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|出身地 = [[右扶風]][[興平市|茂陵県]]
|出身地 = [[扶風郡]]茂陵県{{efn|name="fufeng"|父の[[本貫]]もこれと同じだが<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷72#董卓|title=『後漢書』巻72董卓伝注引『典略』|wslanguage=zh}}</ref>、生まれ育ちは[[隴西郡|隴西]]である。馬超を実質的に隴西出身と見なす研究者もいる{{sfnm|王|1991|1p=71|朱・呂|2007|2p=108|劉|2015|3p=119}}。}}
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'''馬 超'''(ば ちょう、{{拼音|Mǎ Chāo}}、[[熹平]]5年[[176年]]- [[章武]]2年[[222年]])は、[[中国]][[後漢]]末期から[[三国時代 (中国)|三国時代]]にかけての[[蜀漢]]の将軍。字は'''孟起'''(もうき)。[[諡]]は威侯。[[司隷]][[扶風]][[興平市|茂陵県]]の人{{efn|name="fufeng"}}。『[[三国志 (歴史書)|三国志]]』蜀志に伝がある
'''馬 超'''(ば ちょう、[[熹平]]5年[[176年]]- [[章武]]2年[[222年]])は、[[中国]][[後漢末|後漢末期]]から[[三国時代 (中国)|三国時代]]にかけての[[将軍]]。字は'''孟起'''(もうき)。[[諡]]は威侯。[[司隷]][[扶風]][[興平市|茂陵県]]の人。


[[関中]]・隴右{{efn|[[六盤山|隴山]]以西の地域{{sfn|于|2017|p=133}}。金城・隴西・漢陽などの郡が置かれた涼州東部も含め{{sfn|飯田|2022|p=92}}、漢代においては実質的に涼州に対する呼称となっている{{sfn|于|2017|p=133}}。隴西とも称される{{sfn|関尾|2023|p=158}}。関中と合わせた一帯を関隴という。}}に割拠する群雄として[[曹操]]の西征に反発し{{sfn|de Crespigny|2010|p=295}}、[[韓遂]]ら諸軍閥と共に造反したが、敗北した{{sfn|de Crespigny|2007|p=639}}。後に[[涼州]]において捲土重来を果たすも{{sfn|司|2024|p=14}}、現地の[[士大夫]]らに離反され、拠点を失った{{sfnm|宋|2017|1p=16|de Crespigny|2010|2p=305|Haloun|1949|3p=127}}。流浪の末に身を寄せた[[劉備]]の下で厚遇された{{sfn|de Crespigny|2007|p=649}}。
後漢の名将[[馬援]]の子孫。祖父は{{仮リンク|馬平 (後漢)|label=馬平|zh|馬平 (漢朝)}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷72#董卓|title=『後漢書』巻72董卓伝注引『献帝伝』|wslanguage=zh}}</ref>{{efn|字は子碩。失官後に隴西に留まって羌族と雑居し、その地で娶った羌族の女性との間に馬騰をもうけた<ref name="machaodl"></ref>。『三国志演義』では「馬粛」という名になっている。}}。父は[[馬騰]]。弟は[[馬休]]・[[馬鉄]]。従弟は[[馬岱]]。妻は楊氏<ref name="lienv">『三国志』巻25楊阜伝注引皇甫謐『列女伝』</ref>・董氏(妾)。子は馬秋・馬承。娘は[[劉理]]の妻。


[[羌]]族の血を引き、非漢族と深い関係があった{{sfn|de Crespigny|2010|p=305}}。後漢末期において、「羌胡化」を経て台頭した涼州軍閥の一人とも見なされている<small>(→「[[#背景|背景]]」を参照)</small>。
[[関中]]における独立軍閥の長の座を父から引き継ぎ、[[曹操]]に服属していたが、後に[[韓遂]]と共に反乱を起こした。敗北後、[[涼州]]において捲土重来を果たすも、地元の[[士大夫]]らに離反され、根拠地を失った。流浪の末に[[益州]]の[[劉備]]の下に身を寄せ、厚遇を受けた。父と同様に[[羌]]族の血を引き<ref name="machaodl">『三国志』巻36馬超伝注引『典略』</ref>、非漢族からの信望が厚かった。


== 生涯 ==
== 生涯 ==
=== 出自 ===
[[後漢]]の名将[[馬援]]の後裔{{sfnm|林|2020|1p=147|楊|2000|2p=107|王|1991|3p=75|張|2014|4p=112}}<ref name="machaodl">『三国志』巻36馬超伝注引『典略』</ref>。[[馬 (姓)|扶風馬氏]]の右扶風茂陵県という[[本貫]]は、父の[[馬騰]]、祖父の{{仮リンク|馬平 (後漢)|label=馬平|zh|馬平 (漢朝)}}にも共通するものである{{sfn|劉|2015|p=119}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷72#董卓|title=『後漢書』巻72董卓伝注引『典略』|wslanguage=zh}}</ref>。しかし馬平は[[桓帝_(漢)|桓帝]]の時代に[[天水郡]][[隴西県|蘭干県]]で県尉を務め、失官後は[[隴西郡]]に留まって羌族と雑居し、貧窮の中、現地で娶った羌族の女性との間に馬騰をもうけた<ref name="machaodl" />{{sfnm|飯田|2022|1p=105|王|2007|2p=9|朱|2015|3p=48|de Crespigny|2007|4pp=647, 650}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷72#董卓|title=『後漢書』巻72董卓伝注引『献帝伝』|wslanguage=zh|quote={{interp|馬}}騰父平,扶風人。為天水蘭干尉,失官,遂留隴西,與羌雜居。家貧無妻,遂取羌女,生騰。}}</ref>。当地における豪族的基盤を持たず{{sfn|飯田|2022|pp=105–106}}、[[漳県|鄣山]]で[[樵]]として生計を立てていた馬騰は{{sfn|de Crespigny|2007|p=650}}、[[中平]]元年([[184年]])、先零羌(羌族の一種族)、[[宋建]]・[[王国_(涼州)|王国]]、[[湟中区|湟中]]義従胡(漢に帰順した異民族)の{{仮リンク|北宮伯玉|zh|北宮伯玉}}・李文侯および[[漢族]]の[[辺章]]・韓遂による大反乱に際して{{sfnm|飯田|2022|1p=92|森本|2012a|2pp=153–154|馬|2022|3pp=154–157}}、州郡の討伐兵募集に応じた<ref name="machaodl" /><ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷8|title=『後漢書』巻8霊帝紀|wslanguage=zh|quote=湟中義從胡北宮伯玉與先零羌叛,以金城人邊章、韓遂爲軍帥,攻殺護羌校尉伶徵、金城太守陳懿。}}</ref>。ところが中平4年([[187年]])には、当時の涼州[[刺史]]である{{仮リンク|耿鄙|zh|耿鄙}}の下で[[司馬]]を務めていながら、韓遂による耿鄙殺害に乗じて反乱し、[[三輔]]寇掠に加担した{{sfnm|森本|2012a|1pp=158–159, 170|劉|2015|2p=116|馬|2022|3p=159|王|1991|4p=71}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷72#董卓|title=『後漢書』巻72董卓伝|wslanguage=zh|quote={{interp|中平}}三年春,遣使者持節就長安拜張溫為太尉。三公在外,始之於溫。其冬,徵溫還京師,韓遂乃殺邊章及伯玉、文侯,擁兵十餘萬,進圍隴西。太守李相如反,與遂連和,共殺涼州刺史耿鄙。而鄙司馬扶風馬騰,亦擁兵反叛,又漢陽王國,自號「合眾將軍」,皆與韓遂合。共推王國為主,悉令領其眾,寇掠三輔。}}</ref>。このように、馬騰の生育地が隴西だったことから、その子である馬超を実質的に涼州人とする見方がある{{sfnm|方|2000|1p=249|李|2022|2p=28|劉|2015|3p=119|王|1991|4p=71|朱・呂|2007|5p=108}}{{efn|ド・クレスピニーは馬超の子および弟の本貫を全て隴西に置き{{sfn|de Crespigny|2007|pp=640, 648, 650, 654}}、また妻たちの本貫も隴西と想定している{{sfn|de Crespigny|2007|pp=147-148, 943}}。}}。

=== 若き日 ===
=== 若き日 ===
[[初平]]元年([[190年]])、[[献帝_(漢)|献帝]]を擁立し朝廷で専横を振るっていた[[董卓]]は、[[長安]]に遷都すると、[[関東_(中国)|関東]]諸将による[[陽人の戦い|反董卓連合軍]]に対抗する戦力として馬騰・韓遂を招いた{{sfn|de Crespigny|2007|p=650}}。両者はそれに従ったが、初平3年([[192年]])に董卓が暗殺されたため、その部将である[[李傕]]に投降し{{sfnm|飯田|2022|1p=97|森本|2012a|2p=161}}、馬騰は[[征西大将軍|征西将軍]]となって[[眉県|郿県]]に駐屯した{{sfnm|飯田|2022|1p=97|白|2013|2p=161|馬|2022|3p=160|de Crespigny|2007|4p=650}}<ref name="machao" />。[[興平_(漢)|興平]]元年([[194年]])、李傕との関係が悪化した馬騰は長安襲撃を図ったものの{{sfn|森本|2012a|pp=161-162}}、企図が露見し、争いに敗れて涼州に帰還した{{sfnm|飯田|2022|1p=97|白|2013|2p=161|薛|2008|3p=75}}<ref name="dongzhuo">『三国志』巻6董卓伝</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷9|title=『後漢書』巻9献帝紀|wslanguage=zh|quote={{interp|興平元年}}三月,韓遂、馬騰與郭汜、樊稠戰於長平觀,遂、騰敗績,左中郎將劉範、前益州刺史种劭戰歿。}}</ref>。
馬騰と韓遂は義兄弟として友好関係にあったが、やがて対立して争うようになり、馬騰の妻子はその最中に殺害された。[[建安 (漢)|建安]]初期、勇将として知られていた馬超を{{efn|『[[太平御覧]]』に引く[[傅玄]]『乗輿馬賦』には、馬超が蘇氏の塢(城堡)を破ったという記載がある<ref>{{Cite wikisource|wslink=太平御覽/0897|title=『太平御覧』巻897|wslanguage=zh}}</ref>。扶風の名族として馬氏・竇氏・耿氏・蘇氏が挙げられるが{{sfn|劉|2015|p=130}}、書中の「蘇氏」が扶風蘇氏を指す確証はない。この事績の年代は不明だが、同書の記述をもとにすれば、潼関の戦い以前に起きている。}}、若い頃に勇名を得ていた韓遂麾下の[[閻行]]が矛で刺そうとしたところ、矛が折れた。馬超はその折れた矛で首筋を殴られ、あやうく命を落としかけた<ref name="zhangjiwl">『三国志』巻15張既伝注引『[[魏略]]』</ref>。曹操の命令で関中鎮定の任務を帯びた[[司隷校尉]]の[[鍾繇]]と涼州[[刺史|牧]]の韋端が両者の間を仲裁し、利害を説いて説得したため、馬騰と韓遂は和解した<ref name="machaodl"></ref><ref name="zhongyao">『三国志』巻13鍾繇伝</ref>{{efn|この際、馬騰・韓遂それぞれの子が人質に出された<ref name="zhongyao"></ref>。両者の具体的な紛争時期は明らかでないが、白亮は、李傕と不仲になった馬騰に韓遂が味方した[[興平_(漢)|興平]]元年 ([[194年]])から、鍾繇が司隷校尉に任じられた建安2年([[197年]])までの間とする{{sfn|白|2013|p=162}}。}}。

馬騰は義兄弟として韓遂と友好関係にあったが、[[建安 (漢)|建安]]初期には衝突するようになり{{sfnm|白|2013|1p=162|劉|2015|2p=118|薛|2008|3p=75}}{{efn|両者の具体的な紛争時期は明らかでないが、白亮は、李傕と不仲になった馬騰に韓遂が味方した興平元年(194年)から鍾繇が司隷校尉に任じられた年までの間とする{{sfn|白|2013|p=162}}。後者の年代は建安2年([[197年]])頃と見られる{{sfnm|白|2013|1p=162|de Crespigny|2007|2p=650}}。}}、同時に隴右から関中へと進出した{{sfn|飯田|2022|p=98}}。[[魚豢]]『[[魏略]]』によれば、馬超は当時から勇健で知られていた。韓遂麾下の[[閻行]]が馬超を矛で刺そうとした際、矛が折れたが、その折れた矛で首筋を殴られた馬超は、あやうく命を落としかけたという{{sfn|de Crespigny|2007|pp=638, 940}}<ref name="zhangjiwl">『三国志』巻15張既伝注引『魏略』</ref>。その後、曹操と[[袁紹]]の対立が激化する中、関中鎮定の任務を帯びた[[司隷校尉]]の[[鍾繇]]が、涼州[[刺史|牧]]の韋端{{efn|韋端もまた説得を受けて曹操側に加担することを決めた人物である{{sfn|司|2024|p=13}}<ref name="yangfu" />。韋端が[[太僕]]となると子の韋康が後を継いだが、州牧から州刺史に格下げとなり、軍権を奪われる形で、曹操陣営内に組み込まれている{{sfn|森本|2012b|p=181}}。}}と共に仲裁役となって説得したため、馬騰と韓遂は和解したものの<ref name="machaodl" />{{sfn|梁|2015|p=78}}、確執は残っていた{{sfn|劉|2015|p=118}}。この際、馬騰・韓遂それぞれの子が人質として入朝し{{sfnm|白|2013|1pp=161-162|于|2017|2p=135}}<ref name="zhongyao">『三国志』巻13鍾繇伝</ref>、また馬騰は[[興平市|槐里]]に進駐した<ref name="machaodl" />{{sfnm|張|2023|1p=34|de Crespigny|2007|2p=650}}{{efn|ド・クレスピニーによれば、本拠地はあくまで漢陽地区だった{{sfn|de Crespigny|2018|p=496}}。}}。


建安7年([[202年]])、鍾繇要請を受けた馬騰は、曹操へ援軍とて1万余り兵とともに馬超を派遣し、[[堯都区|平陽]]で[[郭援]][[高幹]]を討伐させた{{efn|『三国志』張既伝では、馬騰は張既の説得により鍾繇に協力しているが、鍾繇伝注引[[司馬彪]]『戦略』は、初め郭援らしていた馬騰を説き伏せたの[[傅幹]]である。}}。馬超は司隷校尉の督軍従事に任命され、[[龐徳]]らと共に郭援と戦った{{efn|龐徳が郭援の首を取ったが、首級を確かめる段階になるまでそのことは判明しなかった<ref name=pengdewl>『三国志』巻18龐徳伝注引『魏略』</ref>。}}。この時馬超は足に矢を受けたが、した足を袋に包んでなおも戦い続け{{efn|これは馬超勇猛さを表すもであり、清代に編纂された『{{仮リンク|欽定日下旧聞考|label=日下旧聞考|zh|欽定日下舊聞考}}』において、強勇の例として引かれている<ref>{{Cite wikisource|wslink=日下舊聞考/卷025|title=『日下旧聞考』巻25|wslanguage=zh|quote=若夫虎臣羆士,折衝宣力馬超囊足、銚期攝幘渴賞捐軀實不乏人,而一聞如是者。}}</ref>。[[銚期]]が戦闘時に傷を頭巾で覆い、ついに敵軍を大破したことは『後漢書』および『[[東観漢記]]』に見える<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷20#銚期|title=『後漢書』巻20銚期伝|wslanguage=zh}}[https://ctext.org/dong-guan-han-ji/yao-qi/zh 『東観漢記』巻10銚期伝]. [[中国哲学書電子化計画]]. 2024年3月18日閲覧。</ref>。}}、敵軍を大破した。その功績から、詔勅によって[[徐州]][[刺史]]に、後に[[諫議大夫]]に任された<ref name="machaodl"></ref>{{efn|白亮は、曹操が馬超に与えたのは実権のない官職と見なしている{{sfn|白|2013|p=162}}。}}。
建安5年([[200年]])の[[官渡戦い]]が終結た後建安7年([[202年]])、袁紹の末子である[[袁尚]]が派遣した[[高幹]]・[[郭援]]は、[[堯都区|平陽]]で反乱していた[[南匈奴]][[単于]]である[[呼廚泉]]と合流し、数万の軍勢もって[[河東郡|河東]]に侵攻した<ref name="zhangji" /><ref name="zhongyaozl">『三国志』巻13鍾繇伝注引[[司馬彪]]『戦略』</ref>。当時、曹操袁紹の残党勢力と交戦しており傍観する関中の諸勢力を味方引き入れようとしていた{{sfnm|司|2024|1p=13|王|1991|2p=75}}。馬騰は密かに郭援らと手結んでいが、説得されて転向すると、馬超を1万余り兵と共に鍾繇の下へ派遣した<ref name="zhangji" /><ref name="zhongyaozl">『三国志』巻13鍾繇伝注引[[司馬彪]]『戦略』</ref>{{sfnm|于|2017|1p=135|張|2023|2p=34}}。馬騰の下で実働部隊を率いる立場にあった馬超は{{sfn|飯田|2022|p=108}}、司隷校尉である鍾繇の督軍従事に任命され、平陽において[[龐徳]]らと共に郭援と戦った<ref name="machaodl" /><ref name="machao"/>。馬超は戦場で足に矢を受けたが、傷を袋に包んでなおも戦い続け<ref>坂口和澄『もう一つの『三國志』—「演義」が語らない異民族との戦い—』本の泉社、2007年、p. 122。</ref>、敵軍を大破した<ref name="machaodl" /><ref name="zhangji" /><ref name="zhongyao" />{{sfnm|白|2013|1p=162|Haloun|1949|2p=125}}{{efn|この怪我逸話は、清代に編纂された『{{仮リンク|欽定日下旧聞考|label=日下旧聞考|zh|欽定日下舊聞考}}』において、[[銚期]]と共に強勇の例として引かれている<ref>{{Cite wikisource|wslink=日下舊聞考/卷025|title=『日下旧聞考』巻25|wslanguage=zh|quote=若夫虎臣羆士,折衝宣力馬超囊足,姚期攝幘渴賞捐軀實不乏人。}}</ref>。銚期が戦闘時に傷を頭巾で覆い、ついに敵軍を大破したことは『[[後漢書]]』および『[[東観漢記]]』に見える<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷20#銚期|title=『後漢書』巻20銚期伝|wslanguage=zh}};[https://ctext.org/dong-guan-han-ji/yao-qi/zh 『東観漢記』巻10銚期伝]. [[中国哲学書電子化計画]]. 2024年3月18日閲覧。</ref>。}}。その功績から、詔勅によ[[徐州]]刺史、後に[[諫議大夫]]を拝た<ref name="machaodl"/>{{sfnm|飯田|2022|1p=108|白|2013|2p=162}}{{efn|白亮は、実権のない官職と見なしている{{sfn|白|2013|p=162}}。}}。


建安13年([[208年]])、丞相となった曹操は馬超を召したが、馬超は応じなかった{{efn|[[陳亮]]は、曹操が馬超を召しおおせなかったことを難じ、以下のように主張する。「馬超が応じなかったのは、父子ともに関西におり、単身で赴くのを厭うたから、そして与えられた官職のあまりの低さに、任官を潔しとしなかったからである。馬騰を召した後、馬超を前将軍に任じて手厚く迎え、精兵を統べさせてやり、それから弟たちに馬騰の部曲を領らしめるならば、馬超の果敢さもあって、喜び勇んで功名を立てようから、どうして応じないことがあろうか。馬超が就任してしまえば、関西諸将など物の数ではない」<ref>{{Cite wikisource|wslink=酌古論/酌古論一#曹公|title=『酌古論』|wslanguage=zh|quote={{interp|曹}}公之意豈非以其嘗辟{{interp|超|original=之}}不就,今雖召之而彼未必肯至耶?此亦不思之甚也。且超之所以不就者,以父子俱在闗西,未欲獨至,而又辟之甚輕,不肯屑就也。及騰旣歸宿衞,公於此時能以前將軍召之,待以厚禮,示以赤心,命綂銳卒,常以自隨,又使超弟若休若鐵者領騰部曲,而超之果敢,喜立功名,曷為不就?超旣就,則闗西諸將舉無足道。及熈尚既平,厲兵西向,風諭諸將,使來合勢,則韓遂等必不敢叛,縱叛,破之易耳。}}</ref>}}。韓遂再び不仲となった馬騰が老を理由入朝し[[衛尉]]と{{efn|『三国志』張既伝によると、入朝対して馬騰はやや消極的であ張既説得により、馬騰部曲を解散して入朝することを承諾したものの、行動を先延ばししていた。その様子に変心を恐れた張既の入念な手配によって、やむを得ず向かっている。}}、馬超は偏将軍都亭侯に任命され、父の軍勢を引き継いだ<ref name="machao">『三国志』巻36馬超伝</ref>。弟の馬休・馬鉄にも官職が与えられ、馬騰の一族郎党が鄴に移住したが{{efn|宗族質的に曹操の質任となったことを意味する{{sfn|朱|2015|p=44}}己の宗族や子弟を人質として鄴に遣ることで服属を示す例は、[[李典]]や[[臧覇]]にも見られる<ref>『三国志』巻18李典伝・臧覇伝</ref><ref>宋傑「漢末三国時期的“質任”制度」『首都師範大学学報社会科学版』第1期、1984年、25-31, 24、pp. 25-26。</ref>。}}、馬超のみは留め置かれた<ref name="machaodl"></ref>。
建安13年([[208年]])、[[丞相]]となった曹操はまず馬超を[[郷挙里選#辟と徴召|辟召]]したが{{sfn|福井|1988|p=471}}、馬超は応じなかった<ref name="machaodl"/>{{sfn|朱|2015|p=59}}{{efn|name=chenliang|[[陳亮]]は、曹操が馬超を召しおおせなかったことを難じ、以下のように主張する。「馬超が応じなかったのは、父子ともに関西におり、単身で赴くのを厭うたから、そして与えられた官職のあまりの低さに、任官を潔しとしなかったからである。馬騰を召した後、馬超を前将軍に任じて手厚く迎え、精兵を統べさせてやり、それから弟たちに馬騰の部曲を領らしめるならば、馬超の果敢さもあって、喜び勇んで功名を立てようから、どうして応じないことがあろうか」<ref>{{Cite wikisource|wslink=酌古論/酌古論一#曹公|title=『酌古論』曹公|wslanguage=zh|quote={{interp|曹}}公之意豈非以其嘗辟{{interp|超|original=之}}不就,今雖召之而彼未必肯至耶?此亦不思之甚也。且超之所以不就者,以父子俱在闗西,未欲獨至,而又辟之甚輕,不肯屑就也。及{{interp|馬}}騰旣歸宿衞,公於此時能以前將軍召之,待以厚禮,示以赤心,命綂銳卒,常以自隨,又使超弟若{{interp|馬}}休若{{interp|馬}}鐵者領騰部曲,而超之果敢,喜立功名,曷為不就?}}</ref>}}。辟召という制度は、独特の私的主従関係を構築する働きがあった{{sfn|福井|1988|pp=472-473}}。[[福井重雅]]によれば、曹操は社会的・軍事的資本のい状況の中、ほぼ自力で台頭したこも影響して、己の勢力基盤を拡大強化すべく、拘束性の強い辟召を大いに活用したという{{sfn|福井|1988|p=473}}。またここでは、馬超を人質する意図も含まれていた{{sfn|朱|2015|p=59}}。当時[[荊州]]への南下を遂行する及び、曹操は北方に割拠する馬騰勢力を抑えること、後顧の憂いを断つ必要がった{{sfn|梁|2015|p=79}}馬騰は反乱鎮圧援助により曹操に与する姿勢を見せていたが{{sfnm|並木|2016|1p=58|白|2013|2p=164|Haloun|1949|3p=125|de Crespigny|2010|4p=291}}曹操は馬騰に対する懸念をなおも拭えず、部曲を解散して入朝を求めた{{sfnm|白|2013|1pp=161-162|張|2023|2p=36}}。馬騰は[[張既]]の説得を経て承諾したものの、せずにいた。変心を恐れた張既の手配によって、馬騰はやむを得ず入朝踏み切り、同年12月{{sfn|張|2023|p=34}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢紀/卷30|author=[[袁宏]]|title=『後漢紀』巻30孝献皇帝紀|wslanguage=zh|quote={{interp|建安十三年}}十二月壬午,徵前將軍馬騰為衛尉。}}</ref>[[衛尉]]となった{{sfnm|梁|2015|1p=79|于|2017|2pp=135-136|de Crespigny|2010|3p=258|Haloun|1949|4p=126}}<ref name="zhangji">『三国志』巻15張既伝</ref>。馬超は偏将軍に任じられるとともに[[列侯#列侯内の等級|都亭侯]]封じられ、馬騰に代わり軍勢を統率した<ref name="machao">『三国志』巻36馬超伝</ref>{{sfnm|飯田|2022|1p=100, 108|于|2017|2p=136|de Crespigny|2007|3pp=638, 650}}。森本淳によれば、偏将軍への任命は、馬超が曹操軍の属将としてその傘下に置かれたことを示すという{{sfn|森本|2012b|p=181}}<ref>森本淳「曹魏軍制前史——曹操軍団拡大過程からみた一考察——」『三国軍制と長沙呉簡』汲古書院、2012年、3–34、pp. 14–15。</ref>。弟の[[馬休]][[馬鉄]]にも官職が与えられ、馬騰の一族郎党が[[]]に移住した。これにより、馬超の宗族は事曹操の質任となった{{sfnm|王|1991|1p=75|朱|2015|2p=44|de Crespigny|2010|3p=258|Haloun|1949|4p=126}}{{efn|己の宗族や子弟を人質として鄴に遣ることで服属を示す例は、[[李典]]や[[臧覇]]にも見られる<ref>『三国志』巻18李典伝・臧覇伝</ref><ref>宋傑「漢末三国時期的“質任”制度」『首都師範大学学報(社会科学版)』第1期、1984年、25–31, 24、pp. 25–26。</ref>。}}。父から継いだ部曲とともに、馬超は領地にまった<ref name="machaodl"/>{{sfnm|飯田|2022|1p=100|梁|2015|2p=79|de Crespigny|2007|3p=638|Haloun|1949|4p=126}}。関隴地区の中心勢力は二極化し、韓遂・馬超がその主となった{{sfnm|飯田|2022|1p=100|関|1992|2p=30|劉|2015|3p=118|于|2017|4p=133|Haloun|1949|5p=127}}


=== 潼関の戦い ===
=== 潼関の戦い ===
{{main|潼関の戦い}}
{{see also|潼関の戦い}}
建安16年([[211年]])3月、曹操は鍾繇・[[夏侯淵]]に命じて[[漢中郡|漢中]]の[[張魯]]を討伐しようとした。3000の兵で関中に入ることを求めた鍾繇は、表向きは張魯討伐を掲げていたものの、実際には馬超らを脅迫して人質をとるつもりだった<ref name="weijiws"></ref>。[[高柔]]は「みだりに兵を動かせば、韓遂・馬超に疑念を抱かせ、扇動し背かせることになります。先に[[三輔]]を安定させた後で漢中に檄し、平定すべきです」と、曹操の行動を諫めた<ref>『三国志』巻24高柔伝</ref>。曹操が荀彧を介して[[衛覬]]に意見を聞くと、衛覬は「兵を関中に入れて張魯を討とうとなると、張魯は山にいて交通が悪いため、西方の諸将は必ず疑うでしょう」と答え、出兵に反対した。曹操はこれよしとしたが、最終的には鍾繇の策に従った<ref name="weijiws">『三国志』巻21衛覬伝注引『[[魏書 (曹魏)|魏書]]』</ref>{{efn|潼関戦い、曹操は衛覬意見採らなかたことした}}。
建安16年([[211年]])3月、曹操は鍾繇・[[夏侯淵]]に命じて[[漢中郡|漢中]]の[[張魯]]を討伐しようとした{{sfnm|梁|2015|1p=79|劉|2015|2p=117|于|2017|3p=136}}。[[中国学|中国学者]]の{{仮リンク|レイフ・ド・クレスピニー|en|Rafe de Crespigny}}によれば、馬超ら西方諸将は鍾繇を[[洛陽]]まで押し戻し、無秩序な独立体制を再建していたという{{sfn|De Crespigny|2010|p=295}}。3000の兵で関中に入ることを求めた鍾繇は、表向きは張魯討伐を掲げていたものの、実際には馬超らを脅迫して人質をとるつもりだった{{sfnm|梁|2015|1p=79|司|2024|2p=13|于|2017|3p=136|de Crespigny|2007|4p=853}}<ref name="weijiws" />。[[高柔]]は「みだりに兵を動かせば、西方の韓遂・馬超は自分たちが目標であると考え、共に扇動して反逆るでしょう。先に三輔を安定させた後で漢中に檄し、平定すべきです」と、曹操の行動を諫めた{{sfn|梁|2015|p=82}}<ref>『三国志』巻24高柔伝</ref>。曹操が[[荀彧]]を介して[[衛覬]]に意見を聞くと、衛覬は「兵を関中に入れて張魯を討とうとなると、張魯は山深くにいて交通の便が悪いため、西方の諸将は必ず疑うでしょう。一旦騒動が起きれば、西方の地は険しく兵は強いため、当然困難が生じます」と答え、出兵に反対した{{sfnm|李|2022|1p=28|司|2024|2p=13|于|2017|3p=136}}。事実、関隴に敷かれた統制は万全とは言えなかった{{sfnm|司|2024|1pp=13-14|于|2017|2p=136}}。曹操は衛覬の意見認めたが、最終的には鍾繇の策に従った<ref name="weijiws">『三国志』巻21衛覬伝注引『[[魏書 (曹魏)|魏書]]』</ref>{{sfnm|梁|2015|1p=82|de Crespigny|2007|2p=853}}。曹操はこ時、[[仮道伐虢|仮道滅虢計]]をとったともされる{{sfnm|関|1992|1p=28|白|2013|2p=162|于|2017|3p=136}}{{efn|『[[資治通鑑]]』の注釈者である[[胡三省]]曰く曹操が関西を捨てて張魯を遠征するというの、伐虢取虞(=仮道伐虢)計だ。思うに、馬超・韓遂討つ名分がら、まず張魯を攻めるふりをして背くよう促し、それから侵攻しだけのことである」{{sfnm|易|2009|1p=12|関|1992|2p=28|于|2017|3p=236}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=資治通鑒_(胡三省音注)/卷066|title=『資治通鑑』巻66建安十六年胡注|wslanguage=zh|quote={{interp|曹}}操舍關中而遠征張魯,伐虢取虞之計也。蓋欲討{{interp|馬}}超、{{interp|韓}}遂而無名,先張討魯之勢以速其反,然加兵耳。}}</ref>。}}。馬超・韓遂はいずれも朝廷から官職を授かった身分であり、謀反の嫌疑も存在ないからには、曹操は彼らを征伐する大義名分を立てられないが、馬超らが先んじて反乱すれば、関隴攻撃を正当化できるめである{{sfnm|易|2009|1pp=11-13|関|1992|2p=28|于|2017|3p=136|de Crespigny|2010|4p=295}}。


馬超をはじめとする中の諸将の動見て、自分たちが攻められるのではなかと疑心暗鬼になった{{efn|[[胡三省]]曰く、「曹操が関西を捨てて張魯を遠征するというのは、[[仮道伐虢|伐虢取虞の計]]だ。思うに、馬超・韓遂討つ名分がないから、まず張魯を攻るふりをして背かせ、それから侵攻しだけである」<ref>{{Cite wikisource|wslink=資治通鑒_(胡省音)/卷066|title=資治通鑑巻66|wslanguage=zh|quote=操舍關中而遠征張魯,伐虢取虞之計也。蓋欲討超、遂而無名,先張討魯之勢以速其反,然後加兵耳。}}</ref>。朱彦は、この時点おける馬超の立場について馬騰らの身を顧みるならば領地を手放し曹操に臣服せざるを得ないが、継いだ既得べく鄴にいる親族を見放すなば忠孝の道を失い曹操道義的優位を与えることになる論じている{{sfn||2015|p=60}}。}}。この時、韓遂[[張猛 (武威太守)|張猛]]の反乱を鎮圧するため遠征していたが、馬超は遠征から戻った韓遂を[[都督]]に立て、「以前、鍾司隷(鍾繇)は私に将軍(韓遂)を捕まえるよう命じました。[[関東 (中国)|関東]]の人間はもはや信用できません。私は父を棄て、将軍を父とします。将軍も子を棄て、私を子とされよ」と語った。閻行は参加を諫めたものの、韓遂は「(涼州)諸将は諮らずとも意を同じくしている。これは天命であろう」と答え、謀反に同調した<ref name="zhangjiwl"></ref>。
西諸将は曹操の動向に疑念いた{{sfnm|関尾|2023|1p=172|梁|2015|2p=79|張|2010|3p=34}}。韓遂は建安15年([[210年]])より、[[張猛 (武威太守)|張猛]]の反乱鎮圧するた遠征して{{sfn|飯田|2022|pp=100-101}}<ref>『国志』巻18龐淯伝典略』</ref>、飯田祥子によれば、曹操は韓遂利用すら、馬超も働きかけることで、両者を互い反目させよう工作していたものと見られる{{sfn|飯田|2022|p=101}}。『魏略』においては、馬超は遠征から戻った韓遂を[[都督]]に立て、「以前、鍾司隷(鍾繇)は私に将軍(韓遂)を殺すよう命じました。関東の人間はもはや信用できません。私は父を棄て、将軍を父とします。将軍も子を棄て、私を子とされよ」と語ったとされる{{sfnm|飯田|2022|1p=101|朱|2015|2p=45|de Crespigny|2007|3p=638}}かつて父を入朝させ、韓遂にも勧降していた閻行は{{sfnm|白|2013|1p=162|de Crespigny|2007|2p=940}}、反乱に参加しないよう韓遂を諫めたものの、韓遂は「諸将は諮らずとも意を同じくしている。これは天命であろう」と答え、謀反に同調したという<ref name="zhangjiwl" />。


馬超・韓遂・[[楊秋]]・[[李堪]]・[[成宜]]らに加え、[[侯選]]・[[程銀]]・[[張横 (後漢)|張横]]・[[梁興]]・[[馬玩]]らあわせて10の軍閥が挙兵<ref name="machaodl"></ref>、[[弘農郡|弘農]]{{efn|弘農に至った曹操は「ここは西道の要衝である」と言い、[[賈逵 (魏)|賈逵]]を弘農太守に任じた<ref>『三国志』巻15賈逵伝</ref>。}}・[[馮翊郡|馮翊]]の郡県まで呼応する者が相次い{{efn|[[杜畿]]が太守める[[河東郡 (国)|河東郡]]だけは動揺なかった<ref>『三国志』巻16杜畿伝</ref>。}}。反乱に従わなかった[[藍田県|藍田]]の劉雄鳴は馬超に撃破され、曹操のもとへ逃亡した<ref name="zhangjiwl"></ref>{{efn|劉雄鳴は曹操の歓迎を受けたが、部下たちが降伏を拒んだため曹操から離反した。夏侯淵に討たれて漢中に逃走した後、張魯が敗れると再び曹操に降った<ref name="zhanglvwl">『三国志』巻8張魯伝注引『魏略』</ref>一部では「劉雄」という表記も見られる<ref name="xiahouyuan">『三国志』巻9夏侯淵伝</ref>。}}。また馬超は[[京兆郡|京兆]]の学者である[[賈洪]]を捕らえ、露布(布告文)を起草させた<ref name="wanglangwl">『三国志』巻13王朗伝注引『魏略』</ref>。乱に応じて、数万家に及ぶ関西の住民が子午谷を経て漢中に逃れた<ref>『三国志』巻8張魯伝</ref>{{efn|この時の難民の中には、三輔から逃れてきた{{仮リンク|扈累|zh|扈累}}や[[石徳林|寒貧]]といった隠士もいた<ref>『三国志』巻11胡昭伝注引『魏略』</ref>。}}。
馬超・韓遂・[[楊秋]]・[[李堪]]・[[成宜]]らに加え、[[侯選]]・[[程銀]]・[[張横 (後漢)|張横]]・[[梁興]]・[[馬玩]]らあわせて10の軍閥が挙兵すると<ref name="machaodl"/>{{sfn|梁|2015|p=79}}、[[杜畿]]が太守を務める河東を除き<ref>張寅瀟、黄巧萍「漢末河東太守杜畿生平事跡考述」『西華師範大学学報(哲学社会科学版)』第3期、2021年、44–50、p. 48。</ref>、[[弘農郡|弘農]]{{efn|[[厳幹]]が太守を務めていた{{sfn|王|2018|p=54}}<ref>『三国志』巻23裴潜伝注引『魏略』</ref>。弘農に至った曹操は「ここは西道の要衝である」と言い、[[賈逵 (魏)|賈逵]]を弘農太守に任じた{{sfn|de Crespigny|2007|p=368}}<ref>『三国志』巻15賈逵伝</ref>。}}・[[馮翊]]の郡県までが相次いで呼応した{{sfn|劉|2015|pp=118-119}}<ref>『三国志』巻16杜畿伝</ref>。さらに[[仇池|百頃]][[氐]]王の千万{{efn|一族に楊姓冠する者がいるた、千万は「楊千万」とも称され{{sfnm|馬|2022|1pp=37-38|宋|2022b|2p=104}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=宋書/卷98|title=『宋書』巻98氐胡伝|wslanguage=zh|quote=略陽清水氐楊氏,秦、漢以來,世居隴右,為豪族。漢獻帝建安,有楊騰者,為部落大帥。騰子駒,勇健多計略,始徙仇池。仇池地方百頃,因以百頃為號,{{interp|...}}駒後有名千萬者,魏拜為百頃氐王。}}</ref>。}}と[[秦安|興国]]氐王の阿貴が、馬超に従い反乱を起こした{{sfnm|飯田|2022|1p=113|馬|2022|2p=37|朱|2015|3p=48|宋|2022b|4p=105}}<ref name="worenwlxirong">『三国志』巻30倭人伝注引『魏略』西戎伝</ref>。[[藍田県|藍田]]の劉雄鳴は反乱に従わなかったために馬超によって撃破され、曹操のへ逃亡した<ref name="zhangjiwl" /><ref>田梅英「魏晋南北朝時期塢壁的類型及内部機制」『山東師範大学学報(人文社会科学版)』第6期、1998年、59–61、p. 59。</ref><ref name="zhanglvwl">『三国志』巻8張魯伝注引『魏略』</ref>{{efn|劉雄鳴は曹操の歓迎を受けたが、部下たちが降伏を拒んだため曹操に背い{{sfnm|李|2022|1p=25|de Crespigny|2007|2p=557}}。夏侯淵に討たれて漢中に逃走した後{{sfnm|de Crespigny|2007|1p=557|Haloun|1949|2p=127}}、張魯が敗れると再び曹操に降った{{sfn|de Crespigny|2007|p=557}}。「劉雄」という表記も見られる<ref name="xiahouyuan">『三国志』巻9夏侯淵伝</ref>。}}。また馬超は[[京兆郡|京兆]]の学者である[[賈洪]]を脅し、露布(布告文・檄文<ref>谷曙光「論中国古代的露布文体及其文学価値」『北京大学学報(哲学社会科学版)』第4期、2014年、107–117、p. 108。</ref>)を起草させた{{sfn|de Crespigny|2007|p=366}}<ref name="wanglangwl">『三国志』巻13王朗伝注引『魏略』</ref>。馬超の乱に応じて、数万家に及ぶ関西の住民が[[長安区_(西安市)|子午谷]]を経て漢中に逃れた{{sfn|劉|2015|p=119}}<ref>『三国志』巻8張魯伝</ref>{{efn|この時の難民の中には、三輔から逃れてきた[[扈累]]や[[石徳林|寒貧]]といった隠士もいた<ref>『三国志』巻11胡昭伝注引『魏略』</ref>。}}。三輔の人口は初平3年(192年)の李傕・[[郭汜]]の乱で一度激減し{{sfnm|劉|2015|1p=118|王|1991|2p=74}}、次第に回復しつつあったが、この大乱により再び大幅に流出した{{sfn|劉|2015|pp=119, 127}}。馬超らは10万の軍勢をもって、[[黄河]]南岸、[[潼関]]の西側に布陣した{{sfn|梁|2015|p=79}}。曹操は[[曹仁]]を潼関へ派遣して防戦させた{{sfnm|関|1992|1p=28|于|2017|2p=136}}。そして諸将に対し「関西の兵は精悍であるから、防御を固めた上で、打って出てはいけない」と注意した{{sfnm|関|1992|1p=28|朱・呂|2007|2p=112}}。


馬超たちの兵は[[矛|長矛]]の使用に習熟しており、諸将から脅威と見なされていた{{sfnm|石井|2019|1pp=56-57|易|2009|2p=13}}<ref name="wudiws" />。馬超の率いる[[軽騎兵|軽装騎兵]]・長矛部隊で構成された軍隊は、対異民族戦に携わった後漢の「西北列将」の代表にして、当時最も強勢だった羌族との戦闘で大戦果を挙げた[[涼州三明#段熲|段熲]]の系譜を引いており{{sfn|石井|2019|pp=56-57}}、馬超はその機動力を生かした戦法を取っていたという<ref>{{Cite book|和書|author=渡邉義浩|title=三国志 運命の十二大決戦|publisher=[[祥伝社]]|series=[[祥伝社新書]]|date=2016|pages=105–107, 112–113|isbn=9784396114572|ref={{sfnref|渡邉|2016}}}}</ref>。
馬超が10万の軍勢の指揮を執り[[黄河]]南岸の潼水の地に布陣すると、曹操は[[曹仁]]に[[潼関]]を防がせた([[潼関の戦い]])。


[[File:Weirivermap.png|270px|thumb|潼関は渭水(Wei)と黄河(Yellow)の合流地点南岸に位置する。他の地名に金城(現[[蘭州市|蘭州]]Lanzhou)、天水(Tianshui)、扶風(現[[宝鶏市|宝鶏]]Baoji)、[[咸陽市|咸陽]](Xianyang)、長安(現[[西安市|西安]]Xi'an)、渭南(Weinan)。]]
同年7月、曹操が到着して黄河の南岸に布陣し、北岸の馬超らの軍と対峙した。曹操は[[徐晃]]・[[朱霊]]らに黄河を渡らせ、陣地を構築し梁興を破った<ref>『三国志』巻17徐晃伝</ref>。続いて曹操も潼関から北に黄河を渡ろうと試み、先に兵を渡河させ、曹操は[[許褚]]が指揮を執る虎士100人余りと共に殿軍となったが、馬超は歩騎1万余りを指揮してその殿軍に猛攻をかけた。その苛烈さに曹操軍は混乱し、曹操自身も許褚がいなければ命を落とすところであった<ref name="xuchu">『三国志』巻18許褚伝</ref>{{efn|軍勢が敗れるのを目の当たりにし、また曹操も行方知れずだったため、諸将は皆危惧していた。曹操を見て悲喜こもごもの者、あるいは涙を流す者がいる中、曹操は大笑いして、「今日は小僧めにあやうく痛い目に遭わせられるところだった」と語ったという<ref name="wudicm">『三国志』巻1武帝紀注引『曹瞒伝』</ref>。}}。また、曹操軍の[[西園八校尉|典軍校尉]]である[[丁斐]]が牛や馬を解き放ち、馬超らの軍を混乱させたため、曹操は渡河することができた<ref name="wudi">『三国志』巻1武帝紀</ref>。その後も曹操軍の進軍を許した涼州諸将らは、まず渭口へ退却した後、渭南に駐屯した際に黄河西岸の割譲および講和を要求したが、拒絶された。
8月、曹操は潼関に到着した。馬超らの軍は、黄河南岸に布陣した曹操軍と潼関を挟んで対峙した{{sfn|関|1992|p=28}}。夜間、[[徐晃]]・[[朱霊]]は黄河を北に渡り、[[永済市|蒲阪]]に陣営を構築した{{sfnm|関|1992|1p=28|于|2017|2p=136|de Crespigny|2010|3p=296}}<ref>『三国志』巻17徐晃伝</ref>。[[閏]]8月、続いて渡河を試みた曹操は、先に兵を赴かせ、自身は[[許褚]]が指揮を執る虎士(親衛隊)100人余りと共に[[殿_(軍事用語)|殿軍]]となった{{sfnm|関|1992|1p=28|de Crespigny|2010|2p=296}}。馬超は歩騎1万余りを率いてそこを急襲し、猛然と矢をそそいだ{{sfnm|易|2009|1p=13|関|1992|2p=28}}。曹操は周囲から孤立し、また乗っていた船の漕ぎ手も射殺され、死の危機に瀕した{{sfnm|易|2009|1p=13|梁|2015|2p=79|de Crespigny|2010|3p=296}}<ref name="xuchu">『三国志』巻18許褚伝</ref>。これはおそらく、[[呂布]]との対戦以来、曹操自らが参加した戦闘において最も危険な状況だった{{sfn|de Crespigny|2010|p=296}}。しかし許褚が身を挺して曹操を守り、また[[丁斐]]が牛馬を解き放って馬超らの軍を混乱させたため、曹操は渡河に成功した{{sfnm|関|1992|p=28|de Crespigny|2010|2p=296, 298}}<ref name="wudi">『三国志』巻1武帝紀</ref>。曹操が行方知れずになったことで諸将はみな危惧していた。曹操と再会して悲喜こもごもの者、あるいは涙を流す者がいる中、曹操は大笑いして「今日はあやうく小賊にしてやられるところだった」と語った{{sfn|易|2009|p=13}}<ref name="wudicm">『三国志』巻1武帝紀注引『曹瞒伝』</ref>。


曹操渡河作戦ついて、馬超は「渭水の北にて敵軍を渡らせずにおけば、20日と経たずに河東の兵糧は尽き、敵は必ずや撤退することでしょう」と主張していたが、韓遂の賛同を得ることができなかった。この話を聞いた曹操は馬超の存在をいっそう警戒し、「馬(ば)の小僧が死ななければ、わしには葬られる土地すら無い」と語ったという<ref name="shanyang">『三国志』巻36馬超伝注引『山陽公載記』</ref>。
曹操軍が蒲阪から西へ渡河し、さら黄河を南下しようとした際、馬超は「[[渭水]]の北にて敵軍を渡らせずにおくべきです。20日と経たずに河東の兵糧は尽き、敵は必ずや撤退することでしょう」と主張したが、韓遂の賛同を得ることができなかった。この話を聞いた曹操は馬超の存在をいっそう警戒し、「馬(ば)の小僧が死ななければ、わしには葬られる土地無い」と語った{{sfnm|方|2000|1p=251|関|1992|2p=30|梁|2015|3pp=79-80|王|2000|4p=18|張|2010|5p=34|張|2014|6p=113|朱・呂|2007|7p=112}}<ref name="shanyanggong">『三国志』巻36馬超伝注引『山陽公載記』</ref>。その後も敵の進軍を許した関西諸将は、[[華陰市|渭南]]駐屯時に人質の提供を打診し、黄河より西の土地の割譲および講和を求めたが、拒絶された{{sfnm|白|2013|1p=163|于|2017|2p=136}}


