 1959年12月4日 | 1956年4月4日 | 上告棄却、金に困り侵入先一家3人を惨殺。 |
第二の小平事件 (A)[407][408] | 1959年12月15日 | 1954年7月4日[409] 1954年10月26日[408] |
山口県徳山市出身の土工、前科3犯[407]。1944年7月21日に山口地裁で戦時強姦未遂、戦時住居侵入罪に問われ、懲役7年の判決を受けて岩国少年刑務所に服役したが、1945年8月17日に脱走した[410]。 1954年7月4日未明、国電鶴見駅(神奈川県横浜市鶴見区)付近で帰宅途中の女性(当時37歳)を襲って乱暴、絞殺した[409]。また同年10月25日夜、東京都大田区安方町で女給(当時28歳)を絞殺して乱暴した[408]。これ以外にも1953年6月から1954年12月までの間、神奈川、埼玉、静岡で婦女暴行致傷、同未遂など29件の余罪あり[407]。犯行手口は主に、25歳から27歳までの女性を国鉄や私鉄の駅で待ち伏せて尾行し、暗闇の中で襲撃するというものであった[410]。 殺人、婦女暴行、強盗など8つの罪状に問われ[408]、「第二の小平」として注目された[411]。1958年7月7日に横浜地裁小田原支部(雨宮裁判長)で死刑判決[407]。量刑不当を理由に控訴したが、同年12月24日に東京高裁刑事第7部で控訴棄却判決[409]。1959年12月15日に最高裁第三小法廷(島裁判長)で上告棄却の判決を受け、死刑が確定[408]。 |
大分県山香町伯母夫婦ら3人殺害事件 (O) | 1959年12月25日 | 1955年12月15日 - 16日 | 1962年2月21日に死刑執行。 |
脚注
注釈
- ^ 岩上洪治執行前年にあたる1910年(明治43年)で大卒銀行員が30円、巡査初任給が12円、大工の日当が1.1円、白米1升で13銭であった。これらを現在の価値で換算した場合、約7.5万〜約1.1万円となる。
- ^ 未遂に終わったとしても法定刑は死刑しか規定されていない刑罰。戦後廃止された。
- ^ あくまでも構想のみであり、実際に犯行計画を進めていないため、日本では罰則規定が現在もない共謀罪であった。
- ^ 大逆罪廃止による。
- ^ 現:あいの風とやま鉄道線。
- ^ 旧刑事訴訟法適用事件であるため、「控訴棄却」ではない。また、名古屋高裁金沢支部は1948年(昭和23年)の設立である。
- ^ 『大阪府警察史』では「枚方の一家六人惨殺事件」となっているが、発生地は寝屋川町(現在の寝屋川市)である。
- ^ 現:国立病院機構やまと精神医療センター。
- ^ 名古屋の小平事件[331]、中京の小平事件[332]とも呼ばれる。
- ^ 夷隅郡興津町とする文献もある[359]。
- ^ 福岡刑務所では1948年11月11日に刑場が完成し、同日から死刑囚の収容・執行を行っていた[377]が、同刑務所は1965年(昭和40年)4月16日に福岡市外へ新築・移転したため、以降は同拘置所跡地に移転した土手町拘置支所特別舎(現:福岡拘置所)にて死刑囚の収容・執行を行っている[378]。
- ^ 陪席裁判官は青木亮忠・尾崎力男[380]。
- ^ 刑事訴訟法第439条第1項:「再審の請求は、左の者がこれをすることができる。(中略)4. 有罪の言渡を受けた者が死亡し、又は心神喪失の状態に在る場合には、その配偶者、直系の親族及び兄弟姉妹」
- ^ 決定全文は以下の通り。
主文
本件の再審請求を棄却する。
理由
記録に編綴されている当庁、三浦書記官補作成の電話聴取書によれば、再審請求人は昭和三十三年四月十二日、すでに死刑の執行がなされたことが明らかである。
従って、本件請求権は消滅したものと認め主文の通り決定する。
昭和三十三年四月二十二日
福岡高等裁判所刑事第四部
裁判長 裁判官 柳田躬則
裁判官 青木亮忠
裁判官 尾崎力男 — 『実録・福岡の犯罪〈下〉』 (1993) [379] - ^ またKについては、同年4月25日・5月8日に福岡地裁小倉支部が、それぞれ別の再審請求(いずれも死刑囚本人が生前に提出)を棄却する決定を出している[380]。
- ^ 別府欣男[382]、別府佽男(としお)[383]とも表記される。
出典
- ^ 尾佐竹猛 著『法窓秘聞』227-228頁 育生社 1937年
- ^ 太政官 (1868年11月14日). “大津県無宿新助ノ養父母ヲ殺害スルノ罪ヲ候シ之ヲ磔刑ニ処ス” (JPEG,PDF). 国立公文書館. 2024年5月13日閲覧。
- ^ 太政官 (1869年12月1日). “松平容保元家来伊藤重次郎人ヲ殺シ財ヲ盗ムニ付死刑ニ処ス” (JPEG,PDF). 国立公文書館. 2024年5月8日閲覧。
- ^ 聖代暗殺事件 (悪の華文庫 ; 第2)国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c 群馬県群馬郡誌国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 読売新聞新潟・松本支局 編『信越百年の秘話』343頁 野島出版 1969年
- ^ a b 信濃史学会 編『信濃 [第3次] 27(5)(305)』421頁 信濃史学会 1975年
- ^ a b c d e f g h i j 細川広世 1885, p. 359.
- ^ 越中農政史稿国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 上田市 編『上田市史 下巻』62頁 信濃毎日新聞社 1940年
- ^ a b c d e f g h i j k l m n 中村忠雄 著『米沢魂 : 米沢史談』283-284頁 中村忠雄 1943年
- ^ a b 渋谷元良 編『加賀本多家義士録』43-44頁 葵園会 1928年
- ^ 北信郷土叢書刊行会 編『北信郷土叢書 巻六』62頁 北信郷土叢書刊行会 1934年
- ^ 明治辛未殉教絵史国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 桜井村史国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d e f 細川広世 1885, p. 361.
- ^ a b c d e 細川広世 1885, p. 361-362.
- ^ a b c d e 手塚豊 編著『近代日本史の新研究 9』132-133頁 北樹出版 1991年
- ^ 細川広世 1885, p. 365-366.
- ^ 手塚豊 編著『近代日本史の新研究 4』249-250頁 北樹出版 1985年
- ^ a b c d e f g 細川広世 1885, p. 365.
- ^ 尾佐竹猛 著『法窓秘聞』127-132頁 育生社 1937年
- ^ a b c d e f 太政官日誌 明治5年 第85−108号国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d e f 読売新聞福井支局 編『福井の意外史 (フェニックス選書)』224-227頁 勝木書店 1976年
- ^ a b c d 細川広世 1885, p. 367.
- ^ 大分市史国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o 細川広世 1885, p. 368-369.
- ^ a b c d 細川広世 1885, p. 369.
