漢の歴史
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本項では漢(紀元前206年〜後220年)の歴史を概説する。漢は二番目の中国の統一王朝であった。戦国時代の各王国を滅ぼし、初めて中国を統一した秦に続いて、劉邦(漢の高祖)により建国された[注 1]。漢は王莽の新(西暦9年-23年)による簒奪によって短期間中断され、それ以前を前漢[2](紀元前206年-後8年)、それ以降を後漢[3](25年-220年)と呼ぶ。この呼び方は前漢では長安、後漢では洛陽に首都があったことに由来する。漢の3番目にして最後の首都は、後漢末の196年に政治的混乱や内戦の影響を受け遷都した、許昌であった。
漢は中国の文化統合や政治的実験、関連する経済的繁栄と成熟、大きな技術発展の時代を支配した。非中国人特にユーラシア・ステップの遊牧民の匈奴との騒乱に特徴付けられる空前の領土拡張と探検があった。漢の皇帝は当初対等なものとして対抗する匈奴の単于を認識せざるを得なかったが、現実には漢は和親として知られる貢ぎ物を収め王の姻族同盟において下級の相手であった。
この合意は武帝(在位紀元前141年-87年)が結局匈奴連合の分裂原因となり中国国境を再定義する一連の戦役を開始すると破られた。漢の領域は現代の甘粛省の河西回廊や現代の新疆ウイグル自治区のタリム盆地、現代の雲南省や海南省、現代のベトナム北部、現代の朝鮮民主主義人民共和国、外蒙古南部に拡大された。漢の宮廷はアルサケス朝のような極西の支配者と通商と朝貢の関係を作り出し、メソポタミアのクテシフォンの宮廷に漢の君主は代表を送った。仏教が初めて漢の時代に中国に入り、インド北部や中央アジアのパルティアやクシャーナ朝の僧侶により広められた。
その初めから漢の宮廷はその下級の王国からの反逆と反乱の陰謀の脅威を受け、後者は結局王族の劉氏のみに支配された。当初帝国の東半分は長安からの帝国の西半分を直接支配する漢の皇帝への忠誠と税収の一部分を納付する広大な半自治王国を通じて間接的に管理されていた。漸進的な手法は半自治支配を廃止し国王の宮廷に中央政府の官吏を配置する紀元前2世紀中葉の改革までこの王国の規模と力を減少させるために宮廷により導入された。皇后の外戚と宮殿の宦官双方の強まる権力の方が漢にとって不安定で重大であった。西暦92年に西暦189年には結果的に洛陽の宮殿で失脚と大量殺戮に終わる一連の政治危機の原因にしながら宦官は皇帝の後継問題で初めて自身の立場を確固たるものにした。この事件は国家が権力を巡って張り合う群雄により分割されることになるような内戦の時代のきっかけになった。西暦220年に丞相の息子と国王は天と自然世界を持つ政府の運命と関連する董仲舒(紀元前179年-104年)の宇宙によると天命を失ったと考えられる漢の最後の皇帝の退位を受け入れた。漢の次に中国は魏、蜀漢、呉の三国に分裂し、この国々は晋(西暦226年-420年)により一つの帝国に再統一された。
秦の滅亡と楚漢戦争
[編集]秦の滅亡
[編集]馬を繁殖させた功績により、非子が周(紀元前1046年-256年)によって秦に封じられた。秦は西戎や羌、氐などの遊牧民との緩衝地帯として、機能した[4]。紀元前221年までに秦以外の戦国七雄(韓、趙、魏、楚、燕、斉)を征服すると[4]、秦王(始皇帝)は36の郡に分かれていた中国を一つの帝国に統一した[5]。中国本土の多くを支配した秦王は、先例のない称号皇帝を採用することで、自身の権威を高め、後世彼は秦の始皇帝と呼ばれる[5]。漢時代の歴史家は支配を維持するのに無慈悲な方法を採用した政権を糾弾することになる[6]。
始皇帝は紀元前210年に自然死した[7]。紀元前209年に雨を突いて900人の徴兵を率いて徴兵制度担当将校陳勝と呉広は到着期限に間に合わず、標準史はこの遅延に対する秦の刑罰は死刑となっていたと主張している[8]。これを逃れるために陳と呉は陳勝・呉広の乱として知られる秦への反乱を開始したが、紀元前208年に晋の将軍章邯に妨げられ、呉と陳は共に次いで自身の兵士に暗殺された[9]。この時点までに既にその中で楚の貴族階級の指導的一家出身の人物項羽とオジの項梁が反乱を起こしていた[10]。農民出身の人物で沛県の受刑者の指揮者である劉邦の参加を得た[10]。他の王国が暫くして秦に対抗して建国された一方で、懐王の孫の義帝は彭城(現代の徐州市)の拠点で項家の支援を得て懐王2世を名乗った[11]。この一方で紀元前208年に鉅鹿に逃れさせながら張が包囲する邯鄲の首都の趙の王Zhao Xieを次いで攻撃しながら項梁は章邯との戦いで死亡した[12]。しかし楚、燕、斉の新しい王国はZhaoの援軍を得て、項羽は鉅鹿で張を破り、紀元前207年に張を降伏させた[11]。
項が鉅鹿で手一杯の一方で懐王2世はこの地域を確保した最初の将校が王になるとの合意を得て秦の中心地関中を確保させに劉邦を派遣した[13]。紀元前207年後半に秦の支配者子嬰は弱体化した秦の王であると主張していたが趙が紀元前208年の宰相李斯と紀元前207年の秦の2番目の皇帝胡亥の死を画策すると宦官長趙高を殺させた[14]。劉邦は子嬰を降伏させ秦の首都咸陽市を確保し[14]、兵士に咸陽を略奪させることなく軍師長張良(紀元前189年に死去)に説得されてその代わりに財宝に封印をした[15]。
楚との争い
[編集]標準史は項羽が紀元前206年前半に二か月後に咸陽に到着すると略奪し焼き払い子嬰を処刑させた[16]。この年に項羽は懐王2世に義帝の肩書きを提供し処刑される辺鄙な国境地方に送り、項羽はその際西楚覇王の肩書きを引き受け18諸侯の盟主になった[17]。鴻門の会で項羽は劉邦を暗殺させようと考えたが劉は項が自分を殺そうと考えていることに気付き会の途中で逃げ出した[18]。劉邦に対する侮辱の中で項羽は嘗ての秦のZhang Han将軍や諸侯として仕える2人と関中を3侯に分割し、劉邦は漢中市の国境地域の漢侯と認められ、そこで項羽に強力でない政治的な挑戦を引き起こすことになる[19]。
紀元前206年の夏に劉邦は義帝が死んだと聞き楚漢戦争として知られる4年戦争を率いながら項羽に反対する新たな王侯の一部を集めることにした[20]。劉は当初彭城を直接攻撃し項が斉の王田広に抵抗する別の王と戦っている間に確保したが項が彭城に戻ったことで劉軍は崩壊し、父の劉太公と妻の呂雉が楚軍に捕らえられたが楚軍の到着を遅らせる嵐に助けられた[21]。劉は辛うじて滎陽県での別の敗北を逃れたが劉がHuainanの王英布に項に反乱を起こさせる気にさせたので項羽は追及できなかった[22]。劉が秦の広大な穀物倉庫と共に成皋を占領すると、項は降伏しないと劉の父親を殺すと脅したが、劉は項の脅迫に屈服しなかった[22]。
成皋と食糧供給がなくなり劉邦の韓信将軍が(紀元前196年死去)趙と秦を楚の北に追いやると共に[23]紀元前203年に項羽は劉邦の親族を解放し西は漢の領土とし東は楚の領土として中国を二つに分割することを申し出た[24]。劉邦は停戦を受け入れたが、すぐに終わり、紀元前202年現在の安徽省の垓下で5000人の漢の騎兵隊が追求しながら漢軍は僅か800人の騎兵隊と早朝に基地から項羽を逃れさせた[25]。数回戦うと項羽は長江の川岸で降伏することになり、そこで自殺した[26]。劉邦は皇帝の肩書きを得、漢の高祖として(在位:紀元前202年-195年)知られている[26]。
高祖の治世
[編集]統合、前例、政敵
[編集]高祖帝は当初洛陽を首都にしたが、天然の要害と供給路への良好な接続についての憂慮から長安(現代の陝西省西安市近く)に移した[27]。前の秦にならって高祖帝は(九卿が代表を務める)9人の次級閣僚と共に(三公により構成される)トロイカ内閣の行政形態を採用した[28]。秦の厳しい手法と法家に関する漢の政治家の一般的な非難にもかかわらず紀元前200年の宰相蕭何により編集された漢の最初の法典は秦の法典の構成と内容から多くを借りているようである(現代の睡虎地秦簡と張家山漢簡から発掘された文書はこの疑いを強固なものにしている)[29]。
長安から高祖は帝国の西側の13王侯領を(死ぬまでに16に増えた)直接支配した。東部では懐柔するために最も著名な家臣に授けた10準自治王侯国(燕、代、趙、斉、梁、楚、淮南国、呉、Nan、長沙)を創設した。反乱や北方遊牧民匈奴との同盟の疑わしい行動のために紀元前196年までに高祖はこの内の9人を王族に置き換えた[32][33]。
マイケル・ローウェによると各王侯国の統治は「中央政府や宰相、王室の助言者などの役人の小規模な模型」であった[34]。王侯国は国勢調査の情報や中央政府への税金の一部を送ることにあった。王侯国は軍隊を維持しなければならなかったが王侯は首都からの明確な許可がなければ部隊を動かす権限はなかった[34]。
長沙の王侯呉芮は劉の一族ではない中で唯一残った王侯であった。呉芮の曾孫呉著または呉産が紀元前157年に後継者がなく死去すると長沙は帝国の一部とされ後に劉家の公国とされた[35]。長沙の南では高祖は南越国(ベトナム語:チエウ朝、現代の中国西南部とベトナム北部)に後者の主権を認めるために趙佗の宮廷に大使として陸賈を派遣した[36]。
匈奴と和親と
[編集]秦の蒙恬将軍は紀元前215年に匈奴の単于頭曼単于をオルドス砂漠から追い出したが、頭曼単于の息子で後継者の冒頓単于は多くの部族を支配することで匈奴を強力な帝国にした[37]。紀元前174年に冒頓単于が死ぬまでに匈奴の領域は現在の中国東北部やモンゴル国から中央アジアのアルタイ山脈や天山山脈の領域に拡大した[38]。中国は貿易を装った匈奴による侵攻を恐れ、漢で作られた鉄製の武器が匈奴の手に落ちないか憂慮した[39]。従って高祖は匈奴に対する経済制裁を発動した。中国北方の王侯国代と燕の中国国境の商人が商取引できなくなることへの保証として多額の給料で公務員にした[39]。この経済制裁に憤慨して冒頓単于は漢を攻撃する計画を立てた。匈奴が紀元前200年に太原に侵攻すると亡命した韓王信の援助を得た。高祖は自ら現在の山西省大同市近郊に雪中行軍して部隊を率いた[40]。続く白登山の戦いで高祖軍は7日間厳しく包囲され、補給品が欠乏し逃れざるを得なかった[41]。