同年9月、曹操は渭南に到達した{{efn|『曹瞒伝』によると、馬超の騎兵による度重なる襲撃と地盤の悪さにより、曹操軍は渡河はおろか、陣営や防塁を築くこともできずにいた。そこで[[婁圭]]の案に従い、砂を水で凍らせて城を建てたことで、渭水を渡りおおせたという。裴松之はこの逸話を否定している<ref name="wudicm"></ref>。}}。そして[[賈詡]]の進言に従い、土地の割譲と人質の引き渡しの要求に偽って応じ、会談の場を設けた上、そこで賈詡の離間の策を用いた<ref name="wudi"></ref><ref>『三国志』巻10賈詡伝</ref>。馬会語の際、馬超は己の武勇を恃みに曹操を捕らえようとしたが、護衛の許褚がいたため実行できなかった{{efn|許褚の武勇を聞き知っていた馬超は、曹操の従騎が許褚ではないかと疑い、「公(曹操)の虎侯という方は、どちらにいらっしゃか」と尋ね<ref name="xuchu"></ref>。また『太平御覧』に引く『江表伝』によると、馬超は6斛(斛は体積の単位。1斛=10斗<ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷021|title=『漢書』巻21律暦志|wslanguage=zh|quote=量者,龠、合、升、斗、斛也,所以量多少也。本起於黃鐘之龠,用度數審其容,以子穀秬黍中者千有二百實其龠,以井水準其概。合龠為合,十合為升,十升為斗,十斗為斛,而五量嘉矣。}}</ref>)の米袋を馬にぶら下げて駆け、米袋の重さで曹操の体重を測っていた。そのこと聞いた曹操は、「狡猾な賊に騙されるところだった」と語ったという<ref>{{Cite wikisource|wslink=太平御覽/0386|title=『太平御覧』巻386|wslanguage=zh}};{{Cite wikisource|wslink=太平御覽/0704|title=『太平御覧』巻704|wslanguage=zh}}</ref>。}}。曹操は両軍間の交流を利用して、韓遂が内通しているように見せかけたため、馬超らは韓遂に疑念持ち、不和となった{{efn|韓遂との交馬語において、曹操はあえて軍事と関わりのない思い出話をした。会談を終えた韓遂に「公は何と言われたのか」と馬超が問うと、韓遂は「したことはない」と答えた。また別の日には、韓遂自身が隠蔽したと他の諸将に思わせるべく、多数の改竄が残る書状を韓遂のもとに送りつけた<ref name="wudi"></ref>。}}。隙を見逃さなかった曹操に攻撃された関中軍は大敗を喫し、馬超は安定に至っのち涼州へと逃れた<ref name="machaodl"></ref>{{efn|安定で包囲された楊秋は曹操降伏して許され、復位するととも住民慰撫任された<ref name="wudi"></ref>。初めから降伏しなかた理由を問われた楊秋が「つきあいでございます」と答え、曹操が大笑いしたという逸話は、[[陳舜臣]]『[[秘本三国志]]』創作である<ref>[[陳舜臣]]秘本三国志(後)集英社〈陳舜臣中国ライブラリー14〉、1999年、p. 212。{{ISBN|9784081540143}}。</ref>。}}。
9月、曹操は渭南に到達した{{efn|『曹瞒伝』によると、馬超の騎兵による度重なる襲撃と地盤の悪さにより、曹操軍は渡河はおろか、陣営や防塁を築くこともできずにいた。そこで[[婁圭]]の案に従い、砂を水で凍らせて城を建てたことで、渭水を渡りおおせたという{{sfn|de Crespigny|2010|p=298}}。裴松之はこの逸話を否定している<ref name="wudicm" />。}}。そして[[賈詡]]の進言に従い、馬超らの要求に偽って応じ、会談の場を設けて[[離間計|離間の策]]を用いた<ref name="wudi" />{{sfnm|白|2013|1p=163|朱|2015|2p=45|于|2017|3p=136|de Crespigny|2007|4p=371}}<ref>『三国志』巻10賈詡伝</ref>。[[易中天]]によれば、超が見に参加した際、曹操は厳重な警戒態勢を敷き、不信感を露わにした{{sfn|易|2009|p=15}}。馬超は己の多力を恃みに曹操を襲撃しようとしたが、護衛の許褚がいたため実行できなかった{{sfnm|易|2009|1p=15|de Crespigny|2010|2p=299}}{{efn|許褚の武勇を聞き知っていた馬超は、曹操の従騎が許褚ではないかと疑い、「公(曹操)の虎侯は、どちらにるか」と尋ねたとも<ref name="xuchu" />。[[司馬光]]は、許褚が馬超の奇襲を防いだことについて、「〔単馬会語の〕時に馬超は韓遂と共にいなかったために韓遂を疑ったのだから、この話はでたらめだ」と述べる<ref>{{Cite wikisource|wslink=資治通鑒_(胡三省音注)/卷066|title=『資治通鑑』巻66建安十六年注引『資治通鑑考異』|wslanguage=zh|quote=《許褚傳》曰:太祖與韓遂、馬超等㑹語,左右皆不得從,唯將褚。超負其力,隂欲前突。太祖素聞禇勇,疑從騎是褚,乃問曰:「公有虎侯者安在?」太祖顧指禇,褚瞋目眄之,超不敢動。按時超不與遂同在彼,故疑遂,此說妄也。}}</ref>。盧弼は「韓遂・馬超はそれぞれ別に単馬会語に臨み、〔曹操は〕馬超と話す際にはその武勇を考慮して、許褚を随えていたのかもしれない」と推測している<ref>{{harvnb|盧|2009|p=1517}}, "或[韓]遂、[馬]超各別單馬會語,[曹操]與超語時慮超之勇,而以褚隨耳。"</ref>。また『太平御覧』に引く『江表伝』によると、馬超は6斛(斛は体積の単位。1斛=10斗<ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷021|title=『漢書』巻21律暦志|wslanguage=zh|quote=量者,龠、合、升、斗、斛也,所以量多少也。本起於黃鐘之龠,用度數審其容,以子穀秬黍中者千有二百實其龠,以井水準其概。合龠為合,十合為升,十升為斗,十斗為斛,而五量嘉矣。}}</ref>)の米袋を馬にぶら下げて駆け、米袋の重さで曹操の体重を測っていた(曹操を捕える練習をしていた)。そ知った曹操は長いこと嘆息して、「狡猾な賊に騙されるところだった」と語ったという<ref>{{Cite wikisource|wslink=太平御覽/0386|title=『太平御覧』巻386人事部二十七|wslanguage=zh|quote=《江表傳》曰:太祖與馬超單馬會語,超負其多力,常置六斛米囊,東西走馬,輒掣米囊以量太祖輕重。許褚瞋目瞪盼,超曰:「聞君有健將虎侯那在?」太祖指褚,超乃止。太祖尋知之,嘆息良久,曰:「幾爲狡虜所欺。」}};''[[s:zh:太平御覽/0704#囊|『太平御覧』巻704服用部六]]''</ref>。}}。曹操は両軍間の交流を利用して、韓遂が内通しているように見せかけたため、馬超らは韓遂をった{{sfnm|白|2013|1p=163|于|2017|2p=136}}{{efn|韓遂との交馬語において、曹操はあえて軍事と関わりのない思い出話をした。会談を終えた韓遂に「公は何と言たのか」と馬超が問うと、韓遂は「何とことはない」と答えた{{sfnm|白|2013|1p=163|于|2017|2p=136}}。これについて盧弼は「曹操が韓遂と話した時、馬超はやや距離をとっていて、会話が聞こえなかったのかもしれない」と推測している<ref>{{harvnb|盧|2009|p=145}}, "或[曹]操與[韓]遂語時,[馬]超距離稍遠,故不聞其語也。"</ref>。また別の日には、韓遂自身が隠蔽したと周囲に思わせるべく、多数の改竄が残る書状を韓遂のもとに送りつけた<ref name="wudi" />{{sfn|于|2017|p=136}}。}}。統帥れた連合軍は、その後の会戦で大敗を喫した{{sfnm|白|2013|1p=163|関|1992|2p=29|于|2017|3p=136}}{{efn|『[[太平御覧]]』引く[[傅玄]]『乗輿馬賦』は、馬超が蘇氏塢(城堡)ったという記載がある。この事績の年代不明だが後半引用文には「その後{{Interp|中略|和文=1}}馬超は渭南戦い」とある<ref>{{Cite wikisource|wslink=太平御覽/0897|title=太平御覧巻897獣部九|wslanguage=zh|quote=傅玄《乘輿馬賦》曰:{{interp|...}}馬超破蘇氏塢,塢中有駿馬百餘匹,自超以下,俱爭取肥好者,而將軍龐德獨取一騧馬,形觀既醜,眾亦笑之其後{{interp|...}}馬超戰於渭南,逸足電發,追不可逮,眾乃焚可}}</ref>。}}。


曹操は安定まで追撃したものの、蘇伯田銀が[[河間郡|河間]]で反乱を起こし[[幽州]]・[[冀州]]を扇動していたため<ref>『三国志』巻9曹仁伝・巻23常林伝・巻30軻比能伝</ref>、引き揚げようとした。涼州[[参軍]]の[[楊阜]]は馬超の武勇と異民族への影響力について警戒を促し、「厳重に備えておかねば、隴上の諸郡は国家のものでなくなります」と進言した曹操はもっともだと考えたが、やむなく還の途にいた。潼関の戦いにおける曹操軍の死者は5桁にのぼ<ref name="weijiws"></ref>{{efn|[[竇武]]の孫である竇輔はこの戦いに従軍し、飛んできた矢に当たって戦死している<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷69#竇武|title=『後漢書』巻69竇武伝|wslanguage=zh}}</ref>。}}。
馬超は涼州へと逃れ<ref name="machaodl"/>{{sfnm|石井|2019|1p=58|白|2013|2p=163|于|2017|3p=136}}、諸戎(西方の漢族でない諸民族、[[西戎]])を頼りにした<ref name="machao"/>{{sfnm|飯田|2022|1p=113|李|2022|2p=28}}。曹操は[[安定郡|安定]]まで追撃したものの{{sfnm|白|2013|1p=163|于|2017|2p=136}}{{efn|馬超は安定に至ったという<ref name="machaodl"/>。同じく楊秋も安定に逃れたが{{sfnm|石井|2019|1p=58|白|2013|2p=163|于|2017|3p=136}}、10月にはその地で包囲され、曹操に降伏した{{sfnm|飯田|2022|1p=108|梁|2015|2p=79}}。その後復位し、現地住民の慰撫を任された{{sfn|飯田|2022|p=108}}<ref name="wudi" />。}}、蘇伯田銀が[[河間郡|河間]]で反乱を起こし[[幽州]]・[[冀州]]を扇動していたため{{sfn|白|2013|p=163}}<ref>『三国志』巻9曹仁伝・巻23常林伝・巻30軻比能伝</ref>、引き揚げようとした<ref name="machao" /><ref name="yangfu" />。涼州[[参軍]]の[[楊阜]]は馬超の武勇と異民族への影響力について警戒を促し、「厳重に備えておかねば、隴上{{efn|隴西・[[南安郡|南安]]・漢陽・{{仮リンク|永陽|zh|永阳郡_(东汉)}}{{sfn|渡邉・仙石|2019|p=264}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=資治通鑒_(胡三省音注)/卷066|title=『資治通鑑』巻66建安十六年胡注|wslanguage=zh|quote=隴西、南安、漢陽、永陽,皆隴上諸郡也。}}</ref>。}}の諸郡は国家のものでなくなります」と進言したが<ref name="machao" />、曹操は帰途にいた<ref name="yangfu" />{{sfnm|朱・呂|2007|1p=113|de Crespigny|2007|2pp=38, 950}}。潼関の戦いにおいて曹操軍は勝利を収めた一方、そ被害は甚大で、死者万をもて数えるに及んだ<ref name="weijiws" />{{sfnm|易|2009|1p=12|劉|2015|2p=119}}{{efn|[[竇武]]の孫である竇輔はこの戦いに従軍し、飛んできた矢に当たって戦死している{{sfn|de Crespigny|2007|p=162}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷69#竇武|title=『後漢書』巻69竇武伝|wslanguage=zh|quote={{interp|竇}}武孫輔,時年二歲,逃竄得全。{{interp|...}}會{{interp|劉}}表卒,曹操定荊州,輔與宗人徙居於鄴,辟丞相府。從征馬超,為流矢所中死。}}</ref>。}}。


=== 再起と敗北を重ねて ===
=== 涼州での再起 ===
[[File:Tsuzoku sangokushi eiyu no ichinin 通俗三国志英雄上壹人 (Heroes of the Popular History of the Three Kingdoms) (BM 2008,3037.05402).jpg|thumb|姜叙の母を殺す馬超([[歌川国芳]]画)]]
[[File:Tsuzoku sangokushi eiyu no ichinin 通俗三国志英雄上壹人 (Heroes of the Popular History of the Three Kingdoms) (BM 2008,3037.05402).jpg|250px|thumb|姜叙の母を殺す馬超([[歌川国芳]]画)]]
建安17年([[212年]]){{efn|この年は『三国志』楊阜伝の記載によるのであり、武帝紀では、涼州おける馬超の再起は建安18([[213]])の出来事となっている。『資治通鑑考異』に[[司馬光]]は後者の年代を採用ている<ref name="zizhi66">{{Cite wikisource|wslink=資治通鑒_(胡三省音注)/卷066|title=『資治通鑑』巻66|wslanguage=zh}}</ref>。}}1月、馬超が諸戎(西方民族ら)渠帥を率いて隴上で蜂起すると、[[冀県_(甘粛省)|冀県]]を除く全ての郡県が馬超に呼応した{{efn|漢陽(天水)の任養らは馬超を迎え入れ、これを抑止するに至らなかった閻温は冀城に走った<ref name="yanwen">『三国志』巻18閻温伝</ref>。なお当郡では姜・閻・任・趙の四姓が有力だった<ref name=wanglangwl></ref>。}}。[[涼州]]刺史の[[韋康]]{{efn|韋康を推挙したのは荀彧である<ref name="xunyu">『三国志』巻10荀彧伝</ref>。}}が治める冀城は馬超軍の包囲下に置かれら8月まで抵抗を続けが、助けは来なかった<ref name="yangfu">『三国志』巻25楊阜伝</ref>。
建安17年([[212年]]){{sfnm|飯田|2022|1p=127|関尾|2003|2p=3|並木|2016|3p=61|李|2022|4p=25|宋|2017|5p=16|宋|2022a|6p=24|王|2018|7p=52|汪|2022|8p=64|朱|2015|9p=45|Haloun|1949|10p=127}}{{efn|この時期を建安18(213年)とする研究もある{{sfnm|関尾|2023|1p=172|満田|2017|2p=159|森本|2012b|3p=182|白|2013|4p=163|宋|2022b|5p=105|de Crespigny|2007|6pp=639, 950}}。これ史書の記述に混乱があるためである。『三国志』楊阜伝すれば、再起の年月は建安17(212)1月である。同書董卓伝にも「馬超が漢陽に拠有し、馬騰は連座して三族皆殺しとなった」とあり、族滅以前に再起している。また後漢書献帝紀よれば建安17年5月族滅の後、同8月に韋康が殺害されたため、建安17年に再起たことになる<ref name="8月">{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷9|title=『後漢書』巻9献帝紀|wslanguage=zh|quote={{interp|建安十七年}}八月,馬超破涼州,殺刺史韋康。}}</ref>。一方、『三国志』武帝紀の記述に従えば、馬超が再起したのは建安18年である。『資治通鑑』は建安18年とする。}}1月、馬超が諸戎の渠帥(少数民族の首領<ref>陳蘇鎮「東漢的豪族与吏治」『文史哲』第6期、2010年、41–58、p. 52。</ref>)たちを率いて隴上で蜂起すると{{sfnm|王|1991|1p=75|宋|2022a|2p=24}}[[漢陽郡|漢陽]](天水)の[[郡治]]である[[冀県_(甘粛省)|冀県]]{{sfn|森本|2012b|pp=180, 197}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=資治通鑒_(胡三省音注)/卷066|title=『資治通鑑』巻66建安十八年胡注|wslanguage=zh|quote=冀縣,屬漢陽郡,郡及涼州刺史治焉。}}</ref>を除く全ての郡県が馬超に呼応した{{sfn|白|2013|p=163}}。[[秦州区|上邽県]]では任養ら{{efn|天水では姜・閻・任・趙の四姓が有力だった<ref name=wanglangwl />{{sfn|並木|2016|p=55}}天水の豪族の意向は統一されておらず、親曹操(韋康)派・反曹操派とで分裂していた{{sfn|並木|2016|p=62}}。}}が馬超を迎え入れたため{{sfnm|並木|2016|1p=61|de Crespigny|2007|2p=722}}、涼州別駕の[[閻温]]は、涼州刺史の[[韋康]]が治める冀城に走った{{sfnm|並木|2016|1p=61|白|2013|2p=163|de Crespigny|2007|3p=938}}<ref name="yanwen">『三国志』巻18閻温伝</ref>。冀城は馬超軍の包囲下に置かれ{{sfnm|関尾|2023|1p=172|de Crespigny|2007|2pp=639, 854}}、張魯援軍とし派遣し[[楊昂]]もまた攻城に加わった<ref name="yangfu">『三国志』巻25楊阜伝</ref>{{sfnm|関尾|2023|1p=172|de Crespigny|2007|2p=943}}


5月、馬超の反乱に連座する形で、父の馬騰を含めた三族が誅殺された<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷9|title=『後漢書』巻9献帝紀|wslanguage=zh|quote={{interp|建安}}十七年夏五月癸未,誅衛尉馬騰,夷三族。}}</ref>{{efn|『後漢書』孝献帝紀および『資治通鑑』では、馬騰らが誅殺されたのは建安17年5月癸未の日と記されているが、当月の朔日は癸未ではなく壬辰のはずである{{sfn|de Crespigny|2004|loc=§ 66. note 5 to Jian’an 17}}<ref>[https://ctext.org/date.pl?if=gb&entityid=792909&year=17 建安十七年]. 中国哲学書電子化計画. 2024年2月8日閲覧。</ref>。}}。
5月、馬騰は馬超の反乱に[[連座]]して誅殺され、[[族誅#古代中国における「族」|三族皆殺し]]となっ{{sfnm|白|2013|1p=163|朱|2015|2p=45}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷9|title=『後漢書』巻9献帝紀|wslanguage=zh|quote={{interp|建安}}十七年夏五月癸未,誅衛尉馬騰,夷三族。}}</ref>{{efn|飯田は、入朝した閻行の父が潼関の戦い以後も殺されずにいたことを根拠に、馬超が帰順する可能性を踏まえて人質の処刑が留保されていたのではないかと推測する{{sfn|飯田|2022|pp=101, 124}}。また『後漢書』および『資治通鑑』では、馬騰らが誅殺されたのは建安17年(212年)5月癸未の日と記されているが、当月の朔日は癸未ではなく壬辰のはずである{{sfn|de Crespigny|2020|p=440}}<ref>[https://ctext.org/date.pl?if=gb&entityid=792909&year=17 建安十七年]. 中国哲学書電子化計画. 2024年2月8日閲覧。</ref>。}}。


涼州別駕の[[閻温]]包囲網を掻い潜って夏侯淵に援軍を要請したものの、その足取りを発見した馬超軍に追われ、捕縛された。引き出された閻温に対し、馬超はその縛めを解いて「今や勝敗は歴然としている。足下(あなた)は孤城のために援軍を求めが、囚われの身となっているどこに義を成そうというのか? もし私の言に従うならば、城に戻り、東から救援は来ないと伝えるように。これぞ禍い転じて福と為すというもの。さもなくば、ただちに殺す」と言った。偽って要求を受け入れた閻温は、車に乗せられて帰城すると「大軍が3日のうちに来る。頑張れ!」と叫んだ{{efn|馬超はまず怒って「足下は命のことを考えないのか」、次いで態度軟化させて「城内の旧知で、私と意を同じくする者はいるか」と様々に問うたが、閻温は全て黙秘し再び責めらると「主君に仕えるということに、死はあれど二心はない。卿(あなた)は長者(年長者または徳高い人。閻温自身を指す)に不義の言を出さしめんとしている。どうして生きていられよう」と返した。}}。その後懐柔に失敗した馬超は閻温をた<ref name="yanwen"></ref>{{efn|閻温に対する陳寿評にある解揚の逸話は、『[[史記]]』および『[[春秋左氏伝]]』に記載がある。[[楚_(春秋)|楚]]が[[宋_(春秋)|宋]]を攻めた際、[[晋_(春秋)|晋]]は宋を降伏させないために楚を欺くことを画策し、壮士の解揚がその君命を帯びたが、その道中で捉えられた。[[楚王]]は、宋に対し降伏勧告をするよう解揚に強いた。解揚はついにその要求に応じたが、車に乗せられて城下に着くや「晋の援軍が来る」と呼ばわった。約束に背き信義を損なったことを咎める楚王に、解揚は忠義を持ち出して答えた。そして死刑に臨むにあたり、忠義を文字通り死守せんとする己の意気を訴えた。臣下たちの反対を押し切り、楚王は解揚を許した<ref>{{Cite wikisource|wslink=史記/卷042#鄭襄公|title=『史記』巻42鄭世家|wslanguage=zh}};{{Cite wikisource|wslink=春秋左氏傳/宣公#宣公十五年|title=『春秋左氏伝』宣公十五年|wslanguage=zh}}</ref>。}}。
閻温は包囲網を掻い潜って夏侯淵に援軍を要請したものの{{sfnm|白|2013|1p=163|de Crespigny|2007|2p=938}}、その足取りを追われて身柄を拘束された{{sfn|de Crespigny|2007|p=938}}。『[[三国志_(歴史書)|三国志]]』は、これにまつわる以下のような逸話を載せている。引き出された閻温に対し、馬超はその縛めを解いて「今や勝敗は歴然としている。足下(あなた)は孤城のために援軍を求めかえって囚われの身となっいかに義を成というのか? もし私の言に従うならば、城に戻り、東から救援は来ないと伝えるように。これぞ禍い転じて福と為すというもの。さもなくば、ただちに殺す」と言った。偽って要求を受け入れた閻温は、車に乗せられて帰城すると「大軍が3日のうちに来る。頑張れ!」と叫んだ馬超は怒って「足下は命のことを考えないのか」と詰りまた懐柔目論んで「城内の旧知で、私と意を同じくする者はいるか」と問うたが、閻温は何も答えずを咎めた馬超に対し「主君に仕えるということに、死はあれど二心はない。卿(あなた)は長者(年長者{{sfn|de Crespigny|2007|p=938}})口から不義の言を出そうとしている」と言い、馬超されという<ref name="yanwen" />{{sfn|de Crespigny|2007|p=938}}{{efn|『三国志』の撰者である陳寿は、閻温を春秋時代の人物である解揚に準えた。[[楚_(春秋)|楚]]が[[宋_(春秋)|宋]]を攻めた際、[[晋_(春秋)|晋]]は宋を降伏させないために楚を欺くことを画策し、解揚がその君命を帯びたが、その道中でれた。[[楚王]]は、宋に対し降伏勧告をするよう解揚に強いた。解揚はその要求に応じたが、車に乗せられて城下に着くや「晋の援軍が来る」と呼ばわった。約束に背き信義を損なったことを咎める楚王に、解揚は忠義を持ち出して答えた。そして死刑に臨むにあたり、忠義を死守せんとする己の意気を訴えた。楚王は、臣下たちの反対を押し切って解揚を許した<ref>{{Cite wikisource|wslink=史記/卷042#鄭襄公|title=『史記』巻42鄭世家|wslanguage=zh}};''[[s:zh:春秋左氏傳/宣公#宣公十五年|『春秋左氏伝』宣公十五年]]''</ref>。}}。


閻温の死きっかけに、韋康太守ともども降伏の意思を抱くようなった。楊阜は徹底抗戦を訴えたものの韋康はついに講和を求めて開城した。馬超は入城すると、援軍に来ていた張魯の大将である[[楊昂]]に韋康と太守を殺させた<ref name="yangfu"></ref>{{efn|皇甫謐『[[列女伝#他の列女伝|列女伝]]』趙昂妻異伝にのみ「馬超が約束に背き韋康を殺害した」という記載がある<ref name="lienv"></ref>。なお『列女伝』のような著述には留意点がある。兪樟華・婁欣星が述べるには、古代の雑史に記された女性の伝記は複数の共通点を持つ。まず、男性中心社会において、国家存続や夫への貢献、貞節の固守などのような、婦徳やそれに繋がる才覚を発揮した女性(母、妻、娘)が特筆される。次に、当時の社会情勢や女性の生活状況が示されると同時に、作者の願望および理想の投影もまた含まれる。そして、[[正史]]内に立伝されたり記載があったりする人物を除き、逸話の典拠は主に文芸作品、[[野史]]、世間の噂などであるため、一般的な列伝と比較して、女性(特に皇族以外の階級に属する者)を主とする列伝の信憑性は低くなる<ref>兪樟華、婁欣星「論古代女性類伝」『荊楚理工学院学報』第5期、2012年、5-11、pp. 10–11。</ref>。熊明は、皇甫謐の筆致について、真実性や信憑性には注意を払わず、該当する人物の性格を的確に示す情報やそれに関する都合の良い資料を取捨選択し、さらに創作も織り込むさまは小説作法じみていると分析し、その叙述方式や微細な描写などから、『列女伝』をはじめとする皇甫謐の雑伝作品は史書というより小説のようだと論じている<ref>熊明「略論皇甫謐雑伝的小説品格」『錦州師範学院学報』第2期、2002年、26-29、pp. 28–29。</ref>。}}。そして冀城を占拠し、征西将軍・[[并州]]牧・涼州都督を自称した<ref name="machao"></ref>。また遅れて救援にやってきた夏侯淵{{efn|曹操が鄴に帰還した後、長安に駐屯していた<ref name="xiahouyuan"></ref>。梁興ら残党は関中諸県で略奪行為を働いていたが、[[鄭渾]]による治安強化により勢力を弱め、鄜([[左馮翊]]に位置する)で夏侯淵に斬られた<ref>『三国志』巻16鄭渾伝・巻17張郃伝・徐晃伝</ref>。夏侯淵伝では、梁興が斬られた場所は鄠([[右扶風]]に位置する)となっている。また武帝紀によると、馬超の残党である梁興らは藍田に駐屯し、夏侯淵に平定された。しかし『資治通鑑』は、藍田に駐屯したのは梁興ではなく馬超である<ref name="zizhi66"></ref>。ド・クレスピニーは、鄜で死亡したからには梁興は藍田におらず、また藍田にいた勢力馬超に与していたが、馬超本人は涼州にいるため、夏侯淵攻撃時には不在だったのだろうと推測る{{sfn|de Crespigny|2004|loc=§ 66. note 8 to Jian’an 17}}。}}を迎撃して優に立つだけでなく、[[隴県|汧県]]の[[]]族を呼応させて敗走させたほか<ref name="xiahouyuan"></ref>、[[仇池|百頃]]氐の千万興国氐の阿貴ら味方につけ、勢力を盛り返した<ref name="worenwlxirong">『三国志』巻30倭人伝注引『魏略』西戎伝</ref>{{efn|214年、馬超が敗走した後に夏侯淵が興国を包囲した際、阿貴は死亡したが、千万は馬超のもとへ逃げた<ref name="xiahouyuan"></ref>。千万は「楊千万」とも称されるが、それは子孫が楊姓を冠したことによる<ref>{{Cite wikisource|wslink=宋書/卷98|title=書』巻98氐胡伝|wslanguage=zh|quote=略陽清水氐楊氏,秦、漢以來,世居隴右,為豪族。漢獻帝建安中,有楊騰者,為部落大帥。騰子駒,勇健多計略,始徙仇池。仇池地方百頃,因以百頃為號,{{interp|...}}駒後有名千萬者,魏拜為百頃氐王。}}</ref>。}}。
馬超による閻温殺害に、韋康と漢陽太守の意思は降伏傾い{{sfnm|森本|2012b|1p=182|白|2013|2p=163}}8月、ついに韋康が講和を求めて開城すると、馬超は韋康と太守を殺害し{{sfnm|並木|2016|1p=60|白|2013|2p=163|汪|2022|3p=64|朱|2015|4pp=45-46|de Crespigny|2007|5pp=854, 950|Haloun|1949|6p=127}}<ref name="8月" />{{efn|name=":0"|『三国志』楊阜伝によれば、楊昂に韋康と太守を殺させたという{{sfn|de Crespigny|2007|p=940}}。皇甫謐『列女伝』趙昂妻異伝に「馬超が約束に背き韋康を殺害した」とある。}}。そして冀城を占拠して兵衆を併合し、征西将軍・[[并州]]牧・涼州軍事を自称した<ref name="machao" />{{sfnm|関尾|2023|1p=172|白|2013|2p=163|朱|2015|3pp=45-46}}その後、遅れて救援にやってきた夏侯淵{{efn|曹操が鄴に帰還した後、長安に駐屯していた<ref name="xiahouyuan" />{{sfn|宋|2022a|p=24}}。梁興ら残党は関中諸県で略奪を働いていたが、[[鄭渾]]による治安強化により勢力を弱め、[[富県|鄜]](左馮翊)で夏侯淵に斬られた<ref>『三国志』巻16鄭渾伝・巻17張郃伝・徐晃伝</ref>。夏侯淵伝では、梁興が斬られた場所は[[邑区|鄠]](右扶風)となっている。また武帝紀によると、馬超の残党である梁興らは藍田に駐屯し、夏侯淵に平定されたとあるが、『資治通鑑』は、藍田に駐屯したのは梁興ではなく馬超とする<ref>{{Cite wikisource|wslink=資治通鑒_(胡三省音注)/卷066|title=『資治通鑑』巻66建安十七年|wslanguage=zh}}</ref>。ド・クレスピニーは、梁興は藍田におらず、鄜で死亡したとしている{{sfn|de Crespigny|2020|p=40}}。また馬超は涼州にいるため、おそらく藍田にいた勢力馬超に与していたのであり、夏侯淵による攻撃時には馬超本人は不在だったと推測している{{sfn|de Crespigny|2020|p=40}}。}}を迎撃して優に立ち{{sfn|de Crespigny|2007|p=639}}、[[隴県|汧県]]の氐族{{efn|潼関の戦いの際、夏侯淵が朱霊に平定させていた{{sfnm|関尾|2023|1p=172|李|2022|2p=25}}。}}を呼応させて敗走させた<ref name="xiahouyuan" />{{sfnm|関尾|2023|1p=172|並木|2016|2p=65|de Crespigny|2010|3p=305}}。さらに千万も呼応し、興国で反乱起こていた<ref name="wudi" />{{sfnm|関尾|2023|1p=173|宋|2022b|2p=105}}{{efn|夏侯淵が興国を包囲した際、阿貴は死亡したが、千万は馬超のへ逃げた<ref name="xiahouyuan" />{{sfnm|関尾|2023|1p=173|馬|2022|2pp=37-38|宋|2022b|3p=106}}。}}。馬超の威勢はこの時期に隆盛を極めた{{sfn|関尾|2023|p=172}}。


楊阜は、妻の葬儀を口実にして、外兄(妻の兄弟{{sfn|渡邉・仙石|2019|p=264}})の姜叙が駐屯していた歴城(漢陽郡[[礼県|西県]]<ref>{{Cite wikisource|wslink=水經注/20|title=『水経注』巻20漾水|wslanguage=zh|quote=建安水又東逕蘭坑城北、建安城南,其地,故西縣之歷城也。楊定自隴右徙治歷城,即此處也。去仇池百二十里,後改為建安城。}};''[[s:zh:後漢書/卷113|『続漢書』巻23群国志五]]''</ref>)を訪れると、撫夷将軍であり軍権を擁する姜叙の無反応ぶりを[[趙盾]]に比して責め、反乱を仄めかした{{sfnm|朱|2015|1p=45|de Crespigny|2007|2pp=378, 950}}。韋康が殺されたことを、楊阜は一州の士大夫の恥であると考えていた{{sfn|森本|2012b|p=183}}。その悲憤を見た姜叙の母もまた、楊阜の計画に加わるよう息子をけしかけた<ref name="yangfu" />{{sfnm|朱|2015|1p=45|de Crespigny|2007|2p=373}}<ref name="lienv" />。こうして、涼州の士大夫層(有力者層)は結集して内応を図った{{sfn|森本|2012b|p=183}}。韋康の旧臣の一人である[[趙昂]]もこの報復に加わったが、[[皇甫謐]]『[[列女伝#他の列女伝|列女伝]]』によれば、息子の趙月が馬超の人質であることを案じると、妻の[[王異]]は「忠義こそが立身の大本です。君父の恥を雪ぐにあたっては、命を差し出すのも瑣末なこと。ましてや子ども1人のことなど気にかけるものではありません」と叱咤したという<ref name="lienv" />{{sfn|de Crespigny|2007|p=839}}{{efn|林恵一によれば、いわゆる「列女伝」とは[[説話]]を出自に持つ「列女説話」とも呼べるもので、客観的・批評的観点から発生したのではなく、願望・期待を交差させながら発展していったものだという<ref>林恵一「列女説話の伝承について」『藝文研究』1960年、37–58、pp. 52, 57。</ref>。兪樟華・婁欣星によれば、古代の雑史に記された『列女伝』のような女性の伝記は複数の共通点を持つ。まず、国家存続や夫への貢献、貞節の固守などのような、男性中心社会において婦徳やそれに繋がる才覚を発揮した女性(母、妻、娘)が特筆される。次に、当時の社会情勢や女性の生活状況が示されると同時に、作者の願望および理想の投影もまた含まれる。そして逸話の典拠は主に文芸作品、[[野史]]、世間の噂などであるため、官吏に関する一般的な列伝と比較して、女性(特に皇族以外の階級に属する者)を主とする列伝の信憑性は低くなる<ref>兪樟華、婁欣星「論古代女性類伝」『荊楚理工学院学報』第5期、2012年、5–11、pp. 10–11。</ref>。熊明は、皇甫謐の筆致について、真実性や信憑性には注意を払わず、該当する人物の性格を的確に示す情報やそれに関する都合の良い資料を取捨選択し、さらに創作も織り込むさまは小説作法に似ると分析する。そして、その叙述方式や微細な描写などから、『列女伝』をはじめとする皇甫謐の雑伝作品は史書というより小説のようだと論じている<ref>熊明「略論皇甫謐雑伝的小説品格」『錦州師範学院学報』第2期、2002年、26–29、pp. 28–29。</ref>。}}。
復讐の機を窺っていた楊阜は、歴城([[漢陽郡]][[礼県|西県]]<ref>{{Cite wikisource|wslink=水經注/20|title=『水経注』巻20漾水|wslanguage=zh|quote=建安水又東逕蘭坑城北、建安城南,其地,故西縣之歷城也。楊定自隴右徙治歷城,即此處也。去仇池百二十里,後改為建安城。}};{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷113|title=『続漢書』巻23群国志五|wslanguage=zh}}</ref>)を訪れた折、撫夷将軍であり軍権を擁する姜叙の無反応ぶりを[[趙盾]]に比して責め、反乱を仄めかした{{efn|この時の「韋康の死は楊阜ひとりの責任(『列女伝』では恥)ではない、一州の士大夫皆が恥を蒙ったのだ」という主旨の言葉は、楊阜伝では楊阜が、『列女伝』姜叙母伝では姜叙の母が発言者となっている。}}。楊阜の悲憤を見た姜叙の母は、楊阜の計画に加わるよう息子をけしかけた<ref name="lienv"></ref><ref name="yangfu"></ref>。


9月、楊阜・姜叙が鹵城([[安定郡]][[崇信県|鹵]]<ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷028下|title=『漢書』巻28地理志下|wslanguage=zh}}</ref>において反旗を翻した。楊阜らと結んでいた趙衢・梁寛は、馬超を欺いて鎮圧に向かわせた後、冀城を占拠して門を閉、馬超の妻子をことごとく殺して晒し首にした<ref name="xiahouyuan"></ref><ref name="wudi"></ref><ref name="yangfu"></ref>{{efn|馬超の妻子殺害について、詳細は武帝紀・夏侯淵伝に記載がある。楊阜伝は「馬超の妻子を討った」とだけ記され、『列女伝』には殺害そのものがない。また、夏侯淵伝には趙衢らが馬超を騙して出撃させたとあるが、楊阜伝および『列女伝』では馬超が自ら意思で出撃したように書かれて。}}。馬超は初め鹵城を攻めたが、歴城に目標変えた。そこで捕らえた姜叙の母に「お前は父に背いた逆子{{efn|ぎゃくし。不孝者の意。}}、主君を殺した桀賊です{{efn|胡三省は、この「主」を韋康のこととする<ref name="zizhi66"></ref>。「桀賊」は、凶暴な賊。「賊」は匪賊、人殺しなどを表す。また「」は凶悍なさまを示す形容詞であるほか、暴君として知られる[[夏_(三代)|夏]]王朝の[[桀|最後の王]]の名る。}}。天地がどうしてお前を久しく容れられようそれでいて早く死なずにいるとはよくも人に顔向けできる!」と罵倒され激怒した馬超は姜叙の母と子を斬った<ref name="lienv"></ref><ref name="yangfu"></ref>{{efn|後日、姜叙の母のことを聞いた曹操は、彼女を[[楊敞]]の妻に比して称賛した<ref name="yangfu"></ref>。『列女伝』姜叙母伝のみに見える出来事として、馬超による姜叙のの殺害、城へ放火がある。}}。の最中、馬超楊阜に重傷を負わせの兄弟7人戦死させたもののついには漢中の張魯頼って落ち延びていった。
建安18年([[213年]])9月{{efn|この反乱の時期について、司馬光は楊阜伝の記述(建安17年9月)を誤りとし、また武帝紀の記述(建安19年1月)も退けているため、『資治通鑑』では建安18年の出来事となっている<ref>{{Cite wikisource|wslink=資治通鑒_(胡三省音注)/卷066|title=『資治通鑑』巻66建安十八年注引『資治通鑑考異』|wslanguage=zh|quote=《考異》曰:《楊阜傳》云「十七年九月」,《武帝紀》,「十八年超在漢陽,復因羌、胡爲害。十九年正月,趙衢等討超,超奔漢中。」按姜敍九月起兵,超卽應出討,超出,衢等卽應閉門,不應至來年正月。蓋《魏史》書捷音到鄴之月耳。《楊阜傳》誤也。}}</ref>。盧弼は司馬光の解釈に則り、楊阜らが反乱した時期は建安18年9月だとしている<ref>{{harvnb|盧|2009|p=1898}}, "《考異》以十九年正月為捷音到鄴之日,則楊阜、姜敘起兵之日當在十八年九月也。"</ref>。}}、楊阜・姜叙が[[県|鹵]]<ref>{{Cite wikisource|wslink=讀史方輿紀要/卷五十九|title=『読史方輿紀要』巻59|wslanguage=zh|quote=建安城,在{{interp|成}}縣西。{{interp|...}}又北有鹵城,在故冀縣西縣之間。馬超據冀,郡將薑敘自歷城舉兵擊之,進入鹵城。或云,鹵城即西城之訛矣。又苻秦將楊定自隴右徙治歷城,亦即是城也。其後改曰建安城。}}</ref>において反旗を翻した{{sfn|宋|2022a|p=24}}。楊阜らと結んでいた趙衢・梁寛は、馬超を鎮圧に向かわせた後、冀城門を閉ざし、馬超の妻子をことごとく殺して晒し首にした{{sfnm|宋|2022b|1p=106|朱|2015|2p=46|de Crespigny|2007|3pp=1094, 1104}}{{efn|馬超の妻子殺害の詳細について、武帝紀・夏侯淵伝に記載がある。楊阜伝は「馬超の妻子を討った」とだけ記され、『列女伝』には殺害そのものに関するがない。また、夏侯淵伝には趙衢らが馬超を騙して出撃させたとあるが{{sfn|de Crespigny|2007|p=1094}}、楊阜伝および『列女伝』ではのような描写はない。}}。馬超は鹵城から撤退する最中に歴城を攻略し{{sfn|de Crespigny|2007|p=373}}。そこで捕らえた姜叙の母に「お前は父に背いた逆子ぎゃくし。不孝者<ref>{{Cite Kotobank|word=逆子|encyclopedia=普及版 字通|hash=-14072#w-2980114|accessdate=2024-10-05}}</ref>)、主君(韋康{{sfn|de Crespigny|2007|p=373}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=資治通鑒_(胡三省音注)/卷066|title=『資治通鑑』巻66建安十八年胡注|wslanguage=zh|quote=殺,謂殺韋康也。}}</ref>)を殺した桀賊凶暴な賊<ref>{{Cite web |url= https://www.zdic.net/hans/|title= 賊|website=漢典|language=zh|accessdate=2024-10-05}}</ref>)であり、天地がどうしてお前を久しく容れられよう。だのに早く死なずにい、人に顔向けできるという!」と罵倒され激怒し姜叙の母とその子を斬った{{sfnm|朱|2015|1p=46|de Crespigny|2007|2p=373}}{{efn|後日、姜叙の母のことを聞いた曹操は、彼女を[[楊敞]]の妻に比して称賛したという<ref name="yangfu" />{{sfn|de Crespigny|2007|p=373}}『三国志』楊阜伝において、馬超が殺害したと書かれるのは姜叙の母のみだが、『列女伝』姜叙母伝、馬超姜叙の母だけでなく彼女子も殺害さらに城へ放火したとする。}}。退路を断たれた馬超はつに涼州を離れ漢中にいる張魯の下へ落ち延びた<ref name="yangfu" />{{sfnm|白|2013|1p=163|宋|2017|2p=16|朱・呂|2007|3p=113|Haloun|1949|4p=128}}。馬超楊阜との戦いでは楊阜の兄弟7人戦死楊阜自身も傷った<ref name="yangfu" />{{sfn|de Crespigny|2007|p=950}}


張魯は馬超を重用して都講祭酒{{efn|師君(張魯)に次ぐ位である{{sfn|de Crespigny|2020|p=461}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=資治通鑒_(胡三省音注)/卷066|title=『資治通鑑』巻66建安十八年胡注|wslanguage=zh|quote={{interp|張}}魯爲五斗米道,自號師君。其來學者,初名鬼卒,後號祭酒,各領部衆。都講祭酒者,魯使學者都習《老子》五千文,置都講祭酒,位次師君。}}</ref>。}}とし、さらには自分の娘を嫁がせようとしたが、ある臣下に「自らの親を愛せない者が、どうして他人を愛せましょうか」と諫められ、とりやめた{{sfnm|梁|2003|1p=50|朱|2015|2p=46|de Crespigny|2007|3p=940}}。また漢中には、潼関の戦いにおける馬超の敗北を機に、馬超の妾の弟である董种が三輔から移住していた。元日に董种が馬超を訪ねてお祝いを述べると、馬超は胸を叩いて吐血し、「一門がみな、一旦にして命を落としたのに、今われわれ二人で祝おうというのか」と嘆いた<ref name="machaodl"/>{{sfnm|張|2010|1p=34|朱|2015|2p=47}}。
その後、馬超は張魯に何度も兵を借りて失地回復を試みたが、不首尾に終わっている。韋康の旧臣である[[趙昂]]とその妻の[[王異]]が立て籠もる[[礼県|祁山]]を馬超が包囲した際、姜叙らから救援依頼を受けた夏侯淵は、曹操の指令を待っていれば姜叙たちは負けるだろうと判断し、進軍した。包囲から30日が経過して援軍が到着すると、馬超はその先行部隊を率いる[[張郃]]を羌氐数千人とともに迎え撃ったものの、結局交戦しないまま逃げ、趙昂夫妻の息子で人質としていた趙月を殺した<ref name="lienv"></ref><ref name="xiahouyuan"></ref>{{efn|馬超の人質となっている息子の安否を案じた趙昂に対して、王異は「忠義こそが立身の大本です。君父の恥を雪ぐにあたっては、命を差し出すのも瑣末なこと。ましてや子ども1人のことなど気にかけるものではありません」と叱咤した。他にも、趙昂が馬超の信用を得たのは、馬超の妻である楊氏に王異が信用され親しまれたためであり、さらに祁山にて趙昂が講じた9つの策には、常に王異が関与していたという<ref name="lienv"></ref>。}}。


馬超は張魯に対して何度も派兵を要請し、失地回復を試みた{{sfnm|方|2000|1p=252|de Crespigny|2007|2p=639}}。建安19年([[214年]])、趙昂らの立て籠もる[[礼県|祁山]]を馬超が包囲した際、姜叙らより救援依頼を受けた夏侯淵は、現在地から曹操のいる鄴までの距離は往復して4000里(約2000km{{sfn|de Crespigny|2020|p=467}})であるから、曹操からの指令を待っていれば彼らは負けるだろうと判断し、[[陳倉区|陳倉]]狭道を経て進軍した{{sfnm|白|2013|1p=163|宋|2022a|2p=24}}。包囲から30日後に援軍が到着し、馬超は羌氐数千人と共に、その先行部隊を率いる[[張郃]]を渭水にて迎え撃ったものの、交戦しないまま撤退した<ref name="xiahouyuan" />{{sfnm|白|2013|1p=163|Haloun|1949|2p=128}}。人質の趙月はこの時に殺された<ref name="lienv" />{{sfnm|梁|2003|1p=50|de Crespigny|2007|2pp=839, 1114}}。
張魯は馬超を都講祭酒{{efn|『[[資治通鑑]]』胡三省注によると、師君(張魯)に次ぐ位である<ref name="zizhi66"></ref>。}}に任じるだけでなく、さらには自分の娘を嫁がせようとしたが、ある臣下に「自らの親を愛せない者が、どうして他人を愛せましょうか」と諫められ、とりやめた{{efn|張魯自身は、劉璋に従わなかったために母と弟を斬られている<ref name="liuzhang">『三国志』巻31劉璋伝</ref>。}}。また漢中には、潼関の戦いにおける馬超の敗北を機に、馬超の妾の弟である董种が三輔から移住していた。建安19年([[214年]])の元旦、馬超を訪ねてきた董种がお祝いを述べると、馬超は胸を叩いて吐血し、「家族が皆、1日にして命を落としたというのに、今われわれ二人で何を祝えるというのか!」と嘆いた<ref name="machaodl"></ref>。


=== 劉備への帰服 ===
=== 劉備への帰服 ===
建安19年([[214年]])、張魯に不抱き内心鬱々としていた馬超は、[[成都市|成都]]を包囲していた劉備に密書を送り、降伏を申し入れた<ref name="machao"></ref>。また張魯配下の[[楊白]]らからの妬みもあ{{efn|この箇所に該当する原文は「魯將楊白等欲害其能」だが、『資治通鑑』は「楊白」「楊昂」となっている<ref>{{Cite wikisource|wslink=資治通鑒_(胡三省音注)/卷067|title=『資治通鑑』巻67|wslanguage=zh}}</ref>。『[[康熙字典]]』の「害」の項目には「害猶言患之也。又《屈原列傳》上官大夫與之同列爭寵,而心害其能」とある<ref>{{Citation|contribution=害|title=康熙字典網上版|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240123084017/https://www.kangxizidian.com/v2/index2.php?page=1352&sword=%E5%AE%B3|accessdate=2024年1月23日|archivedate=2024年1月23|url=https://www.kangxizidian.com/v2/index2.php?page=1352&sword=%E5%AE%B3}}</ref>。例文として引かれた箇所に該当する和訳は、「上官大夫中略は屈原と地位をひとしくし、君寵を争うて、心ひそかにその才能を憎んだ」<ref>[[司馬遷]]『史記6 列伝二』小竹文夫、小竹武夫訳、ちくま学芸文庫、1995年、p. 62。{{ISBN|9784480082060}}。</ref>。また[[中国学|中国者]]の{{仮リンク|レイフ・ド・クレスピニー|en|Rafe de Crespigny}}による『資治通鑑』の英訳では、「害其能」「馬超に嫉妬した」と訳されている{{sfn|de Crespigny|2004|loc=§ 67. passage K of Jian'an 19 |ps=, "Yang Ang and other officers of Zhang Lu were jealous of {{interp|Ma Chao|original=him}}".}}。}}、馬超は妾の董氏子の馬秋を張魯のもとに留めまま、[[武都郡|武都]]から氐族の居住地を経て益州へと出奔した<ref name="machaodl"></ref>{{efn|張魯が曹操降伏した際曹操董氏を張魯の功曹である[[閻圃]]に下げ渡し、馬秋張魯に引き渡した。張魯それ自らの手で殺した<ref name="machaodl"></ref>}}。
馬超は張魯に不覚え、また張魯配下の[[楊白]]らによる妬みゆえの排斥もあって{{sfn|de Crespigny|2007|p=946}}{{efn|この箇所に該当する原文は「魯將楊白等欲害其能」だが、『資治通鑑』は「楊白」「楊昂」に、また「欲」を「数」に作る<ref>{{Cite wikisource|wslink=資治通鑒_(胡三省音注)/卷067|title=『資治通鑑』巻67建安十九年|wslanguage=zh|quote=馬超知張魯不足與計事,又魯將楊昂等數害其能,超內懷於邑。}}</ref>。また『続後漢書』も同様に「楊昂」に作るが、さらに注釈に「〔『三国志』〕霍峻伝では「楊帛」に作る」とある<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=366993#p15 『続後漢書』巻16馬超伝]. 中国哲学書電子化計画. 2024年5月6日閲覧, "楊昻, 陳志作楊白, 查霍峻傳作楊帛。"</ref>。現代でも楊白・楊昂・楊帛を同一人物とする見解が存在する{{sfnm|渡邉・仙石|2019|1p=264|方|2000|2p=253|de Crespigny|2007|3p=946}}。『[[康熙字典]]』の「害」の項目には「害猶言患之也。又《屈原列傳》上官大夫與之同列爭寵,而心害其能」とある<ref>{{Citation|contribution=害|title=康熙字典網上版|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240123084017/https://www.kangxizidian.com/v2/index2.php?page=1352&sword=|accessdate=2024年1月23日|archivedate=2024年1月23|url=https://www.kangxizidian.com/v2/index2.php?page=1352&sword=}}</ref>。例文として引かれた箇所に該当する和訳は、「上官大夫{{Interp|中略|和文=1}}は屈原と地位をひとしくし、君寵を争うて、心ひそかにその才能を憎んだ」<ref>[[司馬遷]]『史記6 列伝二』[[小竹文夫]][[小竹武夫]]訳、[[ちくま学芸文庫]]、1995年、p. 62。{{ISBN|9784480082060}}。</ref>。張寅瀟は、原文の「欲害其能」は意味が通じず、かといって『資治通鑑』の改案「数害其能」もまた不自然であるため、「心害其能」として解すべきだとする<ref>張寅瀟「《三志集解·関張馬黄趙伝》校補」『内江師範報』第1期、2021年、59–63、p. 63。{{doi|10.13603/j.cnki.51-1621/z.2021.01.011}}</ref>。ド・クレスピニー『資治通鑑』の英訳において、「害其能」「馬超に嫉妬した」と訳ている<ref>{{Harvnb|de Crespigny|2020|p=473}}, "Yang Ang and other officers of Zhang Lu were jealous of him {{interp|Ma Chao}}".</ref>。}}、内心鬱々してい{{sfn|方|2000|p=252}}。そして建安19年(214年)、[[武都郡|武都]]から氐族の居住地へと出奔した<ref name="machaodl"/>{{sfnm|方|2000|1p=252|朱|2015|2p=46|de Crespigny|2007|3p=639}}。王北固よれば馬超血縁と地縁によ生得的保護を利用していたという{{sfn|王|2000|p=19}}。時に劉備が[[成都市|成都]]を包囲ていると知っ馬超、密書送って降伏を申入れた<ref name="machao" />{{sfnm|朱・呂|2007|1p=115|de Crespigny|2010|2p=305}}。