- ^ a b c d e f g 太政官日誌 明治6年 第132−166号国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d e f g 徳島監獄沿革史国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 太政官達書 自第84号至第178号(明治7年自7月至12月)国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 大日本外交文書 第7巻国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ “千五十四号” (日本語). 東京日々新聞 (東京⼤学⼤学院情報学環附属社会情報研究資料センター/ 情報学環・学際情報学府図書室所蔵). (July 1874) 2024年7月27日閲覧。
- ^ 宮内貫一 (1877-12-15), 第六十七条答(67コマ), 新撰法律独稽古 初篇, 巻之下, 中村熊次郎, pp. 32, doi:10.11501/785820
- ^ a b 梅原北明 (1976), 斬首と梟首(278コマ), 近世社会大驚異全史 : 複刻版, 上巻 (附録 ed.), 海燕書房, pp. 11, doi:10.11501/12228219
- ^ 太政官 (1879). “第一号 名例律五刑条例ニ関スル件(86コマ)” (日本語). 太政官布告 自明治十一年至明治十二年 (第七). doi:10.11501/2938268 2021年7月25日閲覧。.
- ^ 法務省 (17 October 2011). 我が国における死刑の歴史について (PDF). 死刑の在り方についての勉強会 (PDF). p. 3. 2020年9月26日閲覧。
- ^ a b 篠田鉱造 (1931年), 明治百話 首斬朝右衛門 △高橋おでんの最後(45-46コマ), 四條書房, pp. 11-12, doi:10.11501/1236333
- ^ a b 高田露 (1910-03-30), 毒婦高橋お傳の斷末魔, 無名通信, 2 (7 ed.), 無名通信社, pp. 123, doi:10.11501/1555294
- ^ “千五十四号” (日本語). 東京日々新聞 (東京⼤学⼤学院情報学環附属社会情報研究資料センター/ 情報学環・学際情報学府図書室所蔵). (July 1874) 2024年7月27日閲覧。
- ^ 宮内貫一 (1877-12-15), 第六十六条答(66コマ), 新撰法律独稽古 初篇下, 巻之, 中村熊次郎, pp. 31, doi:10.11501/785820
- ^ 小池 新 (2023年9月24日). “「異常性欲者として標本にする」殺人罪で死刑後、体の一部がくり抜かれアルコール漬けに…伝説の"毒婦”と呼ばれた女の壮絶すぎる結末 毒婦「高橋お伝」#2” (日本語). 文春オンライン: pp. 3 2024年7月25日閲覧。
- ^ “九百三十三号” (日本語). 東京日々新聞 (東京⼤学⼤学院情報学環附属社会情報研究資料センター/ 情報学環・学際情報学府図書室所蔵). (1875年) 2024年8月15日閲覧。
- ^ a b 閲覧注意。錦絵であるが、殺害された遺体が描きだされている。
- ^ 大阪裁判所 (1877 December), 刑事類纂 乙編 事応奏不奏 第千三百七十五条(379コマ), 国会図書館, pp. 738-739, doi:10.11501/793540
- ^ 司法省 (1875年3月29日). “川畑新右衛門始十八人断刑伺” (JPEG,PDF). 国立公文書館. 2024年8月15日閲覧。
- ^ 司法省. “新潟県史 政治部 刑罰2(明治2‐8年)(133-136コマ)” (JPEG,PDF). 国立公文書館. 2024年8月16日閲覧。
- ^ “明治時代の「1円」の価値ってどれぐらい?”. man@bow(まなぼう). 野村ホールディングス. 2021年9月26日閲覧。
- ^ “九百三十三号” (日本語). 東京日々新聞 (東京⼤学⼤学院情報学環附属社会情報研究資料センター/ 情報学環・学際情報学府図書室所蔵). (1875年) 2024年8月3日閲覧。
- ^ “第五百八十九号-a” (日本語). 郵便報知新聞 (東京⼤学⼤学院情報学環附属社会情報研究資料センター/ 情報学環・学際情報学府図書室所蔵). (1875 April) 2024年8月3日閲覧。
- ^ 司法省 (1875年9月19日). “鈴木長之助始十三人断刑伺” (JPEG,PDF). 国立公文書館. 2024年8月3日閲覧。
- ^ 布施弥平治 (1939), 日本死刑史 再版 第五章 第四期に於ける死刑 5 死刑例, 成光館書店, pp. 297, doi:10.11501/1269317
- ^ a b c d 明九西国暴動録 2號 下国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c 『千葉県警察史 第1巻』193-194頁 千葉県警察本部 1981年
- ^ a b c d 『人物探訪日本の歴史 10 (仁侠の群像)』161頁 暁教育図書 1983年
- ^ 大審院刑事判決録 自明治10年1月至明治10年12月国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d e 薩肥伝信録 6国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d e f g h i j k l m 絵本明治太平記 165-184p国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 戦亡殉難志士人名録 : 嘉永元-明治廿三年期間国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 朝野新聞 第千三百七十一号甲
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc 我妻栄 等編『日本政治裁判史録 明治 前』502-510頁 第一法規出版 1968年
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q r s t u v w x y z aa ab ac ad ae af ag ah ai aj ak al am an ao ap aq ar as at au av aw ax ay az ba bb bc 森長英三郎 著『裁判自由民権時代 (日評選書)』28-31頁 日本評論社 1979年
- ^ 大審院刑事判決録 自明治13年3月至明治13年4月国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 大審院刑事判決録 明治十三年七月国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 国民過去帳 明治之巻
- ^ 類聚官報 明治十六年第七月国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 類聚官報 明治十六年第七月国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 国民過去帳 明治之巻
- ^ 大審院刑事判決録 自明治16年7月至明治16年8月国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 大審院刑事判決録 自明治16年7月至明治16年8月国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 国民過去帳 明治之巻
- ^ 大審院刑事判決録 自明治16年9月至明治16年10月国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 大審院高等法院刑事判決要録国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 大審院刑事判決録 明治17年6月分上巻,明治17年6月分下巻国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 大審院刑事判決録 明治17年6月分上巻,明治17年6月分下巻国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 大審院刑事判決録 明治17年10月分国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 大審院刑事判決録 明治17年10月分国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 日本の死刑 - 明治時代
- ^ デジタル版 日本人名大辞典+Plus
- ^ 日本の死刑 - 明治時代
- ^ a b 事件・犯罪研究会編『明治・大正・昭和・平成事件・犯罪大事典』東京法経学院出版、2002年、11頁
- ^ 明治・大正・昭和歴史資料全集犯罪篇上卷p922018年3月5日閲覧。
- ^ a b 官報(1887年9月12日)国立国会図書館デジタルコレクション、2016年9月25日閲覧。
- ^ 手塚豊 著「高知修立社尻無川事件判決書--続・明治法制史料雑纂-10(完)- 」『法學研究』慶応義塾大学法学研究会 1966年
- ^ 手塚豊 著「尻無川事件に関する二つの大審院判決 : 明治法制史料拾遺(5) 」『法學研究』慶応義塾大学法学研究会 1969年
- ^ 官報 1889年04月25日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 司法省調査部 (1941), 刑事判決書集成 明治14-45年 明治二十年代(八通), 実務参考資料, 第2輯, 司法省調査部, pp. 376-382, doi:10.11501/1445005
- ^ a b 大蔵省印刷局 (1893-07-31), 司法及警察 〇死刑執行, 官報, pp. 2, doi:10.11501/2946290
- ^ “絞首刑の事故:日本の長島高之助氏 ロープの外れ”. 死刑と裁判 裁判員制度下の絞首刑 (2011年9月19日). 2024年5月6日閲覧。
- ^ “長島高之助(年齢不明)”. 日本の死刑 - 明治時代. 2024年5月6日閲覧。
- ^ 三原武雄『徳島県警の話題』三原武雄、1977年、45頁。NDLJP:9770088/30
- ^ a b c d 広島県警察史編さん委員会編 『広島県警察史 上巻』広島県警察本部、1972年
- ^ 黒田水晶『黒田水晶 : 探偵實話 訂正増補』銀花堂、1899年、NDLJP:1083604
- ^ 「黒田水晶『松林伯知 : 探偵實話 訂正増補』」の四コマ目には黒田夫婦が水精の従弟を殺害する様子を描いた絵があり、白黒の絵ではあるが遺体が描き出されているので閲覧注意。