この敗北の後で宮廷顧問劉敬は(元々の名前は婁敬である)皇帝を納得させて和親合意と呼ばれる匈奴の単于との平和条約と姻戚関係を結ばせた[42]。紀元前198年までに行われたこの合意までに漢は朝貢(絹、葡萄酒、食糧など)として与える漢の豪華な商品で匈奴の遊牧民としての価値を和らげ冒頓単于の中国人の血を受けた後継者を祖父高祖への家臣とすることを望んだ[43]。敗北から間もなくの紀元前2世紀に匈奴に与えると高祖による約束に基づく毎年の朝貢の正確な量は不明である。しかし紀元前89年に狐鹿姑単于(治世:95年-85年)は毎年の朝貢を葡萄酒40万リットル(11350米ブッシェル)、穀物10万リットル(2840米ブッシェル)、絹1万梱に増量して和親合意を更新するよう求め、従ってその前の量はこの量より少ないことになる[44]。
条約は皇帝と単于の双方を対等と認めたが漢は軍事的に強力な匈奴をなだめるために朝貢せざるを得なかったために事実上下位の相手国であった[45]。高祖は当初一人娘を冒頓単于に与えるよう仕向けたが、皇后の反対を受けて高祖はある女性を親族の皇女にし冒頓単于と結婚させた[46]。紀元前130年代まで皇女の結婚と朝貢物品の申し出は匈奴を満足させることは殆どなく、匈奴はしばしば漢の北方の国境地方を襲撃し、漢と匈奴の国境として万里の長城を設ける紀元前162年の条約に違反した[47]。
呂皇太后の支配
[編集]恵帝
[編集]英布が紀元前195年に反乱を起こすと、高祖は自ら英に対して軍を進め、翌年死亡することになると言われる矢の傷を受けた。法定推定相続人劉盈が即位し、後に恵帝(在位;紀元前195年-188年)として知られている。その後間もなく高祖の未亡人呂雉(今は皇太后)は将来的に皇帝位を主張しそうな劉如意を毒殺させ母の戚夫人の手足を無残にも切断させた。10代の恵帝が母の行った残酷な行為を知ると、ローウェは「皇帝は敢えて不服従の態度を採らなかった」と言っている[48]。
恵帝の短い統治期間に紀元前190年に首都長安の周辺の防衛用の城墙が完成し、このレンガと版築の城墙は元々12メートルの高さであり、おおむね長方形の基本計画をなし(地形上一部不規則になっている)、その遺跡は今日依然として残っている[49]。この都市建設事業は15万人の徴用された労働力により完成した[50]。恵帝の統治期間はある種の文献を禁じる古い秦の法律が廃止され、匈奴と漢が東海県と南越の独立した主権を認める和親合意の更新など外交政策への注意深い働きかけが特徴であった[51]。
摂政と呂一族の失脚
[編集]恵帝は皇后の張皇后と子供をもうけなかったので、紀元前188年に死去すると、今は太皇太后で摂政の呂雉は、他の配偶者と共に息子の中から後継者を選んだ[51]。まず前少帝(在位:紀元前188年-184年)を選んだが、別の操り人形の支配者少帝弘(在位:紀元前184年-180年)にすげ替えるために廃位した[52]。在位期間に勅令を発布しただけでなく高祖の明確な禁止に反して自分の一族の者を王侯に任命し[53]、他の一族は主要な将校や文官になった[54]。
呂雉の宮廷は2000人の漢人が連れ去られた匈奴の隴西郡(現代の甘粛省)侵攻を解決できなかっただけでなく南の王侯国への鉄などの貿易品を禁止することで南越の王侯趙佗との争乱も引き起こした[55]。紀元前183年に南越武帝を自称しながら趙佗は紀元前181年に漢の長沙王侯国を攻撃した[55]。漢の大使の陸賈が再び文帝の治世に南越の宮廷を訪れて初めて競争相手の君主号を廃止した[56]。
呂皇太后が紀元前180年に死去すると呂の一族は劉家を転覆させようと企んだと主張され、[57]、斉の王侯劉襄(高祖の孫)が呂家に対して台頭した[58]。中央政府と斉軍が互いに交戦する前に呂一族は権力から追放され長安の陳平将軍と周勃将軍が率いるクーデターで崩壊した[59]。劉襄が呂家に抵抗したが、中央政府の許可なく軍を動かし母親の一族に呂毛と同じ野心的な態度があったために皇帝にはさせて貰えなかった[60]。代の王侯劉恒の母薄姫は高名な人物であるとみなされたために息子が皇帝位の継承者に選ばれ、後に文帝(在位:紀元前180年-157年)として知られている[60]。
文帝・景帝の統治
[編集]改革と政策
[編集]文帝と後継者景帝(在位:紀元前157年-141年)にちなんで名付けられた時代である「文景の治」で中央政府が領域を超えて大きな権力を掌握した一方で漢は大きな経済上の活動的な安定性を経験した[62]。秦の厳しい規則から引き離そうとする試みでこの支配者の宮廷は紀元前167年に手足の切断に絡む刑罰を禁止し、紀元前180年-141年に広範囲に及ぶ8件の恩赦を宣言し、紀元前168年に世帯の農業生産に対する税率を1/15から1/30に税率を引き下げた[63]。翌年には完全に廃止されたが、紀元前156年に1/30の税率で復活した[63]。
政策は景帝の時代は皇太后でありその後継者武帝(在位:紀元前141年-87年)の初期の時代は太皇太后である文帝の妻竇皇后により保護された政治上・宇宙論上の複合的規範である原始道教の黄老思想に影響された[64]。神話上の黄帝と紀元前6世紀の思想家老子にちなんで名付けられた黄老思想は、秩序ある文明の創設者として構成者を見、このことは伝説上の賢帝の堯や舜にその役割を与える儒家とは違った[65]。漢の黄老思想の支援者は、無為(老子の老子道徳経の中心概念)の政策を支援し、黄老思想は支配者は行政制度や法制度が円滑に機能するのであれば極力干渉すべきではないと主張した[66]。国事における黄老思想の教義の影響は、武帝の時代に国家思想として儒教を公式に採用することで影を薄くし後に黄帝ではなく老子が道教を実践する最初の人と見られることになった[67]。
紀元前179年から143年に王侯国の数は11から25に増え、その他の諸侯の領域は、19から40に増えた[68]。このことは広大領土拡張によるものではないが、漢の支配に反乱を起こしたり後継者を設けられなかった王侯国が領土を大いに減らしたり取り潰され新しい諸侯や小規模の王侯国に分国されたためである[69]。
呉楚七国の乱
[編集]呉の公認された後継者劉賢が嘗て公式に文帝の時代に首都を訪れた際に当時の皇太子劉啓(後の景帝)と六博と呼ばれるボードゲームに興じた[70]。熱の入った口論で劉啓は劉賢にボードを投げ、劉賢を殺した[71]。このことはそれにも関わらず嘗て即位する劉啓に忠誠を誓うことに感謝した呉の王であり高祖の甥である父の劉濞を憤慨させた[70]。
依然として息子の死に憤慨し皇帝の助言者晁錯(紀元前154年死去)の助言の下で景帝が行う王侯国の領土削減の波の対象になる恐れを抱きながら呉の王は同様に領土削減を恐れる他の6か国(楚、趙国、膠西郡、膠東国、菑川国、済南郡)との連合の代表として紀元前154年に漢に対する反乱を指導した[72]。しかし周亜夫が指揮する漢軍は準備ができていて反乱を鎮圧し漢に対する7国連合を崩壊させた[72]。数か国が廃止され(後に復活したが)他は大いに領土が削減された[73]。景帝は紀元前145年に王侯国で独自の行政官を禁止し以後役職を減らし中央政府が直接任命する高官を除いて全ての上級職を廃止する勅令を発布した[74]。続く武帝はさらに王侯国の長子相続の伝統を廃止し各王侯は男性の後継者全員で領国を分割しなければならないと命ずることで権力を弱体化させた[75]。
匈奴との関係
[編集]紀元前177年に正義の賢帝は北西部(現在の甘粛省)で漢の保護下で暮らす非中国系民族を襲撃した[76]。紀元前176年に冒頓単于は伝えられるところでは漢の官吏に侮辱された賢帝が単于の許可なく動きそのために遊牧民の月氏に対する戦役を行わせることで賢帝を罰したと告げる手紙を文帝に送った[76]。依然としてこの事件は単に漢の北方の遊牧民を勧誘する大きな取り組みの一環であり、この間に大部分の月氏が河西回廊や(中央アジアに向けて西に逃げた)ロプノール塩沼の楼蘭の定住性の国から追放され、天山山脈の遊牧民烏孫やサマルカンド(ソグディアナ)の東の26か国は匈奴の覇権に支配された[77]。和親合意が更新されなければ中国に侵攻する冒頓単于の言外の脅威は長安での論争の引き金になり、晁錯や賈誼(紀元前169年死去)のような官吏は和親政策を拒否したがったが、文帝は合意の更新を好んだ[78]。冒頓単于は漢の貢ぎ物が届く前に死亡したが、次代の老上単于(紀元前174年-160年)は和親合意を更新し、国境の市場を開く交渉をした[79]。貿易に対する禁止を解除することで段々と匈奴の侵入の頻度と規模を減らし、それは国境に駐屯する数万の漢軍を必要とした[80]。しかし老上単于と次代の軍臣単于(治世:紀元前160年-126年)は条約にもかかわらず侵攻することで漢の領土主権を侵し続けた[81]。老上単于が月氏をイリ川渓谷に追いやることで父の征服を続ける一方で漢は目立たぬように後に匈奴に対抗できる騎兵隊の強化を行った[82]。
武帝の治世
[編集]儒教と官吏採用