馬超の来降を聞いた劉備は「益州を手に入れたぞ」と喜び、すぐさま[[李恢]]遣して馬超を迎えとらせ、兵を補充した<ref name="machaodl"></ref><ref>『三国志』巻43李恢伝</ref>。劉備が馬超の軍兵成都城の北に駐屯させ、恐れをなした[[劉璋]]は馬超到来から10日足らずで降伏し、蜀は劉備の手入った<ref name="machaodl"></ref>{{refnest|group="注釈"|[[劉備の入蜀]]おいて、雒城の陥落には1年以上を要ていのに対し、成都の場合、城内には精兵3万1年分の穀帛があり、士気も高ったにもかかわず<ref name="liuzhang"></ref>、数十日という短期間で落城に至った<ref name="xianzhu"></ref>。}}馬超は劉備により平西将軍に任命され、臨沮を治め、都亭侯に再び封じられた<ref name="machao"></ref>。この、劉備の爪牙(武の重鎮)として、[[関羽]]・[[張飛]]と共に名が挙げられている<ref name="xianzhu">『三国志』巻32先主伝</ref>。
馬超が漢中にいた頃、劉備は[[李恢]]を派遣して馬超と誼みを結ばせていたが<ref>『三国志』巻43李恢伝</ref>、馬超の来降を聞くと[[益州]]を手に入れたぞ」と喜び{{sfn|古|2019|pp=60-61}}を遣して馬超を迎えとらせ、密かに兵を補充した<ref name="machaodl"/>{{sfnm|朱・呂|2007|1p=109|de Crespigny|2010|2p=305}}。[[劉備の入蜀]]は、劉璋軍のしぶとい抵抗によって難航しており、[[広漢市|雒城]]攻略時には[[龐統]]が戦死していた{{sfnm|張|2013|1p=46|朱・呂|2007|2p=109}}。また成都城内には精兵3万と1年分の穀帛があり、包囲下にあってなお士気は高く、抗戦の構えを見せていた<ref>単敏捷「漢末劉焉父子時期巴蜀主要政治関係新探」『北京社会科学』第11期、2021年、71–81、p. 78。</ref><ref>『三国志』巻31劉璋伝</ref>。しかし馬超の軍兵成都城の北に駐屯、恐れをなした[[劉璋]]は馬超到来から10日足らずで降伏し、夏頃、蜀は劉備の手に帰した<ref name="machaodl"/>{{sfnm|張|2013|1p=46|張|2014|2p=112|朱・呂|2007|3p=109|de Crespigny|2007|4pp=588, 639}}。益州獲得大きく寄与したとから{{sfn|de Crespigny|2007|p=639}}、劉備は馬超平西将軍とし、臨沮を治めさせ改めて都亭侯に封じた<ref name="machao" />{{sfn|張|2014|p=113}}宋傑によれば、この任地は武都郡[[略陽県|沮県]]近辺の{{仮リンク|沮水|zh|沮水_(汉水)}}流域を指す{{sfn|宋|2023|p=30}}{{efn|県名の由来である沮水は沮県から陳倉までを結ぶ軍事的に重要な水路だった{{sfn|張|2014|p=116}}。この「臨沮」を荊州の[[遠安県|臨沮]]と見なす研究もある{{sfn|張|2014|p=113-114}}。}}。馬超は劉備の爪牙(武の重鎮、主君を補佐する人物<ref>王会波、鍾如雄「論漢語詞義色彩変遷之動因——以“爪牙”、“復辟”、“鍛錬”為例」『西南民族大学学報(人文社会科学版)』第3期、2014年、177–181、p. 178。</ref><ref>張雨「“爪牙”詞義感情色彩的変化研究」『太原城市職業技術学院学報』第6期、2018年、197–198、p. 197。</ref>)として、[[関羽]]・[[張飛]]と共に名が挙げられた{{sfnm|易|2009|1p=22|関尾|2023|2p=173}}<ref name="xianzhu">『三国志』巻32先主伝</ref>。


馬超の帰順を知った関羽は、馬超が誰に比肩するかを[[諸葛亮]]に書簡で問うたが、関羽の自尊心の高さを知っていた諸葛亮の「孟起(馬超)は益徳(張飛)に比肩ますが、髯どの{{efn|関羽は鬚髯(あごひげとほおひげ)が美しかったため、諸葛亮はこう呼んだ<ref name="guanyu"></ref>。}}には及びません」という返事を見て大いに喜び、来客に見せびらかした<ref name="guanyu">『三国志』巻36関羽伝</ref>。
平西将軍という官職は、関羽が当時就いていた蕩寇将軍よりも高位だった{{sfn|朱・呂|2007|p=110}}。馬超の帰順を知った関羽は、馬超の才能が誰に比肩するかを[[諸葛亮]]に書簡で尋ねたが、関羽の勝ち気な性格<ref>方一新「中古詞誤“護前”、“覚損”考弁」『中国語文』第5期、2007年、472–476、p. 474。</ref>を知っていた諸葛亮の「益徳(張飛)と並んで先を争うでょうが、髯{{efn|関羽は鬚髯(あごひげとほおひげ)が立派だったため、諸葛亮はこう呼んだ<ref name="guanyu" />。}}には及びません」という返事を見て大いに喜び、来客に見せびらかした<ref name="guanyu">『三国志』巻36関羽伝</ref>{{sfnm|易|2009|1pp=169-170|朱・呂|2007|2p=110}}


馬超が涼州から離れたことで、夏侯淵がこれ以上由々しい抵抗勢力と対峙することはなくなった{{sfn|de Crespigny|2010|p=305}}。そして同年10月、[[臨夏県|枹罕]]において独自政権を打ち立てていた宋建が滅ぼされ{{sfnm|飯田|2022|1p=110|馬|2022|2p=161}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷9|title=『後漢書』巻9献帝紀|wslanguage=zh|quote={{interp|建安十九年}}冬十月,曹操遣將夏侯淵討宋建於枹罕,獲之。}}</ref>{{efn|涼州統治に携わった韋端・韋康父子は宋建政権を黙認していたと見られる{{sfn|飯田|2022|p=110}}。}}、その翌年の建安20年([[215年]])5月、夏侯淵に大敗し[[西平郡|西平]]に退いていた韓遂の首級が、現地の諸将から漢中攻略中の曹操の下へ送り届けられた<ref name="wudi" />{{sfnm|飯田|2022|1p=102|司|2024|2p=14|de Crespigny|2010|3p=306}}<ref>『三国志』巻11王脩伝注引『魏略』</ref>。これにより隴右は平定された{{sfnm|司|2024|1p=14|de Crespigny|2010|2p=306}}。しかし隴右に対する支配体制は実際のところ整わず、漢族・非漢族による反乱が相次ぐ不安定な情勢が[[魏_(三国)|曹魏]]初期まで続いた{{sfnm|満田|2017|1pp=159-160|de Crespigny|2018|2pp=166-167}}。
建安22年([[217年]])、馬超は[[定軍山の戦い|漢中攻略戦]]において張飛・[[呉蘭]]・[[雷銅]]らと作戦を共にし、沮道を経て下弁に進出した<ref name="yangfu"></ref>{{efn|この時、氐族の雷定ら7部1万人あまりが呼応している<ref name="yangfu"></ref>。武都郡は羌族・氐族が多く住む土地であり、下弁はその[[郡治]]である<ref>{{Cite wikisource|wslink=華陽國志/卷二|title=『華陽国志』巻2漢中志|wslanguage=zh}}</ref>。 劉備が漢中を取ると、劉備の北進に従い武都氐が関中を圧迫するのを恐れた曹操は、張既を武都に遣って氐族の部落5万あまりを京兆・扶風・天水に移住させた<ref>『三国志』巻15張既伝</ref>。この強制移住には楊阜も関与している<ref name="yangfu"></ref>。}}。これに応じて、曹操は[[曹洪]]・[[曹休]]・[[曹真]]らを派遣した<ref>『三国志』巻9曹休伝・曹真伝</ref>{{efn|曹休・曹真は[[虎豹騎]]を率いる精鋭である。}}。固山に駐屯した張飛の意図を看破した曹休は、呉蘭を攻撃して撃破した。建安23年([[218年]])3月、[[陰平郡|陰平]]氐の[[強端]]が呉蘭を殺し、馬超は張飛ともども漢中へ撤退した<ref name="wudi"></ref>。


建安21年([[216年]])に発された、[[呉_(三国)|呉]]将に帰順を迫る[[陳琳]]「檄呉将校部曲文」では、曹操の軍事力を誇示するにあたり、これらの抵抗勢力を撃滅したことが雄弁に述べられている<ref>{{Cite journal|author=Goh, Meow Hui|title=The Art of Wartime Propaganda: Chen Lin’s Xi Written on Behalf of Yuan Shao and Cao Cao|journal=Early Medieval China|issue=23|volume=2017|date=2017|pages=42–66|doi=10.1080/15299104.2017.1381424|ref={{sfnref|Goh|2017}}}} pp. 55–56.</ref><ref>{{Cite book|和書|author1=[[蕭統]]|author2=[[竹田晃]]|title=文選(文章篇)中|series=[[新釈漢文大系]]|volume=83|publisher=[[明治書院]]|date=1998|pages=383-387|isbn=9784625570834|ref={{sfnref|竹田|1998}}}}</ref>。
建安24年([[219年]])、劉備を漢中王に推挙した群臣たちの筆頭に馬超の名がある<ref name="xianzhu"></ref>。馬超は仮節・[[左将軍]]に任命された<ref name="machao"></ref>{{efn|漢中王を称するにあたり、劉備は左将軍を辞した<ref name="xianzhu"></ref>。その後任として馬超が抜擢された形になる。また、『華陽国志』では「關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,皆假節鉞」と記されており、この時『三国志』では関羽のみに仮された節鉞が、張飛・馬超にも仮されている<ref name="guanyu"></ref><ref name="huayang">{{Cite wikisource|wslink=華陽國志/卷六|title=『華陽国志』巻6劉先主志|wslanguage=zh}}</ref>。}}。
{{quotation|近頃では関中諸将が、互いに合衆して、頻りに叛乱し、二華([[華山|太華山]]・少華山{{sfn|竹田|1998|p=385}})を阻んで、黄河・渭水に拠り、羌胡を駆率し、矛を揃えて東に向けたが、その気は高く志は遠大、あたかも無敵かのようだった。丞相(曹操)は鉞を携えて武威を逞しくし、順風に烈火を放つがごとく、元戎を前駆して<ref>{{Cite wikisource|wslink=昭明文選/卷44#檄吳將校部曲文|title=『文選』巻44李善注|wslanguage=zh|quote=毛詩曰:武王載旆,有虔秉鉞,如火烈烈,則莫我敢遏。又曰:元戎十乘,以先啟行。}}</ref>、戦鼓も鳴らぬ間に彼らは破れた。倒れ伏した屍は千万にのぼり、流れた血が大盾も漂わせたことは、天下の誰もが知るところである。その後、大軍が[[長江]]に臨みながら渡らずにいたのは、韓約(韓遂)・馬超が逃れ出て、涼州へと逃げ帰り、また鳴吠(動乱、叛乱{{sfn|竹田|1998|p=385}}<ref>{{Cite web |url= https://www.zdic.net/hans/鳴吠|title=鳴吠|website=漢典|language=zh|accessdate=2024-10-05}}</ref>)せんとしたからだ。逆賊宋建は河首〔平漢王〕を僭号して、〔韓遂・馬超と〕同悪相救い、並んで唇歯となった。{{Interp|中略|和文=1}}みな我が王の誅伐を先駆けて加えるにあたうものだった。{{Interp|中略|和文=1}}偏将(夏侯淵{{sfn|竹田|1998|p=385}})が隴を攻めれば、宋建・韓約は梟夷(誅滅{{sfn|竹田|1998|p=384}})され、その首は万里に晒された。{{Interp|中略|和文=1}}宋建・韓約の眷属はみな鯨鯢となり〔誅殺され〕{{sfn|竹田|1998|pp=386-387}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=春秋左氏傳/宣公#宣公十二年|title=『春秋左氏伝』宣公十二年|wslanguage=zh|quote=古者明王.伐不敬.取其鯨鯢而封之.以為大戮.}}</ref>、馬超の妻子は[[蘭州市|金城]]にて首を焼かれ、父母嬰孩の死体は[[許昌市|許]]に倒れた。これは国家が彼方には禍を集め、此方〔張魯・[[朴胡]]・杜濩などの帰順者〕には〔[[封戸]]・封侯により〕福を下したというのではない。逆順(正否{{sfn|竹田|1998|p=387}})の理においては、そうならざるを得ないのだ<ref>{{Harvcoltxt|竹田|1998|pp=383-387}}を参照して訳文を作成。</ref><ref>尹玉珊「被誤解与遮蔽的経典:《檄呉将校部曲文》的作者及其文学価値」『学術論壇』第6期、2018年、156–163、p. 162。</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=檄吳將校部曲文|title=「檄呉将校部曲文」|wslanguage=zh|quote=近者關中諸將,復相合聚,續為叛亂,阻二華,據河渭,驅率羌胡,齊鋒東向,氣高志遠,似若無敵。丞相秉鉞鷹揚,順風烈火,元戎啟行,未鼓而破。伏尸千萬,流血漂樐,此皆天下所共知也。是後大軍所以臨江而不濟者,以韓約馬超逋逸迸脫,走還涼州,復欲鳴吠。逆賊宋建,僭號河首,同惡相救,並為脣齒。{{interp|...}}皆我王誅所當先加。{{interp|...}}偏將涉隴,則建約梟夷,旍首萬里{{interp|...}}。而建約之屬,皆為鯨鯢;超之妻孥,焚首金城,父母嬰孩,覆尸許市。非國家鍾禍於彼,降福於此也,逆順之分,不得不然。}}</ref>。}}


建安22年([[217年]])冬、馬超は[[定軍山の戦い|漢中争奪戦]]において張飛・[[呉蘭]]・[[雷銅]]と作戦を共にし、武都に侵攻して東部戦線の主力である劉備軍を援護した{{sfn|宋|2023|p=30}}<ref>白亮「論甘粛地区在蜀漢北伐戦略中的地位」『甘粛社会科学』第6期、2013年、83–87、p. 84。</ref>。建安20年(215年)に張魯が曹操に投降したため{{efn|馬超の入蜀時、妾の董氏と子の馬秋は漢中に留まり、張魯を頼っていた。曹操は、董氏を張魯の功曹である[[閻圃]]に下げ渡し、馬秋を張魯に引き渡した。張魯はそれを自らの手で殺した<ref name="machaodl"/>{{sfnm|朱|2015|1p=46|de Crespigny|2007|2pp=147-148, 648}}。}}、漢中はすでに曹操の勢力下にあった{{sfnm|梁|2015|1p=80
[[章武]]元年([[221年]])、[[驃騎将軍]]・涼州牧となり、斄郷侯に封じられた{{efn|『[[華陽国志]]』では 「{{interp|先主以}}馬超{{interp|為}}驃騎將軍,領涼州刺史,封斄鄉侯,北督臨沮」<ref name="huayang"></ref>。斄は扶風郡に属する県で、「たい」と読む。後に[[武功県]]に改称<ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷028上|title=『漢書』巻28地理志上|wslanguage=zh}}</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷72#董卓|title=『後漢書』巻72董卓伝李賢注|wslanguage=zh|quote=斄,縣,故城在今雍州武功縣。字或作「邰」,音台。}}</ref>。}}。
|張|2013|2p=45}}。馬超は張飛と共に沮道{{efn|武都には羌族・氐族が多く住み、下弁はその郡治である<ref>{{Cite wikisource|wslink=華陽國志/卷二|title=『華陽国志』巻2漢中志|wslanguage=zh}}</ref>。沮道は下弁と沮県を結ぶ幹線であり{{sfn|宋|2022b|pp=102-103}}、下弁から東南に伸びる<ref>孫啓祥「蜀道与三国」『襄樊学院学報』第1期、2009年、59–66、p. 63。</ref>。県内でも異民族の居住する場所は「道」と呼ばれる{{sfnm|関尾|2023|1p=166|馬|2022|2pp=35-36}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷118#縣|title=『続漢書』巻28百官志五|wslanguage=zh|quote=凡縣主蠻夷曰道。}}</ref>。}}を経て{{sfn|宋|2023|p=30}}、呉蘭・雷銅は[[陰平郡|陰平]]から北上して[[成県|下弁]]へと進出した{{sfn|宋|2023|p=30}}<ref name="陰平">[[常璩]]撰、任乃強校注『華陽国志校補図注』上海古籍出版社、1987年、p. 108。</ref>{{efn|宋傑は任乃強の説を踏まえ、沮道経由・陰平経由の2方向からの進軍行路を提示している{{sfn|宋|2023|p=30}}。<!-- 「西路蜀军的行进路线,任乃强认为是从阴平北赴下辨。“蜀先主于未取汉中前,已遣雷铜、吴兰先入武都,又以张飞、马超屯固山。则其取道必自阴平三道。”笔者按:任氏所言“阴平三道”,即阴平、甸氐、刚氐道,其说部分有误。[...]张飞、马超所部不是从阴平北上,而是自“沮道”行至下辨。」(宋 2023:30)。 -->}}。前者においては、氐族の雷定ら7部族1万落余りが呼応した<ref name="yangfu" />{{sfnm|関尾|2023|1p=175|馬|2022|2p=38}}。これに応じて、曹操は[[曹洪]]・[[曹休]]・[[曹真]]を派遣した{{sfnm|梁|2015|1p=81|宋|2023|2p=30}}<ref>『三国志』巻9曹休伝・曹真伝</ref>{{efn|曹休・曹真は精鋭部隊の[[虎豹騎]]を率いている{{sfn|宋|2023|p=30}}。宋傑はこの派兵を、下弁周辺の動向を曹操が重くみた結果だとする{{sfn|宋|2022b|p=109}}。}}。固山{{efn|固山の位置については、下弁の北部(甘粛省[[成県]]北部)<ref>{{仮リンク|謝鐘英|zh|謝鐘英}}[https://ctext.org/wiki.pl?if=en&chapter=2327766#p165 『三国疆域志補注』巻10]. 中国哲学書電子化計画. 2024年8月19日閲覧, "劉備遣吳蘭屯下辨,太祖遣曹洪征之,備遣張飛屯固山,欲斷軍後。鍾英按:固山當在今成縣北。"</ref>あるいは東南部(成県東南部)<ref>{{Cite wikisource|wslink=讀史方輿紀要/卷五十九|author=[[顧祖禹]]|title=『読史方輿紀要』巻59|wslanguage=zh|quote=固山,在{{interp|成}}縣東南。先主取漢中,使張飛屯下辨,軍於固山。即此矣。}}</ref>の2説がある。宋傑は前者をとる{{sfn|宋|2023|p=30}}。}}に駐屯して曹洪らの退路を断とうとする張飛の動きに対し{{sfn|宋|2023|p=30}}<ref name="陰平" />、それを陽動と判断した曹休は、下弁にいる呉蘭を攻撃して撃破した{{sfn|宋|2023|pp=30-31}}。建安23年([[218年]])3月、陰平氐の[[強端]]が蜀に引き返す呉蘭を殺し、馬超は張飛ともども漢中に退却した<ref name="wudi" />{{sfnm|梁|2015|1p=81|宋|2023|2p=31}}{{efn|宋傑は、馬超らは曹洪軍の東進を引き続き妨害したとしており{{sfn|宋|2023|p=31}}、また曹洪らの援軍が夏侯淵のいる前線に到達するのを防ぎ、劉備ら主力軍の漢中進出を援護したという点において、張飛・馬超の作戦目的は達成されたと見なしている{{sfn|宋|2022b|pp=109-110}}。}}。建安24年([[219年]])1月、夏侯淵の敗死に伴って劉備が漢中を獲得すると、その北進に従って武都氐が関中を圧迫するのを恐れた曹操は、張既・楊阜に命じ、武都氐を京兆・扶風・天水へ移住させた<ref name="yangfu" /><ref name="zhangji" />{{sfnm|関尾|2023|1pp=176-177|梁|2015|2p=82|劉|2015|3p=127|宋|2022b|4p=110}}。馬超や劉備などの反曹操勢力と結ぶ可能性を断つ目的から、氐族はかくして離郷を余儀なくされた{{sfn|関尾|2023|p=180}}。


建安24年([[219年]])7月、劉備が漢中王を称し、馬超は[[左将軍]]・[[節刀#斧鉞|仮節]]となった<ref name="machao" />{{sfnm|易|2009|1p=146|de Crespigny|2007|2p=639}}{{efn|『華陽国志』には「關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,皆假節鉞」とあり、関羽だけでなく張飛・馬超にも節鉞が仮されている<ref name="guanyu" /><ref name="huayang">{{Cite wikisource|wslink=華陽國志/卷六|title=『華陽国志』巻6劉先主志|wslanguage=zh}}</ref>。いずれにせよ、馬超は関羽・張飛と同列に扱われた{{sfn|張|2014|p=113}}。}}。馬超は賓客のような立場にあった{{sfnm|並木|2010|1p=18|単|2018|2p=108}}。劉備を漢中王に推戴する上表文において、馬超は群臣たちの筆頭に挙がった<ref name="xianzhu" />{{sfnm|単|2018|1p=108|方|2000|2p=254|王|2000|3p=19|朱|2015|4p=47}}。劉備は建安3年([[198年]])に左将軍を拝命して以来、敬称として左将軍と呼ばれることが多かった{{sfn|単|2018|p=107}}。漢中王を称するにあたって劉備は左将軍を辞したが{{sfn|単|2018|p=108}}、その後任としての馬超の抜擢は、劉備が馬超を礼遇したものだといえる{{sfnm|朱|2015|1p=47|朱・呂|2007|2p=110}}。
策命に曰く、「朕(劉備)は不徳を以て至尊(天子)を継ぎ、宗廟を奉承した。曹操父子は代々その罪を重ね、朕は惨怛として、憂慮すること疾首(頭痛)のごとくである。海内(天下)は怨み憤り、本源に帰らんとし、氐羌は順服するに至り、[[葷粥|獯粥]]も義を慕っている。貴君の信義は北方の地において著しく、その威武もまた明らかである。これを以て貴君に委任する。虓虎(吼え猛る虎)のごとき勇を顕し、万里を統べ、民の苦難を救うのだ。国朝の薫化を宣示し、遠近を安撫して保全し、粛然と慎んで賞罰を行い、かくして漢の祐福を篤くし、天下に対えよ」<ref name="machao"></ref>。


建安25年([[220年]])1月、曹操が死去し<ref name="wudi" />{{sfn|de Crespigny|2010|p=438}}、[[黄初]]元年(同年)10月、子の[[曹丕]]が献帝から[[禅譲]]を受けて即位した<ref>『三国志』巻2文帝紀</ref>{{sfn|de Crespigny|2010|p=450}}。
章武2年([[222年]])に47歳{{efn|これは[[数え年]]で計算した年齢であるため、[[満年齢]]で計算した場合、誕生日を迎えていれば46歳である。}}で亡くなり、子の馬承が後を嗣いだ。馬超は没する間際、「臣(わたくし)の一門宗族200人余りは孟徳(曹操)にあらかた殺されてしまい、ただ従弟の馬岱が残るのみです。途絶えんとしている宗家の祭祀を継承する者として、彼を陛下に託しますこと、くれぐれもよろしくお願いいたします。余言はございません」と劉備に上疏している<ref name="machao"></ref>。


[[章武]]元年([[221年]])4月、劉備が帝位を称した<ref name="xianzhu" />。馬超は[[驃騎将軍]]・涼州牧となり、斄郷侯に封じられた{{sfn|de Crespigny|2007|p=639}}<ref name="machao" />{{efn|斄県は右扶風に属し、後に[[武功県]]に改称<ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷028上|title=『漢書』巻28地理志上|wslanguage=zh}}</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷72#董卓|title=『後漢書』巻72董卓伝李賢注|wslanguage=zh|quote=斄,縣,故城在今雍州武功縣。字或作「邰」,音台。}}</ref>。『[[説文解字]]』、『後漢書』[[李賢_(唐)|李賢]]注、『[[通典]]』、『[[集韻]]』、『康熙字典』によれば、「斄」は「邰」と同字で、音は「台(たい)」である<ref>[https://ctext.org/shuo-wen-jie-zi/yi-bu2/zh?searchu=%E6%96%84&searchmode=showall#n30390 『説文解字』]. 中国哲学書電子化計画. 2024年11月11日閲覧, "邰:炎帝之後,姜姓所封,周棄外家國。从邑台聲。右扶風斄縣是也。"</ref><ref>[https://ctext.org/text.pl?node=562186&if=gb&searchu=%E6%96%84&searchmode=showall#n562205 『通典』州郡三]. 中国哲学書電子化計画. 2024年11月11日閲覧, "武功 本漢舊縣。周后稷封於斄,即此。斄音台。"</ref><ref>[https://www.kangxizidian.com/v2/index2.php?page=2274&sword=%E6%96%84 “斄”], ''康熙字典網上版'', 2024年11月11日閲覧, "《集韻》湯來切,同邰。《前漢·地理志》右扶風斄,周后稷所封。《註》同邰。◎按字彙又音離,訓斄牛,非是。"</ref>。日本では「たい」<ref>司馬遷『史記4 世家下』小竹文夫、小竹武夫訳、ちくま学芸文庫、1995年、p. 194。</ref><ref>{{Cite book|和書|author=常璩|others=中林史朗訳|title=完訳 華陽国志|publisher=志学社|date=2023|isbn=9784909868091|page=152}}</ref>と「り」{{sfn|渡邉・仙石|2019|p=268}}<ref>[[大谷光男]]「後漢・三国時代の都郷侯・都亭侯について」『東洋研究』117号、1995年、23–53、p. 40。{{doi|10.11501/7912861}}。</ref>の2種類の読みが見られる。}}。また[[常璩]]『[[華陽国志]]』によれば、北方において臨沮(武都郡沮県{{sfn|張|2014|p=114}})の監督を担った{{sfn|張|2014|p=114}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=華陽國志/卷六|title=『華陽国志』巻6劉先主志|wslanguage=zh|quote=馬超{{interp|為}}驃騎將軍,領涼州刺史,封斄鄉侯,北督臨沮{{interp|...}}。}}</ref>。馬超には以下のような策命が与えられた。
[[景耀]]3年([[260年]])9月、威侯の諡号を追贈された<ref name="machao"></ref><ref>『三国志』巻33後主伝</ref>{{efn|諡における「威」は「勇猛で剛強、強烈である。剛毅で信ずるにふさわしい」ことを意味する<ref>{{Cite wikisource|wslink=逸周書/卷六#諡法|title= 『逸周書』巻6|wslanguage=zh|quote=猛以剛果曰威。猛以彊果曰威。彊毅信正曰威。}}</ref>。}}。
{{quotation|朕(劉備)は不徳を以て至尊([[天子]]<ref>{{Cite Kotobank|word=至尊|encyclopedia=精選版 日本国語大辞典|hash=-520218#w-1989476|accessdate=2024-10-05}}</ref>)を継ぎ、宗廟を奉承した。曹操父子は代々その罪を重ねており、朕は惨怛として、憂慮すること疾首(頭痛{{sfn|渡邉・仙石|2019|p=267}})のごとくである。海内(天下{{sfn|渡邉・仙石|2019|p=267}})は怨み憤り、〔漢の〕正統に帰り本(もと)に反(かえ)らんとして、氐羌は順服し、[[葷粥|獯粥]]も義を慕うに至っている。君の信義は北方の地において著しく、その威武もまた明らかなるからこそ、〔驃騎将軍の〕任務を委ねて君に授けるのである。虓虎(吼え猛る虎{{sfn|渡邉・仙石|2019|p=267}}<ref name="xiaohu1" />)のごとき勇を顕して{{efn|「虓虎」の出典は『詩経』大雅「常武」{{sfn|渡邉・仙石|2019|p=267}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=詩經/常武|title=『詩経』大雅「常武」|wslanguage=zh|quote=進厥虎臣,闞如虓虎。}}</ref>。「虓虎」が例えるものについては、「馬超の武勇」とする解釈と<ref name="xiaohu1">陳寿著、裴松之注『正史三国志 5』井波律子訳、ちくま学芸文庫、1993年、pp. 181–182。</ref><ref name="xiaohu2">竹内真彦「呂布「最強」への道程」『ユリイカ』 第51巻、第9号、青土社、2019年、66–72、p. 69。</ref>、「勇猛な兵」とする解釈がある{{sfn|渡邉・仙石|2019|p=267}}。なお「虓虎」は呂布の武勇を称える際にも用いられている<ref name="xiaohu2" /><ref>『三国志』巻7評</ref>。}}、万里を統べ、民の苦難を尋ね求めるのだ{{efn|原文は「兼董萬里,求民之瘼」。『[[詩経]]』大雅「皇矣」には「監觀四方,求民之莫」とある<ref>{{Cite wikisource|wslink=詩經/皇矣|title=『詩経』大雅「皇矣」|wslanguage=zh}}</ref>。馬超伝のほか、『[[漢書]]』、[[王符]]『潜夫論』、『[[文選_(書物)|文選]]』[[李善 (唐)|李善]]注が「莫(定まる)」を「瘼(病む)」に作る<ref>{{Cite wikisource|wslink=潛夫論/卷四|title=『潜夫論』巻4班禄|wslanguage=zh|quote=詩云:「皇矣上帝,臨下以赫,監觀四方,求民之瘼。惟此二國,其政不獲;惟此四國,爰究爰度。上帝指之,憎其式惡,乃眷西顧,此惟與度。」蓋此言也,言夏殷二國之政不得,乃用奢誇廓大。上帝憎之,更求民之瘼,聖人與天下四國究度而使居之也。}}</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=昭明文選/卷59#齊故安陸昭王碑文|『文選』巻59「齊故安陸昭王碑文」李善注|wslanguage=zh|quote=毛詩曰:皇矣上帝,臨下有赫;鑒觀四方,求民之瘼。班固漢書引詩而為此瘼。爾雅曰:瘼,病也。}}</ref><ref>馬瑞辰[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=341298#p112 『毛詩伝箋通釈』巻24]</ref><ref>王符著、汪継培箋、{{仮リンク|彭鐸|zh|彭铎}}校正[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=850062&searchu=求民之瘼 『潜夫論箋校正』]. 中華書局、1979年。中国哲学書電子化計画より2024年8月19日閲覧, "「瘼」今詩作「莫」。蔡中郎集和熹鄧后謚議云:「參圖考表,求人之瘼。」蜀志馬超傳云:「兼董萬里,求民之瘼。」晉書武帝紀云:「皇天鑒下,求人之瘼。」後漢書循吏傳序:「廣求民瘼。」蓋本三家詩。此文當本作「瘼」,後人或據毛詩改之。孫侍御云:『文選齊安陸昭王碑文云:「慮深求瘼」,李善注云:「詩:求民之莫。班固漢書引詩而為此瘼,爾雅曰:瘼,病也。」今漢書敘傳亦作「莫」,顏師古訓「莫」為「定」,與毛、鄭同,宋書符瑞志引漢書作「瘼」。』○鐸按:馬瑞辰亦謂匡謬正俗「不知民瘼」,義本三家詩。「瘼」蓋今「毛病」字。陳喬樅魯詩遺說考十五云:『王符用魯詩,引詩當同蔡邕作「瘼」字,下文「更求民之瘼」,可證也。』"</ref>。}}。国朝の教化を宣示し、遠近を安撫して保全し、粛然と慎んで賞罰を行い、かくて漢の祐福を篤くして、天下に対(こた)えよ<ref name="machao" /><ref>{{Harvcoltxt|渡邉・仙石|2019|pp=266, 268}}を参照して訳文を作成。</ref>。}}
西方の異民族との連携は、諸葛亮の説いた[[隆中対]]における要点の一つである{{sfnm|白|2002|1pp=2-3, 10|古|2019|2p=60|苑|2017|3p=54}}。馬超は[[蜀漢]]において、北方(涼州)での働きと西方の異民族に対する影響力に嘱されていた{{sfnm|白|2002|1p=10|白|2013|2p=163|張|2014|3pp=114, 120}}。その所期は策命からもうかがうことができる{{sfnm|白|2002|1p=10|古|2019|2pp=60-61|黄|1992|3p=66|劉|2009|4p=25|王|2000|5p=19|張|2008|6pp=80-81|張|2014|7p=116|朱・呂|2007|8p=110}}。また非保有の土地を封じる遥領という制度によって、封与者は被封与者の地位を高めるだけでなく、自身の統治が及ぶ範囲を表せたが、蜀漢政権の場合はそれに加えて、自らの正統性を示すことができた{{sfn|易|2009|pp=211-212}}。蜀漢における涼州刺史(牧)は、遥領ではあれど依然として重役だったと見なせようが{{sfnm|劉|2009|1pp=26-27|苑|2017|2p=54}}、さらに、益州以外の地域で州牧を務めたのが蜀漢では馬超のみだったことは、彼に対する厚遇の一例とも捉えられる{{sfn|並木|2010|p=28}}。

章武2年([[222年]])、馬超は47歳{{efn|これは[[数え年]]で計算した年齢であるため、[[満年齢]]で計算した場合、誕生日を迎えていれば46歳。}}で没した<ref name="machao" />。死の間際、馬超は劉備に上疏した。
{{quotation|臣(わたくし)の一門宗族200人余りは、孟徳(曹操)に誅されてほとんど尽き、ただ従弟の[[馬岱]]が残るのみであり、〔彼が〕衰微せし宗家の祭祀を継ぐ者となるよう、深甚に陛下へお託しいたします。余言はございません<ref name="machao" />{{sfnm|張|2010|1p=34|朱|2015|2p=47}}<ref>{{Harvcoltxt|渡邉・仙石|2019|p=268}}を参照して訳文を作成。</ref>。}}
子の馬承が後を嗣いだ<ref name="machao" />{{sfnm|林|2020|1p=147|de Crespigny|2007|2p=640}}。馬岱は平北将軍まで昇進し、陳倉侯に封じられた。馬超の娘は、後に劉備の息子である[[安平郡|安平]]王[[劉理]]に嫁いだ<ref name="machao" />{{sfnm|林|2020|1p=147|王|2000|2p=19}}{{efn|劉理が安平王となったのは[[建興_(蜀)|建興]]8年([[230年]])<ref>『三国志』巻34劉理伝</ref>。}}。これらの措置も馬超への優遇を示すという{{sfn|王|2000|p=19}}。

[[景耀]]3年([[260年]])9月、威侯の[[諡号]]を追贈された<ref name="machao" />{{sfnm|易|2009|1p=218|林|2020|2p=147}}<ref>『三国志』巻33後主伝</ref>{{efn|諡における「威」は「勇猛で剛強、強烈である。剛毅で信ずるにふさわしい」ことを意味する<ref>{{Cite wikisource|wslink=逸周書/卷六#諡法|title= 『逸周書』巻6|wslanguage=zh|quote=猛以剛果曰威。猛以彊果曰威。彊毅信正曰威。}}</ref>。}}。


== 逸話 ==
== 逸話 ==
=== 彭羕の放言 ===
[[彭羕]]は劉備に重用されていたが、その野心を警戒した諸葛亮の進言により、[[江陽郡|江陽]]太守へと左遷されることになった。内心不愉快に思った彭羕は、左遷される前に馬超を訪ねた。馬超が「卿(きみ)の才能はずばぬけており、主公(劉備)もたいへん重用なさって、卿は孔明(諸葛亮)や孝直([[法正]])にも引けを取らぬとおっしゃっていたのに、地方の小郡に任じられるとなっては、期待外れではないのかな」と問うと、彭羕は劉備を「老革」{{efn|裴松之は、[[揚雄]]『[[方言_(辞典)|方言]]』および[[郭璞]]の注を引き、「老兵」の意とする<ref name="pengyang">『三国志』巻40彭羕伝</ref>。}}と呼んで罵り、「卿が外を執り、私が内を執れば、天下は思いのままである」と馬超に言った。流離の身で帰順し、常に危懼の念を抱いていた馬超はこの言葉に驚駭し、黙して答えなかった。彭羕の帰宅後、馬超がその発言を具述して上表した結果、彭羕は投獄された。
益州の名士である[[彭羕]]は、傲慢で軽率な性格だった{{sfn|易|2009|p=460}}。はじめは劉備に重用されていたが、その野心を警戒した諸葛亮の進言により、[[江陽郡|江陽]]太守へと左遷されることになった{{sfnm|単|2018|1p=113|de Crespigny|2007|2p=695}}。内心不愉快に思った彭羕は、左遷される前に馬超を訪ねた。馬超が「卿の才能はずばぬけており、主公(劉備)もたいへん重用なさっていて、孔明(諸葛亮)や孝直([[法正]])にも引けを取らぬと思っていたのですが、地方の小郡に任じられるとなっては、本望から外れるのではないでしょうか」と問うと、彭羕は劉備を「老革(老いぼれ)」と呼んで罵り{{sfn|易|2009|p=460}}、「卿が外に〔軍を〕執り、私が内に〔謀を〕執れば、天下は定まろうものです」と馬超に言った{{sfnm|易|2009|1p=460|朱|2015|2p=47|de Crespigny|2007|3p=695}}。流離の身で帰順し、常に危懼の念を抱いていた馬超はこの言葉に驚愕し、黙して答えなかった{{sfn|朱|2015|p=47}}。彭羕の帰宅後、馬超がその発言を具述して報告した結果、彭羕は投獄された{{sfnm|朱|2015|1p=47|de Crespigny|2007|2p=695}}。罪状は謀反扇動と政権転覆である{{sfn|易|2009|p=460}}。諸葛亮は名士に対し同情的で、手厚くもてなしていたが、その言動が政権に悪影響を及ぼす場合は厳しく対処した{{sfn|易|2009|p=459}}。彭羕は獄中から諸葛亮へ弁明の手紙を送り、「老革」は酒席での失言であると弁解して{{sfn|易|2009|p=460}}、「内だの外だのと言ったのは、孟起(馬超)に北方で功を立ててもらい、主公のために尽力して、共に曹操を討とうというだけの話であり、他意はありません{{sfn|易|2009|p=460}}{{efn|策命と同様、彭羕の発言には涼州における馬超の働きを見込む向きがある{{sfnm|黄|1992|1p=66|張|2014|2p=116}}。}}。孟起の告げたことは事実ですが、彼は言葉の真意を汲み取れておらず、心を痛めるばかりです」と述べたが、最後には処刑された{{sfnm|単|2018|1p=113|de Crespigny|2007|2p=695}}<ref>『三国志』巻40彭羕伝</ref>。


=== 関張の牽制 ===
獄中から諸葛亮に送った弁明の手紙で、彭羕は「内だの外だのと言ったのは、孟起に北方で功を立ててもらい、主公に忠誠を尽くして、共に曹操を討とうというだけの話であり、他意はありません{{efn|この彭羕の発言および策命から、馬超は蜀において北方(涼州)での働きに嘱されていたと判断できる。同じく策命での氐・羌・[[葷粥|獯粥]]への言及より、中国西北部の異民族に対する影響力への期待も認められる。}}。孟起の告げたことは事実ですが、彼は言葉の真意を汲み取れておらず、なんとも心の痛むことであります」と述べているが、最後には処刑された<ref name="pengyang"></ref>。
『山陽公載記』によれば、馬超は、劉備からの待遇が厚いのをいいことに、常々劉備を字で呼んでいたため、怒った関羽が馬超の殺害を申し出た{{efn|目上の人間は官職名で呼ぶのが礼儀であり、字で呼ぶのは無礼である。}}。劉備が「彼は切羽詰まって私のもとに来たのに、字で呼んだからといって殺したら、天下に示しがつかないだろう」と取り成すと、張飛が言うには「ならば、礼儀というものを見せてやろう」。翌日の宴会で、関羽と張飛が彼らの席におらず、刀を携えて劉備の側に起立しているのを見た馬超は驚き、字呼びをやめた。その翌日、「私は今、敗北の所以を悟った。主人の字を呼んだがために、あやうく関羽と張飛に殺されるところであった」と嘆じ、それ以降は劉備に敬意を表して仕えるようになったという<ref name="shanyanggong" />{{sfn|井波|2007a|pp=208-209}}。


しかし『三国志』の注釈者である[[裴松之]]は、この逸話について論難している。
『山陽公載記』によると、馬超は、劉備からの待遇が厚いのをいいことに常々劉備の字を呼び捨てていたため、怒った関羽が馬超の殺害を申し出た{{efn|目上の人間は官職名で呼ぶのが礼儀であり、字で呼ぶのは無礼である。}}。劉備が「彼は切羽詰まって私のもとに来たのに、字で呼んだからといって殺したら、天下に申し訳が立たないだろう」と取り成すと、張飛が言うには「ならば、礼儀というものを見せてやろう」。翌日の宴会で、関羽と張飛が彼らの席におらず、刀を携えて劉備の側に起立しているのを見た馬超は驚き、字呼びをやめた。その翌日、「私は今、敗北の所以を悟った。主人の字を呼んだがために、あやうく関羽と張飛に殺されるところであった」と歎じ、それ以降は劉備に敬意を表して仕えるようになったという。
* 窮していたところで劉備に帰順し爵位も授かった(臣従を受け入れた)馬超が、主君を字で呼ぶほど傲慢に振る舞うとは考えられない。
* 入蜀時には荊州の守りについていた関羽が益州に行ったことはなく、それゆえ諸葛亮に手紙を送ったというのに、関羽が益州にいて張飛と共に立っていることなどあり得ない。
* 人はある行為をしようとする際、その可否を承知した上で実行するのだから、馬超が仮に劉備を字で呼んでいたならば、そうしてもよいと判断した謂れがある。
* 関羽と張飛が武装して直立しているのを見ただけで、関羽の建言を知らない馬超が事態を悟るのはおかしい。
以上の4つの観点から、裴松之は逸話の信憑性を強く疑問視している<ref name="shanyanggong" />{{sfn|張|2010|p=37}}。この馬超の逸話は、現代においても史料的価値には疑いの余地があるとされる一方<ref>魏殿文「蜀漢将領東征探微」『文史哲』第5期、1997年、47–54、p. 52。{{doi|10.16346/j.cnki.37-1101/c.1997.05.018}}</ref>、人物描写をはじめとするその文学性を評価されている<ref>張金地「三国志裴注引《山陽公載記》考述」『河南科技大学学報(社会科学版)』第4期、2010年、21–24、p. 23。</ref>。


== 背景 ==
しかし、[[裴松之]]が論難することには、窮していたところで劉備に帰順し爵位も授かった(すなわち臣従を受け入れた)馬超が、主君を字で呼ぶほど傲慢に振る舞うとは考えられない。入蜀時には[[荊州]]の守りについていた関羽が益州に行ったことはなく、それゆえ諸葛亮に手紙を送ったというのに、(関羽が益州にいて)張飛とともに立っていることなどあり得ない。また、人はある行為をしようとする際、その可否を承知した上で実行するのだから、馬超が仮に劉備を字で呼んでいたならば、そうしてもよいと判断した謂れがある。そして、関羽と張飛が武装して直立しているのを見ただけで、関羽の建言を知らない馬超が事態を悟るのはおかしい。以上の4つの反論を根拠に、裴松之はこの逸話の信憑性を強く疑問視している<ref name="shanyang"></ref>。
涼州と呼ばれる地域は本来、古来より続く羌族の居住地であり{{sfnm|古|2019|1p=56|周|2016|2p=6}}、[[紀元前3世紀]]に[[匈奴]]が[[河西回廊]]に侵入して以来およそ80年間、匈奴の支配下にあった{{sfn|藤田|2009|p=182}}。中国の版図に入ったのは[[前漢]]の[[武帝_(漢)|武帝]]の時代、[[元狩]]2年([[紀元前121年]])においてである{{sfnm|朱|2015|1p=49|Yü|1986|2pp=391}}。この併合は、匈奴を河西および羌族から切り離すのを目的とした対匈奴戦争の副次的事業であり{{sfnm|藤田|2009|1p=183|Yü|1986|2pp=391, 424}}、軍事拠点の建設および統治制度の維持がその支配方針となった{{sfn|藤田|2009|p=183}}。元狩4年([[紀元前119年]])の徙民によって涼州における漢族の割合は増加し{{sfn|楊|2000|p=105}}、また[[元鼎]]6年([[紀元前111年]])に漢族が大規模に移住したことで、漢・羌両族間の交流は必然的に生じた{{sfn|古|2019|p=57}}。

羌族の風習では、寡婦となった継母や兄嫁を娶り、君臣関係を築かずに強者を立てる{{sfn|王|2008|pp=20-21}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷87|title=『後漢書』巻87西羌伝|wslanguage=zh|quote=父沒則妻後母,兄亡則納釐嫂,故國無鰥寡,種類繁織。不立君臣,無相長一,強則分種爲酋豪,弱則爲人附落,更相抄暴,以力爲雄。}}</ref>。さらに、父母が死んでも泣くのを恥とするといわれた<ref>周毓華「羌族歴史与習俗研究」『西藏民族学院学報(哲学社会科学版)』第5期、2014年、84–87、p. 86。</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷16#鄧訓|title=『後漢書』巻16鄧訓伝|wslanguage=zh|quote=戎俗,父母死,恥悲泣,皆騎馬歌呼。}}</ref>。匈奴侵入の際、羌族は文化的親和性から漢族よりも匈奴に近づいたというが{{sfn|Yü|1986|p=424}}、匈奴は孝心に乏しいとされていた{{sfn|朱|2015|p=49}}。また河西回廊に残留した[[月氏]]は匈奴や羌族と同化し{{sfnm|古|2019|1p=57|朱・呂|2007|2p=108}}<ref>趙向群「魏晋五涼時期河西民族融合中的羌化趨勢」『西北師大学報(社会科学版)』第1期、1996年、81–84, 101、pp. 81–82。</ref>、加えて他の北方遊牧民社会も羌族と似通った風習を持っていたようである{{sfnm|伊瀬|1983|1p=92|朱|2015|2p=49}}。以上に挙げた羌族をはじめとする非漢族の風習は、主要な人間関係とされる[[五倫]]や、父母の死に対する三年の喪、哭礼といった服喪儀礼などを是とする[[中原]]の[[儒教]]倫理にはそぐわない{{sfn|朱|2015|p=49}}。地域・気質・文化などに見出されたこれらの差異は、[[華夏]]が[[夷狄]]を下位に置く根拠となっていた{{sfn|楊|2023|p=95}}。漢族が羌族に対し軍事的優勢を取れるようになるにつれ、この蔑視は強まった{{sfn|渡邉|2015|pp=7-8}}。

[[File:Daxia-River-Valley-panorama-5902+5903+5904+5905+5906.jpg|thumb|500px|黄土高原([[甘粛省]][[臨夏回族自治州]][[臨夏県]]北東部)]]
後漢王朝における涼州では、漢族と諸羌族との衝突が頻発していた{{sfnm|李|2022|1p=28|趙|1994|2pp=69-70}}。涼州は、農耕に適した[[黄土高原]]や[[オアシス]]、河谷平地に加え、遊牧に適した草原地帯も有する、農耕文明と游牧文明の混じり合う土地だった{{sfn|王|2008|p=16}}。前漢時代、農牧に従事する羌族の所有地を漢族が奪い、山岳地帯など他地域への移動を強いたことに由来する両族間の軋轢は{{sfn|伊瀬|1983|pp=98-100}}、根本的解決のなされないまま後漢に引き継がれた{{sfn|薛|2017|p=47}}。[[余英時]]は、動乱の誘因を漢の地方官吏による失政と搾取とする主流の学説を認めつつも、さらなる早期要因として、羌族の人口爆発{{efn|武帝以降、匈奴の衰退に伴い羌族は発展を遂げ、羌族の通婚慣習も相まって、人口増加へと繋がった{{sfn|王|2008|p=20}}。人口圧力は往々にして外部への拡張を促す原動力となった{{sfn|王|2008|p=20}}。}}および漢人の「蛮夷化」(後述)という趨勢を指摘している{{sfn|Yü|1986|pp=432-434}}。後漢において、羌族は漢族にとり異民族の中でも最たる脅威であった{{sfnm|渡邉|2015|1p=1|王|2008|2p=15}}。羌族への武力行使が連年実施され({{仮リンク|漢羌戦争|zh|汉羌战争}}){{sfn|王|2008|p=19}}、その戦費は莫大なものとなった{{sfnm|森本|2012a|1p=149|古|2019|2p=57|薛|2008|3p=73|薛|2017|4p=49}}。羌族の監督を担う護羌校尉を設置するなどといった融和的な政策も講じられたが、管理不行届が生んだ事実誤認や度重なる官員交代による政策方針の不統一、さらには羌族の民族性への無理解により、効果的統治はなされず{{sfn|王|2008|p=21}}<ref>朱映占、孫雪萍「東漢時期西部辺疆漢羌民族関系述論」『思想戦線』第2期、2019年、21–26、pp. 25–26。</ref>、かえって対立を悪化させた{{sfn|薛|2017|p=47}}。

後漢中期には羌族の動乱が三輔にまで及ぶ事態となり{{sfn|Yü|1967|p=75}}{{efn|馬援が羌族を三輔に移動させたのを皮切りに、羌族は居住地から切り離されては三輔などの中国内地に徙民され、当地での使役を経て不満を募らせていった{{sfn|渡邉|2015|pp=3-4}}。また羌族および他の非漢族の関中への大規模な徙民は、民族間の文化融合には益したとも言えるが、さらに多くの漢族の士人を遠ざけることにも繋がった{{sfn|葛|1992|p=53}}。}}、涼州・三輔の人口流出が進んだ{{sfnm|葛|1992|1pp=52-53|Yü|1967|2p=75}}。[[2世紀]]半ばにおける、河西回廊沿いの地域を除いた涼州東部の戸籍登録人口は、前漢末期の460万人超から、その1割にも満たない35万人弱まで減少した<ref>{{Cite book|last=de Crespigny|first=Rafe|title=Fire over Luoyang: A History of the Later Han Dynasty 23-220 AD|publisher=Brill|date=2016|page=251}}. {{isbn|9789004325203}}.</ref>。羌族は地域区分に則り、隴西・漢陽・[[金城郡|金城]](外郡)における西羌、安定・[[北地郡|北地]]・[[上郡]]・[[西河郡|西河]](内郡、中国内部)における東羌という区別がなされていたが{{sfnm|馬|2022|1pp=118-119|Yü|1967|2pp=67-68}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=資治通鑒_(胡三省音注)/卷052|title=『資治通鑑』巻52永和六年胡注|wslanguage=zh|quote=羌居安定、北地、上郡、西河者,謂之東羌;居隴西、漢陽,延及金城塞外者,謂之西羌。}}</ref>、後漢中期以降の混乱によって涼州は「外域」に等しい地域と化し、そこへ移された羌族も「外側」に属する存在となった{{sfn|Yü|1967|pp=75-76}}。長期間の戦乱による涼州の過疎化は豪族の没落や人士の排出数減少を招き、朝廷における涼州勢力の政治的影響力は弱まっていた{{sfn|王|2007|pp=8-9}}。またいずれも不受理に終わったとはいえ、統制の難航から、華夷の交流を地理的・文化的に断つことで「羌患」を免れようとする涼州放棄論も複数回にわたり唱えられた{{sfnm|渡邉|2015|1p=1|薛|2008|2pp=73-74|薛|2017|3p=49|楊|2023|4pp=91-93|趙|1994|5p=71|Yü|1967|6p=75}}{{efn|計3回にわたった涼州放棄論の立案者のうち、{{仮リンク|龐参|zh|庞参}}・[[崔烈]]は涼州以外の地域出身者である(一人は名前・身元ともに不明{{sfn|渡邉|2015|p=2}})。辺境の涼州勢力と政治的中心部の関東勢力は、長期間にわたって対立していた{{sfn|Yü|1986|p=434}}。ただし、東と西、市民と儒者(知識階級)、軍事と内政といった単純な対立構造のみを通してこの問題を解釈することを奨励しない声もある<ref>Habberstad, Luke. (2021). "The Collapse of China’s Later Han Dynasty, 25–220 CE: The Northwest Borderlands and the Edge of Empire, written by Wicky W. K. Tse". ''Journal of Chinese Military History'' '''10''' (1): 73–76, p. 76. {{doi|10.1163/22127453-12341359}}.</ref>。}}。