- ^ 長船友則『山陽鉄道物語』JTBパブリッシング 2008年 ISBN 978-4-533-07028-0
- ^ 明治・大正・昭和歴史資料全集 犯罪篇 上卷国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1900年01月18日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 大和九人斬
- ^ 殺人博物館〜尾崎留吉
- ^ 尾崎留吉(年齢不明) 日本の死刑-明治時代
- ^ 官報 1906年05月16日
- ^ 明治・大正・昭和歴史資料全集犯罪篇上卷p4362018年3月5日閲覧。
- ^ 中嶋 繁雄 『明治の事件史―日本人の本当の姿が見えてくる!』 青春出版社〈青春文庫〉、2004年3月20日、226-237頁
- ^ 新聞集成明治編年史第十四卷84頁
- ^ 明治・大正・昭和歴史資料全集 犯罪篇 上卷国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1907年02月13日
- ^ 官報 1907年05月02日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 官報 1908年05月23日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1908年05月21日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c 官報 1908年06月03日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 官報 1908年06月04日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 頓別村発達史国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 東亜協会『東亜の光1(4)』東亜協会、1906年。NDLJP:1591397/60
- ^ 国民過去帳 明治之巻国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 郊外生活社『郊外生活(8)』郊外生活社、1908年、1頁。NDLJP:1504462/1
- ^ 官報 1908年08月17日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 官報 1908年06月06日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 官報 1908年06月19日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1908年05月27日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 国民過去帳 明治之巻国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1909年10月09日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1908年06月24日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1908年06月09日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 労働運動史研究会 編『明治社会主義史料集 第4集 (日刊平民新聞)』170頁6段 明治文献資料刊行会 1961年
- ^ 官報 1908年06月16日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 新聞集成明治編年史. 第十三卷国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 茨城県警察史編さん委員会 編『茨城県警察史 上巻』920-922頁 茨城県警察本部 1971年
- ^ 官報 1908年08月15日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1909年10月25日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 栃木県警察史編さん委員会 1977, p. 591-592.
- ^ 官報 1910年02月18日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 栃木県警察史編さん委員会 1977, p. 588-590.
- ^ 大審院刑事判決録 第15集 第1巻-第30巻 〔明治42年〕国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 山崎酒造恵(30歳) 日本の死刑-明治時代※旧姓は山崎である
- ^ 信濃毎日新聞社編『信濃毎日新聞に見る一一〇年 明治・大正編』信濃毎日新聞社、1983年7月、697頁。NDLJP:12231526/703
- ^ 平林林蔵(53歳) 日本の死刑-明治時代
- ^ 平林幹雄(26歳) 日本の死刑-明治時代
- ^ 村野薫『日本の大量殺人総覧』188P
- ^ 佐賀県警察史編さん委員会 編『佐賀県警察史』904〜907貢 佐賀県警察本部
- ^ 知事物語※34〜36コマ目
- ^ 官報 1911年04月18日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 麻布鳥居坂警察署誌国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 岩上浜治とも表記される。
- ^ a b 野田尋常高等小学校 (1986-12-20), 野田町誌 第十章 警察 第二節 主なる警察事故, 国書刊行会, pp. 135, doi:10.11501/9643892
- ^ しらかわ ただひこ (2022年12月). “明治・大正・昭和・平成・令和 値段史”. コインの散歩道. 2023年6月20日閲覧。
- ^ 官報 1911年07月20日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ “岩上洪治(20歳)”. 日本の死刑 - 明治時代. 2022年7月16日閲覧。
- ^ 司法省 (1911-12). “第四二 新受刑者の刑名、刑期監獄別” (日本語). 司法省監獄局統計年報 13: 115,123. doi:10.11501/795984 2022年7月16日閲覧。.
- ^ 「明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典」、東京法経学院出版、2002年、284頁
- ^ 読売新聞 明治43年11月16日 「一家鏖殺事件 犯人自白す」
- ^ 刑事判決書集成 明治14-45年 (実務参考資料 ; 第2輯)国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 菊池辰太郎(20歳) 日本の死刑-明治時代※こちらのサイトでは20歳と紹介されているがこれは間違いであり、当時の新聞には19歳と報道されてある
- ^ 岡山県警察史編さん委員会編 『岡山県警察史 上巻』1047-1049頁、岡山県警察本部、1975年
- ^ 官報 1914年01月31日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 死刑囚の手記国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 刑事警察譚 第2輯国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1913年12月29日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1915年08月20日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b c d 官報 1915年08月28日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1915年05月07日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 刑事警察譚 第2輯国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 大分県警察史 2/2国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1915年09月23日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 岡山県警察史編さん委員会編 『岡山県警察史 上巻』1059-1060頁、岡山県警察本部、1975年
- ^ 青森県警察史編纂委員会 編『青森県警察史 上巻』636-638頁 青森県警察本部 1973年
- ^ 官報 1915年08月23日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 刑事警察譚 第2輯国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 官報 1916年06月30日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 宮坂九郎 編「小石川七人斬」『明治・大正・昭和歴史資料全集 犯罪篇』 下、有恒社、1933年6月18日、154-168頁。doi:10.11501/1920457。 NCID BN10812915。NDLJP:1920457/84。
- ^ 森長英三郎『史談裁判』 第2巻(新編)、日評選書、1984年(原著1966年)、5-8頁。ISBN 978-4535011342。
- ^ 「保険金詐取の絞殺」『保険銀行時報 (766)』大正5年(1916年)4月、8頁
- ^ 官報 1917年07月25日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 鈴ヶ森おはる殺し事件 - オワリナキアクム ~又ハ、捻ジ曲ゲラレタ怒リ~
- ^ a b 官報 1918年03月05日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 広島県警察史国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 福岡県警察史編さん委 1978, pp. 1075–1076.
- ^ 福岡県警察史編さん委 1978, p. 1080.
- ^ 福岡県警察史編さん委 1978, p. 1081.
- ^ a b 赤城 1956, pp. 36–38.
- ^ 赤城 1956, p. 32.
