後漢末
後漢末 | |||||||
繁体字 | 漢朝末年 | ||||||
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簡体字 | 汉朝末年 | ||||||
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東漢末年 | |||||||
繁体字 | 東漢末年 | ||||||
簡体字 | 东汉末年 | ||||||
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後漢末(ごかんまつ)とは、中国の歴史のうち、大まかに漢の最後の統治者献帝の時代、及び三国時代を指す。後漢末期には黄巾の乱による混乱により董卓が台頭、群雄が割拠するに至った。群雄の一人曹操は献帝とその宮廷を支配し、国の再統一を推し進めた。実際には皇帝は人質であったが、曹操は表向きは献帝の臣下であった。
中国を再統一する曹操の努力は曹操軍が孫権と劉備の連合軍に敗れた赤壁の戦いで挫折した。曹操の息子で後継者の曹丕は禅譲するよう献帝に圧力をかけ、漢王朝は滅亡した。曹丕は新しい国魏の皇帝になった。応えて劉備は221年に蜀漢の皇帝であると宣言し、孫権は229年に呉の皇帝であると宣言した。220年に漢が滅亡、中国に再び統一王朝晋が成立したの280年であった。
王朝の権威の失墜(184年–191年)
[編集]黄巾の乱と分散化(184年–189年)
[編集]霊帝(在位168年–189年)の統治の終わりに向けて多くの官吏は霊帝が死んですぐの政界の混乱を予感した。この官吏の一人劉焉は188年に霊帝に最も深刻な反乱184年の黄巾の乱などの当時の土地利用に関する反乱の根源が刺史に実質的な行政権が欠けていることであることを示唆した。劉焉に言われて納得した霊帝は刺史の肩書きを牧に変え、徴税し国境で軍を指揮する権限を認めた。(現代の河北省北部や北京市、天津市、遼寧省を含む)幽州の牧に任命された劉虞などの数人の重要な官吏も牧になった一方で劉焉は(四川盆地を含む)益州の牧に任じられた。この各地の牧の影響が増大することで後の群雄が漢の広大な地域を支配する基礎を形成した。
権力闘争(189年)
[編集]霊帝は189年に死去し、(霊思何皇后に生まれた)13歳の少帝弁が継承した。兄の何進将軍が宮廷で最も強力な官吏になった一方で、今では皇太后になった霊思何皇后は若い皇帝の摂政になった。何進と袁紹は宮廷で影響力のある宦官の集団十常侍全員を皆殺しにすることを企んだが、皇太后がこの計画に賛成しなかった。宿命的な動きの中で何進は十常侍を皆殺しにするように皇太后に圧力をかけるために首都洛陽に行進する(現代の甘粛省を含む)戦闘を生き延びた涼州を支配する群雄董卓を呼んだ。宦官が何進の企みに気付くと、宮廷に誘き出し、殺害した(189年9月22日)。応えて袁紹が近衛兵を率いて手当たり次第に宦官を虐殺した。生き残った宦官は少帝弁と(祖母の孝仁董皇后に育てられた)弟の8歳の劉協を誘拐し、黄河に向けて北に逃げたが、最後は川に投身して自殺せざるを得なかった。
董卓が現場に到着し少帝弁と劉協を発見した。劉協はおとなしく冷静であった一方で若い皇帝は神経質で怯えているようであり、董卓に宮殿に連れて行くよう命令した。董卓はこの機会を利用して国家権力を支配し自分の軍隊を首都に引き入れた。程なく董卓は皇帝を退位させ毒殺し、献帝として知られることになる劉協に即位させた。董卓は宮廷を牛耳り、自ら前漢の政治家蕭何以来空位であった肩書き「宰相」(相国)に任じ、董卓は武器を置き靴を脱がずに宮廷に上がれる特権も自分に認めた。