隴右に割拠する群雄が台頭した起因には、羌族の内徙を通しての文化的・社会的変容{{sfn|Yü|1986|p=435}}および軍権掌握がある{{sfnm|楊|2000|1p=107|趙|1994|2p=71}}。後漢初期において、司隷・涼州に本貫を置き羌族対策に深く関わった馬援などの[[外戚]]勢力は、討伐した羌族を内地に移住させて兵力・[[奴婢]]として運用し、自らの勢力を強めていた{{sfn|渡邉|2015|pp=2-3}}。反乱鎮圧に伴う強制移住により、関隴地区における羌族の人口は増加の一途をたどった{{sfnm|古|2019|1p=59|周|2016|2p=6|Yü|1986|3p=426}}。また関東諸将による対羌戦争での戦績は芳しくなかったが、朝廷は涼州勢力の席巻を恐れ、長らく起用していなかった{{sfnm|薛|2008|1p=73|楊|2000|2p=106}}。しかし[[元初]]2年([[115年]])から羌胡を中心とした涼州兵を導入し、次いで土地勘のある涼州の武将も起用するに至った{{sfnm|王|2007|1p=10|薛|2008|2pp=73-74|楊|2000|3pp=106-107}}。辺境である涼州において、地方官吏の内政や羌胡兵による軍隊編成の要請などといった朝廷発の政治現象の成否には、地元の有力者の承認や協力の有無が大きく影響した{{sfnm|関尾|2003|1p=4|薛|2017|2p=50|汪|2022|3pp=72-73}}。さらに言えば、西北地方で頭角を現すには、族的背景以上に個人的能力の有無が特に重要だったと考えられる{{sfn|飯田|2022|pp=117-118}}。朝廷と利害を共にした隴右の地方勢力は勢いを取り戻していった{{sfnm|薛|2017|1p=50|楊|2000|2p=107}}。

後漢後期の隴右勢力は官職の有無に関わらず、人格的な関係に基づいて非漢族と交流し、それに由来する軍事力を得た{{sfn|飯田|2022|pp=112-113}}。馬騰・馬超父子が関隴に割拠する一大勢力となったのは、辺境民族の支持を得たことが関係している{{sfn|趙|2019|p=52}}。隴右勢力は朝廷と異民族兵とを媒介する役割を担った{{sfn|飯田|2022|p=113}}。しかし異民族統御および軍事力提供の属人化により、異民族に対して影響力を持つ人物の存在は現地の漢族社会を動揺させるだけでなく、王朝からも危険視されかねなかった{{sfn|飯田|2022|pp=117-119}}。後漢初期の外戚勢力と同様、董卓や馬騰は羌族を鎮圧し私兵化することで頭角を現したが{{sfn|王|1991|pp=72-73}}、董卓の兵権を弱めようとした[[霊帝_(漢)|霊帝]]に対し、董卓がそれを回避する口実として羌胡兵の言い分や性格を挙げたことや{{sfnm|渡邉|2015|1pp=10-11|楊|2000|2p=107}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷72#董卓|title=『後漢書』巻72董卓伝|wslanguage=zh|quote={{interp|中平}}六年,徵{{interp|董}}卓為少府,不肯就,上書言:「所將湟中義從及秦胡兵皆詣臣曰:『牢直不畢,稟賜斷絕,妻子饑凍。』牽挽臣車,使不得行。羌胡敝腸狗態,臣不能禁止,輒將順安慰。增異復上。」}}</ref>、韓遂たちが曹操と会談した際にその様子を見ようとひしめく「秦胡」と呼ばれる人々{{sfn|白|2013|p=163}}<ref name="wudiws">『三国志』巻1武帝紀注引『魏書』</ref>{{efn|「秦胡」の定義について、少なくとも非漢族との関連については研究者の間でも見解の一致を見せているが、具体的に何を指すのかは様々に意見が分かれている{{sfnm|藤田|2009|1pp=185-186|朱・呂|2007|2p=108}}<ref>胡小鵬、安梅梅「“秦胡”研究評説」『敦煌研究』第1期、2005年、pp. 32–36。</ref><ref>王子今「説“秦胡”、“秦虜”」『中国辺疆史地研究』第1期、2019年、pp. 15–24。</ref>。}}、張郃を迎撃した際の馬超軍などが示すように{{sfn|古|2019|p=57}}、涼州軍閥はその兵力を羌族に依拠するところが非常に大きくなっていた{{sfnm|古|2019|1pp=57-58|李|2022|2p=28|楊|2000|3p=108|王|2000|4p=19|王|1991|5pp=72-73|周|2016|6p=6|朱|2015|7p=48}}。董卓・韓遂・馬超ら関隴諸将は、羌胡・群盗・軍閥入り乱れての武力衝突が絶え間なく生じる涼州で育ち、やがて関中を席巻したのである{{sfn|李|2022|p=28}}。

後漢末期の涼州軍閥は、董卓を筆頭に、行動規範や風俗の「羌胡化(羌化・[[胡]]化)」について多く論じられている{{sfnm|古|2019|1pp=60-61|李|2018|2pp=6-7|王|2000|3p=22|王|2007|4pp=9-10|Yü|1986|5pp=433-434}}。涼州の一郡である隴西は[[戦国時代_(中国)|戦国時代]]に[[秦]]によって置かれたが<ref>{{Cite wikisource|wslink=史記/卷110|title=『史記』巻110匈奴列伝|wslanguage=zh|quote=秦昭王時,義渠戎王與宣太后亂,有二子。宣太后詐而殺義渠戎王於甘泉,遂起兵伐殘義渠。於是秦有隴西、北地、上郡,築長城以拒胡。}}</ref>、その地域周辺の住民は、当時から漢代に至るまで性格や風俗が異民族に近いと認識されていた{{sfn|朱|2015|p=49}}<ref>王笑然、華開奇「再釈涼州与涼州兵」『社科縦横』、第12期、2007年、137–138, 143、pp. 138, 143。{{doi|10.16745/j.cnki.cn62-1110/c.2007.12.044}}</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=戰國策黃丕烈札記/魏/三#魏將與秦攻韓|title=『戦国策』巻24魏策三|wslanguage=zh|quote=秦與戎翟同俗,有虎狼之心,貪戾好利無信,不識禮義德行。茍有利焉,不顧親戚兄弟,若禽獸耳,此天下之所識也,非有所施厚積德也。}}</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷028下|『漢書』巻28地理志下|wslanguage=zh|quote=天水、隴西,山多林木,民以板為室屋。及安定、北地、上郡、西河,皆迫近戎狄,修習戰備,高上氣力,以射獵為先。{{interp|...}}孔子曰:「君子有勇而亡誼則為亂,小人有勇而亡誼則為盜。」故此數郡,民俗質木,不恥寇盜。}}</ref>。後漢時代になると、社会状況の悪化に伴い、社会階級の底辺層では生活を保持すべく漢・羌の結びつきが強まる傾向が生じた{{sfn|伊瀬|1983|p=117}}。後漢末期における異族交流の例証としては、先述した羌兵の編入のほか、羌族との通婚現象が挙げられる{{sfnm|古|2019|1pp=57-58|王・王|2007|2p=59}}。馬平が羌族の娘を娶ったのは、困窮した民衆には羌族と結婚する選択肢もあったことを示しており、胡漢交流の一形態として認められる{{sfnm|古|2019|1p=58|王・王|2007|2p=59}}。その子である馬騰は出自・環境において羌族と強い関わりを持ち{{sfn|王|2007|p=9}}、孫の馬超もまた非漢族と深く結びついていた{{sfnm|飯田|2022|1p=113|de Crespigny|2010|2p=305}}。涼州軍閥はその地域的異質性のみならず、異族交流を経て獲得した民族性、すなわち民族構成および文化面における非漢族性という特質をも備えていた{{sfn|王|1991|p=73}}。しかし漢人の「羌胡化」は中原の人々にとって歓迎すべき現象ではなく{{sfn|王|2007|p=10}}、董卓は「羌胡の種」と罵られ{{sfnm|楊|2000|1p=108|Yü|1986|2pp=433-434}}<ref>下見隆雄「儒教社会と母性——『後漢書』列女伝の研究(II)——」『広島大学文学部紀要』第53号、1993年、1–21、p. 3。</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷84|title=『後漢書』巻84皇甫規妻伝|wslanguage=zh|quote={{interp|董}}卓使傅奴侍者悉拔刀圍之,而謂曰:「孤之威教,欲令四海風靡,何有不行於一婦人乎!」{{interp|皇甫規}}妻知不免,乃立罵卓曰:「君羌胡之種,毒害天下猶未足邪!{{interp|...}}」}}</ref>、李傕は「辺鄙の人間で、夷狄の風習に染まっている」と蔑まれた{{sfnm|王|1991|1p=72|薛|2008|2p=72|朱|2015|3p=49}}<ref>陳勇「董卓進京述論」『中国史研究』第4期、1995年、109–121、p. 114。</ref><ref>『三国志』巻6董卓伝注引『献帝起居注』</ref>。また中平元年(184年)の涼州大乱の際、涼州刺史として赴任した扶風人の宋梟は「涼州は学に乏しい」と述べ{{sfnm|王|2007|1p=9|朱|2015|2p=49}}、人々に『[[孝経]]』を学ばせるべきだと主張したが{{sfn|森本|2012a|pp=156-157}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷58#蓋勳|title=『後漢書』巻58蓋勲伝|wslanguage=zh|quote=中平元年,北地羌胡與邊章等寇亂隴右,刺史左昌因軍興斷盜數千萬。{{interp|...}}昌坐斷盜征,以扶風宋梟代之。梟患多寇叛,謂{{interp|蓋}}勳曰:「涼州寡於學術,故屢致反暴。今欲多寫孝經,令家家習之,庶或使人知義。」}}</ref>、この発言は、涼州の人間が当時の中国の文化基盤から遠ざかっていたことを示唆している{{sfnm|王|2007|1p=9|Yü|1986|2p=434}}{{efn|[[永初_(漢)|永初]]元年([[107年]])および5年([[111年]])には、 涼州および[[上郡]]の住民が関中に移され、[[永建_(漢)|永建]]4年([[129年]])に戻されたが、この移民集団を構成したのは文化的素養の低い者たちだった{{sfnm|王|2007|1p=9|葛|1992|2p=52}}。ここでいう文化とは主に学術文化を指す{{sfn|葛|1992|p=47}}。}}。

涼州軍閥による文化融合は、前漢以来朝廷を悩ませ続けた漢・羌両族間の摩擦を緩和させた一方{{sfnm|李|2018|1pp=9-10|李|2022|2p=28|王|1991|3p=73}}、破壊・略奪行為などといった羌族の社会的慣習{{sfnm|王|2008|1p=20|趙|1994|2p=69}}を認可したために、中原進出に伴い狼藉が目立つようになった{{sfn|王|1991|p=73}}。王朝からの報酬が見込めない際、統率者は異民族兵に実力行使を許し、彼らの不満を解消していたという分析もある{{sfn|飯田|2022|p=126}}。過度な「胡化」は、本土の中国人の恐怖に基づく反感や拒絶を呼ぶ<ref>李浩「「胡化」、「華化」と国際化―唐代の対外文化交流の成果に対するいくつかの新たな考え方―」丸井憲訳、『専修大学社会知性開発研究センター東アジア世界史研究センター年報』、第4巻、2010年、131–138、p. 136。{{doi|10.34360/00008598}}。</ref>。涼州軍閥の暴力性は後漢王朝を衰亡へと導いたばかりか{{sfnm|趙|1994|1p=72|王|1991|2p=72}}、その挙動が各地で士大夫からの反発を招き、さらに董卓死後における軍閥間の内紛も重なった結果、隴右勢力そのものの滅亡にも繋がった{{sfnm|王|1991|1pp=72-73|薛|2008|2pp=74, 76|薛|2017|3pp=52-53}}。この自滅については、叛服常ならず、団結力に欠け協力と離反を繰り返す性質が影響を及ぼしたとも言われる{{sfnm|王|2000|1p=22|王|1991|2p=75|朱・呂|2007|3p=116}}。隴右勢力は各々が小規模な集団を形成しており、関中進出などといった共通の目標をもとに結束して、比較的有力な者を全体の統率者として擁立するという行動をとるために、集団群は分散的であり、首領の地位も不安定だった{{sfn|飯田|2022|pp=103-104, 110-111}}{{efn|羌族は多数の小規模集団に分裂しては相互に対立する一方、共通する敵が存在する時には敵対関係を解消して連合する性質があった{{sfnm|伊瀬|1983|1p=98|王|2008|2pp=20-21}}。漢はこの性質を利用し、分離策を行っていた{{sfn|伊瀬|1983|p=98}}。}}。その他、中原の道徳観・文化観を基準とした非文明的という印象なども要因として挙げられている{{sfn|朱・呂|2007|p=116}}。

馬超もその流れを汲む者として、祖母から引く羌族の血統と、羌族の多く住まう隴右という環境による「羌胡化」の影響を指摘されている{{sfnm|古|2019|1pp=59-61|王|2000|2p=19|張|2014|3pp=113, 120|朱|2015|4pp=48-50|朱・呂|2007|5pp=108-110, 116}}。[[朱子彦]]によれば、馬超は「羌胡化」を経て、[[五常|礼や義、孝といった概念]]を当時の一般的な漢族のようには尊ばなくなり、その結果、核心利益に影響する変動が生じた場合は家族の愛情や利益に配慮することもなく、一族を人質に取ることは抑止力たり得なかったという{{sfn|朱|2015|p=50}}。しかし、馬超がもし入朝した馬騰らの身を顧みるならば、割拠を放棄して曹操に臣服せざるを得ない一方、親族を見放すならば、忠孝の道を失って曹操に道義的優位を与えることになる{{sfn|朱|2015|p=60}}。馬超のいかなる選択も曹操に利する仕儀となるため、曹操による人質の徴発は結果的に功を奏したともいえる{{sfn|朱|2015|p=60}}。さらに楊阜や[[王商 (文表)|王商]]などの反応<small>(→「[[#評価|評価]]」を参照)</small>のように、忠孝理念の軽視は道義に悖るとして強い反感を買い、馬超は同時代の人士からの支持を得ることができなかった{{sfn|朱|2015|pp=45-46}}。涼州における反攻では非漢族の武装勢力を利用して頑強な抵抗を見せたものの、勢力の確立には至らなかった{{sfn|王|1991|p=75}}。


== 評価 ==
== 評価 ==
馬超に対する評価は、毀誉褒貶が相半ばする。群を抜く勇猛さが賞賛される一方、行動や徳性はしばしば非難の的となる{{sfn|朱|2015|p=48}}。また、非漢族との連携という強みやその軍事的意義に着目する見解も見られる{{sfnm|満田|2017|1pp=159-160|飯田|2022|2pp=103, 113|盧|2009|3p=1897}}。
*[[陳寿]]は、「馬超が武と勇を恃んで一族を破滅させたのは、惜しいことだ。窮地から安泰へと至ることができたのだから、まだましではないだろうか」と評している。
=== 同時代の評価 ===
*[[楊戯]]の『[[季漢輔臣賛]]』では、「驃騎将軍(馬超)は奮起し、合従して三秦(関中)を主導し、潼水を保って国家の計略を練ったが、諸将の志に異同があり敵に隙を突かれて、一族を滅ぼし軍勢を失った。道に背き徳に反したが、劉備に身を託した」と評されている<ref>『三国志』巻45楊戯伝</ref>。
* 荀彧:袁紹との対決以前、関中の動静を憂う曹操に対し「関中の将帥は10を数えますが、結束することはできず、ただ韓遂・馬超が最も強いのです」と評している<ref name="xunyu">『三国志』巻10荀彧伝</ref>{{sfnm|宋|2022a|1pp=5-6|梁|2015|2p=78}}{{efn|『資治通鑑』は「馬超」を「馬騰」に作る{{sfnm|白|2013|1p=161|王|1991|2p=75}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=資治通鑒_(胡三省音注)/卷062|title=『資治通鑑』巻62建安二年|wslanguage=zh}}</ref>。}}。
*楊阜は、「[[韓信]]・[[英布|黥布]]のような武勇を持ち、羌胡の心を甚だ得ている」と評する一方、「父に背を向け主君に叛き{{efn|ド・クレスピニーによる『資治通鑑』の注釈に従えば、楊阜の言う「主君」は曹操を指す{{sfn|de Crespigny|2004|loc=§ 66. note 28 to Jian'an 18|ps=, "This [remark of Yang Fu] refers to the fact that Ma Chao was in rebellion against his formal overlord Cao Cao, and that by his rebellion he had compelled his father Ma Teng to die as a hostage in Cao Cao's hands".}}。}}、涼州の将を虐殺した」ことを糾弾し、「強なれど不義である」と批判している<ref name="yangfu"></ref>{{efn|[[朱子彦]]と呂磊は、馬超の振る舞いや異民族との関係について、羌族の血統および隴右に多く住まう羌胡の風習による羌胡化現象の影響があると論じている{{sfnm|朱・呂|2007|1pp=108, 116|朱|2015|2pp=48-50}}。隴西郡は[[戦国時代_(中国)|戦国時代]]に[[秦]]が置いた郡だが<ref>{{Cite wikisource|wslink=史記/卷110|title=『史記』巻110匈奴列伝|wslanguage=zh|quote=秦昭王時,義渠戎王與宣太后亂,有二子。宣太后詐而殺義渠戎王於甘泉,遂起兵伐殘義渠。於是秦有隴西、北地、上郡,築長城以拒胡。}}</ref>、当時からこの地域周辺の人々は風俗が異民族に近いといわれている<ref>{{Cite wikisource|wslink=史記/卷044#魏安釐王|title=『史記』巻44魏世家|wslanguage=zh|quote=秦與戎翟同俗,有虎狼之心,貪戾好利無信,不識禮義德行。茍有利焉,不顧親戚兄弟,若禽獸耳,此天下之所識也,非有所施厚積德也。}}</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷028下|title=『漢書』巻28地理志下|wslanguage=zh|quote=天水、隴西{{interp|...}}及安定、北地、上郡、西河,皆迫近戎狄,修習戰備,高上氣力,以射獵為先。{{interp|...}}孔子曰:「君子有勇而亡誼則為亂,小人有勇而亡誼則為盜。」故此數郡,民俗質木,不恥寇盜。}}</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=漢書/卷069#贊|title=『漢書』巻69趙充国辛慶忌伝賛|wslanguage=zh|quote=山西天水、隴西、安定、北地處勢迫近羌胡,民俗修習戰備,高上勇力鞍馬騎射。}}</ref>。また羌族は寡婦となった継母や兄嫁を娶り、君臣関係を築かず、強者を立てるほか<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷87|title=『後漢書』巻87西羌伝|wslanguage=zh|quote=父沒則妻後母,兄亡則納釐嫂,{{interp|...}}不立君臣,無相長一,強則分種爲酋豪,弱則爲人附落,更相抄暴,以力爲雄。}}</ref>、父母が死んでも泣くのを恥とするという<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷16#鄧訓|title=『後漢書』巻16鄧訓伝|wslanguage=zh|quote=戎俗,父母死,恥悲泣,皆騎馬歌呼。}}</ref>。いずれの慣習も、主要な人間関係とされる[[五倫]]や「三年の喪」のような服喪儀礼などが奨励される[[中原]]の儒教倫理にはそぐわない。朱子彦らは、羌胡化した涼州人の、気まぐれで疑り深く団結力に欠ける性質、羌胡を思わせる暴力性、非文明的という印象、これらの要素が全土において士大夫らの反発を招き、果ては涼州軍閥の滅亡へと繋がったとする{{sfn|朱・呂|2007|p=116}}。羌胡化した董卓ら涼州軍閥による劫掠や破壊行為といった蛮行を受けて生じた中原の人々の厭悪は、王希恩も同様に指摘している{{sfn|王|1991|pp=72-73}}。}}。
* [[周瑜]]:馬超・韓遂を曹操の後患と見なし{{sfnm|白|2013|1p=161|于|2017|2p=135}}、建安15年([[210年]])、益州攻略について「奮威将軍([[孫瑜]])と共に蜀を取り、蜀を得たらば漢中を併合し、奮威将軍を留めてその地を固守させ、馬超と誼みを結んで連合しとうございます」と[[孫権]]に提言している{{sfnm|易|2009|1pp=11, 133-134|梁|2015|2p=79|于|2017|3pp=135, 138}}<ref>林榕傑「赤壁之戦后的周瑜考論」『江西教育学院学報(社会科学)』第4期、2011年、154–158、pp. 157–158。</ref><ref>『三国志』巻54周瑜伝</ref>。
*諸葛亮は、「文武に優れ、人並みはずれた勇猛さを持ち、当代の英雄である」と評し、黥布・[[彭越]]に喩えている<ref name="guanyu"></ref>。また、[[黄忠]]を後将軍に据えようとした劉備に対して、「黄忠の名声は関羽・馬超と並ぶものではない」と述べている<ref>『三国志』巻36黄忠伝</ref>。
* 王商:「勇あれど不仁、利を見て義を思わない人物であり、唇歯となるべきではありません」と評して馬超との連盟に反対し、「益州は、その国土はうるわしく民は豊かで、貴重な物品も産出する場所であるからして、狡猾な者が襲わんとするところであり、馬超らはそのために益州に接近するのです。もし彼を近づけるならば、虎を養いて自らに患いを遺すこととなりましょう<ref>{{Cite Kotobank|word=養虎の患い|encyclopedia=デジタル大辞泉|accessdate=2024-10-05}}</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=史記/卷007|title=『史記』巻7項羽本紀|wslanguage=zh|quote={{interp|劉邦|original=漢}}欲西歸,張良、陳平說曰:「漢有天下太半,而諸侯皆附之。楚兵罷食盡,此天亡楚之時也,不如因其機而遂取之。今釋弗擊,此所謂『養虎自遺患』也。」}}</ref>」と、劉璋を諫めている{{sfnm|朱|2015|1p=46|de Crespigny|2007|2p=831}}<ref>『三国志』巻38許靖伝注引『益州耆旧伝』</ref>。
*[[荀彧]]は、「関中諸将はまとまりがないが、韓遂・馬超のみは最強である」と評している<ref name="xunyu"></ref>。
* 楊阜:曹操への諫言で「馬超は[[韓信]]・[[英布|黥布]]のような武勇を持ち、羌胡の心を甚だ得ています。西州(涼州{{sfnm|渡邉・仙石|2019|1p=261|薛|2017|2p=46}})は彼を恐れております」と述べる{{sfnm|方|2000|1p=250|古|2019|2p=60|黄|1992|3p=66|趙|2019|4p=52|朱|2015|5p=48}}。また「父に背を向け主君に叛き{{efn|ド・クレスピニーによれば、楊阜の言う「主君」は曹操を指す{{sfn|de Crespigny|2020|p=49}}。}}、州将(刺史{{sfn|森本|2012b|p=183}})を虐殺した」、「強いが不義である」と非難している<ref name="yangfu" />{{sfnm|方|2000|1p=249|朱|2015|2p=46}}。
*[[王商 (文表)|王商]]は、「勇あれど不仁、利を見て義を思わない人物であり、唇歯(密接な関係)となすべきでない」と評し、馬超との連盟は養虎の患いとなるため退けるようにと劉璋を諫めている<ref>『三国志』巻38許靖伝注引『益州耆旧伝』</ref>{{efn|韓遂・馬超を曹操の後患と見なしていた[[周瑜]]は、建安15年([[210年]])、益州攻略について「奮威将軍([[孫瑜]])とともに蜀を取り、蜀を得たらば漢中を併合し、奮威将軍を留めてその地を固守させ、馬超と誼みを結んで連合しとうございます」と孫権に提言している<ref>『三国志』巻54周瑜伝</ref>。}}。
* 諸葛亮:関羽に宛てた手紙で「孟起は文武の才を兼ね備え、人並み外れて雄烈、当代の傑物であり、黥布・[[彭越]]のともがらです」と評している<ref name="guanyu" />{{sfnm|易|2009|1p=170|張|2014|2p=116}}。またその書中では馬超を張飛と同列に扱ったが、[[黄忠]]を後将軍に据えようとした劉備に対しては「黄忠の名望は関羽・馬超と並ぶものではありません」と、関羽と併せて言及している{{sfn|易|2009|pp=170-171}}<ref>『三国志』巻36黄忠伝</ref>。
*[[東晋]]の[[孫盛]]は、馬超が父に背いたことを、家族よりも利益を優先した残酷極まる行為であるとし、人質を取ることの無意味さを表す例として挙げている<ref>『三国志』巻24高柔伝裴松之注</ref>。その類例として、降伏せねば実父を[[釜茹で]]にすると項羽に脅された際に「煮殺すならその[[羹]]をわしにも分けてくれ」と答えた[[劉邦]]{{efn|劉邦について、[[曹植]]は「その名声は徳行にそぐわず、行動も純粋な道義と合致しない」と述べ、「太公(劉邦の父)を顧みないのは孝の道に悖るものだ」と批判している<ref>{{Cite wikisource|wslink=曹子建集/卷十#漢二祖優劣論|title=『曹子建集』巻10「漢二祖優劣論」|wslanguage=zh|quote={{interp|高祖}}名不繼德,行不純道,{{interp|...}}太公是誥,于孝違矣!}}</ref>。朱子彦の主張によると、劉邦の不孝な振る舞いは[[秦漢]]時代には特に非難されておらず、曹植が見せたような蔑視は、儒教理念に染まった後漢時代における代表的な反応である。そのため、父親を顧みないという行為において劉邦と同等である馬超は、士人はおろか巷間からの誹りをも免れ得なかった{{sfn|朱|2015|p=58}}。}}や、長子を人質に出した後に反逆した[[隗囂]]が列記されている。
* [[楊戯]]:『[[季漢輔臣賛]]』において、「驃騎将軍(馬超)は奮起して合従連横した。三秦(関中<ref>{{Cite Kotobank|word=三秦|encyclopedia=精選版 日本国語大辞典|accessdate=2024-10-05}}</ref>)にて事を始め、黄河・潼水を占有した。思惑は朝廷を宗とするも、時には離反し、時には同盟し、敵がその隙に乗じたことで、一族は滅び軍勢も失われた。道に背き徳に反したが、龍鳳(劉備{{sfn|渡邉・仙石|2019|p=610}})に身を託し縋った」と評している<ref>{{Harvcoltxt|渡邉・仙石|2019|p=610}}を参照して訳文を作成。</ref><ref>『三国志』巻45楊戯伝</ref>。
*[[南宋]]の[[陳亮]]は、「関中諸将は皆恐るるに足らず、恐るべきは馬超ただ一人である」と述べ、馬超が領地に独り留まったことは曹操にとっての養虎の患いだと見なしている<ref>{{Cite wikisource|wslink=酌古論/酌古論一#曹公|title=『酌古論』|wslanguage=zh|quote=闗西諸將皆不足畏,所可憚者惟一馬超,而{{interp|曹}}公制之非其術。{{interp|...}}騰之家屬,盡還宿衞,而獨留超,所謂養虎自遺患也。}}</ref>。
=== 後世の評価 ===
*[[元 (王朝)|元]]の[[郝経]]は、馬超の所業を、漢王朝衰退の一因として[[董卓]]と併せて批判し、「勇ありて義なし」とする一方、曹操を追いつめたこと、関羽・張飛と並んだことをふまえ「豪傑である」と称し、「当代の雄」とも評している<ref>[https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=58603&page=30 『続後漢書』巻16]. 中国哲学書電子化計画. 2023年12月21日閲覧, "馬超父子勇冠西州,與韓遂頡翥為寇,殘滅三輔,墾傷漢室。董卓因之肆其蛇豕,漢遂以亡。天下分裂,不能歸命有德,卒墮操手。闔門誅夷,僨踣不悔,有勇無義,君子悼諸。然潼關之役操幾不免,孤劍来歸,即則關張之列,超亦人豪也哉。";"超幾獲操,一時之雄!"</ref>。
; 中国における評価
*[[清]]の[[徐鼒]]は、馬超の不孝について、{{仮リンク|趙苞|zh|趙苞}}{{efn|[[趙忠]]の従兄。[[柳城郡|柳城]]において1万余りの[[鮮卑]]による寇鈔を受け、母親と妻子を人質に取られた。趙苞軍と鮮卑軍が対峙した際、母から忠義を尽くすようにと励まされた趙苞は進軍し、敵軍を撃破するも、彼の母親と妻子は殺害された。[[霊帝_(漢)|霊帝]]は弔慰して趙苞を封侯したが、趙苞は「禄を食んで難を逃れるは不忠、母を殺して義を全うするは不孝」と言い、まもなく死亡した<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢書/卷81#趙苞|title=『後漢書』巻81趙苞伝|language=zh}}</ref>。}}・劉邦の非道とも取れる行為と[[舜]]の「敝蹝を棄てる」逸話<ref>{{Cite wikisource|wslink=孟子/盡心上|title=『孟子』尽心上|wslanguage=zh|quote=桃應問曰:「舜為天子,皋陶為士,瞽瞍殺人,則如之何?」孟子曰:「執之而已矣。」「然則舜不禁與?」曰:「夫舜惡得而禁之?夫有所受之也。」「然則舜如之何?」曰:「舜視棄天下,猶棄敝蹝也。竊負而逃,遵海濱而處,終身欣然,樂而忘天下。」}}</ref>を引き、「英雄の成し遂げることとは、聖人・賢人の精神ではないのだ」と記している<ref>{{Cite wikisource|wslink=小腆紀年#卷第十八|title=『小腆紀年』巻第18|wslanguage=zh|quote=蓋聖人大公無我之心,前後一揆。若執趙苞不孝之義,律以馬超背父之條,則敝屣之棄,大舜可處海濱;杯羹之分,漢祖忍於置俎!英雄之事,非聖賢之心歟!}} [https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=18278&page=66 影印本]も参考。</ref>。舜が天下よりも孝を選ぶのと同様に、趙苞は孝よりも忠を、劉邦は孝よりも天下を選んだのであり{{efn|両者の逸話は『太平御覧』において「戦不顧親」の項目にまとめられている<ref>{{Cite wikisource|wslink=太平御覽/0310#戰不顧親|title=『太平御覧』巻310|wslanguage=zh}}</ref>。}}、馬超が父を捨て曹操に叛くに至った経緯もまた、両立困難な理念の相克から生じたものと受け取られている。
* [[西晋]]の[[陳寿]]:「馬超が武力に頼り勇を恃んで、一族を破滅させたのは、惜しいことだ。窮地から安泰へと至ることができたのだから、まだ良かったのではないだろうか」と評している{{sfn|張|2010|p=34}}<ref>『三国志』巻36評</ref>。
* [[潘岳]]:『西征賦』と題する[[賦]]において、朝廷(曹操)に対し叛乱を起こした馬超を、韓遂と共に「大憝(大いなる悪人{{sfn|高橋|1884|p=191}})」と呼んでいる<ref>{{Cite book|和書|author1=[[蕭統]]|author2=高橋忠彦|translator= |title=文選(賦篇)中|series=新釈漢文大系|volume=80|publisher=明治書院|date=1994|page=190–191|isbn=9784625570803|ref={{sfnref|高橋|1884}}}}</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=西征賦|title=『西征賦』|wslanguage=zh|quote=慍韓馬之大憝,阻關谷以稱亂。魏武赫以霆震,奉義辭以伐叛。彼雖衆其焉用,故制勝於廟筭。砰揚桴以振塵,繣瓦解而冰泮。超遂遁而奔狄,甲卒化為京觀。}}</ref>。潘岳から見れば、馬超たちは国家や民にとって有害無益な臣下であり、後世への戒めとして機能するだけでなく<ref>{{Cite journal|和書|author=王徳華|title=《西征賦》的理性思考|journal=中国文学研究|issue=第2期|date=1989|pages=56–61|ref={{sfnref|王|1989}}}}p. 58。</ref>、自身の高尚潔白な理念と反するために、軽蔑の対象でもある<ref>{{Cite journal|和書|author=蒋艶南|title=从《西征賦》看潘岳的政治理想——儒家理念中衝突与重合|journal=湖北経済学院学報(人文社会科学版)|issue=第10期|date=2016|pages=92–94|ref={{sfnref|蒋|2016}}}}p. 93。</ref>。作中で同様に糾弾される人物として、[[李斯]]、[[趙高]]、[[蕭望之]]などがいる{{sfnm|蒋|2016|1p=93|王|1989|2p=58}}。
* [[東晋]]の[[孫盛]]:馬超が父に背いたことを、家族よりも利益を優先した残酷極まる行為であるとし、人質を取ることの無意味さを表す例として挙げている。その類例として、降伏せねば実父を[[釜茹で]]にすると[[項羽]]に脅された際に「煮殺すならその[[羹]]をわしにも分けてくれ」と答えた[[劉邦]]{{efn|劉邦について、[[曹植]]は「その名声は徳行にそぐわず、行動も純粋な道義と合致しない」と述べ、「太公(劉邦の父)を顧みないのは孝の道に悖るものだ」と批判している<ref>{{Cite wikisource|wslink=曹子建集/卷十#漢二祖優劣論|title=『曹子建集』巻10「漢二祖優劣論」|wslanguage=zh|quote={{interp|高祖}}名不繼德,行不純道,{{interp|...}}太公是誥,于孝違矣!}}</ref>。朱子彦によると、劉邦の不孝な振る舞いは[[秦漢]]時代には特に非難されておらず、曹植が見せたような蔑視は、儒教理念に染まった後漢時代における代表的な反応であるという。父親を顧みないという点において、馬超は劉邦と同類である{{sfn|朱|2015|p=58}}。}}や、長子を人質に出した後に反逆した[[隗囂]]が列記されている{{sfn|朱|2015|p=48}}<ref>『三国志』巻24高柔伝裴注</ref>。
* [[南唐]]の[[徐鉉]]:祖先が扶風人だという{{仮リンク|馬仁裕|zh|馬仁裕}}の[[金石文#墓碑・墓誌銘|神道碑]]に、扶風馬氏に関連する高名な人物として、[[伯益]]・[[趙奢]]{{efn|趙奢は扶風馬氏の祖といわれる。伯益はそのさらなる祖とされる{{sfn|林|2020|p=138}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=新唐書/卷072下#馬|title=『新唐書』巻72下|wslanguage=zh|quote=馬氏出自嬴姓,伯益之後。趙王子趙奢為惠文王將,封馬服君,生牧,亦為趙將,子孫因以為氏,世居邯鄲。秦滅趙,牧子興徙咸陽,秦封武安侯。}};''[[s:zh:史記/卷005|『史記』巻5秦本紀]]''</ref>。}}・[[馬融]]と共に馬超の名を挙げ、「公侯〔の子孫〕は必ず〔元の公侯に〕復(かえ)るというが<ref>{{Cite book|和書|author=[[竹内照夫]]|title=[[春秋左氏伝]]|series=[[全釈漢文大系]]|volume=第4巻|publisher=[[集英社]]|date=1974|page=172}}</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=春秋左氏傳/閔公|title=『春秋左氏伝』閔公元年|wslanguage=zh|quote=公侯之子孫,必復其始。}}</ref>、〔果たして〕関西は孟起の威に靡いた」と記している<ref>{{Cite wikisource|wslink=唐故德勝軍節度使檢校太保同中書門下平章事扶風馬匡公神道碑銘|title=『唐故徳勝軍節度使検校太保同中書門下平章事扶風馬匡公神道碑銘』|wslanguage=zh|quote=迄於我朝,則扶風{{interp|馬}}公其人矣。公諱仁裕,字德寬,其先扶風人。子孫或從官於徐方,今為彭城人也。粵若萬邦作乂,{{interp|伯}}益有佐禹之功,因封受民,{{interp|趙}}奢有卻秦之績。公侯必復,關西靡孟起之威。文武未墜,南郡被季長之德。存乎譜牒,無俟闡揚。}}</ref>。
* [[南宋]]の[[陳亮]]:「関西諸将は皆恐るるに足らず、恐るべきは馬超ただ一人である」と述べ、馬超が領地に独り留まったことは曹操にとっての養虎の患いだとする。そして「馬超が〔曹操の招きに応じて〕就任してしまえば、関西諸将など物の数ではない。[[袁煕]]・[[袁尚]]が平らげられた今、強兵が西に向かうとなると、その風向きを理解した諸将はこちらに合流する、すなわち、韓遂らはあえて刃向かおうとはしない。たとえ叛いたとしても、これを破るのはたやすいことだ」と、関西平定における馬超の重要性を説いている<ref>{{Cite wikisource|wslink=酌古論/酌古論一#曹公|title=『酌古論』曹公|wslanguage=zh|quote=闗西諸將皆不足畏,所可憚者惟一馬超,而{{interp|曹}}公制之非其術。此所以卒為邊患,而反為璋魯之藩蔽也。方{{interp|馬}}騰{{interp|、韓}}遂不叶,求還京畿,此其勢易服矣。騰之家屬,盡還宿衞,而獨留超,所謂養虎自遺患也。{{interp|...}}超旣就,則闗西諸將舉無足道。及{{interp|袁}}熈{{interp|、袁}}尚既平,厲兵西向,風諭諸將,使來合勢,則韓遂等必不敢叛,縱叛,破之易耳。}}</ref><ref>耿需要「『酌古論』軍事思想研究」『軍事歴史』第1期、2022年、87–91、p. 88。</ref>{{efn|name=chenliang}}。
* [[元 (王朝)|元]]の[[郝経]]:「馬超父子は西州随一の勇者だったが、韓遂と共に跳梁して寇(あだ)しては、三輔を荒廃させ、漢王朝を損なった」と、董卓と併せて漢王朝衰退の一因と見なす{{sfn|朱|2015|p=48}}。また「一門が皆誅され、凋落すれども悔いず、勇はあれども義は無く、君子はこれを嘆くのである。しかるに、潼関の戦いにおいて曹操はあわや命を失うところと相成り、孤剣にて帰順するや関羽・張飛に列したからには、馬超もまた豪傑ではないか」とも評し、曹操を追いつめたことで改めて「当代の雄」だとしている<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=366993#p16 『続後漢書』巻16馬超伝議]. 中国哲学書電子化計画. 2023年12月21日閲覧, "馬超父子勇冠西州,與韓遂頡翥為寇,殘滅三輔,墾傷漢室。董卓因之肆其蛇豕,漢遂以亾。天下分裂,不能歸命有德,卒墮操手。闔門誅夷,僨踣不悔,有勇無義,君子悼諸。然潼闗之役操幾不免,孤劍来歸,即厠闗張之列,超亦人豪也哉!"; [https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=366993#p17 賛], "超幾獲操,一時之雄!"</ref>。
* [[清]]の[[徐鼒]]:「聖人の大公無私の心は、先も後もみな同一であるという<ref>{{Cite wikisource|wslink=孟子/離婁下|title=『孟子』離婁下|wslanguage=zh|quote=孟子曰:「舜生於諸馮,遷於負夏,卒於鳴條,東夷之人也。文王生於岐周,卒於畢郢,西夷之人也。地之相去也,千有餘里;世之相後也,千有餘歲。得志行乎中國,若合符節。先聖後聖,其揆一也。」}}</ref>。[[趙苞]]の〔[[鮮卑]]に拉致された母親を捨てた〕不孝の義を守り、馬超の父に背いた条理に従うというならば、敝蹝(へいし。破れた草履<ref>{{Cite book|和書|author=[[宇野精一]]|title=[[孟子_(書物)|孟子]]|series=全釈漢文大系|volume=第2巻|publisher=集英社|date=1973|pages=488–489}}</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=孟子/盡心上|title=『孟子』尽心上|wslanguage=zh|quote=桃應問曰:「舜為天子,皋陶為士,瞽瞍殺人,則如之何?」孟子曰:「執之而已矣。」「然則舜不禁與?」曰:「夫舜惡得而禁之?夫有所受之也。」「然則舜如之何?」曰:「舜視棄天下,猶棄敝蹝也。竊負而逃,遵海濱而處,終身欣然,樂而忘天下。」}}</ref>)を棄てるように、[[舜|大舜]]もまた〔天下を捨てて有罪の父と共に逃げ〕海辺で暮らすことができる。〔項羽の脅しに対する〕羹の分け前においては、漢祖(劉邦)も〔父を〕俎上に置くことを忍んだ。英雄の成し遂げることは〔みな同様だが、それは〕聖賢の精神ではないのだ」と記している<ref>{{Cite wikisource|wslink=小腆紀年#卷第十八|title=『小腆紀年』巻第18|wslanguage=zh|quote=蓋聖人大公無我之心,前後一揆。若執趙苞不孝之義,律以馬超背父之條,則敝屣之棄,大舜可處海濱;杯羹之分,漢祖忍於置俎!英雄之事,非聖賢之心歟!}}; 徐鼒『小腆紀年附考』巻第十八、中華書局、1957年、p. 703。</ref>{{efn|直前の文で、父の[[鄭芝龍]]が降伏した対象である清に抵抗し続ける[[鄭成功]]について、徐鼒は[[伍子胥]]・[[田横]]を引き合いに出し、みな[[国士]]の風であると褒めている<ref>{{Cite wikisource|wslink=小腆紀年#卷第十八|title=『小腆紀年』巻第18|wslanguage=zh|quote={{interp|李}}成棟、{{interp|金}}聲桓有無君之心而動於惡,罪不待教而誅。{{interp|鄭}}成功則懷故主之恩、守孤臣之節,伍員不奔父命,懼墜其宗;田橫自居島中,恥為亡虜:磊磊落落,有國士風。昔明太祖謂王保保為奇男子,我聖祖仁皇帝亦曰『成功,明室遺臣,非朕之亂臣賊子』。}}</ref>。また趙苞・劉邦の事例は、『太平御覧』では「戦不顧親」の項目にまとめられている<ref>{{Cite wikisource|wslink=太平御覽/0310#戰不顧親|title=『太平御覧』巻310兵部四十一|wslanguage=zh}}</ref>。}}。
* [[清末民初]]の{{仮リンク|盧弼 (中華民国)|label=盧弼|zh|盧弼}}:「馬超は武勇に優れ、羌胡を手懐けていたが、隴右の軍衆を兼有し、さらに張魯の援助も得ているとあっては、向かうところ敵なしといえよう」と述べ、その強勢を認める一方、「〔韋康は絶望的な情況の中で〕無辜の吏民が死んでいくに忍びず、心苦しくも和睦を求めたのであり、その情況は諒解できる。馬超はただ残虐で、約に背いて韋康を殺害し、また楊昂の手を借りて、殺戮をほしいままにしてしまった{{efn|name=":0"}}。だから韋康の死後、吏民は怨恨を抱き、姜敘の母や趙昂の妻は両者とも忠義の心を奮い、皆が故君のために復讐したのだ」と失策を指摘している<ref>{{harvnb|盧|2009|p=1897}}, "馬超勇力善戰,撫有羌、胡,既兼隴右之眾,又得張魯之助,宜其所向無敵。魏武軍還倉卒,為備不周,韋康孤城無援,堅守八月,閻溫潛出,又死賊手,東軍之來,殆已絕望,不忍吏民無辜死亡,委屈求和,其情可原。超雖殘暴,背約害康,亦假手楊昂,肆其屠戮。故韋康死後,吏民忿恨,姜敘之母、趙昂之妻皆忠義奮發,咸為故君復讎。"</ref>。
* 易中天:関羽の書状に対する諸葛亮の対応について、「馬超は投降してきたばかりで、まだ不安な心理状態にあり、高い評価を与えて安心させることが不可欠であった。まして馬超はもともと有能な才能の持ち主であり、どうして低く評価するなどできようか」と述べている{{sfn|易|2009|p=170}}。

; 日本における評価
* [[井波律子]]:「強権に屈服しない反発力の強さ」{{sfn|井波|2007a|p=207}}が特徴であるとし、「曹操をキリキリ舞いさせた戦いぶりの壮烈さには、他に類を見ないものがある」{{sfn|井波|2007a|p=213}}と述べる。またその性格については「剛勇無双ではあるが、二代目のためか、やや単純で傲慢なところのある性格」{{sfn|井波|2007a|p=208}}だといい、馬超の長所・短所は表裏一体だったのだろうと語っている{{sfn|井波|2007a|p=209}}。さらに、劉備への帰順後に目ぼしい活躍が見られなかったのは、劉備の古参の配下たちと比較した際の立場や意識の違いが影響したのではないかとも推測している{{sfn|井波|2007a|p=209}}。
* 満田剛:馬超の動向の背後に見られる羌・氐・[[板循蛮]]の存在を指摘し、馬超と西北地方の非漢族とのつながりが、曹魏による隴右統治の不安定さも相まって、諸葛亮の軍事政策に貢献しうるものだったと分析している{{sfn|満田|2017|pp=159-160}}。
* 飯田祥子:曹操が馬超の人質を即座に処刑せずにいたのは、関係修復を視野に入れた懐柔の姿勢を示すものだとする{{sfn|飯田|2022|p=103}}。それは、馬超をはじめとする隴右勢力が「敵対を避けたい有用な軍事協力者であり、厚遇し勢力を温存するだけの価値があった」{{sfn|飯田|2022|p=103}}ためだという。馬超が個人的な威信により異民族兵を擁したことにも触れている{{sfn|飯田|2022|p=113}}。
* 関尾史郎:後漢末期に起きた隴右叛乱の最終段階における氐族の参戦について、馬超の急速な勢力拡大が最大要因であると解している{{sfn|関尾|2023|pp=170-173}}。