[編集]高祖は哲学や倫理学の制度が孔子(紀元前6世紀の人物)に遡るとは信じなかったが、陸賈や叔孫通のような儒家の援助を求めず、紀元前196年に官吏登用に向けた優秀な人物の登用のための漢で最初の規則を作り、ロバート=P=クレーマーは「有名な試験制度に向けた最初の大きな刺激」と呼んでいる[83]。文帝と景帝は宮廷に儒家の知識人を招いたが、宮廷の知識人が全て後に儒家の正当な文書になることを専攻した訳ではなかった[83]。武帝が紀元前141年に皇帝になってからの数年間太皇太后竇は宮廷を牛耳り続け、皇帝に政治的な決定をする前に質問するよう強要した。武帝が祖母に服従しないのは都合が良くなく、好ましくないと思ったり黄老思想に相反するいかなる政策も受け入れなかった[83]。紀元前135年に祖母が死ぬと中国の政治史に大きな動きが起こった。
武帝が政治改革の方法について章表の提出を求めると、クレーマーが「最初の儒教神学者」と呼ぶ官吏の董仲舒(紀元前179年-104年)の意見を採用した[84]。董が統合させることで天、地、人を司る同じ全体論の宇宙に合致させることで陰陽や五行思想における宇宙論的信念に儒教の倫理観を共に融合させた[85]。さらに大宇宙にその場を提供することで帝国の政治制度を正当化した[86]。董仲舒の思想を反映しながら武帝は紀元前136年に儒教の四書五経に焦点を当てたもの以外の価値を認めない勅令を発布した[87]。紀元前124年に武帝は学者が50人の生徒に教える太学を創設し、これは後の王朝で洗練される官吏登用試験制度の始まりであった[88]。官吏の息子や親族はしばしば役所への候補として特別扱いを受けたが、官吏の家族でない人々は役所への登用を阻止されなかった[89]。逆に四書五経での教育は就職するための最重要の必須条件になり、その結果、太学は3万人の学生を収容する紀元2世紀までに劇的に拡張された[90]。蔡倫(紀元121年死去)が紀元105年に製紙術を発明するのに合わせて[91]後漢以降安上がりの筆記用具として紙が広まると、本の供給を増やし、従って官吏になるために教育される人を増やした[92]。
匈奴との戦争
[編集]竇皇后が死去したことで外交政策にも重大な変更が起こった[93]。匈奴の脅威と和親合意の更新に取り組むために武帝は紀元前135年に主要な大臣の2派が現在の政策の可否を論じる集まりに宮廷会議を召集し、武帝は和平は維持すべきとの大臣の主流派の合意に従った[94]。1年後匈奴が北方の国境を襲撃するのに忙しく漢の応答を待っている間に武帝は別の宮廷会議を行わせた。匈奴の戦争を支持する党派は、不確実な戦役で拡大する財源について憂慮する人に妥協することで多数派の意見を動揺させた。馬邑近郊の国境沿いの限定的な戦闘で漢は速やかに軍臣単于を抹殺し匈奴に政治的混乱を起こさせるために贈り物と離反の約束で軍臣単于を誘い込むことになる[95]。馬邑の罠が紀元前133年に失敗すると(軍臣単于は罠に落ちようとしていることに気付き北に後退した)、和親型の宥和政策の時代は崩壊し、漢の宮廷は全面戦争に突入することを決定した[96]。
数万の軍が関わる戦役を指揮しながら紀元前127年に漢の将軍衛青(紀元前106年死去)は匈奴からオルドス砂漠を再確保し、紀元前121年に霍去病(紀元前117年死去)は匈奴の多くの貴族が降伏する中で祁連山脈から匈奴を追放した[97]。紀元前119年の漠北の戦いで衛将軍と霍将軍は単于をゴビ砂漠の北に逃れさせるハンガイ山脈に戦役を進めた[98]。36か所の牧草地で奴婢が30万頭の馬を維持するだけでは騎兵隊に行き渡らず軍需物資輸送隊がこの戦役では必要であったために政府は政府に個人的に飼育した馬を供出する世帯当たり3人の男性に限って軍役や強制労働を免除するとした[99]。
領土拡張と植民地化
[編集]匈奴の単于が紀元前121年に霍去病に投降すると、漢は河西回廊からロプノールに拡大しながら領土を獲得し、従って羌との連合から匈奴を引き離した[100]。新しい指揮所が羌・匈奴連合が紀元前111年にこの地域から撃退された後で漢の移民が暮らす河西回廊の4か所(酒泉市、張易、敦煌市、武威市)と同様にオルドス砂漠に創設された[101]。紀元前110年以降に広大な移住地が建設される一方で紀元前119年までに漢軍は内モンゴル自治区の居延湖に最初の駐屯地を建設した[102]。居延湖の移住者の約40%が現代の河南省の関東地区や山東省西部、山西省南部、河北省南部、江蘇省北西部、安徽省北西部から来た[103]。単于が投降すると漢の宮廷は黄河の湾曲部の南の新秦中に住まわせるために関東から72万5000人を移住させた[104]。武帝の軍は中国史上最大の領土拡張となる合計で約440万平方キロメートルの新領土を征服した[105]。自活できる屯田がシルクロードの東端に当たる中央アジアへつながる交易路を守るのと同じく戦役を支援するこの前線基地に作られた[106]。漢代の万里の長城は敦煌のような遙か西にまで延長され、漢の30か所のビーコン塔や2か所の要塞城などの一部が依然として今日甘粛省に存在している[107]。
探検、対外貿易、戦争、外交
[編集]紀元前139年に始まって漢の外交官張騫は大月氏との(紀元前177年に匈奴により甘粛から奪われたが)連合を確保するために成功しなかった意図を持って西に向かったが、張騫の旅行は、中国がアレクサンドロス3世(在位:紀元前336年-323年)のヘレニズムに気付かない全ての国を明らかにした[109]。張騫が紀元前125年に中国に戻ると、大宛(フェルガナ)や康居(ソグディアナ)、大夏(バクトリア、嘗て大月氏に支配されたグレコ・バクトリア王国)を訪れたことを報告した[110]。張騫は大宛と大夏は農業国と都市国家であると説明し、訪れることはなかったが、さらに西のシェンドゥ(北インドのインダス川)やアンクシ(パルティア)のことを話した[111]。この国々に送られた使者が外交団や利益の上がる貿易団と帰国し[112]、帰国する前にも張騫はこの国々は中国の絹を輸入していると記した[113]。商人から情報を得ると、張騫はビルマを通ってインドに行く南西通商路も発見した[114]。中国で発見された(しかしローマ帝国で製造された)最初期のものとして知られるローマガラス製品は、紀元前1世紀に遡る広州市の墓で発見されたガラス鉢で、恐らく南シナ海を通って海路から来た[108]。同様に輸入された中国の絹の衣装はガイウス・ユリウス・カエサル(紀元前100年-44年)の時代までに共和制ローマで大衆化した[115]。
和親合意が崩壊すると匈奴は征服されたタリム盆地の都市部からさらに多くの工芸品や食料品を採取せざるを得なかった[116]。紀元前115年から60年まで漢と匈奴は紀元前108年から101年まで楼蘭やトルファン、ブグル、大宛(フェルガナ)、康居(ソグディアナ)の朝貢国に対する支配と影響力を巡って戦った[117]。最も遠く最も高価な侵攻は、シルダリヤ盆地とアムダリア盆地(現在のウズベキスタンとキルギス)のフェルガナに対する李広利の4年戦役であった[118]。歴史家ラスロ・トーデイ(1997年)はフェルガナは漢がシルクロードに接近できなくなる脅威を与えたと主張し、さらに歴史家司馬遷(紀元前86年死去)は李の使命が本当に価値ある中央アジアの雄馬を貢がないことで大宛を罰する方法であったと主張することでこの脅威を控えめに扱った[119]。
南に向かっては武帝は紀元前135年に閩越(現在の福建省)による攻撃をかわしながら趙眜を助けた[120]。漢を支持するグループが南越の宮廷で倒されると漢の海軍は現在の広東省や広西チワン族自治区、海南島、ベトナム北部を支配下に収めながら漢の南越国征服で紀元前111年に南越を征服した[121]。紀元前86年と83年、紀元14年(王莽の統治時代)、紀元42年-45年の後の滇の反乱は漢により鎮圧されたとはいえ、武帝は雲南省の滇への侵攻も開始した[122]。武帝は紀元前128年に今の朝鮮民主主義人民共和国に遠征隊を送ったが、2年後にこれは断念された[123]。紀元前108年に朝鮮北部の古朝鮮に対する別の遠征により四郡が設置されたが、紀元前82年以降は僅かに玄菟郡と楽浪郡が残っただけであった[124]。その後紀元前108年の暴力的な抵抗運動と高句麗や夫余によるゲリラ的襲撃があったが、中国の移民は大部分は僅かな漢の移民とは独立して(しかし文化面では影響を受けた)暮らす先住する朝鮮人と平和的な通商関係を構築した[125]。
経済改革
[編集]長引く戦役と植民地化活動の資金にするために武帝は紀元前117年までに中央政府が製塩業と鉄鋼業の私有産業と取引を接収することで嘗ての皇帝の「不活動」政策から転換した[126]。もう一つの酒に関する専売権が紀元前98年に創設されたが、紀元前81年の宮廷内の多数意見によりこの専売権は廃止されることになった[127]。数学者にして官吏の桑弘羊(紀元前80年死去)は、後に王への助言者やこの専売権を管理するのを手伝うために政府に召集された多くの元商人の1人となり、やがてあちこちで価格変動を除く「穏やかな移行」制度を担当した[128]。これは(政府が安い時に買い集め商人が高い価格を要求する時に安く放出するために)投機を取り除くことで儲かる穀物取引に干渉する政府の手法であった[129]。商人の利益や農民に対して不必要な困窮をさせたことで低品質の官製品や役務を頼りにせざるをなかったためにこれは専売権と共に武帝の時代でさえ批判され、専売権と穏やかな移行は、後漢(紀元22年-220年)まで続かなかった[130]。
武帝の時代に各未成年の3歳から14歳に対する人頭税が硬貨20枚から23枚に増やされ、大人に対する比率は120枚に留め置かれた[131]。新しい税金は市場取引で適用され、その中身は増大する軍事予算を強化することを意味した[131]。紀元前119年に四銖銭の代わりに五銖銭(3.2g)の重さの新しい銅貨が紀元前113年の私製通貨の禁止に続いて政府から発行された(唐まで中国の硬貨の基準となる)[132]。私製通貨を禁止する元々の考えは紀元前186年と144年に実施に移されたが、通貨発行に対する武帝の専売権は漢を通じて残された(その管理機関は変わったが)[133] 紀元前118年から5世紀まで漢は280億枚の硬貨(年平均2億2000万枚)を鋳造した[134]。