反董卓の抵抗運動(189年–191年)
[編集]190年春に董卓が王位の簒奪を企み事実上献帝を誘拐したと言いながら数人の各地の官吏や群雄が反董卓連合を結成した。(現代の河北省滄州市周辺の)勃海郡の行政官袁紹が連合の代表に推薦された。連合軍は河内郡(現代の河南省焦作市)に駐屯し、首都洛陽に移動する準備ができたようであった。しかし連合は実際には組織されてはおらず、袁紹は事実上全軍を指揮することはなかった。その上連合に加わった者も董卓と董卓の強力な涼州軍に直接立ち向かうことに躊躇した。更に董卓は不安で連合から逃れるために西の長安に首都を動かすことを選んだ。約1か月後に董卓は洛陽の住民と共に献帝と宮廷を長安に移動させ、その過程で嘗ての首都を焼き払うよう命じた。移動中に董卓は洛陽近郊に留まり連合軍の攻撃に備える準備をした。191年、連合軍は王族の一員であることから皇帝になる資格のある劉虞に即位するよう求めることで董卓の立場を更に違法なものにしようとした。劉虞は献帝に忠実であり続け、きっぱりと即位を断った。連合軍参加者が戦闘計画について言い争いを続けたので、袁術傘下の弱小将軍孫堅は考えられる危険を採って洛陽近郊で直接董卓を攻撃した。董卓軍に数回勝利を収めると、やがて董卓を長安に撤退させ、洛陽は連合軍が支配することになった。
191年末までの続く期間に連合軍参加者が各自の拠点に戻りながら連合軍は反董卓の更なる行動をとることを止めやがて解散した。暫くして数人の官吏が王のようにそれぞれの領土を支配することを考え始めた。当時台頭した最も知られた群雄に次の者がいた。
- 袁紹は191年に韓馥から(現在の河北省中央部と南部と河南省北部を含む)冀州の支配を簒奪した。
- 劉焉は益州を支配した。
- 劉表は(現在の湖北省と湖南省を含む)荊州を支配した。
- 袁紹の異母兄弟(名目上は従兄弟)である袁術は(現在の安徽省北部と中央部を含む)淮河の南の地域を支配した。
しかしこの大群雄に加えて結局は漢全体が事実上細分化されそれそれが地元の群雄に支配された。
董卓の死と打ち続く戦乱(192年–196年)
[編集]董卓の死とその後(192年)
[編集]長安に撤退すると董卓は更に政府を強固に掌握し続け無慈悲に反対派を抑圧した。王允と黄琬や士孫瑞、楊瓉などの数人の官吏は董卓を抹殺することを企んだ。やがて董卓の里子の息子呂布を説得して仲間に入れた。董卓が一度かっとなって呂布を殺しかけたことがあり董卓の女中の一人との秘め事が暴露されるのではないかとも恐れていたので呂布は董卓に恨みを抱いた。192年5月に呂布と王允に率いられた共謀者は董卓を暗殺し一族を虐殺した。
董卓が死ぬと董卓の「恐怖政治」による混乱は収まり中央政府は元の状態に戻ると考えられた。しかし王允は有能な閣僚とみなされたが、次第に傲慢になり、失脚の原因となる数個の大失策を行った。呂布との良好な関係を維持することに失敗し、董卓の家臣への恩赦の申し出を強硬に拒否し、解散を命令した。このことは董卓の家臣が虐殺されるかもしれないと恐れる原因となった。董卓の義理の息子牛輔は涼州で董卓軍を支配し王允に抵抗したが、後に友軍の誤射で死亡した。牛輔の家臣李傕や郭汜、樊稠は宮廷に従いたかったが、過去に王允に抵抗したために、王允は今では恩赦の申し出を拒絶した。李傕、郭汜、樊稠は自分の軍隊を率いて長安を攻撃し、政府を支配した。呂布は敗れ追い払われた一方で王允は捕らえられ処刑された。
