後西天皇
後西天皇 | |
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後西天皇像(泉涌寺蔵) | |
即位礼 | 1656年2月17日(明暦2年1月23日) |
元号 |
承応 明暦 万治 寛文 |
時代 | 江戸時代 |
征夷大将軍 | 徳川家綱 |
先代 | 後光明天皇 |
次代 | 霊元天皇 |
誕生 | 1638年1月1日(寛永14年11月16日) |
崩御 | 1685年3月26日(貞享2年2月22日) |
陵所 | 月輪陵 |
追号 |
後西院 (後西天皇) |
諱 | 良仁 |
別称 | 花町宮 |
称号 | 秀宮 |
元服 | 1652年1月6日(慶安4年11月25日) |
父親 | 後水尾天皇 |
母親 | 藤原隆子 |
女御 | 明子女王 |
子女 |
誠子内親王 八条宮長仁親王 有栖川宮幸仁親王 正源院宮 宗栄女王 尊秀女王 義延法親王 円光院宮 天真法親王 賀陽宮 益子内親王 理豊女王 瑞光女王 永悟法親王 常宮 香久宮 聖安女王 公弁法親王 道祐入道親王 八条宮尚仁親王 理豊女王 尊杲女王 尊勝女王 良応法親王 道尊法親王 槿栄院宮 涼月院 |
皇居 | 平安宮(京都御所) |
親署 |
後西天皇(ごさいてんのう、1638年1月1日〈寛永14年11月16日〉 - 1685年3月26日〈貞享2年2月22日〉)は、日本の第111代天皇(在位: 1655年1月5日〈承応3年11月28日〉- 1663年3月5日〈寛文3年1月26日〉)。諱は良仁(ながひと)。幼名は秀宮。世襲親王家の高松宮(有栖川宮)第2代当主。別名は花町宮(はなまちのみや)、花町殿。
後水尾天皇の第八皇子。母は左中将櫛笥隆致の女で後水尾典侍の藤原隆子(逢春門院)。従弟に仙台藩主(3代)伊達綱宗がいる。
生涯
[編集]はじめ世襲親王家の高松宮初代好仁親王の王女を娶って高松宮第2代を継承し、花町宮(花町殿)(はなまちのみや)と称した。
即位の前年には兄である後光明天皇の名代として江戸に下っている。
後光明天皇が崩御した時、同帝の養子になっていた実弟識仁親王(霊元天皇)はまだ生後間もなく他の兄弟は全て出家の身であったために、識仁親王が成長し即位するまでの繋ぎ[注釈 1]として、1655年1月5日(承応3年11月28日)に践祚した。このため、世襲親王家の高松宮(花町宮)はしばらく途絶え、1667年(寛文7年)に、皇子の幸仁親王が高松宮第3代を継承、1672年(寛文12年)に宮号を有栖川宮に変更した。
本来は宮家を継ぐべき人物が突発的な事情で皇位を継承し、なおかつ最初から将来的な弟への譲位も確定していたため、父の後水尾法皇による院政によって朝廷が運営されることになった[1]。
1663年(寛文3年)1月26日、10歳に成長した識仁親王に譲位。
治世中には伊勢神宮・大坂城・内裏などの炎上や明暦の大火[注釈 2]、地方の地震、水害などが多発したため、当時の人々は天皇の不徳を責め、これをきっかけに譲位に至ったと伝えられている(『翁草』巻19「新帝践祚の事」)。また、中御門宣順の『宣順卿記』寛文2年9月23日条・壬生忠利『忠利宿禰記』同日条にも徳川家綱の使者である吉良若狭守(高家吉良義冬)が女院(東福門院)に譲位を申し入れたとする伝聞記事を記している[注釈 3]。これらの記事を前提として天皇に譲位を促させた勢力として、後水尾法皇説[注釈 4]・江戸幕府説[注釈 5]が挙げられ、さらに有力外様大名(仙台藩主・伊達綱宗)の従兄という天皇の血筋が問題視されたとする説がある[注釈 6]。
近年これに対して、譲位はあくまでも後西天皇の自発的意思であったとする説も出されている[2][注釈 7]。
人物
[編集]もっぱら学問に打ち込み、『水日集』や『源氏聞書』『百人一首聞書』などの著作を多数残している。和歌の才能もあり、古典への理解も深かった。また茶道・華道・香道にも精通していた。
なお、「後西院」の号は、淳和天皇に境遇が似ていることから、彼の別称である「西院帝」に「後」を付けたものであると言われている。
