小平甚右衛門
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小平 甚右衛門(こだいら じんえもん、天保14年(1843年) - 明治4年5月26日(1871年7月13日) )は、明治時代初頭の世直し一揆指導者[1]。幼名は頼三郎[1]。
経歴・人物
[編集]信濃国松代藩領の更級郡山田村(現長野県千曲市)の宮原瀬左衛門の第三子で[2]、村の名主宮原弥右衛門の弟[1]。21歳で同村の小平久十郎の養女ヤヲの婿となる[2]。明治3年(1870年)藩が発行した藩札の太政官札に対する2割5分引きの撤回を求める農民一揆(松代騒動、別名:午札騒動)を指導[1][2]。要求は認められたが、一揆の頭取を務めた廉で、翌4年(1871年)5月に藩の公設刑場である東寺尾村(長野市松代町)の鳥打峠で処刑された[1]。1972年に墓地の一角に建てられた「大衆のために生命を捧げ得る者は士なり」の顕彰墓碑がある。