打ち続く戦乱(193年–196年)
[編集]長安の宮廷を支配すると李傕や郭汜、樊稠は国家財政に一切の配慮をせずにやりたい放題であった。同時に中国中の各地の群雄が領土を拡張したり個人的な興味を推し進めるために互いに戦った。群雄の全員が名目上は献帝を中国の君主と認識しながらも李傕軍と戦い続ける者がいる一方で李傕軍と友好的な群雄がいた。
193年に北部の群雄劉虞と公孫瓚の間で武力衝突が発生した。公孫瓚が継続的に袁紹に対して戦争を行った一方で劉虞は戦乱に強硬に反対した。劉虞と公孫瓚は献帝を偲びながら互いを攻撃し合った。やがて劉虞は公孫瓚を許せなくなり、公孫瓚を攻撃したが、敗北し殺された。
195年に李傕と郭汜が樊稠を殺すと混乱が起き、後に互いの対立に発展した。郭汜が官吏を誘拐した一方で李傕は献帝を人質にし、双方が交戦した。この年の後半に李傕と郭汜は和睦し献帝が嘗ての首都洛陽に戻ることに合意したが、後にこの決定を後悔し献帝を追い求めた。李傕と郭汜が再び献帝を捕らえられないでいる一方で宮廷は貧しくなり自活できなかった。洛陽は董卓の時代に火災で完全に破壊されたので、洛陽は生活必需品が欠乏し、多くの官吏は餓死したり共食いに走った。この頃袁紹の軍師沮授は政府を効果的に支配できるために献帝を自分の領域に迎え入れることを提案した。献帝を領域に引き入れれば主要な決定で皇帝に屈し適切な儀礼上のしきたりを守る必要があると言って他の軍師郭図と淳于瓊は沮珠の意見に反対した。袁紹は躊躇し続け、皇帝を迎え入れるか結論を下さなかった。
曹操の下で漸進する再統一(196年–207年)
[編集]曹操皇帝を有名無実の権威として利用する
[編集]袁紹が依然献帝を迎え入れるか決められずにいる間に曹操は皇帝を自分の領域に引き入れる状況で優位に立った。当時曹操は依然(現在の山東省西部と河南省東部を含む)兗州のみを支配する比較的弱小の群雄であった。196年に曹操は洛陽に向けて軍を率いた。自分の忠誠心を確信させながら(李傕と郭汜から献帝を匿っていた)董承と楊奉に出会い、皇帝への謁見が許された。名目上曹操は他の官吏や貴族と権力を共有していたが、実態は曹操が支配していたにも関わらず、官吏や貴族は然るべき敬意を以て扱われることを保証し、従って宮廷では僅かな反対を受けた。後に新しい首都を建設しながら許(現在の河南省許昌市)の本拠地に皇帝を連れ戻した。
その時から曹操は献帝の臣民であったが実際は国家権力を行使し宮廷を牛耳った。それにも関わらず曹操は献帝を軽視する様子は決して見せず、その代わりに正式な儀式上のしきたりに従って皇帝に敬意を示した。事実上実際は曹操に提出する場合でも皇帝に提出するよう命じながら曹操は他の群雄に献帝の名前で勅令も発した。袁紹は曹操の勅令を受け取った群雄の一人で、その時になって袁紹は他の群雄を支配するのに皇帝を利用する機会を逸したことに気付いた。
曹操権力への道を昇る(196年–199年)
[編集]許の新しい首都に移った後でさえ中央政府は依然として資金と食糧供給が不足していた。棗祇からの提案に従い曹操は兵士が作物を育てるために送られる農業生産を増進し収穫は軍と民間で共有する新しい屯田政策を実施した。この政策は許周辺地域が高い生産力を誇る農地に発展する立派な結果をもたらし、食糧が欠乏する問題は解決された。
当時最も名の知られた群雄は以下の通りであった。