== 墓所 ==
== 墓所 ==
[[ファイル:Ma Chao 2016 Han Zhao Lie Miao.jpg|thumb|right|250px|[[成都武侯祠]]の馬超像]]
[[ファイル:Ma Chao 2016 Han Zhao Lie Miao.jpg|thumb|right|250px|[[成都武侯祠]]の馬超像]]
馬超墓には主要なものが二つある。
馬超墓には主要なものが複数存在する。
; [[新都区|新都県]]の墓所({{coord|30.816550|N|104.166914|E}})
*[[新都区|新都県]]の墓所。[[明]]の時代、四川[[提刑按察使司按察使|按察使]]の楊贍、成都[[知府]]の王九徳、新都[[知県|県令]]の邵年斉らが、墓の湮没を恐れ、墓前に碑を建てた。[[雍正]]11年([[1733年]])に、県令の陳銛が墓の四隅に石を設置して区画を設けた上、墓から18歩ぶん離れた範囲までを墓域とし、それより内側での採樵と耕作を禁じた<ref name=machaomu>{{Cite web|url=https://www.wuhouci.net.cn/ycdc_list_Detail.html?info_id=17643|title=馬超墓調査報告|publisher=成都武侯祠博物館|accessdate=2023-12-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240106234644/https://www.wuhouci.net.cn/ycdc_list_Detail.html?info_id=17643|archivedate=2024年1月6日}}</ref>。[[道光]]17年([[1837年]])には「漢故征西將軍馬公諱超字孟起之墓」という墓碑が建てられた。[[宣統]]元年([[1909年]])、{{仮リンク|四川提督|zh|四川提督}}の馬維騏{{efn|[[雲南省]][[開遠市|阿迷県]]の人。『[[清史稿]]』に伝がある<ref>{{Cite wikisource|wslink=清史稿/卷459#馬維騏|title=『清史稿』巻459馬維騏伝|wslanguage=zh}}</ref>。}}により立派な社殿が建てられ、「漢驃騎將軍領凉州牧斄郷侯諡威侯馬公墓誌」という墓碑も新たに作成された<ref>{{Cite web|url=https://wuhouci.net.cn/ycdc_list_Detail.html?info_id=17647|title=《漢驃騎將軍領凉州牧斄郷侯諡威侯馬公墓誌》碑調査報告|publisher=成都武侯祠博物館|accessdate=2023-12-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240106235211/https://wuhouci.net.cn/ycdc_list_Detail.html?info_id=17647|archivedate=2024年1月6日}}</ref>。[[文化大革命]]の際に徹底的に破壊された結果、現存しているのは上述した2つの石碑だけであり、それらは[[1987年]]に新都の桂湖公園にある碑林に移され、現在に至るまで安置されている。県級文物保護単位。
: [[明]]の時代、四川[[提刑按察使司按察使|按察使]]の楊瞻、成都[[知府]]の{{仮リンク|王九徳|zh|王九德}}、[[知県|県令]]の{{仮リンク|邵年斉|zh|邵年齊}}が、墓の湮没を恐れ、墓前に[[エピタフ|碑]]を建てた。[[雍正]]11年([[1733年]])、[[知県|邑令]]の陳銛が墓の四隅に石を設置して区画を設け、墓域より内側での採樵と耕作を禁じた<ref name="machaomu">{{Cite web|url=https://www.wuhouci.net.cn/ycdc_list_Detail.html?info_id=17643|title=馬超墓調査報告|publisher=成都武侯祠博物館|accessdate=2023-12-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240106234644/https://www.wuhouci.net.cn/ycdc_list_Detail.html?info_id=17643|archivedate=2024年1月6日}}</ref>。陳銛はこの経緯について記録した「故征西将軍馬公墓碑記」と題する文書を『新都県志』に載せている<ref name="machaomu" /><ref>[https://hdl.handle.net/2027/hvd.32044070384896?urlappend=%3Bseq=372%3Bownerid=27021597767106927-585 『新都県志』巻13]. [[ハーティトラスト|Hathitrust]], 2024年9月4日閲覧。</ref>。[[道光]]17年([[1837年]])には、知県の張奉書が墓域を測量して3.174[[畝_(単位)|畝]]とし、墓の周囲に柏を植え{{efn|この「柏」は常緑針葉樹で、落葉広葉樹の[[カシワ]]とは異なり、[[ヒノキ]]・[[サワラ_(植物)|サワラ]]・[[コノテガシワ]]などを指す。中国では[[マツ]]と並べられることが多い<ref>{{Cite book|和書|others=[[土田健次郎]]訳|title=論語|series=ちくま学芸文庫|publisher=筑摩書房|date=2023|page=133}}</ref>。不滅を象徴し、墓の付近に植えられた<ref>{{Cite book|和書|others=土田健次郎訳|title=論語|series=ちくま学芸文庫|publisher=筑摩書房|date=2023|page=345}}</ref>。『[[白虎通義]]』によれば、天子に松、諸侯に柏をあてがうのが理想とされていたが<ref>{{Cite wikisource|wslink=白虎通/卷10#崩薨|title=『白虎通義』巻10崩薨|wslanguage=zh|quote=春秋《含文嘉》曰:「天子墳高三仞,樹以松;諸侯半之,樹以柏;大夫八尺,樹以欒;士四尺,樹以槐;庶人無墳,樹以楊柳。」}}</ref>、漢代以降にはそういった区分はなくなり、一般市民も含め、松柏を合わせて墓に植える風習ができた<ref>丁傑「論中国古代墓植松柏習俗及其喪葬文化内涵」『北京林業大学学報(社会科学版)』第2期、2022年、39–46、p. 40。</ref>。}}、塀を作り、墓守を設置して、春秋に墓参りをした<ref name="machaomu" /><ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=323789#p122 『新都県志』巻6]. 中国哲学書電子化計画. 2024年9月3日閲覧, "道光十七年,知縣張奉書清丈前後基地,共三畝一分七釐四毫,周圍豎以墻垣,栽置柏樹,前立簽門,招佃看守歲時祭掃。"</ref>。さらに「漢故征西将軍馬公諱超字孟起之墓」という明代の墓碑を改めて建てた<ref name="machaomu" />。[[宣統]]元年([[1909年]])、{{仮リンク|四川提督|zh|四川提督}}の馬維騏{{efn|[[雲南省]][[開遠市|阿迷県]]の人。『[[清史稿]]』に伝がある<ref>{{Cite wikisource|wslink=清史稿/卷459#馬維騏|title=『清史稿』巻459馬維騏伝|wslanguage=zh}}</ref>。[[光緒]]31年([[1905年]])、清朝皇族のとある[[親王#中国諸王朝の親王|親王]]の婿である{{仮リンク|駐蔵辦事大臣|zh|駐藏大臣}}の{{仮リンク|鳳全|zh|鳳全}}が、[[巴塘県|巴塘]]の[[ラマ_(チベット)|ラマ]]により殺害されるという{{仮リンク|巴塘事変|zh|巴塘事變}}が起きると、[[錫良]]・[[趙爾豊]]と共に反乱を鎮圧した<ref>{{Cite journal|和書|author=蘇鳳鳴|title=清末以降の社会変動とカム発見 : 西康省建省の動きを中心に|journal=比較社会文化研究|issue=12|date=2002|pages=131–137|doi=10.15017/4494526}}pp. 132–133。</ref>。}}により立派な社殿が建てられ、「漢驃騎将軍領涼州牧斄郷侯諡威侯馬公墓誌」という墓碑も新たに作成された<ref>{{Cite web|url=https://wuhouci.net.cn/ycdc_list_Detail.html?info_id=17647|title=《漢驃騎將軍領涼州牧斄郷侯諡威侯馬公墓誌》碑調査報告|publisher=成都武侯祠博物館|accessdate=2023-12-29|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240106235211/https://wuhouci.net.cn/ycdc_list_Detail.html?info_id=17647|archivedate=2024年1月6日}}</ref>。[[文化大革命]]の際に破壊されたため、馬維騏による墓碑と撰者不明の「征西将軍馬超墓碑」の2つの石碑のみが現存する<ref name="machaomu" /><ref>{{Cite web|url=https://www.wuhouci.net.cn/ycdc_list_Detail.html?info_id=17645|title=《征西将軍馬超墓碑》碑調査報告|publisher=成都武侯祠博物館|accessdate=2024-9-24}}</ref>。石碑は[[1987年]]に新都の桂湖公園にある碑林に移され、安置されている<ref name="machaomu" />。墓址には記念碑が立っており、周辺区域の地名は「馬超西路」という。県内重要文物遺址([[1987年]])<ref name="machaomu" />。


; [[勉県]](沔県)の墓所({{coord|33.152635|N|106.640650|E}})
*[[勉県|沔県]]の墓所。[[万暦]]35年([[1607年]])に著された{{仮リンク|祁光宗|zh|祁光宗}}『関中陵墓志』および清代の[[畢沅]]『関中勝跡図志』によると、建興5年([[227年]]){{efn|原文は「建安五年」。}}に諸葛亮が沔陽を訪れた際、自ら祭祀を行ったという<ref>[https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=94834&page=299 『関中陵墓志』漢馬超墓];[https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=50521&page=94 『関中勝蹟図志』巻22]. 中国哲学書電子化計画. 2023年12月21日閲覧。</ref>{{efn|『関中勝蹟図志』で疑問を呈されている『四川通志』に記載のある馬超墓は、方角と距離が『天啓新修成都府志』の記述と一致しているため、上述した新都県のものと思しい<ref name=machaomu></ref><ref>[https://ctext.org/library.pl?if=gb&file=73994&page=6 『四川通志』巻29上]. 中国哲学書電子化計画. 2024年3月2日閲覧。</ref>。}}。また『[[古今図書集成]]』には、前書と同様の記載の他、「諸葛亮が馬岱に喪服を掛けさせた」という記述が見える<ref>{{Cite wikisource|wslink=欽定古今圖書集成/方輿彙編/職方典/第0533卷#墳墓附|title=『古今図書集成』方輿彙編第533巻|wslanguage=zh}}</ref>。[[乾隆]]41年([[1776年]])、畢沅により「漢征西將軍馬公超墓」という碑文が制作された<ref>{{Cite web|title=馬超墓 - 影像勉県|url=http://www.mianxian.gov.cn/mxzf/mlmx/yxmx/201805/03502102370d4e519fee1ca764f36ae3.shtml |publisher=勉県人民政府|date=2018年5月23日 |accessdate=2024年3月2日|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240302084143/http://www.mianxian.gov.cn/mxzf/mlmx/yxmx/201805/03502102370d4e519fee1ca764f36ae3.shtml|archivedate=2024年3月2日}}</ref>。[[民国紀元|民国]]17年([[1928年]])、[[馮玉祥]]は馬超を偲ぶ聯詩を詠み、それを刻んだ「馮玉祥為馬超祠題聯」碑が作成された<ref>{{Cite web|title=馮玉祥在漢中題写的楹聯|url=http://www.mianxian.gov.cn/mxzf/mlmx/lsrw/201508/825daab2afe9452cbd92cb3d49dee19d.shtml |publisher=勉県人民政府|date=2015年8月7日 |accessdate=2024年2月4日|archiveurl=http://www.mianxian.gov.cn/mxzf/mlmx/lsrw/201508/825daab2afe9452cbd92cb3d49dee19d.shtml|archivedate=2024年2月4日}}</ref><ref>[[#hanzhongdqz|郭編 2005]]. 巻27 § 4.3. ''[https://web.archive.org/web/20240106234627/http://dfz.shaanxi.gov.cn/sqzlk/xbsxz/sxdyl/hzs_16205/hzdqz_3/201610/t20161026_755971.html 陝西省地方志弁公室 公式サイト]''. 2024年1月6日時点の[http://dfz.shaanxi.gov.cn/sqzlk/xbsxz/sxdyl/hzs_16205/hzdqz_3/201610/t20161026_755971.html オリジナル]よりアーカイブ。2024年1月6日閲覧。</ref>。墓域は漢恵渠を挟んで前院と後院の2つの区域に分かれており、その間に風雨橋と呼ばれる橋が掛けられている。民国24年([[1935年]])、漢恵渠の修復時に馬超墓も開削されたが、甬道から一振りの鉄刀が発見され、墓の内部に暗器があるのではないかと恐れられたため、再び封印された<ref>[[#mianxianz|勉県志編纂委員会編 1989]]. § 6.3. ''[https://web.archive.org/web/20240106234627/http://dfz.shaanxi.gov.cn/sqzlk/xbsxz/sxdyl/hzs_16205/mianxz/201004/t20100419_765321.html 陝西省地方志弁公室 公式サイト]''. 2024年1月6日時点の[http://dfz.shaanxi.gov.cn/sqzlk/xbsxz/sxdyl/hzs_16205/mianxz/201004/t20100419_765321.html オリジナル]よりアーカイブ。2024年1月6日閲覧。</ref>。馬超墓の周辺には、最古にして皇帝の詔のもと建てられた唯一の武侯祠である{{仮リンク|勉県武侯祠|zh|勉県武侯祠}}や女郎祠({{仮リンク|張魯の娘|zh|張琪瑛}}の墓)がある{{efn|民間伝承では、張魯の娘は張琪瑛という名であり、馬超に情を寄せたものの、共にいることは叶わなかった。[[曹宇]]に嫁いですぐに死去し、[[漢江_(中国)|漢水]]付近にある灌子山(または観子山)に葬られたが、晴れた日には、そこから馬超墓を望むことができるのだという<ref>{{Cite web |author=馬世明 |url=http://hzdqw.hanzhong.gov.cn/hzdfz/zjsy/202211/b1c7dbe37fd54eadbe05d199901144a4.shtml |title=史志古籍中張魯在漢中的遺跡与伝説 |publisher=漢中市地方志弁公室|date=2022-11-18 |accessdate=2024-01-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240112022042/http://hzdqw.hanzhong.gov.cn/hzdfz/zjsy/202211/b1c7dbe37fd54eadbe05d199901144a4.shtml|archivedate=2024年1月12日}}</ref>。}}。省級文物保護単位。
: [[万暦]]35年([[1607年]])に著された{{仮リンク|祁光宗|zh|祁光宗}}『関中陵墓志』および清代の[[畢沅]]『関中勝蹟図志』によると、建興5年([[227年]]){{efn|原文は「建安五年」。}}に諸葛亮が沔陽を訪れた際、自ら祭祀を行ったという{{sfn|張|2008|p=81}}<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=674033#漢馬超墓 『関中陵墓志』漢馬超墓]. 中国哲学書電子化計画. 2023年12月21日閲覧。</ref><ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=182836#p67 『関中勝蹟図志』巻22]. 中国哲学書電子化計画. 2023年12月21日閲覧。; 畢沅撰、張沛校点『関中勝蹟図志(修訂本)』巻下、三秦出版社、2021年、p. 648。</ref>。また『[[古今図書集成]]』によれば、諸葛亮は馬岱に命じて、喪服を掛けさせたという{{sfn|張|2008|p=81}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=欽定古今圖書集成/方輿彙編/職方典/第0533卷#墳墓附|title=『古今図書集成』方輿彙編第533巻|wslanguage=zh|quote=馬超墓,在縣東三里。漢建安五年,諸葛亮行軍沔陽,親詣墳所設祭,令其弟馬岱掛孝衣帛。今名「馬場。」}}</ref>。[[乾隆]]41年([[1776年]])、[[兵部]][[侍郎]]・[[都察院|副都御史]]・陝西[[巡撫]]の畢沅により「漢征西将軍馬公超墓」という碑文が制作された{{sfn|張|2008|p=81}}<ref>{{Cite web|title=馬超墓 - 影像勉県|url=http://www.mianxian.gov.cn/mxzf/mlmx/yxmx/201805/03502102370d4e519fee1ca764f36ae3.shtml |publisher=勉県人民政府|date=2018-5-23|accessdate=2024-3-2|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240302084143/http://www.mianxian.gov.cn/mxzf/mlmx/yxmx/201805/03502102370d4e519fee1ca764f36ae3.shtml|archivedate=2024-3-2}}</ref>。[[嘉慶_(清)|嘉慶]]年間には、知県の馬允剛が詩を献じた{{sfn|張|2008|p=81}}。[[民国紀元|民国]]17年([[1928年]])、[[馮玉祥]]は馬超を偲ぶ聯詩を詠み、それを刻んだ「馮玉祥為馬超祠題聯」碑が作成された<ref>{{Cite web|title=馮玉祥在漢中題写的楹聯|url=http://www.mianxian.gov.cn/mxzf/mlmx/lsrw/201508/825daab2afe9452cbd92cb3d49dee19d.shtml |publisher=勉県人民政府|date=2015-8-7 |accessdate=2024-2-4|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240204210132/http://www.mianxian.gov.cn/mxzf/mlmx/lsrw/201508/825daab2afe9452cbd92cb3d49dee19d.shtml|archivedate=2024-2-4}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor=郭鵬|title=漢中地区志|volume=第三冊|series=陝西地方志叢書|publisher=三秦出版社|date=2005|url=http://dfz.shaanxi.gov.cn/sqzlk/xbsxz/sxdyl/hzs_16205/hzdqz_3/201610/t20161026_755971.html |archiveurl=https://web.archive.org/web/20240106234627/http://dfz.shaanxi.gov.cn/sqzlk/xbsxz/sxdyl/hzs_16205/hzdqz_3/201610/t20161026_755971.html|archivedate=2024-1-6|accessdate=2024-1-6|isbn=9787806289570}}</ref>。墓域は漢恵渠という水路を挟んで前院と後院の2つの区域に分かれており、その間に風雨橋と呼ばれる橋が掛けられている{{sfn|張|2008|p=81}}。民国24年([[1935年]])、漢恵渠の修復時に馬超墓も開削されたが、甬道から一振りの鉄刀が発見され、墓の内部に暗器があるのではないかと恐れられたため、再び封印された<ref>{{Cite web |url=https://lishiwenhua.snnu.edu.cn/info/2002/13758.htm |title=馬超墓 |website=歴史文化名城 |publisher=[[陝西師範大学]] |language=zh|accessdate=2024-10-05}}</ref><ref>{{Cite book|和書|editor=勉県志編纂委員会|title=勉県志|series=陝西地方志叢書|publisher=地震出版社|date=1989|url=http://dfz.shaanxi.gov.cn/sqzlk/xbsxz/sxdyl/hzs_16205/mianxz/201004/t20100419_765321.html|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240106234627/http://dfz.shaanxi.gov.cn/sqzlk/xbsxz/sxdyl/hzs_16205/mianxz/201004/t20100419_765321.html|accessdate=2024-1-6|archivedate=2024-1-6|isbn=9787502802905|ref=mianxianz}}</ref>。馬超墓の周辺には、最古にして皇帝の詔のもと建てられた唯一の武侯祠である{{仮リンク|勉県武侯祠|zh|勉县武侯祠}}や女郎祠({{仮リンク|張魯の娘|zh|張琪瑛}}の墓)がある{{efn|民間伝承では、張魯の娘は張琪瑛という名であり、馬超に情を寄せたものの、共にいることは叶わなかった。[[曹宇]]に嫁いですぐに死去し、漢水付近にある灌子山(または観子山)に葬られたが、晴れた日には、そこから馬超墓を望むことができるのだという<ref>{{Cite web |author=馬世明 |url=http://hzdqw.hanzhong.gov.cn/hzdfz/zjsy/202211/b1c7dbe37fd54eadbe05d199901144a4.shtml |title=史志古籍中張魯在漢中的遺跡与伝説 |publisher=漢中市地方志弁公室|date=2022-11-18|accessdate=2024-01-10|archiveurl=https://web.archive.org/web/20240112022042/http://hzdqw.hanzhong.gov.cn/hzdfz/zjsy/202211/b1c7dbe37fd54eadbe05d199901144a4.shtml|archivedate=2024-1-12}}</ref>。}}。省級文物保護単位([[1992年]])<ref>{{Cite wikisource|wslink=陕西省人民政府关于公布陕西省第三批重点文物保护单位及撤销陕西省第一、二批部分重点文物保护单位的通知|title=陝西省人民政府関於公布陝西省第三批重点文物保護単位及撤銷陝西省第一、二批部分重点文物保護単位的通知
|wslanguage=zh}}</ref>。


== 創作における扱い ==
== 後世における受容 ==
=== 『三国志平話』 ===
=== 『三国志平話』 ===
『[[三国志平話]]』(以下『平話』)は、元代の[[至治_(元)|至治]]年間に成立した『全相平話』という歴史講談集のうちの一つである。史実に対する注意の希薄さが特徴である{{sfn|竹内|2002|p=19}}。物語は蜀漢を中心に語られ、「擁劉貶曹」思想を主題とする{{sfn|羅|2015|p=68}}。そのため、それを際立たせる描写が多数表出しており、馬超が曹操を何度も窮地に陥れるのはその一例である{{sfn|羅|2015|p=68}}。また『全相平話』の他作品とは異なり、人物描写の重点が装身具から相貌へ移行し、登場人物がより生気を帯びているという特徴を持つ<ref>金業焱「相術文化対《三国志平話》的影響——兼論《三国志平話》在小説史上的地位」『牡丹江大学学報』第5期、2018年、78–81、p. 79。</ref>。また特異な風貌を持つ人物の所属は蜀漢に集中している{{sfn|羅|2015|pp=67-68}}。なお、馬超挙兵と馬騰誅殺の時系列を前後させるという改変は、元代の[[雑劇]]や『平話』の時点ですでに見られる{{sfnm|竹内|2002|1p=7|張|2010|2p=34}}。このように因果関係を逆転させた物語は、民間層において広く伝わっていたと考えられる{{sfn|竹内|2002|p=7}}。以下は『平話』における馬超の事績である。
『[[三国志平話]]』(以下『平話』)は、元代の[[至治_(元)|至治]]年間に成立した『全相平話』という歴史講談集のうちの一つである。以下、馬超に関する場面の概略を記すが、後述する『[[三国志演義]]』と比較すると、登場人物の省略や人名の誤記、展開の稚拙さが顕著である。
*馬騰の長男であり、馬岱はその次男になっている。3人とも万夫不当の勇を持つと評判で、賈翊(賈詡)は「馬騰は諸葛亮、馬超は関羽、馬岱は張飛に匹敵する」と評している。容姿については「生きた蟹のように青ざめた顔、明るい星のような目」と描かれる{{efn|原文は「面如活蟹,目若朗星」<ref>{{Cite wikisource|wslink=全相平話/16|title=『三国志平話』巻下|wslanguage=zh}}</ref>。「面如活蟹」は色に関する表現であり、『[[封神演義]]』の登場人物である魔礼青および太鸞にも用いられている。このような珍しい容貌の描写は、『平話』では蜀漢する人物集中して見られる{{sfn||2015|pp=67-68}}。}}。
* 馬騰の長男であり、馬岱はその次男になっている。3人とも万夫不当の勇を持つと評判で、賈翊(賈詡)は劉備に対抗し得る勢力として「馬騰は諸葛亮、馬超は関羽、馬岱は張飛への対策となり得でしょう」と述べている<ref>{{Cite wikisource|wslink=全相平話/16|title=『三国志平話』巻下|wslanguage=zh|quote=有大夫賈翊對丞相說:「有先君手內罷了的西魏州平涼府節度使,姓馬名騰,乃東漢光武手中雲將馬援九世之孫。馬騰有二子:長子馬超,字孟起;次子馬岱。眾人言曰:『三個將軍,各有萬夫不當之勇。』馬騰可料諸葛,馬超可料關公,馬岱可敵張飛。」}}</ref>。容姿については「生きた蟹のように青ざめた顔、明るい星のような目」と描かれる{{efn|原文は「面如活蟹,目若朗星」<ref>{{Cite wikisource|wslink=全相平話/16|title=『三国志平話』巻下|wslanguage=zh}}</ref>。「面如活蟹」は色に関する表現であり、『[[封神演義]]』の登場人物である魔礼青および太鸞にも用いられている。}}。武器とて長槍を用るほか弓の名手でもある<ref>{{Cite wikisource|wslink=全相平話/16|title=三国志平話』巻下|wslanguage=zh|quote=馬超英勇,猿臂善射,無人可當。}}</ref>{{efn|元・明代の当時語られた馬超の物語は、彼の得物を長槍とするもの以外、[[鉤縄|飛撾]](縄の両端に鉤爪がついた飛び道具)を使うものが流布していたと考えられる{{sfn|孫|2011|p=95}}。孫勇進は、馬超が弓術に長けるという設定が『演義』に見られないのは、黄忠を弓の名手とするために設定の重複を避けるべく削除されたのではないかと推測している{{sfn||2011|p=96}}。}}。
*[[平涼府]][[節度使]]である馬騰は、劉備に対抗し得る勢力として曹操に呼び出されると「もし私が死んだら、曹操を殺して仇を取ってくれ」と言い残して発つ。そして、[[献帝_(漢)|献帝]]に謁見した際に曹操を除くよう暗に進言したことにより、曹操に殺されてしまう{{efn|挙兵馬騰誅殺の時系列を前後させるという改変は、『三国志演義』以前に成立した『平話』や元代の[[雑劇]]においてすでに存在する{{sfn|張|2010|p=34}}。}}。この時、馬超の母も殺されたことになっている。
* [[平涼府]][[節度使]]馬騰は、曹操に呼び出されると「もし私が死んだら、曹操を殺して仇を取ってくれ」と息子たちに言い残して発つ。そして、献帝に謁見した際に曹操を除くよう暗に進言したことにより、曹操に一族ごと殺される。
*従僕から馬騰および一族誅殺の件を知らされた馬岱、その情報を馬超る。嘆き悲しんだ馬超は、[[辺章]]と韓遂から1万の兵を借りて挙兵し、喪服をまとって戦場に立つ。[[夏侯惇]]と戦った際には、一旦負けたふりをして逃げた後、振り向きざまに矢を放って夏侯惇を殺しかける。馬超軍の攻撃に曹操軍は手も足も出ず、命からがら逃げのびた曹操は食事も喉を通らない{{efn|『平話』には「尊劉貶曹」思想が際立つ描写が多数表出しており、馬超が曹操を何度も窮地に追いやるのはその一例である{{sfn|羅|2015|p=68}}。曹操を貶める手段としての馬超は、『三国志演義』においても同様に機能している{{sfn|蔡|2010|p=74}}。}}
* 馬騰および一族誅殺の知らせは、従僕から馬岱、そこからさらに馬超へとる。嘆き悲しんだ馬超は、辺章と韓遂から1万の兵を借りて挙兵し、喪服をって戦場に立つ。馬超軍の攻撃に曹操軍は手も足も出ず、馬超と戦った[[夏侯惇]]があやうく射殺されかける。曹操は長い髭を目印に追われ、命からがら逃げのびるものの、動転するあまり食事も喉を通らない。
*次々に勝利を重ねる馬超軍が渭水の東南に布陣してから数日後、婁子旧([[婁圭|婁子伯]])と名乗る道士が馬超のもとを訪れる。「馬岱に1万の兵を率いさせ、まずは[[長安]]に赴いて献帝を救い、曹操の家族を殺しなさい。それから曹操を殺しても遅くはない」という彼の策を、馬超は回りくどいと言って退ける。すると婁子旧は曹操軍の陣営に足を運び、辺章と韓遂に賄賂を送れば軍を退却させられると曹操に進言する。それによって馬超は軍勢のほとんどを失い、張魯のもとへ逃げ去る。
* 次々に勝利を重ねる馬超軍が渭水の東南に布陣してから数日後、婁子旧([[婁圭|婁子伯]])と名乗る道士が馬超のもとを訪れる。「馬岱に1万の兵を率いさせ、まずは長安に赴いて献帝を救い、曹操の家族を殺しなさい。それから曹操を殺しても遅くはない」という彼の策を、馬超は回りくどいと言って退ける。すると婁子旧は曹操軍の陣営に足を運び、辺章と韓遂に賄賂を送れば軍を退却させられると曹操に進言する。それによって馬超は軍勢のほとんどを失い、張魯のへ逃げ去る。
*劉備軍と対峙した際、夏侯惇の時と同様の戦法を用いて[[魏延]]と戦う。諸葛亮が[[伊籍]]を派遣するや劉備に投降し、定遠侯{{efn|この封侯は『平話』の創作だが、[[西域]]で活躍した[[班超]]に与えられた封号でもある。}}に封じられて[[五虎大将軍|五虎将軍]]の一員となる。荊州にいた関羽は、馬超の封侯とその武勇に対する賞賛を聞いて不満を漏らすが、諸葛亮から受け取った手紙を見て機嫌を直す。
* 劉備軍と対峙した際には[[魏延]]と矛を交える。諸葛亮が[[伊籍]]を派遣するや投降し、定遠侯に封じられて[[五虎大将軍|五虎将軍]]の一員となる。荊州にいた関羽は、馬超の封侯とその武勇に対する賞賛を聞いて不満を漏らすが、諸葛亮から受け取った手紙を見て機嫌を直す。
*陽平関に侵攻する曹操軍の対処に立候補し、諸葛亮から策を授かるものの、飲酒が原因で敗北し、陽平関を[[張遼]]に奪われてしまう。諸葛亮と顔を合わせないよう密かに逃走するが、曹操軍に出くわすたび、冠や兜を外れさせたり、吐血させたりするほどに曹操を叩きのめしている。
* 陽平関に侵攻する曹操軍の対処に立候補し、諸葛亮から策を授かるものの、飲酒が原因で敗北し、陽平関を[[張遼]]に奪われてしまう。諸葛亮と顔を合わせないよう密かに逃走するが、軍に出くわすたび、曹操を散々に叩きのめしている。
*劉備が仇討ちのため呉に出兵した際には、剣関([[剣閣県|剣門関]])の守備を任されている。そして、[[呂蒙]]と対峙する諸葛亮を[[関平]]と共に援護したのを最後に、物語から姿を消す。
* 劉備が仇討ちのため呉に出兵した際には、剣関([[剣閣県|剣門関]])の守備を任されている。そして、[[呂蒙]]と対峙する諸葛亮を[[関平]]と共に援護したのを最後に、物語から姿を消す。


=== 『三国志演義』 ===
=== 『三国志演義』 ===
小説『三国志演義』において、馬超は作中でも屈指の武勇を誇る武将として登場する。「冠の玉のような{{Ruby|顔|かんばせ}}、流星のような眼、虎の体に猿の{{Ruby|臂|うで}}、{{Ruby|彪|ひょう}}の腹に狼の腰」<ref>[[#yanyi1|『三国志演義(一)』]], p. 225. 原文は「面如冠玉,眼若流星,虎體猿臂,彪腹狼腰」。「猿臂」は長い腕、「虎體」と「彪腹狼腰」はすなわち「腰細膀寬」、細腰で体格が良いことを表す。</ref>を持ち、「生まれつき白粉を塗ったように色白、唇は紅をさしたよう」<ref>[[#yanyi2|『三国志演義(二)』]], p. 590. 原文は「生得面如傅粉,脣若抹硃」。</ref>な美将あり、「'''錦馬超'''」(きんばちょう)称えられている。個人的な武勇が目立つよう描かれており、毛宗崗の分類では、五虎将の中で唯一、無比の武勇でもって敵陣を突き崩す驍将である<ref>{{Cite wikisource|wslink=三國演義/附錄3|title=『三国志演義』「読国志法」|wslanguage=zh|quote=吾自{{Interp|諸葛亮、関羽、曹操|原文は三絕}}而外,更遍觀乎三國之前三國之後,{{interp|...}}問有武功將略邁等越倫,如張飛、趙雲黃忠{{interp|...}}者乎?問有衝鋒陷陣驍銳莫當,如馬超{{interp|...}}者乎?}} 関羽「三絶」の一人であるため、特別扱いを受けてい。</ref>{{efn|毛宗崗は馬超に大将の才持つ他4人比較すれば、仁智に欠ける戦将に留まるとしており、五虎将の中では評価が最も低い<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=857081#p6 毛宗崗批評本三国演義第64回]. 中国哲学書電子化計画. 2024年2月20日閲覧, "五虎將中關、張、趙、黃皆大將才也。若馬超則丁為戰將而不可為大將。其殺韋康,屠百姓,不得謂之仁矣;其不疑楊阜不得謂之智矣。前既惑於曹操,而攻韓遂;後復歸於張魯,而拒德:此其識見當在四人"</ref><!-- リンク先本文では「五虎將中,關、張、超、黃皆大將才也。」とあるが正くは「超」はなく「趙」 -->。}}。この変形の一例して曹操の「馬の小僧が死ななけば」いう言葉は、馬超の戦略眼の鋭さに対す恐れの発露ではなく馬超勇壮な姿を観察しての腹立たしげな独言となっている。また許褚や張飛と一騎討ちは、場面を盛り上げるだけなく、「虎将を描くとき、{{interp|その相手に|和文=1}}懦弱な者を用いて造形するよりも、ましい者て造形することで武勇実感するほうがよい」<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=796467#p4 『毛宗崗批評本三国演義』第45回]. 中国哲学書電子化計画. 2024年3月6日閲覧, "寫虎將者,以懦夫形之而勇,不若以勇夫形之而覺其更勇"</ref>という理論に則り創作されたものである{{sfn||2010|p=71}}。
元末明初に成立した小説『[[三国志演義]](以下『演義』)において、馬超は「冠の玉のような{{Ruby|顔|かんばせ}}、流星のような眼、虎の体に猿の{{Ruby|臂|うで}}、{{Ruby|彪|ひょう}}の腹に狼の腰」<ref>『三国志演義(一)』井波律子訳、[[講談社学術文庫]]、2014年、p. 225。</ref>{{efn|原文は「面如冠玉,眼若流星,虎體猿臂,彪腹狼腰」。「猿臂」は長い腕で弓の扱いに長けることを示し、「虎體」と「彪腹狼腰」はすなわち「腰細膀寬」、細腰で体格が良いことを表す{{sfn|上原|2024|pp=165-166}}}}を持ち、「生まれつき白粉を塗ったように色白、唇は紅をさしたよう」<ref>『三国志演義(二)』井波律子訳、講談社学術文庫、2014年、p. 590原文は「生得面如傅粉,脣若抹硃」。</ref>で、「獅子のかぶに猛獣をあしった{{Ruby|帯|ベルト}}、銀の鎧に白い{{Ruby|戦袍|ひたた}}を身につけている<ref>『三国志演義)』井波律子訳、講談社学術文庫、2014年、p. 116。</ref>{{efn|原文は「獅盔獸帶,銀甲白袍」。初期の版本には兜の意匠にする描写はない{{sfn||2024|p=165}}。また獅子頭の兜は明の宮廷演劇でも用いられていた{{sfn|上原|2024|p=166}}。日本の漫画・ゲームにおける特徴的な兜の造形は後期の『演義』版本の記述をもとに[[連環画]]で描かれた兜の意匠を経て成立したと考えられる{{sfn|上原|2024|pp=166-167}}。}}美将であり、その非凡な風采から「錦馬超(きんばちょう)」と称えられている{{sfn|井波|2007b|p=304}}。その白さは、容貌だけでなく服装や装備によっても強調される{{sfn|上原|2024|pp=166, 175}}。白中国において喪服に使用される色であるため、着用す白袍は馬超が弔い合戦臨んでることを表すが{{sfn|上原|2024|p=166}}ここでは白西方象徴とする[[五行思想]]も反映さているとしい{{sfn|上原|2024|pp=166, 173-174}}<ref>{{Cite wikisource|wslink=周禮/冬官考工記|title=『周礼冬官考工記|wslanguage=zh|quote=東方謂之青南方謂之赤西方謂之白北方謂之謂之玄,地謂}}</ref>。また『演義』諸版本どの挿絵においてもは年齢を問わずひげのない若々い姿描かれる{{sfn|上原|2024|p=169}}。井波律子によると、『演義』で容姿端麗に描かる代表的な武将して呂布・馬超・周瑜が挙げられ3人はいずれとも曹操と対点で共通している{{sfn|井波|2007b|pp=305-307}}{{efn|name="容姿"|呂布・馬超・周瑜三者は、京劇などの芝居の世界おいても[[二枚目]]の役柄ある{{sfn|井波|2007b|p=302}}。}}。特に呂布・馬超は史実において勇を讃えられ、かつ曹操を窮地に追やった強さを持つことを前提とし、そこに[[エキゾチシズム]]が加わったことで、容姿の美しさが描写されたと考えられる{{sfn|上原|2024|pp=172-173}}馬超の場合、馬騰の容姿に関する「面鼻雄異」という史書の記述から派生し可能性もあるという{{sfnm|井波|2007b|1p=305|上原|2024|2pp=171-172}}。


馬超は作中でも屈指の武勇を誇る武将として登場し、「人並み外れて雄烈」な面がひときわ強調されている{{sfn|蔡|2010|p=71}}{{efn|毛宗崗は馬超について、大将の才を持つ他の4人と比較すれば、仁智に欠ける戦将に留まるとしており、五虎将の中では評価が最も低い{{sfn|張|2010|p=36}}<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=857081#p6 『毛宗崗批評本三国演義』第64回]. 中国哲学書電子化計画. 2024年2月20日閲覧, "五虎將中,關、張、趙、黃皆大將才也。若馬超,則丁為戰將,而不可為大將。其殺韋康,屠百姓,不得謂之仁矣;其不疑楊阜,不得謂之智矣。前既惑於曹操,而攻韓遂;後復歸於張魯,而拒玄德:此其識見,當在四人之下。"</ref>。}}。この単純化により、曹操の「馬の小僧が死ななければ」という言葉は、馬超の戦略眼の鋭さに対する恐れの発露ではなく、馬超軍に大敗した後に馬超の勇壮な姿を観察しての独言となっている{{sfn|蔡|2010|p=72}}。また許褚や張飛との一騎討ちは、単に場面を盛り上げるだけでなく、「虎将を描くとき、〔その相手に〕懦弱な者を用いて造形するよりも、勇ましい者を用いて造形することで武勇を実感するほうがよい」<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=796467#p4 『毛宗崗批評本三国演義』第45回]. 中国哲学書電子化計画. 2024年3月6日閲覧, "寫虎將者,以懦夫形之而勇,不若以勇夫形之而覺其更勇。"</ref>という理論に則り創作されたものである{{sfn|蔡|2010|p=71}}。『演義』創作の一環には、このような馬超などの人物の勇猛さを引き立てる工夫が、伝統的な国民感情である「擁劉反曹」思想を前提に存在している{{sfn|張|2010|p=37}}。
以下に示す馬超の事績からは、『平話』に引き続き、数多くの操作が全般的に加えられていることが見て取れる。時系列の改変は依然として大胆なものといえるが、この転換には、中国の伝統的な倫理観から大きく逸脱する馬超の行動を「是正」し、より英雄たるにふさわしい存在として物語に配する意図がある{{sfn|蔡|2010|p=74}}。また、馬超を美化する過程には父の人物造形の変化も含まれている。『三国志演義』の馬騰は反董卓連合軍に名を連ね、さらには献帝の発した曹操誅殺の密勅にも漢の忠臣として参与し、死亡時にはその忠烈を讃える詩すら登場する{{efn|目上や年長者を尊ぶ中国の伝統に基づいて、大衆理念においては「父が英雄ならば息子もまた好漢たるべし」ということになる。その逆もまた然りである{{sfn|蔡|2010|p=73}}。}}。これらの改変を経て、悍勇ぶりで名を馳せた叛将から、孝を尽くす悲劇の英雄へと姿を変えた馬超は、人々の共感と称賛に浴し、蜀の五虎将のひとりとして受容されるに至ったのである。

*長安を占拠した[[李傕]]一派と馬騰・韓遂軍が対峙する中、馬超はわずか17歳にして敵将の[[王方]]を討ち取り、[[李蒙]]を生け捕るという鮮烈な活躍を見せるだけでなく、馬騰らの敗走時にもしんがりを務め、追撃する[[張済 (後漢の武将)|張済]]を退けている。馬騰は曹操と対立する涼州の一勢力として描かれているため、[[袁紹]]残党の郭援らとの戦いは採用されていない。
『演義』における馬超の事績は『平話』と同様に、様々な改変が全般的に加えられている。作中の馬超は『平話』から継続して、曹操を貶める手段として機能している{{sfn|蔡|2010|p=74}}。また『演義』は『平話』と比較して史実に近いとされるが、馬超の形象に関しては、史実に全く反する「虚構」の存在といえる{{sfn|竹内|2002|pp=8-9}}。改変の代表例である因果関係の逆転には、中国の伝統的な倫理観から大きく逸脱する馬超の行動を「是正」し、より英雄たるにふさわしい存在として物語に配する意図がある{{sfn|蔡|2010|p=74}}。さらに、蜀漢に仕える人物であるために擁護がなされているという面もある{{sfn|仙石|2015|pp=54, 56}}。そして馬超を美化する過程には、その父である馬騰の人物造形の変化も含まれている{{sfn|竹内|2002|pp=5-7}}。『演義』の馬騰は反董卓連合軍に名を連ね、献帝の発した曹操誅殺の密勅にも漢の忠臣として参与し、死亡時にはその忠烈を讃える詩すら登場する{{sfn|蔡|2010|p=73}}{{efn|目上や年長者を尊ぶ中国の伝統に基づき、大衆理念においては「父が英雄ならば息子もまた好漢たるべし」という理屈が生じるが、ここではその順番を入れ替えたものが適用されている{{sfn|蔡|2010|p=73}}。}}。{{仮リンク|毛宗崗|zh|毛宗崗}}の編纂した『演義』(毛宗崗本)において、馬騰の遺志を継いだ馬超は忠孝の体現者である{{sfn|仙石|2015|p=56}}<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=857081#p4 『毛宗崗批評本三国演義』第64回]. 中国哲学書電子化計画. 2024年8月17日閲覧, "楊阜之為韋康報仇,義也;而其攻馬超以助曹操,則非義。馬騰兩番受詔,兩番討賊,固漢之忠臣也;其子之欲雪父恨則孝,承父志而討國賊則忠。奉一欺君罔上之曹操,而攻一忠孝之馬超,以超為賊,而不知操之為賊,故楊阜之義,君子無取焉。"</ref>。改変を経て、不孝な叛将から忠孝を尽くす悲劇の英雄へと変貌を遂げた馬超は、父子ともども人々の共感と称賛に浴し、その芳名を語り継がれた{{sfn|蔡|2010|p=74}}。
*[[孫権]]討伐を目論んだ曹操は、後顧の憂いを断つべく馬騰を[[西涼]]から[[許昌]]に召し寄せ、謀殺を図る。馬騰は馬休・馬鉄・馬岱を連れて都に向かうが、[[黄奎]]との曹操暗殺計画が発覚し、息子2人もろとも殺されてしまう{{efn|『三国志演義』には様々な版がある。[[李卓吾]]本では、馬騰は一族と共に曹操のもとへ移り、後に連座して処刑される<ref>[[#lizhuowu|羅・李]]. {{PDFlink|[https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he21/he21_03536/he21_03536_0013/he21_03536_0013.pdf 第57回 § 耒陽県張飛薦龐統]}}. ''古典籍総合データベース''. 早稲田大学図書館. 2024年2月5日閲覧, "操下令,將馬騰、黃奎並兩家良賤,共三百餘口,斬於市曹。"</ref>。毛綸・{{仮リンク|毛宗崗|zh|毛宗崗}}父子により編纂された毛宗崗本(現在広く普及する版)では、一族への言及はない。}}。涼州に留まっていたため難を逃れた馬超は、唯一逃げ延びた従弟の馬岱と共に、復讐のために兵を起こす。
* 長安を占拠した李傕一派と馬騰・韓遂軍が対峙する中、馬超はわずか17歳にして敵将の[[王方]]を討ち取り、[[李蒙]]を生け捕るという鮮烈な活躍を見せるだけでなく、馬騰らの敗走時にも殿を務め、追撃する[[張済 (後漢の武将)|張済]]を退けている。袁紹陣営の残党勢力である郭援らとの戦いは採用されていない。
*馬超は、韓遂およびその8人の部将{{efn|『三国志演義』では、馬超・韓遂以外の8軍閥は韓遂の配下となっている。}}とともに20万の大軍をもって長安に攻め寄せ、陥落させる。潼関の戦いでは、その超人的な武で曹操軍を蹴散らしながら曹操を苛烈に追い、討ち取る寸前にまで及ぶ{{efn|『三国志演義』では、曹操は馬超の武勇を[[呂布]]に匹敵するものとして評価している。楊阜もまた、馬超の武勇を韓信・黥布ではなく呂布に準えている。}}。戦役半ばでは、許褚がしかけた一騎討ちに応じ、死闘を繰り広げる。しかし、離間の計により馬超以外の9人全員が曹操軍に寝返り、それに激怒した馬超は、楊秋にそそのかされて降伏を選んだ韓遂の左手を切断し、梁興・馬玩を斬殺する。その後、曹操軍に包囲される中で孤軍奮闘するも、馬を射られて落馬したところを龐徳と馬岱に助けられ、[[隴西郡|隴西]]まで逃走する。
* 孫権討伐を目論んだ曹操は、後顧の憂いを断つべく、西涼太守の馬騰を[[許昌]]に召し寄せての謀殺を図る。馬騰は馬休・馬鉄・馬岱を連れて都に向かうが、[[黄奎]]との曹操暗殺計画が発覚し、息子2人もろとも殺されてしまう{{efn|『演義』には様々な版がある。[[李卓吾]]本では、馬騰は一族と共に曹操の下に移り、後に暗殺計画を企てたかどで処刑・族滅される<ref>{{PDFlink|[https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he21/he21_03536/he21_03536_0013/he21_03536_0013.pdf 第57回 § 耒陽県張飛薦龐統]}}. [[羅貫中]]、[[李贄]]『[https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/html/he21/he21_03536/index.html 李卓吾先生批評三国志]』(緑蔭堂本). ''[https://www.wul.waseda.ac.jp/kotenseki/ 古典籍総合データベース]''. [[早稲田大学図書館]]. 2024年2月5日閲覧, "{{interp|曹}}操下令,將馬騰、黃奎並兩家良賤,共三百餘口,斬於市曹。"</ref>。毛綸・毛宗崗父子により編纂された毛宗崗本(現在広く普及する版)では、一族への言及はない。}}。涼州に留まっていたため難を逃れた馬超は、唯一逃げ延びた従弟の馬岱と共に、復讐のために兵を起こす。
*涼州で再起した馬超は、降伏した韋康ら40人余りを殺害する。楊阜らはその報復に、冀城から締め出された馬超の目前で、彼の妻子たちを一人ずつ殺してはその死体を城壁から投げ落とす。馬超は歴城を襲撃して住民を殲滅し、姜叙の母を手にかける{{efn|李卓吾本では、楊阜や姜叙の母は馬超のことを「叛君無父之徒」や「背父叛君,無義之賊」、「背父無君,逆天之賊」と罵るが、『三国志演義』における馬超は父の仇討ちで曹操に反逆した孝子であるため、食い違いが生じている<ref>[[#lizhuowu|羅・李]]. {{PDFlink|[https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he21/he21_03536/he21_03536_0014/he21_03536_0014.pdf 第64回 § 楊阜借兵破馬超]}}. ''古典籍総合データベース''. 早稲田大学図書館. 2024年2月5日閲覧。</ref>。「無君」および「無父」は、[[孟子]]が[[楊朱]]・[[墨子]]を攻撃する際に用いた語である。それぞれ自分本位なこと、父親をとりわけ重んじないことを指し、禽獣に喩えられ指弾の対象となっている<ref>{{Cite wikisource|wslink=孟子/滕文公下|title=『孟子』滕文公下|wslanguage=zh|quote=聖王不作,諸侯放恣,處士橫議。楊朱、墨翟之言盈天下。天下之言,不歸楊則歸墨。楊氏爲我,是無君也。墨氏兼愛,是無父也。無父無君,是禽獸也。}}</ref>。毛宗崗本では、上記の矛盾は修正されている。}}。同時に、[[尹奉]]の家族および本人と王氏(王異)を除いた趙昂の家族を皆殺しにする。そして、ここに至ってようやく救援に駆けつけた夏侯淵により、馬超の軍勢は壊滅する。
[[ファイル:新刊校正古本大字音释三国志通俗演义_明万历十九年书林周曰校刊本_118.jpg|thumb|300px|許褚が庇う曹操(左中央)に矢を放つ馬超(右上)]]
*漢中の張魯を頼って以降、馬超が涼州に出兵することはない。馬超と張魯の娘との縁談を阻んだ[[楊白|楊柏]]は、己に対する馬超の殺意を知ると、兄の[[楊松]]に相談して馬超暗殺を企てる。その後、劉璋への救援に名乗りをあげた馬超は[[葭萌関]]で劉備軍の張飛と一騎討ちをし、夜戦にまでもつれこむ。馬超の武勇に感嘆する劉備の意向を汲み、諸葛亮は策を講じる。賄賂を送られた楊松の讒言によって進退両難に陥った馬超は、李恢の説得を通じて劉備軍に降り、援軍だったはずの馬超に脅され愕然とした劉璋は降伏を決意する{{efn|井玉貴が論じるには、歴史上の劉備は、劉璋を降伏させるべく馬超の威力を活用し、さらに兵を補充してそれを強めたが、『三国志演義』では仁君としての劉備像を守る目的で、劉備による増兵は描写されなかった{{sfn|井|2024|p=177}}。}}。関羽は馬超の帰順を知ると、馬超との試合を望む旨を記した書状を諸葛亮に送っている{{efn|毛宗崗は、関羽の真の意図は腕比べにはなく、益州諸将の中に己を凌駕する者はいないだろうという馬超の驕りを挫くことにあると読んでいる<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=345037#p4 『毛宗崗批評本三国演義』第65回]. 中国哲学書電子化計画. 2023年12月21日閲覧, "關公之欲與馬超比試,非真欲與之比試也,欲借此以壓服其心也。{{interp|...}}馬超新降,其視川中諸將無出我右,將不免於自矜。"</ref>。}}。
* 馬超は、韓遂およびその8人の部将{{efn|『演義』では、馬超・韓遂以外の8軍閥は韓遂の配下となっている。}}と共に20万の大軍をもって長安に攻め寄せ、陥落させる。潼関の戦いでは、[[于禁]]・張郃を次々に退け、[[李通_(後漢末)|李通]]を刺殺し、曹操を猛追して討ち取る寸前にまで及ぶ{{efn|『平話』にも存在するこの追走劇は雑劇から継承されてきたものと見られるが、雑劇では馬超が降伏した後の逸話となっている{{sfn|張|2010|p=35}}。また『演義』では、馬超の武勇は曹操から呂布に匹敵するものとして評価され、楊阜からも韓信・黥布ではなく呂布に準えられている。}}。戦役半ばでは許褚がしかけた一騎討ちに応じ、死闘を繰り広げる。しかし離間の計によって馬超以外の9人全員が曹操軍に寝返り、それに激怒した馬超は、楊秋にそそのかされて降伏を選んだ韓遂の左手を切断し、梁興・馬玩を斬殺する。その後曹操軍に包囲されながら孤軍奮闘するも、馬を射られて落馬したところを龐徳と馬岱に助けられ、隴西まで逃走する。
*帰順後は、漢中攻防戦で活躍する。陽平関を失った曹操軍の加勢に来た[[曹彰]]を、馬超は[[孟達]]軍とともに挟み撃ちにし、曹操をして「[[鶏肋]]」と言わしめる状況へと追い込んでいる。その後、劉備が漢中王となるにあたって五虎大将軍に任じられる{{efn|五虎将の序列について、『平話』や『三国志演義』の多くの版本が『三国志』における立伝順(関、張、馬、黄、趙)に従う中、毛宗崗本のみが趙雲を3番手に引き上げ、相対的に馬超を降格しているが、これは『三国志演義』で大幅に書き足された趙雲の活躍が馬超・黄忠を上回っており、毛宗崗がそれを反映させたことによる<ref>上野隆三「『三国演義』における趙雲像」『中國文學報』第38号、1987年、86-114、pp. 102-104。</ref>。}}。関羽は黄忠と同格に扱われたことに怒るが、馬超については「代々続く名家だから」という理由で認可する。
* 涼州で再起した馬超は、降伏した韋康とその一族40人余りを殺害する。楊阜らはその報復に、冀城から締め出された馬超の目前で、彼の妻子たちを一人ずつ殺してはその死体を城壁から投げ落とす。その衝撃で馬超は失神した後、歴城を襲撃して住民を殲滅し、姜叙の母を手にかける{{efn|李卓吾本では、楊阜や姜叙の母が馬超のことを「叛君無父之徒」や「背父叛君,無義之賊」と呼び、「背父無君,逆天之賊」と罵る{{sfn|仙石|2015|p=54}}<ref>{{PDFlink|[https://archive.wul.waseda.ac.jp/kosho/he21/he21_03536/he21_03536_0014/he21_03536_0014.pdf 第64回 § 楊阜借兵破馬超]}}. 『李卓吾先生批評三国志』. 2024年2月5日閲覧。</ref>。「無君」および「無父」は、[[孟子]]が[[楊朱]]・[[墨子]]を攻撃する際に用いた語で、それぞれ(極端な個人主義で)主君を無視すること、(無差別な博愛によって)父親を無視することを指し、禽獣に比され指弾の対象となっている<ref>{{Cite wikisource|wslink=孟子/滕文公下|title=『孟子』滕文公下|wslanguage=zh|quote=聖王不作,諸侯放恣,處士橫議。楊朱、墨翟之言盈天下。天下之言,不歸楊則歸墨。楊氏爲我,是無君也。墨氏兼愛,是無父也。無父無君,是禽獸也。}}</ref><ref>{{Cite book|和書|author=宇野精一|title=孟子|series=全釈漢文大系|volume=第2巻|publisher=集英社|date=1973|page=222}}</ref>。このように、李卓吾本では史実における馬超の事績が混在しているが、毛宗崗本は先述の罵倒を部分的に削除することで修正している{{sfn|仙石|2015|p=54}}。}}。同時に、[[尹奉]]の家族および本人と王氏(王異)を除いた趙昂の家族を皆殺しにする。その後、救援に駆けつけた夏侯淵により馬超の軍勢は壊滅する。
*関羽が龐徳に降伏を迫る際、漢中在住の従兄である龐柔の名を出すが、作中ではさらに馬超にも言及している。関羽の敗死後、逮捕の情報を孟達に知らせるべく彭羕が遣わした使者を、馬超の巡視隊が捕える{{efn|『三国志演義』では、孟達と彭羕は親しい関係にあるという設定である。}}。事情を知った馬超は彭羕に鎌をかけ、反乱の意思を聞き届けた後にそれを告発している。
[[ファイル:新刊校正古本大字音释三国志通俗演义_明万历十九年书林周曰校刊本_131.jpg|thumb|300px|馬超(左)と張飛(右)の一騎討ち]]
*[[劉禅]]の即位に応じて、[[曹丕]]が[[司馬懿]]の進言で5方面から蜀を攻めようとした時、諸葛亮はその対策の一つとして、羌族からの人望が厚く「神威天将軍」と称される馬超を西平関(架空の関)の守護に当たらせ、脅威を未然に防ぐ。馬超は[[諸葛亮南征|南征]]には従軍せず、陽平関の守備を務めるが、南蛮平定後に死亡したことが語られる。諸葛亮は腕を折られたような思いでその死を惜しみ、[[北伐 (諸葛亮)|北伐]]の際には馬超の墓を訪れている。
* 漢中の張魯を頼って以降、馬超が涼州に出兵することはない。馬超と張魯の娘との縁談を阻んだ[[楊白|楊柏]]は、己に対する馬超の殺意を知ると、兄の[[楊松]]に相談して馬超暗殺を企てる。その後、劉璋への救援に名乗りをあげた馬超は[[葭萌関]]で劉備軍の張飛と一騎討ちをし、夜戦にまでもつれこむ{{efn|馬超がこの時に限り用いる[[流星錘|銅錘]]は、祖先の馬援が飛撾を得意としたという民間伝承およびそれを踏襲した雑劇が由来と見られる{{sfn|孫|2011|p=94}}。雑劇や『演義』の一部の版本では馬超が「銅撾」を使う描写があるが、毛宗崗本で使用されるのは「銅錘」である{{sfnm|上原|2024|1pp=167-169|孫|2011|2p=93}}。また[[豫劇]]の演目『対金抓(収馬岱)』には、馬騰の遺品として雌雄一対の金抓が馬超と馬岱それぞれに受け継がれるという筋がある{{sfn|孫|2011|p=93}}。}}。馬超の勇姿に感嘆する劉備の意向を汲み、諸葛亮は策を講じる。賄賂を送られた楊松の讒言によって進退両難に陥った馬超は、李恢の説得を通じて劉備軍に降り、援軍だったはずの馬超に脅され愕然とした劉璋は降伏を決意する{{efn|井玉貴によれば、歴史上の劉備は、劉璋を降伏させるべく馬超の威力を活用し、さらには兵を補充してそれを強めた。しかし『演義』では仁君としての劉備像を守る目的で、劉備による増兵は描写されなかった<ref>井玉貴「道徳困境与敘事策略——三国故事「取益州」的嬗変」『文学遺産』第1期、2024年、173–184、p. 177。</ref>。}}。関羽は馬超の帰順を知ると、馬超との試合を望む旨を記した書状を諸葛亮に送っている{{efn|毛宗崗の解釈では、関羽の真の意図は腕比べにはなく、益州諸将の中に己を凌駕する者はいないだろうという馬超の驕りを挫くことにあるのだという<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=345037#p4 『毛宗崗批評本三国演義』第65回]. 中国哲学書電子化計画. 2023年12月21日閲覧, "關公之欲與馬超比試,非真欲與之比試也,欲借此以壓服其心也。{{interp|...}}馬超新降,其視川中諸將無出我右,將不免於自矜。"</ref>。また諸葛亮の賞賛を見て「孔明は私の心を理解している」と言ったのは、褒められて喜んだわけではないという<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=345037#p19 『毛宗崗批評本三国演義』第65回]. 中国哲学書電子化計画. 2024年9月4日閲覧, "正欲孔明將自搖高,高以壓服孟起耳,非喜其譽已也。"</ref>。このような解釈には関羽崇拝のきらいがある{{sfn|張|2010|p=36}}。}}。
* 定軍山の戦いでは、陽平関を失った曹操軍の加勢に来た[[曹彰]]を[[孟達]]軍と共に挟み撃ちにし、曹操をして「[[鶏肋]]」と言わしめる状況へと追い込んでいる。そして劉備が漢中王となるに従い、五虎大将軍に任じられる{{efn|五虎将の序列について、『平話』や『演義』の多くの版本が『三国志』における立伝順(関張馬黄趙)に従う中、毛宗崗本のみが[[趙雲]]を3番手に引き上げ、相対的に馬超を降格しているが、上野隆三によれば、これは『演義』で大幅に書き足された趙雲の活躍が馬超・黄忠を上回っており、毛宗崗がそれを反映させたことによる<ref>上野隆三「『三国演義』における趙雲像」『中國文學報』第38号、1987年、86–114、pp. 102–104。</ref>。}}。関羽は黄忠と同格に扱われたことに怒るが、馬超については「代々続く名家だから」という理由で認可する。
* 関羽が龐徳に降伏を迫る際、漢中在住の従兄である[[龐柔]]の名を出すが、作中ではさらに馬超にも言及している。関羽の敗死後、逮捕の情報を孟達に知らせるべく彭羕が遣わした使者を、馬超の巡視隊が捕える。事情を知った馬超は彭羕に鎌をかけ、反乱の意思を聞き届けた後にそれを告発している。
* [[劉禅]]の即位に応じて、曹丕が[[司馬懿]]の進言で5方面から蜀を攻めようとした時、諸葛亮はその対策の一つとして、羌族からの人望が厚く「神威天将軍」<ref>{{Cite book|和書|author=羅貫中|title=三国演義|volume=下|series=中国古典文学読本叢書|publisher=[[人民文学出版社]]|date=2019|page=701|isbn=9787020008728}}</ref>{{efn|[https://hanchi.ihp.sinica.edu.tw/ihp/hanji.htm 漢籍全文資料庫](版本:羅漢中撰、毛宗崗批評、饒彬校注『三国演義』[[三民書局]]〈中国古典名著〉、1989年)では「神威大将軍」。井波律子は『演義』翻訳のテキストに人民文学出版社の1957年1月刊行のものを用いており<ref>『三国志演義(一)』井波律子訳、講談社学術文庫、2014年、p. 11。</ref>、該当箇所の訳は「神威天将軍」である<ref>『三国志演義(三)』井波律子訳、講談社学術文庫、2014年、p. 531。</ref>。}}と称される馬超を西平関(架空の関)の守護に当たらせ、脅威を未然に防ぐ{{efn|ここにおいての馬超は、諸葛亮の遠謀深慮を描写するための駒である{{sfn|張|2010|p=37}}。}}。馬超は[[諸葛亮南征|南征]]には従軍せず、陽平関の守備を務めるが、南蛮平定後に死亡したことが語られる{{efn|『演義』において、馬岱は南征以降、馬超のような役割を果たす後継者として設定される{{sfn|竹内|2002|pp=9-13}}。}}。諸葛亮は腕を折られたような思いでその死を惜しみ、[[北伐 (諸葛亮)|北伐]]の際には馬超の墓を訪れている。