- ^ 岡山県警察史編さん委員会編 『岡山県警察史 上巻』1049-1051頁、岡山県警察本部、1975年
- ^ 岡山県警察史編さん委員会編 『岡山県警察史 上巻』1060-1063頁、岡山県警察本部、1975年
- ^ 読売新聞 大正9年9月11日 朝刊 5頁
- ^ 明治・大正・昭和呪われた女性犯罪者
- ^ 刑事警察譚 第2輯国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1921年04月14日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 刑台上の感謝 : 死刑囚山口豁悔改録 第2版国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1921年06月28日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 静岡県警察史 上巻
- ^ 玉木義虎『高知県犯罪捜査集 第1輯』防犯協会、1936年、125〜152貢。NDLJP:1228739/73
- ^ 『高知県犯罪捜査集 第1輯』の79コマ目に被害者である嬰児らの遺体の写真が記載されているので閲覧注意
- ^ 高知県警察史編さん委員会 編『高知県警察史 昭和編』高知県警察本部、1979年3月、44〜49頁。NDLJP:9773093/593
- ^ a b 日本犯罪心理研究会 1968, p. 150.
- ^ 日本犯罪心理研究会 1968, p. 146.
- ^ 広島県警察史国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1923年03月29日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 十河信善『明治大正昭和香川県民血涙史 (香川文庫 ; 3)』讃岐総合印刷出版部、1976年11月、242〜245頁。NDLJP:9573886/123
- ^ 刑事協會 編輯『香川縣犯罪檢擧録』刑事協會、1934年、80頁。NDLJP:1229369/53
- ^ 強盗・殺人の主犯六人に無期懲役『大阪毎日新聞』(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p138 大正ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 控訴審判決で頭目の富岡哲は死刑に『大阪毎日新聞』大正15年3月7日(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p138-139)
- ^ 富岡の死刑執行、死体受取人検束される『大阪毎日新聞』大正15年4月17日夕刊(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p139)
- ^ ピス健、ついに神戸で逮捕される『東京日日新聞』大正14年12月13日夕刊(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p231)
- ^ 第二回公判で死刑の判決、即日確定『東京日日新聞』大正15年9月26日夕刊(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p235)
- ^ ついに死刑執行『大阪毎日新聞』大正15年12月7日夕刊(『大正ニュース事典第7巻 大正14年-大正15年』本編p235)
- ^ 裸になって子ども5人を惨殺、罪をかぶせた28歳女性に首を吊らせた“真犯人”は…「龍野6人殺し事件」恐るべき犯行の一部始終
- ^ 広島県警察史国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 官報 1929年08月02日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ a b 森長英三郎 1984, pp. 66–73.
- ^ 東京朝日新聞1932年8月30日夕刊
- ^ “25人の子供を殺して埋めた「エリート」のおぞましき屈折…西郷山公園事件の全貌”. 現代ビジネス (2020年12月25日). 2022年8月25日閲覧。
- ^ 森長英三郎 1984, pp. 247–252.
- ^ 読売新聞 昭和8年6月19日 朝刊 7頁「銀行支店長殺し 意外!現職巡査 制服を着用して兇行 自宅に潜伏中捕はる」
- ^ 岡山県警察史編さん委員会編 『岡山県警察史 下巻』652頁、岡山県警察本部、1975年
- ^ 事件・犯罪研究会編『明治・大正・昭和・平成事件・犯罪大事典』東京法経学院出版、2002年
- ^ 東京朝日新聞1934年11月8日夕刊
- ^ 「官報」第2545号、1935年6月28日
- ^ 森長英三郎 1984, pp. 253–259.
- ^ パス屋殺し死刑延期か : 『もと』は獄中で上申書 : 新しき捜査継続さる : 絞首台への一歩前・彼女は何を語る? : 謎の事件に意外なる波紋
- ^ 読売新聞 昭和11年9月25日 夕刊 2頁「千葉に"第二"鬼熊 十人を殺傷、放火」
- ^ 六大新報社『六大新報 (2853)』六大新報社、1967年5月、6頁。NDLJP:7943247/4
- ^ 薬物は青酸カリ、犯人その日に逮捕『東京日日新聞』昭和10年11月22日(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p229 昭和ニュース事典編纂委員会 毎日コミュニケーションズ刊 1994年)
- ^ 事件録1902→1944 日本初・青酸カリ殺人2013年6月20日閲覧
- ^ スピード審理で死刑確定『東京日日新聞』昭和11年8月4日夕刊(『昭和ニュース事典第5巻 昭和10年-昭和11年』本編p229)
- ^ 「幼女殺死刑確定」『同盟旬報 第1巻 第03号(通号003号)』昭和12年(1937年)7月、226頁
- ^ 埼玉県警察史編さん委員会 編『埼玉県警察史』第2巻、埼玉県警察本部、1977年2月号、160頁。NDLJP:9769915/98
- ^ 「戰りつ!醫師の殺人 菓子の中へチブス菌 1. 保險金詐取の妻殺しに失敗し 2. 診察した同業者の妻子を毒殺 .3 繁昌の同業醫を狙ふ」『日本新聞』日本新聞社、1927年7月21日、3面。オリジナルの2024年10月7日時点におけるアーカイブ。2024年11月27日閲覧。
- ^ 埼玉県警察史編さん委員会 編『埼玉県警察史』第2巻、埼玉県警察本部、1977年2月号、160-162頁。NDLJP:9769915/98
- ^ a b 埼玉県警察史編さん委員会 編『埼玉県警察史』第2巻、埼玉県警察本部、1977年2月号、162頁。NDLJP:9769915/99
- ^ 読売新聞 昭和15年2月13日 朝刊 8頁「細菌魔・無期懲役に上告取り下げの翌日・恩命に浴す 獄中・高橋の眼に涙」
- ^ 愛媛県警察史
- ^ 和歌山県警察史 第一巻
- ^ a b 官報 1945年01月13日国立国会図書館デジタルコレクション
- ^ 村野薫「増補・改訂版 戦後死刑囚列伝」宝島社 2002年 31頁
- ^ a b 『伊勢新聞』1945年9月24日付2頁「【宇治山田発】三重縣の親子殺傷犯人捕る」(伊勢新聞社)
- ^ a b 『伊勢新聞』1945年9月26日付2頁「原因は米の買出 磯部村の親子五人殺傷」(伊勢新聞社) - 国立国会図書館東京本館所蔵のマイクロフィルムは該当部分の判読が困難になっている。2024年12月7日閲覧。
- ^ a b 『伊勢新聞』1945年9月22日付2頁「親子五人を殺傷 磯部村で、犯人は厳探中」(伊勢新聞社)
- ^ 『伊勢新聞』1945年12月19日付3頁「五人殺し死刑」(伊勢新聞社)
- ^ 大量殺人事件年表
- ^ 1930年第に死刑が確定した「第二鬼熊事件」とはまた別である。
- ^ “アメリカ人捕虜を殺してその肉を食べた…… “狂気の宴会”が行われた「父島事件」とは” (2020年12月25日). 2022年8月25日閲覧。
- ^ 『朝日新聞』1946年7月9日西部朝刊第3版2頁「六名殺し死刑」(朝日新聞西部本社)
- ^ a b c d 『朝日新聞』1946年11月20日西部朝刊第4版2頁「六人殺し死刑の判決」(朝日新聞西部本社)
- ^ 『福岡犯罪50年史 戦後編』夕刊フクニチ新聞社「昭和50年史刊行会」、1976年、6頁。NDLJP:10262013/7
- ^ 朝倉喬司『朝倉喬司芸能論集成 芸能の原郷 漂泊の幻郷』現代書館、2021年4月15日第1版第1刷発行、『朝倉喬司芸能論集成』編集委員会(編)、108頁。「I バナちゃんの唄――バナナ売りをめぐる娼婦やヤクザたち > 夢の町・花の町 > 水の夢」。原典:朝倉喬司『バナちゃんの唄――バナナ売りをめぐる娼婦やヤクザたち』情報センター出版局、1983年12月。
- ^ 『朝日新聞』1946年4月17日西部朝刊第3版2頁「一家六人惨殺 怨恨か」(朝日新聞西部本社)
- ^ 朝倉喬司『朝倉喬司芸能論集成 芸能の原郷 漂泊の幻郷』現代書館、2021年4月15日第1版第1刷発行、『朝倉喬司芸能論集成』編集委員会(編)、108頁。「I バナちゃんの唄 > 夢の町・花の町 > 水の夢」
- ^ 朝倉喬司『朝倉喬司芸能論集成 芸能の原郷 漂泊の幻郷』現代書館、2021年4月15日第1版第1刷発行、『朝倉喬司芸能論集成』編集委員会(編)、108頁。「I バナちゃんの唄 > 夢の町・花の町 > 水の夢」
- ^ 朝倉喬司『朝倉喬司芸能論集成 芸能の原郷 漂泊の幻郷』現代書館、2021年4月15日第1版第1刷発行、『朝倉喬司芸能論集成』編集委員会(編)、109頁。「I バナちゃんの唄 > 夢の町・花の町 > 水の夢」
- ^ 『福岡犯罪50年史 戦後編』夕刊フクニチ新聞社「昭和50年史刊行会」、1976年、9-10頁。NDLJP:10262013/8
- ^ 『福岡犯罪50年史 戦後編』夕刊フクニチ新聞社「昭和50年史刊行会」、1976年、9頁。NDLJP:10262013/8
- ^ GHQ 1951, p. 241.