- 袁紹は(現在の河北省、山西省、山東省を含む)冀州、并州、青州を支配した。領土の一部は袁紹の3人の息子(袁譚、袁煕、袁尚)と甥(高幹)が統治した。
- 袁術は現在の安徽省の大半と江蘇省の一部を支配した。
- 公孫瓚は現在の北京市、天津市、遼寧省西部を含む幽州を支配した。
- 劉表は(現在の湖北省と湖南省を含む)荊州を支配した。
- 劉璋は(四川盆地を含む)益州を支配した。
- 呂布は以前の統治者劉備から(現在の江蘇省北部を含む)徐州の支配を簒奪した。
他に依然として多くの弱小群雄がいて、曹操は特にこの群雄が投稿するように仕向けようとした。197年に張繡が宛城で曹操に降伏した。しかし後に張繡に怒りながら曹操は張繡の未亡人の恐れを抱いた。張繡は自分への曹操の暗殺計画を知り反乱を起こし宛城で曹操に対して驚くべき攻撃を開始した。この戦いで曹操の長男曹昂、甥の曹安民、衛兵の典韋が死に、曹操自身九死に一生を得た。賈詡の助言で張繡は結局199年-200年の冬に曹操に降伏した。加えて197年に曹操は説得して現在の陝西省の殆どと甘粛省に当たる地域を支配する馬騰と韓遂を降伏させられた。
この年他の群雄が袁術を攻撃する口実として「天子」を使うよう駆り立てる、寿春(現在の安徽省寿県)で袁術はこの行動が漢に対する反逆罪であると認識する、「天子」を自称した(袁術討伐戦を参照)。孫堅の息子の孫策は194年から199年に江南で孫策の江東平定を行い、袁術との同盟関係を終わらせ、独立した群雄になった。呂布も嘗ては袁術と同盟関係があったが袁術との連携を止め寿春近くで大敗させた。曹操も袁術を攻撃し破った。袁術は袁紹と結ぼうと北に逃れようとしたが、進路は塞がれ、199年に寿春に戻るところで病のために没することになる。
198年に袁紹は曹操から献帝を奪い取ろうとして自身の領土に近い鄄城(現在の山東省菏沢市)に首都を動かすよう曹操を説得しようとしたが、曹操は拒否した。この年の後半に曹操は呂布を攻撃するために劉備と連合軍を形成し、下邳の戦いで破った。呂布は捕らえられ、曹操の命令で処刑され、徐州は曹操の支配するところとなった。
199年に公孫瓉は易京の戦いで袁紹に敗れ自分に火を放つことで自殺した。公孫瓉の領土は漢の北の国境に広がったが完全に袁紹に併合された。袁紹はこの時中国中央部の新興勢力曹操のいる南に注意を向けた。袁紹は劉表と同盟し、曹操攻撃に集中した。
官渡の戦い(200年–201年)
[編集]部隊が公孫瓉との戦いの後で疲れ果て休息が必要だと論じる沮授と田豊の助言に反して袁紹は自分の大軍が曹操軍を容易に押し潰せると自信に満ちて曹操との戦争を準備した。曹操が戦闘に向けた準備をする一方で董承や劉備など数人の官吏が曹操を倒そうと共謀していた。200年前半に曹操が徐州の知事に任命した車冑を殺すと劉備は曹操と袂を分かつ機会を利用して徐州の支配を簒奪した。一方董承等は曹操を暗殺する計画を作成中であった。しかしこの企みが露見し首都の共謀者は全員家族と共に虐殺された。袁紹からの攻撃用に側面を開けたままこの時曹操は徐州の劉備を攻撃することで危険を冒した。しかし袁紹が曹操を攻撃する機会を捉えるよう田豊の助言を無視したために曹操は正しい選択をした。劉備は敗れ袁紹と結ぶために北に逃れた。劉備の将軍関羽は降伏し、一時曹操に仕えた。
劉備が敗れてすぐに袁紹は曹操を攻撃する計画を実行に移し始めたが、この時は機会は過ぎたと言って田豊はこの決定に反対した。袁紹は田豊に怒り曹操を攻撃しに南下すると田豊を収監した。白馬の戦いで袁紹の別の将軍文醜が曹操軍に対する行動で殺された一方で袁紹の将軍顔良は関羽に殺された。袁紹軍の戦意は二人の将軍が敗北したことで大きく影響した。