=== 『後漢演義』 ===
=== 『後漢演義』 ===
『後漢演義』は、清代から中華民国にかけての小説家および歴史学者である{{仮リンク|蔡東藩|zh|蔡東藩}}により著された、11部からなる『{{仮リンク|中国歴朝通俗演義|zh|中國歷朝通俗演義}}』のうちの一つである。[[王莽]]による簒奪から始まり、禅譲を受けた[[司馬炎]]による[[西晋|晋]]の建国で終わる構成になっている。作中には史への言及のみならず、『三国志演義』の誤謬および創作部分の指摘や、同書の作者とされる[[羅貫中]]への批判が随所に差し挟まれている。この作風ゆえに、馬騰誅殺は潼関の戦い以後に行われ、曹操を狙った苛烈な追跡や数々の一騎討ちといった描写もなく、馬超に関連する描写は概ね『三国志』に準じている。しかし、渡河の際に馬超が曹操からあと100歩余りの距離まで迫っている場面や、妻子の首が城壁から投げ落とされる場面、張魯から離れて劉備に帰順劉璋を降伏させるまでの経緯ど、『三国志演義』の影響を受けてる箇所も散見される
『後漢演義』は、清代から[[中華民国_(1912年-1949年)|中華民国]]時代にかけての小説家および歴史学者である{{仮リンク|蔡東藩|zh|蔡東藩}}により著された、11部からなる『{{仮リンク|歴朝通俗演義|zh|中國歷朝通俗演義}}』のうちの一つである。[[王莽]]による簒奪から始まり、禅譲を受けた[[司馬炎]]による西晋の建国で終わる構成になっている。蔡東藩の小説は史実に忠実であり<ref>{{Cite journal|和書|author=陳姝瑾|title=試論信史小説的創作——以《後漢演義》、《三国演義》、《三国志》比較為例|journal=南京師範大学文学院学報|issue=第2期|date=2016|pages=53–58|ref={{sfnref|陳|2016}}}}p. 56。</ref>、史書を読んでいない読者の思い違いを防ぐために、作中には史への言及に留まらず、『演義』の誤謬および創作部分の指摘や、同書の作者とされる[[羅貫中]]への批判が随所に差し挟まれている<ref>{{Cite journal|和書|author1=龍剣平|author2=朱小寧|title=“歴史演義”中真実与趣味的両難選択|journal=攀枝花学院学報|issue=第2期|date=2008|pages=63–65, 69, 73|ref={{sfnref|龍・朱|2008}}}}、p. 65。</ref>。この作風ゆえに馬超に関連する描写はおおむね史書に準じており、馬騰誅殺は潼関の戦い以後に行われ<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第086回|title=『後漢演義』第86回|wslanguage=zh|quote=馬超少年好勇,更恐操征父入朝,不懷好意,又復聯同韓遂,及侯選程銀李湛張橫梁興成宜馬玩楊秋八部兵馬,會師十萬,進攻潼關。操得知警報,便加罪馬騰,闔家下獄﹔據《馬超傳》中,超起兵後,為操所敗,操始滅馬家。可見羅氏《演義》所敘無據。}}</ref>、曹操に対する執拗な追跡や数々の一騎討ちといった場面も存在しない。

しかし蔡東藩は創作面を完全に排除してはいない。渡河の際に馬超があと100歩余りの距離まで曹操に迫る場面や、妻子の首が城壁から投げ落とされる場面、張魯から離れて劉備に帰順し劉璋を降伏させるまでの経緯など、『演義』の影響を受けている記述も散見される。さらに[[稗史]]の記述を元にしたという主張のもと、[[貂蝉]]が実在の人物として登場する{{sfn|龍・朱|2008|p=65}}<ref>周傑「《三国演義》貂蝉人物原型初探」『群文天地』2013年、62–63、p. 62。</ref>。これは『後漢演義』が、あくまで史書の記述を正としつつも、芸術性が史実の合理性と付合する場合には前者の要素を取り入れることを厭わないためである{{sfn|陳|2016|pp=57-58}}。

『後漢演義』の各回の末尾に載せられる人物評には、人物の行動に対する是非や歴史から得べき教訓などが含まれている{{sfn|陳|2016|p=57}}。『三国志』や『演義』のように特定の陣営をとりわけて称える(あるいは貶める)ことはないが、[[封建主義|封建思想]]の影響から、歴史上の人物や事件に対する評価には[[理想主義]]的な歴史観が見出される{{sfn|陳|2016|p=57}}。


『後漢演義』の各回の末尾に人物評が載せられてる。語り手は、馬超は猛将だが曹操の敵ではなく、勇烈ではあれど知謀に欠けると評し、その欠陥ゆえ親から果ては妻子に至るまで破滅させたことを咎めている<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第086回|title=『後漢演義』第86回|wslanguage=zh|quote=馬超猛將韓遂庸奴,兩人皆非曹操敵手。}}{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第087回|title=『後漢演義』第87回|wslanguage=zh|quote=有勇無謀,如何保家?""馬超多勇無謀,卒致上害父母,下及妻孥;設非投入劉備,則其身尚不能保,遑問與曹操為敵乎?}}</ref>{{efn|語り手は呂布の武勇について、曹操と敵対するに足ると評していが、やはり智謀のなさを指摘しており、曹操にも「無謀な匹夫」と言われている<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第077回|title=『後漢演義』第77回|wslanguage=zh|quote=呂布之勇,足以敵曹操,而智謀之不逮操也遠甚!""操復說道:「{{interp|...}}但呂布是一無謀匹夫,必為我敗,玄德放心,看我指日擒布。」}}</ref>。また「馬超の驍勇なること、呂布と遜色ない」という楊阜の発言も存在する<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第086回|title=『後漢演義』第86回|wslanguage=zh|quote=「馬超驍勇,不亞呂布{{interp|...}}」}}</ref>。}}。とはいえ、馬超の武勇を実感したがために曹操は賈詡の策を用いるに至ったとし、また曹操の渡河作戦に対する馬超の案を「申し分ない」と形容しているように、馬超の軍事面の能力に対する評価は一貫して高い<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第086回|title=『後漢演義』第86回|wslanguage=zh|quote=遂計未始不是,但不若超計之完善。""操先輕視馬超,當引兵北渡時,危坐不動,微許褚之翼操下船,幾已為馬超所斃矣。及已知超勇,始用賈詡計議{{interp|...}}。}}</ref>。『後漢演義』においては、馬超の勇略に馬岱のそれが及ばなかったために、馬岱は北伐に従軍するも大役を任されず、諸葛亮にも重用されていなかった<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第093回|title=『後漢演義』第93回|wslanguage=zh|quote=蜀將馬超,時已早歿,不略馬超。只有超從弟馬岱,從軍出征,岱勇略不及馬超,雖為蜀將,未堪大任,故亮得三郡,不復令再鎮涼州。}}</ref>。また『後漢演義』は馬超を評価する際にそ人格面を考慮ず、儒教的価値観採用していない。そのため、馬超が親を顧みず戦ったのを踏まえた上で、馬騰とその一族を誅殺した曹操の手口は悪辣だと断じている<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第086回|title=『後漢演義』第86回|wslanguage=zh|quote=馬騰闔門一二百口,並受誅夷,雖由超私忿忘親,畢竟是曹瞞毒手殺人,如刈草芥呢!一語斷定。}}</ref>{{efn|語り手は馬超敵対した姜敘の母や王異を女とする一方、各々に対し「残念ながら理を見るに明らかでない」、「君父の誰たるかを到底理解していない」、さらには「名義では忠義を勧めているが、実際のところは一を知って二を知らない「〔彼の見解は〕取るに足りない」と、辛辣な価を下している<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第087回|title=『後漢演義』第87回|wslanguage=zh|quote=敘母亦一女丈夫,可惜見理未明。""{{interp|趙昂妻}}又一奇婦人,但究不知誰為君父。""姜敘母及趙昂妻,名為勸忠,實則知其一不知其二,仍不過為婦人女子之見,無足取焉。}}</ref>。}}。
馬超作中におて「馬超は猛将、韓遂は愚物であり、両者とも曹操の敵ではない。{{Interp|中略|和文=1}}馬超が強とも韓遂は愚かだったためまんまと曹操の計略に掛かった。これぞ用兵が謀略を重んずる所以である」と評されている<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第086回|title=『後漢演義』第86回|wslanguage=zh|quote=馬超猛將,韓遂庸奴,兩人皆非曹操敵手。{{interp|...}}超剛而遂愚,適墮操計,此用兵之所以尚謀也。}}</ref>。また語り手は「馬超は勇烈ではあれど知謀に欠ける評し、その欠陥ゆえ親から果ては妻子に至るまで破滅させたことを咎め、「劉備に投降せねば己の身すら保てずにいたのに{{efn|『後漢演義』では、楊伯(楊白)などが馬超に危害を加えようとしている<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第087回|title=『後漢演義』第87回|wslanguage=zh|quote={{interp|張}}魯將楊伯等,更欲害{{interp|}}超,超當然憤悒。}}</ref>。}}、どうして曹操の敵たり得ようか」と述べている<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第087回|title=『後漢演義』第87回|wslanguage=zh|quote=有勇無謀,如何保家?"; "馬超多勇無謀,卒致上害父母,下及妻孥;設非投入劉備,則其身尚不能保,遑問與曹操為敵乎?}}</ref>{{efn|作中では楊阜が「馬超の驍勇なること、呂布と遜色ない」と述べる<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第086回|title=『後漢演義』第86回|wslanguage=zh|quote=涼州參軍楊阜,進見曹操道:「馬超驍勇,不亞呂布{{interp|...}}。」}}</ref>。語り手は呂布について、武勇は曹操と敵対するに足ると評一方でその智謀のなさを指摘しており、曹操にも「無謀な匹夫」と言われる<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第077回|title=『後漢演義』第77回|wslanguage=zh|quote=呂布之勇,足以敵曹操,而智謀之不逮操也遠甚!"; "{{interp|曹}}操復說道:「{{interp|...}}但呂布是一無謀匹夫,必為我敗,玄德放心,看我指日擒布。」}}</ref>。}}。とはいえ、馬超の武勇を実感したがために曹操は賈詡の策を用いるに至ったとし、また曹操の渡河作戦に対する馬超の案を「申し分ない」と形容しているように、馬超の軍事力に対する評価は一貫して高い<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第086回|title=『後漢演義』第86回|wslanguage=zh|quote={{interp|韓}}遂計未始不是,但不若{{interp|馬}}超計之完善。"; "{{interp|曹}}操先輕視馬超,當引兵北渡時,危坐不動,微許褚之翼操下船,幾已為馬超所斃矣。及已知超勇,始用賈詡計議{{interp|...}}。}}</ref>。『後漢演義』においては、馬超の勇略に馬岱のそれが及ばなかったために、馬岱は北伐に従軍するも大役を任されず、諸葛亮にも重用されていなかった<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第093回|title=『後漢演義』第93回|wslanguage=zh|quote=蜀將馬超,時已早歿,不略馬超。只有超從弟馬岱,從軍出征,岱勇略不及馬超,雖為蜀將,未堪大任,故{{interp|諸葛}}亮得三郡,不復令再鎮涼州。}}</ref>。また『後漢演義』は馬超の反乱以後行わた族滅についても、馬超が親を顧みず私憤で戦ったのを認めた上で、馬騰を誅殺した曹操の手口は悪辣だと断じている<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第086回|title=『後漢演義』第86回|wslanguage=zh|quote=馬騰闔門一二百口,並受誅夷,雖由超私忿忘親,畢竟是曹瞞毒手殺人,如刈草芥呢!一語斷定。}}</ref>{{efn|『後漢演義』の語り手は曹操対する忠義を評価せず楊阜の進言について「曹操を国家するとは、完全に騙されている」と記す<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第086回|title=『後漢演義』第86回|wslanguage=zh|quote=以曹操為國家,都是被欺。}}</ref>。また姜敘の母や王異を女丈夫とする一方、各々に対し「残念ながら理を見るに明らかでない」、「君父の誰たるかを到底理解していない」、さらには「表向きでは忠義を勧めているが、実際のところは一を知って二を知らないのであってやはり婦の見解に過ぎず、取るに足りない」と評している<ref>{{Cite wikisource|wslink=後漢演義/第087回|title=『後漢演義』第87回|wslanguage=zh|quote={{interp|姜}}敘母亦一女丈夫,可惜見理未明。"; "{{interp|趙昂妻}}又一奇婦人,但究不知誰為君父。"; "姜敘母及趙昂妻,名為勸忠,實則知其一不知其二,仍不過為婦人女子之見,無足取焉。}}</ref>。このような姿勢は、毛宗崗も同様である{{sfn|仙石|2015|pp=54-57}}<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=857081#p7 『毛宗崗批評本三国演義』第64回]. 中国哲学書電子化計画. 2024年5月12日閲覧, "{{interp|姜}}敘之母不知討操者之非賊而助操者之為賊,此則其可惜者也。{{interp|...}}{{interp|趙}}昂之妻助曹操以攻馬超,身幸免於死,而亦致其子於死。此又其可惜者也。雖然,郭嘉、程昱等輩,天下所稱智謀之士,猶然不明順逆,而何論於婦人哉?"</ref>。}}。


=== 京劇 ===
=== 京劇 ===
[[File:China – A Celebration of the 50th Anniversary of China-WIPO Cooperation (53028106373).jpg|thumb|京劇『両将軍』の馬超(中国[[世界知的所有権機関|WIPO]]協力50周年記念イベントで披露されたもの)]]
[[File:China – A Celebration of the 50th Anniversary of China-WIPO Cooperation (53028106373).jpg|thumb|京劇『両将軍』の馬超(中国[[世界知的所有権機関|WIPO]]協力50周年記念イベントで披露されたもの)]]
[[京劇]]において、馬超を主役とする演目は数多く存在する。演目の内容は『三国志演義』を題材としており、『反西』『戦潼関』(潼関の戦い)、『戦冀州』『賺歴城』(冀城放逐および歴城襲撃)、『戦馬超』『両将軍』(張飛との一騎討ちおよび夜戦)などがある。京劇には身分や性格、年齢などにより区別される様々な役柄が存在するが、将軍である馬超は「武生」、具体的には「長靠武生」に割り当てられている{{efn|厚底の靴を履き、戦場に立つ武将の場合は靠(鎧を表す)を身につけ、長槍や大刀といった長柄武器を持つ。背部の4本の旗は部隊を率いていることを示す。}}。衣装は白地で、喪を示す黒い紋様があしらわれいる。張飛との戦いにおいては黒ではなく青を基調とした衣装に変わり、夜戦時には無地の白い箭衣替える。若い将軍として扱われているため、はつけない。
[[京劇]]において、馬超を主役とする演目は数多く存在する。演目の内容は『演義』を題材としており、『反西』『戦潼関』(潼関の戦い)、『戦冀州』『賺歴城』(冀城放逐および歴城襲撃)、『戦馬超』『両将軍』(張飛との一騎討ちおよび夜戦)などがある。京劇には身分や性格、年齢などにより区別される様々な役柄が存在するが、将軍である馬超は「武生」、具体的には「長靠武生」に割り当てられている<ref>{{Cite journal|和書|author=唐立鵬|title=京劇《戦馬超》中馬超的角色分析|journal=戯劇之家|issue=第5期|date=2023|pages=56–58|ref={{sfnref|唐|2023}}}}p. 57。</ref>{{efn|厚底の靴を履き、戦場に立つ武将の場合は靠(鎧)を身につけ、長槍や大刀といった長柄武器を持つ{{sfn|唐|2023|p=56}}。背部の4本の旗は部隊を率いていることを示し、臨戦態勢であることを表現る{{sfn|唐|2023|p=57}}。}}。衣装は黒い紋様があしらわれた重孝(喪服)を用いるが<ref>劉新陽「从“武戯文唱”説《戦冀州》的“摔城”——兼談京劇武戯中的“技巧化”傾向」『中国京劇』第5期、2012年、50–53、p. 51</ref><ref>{{Cite video |和書|date=2017-11-25 |title=CCTV空中劇院 京劇《戦冀州》|url=https://tv.cctv.com/2017/11/25/VIDESQ3XIfnNyCLNPGqfmiMk171125.shtml|accessdate=2024-08-16|time=02:23~ |publication-date=2017-11-25|work=CCTV空中劇院|medium=テレビ番組|publisher=CCTV|language=zh}}</ref>、張飛との戦いにおいては青を基調とした衣装を纏い{{sfn|唐|2023|p=57}}、夜戦時には盔頭(かぶりも)をつけず、白い箭衣た「短打武生」とな{{sfn|唐|2023|p=57}}<ref>李強「浅析京劇《戦馬超》的芸術特色」『中国京劇』第11期、2017年、74–77、p. 77</ref><ref>{{Cite video |和書|date=2023-03-18 |title=CCTV空中劇院 京劇《戦馬超》 第三場 |url=https://tv.cctv.com/2023/03/18/VIDEHOdiw1sPaZbyfrlRROet230318.shtml?spm=C53130689386.PudyWCdlfs86.0.0 |accessdate=2024-08-16|time=20:21~ |publication-date=2023-03-18|work=CCTV空中劇院|medium=テレビ番組|publisher=CCTV|language=zh}}</ref>。端麗なとして登場するため{{sfn|張|2010|p=37}}隈取りせず、ひげもつけない{{sfn|上原|2024|p=155}}{{efn|name="容姿"}}


=== 談 ===
=== 『耳 ===
[[明]]代中期の[[志怪小説|筆記小説]]集である{{仮リンク|王同軌|zh|王同軌}}『耳談』{{efn|『[[四庫全書総目提要]]』の解題によると、「この書『耳談』は異聞を取り集めており、[[洪邁]]『[[夷堅志]]』の流れを汲んでいる。毎話ごとに語り手を明らかにすることで、信用できる証としているのは、{{仮リンク|蘇鶚|zh|蘇鶚}}『杜陽雑編』の例を用いたものだ」<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=982690#p106 『四庫全書総目提要』巻144]. 中国哲学書電子化計画. 2023年12月21日閲覧, "其書皆纂集異聞,亦洪邁《夷堅志》之流。每條必詳所說之人,以示徵信,則用蘇鶚《杜陽雜編》之例。"</ref>。収録内容は多岐に渡るが、単なる逸聞集に留まらず、当時の社会情勢に対する批判も少なからず含まれている。後発の小説に与えた影響は大きく、[[馮夢竜]]や[[凌濛初]]の著作、『[[聊斎志異]]』などの中、『耳談』を基に書かれたとわかる逸話が散見される<ref>順霖「《耳談》整理小記」『殷都学刊』第3期、1990年、66-71、pp. 68–70。</ref>。}}およびその増補版『耳談類増』には、「漢左将軍馬超墓」という話が載せられている。以下はその前半部のあらましである。
万暦年間に刊行された[[志怪小説|筆記小説]]集である{{仮リンク|王同軌|zh|王同軌}}『耳談』{{efn|『[[四庫全書総目提要]]』の解題によると、「この書『耳談』は異聞を取り集めており、[[洪邁]]『[[夷堅志]]』の流れを汲んでいる。毎話ごとに語り手を明らかにすることで、信用できる証としているのは、{{仮リンク|蘇鶚|zh|蘇鶚}}『杜陽雑編』の例を用いたものだ」<ref>呂友仁、米格智「《三言》《二拍》故事来源考補正——読王同軌《耳談》和《耳談類増》後」『河南師範大学学報(哲学社会科学版)』第4期、1991年、83–94、p. 84。</ref><ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=982690#p106 『四庫全書総目提要』巻144]. 中国哲学書電子化計画. 2023年12月21日閲覧, "其書皆纂集異聞,亦洪邁《夷堅志》之流。每條必詳所說之人,以示徵信,則用蘇鶚《杜陽雜編》之例。"</ref>。収録内容は多岐に渡るが、単なる逸聞集に留まらず、官僚の腐敗など当時の社会情勢に対する批判も含まれている<ref>{{Cite journal|和書|author=孫順霖|title=《耳談》整理小記|journal=殷都学刊|issue=第3期|date=1990|pages=66-71|ref={{sfnref|孫|1990}}}}pp. 68–69。</ref><ref>夏傑「王同軌交游及其小説創作」『貴州文史叢刊』第2期、2014年、59–62、p. 62。</ref>。後発の小説に与えた影響は大きく、[[三言二拍]]や『[[聊斎志異]]』などにおいて、『耳談』を基に書かれたとわかる逸話が散見される{{sfn||1990|pp=69–70}}。}}およびその増補版『耳談類増』には、「漢左将軍馬超墓」という話が載せられている。あらすじとして、新都の[[参議 (中国)|参議]]である{{仮リンク|楊廷儀|zh|楊廷儀}}{{efn|[[楊廷和]]の弟。朝廷で専横を極めた[[宦官]]の[[劉瑾]]との交流や、兄を誹謗したという風評により悪名を得た<ref>{{Cite journal|和書|author=檀徳瑶|title=新都楊氏兄弟関係考證及楊廷儀其人研究|journal=陰山学刊|issue=第3期|date=2017|pages=73–77|ref={{sfnref|檀|2017}}}}pp. 73–75。</ref>。また兄の政敵である{{仮リンク|王瓊_(明)|zh|王瓊_(成化進士)|label=王瓊}}との関係を理由に、実家からも汚点とされ、記録がほとんど残されなかった{{sfn|檀|2017|p=76}}。}}が、父親の埋葬地にふさわしい場所を探していると{{efn|[[風水]]では、父方の祖先を風水的に良い土地に葬れば、その子孫全体に幸福がもたらされるとされた。科挙制導入によって世襲が成立し得ず、社会的地位を維持するのがより困難な時代にる中で、将来的な氏族繁栄を保証すべく、知識階級の人々が陰宅(風水における墓地の呼称)のための土地選びに労力を費やすという事態が、[[宋_(王朝)|宋]]代ですでに生じていた<ref>廖咸恵「墓葬と風水——宋代における地理師の社会的位置」上内健司訳、『都市文化研究』第10号、2008年、96-115、p. 102。</ref><ref>水口拓寿「名墓の風水に「便乗」する者たち——中国寧波・東銭湖墓群の事例か」『お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター研究年報』第7号、2011年、45–56、pp. 49–50。</ref>。明清時代は風水が隆盛を極めた時期であり、風水に関する訴訟や揉め事は枚挙にいとがなかった<ref>樊建瑩「民間風水信仰与伝統司法——基於「刁訟陳仲垣、陳傑二杖」案的考察」『許昌学院学報』第3期、2012年、113–116、p. 114。</ref>。}}、ある土地から「漢左将軍馬超之墓」と彫られた石碑を発掘する。楊廷儀は吉兆の験ありと見なて、その地を選ぶと、錦袍をまとい玉帯を締めた馬超が夢に出て、墓を荒らさないよう注意する。楊廷儀が意に介さないでいると、今度は武装した馬超が夢に現れ、楊廷儀の両目を射潰す。盲目になった楊廷儀はそれでも諦めず、とうとう怒った馬超が「お前に禍いをもたらしてくれよう!」と宣告する。後日、楊廷儀の家族が強盗殺人を犯し、彼らは[[凌遅刑]]を科される。楊廷儀はそれに連座して、棄市{{efn|公開処刑の後、死体を市中に晒すこと<ref>{{Cite Kotobank|word=棄市|encyclopedia=精選版 日本国語大辞典|hash=-473450#w-1930454|accessdate=2024-10-05}}</ref>。}}の刑に処せられてしまう、という話である<ref>{{Cite wikisource|wslink=耳談/卷八#漢左將軍馬超墓|title=『耳談』巻8「漢左将軍馬超墓」|wslanguage=zh|quote=蜀新都縣少參楊公廷儀,為親侍郎公某卜墓地,掘土見崇碑題曰:「漢左將軍馬超之墓」,以為吉有驗,遂就之。忽夢超錦袍玉帶,言曰:「我漢將軍,勿奪我墓。」公不為動,復夢超戎裝彎弓,射中公左目。已,又夢射中公右目,相次目皆瞽而意逾堅。又夢超瞋目大怒,曰:「吾有以禍汝矣!」亡何,其家數幹人與數賈為偶匿賈金盡殺之。事覺,罪淩遲而蔓及公,罪棄市。}}</ref>


王同軌はこの話を、{{仮リンク|劉采|zh|劉采}}の縁戚であり、王同軌自身の姻族でもある[[南雄市|保昌]]県令の劉子敦から取材している<ref>Chen, G. [陳剛]. (2015). [https://hub.hku.hk/handle/10722/267776 明萬曆筆記成書考論]. (Thesis). University of Hong Kong, Pokfulam, Hong Kong SAR. pp. 31, 67.</ref><ref>{{Cite wikisource|wslink=耳談/卷八#漢左將軍馬超墓|title=『耳談』巻8「漢左将軍馬超墓」|wslanguage=zh|quote=麻邑大司馬劉端簡公,時為蜀大參,所目見。其家保昌令劉君守復談。}}</ref>。物語の後に添えられた見解には「土地は馬超ゆえに貴いのであって、土地ゆえに馬超が貴いのではない」とある。次いで馬超の一族子弟が曹操や張魯に殺されたことに言い及び、『三国志』が馬超の後裔について詳述していないことを理由に、馬超の家系は断絶したのだろうと推察している。そして、子孫のためにありもしないことを画策するのは度が過ぎるとして、身を滅ぼすに甘んじた楊廷儀の行いを咎めている<ref>{{Cite wikisource|wslink=耳談/卷八#漢左將軍馬超墓|title=『耳談』巻8「漢左将軍馬超墓」|wslanguage=zh|quote=地以超貴,非超貴於地也。始超家族二百餘口盡誅於操,獨子秋留,依張魯,又為魯所殺。《蜀志》不言超後,則其滅絕可知。而甘禍殺身,為子孫圖所烏有,可謂過計。}}</ref>。
:新都の[[参議 (中国)|参議]]である楊廷儀が、父親の埋葬地にふさわしい場所を探していると{{efn|風水思想では、父方の祖先を風水的に良い土地に葬れば、その子孫全体に幸福がもたらされるとされた。科挙制の導入によって世襲が成立し得ず、社会的地位を維持するのがより困難な時代にある中で、将来的な氏族繁栄を保証すべく、知識階級の人々が陰宅(風水における墓地の呼称)のための土地選びに労力を費やすという事態が、[[宋_(王朝)|宋]]代ですでに生じていた<ref>廖咸恵「墓葬と風水──宋代における地理師の社会的位置」上内健司訳、『都市文化研究』第10号、2008年、96-115、p. 102。</ref><ref>水口拓寿「名墓の風水に「便乗」する者たち──中国寧波・東銭湖墓群の事例から」『お茶の水女子大学比較日本学教育研究センター研究年報』第7号、2011年、45-56、pp.49-50。</ref>。明清時代は風水が隆盛を極めた時期であり、風水に関する訴訟や揉め事は枚挙にいとまがなかった<ref>樊建瑩「民間風水信仰与伝統司法──基於「刁訟陳仲垣、陳傑二杖」案的考察」『許昌学院学報』第3期、2012年、113-116、p. 114。</ref>。}}、ある土地から「漢左将軍馬超之墓」と彫られた石碑を発掘した。これを吉兆の験ありと見なした楊廷儀がその地を選んでから程なくして、錦袍をまとい玉帯を締めた馬超が夢に現れ、「私は漢の将軍である。わが墓を荒らさぬように」と戒めた。楊廷儀が意に介さないでいると、またもや夢を見た。武装した馬超が矢を放ち、両目を射当てられた楊廷儀は(現実世界で)盲目になってしまうが、(良地と見なしているため)ますます意思を固めた。そして次に夢を見た時、馬超は大いに怒った様子で「お前に禍いをもたらしてくれよう!」と告げた。その後、楊廷儀の家族が道連れの商人たちを殺して金品を奪い、事が露見した結果、彼らは[[凌遅刑]]に科せられた。それに連座して、楊廷儀は棄市{{efn|公開処刑の後、死体を市中に晒すこと。}}に科せられてしまった。


また『耳談類増』所載の「漢将軍墓」という話では、酒盛りをしていた蜀の人々が、無名の将軍の墓があった場所をそうとは知らずに荒らしてしまい、[[ポルターガイスト現象|ポルターガイスト]]に遭遇する。ここでも「〔某将軍の墓は〕耕作者によりだんだんと侵削され、すでになくなっている。しかし城郭の中では、依然として霊異がこのように現れるのだから、馬孟起が弓矢をもて人を盲にせしめるのに、なんの不思議があろうか」と、「漢左将軍馬超墓」に登場した馬超への言及がある<ref>[https://ctext.org/wiki.pl?if=gb&chapter=990811#漢將軍墓 『耳談類増』巻29「漢将軍墓」]. 中国哲学書電子化計画. 2024年5月6日閲覧, "許詢之故老相傳漢将軍冢也。漸為耕者侵削,已盡,又在城郭內,然猶靈異若此,何恠馬孟起射人目盲哉?"</ref>。
後半部に添えられた見解には「土地は馬超ゆえに貴いのであって、土地ゆえに馬超が貴いのではない」とある。語り手は、馬超の一族子弟が曹操や張魯に殺されたことに触れ、また『三国志』が馬超の後裔について詳述していないことを理由に、馬超の家系は断絶したのだろうと推察する{{efn|楊廷儀の定めた土地が仮に良地で、子孫繁栄という風水的効果を持つならば、馬超の後裔は栄えているはずである。}}。そして、子孫のために風水などにこだわるのは度が過ぎるとして、身を滅ぼすに甘んじた楊廷儀の行いを咎めている<ref>{{Cite wikisource|wslink=耳談/卷八|title=『耳談』巻8「漢左将軍馬超墓」|wslanguage=zh|quote=地以超貴,非超貴於地也。始超家族二百餘口盡誅於操,獨子秋留,依張魯,又為魯所殺。《蜀志》不言超後,則其滅絕可知。而甘禍殺身,為子孫圖所烏有,可謂過計。}}</ref>。


== 家族 ==
『耳談類増』には「漢将軍墓」という物語が新たに加わっている。酒盛りをしていた蜀の人々がポルターガイストに遭遇するという内容だが、ここでも馬超が弓矢で目潰しをすることへの言及がある<ref>[https://archive.org/details/02099090.cn/page/n17/mode/2up 『耳談類増』巻29「漢将軍墓」]. [[インターネットアーカイブ|Internet Archive]]. 2023年12月21日閲覧, "何恠馬孟起射人目盲哉?"</ref>。

== 家系図 ==
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*『三国志』巻25楊阜伝注引[[皇甫謐]]『列女伝』・巻34劉理伝・巻36馬超伝・馬超伝注引『典略』より作成。
* 祖父は馬平{{sfn|de Crespigny|2007|p=647}}{{efn|『演義』では「馬粛」。}}。父は馬騰{{sfn|de Crespigny|2007|p=650}}。弟は馬休{{sfn|de Crespigny|2007|p=654}}・馬鉄{{sfn|de Crespigny|2007|p=650}}。従弟は馬岱{{sfn|de Crespigny|2007|p=641}}。妻は楊氏<ref name="lienv">『三国志』巻25楊阜伝注引皇甫謐『列女伝』</ref>{{sfn|de Crespigny|2007|p=943}}・董氏(妾){{sfn|de Crespigny|2007|pp=147-148}}。子は馬秋{{sfn|de Crespigny|2007|p=648}}・馬承{{sfn|de Crespigny|2007|p=640}}のほか、冀城で殺害された子が少なくとも1人存在する。娘は劉理の妻{{sfn|de Crespigny|2007|p=638}}。
* 家系図は『三国志』巻25楊阜伝・楊阜伝注引皇甫謐『列女伝』・巻34劉理伝・巻36馬超伝・馬超伝注引『典略』より作成。

== 関連作品 ==
=== 馬超が主要人物となる作品 ===
; 小説
* [[周大荒]]『[[反三国志演義]]』(河北人民出版社、1987年。{{ISBN|7202000024}};渡辺精一訳、[[講談社]]、1991年。{{ISBN|9784062053020}})
*: - 活躍の場を与えられた馬超が主だって大勲を立てる<ref>汪大白「諸葛失策誰与辨——《反三国志演義》側論」『阜陽師範学院学報(社会科学版)』、第3期、2001年、15–18、p. 15。</ref><ref>周大荒『反三国志演義』河北人民出版社、1987年、p. 10、"今戴子既為馬超抱屈,便可首集同人,斉合心意,共将一部二千年旧案,快意推翻,来為馬超、趙雲一時名将抱打不平,令其吐気何如?"</ref>。また[[馬雲騄]]という馬超の架空の妹が登場する。
* [[北方謙三]]『[[三国志_(北方謙三)|三国志]]』([[角川春樹事務所]]、1996年 - 1998年)
*: - 馬超は時代を傍観する「個」として、作者により特殊な立場に置かれている<ref>吉永壮介「[https://koara.lib.keio.ac.jp/xoonips/modules/xoonips/detail.php?koara_id=AN00072643-01160001-0037 現代日本の「三国志」受容における二つのリアリティー—北方謙三と宮城谷昌光の両極性—]」『藝文研究』第116巻、2019年、37–52、pp. 46–49, 52。{{issn|04351630}}</ref>。
* 渓由葵夫『馬超風雲録』([[小学館]]〈[[スーパークエスト文庫]]〉、1997年 - 1998年) - 歴史ファンタジー。
* [[風野真知雄]]『馬超 曹操を二度追い詰めた豪将』([[PHP研究所]]〈[[PHP文庫]]〉、2005年。{{ISBN|9784569663340}})

; ゲーム
* 『[https://store.steampowered.com/app/2276420/_/ 絶命の歌]』(Lightning Games、2024年) - 馬超を主人公とする[[ローグライクゲーム|ローグライク]][[音楽ゲーム|リズムゲーム]]。

=== 馬超が登場する主な大衆文化作品 ===
; 漫画
* [[横山光輝]]『[[三国志_(横山光輝の漫画)|三国志]]』([[潮出版社]]、1971年 - 1987年)
* [[王欣太]]『[[蒼天航路]]』([[李學仁]]原案、講談社、1994年 - 2005年)
* {{仮リンク|陳某|zh|陳某}}『{{仮リンク|火鳳燎原|zh|火鳳燎原}}』([[東立出版社]]、2001年 - ;[[メディアファクトリー]]、2005年 - 2009年)
** 『不是人貳』(2021年) - 馬超に焦点を当てた外伝短編。「人でなし」として、『不是人』(1998年)の主役の一人である呂布と重ねられる<ref>{{Cite web|url=https://www.chanmoucomics.com/books/新聞/不是仁義,不是人貳。/|title=不是仁義,不是人貳。|website=陳某誌|accessdate=2024-10-13|language=zh}}</ref>。
; ゲーム
* [[三國志シリーズ]]([[コーエー|光栄]]/コーエー/[[コーエーテクモゲームス]]、1985年 - )
* [[真・三國無双シリーズ]](コーエー/コーエーテクモゲームス、2000年 - )


== 脚注 ==
== 脚注 ==
{{脚注ヘルプ}}
{{脚注ヘルプ}}
=== 注釈 ===
=== 注釈 ===
{{Notelist|2}}
{{Notelist|30em}}
=== 出典 ===
=== 出典 ===
{{Reflist|20em}}
{{Reflist|3}}<!-- ref nameには、基本的に各伝の人名あるいは各書の冒頭2、3字を中国語の拼音で表記したものを記入。注引先があり長くなる場合は、先述のものに、注引先の拼音表記したものから各字の頭文字1つずつを付記(例:馬超[ma/chao]伝注引『典略[dian/lve]』であれば「machaodl」。ただし列女伝は「lienv」表記など、例外あり)。 -->


== 参考文献 ==
== 参考文献 ==
=== 日本語文献 ===
*[[陳寿]]撰、裴松之注『三国志』
* {{Cite book|和書|author=飯田祥子|chapter=後漢後期・末期の西北辺境漢族社会——韓遂の生涯を手がかりに——|title=漢新時代の地域統治と政権交替|series=汲古叢書|publisher=[[汲古書院]]|date=2022|pages=89–128|isbn=9784762960772|ref={{sfnref|飯田|2022}}}}
*{{Cite book|和書|translator=[[井波律子]]|title=三国志演義(一)|date=2014|publisher=講談社学術文庫|isbn=9784062922579|ref=yanyi1}}<!-- translator-linkが機能せず。 -->
:{{Cite book|和書|author=---.|title=三国志演義(二)|date=2014|publisher=講談学術文庫|isbn=9784062922586|ref=yanyi2}}
* {{Cite book|和書|author=石井仁|chapter=曹操の戦いとかれの兵法|title=[[ユリイカ_(雑誌)|ユリイカ]]|publisher=[[青土]]|volume=第51巻|issue=第9号|date=2019|pages=51–58|isbn=9784791703678|ref={{sfnref|石井|2019}}}}
* {{Cite journal|和書|author=伊瀬仙太郎|title=秦漢の界別政策と羌族の反乱|journal=立正大学人文科学研究所年報|issue=21|date=1983|pages=91–121|hdl=11266/1622|ref={{sfnref|伊瀬|1983}}}}
:{{Cite book|和書|author=---.|title=三国志演義(三)|date=2014|publisher=講談社学術文庫|isbn=9784062922593|ref=yanyi3}}
:{{Cite book|和書|author=---.|title=三国志演義(四)|date=2014|publisher=講談社学術文庫|isbn=9784062922609|ref=yanyi4}}
* {{Cite book|和書|author=井波律子|title=三国志曼荼羅|publisher=[[岩波書店]]|series=[[岩波現代文庫]]|date=2007|isbn=9784006021191}}
*{{Cite journal|和書|author=白亮|year=2013|title=東漢末年馬騰、韓遂軍事集団述論|journal=蘭州大学学報:社会科学版|issue=6|pages=160-164|ref={{sfnref||2013}}}}
** {{Cite book|和書|author=井波律子|chapter=蜀の五虎将軍|title=三国志曼荼羅|date=2007|pages=194–216|ref={{sfnref|井波|2007a}}}}
*{{Cite journal|和書|author=蔡美雲|year=2010|title=《三国演義》対馬超形象的重塑|journal=陝西理工学院学報(社会科学版)|issue=3|pages=71-75|ref={{sfnref||2010}}}}
** {{Cite book|和書|author=井波律子|chapter=三国志の美将たち——『三国志』から『三国志演義』へ|title=三国志曼荼羅|date=2007|pages=302–307|ref={{sfnref|井波|2007b}}}}
* {{Cite book|和書|author=上原究一|chapter=人中の呂布と錦の馬超——『三国志演義』のイケメン枠|title=蘇州版画 東アジア印刷芸術の革新と東西交流|publisher=[[勉誠社]]|series=アジア遊学|date=2024|pages=152–177|isbn=9784585325413|ref={{sfnref|上原|2024}}}}
*{{Cite book|和書|editor=郭鵬|title=漢中地区志|volume=第三冊|series=陝西地方志叢書|publisher=三秦出版社|year=2005|url=http://dfz.shaanxi.gov.cn/sqzlk/xbsxz/sxdyl/hzs_16205/hzdqz_3/ |accessdate=2024-1-6|isbn=9787806289570|ref=hanzhongdqz}}
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=== 中国語文献 ===<!-- 拼音表記のアルファベット順 -->
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=== 英語文献 ===
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* {{Cite journal|last=Haloun|first=Gustav|authorlink=w:Gustav_Haloun|title=The Liang-chou rebellion, 184-221 A.D.|journal=[[w:Asia_Major_(journal)|Asia Major]]|issue=1|date=1949|pages=119–132|url =https://www2.ihp.sinica.edu.tw/file/1340AmfYFxT.pdf|format=PDF|ref={{sfnref|Haloun|1949}}}}
* {{Cite book|last=Yü|first=Ying-shih|authorlink=余英時|title=Trade and Expansion in Han China: A Study in the Structure of Sino-Barbarian Economic Relations|publisher=University of California Press|date=1967|isbn=9780520327962|doi=10.1525/9780520327962|ref={{sfnref|Yü|1967}}}}.
* {{Cite book|last=Yü|first=Ying-shih|chapter=Han foreign relations|editor1=Denis Twitchett|editor2=Michael Loewe|editor1-link=デニス・C・トゥウィチェット|editor2-link=マイケル・ローウェ|title=The Cambridge History of China. Volume 1, The Ch’in and Han Empires, 221 B.C.-A.D. 220|series=[[ケンブリッジ中国史|The Cambridge History of China]]|volume=1|publisher=[[ケンブリッジ大学出版局|Cambridge University Press]]|date=1986|pages=377–462|isbn=9780521243278|doi=10.1017/CHOL9780521243278.008|ref={{sfnref|Yü|1986}}}}.