前漢の後半
[編集]霍光の摂政政治
[編集]武帝の最初の妻陳皇后は男の後継者が生まれる助けにするウィッチクラフトを企んだと申し立てられて紀元前130年に皇后位を剥奪された[137]。紀元前91年に同様の申し立てが二番目の妻衛子夫の息子で武帝の皇太子劉拠に対して行われた。武帝が甘泉の(現在の陝西省にある)静かな避暑地に行っている間に武帝が間違った申し立てを信じることを恐れて劉拠は5日間続く長安での反乱を開始した[138]。劉拠が敗れると、劉拠と母親は自殺した[139]。
結局自分の名声のために霍去病の異母兄弟霍光は死後に昭帝として知られる後継者で子供の劉弗陵(在位:紀元前87年-74年)の宮廷に対して匈奴出身の金日磾(紀元前86年死去)と上官桀と共に三頭政治の摂政政治を形作るために武帝から任された[140]。金日磾は1年後に死亡し、紀元前80年までに上官桀と皇帝への助言者桑弘羊は皇帝として昭帝の兄で燕の王劉旦を支援したとして糾弾されると処刑され、これは霍に無敵の権力を与えた[141]。しかし霍は儒教の観点で権力は悪用せず武帝の税金を減税したために人気を得た[142]。
7月18日に代わりとして選ばれた甥の劉賀が統治する品性や能力に欠けることを露呈すると8月14日に排除された一方で昭帝は後継者のいないままに紀元前74年に死亡した[143]。劉賀の排除は主立った閣僚全員が署名し承認のために上官皇后に提出された章表で確実なものになった[144]。劉病已(劉拠の孫)は9月10日に宣帝(治世:紀元前74年-49年)と名付けられた[145]。霍光は紀元前68年に自然死するまで宣帝に対する摂政として権力に留まった[146]。さらに紀元前66年には霍の一族は皇帝に対する共謀罪で告発され排除された[147]。これは霍光の妻が結局は霍光の娘の霍成君に交代させるために紀元前71年に宣帝のお気に入りの許平君を毒殺した後の宣帝の復讐の結果であった(後者は紀元前66年に廃位された)[148]。許平君の息子劉奭が元帝(治世:紀元前49年-33年)として父の後を継いだ[148]。
改革と質実
[編集]武帝時代と霍光の摂政時代に有力な党派は現代党であった。この党派は塩と鉄や個人の事業に適用される高い税金、領土拡張の積極的な外交政策に支出するのに使われる価格統制に対する政府の専売権における大きな政府干渉を支持し、罪に対する大きな罰や役務に対する低い報酬を科すことで懲戒する秦の手法にも従った[149]。霍光の摂政以後は改革党が国事と政策決定で大きな影響力を得た[150]。この党派は政府の専売権廃止や個人経済における政府干渉の制限、柔和な外交政策、植民地化の制限、倹約した財政改革、漢の寛大さを示す役務に対する大きな報酬を容認する周の理想への回帰を支持した[151]。この党派の影響は紀元前44年の中央政府の塩と鉄の専売権廃止に見られ、これは紀元前41年に復活され、結局は紀元1世紀に再び廃止され地方政府と私企業に移行されることになる[152]。紀元前66年までに改革派は過剰で派手であるとの見地から取り消された外交上の高官に分からせるために武帝により導入された豪華な見世物やゲーム、娯楽の多くを手に入れていた[153]。
無能な支配者と警告する疑わしい天徴に促されて18回の大赦全てが元帝(劉奭)と成帝(在位:紀元前37年-3年、劉驁)の時代に許可された[154]。成帝が庶民の生活を混乱させているために紀元前34年に法的手続きの期間を短縮した一方で元帝は数件の犯罪に対する罰則の等級を減じた[154]。現代派が判決を減刑したり取り下げさえする罪人からの罰金額を受け入れた一方で貧者以上に裕福な者を好み犯罪に対して効果的な抑止力でなかったために改革派はこの政策をひっくり返した[155]。
成帝は国家が資金提供する宗教に大きな改革を行った。秦は紀元前205年に高祖により加えられた1体と共に主な伝説上の神4体を崇拝していて、これは五帝のことであった[156]。紀元前31年に天の支持を得男性の後継者と讃える努力の中で成帝は五帝を讃える式典を全て中止させ周の王が崇拝した最高神天帝のための式典に置き換えた[157]。
外交関係と戦争
[編集]さらに漢に西域に関する支配を固めさせながら紀元前1世紀の前半は匈奴の指導力に関する後継問題が数件あった[158]。漢の将軍傅介子は匈奴寄りの楼蘭の王を紀元前77年に暗殺した[159]。漢は烏孫や丁零、烏桓と同盟し、同盟軍は紀元前72年に匈奴に大敗を喫させた[160]。漢は紀元前67年の車師の戦いで匈奴を破るとトルファン盆地に対する影響力を再獲得した[160]。紀元前65年に漢はこの地域における漢の関心に一致する亀茲(タクラマカン砂漠の北の国)の新しい王を擁立できた[161]。初めて鄭吉(紀元前49年死去)に与えられた西域都護府は植民地活動を監督しタリム盆地の小王国との関係を築くために紀元前60年に設置された[162]。
郅支単于(在位:紀元前56年-36年)が対立する兄弟で単于を巡る対立者の呼韓邪単于(在位:紀元前58年-31年)に大敗を喫すると、呼韓邪単于とその支援者は漢の援助を求め漢の家臣になるか議論した。呼韓邪単于は紀元前52年にそのように決定した[163]。呼韓邪単于は息子を漢に人質として送り、直々に紀元前52年の春節に宣帝に敬意を表した[164]。改革派の擁護の下で呼韓邪単于は卓越した主賓として案内され、68万リットルの穀物に加えて金5㎏の報酬や20万枚の硬貨、77着の衣服、8000梱の絹織物、15頭の馬が帰国に際して送られた[165]。
呼韓邪単于と後継者はそれぞれの訪問後に与えられた増大する贈り物のためにさらに敬意を払うように勧められ、このことは紀元前3年に一部の大臣から不満が出てくることになり、家臣の好きなようにさせる財政上の結果は和親合意に勝っていると思われた[166]。郅支単于は当初呼韓邪単于に対する漢の支援を終わらせることを望んで漢の宮廷に人質と貢ぎ物を送ることを考えたが、結局は漢に敵対した。続いて漢の宮廷から明確な許可なく活動する漢の将軍陳湯と保護長官甘延寿は紀元前36年に首都シャンユ市(現在のカザフスタンタラズ)で郅支を殺した[167]。単独で外国への干渉政策をさせる独立した使命を与えることに気が進まない漢の改革派の宮廷は陳と甘に唯一の穏当な報酬を与えた[168]。支持を示したのにも関わらず呼韓邪単于は漢の王女を与えられず、その代わりに古代中国の中国四大美人の1人王昭君を与えられた[169]。このことは中国の王女が妻として単于に与えられるそれまでの和親合意からの離脱につながった[169]。
王莽の強奪
[編集]王莽の掌握
[編集]元帝の妻で成帝の母である王政君(紀元前71年-紀元13年)の長い人生は男性親族が次々と正式には最高指揮官として知られる摂政に当たる役職に任じられることを確実にした[170]。成帝は帝国の政より闘鶏や美女を追い掛けることの方に感心があり王家の一族に国事の多くを委ねた[171]。紀元前8年11月28日に王政君の甥の王莽が総大将になった[172]。しかし哀帝(在位:紀元前7年-1年、劉欣)が皇帝になると傅昭儀(元帝の側室)が宮殿の主要人物になり紀元前5年に首都から侯爵領に追い出されるのに先立ち紀元前7年8月27日に王莽を辞任させた[173]。
王莽の支持者からの圧力により哀帝は紀元前2年に首都に王莽を呼び戻した[174]。1年後に哀帝は息子のいないまま病気で死亡した。王莽は前帝の従兄弟である平帝(在位:紀元前1年-紀元6年)に対する摂政として復職した[174]。王莽は娘を平帝と結婚させたが、紀元6年に死亡した時まだ後者は子供であった[175]。王莽が劉家より大きな権力を掌握しかけていることに憤慨する人に先立ち劉家の侯爵が一月早く王莽に対して反乱を起こした事実にもかかわらずこの年の7月に王皇太后は王莽を仮皇帝に孺子嬰を王莽の後継者であると確認した[176]。この反乱は鎮圧され、王莽は孺子嬰が成年に達したら権力を孺子嬰に引き渡すと約束した[176]。権力を譲渡すると約束したにも関わらず王莽は天は漢の支配が終わる時だとの兆しを送っていることを示す宣伝に着手した[177]。紀元9年1月10日に王莽は漢は自然の成り行きを辿り新(紀元9年-23年)の皇帝を自称する要求を受け入れたと発表した[178]。
伝統派の改革
[編集]王莽には儒教が理想化された時代である周の初期に成就した伝説的な黄金時代に中国を戻す大望があった[179]。土地所有を国有化し標準的な広さの土地を各家に分配しながら紀元9年に奴隷制の禁止と王の土地の導入など全面的な改革を考えた[180]。広範な抵抗運動のために紀元12年に奴隷制は復活し土地改革政体制は取り消された[181]。
歴史家班固(紀元32年-92年)は王莽の改革は奴隷制や土地改革は別にして失脚につながったと書き、歴史家ハンス・ビーレンスタインは王莽の改革の殆どはそれまでの漢の政策に一致していたと指摘している[182]。紀元7年、紀元9年、紀元10年、紀元14年に導入された新しい通貨単位切り下げは硬貨の価値を下げたが、その前の計量通貨の導入は同様に経済的損失を引き起こした[183]。王莽は官僚の肩書きと同様に領国の全てを改名し、同様にこれには前例があった[184]。最早(黄河の大規模な氾濫で拍車をかけた)大規模な反乱で施行できなくなったために政府の専売権は紀元22年に廃止された[185]。
王莽の下での対外関係