200年後半までに袁紹軍と曹操軍は遂に黄河の南官渡(現在の河南省鄭州市)で衝突した。袁紹は二つの点で曹操より優位に立っていたが(大量の軍勢と大量の補給)、曹操軍の方が良く訓練されていた。小規模な小競り合いの後で曹操が烏巣の淳于瓊が守っていた袁紹の兵站貯蔵所に対して驚くべき攻撃のために自ら部隊を分遣するまで双方は行き詰まった。烏巣に援軍を送る代わりに袁紹は曹操の宿営地を攻撃するのに張郃と高覧を派遣したが、失敗した。その後曹操軍に徹底的に打ち破られる烏巣の陥落は袁紹軍の士気に大きな打撃を与えた。殆どの兵士が殺されるか曹操に降伏した一方で袁紹は黄河の北に逃れた。この時から袁紹は主な有力者として残り続けたが最早曹操の拡大する覇権に太刀打ちできなかった。曹操は官渡の戦いに決着を付ける倉亭の戦い(201年)で黄河の南の残る袁紹軍を破壊し破った。
袁連合の崩壊(202年–207年)
[編集]袁紹が202年に病で死ぬと後継争いが長男の袁譚と三男の袁尚の間で起こった。袁紹が死ぬ数年前に伝統的な後継制度に基づき袁譚が法定推定相続人に指名されるはずであったが、袁紹の妻劉氏が袁尚がお気に入りであったために袁紹は自身の死後に袁尚のオジ袁成の養子とさせた。表面上は息子達の能力を見極めるために袁紹はこの時領土を息子と甥の高幹に分けた。斉州の根拠地は袁尚に与えられ、袁譚は青州を支配し、袁煕は幽州を統治し、高幹は并州を支配した。死の床で袁紹は誰が後継すべきか明確な意思表示をしなかった。袁紹の家臣の内で辛評と郭図が袁譚を支持した一方で逢紀と審配は袁尚を支援した。袁紹の死後家臣の殆どは長男であることから当初袁譚が新しい当主になることを欲した。しかし審配と逢紀は袁尚を後継者に任じる意思表示を偽造した。袁譚は激怒し曹操の注意を引きながら曹操を攻撃する口実の下で部隊を移動させ、曹操は先制攻撃で報復した。袁尚は長兄の援助に行き、決定打のないまま黎陽の戦いで曹操と戦った。
203年に曹操は袁に対して大勝利を収め、斉州の首都鄴に撤退させた。この時曹操は鄴を包囲する計画を立てたが、後に郭嘉の助言を受け入れて部隊を引き上げた。郭嘉は曹操が袁に圧力を加えれば共通の敵に対して連合するが曹操が撤退すれば不満な袁は内紛を始めると論じた。郭嘉の予言は後に依然として大きな相続を受けることで袁尚に遺恨のある袁譚が袁尚を攻撃すると現実のものとなったが、青州の部隊は袁尚に寝返った。袁譚は平原郡(現在の山東省徳州市)に逃れたが、そこで袁尚に包囲された。袁譚は曹操からの助けを求め、曹操は袁尚に平原郡に対する包囲を解かせながら鄴を攻撃しに北に向かった。204年初めに袁紹は曹操が引き上げたと誤解し、そのために再び平原郡で兄弟を攻撃した。曹操は鄴をもう一度攻撃し、袁尚は拠点を守るべく撤退したが、曹操に敗れた。この時袁尚は中山郡(現在の河北省石家荘市)に向けて北に逃れ、鄴は曹操の手に落ちた。高幹も曹操に并州を明け渡した。
曹操が鄴を包囲している間袁譚は攻撃を手助けしなかったが、袁尚の領土を手に入れようと努め、中山郡で敗れた。袁尚は幽州の袁煕と結ぶために更に北に逃れた。曹操は今では同盟に関する信頼関係を破ったと袁譚を攻撃し、そのために袁譚攻撃のために東に転じ、南皮で袁譚の最後の拠点を確保し(南皮は現在の河北省滄州市にある)、袁譚を殺した。その間に幽州では袁煕の家臣焦觸が反乱を起こし曹操に降伏し、袁煕と袁尚が酋長の蹋頓が支配する烏桓と結ぶために更に北に逃れざるを得なくした。この頃高幹も曹操に対して謀反を起こしたが、206年までに敗れ、劉表と結ぼうと南に逃れようとする間に殺された。