系譜
[編集]後西天皇の系譜 |
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系図
[編集]107 後陽成天皇 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
108 後水尾天皇 | 近衛信尋 | 高松宮(有栖川宮)好仁親王 | 一条昭良 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
109 明正天皇 | 110 後光明天皇 | 111 後西天皇 | 112 霊元天皇 | ||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
有栖川宮幸仁親王 | 113 東山天皇 | 福子内親王 | 有栖川宮職仁親王 | 吉子内親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
正仁親王 | 114 中御門天皇 | 閑院宮直仁親王 | |||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||||
后妃・皇子女
[編集]- 女御:明子女王(1638年 - 1680年) - 高松宮好仁親王女
- 典侍:藤原(清閑寺)共子(? - 1695年) - 清閑寺共綱女
- 妃:源氏 - 岩倉具起女
- 第三皇子:永悟法親王(1659年 - 1676年)
- 妃:藤原氏(右京局) - 富小路頼直女
- 第五皇女:常宮(真珠院宮)(1661年 - 1665年)
- 妃:藤原(梅小路)定子 - 光源寺智秀女、梅小路定矩養女
- 妃:菅原氏(按察使局) - 高辻豊長女
- 第九皇子:道尊法親王(1676年 - 1705年)
- 妃:藤原(松木)条子 - 松木宗条女
- 第十皇子:槿栄院宮(1677年、即日没)
在位中の元号
[編集]- 承応 (1654年9月20日)- 1655年4月13日
- 明暦 1655年4月13日 - 1658年7月23日
- 万治 1658年7月23日 - 1661年4月25日
- 寛文 1661年4月25日 - (1663年1月26日)
諡号・追号・異名
[編集]天皇は兄と(義理ではあるが)甥の間にあって在位し、その子孫を皇統に残すことができなかった。そのため、同じような立場だった平安時代初期の第53代淳和天皇の異称「西院帝」(譲位後に居住した後院「淳和院」の別称「西院」にちなむ)に倣い、「後西院」と追号された。平安中期の第62代村上天皇をもって崩後に天皇号を追号することが途絶え[注釈 8]、次の冷泉天皇からは原則的に「冷泉院」のごとく院号を追号するのが江戸時代後期の第119代光格天皇に至るまでの慣行であり[注釈 9]、後西院もそれに則ったものである。本来は「後西院院」とせねば「後西院帝」を意味する追号にならないが、院の字の重複は避けられた[注釈 10]。
幕府政治を廃絶し天皇を君主とする国家体制を築いた明治時代には、院号で呼ばれていた歴代帝王にも権威を高めるため天皇号をおくることとなった。後西院は「後西院天皇」と呼ばれたが、大正14年(1925年)には「~天皇」「~院天皇」と一定していなかった追号から一律に院の字を廃することとなり「後西天皇」となった[3]。しかし、後西院の元となった西院から院字を除けば単に「西」となって意味を失うため、その後も、他の院号と同一視して院を除くのでなく「後西院天皇」と称するべきとする歴史学者もいる[4]。なお、『洛中洛外図』の中でも確認できるように、「西院」は中世においては「さい」と読まれ、現在の西院駅(京福電気鉄道)にもこの読み方が残っている。このため、「後西院天皇」と表記する場合でも、「ごさいてんのう」と読むことが出来る。
陵・霊廟
[編集]陵(みささぎ)は、宮内庁により京都府京都市東山区今熊野泉山町の泉涌寺内にある月輪陵(つきのわのみささぎ)に治定されている。宮内庁上の形式は石造九重塔。