== 関連項目 ==
== 関連項目 ==
{{Wikisourcelang|zh|三國志/卷36#馬超|『三国志』巻36}}
{{Wikisourcelang|zh|三國志/卷36#馬超|『三国志』巻36馬超伝}}
{{Wikisourcelang|zh|三國演義|『三国志演義』}}
* [[三国志演義の人物の一覧]]
* [[三国志演義の人物の一覧]]
* [[五虎大将軍]]
* [[馬雲騄]]


== 外部リンク ==
{{三国志立伝人物}}
* 『三国名将』馬超 [https://tv.cctv.com/2015/03/19/VIDE1426742301133280.shtml 1 三国悍馬]({{YouTube|0advT3zXtY8}})/[https://tv.cctv.com/2015/03/20/VIDE1426831582866501.shtml 2 寂寞将星]({{YouTube|BFJ0KEKlaKk}})
: - [[中国中央電視台]](CCTV)の教養番組『百家講壇』において、2015年に[[四川大学]]教授の方北辰が講演を行っている。[[Youtube]]の公式チャンネルからも視聴可能。


{{三国志立伝人物}}
{{Good article}}
{{DEFAULTSORT:は ちよう}}
{{DEFAULTSORT:は ちよう}}
[[Category:扶風馬氏|ちよう]]
[[Category:扶風馬氏|ちよう]]

2024年11月13日 (水) 21:33時点における最新版

馬超
蜀漢
驃騎将軍涼州・斄郷侯
出生 熹平5年(176年
右扶風茂陵県
死去 章武2年(222年
拼音 Mǎ Chāo
孟起
諡号 威侯
主君 馬騰 → 独立勢力 → 張魯劉備
氏族 扶風馬氏
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馬 超(ば ちょう、熹平5年〈176年〉 - 章武2年〈222年〉)は、中国後漢末期から三国時代にかけての将軍。字は孟起(もうき)。は威侯。司隷右扶風茂陵県の人。

関中・隴右[注釈 1]に割拠する群雄として曹操の西征に反発し[4]韓遂ら諸軍閥と共に造反したが、敗北した[5]。後に涼州において捲土重来を果たすも[6]、現地の士大夫らに離反され、拠点を失った[7]。流浪の末に身を寄せた劉備の下で厚遇された[8]

族の血を引き、非漢族と深い関係があった[9]。後漢末期において、「羌胡化」を経て台頭した涼州軍閥の一人とも見なされている(→「背景」を参照)

生涯

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出自

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後漢の名将馬援の後裔[10][11]扶風馬氏の右扶風茂陵県という本貫は、父の馬騰、祖父の馬平中国語版にも共通するものである[12][13]。しかし馬平は桓帝の時代に天水郡蘭干県で県尉を務め、失官後は隴西郡に留まって羌族と雑居し、貧窮の中、現地で娶った羌族の女性との間に馬騰をもうけた[11][14][15]。当地における豪族的基盤を持たず[16]鄣山として生計を立てていた馬騰は[17]中平元年(184年)、先零羌(羌族の一種族)、宋建王国湟中義従胡(漢に帰順した異民族)の北宮伯玉中国語版・李文侯および漢族辺章・韓遂による大反乱に際して[18]、州郡の討伐兵募集に応じた[11][19]。ところが中平4年(187年)には、当時の涼州刺史である耿鄙中国語版の下で司馬を務めていながら、韓遂による耿鄙殺害に乗じて反乱し、三輔寇掠に加担した[20][21]。このように、馬騰の生育地が隴西だったことから、その子である馬超を実質的に涼州人とする見方がある[22][注釈 2]

若き日

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初平元年(190年)、献帝を擁立し朝廷で専横を振るっていた董卓は、長安に遷都すると、関東諸将による反董卓連合軍に対抗する戦力として馬騰・韓遂を招いた[17]。両者はそれに従ったが、初平3年(192年)に董卓が暗殺されたため、その部将である李傕に投降し[25]、馬騰は征西将軍となって郿県に駐屯した[26][27]興平元年(194年)、李傕との関係が悪化した馬騰は長安襲撃を図ったものの[28]、企図が露見し、争いに敗れて涼州に帰還した[29][30][31]

馬騰は義兄弟として韓遂と友好関係にあったが、建安初期には衝突するようになり[32][注釈 3]、同時に隴右から関中へと進出した[35]魚豢魏略』によれば、馬超は当時から勇健で知られていた。韓遂麾下の閻行が馬超を矛で刺そうとした際、矛が折れたが、その折れた矛で首筋を殴られた馬超は、あやうく命を落としかけたという[36][37]。その後、曹操と袁紹の対立が激化する中、関中鎮定の任務を帯びた司隷校尉鍾繇が、涼州の韋端[注釈 4]と共に仲裁役となって説得したため、馬騰と韓遂は和解したものの[11][41]、確執は残っていた[42]。この際、馬騰・韓遂それぞれの子が人質として入朝し[43][44]、また馬騰は槐里に進駐した[11][45][注釈 5]

建安5年(200年)の官渡の戦いが終結した後の建安7年(202年)、袁紹の末子である袁尚が派遣した高幹郭援は、平陽で反乱していた南匈奴単于である呼廚泉と合流し、数万の軍勢をもって河東に侵攻した[47][48]。当時、曹操は袁紹の残党勢力と交戦しており、傍観する関中の諸勢力を味方に引き入れようとしていた[49]。馬騰は密かに郭援らと手を結んでいたが、説得されて転向すると、馬超を1万余りの兵と共に鍾繇の下へ派遣した[47][48][50]。馬騰の下で実働部隊を率いる立場にあった馬超は[51]、司隷校尉である鍾繇の督軍従事に任命され、平陽において龐徳らと共に郭援らと戦った[11][27]。馬超は戦場で足に矢を受けたが、矢傷を袋に包んでなおも戦い続け[52]、敵軍を大破した[11][47][44][53][注釈 6]。その功績から、詔勅により徐州刺史を、後に諫議大夫を拝命した[11][56][注釈 7]

建安13年(208年)、丞相となった曹操はまず馬超を辟召したが[57]、馬超は応じなかった[11][58][注釈 8]。辟召という制度には、独特の私的主従関係を構築する働きがあった[60]福井重雅によれば、曹操は社会的・軍事的資本のない状況の中、ほぼ自力で台頭したことも影響して、己の勢力基盤を拡大強化すべく、拘束性の強い辟召を大いに活用したという[61]。またここでは、馬超を人質とする意図も含まれていた[58]。当時、荊州への南下を遂行するに及び、曹操は北方に割拠する馬騰勢力を抑えることで、後顧の憂いを断つ必要があった[62]。馬騰は反乱鎮圧の援助により曹操に与する姿勢を見せていたが[63]、曹操は馬騰に対する懸念をなおも拭えず、部曲を解散しての入朝を求めた[64]。馬騰は張既の説得を経て承諾したものの、実行せずにいた。変心を恐れた張既の手配によって、馬騰はやむを得ず入朝に踏み切り、同年12月[65][66]衛尉となった[67][47]。馬超は偏将軍に任じられるとともに都亭侯に封じられ、馬騰に代わり軍勢を統率した[27][68]。森本淳によれば、偏将軍への任命は、馬超が曹操軍の属将としてその傘下に置かれたことを示すという[40][69]。弟の馬休馬鉄にも官職が与えられ、馬騰の一族郎党がに移住した。これにより、馬超の宗族は事実上曹操の質任となった[70][注釈 9]。父から継いだ部曲とともに、馬超は領地に留まった[11][73]。関隴地区の中心勢力は二極化し、韓遂・馬超がその主となった[74]

潼関の戦い

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建安16年(211年)3月、曹操は鍾繇・夏侯淵に命じて漢中張魯を討伐しようとした[75]中国学者レイフ・ド・クレスピニー英語版によれば、馬超ら西方諸将は鍾繇を洛陽まで押し戻し、無秩序な独立体制を再建していたという[76]。3000の兵で関中に入ることを求めた鍾繇は、表向きは張魯討伐を掲げていたものの、実際には馬超らを脅迫して人質をとるつもりだった[77][78]高柔は「みだりに兵を動かせば、西方の韓遂・馬超は自分たちが目標であると考え、共に扇動して反逆するでしょう。先に三輔を安定させた後で漢中に檄し、平定すべきです」と、曹操の行動を諫めた[79][80]。曹操が荀彧を介して衛覬に意見を聞くと、衛覬は「兵を関中に入れて張魯を討とうとなると、張魯は山深くにいて交通の便が悪いため、西方の諸将は必ず疑うでしょう。一旦騒動が起きれば、西方の地は険しく兵は強いため、当然困難が生じます」と答え、出兵に反対した[81]。事実、関隴に敷かれた統制は万全とは言えなかった[82]。曹操は衛覬の意見を認めたが、最終的には鍾繇の策に従った[78][83]。曹操はこの時、仮道滅虢の計をとったともされる[84][注釈 10]。馬超・韓遂はいずれも朝廷から官職を授かった身分であり、謀反の嫌疑も存在しないからには、曹操は彼らを征伐する大義名分を立てられないが、馬超らが先んじて反乱すれば、関隴攻撃を正当化できるためである[87]

関西諸将は曹操の動向に疑念を抱いた[88]。韓遂は建安15年(210年)より、張猛の反乱を鎮圧するため遠征していたが[89][90]、飯田祥子によれば、曹操政権は韓遂を利用する傍ら、馬超にも働きかけることで、両者を互いに反目させようと工作していたものと見られる[91]。『魏略』においては、馬超は遠征から戻った韓遂を都督に立て、「以前、鍾司隷(鍾繇)は私に将軍(韓遂)を殺すよう命じました。関東の人間はもはや信用できません。私は父を棄て、将軍を父とします。将軍も子を棄て、私を子とされよ」と語ったとされる[92]。かつて父を入朝させ、韓遂にも勧降していた閻行は[93]、反乱に参加しないよう韓遂を諫めたものの、韓遂は「諸将は諮らずとも意を同じくしている。これは天命であろう」と答え、謀反に同調したという[37]

馬超・韓遂・楊秋李堪成宜らに加え、侯選程銀張横梁興馬玩らあわせて10の軍閥が挙兵すると[11][62]杜畿が太守を務める河東を除き[94]弘農[注釈 11]左馮翊の郡県までもが相次いで呼応した[99][100]。さらに百頃王の千万[注釈 12]興国氐王の阿貴が、馬超に従い反乱を起こした[103][104]藍田の劉雄鳴は反乱に従わなかったために馬超によって撃破され、曹操の下へ逃亡した[37][105][106][注釈 13]。また馬超は京兆の学者である賈洪を脅し、露布(布告文・檄文[111])を起草させた[112][113]。馬超の乱に応じて、数万家に及ぶ関西の住民が子午谷を経て漢中に逃れた[12][114][注釈 14]。三輔の人口は初平3年(192年)の李傕・郭汜の乱で一度激減し[116]、次第に回復しつつあったが、この大乱により再び大幅に流出した[117]。馬超らは10万の軍勢をもって、黄河南岸、潼関の西側に布陣した[62]。曹操は曹仁を潼関へ派遣して防戦させた[118]。そして諸将に対し「関西の兵は精悍であるから、防御を固めた上で、打って出てはいけない」と注意した[119]

馬超たちの兵は長矛の使用に習熟しており、諸将から脅威と見なされていた[120][121]。馬超の率いる軽装騎兵・長矛部隊で構成された軍隊は、対異民族戦に携わった後漢の「西北列将」の代表にして、当時最も強勢だった羌族との戦闘で大戦果を挙げた段熲の系譜を引いており[122]、馬超はその機動力を生かした戦法を取っていたという[123]

潼関は渭水(Wei)と黄河(Yellow)の合流地点南岸に位置する。他の地名に金城(現蘭州Lanzhou)、天水(Tianshui)、扶風(現宝鶏Baoji)、咸陽(Xianyang)、長安(現西安Xi'an)、渭南(Weinan)。

8月、曹操は潼関に到着した。馬超らの軍は、黄河南岸に布陣した曹操軍と潼関を挟んで対峙した[124]。夜間、徐晃朱霊は黄河を北に渡り、蒲阪に陣営を構築した[125][126]8月、続いて渡河を試みた曹操は、先に兵を赴かせ、自身は許褚が指揮を執る虎士(親衛隊)100人余りと共に殿軍となった[127]。馬超は歩騎1万余りを率いてそこを急襲し、猛然と矢をそそいだ[128]。曹操は周囲から孤立し、また乗っていた船の漕ぎ手も射殺され、死の危機に瀕した[129][130]。これはおそらく、呂布との対戦以来、曹操自らが参加した戦闘において最も危険な状況だった[131]。しかし許褚が身を挺して曹操を守り、また丁斐が牛馬を解き放って馬超らの軍を混乱させたため、曹操は渡河に成功した[132][133]。曹操が行方知れずになったことで諸将はみな危惧していた。曹操と再会して悲喜こもごもの者、あるいは涙を流す者がいる中、曹操は大笑いして「今日はあやうく小賊にしてやられるところだった」と語った[134][135]

曹操軍が蒲阪から西へ渡河し、さらに黄河を南下しようとした際、馬超は「渭水の北にて敵軍を渡らせずにおくべきです。20日と経たずに河東の兵糧は尽き、敵は必ずや撤退することでしょう」と主張したが、韓遂の賛同を得ることができなかった。この話を聞いた曹操は馬超の存在をいっそう警戒し、「馬(ば)の小僧が死ななければ、わしには葬られる土地も無い」と語った[136][137]。その後も敵の進軍を許した関西諸将は、渭南駐屯時に人質の提供を打診し、黄河より西の土地の割譲および講和を求めたが、拒絶された[138]

9月、曹操は渭南に到達した[注釈 15]。そして賈詡の進言に従い、馬超らの要求に偽って応じ、会談の場を設けて離間の策を用いた[133][140][141]易中天によれば、馬超が会見に参加した際、曹操は厳重な警戒態勢を敷き、不信感を露わにした[142]。馬超は己の多力を恃みに曹操を襲撃しようとしたが、護衛の許褚がいたため実行できなかった[143][注釈 16]。曹操は両軍間の交流を利用して、韓遂が内通しているように見せかけたため、馬超らは韓遂を疑った[138][注釈 17]。統帥の乱れた連合軍は、その後の会戦で大敗を喫した[150][注釈 18]

馬超は涼州へと逃れ[11][152]、諸戎(西方の漢族でない諸民族、西戎)を頼りにした[27][153]。曹操は安定まで追撃したものの[138][注釈 19]、蘇伯・田銀が河間で反乱を起こし、幽州冀州を扇動していたため[155][156]、引き揚げようとした[27][39]。涼州参軍楊阜は馬超の武勇と異民族への影響力について警戒を促し、「厳重に備えておかねば、隴上[注釈 20]の諸郡は国家のものでなくなります」と進言したが[27]、曹操は帰途についた[39][159]。潼関の戦いにおいて曹操軍は勝利を収めた一方、その被害は甚大で、死者数は万をもって数えるに及んだ[78][160][注釈 21]

涼州での再起

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姜叙の母を殺す馬超(歌川国芳画)

建安17年(212年[163][注釈 22]1月、馬超が諸戎の渠帥(少数民族の首領[166])たちを率いて隴上で蜂起すると[167]漢陽(天水)の郡治である冀県[168][169]を除く全ての郡県が馬超に呼応した[155]上邽県では任養ら[注釈 23]が馬超を迎え入れたため[172]、涼州別駕の閻温は、涼州刺史の韋康が治める冀城に走った[173][174]。冀城は馬超軍の包囲下に置かれ[175]、張魯が援軍として派遣した楊昂もまた攻城に加わった[39][176]

5月、馬騰は馬超の反乱に連座して誅殺され、三族皆殺しとなった[177][178][注釈 24]

閻温は包囲網を掻い潜って夏侯淵に援軍を要請したものの[182]、その足取りを追われて身柄を拘束された[183]。『三国志』は、これにまつわる以下のような逸話を載せている。引き出された閻温に対し、馬超はその縛めを解いて「今や勝敗は歴然としている。足下(あなた)は孤城のために援軍を求めながら、かえって囚われの身となった。いかに義を成すというのか? もし私の言に従うならば、城に戻り、東から救援は来ないと伝えるように。これぞ禍いを転じて福と為すというもの。さもなくば、ただちに殺す」と言った。偽って要求を受け入れた閻温は、車に乗せられて帰城すると「大軍が3日のうちに来る。頑張れ!」と叫んだ。馬超は怒って「足下は命のことを考えないのか」と詰り、また懐柔を目論んで「城内の旧知で、私と意を同じくする者はいるか」と問うたが、閻温は何も答えず、それを咎めた馬超に対し「主君に仕えるということに、死はあれど二心はない。卿(あなた)は長者(年長者[183])の口から不義の言を出そうとしている」と言い、馬超に殺されたという[174][183][注釈 25]

馬超による閻温殺害を境に、韋康と漢陽太守の意思は降伏に傾いた[185]。8月、ついに韋康が講和を求めて開城すると、馬超は韋康と太守を殺害した[186][165][注釈 26]。そして冀城を占拠して兵衆を併合し、征西将軍・并州牧・督涼州軍事を自称した[27][188]。その後、遅れて救援にやってきた夏侯淵[注釈 27]を迎撃して優位に立ち[5]汧県の氐族[注釈 28]を呼応させて敗走させた[110][194]。さらに千万も呼応し、興国で反乱を起こしていた[133][195][注釈 29]。馬超の威勢はこの時期に隆盛を極めた[197]

楊阜は、妻の葬儀を口実にして、外兄(妻の兄弟[157])の姜叙が駐屯していた歴城(漢陽郡西県[198])を訪れると、撫夷将軍であり軍権を擁する姜叙の無反応ぶりを趙盾に比して責め、反乱を仄めかした[199]。韋康が殺されたことを、楊阜は一州の士大夫の恥であると考えていた[200]。その悲憤を見た姜叙の母もまた、楊阜の計画に加わるよう息子をけしかけた[39][201][202]。こうして、涼州の士大夫層(有力者層)は結集して内応を図った[200]。韋康の旧臣の一人である趙昂もこの報復に加わったが、皇甫謐列女伝』によれば、息子の趙月が馬超の人質であることを案じると、妻の王異は「忠義こそが立身の大本です。君父の恥を雪ぐにあたっては、命を差し出すのも瑣末なこと。ましてや子ども1人のことなど気にかけるものではありません」と叱咤したという[202][203][注釈 30]

建安18年(213年)9月[注釈 31]、楊阜・姜叙が鹵城[209]において反旗を翻した[189]。楊阜らと結んでいた趙衢・梁寛は、馬超を鎮圧に向かわせた後、冀城の門を閉ざし、馬超の妻子をことごとく殺して晒し首にした[210][注釈 32]。馬超は鹵城から撤退する最中に歴城を攻略した[212]。そこで捕らえた姜叙の母に「お前は父に背いた逆子(ぎゃくし。不孝者[213])、主君(韋康[212][214])を殺した桀賊(凶暴な賊[215])であり、天地がどうしてお前を久しく容れられよう。だのに早く死なずにいて、人に顔向けできるというのか!」と罵倒されて激怒し、姜叙の母とその子を斬った[216][注釈 33]。退路を断たれた馬超はついに涼州を離れ、漢中にいる張魯の下へ落ち延びた[39][217]。馬超と楊阜との戦いでは、楊阜の兄弟7人が戦死し、楊阜自身も傷を負った[39][218]

張魯は馬超を重用して都講祭酒[注釈 34]とし、さらには自分の娘を嫁がせようとしたが、ある臣下に「自らの親を愛せない者が、どうして他人を愛せましょうか」と諫められ、とりやめた[221]。また漢中には、潼関の戦いにおける馬超の敗北を機に、馬超の妾の弟である董种が三輔から移住していた。元日に董种が馬超を訪ねてお祝いを述べると、馬超は胸を叩いて吐血し、「一門がみな、一旦にして命を落としたのに、今われわれ二人で祝おうというのか」と嘆いた[11][222]

馬超は張魯に対して何度も派兵を要請し、失地回復を試みた[223]。建安19年(214年)、趙昂らの立て籠もる祁山を馬超が包囲した際、姜叙らより救援依頼を受けた夏侯淵は、現在地から曹操のいる鄴までの距離は往復して4000里(約2000km[224])であるから、曹操からの指令を待っていれば彼らは負けるだろうと判断し、陳倉狭道を経て進軍した[225]。包囲から30日後に援軍が到着し、馬超は羌氐数千人と共に、その先行部隊を率いる張郃を渭水にて迎え撃ったものの、交戦しないまま撤退した[110][226]。人質の趙月はこの時に殺された[202][227]

劉備への帰服

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馬超は張魯に不足を覚え、また張魯配下の楊白らによる妬みゆえの排斥もあって[228][注釈 35]、内心鬱々としていた[236]。そして建安19年(214年)、武都から氐族の居住地へと出奔した[11][237]。王北固によれば、馬超は血縁と地縁による生得的保護を利用していたという[238]。時に劉備が成都を包囲していると知った馬超は、密書を送って降伏を申し入れた[27][239]

馬超が漢中にいた頃、劉備は李恢を派遣して馬超と誼みを結ばせていたが[240]、馬超の来降を聞くと「益州を手に入れたぞ」と喜び[241]、人を遣わして馬超を迎えとらせ、密かに兵を補充した[11][242]劉備の入蜀は、劉璋軍のしぶとい抵抗によって難航しており、雒城攻略時には龐統が戦死していた[243]。また成都城内には精兵3万と1年分の穀帛があり、包囲下にあってなお士気は高く、抗戦の構えを見せていた[244][245]。しかし馬超の軍兵が成都城の北に駐屯するや、恐れをなした劉璋は馬超到来から10日足らずで降伏し、夏頃、蜀は劉備の手に帰した[11][246]。益州獲得に大きく寄与したことから[5]、劉備は馬超を平西将軍とし、臨沮を治めさせ、改めて都亭侯に封じた[27][247]。宋傑によれば、この任地は武都郡沮県近辺の沮水中国語版流域を指す[248][注釈 36]。馬超は劉備の爪牙(武の重鎮、主君を補佐する人物[251][252])として、関羽張飛と共に名が挙げられた[253][254]

平西将軍という官職は、関羽が当時就いていた蕩寇将軍よりも高位だった[255]。馬超の帰順を知った関羽は、馬超の才能が誰に比肩するかを諸葛亮に書簡で尋ねたが、関羽の勝ち気な性格[256]を知っていた諸葛亮の「益徳(張飛)と並んで先を争うでしょうが、髯[注釈 37]には及びません」という返事を見て大いに喜び、来客に見せびらかした[257][258]

馬超が涼州から離れたことで、夏侯淵がこれ以上由々しい抵抗勢力と対峙することはなくなった[9]。そして同年10月、枹罕において独自政権を打ち立てていた宋建が滅ぼされ[259][260][注釈 38]、その翌年の建安20年(215年)5月、夏侯淵に大敗し西平に退いていた韓遂の首級が、現地の諸将から漢中攻略中の曹操の下へ送り届けられた[133][262][263]。これにより隴右は平定された[264]。しかし隴右に対する支配体制は実際のところ整わず、漢族・非漢族による反乱が相次ぐ不安定な情勢が曹魏初期まで続いた[265]

建安21年(216年)に発された、将に帰順を迫る陳琳「檄呉将校部曲文」では、曹操の軍事力を誇示するにあたり、これらの抵抗勢力を撃滅したことが雄弁に述べられている[266][267]

近頃では関中諸将が、互いに合衆して、頻りに叛乱し、二華(太華山・少華山[268])を阻んで、黄河・渭水に拠り、羌胡を駆率し、矛を揃えて東に向けたが、その気は高く志は遠大、あたかも無敵かのようだった。丞相(曹操)は鉞を携えて武威を逞しくし、順風に烈火を放つがごとく、元戎を前駆して[269]、戦鼓も鳴らぬ間に彼らは破れた。倒れ伏した屍は千万にのぼり、流れた血が大盾も漂わせたことは、天下の誰もが知るところである。その後、大軍が長江に臨みながら渡らずにいたのは、韓約(韓遂)・馬超が逃れ出て、涼州へと逃げ帰り、また鳴吠(動乱、叛乱[268][270])せんとしたからだ。逆賊宋建は河首〔平漢王〕を僭号して、〔韓遂・馬超と〕同悪相救い、並んで唇歯となった。〔中略〕みな我が王の誅伐を先駆けて加えるにあたうものだった。〔中略〕偏将(夏侯淵[268])が隴を攻めれば、宋建・韓約は梟夷(誅滅[271])され、その首は万里に晒された。〔中略〕宋建・韓約の眷属はみな鯨鯢となり〔誅殺され〕[272][273]、馬超の妻子は金城にて首を焼かれ、父母嬰孩の死体はに倒れた。これは国家が彼方には禍を集め、此方〔張魯・朴胡・杜濩などの帰順者〕には〔封戸・封侯により〕福を下したというのではない。逆順(正否[274])の理においては、そうならざるを得ないのだ[275][276][277]

建安22年(217年)冬、馬超は漢中争奪戦において張飛・呉蘭雷銅と作戦を共にし、武都に侵攻して東部戦線の主力である劉備軍を援護した[248][278]。建安20年(215年)に張魯が曹操に投降したため[注釈 39]、漢中はすでに曹操の勢力下にあった[280]。馬超は張飛と共に沮道[注釈 40]を経て[248]、呉蘭・雷銅は陰平から北上して下弁へと進出した[248][286][注釈 41]。前者においては、氐族の雷定ら7部族1万落余りが呼応した[39][287]。これに応じて、曹操は曹洪曹休曹真を派遣した[288][289][注釈 42]。固山[注釈 43]に駐屯して曹洪らの退路を断とうとする張飛の動きに対し[248][286]、それを陽動と判断した曹休は、下弁にいる呉蘭を攻撃して撃破した[293]。建安23年(218年)3月、陰平氐の強端が蜀に引き返す呉蘭を殺し、馬超は張飛ともども漢中に退却した[133][294][注釈 44]。建安24年(219年)1月、夏侯淵の敗死に伴って劉備が漢中を獲得すると、その北進に従って武都氐が関中を圧迫するのを恐れた曹操は、張既・楊阜に命じ、武都氐を京兆・扶風・天水へ移住させた[39][47][297]。馬超や劉備などの反曹操勢力と結ぶ可能性を断つ目的から、氐族はかくして離郷を余儀なくされた[298]

建安24年(219年)7月、劉備が漢中王を称し、馬超は左将軍仮節となった[27][299][注釈 45]。馬超は賓客のような立場にあった[301]。劉備を漢中王に推戴する上表文において、馬超は群臣たちの筆頭に挙がった[254][302]。劉備は建安3年(198年)に左将軍を拝命して以来、敬称として左将軍と呼ばれることが多かった[303]。漢中王を称するにあたって劉備は左将軍を辞したが[304]、その後任としての馬超の抜擢は、劉備が馬超を礼遇したものだといえる[305]

建安25年(220年)1月、曹操が死去し[133][306]黄初元年(同年)10月、子の曹丕が献帝から禅譲を受けて即位した[307][308]

章武元年(221年)4月、劉備が帝位を称した[254]。馬超は驃騎将軍・涼州牧となり、斄郷侯に封じられた[5][27][注釈 46]。また常璩華陽国志』によれば、北方において臨沮(武都郡沮県[318])の監督を担った[318][319]。馬超には以下のような策命が与えられた。

朕(劉備)は不徳を以て至尊(天子[320])を継ぎ、宗廟を奉承した。曹操父子は代々その罪を重ねており、朕は惨怛として、憂慮すること疾首(頭痛[321])のごとくである。海内(天下[321])は怨み憤り、〔漢の〕正統に帰り本(もと)に反(かえ)らんとして、氐羌は順服し、獯粥も義を慕うに至っている。君の信義は北方の地において著しく、その威武もまた明らかなるからこそ、〔驃騎将軍の〕任務を委ねて君に授けるのである。虓虎(吼え猛る虎[321][322])のごとき勇を顕して[注釈 47]、万里を統べ、民の苦難を尋ね求めるのだ[注釈 48]。国朝の教化を宣示し、遠近を安撫して保全し、粛然と慎んで賞罰を行い、かくて漢の祐福を篤くして、天下に対(こた)えよ[27][331]

西方の異民族との連携は、諸葛亮の説いた隆中対における要点の一つである[332]。馬超は蜀漢において、北方(涼州)での働きと西方の異民族に対する影響力に嘱されていた[333]。その所期は策命からもうかがうことができる[334]。また非保有の土地を封じる遥領という制度によって、封与者は被封与者の地位を高めるだけでなく、自身の統治が及ぶ範囲を表せたが、蜀漢政権の場合はそれに加えて、自らの正統性を示すことができた[335]。蜀漢における涼州刺史(牧)は、遥領ではあれど依然として重役だったと見なせようが[336]、さらに、益州以外の地域で州牧を務めたのが蜀漢では馬超のみだったことは、彼に対する厚遇の一例とも捉えられる[337]

章武2年(222年)、馬超は47歳[注釈 49]で没した[27]。死の間際、馬超は劉備に上疏した。

臣(わたくし)の一門宗族200人余りは、孟徳(曹操)に誅されてほとんど尽き、ただ従弟の馬岱が残るのみであり、〔彼が〕衰微せし宗家の祭祀を継ぐ者となるよう、深甚に陛下へお託しいたします。余言はございません[27][222][338]

子の馬承が後を嗣いだ[27][339]。馬岱は平北将軍まで昇進し、陳倉侯に封じられた。馬超の娘は、後に劉備の息子である安平劉理に嫁いだ[27][340][注釈 50]。これらの措置も馬超への優遇を示すという[238]

景耀3年(260年)9月、威侯の諡号を追贈された[27][342][343][注釈 51]

逸話

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彭羕の放言

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益州の名士である彭羕は、傲慢で軽率な性格だった[345]。はじめは劉備に重用されていたが、その野心を警戒した諸葛亮の進言により、江陽太守へと左遷されることになった[346]。内心不愉快に思った彭羕は、左遷される前に馬超を訪ねた。馬超が「卿の才能はずばぬけており、主公(劉備)もたいへん重用なさっていて、孔明(諸葛亮)や孝直(法正)にも引けを取らぬと思っていたのですが、地方の小郡に任じられるとなっては、本望から外れるのではないでしょうか」と問うと、彭羕は劉備を「老革(老いぼれ)」と呼んで罵り[345]、「卿が外に〔軍を〕執り、私が内に〔謀を〕執れば、天下は定まろうものです」と馬超に言った[347]。流離の身で帰順し、常に危懼の念を抱いていた馬超はこの言葉に驚愕し、黙して答えなかった[348]。彭羕の帰宅後、馬超がその発言を具述して報告した結果、彭羕は投獄された[349]。罪状は謀反扇動と政権転覆である[345]。諸葛亮は名士に対し同情的で、手厚くもてなしていたが、その言動が政権に悪影響を及ぼす場合は厳しく対処した[350]。彭羕は獄中から諸葛亮へ弁明の手紙を送り、「老革」は酒席での失言であると弁解して[345]、「内だの外だのと言ったのは、孟起(馬超)に北方で功を立ててもらい、主公のために尽力して、共に曹操を討とうというだけの話であり、他意はありません[345][注釈 52]。孟起の告げたことは事実ですが、彼は言葉の真意を汲み取れておらず、心を痛めるばかりです」と述べたが、最後には処刑された[346][352]

関張の牽制

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『山陽公載記』によれば、馬超は、劉備からの待遇が厚いのをいいことに、常々劉備を字で呼んでいたため、怒った関羽が馬超の殺害を申し出た[注釈 53]。劉備が「彼は切羽詰まって私のもとに来たのに、字で呼んだからといって殺したら、天下に示しがつかないだろう」と取り成すと、張飛が言うには「ならば、礼儀というものを見せてやろう」。翌日の宴会で、関羽と張飛が彼らの席におらず、刀を携えて劉備の側に起立しているのを見た馬超は驚き、字呼びをやめた。その翌日、「私は今、敗北の所以を悟った。主人の字を呼んだがために、あやうく関羽と張飛に殺されるところであった」と嘆じ、それ以降は劉備に敬意を表して仕えるようになったという[137][353]

しかし『三国志』の注釈者である裴松之は、この逸話について論難している。

  • 窮していたところで劉備に帰順し爵位も授かった(臣従を受け入れた)馬超が、主君を字で呼ぶほど傲慢に振る舞うとは考えられない。
  • 入蜀時には荊州の守りについていた関羽が益州に行ったことはなく、それゆえ諸葛亮に手紙を送ったというのに、関羽が益州にいて張飛と共に立っていることなどあり得ない。
  • 人はある行為をしようとする際、その可否を承知した上で実行するのだから、馬超が仮に劉備を字で呼んでいたならば、そうしてもよいと判断した謂れがある。
  • 関羽と張飛が武装して直立しているのを見ただけで、関羽の建言を知らない馬超が事態を悟るのはおかしい。

以上の4つの観点から、裴松之は逸話の信憑性を強く疑問視している[137][354]。この馬超の逸話は、現代においても史料的価値には疑いの余地があるとされる一方[355]、人物描写をはじめとするその文学性を評価されている[356]

背景

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涼州と呼ばれる地域は本来、古来より続く羌族の居住地であり[357]紀元前3世紀匈奴河西回廊に侵入して以来およそ80年間、匈奴の支配下にあった[358]。中国の版図に入ったのは前漢武帝の時代、元狩2年(紀元前121年)においてである[359]。この併合は、匈奴を河西および羌族から切り離すのを目的とした対匈奴戦争の副次的事業であり[360]、軍事拠点の建設および統治制度の維持がその支配方針となった[361]。元狩4年(紀元前119年)の徙民によって涼州における漢族の割合は増加し[362]、また元鼎6年(紀元前111年)に漢族が大規模に移住したことで、漢・羌両族間の交流は必然的に生じた[363]

羌族の風習では、寡婦となった継母や兄嫁を娶り、君臣関係を築かずに強者を立てる[364][365]。さらに、父母が死んでも泣くのを恥とするといわれた[366][367]。匈奴侵入の際、羌族は文化的親和性から漢族よりも匈奴に近づいたというが[368]、匈奴は孝心に乏しいとされていた[369]。また河西回廊に残留した月氏は匈奴や羌族と同化し[370][371]、加えて他の北方遊牧民社会も羌族と似通った風習を持っていたようである[372]。以上に挙げた羌族をはじめとする非漢族の風習は、主要な人間関係とされる五倫や、父母の死に対する三年の喪、哭礼といった服喪儀礼などを是とする中原儒教倫理にはそぐわない[369]。地域・気質・文化などに見出されたこれらの差異は、華夏夷狄を下位に置く根拠となっていた[373]。漢族が羌族に対し軍事的優勢を取れるようになるにつれ、この蔑視は強まった[374]

黄土高原(甘粛省臨夏回族自治州臨夏県北東部)

後漢王朝における涼州では、漢族と諸羌族との衝突が頻発していた[375]。涼州は、農耕に適した黄土高原オアシス、河谷平地に加え、遊牧に適した草原地帯も有する、農耕文明と游牧文明の混じり合う土地だった[376]。前漢時代、農牧に従事する羌族の所有地を漢族が奪い、山岳地帯など他地域への移動を強いたことに由来する両族間の軋轢は[377]、根本的解決のなされないまま後漢に引き継がれた[378]余英時は、動乱の誘因を漢の地方官吏による失政と搾取とする主流の学説を認めつつも、さらなる早期要因として、羌族の人口爆発[注釈 54]および漢人の「蛮夷化」(後述)という趨勢を指摘している[380]。後漢において、羌族は漢族にとり異民族の中でも最たる脅威であった[381]。羌族への武力行使が連年実施され(漢羌戦争中国語版[382]、その戦費は莫大なものとなった[383]。羌族の監督を担う護羌校尉を設置するなどといった融和的な政策も講じられたが、管理不行届が生んだ事実誤認や度重なる官員交代による政策方針の不統一、さらには羌族の民族性への無理解により、効果的統治はなされず[384][385]、かえって対立を悪化させた[378]

後漢中期には羌族の動乱が三輔にまで及ぶ事態となり[386][注釈 55]、涼州・三輔の人口流出が進んだ[389]2世紀半ばにおける、河西回廊沿いの地域を除いた涼州東部の戸籍登録人口は、前漢末期の460万人超から、その1割にも満たない35万人弱まで減少した[390]。羌族は地域区分に則り、隴西・漢陽・金城(外郡)における西羌、安定・北地上郡西河(内郡、中国内部)における東羌という区別がなされていたが[391][392]、後漢中期以降の混乱によって涼州は「外域」に等しい地域と化し、そこへ移された羌族も「外側」に属する存在となった[393]。長期間の戦乱による涼州の過疎化は豪族の没落や人士の排出数減少を招き、朝廷における涼州勢力の政治的影響力は弱まっていた[394]。またいずれも不受理に終わったとはいえ、統制の難航から、華夷の交流を地理的・文化的に断つことで「羌患」を免れようとする涼州放棄論も複数回にわたり唱えられた[395][注釈 56]

隴右に割拠する群雄が台頭した起因には、羌族の内徙を通しての文化的・社会的変容[399]および軍権掌握がある[400]。後漢初期において、司隷・涼州に本貫を置き羌族対策に深く関わった馬援などの外戚勢力は、討伐した羌族を内地に移住させて兵力・奴婢として運用し、自らの勢力を強めていた[401]。反乱鎮圧に伴う強制移住により、関隴地区における羌族の人口は増加の一途をたどった[402]。また関東諸将による対羌戦争での戦績は芳しくなかったが、朝廷は涼州勢力の席巻を恐れ、長らく起用していなかった[403]。しかし元初2年(115年)から羌胡を中心とした涼州兵を導入し、次いで土地勘のある涼州の武将も起用するに至った[404]。辺境である涼州において、地方官吏の内政や羌胡兵による軍隊編成の要請などといった朝廷発の政治現象の成否には、地元の有力者の承認や協力の有無が大きく影響した[405]。さらに言えば、西北地方で頭角を現すには、族的背景以上に個人的能力の有無が特に重要だったと考えられる[406]。朝廷と利害を共にした隴右の地方勢力は勢いを取り戻していった[407]

後漢後期の隴右勢力は官職の有無に関わらず、人格的な関係に基づいて非漢族と交流し、それに由来する軍事力を得た[408]。馬騰・馬超父子が関隴に割拠する一大勢力となったのは、辺境民族の支持を得たことが関係している[409]。隴右勢力は朝廷と異民族兵とを媒介する役割を担った[410]。しかし異民族統御および軍事力提供の属人化により、異民族に対して影響力を持つ人物の存在は現地の漢族社会を動揺させるだけでなく、王朝からも危険視されかねなかった[411]。後漢初期の外戚勢力と同様、董卓や馬騰は羌族を鎮圧し私兵化することで頭角を現したが[412]、董卓の兵権を弱めようとした霊帝に対し、董卓がそれを回避する口実として羌胡兵の言い分や性格を挙げたことや[413][414]、韓遂たちが曹操と会談した際にその様子を見ようとひしめく「秦胡」と呼ばれる人々[155][121][注釈 57]、張郃を迎撃した際の馬超軍などが示すように[363]、涼州軍閥はその兵力を羌族に依拠するところが非常に大きくなっていた[418]。董卓・韓遂・馬超ら関隴諸将は、羌胡・群盗・軍閥入り乱れての武力衝突が絶え間なく生じる涼州で育ち、やがて関中を席巻したのである[419]

後漢末期の涼州軍閥は、董卓を筆頭に、行動規範や風俗の「羌胡化(羌化・化)」について多く論じられている[420]。涼州の一郡である隴西は戦国時代によって置かれたが[421]、その地域周辺の住民は、当時から漢代に至るまで性格や風俗が異民族に近いと認識されていた[369][422][423][424]。後漢時代になると、社会状況の悪化に伴い、社会階級の底辺層では生活を保持すべく漢・羌の結びつきが強まる傾向が生じた[425]。後漢末期における異族交流の例証としては、先述した羌兵の編入のほか、羌族との通婚現象が挙げられる[426]。馬平が羌族の娘を娶ったのは、困窮した民衆には羌族と結婚する選択肢もあったことを示しており、胡漢交流の一形態として認められる[427]。その子である馬騰は出自・環境において羌族と強い関わりを持ち[428]、孫の馬超もまた非漢族と深く結びついていた[429]。涼州軍閥はその地域的異質性のみならず、異族交流を経て獲得した民族性、すなわち民族構成および文化面における非漢族性という特質をも備えていた[430]。しかし漢人の「羌胡化」は中原の人々にとって歓迎すべき現象ではなく[431]、董卓は「羌胡の種」と罵られ[432][433][434]、李傕は「辺鄙の人間で、夷狄の風習に染まっている」と蔑まれた[435][436][437]。また中平元年(184年)の涼州大乱の際、涼州刺史として赴任した扶風人の宋梟は「涼州は学に乏しい」と述べ[438]、人々に『孝経』を学ばせるべきだと主張したが[439][440]、この発言は、涼州の人間が当時の中国の文化基盤から遠ざかっていたことを示唆している[441][注釈 58]

涼州軍閥による文化融合は、前漢以来朝廷を悩ませ続けた漢・羌両族間の摩擦を緩和させた一方[444]、破壊・略奪行為などといった羌族の社会的慣習[445]を認可したために、中原進出に伴い狼藉が目立つようになった[430]。王朝からの報酬が見込めない際、統率者は異民族兵に実力行使を許し、彼らの不満を解消していたという分析もある[446]。過度な「胡化」は、本土の中国人の恐怖に基づく反感や拒絶を呼ぶ[447]。涼州軍閥の暴力性は後漢王朝を衰亡へと導いたばかりか[448]、その挙動が各地で士大夫からの反発を招き、さらに董卓死後における軍閥間の内紛も重なった結果、隴右勢力そのものの滅亡にも繋がった[449]。この自滅については、叛服常ならず、団結力に欠け協力と離反を繰り返す性質が影響を及ぼしたとも言われる[450]。隴右勢力は各々が小規模な集団を形成しており、関中進出などといった共通の目標をもとに結束して、比較的有力な者を全体の統率者として擁立するという行動をとるために、集団群は分散的であり、首領の地位も不安定だった[451][注釈 59]。その他、中原の道徳観・文化観を基準とした非文明的という印象なども要因として挙げられている[454]

馬超もその流れを汲む者として、祖母から引く羌族の血統と、羌族の多く住まう隴右という環境による「羌胡化」の影響を指摘されている[455]朱子彦によれば、馬超は「羌胡化」を経て、礼や義、孝といった概念を当時の一般的な漢族のようには尊ばなくなり、その結果、核心利益に影響する変動が生じた場合は家族の愛情や利益に配慮することもなく、一族を人質に取ることは抑止力たり得なかったという[456]。しかし、馬超がもし入朝した馬騰らの身を顧みるならば、割拠を放棄して曹操に臣服せざるを得ない一方、親族を見放すならば、忠孝の道を失って曹操に道義的優位を与えることになる[457]。馬超のいかなる選択も曹操に利する仕儀となるため、曹操による人質の徴発は結果的に功を奏したともいえる[457]。さらに楊阜や王商などの反応(→「評価」を参照)のように、忠孝理念の軽視は道義に悖るとして強い反感を買い、馬超は同時代の人士からの支持を得ることができなかった[458]。涼州における反攻では非漢族の武装勢力を利用して頑強な抵抗を見せたものの、勢力の確立には至らなかった[459]

評価

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馬超に対する評価は、毀誉褒貶が相半ばする。群を抜く勇猛さが賞賛される一方、行動や徳性はしばしば非難の的となる[460]。また、非漢族との連携という強みやその軍事的意義に着目する見解も見られる[461]

同時代の評価

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  • 荀彧:袁紹との対決以前、関中の動静を憂う曹操に対し「関中の将帥は10を数えますが、結束することはできず、ただ韓遂・馬超が最も強いのです」と評している[462][463][注釈 60]
  • 周瑜:馬超・韓遂を曹操の後患と見なし[466]、建安15年(210年)、益州攻略について「奮威将軍(孫瑜)と共に蜀を取り、蜀を得たらば漢中を併合し、奮威将軍を留めてその地を固守させ、馬超と誼みを結んで連合しとうございます」と孫権に提言している[467][468][469]
  • 王商:「勇あれど不仁、利を見て義を思わない人物であり、唇歯となるべきではありません」と評して馬超との連盟に反対し、「益州は、その国土はうるわしく民は豊かで、貴重な物品も産出する場所であるからして、狡猾な者が襲わんとするところであり、馬超らはそのために益州に接近するのです。もし彼を近づけるならば、虎を養いて自らに患いを遺すこととなりましょう[470][471]」と、劉璋を諫めている[472][473]
  • 楊阜:曹操への諫言で「馬超は韓信黥布のような武勇を持ち、羌胡の心を甚だ得ています。西州(涼州[474])は彼を恐れております」と述べる[475]。また「父に背を向け主君に叛き[注釈 61]、州将(刺史[200])を虐殺した」、「強いが不義である」と非難している[39][477]
  • 諸葛亮:関羽に宛てた手紙で「孟起は文武の才を兼ね備え、人並み外れて雄烈、当代の傑物であり、黥布・彭越のともがらです」と評している[257][478]。またその書中では馬超を張飛と同列に扱ったが、黄忠を後将軍に据えようとした劉備に対しては「黄忠の名望は関羽・馬超と並ぶものではありません」と、関羽と併せて言及している[479][480]
  • 楊戯:『季漢輔臣賛』において、「驃騎将軍(馬超)は奮起して合従連横した。三秦(関中[481])にて事を始め、黄河・潼水を占有した。思惑は朝廷を宗とするも、時には離反し、時には同盟し、敵がその隙に乗じたことで、一族は滅び軍勢も失われた。道に背き徳に反したが、龍鳳(劉備[482])に身を託し縋った」と評している[483][484]

後世の評価

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中国における評価
  • 西晋陳寿:「馬超が武力に頼り勇を恃んで、一族を破滅させたのは、惜しいことだ。窮地から安泰へと至ることができたのだから、まだ良かったのではないだろうか」と評している[485][486]
  • 潘岳:『西征賦』と題するにおいて、朝廷(曹操)に対し叛乱を起こした馬超を、韓遂と共に「大憝(大いなる悪人[487])」と呼んでいる[488][489]。潘岳から見れば、馬超たちは国家や民にとって有害無益な臣下であり、後世への戒めとして機能するだけでなく[490]、自身の高尚潔白な理念と反するために、軽蔑の対象でもある[491]。作中で同様に糾弾される人物として、李斯趙高蕭望之などがいる[492]
  • 東晋孫盛:馬超が父に背いたことを、家族よりも利益を優先した残酷極まる行為であるとし、人質を取ることの無意味さを表す例として挙げている。その類例として、降伏せねば実父を釜茹でにすると項羽に脅された際に「煮殺すならそのをわしにも分けてくれ」と答えた劉邦[注釈 62]や、長子を人質に出した後に反逆した隗囂が列記されている[460][495]
  • 南唐徐鉉:祖先が扶風人だという馬仁裕中国語版神道碑に、扶風馬氏に関連する高名な人物として、伯益趙奢[注釈 63]馬融と共に馬超の名を挙げ、「公侯〔の子孫〕は必ず〔元の公侯に〕復(かえ)るというが[498][499]、〔果たして〕関西は孟起の威に靡いた」と記している[500]
  • 南宋陳亮:「関西諸将は皆恐るるに足らず、恐るべきは馬超ただ一人である」と述べ、馬超が領地に独り留まったことは曹操にとっての養虎の患いだとする。そして「馬超が〔曹操の招きに応じて〕就任してしまえば、関西諸将など物の数ではない。袁煕袁尚が平らげられた今、強兵が西に向かうとなると、その風向きを理解した諸将はこちらに合流する、すなわち、韓遂らはあえて刃向かおうとはしない。たとえ叛いたとしても、これを破るのはたやすいことだ」と、関西平定における馬超の重要性を説いている[501][502][注釈 8]
  • 郝経:「馬超父子は西州随一の勇者だったが、韓遂と共に跳梁して寇(あだ)しては、三輔を荒廃させ、漢王朝を損なった」と、董卓と併せて漢王朝衰退の一因と見なす[460]。また「一門が皆誅され、凋落すれども悔いず、勇はあれども義は無く、君子はこれを嘆くのである。しかるに、潼関の戦いにおいて曹操はあわや命を失うところと相成り、孤剣にて帰順するや関羽・張飛に列したからには、馬超もまた豪傑ではないか」とも評し、曹操を追いつめたことで改めて「当代の雄」だとしている[503]
  • 徐鼒:「聖人の大公無私の心は、先も後もみな同一であるという[504]趙苞の〔鮮卑に拉致された母親を捨てた〕不孝の義を守り、馬超の父に背いた条理に従うというならば、敝蹝(へいし。破れた草履[505][506])を棄てるように、大舜もまた〔天下を捨てて有罪の父と共に逃げ〕海辺で暮らすことができる。〔項羽の脅しに対する〕羹の分け前においては、漢祖(劉邦)も〔父を〕俎上に置くことを忍んだ。英雄の成し遂げることは〔みな同様だが、それは〕聖賢の精神ではないのだ」と記している[507][注釈 64]
  • 清末民初盧弼中国語版:「馬超は武勇に優れ、羌胡を手懐けていたが、隴右の軍衆を兼有し、さらに張魯の援助も得ているとあっては、向かうところ敵なしといえよう」と述べ、その強勢を認める一方、「〔韋康は絶望的な情況の中で〕無辜の吏民が死んでいくに忍びず、心苦しくも和睦を求めたのであり、その情況は諒解できる。馬超はただ残虐で、約に背いて韋康を殺害し、また楊昂の手を借りて、殺戮をほしいままにしてしまった[注釈 26]。だから韋康の死後、吏民は怨恨を抱き、姜敘の母や趙昂の妻は両者とも忠義の心を奮い、皆が故君のために復讐したのだ」と失策を指摘している[510]
  • 易中天:関羽の書状に対する諸葛亮の対応について、「馬超は投降してきたばかりで、まだ不安な心理状態にあり、高い評価を与えて安心させることが不可欠であった。まして馬超はもともと有能な才能の持ち主であり、どうして低く評価するなどできようか」と述べている[511]
日本における評価
  • 井波律子:「強権に屈服しない反発力の強さ」[512]が特徴であるとし、「曹操をキリキリ舞いさせた戦いぶりの壮烈さには、他に類を見ないものがある」[513]と述べる。またその性格については「剛勇無双ではあるが、二代目のためか、やや単純で傲慢なところのある性格」[514]だといい、馬超の長所・短所は表裏一体だったのだろうと語っている[515]。さらに、劉備への帰順後に目ぼしい活躍が見られなかったのは、劉備の古参の配下たちと比較した際の立場や意識の違いが影響したのではないかとも推測している[515]
  • 満田剛:馬超の動向の背後に見られる羌・氐・板循蛮の存在を指摘し、馬超と西北地方の非漢族とのつながりが、曹魏による隴右統治の不安定さも相まって、諸葛亮の軍事政策に貢献しうるものだったと分析している[516]
  • 飯田祥子:曹操が馬超の人質を即座に処刑せずにいたのは、関係修復を視野に入れた懐柔の姿勢を示すものだとする[517]。それは、馬超をはじめとする隴右勢力が「敵対を避けたい有用な軍事協力者であり、厚遇し勢力を温存するだけの価値があった」[517]ためだという。馬超が個人的な威信により異民族兵を擁したことにも触れている[410]
  • 関尾史郎:後漢末期に起きた隴右叛乱の最終段階における氐族の参戦について、馬超の急速な勢力拡大が最大要因であると解している[518]