207年に曹操軍は烏桓を攻撃しに北に向かい、白狼山の戦いで破った。袁煕と袁尚が現在の遼寧省の殆どを支配する群雄公孫康の下で亡命を求めた一方で蹋頓は戦闘で殺された。公孫康は袁が自分に向かってきて領土を奪い取ることを恐れ、そのために袁を処刑しその首を曹操に送った。この時までに袁一族は除かれ、中国北部の多くは曹操の支配下で再統一されていた。
中国南部の進展(194年–208年)
[編集]中国北部を再統一している間に曹操は残る最も著名な3人の群雄(200年に兄の孫策が死ぬと孫策の後を継いだ孫権、荊州を支配する劉表、益州を支配する劉璋)に対して行動する機会を待つ一方で南方への主な戦役を行わなかった。この時孫権は江東の領土を広げ軍隊を強化していた。208年に孫権は江夏の戦いで劉表の家臣黄祖を破り殺し、江夏(現在の湖北省武漢市新洲区)の黄祖の領土の殆どを手に入れた。
曹操が中国北部で袁一族を攻撃している間に劉備は劉表と結ぶために南に逃げ入り江の曹操を抑えるために新野県の北の境に駐屯する劉表の家臣になった[1]。劉備に対する曹操の最初の攻撃は博望坡の戦い(202年)で撃退された。
赤壁の戦い(208年–209年)
[編集]曹操の荊州侵攻(208年)
[編集]208年に曹操は劉表の荊州を征服する南方戦役を開始した。後継者争いが息子の劉琦と劉琮の間で起きた時には劉表は病で死にかけていた。黄祖が敗れると、劉琦は劉表から黄祖が嘗て支配していた江夏の支配者に任じられた。劉琮は劉表の2番目の妻蔡氏から(姪と結婚したために)気に入られていて荊州の首都襄陽市に留まった。劉琮は父親が死ぬと荊州の新しい統治者になった。二方面の戦争になる可能性を恐れて(北の曹操と南東の劉琦)劉琮は曹操に降伏し、荊州の殆どは曹操の支配するところとなった。劉備は曹操に従うことを好まず、南に逃げた。途中で曹操の軽騎隊の一つが(一般住民を含む)撤退する劉備の部隊と遭遇し、長坂の戦いで破った。劉備は命辛々逃れ、当陽(現在の湖北省宜昌市)に逃げた。
江東では孫権が進軍する曹操軍に恐れを抱き曹操に対して劉備や劉琦と同盟を結ぶことを話し合うために魯粛を派遣した。曹操は軍を派遣することについて孫権を脅すつもりで孫権に手紙を書いた。曹操自身は80万人の兵士がいると主張していたが、曹操軍の兵力は22万人と見積もられていた。劉備と劉琦の連合軍の兵力が全体で約1万人であった一方で孫権には3万人がいた。張昭ら孫権の家臣の多くは曹操の圧倒的な兵力を理由に強硬に降伏を主張した。しかし孫権は曹操が軍を派遣しても希望通りになる可能性はないとの周瑜や魯粛の意見に合意して拒否した。208年後半までに周瑜や魯粛、(外交上の交流で劉備の代理を務める)諸葛亮の助けを得て曹操に対する孫権と劉備の間で同盟関係が結ばれた。
赤壁の戦い(208年)
[編集]孫権は周瑜を主に軍船に留まっている3万人の部隊の司令官に据えた。周瑜は部隊が陸上に駐屯する劉備と共同で防衛点を定めた。この頃疫病が拡大したために大いに曹操軍を弱らせた。周瑜の部下黄蓋は曹操に寝返るふりをして曹操に受け入れられた。黄蓋は少数の部下を連れて舟で曹操の基地に渡った。舟が曹操の艦船に接近すると、黄蓋は部下に舟に火を放つように命じ、燃える舟は曹操の大きな船に突っ込んだ。火は手に負えないほどに広がり、曹操の全艦船を破壊した。烏林(現在の湖北省洪湖市)の曹操の地上部隊も孫権軍と劉備軍に攻撃され撃退された。曹操は赤壁の戦いで徹底的に破られ、江陵に(現在の湖北省荊江、現在の湖北省江陵県と混同しないように)戻るべく北に撤退せざるを得なかった。