また皇居では、皇霊殿(宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇・皇族とともに天皇の霊が祀られている。
出典
[編集]注釈
[編集]- ^ 後西天皇は高貴宮が「天子御作法」(天皇として必要な儀式・政務の作法)が出来るようになるまでの中継ぎであるという認識は、後水尾法皇・江戸幕府間の共通認識であった(野村、2006年、P278-282)。また、後西天皇の即位にあたって酒井忠勝ら幕閣の意向を受けて上洛した高家品川高如から後水尾法皇・東福門院に対して、識仁親王が元服したら天皇が譲位するという法皇の方針には同意をするが、後西天皇の行状が良からぬ点があれば東福門院の判断でいつでも譲位を行える(つまり、譲位の判断は後水尾法皇ではなく、徳川将軍家出身の東福門院が行う)ようにとの幕命が伝えられている(久保、1998年、P52-54)。
- ^ 間瀬久美子「近世朝廷と寺社の祈祷」『近世朝廷の権威と寺社・民衆』吉川弘文館、2022年、P172-173.(原論文:2018年)は、明暦の大火と翌年正月の江戸大火における朝廷の対応の拙さが原因で幕府から退位を迫られたとする説を採る(明暦の大火ではその被害の大きさにも関わらず災害祈祷が実施されず、翌年の火災を受けて明暦4年3月5日に初めて江戸火災に対する祈祷が行われた)。
- ^ 野村玄は『忠利宿禰記』について、その2日前(9月21日条)に武家伝奏勧修寺経広から吉良の派遣は天皇が将軍家綱に内々に譲位の件を申し入れたことに対する返答の使者であることを明言されたことを記載しており、最初に申し入れたのは天皇であると指摘する(野村、2006年、P276-277)。
- ^ 辻達也『日本の近世 第2巻〈天皇と将軍〉』「公武融和」(中央公論社、1991年)などがこの説を採る。
- ^ 三上参次『尊皇論発達史』(冨山房、1941年)などがこの説を採る。
- ^ 滝沢武雄「伊達騒動新考」『史観』第75冊(1967年)所収や久保貴子『近世の朝廷運営 –朝幕関係の展開-』(岩田書院・1998年)P55.などがこの説を採る。
- ^ 野村は後西天皇の譲位と災害の関係について、万治4年1月15日の内裏火災以後、仮皇居暮らしにより儀式の多くが縮小・中止されて「天子御作法」が出来ない状況に追い込まれた後西天皇が、寛文3年の新内裏完成を直前に自ら譲位することで、天皇幼少による「天子御作法」の合法的な中断状態を生み出して、新天皇(霊元天皇)が成人するまでの間に新天皇が「天子御作法」が実現できる環境づくりを図ろうとしたと説く(野村、2006年、P282-288)
- ^ これ以前にも宇多天皇・陽成天皇は院号をおくられている。
- ^ その間にも安徳天皇・後醍醐天皇などは天皇号を贈られているが、いずれも戦乱に敗れて不幸な末路を辿っているため、通常倣うべき先例ではなかった。
- ^ 冷泉天皇は冷泉院にちなみ「冷泉院上皇」とされたため院号を適用すると「冷泉院院」となるが院の字の重複は避けられた。天皇号復活後も「冷泉院天皇」と改められず「冷泉天皇」となっている。「後冷泉天皇」も同じである。
参考文献
[編集]- 久保貴子 『近世の朝廷運営 朝幕関係の展開』(岩田書院、1998年) ISBN 4872941152
- 宮内省図書寮 編『後西天皇実録』(ゆまに書房、2005年) ISBN 4843320307
- 野村玄 『日本近世国家の確立と天皇』(清文堂出版、2006年) ISBN 4792406102
- 高森明勅『歴代天皇事典』(PHP文庫、2016年)
関連項目
[編集]後西天皇
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日本の皇室 | ||
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先代 後光明天皇 (紹仁) |
皇位 第111代天皇 1655年1月5日 - 1663年3月5日 承応3年11月28日 - 寛文3年1月26日 |
次代 霊元天皇 (識仁) |