[編集]呼韓邪と王昭君の息子で中国と匈奴のハーフの貴族伊屠智牙師は匈奴内部では漢にとっての歯に衣着せない熱心な支持者になり、ビーレンスタインはこのことが保守的な匈奴の貴族に漢との同盟関係の断交に導いたと主張している[186]。王莽が皇帝になり単于を降格させるとその時は来て、これが戦争への口実になった[187]。紀元10年-11年の冬に匈奴を後退させる武力を示しながら王莽は北の国境沿いに30万の兵力を集めた[187]。さらに侵攻が続くと王莽は漢が捕らえた王子級の匈奴の捕虜を処刑させた[187]。咸(在位:紀元13年-18年)が単于になると外交関係は修復されたが、呼都而尸(在位:紀元18年-46年)が単于になり紀元19年に漢の国境を襲撃すると再び泥沼化した[188]。
(クチャの東、トルファンの西にある)タリム盆地の焉耆が漢の護国長官但欽を殺して紀元13年に新への反乱を起こした[188]。抵抗運動を鎮圧し確実にこの地域が王莽に対する広範な反乱が紀元23年に王莽の支配を転覆させるまで中国の支配下にあるようにしながら王莽は紀元16年に焉耆に対し復讐する部隊を派遣した[188]。王莽は青海省のチベット民族にも中国の影響を拡大し朝鮮の高句麗(鴨緑江周辺の朝鮮初期の国)による紀元12年の攻撃を防いだ[189]。しかし中国の広範な反乱が紀元20年から23年に増えたために朝鮮は楽浪郡を襲撃し漢は紀元30年までこの地域に戻れなかった[190]。
漢の復興
[編集]自然災害と内戦
[編集]紀元3年以前は黄河の流れは天津市で渤海に注いだが、徐々に川底の沈泥物が積み重なったことで(毎年水位を上げていった)洪水を防ぐために作られた堤防を圧倒し、一つは山東半島を流れ東シナ海に注ぐ形で黄河は二つに分かれた[191]。紀元11年の二度目の洪水は天津市の遙か南の山東半島の北に僅かに注ぐことで黄河の北側の流れを変えた[192]。南の華北平原の多くが黄河の南の流れを作ったのに続いて水浸しにすると共に自分達の家から追いやられた数万の飢えた農民が盗賊や反逆者の集団を(最も有名なのが赤眉軍)結成した[193]。王莽軍は紀元18年と22年にこの反乱を鎮圧しようとしたが失敗した[194]。
景帝の子孫である劉縯(紀元23年死去)は劉縯の遠縁の劉玄が紀元23年3月11日に更始帝(在位:23年-25年)の肩書きを受け入れた南陽市の反乱を起こした士紳集団の内の一つを率いた[195]。劉縯の兄弟で後の光武帝(在位:紀元25年-57年)の劉秀は王莽軍に包囲された都市を解放し戦争の形勢を一変させた紀元23年7月7日の昆陽の戦いで有名になった[196]。その後暫くして更始帝は反乱を口実に劉縯を処刑し、命の危機を恐れる劉秀は太常を辞任し、公に兄弟の喪に服するのを避け、これにより皇帝は劉秀に侯爵号を与え将軍に昇格させた[197]。
更始帝の軍はこの時長安を目指したが、10月4日に長安を略奪しながら地域の暴動が首都で発生した。10月4日-6日に王莽は結局は殺され首を刎ねられることになる未央宮で最後の防御を行い、首は更始帝の軍が10月9日に長安に到着する前に南陽の更始帝の司令部に送られた[198][199]。更始帝は赤眉軍の指導者樊崇に留まるよう招待した洛陽を新しい首都と決定し、更始帝は名前だけの肩書きを保証し、そのために部下が見捨て始めると樊は逃れることにした[200]。更始帝は紀元24年に首都を長安に戻し、翌年赤眉軍は更始帝軍を破り、操り人形の支配者に劉盆子を任命し、長安に入城し殺す前に長沙王に降格した逃げる更始帝を捕らえた[201]。
光武帝の下での再統合
[編集]更始帝の下で長官として活動する一方で劉秀は(現在の河北省で)地元の反乱を鎮圧すると重要な支持者を集めた[202]。紀元25年8月5日に自身を漢の皇帝であると主張し、11月27日に洛陽を首都として占領した[199]。最終的に帝国を統一するに先立ち他に11人が皇帝を名乗っていた[203]。自分の将校鄧禹と馮異の努力で今では光武帝になった劉秀は洛陽に定住させながら紀元27年3月15日に彷徨う赤眉軍を降伏させ、反乱の陰謀が明らかになると、指導者樊崇を処刑した[204]。
紀元26年から30年に光武帝は様々な軍閥を破り中原と東の山東半島を征服した[205]。紀元29年に遠くの河西回廊の軍閥竇融と同盟しながら紀元33年に隗囂の領土を奪取しながら紀元32年に甘粛の軍閥隗囂をほぼ破った[206]。最後の抵抗者は公孫述で、成家政権は現在の四川省の成都市に拠点を置いていた[207]。光武帝は長江に架かる公孫述の要塞化した舟橋を焼き落とすことに成功したが[208]、光武帝の司令官岑彭は公孫述の放った刺客に紀元35年に殺された[209]。それにも関わらず漢の呉漢将軍(紀元44年死去)は長江と岷江沿いに岑の戦役を再開し、紀元36年12月までに公孫述の軍を崩壊させた[210]。
漢の再統合は王莽に幻滅した中原の強力な士紳の支援を受けたかで大いに異なり、従って後漢は益々この人々に恩義を感じることになった。このことは中原の洛陽に首都を移す動機づけをする助けになった[211]。
長安は洛陽の西にあるために前漢[2](紀元前202年-紀元9年)と後漢[3](紀元25年-220年)という名称は歴史家に受け入れられている[212]。南側の壁は洛河が流れを変えた際に壊れたが、洛陽の10メートルの高さの東と西、北の壁は今も立っている[213]。壁に囲まれた中に二つの著名な宮殿があり、共に前漢に存在したが、光武帝と後継者が拡張した[214]。後漢の洛陽は概ね50万人が居住していたと推計される一方で[215]紀元2年の中国全土を対象にした初めての国勢調査では約5800万人を記録した[216]。(全人口が4800万人として記録された)紀元140年の国勢調査と比較すると[217]、主に自然災害や北の遊牧民との戦争により後漢時代に華北から華南に1000万人に上る重大な放浪性の移動があった[218]。定期的に最新化された後漢の国勢調査によると人口規模は変動したが、歴史学者ニシジマ・サダオはこれはたまに全人口を登録する政府の無能よりは大規模に生命が失われたことを投影していないと記している[217]。
光武帝、明帝、章帝、和帝の下での政策
[編集]王莽の通貨価値切り下げを破棄しながら光武帝は紀元40年に前漢の標準的な五銖銭を再導入した[220]。塩と鉄の専売権が取り消された後の失われた財源を補いながら政府は個人事業から軍の剣と盾を購入する一方で個人の製造業は重税が課された[220]。紀元31年に農民が訓練の1年と軍役の1年のための軍隊への徴兵制度を免除する軍役代用税を払うことを許可し、代わりに後漢を通じて続く義勇軍を創設した[221]。雇われ労働が一般的になったために農民に代替可能な税と共に1か月の賦役を免除することも許可した[222]。王莽は漢の全侯爵を庶民に格下げしたが、光武帝は紀元27年からその親族を見つけ出し廃止された侯爵位を再開する努力を行った[223]。
明帝(在位:紀元57年-75年、劉陽)は価格調整と価格安定化のための事務局と価格が安い時に穀物を政府が購入し私的な商業価格が逼迫したために高い時は売る価格安定化制度を再開した[224]。しかし政府の穀物備蓄が豊かな商人を富ますだけであることを確信することになる紀元68年に価格安定化計画を中止した[224]。父親の時代までに起こった回復した経済的成功と共に明帝は様々なダムや運河を修理することで黄河の洪水に取り組んだ[225]。紀元70年4月8日に勅令は山東半島の南に注ぐ黄河の南の支流が遂に漢の技術で切り離されることを声高に自慢した[226]。学術の後援者として明帝は王立大学とは別に若い貴族のための学校も創立した[227]。
章帝(在位:75年-88年、劉炟)は畜牛の伝染病の流行が紀元76年に起きると農業危機に直面した[228]。災害を軽減するのに加えてこのことが陰と陽の季節的な均衡を回復し疫病を治すと考えたために章帝は法的手続きに対する改革も行い足底笞刑による実際の刑罰を軽減した[228]。さらに慈悲心を表すために紀元78年に人民にとって重すぎる困窮の原因になっていると考えて太行山脈を流れる滹沱河の運河作業に対する苦役を軽減し、紀元85年に子供を産み1年間夫を免除した女性に対し3年間人頭税を免除することを保証した[228]。五経の新文経の伝統を支援した他の後漢の支配者と違い章帝は古文経の伝統を支援しこの学派の妥当性を学術的に討論した[229]。レイフ・デ・クレスピグニーは後漢の主要な改革は2世紀を超えて不正確になった紀元前104年の太初暦の代わりに修正したSife暦を章帝が再導入したことであると書いている(後者が太陽年を365385⁄1539日とし朔望月を 2943⁄81日と測定した一方で前者はユリウス暦のように太陽年を365.25日と測定した)[230]。
正統派の研究が衰退し王充(紀元27年-100年)の論衡のような新文経に懐疑的な著作が学術社会をこの伝統で幻滅させたが、和帝(在位:紀元88年-105年)は新文経と古文経双方の伝統に寛容であった[231]。亡き父と兄の著作である漢書を完成するために班昭(紀元45年-116年)が王室の文書館を使えるよう依頼すると歴史に関心も示した[232]。このことは歴史の記録に関して王室が関わる重要な前例となり従って司馬遷の遙かに独立した著作史記(紀元前109年-91年)とは違っていた[233]。イナゴの大群や洪水、地震が庶民の生活を混乱させると、和帝の救済策は、減税をし、穀倉を開放し、公的融資を行い、個人の負債を免除し、被災地から人々を移住させることであった[234]。紀元95年の深刻な干魃が法律制度の膨大な不公平によるものと考えて和帝は自ら監獄を視察した[234]。一部に誤った告発が行われたことに気付くと、洛陽の長官を監獄に送り、その後間もなく雨が降るようになったとされている[234]。
対外関係と匈奴の分裂