三国時代へ(209年–220年)
[編集]孫権と劉備の荊州征服(209年–210年)
[編集]赤壁の戦いが終わってすぐに周瑜が指揮する孫権軍は曹操に江陵の戦いにつながるもう一つの攻撃を仕掛けて圧力をかけた。一方で劉備は荊州南部の武陵、長沙、零陵、桂陽の4郡を攻撃し支配下に置く機会を利用した。209年前半までに曹操は荊州の殆どを孫権・劉備連合軍に対して失った。
劉備が4郡征服後に割合強大になると、孫権は劉備のことで不安になり、妹の孫夫人と劉備の結婚を設定することで同盟関係を強化することにした。周瑜は劉備の意図に疑念を抱き孫権に劉備を捕らえ軟禁し劉備軍を支配するよう提案した。しかし孫権はこの計画が成功すれば劉備軍は劉備に背くと考えたので周瑜の考えを拒絶した。孫権は現在の陝西省南部や四川盆地などの中国西部の一部を支配する群雄の劉璋と張魯を攻撃することを検討することで周瑜の提案に同意した。この計画は実行に移されず、210年に周瑜が死ぬと結局中止された。孫権は西に境界を広げることはせず、現在の広東省、広西チワン族自治区、ベトナム北部の数人の指導者に孫権に服従するようなんとか説得し、この地域は孫権領の一部になった。劉備が南部が軍を維持する糧食が欠乏していると訴えるとこの時孫権は同様に荊州北部を「貸与する」ことに同意した。
曹操の北西戦役(211年)
[編集]赤壁の戦いの敗北を考慮して数年間自分の部隊を休息させると、曹操は211年に再び今度は表面上は漢中の張魯を攻撃すべく大きな進軍をした。涼州と雍州を支配する群雄の韓遂と馬超は曹操に自分達に対する意図があると疑い報復として攻撃を開始した。馬超と韓遂に率いられた函谷関の西からの部隊の連合は211年に潼関の戦いで曹操に敗れ、領土は次の数年で曹操に併合された。
劉備の入蜀(212年–214年)
[編集]益州の劉璋は張魯と曹操からの攻撃を受ける可能性を恐れるようになり、そのために張魯と曹操から守るのを手助けするために自分の領土に劉備を引き入れようと法正を派遣した。法正は劉璋の統治に尊敬の念を抱いておらず劉備に主君を変えたがっていて、そのために劉備に益州を支配する機会を利用するよう求めた。劉備は法正の提案を心に留めて劉璋からの温かい歓迎を受ける益州に部隊を率いた。劉璋は張魯に対抗するために益州北部の葭萌関の駐屯地に劉備を派遣した。
212年に劉備と劉璋は互いに敵意を抱くようになり戦争を行った。諸葛亮は劉璋を攻撃するに当たって主君と連絡するべく荊州に劉備軍を派遣した。関羽は荊州を守るために残った。215年に劉備は劉璋軍の多くを破り、成都の首都で包囲した。劉璋は降伏し、益州を劉備に明け渡した。益州は劉備の新しい拠点になり、北の曹操に対する天然の防衛として山がちな環境を利用した。
同じ年に劉備は益州を乗っ取り、5年前に孫権から「借りた」荊州の返還を拒否すると劉備と孫権の外交関係は悪化した。孫権は関羽に対する最初の攻撃を開始し、荊州東部の多くの地域が即座に服従した。しかし関羽と魯粛が交渉すると劉備は長沙、江夏、桂陽の3郡を孫権に明け渡すことに合意し、同盟関係を更新し、湘江沿いに荊州を分割した。