墓所

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成都武侯祠の馬超像

馬超墓には主要なものが複数存在する。

新都県の墓所(北緯30度49分00秒 東経104度10分01秒 / 北緯30.816550度 東経104.166914度 / 30.816550; 104.166914
の時代、四川按察使の楊瞻、成都知府王九徳中国語版県令邵年斉中国語版が、墓の湮没を恐れ、墓前にを建てた。雍正11年(1733年)、邑令の陳銛が墓の四隅に石を設置して区画を設け、墓域より内側での採樵と耕作を禁じた[519]。陳銛はこの経緯について記録した「故征西将軍馬公墓碑記」と題する文書を『新都県志』に載せている[519][520]道光17年(1837年)には、知県の張奉書が墓域を測量して3.174とし、墓の周囲に柏を植え[注釈 65]、塀を作り、墓守を設置して、春秋に墓参りをした[519][525]。さらに「漢故征西将軍馬公諱超字孟起之墓」という明代の墓碑を改めて建てた[519]宣統元年(1909年)、四川提督中国語版の馬維騏[注釈 66]により立派な社殿が建てられ、「漢驃騎将軍領涼州牧斄郷侯諡威侯馬公墓誌」という墓碑も新たに作成された[528]文化大革命の際に破壊されたため、馬維騏による墓碑と撰者不明の「征西将軍馬超墓碑」の2つの石碑のみが現存する[519][529]。石碑は1987年に新都の桂湖公園にある碑林に移され、安置されている[519]。墓址には記念碑が立っており、周辺区域の地名は「馬超西路」という。県内重要文物遺址(1987年[519]
勉県(沔県)の墓所(北緯33度09分09秒 東経106度38分26秒 / 北緯33.152635度 東経106.640650度 / 33.152635; 106.640650
万暦35年(1607年)に著された祁光宗中国語版『関中陵墓志』および清代の畢沅『関中勝蹟図志』によると、建興5年(227年[注釈 67]に諸葛亮が沔陽を訪れた際、自ら祭祀を行ったという[530][531][532]。また『古今図書集成』によれば、諸葛亮は馬岱に命じて、喪服を掛けさせたという[530][533]乾隆41年(1776年)、兵部侍郎副都御史・陝西巡撫の畢沅により「漢征西将軍馬公超墓」という碑文が制作された[530][534]嘉慶年間には、知県の馬允剛が詩を献じた[530]民国17年(1928年)、馮玉祥は馬超を偲ぶ聯詩を詠み、それを刻んだ「馮玉祥為馬超祠題聯」碑が作成された[535][536]。墓域は漢恵渠という水路を挟んで前院と後院の2つの区域に分かれており、その間に風雨橋と呼ばれる橋が掛けられている[530]。民国24年(1935年)、漢恵渠の修復時に馬超墓も開削されたが、甬道から一振りの鉄刀が発見され、墓の内部に暗器があるのではないかと恐れられたため、再び封印された[537][538]。馬超墓の周辺には、最古にして皇帝の詔のもと建てられた唯一の武侯祠である勉県武侯祠中国語版や女郎祠(張魯の娘中国語版の墓)がある[注釈 68]。省級文物保護単位(1992年[540]

後世における受容

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『三国志平話』

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三国志平話』(以下『平話』)は、元代の至治年間に成立した『全相平話』という歴史講談集のうちの一つである。史実に対する注意の希薄さが特徴である[541]。物語は蜀漢を中心に語られ、「擁劉貶曹」思想を主題とする[542]。そのため、それを際立たせる描写が多数表出しており、馬超が曹操を何度も窮地に陥れるのはその一例である[542]。また『全相平話』の他作品とは異なり、人物描写の重点が装身具から相貌へ移行し、登場人物がより生気を帯びているという特徴を持つ[543]。また特異な風貌を持つ人物の所属は蜀漢に集中している[544]。なお、馬超挙兵と馬騰誅殺の時系列を前後させるという改変は、元代の雑劇や『平話』の時点ですでに見られる[545]。このように因果関係を逆転させた物語は、民間層において広く伝わっていたと考えられる[546]。以下は『平話』における馬超の事績である。

  • 馬騰の長男であり、馬岱はその次男になっている。3人とも万夫不当の勇を持つと評判で、賈翊(賈詡)は劉備に対抗し得る勢力として「馬騰は諸葛亮、馬超は関羽、馬岱は張飛への対策となり得るでしょう」と述べている[547]。容姿については「生きた蟹のように青ざめた顔、明るい星のような目」と描かれる[注釈 69]。武器として長槍を用いるほか、弓の名手でもある[549][注釈 70]
  • 平涼府節度使の馬騰は、曹操に呼び出されると「もし私が死んだら、曹操を殺して仇を取ってくれ」と息子たちに言い残して発つ。そして、献帝に謁見した際に曹操を除くよう暗に進言したことにより、曹操に一族ごと殺される。
  • 馬騰および一族誅殺の知らせは、従僕から馬岱に、そこからさらに馬超へと伝わる。嘆き悲しんだ馬超は、辺章と韓遂から1万の兵を借りて挙兵し、喪服を纏って戦場に立つ。馬超軍の攻撃に曹操軍は手も足も出ず、馬超と戦った夏侯惇があやうく射殺されかける。曹操は長い髭を目印に追われ、命からがら逃げのびるものの、動転するあまり食事も喉を通らない。
  • 次々に勝利を重ねる馬超軍が渭水の東南に布陣してから数日後、婁子旧(婁子伯)と名乗る道士が馬超のもとを訪れる。「馬岱に1万の兵を率いさせ、まずは長安に赴いて献帝を救い、曹操の家族を殺しなさい。それから曹操を殺しても遅くはない」という彼の献策を、馬超は回りくどいと言って退ける。すると婁子旧は曹操軍の陣営に足を運び、辺章と韓遂に賄賂を送れば敵軍を退却させられると曹操に進言する。それによって馬超は軍勢のほとんどを失い、張魯の下へ逃げ去る。
  • 劉備軍と対峙した際には魏延と矛を交える。諸葛亮が伊籍を派遣するや投降し、定遠侯に封じられて五虎将軍の一員となる。荊州にいた関羽は、馬超の封侯とその武勇に対する賞賛を聞いて不満を漏らすが、諸葛亮から受け取った手紙を見て機嫌を直す。
  • 陽平関に侵攻する曹操軍の対処に立候補し、諸葛亮から策を授かるものの、飲酒が原因で敗北し、陽平関を張遼に奪われてしまう。諸葛亮と顔を合わせないよう密かに逃走するが、敵軍に出くわすたび、曹操を散々に叩きのめしている。
  • 劉備が仇討ちのため呉に出兵した際には、剣関(剣門関)の守備を任されている。そして、呂蒙と対峙する諸葛亮を関平と共に援護したのを最後に、物語から姿を消す。

『三国志演義』

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元末明初に成立した小説『三国志演義』(以下『演義』)において、馬超は「冠の玉のようなかんばせ、流星のような眼、虎の体に猿のうでひょうの腹に狼の腰」[552][注釈 71]を持ち、「生まれつき白粉を塗ったように色白、唇は紅をさしたよう」[554]で、「獅子のかぶとに猛獣をあしらったベルト、銀の鎧に白い戦袍ひたたれを身につけている」[555][注釈 72]美将であり、その非凡な風采から「錦馬超(きんばちょう)」と称えられている[559]。その白さは、容貌だけでなく服装や装備によっても強調される[560]。白は中国において喪服に使用される色であるため、着用する白袍は馬超が弔い合戦に臨んでいることを表すが[557]、ここでは白を西方の象徴とする五行思想も反映されていると思しい[561][562]。また『演義』諸版本のどの挿絵においても、馬超は年齢を問わず、ひげのない若々しい姿で描かれる[563]。井波律子によると、『演義』で容姿端麗に描かれる代表的な武将として呂布・馬超・周瑜が挙げられるが、この3人はいずれとも曹操と対立した点で共通している[564][注釈 73]。特に呂布・馬超は史実において武勇を讃えられ、かつ曹操を窮地に追いやった強さを持つことを前提とし、そこにエキゾチシズムが加わったことで、容姿の美しさが描写されたと考えられる[566]。馬超の場合、馬騰の容姿に関する「面鼻雄異」という史書の記述から派生した可能性もあるという[567]

馬超は作中でも屈指の武勇を誇る武将として登場し、「人並み外れて雄烈」な面がひときわ強調されている[568][注釈 74]。この単純化により、曹操の「馬の小僧が死ななければ」という言葉は、馬超の戦略眼の鋭さに対する恐れの発露ではなく、馬超軍に大敗した後に馬超の勇壮な姿を観察しての独言となっている[571]。また許褚や張飛との一騎討ちは、単に場面を盛り上げるだけでなく、「虎将を描くとき、〔その相手に〕懦弱な者を用いて造形するよりも、勇ましい者を用いて造形することで武勇を実感するほうがよい」[572]という理論に則り創作されたものである[568]。『演義』創作の一環には、このような馬超などの人物の勇猛さを引き立てる工夫が、伝統的な国民感情である「擁劉反曹」思想を前提に存在している[354]

『演義』における馬超の事績は『平話』と同様に、様々な改変が全般的に加えられている。作中の馬超は『平話』から継続して、曹操を貶める手段として機能している[573]。また『演義』は『平話』と比較して史実に近いとされるが、馬超の形象に関しては、史実に全く反する「虚構」の存在といえる[574]。改変の代表例である因果関係の逆転には、中国の伝統的な倫理観から大きく逸脱する馬超の行動を「是正」し、より英雄たるにふさわしい存在として物語に配する意図がある[573]。さらに、蜀漢に仕える人物であるために擁護がなされているという面もある[575]。そして馬超を美化する過程には、その父である馬騰の人物造形の変化も含まれている[576]。『演義』の馬騰は反董卓連合軍に名を連ね、献帝の発した曹操誅殺の密勅にも漢の忠臣として参与し、死亡時にはその忠烈を讃える詩すら登場する[577][注釈 75]毛宗崗中国語版の編纂した『演義』(毛宗崗本)において、馬騰の遺志を継いだ馬超は忠孝の体現者である[578][579]。改変を経て、不孝な叛将から忠孝を尽くす悲劇の英雄へと変貌を遂げた馬超は、父子ともども人々の共感と称賛に浴し、その芳名を語り継がれた[573]

  • 長安を占拠した李傕一派と馬騰・韓遂軍が対峙する中、馬超はわずか17歳にして敵将の王方を討ち取り、李蒙を生け捕るという鮮烈な活躍を見せるだけでなく、馬騰らの敗走時にも殿を務め、追撃する張済を退けている。袁紹陣営の残党勢力である郭援らとの戦いは採用されていない。
  • 孫権討伐を目論んだ曹操は、後顧の憂いを断つべく、西涼太守の馬騰を許昌に召し寄せての謀殺を図る。馬騰は馬休・馬鉄・馬岱を連れて都に向かうが、黄奎との曹操暗殺計画が発覚し、息子2人もろとも殺されてしまう[注釈 76]。涼州に留まっていたため難を逃れた馬超は、唯一逃げ延びた従弟の馬岱と共に、復讐のために兵を起こす。
許褚が庇う曹操(左中央)に矢を放つ馬超(右上)
  • 馬超は、韓遂およびその8人の部将[注釈 77]と共に20万の大軍をもって長安に攻め寄せ、陥落させる。潼関の戦いでは、于禁・張郃を次々に退け、李通を刺殺し、曹操を猛追して討ち取る寸前にまで及ぶ[注釈 78]。戦役半ばでは許褚がしかけた一騎討ちに応じ、死闘を繰り広げる。しかし離間の計によって馬超以外の9人全員が曹操軍に寝返り、それに激怒した馬超は、楊秋にそそのかされて降伏を選んだ韓遂の左手を切断し、梁興・馬玩を斬殺する。その後曹操軍に包囲されながら孤軍奮闘するも、馬を射られて落馬したところを龐徳と馬岱に助けられ、隴西まで逃走する。
  • 涼州で再起した馬超は、降伏した韋康とその一族40人余りを殺害する。楊阜らはその報復に、冀城から締め出された馬超の目前で、彼の妻子たちを一人ずつ殺してはその死体を城壁から投げ落とす。その衝撃で馬超は失神した後、歴城を襲撃して住民を殲滅し、姜叙の母を手にかける[注釈 79]。同時に、尹奉の家族および本人と王氏(王異)を除いた趙昂の家族を皆殺しにする。その後、救援に駆けつけた夏侯淵により馬超の軍勢は壊滅する。
馬超(左)と張飛(右)の一騎討ち
  • 漢中の張魯を頼って以降、馬超が涼州に出兵することはない。馬超と張魯の娘との縁談を阻んだ楊柏は、己に対する馬超の殺意を知ると、兄の楊松に相談して馬超暗殺を企てる。その後、劉璋への救援に名乗りをあげた馬超は葭萌関で劉備軍の張飛と一騎討ちをし、夜戦にまでもつれこむ[注釈 80]。馬超の勇姿に感嘆する劉備の意向を汲み、諸葛亮は策を講じる。賄賂を送られた楊松の讒言によって進退両難に陥った馬超は、李恢の説得を通じて劉備軍に降り、援軍だったはずの馬超に脅され愕然とした劉璋は降伏を決意する[注釈 81]。関羽は馬超の帰順を知ると、馬超との試合を望む旨を記した書状を諸葛亮に送っている[注釈 82]
  • 定軍山の戦いでは、陽平関を失った曹操軍の加勢に来た曹彰孟達軍と共に挟み撃ちにし、曹操をして「鶏肋」と言わしめる状況へと追い込んでいる。そして劉備が漢中王となるに従い、五虎大将軍に任じられる[注釈 83]。関羽は黄忠と同格に扱われたことに怒るが、馬超については「代々続く名家だから」という理由で認可する。
  • 関羽が龐徳に降伏を迫る際、漢中在住の従兄である龐柔の名を出すが、作中ではさらに馬超にも言及している。関羽の敗死後、逮捕の情報を孟達に知らせるべく彭羕が遣わした使者を、馬超の巡視隊が捕える。事情を知った馬超は彭羕に鎌をかけ、反乱の意思を聞き届けた後にそれを告発している。
  • 劉禅の即位に応じて、曹丕が司馬懿の進言で5方面から蜀を攻めようとした時、諸葛亮はその対策の一つとして、羌族からの人望が厚く「神威天将軍」[593][注釈 84]と称される馬超を西平関(架空の関)の守護に当たらせ、脅威を未然に防ぐ[注釈 85]。馬超は南征には従軍せず、陽平関の守備を務めるが、南蛮平定後に死亡したことが語られる[注釈 86]。諸葛亮は腕を折られたような思いでその死を惜しみ、北伐の際には馬超の墓を訪れている。

『後漢演義』

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『後漢演義』は、清代から中華民国時代にかけての小説家および歴史学者である蔡東藩中国語版により著された、11部からなる『歴朝通俗演義中国語版』のうちの一つである。王莽による簒奪から始まり、禅譲を受けた司馬炎による西晋の建国で終わる構成になっている。蔡東藩の小説は史実に忠実であり[597]、史書を読んでいない読者の思い違いを防ぐために、作中には史実への言及に留まらず、『演義』の誤謬および創作部分の指摘や、同書の作者とされる羅貫中への批判が随所に差し挟まれている[598]。この作風ゆえに馬超に関連する描写はおおむね史書に準じており、馬騰誅殺は潼関の戦い以後に行われ[599]、曹操に対する執拗な追跡や数々の一騎討ちといった場面も存在しない。

しかし蔡東藩は創作面を完全に排除してはいない。渡河の際に馬超があと100歩余りの距離まで曹操に迫る場面や、妻子の首が城壁から投げ落とされる場面、張魯から離れて劉備に帰順し劉璋を降伏させるまでの経緯など、『演義』の影響を受けている記述も散見される。さらに稗史の記述を元にしたという主張のもと、貂蝉が実在の人物として登場する[600][601]。これは『後漢演義』が、あくまで史書の記述を正としつつも、芸術性が史実の合理性と付合する場合には前者の要素を取り入れることを厭わないためである[602]

『後漢演義』の各回の末尾に載せられる人物評には、人物の行動に対する是非や歴史から得べき教訓などが含まれている[603]。『三国志』や『演義』のように特定の陣営をとりわけて称える(あるいは貶める)ことはないが、封建思想の影響から、歴史上の人物や事件に対する評価には理想主義的な歴史観が見出される[603]

馬超は作中において「馬超は猛将、韓遂は愚物であり、両者とも曹操の敵ではない。〔中略〕馬超が強くとも韓遂は愚かだったため、まんまと曹操の計略に掛かった。これぞ用兵が謀略を重んずる所以である」と評されている[604]。また語り手は「馬超は勇烈ではあれど知謀に欠ける」とも評し、その欠陥ゆえ親から果ては妻子に至るまで破滅させたことを咎め、「劉備に投降せねば己の身すら保てずにいたのに[注釈 87]、どうして曹操の敵たり得ようか」と述べている[606][注釈 88]。とはいえ、馬超の武勇を実感したがために曹操は賈詡の策を用いるに至ったとし、また曹操の渡河作戦に対する馬超の案を「申し分ない」と形容しているように、馬超の軍事力に対する評価は一貫して高い[609]。『後漢演義』においては、馬超の勇略に馬岱のそれが及ばなかったために、馬岱は北伐に従軍するも大役を任されず、諸葛亮にも重用されていなかった[610]。また『後漢演義』は馬超の反乱以後に行われた族滅についても、馬超が親を顧みず私憤で戦ったのを認めた上で、馬騰らを誅殺した曹操の手口は悪辣だと断じている[611][注釈 89]

京劇

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京劇『両将軍』の馬超(中国WIPO協力50周年記念イベントで披露されたもの)

京劇において、馬超を主役とする演目は数多く存在する。演目の内容は『演義』を題材としており、『反西涼』『戦潼関』(潼関の戦い)、『戦冀州』『賺歴城』(冀城放逐および歴城襲撃)、『戦馬超』『両将軍』(張飛との一騎討ちおよび夜戦)などがある。京劇には身分や性格、年齢などにより区別される様々な役柄が存在するが、将軍である馬超は「武生」、具体的には「長靠武生」に割り当てられている[616][注釈 90]。衣装には黒い紋様があしらわれた重孝(喪服)を用いるが[619][620]、張飛との戦いにおいては青を基調とした衣装を纏い[618]、夜戦時には盔頭(かぶりもの)をつけず、白い箭衣を着た「短打武生」となる[618][621][622]。端麗な若者として登場するため[354]、隈取りはせず、ひげもつけない[623][注釈 73]

『耳談』

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万暦年間に刊行された筆記小説集である王同軌中国語版『耳談』[注釈 91]およびその増補版『耳談類増』には、「漢左将軍馬超墓」という話が載せられている。あらすじとしては、新都の参議である楊廷儀中国語版[注釈 92]が、父親の埋葬地にふさわしい場所を探していると[注釈 93]、ある土地から「漢左将軍馬超之墓」と彫られた石碑を発掘する。楊廷儀は吉兆の験ありと見なして、その地を選ぶと、錦袍をまとい玉帯を締めた馬超が夢に出て、墓を荒らさないよう注意する。楊廷儀が意に介さないでいると、今度は武装した馬超が夢に現れ、楊廷儀の両目を射潰す。盲目になった楊廷儀はそれでも諦めず、とうとう怒った馬超が「お前に禍いをもたらしてくれよう!」と宣告する。後日、楊廷儀の家族が強盗殺人を犯し、彼らは凌遅刑を科される。楊廷儀はそれに連座して、棄市[注釈 94]の刑に処せられてしまう、という話である[635]

王同軌はこの話を、劉采中国語版の縁戚であり、王同軌自身の姻族でもある保昌県令の劉子敦から取材している[636][637]。物語の後に添えられた見解には「土地は馬超ゆえに貴いのであって、土地ゆえに馬超が貴いのではない」とある。次いで馬超の一族子弟が曹操や張魯に殺されたことに言い及び、『三国志』が馬超の後裔について詳述していないことを理由に、馬超の家系は断絶したのだろうと推察している。そして、子孫のためにありもしないことを画策するのは度が過ぎるとして、身を滅ぼすに甘んじた楊廷儀の行いを咎めている[638]

また『耳談類増』所載の「漢将軍墓」という話では、酒盛りをしていた蜀の人々が、無名の将軍の墓があった場所をそうとは知らずに荒らしてしまい、ポルターガイストに遭遇する。ここでも「〔某将軍の墓は〕耕作者によりだんだんと侵削され、すでになくなっている。しかし城郭の中では、依然として霊異がこのように現れるのだから、馬孟起が弓矢をもて人を盲にせしめるのに、なんの不思議があろうか」と、「漢左将軍馬超墓」に登場した馬超への言及がある[639]

家族

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羌女
 
馬平
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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馬騰
 
⚫︎
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
⚫︎
 
 
 
 
馬岱
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
楊氏
 
馬超
 
董氏
 
馬休
 
馬鉄
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
⚫︎
 
 
馬秋
 
 
 
劉備
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
馬承
 
 
劉理
 
 
  • 祖父は馬平[640][注釈 95]。父は馬騰[17]。弟は馬休[641]・馬鉄[17]。従弟は馬岱[642]。妻は楊氏[202][643]・董氏(妾)[644]。子は馬秋[645]・馬承[646]のほか、冀城で殺害された子が少なくとも1人存在する。娘は劉理の妻[647]
  • 家系図は『三国志』巻25楊阜伝・楊阜伝注引皇甫謐『列女伝』・巻34劉理伝・巻36馬超伝・馬超伝注引『典略』より作成。

関連作品

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馬超が主要人物となる作品

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小説
  • 周大荒反三国志演義』(河北人民出版社、1987年。ISBN 7202000024;渡辺精一訳、講談社、1991年。ISBN 9784062053020
    - 活躍の場を与えられた馬超が主だって大勲を立てる[648][649]。また馬雲騄という馬超の架空の妹が登場する。
  • 北方謙三三国志』(角川春樹事務所、1996年 - 1998年)
    - 馬超は時代を傍観する「個」として、作者により特殊な立場に置かれている[650]
  • 渓由葵夫『馬超風雲録』(小学館スーパークエスト文庫〉、1997年 - 1998年) - 歴史ファンタジー。
  • 風野真知雄『馬超 曹操を二度追い詰めた豪将』(PHP研究所PHP文庫〉、2005年。ISBN 9784569663340
ゲーム

馬超が登場する主な大衆文化作品

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漫画
ゲーム

脚注

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注釈

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  1. ^ 隴山以西の地域[1]。金城・隴西・漢陽などの郡が置かれた涼州東部も含め[2]、漢代においては実質的に涼州に対する呼称となっている[1]。隴西とも称される[3]。関中と合わせた一帯を関隴という。
  2. ^ ド・クレスピニーは馬超の子および弟の本貫を全て隴西に置き[23]、また妻たちの本貫も隴西と想定している[24]
  3. ^ 両者の具体的な紛争時期は明らかでないが、白亮は、李傕と不仲になった馬騰に韓遂が味方した興平元年(194年)から鍾繇が司隷校尉に任じられた年までの間とする[33]。後者の年代は建安2年(197年)頃と見られる[34]
  4. ^ 韋端もまた説得を受けて曹操側に加担することを決めた人物である[38][39]。韋端が太僕となると子の韋康が後を継いだが、州牧から州刺史に格下げとなり、軍権を奪われる形で、曹操陣営内に組み込まれている[40]
  5. ^ ド・クレスピニーによれば、本拠地はあくまで漢陽地区だった[46]
  6. ^ この怪我の逸話は、清代に編纂された『日下旧聞考中国語版』において、銚期と共に強勇の例として引かれている[54]。銚期が戦闘時に傷を頭巾で覆い、ついに敵軍を大破したことは『後漢書』および『東観漢記』に見える[55]
  7. ^ 白亮は、実権のない官職と見なしている[33]
  8. ^ a b 陳亮は、曹操が馬超を召しおおせなかったことを難じ、以下のように主張する。「馬超が応じなかったのは、父子ともに関西におり、単身で赴くのを厭うたから、そして与えられた官職のあまりの低さに、任官を潔しとしなかったからである。馬騰を召した後、馬超を前将軍に任じて手厚く迎え、精兵を統べさせてやり、それから弟たちに馬騰の部曲を領らしめるならば、馬超の果敢さもあって、喜び勇んで功名を立てようから、どうして応じないことがあろうか」[59]
  9. ^ 己の宗族や子弟を人質として鄴に遣ることで服属を示す例は、李典臧覇にも見られる[71][72]
  10. ^ 資治通鑑』の注釈者である胡三省曰く、「曹操が関西を捨てて張魯を遠征するというのは、伐虢取虞(=仮道伐虢)の計だ。思うに、馬超・韓遂を討つ名分がないから、まず張魯を攻めるふりをして背くよう促し、それから侵攻しただけのことである」[85][86]
  11. ^ 厳幹が太守を務めていた[95][96]。弘農に至った曹操は「ここは西道の要衝である」と言い、賈逵を弘農太守に任じた[97][98]
  12. ^ 一族に楊姓を冠する者がいるため、千万は「楊千万」とも称される[101][102]
  13. ^ 劉雄鳴は曹操の歓迎を受けたが、部下たちが降伏を拒んだため、曹操に背いた[107]。夏侯淵に討たれて漢中に逃走した後[108]、張魯が敗れると再び曹操に降った[109]。「劉雄」という表記も見られる[110]
  14. ^ この時の難民の中には、三輔から逃れてきた扈累寒貧といった隠士もいた[115]
  15. ^ 『曹瞒伝』によると、馬超の騎兵による度重なる襲撃と地盤の悪さにより、曹操軍は渡河はおろか、陣営や防塁を築くこともできずにいた。そこで婁圭の案に従い、砂を水で凍らせて城を建てたことで、渭水を渡りおおせたという[139]。裴松之はこの逸話を否定している[135]
  16. ^ 許褚の武勇を聞き知っていた馬超は、曹操の従騎が許褚ではないかと疑い、「公(曹操)の虎侯は、どちらにあるか」と尋ねたともいう[130]司馬光は、許褚が馬超の奇襲を防いだことについて、「〔単馬会語の〕時に馬超は韓遂と共にいなかったために韓遂を疑ったのだから、この話はでたらめだ」と述べる[144]。盧弼は「韓遂・馬超はそれぞれ別に単馬会語に臨み、〔曹操は〕馬超と話す際にはその武勇を考慮して、許褚を随えていたのかもしれない」と推測している[145]。また『太平御覧』に引く『江表伝』によると、馬超は6斛(斛は体積の単位。1斛=10斗[146])の米袋を馬にぶら下げて駆け、米袋の重さで曹操の体重を測っていた(曹操を捕える練習をしていた)。それを知った曹操は長いこと嘆息して、「狡猾な賊に騙されるところだった」と語ったという[147]
  17. ^ 韓遂との交馬語において、曹操はあえて軍事と関わりのない思い出話をした。会談を終えた韓遂に「公は何と言ったのか」と馬超が問うと、韓遂は「何ということはない」と答えた[138]。これについて盧弼は「曹操が韓遂と話した時、馬超はやや距離をとっていて、会話が聞こえなかったのかもしれない」と推測している[148]。また別の日には、韓遂自身が隠蔽したと周囲に思わせるべく、多数の改竄が残る書状を韓遂のもとに送りつけた[133][149]
  18. ^ 太平御覧』に引く傅玄『乗輿馬賦』には、馬超が蘇氏の塢(城堡)を破ったという記載がある。この事績の年代は不明だが、後半の引用文には「その後〔中略〕馬超は渭南で戦い」とある[151]
  19. ^ 馬超は安定に至ったという[11]。同じく楊秋も安定に逃れたが[152]、10月にはその地で包囲され、曹操に降伏した[154]。その後復位し、現地住民の慰撫を任された[51][133]
  20. ^ 隴西・南安・漢陽・永陽中国語版[157][158]
  21. ^ 竇武の孫である竇輔はこの戦いに従軍し、飛んできた矢に当たって戦死している[161][162]
  22. ^ この時期を建安18年(213年)とする研究もある[164]。これは史書の記述に混乱があるためである。『三国志』楊阜伝をもとにすれば、再起の年月は建安17年(212年)1月である。同書董卓伝にも「馬超が漢陽に拠有し、馬騰は連座して三族皆殺しとなった」とあり、族滅以前に再起している。また『後漢書』献帝紀によれば、建安17年5月の族滅の後、同年8月に韋康が殺害されたため、建安17年に再起したことになる[165]。一方、『三国志』武帝紀の記述に従えば、馬超が再起したのは建安18年である。『資治通鑑』は建安18年とする。
  23. ^ 天水では姜・閻・任・趙の四姓が有力だった[113][170]。天水の豪族の意向は統一されておらず、親曹操(韋康)派・反曹操派とで分裂していた[171]
  24. ^ 飯田は、入朝した閻行の父が潼関の戦い以後も殺されずにいたことを根拠に、馬超が帰順する可能性を踏まえて人質の処刑が留保されていたのではないかと推測する[179]。また『後漢書』および『資治通鑑』では、馬騰らが誅殺されたのは建安17年(212年)5月癸未の日と記されているが、当月の朔日は癸未ではなく壬辰のはずである[180][181]
  25. ^ 『三国志』の撰者である陳寿は、閻温を春秋時代の人物である解揚に準えた。を攻めた際、は宋を降伏させないために楚を欺くことを画策し、解揚がその君命を帯びたが、その道中で捕捉された。楚王は、宋に対し降伏勧告をするよう解揚に強いた。解揚はその要求に応じたが、車に乗せられて城下に着くや「晋の援軍が来る」と呼ばわった。約束に背き信義を損なったことを咎める楚王に、解揚は忠義を持ち出して答えた。そして死刑に臨むにあたり、忠義を死守せんとする己の意気を訴えた。楚王は、臣下たちの反対を押し切って解揚を許した[184]
  26. ^ a b 『三国志』楊阜伝によれば、楊昂に韋康と太守を殺させたという[187]。皇甫謐『列女伝』趙昂妻異伝には「馬超が約束に背き韋康を殺害した」とある。
  27. ^ 曹操が鄴に帰還した後、長安に駐屯していた[110][189]。梁興ら残党は関中諸県で略奪を働いていたが、鄭渾による治安強化により勢力を弱め、(左馮翊)で夏侯淵に斬られた[190]。夏侯淵伝では、梁興が斬られた場所は(右扶風)となっている。また武帝紀によると、馬超の残党である梁興らは藍田に駐屯し、夏侯淵に平定されたとあるが、『資治通鑑』は、藍田に駐屯したのは梁興ではなく馬超とする[191]。ド・クレスピニーは、梁興は藍田におらず、鄜で死亡したとしている[192]。また馬超は涼州にいるため、おそらく藍田にいた勢力が馬超に与していたのであり、夏侯淵による攻撃時には馬超本人は不在だったと推測している[192]
  28. ^ 潼関の戦いの際、夏侯淵が朱霊に平定させていた[193]
  29. ^ 夏侯淵が興国を包囲した際、阿貴は死亡したが、千万は馬超の下へ逃げた[110][196]
  30. ^ 林恵一によれば、いわゆる「列女伝」とは説話を出自に持つ「列女説話」とも呼べるもので、客観的・批評的観点から発生したのではなく、願望・期待を交差させながら発展していったものだという[204]。兪樟華・婁欣星によれば、古代の雑史に記された『列女伝』のような女性の伝記は複数の共通点を持つ。まず、国家存続や夫への貢献、貞節の固守などのような、男性中心社会において婦徳やそれに繋がる才覚を発揮した女性(母、妻、娘)が特筆される。次に、当時の社会情勢や女性の生活状況が示されると同時に、作者の願望および理想の投影もまた含まれる。そして逸話の典拠は主に文芸作品、野史、世間の噂などであるため、官吏に関する一般的な列伝と比較して、女性(特に皇族以外の階級に属する者)を主とする列伝の信憑性は低くなる[205]。熊明は、皇甫謐の筆致について、真実性や信憑性には注意を払わず、該当する人物の性格を的確に示す情報やそれに関する都合の良い資料を取捨選択し、さらに創作も織り込むさまは小説作法に似ると分析する。そして、その叙述方式や微細な描写などから、『列女伝』をはじめとする皇甫謐の雑伝作品は史書というより小説のようだと論じている[206]
  31. ^ この反乱の時期について、司馬光は楊阜伝の記述(建安17年9月)を誤りとし、また武帝紀の記述(建安19年1月)も退けているため、『資治通鑑』では建安18年の出来事となっている[207]。盧弼は司馬光の解釈に則り、楊阜らが反乱した時期は建安18年9月だとしている[208]
  32. ^ 馬超の妻子殺害の詳細については、武帝紀・夏侯淵伝に記載がある。楊阜伝には「馬超の妻子を討った」とだけ記され、『列女伝』には殺害そのものに関する記述がない。また、夏侯淵伝には趙衢らが馬超を騙して出撃させたとあるが[211]、楊阜伝および『列女伝』ではそのような描写はない。
  33. ^ 後日、姜叙の母のことを聞いた曹操は、彼女を楊敞の妻に比して称賛したという[39][212]。『三国志』楊阜伝において、馬超が殺害したと書かれるのは姜叙の母のみだが、『列女伝』姜叙母伝は、馬超は姜叙の母だけでなく彼女の子も殺害し、さらに城へ放火したとする。
  34. ^ 師君(張魯)に次ぐ位である[219][220]
  35. ^ この箇所に該当する原文は「又魯將楊白等欲害其能」だが、『資治通鑑』は「楊白」を「楊昂」に、また「欲」を「数」に作る[229]。また『続後漢書』も同様に「楊昂」に作るが、さらに注釈に「〔『三国志』〕霍峻伝では「楊帛」に作る」とある[230]。現代でも楊白・楊昂・楊帛を同一人物とする見解が存在する[231]。『康熙字典』の「害」の項目には「害猶言患之也。又《屈原列傳》上官大夫與之同列爭寵,而心害其能」とある[232]。例文として引かれた箇所に該当する和訳は、「上官大夫〔中略〕は屈原と地位をひとしくし、君寵を争うて、心ひそかにその才能を憎んだ」[233]。張寅瀟は、原文の「欲害其能」は意味が通じず、かといって『資治通鑑』の改案「数害其能」もまた不自然であるため、「心害其能」として解すべきだとする[234]。ド・クレスピニーは『資治通鑑』の英訳において、「害其能」を「馬超に嫉妬した」と訳している[235]
  36. ^ 県名の由来である沮水は、沮県から陳倉までを結ぶ軍事的に重要な水路だった[249]。この「臨沮」を荊州の臨沮と見なす研究もある[250]
  37. ^ 関羽は鬚髯(あごひげとほおひげ)が立派だったため、諸葛亮はこう呼んだ[257]
  38. ^ 涼州統治に携わった韋端・韋康父子は宋建政権を黙認していたと見られる[261]
  39. ^ 馬超の入蜀時、妾の董氏と子の馬秋は漢中に留まり、張魯を頼っていた。曹操は、董氏を張魯の功曹である閻圃に下げ渡し、馬秋を張魯に引き渡した。張魯はそれを自らの手で殺した[11][279]
  40. ^ 武都には羌族・氐族が多く住み、下弁はその郡治である[281]。沮道は下弁と沮県を結ぶ幹線であり[282]、下弁から東南に伸びる[283]。県内でも異民族の居住する場所は「道」と呼ばれる[284][285]
  41. ^ 宋傑は任乃強の説を踏まえ、沮道経由・陰平経由の2方向からの進軍行路を提示している[248]
  42. ^ 曹休・曹真は精鋭部隊の虎豹騎を率いている[248]。宋傑はこの派兵を、下弁周辺の動向を曹操が重くみた結果だとする[290]
  43. ^ 固山の位置については、下弁の北部(甘粛省成県北部)[291]あるいは東南部(成県東南部)[292]の2説がある。宋傑は前者をとる[248]
  44. ^ 宋傑は、馬超らは曹洪軍の東進を引き続き妨害したとしており[295]、また曹洪らの援軍が夏侯淵のいる前線に到達するのを防ぎ、劉備ら主力軍の漢中進出を援護したという点において、張飛・馬超の作戦目的は達成されたと見なしている[296]
  45. ^ 『華陽国志』には「關羽為前將軍,張飛為右將軍,馬超為左將軍,皆假節鉞」とあり、関羽だけでなく張飛・馬超にも節鉞が仮されている[257][300]。いずれにせよ、馬超は関羽・張飛と同列に扱われた[247]
  46. ^ 斄県は右扶風に属し、後に武功県に改称[309][310]。『説文解字』、『後漢書』李賢注、『通典』、『集韻』、『康熙字典』によれば、「斄」は「邰」と同字で、音は「台(たい)」である[311][312][313]。日本では「たい」[314][315]と「り」[316][317]の2種類の読みが見られる。
  47. ^ 「虓虎」の出典は『詩経』大雅「常武」[321][323]。「虓虎」が例えるものについては、「馬超の武勇」とする解釈と[322][324]、「勇猛な兵」とする解釈がある[321]。なお「虓虎」は呂布の武勇を称える際にも用いられている[324][325]
  48. ^ 原文は「兼董萬里,求民之瘼」。『詩経』大雅「皇矣」には「監觀四方,求民之莫」とある[326]。馬超伝のほか、『漢書』、王符『潜夫論』、『文選李善注が「莫(定まる)」を「瘼(病む)」に作る[327][328][329][330]
  49. ^ これは数え年で計算した年齢であるため、満年齢で計算した場合、誕生日を迎えていれば46歳。
  50. ^ 劉理が安平王となったのは建興8年(230年[341]
  51. ^ 諡における「威」は「勇猛で剛強、強烈である。剛毅で信ずるにふさわしい」ことを意味する[344]
  52. ^ 策命と同様、彭羕の発言には涼州における馬超の働きを見込む向きがある[351]
  53. ^ 目上の人間は官職名で呼ぶのが礼儀であり、字で呼ぶのは無礼である。
  54. ^ 武帝以降、匈奴の衰退に伴い羌族は発展を遂げ、羌族の通婚慣習も相まって、人口増加へと繋がった[379]。人口圧力は往々にして外部への拡張を促す原動力となった[379]
  55. ^ 馬援が羌族を三輔に移動させたのを皮切りに、羌族は居住地から切り離されては三輔などの中国内地に徙民され、当地での使役を経て不満を募らせていった[387]。また羌族および他の非漢族の関中への大規模な徙民は、民族間の文化融合には益したとも言えるが、さらに多くの漢族の士人を遠ざけることにも繋がった[388]
  56. ^ 計3回にわたった涼州放棄論の立案者のうち、龐参中国語版崔烈は涼州以外の地域出身者である(一人は名前・身元ともに不明[396])。辺境の涼州勢力と政治的中心部の関東勢力は、長期間にわたって対立していた[397]。ただし、東と西、市民と儒者(知識階級)、軍事と内政といった単純な対立構造のみを通してこの問題を解釈することを奨励しない声もある[398]
  57. ^ 「秦胡」の定義について、少なくとも非漢族との関連については研究者の間でも見解の一致を見せているが、具体的に何を指すのかは様々に意見が分かれている[415][416][417]
  58. ^ 永初元年(107年)および5年(111年)には、 涼州および上郡の住民が関中に移され、永建4年(129年)に戻されたが、この移民集団を構成したのは文化的素養の低い者たちだった[442]。ここでいう文化とは主に学術文化を指す[443]
  59. ^ 羌族は多数の小規模集団に分裂しては相互に対立する一方、共通する敵が存在する時には敵対関係を解消して連合する性質があった[452]。漢はこの性質を利用し、分離策を行っていた[453]
  60. ^ 『資治通鑑』は「馬超」を「馬騰」に作る[464][465]
  61. ^ ド・クレスピニーによれば、楊阜の言う「主君」は曹操を指す[476]
  62. ^ 劉邦について、曹植は「その名声は徳行にそぐわず、行動も純粋な道義と合致しない」と述べ、「太公(劉邦の父)を顧みないのは孝の道に悖るものだ」と批判している[493]。朱子彦によると、劉邦の不孝な振る舞いは秦漢時代には特に非難されておらず、曹植が見せたような蔑視は、儒教理念に染まった後漢時代における代表的な反応であるという。父親を顧みないという点において、馬超は劉邦と同類である[494]
  63. ^ 趙奢は扶風馬氏の祖といわれる。伯益はそのさらなる祖とされる[496][497]
  64. ^ 直前の文で、父の鄭芝龍が降伏した対象である清に抵抗し続ける鄭成功について、徐鼒は伍子胥田横を引き合いに出し、みな国士の風であると褒めている[508]。また趙苞・劉邦の事例は、『太平御覧』では「戦不顧親」の項目にまとめられている[509]
  65. ^ この「柏」は常緑針葉樹で、落葉広葉樹のカシワとは異なり、ヒノキサワラコノテガシワなどを指す。中国ではマツと並べられることが多い[521]。不滅を象徴し、墓の付近に植えられた[522]。『白虎通義』によれば、天子に松、諸侯に柏をあてがうのが理想とされていたが[523]、漢代以降にはそういった区分はなくなり、一般市民も含め、松柏を合わせて墓に植える風習ができた[524]
  66. ^ 雲南省阿迷県の人。『清史稿』に伝がある[526]光緒31年(1905年)、清朝皇族のとある親王の婿である駐蔵辦事大臣中国語版鳳全中国語版が、巴塘ラマにより殺害されるという巴塘事変中国語版が起きると、錫良趙爾豊と共に反乱を鎮圧した[527]
  67. ^ 原文は「建安五年」。
  68. ^ 民間伝承では、張魯の娘は張琪瑛という名であり、馬超に情を寄せたものの、共にいることは叶わなかった。曹宇に嫁いですぐに死去し、漢水付近にある灌子山(または観子山)に葬られたが、晴れた日には、そこから馬超墓を望むことができるのだという[539]
  69. ^ 原文は「面如活蟹,目若朗星」[548]。「面如活蟹」は色に関する表現であり、『封神演義』の登場人物である魔礼青および太鸞にも用いられている。
  70. ^ 元・明代の当時に語られた馬超の物語は、彼の得物を長槍とするもの以外に、飛撾(縄の両端に鉤爪がついた飛び道具)を使うものが流布していたと考えられる[550]。孫勇進は、馬超が弓術に長けるという設定が『演義』に見られないのは、黄忠を弓の名手とするために設定の重複を避けるべく削除されたのではないかと推測している[551]
  71. ^ 原文は「面如冠玉,眼若流星,虎體猿臂,彪腹狼腰」。「猿臂」は長い腕で弓の扱いに長けることを示し、「虎體」と「彪腹狼腰」はすなわち「腰細膀寬」、細腰で体格が良いことを表す[553]
  72. ^ 原文は「獅盔獸帶,銀甲白袍」。初期の版本には、兜の意匠に関する描写はない[556]。また獅子頭の兜は、明の宮廷演劇でも用いられていた[557]。日本の漫画・ゲームにおける特徴的な兜の造形は、後期の『演義』版本の記述をもとに連環画で描かれた兜の意匠を経て成立したと考えられる[558]
  73. ^ a b 呂布・馬超・周瑜の三者は、京劇などの芝居の世界においても二枚目の役柄である[565]
  74. ^ 毛宗崗は馬超について、大将の才を持つ他の4人と比較すれば、仁智に欠ける戦将に留まるとしており、五虎将の中では評価が最も低い[569][570]
  75. ^ 目上や年長者を尊ぶ中国の伝統に基づき、大衆理念においては「父が英雄ならば息子もまた好漢たるべし」という理屈が生じるが、ここではその順番を入れ替えたものが適用されている[577]
  76. ^ 『演義』には様々な版がある。李卓吾本では、馬騰は一族と共に曹操の下に移り、後に暗殺計画を企てたかどで処刑・族滅される[580]。毛綸・毛宗崗父子により編纂された毛宗崗本(現在広く普及する版)では、一族への言及はない。
  77. ^ 『演義』では、馬超・韓遂以外の8軍閥は韓遂の配下となっている。
  78. ^ 『平話』にも存在するこの追走劇は雑劇から継承されてきたものと見られるが、雑劇では馬超が降伏した後の逸話となっている[581]。また『演義』では、馬超の武勇は曹操から呂布に匹敵するものとして評価され、楊阜からも韓信・黥布ではなく呂布に準えられている。
  79. ^ 李卓吾本では、楊阜や姜叙の母が馬超のことを「叛君無父之徒」や「背父叛君,無義之賊」と呼び、「背父無君,逆天之賊」と罵る[582][583]。「無君」および「無父」は、孟子楊朱墨子を攻撃する際に用いた語で、それぞれ(極端な個人主義で)主君を無視すること、(無差別な博愛によって)父親を無視することを指し、禽獣に比され指弾の対象となっている[584][585]。このように、李卓吾本では史実における馬超の事績が混在しているが、毛宗崗本は先述の罵倒を部分的に削除することで修正している[582]
  80. ^ 馬超がこの時に限り用いる銅錘は、祖先の馬援が飛撾を得意としたという民間伝承およびそれを踏襲した雑劇が由来と見られる[586]。雑劇や『演義』の一部の版本では馬超が「銅撾」を使う描写があるが、毛宗崗本で使用されるのは「銅錘」である[587]。また豫劇の演目『対金抓(収馬岱)』には、馬騰の遺品として雌雄一対の金抓が馬超と馬岱それぞれに受け継がれるという筋がある[588]
  81. ^ 井玉貴によれば、歴史上の劉備は、劉璋を降伏させるべく馬超の威力を活用し、さらには兵を補充してそれを強めた。しかし『演義』では仁君としての劉備像を守る目的で、劉備による増兵は描写されなかった[589]
  82. ^ 毛宗崗の解釈では、関羽の真の意図は腕比べにはなく、益州諸将の中に己を凌駕する者はいないだろうという馬超の驕りを挫くことにあるのだという[590]。また諸葛亮の賞賛を見て「孔明は私の心を理解している」と言ったのは、褒められて喜んだわけではないという[591]。このような解釈には関羽崇拝のきらいがある[569]
  83. ^ 五虎将の序列について、『平話』や『演義』の多くの版本が『三国志』における立伝順(関張馬黄趙)に従う中、毛宗崗本のみが趙雲を3番手に引き上げ、相対的に馬超を降格しているが、上野隆三によれば、これは『演義』で大幅に書き足された趙雲の活躍が馬超・黄忠を上回っており、毛宗崗がそれを反映させたことによる[592]
  84. ^ 漢籍全文資料庫(版本:羅漢中撰、毛宗崗批評、饒彬校注『三国演義』三民書局〈中国古典名著〉、1989年)では「神威大将軍」。井波律子は『演義』翻訳のテキストに人民文学出版社の1957年1月刊行のものを用いており[594]、該当箇所の訳は「神威天将軍」である[595]
  85. ^ ここにおいての馬超は、諸葛亮の遠謀深慮を描写するための駒である[354]
  86. ^ 『演義』において、馬岱は南征以降、馬超のような役割を果たす後継者として設定される[596]
  87. ^ 『後漢演義』では、楊伯(楊白)などが馬超に危害を加えようとしている[605]
  88. ^ 作中では楊阜が「馬超の驍勇なること、呂布と遜色ない」と述べる[607]。語り手は呂布について、武勇は曹操と敵対するに足ると評する一方でその智謀のなさを指摘しており、曹操にも「無謀な匹夫」と言われる[608]
  89. ^ 『後漢演義』の語り手は曹操に対する忠義を評価せず、楊阜の進言について「曹操を国家とするとは、完全に騙されている」と記す[612]。また姜敘の母や王異を女丈夫とする一方、各々に対し「残念ながら理を見るに明らかでない」、「君父の誰たるかを到底理解していない」、さらには「表向きでは忠義を勧めているが、実際のところは一を知って二を知らないのであって、やはり婦女子の見解に過ぎず、取るに足りない」と酷評している[613]。このような姿勢は、毛宗崗も同様である[614][615]
  90. ^ 厚底の靴を履き、戦場に立つ武将の場合は靠(鎧)を身につけ、長槍や大刀といった長柄武器を持つ[617]。背部の4本の靠旗は部隊を率いていることを示し、臨戦態勢であることを表現する[618]
  91. ^ 四庫全書総目提要』の解題によると、「この書〔『耳談』〕は異聞を取り集めており、洪邁夷堅志』の流れを汲んでいる。毎話ごとに語り手を明らかにすることで、信用できる証としているのは、蘇鶚中国語版『杜陽雑編』の例を用いたものだ」[624][625]。収録内容は多岐に渡るが、単なる逸聞集に留まらず、官僚の腐敗など当時の社会情勢に対する批判も含まれている[626][627]。後発の小説に与えた影響は大きく、三言二拍や『聊斎志異』などにおいて、『耳談』を基に書かれたとわかる逸話が散見される[628]
  92. ^ 楊廷和の弟。朝廷で専横を極めた宦官劉瑾との交流や、兄を誹謗したという風評により悪名を得た[629]。また兄の政敵である王瓊中国語版との関係を理由に、実家からも汚点とされ、記録がほとんど残されなかった[630]
  93. ^ 風水では、父方の祖先を風水的に良い土地に葬れば、その子孫全体に幸福がもたらされるとされた。科挙制の導入によって世襲が成立し得ず、社会的地位を維持するのがより困難な時代にある中で、将来的な氏族繁栄を保証すべく、知識階級の人々が陰宅(風水における墓地の呼称)のための土地選びに労力を費やすという事態が、代ですでに生じていた[631][632]。明清時代は風水が隆盛を極めた時期であり、風水に関する訴訟や揉め事は枚挙にいとまがなかった[633]
  94. ^ 公開処刑の後、死体を市中に晒すこと[634]
  95. ^ 『演義』では「馬粛」。

出典

[編集]
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  10. ^ 林 2020, p. 147; 楊 2000, p. 107; 王 1991, p. 75; 張 2014, p. 112.
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  13. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『後漢書』巻72董卓伝注引『典略』, ウィキソースより閲覧。 
  14. ^ 飯田 2022, p. 105; 王 2007, p. 9; 朱 2015, p. 48; de Crespigny 2007, pp. 647, 650.
  15. ^ ウィキソース出典  (中国語) 『後漢書』巻72董卓伝注引『献帝伝』, ウィキソースより閲覧, "[]騰父平,扶風人。為天水蘭干尉,失官,遂留隴西,與羌雜居。家貧無妻,遂取羌女,生騰。" 
  16. ^ 飯田 2022, pp. 105–106.
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中国語文献

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  • 張嵩「馬超“督臨沮”和“北督臨沮”地理位置考弁」『中北大学学報(社会科学版)』第6期、2014年、112–120頁。 
  • 張寅瀟「《典略》“東備白騎”釈疑」『史志学刊』第3期、2023年、33–37頁。 
  • 趙明「東漢対西羌長期作戦的原因与教訓」『中国史研究』第1期、1994年、64–73頁。 
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  • 周偉洲「魏晋南北朝時期北方民族与民族関系研究(中)」『北方民族大学学報(哲学社会科学版)』第1期、2016年、5–12頁。 
  • 朱子彦「漢晋之際質任現象綜論」『歴史研究』第6期、2015年、43–60頁。 
  • 朱子彦、呂磊「論漢魏之際羌胡化的涼州軍事集団」『軍事歴史研究』第3期、2007年、107–117頁。 

英語文献

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関連項目

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外部リンク

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- 中国中央電視台(CCTV)の教養番組『百家講壇』において、2015年に四川大学教授の方北辰が講演を行っている。Youtubeの公式チャンネルからも視聴可能。