- ^ 朝倉喬司『朝倉喬司芸能論集成 芸能の原郷 漂泊の幻郷』現代書館、2021年4月15日第1版第1刷発行、『朝倉喬司芸能論集成』編集委員会(編)、109頁。「I バナちゃんの唄 > 夢の町・花の町 > 水の夢」
- ^ a b c d 『読売新聞』1946年11月11日東京朝刊第3版2頁「【長野電話】醫大生殺しに死刑求刑」(読売新聞東京本社)
- ^ 『毎日新聞』2020年8月19日東京朝刊山梨版20頁「山は博物館:戦後の再出発が強盗殺人に 山岳部学生犠牲「銀めし事件」」「濁小屋「海千山千の人が利用」」(毎日新聞東京本社・甲府支局【去石信一】)
- ^ 『読売新聞』1946年11月29日東京朝刊第3版2頁「【松本電話】慈恵生殺しに死刑」(読売新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』1946年11月29日東京朝刊第3版2頁「【松本発】北アルプスの殺人犯へ死刑」(朝日新聞東京本社) - 縮刷版312頁。
- ^ 村野薫『日本の大量殺人総覧』93〜95P
- ^ a b c d 死刑事件判決総索引 1981, p. 81.
- ^ a b c d e 富山県警察史 1965, p. 345.
- ^ 富山県警察史 1965, p. 341.
- ^ 富山県警察史 1965, pp. 345–346.
- ^ a b 『富山新聞』1947年5月10日付紙面(第422号)2頁「老婆殺しへ死刑と無期」(富山新聞社)
- ^ 大阪府警察史編集委員会 編『大阪府警察史』第3巻、大阪府警察本部、1973年。671頁。NDLJP:9768829/347
- ^ 大阪府警察史編集委員会 編『大阪府警察史』第3巻、大阪府警察本部、1973年。671-672頁。NDLJP:9768829/347
- ^ 大阪府警察史編集委員会 編『大阪府警察史』第3巻、大阪府警察本部、1973年。673頁。NDLJP:9768829/348
- ^ 大阪府警察史編集委員会 編『大阪府警察史』第3巻、大阪府警察本部、1973年。671-676頁。NDLJP:9768829/348
- ^ a b 大阪府警察史編集委員会 編『大阪府警察史』第3巻、大阪府警察本部、1973年。676頁。NDLJP:9768829/3450
- ^ a b c 「昭和23年3月12日判決 昭和22年(れ)第119号 本籍並住居 広島県佐伯郡吉和村字妙音寺原二千二百二十八番地 日雇稼 邑神 一行 昭和二年一月十日生」『最高裁判所裁判集 刑事 昭和22年11月-昭和23年4月』第1号、最高裁判所事務総局、1948年、469-476頁、doi:10.11501/1363896、NDLJP:1363896/246、2020年12月28日閲覧。 - 1958年(昭和33年)12月発行。「国立国会図書館デジタルコレクション」で閲覧可能(同文献のコマ番号246 - 249が該当ページ)。
- ^ a b c d e 最高裁判所 1983, p. 660.
- ^ 最高裁判所 1948, p. 191.
- ^ 最高裁判所 1948, pp. 191–199.
- ^ 最高裁判所 1948, pp. 192–194.
- ^ 『Executions』GHQ/SCAP Records, Assistant Chief of Staff, G-II = 連合国最高司令官総司令部参謀第2部文書、1949年7月、NDLJP:12885126/2。
- ^ 『Executions』GHQ/SCAP Records, Assistant Chief of Staff, G-II = 連合国最高司令官総司令部参謀第2部文書、1949年7月、NDLJP:12885126/182。
- ^ a b c d e f g h i j k l 死刑事件判決総索引1981, p. 136.
- ^ GHQ 1947, p. 4-7.
- ^ GHQ 1947, p. 20-24.
- ^ a b GHQ 1947, p. 3.
- ^ 『朝日新聞』1949年10月6日東京朝刊第7版2頁「【仙台発】小平の死刑を執行」(朝日新聞東京本社)
- ^ GHQ 1947, p. 25-28.
- ^ 刑事裁判資料 1951, p. 664.
- ^ 刑事裁判資料 1951, p. 665.
- ^ 刑事裁判資料 1951, p. 666.
- ^ 刑事裁判資料 1951, p. 667.
- ^ GHQ 1947, p. 8-12.
- ^ GHQ 1947, p. 29-33.
- ^ 刑事裁判資料 1951, p. 394.
- ^ a b 刑事裁判資料 1951, p. 394-399.
- ^ 村野薫 1993, p. 37.
- ^ 刑事裁判資料 1951, p. 396.
- ^ 刑事裁判資料 1951, p. 398.
- ^ 刑事裁判資料 1951, pp. 394–399.
- ^ 村野薫 1993, p. 39.
- ^ 前坂俊之『日本犯罪図鑑 : 犯罪とは何か (犯罪ドキュメントシリーズ)』東京法経学院出版、1985年11月、148頁。NDLJP:12015126/80
- ^ 最高裁判所事務総局刑事局『死刑無期刑刑事事件判決集 第56号(上) (刑事裁判資料 ; 第56号)』最高裁判所事務総局刑事局、1951年、300頁〜305頁NDLJP:1706223/159
- ^ 楠田修 『灰色の捜査線』 新大阪新聞社出版局、1960年4月1日、59-60頁
- ^ 刑事裁判資料 1951, p. 668.