[編集]ベトナムの徴姉妹が紀元40年に安南の紅河デルタで反乱を指導した[235]。光武帝は上級の将軍馬援(〜紀元前14年-紀元49年)を派遣し、紀元42年から43年に破った[235]。姉妹の故地のドンソンドラムは溶かされ、洛陽の光武帝に贈られる大きな銅製の馬像に鋳直された[235]。
一方で呼都而尸は息子の蒲奴が紀元46年に継承し、従って匈奴の支配者の兄弟のみが正当な後継者であるという呼韓邪の命令を破り、呼都而尸の甥の比は激怒し紀元48年に対立する単于を名乗った[236]。この分裂で北匈奴と南匈奴ができ、嘗ての呼韓邪のように比は紀元50年に助けを求めて漢に寝返った[236]。比が漢の宮廷に敬意を払いに来ると、1万梱の絹織物、絹2500㎏、米50万リットル、牛3万6000頭を与えられた[236]。しかし呼韓邪の時代と違い南匈奴は山西省や甘粛省、内モンゴル自治区の漢の北域に住まわされた単于やその従者の動きを監視するだけでなく匈奴の法律問題で調停人として活動する漢の長官に監督された[237]。北匈奴の漢の冊封体制に入る考えは拒否された[238]。
新が西域で敗北するとヤルカンド王国はタリム盆地に取り残された中国の官吏と家族の面倒を見、その支配のために匈奴と戦った[240]。中国の内戦に夢中になっている光武帝は簡単に紀元29年に正式な肩書きをヤルカンドの王に認め、紀元41年に後継の王を保護長官にした(後に「漢の大将軍」という名誉職に格下げした)[240]。ヤルカンドはホータンやトルファン、クチャ、カラサールの臣民に過重な税金を課し、この全てが北匈奴との同盟を決めた[240]。紀元61年までにホータンはヤルカンドを征服していて、さらにここからどこが次の覇権国になるか決める王国間の戦争に発展した[240]。北匈奴は内輪もめで優位に立ち、タリム盆地を征服し、紀元63年までに漢の河西回廊を襲撃する基地として使った[240]。この年漢の宮廷は北匈奴を懐柔する希望を持って北匈奴との貿易のために国境の市場を開放した[241]。
さらに漢はタリム盆地を再征服しようと努めた。紀元73年のイウルの戦いで竇固(紀元88年死去)は北匈奴の単于を破るとバルクル湖まで到達し、クムルに農業要塞を構築した[242]。漢が西域の新しい保護長官に陳睦(紀元75年死去)を任命すると竇固は紀元74年にトルファンから匈奴を取り戻せたが、カラサールとクチャの同盟軍が陳睦とその軍を殺している間に北匈奴はボゴダ山に侵攻した[243]。クムルの漢の要塞は紀元77年に撤退せざるを得なかった(紀元91年まで再構築されなかった)[244]。次の北匈奴に対する漢の遠征は、竇憲(紀元92年死去)が紀元89年に率い、アルタイ山脈の戦いで竇憲軍はアルタイ山脈に北匈奴の単于を追跡し、1万3000人の匈奴を殺したと言われ81部族の20万人の匈奴の降伏を受け入れた[245]。
竇がクルムの北匈奴の基地を攻撃すべく騎兵2000騎を派遣すると、嘗て漢の同盟として新しいカシュガルの王を即位させた班超将軍が続いて先導した[246]。この王が竇に反旗を翻し紀元84年にソグディアナの援助を求めると、班超は負けを認めるようにソグディアナに政治的圧力をかけた(現在の北インドやパキスタン、アフガニスタン、タジキスタンの)クシャーナ朝との協力を画策し、班は後にカシュガルの王に暗殺された[246]。クシャーナ朝はトルファンを鎮圧する中で班超を援助し漢に貢ぎ物と人質を送ったためにその支配者ヴィマ・カドフィセス(治世:紀元およそ90年-およそ100年)は中国の王妃との結婚を求め、紀元90年にこれが拒否されるとクシャーナ朝は班超に対してワハンに兵7万人を派遣した[247]。クチャからの食糧供給を求めざるを得なくしながら班超はクシャーナ朝に対して焦土作戦を用いた。クシャーナ朝の使節が班超により途中で捕らえられるとクシャーナ朝は撤退せざるを得なかった[247]。紀元91年に班超は紀元101年まで在任する役職西域の保護長官に任命された[248]。
当時パコルス2世(治世:紀元78年-105年)が統治したパルティアからの貢ぎ物と使者がダチョウ属やライオンのような珍しい動物を持って紀元87年と紀元89年、紀元101年に漢に来た[249]。班超が大秦(ローマ帝国)に到達すべく紀元97年に使節甘英を派遣すると、恐らくペルシア湾と思われる「大海」より先には行かなかった[250]。しかし聞いた話から甘英はローマが城塞都市であり郵便配達網があり異なる国々が服従しローマの「王」(例えば執政官)が「終身ではなく最も価値ある人として選ばれる」政治制度があると説明できた[251]。象と犀も現在のミャンマーに当たるピューから紀元94年と紀元97年に漢の宮廷に贈り物として贈られた[231]。日本の支配者からの最初として知られる外交使節が紀元57年に来(紀元107年に別の使節が続く)、光武帝の金印が筑前国で1784年に発見された[252]。中国での仏教についての最初の言及は中国が明確に黄老思想や道教に関わる紀元65年のことであった[253]。明帝は2人の外国の僧迦葉摩騰と竺法蘭を記念して洛陽に中国最初の仏教寺院白馬寺を建設した[254]。今では紀元2世紀になって初めて翻訳されたことが証明されているが、この僧はサンスクリットから中国語に四十二章経を翻訳したとされている[255]。
宮廷、親族、外戚
[編集]その代わりに元々の妻陰麗華を皇后にするために紀元41年に分かれた郭聖通に加えて郭が皇太后になり息子で元の後継者が王の地位に降格されたために光武帝の宮廷では皇帝の親族との劇的な状況は殆どなかった[256]。しかし皇帝の親族系統とのもめ事は明帝の時代に酷くなった。異母兄弟の劉英が(自殺により紀元71年に死去する)呪うために魔法を使ったと申し立てられると劉英を追放したのに加えて明帝も追放や自白を得るための拷問、処刑で終わる(神秘的な予兆や魔法を使ったとして)同様の告発で他に数百人を標的にした[257]。この迫害の流れは章帝が皇帝になるまで終わらず、章帝は兄弟に対しては殆どの場合寛容で明帝により追放された人々の多くを首都に呼び戻した[258]。
宦官が後漢の宮廷政治で初めて重要な関わりを持った紀元92年の倭帝の政変は後漢にとってさらに大きな結果の一部であった[259]。章帝は有名無実の母親で明帝の未亡人の身分の低い明徳馬皇后(紀元79年死去)との良い関係を擁護していたが[258]、章帝の未亡人章徳竇皇后(紀元97年死去)は治世の初めごろに和帝(章帝と恭懐皇后の息子)に対して高圧的で、本来の母親の身元を明かさず皇后の一族を権力から追放すると自身の子として育てた[260]。和帝を即位させるために章徳竇皇后は皇太子劉慶(紀元78年-106年)を王に降格しその母親の敬隠皇后(紀元82年死去)を自殺させさえした[261]。今では最早章徳竇皇后の一族に権力を譲る意図もなく和帝は肩書きを剥奪し追放し自殺に追いやりながら反逆罪の告発で章徳竇皇后の一族を転覆させるために鄭衆(紀元107年死去)に率いられた宦官の援助を求め、皇太后を軟禁下に置いた[262]。
後漢中期
[編集]鄧綏、外戚、宦官
[編集]和帝の未亡人鄧綏(紀元121年死去)は紀元105年に皇太后になり、従って(誰も指定しなかったために)和帝の後継者を指定するに当たっての最後の言葉を得ておらず、後に殤帝(在位:105年-106年)として知られる乳児の劉隆を皇帝に据えた[263]。後者が僅か1歳で死去すると、和帝の別の息子劉勝を無視して死後に安帝(在位:106年-125年)として知られる若い甥劉祜(劉慶の息子)を皇帝に据えた[264]。兄の鄧騭が紀元109年から110年に大将軍に一時的に就任したことで実際は摂政にならなかったので、皇帝である若い支配者と共に鄧綏は死ぬまで事実上の支配者であった[265]。紀元121年4月17日に鄧綏が死ぬと安帝は鄧綏が安帝を倒そうと企んだという宦官の李閏と江京の告発を受け入れ、鄧一族を反逆罪で告発し、解任し、肩書きを剥奪し、庶民に格下げし、遠い地域に追放し、多くを自殺に追いやった[266]。
安帝の妻閻姫(紀元126年死去)の閻一族と宦官の江京と樊豊は、高級官僚の抵抗にも関わらず陰謀の告発で紀元124年10月5日に9歳の後継者劉保を王に格下げするよう安帝に圧力をかけた[267]。安帝が紀元125年4月30日に死去すると、閻皇太后は自由に少帝懿として知られる後継者劉懿(章帝の孫)を選べた[267]。子供が紀元125年に急死すると宦官の孫程(紀元132年死去)は反対派の宦官を虐殺しながらクーデターを起こし、後に順帝(在位:紀元125年-144年)として知られる劉保を皇帝に押しやり、その際孫程は閻皇太后を軟禁しその兄弟を殺し残りの家族はベトナムに追放した[268]。
順帝には梁妠(紀元150年死去)との間に息子がなく、さらに息子劉炳が紀元145年に一時的に即位すると、後者の母親には梁皇太后に対抗する何の権力もなかった[269]。子供の質帝(在位:紀元145年-146年)が一時的に即位すると、梁皇太后と今では摂政を務める兄弟の梁冀(紀元159年死去)は後に桓帝として知られる劉志が自分達の姉妹梁女瑩と婚約したので即位すべきだと決定した[270]。若い梁皇后が紀元159年に死去すると、梁冀は桓帝の新しいお気に入りの鄧猛女(後に皇后)(紀元165年死去)を支配することを企んだ。鄧が抵抗すると梁冀は桓帝に梁冀を権力から追い払うために宦官を使うよう促した鄧の義理の兄弟を殺し、後者は住居が近衛兵に囲まれると自殺した[271]。桓帝は正式な皇位継承者がなく死去したので、今では皇太后で3番目の妻竇妙(紀元172年死去)は後に霊帝(在位:紀元168年-189年)として知られる劉宏を即位させた[272]。
後漢中期の改革と政策