陽平関と漢中での戦役(215年–219年)
[編集]215年に曹操は張魯を攻撃し陽平関の戦いで破った。張魯は降伏し、漢中の領土は曹操の支配するところとなった(216年1月)。南に移動して益州の劉備を攻撃するという家臣の助言に反して曹操は部隊を引き上げ、漢中を防衛する小部隊を指揮する夏侯淵を移動させた。翌年、曹操は自分に「魏の王」という尊称を認めるよう献帝に圧力をかけた。次の数年で曹操の生活様式は更に皇帝ようなものになり、更に高い栄誉を得た。
217年に劉備は曹操から漢中を奪取すべく漢中の戦いを開始した。219年の定軍山の戦いで夏侯淵が敗れ殺されると、曹操は怯えるようになり、劉備に対抗できる援軍とすぐに到着した。劉備に漢中を渡す結局軍を引き上げる決定をする前の漢水の戦いの衝突を除いて双方は膠着状態に陥ったままになった。続いて劉備はこの勝利の後で「漢中の王」を自称した。
孫権と劉備の同盟関係の崩壊(219年–220年)
[編集]劉備が漢中を攻撃していた頃に関羽も曹仁が守っていた曹操の樊城(現在の湖北省襄陽市樊城区)を攻撃すべく荊州から北に前進した。曹仁がなんとか毅然として自分の位置を守ろうとした一方で関羽は樊城を包囲し、状況は曹操が首都を許から動かすことを考えるほどに深刻であった。
同時に関羽が嘗て3つの出来事で孫権に敵意を示したために孫権は益々関羽に憤慨するようになった。即ち関羽は劉備が孫権に明け渡すと約束した3郡に孫権が送った官吏から奪い、関羽は樊城戦で使うための孫権の拠点の一つから食料を強引に奪い、孫権が息子と関羽の娘の結婚を申し込むと関羽は孫権を嘲笑した。関羽が樊城攻撃に向かうと孫権は東から荊州に対する攻撃を開始すべく呂蒙将軍を派遣し、速やかに数週間で荊州を征服した。関羽軍の戦意は急激に低下しわずか約300人を残すまでに兵士は徐々に関羽を見放した。関羽は孤立し孫権軍に包囲され、包囲を突破しようと試みたが待ち伏せに遭い捕らえられた。関羽は降伏を拒否し結局孫権の命令で処刑された。このことは孫権と劉備の同盟関係を終わらせることになった。孫権は名目上は曹操に服従し「呉侯」の肩書きを認められた。孫権は皇帝になることも要請したが曹操は断った。
献帝の退位(220年)
[編集]曹操が220年3月に死去し、息子の曹丕が献帝の正式な承認を待たずに「魏王」の肩書きを相続した。220年の冬に献帝は伝国璽を曹丕に送り、曹丕の意向により退位することを発表する勅令を発布した。曹丕は公式には3度王位を授かることを辞退したが、結局は受け入れた。漢は正式にここで終わり曹丕は許から洛陽に首都を戻しながらそこで曹魏を建国した。
221年に劉備は成都で皇帝を名乗り、蜀漢を建国した。孫権は別の国呉の(歴史上は東呉の方が知られる)王であると名乗る222年まで曹丕の名目上の家臣であり続けた。229年に孫権は正式に呉の皇帝になった。
参照
[編集]- ^ de Crespigny (2007), pp. 37.
- de Crespigny, Rafe (2007). A Biographical Dictionary of Later Han to the Three Kingdoms 23–220 AD. Leiden: Brill. ISBN 9789004156050
- Zizhi Tongjian, vols. 59, 60, 61, 62, 63, 64, 65, 66, 67, 68, 69.
- Book of Later Han, vol. 9.