- ^ 刑事裁判資料 1951, p. 669.
- ^ a b c d e f g 死刑事件判決総索引1981, p. 137.
- ^ a b 村野薫 1993, p. 92.
- ^ 村野薫「増補・改訂版 戦後死刑囚列伝」宝島社 2002年 103頁
- ^ 刑事裁判資料 1951, p. 584.
- ^ 刑事裁判資料 1951, p. 586-587.
- ^ 刑事裁判資料 1951, pp. 509–510.
- ^ 死刑事件判決総索引 1981, p. 3.
- ^ 刑事裁判資料 1951, p. 506.
- ^ 福岡犯罪50年史 戦後編
- ^ 福岡県警察史 昭和前編
- ^ a b 刑事裁判資料 1951, p. 428.
- ^ a b 死刑事件判決総索引 1981, p. 9.
- ^ 『朝日新聞』1947年3月29日東京朝刊第3版2頁「【浦和発】第二の“小平事件”か 埼玉に次々と女殺し」(朝日新聞東京本社)
- ^ 刑事裁判資料 1951, pp. 103–105.
- ^ a b 刑事裁判資料 1951, p. 104.
- ^ a b 『読売新聞』1947年4月25日東京朝刊2頁「埼玉小平五人目自白」(読売新聞東京本社)
- ^ a b c 『読売新聞』1947年4月6日東京朝刊2頁「“埼玉小平”四人目自白」(読売新聞東京本社)
- ^ 岩附一雄「小平二世の殺人」『犯罪実話と捜査研究』警察時報社、1948年9月1日、104-124頁。NDLJP:1156532/58。
- ^ 刑事裁判資料 1951, pp. 103–104.
- ^ 刑事裁判資料 1951, pp. 104–105.
- ^ a b c 刑事裁判資料 1951, p. 100.
- ^ a b 村野薫 1993, p. 129.
- ^ 刑事裁判資料 1951, p. 316.
- ^ a b 深笛義也 2013, p. 8.
- ^ 『読売新聞』1951年7月11日東京朝刊3頁「強殺女に死刑の判決 戦後初の上告棄却」(読売新聞東京本社)
- ^ a b 深笛義也 2013, p. 11.
- ^ a b c 最高裁判所 1983, p. 667.
- ^ a b c 斎藤充功 著「【第一章】悪魔の所業 神奈川「一家5人斬殺事件1949 「小田原銭湯殺人事件」犯人の少年Aは再犯後獄中自殺していた?」、中園努(編集人) 編『ザ・歴史ノンフィクション 戦後日本の大量猟奇殺人 教科書には載せられない悪魔の事件簿 その”黒い霧”に隠されたタブーの正体』41号(初版第1刷発行)、ミリオン出版(発行所)・大洋図書(発売元)〈X-BOOK ミリオンムック〉、2014年12月10日、64-77頁。ISBN 978-4813071419。
- ^ 『朝日新聞』1984年7月9日東京夕刊第4版第一社会面15頁「女子中学生刺傷事件 仮出所男を逮捕 『殺すつもりだった』」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』1984年12月19日東京夕刊第4版第二社会面10頁「二少女刺傷に懲役八年判決 東京地裁」(朝日新聞東京本社)
- ^ a b c d 死刑事件判決総索引 1981, p. 100.
- ^ a b c d e f g h i j k l m n o p q 死刑事件判決総索引 1981, p. 101.
- ^ a b c d 名古屋市役所 編『名古屋市警察史』名古屋市総務局調査課、1960年7月1日、118-119頁。NDLJP:2991693/67。
- ^ 名古屋市役所 編『名古屋市警察史』名古屋市総務局調査課、1960年7月1日、152頁。NDLJP:2991693/84。
- ^ 『最高裁判所裁判集 刑事』最高裁判所、第58号、1951年12月分。137頁。NDLJP:1349058/83。
- ^ 『警察指紋制度のあゆみ』警察庁刑事局鑑識課、1961年4月1日、212-213頁。NDLJP:2996132/115。
- ^ a b 『警察指紋制度のあゆみ』警察庁刑事局鑑識課、1961年4月1日、214頁。NDLJP:2996132/116。
- ^ a b c 『法律のひろば 第40巻第7号』ぎょうせい、1987年7月、54頁
- ^ a b c 最高裁判所 1983, p. 670.
- ^ 最高裁判所 1983, pp. 670–671.
- ^ a b 『朝日新聞』1951年11月7日西部夕刊第3版2頁「バタ屋殺し死刑判決」(朝日新聞西部本社)
- ^ 佐木隆三「第七話 巡礼いそぎ旅」『殺人百科 陰の隣人としての犯罪者たち』(第7刷)文藝春秋(発行者:豊田健次)、1992年4月15日(原著1981年4月25日:第1刷)、154頁。ISBN 978-4167215026。
- ^ 『朝日新聞』1955年6月16日西部夕刊第5版3頁「バタ屋殺し判決 無期求刑から懲役10年 主犯死刑で確証なし」(朝日新聞西部本社)
- ^ 『読売新聞』1965年12月13日東京朝刊第二社会面14頁「前科八犯、冷酷な“古谷”幼少から放浪癖 四つで母親と死別 おじの家で育つ 14年前にも連続殺人」(読売新聞東京本社)
- ^ 『読売新聞』1985年6月1日東京朝刊第14版第二社会面22頁「【大阪】老人8人連続殺人鬼 古谷に死刑執行」(読売新聞東京本社)
- ^ 『読売新聞』1951年1月10日東京夕刊2頁「【熊谷発】埼玉小平に死刑求刑」(読売新聞東京本社)
- ^ a b c d e 死刑事件判決集総索引 1981, p. 108.
- ^ a b c d e 『読売新聞』1950年6月13日東京夕刊第3版2頁「【浦和発】交換手殺し自供 他にも三名を絞殺 小平ばり」(読売新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』1951年2月1日東京朝刊第9版3頁「【熊谷発】「埼玉の小平」に死刑」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『読売新聞』1951年1月31日東京夕刊第3版2頁「【熊谷発】埼玉の暴行魔に死刑」(読売新聞東京本社)
- ^ 『日本経済新聞』1951年2月1日付「埼玉の小平に死刑」(日本経済新聞東京本社) - NDLJP:3556306/38
- ^ 免田栄獄中ノート 88〜89P
- ^ 楠田修 『灰色の捜査線』 新大阪新聞社出版局、1960年4月1日、84-85頁
- ^ 楠田修 『灰色の捜査線』 新大阪新聞社出版局、1960年4月1日、117頁
- ^ a b c 村野薫 1993, p. 140.