[編集]一連の自然災害による被害を軽減するために鄧皇太后の政府は減税や貧者への寄付、最も深刻な地域への政府所有の穀物の即時供出という様々な救援方法を計画した[274]。水管理業務で紀元115年と紀元116年に修繕されたものがあるが、政府の事業が多くてこの救援事業や紀元107年から118年の羌の反乱への軍事対応への財源が不足することになった[275]。財政的制約に気付いて鄧皇太后は宴会の経費や馬車を引いていない帝室の馬への餌、帝室の作業場が製造する贅沢品の総額を制限した[274]。多くの歳入を集めるために文民の事務所や重要でない侯爵位さえ販売することを承認し、事務所の販売は桓帝により続けられ、霊帝の時代には非常に流行することになった[275]。
親の死後3年間は喪に服するために事務所を去るよう命じる紀元116年の勅令のように皇太后の決定の一部を覆したが(理想的な儒教の風俗)、安帝は鄧皇太后が施行した同様の災害救済計画を続けた。このことは儒学者の倫理を否定するようであったために安帝の高名な学者への後援は儒学者の間で一般化することに向けられた[276]。古文経の学者は安帝が後援する新文経の伝統に適合しなかったが、許慎は宮廷に革新的な辞書説文解字を示すと皇帝の儒学者に対する信任を高めた[276]。
多くの公共事業が中央政府の援助なく地方で遂行されたために金融問題は順帝の時代に悪化しただけであった[277]。さらに振動に敏感に反応する揺れる振り子や機械仕掛けのギア、数百キロ先の地震の方向を特定する落下する金属球の混合システムを用いた宮廷天文学者張衡(紀元78年-139年)による地震計の紀元132年の新たな発明品により幾分助けられながら宮廷は依然としてどうにか災害救援に主な力点を置いていた[278]。順帝の学術への最大の支援は文官になる若い紳士階級にとっての通過点として依然運営している紀元131年の今では荒廃した帝立大学の修復であった[279]。官吏は順帝が宦官の息子が領地を相続することを認めた紀元135年に抵抗を強化しながら侯爵として孫程や仲間の強要に対して抵抗し、さらに梁一派の台頭する権力に対するさらに大きな憂慮があった[280]。
児童皇帝を即位させるのに相応しくない印象を減じるために梁冀は人民を貴族に据え減刑をし追放された家族を帰宅させ受刑者が開拓した新しい土地に移住することを認めながら総合的な恩赦を承諾することで自身を大衆迎合の政治家として彩ろうとした[281]。自分の管理の下で帝室大学は候補者が官吏になるために費やす期間を超えて異なる古典についての試験を受けることにより正式な試験制度を与えられた[282]。この前向きな改革にも関わらず梁冀は広く汚職と権勢欲で攻撃された[283]。さらに桓帝が宦官連合を使って梁冀を追い出すと、帝室大学の学生は歴史上最初期の大学闘争の一つとして反対する宦官の名前を連呼しながら数千名で通りに繰り出した[284]。
梁冀が追放されると桓帝は儒学者組織と距離を置きその代わりに復活した黄老思想の道教への後援を通じて正統性を探し求めたが、この復活した後援は桓帝時代が終わると続かなかった[285]。経済が悪化すると、桓帝は新しい狩り場や帝室の庭園、宮殿を建設し、数千人の妾を住まわせられる後宮を拡張した[286]。現在の儒学者の信仰が道徳性と個人的な関係が公務に取って代わったために、郷紳階級は宦官に牛耳られる桓帝の堕落した政府により疎外されることになり、多くが採用に当たっての任命を拒否した[287]。霊帝は桓帝より少ない妾を囲い、さらに霊帝は宦官を国事の多くから排除した。その代わりに霊帝は市場のベンダーの格好をさせた妾と行商人として大仰に振る舞ったり行進する西の庭園にいる部隊に「最高司令官」の軍服を着せるのに忙しかった[288]。
後漢中期の対外関係と戦争
[編集]後漢の宮廷は入植し北匈奴と戦う手段としてのみ西域の中国軍の存在を定期的に再び主張した[289]。漢軍は紀元77年から90年に匈奴によりまた紀元107年から122年に羌により初めて西域から追い出された[290]。この時期は共にタリム盆地の冊封諸国から要請される財政支援を送る責任と同じく西域の植民地を再構築し拡張する財政負担が西域での対外関係再開を未然に防ぐ理由と宮廷から見られた[290]。
鄧皇太后の摂政が始まると西域の保護長官任尚(紀元118年死去)はカシュガルで包囲された。包囲は解けたが皇太后が紀元107年に西域から軍を撤退させ始める前に解任され配置転換された[291]。しかし暫定の軍は依然として必要であった。羌は景帝の時代から甘粛省南東部の漢の政府により植民されていたが[292]この撤退では漢を援助することになる[293]。漢の東部を通じて漢の国境当局者が商品や女子供さえ強奪すると羌はしばしば漢に対して反乱を起こした.[294]。羌の一団は任に対する暴動にも関わらず決定された撤退で保護長官に援軍を送ろうと徴兵した。涼州北西部の暴動は紀元108年に鎮圧されたが、漢が中央アジアに接触できないようにしながら紀元118年まで続く羌の大暴動を促進した[295]。羌問題は北東部の同盟した南匈奴や鮮卑、烏桓の反乱で紀元109年にさらに悪化した[296]。涼州の羌の反乱を鎮圧するのにかかった総額は、涼州東部の3つの全域や并州の1地域の人々が一時的に紀元110年に定住したにも関わらず、(毎年鋳造した平均2億2000万枚の穴あき小銭を除いて)穴あき小銭2400万枚であった[297]。
班勇が紀元123年に西域との関係を再開したのに続いて[290]結局は10年後に再び撤退することになる涼州の内の2地域が紀元129年に再構築された[298]。涼州東部が(現在の甘粛省南東部と寧夏回族自治区を含む)再び居住地になった後でさえ漢族や羌、匈奴、月氏の反乱に唆されながら紀元184年にもう一つの大規模な反乱があった[299]。さらにクムル市の屯田部隊が紀元153年以降まで段々と放棄されることはなかったとはいえタリム盆地の国々は漢の最後の10年に向けて中国への朝貢と人質を求め続けた[300]。
鮮卑の優位は漢や後の王朝にとっての恐らく大きな結果の一部になった。北魏が漢に敗れ紀元91年に(現在のカザフスタンの)イリ川渓谷に逃れると広大な北部ステップの権力の空白を埋めた[301]。鮮卑は急速に人の住まない領域を占領し新しい連盟に約10万の残された匈奴の家族を組み込み紀元2世紀までに吉林省の夫余の西の境界からシベリアの丁零とはるばる西は烏孫のイリ川渓谷まで拡大した[302]。良い通商合意の交渉をさせるために紀元110年に漢を急襲したが、後の指導者檀石槐(紀元181年死去)は桓帝から求められた王位と朝貢を拒否し、霊帝時代の中国軍を破った[303]。檀石槐が紀元180年に死ぬと、鮮卑連合は殆どが崩壊し、紀元3世紀にもう一度強力になった[304]。
1世紀に紹介されると仏教は2世紀に中国で一層大衆化した。パルティアの僧安世高は紀元148年にパルティアから中国に旅をし、中国が道教の実践に関連付ける小乗やヨーガの実践に関する仏典の翻訳を行った[305]。ガンダーラ出身のクシャーナ朝の僧支婁迦讖は紀元178年から198年まで中国で活動し、般若経や般舟三昧経を翻訳し、阿閦如来や(浄土教の)阿弥陀如来、文殊菩薩についての教義の概念を中国に紹介した[306]。紀元166年に桓帝は老子と釈迦に犠牲を捧げた[307]。同年後漢書は海の南からローマが中国に到達しローマ皇帝マルクス・アウレリウス・アントニヌス(安敦)(治世:紀元161年-180年)を代理すると言いながら桓帝の宮廷に贈り物を捧げたと報告している[308]。クレスピグニーはローマの商人であって外交官ではなかったと推測している[309]。嘗て(ベトナム北部の)中国の交趾郡と境界を接する扶南国の一部であったメコンデルタの(ホーチミン市近くの)オケオでの考古学上の発見は、アントニヌス・ピウスとマルクス・アウレリウスの時代に作られたローマの金メダルのような地中海商品であることを示した[310]。オケオは(マリノスの著作にあるのと同じく)ギリシア・ローマの作家クラウディオス・プトレマイオスの2世紀の地理学に述べられている同じ東南アジアの海港都市でギリシアの船乗りがマグヌス・シヌス(例えばタイランド湾や南シナ海)に分け入って黄金半島(例えばマレー半島)の東北を航海することで発見したと主張するアレクサンドロスと名付けたカッティガラと呼んだ都市であった可能性がある[311][312][313][314]。
後漢の衰退
[編集]党錮の禁
[編集]紀元166年に官吏の李膺は宦官と対立する帝室大学の学生や各省の同僚と反逆を企んだとして宦官から告発された[316]。竇武(紀元168年死去)(桓帝の義理の父親)の嘆願を受けて翌年釈放しただけの李や仲間を逮捕しながら桓帝は激怒した[316]。しかし李膺と数百人の仲間は職務に就くことを禁じられ、党人と烙印を押された[316]。
桓帝が死ぬと陳蕃太伝(紀元168年死去)の要請で竇武は腐敗しているとして中心的な宦官の降格と処刑を求めて紀元168年6月に章表を提出したが、竇皇太后はこの提案を拒否した[317]。これに陳蕃が侯覧(紀元172年死去)と曹節(紀元181年死去)の斬首を求めて提出する章表が続き、これも拒否されると、竇武は宮廷が拒否できない正式な法律行動を行った[318]。陳と竇の仲間の宦官が曹節と王甫が反逆を企んでいるとの強制された自白を別の宦官から得ると、この宦官は敵対する宦官が密かに開封して読む別の不利な章表を10月24日-25日の夜に準備した[318]。王甫がこの宦官を殺し印章の権威を使えるために竇皇太后を監禁する一方で曹節は霊帝を武装させ乳母と共に隠した[319]。
