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瀧直太郎

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』

瀧 直太郎(たき なおたろう、1853年嘉永6年) - 1870年9月27日明治3年9月3日))は、江戸時代末期(幕末)の徳島藩士。名は納。字は敏行。

生涯

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阿波国助任町出身。瀧辰三郎の子。柴秋邨の塾に入り、学才が抜群と言われた。文学一等生。徳島藩の子弟寮長となった。

1870年明治3年)に庚午事変(いわゆる稲田騒動)で稲田家襲撃に関与したことにより、同年9月3日徳島市住吉蓮花寺にて切腹した。享年18。これが日本法制史上、明治以後に行われた切腹刑の1つとされる。(最後の切腹刑は、2年後の1872年[明治5年] 11月4日金沢藩執政(藩臣最高職)本多政均の暗殺に対する加賀本多家旧臣の敵討ち[明治の忠臣蔵と言われている]により、石川県刑獄寮の裁判で切腹の判決が下され切腹した旧臣12人[本多弥一、富田総、鏑木勝喜知、吉見亥三郎、矢野策平、西村熊、舟喜鉄外、浅井弘五郎、廣田嘉三郎、湯口藤九郎、芝木喜内、藤江松三郎]である[1][2])。

脚注

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  1. ^ 石川県立図書館 (2015年12月1日). “「明治忠臣蔵」「明治最後の仇討ち」と言われた、本多政均(ほんだまさちか)暗殺について載っている簡単な資料はないか。”. レファレンス協同データベース. 国立国会図書館. 2021年4月21日閲覧。
  2. ^ 谷正之「弁護士の誕生とその背景(3) : 明治時代前期の刑事法制と刑事裁判」『松山大学論集』第21巻第1号、松山大学総合研究所、2009年4月、279-361頁、ISSN 09163298NAID 1100075792002021年6月1日閲覧 

参考文献

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  • 『阿波人物誌』原田印刷出版、1973年。