- ^ 『読売新聞』1953年3月26日東京夕刊第4版3頁「【熱海発】第五の殺人を自供 千葉の母娘殺し」(読売新聞東京本社)
- ^ a b c d e 『読売新聞』1954年10月22日東京夕刊第4版3頁「栗田の死刑確定 控訴取下げで」(読売新聞東京本社)
- ^ a b c d e f g 『読売新聞』1958年5月13日東京朝刊第12版千葉讀賣C 8頁「千葉地裁 死刑判決の栗田 再審請求も棄却」(読売新聞東京本社・千葉支局)。
- ^ a b 『読売新聞』1953年3月4日東京朝刊第14版7頁「第二の小平?女六人を殺す 控訴中の死刑囚 新たに四件を自供 沼津在で一死体を発掘」(読売新聞東京本社)
- ^ a b c d e 『読売新聞』1959年10月16日東京朝刊第14版11頁「死刑執行に法務省強硬 違憲論争タナ上げ まず千葉の凶悪犯(おせんころがし殺人魔)」(読売新聞東京本社)
- ^ a b c 『読売新聞』1953年7月15日東京朝刊第14版7頁「【宇都宮発】小湊の母子三人殺しも自供 死刑未決囚栗田、遺児が首実検」(読売新聞東京本社)
- ^ 『読売新聞』1953年12月21日東京夕刊第4版7頁「【宇都宮発】八人殺しに死刑 宇都宮で判決」(読売新聞東京本社)
- ^ 『朝日新聞』1954年10月22日東京夕刊第3版3頁「控訴を取下げ “第二の小平”栗田」(朝日新聞東京本社)
- ^ 『読売新聞』1954年10月23日東京朝刊第13版千葉讀賣3頁「死刑確定の殺人男栗田 県関係だけで6人」(読売新聞東京本社)
- ^ 『読売新聞』1955年8月12日第13版千葉讀賣C 8頁「【宇都宮発】死刑囚栗田 おせんころがし事件の再審要請 “捜査係のデッチあげ”」(読売新聞東京本社・千葉支局)
- ^ 村野薫 1993, p. 57.
- ^ 朝日新聞1955年12月20日夕刊
- ^ a b 朝日新聞1955年12月26日夕刊
- ^ a b フクオカ犯罪史研究会 1993, p. 16.
- ^ a b 集刑 1958, p. 1182.
- ^ a b c フクオカ犯罪史研究会 1993, p. 10.
- ^ a b 集刑 1958, p. 1183.
- ^ a b 集刑 1958, p. 1179.
- ^ フクオカ犯罪史研究会 1993, pp. 9–10.
- ^ フクオカ犯罪史研究会 1993, pp. 14.
- ^ フクオカ犯罪史研究会 1993, pp. 10–11.
- ^ a b c フクオカ犯罪史研究会 1993, p. 15.
- ^ 集刑 1958, pp. 1179–1180.
- ^ 村野薫 1990, p. 229.
- ^ 村野薫 1990, p. 239.
- ^ a b c フクオカ犯罪史研究会 1993, pp. 16–17.
- ^ a b フクオカ犯罪史研究会 1993, p. 17.
- ^ 『最高裁判所刑事裁判書総目次 昭和四十年一月分』最高裁判所事務総局、1965年1月、25頁「刑事雑(全) > 特別抗告申立 > 事件番号…昭和三九年(し)八九 事件名…強盗殺人被告事件につきなした有罪の確定判決に対する再審請求につきなした棄却決定に対する即時抗告の申立ならびに特別抗告の申立 被告人又は申立人氏名…西武雄 外一名 裁判月日…一・一九 法廷…三 結果…棄却 原審…福岡高 原本綴丁数…一九」 - 『最高裁判所裁判集 刑事』(集刑)第154号(昭和40年1月-2月)巻末付録。国立国会図書館では欠号、東京都立中央図書館に蔵書あり。
- ^ a b 森川哲郎 1980, p. 87.
- ^ 警視庁警務部教養課(編)『自警』第38巻第3号、自警会、1956年3月、121頁、NDLJP:2706619。
- ^ a b c 死刑事件判決総索引 1981, p. 127.
- ^ a b 「四〇(オ)七六 損害賠償請求 国 ××× 一〇・二一 二 棄却 刑訴二〇八条一項 東京高」『最高裁判所裁判集 民事』第84号、最高裁判所、1961年、643頁、NDLJP:1674006/1/330。 - 昭和41年7月-昭和41年10月分。
- ^ a b c 東京地方検察庁沿革誌編集委員会 編『東京地方検察庁沿革誌』東京地方検察庁沿革誌編集委員会、1974年1月15日、220頁。doi:10.11501/12013642。NDLJP:12013642/1/129。
- ^ 築地警察署史編集委員会 1973, p. 591.
- ^ 築地警察署史編集委員会 1973, p. 592.
- ^ 森川哲郎 1980, pp. 84–85.
- ^ 森川哲郎 1980, p. 85.
- ^ 森川哲郎 1980, p. 86.
- ^ 森川哲郎 1980, p. 88.
- ^ a b c 『審級別死刑確定人員 および 無期懲役確定人員』(PDF)(レポート)特定非営利活動法人CrimeInfo、2024年 。2024年11月10日閲覧。
- ^ 朝日新聞1959年11月12日夕刊
- ^ a b 読売新聞 昭和30年 1955年9月28日 夕刊 3頁「二名に死刑判決 八王子の女将殺し事件」
- ^ 日弁連法務研究財団ハンセン病事業検証会議 第1回ハンセン病問題検討会議事録 (PDF)
- ^ ハンセン病問題に関する検証会議 最終報告書 3.藤本事件の真相 日弁連法務研究財団ハンセン病事業検証会議 (PDF)
- ^ 朝日新聞1957年8月30日夕刊
- ^ 朝日新聞1957年9月3日夕刊
- ^ a b c d e f g h 『信濃毎日新聞』1950年4月2日夕刊2頁「南穂高村 四人殺しに死刑」(信濃毎日新聞社)
- ^ a b 朝日新聞1958年6月13日 夕刊5面
- ^ 朝日新聞1959年4月16日夕刊
- ^ a b c d e f g 『読売新聞』1960年9月8日東京朝刊11頁「Sの死刑執行 銀座雑貨商殺し」(読売新聞東京本社)
- ^ 毎日新聞社社会部『生きている裁判 : 新聞記者の記録』浪速書房、1960年11月15日、190頁
- ^ a b 朝日新聞1959年9月18日夕刊
- ^ 朝日新聞1959年12月4日夕刊
- ^ a b c d 『毎日新聞』1958年7月7日東京夕刊第4版5頁「【小田原】“第二の小平”Aに死刑の判決」(毎日新聞東京本社)
- ^ a b c d e 『毎日新聞』1959年12月15日東京夕刊第4版7頁「”第二の小平” Aの死刑確定」(毎日新聞東京本社)
- ^ a b c 『毎日新聞』1958年12月24日東京夕刊第4版5頁「“第二の小平”に死刑 控訴棄却」(毎日新聞東京本社)
- ^ a b 『読売新聞』1955年9月23日東京朝刊第13版神奈川讀賣8頁「第二の小平 Aの暴行、殺人 来月24日に最終公判」(読売新聞東京本社・横浜支局)
- ^ 『読売新聞』1957年12月2日東京夕刊第4版5頁「【小田原発】“第二の小平”死刑求刑」(読売新聞東京本社)
参考文献
死刑・事件全般の文献
- 細川広世『明治政覧』細川広世、1885年4月。doi:10.11501/783763。 NCID BA32564804。NDLJP:783763 。