陳番は80人の仲間と宮殿に入り王甫と大声の怒鳴り合いに参加したが、陳は次第に包囲され拘束され後にこの日獄中で踏み殺された(仲間は無事であった)[320]。明け方に竇武が反逆に関わっていると信じさせた宦官に欺かれた張奐将軍は宮殿の門で竇武と大声の怒鳴り合いに参加したが、竇の仲間が次第に竇を見捨て張の側に靡いたために、竇は自殺せざるを得なかった[321]。この衝突で実際の闘争は起こらなかった[320]。
竇武が抹殺され皇太后が軟禁される中で宦官は李膺と仲間に対する追放を再開し、紀元169年に数百人以上の官吏と学生を職務禁止にし家族を追放し李膺を処刑した[322]。宦官は宮廷から潜在的な敵を閉め出し、事務所を売って交換し、軍の司令部に間者を送り込んだ[323]。霊帝は趙忠と張譲を「母」と「父」と呼び、後者の二人は宦官が自分達のために建てる巨大な豪邸を隠す努力である首都の高い塔の最上階に説得して上がらないようにする非常に大きな影響力が皇帝に対してあった[288]。党錮の禁は紀元176年に(嘗て追放された人々の遠縁の親族を含めて)数百人以上に及んだが、主に事務所から追放されることで辛く宮廷が郷士が反乱の原因につながることを恐れたので、紀元184年に黄巾の乱の発生と共に廃止された[322]。
黄巾の乱
[編集]漢のその後の数十年で増大する異端派が漢の各地で現れた。この異端派は一般に儒教の国是に対抗し、殆どは平和的であったが、一部は漢に対する反乱を組織し始めた[324]。最も影響力のあった集団の一つは張陵が創設した、即ち四川省の五斗米道であった[325]。天空の支配者として知られる地上の代表に任命する聖なる予言者として神として崇拝される老子に会ったと主張してから張陵は信者から米も金も一切受け付けない階層性の道教運動である高度の組織化された組織を創設した[325]。張魯が指導する五斗米道は四川省で反乱を組織し、紀元215年まで持ち堪える道教の神政国家を建国した[326]。
他の宗教運動に中国東部で紀元172年から174年に反乱を行ったXu Changの分派があった[327]。最も成功した運動は黄河と淮河の地域の黄巾の道教信者によるものであった。階層的な教会を作り病は告解を必要とする個人の宗教における罪の結果であると考えた[325]。黄巾党は平和のユートピア時代をもたらすと主張することで漢の権威に挑戦する好戦的な組織となった[328]。頭部に巻く黄色い布で表される有名な心霊治療家で黄巾党の指導者である張角と数十万の信者は紀元184年に8州にわたって反乱を導いた。早い時期に帝国軍に対して成功を収めたが、紀元184年末までに張角を含む黄巾党の指導部は殺害された[329]。(192年に最後の大集団が曹操の軍に統合されるまで)黄巾党の小集団がその後反乱を続け、クレスピグニーは漢の没落に与えた反乱の影響は紀元189年5月13日の霊帝の死後に首都で起こった事件より重大ではなかったと主張している[330]。しかしパトリシア・エブリーは反乱を鎮圧するのに軍を立ち上げた将軍の多くが自軍を決して解散せず帝国の権威から外れて自身の権威を集めるのに使ったと指摘している[331]。
宦官の凋落
[編集]霊思何皇后(紀元189年死去)の異母兄何進(紀元189年死去)は黄巾の乱の最中に長官に任じられると常備軍と近衛軍に対する権限が与えられた[332]。後に少帝弁として知られる霊思何皇后の息子劉辯が即位して間もなく何進に対する宦官Jian Shiの企みが明らかになり紀元189年5月27日に処刑され、従って何進はJianの西園軍を掌握した[333]。当時西園軍の将校であった袁紹は何進と密かに数人の将校に首都に向けて行進し強引に何皇太后を説得して宦官に委譲させるよう命ずることで宦官を打倒することを企んだ[334]。袁紹はこの将校に宦官の解任を求めて皇太后に請願に次ぐ請願をさせ、マンスヴェルト・ベックはこの「心理戦」は遂に皇太后の意思を破壊し皇太后は承諾したと述べている[335]。しかし宦官はこのことに気付き、共に宦官に好意的な何皇太后の母舞陽君と兄弟の何苗を命令を撤回するのに利用した[336]。9月22日に宦官は何進が個人的に自分達の処刑について皇太后と話し合ったことを知った。何進に皇太后が共有するさらに多くの話があるという伝言を送り、何進が嘗て皇太后と会ったホールに座ると、宦官はひそみから飛び出し斬首した。宦官が宮廷書記官に袁紹を解任する勅令案を作成するよう命じると、前者が何進の許可を求めたので、宦官は何進の無残な頭部を見せた[335]。
しかし門を破って両宮殿を繋ぐ通路を塞ぐことで宦官に北の宮殿に逃げざるを得なくしながら袁紹が北の宮殿を攻撃し兄弟の袁術(紀元199年死去)が南の宮殿を攻撃すると宦官は包囲されることとなった[337]。趙忠は最初の日に殺され、戦闘は袁紹が遂に北の宮殿に押し入り2000人の宦官を虐殺したと伝えられる9月25日まで続いた[338]。しかし張譲はなんとか少帝弁と献帝と共に黄河に逃げおおせたが、そこで袁家の軍に突き止められ黄河に飛び込み溺死することで自殺した[337]。
反董卓連合
[編集]袁尚の要請に基づき洛陽に行進する(皇甫嵩配下の)先遣隊の将軍董卓(紀元192年死去)は遠くから炎に包まれる首都を見、少帝弁が近くの丘を彷徨っていると聞いた[339]。董卓が少帝弁に近付くと、皇帝は怯えて反応しなかったが、兄弟の劉協は董卓に何が起きたか説明させた[339]。野心的な董卓は洛陽を事実上支配し、袁紹に9月26日に首都を明け渡させた。董卓は三公の一つ司空になった[339]。董卓は後に献帝(在位:189年-220年)として知られる劉協を皇帝に昇格させ少帝弁を降格した[340]。紀元190年3月3日の少帝弁に先立ち何皇太后は9月30日に董卓により毒殺された[341]。
一度は首都を去った袁紹は董卓に対抗する司令官や嘗ての官吏、傭兵の連合を率いた[342]。最早洛陽は安全な場所とは見られず、董卓は首都を焼き払い、紀元191年5月に首都を長安に遷都させた[343]。司徒の王允が主導する陰謀で董卓は養子の呂布(紀元198年死去)に殺された[344]。董卓の部下はこの時長安を混乱に陥れながら王允を殺し呂布を逃れさせた[345]。
献帝は紀元195年に長安を脱し紀元196年8月までに洛陽に戻った[346]。一方で帝国は有力な8州に分割されて行き、それぞれは強力な司令官や官吏により支配された。北東には袁紹と曹操(紀元155年-220年)がいて、首都の丁度南東には袁術がいて、この南には荊州の劉表(紀元208年死去)がいて、孫策(紀元200年死去)が南東部を支配し、南西部には漢中の北にいる劉璋(紀元219年死去)と張魯(紀元216年死去)がいて、南の涼州には羌や様々な叛徒集団がいた[346]。予言が漢の命運に関する憶測を助長したが、皇帝が依然として政治的な生き残りを確実にする宇宙的・宗教的制度の頂点にいたので、この群雄は依然として漢に対する忠誠を口にした[347]。
曹操の台頭
[編集]黄巾の乱の際の騎兵隊の指揮官であり紀元188年までに西園軍の大佐であった曹操は[348]、洛陽から許昌市の自分の司令部に皇帝を連れて行った紀元196年に燕(現在の山東省西部と河南省東部)の長官になっていた[349][350]。袁術は仲朝の建国を宣言したが、この大胆な行動で部下の多くが離反し、袁尚に自分の肩書きを譲ろうとした後の紀元199年に酷く貧乏なまま死去した[350]。公孫瓚を破った後に更に権力を得て、袁紹は機会を捉えて皇帝を奪取しなかったことを後悔し、曹操に対して行動することを決めた[349]。この対決は結果的に紀元200年に官渡の戦いで曹操の勝利で終わり、袁紹は自分の領土に撤退せざるを得なかった[351]。袁紹が紀元202年に死ぬと、息子達は相続権を巡って戦い、曹操に袁譚(紀元173年-205年)を抹殺させ、兄弟の袁尚と袁煕が烏桓と難民になるように仕向けた[352]。紀元207年に白狼山の戦いで蹋頓率いる烏桓を破ると曹操は東北部に対して優勢であると主張し、袁の兄弟は遼東半島の公孫康の下に逃げたが、公孫康は兄弟を殺し服従して曹操に首を送った[353]。
嘗て曹操の食客であった王族の子である劉備(紀元161年-223年)が紀元208年に今は病気の劉表の領土を奪取しようとしているとの憶測が起きると、曹操は劉表の息子に父の土地を明け渡させた[354]。次は曹操が自分の領土にすることを予期しながら、孫権(紀元182年-252年)は紀元202年には兄弟の孫策の領土に住んでいたが劉備と同盟し、赤壁の戦いで紀元208年に曹操の水軍と対峙した。この戦いは三国時代(紀元220年-265年)に中国が引き続き分裂するのを確実にする曹操の重大な敗北であった[353]。
漢の没落
[編集]曹操が紀元196年に献帝を許昌市に移すと、以前の董卓のように丞相の肩書きを得た[355]。紀元208年に曹操は3つの高官職を廃止し、2つの職務を再構築する一方で、その一つに就任した[356]。曹操は紀元213年に魏公となり、紀元214年に献帝に伏寿と離婚させ、紀元215年に娘を献穆曹皇后として結婚させた[357]。最終的に劉家だけが王になれる決まりを侵害して曹操は紀元216年に魏王になったが、献帝を退位させることはなかった[357]。曹操が紀元220年に死ぬと、息子の曹丕(紀元186年-226年)は魏王の肩書きを相続し(当時の劉備が劉備の益州に入蜀していた一方で)孫権の不安定な忠誠を得た[358]。漢が天命を失っていることを示す予言と兆しに関する議論と共に献帝は漢が終焉を迎えたことに同意し、紀元220年12月11日に曹丕に譲位し、従って魏を建国し、程なくして紀元221年には蜀漢を、紀元229年には呉を対立して建国した[359]。
関連項目
[編集]注
[編集]参照
[編集]引用
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外部リンク
[編集]- ウィキメディア・コモンズには、漢の歴史に関するカテゴリがあります。