- 栃木県警察史編さん委員会『栃木県警察史 上巻』栃木県警察本部、1977年5月。doi:10.11501/9769911。 NCID BN05833199。NDLJP:9769911 。
- 連合国最高司令官総司令部 (1947). Executions (Report). NDLJP:12885126。
- 連合国最高司令官総司令部 (1951). Prison - Death Sentences and Executions (Report). NDLJP:12883242。
- 赤城慧『死刑囚 : 絞首して罪は消えるか』大衆社、1956年2月20日。
- 瓜生俊教(編者) 編「混乱期の警察活動 > 大家庄村の孤独老女強殺事件」『富山県警察史』 下巻、富山県警察本部、1965年12月10日、341-346頁。doi:10.11501/2991721。 NCID BA35073387。NDLJP:2991721/184・国立国会図書館書誌ID:000001076519・全国書誌番号:66001254 。
- 日本犯罪心理研究会『死刑囚の記録 : 明治・大正・昭和・百年の犯罪史 (明治百年シリーズ)』清風書房、1968年1月15日。
- 福岡県警察史編さん委員会 編『福岡県警察史 明治大正編』福岡県警察本部、1978年 。
- 森長英三郎『史談裁判』 第3巻(新編)、日本評論社〈日評選書〉、1984年(原著1966年)。ISBN 978-4535011359。
- 築地警察署史編集委員会 編「第七 昭和後期(戦後)の警察 > 二 警察組織と活動 > (二)管下の重要事案、事件等 > ウ 特異事案 > (三)築地署管内の主要事件の概況」『築地警察署史』警視庁築地警察署、1973年8月10日、591-594頁。doi:10.11501/9634407。NDLJP:9634407/320。
- 森川哲郎 (1980-09-30). 獄中三十二年 「死刑囚」平沢と共に生きて. 現代史出版会(発売:徳間書店). doi:10.11501/12019407. NDLJP:12019407
- (編著者)村野薫『日本の死刑』(第1版第1刷発行)柘植書房、1990年11月25日。ISBN 978-4806802983。 NCID BN05675848。国立国会図書館書誌ID:000002143452。
- 弓削信夫・中島義博・笠井邦充 著「門司の幼児3人殺し 〈昭和二十七年・門司市〉」、フクオカ犯罪史研究会 編『実録・福岡の犯罪〈下〉』(初版第一刷)葦書房、1993年3月15日、7-17頁。ISBN 978-4751204818。 NCID BN0918257X。国立国会図書館書誌ID:000002260431。 - 『福岡犯罪50年史 戦後編』(夕刊フクニチ新聞社、1976年3月1日第1刷、doi:10.11501/10262013)に、新たに1976年(昭和51年)以降の重要事件を増補した書籍。
- 村野薫『戦後死刑囚列伝』宝島社、1993年11月1日。ISBN 4-7966-0736-6。
- 村野薫『増補・改訂版 戦後死刑囚列伝』宝島社 2002年
- 『明治・大正・昭和・平成 事件・犯罪大事典』東京法経学院出版、2002年
- 佐久間哲『死刑に処す-現代死刑囚ファイル-』自由国民社、2005年
- 深笛義也『増補新版 女性死刑囚 十四人の黒い履歴書』(初版第1刷)鹿砦社、2013年12月16日。ISBN 978-4846309794。 NCID BB15913176。国立国会図書館書誌ID:025046549。 - 一覧表1番(菅野村強盗殺人・放火事件の山本宏子)から14番(大牟田4人殺害事件の死刑囚K)の女性死刑囚14人を取り扱った書籍。戦後日本の女性死刑囚(同書発行時点で14人)を死刑確定順に収録している。
- 原著『女性死刑囚』(国立国会図書館書誌ID:023153955、ISBN 978-4846308469、NCID BB07746636)は2011年11月刊行(収録対象は一覧表13番まで)。
- 死刑合憲判決 1948年(昭和23年)3月12日最高裁大法廷判決 - 最高裁判所事務総局刑事局「死刑と日本國憲法: 尊屬殺殺人死體遺棄被吿事件(昭和二二年(れ)第一一九號 同二三年三月一二日大法廷判決 棄卻)」『最高裁判所刑事判例集』第2巻第3号、最高裁判所判例調査会、1948年、191-202頁。
- 「死刑無期刑刑事事件判決集」『刑事裁判資料』上巻第56号、最高裁判所事務総局刑事局、1951年。
- 「死刑事件判決集(昭和35・36年度)」『刑事裁判資料』第197号、最高裁判所事務総局、1972年2月。 - 『刑事裁判資料』第197号は朝日大学図書館分室、富山大学附属図書館、日本大学法学部図書館に所蔵。また『死刑事件判決集』(昭和35年・36年度)は、明治学院大学図書館(白金)に所蔵。
- 「死刑事件判決集(昭和37・38・39・40年度)」『刑事裁判資料』第193号、最高裁判所事務総局、1971年2月。 - 朝日大学図書館分室、東京大学法学部研究室図書室、富山大学附属図書館、日本大学法学部図書館に所蔵。
- 「死刑事件判決集(昭和52・53・54年度) 付録 死刑事件判決総索引」『刑事裁判資料』第227号、最高裁判所事務総局刑事局、1981年3月、NCID AN00336020。 - 『刑事裁判資料』第227号は朝日大学図書館分室、富山大学附属図書館、東北大学附属図書館に所蔵。戦後、第一審から上告審までいずれかの審級で死刑判決を言い渡され、1979年(昭和54年)までに判決が確定した者(後に冤罪が判明した者、最終的に死刑以外の判決が確定した者、裁判中に死亡して公訴棄却となった者も含む)の一覧表が収録されている。
- 「検察官の上告趣意:別表 犯時少年の事件に対し死刑の判決が確定した事例」『最高裁判所刑事判例集』第37巻第6号、最高裁判所判例調査会、1983年、659-689頁。 - 永山以前に戦後、死刑が確定した少年事件(少年死刑囚)の一覧表(事件および裁判の概要・被告人の年齢など)が掲載されている。
- 「昭和30年(あ)第2384号 判決 本籍:福岡県嘉穂郡宮野村字桑野287番地 住居:門司市白木崎涼町三丁目100番地、現在 福岡刑務所在所 日雇人夫 K・T 明治34年4月21日生」『最高裁判所裁判集 刑事』第111号、最高裁判所、1955年、1179-1186頁、doi:10.11501/1349117、国立国会図書館書誌ID:000001203693。
- 門司幼児3人殺害事件(1956年1月6日に死刑確定/上記『実録・福岡の犯罪〈下〉』を参照)の死刑囚K(1958年4月12日に死刑執行)への上告審判決を収録。1179 - 1180頁は判決本文、1181 - 1183頁は被告人本人の上告趣意書、1185 - 1186頁は弁護人(戸倉嘉市)の上告趣意書である。
- 裁判所ウェブサイト:最高裁判所第三小法廷判決 1955年(昭和30年)12月26日 集刑 第111号1179頁、昭和30年(あ)第2384号、『殺人、死体遺棄』。
- 最高裁判所裁判官:島保(裁判長)・河村又介・小林俊三・本村善太郎・垂水克己